Title Author(s) Citation Issue Date モン=サン=ミシェルの歴史(その1)( fulltext ) 石木, 隆治 東京学芸大学紀要. 人文社会科学系. II, 59: 93-105 2008-01-00 URL http://hdl.handle.net/2309/87650 Publisher 東京学芸大学紀要出版委員会 Rights 東京学芸大学紀要人文社会科学系Ⅱ 59 pp. 93∼105,2008 * モン=サン=ミシェルの歴史(その1) 石 木 隆 治 地域研究** (2 0 0 7年8月3 1日受理) い存在である。それはわが国では宗教建築史は多くの 序 場合,ゴシックやロマネスクの建築様式が変遷してい く上でエポックメイキングな建物に研究が集中してい わが国でモン=サン=ミシェルは世界中の寺院,僧 るからのように思われる。そういう意味ではモン=サ 院の中でももっともよくその名を知られた存在だろ ン=ミシェルの建物はいかに壮麗なものであれ,建築 う。ユネスコから世界遺産に指定されてからは,フラ 史学者の興味を引かないものらしい。しかしながら西 ンス・グループツアーの定番訪問地となり,またテレ 欧社会に対する認識をさらに深めて行くにあたって, ビ等でもよく紹介されるので,この知名度の高さ,ブ この種の建物のいわれを知ることは,必要なことと考 ランド化は恐るべきものがある。こうした知名度の高 える。文化史的な視点から見た場合に,この建物を重 さはもちろん日本ばかりのことではなく世界的なもの 要性が浮かび上がってくるからである。 モン=サン=ミシェルの人気ぶりは,世界史的に言 であって,世界中から年間3 00万人もの観光客が訪れ えば過去にも一回あった。中世に聖なる巡礼地として ると言われている。 しかしながら,この高名なるモン=サン=ミシェル 無数の善男善女が押し寄せたのである。このときモン について,われわれが何を知っているかと問うてみる =サン=ミシェルに押し寄せた巡礼たちは人数の点で と,かなり心許ない思いがする。簡単なパンフレット は今日と比べればかなり少なかったことだろう。しか の類を別とすれば,モン=サン=ミシェルについての し現代の観光客のように2,3時間の見学をすませる まとまった日本語の文献はあまり存在しない。 われ とそそくさと次の場所に移動していくのではなく,こ われは世界に冠たる翻訳文化の国として,フランスの の地を参拝することだけど目的として,非常に遠い土 哲学者,文学者の翻訳全集ならことごとくと言って良 地から苦労を重ねて徒歩でやってきたのであり,われ いほど持っているのに,モン=サン=ミシェルについ われよりずっと真摯な希求の念を背負ってやって来た てはほとんと何も文献をもたないのである。それはお に違いない。われわれがこの世界遺産を見物に出かけ そらくモン=サン=ミシェルの知名度は浮ついた観光 ていくのも,そうした中世における人々の信仰の熱い の流行に伴うあぶくのようなものであって,江ノ島に 思いがあったからこその話なのである。 ついて,あるいは流行歌手について研究する専門家が 実際,この巨大で孤立した石のかたまりの前に立っ あまりいないのと同じように必要がないと考えられて たときに,われわれは非常に名状しがたい思いに駆ら いるからではないか。しかし,モン=サン=ミシェル れる。時の重圧に耐えてきたもののみが持つ,もの凄 は映画スターや,サッカー選手のように5年,10年で さである。1000年以上の歴史を誇るこの建築物には崇 人気が低落するとは思われないのだが。 高な記憶,栄光に包まれた歴史があるのはもちろんだ また,建築史,特に宗教建築史の分野でも実はモン が,同時に非常に恐ろしいもの,謎めいたものがあ =サン=ミシェルはあまり取り上げられることが少な る。ここは修道院としてばかりでなく,軍事的な防備 * ** Histoire du «Mont-Saint-Michel»(première partie)/ Takaharu ISHIKI 東京学芸大学(1 8 4―8 5 0 1 小金井市貫井北町4―1―1) ― 93 ― 東 京 学 芸 大 学 紀 要 人文社会科学系Ⅱ 第59集(2008) を目的とする城塞として,また牢獄として使用されて その種類の多さは驚くばかりである。ここはフランス きた陰惨な歴史をも抱えているからであろう。 有数の牡蠣とムール貝の養殖産地としても知られてい るばかりでなく,無数の鳥類の生息地としても有名で 本書は,こうしたモン=サン=ミシェルの歴史を語 ある。 ることによって,その隠された秘密の一端を明らかに しようという,いささかの野心をもっている。また, 満ち潮の時に海から持ち込まれる大量の砂,土は取 そうしたモン=サン=ミシェルの崇高だが陰惨でもあ り残されることもあったが,また引き潮の時にまたこ る歴史が19世紀を通して転回して,現代のような観光 れを海に帰すということもあった。また,湾に流れ込 のまなざしによって見られる存在に変わっていく様を む河川(セリューヌ河,セー河,クエノン河)は大量 あらまし述べてみたいと思う。 の土砂を運び込みながらも,それらの堆積物を押し流 す働きもしていたので,バランスがとれて海は安定し 第1部 歴史 ていた。しかし,これらの河が近年整備されて水の流 れる場所を固定されたこと,運河のように流れを一定 化され水流の強度を失ったために,かえって堆積物を ≪自然環境≫ 本章では,モン=サン=ミシェルの歴史を語る前に 遠くへ押し流す力を失ったこと,また渡海堤のせいで 少しこの巨大な岩場を取り囲む自然環境について触れ 潮の自由な満ち引きが阻害されていること,などの理 ておきたい。モン=サン=ミシェルにとって,周囲の 由で泥土が堆積するようになったと言われている。 湾の存在は非常に重要である。それというのは,モン またこの干潟は久しい以前から,干拓によって農地 =サン=ミシェルはこの周囲の存在を前提として成立 化をはかろうとする人間の動きにも翻弄されてきた。 して来たからであり,またもう一つには現在はモン= すでに11世紀からはじまっているこの農地化の動きは サン=ミシェルとはなによりも景観として評価されて 19世紀に達して本格化し,オランダ人の技術者を呼ん いるからである。さらには,近年の環境意識の高まり で,機械技術をもちいた大規模な干拓が行われた。し によって,周囲の海に対する配慮の重要性が一層高 かし,最近はわが国とおなじように膨大な魚や鳥が住 まっていることもある。海,陸地,空が渾然として, むこうした干潟を残そうという考えが次第に優位を占 どこからどこまでが海で,どこまでが陸地なのかはっ めるようになり,干潟の現状保存が真剣に考えられる きりしない場所にこの僧院が浮かび上がるさまは,見 ようになっている。モン=サン=ミシェルの島の周囲 る者にある名状しがたい思いを抱かせる。 が干上がりつつあることも大きな問題になっている。 かつては,巡礼の地としてのモン=サン=ミシェル 潮の流れを良くするために渡海提を廃そうという計画 にたどり着くには,引き潮の時を狙って膝まで水につ もあるが,地元民は生活の便が奪われることになるの かり,水に飲み込まれる可能性も考えながら海を渡っ で猛反対しているし,また,その代替案として海底ト ていかなければならなかった。途中溺れて亡くなる人 ンネルが考えられているが,これにしても道路が螺旋 も数多くいた。現在のように,たやすく渡海堤をクル 式にでもせり上がって島のどこかに出口を作らなけれ マで行くのとは違い,ひどい苦労の末に水の向こうの ばならないが,そのための場所を確保できないという 彼方の世界にたどり着くことによって,ひとびとは自 難問がある(その後,提を廃して橋をかける決定がな 分が現世でない場所に至ったという感を強めたのであ された)。 モン=サン=ミシェルは何よりもまず,それを取り る。 この40000ヘクタールになんなんとするモン=サン 囲む自然環境と一体として考えて初めて,モン=サン =ミシェルの湾は,ヨーロッパで最大の干潟をなして =ミシェルとして成立していることを忘れることはで いる。干潮時と満潮時の水位の差は非常に大きく,最 きない。 大時には15メートルもの干満の差に達する。というこ とはつまり,引き潮になると18キロメートルも引いた 第1章 古代 かと思うと,分速62メートル(1秒間に1メートルの ≪伝承の時代≫ 中世前期 速さ!)の猛スピードで戻ってくるので非常に危険で モン=サン=ミシェルの歴史は,わが国の古事記と ある。中世の巡礼はこの海を非常な難儀をしながら 同じように伝承の雲の間に溶け込んでいて,よくわ 渡ったのであって,そのことが巡礼のもつ意義を深く かっていないことが多い。 いずれにせよ,この島は有史以前からケルト人や, 意識させたということをよく記憶しておきたい。 それ以前の先住民族にとって何らかの意味をもつ聖地 この干潟には無数の魚類,小生物が生息しており, ― 94 ― 石木:モン=サン=ミシェルの歴史(その1) だったようである。その証拠にモン=サン=ミシェル ≪ケルトの神々≫ の山頂部分には有史以前のドルメンの痕跡が残されて いる。また,このあたりは当初は陸地や,さらには近 ケルト人が信仰したドリュイド教では,森への信仰 くに存在するトンブレーヌ島と共に陸続きであり,モ を好んだ。また山頂を死者の霊魂の来る場所として尊 ン=サン=ミシェルは森に囲まれた土地であったとい ぶ習慣もあったから,この丘の上で,そうした儀式が う伝承もある。しかしながら最近の考古学的調査によ 執り行われたのであろう。ドルイド教のアポロン神に ると,モン=サン=ミシェルと陸地をむすぶ干潟には あたるベレン神に祈りを捧げたのである。このような 森の存在した形跡があるが,モン=サン=ミシェルの ドルイドの聖地は天と地を,そして陸と海を結ぶ場所 島の海側はそうでもないという。従って,モン=サン であったから,このトンブ島は理想的な場所であり, =ミシェルが陸地とつながっていた可能性は大いにあ 死者を天国へと導く役割を持っていたことになる。 るが,このあたり一帯が沖合のトンブレーヌ島までぜ あるボロセリアンドの伝承によると,このトンブの んぶ森だったと考えるのは難しいという。このあたり 島にはドルイド教の巫女たちを養成する学校があっ は,現在と同じように陸地と海の境界に存在していた た。魔法の力を備えた巫女たちがこの聖地を見守って ようだ。 いた。ケルトの戦士たちはここにハシバミでできた強 敬虔王ルイ(814−840)の時代に作られた書物が紹 力な弓を求めにやってきた。またここでは,魔力をそ 介している言い伝えによると,このあたりには妖精た なえた矢も手に入れることもできた。白い雄牛の血に ちの住まう大きな森があって,その名をシシーの森と 浸したその矢は,雷神タランを下すことができるので 言った。葉叢の上にそびえる二つの丘があり,その一 あった。雷神を退去させるためには,嵐に向かってこ つを「トンブの山」といい,もう一つを「トンブレー の矢を放つだけでよいとされていた。しかし,この矢 ヌの山」と言った。前者は俗ラテン語で「丘」を意味 がほんとうの効果を持つためには,いままで一度も愛 する「トゥンバ」から来ているらしい。また, 「トン を知ったことがない若い男の手によって,矢が放たれ ブレーヌ」というのは,周囲の丘を意味する「トゥン なければならないとされていた。1 9世紀の作家シャ ブラ」から来ているのか,あるいは単に「トンブ」の トーブリアンの説明によると,アンビオリックスはこ 指小辞かと思われる。初期の巡礼たちはこの聖地を の規則を破ったために,美しきヴェローナと共に海へ 「二つのトンブ島の大天使ミカエル様」と呼んでい 投げ込まれたという。魔力の犠牲にされたこのカップ て,現在のような「モン=サン=ミシェル(聖ミカエ ルは,ちょうどトリスタンとイズーのように,死の中 ルの島(単数))」と初めて呼んだのは,10世紀のクリ で永久に結ばれたのである。 ニュー修道院の聖オドンだと言われている。つまりそ また別のブロセリアンドの伝承によれば,アーサー れ以前は,陸続きだったかど う か 別 と し て, 「トン 王の婚約者エレーヌはある巨人に拐かされてしまっ ブ」と「トンブレーヌ」を一体のものとして考えてい た。彼女の失踪の後,王はこのトンブレーヌの島に たようである。 チャペルを建てたと言われている。これはトンブレー ヌ島をエレーヌのトンブ(tombe d’Hélène)と解釈す しかし「トンブ」という呼称については,別の説も る語呂合わせである。 ある。フランス語では墓のことを「トンブ」というの で,ここは墓地かあるいはたとえば死者を海へ流す葬 このようなケルトの神々,またその後に入ってきた 送にまつわる儀式を行う場所だったのかも知れない。 ヘレニズムの神々は,ケルトの地に散在して残ってい それというのもすぐ隣のブルターニュに住まうケルト たメンヒルとともに5世紀頃には失われていく。キリ 人はこの頃,死者を海に流す習慣を持っていたからで スト教が入ってきて勝利をおさめたからである。この ある。トンブの島のほうが歴史上重要な役割を演じる 地のキリスト教化は英仏海峡の向こうに住んでいた僧 ことになったのに対して,トンブレーヌ島がそうでも たちによってなされたのかも知れない。ちょうどこの なくなったのは,ひとえに後者の島が陸地から遠く, 頃,ゲルマンの大移動の流れに乗って,アングロサク 小さかったからに他ならない。それは言いかえると, ソン人たちの侵入をうけていたイギリスのケルト人, 現在無人島であるトンブレーヌ島は僧院が建立される アイルランド人たちがこの地に移動してきたと言われ 以前のトンブ島の様子を表していると考えることもで ている。この時代にはアイルランドの方がキリスト教 きるだろう。実際,修道僧の中にはトンブレーヌ島の の先進地であった。すでにキリスト教化していたこう 原始的状態を好んで,僧院を去り,ここで暮らした人 したケルト人,アイルランド人たちは船にのって各地 たちもいる。 に散らばって住み着き,そこにコロニーをつくり,僧 ― 95 ― 東 京 学 芸 大 学 紀 要 人文社会科学系Ⅱ 第59集(2008) 院を作った。そうした者たちのうち,二人が6世紀頃 モン=サン=ミシェルについて書かれた最初の歴史 にはトンブ山に住み着いたという,当時のトンブ山は は10世紀の写本作者ドン・ユイーヌの手になる。その 恐ろしい森で,灌木のみが生えていて「人間よりは動 記述内容は8世紀にさかのぼり,これもまた伝説と史 物が住むのに適している」状 態 で,「瞑 想 を 好むも 実の間であいまいな状態で推移しているが,以前より の」のみに向いていた。ここに住み着いたふたりは, は信頼にたる資料である。これから物語の主人公を当 初期の僧院によくあったように,別々にチャペルを 分の間務めるオベールは,7世紀の終わり頃,ノルマ 造った。そのうちの一つは丘の上にキリスト教の最初 ンディーはアヴランシュ(上述のコタンタン地方の中 の殉教者,聖エチエンヌに捧げられ,もう一つのチャ 心地)の司教区にあらわれたことがわかっている。当 ペルは岩場の下に,裸足の聖者,聖シンフォリアンに 時の若者たちの鏡ともなる人物で,献身的で,病人を 捧げられた(この聖人は長い間ガリア地方で人気を博 治療し,人々を苦しみから救ってやることができたと することになった)。 されている。彼の力は非常に強いもので,当時この地 こうした二人の動きは5,6世紀におけるコタンタ 方で悪さをしていた竜でさえ,彼には従ったとされて ン地方(ノルマンディーの一部。モン=サン=ミシェ いる。聖オベールが命令すると,竜は海中に去って, ルは現在,コタンタン地方に所属する)の僧院の動き 二度と姿を現さなかったという。しかし,こうした話 とも非常に正確に一致していると言われている。この はどこにも見られるのであって,もともと西欧に一般 当時,コタンタン地方,ブルターニュ地方には人が孤 に流布している聖ジョルジュの物語はそういうものだ 絶して暮らす環境がいくらでもあったわけだが,既成 し,また近隣のブルターニュのサンポル=ド=レオン の僧院にいた僧たちがいっせいにこうした荒野に出で の聖人も同じ奇跡譚をもっている。当時の民衆の素朴 て,一人暮らしの修道生活を始めたのである。ちなみ な信仰心に答えるためには,こうした素朴な奇跡の物 にこのコタンタン地方のキリスト教化に力があったの 語が都合がよかったのだろう。ここで「竜」とされて は,ポワトー地方(ガリアの西南部)からきた僧たち いるものは,異教徒のことだろうか。もっと言えば, だとも言われている。 なにがしか,悪魔を退治する大天使ミカエルの仕事と 2重写しになっていると言うこともできるだろう。 トンブ島に住み着いたこの二人は,森の中に無事に 暮らし始めたわけだが,しかし問題がないわけではな アヴランシュの大司教となったオベールは7 08年の かった。ふたりの食料をどうするかということであ ある夜,奇妙な夢を見た。それによると,大天使ミカ る。幸い麓の村に住む僧がロバに必要なものを背負わ エル(フランス読みはミシェルである)が夢枕に現れ せて,森へ送ることを引き受けてくれた。森に煙があ て,トンブ島に教会を建立することを命じた。この夢 がって合図があるたびにロバは誰にも導かれることな はオベールの夢枕に三度現れた。聖ミカエルが3度目 く,山に入っていって,任務を全うしていた。しかし に登場したときには,命令をすぐさま実行しないオ ある日,このロバはオオカミに食べられてしまったの ベールを非難した。そうして指先で僧の額に触れた。 である。このことを知った神様は,食料が届かなくて そのために聖オベールの残された頭蓋には穴が開いて 困っている隠者たちの嘆きを聞き届け,オオカミにロ いるのである,云々(聖オベールの頭部はアヴラン バの代わりをさせることにされた。オオカミは後悔の シュの大聖堂に現在も聖遺物として保存されており, 念にうたれて,おとなしく食料のはいった袋を背中に その頭部にうがたれた穴は医学的に説明不可能とされ 乗せたと言われている。モン=サン=ミシェルは伝承 ている。しかし,実際にはこれは聖オベールの頭蓋骨 に満ちた土地なのである。 ではなく,モン=サン=ミシェルで発見された先史時 代の頭骨と言われている。何らかの戦闘の痕跡と想像 されている)。 ≪聖オベール≫ このようにモン=サン=ミシェルは当初,ブルター 今度は聖ミカエルの命令は実行され,島の上に大き ニュからのケルトの影響を受けた土地であったが,こ な丸い穴が掘られた。そうしてその場で発見された古 の土地が修道院として本格的に立ち上がっていくの 代のメンヒルにとって代わった…。 は,むしろノルマンディーから入ってきた要素が大き こうしたことは実証のしようがないが,現在はっき い。モン=サン=ミシェルは現在ノルマンディーに属 りしていることだけを示すならば,聖オベールのラテ しているが,ノルマンディーとブルターニュのほとん ン名 Aubertus ならびにアヴランシュの司教を勤めた ど境界線上といっても良い位置にあることがこの僧院 彼の前任者 Ragentrannus はいずれも当時のガリアを支 の運命を大きく規定したことは記憶に値する。 配していたフランク族の名前であって,しかも後者は ― 96 ― 石木:モン=サン=ミシェルの歴史(その1) ルアンの司教を勤めたサントゥアンの協力者であった ションを受けて作られたどころではなく,モンテ・ガ ことがわかっている。ということはこうした人事は, ルガーノのコピーなのである。さらにこうした物語を 従来ブルターニュやアイルランドからきた聖コロンバ つくったベネディクト派の僧たちは,自分たちの隆盛 ン派の僧たちの影響力が強かったこの地域をもっとフ を迎えつつある僧院に権威を与えるために,聖書の記 ランク化させようとする意志のように感じられる。 述や部分的にはケルトの言い伝えを交えて,そうした また,大天使ミカエルは神の軍隊の長のような職責 物語と作っていったのであろう。それによって,モン にあるわけなので,ちょうど当時の王,ヒルデベルト =サン=ミシェルはある意味では聖書のなかでモーセ 3世の近衛隊長職にあって飛ぶ鳥を落とす勢いのあっ が神のお告げを聞くシナイとなっていくのである。 このようにモン=サン=ミシェルがじつは南イタリ た宰相ピピン2世への忠誠心を示すためであったかも アのモンテ=ガルガーノの末寺ともいえる関係がある 知れないと言われている。 ことが後に予想外の結果を引き起こすことになる。ノ ルマンディーを征服したヴァイキングはのちに南イタ ≪モンテ・ガルガーノ≫ 仕事がうまくいくと,司教オベールは,大天使ミカ リアとシチリアを征服してシチリア王国を建設したこ エルが492年に初めてこの世に姿を現したイタリアの とはよく知られているが,このきっかけになったのは モンテ・ガルガーノに人をやり,そこの聖遺物のなに ノルマンの騎士たちがこのモンテ=ガルガーノへと巡 がしかをもらい受けることを考えた。6ヶ月に及ぶ苦 礼をしたからである。しかも,南イタリアへ出かけた しい旅の後,二人の使者はモンテ・ガルガーノに到着 最初のノルマン人たちの故郷のオートヴィル・ラ・ギ した。ちょうど「教会で,祈りが捧げられている時刻 シャールという村は,モン=サン=ミシェルからそれ であった。モンテ・ガルガーノの修道院長は二人を大 ほど遠くない大聖堂のまちクタンスの北東1 0数キロ 歓迎し,二人の語る事柄を注意深く聞いた。ふたりは メートルの寒村なのである。彼らが,モン=サン=ミ 修道院長にことの子細を大急ぎで伝えたと言われてい シェルの本寺としてモンテ=ガルガーノを崇め,巡礼 る。というのも,フランスで起きたことを伝えるにあ に赴いたことは疑いない。 たってふたりは頭の中の記憶しか持っていなかったの 実際に,モン=サン=ミシェルではこの時代に最初 である。修道院長は話を聞くと満足し,使者を褒め称 の建物が建設されたことが現在ではわかっている。こ え名誉を与えた。そうして,使者たちは大天使の「赤 のお堂は,古文書の言うように円形をしており,おお いマントの一部と大天使が立っていた岩場の岩の断片 よそ100人は収容できそうな大きさで,現在でも,ノー を与えられた」よく知られているように,中世のキリ トル・ダーム地下聖堂の組み積み構造の後ろに一部を スト教では聖遺物の存在は極めて重要で,モン=サン 見ることが出来る建築はこれなのかもしれない。 =ミシェルではその後,聖オベールの遺物が再発見さ 大天使ミカエル崇拝は,小アジアから始まり,4世 れて崇敬の対象となったばかりでなく,十字軍が持ち 紀にはエジプトのコプト派キリスト教徒の間で広まっ 帰った聖ニコラの歯(!),聖ロランの腕(!!)な たとされるが,それがギリシャを経てヘレニズムと融 ども崇敬の対象となった。あるいは大天使ミカエルの 合した後,イタリアへ,そうして全キリスト教圏に広 聖像があったはずだと考える人もいる。 がったと言われる。大天使ミカエルを崇拝する教会が できたのは,先述の492年イタリアのモンテ・ガル ガーノが最初である。大天使ミカエルはもともとはヘ ≪大天使ミカエルの山≫ モン=サン=ミシェルにおける大天使ミカエルの夢 ブライ教徒の守護者であったが,同時に世界の終わり での出現,その教えに従った聖地の誕生,雄牛による に際して悪を体現する竜を打ち負かす軍の隊長であ 場所の指示などは実はこのイタリアのモンテ・ガル り,最後の審判に際して良き魂を天国に導き,悪しき ガーノの創世物語と非常な類似性を示している。モン 魂を地獄に落とす存在である。そういう意味では,キ =サン=ミシェルの創世物語はモンテ・ガルガーノを リスト教といってもイエスの持つような愛を原理とす なぞっているだけなのだろう。モンテ・ガルガーノが るような信仰でなく,ユダヤの荒ぶる神に近い存在と 山上の洞窟に作られたことをまねて,モン=サン=ミ 言って良いかもしれない。われわれは4,5世紀にガ シェルでも洞窟状の穴を掘ることまでしている。ま リアの地で布教が始まってからは,順調にキリスト教 た,この二つの丘はいずれも先史時代の異教の礼拝の が勝利していったように考えがちだが実際はキリスト 後を残している点も共通しているのである。モン=サ 教がこの地域を制圧するまでには様々な混乱があった ン=ミシェルはモンテ=ガルガーノからインスピレー し,制圧した後の揺り返しもあったのである。たとえ ― 97 ― 東 京 学 芸 大 学 紀 要 人文社会科学系Ⅱ 第59集(2008) ばスペインをイスラム教徒が長年にわたって占拠して い。というのは古代エジプト,原始インドでは死者の フランスにも押し出してくるなど,フランスは周囲を 審判の日に,彼の行った徳行と悪徳がふたつのはかり 異教徒に囲まれ,また内部でもキリスト教内のアリウ の上で計られたのだから。聖ミカエルはいずれにせ ス派などのような分派と戦わねばならなかった。12世 よ,「死の天使」なのである。 紀になってさえ,南フランスでは東欧からアルルの港 ≪大天使ミカエル信仰の伝播≫ 経由で入ってきたと言われる異端アルビジョワ派,さ らにはワルド派などと戦わねばならなかったのであ それでは,このように南イタリアでは僧院という物 る。そうだとすると彼らの信じていたキリスト教がわ 質的な基盤さえ得ることになったこの布教時代のチャ れわれの想像するものとはいささか異なって,戦闘的 ンピオン,大天使ミカエル崇拝は,言い伝えはさてお な側面を色濃くもっている必要があったことだろう。 きどのようにしてノルマンディーの端まで伝播したの また人々は地獄の存在を信じてこれを畏れ,人々を天 であろうか。当時の宗教,政治状況を考えてみると, 国へも地獄へも送る権限をもつこの天使にすがろうと 上に述べたこと以外にもいくつか考えておくべきこと したことだろう。 がある。 大天使はもともと異教的な性格を持っており,いっ 中世には,エルサレムに対する巡礼,またスペイン たんキリスト教化した後にはキリスト教が異教と戦っ の聖ヤコブをまつるコンポステーラへの巡礼が有名だ て勝利していく過程でその戦闘的性格を重用された。 が,もちろんローマもまた大巡礼の中心地であった。 また,異教徒を征伐した後には,現地に溶け込むため フランスからやってくる旅人たちはアルプスのグラ にも戦闘的な性格をもつ異教神と融合していく場合も ン・サンベルナール峠か,モンスニ峠を苦労して越え あった。彼は翼をもつローマの神メルクリウスのよう ると,古代ローマ道であるエミリア街道をとって南下 に,神の使者でありながら冥界へと死者を導く者であ していくのであった。こうしたローマに通じる街道は る。彼はまた,ローマの光の神アポロンと同じように 「フランス街道」と呼ばれ,この道を通ってイタリア 光を体現する。彼はまたガリアの神ルグのように剣を の信仰と思想がフランスへと持ち込まれるばかりでな かざして戦う。彼は,ミトラ神のように人々の魂を天 く,イタリア人もまたこの街道のおかげでシャルル 上に導く役を担った。その際には光と雷と関係づけら マーニュの偉業や,ロランの歌を知っていたのであ れることが多かった。また,孤立した丘の上に奉られ る。巡礼のなかに混じって入り込んできた旅芸人たち ることが多かった。そういう意味でモン=サン=ミ がロランの歌を好んで歌ったからである。この街道沿 シェルは大天使ミカエル崇拝に理想的な場所であった いに,また街道からはずれた場所にいくつも大天使ミ (逆に,そのためにこの聖地は落雷による大火災にし カエルを祀った教会があった。また,ガルガーノのサ ばしば苦しめられる運命を担わされることになったの ンミケーレまで足を伸ばして参拝するものも数多かっ だが)。ドルイド教時代の神が征服されてヘレニズム た。こうしたルートを通じて,大天使ミカエル信仰は 時代の神に代わり,それがさらにキリスト教のヨー ガリアの地へを持ち込まれたのであろう。そうして, ロッパ制覇に従ってキリストの天使に変わっていくこ 英国へ,ブルターニュへとまで持ち込まれたのであろ とが起きたのである。 う。 冥界の神メルクリウス神が大天使ミカエルに取って 一方すでに見たように,フランスのブルターニュ, 代わられることはよく起こったことのようで,たとえ ノルマンディーを含む西北部に関しては,英国の影響 ば,ポ ワ ト ゥ ー地 方 に は 現 在 で も Saint−Michel−du− が強いブルターニュのほうで聖ミカエル信仰がはやく Mont−Mercure(メルクリススの山の聖ミカエル)と 行われていたようである。当時,モン=サン=ミシェ いう名の土地があるし,またあるグノーシス派のメル ルのすぐ西側,ブルターニュ側の司教区にある海辺の クリウス神像の台座に「ミカエル」と刻み込んである 島モン=ドルではすでに大天使ミカエル崇拝を行って ものがあるという。もともとメルクリウスは死者を冥 いた。海の向こうのイギリス側から5 48年に渡ってき 府へと案内する役だから,大天使ミカエルがとって代 たサムソンが,モン=ドルを根拠地としてこの地域を わるのには適当であったことだろう。というよりもむ キリスト教化したばかりでなく,モン=ドルを大天使 しろ,大天使ミカエルという存在自体が古代エジプト ミカエル崇拝の地としたのである。当時ブルターニュ や原始インドで行われていた言い伝えの化身なのであ とアイルランドでは大天使ミカエル崇拝はモン=ドル るかもしれず,こうしたメルクリウス神のような異教 以外にもある程度すでに行われていたようである。こ 神の後継者になるのは理の当然だったのかも知れな れに対してこの当時,ガリア地方ではそれぞれの地方 ― 98 ― 石木:モン=サン=ミシェルの歴史(その1) で布教のために殉教した聖人,司教といったような, した。モン=ドルはモン=サン=ミシェルと同じよう ある意味で目に見える存在を崇拝することばかりで に海辺にそびえ立つ島であり,両者の地理的な類似性 あった。彼らは縛り付けられ,首を切られる姿ととも はあきらかである。こうした高い土地に好んで,大天 に善良な村人たちの記憶に残ったのである。言い換え 使ミカエルを祭る寺院,修道院が建設されたのであ ると崇拝の対象は自分たちの住む場所をキリスト教化 る。 した先祖のような人ばかりである。考えようによって たとえば,フランス中部の古都ル・ピュイの岩場の は先祖崇拝にちかいものであった。これに対して天使 上に聳えるサン=ミシェル=デギイユ礼拝堂,またピ というなかば抽象的な存在を崇める精神は,オリエン レネー山脈のなかに位置するサン=ミシェル=デ= ト,イタリアの一部,そしてこのあたりのアイルラン キュクサ修道院,イタリアはピエモンテ山系に位置す ド,イングランドで発達した僧院の中でのみ考えられ るサグラ=ディ=サンミケーレなどがある。またイギ る発想であったようだ。またすでに述べたように,ブ リスのコンウォール地方のサント=マイケルズ=マウ ルターニュには瞑想的なケルト人の聖地がたくさん ントはモン=サン=ミシェル,モン=ドルと全く同じ あったわけで,そういう場所に現世と彼方を結ぶ聖ミ ように海辺の島に屹立しているのである。これは聖ミ カエル崇拝が入り込みやすかったものかと思われる。 カエルが天と地をつなぐ役割をもった大天使だからで このように大天使ミカエル信仰はブルターニュ,ア あろう。しかしそれだけに聖ミカエルを祭った寺院は 例外なく雷に見舞われやすい特質も備えている。 イルランドを経由したものもあり,またフランス本土 ともいうべきガリア地方を経由したものであれ,じわ モン=ドルはマンモスの骨が発見されるなど,非常 じわとキリスト教世界に拡げつつあった。西暦5 05年 に古い時代から生き物が水を求めて集まってきた場所 にはリヨンに聖ミカエルを奉る教会の存在が確認され である。人類の祖先はここに狩りをするために集まっ ている。また7世紀の終わりにはメロヴィンガ王朝の てきた。その後,ここはドルイド教の聖地となり,ガ 宮廷では,大天使ミカエル崇拝は非常な勢いを持って リア人たちはここでタラニス神への崇敬をおこなっ いると言われている。そうすると,その流れで大天使 た。そのあと,ローマ人たちはここで,ジュピター神 ミカエル崇拝がモン=サン=ミシェルへ持ち込まれた を祭ったので,この丘は,モン・ジョヴィスと呼ばれ 可能性も否定は出来ない。 た。タラニス=ジュピターは天を支配し,平和と博愛 モン=サン=ミシェルで7 09年の10月16日に新しく の神であった。これに対して,トンブ島を支配するタ 作られた礼拝所には12人の修道士が派遣され,アヴラ ラニスの弟,オグオミス(=ヘラクレス)は支配と戦 ンシュの司教に服属する形で運営が始まった。しかし いの神であり,雄弁の神であって,モン=ドルとモン 概してこの場所の運営は,いまだケルト風=ブルター =サン=ミシェルの間には住み分けが出来ていたので ニュ風であり,修道士は厳格な規律に従って,共同の ある。モン=ドルはその後,ガロ=ロマンの時代にな 祈り,聖書の朗読,苦行,独居などが要求されたよう ると3世紀頃にインド=イラン系の神であるミトラ である。聖オベールの意図がどのようなものであれ, 神,シベール神への崇敬に変わった。この神々は動物 実際はかなりブルターニュ的なものに浸透されていた の生け贄をたくさん要求したと言われている。その ようである。また8 67年になると,禿頭王シャルルは 後,聖ミカエルを崇敬することになり,あとから聖ミ コンピエーニュの協約によって,モン=サン=ミシェ カエルを同じく崇敬することになったモン=サン=ミ ルを含むコタンタン地方をブルターニュの支配者ソロ シェルと競合することになった。1802年にはモン=ド モンに譲っている。この地域はとったりとられたりが ルの聖ミカエルのチャペルは破壊され,その跡地から 続くのである。 このミトラ神,シベール神崇敬の証拠が発見されたの である。モン=ドルのチャペルは2層の外陣をもって いたことがわかっているが,これはモン=サン=ミ ≪モン=ドル≫ モン=サン=ミシェルから西へ15,6キロほど行っ シェルのプレ・ロマネスクの教会(現在のノートル・ たところにモン=ドルの丘がある。現在は,干拓のせ ダーム地下聖堂)とそっくりであり,またモン=サン いか海岸線から3キロほど下がったところにあるが, =ミシェルの村の教会とも構造が似ている。 丘の麓の土地は沼地のように低くて,もし何らかの理 モン=ドルとモン=サン=ミシェルの地理的な類似 由によって水位が少しでもあがれば,たちまちここは 性は明らかであり,民衆の中には大天使ミカエルと悪 島になってしまうだろうと思わせる土地である。この 魔がこの二つの島を交換した民話が残されている。悪 丘の上に大天使ミカエルを祭るチャペルが長い間存在 魔はモン=サン=ミシェルにすばらしい建物を造った ― 99 ― 東 京 学 芸 大 学 紀 要 人文社会科学系Ⅱ 第59集(2008) のだが,これを嫉妬した大天使ミカエルはある日,モ ドから持ち込んできた途端に,この抽象的観念は国家 ン=ドルにガラスだけで城を造り,悪魔に交換話をも 守護の観念にとって代わられたのである。考えてみる ちかけた。これを受け入れた悪魔がモン=ドルに行っ とイタリアやドイツは19世紀になってやっと国家とし てみると,ガラスの城はすべてなくなっていた…。現 て成立したのに対して,フランスはすでにかなり早い 在はモン=ドルには聖ミカエルを祀ったチャペルは影 時代から国家として成立した秘密はこのあたりにある も形もなく,決して枯れることがないといわれる泉が のかもしれない。国家制度を整えるかどうかは別とし 丘の上に湧いているだけである。18世紀に使われたと て,フランス人はかなり早い時期からフランス人とし いう無線通信用の惨めな建物の廃墟が残されているの ての自覚をもっていたようである。フランス人のナ みである。この二つの島の争いは,モン=サン=ミ ショナリズムとは複雑なものであって,たとえば大革 シェルの完全な勝利で終わった。モン=サン=ミシェ 命当時は愛国心が革命推進とその防衛の原動力になる ルはモン=ドルを喰い殺したのである。 など,一概に右翼的なものとは決めつけられない性格 をもっている。フランス人にとって国民意識は自己の アイデンティティの根本にあるものだからかも知れな ≪軍神ミカエル≫ い。 この後,西洋世界の基礎をつくったシャルルマー ニュ大帝は自己の国の守護天使として大天使ミカエル を選んでいる。戦乱が繰り返し起こった時代には,あ 第2章,ヴァイキングの時代 る意味で当然な選択だったのであろう。これに対し ≪ヴァイキング≫ て,シャルルマーニュの跡を継いだカペー王朝は,聖 モン=サン=ミシェルも8 00年頃になるといくつも ドニを守護神に選んだ。その後ヴァロワ王朝になる の奇跡的な事件がおこり,戴冠したシャルルマーニュ と,再び聖ミカエルに守護を祈願するようになった。 のモン=サン=ミシェル参詣があったりして,王国の 百年戦争のせいで軍事的な力に頼らざるを得ないこと 外部,遙か遠方からの巡礼の増加に拍車をかけた。し になったからである。つまりここで信仰されているの かし,その直後から来襲するようになった北方のヴァ はキリスト教ではあるけれども,善と悪を峻別し,敵 イキングのおかげでこの地方はさんざんに荒されるこ と味方をはっきりさせ,あくまでも敵を打倒すること とになり,島は信仰の場所というよりは,避難所とし をよしとするような思想である。つまりここで,大天 て利用されるようになった。8 47年には実際にモン= 使ミカエルは,キリスト教の守護神というよりは,フ サン=ミシェルがヴァイキングの略奪にあったことも ランク族の世俗的な権力を守る軍神となっていくので ある。しかし,ノルマンディーを征服したヴァイキン ある。 グたちはフランス化するにつれて一転して敬虔な宗教 すこしモン=サン=ミシェルのもつ思想的な意味を 者としての相貌をあらわし,また熱心な事業家として 先回りして述べておくと,11世紀ぐらいから,フラン 土地の経営に精を出し,僧院を数多く建設したことは ク族は神の使命を担う特別な民族であるという信念が よく知られている。 生まれるようになった。そうした思想を表現するとき ヴァイキングの首領ロロンとフランス王シャルル単 常に大天使ミカエルがフランク族の守護天使として崇 純王との間に交わされたサン=クレール・シュル・エ 敬されたことは言うまでもない。十字軍の思想的な背 プト条約によってノルマンディー公国が成立した9 11 景のひとつとしてもこうした優越思想があり,たとえ 年という年号は,モン=サン=ミシェル自体にとって ば第一回十字軍を率いたゴドフロワ・ド・ブイヨンは はあまり大した意味はない。しかし,モン=サン=ミ 出発の前にフランドルのアントワープに大天使ミカエ シェルを含むコタンタン地方がヴァイキングたちの支 ルに奉ずる寺院を建立している。 配下に入った933年は重要なエポックを画する。ブル また中世には大天使ミカエルをメダルなどで表現す ターニュからの直接間接の影響力を嫌ったヴァイキン る折にはフランス王の衣装をまとって表現したことが グたちが,モン=サン=ミシェルの僧院から従来の僧 多い。王を先頭とする国家守護の神として聖ミカエル たちを追い出して,自分たちの息のかかったベネディ は崇められたことになる。つまり大天使ミカエル信仰 クト派を導入することを始めたからである。 とフランスの国民意識とは一体のものなのである。 このように,ヨーロッパのキリスト教世界で初めて ≪ノルマンディーの誕生≫ 祖霊崇拝から離れて,天使というある程度は抽象的な ノルマンディーはもともと「ノース・マン」つまり 存在に対する崇敬を中近東から,あるいはアイルラン 「北の人」という言葉から出たと言われ,ヴァイキン ― 100 ― 石木:モン=サン=ミシェルの歴史(その1) グを示す言い方である。つまりノルマンディーはヴァ 世間から離脱する存在のことを言った。フランス語で イキングの侵入とともに真の活力を得た土地であり, 修道僧を意味する「モワーヌ」はギリシャ語の「モノ またその歴史のなかでも,ヴァイキングが活躍した時 ス」からきていて,これは, 「単独者」を意味し,北 代がもっとも華々しい時代なのである。 アフリカの砂漠地帯で独居生活をおこなうことから始 まった。最初にモン=サン=ミシェルに定着した二人 ノルマンディーの土地のヴァイキングへの委譲は3 つの段階に分けて行われた。 が別々に暮らしたのは,この教えに従ってのことであ まず911年にロロンに対して,シャルル単純王からル る。しかしながら修道僧たちの一部は神への奉仕に アンとエヴルーの司教区が割譲された。エヴルーは現 いっそう専念するために,その後集団生活に移行し 在で言うとノルマンディーでももっともパリに近い都 た。集団生活に移行したものは,集団生活の規約を作 市である。その後,9 24年にはラウールがリジュー, り,それに従って生活した。その規則のうちもっとも バイユー,セエに勢力を拡げた。また彼らは,信心深 有名なのは聖ベネディクトスが5 34年頃制定したもの いキリスト者に心を入れ替えており,カン,ルアンと である。聖ベネディクトスは4 90年頃から5 50−5 6 0頃 いった主要な都市の教会を保護し,手厚い寄進を行っ までイタリアで活動した僧で,5 30年頃ローマの近く た。クタンスとアヴランシュの司教区を含むコタンタ のモンテ・カシーノに修道院を建設した。聖ベネディ ン地方はすでに述べたように933年,ロロンの息子「長 クトスの教えによると,修道僧たちは修道院長を自分 剣王ギヨーム」の時代にノルマンディーに編入され たちで選び,その人物に服従しなければならない。修 た。このようなヴァイキングによる領地拡大のなか 道院長は終身その任につき,修道僧たちに厳しく,か で,モン=サン=ミシェルもノルマンディーに含まれ つ慈愛をもって接しなければならない。ベネディクト ることになったのである。新しい支配者は,政治的に 派の教えによれば,人が僧侶になるのはひたすら神に はフランス側に所属するブルターニュの影響を警戒 仕え,神の加護にすがるためである。神の言葉を聞 し,モン=サン=ミシェルを完全にヴァイキング勢力 き,神を求め,神の愛の中で生きる…。こうした神と の支配下におくことを望んだのであろう。 の直接的な,個人的な結びつきを作れるようにするた めに,「われわれは,神に仕えるための学校を作っ た」と聖ベネディクトスは書いている。このように彼 ≪ベネディクト派≫ ヴァイキングの初期の代表的な首領であったロロン は僧院の性格を規定したのである。僧院からは絶え の孫で3代目のノルマンディー公にあたるリシャール ず,神を賛美する祈りが立ち上らねばならないのであ 一世は,966年にモン=サン=ミシェルにいた「怠惰 る…。 な」教会参事会員たちを追い出した。フランドル人の こうした僧侶たちの根本的な行動原理は慈愛(ベネ 僧メナールに導かれて,セーヌ河沿いの高名な僧院サ ディクション)という個人的な行動原理でなければな ン=ヴァンドリーユ(当時はフォントネルと言った) らない。神は良きことを語り,良きことを行われるの に所属していたベネディクト派の精鋭30名をここに導 だから,人間も良きことを語り,良きことを行わなけ き入れた。これによって,モン=サン=ミシェルは名 ればならないのである。また,こうした言葉と行為 実共にベネディクト派の僧院となった。フォントネル は,信頼と希望,要は愛の中で行われるべきだという の修道僧たちはかつてはノルマンディーの戦乱を逃れ のである。8 17年にはアニアヌのベネディクトス に て,フランドル地方のゲントに逃れていたが,ヴァイ よって改革が行われたことが有名だが,さらにフラン キング支配が確立してからフォントネルに戻り,新た スにとって重要なのは,910年にクリュニーの修道院 な支配者たちから手厚い扱いを受けていたのである。 が創設され,ベネディクト派がフランスの中に確固と 追放される側の教会参事会員のひとりベルニエは,あ した足場を築いたことである。 らたにやって来た僧たちに抵抗してオベールの聖遺物 ベネディクト派の修道僧は伝統的に3つの誓約をす を隠したが,これは4年後にある修道僧の部屋のニセ ることになっていた。「修道院長への服従」,「貧困」, の整理棚から発見されることとなった。彼らは,モン そして「純潔」である。それにもうひとつ付け加わっ =サン=ミシェルに入ると,従来の教会を拡大し,ま たのは,「定住」であって,修道僧はあちこちの僧院 たもっと壮麗なものにすることを計画した。 を渡り歩くことを禁じられた。修道僧の仕事という と,聖書について瞑想すること,神に奉仕し,神を褒 め称えることであった。 ≪モノス≫ 修道僧とは,もともとはひたすら神に仕えるために ― 101 ― 聖ベネディクトスの教えの中で大事な行動原理は, 東 京 学 芸 大 学 紀 要 人文社会科学系Ⅱ 第59集(2008) 精神の安寧を保つことである。孤独と沈黙を旨とする たブルターニュとノルマンディーのちょうど境にあた ことであり,また熱狂や,気散じ,精神的な緊張を去 るこの土地を婚礼の場所として選んだのだろう。(同 ることである。こういうことのためにはモン=サン= じ 頃,リシ ャ ー ル2世 の 妹 が ジ ョ フ ロ ワ と 結 婚 し ミシェルの環境はことのほか向いていたことだろう。 た)。996年から1 008年の間に行われたといわれるこの 修道僧は,自己へと現前し,神へと現前するのであ 婚礼の折りには僧院はまだできあがっておらず,参会 る。自己へと内省するのであり,自己ならざるものに 者の大部分は建物の外で,風に吹かれながら帽子を はならず,自己とともに暮らすということが重要なの とって式典を祝ったといわれている。僧院の資料によ であった。したがってベネディクト派の姿勢はどちら ると,イギリス王,ブルターニュの諸侯,ノルマン かというと知的であり,観想的であった。 ディーの封建領主たち,クリュニーを含む他の僧院も それまでの僧院はキリスト教の研究と並んでギリ 気前よくモン=サン=ミシェルに寄進を行ったとあ シャ・ローマが作り上げた文化の高みを理解し,継承 る。こうした寄進と,そして領地からあがる収益を元 することに重点をおいていた。ところが12世紀になる にして,新たな大建築の計画が可能になったのであ と,僧院は西欧社会の前進に対応するあたらしい文化 る。 の発展の牽引力になっていくという側面も持つように このノルマンディー公の大々的な肩入れと,ベネ なる。それは文化,芸術,哲学,法学,農工業,そう ディクト派の進出はモン=サン=ミシェルの僧院の非 して建築(具体的にはロマネスク)とあらゆる分野に 常な隆盛をもたらした。まず経済的に,近隣の大領主 渡って,その発展を行ったのである。 たちの寄進によってフランスばかりでなく,イングラ ンド,イタリア,ブルターニュにも領地を持つに至っ た。またベネディクト派はサン=ヴァンドリーユ修道 ≪僧院の発展≫ このように,修道僧の入れ替えによって,モン=サ 院から精鋭のみを派遣し,彼らはベネディクト派の教 ン=ミシェルはノルマンディーの支配下に入ったかに えに厳格に従って祈りと労働に専念して教団を維持す 見えるが,実際はことはそう簡単ではない。初代の修 るための肉体労働は他に任せたから,優れた写本を大 道院長メナール1世,それを継いだメナール2世は, 量に作り出し,アリストテレス研究では他を圧してい ブルターニュ側と良好な関係を保持することに腐心し たのである。 た。ブルターニュの首都レンヌに頑張っていた支配者 たちもまた,モン=サン=ミシェルにブルターニュの ≪新教会≫ いくつかの領地を寄進するなど,理解あるところを見 長さ30メートル,幅12メートルのこの建築は現在で せ て い た。そ の た め に,ブ ル タ ー ニ ュ と ノ ル マ ン もロマネスクの教会のしたに,その存在を確認するこ ディーの双方から寄進を受けて僧院は主としてこの湾 とが出来る。モン=サン=ミシェルもまた,その他の の周囲に,さらにはかなり遠方にまで広大な土地を所 西欧の教会と同じように,新しい教会は古い教会の上 有することになり,かなり強力な封建領主でもあった に建てられた。そうして,古い教会は完全に破壊され のである。 ることなく,一部は地下聖堂(クリプト)としてその こうした雰囲気の中で,ノルマンディーの盟主リ 新しい使命を獲得して残されていくのである。 シャール2世がブルターニュの支配者ジョフロワの妹 逆に言うと,そうした歴史の堆積をそのままに空間 とモン=サン=ミシェルで結婚をした。彼は,まだ歴 的に堆積しているのが教会の建築だということができ 史も浅いこのモン=サン=ミシェルの僧院をことのほ るだろう。さらには,そうした教会の一番基層にはキ か好み,手厚い庇護を与えた。彼がブルターニュの若 リスト教以前の信仰の痕跡をみることもまれではない く魅惑的な王女ジュディットと華燭の典をあげたの のである。たとえば,シャルトルの教会の地下聖堂 は,ここである。新婦は,伝によれば「身体の完全な (クリプト)の中には,ドルイド教の信仰をたたえた 美しさ」を備えていたという。リシャール2世はモン 井戸が今でも存在するのを目にすることが出来る…。 =サン=ミシェルに土地,村,小邑,小教区,水車, 996年のモン=サン=ミシェルの火事は不幸にもこ の教会の骨格部分までをも破壊した。しかし,人々は 森,封建的権利などを気前よく寄進するのだった。 しかし,リシャール2世のモン=サン=ミシェルで そうした犠牲にもめげず,石組みの丸屋根を作り上げ の結婚式にはおそらく政治的な意図もあったことだろ た。起源1000年が訪れて,世界の終末の可能性に人々 う。彼はブルターニュに対して野心を持っていたので はおののいたが,この時期不安に駆られた人々は巡礼 あり,そのためにブルターニュの娘と結婚し,式もま として,モン=サン=ミシェルにも数多く訪れた。 ― 102 ― 石木:モン=サン=ミシェルの歴史(その1) 無恐怖王リシャール1世は9 96年に亡くなると,そ タリア人の職人たちが,そうした指導に当たり,ノル の息子善良王リシャール2世が即位し,1026年まで30 マンディー人の職人たちはこうした要請にうまく応え 年間の長きにわたって,ノルマンディーを支配するこ て,短期間で技術をものにしたと言われている。しか とになった。10 22年になると,リシャール2世はモン し,現在ではイタリア人の職人の影響力を過度に評価 =サン=ミシェルの僧院にショゼー諸島を与えた。こ することには懐疑的な考えが多い。やはりノルマン れはモン=サン=ミシェルの沖合おおよそ30キロメー ディーの職人たちに技術的にも主導権があったようで トルに位置する島々である。島に居着いた石工たちは ある。彼らは後の「フランス派」ほどには均整がとれ 石灰岩を切り出した。それを船に乗せて満ち潮の機会 て美しい形姿を作り出すことは出来なかったが(つま を狙って,モン=サン=ミシェルに運び込むのであ り,当時のノルマンディーはフランスではなかったの る。また僧院が所有していた森林が,骨組みや足場用 である),大胆な施策を案出しそれを実行する能力, の木材を供給することになった。 思い切って高い尖塔を作る腕をもっていた。石工たち は,出来高で支払いを受けた。彼らは一つ一つの石を 切り出して,正確な形にそれを細工する仕事に誇りを ≪ギヨーム・ド・ヴォルピアーノ≫ リシャール2世はモン=サン=ミシェルの拡大のた 持ったことだろう。彼らが刻んだ石には現在でも仕事 めに役に立つ有為の人材をさがしていた。そうして白 に関わった職人たちが自ら彫り込んだ名前を見ること 羽の矢を立てたのが,ギヨーム・ド・ヴォルピアーノ が出来る。 (962−1031)であった。彼が注目されたのは,ヴォ 実際ノルマンディー地方に存在するベネディクト派 ルピアーノがベネディクト派のなかで改革派として非 の僧院や教会,たとえば,ジュミエージュの聖堂,カ 常に目立つ存在であったことと,また彼が建築家とし ンの男子修道院,女子修道院などは,モン=サン=ミ ての才を世に響かせていたからである。彼はいくつも シェルのロマネスク教会と親近性をもち,これがノル の修道院の改革に手腕を発揮した後,クリュニーの修 マンディー様式と呼ばれることもあって,後にイル= 道院長マイユルに呼ばれてブルゴーニュに赴いた。そ ド=フランスで完成形態を作り出すことになるゴシッ の後,北部ノルマンディーの古い港町フェカンに居を クの教会への橋渡しとなっていくのである。 構え,ルアンのサントゥアン,ベルネー,スリジー, ≪征服王ギヨーム(ウイリアム)≫ そしてモン=サン=ミシェルといった主要な修道院の 改革に腕を振るった。彼の弟子ティエリはベルネー, 彼はノルマンディーの領主として英国を征服した ジュミエージュ,モン=サン=ミシェルに派遣され, (ノーマン・コンケスト)ことで有名だが,このギ そこで直接の指導にあたった。また,いずれも弟子で ヨーム(ウイリアム)もモン=サン=ミシェルと無縁 あるテオドリックとシュッポが続けて,モン=サン= ではない。彼はイギリスの王座を簒奪したハロルドに ミシェルの修道院長となった,というように非常な影 抗議して,1066年にノルマンディーはディーヴ=シュ 響力を振るったのである。 ル=メールから大艦隊を率いて出陣し,へイスティン 彼は僧としてばかりでなく,建築家としても名を残 グで敵を降参させた後,ウエストミンスター寺院にお した存在であり,ロマネスク建築の創出者のひとりと いてイギリス王冠を自ら被ったのであったが,彼は故 目されている。彼はノルマンディーにやってくると, 国を発つに当たって大天使ミカエルの聖日(9月2 9 直に宗教的改革ばかりでなく,建築の革新にかかわる 日)を選んでいる。つまり,大天使の守護を願いなが 実権を手に入れた。それというのも,彼は祈りに儀式 ら出撃していったことは明らかである。ノーマン・コ 的な性格を持たせることを望み,まず全体のミサ,つ ンケストによって,ノルマンディーとイギリスは一つ いで修道僧ひとりひとりのミサを行わせたが,それに の国になったのが,モン=サン=ミシェルの修道院長 伴ってミサに相ふさわしい大きな教会と小さな礼拝堂 はこれを祝して4人の僧侶をイギリスに派遣した。彼 などを必要としたのだった。 らは,イギリスの王となったオド(ギヨームの兄)の モン=サン=ミシェルの建物の独創性,荘厳,革新 摂政となった。代わりにギヨームは王室付き司祭ロ 性,完成度の高さなどはこうした一群のひとびとがど ジェ1世をモン=サン=ミシェルの修道院長に据え れほどの能力をもっていたか,よく示している。丸天 た。このようにモン=サン=ミシェルは英仏を束ねる 井の作成をめぐる新しい技法のためには,それに適合 ギヨームの権力と密接な関係を取り結んだのである。 した技術をもった職人を養成する必要があった。実 際,ヴォルピアーノに従ってフランスへやってきたイ ― 103 ― 東 京 学 芸 大 学 紀 要 人文社会科学系Ⅱ 第59集(2008) 堂(現在のノートルダム地下聖堂)の上に作られた教 ≪ロマネスクの教会≫ ロマネスクの教会は1023年に着手され,1080年に細 会部分の設計が十分でなかったことによって,起こっ 部を残して実質上完成した。1048年になると,交差廊 た。教会の身廊部分は下段の柱の上に正しくのってい の主柱ならびにロマネスクの身廊が完成した。征服王 れば良かったのに,間違って,大きな重みに耐えない ギヨームがモン=サン=ミシェルを見たのはこの状態 カロリンガ朝時代の丸天井にのっていたのである。こ であり,またバイユーの高名なタピスリーがモン=サ の崩壊によって北側の側廊も崩れ,そのために居住部 ン=ミシェルを描いたのもこの状態でのことである。 分が壊れた。このため,ノートル・ダーム地下聖堂は 1060年になると教会部分は完成し,ラニュルフ・ もっと強力な支えとなるように作り直され,その上の ド・バイユーが着手したロマネスクの建築はノート 教会部分を立て直したのである。ロジェ2世は,北側 ル・ダーム地下聖堂を中心にして馬蹄形の形をとるこ に作られていた建築に関しては,3階層をもつ外壁だ とになった。入り口は西側,この馬蹄形のてっぺんの けを残して,内部は徹底的に改変した…1138年には再 位置におかれることになった。北側はすでに3層に 度火災が起こり,これを機会にまたもやベルナール・ なっていた。11 03年になると,建物を一部崩壊がおこ デュ・ベックによる改築が行われた。 り,9年後には火事で打撃をうけたこともあり,モン =サン=ミシェルは大規模な修復を早くも余儀なくさ れたのである。この崩壊はカロリンガ朝時代の地下聖 ― 104 ― (モン=サン=ミシェルの歴史その1終わり) 石木:モン=サン=ミシェルの歴史(その1) モン=サン=ミシェルの歴史(その1) Histoire du «Mont-Saint-Michel) (première partie) 石 木 隆 治 Takaharu ISHIKI 地域研究* 要旨 本論は,世界遺産モン=サン=ミシェルをよりよく理解するために試みたこの修道院の歴史探訪の一部をなす。 本稿を含む全2部でこの修道院の1 8世紀までの歴史を示す。そうして第3部をなす「表象のモン=サン=ミシェ ル」では主として1 9世紀を中心としてモン=サン=ミシェルが宗教的施設としての役割を失って牢獄となるに従 い,モン=サン=ミシェルはロマンティックな美学的表象となっていく様を分析した(紀要に公表済み)。 なお,第4部としては,モン=サン=ミシェルを具体的に探訪するに当たっての,各部屋の造作,由来,室内の 調度など,具体的,緻密なガイド・ブックを計画している。 本稿(第一部)はモン=サン=ミシェルが神話時代の闇から登場して,次第次第に明確な歴史の輪郭をとること から始まって,11世紀のノルマンディー最大の王ギヨーム・ド・コンケランの参拝までを対象としている。 *Department of area studies ― 105 ―
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