東洋英和女学院・東洋英和女学院同窓会 追悼記念日礼拝 (2010 年 10 月 1 日 新マーガレット・クレイグ記念講堂にて) 説教 「天使なるかな」 聖書:コリントの信徒への手紙一 15 章 12~20 節 東洋英和女学院 中高部聖書科教諭 牧 師 高橋 貞二郎 今日、私たちは、過ぐる日この世の旅路を終えて、天に召され た方々のありし日を偲び、ご遺族ご近親、ご友人として歩んでこ られた方々に主の慰めを祈るためにここに集ってまいりました。 先程、森高ホサナ先生が永眠された方々の名簿を読まれました ように、今年も多くの方々を覚えることとなりました。皆さんの 中にもお名前をご覧になられ、この学院で共に礼拝されたこと、 机を並べて共に学ばれたこと、楽しく語り合った日々、また行事 などに一緒に参加された時のことを思い出しておられる方がい らっしゃると思います。 愛する家族を失う、仲間を失う、これはとても辛く悲しいこと です。 このような悲しみと寂しさの中にあるご遺族、ご近親、そして 私たちに対して神の言葉である聖書はどのような慰めと希望を 与えるのでしょうか。 具体的に、今日の聖書のみ言葉を見る前に、一つの詩を紹介し たいと思います。「そは 天使なりしか」という題の詩です。戦 1 後間もない頃、10 歳になる娘を天に送った牧師が書いたもので す。 「そは 天使なりしか」 1 国窮し、家窮したる戦後 後楽園に落葉を拾いに行く 風呂敷に包みたる枯枝を背負いたる わが後につき従えるもの そは天使なりしか 2 貧しけれども 朝な夕なの祈りして 相むつみたる 食卓のその一人 そは天使なりしか 3 算術は不出来 読み書きも のろかりし 復習を強いられては 泣きしもの そは天使なりしか 4 いただきし玩具 お土産 すぐお友達にあげてしまい お使いにゆくのが 好きなりしもの そは天使なりしか 2 5 愚かなる父の 説教に苦心しつつ 想ならざる時 「お祈りなさい お父ちゃん」と 天よりささやくもの そは天使なるかな この詩を書きましたのは、島村亀鶴牧師です。東京・飯田橋に 日本基督教団 富士見町教会がありますが、その教会の牧師であ りました。この島村牧師には、ハンナちゃんという娘さんがいま した。 1947 年、昭和 22 年 戦後間もない頃のことです。このハンナ ちゃんが結核にかかってしまいます。今なら良い治療を受けられ たのかもしれません。ですが当時は物もなく、現在のような治療 は受けられませんでした。ハンナちゃんは家族の必死の看護にも かかわらず、だんだんと弱まり、ついに天に召されてしまいます。 享年 10 歳でありました。 家族を天に送ることは誰にとっても辛いものです。牧師であっ ても例外ではありません。島村牧師は、ハンナちゃんの死をとて も悲しみます。その悲しみを俳句や詩にして残していますが、そ のひとつが先ほど読みました「そは 天使なりしか」という題の 詩でした。 一瞥すると、この詩は、ただただ悲しみを訴えているだけの詩 のように思われます。ですが、繰り返してよく読むと、この詩に は島村牧師の復活の信仰が溢れており、読むものに慰めと希望を 与えます。 特にそれは、最後の部分に現れています。最後の部分をもう一 3 度お読みします。こう書かれていました。 愚かなる父の 説教に苦心しつつ 想ならざる時 「お祈りなさい お父ちゃん」と 天よりささやくもの そは天使なるかな この部分です。島村牧師は、教会の教職ですから、毎週毎週礼 拝で説教をいたしました。礼拝で説教することは簡単なことでは ありません。準備の段階で話の内容が、なかなか思うようにまと まらない時もあったのだと思います。 そんな時に、天から「お祈りなさい」という娘さんのささやく 声が、心の中に聞こえてきたのでありましょう。ここに、ハンナ ちゃんは、死んですべてが終わったのではない。神様のみもとで 平安に天使のようになって過ごしているという信仰があらわれ ています。 私は、島村牧師のこの詩を読んで、主イエス・キリストの言葉 を思い出しました。福音書の中に主イエスがユダヤ教の指導者た ちと復活について問答をする場面が書かれています。 その中で、主イエスは「復活の時には・・・天使のようになる のだ。」(マタイによる福音書 22 章 30 節)とおっしゃっておられ る箇所があります。 亡くなった娘に対して「そは 天使なるかな」、「あなたは、天 使なんだね」と語られる部分は、この主の言葉を思い出させます。 恐らく島村牧師の心の中にも「復活の時には・・・天使のよう になるのだ。」という、この主の言葉があったのではないでしょ うか。 4 ところで、今日、お読みいただいた聖書の箇所に目を向けてい ただきたいと思います。今日の聖書の箇所には死者の復活のこと が書かれていました。 2000年前、主イエス・キリストは、私たちが犯した罪の罰の身 代わりとして、私たちのために十字架につけられて死なれました。 ですが、死んだままではありませんでした。聖書によれば三日 目に復活されたのです。そして、弟子たちの前に現れたのです。 死者の復活などないと思っていた弟子たちは、復活されたイエ ス・キリストを見て、とても驚き喜びました。 その後、弟子たちは主イエスの復活の証人として全世界に出て 行きます。そして、神が、主イエスを復活させられたように、私 たちをも復活させてくださると伝えたのでした。このメッセージ は、愛する人を天に送った全ての人たちに大きな慰めと生きる勇 気を与えました。 ところが、しばらくたって「死者の復活など信じられない」と 考える人たちが教会の中に出てきたのです。 主の十字架と復活は、キリスト教の要となる事柄です。これを 抜きにキリスト教は語れません。にもかかわらず復活を否定する 人々が教会に出てきた。これは、キリスト教会にとって一大事で す。 そこで、復活した主イエスと実際に出会った使徒パウロが、死 者の復活について書き記し教会に手紙を送ります。その一部が、 今日お読みいただいたところです。この箇所で、使徒パウロは 「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているの に、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言って いるのはどういうわけですか。」 と問いかけます。 その後、もし復活がないとすれば自分たちの宣教も信仰も無駄 になってしまう、むなしものになってしまうということを伝え、 5 最後に「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りに ついた人たちの初穂となられました。」という言葉をもって締め くくります。 復活は、今も昔も誰にとりましても、なかなか信じがたいもの があります。しかし、実際キリストは死者の復活の第一号となっ たのです。パウロはそのことを人々に想起させるのです。 パウロからこの手紙を受け取った人々は、改めてキリストの、 主の復活を思い、力強く希望を持って歩み始めたことと思います。 さて、今日ここに集った皆さんに申し上げたいことがあります。 それは聖書に書かれている通り私たちも復活し、復活させてくだ さった神をほめたたえる時がやってくるということです。過ぐる 日、天に召された方もみんなです。ですから、たとえ愛する人を 天に送ったとしても、その別れが永遠の別れではないのです。 よ し こ 先日、聖トマス大学教授でいらっしゃる高木慶子先生が書かれ た本を読んでおりましたら「天国の見取り図」という題の話が書 かれていました。 高木先生は、カトリックのシスターでもあり、ターミナル・ケ アの中でも「心と魂のケア」にかかわられてこられた方です。 ある日、そんな高木先生のところへご友人から末期癌の患者さ んを見舞ってほしいという依頼がありました。その患者さんは、 家庭思いの父親で、奥様を愛され、家族を大切にされてこられた 方でした。それだけに「死んだらもう家族に会えなくなってしま う」と深く悲しみ続けているというのです。 高木先生がお見舞いに行かれると、患者さんは案の定「先生、 死んだらどうなるんですか。私は家族の者ともまた会いたいんで す。どうなるんですか。」と尋ねてこられたそうです。 難しい質問です。ですが、この方にとっては切実な問題です。 6 これに対して高木先生は、アンデルセンの童話『マッチ売りの尐 女』を使って答えられたそうです。 童話や絵本は、わかりやすい言葉と内容で、人間にとって最も 大事な生や死の問題を解き明かしてくれることがあります。高木 先生は、そのことを経験的に知っておられました。そこで、本を 持ってお見舞いにいかれたそうです。 さて、先ほどの患者さんの話に戻りますが、高木先生は『マッ チ売りの尐女』の最後の場面が挿絵になっている美しいページを 患者さんが見えやすいように傾けながら、次のようにゆっくりゆ っくり読んだそうです。 「尐女はもう一度、マッチをかべでこすりました。その光の中 に、おばあさんが、とても優しく、幸せそうに立っていました。 『おばあさん!』と、尐女は叫びました。 『ああ、私を一緒に連れて行って!』。尐女は素早く束になっ ていたマッチの残りを全部すりました。マッチはたいそう明るく 輝き、真昼のようになりました。おばあさんは小さい尐女を腕に 抱えて、うれしそうに輝きながら高く高くとびました。空の上に は、寒さも、ひもじさも、心配もありませんでした。ふたりは、 神様のそばにいたのでした」 読んでいる間、患者さんは瞬き一つせずに絵本を見入り、一つ の言葉さえ聞き逃すまいと、全身の神経を集中している様子でし た。読み終えた後、静かな沈黙の時が流れました。それから「本 当ですね。信じていいんですね。家族にまた会えるんですね。」 と繰り返し、念を押されたということです。これに対し高木先生 は「私は死んだ体験がありませんので、死後のことはわかりませ ん。体験があればあの世の地図でも書いて差し上げますが・・・。 しかし、私自身もこの物語を信じております。私の最期には、今 は亡き両親が迎えに来てくれ、神様の所へ案内してくれると信じ 7 ております。あなたの時にもおじいさんかおばあさんがお迎えに 来てくださり、またあなたの奥さんやお子さんの最後がくれば、 今度はあなたがお迎えにこられるのではないでしょうか。そう考 えますと家族との再会もできますね。」 と答えられました。そうしますと患者さんは 「ありがとうございました。本当に安心しました。」と、安堵 で胸をなでおろすような溜め息をつき、にっこりと微笑まれたそ うです。 それから間もなくして、この方は静かに天国へ旅立って行かれ ました。 奥様の話によりますと、この方は旅立つ前に『マッチ売りの尐 女』の物語からイメージして、自分なりの天国の見取り図を書か れたそうです。それは、劇場のようで先端にステージのようなも のがあり、その横に「神」と書いてあったそうです。その周りに は席が並んで置かれ、入り口から一番近い席の右端に黒い印がし てありました。 その「天国の見取り図」を見せながら、ご主人は奥さんにこう 言われたそうです。 「お前があの世に来る時には僕が迎えに来る。しかし、もしそ れに気づかずにいて迎えに来なかったなら、天国の入口から入っ て一番後ろの端の席にいる自分を探してくれ。子ども達の最期に は二人で迎えに行こう。」 この方は、そのように言われ、死をも乗り越える復活の希望を 持って平安に召されたということでした。そして、この復活の希 望はご本人だけでなく、ご遺族、ご近親、周りの人にも慰めを与 え、新たな一歩を踏み出す勇気を与えたのでした。 私たちの肉体はいつの日か弱り、朽ちてしまうかもしれません。 そして目で見ることができなくなってしまうかもしれません。で すが、だからと言って全てが終わってしまったわけではありませ 8 ん。私たちは天使のようになってよみがえらされるのです。そし て、先に召された愛する人と共に復活させてくださった神をほめ たたえる時がやってくるのです。 今日、与えられました聖書のみ言葉から改めてそのことを心に 留めたいと思います。そして、希望を持って共にみ国への旅路を 歩み続けてまいりたいと思います。 9
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