『国防政府査問録』に見る籠城下のパリ市民の精神状態 『国防政府査問

『国防政府査問録』に見る籠城下のパリ市民の精神状態 <そのⅢ>
横浜市立大学名誉教授 松井道昭
ガルニエ=
ガルニエ=パジェス(
パジェス(1872 年 6 月 12 日の証言)
Louis Antoine Garnier-Pages, 1803-
-1878 年。ルイ=フィリップ七月王政下で共和派として活躍。
ルイ フィリップ七月王政下で共和派として活躍。
二月革命の臨時政府に入閣しパリ市長、大蔵大臣を歴任。国防政府にも参画。1871
年 2 月の国民
二月革命の臨時政府に入閣しパリ市長、大蔵大臣を歴任。国防政府にも参画。
議会選挙で代議士に選出され、大蔵大臣をつとめ、戦争賠償金問題に苦慮。1871
年政界を引退。
議会選挙で代議士に選出され、大蔵大臣をつとめ、戦争賠償金問題に苦慮。
国民衛兵は始終、無謀な決戦を提唱。日一日と備蓄が底をつきはじめ決断の日が刻一刻迫る
しかし、防衛についていえば、わが軍、わが海軍、わが遊動隊、わが国民衛兵の努力と勇気のお
かげで、それは賞賛すべきものであった、と私は確信している。5
かげで、それは賞賛すべきものであった、と私は確信している。 カ月に及ぶ籠城において、わが
要塞の一つ、わが前線基地の一つとして奪取されなかったのである。
トロシュ将軍がわれわれに向かって、抵抗は英雄的な愚挙だと言ったとき、私は国民衛兵の閲兵
をするよう強く主張した。閲兵はおこな
をするよう強く主張した。閲兵はおこなわれた。何がなんでもパリを死守しようと決意を固めたこ
おこなわれた。何がなんでもパリを死守しようと決意を固めたこ
れら 20 万の兵士の視察は将軍を感激させた。このときから彼は独り言をいった。おそらく私は城
壁を守りき
壁を守りきれるであろう、と。
人々は土木工事に熱心に従事した。私はこれら土木工事の詳細については立ち入らない。貴委員
会は明らかにこの主題についてご存じのはずだ。そこで、ここでは貴委員会に対して私の感情につ
いて報告することにしぼり
いて報告することにしぼりたい。
しぼりたい。
[訳注:12 月 31 日の作戦会議で]人々は、敵前線の突破は絶対に不可能で
籠城の最後のころ、
後のころ、
[訳注:
日の作戦会議で]人々は、敵前線の突破は絶対に不可能で
籠城の最
あると見なしていた。われわれはこれが本当に不可能であるかどうかを知りたかったから、一度も
指揮することのなかった連隊長と将軍らを召集した。彼らもすべて脱出は不可能であるとの意見で
あった。彼らはまたこうも言った。プロイセン軍は入城できないだろう、われわれからたった一つ
の村さえも奪うことはできないだろう、われわれ
の村さえも奪うことはできないだろう、われわれも前線を突破できないだろうから、いつの日か交
われわれも前線を突破できないだろうから、いつの日か交
渉せざるをえなくなるであろう、と。国民衛兵に関して言えば、彼らはそれでも交戦を望んでいた。
彼らはそれでも交戦を望んでいた。
ちょっとここで中断し、最後の戦いの計画にふれるのを許していただきたい。それについては、
私の友人アラゴがやがて諸君に述べるかもしれないが、それについて、私は彼とは別なふうに語ら
ねばならないと思う。有終の美を飾らねばならない。国民衛兵は自分らが動員されるとは思ってい
なかった。そこで、アラゴは突破口を開く
なかった。そこで、アラゴは突破口を開くため、
開くため、15
ため、 万の国民衛兵の先頭に立って進撃
万の国民衛兵の先頭に立って進撃することを
進撃することを
提案した。彼は会議中で一人の将軍に向かって
提案した。彼は会議中で一人の将軍に向かって質
した。彼は会議中で一人の将軍に向かって質問を発
問を発した。すると、この男
した。すると、この男はひどく感激してこ
う答えた。承
えた。承知しました、私はあなたを死地にお招
知しました、私はあなたを死地にお招きいたしましょう、と。しかし、私は
きいたしましょう、と。しかし、私は制服
う、と。しかし、私は制服を脱
制服を脱
がねばならないでしょう、なぜ
がねばならないでしょう、なぜというに、軍の指揮官
というに、軍の指揮官として私の信念
として私の信念からそのような行為
からそのような行為をなすこ
行為をなすこ
とはできないのだから。われがわが軍の大敗北
とはできないのだから。われがわが軍の大敗北を知ったのはこうした
敗北を知ったのはこうした状況
を知ったのはこうした状況のもとであった。すなわ
状況のもとであった。すなわ
ち、シャ
シャンジー将軍
ジー将軍は
将軍はル・マンで
マンで潰走
ンで潰走中であり、
潰走中であり、ベルフォー
ルフォール
ォール救援しようとした
救援しようとしたブ
しようとしたブルバキは
バキは敗退し、
最後にフェデ
最後にフェデル
ェデルブの敗北と退
敗北と退却
と退却である。これに、このとき日一日とわれわれがまだ保
である。これに、このとき日一日とわれわれがまだ保有していた食
有していた食
糧を計算
を計算したことを付
したことを付言しておこう。
ここで私は二
ここで私は二人の大臣を裁
人の大臣を裁かねばならない。一人はド
かねばならない。一人はドリアン氏
リアン氏であり、もう一人はマナヤ
であり、もう一人はマナヤン
マナヤン氏で
ある。前
ある。前者は軍備
は軍備、つまり民間
、つまり民間工場の援助を
援助を得て大砲
て大砲を製造することを
製造することを受け持
することを受け持った。後
受け持った。後者
った。後者はパリお
よび郊外の
び郊外の 200 万を超
万を超える全住
える全住民に
全住民に食糧
民に食糧を
食糧を供給するという任を
供給するという任を帯び
するという任を帯びていた。
帯びていた。
ドリアン氏
リアン氏が籠城の末期
が籠城の末期にパリで諸君が
末期にパリで諸君が目撃
にパリで諸君が目撃したところの
目撃したところの砲
したところの砲兵隊を構築
兵隊を構築するのに
構築するのに発
するのに発揮しなけ
揮しなけれ
ばならなかった知恵
ばならなかった知恵と献身については、
献身については、今
については、今までだれも報告しなかった。
ドリアン氏
リアン氏によって企図
によって企図された
企図された試み
された試みは、彼が
試みは、彼が砲
は、彼が砲兵委員会および
兵委員会およびトロシュ将軍自身
トロシュ将軍自身と抗争しなけ
と抗争しなけれ
ばならなかっただけ
ばならなかっただけに功績が大きい。プロイセン軍
功績が大きい。プロイセン軍砲
が大きい。プロイセン軍砲兵隊に太刀打
兵隊に太刀打ちできるような大
太刀打ちできるような大砲
ちできるような大砲を作るのは
無理だ、と彼らは確信していたの
無理だ、と彼らは確信していたのである。
だ、と彼らは確信していたのである。
ドリアン氏
リアン氏はにもかかわらずこの目
はにもかかわらずこの目的を達成
的を達成した。われわれは
達成した。われわれは石炭
した。われわれは石炭と
石炭と銅が不足
が不足するまで数
するまで数知れな
い砲台を
砲台を構築するのに
構築するのに成功
するのに成功したのである。
成功したのである。
Magnin 氏について言えば、彼が指揮した部門
について言えば、彼が指揮した部門で
部門で同じように驚
じように驚くべき結果
くべき結果を
結果を達成した。もはや
達成した。もはや多
した。もはや多
く見ても6週間
く見ても6週間分の
6週間分の食糧
分の食糧しか
食糧しか残
しか残っていないと思われていた。パリの住
っていないと思われていた。パリの住民を生
民を生きながらえさせ、籠城
をかくも長く引っ張ることに成功
をかくも長く引っ張ることに成功したのは彼の
成功したのは彼の積極
したのは彼の積極的な
積極的な研究
的な研究、彼が
研究、彼が利用
、彼が利用した
利用した手段
した手段によるというより
手段によるというより
他はない。ジ
はない。ジュール・シモン氏が委員会の責
が委員会の責任者であった。同
であった。同委員会は毎
委員会は毎日、われわれが生
日、われわれが生き残れ
る日数・
る日数・時
数・時間の計算
の計算に着手していた。われわれは地
着手していた。われわれは地方
していた。われわれは地方にいる有力な軍隊を当てにしていたが、その
軍隊が訓練
軍隊が訓練不
訓練不足であるとは知らなかった。パリでは、われわれ自身
であるとは知らなかった。パリでは、われわれ自身が講和万歳!
和万歳! と叫ぶ軍隊に取
ぶ軍隊に取
り囲まれていた。言わねばならないことは、この叫び声
まれていた。言わねばならないことは、この叫び声がわが軍隊から
叫び声がわが軍隊から発
がわが軍隊から発せられたという事実
せられたという事実であ
る。こうした状況
る。こうした状況下で
状況下でマニャ
下でマニャン、
マニャン、ジ
ン、ジュール・シモン両氏はわれわれに
両氏はわれわれに毎
はわれわれに毎日、食糧状態
日、食糧状態について報告
食糧状態について報告
した。すなわち、もはや3週間
した。すなわち、もはや3週間分の
3週間分の食糧
分の食糧しか、そして
食糧しか、そして 15 日分の、さらに 8 日分の食糧
日分の食糧しかない、
食糧しかない、
というように。パリの住
というように。パリの住民はまもなく餓
民はまもなく餓死するであろう。まさしくその時においてジ
死するであろう。まさしくその時においてジュール・ファ
ーヴル
ーヴル氏はこの不吉
はこの不吉な予想に
予想に深く感動し、口を開いた。け
く感動し、口を開いた。けりをつけ
りをつけねばならない、敵に門戸
ねばならない、敵に門戸を開か
門戸を開か
ねばならない、と。
(第1巻,
-446)
)
(第1巻,pp. 445-
ウジェーヌ・ペルタン
ウジェーヌ・ペルタン(
ヌ・ペルタン(1871 年 8 月 25 日の証言)
Eugène Pelletan 、1813-
-1884 年。神学者
年。神学者。
神学者。1886 年の立法院
年の立法院選挙で共和派として議員に選出さ
法院選挙で共和派として議員に選出さ
る。国防政府では公教育相
年に上院
る。国防政府では公教育相をつとめる。ついで国民議会議員。
公教育相をつとめる。ついで国民議会議員。1876
をつとめる。ついで国民議会議員。
年に上院議員。
上院議員。第三
議員。第三共和政の
第三共和政の
政治家カ
治家カミ-ユ・ペル
ユ・ペルタンの父
ンの父。
憲法制定議会招集の遅延の理由
[質問:国防政府が議会の招
問:国防政府が議会の招集を延期
集を延期した
延期した理由
した理由は何か
理由は何か?
は何か?]
その理由
その理由は
理由は今まで何回
まで何回となく諸君に告げられたのではないかと思う。他方
となく諸君に告げられたのではないかと思う。他方、これはまだ
他方、これはまだ少
、これはまだ少々議論
々議論
の余地のある事柄
地のある事柄でもあるかもしれない。われわれが幾
でもあるかもしれない。われわれが幾つかの理由
つかの理由により市議会選挙を望んでいた
理由により市議会選挙を望んでいた
ということを諸君に心底
ということを諸君に心底から言いたい。権
から言いたい。権力の責
力の責任の重
任の重さがわれわれに負担
さがわれわれに負担であった。もしわれわ
負担であった。もしわれわ
れのあいだに何か悲
れのあいだに何か悲しむべきことがあるとすれば、非常
べきことがあるとすれば、非常に
非常に安易に
安易に申し出られる辞職
し出られる辞職をあまりにしば
辞職をあまりにしば
しば体験
しば体験したことであった。和
体験したことであった。和解
したことであった。和解と愛国心の精神
国心の精神によって人々はそれを引っ
精神によって人々はそれを引っ込
によって人々はそれを引っ込めたことも真実
めたことも真実であ
真実であ
る。われわれが政権
る。われわれが政権に就いたとき、諸君が重
いたとき、諸君が重々ご承
々ご承知のように、われわれの最初
知のように、われわれの最初の行為は、われわ
行為は、われわ
れが国防政府であることと、できるだけ早期
れが国防政府であることと、できるだけ早期に議会を
け早期に議会を招
に議会を招集することを宣
集することを宣言することであった。…
言することであった。
[質問:共和制
問:共和制の宣言が先になされたのではなかったか?
言が先になされたのではなかったか?]
政体を議論
を議論すべき必
すべき必要を感じなかった。それをおこなえばわれわれのあいだに衝
要を感じなかった。それをおこなえばわれわれのあいだに衝突が起
突が起きたのか
もしれないからだ。われわれは他
もしれないからだ。われわれは他の理由からも共和
理由からも共和制
からも共和制について論
について論議する必
議する必要を感じなかった。それ
は現に存在
に存在していたからである。単
していたからである。単に私が言いたいのは、この政府が選挙を欲
に私が言いたいのは、この政府が選挙を欲していたこと、しか
も、できるだけ早
も、できるだけ早くそれを
け早くそれを実施
くそれを実施することを
実施することを欲
することを欲していたということである。最良
していたということである。最良の証拠は
証拠はジュール・
フアーヴ
フアーヴルのフ
ーヴルのフェ
ルのフェリエール
エール行きである。休
きである。休戦協定なしに選挙は可能であっただろうか
協定なしに選挙は可能であっただろうか?
なしに選挙は可能であっただろうか? われわれ
はそうは思わなかった。われわれは休
はそうは思わなかった。われわれは休戦協定にこ
協定にこぎ
にこぎつけるために全
るために全力を尽
力を尽くしたが、
くしたが、休
が、休戦協定なし
協定なし
に国の重
に国の重要な代表
要な代表を実現することはできない。この意見は政府の見
実現することはできない。この意見は政府の見解
することはできない。この意見は政府の見解であったばかりではない。そ
れはまた、われわれと疎遠
氏、Guizot 氏もそう考
『ジュル
れはまた、われわれと疎遠な人々の意見でもあった。
疎遠な人々の意見でもあった。Vitet
な人々の意見でもあった。
もそう考え、
『ジュルナ
ュルナ
ル・デ・デバ』紙の
・デ・デバ』紙の編集指針
集指針でもあった。すべての者
でもあった。すべての者が、休
が、休戦協定がな
協定がなけ
がなければ選挙は不可能だと公
れば選挙は不可能だと公
言していたのだ。
そのころ、政府内
そのころ、政府内にもそのような意見があったため、われわれはテ
にもそのような意見があったため、われわれはティエール
エール氏の到着後に
到着後に休
後に休戦協
定への
定への新しい試み
しい試みをおこなった。
試みをおこなった。蜂起
をおこなった。蜂起がな
蜂起がなけ
がなければ、われわれは 10 月 31 日におそらくそれに成功
日におそらくそれに成功し
成功し
ていたのかも知れない。
(第 1 巻,p.469)
)
フェリエールでのビスマルク提案はとても呑めなかった
[質問:補給
問:補給なしの
補給なしの休
なしの休戦協定という
協定というビスマ
というビスマル
ビスマルク提案を
ク提案を拒絶した理由
絶した理由は
理由は?]
それこそ論
それこそ論議が必
議が必要だ。しかし、私は諸君に言いたい。もしわれわれがこのような条件
要だ。しかし、私は諸君に言いたい。もしわれわれがこのような条件で
条件で休戦協
定を受け入れ、
受け入れ、同
入れ、同じような状況
じような状況下で選挙を
状況下で選挙を実施
下で選挙を実施していたら、選挙は
実施していたら、選挙は深刻
していたら、選挙は深刻な不信
深刻な不信用
な不信用を被ったにちがい
ない。これがわれわれの考
ない。これがわれわれの考えであり、それは単
えであり、それは単にわれわれだけ
にわれわれだけでなく、既
でなく、既述のように、最も保
述のように、最も保守的
な人々も同
な人々も同じ心境
じ心境でいたことを諸君に示
でいたことを諸君に示すことができよう。もし、選挙がこのような条件
すことができよう。もし、選挙がこのような条件で、つま
条件で、つま
り、補給抜
り、補給抜きの
補給抜きの休
きの休戦協定のもとで
協定のもとで実施
のもとで実施されれば、フラン
実施されれば、フランス
されれば、フランスに大きな混乱
に大きな混乱が
混乱が生じ、おそらくは驚
じ、おそらくは驚くべ
き大破局
(第1巻,
)
き大破局をもたらしたであろうことは、パリの一致
をもたらしたであろうことは、パリの一致した見方
した見方であった。
(第1巻, p. 470)
エルネスト・ピカール(
エルネスト・ピカール(1871 年 7 月 4 日の証言)
Louis Joséph Ernest Picard、
、1821-
-1877 年。弁護
年の立法院
年。弁護士、
弁護士、ジャーナ
士、ジャーナリ
ジャーナリスト。1858
ト。
年の立法院選挙
法院選挙
で議員に選出され、オ
で議員に選出され、オリヴィエらとともに反体制
らとともに反体制「五
組」を結成。
結成。九月四日革命で国防政府の大
反体制「五人
「五人組」を
蔵大臣に就
蔵大臣に就任。フアーヴ
任。フアーヴルの対独
ーヴルの対独講
ルの対独講和交渉を助援
和交渉を助援する。国民議会政府では
助援する。国民議会政府ではテ
する。国民議会政府ではティエールによって
エールによって内
ルによって内務
大臣に抜
年 5 月 31 日に議会の多数
大臣に抜擢される。パリ・
される。パリ・コミュ-ンと地方
ュ-ンと地方の疎隔を図る。だが、1871
る。だが、
日に議会の多数
派を占
派を占めた王党
めた王党派の要求
派の要求により辞
により辞任に老
任に老い込まれる。以
まれる。以後、ベ
後、ベルギー大使として転
として転出。テ
出。ティエール
エール
失脚後、
失脚後、急
後、急進派を率
派を率いる。
10 月 31 事件の首謀者の不訴追が 3.18 蜂起の伏線となった
弾圧の問題
弾圧の問題[訳注:
の問題[訳注:10.
[訳注: .31 事件(=
件(=市役所乱
役所乱入事件)
入事件)の
件)の首謀者
首謀者の訴追問題]
訴追問題]が出されていると
問題]が出されていると
き、われわれは司
き、われわれは司法当局がきわめて弱腰
がきわめて弱腰であるのを知った。
くの法務官と私は入魂
と私は入魂だった。しか
弱腰であるのを知った。多
であるのを知った。多くの法
し、人が不幸
し、人が不幸にしてこのような事件
にしてこのような事件に巻き込まれた場
まれた場合、義務感のため、
義務感のため、古
感のため、古くからの友情を忘
くからの友情を忘れる
必要があった。
最も才
最も才能豊かな人々がどんな種類
かな人々がどんな種類の
種類の過誤――それは前々からつ
過誤 それは前々からつづ
それは前々からつづいているが――により、いくつか
いているが により、いくつか
の事実
の事実の罪責感を失
感を失ったかについて私は知らない。私は人々がこう話
ったかについて私は知らない。私は人々がこう話すのを耳
すのを耳にした。彼らは個
にした。彼らは個人
としてだけ
としてだけでなく、裁
でなく、裁判官として語ったのである。すなわち、10
として語ったのである。すなわち、 月 31 日の煽
日の煽動者は訴追されたり
訴追されたり
処罰されたりすることはないであろう。というのは、それを
処罰されたりすることはないであろう。というのは、それを訴追
されたりすることはないであろう。というのは、それを訴追する政府そのものが
訴追する政府そのものがひ
する政府そのものがひとつの事件
とつの事件
[訳注、9
[訳注、9月4日の政変
日の政変]から生
から生まれたのだから、と。数
まれたのだから、と。数日後、われわれは選挙によってこの事実
日後、われわれは選挙によってこの事実
を確認
を確認した。結果
した。結果は政府閣
の信任を与えたのである。
結果は政府閣僚
は政府閣僚に 40 万票の信任を与
私はどうかというと、10
私はどうかというと、 月 31 日の暴
日の暴動が帯
動が帯びたところの性格
たところの性格に
性格に非常に
非常に驚いた。
このシステ
このシステム
ステムは非常に
非常に恐ろしいことに、3
ろしいことに、 月 18 日を準
日を準備する大破局
する大破局に発展していくことになっ
たが、このシステ
(第1巻,
たが、このシステム
ステムとくに人質
とくに人質のシステ
のシステム
ステムは、私には危険
は、私には危険だと思える
危険だと思える予
だと思える予謀を意味
を意味した。
(第1巻,
p. 482)
)
10 月 31 日事件で処罰措置が取られなかった理由
10 月 31 日以来、われわれは
以来、われわれは想
、われわれは想像しうるかぎ
しうるかぎりのあらゆ
りのあらゆる欺瞞を感じた。この事
欺瞞を感じた。この事件
を感じた。この事件の首謀者
首謀者のう
ち、幾
ち、幾人かは逮捕
人かは逮捕され、
いで釈放され、また
逮捕され、次
され、次いで釈放
釈放され、また再逮捕
され、また再逮捕され、さらにまた
再逮捕され、さらにまた釈放
され、さらにまた釈放された。私がこれらの
釈放された。私がこれらの
事実を指摘
を指摘するのは、私をとらえたその当時の危険
するのは、私をとらえたその当時の危険ではなくて、
危険ではなくて、現
ではなくて、現下の危険
下の危険である。われわれは
危険である。われわれは恐
である。われわれは恐
るべき事件
るべき事件と教訓をもっている。私の
教訓をもっている。私のみ
をもっている。私のみるところ、それらが予期
るところ、それらが予期されたあら
予期されたあらゆ
されたあらゆる結果を
結果を生じたよう
には思われなかった。
それはどうなったか?
それはどうなったか? 何の通
何の通知もなく、また何の情報も与
知もなく、また何の情報も与えることなく逮捕
えることなく逮捕された人々は
逮捕された人々は住
された人々は住民
の目には犠牲
には犠牲者
犠牲者と映った。次
った。次の選挙で彼らのうち幾
の選挙で彼らのうち幾人かは国民議会の代議士に指
人かは国民議会の代議士に指名
の代議士に指名された。
彼らの行為
彼らの行為が明らかにされ、
行為が明らかにされ、相
が明らかにされ、相応の懲罰が下されていればまちがいなく、万事
懲罰が下されていればまちがいなく、万事異
が下されていればまちがいなく、万事異なった展
なった展開をみ
開をみ
たはずである。
そこにこそ、きわめて重
そこにこそ、きわめて重大にして現
大にして現下において諸君らすべての熟
下において諸君らすべての熟考に値する何かがあるというこ
とを私は言わねばならない。
司法権に二
法権に二面性
に二面性があるとき、
面性があるとき、特殊
があるとき、特殊な
特殊な状況により政府がパリのような一
状況により政府がパリのような一都
により政府がパリのような一都市を籠城状態
市を籠城状態にせざるを
状態にせざるを
えなくなったとき、弾圧
えなくなったとき、弾圧を強
弾圧を強化
を強化するのではなく、しばしばそれを弛
するのではなく、しばしばそれを弛めるというような事態
めるというような事態が生じた
のである。…[中
のである。 [中略
[中略]…
軍事法
、ヴェル
、ヴァーレ
軍事法廷が ピャ Pya、
ヴェルモレル Vermorel、
ヴァーレス Valles その他
その他の正体を突きとめてい
たなら、これらの人物
たなら、これらの人物が何を狙
が何を狙っていたか、何を襲
っていたか、何を襲撃するつもりでいたか、何を達成
するつもりでいたか、何を達成しようとして
達成しようとして
いたかを察知できたはずだ。ところで、これらすべての男
いたかを察知できたはずだ。ところで、これらすべての男たちは訴追
たちは訴追され、
訴追され、逮捕
され、逮捕され、ついで
逮捕され、ついで予
され、ついで予審
を受けた後に
受けた後に釈放
のしかかるコミューン反乱のこの
反乱のこの恐
るべき蜂
た後に釈放されたのだ。パリにおいて
釈放されたのだ。パリにおいて2ヵ
されたのだ。パリにおいて2ヵ月
2ヵ月間のしかかるコ
のこの恐るべき蜂
起は籠城の当初
は籠城の当初より予
より予見できたのである。…[中
見できたのである。 [中略
[中略]…
10 月 31 日事件
日事件とはこのようなものだった。十
とはこのようなものだった。十分な弾圧措置
分な弾圧措置がとられなかった。それは
弾圧措置がとられなかった。それは秩序
がとられなかった。それは秩序派を
秩序派を
完璧に
完璧に狂わせた。諸事件
わせた。諸事件はその後きわめて急速
はその後きわめて急速に
急速に展開していく。われわれは絶望に
開していく。われわれは絶望に陥
絶望に陥り、わが軍が
謀反と完全な崩壊状態
崩壊状態にあるのを見出だす
状態にあるのを見出だす瀬
にあるのを見出だす瀬戸際に立たされていたのだが、そのときドー
に立たされていたのだが、そのときドーレ
ドーレル将軍
の勝利のニュースによってやっと意気をとり
ースによってやっと意気をとり戻
によってやっと意気をとり戻したのだ。確かにそのニ
したのだ。確かにそのニュ-ス
ュ-スはおそらく誇
はおそらく誇張であ
るだろうし、将軍自身
るだろうし、将軍自身、そのニ
、そのニュ-ス
ュ-スが私の手
が私の手元に到達したような
到達したような用
したような用語でそれを伝
語でそれを伝えたのではなか
った。
[ドーレ
ドーレル・ド・パラ
・ド・パラデ
「それは完
それは完全な勝利だ」とするコメ
とするコメントを
パラディーヌ将軍:
コメントを挿
ントを挿む]
それに反
それに反対するつもりはない。私の言いたかったことは、人々がひ
対するつもりはない。私の言いたかったことは、人々がひどい失
どい失望の淵
望の淵にいたことだ。
その勝
その勝利についていえば、それが完璧
についていえば、それが完璧な
完璧な勝利だとわれわれは
だとわれわれは考えていたし、それは諸君に伝
えていたし、それは諸君に伝えがた
いほどの大きな励
どの大きな励ましとなったということだ。これは単
ましとなったということだ。これは単に慰め力づ
め力づけるニュ-ス
ュ-スであるにとどまら
なかった。
10 月 31 日の諸事件
日の諸事件は全ての人々、国民衛兵、正規
ての人々、国民衛兵、正規兵に対して大きな
正規兵に対して大きな影響
兵に対して大きな影響を
影響を与えた。私は万事が
支離滅裂になっていくのを見た。
(第 1 巻, pp. 483-
-484)
)
支離滅裂になっていくのを見た。
(次 http://linzamaori.sakura.ne.jp/watari/reference/mentalstate4
http://linzamaori.sakura.ne.jp/watari/reference/mentalstate4.pdf)
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(c)Michiaki Matsui 2014