7/10 の授業迄に少なくともゴシック体表記語句程度は下調べしておくこと! ある天才音楽家の肖像:西南学院大学「音楽史」 2015/7/10(金) モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart:1756-1791):自立を志向した天才 とある精神病院。サリエリ(Antonio Salieri:1750-1825)と名乗る老人が若い神父に自 らの罪を告白している。彼はかつてオーストリア皇帝付宮廷作曲家として一世を風靡(ふ うび)していたことを神父に自慢するが、彼の経歴は今や時代から完全に忘れ去られてい る。彼は、あの有名なモーツァルトを、自分が殺したのだという(サリエリが晩年に発狂 したというのは史実、モーツァルトを毒殺したとする説も昔から流れているがその真偽は 分からない)。 オーストリア、帝都ウィーン。ハプスブルク宮廷。サリエリは皇帝ヨゼフ2世の音楽教師 でもあった。皇帝に音楽の才能は無かったが芸術を愛するこの君主はサリエリを厚遇して くれた。折しもウィーン大司教邸で(オーストリアはカトリックが優勢)パーティが催さ れ噂の天才モーツァルトが自作を披露するという。興味津々でサリエリが垣間見たモーツ ァルトは、しかし単なる下品な若造だった。凡人には逆立ちしても書けない素晴らしい音 楽と卑しむべきその人品とのギャップにサリエリは戸惑う。後日、皇帝はモーツァルトを 宮廷に招き、国立劇場で上演するオペラの作曲を依頼する。この時モーツァルト25歳。 実は19年前にも皇帝(当時は皇太子)と会っていた。そして皇太子の妹で後に仏王ルイ 16世の許に嫁ぎ後年王と共にフランス革命の露と消えたマリー=アントワネットに、少 年モーツァルトが「僕のお嫁さんにしてあげる」と求愛した話は有名。また王室と枢機卿 (教会)のパワーゲームについてサリエリが皇帝に奏上する件(くだり)は「サノッサの屈 辱」事件(1077)以来続く王室ハプスブルク家とバチカン(カトリック教会)との確執の 歴史を背景とするものである。さて音楽と云えば何事もイタリア流が上品(じょうぼん)と された宮廷、並み居るお歴々も皆イタリア人であった(サリエリもイタリア人)。作曲を依 頼する新しいオペラはドイツ語台本による『後宮(ハーレム)からの逃走』と決定。オース トリアもドイツ語圏だが、当時ドイツ語は芸術には不向きの下品(げぼん)と見なされてい た。翌年(1782)皇帝臨席の下、初演は大成功を収めるが、上流階級の保守的な感性の皇 帝の耳にモーツァルトの斬新な音楽はいささか理解を超えたものがあった。皇帝は過剰な 音(アリアの派手なメリスマ)を批判したが、モーツァルトは「一音たりとも不要な音は 無い」とキッパリ反論(世間馴れしたサリエリの答えとは好対照)。[以下、斜体表記部分 は 本日スキップ ] ある時、サリエリはモーツァルトの自筆楽譜を具(つぶさ)に見る機会があり、1カ所たり とも加筆・訂正のない紙面を信じられない面持ちで凝視。五線紙に向かう時、モーツァルト の頭の中では既に音楽が完成しているのだ!凡庸な自分が(これは謙遜、サリエリも実は 才能溢れる作曲家)苦吟して捻り出す音楽との圧倒的な次元の違いに愕然とする。こと音 楽に関しては斯くの如く紛う事なき天才モーツァルトも、然し音楽を離れた実生活では、 少ない社会経験が災いし金銭感覚に乏しいため、妻コンスタンツェとの結婚生活は悲惨を 窮めていた。 (芸術家には性格破綻者が多いと言われるが、他人との関わり合いの中で交渉 を重ねて妥協点を見付けるという、凡人にとっては当たり前の社会性を身に付ける機会が ないまま成人してしまう人が多いからでしょう) モーツァルトの次作オペラは『フィガロの結婚(1786)』。彼に敵愾心(てきがいしん)を抱く サリエリだったが、その素晴らしい出来映えには素直に脱帽(サリエリ、立派!)。しかし 驚いたことに皇帝はこの傑作オペラを前に大あくび。悲しいかな保守的な上流階級の人々 7/10 の授業迄に少なくともゴシック体表記語句程度は下調べしておくこと! に、この新しい音楽の良さは理解を超えたものであったのだ。モーツァルトとの圧倒的な 実力の差をただ一人思い知らされたサリエリだが、自作オペラの公演では皇帝から激賞さ れる。しかしモーツァルトからの評価は「まさしくサリエリのもの(流石に大人の受け答 えができるようになった)」という婉曲な批判。皇帝の賞賛は勝ち得たが、一流の芸術家た るサリエリには真実が分かっているだけにその心中は複雑であった。 一段と荒む生活をなんとか立て直そうとするモーツァルトに、大衆オペラの劇場主は「上 流階級よりも大衆こそが貴方の新しい芸術の真の理解者だ」と諭し新作オペラを依頼する。 こうして完成した『魔笛(1791)』は大成功を収めるが、病弱な体に鞭打ち徹夜で作曲を続 けた無理が祟り、上演中に過労で倒れてしまう。彼の健康を蝕んでいたのは病気だけでは なく、実は謎の依頼者から注文を受けていた『レクイエム』の作曲によるストレスが原因 だった(劇中ではこの謎の依頼をサリエリが仕掛けたことになっているが、真実は謎)。ま たステージ・ママならぬステージ・パパとしてモーツァルトの生涯の大半を精神的に支配 していた父レオポルドがトラウマになっていたとする説もある。 モーツァルトは、この仕事が「自分のための鎮魂歌(レクイエム)」になるかもしれないと 恐れ、完成の暁には自らの命が燃え尽きると考えていた節がある。病床でサリエリに口述 筆記を頼んで完成を急ぐモーツァルトだが (実際に手助けして筆記・補筆したのはサリエリ ではなくモーツァルトの愛弟子ジェスマイヤだったと云われている)その完成を見ること はなかった。 かつて全欧州を驚嘆させた天才音楽家の最期は斯くの如くあまりにも悲惨で、亡骸は貧民 共同墓地に埋葬され、墓碑銘すら残っていない。 物語を語り終えたサリエリ老人。聞き役の若い神父の頬に涙が光る。老人は「凡庸な者の 守り神」を祝福し、朝の洗面のため、神父を一人残し居室を去る。 (おわり) モーツァルトは、それまで音楽家の殆どが君主や教会に仕えることで生計を立て、ゆえに 音楽活動に制約を受けてきた過去と決別し、全ての権力から自由で独立した音楽家であり たいと願い、市民に生計を依存しようと(自作の興業・出版、音楽の個人教授)もがき続 けた最初の音楽家の一人です。しかし時代はまだ絶対君主制の世。彼ほどの天才を以てし ても自由な創作活動を実現するのは容易ではありませんでした。彼の理想が実現するのは、 彼の死とほぼ時を同じく(1789)勃発したフランス革命が拓く近代、即ち19世紀民主主義 社会になってからのことです。また劇中ではモーツァルトの天才ぶりを際立たせるために、 サリエリを凡庸な音楽家として描いていますが、実際の彼は作曲家として当時超一流であ り、また教育者としても来る19世紀を担う多くの若き音楽家たちを育て上げた偉大な人 物であったことを彼の名誉のために明記しておきたいと思います。劇中の大衆劇場の描写 に見られる通り、当時のドイツ(語文化圏)の一般民衆文化レベルはイタリアに遠く及ば ず、 「ドイツ文化至上説」を唱える後世の歴史家・評論家たちがその史実を封印するために サリエリの存在を貶(おとし)めてしまったことも是非知っておきましょう。 copyright 2014-2015 shoichiro toyama, all rights reserved.
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