キリスト復活の力

キリスト復活の力
エフェソ書の福音 2
キリスト復活の力
1:15-20a
第 1 回と第 2 回の間が随分あいてしまいましたが、今年の目標として、エ
フェソ書と使徒言行録を許されれば読み切りたいと思います。
最近、とみに感じることは、聖書に向かう時だけ何か意味のあることをや
っているという実感で、例えばパウロが上から与えられていたものは何だっ
たのか、このエフェソ書のこの頁で何を伝えようとしているのだろう……と
か、それを考え出すと燃えるわけですね。それ以外のことも、もちろん一所
懸命やりますが、燃えないで一所懸命やっているという感じです。
もちろん、何か人のために時間を割いて力になってあげたり、慰めてあげ
たりする時なども、燃えているような錯覚はありますが、どちらかと言うと
そんな時も何処かシラーッと自分を距離を置いて眺めているという感じで…
…多分、聖書に向かって燃えた続きが余熱みたいなものを持って続いている
んじゃないかと思ったりします。
新しい週を迎えて、私自身は、少なくともさきおとといの朝(元旦)より
はずっと新鮮な気持ちがいたします。それはもちろん、私たちの前にある主
の食卓が主な理由ですが、やはりここに集まられる皆さんが、同じ源から力
を受けて新しさを維持したい……という共通の目標を持っておられるからだ
と思います。
さて、パウロは今日の箇所の前半で、この手紙を受け取るエフェソやラオ
ディキアの教会の人たちのことをどんなに喜んで感謝しているか、その気持
ちを表します。
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3 行目にある「祈のたびごとにあなたがたを覚えて」という言葉は、「祈
りに覚える」という表現の元になった言葉ですが、これは祈りの時に何とな
なく諸君のことをフワーッと想像するよ……ということではなく、英語に
“making mention of you”とあるように、恐らく一人ひとりの名前を口に
して、具体的にあの人、この人のことを申し上げて祈っているという感じの
言葉です。今度の新共同訳では「祈りの度に、あなたの名前を口にして、絶
えず感謝しています。」と訳しています。
ところで、パウロは何を聞いてそんなに嬉しかったのかです。……それが
1 行目と 2 行目の内容です。
私ども誰でも、相手の幸福や幸運を聞いて喜びます。お子さんが入学試験
に見事パスして、目指す学校に入られた。良かったですね……と喜び合いま
す。また、みんなが心配していたお産が軽くて、元気な赤ちゃんが生まれた
……未熟児だけれど保育器に入れなくてすんだ……とかですね。先日もある
兄弟が、夜と昼が入れ替わって夜通し泣くのでかなわない……などと言って
いましたが、新しいお父さんも結構楽しんでいるのです。
新しい家をお建てになった。あるいは、一部分だけれども改築して近代化
なさった……そういうのを見せていだくのも楽しいものです。若いのによく
働いて車がグリーンの新車に変わった……などと言うのもあります。こうい
うことを私たちはお互いに喜び合う。これは本当に友人であるかどうかのバ
ロメーターみたいなものです。
しかし、この手紙を書いたパウロのように、相手の霊的な喜びをひそかに
喜んでいてくれる友は、そう何処にでもいるものではありません。キリスト
を仰いで芯から喜んでいる人を見る時に、福音の使徒パウロは遠くからでも
喜んでいてくれたし、人のために力になって生きる姿を見て、「ああ良かっ
た。神様、感謝します……」と喜んだのです。
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反対にパウロを悲しませた人がいたとすれば、……不幸や病気の知らせ、
事業の不振の噂なども、確かにパウロの胸を痛めたでしょう。けれども、仮
に繁栄して家族中無事でいても、どんどん生き方がこの世的になり、自分の
利益第一になって、キリストが現実性を失って行くような人があれば、パウ
ロは人知れず涙を流したことが、テモテ書などから覗われます。
15 節の言葉は、パウロがいつも心にかけていた小アジアの教会の人たちが、
確かに主イエスへの信頼を正味自分のものとして身につけたこと、またその
結果、同じ主を仰ぐ仲間を本心から大事に思うようになったことを表わしま
す。パウロはそのことを感謝したのです。
さて、こうしてパウロは一人ひとりの友人を思い出して感謝を捧げたわけ
ですが、その祈りの中で次の三つの事を神にお願いしたというのが 19 節まで
の内容です。初めて読むと、或いは何と抽象的な無内容なことを祈ったのか
と思うかも知れません。恐らくこういうことが具体的な幸福以上に具体的だ
ということは、かなり大人にならないと実感できないかも知れません。大人
に……ということは、自分の罪のことに気付くようになること、自分の中に
ある深い悲しみを実感できるようになることですが……
それまでは、やはり人間、段階がありますから……例えば中学校や高校の
生徒に無理にお祈りをさせても、今日も食事をありがとうございます。自動
車、怪我しないで運転して帰ってきますように。叔母さんの病気が早く治り
ますように。誰それ君が試験に受かりますように。それ以上の何かが出てく
る訳ないのと同じです。それ位できれば上出来なのです。満点上げてもいい。
ただパウロのように、人間が生きたまま死んで行くのを見たり、反対に死
んだ人間に命が吹き込まれるのを見たりした人の祈りは違います。彼は病気
が治るように祈らなかったわけではないし、友人の事業が好転するように祈
らなかったわけではない。また、そういう祈りに切実さを感じない冷血漢だ
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ったのではないと思うのです。病気のトロフィモのことを思えば心は痛んだ
し、トロフィモの奥さんのことも、子供たちのことも考えたに違いないと思
います。ただ、その切実さとは比べものにならない切実さで、相手の霊のい
のちを心配したのです。人は不幸には打ち勝てるが、もしキリストの影が薄
れて行くとすれば致命的です。だからパウロは全ての力の源がハッキリして
いるように、あなたの目が向くべきところにハッキリ向いているように……
と、それを祈ったのです。
17 節~19 節は、そのパウロの祈りの三つの内容を示しています。
17.どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓
示との霊をあなたがたに賜わって、神を深く知らせ、 18.あなたがたの心の
目を明らかにして下さるように祈る。
ここでは「知恵と啓示の霊を与えて下さるように」と祈っています。どん
な事態に立ち至っても、信仰的に対処できる応用力が知恵 wisdom ですし、
その中にある神の見とおしというか、意図を見せて頂くことが啓示でしょう。
それができるような霊的実力です。
もしそれができたら、具体的には問題がどちらに傾いても、勇気をもって
勝ち抜いて行けますが、それが無ければ、自分の願望の通りになった時だけ、
ありがたく思うに過ぎません。
ここで一番印象的なのは、神のお心を知り、神を深く知ることだけがその
源になるということです。私どもがこうして集まるのも、聖書と取り組むの
も、主の日の交わりを大事にするのも、結局は命がかかっているからです。
詩篇に「私が眠りこけて死んでしまわぬよう、私の目に光を給え」
(13:4)
という言葉がありますが、私は聖書の裏扉に記して、座右の銘としています。
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18b.そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなもので
あるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるかをあ
なた方が知るように祈る。
これは二つの角度から同じことを述べたものだと思いますが、心の目に光
をあてて明らかにして頂いた結果、何がハッキリ見えてくるかです。直訳す
ると「神の召しの希望、神の相続財産の栄光の富」です。ここは、今度の新
改訳が趣旨をよく砕いて表現していると思います。次のように訳しています。
神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受
け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか……それを悟らせてくださ
るように祈ります。
ハッキリ言って、単に美しい無内容な言葉で飾ってある……と見える人も
いるかもしれません。無理もないことです。初めは背伸びする必要はないと
思います。こういう希望や栄光の尊さは、先ず自分がいかに希望のない暗闇
の中の存在かを、長い時間をかけて体ごと思い知らされ、そこからキリスト
を仰いで、少しずつ身について行くものです。
それと、息の長い聖書の学びです。パウロは例えばローマ書の 8 章で、こ
の栄光をどんな風にいっているのか、何故その栄光がそんなに欲しかったの
か……。ヨハネは何を教えたか。それを真剣に読み続けるか、それとも聖書
を閉じたまま、受洗時の浅い感激のストックで間に合わせて行くか……。
それによって、無内容、無感動の悲哀、美辞麗句しか見えない悲哀と……、
この中から自分にとってリアルな響きが聞こえてくるか……がハッキリと分
かれてきます。
ですから、この世の人たちが、「あぁ、日曜日に暇人がよくあんなことや
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つてるなぁ……」と言うようなものの中に、よく考えてみると、やはり命が
かかっているのです。「あんなことにエネルギーを割かなければ、もっとこ
んなことも楽しめるのに、金も儲かるのに、馬鹿だなぁ……」という声もあ
りますが、心ある人は案外、命懸けで教会生活をしているのです。
19.また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとって
いかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈ってい
る。 20.神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみが
えらせたのです。
必要上、20 節の途中まで読みました。ここは関係代名詞でつながっていて、
私たちの中に神が住まわせて発動しておられる力は、何と同じ力かを示して
いるものです。
活動とか働くと訳されているのはという名詞,とい
う動詞で、発動、発揮という感じの言葉で、エネルギーという日本語はここ
から来ています。
これに対し、私たちの中に込められている力、キリストの中に父が働かせ
た力という、その「力」の方はという言葉ですが、ダイナミックと
かダイナマイトという語はここから来ています。dyne という言葉は、物理学
の力の単位です。この(英語で dyne)という字は、秘められた無限の
可能性を指す言葉です。あのダイナマイトという単語も多分、あんな小さな
棒みたいなものの中に、岩を吹き飛ばすような可能性が静かに秘められてい
ることをこの名で表したのでしょう。現代なら濃縮ウランの方がずっと
dynamite と言えるのでしょうが、ノーベルの時代にはなかったのです。
キリストを死人の中から復活させるときに、神が発動なさってエネルギー
となさったのと同じ可能性が、この私の中に込められている。それ
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だけではなく、この私の中に実際にじわじわと発動させていて下さる……と
すると、これはまるで原子炉です。このことの意味が本当に分かったら、ち
ょっとやそっとのことで潰れたり悲観したはりしない。
このことを告白しているのが主の祈りの結びです。あれはマタイ伝にはな
い付けたりですけれど、「王権と無限の力と栄光は、確かに神様がお持ちで
す」。For thyne is the kingdom and the power and the glory forever. あれ
をつけた人たちは、このことが分かっていたのです。主の祈りを一緒に言う
のは嫌だという精神は、ある意味尊いわけで、キリストの教会派の伝統みた
いにして一部にあるものですが、あれは讃美歌を一緒に歌わされるよりはず
っと良いですね。私は一番好きな讃美歌や聖歌よりは抵抗感はないのです。
聖書純度 75 %ですし、後の 25 %は聖書の用語から取った聖書の信仰です。
今日はここに「主の祈り」の改訂版を持ってきました。
天にいます 我らの父よ、あなたの聖なる名を輝かせて下さい。
あなたの王権の支配を実現して下さい。
あなたの意志が天上でと同じくらいこの地上にもなるのを見させて下さい。
私たちの一日分のパンを 今日お与え下さい。
私たちの罪の負債を どうかお赦し下さい。
私たちも人の負債を赦しておりますから。
私たちを罪の誘惑に引き入れることをなさらず、
悪の手から私たちをお救い下さい。
王権と無限の力と栄光は
確かにあなたの御手にあります。 アーメン。
1981 年の改訂版です。私は、最後の所は式文のようにして、あまり意味を
考えず、ここは聖書ではないからどう訳しても良いと思って訳していました。
しかし、今回読んでみて、その無限の可能性はあなたのものです。そしてエ
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フェソ書によれば、その力はキリストを死から復活させるときに使われた力。
そして、その同じ力を我々に込めておられるということをこの「主の祈り」
を祈る時に思い出したいと思います。
最後に、私は年頭の決心などはしないタイプですが、週頭の決心はします。
毎週、なし崩しに決心をしますが、もし私たちが 1981 年の決心をするとすれ
ば、一つの提案ですが、この主の日の交わりを大事にしようという事です。
私たちはある意味で、他の何処の教会と比べてもこれを大事にしてきたと
思います。人数は少なくても、家族で集まってここで交わりを持ち、そして
聖書の学びに集中するということ。その比率から言えばどんな教会にも引け
を取らないと思います。私たちがもし、そのことを神に感謝することができ
れば、また今年の一つの目標として、この交わりに集まるために、ここに集
まったときの状態を霊的に一番新鮮な状態に保つために、語る者も聴く者も、
賛美する者も皆、そのために努力しようではありませんか。
私は日曜日の朝のために、水曜日くらいからいつも考えています。内容だ
けではなく、体調の調整もです。これはジャンプの時の助走のようなものだ
と思います。そして私たち一人ひとりも主日の交わりの時を大切にするため
に、その努力をしてみる価値はあると思います。このことを年頭の決心にし
たいと思います。
(1981/02/04)
《研究者のための注》
1.15 節の「耳にし」ですが、このという表現から、エフェソ書を受け取った
教会の人たちは、パウロと一度も会ったことのない人たちだとする説があります。コ
ロサイ教会なども訪れたことがない訳ですが、コロサイ書 1:4 に使われている表現と
同じだからというのがその理由です。私は当たらないと思います。理由は第一テサロ
ニケ書 3:5-6 等を見ると、あれだけつながりのあったテサロニケ教会に対しても似
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たような言い方をしているからです。
2.17 節 2 行目の「主イエス・キリストの神」という表現から、キリストの神性を否定す
る解釈があります。「キリストを神と告白してはならない」と言うのです。私はこれ
も当たっていないと思います。確かにパウロは普通「主イエス・キリストの父なる神」
と言いますし、「主イエス・キリストの神」と言うのはここ特有です。しかし、パウ
ロはこの言い方で、イエス・キリストが人間として神を仰いだとか、従って彼は神で
はない被造物だということを言っているのではなく、イエス・キリストを通して示さ
れた神という意味での属格形だと思います。
3.15 節「あなた方の信仰」これはちょっと変わったフレーズになっています。英語でも
your faith としか訳しようがないのですけれど、これはギリシャ語の普通の言い方の
でもなく、でもなく、
となっています。ローマ書 1:15 ののなどと同
じ形ですが、直訳すると「あなた方の所にある信仰」「あなた方が摑んでいる信仰」
という位の意味になるのでしょうか? 本文中では「正味自分のものとして身につけた」
というような言い方をしました。
4.17 節終わりの「神を認めさせ」ですが、これは「彼を深く知る
こと」です。はより強い言葉です。本文中では「神を深く知らせ」
としました。これはの付いた具格ですから、「神を深く知ることで、知恵と啓示
の霊を与え」です。言い換えれば「神を深く知る知識という形で、それをお与えくだ
さる」となります。本文中「神のお心を知り、神を深く知ることだけがその源になる」
と言いましたのは、この趣旨を出そうとしたものです。
5.18 節の「明らかにし」と結び付けて引用した詩篇の言葉「私が眠りこけて死んでしま
わぬよう、私の目を照らしてください」は、詩篇 13:4 です。LXX では 12:4
のギリシャ語から訳しました。
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