こちら - Aramco Japan

文: マシュー・テラー
写真: スティーヴ・シェルトン
東京競馬場で開催された 2015 年サウジアラビア・ロイヤルカップ・レース。3 番手から追い込んだブレイブスマッシュ(6) が ゴール前、一気に伸
びて、ハナ差の勝利を収める。
週末の早朝、競馬場の門はまだ閉まっています。しかし、きっとどこかで誰かが合図をしたに違いありません。談
笑していた係員たちが、持ち場につきます。男性職員がつばのついた帽子を傾け、ひたいを拭っています。
白い手袋をつけた両手を前に揃えた女性職員がきちんとした服装で、曇りのないタイルの床にヒールの音を響
かせて歩いています。片隅では、厳格そうな上司が監督しています。
脚を開いて立ち、ズボンの折り目はナイフのように鋭く、右こぶしを腰に当て、隙のないタイムキーパーのように
目を細めて左手首をチラチラと見ています。門の向こう側、最前列にいるのは最も熱心なファンです。
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「デュークと呼んでくれ」と言う波打つ白髪まじりのダイサクさんは、門が開いたらお気に入りの場所を確保できる
ようにと、朝 6 時にここに着きました。そんな時間に、ほかに来ている人はいましたか?私は無邪気に尋ねてみま
した。デュークは、そばにいるサクラさんを指差して、この人は門の外で前の晩から泊り込みをしていたんだと言
います。サクラさんはあまり感情を表に出さないタイプのようで、私に注目されても気恥ずかしい様子はなく、かと
いってあまり多くを話したがりません。彼とデュークはライバル同士なのでしょう。
前の晩から?どうして?と私は尋ねました。「そうしたかったからさ」と、サクラはニコリともせずに言います。「よく
やるんだ」
もっと話をしたかったのですが、何かが起ころうとしていました。明確で、しかし紛れもなく冷徹な口調のアナウン
スが響き渡り、門の外にいた人々が一斉にバッグを手に取ります。係員が身構えます。折り目ただしいズボンの
責任者が腕時計から目を上げました。午前 9 時ちょうどです。東京競馬場の門が音をたてて上がり始めます。
世界最大の競馬場、造園係が芝コースの状態をチェック
する前で、早起きしてコースサイドに席を確保 し たファン
が競馬新聞を読んでいる。
9 時ちょうどに門が開くと、ファンたちもレースをする。当
日開催されるロイヤルカップを含む 12 レースの観戦に、
お気に入りの場所を確保するためだ。
東京競馬場は、圧倒的な施設です。今をさかのぼる 1933 年、東京都心部から西に約 30 キロメートルの府中に
開設されました。当時の府中は、商業性の高い重要な街道筋にある歴史豊かな川沿いの町でした。今日では、
複数の鉄道路線が縦横に走る高級ベッドタウンとなっています。
しかし、この競馬場の最大のウリは立地ではありません。そのサイズ、特に 2007 年の全面改築以降の規模です。
中に入ると、それが 233,000 人も収容できる世界最大の競馬場だということに納得します。きらびやかなホール
には TV スクリーン、自動発券機、フードコート、レストランカウンター、案内窓口などがあり、そこを抜けるとレー
スコース側に出ます。そこでは、6 階建てのフジビュースタンドの屋根が、頭上 50 メートルを超える高さでひさし
のように張り出しています。80 ヘクタールもの芝の広がりを見渡すと、縦 11 メートル、横幅 66 メートルを超える世
界最大級のビデオスクリーンが、メインスタンド正面のセンターフィールドに設置されています。そして、晴れた日
は、約 80 キロメートル南西に富士山の遠景を望むことができます。
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(左) 2015 年 10 月 10 日、早い時間帯に行われたレースでゴールする馬たち。サウジアラビアゆかりのサラブレッドが日本で初めてレ
ースに参加したのは、1989 年のこと。イブンベイ(「高貴な者の息子」)と名付けられたこの馬とその健闘がきっかけとなり、サウジアラビ
ア・ロイヤルカップと、その交換レースとしてリヤドで行われるジャパンズ・カップ(今年で 13 回目)が生まれた。
(右) 内馬場の芝生では、ファンがピクニックをし、広場に停まった「キッチンカー」の料理を楽しんでいる。「男の子たちは競馬を目当て
に来ているけれど、女の子は食べ物が目当てです」と、右から 3 番目のオオタニ・ショウコさん。東京の作家で競馬ファンの吉川良さんは、
日本の今の競馬について、「若い人がたくさんいますし、所得水準の違いは関係ありません。これは素晴らしいことです。みんなが平等
に文化を楽しんでいます」と語る。
メインの芝コースは、一周が 2 1/4 キロメートル近く、あるいは競馬用語で言えば 1 マイル 2 1/3 ハロン強もありま
す。芝コースの内側に、それより幅の狭いダートコースと障害コースが設けられています。
しかし、このコースの特徴は、その起伏にあります。向正面はゆるやかな下り坂が続いた後に急な上り坂となり、
再びゆるやかな下り坂となって 3 コーナーを回ります。そして、馬がドラマティックなホームストレッチに入ると厳し
い上り坂となり、終わりがないとさえ思えるゴールまでの 525 メートルの直線は、中ほどでようやく勾配が平らにな
ります。
3 コーナーを回る際に下りの勢いがつけば、一般的には先行馬に有利だと思われます。しかし実際には、それ
は最終コーナーでのバトルのお膳立てにすぎません。先行馬の騎手は最後の直線の上り坂に入ってから馬に
気合を入れすぎて、ゴール前で息切れさせてしまうことがあります。一方、3 コーナーの下りで力を温存し過ぎる
と、ゴールに向かうあの非常に長い直線の上りで馬に過剰な負荷をかけてしまいます。最終コーナーの駆け引
きが全てです。
先行して果敢なレースをするには、度胸と底力が必要です。後方からの追い込みには、冷静さを失うことなく正
確無比に距離をはかった駆け引きができる戦術家でなければなりません。スターティングゲートが開いた瞬間の
レースの読みが問われます。
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フィニッシュの踏ん張りで、サラブレッドの肩にステッキを入れる騎手。
「私は競馬が大好きなんです」 小池栄樹(ひでき)さんはそう言ってにっこりすると、私にもうひと切れの刺身を口
にするよう促しました。それは、初めて東京を訪れた私にとって言うまでもなく、これまでに食べた最高の刺身で
した。アラムコ・アジア・ジャパンの顧問を勤める小池さんは、石油・ガス業界において輝かしいキャリアを築いて
きました。しかし、彼には長年温めてきた夢がありました。
現在の世界中のサラブレッドのすべてが、たった 3 頭の中東産牡馬
の子孫であるということが、近代競馬と中東地域の結び付きを強く表
しています。アラムコ・アジア・ジャパンの顧問を務める小池栄樹さん
は、この結び付きが日本でもっと実感されるようにと、リヤド馬事クラ
ブと日本中央競馬会に働きかけてサウジアラビア・ロイヤルカップを
設立した。賞金や優勝杯だけでなく、ロイヤルカップは、毎年開催さ
れる日本ダービーに挑戦しようとする馬にとって名誉ある第 1 のステ
ップレースになりましたと、小池さんは語る。
「私は 1973 年にサウジアラビアを訪問した(日本の)代表団の一員として、ジョイントベンチャー設立の条件につ
いて調査をしました。1984 年になると、サウジ側からアジアにおけるサウジの代表事務所を日本に設立するよう
依頼され、その後(このように)長い間働いてきました。しかし、その間ずっと私が考えていたことは、石油・ガスの
貿易だけでなく、サウジアラビアを日本の人々にとって身近な存在にすることでした。そうだ、競馬だ、アラブ種
の馬の血統も使える、と思いついたのです」
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現代の競走馬はサラブレッドです。これは主として、スピード、スタミナ、運動能力のために特別に配合された血
統の馬たちです。今日、世界中のレースで走っているおよそ 50 万頭のサラブレッドの血統は、すべて 1680 年
代から 1729 年までに中東からイングランドに輸入された 3 頭の始祖馬にさかのぼることができます。バイアリー
ターク(Byerley Turk:出自不詳)、ダーレーアラビアン(Darley Arabian:シリア、アレッポ産)、そして、ゴドルフィ
ンアラビアン(Godolphin Arabian:イエメンで生まれシリアとチュニジア経由で輸出)です。New Scientist (ニュー
サイエンティスト)誌の 2005 年の報告によれば、現在活躍している競走馬の 95%が、ダーレーアラビアン 1 頭に
さかのぼる遺伝子を持っています。
毎年11月に開催されるジャパンカップは、アラビアとこのような根源的な繋がりを持ち、そして日本の競馬人気と
も相まって、賞金総額 6 億 2,400 万円(約 550 万ドル)という世界で最も高い賞金総額のレースのひとつとして花
開いたのです。1980 年代に非常に特別な馬が出走したことも、それに拍車をかけました。
イブンベイ(アラビア語で「高貴な者の息子」)は、栗毛のサラブレッドで、イングランドで調教され、ファハド・サル
マン王子が所有していました。ヨーロッパでのレースでいくつかの成功を収めた後、ジャパンカップに出走する 5
歳馬として 1989 年に東京に遠征し、日本のレースで走る初めてのサウジアラビアゆかりの馬としてメディアの注
目を集めました。イブンベイはレースのほとんどを先頭でリードし、興奮をかき立てましたが、ホームストレッチで
追いつかれ、最終的には 6 着に終わりました。
「イブンベイはとても素晴らしい走りを見せてくれました」と、日本中央競馬会(JRA)の国際部長柿田清彦さんは
言います。「そして、素晴らしい馬でした。多くの日本人が彼のファンになりました」
「この時に初めて、『サウジアラビア・ロイヤルカップ』というレース名を思いついたのです」と、小池さんは振り返り
ます。
小池さん、JRA、そして当時のバシール・クルディ(Bashir Kurdi)駐日サウジアラビア大使による努力が実を結び、
1999 年 6 月に第 1 回東京ハイジャンプ(障害競走)が開催され、この重賞競走に「サウジアラビア・ロイヤルカッ
プ」の名が冠されたのです。リヤド馬事クラブは、サラブレッドの血統を登録するサウジ・スタッドブックを編さんし、
その結果、サウジアラビアは 2002 年にアジア競馬連盟への加盟が認められました。同じ年、リヤド近郊のジャナ
ドリヤにあるリヤド馬事クラブのキング・アブドゥルアジズ競馬場において交換レースとして第 1 回ジャパンズ・カ
ップが開催されました。
サウジアラビアの名を冠した東京でのレースは、2007 年には国際グレード III になり、「富士ステークス」にサウジ
アラビア・ロイヤルカップの名を付して平坦コースで行われるようになり、より幅広い注目を集め、より格上の馬が
出走するようになりました。
「私たちのレースの名は、常に他のレース名に付冠されるものでした」と、小池さん言います。「れっきとした単独
の名前が欲しいと思いました」そしてついに昨年、第 18 回の開催を前に JRA は、2015 年以降のレース名を、サ
ウジアラビア・ロイヤルカップとすることに同意しました。
このレースの 2015 年の賞金総額 6,160 万円(約 54 万ドル)のうち、勝ち馬には 3,240 万円(約 28 万ドル)が与
えられます。その全額が、日本で開催されるすべてのレースと同様、国営 JRA の公的資金と馬券売上から支出
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されます。これは善意を配分するプロジェクトであり、サウジアラビアは、オリジナルの優勝杯を寄贈するという形
での貢献を行っています。この優勝杯は、1999 年に当時のアブダッラー・イブン・アブドゥルアジズ皇太子(後に
国王)から贈られたものです。
その後、JRA はこのレースを若馬(2 歳馬)のための 1,600 メートル(約 1 マイル)競走に改め、施行日程を 10 月
に変更しました。小池さんには吉報でした。
「私たちのレースはいまや、外国の名前をそのまま冠し、国家元首が優勝杯を贈呈する日本でただひとつのレ
ースとなりました。そして、JRA は毎年 5 月に開催される日本ダービーに挑戦しようとする馬にとって名誉ある第
1 のステップレースとして、サウジアラビア・ロイヤルカップを位置付けたのです。国際的な評価もこれまで以上に
高まるでしょう。当然ながら、日本の競馬ファンもこれまで以上に注目してくれるでしょう」
サウジアラビア・ロイヤルカップの優勝杯は、国家元首より正式に寄贈される日本で唯一の優勝杯
デュークを最後に見かけたのは、彼が音を立てて上がる門の下をくぐり抜け、お気に入りの場所を確保するため
にメインスタンドへの階段を駆け上って行くときでした。サクラさんは、とっくの先に行ってしまったのかも知れま
せん。門の幅いっぱいに広がった男女の群れがそのあとに続きます。レース開始のずっと前なのにコース沿い
のお気に入りの場所を確保するために皆がダッシュしています。そして、ここは競馬場にぐるりと設けられた多く
の門のひとつにすぎず、それらが一斉に開くのです。
一日のレース番組はびっしりと詰まっています。12 レースが組まれ、メインレースのサウジアラビア・ロイヤルカッ
プは午後 3 時 45 分のスタートです。私は、あわただしさを増すレースコースの彼方の厩舎エリアに向かいまし
た。そこはまだ静かです。穏やかな風に葉を鳴らす樫の木の陰にたたずむ低く長い作りの厩舎で、馬たちが晴
れの出番を待っています。
今日の第 8 レースに出走するワイルドダラー号が、体を洗われています。鼻に垂れてくる水滴に顔をしかめてい
るものの、厩務員が丁寧に目のまわりをなでて水洗いをしてくれるのに身をまかせています。別の厩務員が、神
経質そうなもう一頭の別の馬を樫並木の下で小さくグルグルと円を描くように歩かせています。かなりのいななき
や鼻を鳴らす音が聞こえてきます。「これはスガノランバダです」と、イハラさんと名乗る厩務員が言いました。「2
歳の牝馬で、明日出走します。歩かせているだけです。ちょっとエネルギーを発散させる必要がありますから」
厩舎周りの風景は何処も同じようなものです。しかし、レースコースエリアに行くと、日本ならではの違いが明らか
になります。大衆文化に競馬を根付かせるために JRA が行った幅広いキャンペーンの結果、競馬場はあらゆる
階層の人々が一日をなごやかに楽しめる場となったのです。スタンドエリアを抜けて散策し静かな第 1 コーナー
のラチ(柵)沿いの青々とした芝生に下りると、中年の会社員風の人々、専門職らしい若者、学生、小さい子ども
連れの家族などに出会い、言葉を交わすことができました。
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ゴルフ用品を作っているという大阪の学生、スミ・ユウトさん(25)は、友だちとグループで来ていて芝生にブルー
シートを敷いてピクニックを楽しんでいます。熱心に競馬新聞を見ている彼に、ロイヤルカップについて聞いて
みました。
「ビッグレースですよ」不意をつかれた彼が言います。「超ビッグではないけれど、小さくてもビッグなレースです」
彼の向かいに足を組んで座るオオタニ・ショウコさんは映画の勉強をしている東京の学生で、目をクルッと回して
笑っています。
「男の子たちは競馬を目当てに来ているけれど、女の子は食べ物が目当てです」と笑顔を見せながら隣を肘で
つつきました。さらに芝生を進むと、東京郊外から休日を利用して遊びにきた友人仲間のミヤタ・タカナリさん(29)
と、イクボ・ヨウスケさん(32)がいました。私と言葉を交わす間も、陽気に自撮りポーズを取っています。彼らの横
では、高価なカメラを持ったワーキングウーマン風な女性たちが、身を寄せ合って勝ち馬予想の議論をし、馬券
を比べ合っています。野球帽をかぶった中高年の男たちは愚痴をこぼし合っていました。
内馬場の遊園地の横には、フードトラックの日本版である「キッチンカー」が並び、美味しそうな香りを漂わせ、そ
れに負けないぐらいの楽しげな冗談が飛び交い独特の雰囲気をかもし出しています。脱ぎっ放しのスニーカー
や、日本のアニメ独特の目が大きなキャラクターをあしらったピクニック用品の間にベビーカーが無造作に置か
れています。
パドックに行ってみましょう。ここはレースごとに、出走する馬を歩かせ、馬体のしまり具合、雰囲気、気合などを
観客がチェックする場所です。レースコースエリアの喧騒とは打って変わった静けさです。よれよれのチェックの
シャツ姿の男性たちが、勝ち馬予想の議論を続けている一方で、静かで真剣なまなざしのインサイダー風の
人々が大勢います。馬主、調教師、そして粋なスーツやデザイナーブランドを身に着けた勝負師たちです。次
のレースに出走する馬たちが通り過ぎて行きます。威厳に満ち、体高に恵まれ、アスレティックでいながら注意
深く、たくましい動物です。そこには紛れもない尊厳のようなものが漂っています。競馬が単なる賭け事ではない
ことに納得をさせられます。
ビジネスマンや馬主はパドックのプライベートセクションで馬を観る。
レースコース沿いのウィナーズサークルで、終わったばかりのレースの勝ち馬を見ているのは、地元の大学で通
信技術を学ぶ学生、ヤマギシ・ヒロタカさん(24)です。彼は、最も成功を収めた日本産サラブレッドの 1 頭で、ジ
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ャパンカップの勝者であり、60 年ぶりに日本ダービーを制覇した牝馬、ウオッカの大ファンだと言います。「毎週
観戦しています」と、彼は言います。「馬券もいくらかは当たりましたが、大切なのはレースです。レースが好きな
んです。本当にわくわくします」
メインスタンドの上の方にある席に戻り、著名な日本人作家であり熱心な競馬ファンでもある吉川良(まこと)さん
と会いました。彼は、ダークスーツ、白いシャツ、落ち着いたタイというフォーマルな装いで、グレーの髪が襟にか
かっています。ひとつひとつ言葉を選びながら、彼は話してくれました。
「ヨーロッパの大きな競馬場での重賞レースを観に行ったとき、とても驚きました。若い世代があまりいませんし、
観客は上流階級と一般庶民にはっきり分かれているようでした。ここ(日本)では、若い人がたくさんいますし、所
得水準の違いは関係ありません。これは素晴らしいことです。みんなが平等に文化を楽しんでいます」
彼に、その文化とは競馬場では実際に何を意味しているのかと尋ねました。
「日本の小売店を見てください」と彼は言います。「どんどん消滅しています。何でも、どんどん大規模になる一
方です。ビッグビジネスになってしまって、まったく人間味がありません。ですが、競馬場に来れば、まだ人間味
のある体験ができます。誰もがフレンドリーで、互いにおしゃべりができます。競馬は所詮ギャンブルだという印
象を持たれていますが、違うのです。人々は、ともに楽しめるコミュニティを求めてここに集まってくるのです」
彼がどうして競馬を好きになったのか聞きました。吉川さんは顔を上げて外に目をやります。昂揚する実況アナ
ウンサーの声と観衆の視線の中で、特別レースのひとつに出走する馬たちが集まっています。「私には、とても
不思議でした」と、彼は言います。「馬の意思に触れることはできません。私は、サラブレッドを調教し、レースの
訓練をする牧場によく行っていて、その場所が好きでした。その当時、馬の文化について書く人は誰もいません
でした。私は、いつの間にかますます夢中になっていきました」
午後の時間が着実に流れ、観衆は増え続け、場内の雰囲気も昂まってきました。VIP ルームで忙しくしている小
池栄樹さんにまた出会いました。「日本とサウジアラビアの交流について、もっと関心を持っていただけるように、
政財界や芸術関係から大勢のゲストをお招きしているのです」と、彼は言います。「そのような結び付きを作るた
めに、このレースは役立っています」
財界のリーダーである米倉弘昌さんも同じ見解でした。日本とサウジアラビアとの関係が発展している背景には、
貿易の結び付きを超える以上のものがあると説明してくれました。そのテーマについて、私は NHK の出川展恒
解説委員と話し合いました。「過去 20 年間、日本はサウジアラビアとの協力関係を学術交流、テクノロジーなど
に拡大してきました」と、出川さんは言います。「日本の映画、特にマンガは、サウジアラビアの若者の間で人気
になっていますし、交換留学や観光旅行を通して、サウジ文化も日本の人々にとってより身近なものとなってい
ます。競馬もその一環です。それは二国間関係にとって重要なものであり、民間外交の好例です。ここにいる
人々は、競馬がどれほど中東で人気があるか、見当もつかないでしょう」
話していると、場内放送が本日のメインレース、サウジアラビア・ロイヤルカップの開始を告げました。いずれも日
本人が所有し日本で調教された 12 頭の出走馬が、向正面にあるスターティングゲートに導き入れられるのが見
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えます。それから、すべてが終わるまで 2 分足らず。それは、東京競馬場での番狂わせレースのお手本のような
展開でした。
クラウンスカイが向正面からレースをリードし、難しい(ふたつの)コーナーもラチ(柵)沿いギリギリを回って先頭
をキープします。ホームストレッチに入っても脚色は衰えず、ゴールへの上り坂を一気に駆け上る最適のポジシ
ョンにいるようです。しかし、彼はあまりにも急ぎすぎました。それが、あの最終コーナーの駆け引きだったのです。
ホームストレッチの坂を上り切り、残り 300 メートルというところで、クラウンスカイはいっぱいになってしまいました。
数秒後に彼は姿を消し、思いもよらない伏兵ブレイブスマッシュが、6 位から 4 位、そして 1 位へと力強く追い上
げ、ラストで必死に追いつこうとする 2 頭を見事に振り切って、競馬用語で数センチを意味する「ハナ差」の勝利
を収めました。馬たちがゴールを走り抜けた瞬間、6 階建てのスタンドに反響したどよめきを忘れることはないで
しょう。
ブレイブスマッシュがハナ差の写真判定で 1,600 メートルのサウジ
アラビア・ロイヤルカップを制覇。この 2 歳馬と馬主は 3,240 万円
(28 万ドル)を獲得した。
荒い息をし発汗していても、その外見からはもう一度走れそうなブレイブスマッシュが、ウィナーズサークルで注
目を浴びています。金糸の縁飾りのついた輝くローブをまとったリヤド馬事クラブのアデル・イブン・アブドゥッラ
ー・アルマズロア(Adel ibn Abdullah Al Mazroa)理事長が、勝ち馬の島川隆哉オーナーにロイヤルカップ優勝
杯を贈呈し、小笠倫弘調教師とベテランの横山典弘騎手を祝福しました。
ウィナーズサークルでは勝利した横山典弘騎手(右端)が見守るな
か、リヤド馬事クラブのアルマズロア理事長(左端)が島川隆哉オー
ナーに 2015 年サウジアラビア・ロイヤルカップを贈呈した。
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「私はいつも日本の人たちに、日本人とサウジアラビア人が違う世界に住んでいると思わないでくださいと言うの
です」と、脇祐三さんはスタンド上階で私に言いました。脇さんは日本のメディアである日本経済新聞のコラムニ
スト、40 年にわたり中東に関するニュースを伝えてきました。「私たち(サウジ人と日本人)は、共通した生活基盤
を持っています。そして、いみじくも、このレースはそれを最もよく表している事例のひとつです」
形式的で、改まった文化交流の時代は終わり、より生き生きとしたものになってきたと彼は言います。「日本政府
はかつて、伝統文化の紹介に注力していました。中東の日本大使館は、生け花や歌舞伎などの紹介に重点を
置いていました。しかし今や、人々は映画やアニメのような現代の日本文化を好きになっています。これまでに
多くの文化人が中東地域を訪れています。たとえばデザイナーの森英恵さんです。現代のアラブ文化は日本人
にあまり知られていませんが、たとえばイラク生まれの建築家、ザハ・ハディドさんが東京の新国立競技場の設
計コンペで注目された時、日本人は中東に現代建築家がいるということを初めて知りました。このレースも、その
ような交流の新たな例なのです」
ロイヤルカップ贈呈式の後、ファンとメディアに手を振るアルマズロ
ア理事長。日本のニュースコラムニスト、脇祐三さんはこのレースを
「私たち(サウジと日本)は共通した生活基盤を持っています。そし
て、いみじくも、このレースはそれを最もよく表している事例のひと
つです」と語る。
それで、今後はどうなるのでしょうか、と私は小池栄樹さんに尋ねました。「最終的には、サウジアラビア・ロイヤル
カップがグレート II レースに格上げされればと期待しています」と、彼は言いました。
「このレースが、一流の馬たちに魅力的な存在であり続けることができれば、海外からも認められるでしょう。サウ
ジアラビアの王室と日本の皇室は、伝統的に競馬への強い関心を持っています。競馬は 『キング・オブ・スポー
ツ』 であり、『スポーツ・オブ・キングス』 です。それは、約 5 千年にわたる馬との共存を通して、私たち人間がつ
ちかってきた共通のレガシー(遺産)なのです。このような馬の文化の共有と、それへの協賛がこれからも続くこと
を願っています」
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マシュー・テラー
英国を本拠とするジャーナリスト兼放送作家。中東関連の記事を世界のメディアに提供し、BBC ラジオのドキュ
メンタリーを制作している。
ツイッターは @matthewteller、ブログは www.QuiteAlone.com
スティーヴ・シェルトン
シアトルをベースにするマルチメディア・ジャーナリスト。米国、中東、バルカン諸国、中央アメリカ、スーダン等
で、幅広いニュース媒体、非営利団体、商業顧客のための仕事をしている。
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