『国防政府査問録』に見る籠城下のパリ市民の精神状態 <そのⅡ

『国防政府査問録』に見る籠城下のパリ市民の精神状態 <そのⅡ>
横浜市立大学名誉教授 松井道昭
シュヴロー (1872 年 7 月 20 日の証言)
Julien-Théophile-Henri Chevreau、1823-1903 年。熱烈なボナパルト派の行政官。1849 年、大
統領ルイ=ナポレオンによりアルデシュ県の知事に任命さる。12 月 2 日のクーデタの後、内務省
事務次官になり、1853 年には国家参事、同年のロワール=アンテリウ-ル県知事、64 年にローヌ
県知事を歴任して後、1870 年にセーヌ県知事に就任。同年 8 月のパリカオ内閣の内務大臣を兼任
し、パリ防衛の準備に当たる。1885 年、アルデシュ県選出のボナパルト派代議士。
トロシュが政権を掌握した理由
ことのほか心配になった私は自分自身で世論の状態[訳注:九月四日革命当時の世論状態]を
把握するために大通りのほうに向かった。そこでの興奮は絶頂に達していた。警官は暴行の対象
となっていたが、彼らは平然とした態度を持し、軍隊は法に従っていた。私が夜の会議召集を
知ったのは 11 時頃、本省に戻ったときである。この召集令に私は非常に驚いた。会議は日曜日
の朝に開催され、われわれの最終的決心をするのに 8 時間も手間取っていた。この夜の会議の詳
細については、周知であろうからここでふれないことにしよう。
その翌朝、私はテュイルリー宮に入ろうとしたとき、トロシュの到着を目撃した。いつも同じ
考えに従いつつ、私は大急ぎで、まだ階下にいて会議に出席していない皇后のところに赴き、彼
女に、閣僚たちに構うことなくわれわれを待機させたまま、直ちに将軍を引見することを勧めた。
なぜなら私はこの引見を最も重要なものと考えていたからである。
軍隊の撤収した町における事件の、この緊迫した局面においてトロシュ将軍が博した人気はわ
れわれにとって不可欠のものとなった。皇后はわれわれに向かって繰り返し、戦場であまりに多
くのフランス人の血が流されており、自分を守るためという理由でパリにおいてたった一滴の血
たりとも流されるのを欲しないと言っていた。これは、トロシュ将軍がこの道徳的な力 - 彼は
しばしばこう語っていたが - を利用するまたとない好機であった。その道徳的な力をわれわれ
の職務に完全に奉仕させたという点で、彼はとくに重要な人物であった。私はどうかといえば、
9 月 4 日、トロシュ将軍が軍隊と国民衛兵の首脳部を均一化していたならば、暴動と立方院の間
で国の代表は守られたであろうことを確信していた。(第1巻 ,p. 267)
敗北の苛立ちのなかで左翼の煽動が民衆の間に浸透
われわれにとって初めての経験である、身の毛のよだつようなスダンの大敗北 - ストラス
ブールやメッスの開城はまだのことで、50 万の武装兵士はまだパリで降伏に追い込まれるのを
経験していなかったから - が人々を深く悲しませ動揺させたことは議論の余地がない。当時、
スダンの軍隊がどのような状態にあったかは知られておらず、同軍が防御するに物理的不可能な
状態におかれていることも知られていなかった。フランスの軍の全体が捕虜となることなどは
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まったく思いもつかないことのように思われた。
このような愛国的思いの支配している中で、パリ市民の間に軽んじるわけにはいかない苛立ち
の感情があったことは明白な事実。けれども、ある人々やある党派が祖国の大敗北の機会をとら
え、彼らの憎悪・情熱・利害のために利用したこともまた明らかである。これを疑う余地はない。
ヴィレット蜂起が前奏となった。蜂起が生まれたのはデマゴーグたちの党派の奥底においてであ
り、それを指導したのは、党派の堕落した輩であった。彼らほどの勇気ももたない、ずっと悪賢
い連中もいた。彼らはこう考えていた。すなわち、帝政はライヒスショフェンの敗北[訳注:ア
ルザス戦線の戦場、仏軍が緒戦で敗退したところ]によってはまだ十分に弱体化していない、し
かし、今ひとつ新たな敗北が帝政を揺するならば、それを利用して帝政を転覆することはできる
であろう、と。この真実は疑いようがないと思う。毎日、政府の許に届けられるあらゆる警察報
告から、こう結論づけられるのだ。しかし、実際、これらの忌まわしき計算が実を結ぶかどうか
は発起人には依存しない。もしわれわれが勝利をおさめていたならば、心配するに及ばなかった
であろう。帝政に対して最も敵対的な者、つまり帝政の崩壊が国家的不祥事やプロイセン軍侵入
の恥辱の慰めとなったと言って憚らないような連中は、上辺だけの愛国的歓喜のうらで心底の
忌々ましさと彼らにとって最も大切な希望とを隠している輩にほかならない。2度目の、そして
大きな敗北が生じたなら、状況は非常に深刻なものとなったであろう。私が先程ふれたように、
状況を制するためには、祖国愛がある者において怨恨や個人的利害に勝っていること、他方、最
後の瞬間においてすら帝政政府に対する裏切りがまったくないということが必要不可欠であった。
ところが、これらの条件のいずれも現れなかった。このことが九月四日の説明となる。これこそ
が真相であり、否定すべからざる事実である。(第1巻, p. 272)
トロシュ将軍 (1871 年 7 月 1 日の証言)
Louis Jules Trochu、1851-1896 年。アルジェリア遠征、クリミア戦争、イタリア戦役に従軍
した職業軍人。1866 年将軍に昇進。1867 年『1867 年の仏軍』を著して帝国軍隊の無秩序ぶりを
暴露しスキャンダルを引き起こすが、このことのゆえにパリ市民には人気を博す。1870 年 8 月
17 日にパリ総督に就任。九月四日革命後の臨時政府では政府首班を兼任し、軍事・民事の両方
の大権を帯びてパリ攻防戦において最高の責任をもつ。目立った攻撃戦を仕かけず、「私には考
えがある J’ai un plan !」と言うばかりで、そうした消極的姿勢が市民の失望を買う。1871 年 1
月 22 日、パリ暴動の責任をとって辞職。国民議会選挙で議員に選出され、オルレアン派に属す
る。1872 年に引退。
開城後のパリはきわめて不穏であり、政府移転は危険であった
われわれがボルド-を離れるとき、私はティエール氏を訪問し、次のように言った。
「長官殿、私は議会所在地の移設に賛成票を投じました。というのは、国家の長であり、かつ
責任者であるあなたがボルド-では統治できないとおっしゃったからであります。しかし、ヴェ
ルサイユやパリでは統治できるとは思わないでください、内戦になりますよ。ボルド-議会の
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ヴェルサイユへの移設計画を検討する一方で、ヴェルサイユからボルド-へ戻す計画も検討され
ますように」と。ティエール氏は私の発言を遮ってこう言った。
「おお!将軍殿、君はまちがっています。私がこうして君と話しているときでさえ、喜んで大
砲を引き渡そうとするモンマルトルの謀反人と、われわれは交渉を続けているのですよ」と。こ
の発言こそ役にたったのである。
私は彼に次のように返答した。
「長官殿、この希望を受け入れさせることは私の役目ではありません。私はパリを知り過ぎて
いるのです。私はそこの人々の精神状態、国民衛兵を十分に存じておりますし、軍隊がどんな状
態にあるかも知っております。仕事からまったく遠ざけられ、銃を枕に5カ月も生きてきた大衆
がそこにいるのです。戦闘を挑むことなくそこの支配者たらんとすれば、あなたは絶対に間違っ
ているのです。あなたの軍隊はパリでの戦闘の準備ができていないのであります。」
諸事実はこれらの予測の確かさを余すところなく示した。(第1巻 ,p. 282.)
パリは難攻不落の要塞、デマゴギーは帝政下からずっと続けられていた
この点に関して私は絶対的に確信している。大成功すなわちパリ籠城の名誉とは、4 ヵ月半も
の間、暴力的内乱闘争の光景や奨励を提供することなくプロイセンの努力に抵抗することができ
たということである。とくに 10 月 31 日、デマゴギーの物質的力を制する精神力をば、私がそこ
に創造したということを敢えて言おうと思う。もしパリが補給を受けることができていたなら、
私はおそらく無期限にもちこたえたであろう。なぜなら、家屋と引っ込んだ街路の迷路を有する
城壁は容易に破れないであろうから。
明らかにデマゴギーがそこで組織されていた。しかし、それはまちがいなくずいぶん前からそ
うであった。パリにおけるデマゴギーの組織化を、国防政府閣僚の全部ないし一部が加担したか
らとするのは、大きな誤りであるばかりか、大きな不公平でもある。デマゴギーの組織化は諸君
のすべてが知っているように、ずっと前から始まっており、デマゴギーは 20 年間の帝政を通じ
て巨大な力を獲得したが、それは、幾つかの事件によって甚だしく、かつ直接的に増幅させられ
たのである。たとえば、同盟許可に関する法律がそうである。同盟に関する法律によって、そし
て本物の政治団体になった相互扶助組合によって、さらにデマゴギーに対するあらゆる甘言等々
によって、帝政政府はいつの日か己れを打ち壊すにいたる一つの力の基礎を与えた。この問題に
ついて、パリのデマゴギー状態に関するすべての問題に明るい メットタル Mettetal 氏に尋ねて
みよ。Mettetal 氏は私の前で完全に説明し尽くしたし、私は前々から以下のことを悟っていた。
すなわち、サドヴァが用意したところの 1870 年の戦争という事実によって、帝政が危機に瀕し
なかったとしても、大衆の事実-帝政が国家に占めるべき地位を、フランス社会において占める
べき大きな力を与えてきた-によって、帝政はいつの日かまちがいなく転覆されたであろうとい
うことを。(第1巻, pp. 286-287)
九月四日の革命は自然発生的に生じた
[質問:ガンベッタと革命派の間に共謀があったのか?]
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この質問に対し、また同じ主題に関する他のすべての質問に対して、私は何度も回答したこと
と思う。しかし、最後にもう一度だけ、内容は変えることなく形式を変えて答えることにしたい。
まず最初に、何ぴとも意図して九月四日の革命を起こしたのではないということを繰り返して
おきたい。革命は、連戦連敗の挙句に大敗北したというニュ-スがパリに到着したことにより、
不可避的にかつ打ち勝ちがたく、まったく自然に生起したのだ。それは「皇帝一人を廃位し」、
したがって帝政を廃絶することになったのだ。ところで、なぜ共和政なのか?と、人は問う。私
には、当然すぎる物事に人が驚いているように思えてならない。
この危機の最中に、いったいだれが帝政政治を通すために、ブルボン派だ、オルレアン派だと
いった態度を示すであろうか? 否、絶対にできないことだ。では、何が残っているのか? 共
和政あるいは煽動的無秩序のいずれかである。それはあまりにも明瞭なことだ。(第 1 巻 ,p.
288)
国防政府は合法性を欠いており、これがすべての無力・無為の根底にある
これらの不純分子から、なぜ国民衛兵を隔離しなかったかという疑問についていうと、私はす
でに答えたことであるが、こう言いたい。すなわち、これをなすためには、権力が確立され尊重
されていること、そして、その権力が、信頼できる軍隊によって支援された強力な警察力を行使
しうる状態にある必要があった、と。換言すれば、当局の命令は承認されていなかった。ところ
で、このような承認は国防政府には一貫して欠けていた。
同じような状況下におかれれば、諸君は正常でありえたであろうか? 籠城が終わったとき、
市行政の先頭に立っていたのは、ガンベッタ氏によって任命された区長ではない。彼らは、その
多くが秩序のために身を捧げたところの、選挙で選ばれた区長であった。軍隊はヴィノワ将軍に
よって指揮されていたが、もはや外部で敵と対峙していなかった。こうした状況下で、どのよう
にしてデマゴーグたちが大砲を奪い取り、3 月 18 日を準備・実行するのを人は防がなかったの
か? なぜだ? ―それができなかったからである。当時の政府は前の政府と同様、必要な手段を
欠いていた。諸君に知ってもらいたい原因と結果とはこれである。私は何度も繰り返している。
なぜなら、諸君の面前で私がこれらの事件について語って以来、つねに同じことを述べてきたか
らだ。
人はわれわれに言う。「何らかの基準に従って武器を配分する必要があり、また何らかの基準
に従って食糧を分配する必要があった」と。
しかし、諸君はパリにはもはや行政らしきもの、警察らしきものしか残っていなかったことを
忘れている。ところで、パリについていえば、強力な行政組織、強力な警察組織、多数の正規の
守備隊は存在しなかったのであり、諸君のだれもが知っているように、平時でさえ、命令に責任
をもつ者は皆無だったのである。
帝政下では、7万人の守備隊がおり、優秀で訓練の行き届いた警察官がいた。警察は多数の秘
密警察のほかに、パリ全体に散らばった 11,000 人の制服警官を従えていた。彼らは元軍人、とり
わけしばしば下士官のなかから選ばれた。ひとことでいえば、彼らは精力的で体躯のがっちりし
た男たちであった。これらの警察官は 9 月 4 日に姿を消した。生命の危険を避けるために彼らは
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パリから追放されたのち、軍団に編成されて戦闘において華々しい活躍をした。しかし、彼らが
失踪したのち、何が生じたのだろうか? それは、通りが大衆の自由になったことであり、裁判
所がもはや機能しなくなったことであり、世論・風俗・公衆衛生などに関する機能がほとんど停
止したということである。
われわれは何百人もの警察官を保持していた。部下がよき意思をもつことを自慢していた ケ
ラトリ Kératry 氏、アダム Adam 氏、クレッソン Cresson 氏は彼らの中から、自らの手で粛正し
た部隊を引き抜いた。とくに、類例を見ない困難な使命を献身的かつ精力的に果たした Cresson
氏は、その数を増やし武装した。しかし、これだけは警察ができたことにはならなかった。(第
1 巻, pp. 288-289)
軍法会議が機能しなかったのは、政府の権威がなかったからだ
したがって諸君もご存じのように、武器や食糧を分配するためだけでなく、軍事裁判そのもの
を開催するためにも、政府の権威はあらゆる支えを欠いていたから、万一、極悪人が逮捕される
ことがあっても彼らに有罪判決を言い渡すことはできなかった!
私が諸君に思い出していただきたい、さらに驚くべき事実がある。
軍隊の訓練を維持するために、そしてパリで、とくに郊外で-事実上、国民衛兵とあらゆる種
の不正規兵による略奪に絶えず晒されていた-郊外で生じていた深刻な無秩序状態を防止するた
めに、私は5度の軍法会議を催した。その軍法会議は、諸君の眼から見ても明らかに暴力的と思
われる法律を適用しなければならなかった。同会議は政令の形で「有罪か無罪か」というたった
2つの問題のみを解かねばならず、それは当然のことながら「死刑か放免か」という2つの命令
にいたるのである。その中間の判決がありえなかったのである。有罪の場合、判決を受けた者は
法廷内において銃殺隊の手で直ちに銃殺された。欠いているのは不服従の場合ではなかった。
ところで、われわれは籠城の全期間を通じてただ一度だけ死刑判決を下したことがある! 有
罪判決を受けて処刑されたこの男は海軍歩兵隊の兵士であり、彼はロニー要塞の近くで敵を通過
させようとし、脱走の現行犯でつかまったのである。
わが軍法会議でわれわれがんなしえた唯一の処刑とはこのようなものである! 以上のことか
ら諸君は、政府が裁判から、たとえそれが軍事裁判であっても、裁判から期待できた協力手段が
どんなものであったかが分かるだろう。それはいわば、毎日外敵と戦っている最中で、内部の敵
に対し武装解除しているようなものだった。(第1巻, p. 290)
すべての国民衛兵が不穏な動きをしたのではない
くり返しになるが、パリで準備された民衆煽動的革命のすべての計画はこうした性格 [訳
注:革命派はいちはやく報道機関・印刷所を押えること]をもっている、デマゴギーは 10 月 31
日においてはきわめて弱体であった、と私は見ている。なぜなら、それは日没にいたるまではそ
の場を制していたが、それを利用することができなかった。それは大胆さがなかったからではな
く-大胆さは十分だった-、数と組織がなかったからである。私が外で、敵と対峙する形で、組
織されたすべての部隊を組織的に指揮していたことを忘れてはならない。3 月 18 日を目指す民衆
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煽動は前々から、しかも非常に強力に準備されており、戦争の終結したのちようやく日の目をみ
たものだ。民衆煽動は、牙城と強力な砲兵隊をもつところの蜂起の中核を形成した。人はいつも
ベルヴィルの大隊を引き合いに出す! なるほど、腕利きの大隊が存在したし、完全にカリエル
Callier 将軍の掌中にある大隊長たちがいた。将軍は籠城の期間中ずっと、がっちり慎重に、しか
も巧妙にベルヴィル地区をおさえていた。彼は司令部につきっきりで片時も離れなかった。この
司令部は、非常に手を焼いた住民の真向かいにあった。だが、一度として謀反の兆しは表われな
かった! 思い違いしないでくれたまえ。パリのなかで最も悪質な国民衛兵のなかにも最良のグ
ループがいたということを。私は諸君のために、驚嘆に値する一例を引こうと思う。諸君に知ら
せるために私が今いる見地からのパリ籠城の全てを諸君に明らかにするこの物語に耳を傾けよ。
全部が全部労働者から成るゴブラン大隊は指揮するのにたいへん骨が折れ、私はつねに警戒し
ていた。彼らは選挙によって サピア Sapia 氏を隊長に選んだ。彼は没落した由緒ある家系の出
で、パリでもっとも危険な人物の一人であった。(10 月 31 日のときと比較すると計画が杜撰で
孤立的な謀反の企てにおいて、1 月 22 日の真昼間、二百人の党員を率いてマスケット銃を放ちな
がら市役所を攻撃したのが彼である。そのとき、急襲を受けた守備隊を数人殺傷したのち、彼も
また殺害されてしまった。)
ある日、この男は命令もなしに武装した大隊を集め、声高に政府を直ちに転覆せよとわめきな
がら、これを市役所に向かわせた。この軍隊は彼に飛びかかり、彼を捕縛してルーヴルにいる私
のところに引っ張ってきたことがある。
危険きわまりないとの評判をとる国民衛兵のなかにも、秩序派の人物がいたことがお分かりい
ただけたかと思う。
私はサピア を国民衛兵の軍事法廷に引き渡した。その法廷は法に基づいて構成されており、
私も信用をおいていた。それは、きわめて熱心との評判をとった海軍少将がこれを主宰していた。
ところが、サピア は無罪のうえ釈放されてしまったのだ!
当局がデマゴギーの裁判を要求したとき、当局が直面した支持とか制裁とかいったものはこの
ようなものであった!(第1巻, pp. 295-296)
休戦協定でパリの国民衛兵を武装解除から外したのは、協定を受け入れやすくするためだ
[質問:ジュール・フアーヴルは仏独休戦協定の交渉において国民衛兵を武装解除しなかった点
を後悔しているが、どう思うか?]
何ということだ。それは演壇上で感極まったときに言う台詞のひとつで、事実の真相をほとん
ど反映していない。彼がさらに「国民衛兵を武装解除させよ」または「かれらの武装解除を要求
した」と言ったのか? 私はそれについて何も知らないし、また、それが重要だとは思わない。
私が固く信じていたことというのは、フアーヴル氏があのとき、勇気を奮い、また高邁な精神か
ら自発的に恐るべき使命を果そうとしたとき、彼はまったくの善意でそのようにしたということ
だ。彼はこう信じていただろうし、また私もおそらく同じように信じたことだろう。すなわち、
国民衛兵は武装解除の対象から除外されている(むろん、そうせざるをえなかったのであるが)
というニュ-スをパリにもたらせば、したがって、国民衛兵の目の前で彼らに名誉を与えること
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になれば、休戦協定はいっそう受け入れやすくなるであろう、そして、秩序の擁護者という役割
を十分に果したことを誇る国民衛兵自身が 10 月 31 日の事件時にそうであったとのと同じ態度を
示すことになるだろう、と。なぜなら、良き国民衛兵はふつう悪しき国民衛兵の十倍もいたのだ
から。しかし、時は変わった。すでに述べたように、傲慢さが人々の良識にとって代わった。敗
北によっても飢えによっても、彼らはプロイセン軍には勝てないということを悟らなかった。交
渉そのものが彼らにとってひとつの裏切り行為と受け止められたのである。
[質問:1月末、なぜ民衆クラブの閉鎖と報道統制をしなかったか?]
ヴィノワ将軍はまったく異なる状況にいた。彼の後ろには合法的政府があった。しかも平和で
あり、飢饉もなかった。しかしながら、諸君の観察を正当化しうる有効な措置として、彼はいっ
たい何をなしたのか。というのは、幾つかの新聞の発禁を含む全ての措置は 3 月 18 日の大破局
に到達したからだ。
[質問:「ヴィノワ将軍による発禁処分は 3 月 18 日事件と無関係だ」という意見をどう思う
か?]
私は今まで傍聴人に対して、籠城期において政府がおかれた恐るべき状況について十分すぎる
ほど説明してきた。私が示してきたことはこうである。すなわち、諸君の観察の方向において政
府が取りえたかもしれないあらゆる方策は物的な力を奪われていたから、政府は、外に向かって
あらゆる膨脹力を授与または剥奪された大多数の住民が内部的膨脹力を貯えるのを放置せざるを
えなかった、このことだ。
きわめて予測しがたい、この偉大な努力が-人が今日何と言おうと-予想を大きく外れて長く
持続した秘密はそこにあるのだ。諸君が後知恵的にこの状況になぞらえる状況は、実際の状況と
何ら係わりをもたないのだ。
最後に、私はこの会議の最初に言ったことを繰り返したい。諸君は、国を疲弊させた大事件を
論じるとき、結果によってそれを評価している。その行為および見地のゆえにこれらの忌まわし
き諸事件を用意するにいたった人々を喚問して出廷させることにより、諸君が原因の前に進み出
たとき初めて真実に到達するであろう。(第1巻, p. 305)
(次 http://linzamaori.sakura.ne.jp/watari/reference/mentalstate3.pdf)
(c)Michiaki Matsui 2014
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