地域を越えた文化資源

地域を越えた文化資源
【地域を越えた文化資源】
歴史・文化財
・・・・・・284
まつり・イベント・地域伝統芸能・・・284
食
・・・・・・285
人物
・・・・・・295
施設
・・・・・・353
その他
・・・・・・354
283
地域を越えた文化資源
にいがた酒の陣(にいがたさけのじん)
【歴史・文化財】
2004(平成16)年、新潟県酒造組合
創立五十周年の記念イベントとして92の
栗ノ木排水機場(くりのきはいすいきじょ
蔵元が集まって朱鷺メッセ(中央区)で行
う)
われたのが始まり。毎年3月中旬、新潟県
食料生産の増強、農業経営の合理化を目的
内の多くの蔵元が集結。2日間有効の試飲
に、1943(昭和18)年から、旧新潟
チケットを購入すると各蔵元の銘酒を好き
市および周辺の低湿地地域では湛水排除を
なだけ試飲できます。新潟の酒とともに相
中心とした、農地開発営団による阿賀野川
性の良い新潟の食も味わえます。利き酒や
沿岸大規模農業水利事業が実施されていま
芸妓の舞など楽しいイベントも行われます。
した。
栗ノ木排水機場の基礎・上屋や横越排水
にいがた食の陣(にいがたしょくのじん)
路・阿賀幹線用水路・大江山用水路などの
にいがた食の陣は、新潟の豊富な食材を全
工事が行われ、終了後1947(同22)
国に広めるべく新潟市で開催される食の1
年10月に7ヵ年継続されていた農地開発
大イベント。メインとなるにいがた冬食の
営団は閉鎖。公団閉鎖後、事業は国営事業
陣は毎年12月から3月末までの4ヵ月間
として引き続き行われました。
にわたり行われます。ホテルや料亭などで
特別メニューが飲食できる「食市座」、新潟
の食を現場で体験するミニツアー「食のお
【まつり・イベント・地域伝統芸能】
もしろ話」、2日間オリジナル鍋や握り寿司
などが食べられるメインイベントの「当日
座」があり、新潟のうまい食に出会える絶
下駄総踊り(げたそうおどり)
好の機会です。
約3百年前、町の堀にかかる74の橋の橋
げたで醤油樽や小足駄とよばれる歯の高い
にいがたチューリップキャンペーン(花絵
下駄を打ち鳴らして、3日3晩踊り明かす
プロジェクト)
(にいがたちゅーりっぷきゃ
祭りがありました。その様子が江戸時代に
んぺーん<はなえぷろじぇくと>)
川村修就が描かせた「蜑の手振り」という
4月初旬から5月初旬(花が咲いている時
絵巻物に残っています。
のみ限定)にかけて、新潟市をチューリッ
この踊りを2005(平成17)年、第4
プで彩るキャンペーン。にいがた花絵プロ
回にいがた総おどり祭で再現しました。新
ジェクトによる花絵づくりが市内各地で行
潟の下駄職人が手作りした小足駄を履いて、
われるのを始め、花摘みツアー、花巡り散
新潟樽砧の音に合わせて絵巻物の様子さな
歩などさまざまなイベントが行われます。
がらに踊りました。この踊りで披露される
「新潟樽砧」や「小足駄」は新潟の大切な
伝統文化です。
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地域を越えた文化資源
0パーセントを占めています。
【食】
1つひとつ手で摘み取る収穫作業は、露地
○農水産物
栽培では10月下旬から。シェードをかぶ
せて光を遮ることで日照時間を調節し、収
あまだい
穫を早めて出荷されるものもあります。
やや長く扁平で、なた状の体形が特徴。日
名前の由来には、
「垣根の元に植えられてい
本海の砂泥域の海底に穴を掘って棲んでい
た」、「柿の木の下に植えられていた」など
ます。旬は冬ですが、新潟では主に夏に漁
の説があります。新潟市食と花の銘産品に
獲されます。身は軟らかく、やや水っぽい
指定されています。
のですが、上品な味わいで、高級魚とされ
ています。新潟市食と花の銘産品に指定さ
れています。
いちご「越後姫」(いちご「えちごひめ」)
新潟県で生まれた品種「越後姫」は甘みが
強く、香りが豊かで、酸味との微妙なバラ
ンスが魅力の人気品種です。
新潟市は県内の生産量が第1位となってい
ます。新潟市食と花の銘産品に指定されて
います。
米(こめ)
新潟といえば米と言われるほど新潟市を代
表する農産物。栽培面積と生産量は全国一
の規模を誇ります。中でもコシヒカリは1
番の銘柄米です。
さくらます
桜の咲く3月∼5月頃に漁獲されることと、
かきのもと(食用菊)
(かきのもと<しょく
身が桜色であることから「さくらます」と
ようぎく>)
よばれるようになったとされています。サ
延命楽という晩生の品種で、赤紫色の花を
ケ科の魚で、川でふ化した稚魚のうち、ほ
咲かせます。シャキシャキとした歯ざわり
とんどの雌と一部の雄が海へ出て、春に遡
と風味が特徴。多くは水田の転作作物とし
上します。
て栽培されています。特に南区(白根地域)
日本近海で捕れるサケ・マス類のなかでも
での栽培がさかんで、新潟県出荷量の約8
っともおいしいと言われ、4kg以上のも
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地域を越えた文化資源
のは、特に脂がのっています。川に入った
すいか
ものは「カワマス」とよばれ、そのおいし
6月上旬から7月下旬にかけて出荷される
さから特に高価。塩焼き・バター焼き・フ
砂丘地産のすいかです。太陽の恵みをいっ
ライ・鍋物など、さまざまな料理にして食
ぱいに受けて1個ずつ丁寧に育てられ、甘
べられます。
くてシャリ感のある味わいは太鼓判を押さ
新潟市食と花の銘産品に指定されています。
れています。北区、西区で作られる新潟す
いかは新潟市食と花の銘産品に指定されて
さといも
います。
乾燥に弱いため、乾燥しにくい土地が適し
ており、夏場の水やりに気を使うそうです。
畑に傘のような緑色の大きな葉が生えてい
るのが特徴です。いも類の中で1番低カロ
リーで、食物繊維が豊富な食品です。新潟
の郷土料理といえば「のっぺ」、これにさと
いもは欠かせません。
しじみ
大江山地区や横越地区周辺の阿賀野川の水
そらまめ
質は、淡水と海水が入り混じる汽水域にな
さやが空に向かってのび、食べ頃になると
っており、しじみが生息しやすい環境とな
下に向いて食べ頃を知らせます。鮮やかな
っています。阿賀野川のしじみは、肉厚で
ヒスイ色が初夏の訪れを告げてくれます。
大きいのが特徴で、地元では粒の大きさを
江南区は県内でも有数の生産地で、西区や
活かしたいろいろな料理があります。7月
西蒲区でも生産されています。品種「打越
から8月下旬までの 2 ヵ月間、日時・場所
一寸」は、作りやすくおいしく、一寸豆の
を限定して漁を行っています。乱獲を避け、
3粒入りの莢(さや)が多く、量もとれ、
小さなものは川に戻し、また、稚貝を放流
人気品種です。初夏の味覚そらまめの収穫
して、毎年しじみが獲れるよう資源保護に
は5月下旬から始まり、6月に収穫の最盛
努めています。
期を迎えます。
早朝に漁師が舟に乗って川に繰り出し、
「じ
ょれん」という金属製の籠に網が付いた道
たまねぎ
具を川底に沈め、ゴーゴーとエンジン音を
血液がさらさらになると言われ、健康食品
立てながら力強く引っ張り、しじみを獲っ
としても注目を浴びるたまねぎです。亀田
ていきます。しじみ漁の様子は夏の風物詩
地区は新潟県で多くの作付け面積と市場出
となっています。
荷量を誇ります。6月中旬から出荷を開始、
吊るし乾燥はせずに収穫してすぐに新鮮な
うちに販売してしまうのが、当地区の特徴
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です。
横越地域の阿賀野川沿いで栽培がさかんで、
江戸時代には殿様への献上品にされたと伝
トマト
わっています。
新潟市では昭和30年代から施設栽培によ
巻地域の砂丘地では、1978(昭和53)
るトマト栽培が盛んに行われています。中
年頃から栽培がさかんになりました。
でも豊栄地区と濁川地区で大玉系のトマト
新潟市食と花の銘産品指定。
栽培が盛んでフルーツトマトに匹敵する甘
さが人気で、新潟市食と花の銘産品にも指
定されています。
豊栄地区は1973(昭和48)年に新潟
県を代表するトマト産地として国の指定産
地となり県内第1位の生産量を誇ります。
濁川地区では、節水栽培を徹底して食味を
向上させるとともに、地区全体で減農薬減
化学肥料による安心・安全な生産の取り組
みを行っています。
ながいも
種芋の植え付けは5月。収穫は11月∼4
月にかけて行われ、収穫するながいもの近
くに機械で溝を掘り、折れないように注意
しながら手で慎重に掘り出します。大きい
ものは、長さ1m、重さ1.5kgを超え
ます。
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なし
新潟県の日本なしの栽培の歴史は江戸時代
まで遡ることができます。度重なる河川の
氾濫を防ぐため耐水性の強いなしを河川敷
地帯で栽培してきました。
品種は新潟市食と花の銘産品に指定されて
いる新高、新興のほかに幸水、豊水、二十
世紀など豊富です。
江南区(両川・横越・亀田地区)には多く
のなし畑が広がっています。亀田のなしの
栽培起源は1804(文化元)年頃と伝え
られ、信濃川と阿賀野川とつなぐ小阿賀野
川沿いの肥えた沖積土壌で栽培されている
ため、大玉で味が濃厚です。両川地区は小
南蛮えび(なんばんえび)
阿賀野川が洪水で氾濫し、梨づくりに最適
標準和名は「ホッコクアカエビ」。特徴であ
な栄養をたっぷり含んだ土が流れ込んでき
るとろけるような食感と甘みから「甘えび」
たことが起源となっているようです。横越
ともよばれます。
地区では1736(元文元)年∼1740
「南蛮えび」の名は、赤い身と形が「南蛮
(同5)年の間に二本木村において「晩六
(唐辛子)」に似ているところから来ていま
なし」などを栽培したのが始まりとされて
す。主に北陸より北の日本海で獲られてお
います。
り、旬は冬。大きな南蛮えびがすべてお腹
北区木崎地区では内陸の環状砂丘地帯で植
に青い卵を持っているのは、初めは雄で大
栽されてきました。南区の大鷲(大郷、鷲
きくなると雌に性転換する「雄性先熟」の
巻)、茨曽根、新飯田、月潟地区のなしは信
ためです。新潟市食と花の銘産品に指定さ
濃川と中ノ口川の肥沃な土地で栽培され、
れています。
味、食感に優れています。西蒲区では信濃
のどぐろٛٛ
川支流の中ノ口川左岸で栽培しています。
スズキ科のアカムツのことで、口のなかが
黒いことから「のどぐろ」とよばれます。
かつては大衆魚として親しまれていました
が、現在では高級魚になっています。脂が
乗っていながら淡白な味が特徴で、旬は秋
∼冬。塩焼きを始め、刺身、かす漬け、み
そ漬けなどにして食べられます。新潟市食
と花の銘産品に指定されています。
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ぶどう
の栽培が盛んです。JA新潟みらいでは「し
南区(白根地区や月潟地区)や西蒲区(中
ろねアールスメロン」の名称で出荷してい
之口地区)など、信濃川・中ノ口川流域で
ます。西区、赤塚地区では浜辺の風と太陽
の生産がさかんで、
「巨峰」を中心におおむ
の下、有機肥料を使い、品質重視で栽培し
ね30種類の品種が栽培されています。ハ
ています。
ウス栽培や露地栽培のものが7月中旬∼1
西蒲区越前浜、松野尾地区の砂丘畑で、約
1月中旬まで出荷されます。
9haの栽培を行っています。各種指導会
西蒲区において、ぶどうは昭和40年代の
や圃場巡回、播種、収穫期の調整を行い、
後半に栽培されはじめ、1972(昭和4
美味しい時期に美味しいメロンが収穫でき
7)年には潟浦地内で水田転作によるぶど
るよう、生産者一体となって栽培に努めて
う団地10haが造成されました。その後、
います。
1973(同48)年、稲作転換特別対策
事業で果樹集荷施設が完成。2005(平
成17)年巨峰出荷者全員「エコファーマ
ー認定」を取得。
南区(白根地区・月潟地区)西蒲区(中之
口地区)で栽培される「巨峰」は、新潟市
食と花の銘産品に指定されています。
メロン
砂丘地の気候と生産者の高い技術が作り出
もも
すメロン。夏のメロンは7月上旬から収穫
栽培の歴史は古く、江戸時代に始まりまし
が始まり、9月中旬から11月には秋のメ
た。早生の「日の出」
「あかつき」から彼岸
ロンが出荷されます。
まで食べられる「白根白桃」までバラエテ
豊栄メロンは、昭和50年代から春トマト
ィーに富んだ味を楽しめます。
の後作として導入されました。高級感の漂
「白根白桃」は白根地区の畑で発見され、
うメロンは人手により交配し、果形と食味
優良品種として栽培されました。
が良くなるよう1株1個に摘果し、おいし
西蒲区でのもも生産の歴史は古く、現在は
くなるように丹念に水を管理した芸術品で
日の出を主体とし、山根白桃などの品種の
す。
ももが生産されています。
南浜地区では赤肉系のメロンがハウス栽培
されています。1 本の苗木に 1 個しか実ら
やなぎがれい
せない丁寧な栽培により、完熟した味はジ
のどぐろと並ぶ新潟県の代表的な高級魚で、
ューシーでリッチな味わいで、市場評価も
信濃川と阿賀野川によって運ばれる細かい
高いものです。
土砂の海底が絶好の漁場となっています。
南区では、特に大鷲地区(大郷、鷲巻)で
身は薄く、体形は長だ円形。一夜干しにす
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地域を越えた文化資源
ると上品な旨味が引き立ちます。新潟市食
と花の銘産品に指定されています。
○加工物
その他
イタリアンٛٛ
江南区に工場を構える株式会社みかづきの
ロングセラー商品。現在では新たな新潟名
物として注目されています。
イタリアンが誕生したのは1960(昭和
いとこ煮(いとこに)
35)年で、当時流行していたソース焼そ
小豆とレンコンを塩だけの味で煮たもの。
ばをヒントに考案されました。ソースで炒
好みでさとうを入れることもあります。親
められた太い角麺・キャベツ・もやしに、
鸞の忌日である報恩講(11 月 28 日<1月
粉チーズと特製トマトソースがかけられ、
遅れの地域もあります>)では、おはぎな
白生姜が添えられています。パスタにも焼
どと供えられますが、これは、聖人が小豆
そばにも焼うどんにも見える独特の食べ物
を好物としていたことに由来します。
です。
こだわりは自家製の麺とソース。麺はモチ
かきあえなます
モチとした食感で独特の歯応えがあり、ト
お正月やお客様がいらした時などに作られ
マトソースにはじっくり炒めたタマネギの
るおもてなしの1品。かきのもと(食用菊)、
甘みがあります。定番メニューは「イタリ
干ししいたけ、れんこんなどの多くの材料
アン」、「カレーイタリアン」、「ホワイトイ
をくるみの入った和え衣で和え、それぞれ
タリアン」で、他に「梅かつおイタリアン」
の味を生かして作り上げられる手間のかか
や「ボロニア風イタリアン」など、ユニー
った料理です。
クな季節限定メニューが揃います。
小学校などでのバザーへ出店したのをきっ
かけに、多くの人に知られるようになりま
した。他にはない珍しさから、多くのテレ
ビ・雑誌などでも紹介されています。現在、
新潟市を中心に県内に店舗があり、県外に
も物産展など期間限定で出店しています。
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地域を越えた文化資源
くじら汁(くじらじる)
すい季節です。
以前は、暑い夏の農作業で弱った体の疲労
回復のために食べられたようです。塩くじ
塩引鮭、鮭の焼き漬け、氷頭なます(しお
らは脂肪が多く野菜や豆腐を入れることで
びきざけ、さけのやきづけ、ひずなます)
栄養的にもバランスがとれるので、夏のス
現在は切り身で買うことがほとんどの鮭で
タミナ料理として食べられます。ユウガオ
すが、以前は一本ものを買うことが多かっ
などを具に古くから新潟で食べられてきた
たようです。身は焼いて、醤油たれや味噌
郷土料理です。
に漬け込んだり、腹子はいくらにしたり、
頭は氷頭なますにしたり、骨やあらは昆布
車麩の煮物(くるまぶのにもの)
巻きにして余すことなく料理に使いました。
貴重なたんぱく質源として食べられてきた
焼き漬けは、わっぱ飯、おにぎりなどにも
車麩は、煮物によく合います。すき焼きや
利用します。年夜(としや)の料理として、の
寄せ鍋の具材・卵とじの食材として利用さ
っぺ、煮菜、長いもかんてん、干し大根の
れます。
煮物などとともに、近年まで多くの家庭の
膳に載りました。
笹団子(ささだんご)
新潟県の代表的な節句だんご。6月の旧節
句に作ります。笹団子を作ってお供えし、
子どもの無病息災を祈ったとも言われてい
ます。この団子作りは蒲原地方の初夏の風
物詩でしたが、今では年間をとおして新潟
の特産品となっています。
三角ちまき(さんかくちまき)
1月遅れの端午の節句で、笹団子とともに、
男の子の無事な成長を祈って作られました。
このころは、笹団子に用いるよもぎも、笹
団子と三角ちまき両方に用いる新笹も得や
291
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煮菜(にな)
現在は新鮮な野菜がいつでも手に入ります
が、冬場の野菜のない時期には、干したり
塩漬けにして保存しておいた野菜を水に戻
して作った煮物が食べられました。煮菜は
その代表的なもので、秋に漬けておいた大
根菜やたい菜などをにんじん、油揚げ、打
ち豆などと一緒に煮た常備菜です。
のっぺ
干しかぶの煮しめ(ほしかぶのにしめ)
新潟の代表的な郷土料理で行事には欠かせ
越冬用の大根を使い、薄く輪切りにしてふ
ない1品です。祝い事や仏事、葬式などで
かし、春の日差しで干して作ります。冬を
切り方や材料が異なります。また、その家
越すための食材として生まれたものです。
の味を出すため材料に工夫が見られます。
にしん、にんじんなどと一緒に煮た煮しめ
は、故郷を思い出す1品です。
ポッポ焼き(蒸気パン)
(ぽっぽやき<じょ
うきぱん>)
小麦粉、水、黒砂糖、炭酸、ミョウバンを
こね、専用の焼き器で作る長さ12cmほ
どの棒状の焼き菓子です。新潟県下越地方
に特有なもので、祭りの屋台などで販売さ
れます。北区や新発田市周辺では蒸気パン
米菓(べいか)
とも呼びます。
新潟市には米菓の工場が数多くあり、味付
けや製法によって多種多様な製品が開発・
○酒蔵
蔵元
販売されています。米菓の種類は、大別し
て「あられ」
「かきもち(おかき)」
「おせん
朝妻酒造(あさづましゅぞう)
べい」に分けられます。「あられ」「かきも
1909(明治42)年創業。信濃川の分
ち」は餅米を原料として焼き上げたもので
流、西川沿い、かつて長岡藩曽根組の代官
す。
「おせんべい」はうるち米から生地をつ
所が置かれた地にあります。
くり、醤油などで味を付けて焼いたもの。
西蒲原平野で採れる優良米を使用し、まろ
生地にゴマなどを練りこんだものもありま
やかですっきりとして、さわやかな清酒を
す。
造り続けています。
所在地:新潟市西蒲区曽根251−2
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石本酒造(いしもとしゅぞう)
越後伝衛門(えちごでんえもん)
創業1907(明治40)年。 幻の銘酒
伝統的な越後流の酒質を守りつつ、個性あ
として全国に知られる「越乃寒梅」を丹精
ふれる香りと技を持つ日本酒を醸す酒蔵と
込めて造り続けている蔵元です。
して数々の銘酒を生み出しています。
全国に名が知られるに至っても、ただ酒造
創業は昭和初期、伝衛門の蔵として始まり、
りにのみじっくりと努力を傾ける姿勢が、
法人としての設立は1996(平成8)年。
上質な酒を支えています。
日本国内だけでなくアメリカなど海外でも
所在地:新潟市江南区北山847−1
販売を行い、好評を博しています。
所在地:新潟市北区内島見101−1
今代司酒造(いまよつかさしゅぞう)
もともとは酒の卸業を営んでいましたが、
小黒酒造(おぐろしゅぞう)
1897(明治30)年頃に東堀から現在
創業は1908(明治41)年。
の鏡が岡に移り、酒造りを始めました。現
初代社長の頃、昭和初期より酒造りのシス
在の土地に酒蔵を建てたのは、当時新潟港
テム化を図っていきました。昭和中期には
とつながっていた栗ノ木川(現国道49号
キリンビールやキッコーマンとの特約販売
栗ノ木バイパス)から船で荷物の運搬がで
契約、伊勢丹との取引を開始するなど、時
きたこと、良質の水と米を得やすかったこ
代に先駆けて経営や体制の改革を進め、現
とが挙げられるようです。
在の基礎を築いていきました。
所在地:新潟市中央区鏡が岡1−1
所在地:新潟市北区嘉山1−6−1
上原酒造(うえはらしゅぞう)
越の華酒造(こしのはなしゅぞう)
1890(明治23)年に創業。角田山の
1870(明治3)年創業。1951(昭
麓にあり、菖蒲塚の菖蒲前にゆかりのある
和26)年、現在の会社を設立しました。
旧家です。
信濃、阿賀の両大河に挟まれ、日本海を前
角田山の霊水、越後蒲原平野の米を使用し、
に、越後平野を背にした恵まれた環境にあ
仕込みに適した雪国の清冽な環境で日々酒
ります。
造りに励んでいます。
仕込み水には旧三川村の名水「桂清水」、米
所在地:新潟市西蒲区竹野町2580
は兵庫県産「山田錦」、新潟県産「五百万石」
を使用。
「滴滴在心・酒にこころあり」の社
越後酒造場(えちごしゅぞうじょう)
是を基に個性豊かな吟醸酒造りをされてい
創業は1932(昭和7)年。当時は八田
ます。
酒造場として創業しました。
所在地:新潟市中央区沼垂西3−8−6
杜氏の技、厳しい冬、越後銘水、その水に
育まれた米、この4つが調和した銘酒を手
造りにこだわり抜いて造っています。
所在地:新潟市北区葛塚3306−1
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地域を越えた文化資源
笹祝酒造(ささいわいしゅぞう)
樋木酒造(ひきしゅぞう)
創業は1899(明治32)年。創業当初
創業は、1855(安政2)年に蔵元の初
は笹口酒造場と称されていました。
代が内野で酒造業を営んだのがその始まり
越後の穀倉地、蒲原平野の米と澄んだ空気
です。
と水といった恵まれた酒造条件と越後杜氏
甘口でも辛口でもないサラサラとした口当
の伝統の中から銘酒を生み出しています。
たりに定評があります。地元を意識した酒
所在地:新潟市西蒲区松野尾3249
造りに徹しており、新潟市外ではなかなか
お目にかかれない文字通りの「新潟の酒」。
塩川酒造(しおかわしゅぞう)
所在地:新潟市西区内野町582
創業は大正時代初期。設立から数度の事業
継承を経て、1997(平成9)年に現在
福井酒造(ふくいしゅぞう)
の塩川酒造として今日に至っています。
創業年代は定かではありませんが、言い伝
水が良い内野で作られる酒は、どこまでも
えによれば創業以来300年は経過してい
手造りにこだわっていてひたむきさが感じ
るとのことです。
られる味わいを楽しめます。
角田山山麓に位置し、北陸街道の名残をと
所在地:新潟市西区内野町662
どめた土地で
手作り
の姿勢を貫き続け
ています。
高野酒造(たかのしゅぞう)
所在地:新潟市西蒲区福井1833
創業は1899(明治32)年。新潟市の
西部に位置し、近くに佐潟があり自然豊か
村祐酒造(むらゆうしゅぞう)
で、かつ良質な水に恵まれた土地で酒造り
創業は1948(昭和23)年。蔵元は、
をされています。
越後平野のほぼ中央、自然に恵まれた小須
2000(平成12)年には「食の安全性」
戸町矢代田にあります。生産石数200石
「品質の向上」に対応する、温度管理が充
という非常に小さな規模で、県産米を使用
分にできる最新設備を導入した新しい仕込
した冬期醸造によってお酒を仕込んできま
み蔵を竣工。
した。
所在地:新潟市西区木山24−1
杜氏を置かず、専務の村山氏自らが醸して
いて、お客様に楽しんで頂けることを目的
宝山酒造(たからやましゅぞう)
とした酒造りに取り組んでいます。
創業は1885(明治18)年で、現在で
所在地:新潟市秋葉区舟戸1−1−1
創業から120年を越えています。
弥彦温泉と岩室温泉の間に位置し、良質な
軟水と西蒲原の平野で収穫される米を使用
して誰からも愛される酒造りを心掛けてい
ます。
所在地:新潟市西蒲区石瀬2953
294
地域を越えた文化資源
○食に関する民俗習慣
に「鹿鳴集」「山光集」「寒燈集」などの歌
集を刊行しています。その蒼古清澄な歌の
刈り上げ(祝い)(かりあげ<いわい>)
しらべは余人の追随を許さないものです。
1年でもっとも大事な米の収穫を無事終え
また書は、若い頃からの研鑽と独自の習字
たという喜びと苦労をねぎらう祝いです。
法により作り上げられ、独特の境地を拓き
団子おこわ、けんさ焼き、赤飯、おはぎ、
ました。学者としても優れた論文を残し、
餅、茶碗蒸し、のっぺ、いとこ煮など、地
1934(昭和9)年、
「法隆寺法起寺法輪
域でご馳走の内容は異なります。
寺建立年代の研究」で文学博士の学位を受
けました。
さなぶり
1945(同20)年、東京空襲で焼け出
田植えを親戚や近隣の人々総出で人力で行
され、新潟に帰郷して以降、ますます書の
っていた時代には、作業を無事終えた後、
制作に打ち込み、郷土の文化振興にも力を
「さなぶり」と称して手伝ってくれた人たち
尽くしました。新潟市名誉市民。
を慰労し、合わせて豊作を祈念しました。
地域でご馳走の内容は異なります。
【人物】
あ行
會津
八一(あいづ
やいち)
1881(明治14)年8月1日∼195
6(昭和31)年
中央区(古町5番町)に生まれました。秋
艸道人(しゅうそうどうじん)または渾斎
(こんさい)と号し、東洋美術史学者、歌
青柳
人、書家、教育者として活躍しました。中
1893(明治26)年7月7日∼199
学在学中から俳句を作り、若くして地元新
1(平成 3)年7月10日
聞社の俳句選者となっています。
1928(昭和3)年、35歳で月潟村(現
1906(同39)年、早稲田大学文学科
南区)の村長となりました。その後194
卒業後、有恒学舎(現・有恒高校)に英語
6(昭和21)年より4期(1946<同
教師として赴任し、4年後に早稲田中学に
21>年5月∼1961<同36>年2
転じました。1908(同41)年、奈良
月)村長を務め、土地改良事業・耕地整理
を旅して短歌を詠み、1924(大正13)
事業・月潟橋の架橋・道路拡幅・電鉄開通・
年に初の歌集である「南京新唱」を出版。後
中学校の建設など村発展と近代化に尽くし
295
良太郎(あおやぎ
りょうたろう)
地域を越えた文化資源
た功績は大きいものです。
34)年、現役兵を志願。軍曹(ぐんそう)
また、古い伝統ある郷土芸能の滅亡を惜し
に昇進し、退役。その後、東京で風呂屋を
み、1936(同11)年角兵衛獅子保存
経営し、1921(大正10)年に東京浴
会を設立し後継者の養成に努力されました。
場組合長となり、業界の発展のため全国都
その努力が実を結び伝統郷土芸能「角兵衛
市浴場組合連合会を創立。遂(つい)には
獅子」として受け継がれ現在に至っていま
全国都市浴場組合連合会を発起(ほっき)
す。
し、その会長に就任しました。
こうした活躍により、新潟県人の浴場業界
赤沢
ナカ(あかざわ
なか)
での地位を固め、府会議員、そして衆議院
1871(明治4)年∼1941(昭和1
議員として業界の発展に努めました。
6) 年
西蒲区(旧中之口村)出身。
「守弧扶独幼稚
赤塚
児保護会」の2代目会長。赤沢保育園のお
1935(昭和10)年9月14日∼20
ばあちゃん先生。
08(平成20)年8月2日
通称「赤沢保育園」は、我が国最初(明治
本名赤塚藤雄。
22年)の保育園です。正式名「守弧扶独
満州(現中国東北部)で生まれました。
幼稚児保護会(しゅこふどくようちじほご
終戦後は、母の実家である大和郡山へ引き
かい)」は、ナカの夫、赤沢鍾美(あつとみ)
揚げ、後に父の生家である旧潟東村(現南
の「清修(せいしゅう)学校」託児(たく
区)へ移りました。四ッ合中学校を卒業後、
じ)所として始まりました。当時、幼児を
1952(昭和27)年に新潟市(中央区)
連れて登校しなければならない子ども達が
東堀の塗装店に勤め、翌年上京し、工員と
多く、その状況を苦慮(くりょ)した夫妻
して働きながら「漫画少年」に投稿。19
は託児部をつくり、ナカは授業が終わるま
56(同31)年、漫画家としてのスター
で幼児を無償で預かり、親身に世話をする
トを切りました。「おそ松くん」(1965
ようになりました。その後独立した保育園
年小学館漫画賞受賞)、
「天才バカボン」
(1
は、特に貧困者の幼児保育に大きく貢献し
972年文藝春秋社漫画賞受賞)、「ひみつ
ました。
のアッコちゃん」「もーれつア太郎」
、
「ギャ
不二夫(あかつか
ふじお)
グゲリラ」など、数々の作品で知られてい
赤塚
五郎(あかつか
ごろう)
ます。
1886(明治19)年∼1935(昭和
10)年
西蒲区(旧中之口村)出身。東京浴場組合
長、全国都市浴場組合連合会会長、区会議
長、府会議長、衆議院議員、浴場業界の発
展に寄与。
小学校を卒業した五郎は、1901(明治
296
地域を越えた文化資源
006(同18)年まで全日本川柳協会常
任幹事。「川柳信濃川」顧問。
阿達
朝妻
翠明(あさづま
夜潮音(あだち やちょうおん)
1905(明治38)年11月1日∼19
すいめい)
1932(昭和7)年12月16日∼
92(平成4)年5月27日
本名祐司。北海道小樽市に生まれ2歳頃ま
本名は、義雄。新潟大学教育学部教授。
で過ごしました。その後、両親の仕事の関
古川柳(江戸川柳)の研究家として著名な
係で新潟市へ移り、18歳ころより川柳に
学者で、1968(昭和43)年、文学博
親しみます。1954(昭和29)年、国
士となりました。1949(同24)年「夕
立内野養療所(現・西新潟中央病院)の文
刊にいがた」の日曜川柳の選者を担当して
化サークルアカシヤ川柳会を結成。
いた時、大野風柳とともに川柳不毛の地と
「星くづ川柳社」同人、
「川柳文芸学会」代
いわれた新潟から川柳雑誌「柳都」を世に
表同人を経て「新潟川柳文芸社」主幹、雑
送り出しました。1968(同43)年「新
誌「川柳にいがた」を1972(同47)
潟日報文化賞」を受賞。1976(同51)
年より発行。
年「勲三等旭日中綬章」を受章。
1975(同50)年から「あさひ柳壇」
(朝日新聞新潟版読者文芸欄)選者を務め
ています。
1991(平成3)年、新潟市において川
柳作品展開催。句集に「逝春」があります。
その他新潟日報カルチャースクール<大和
教室>講師。元「文芸にいがた」新潟市制
定及び新潟県芸術祭川柳部門選考委員。2
297
地域を越えた文化資源
新井
満(あらい
まん)
荒木
寅平(あらき
とらへい)
1946(昭和21)年∼
1866(慶応 2)年11月28日∼19
作家、作詩作曲家、写真家、環境映像プロ
34(昭和 9)年
デューサー、長野冬季オリンピック開閉会
西蒲区(旧中之口村)出身。郡会議員、県
式イメージ監督など、多方面で活躍中。
会議員、県農会委員を歴任しました。西蒲
新潟市生まれ。上智大学法学部卒業。
原郡の馬耕の祖。
2008(平成20)年に第 1 回にいがた
1900(明治33)年に開催された県大
市感謝大賞を受賞。
地主会は、県下 112 名の大地主を集め、苗
小説家としては1988(昭和63)年、
代改良や害虫駆除、耕地整理といった農事
「尋ね人の時間」で芥川賞を受賞。
改良について地主達の理解と協力を求める
2003(平成15)年11月に発表した
ために開かれました。この会に平松遮那一
写真詩集「千の風になって」と、それに曲
郎らとともに出席した寅平は、県馬耕講習
をつけ自ら歌唱したCDは現在もロングセ
会にも積極的に参加しました。
ラーを続けています。同曲で2007(同
元来、年貢米1,500俵の入る地主であ
19)年レコード大賞作曲賞を受賞。日本
りながら、自ら馬耕教師となって各地に実
ペンクラブ常務理事として、平和と環境問
地指導を行い、馬耕の祖(そ)といわれま
題を担当。最近作に写真詩集「青春とは」、
した。また、県農会委員として農業技術の
動物文学「朱鷺のキンちゃん空を飛ぶ」、
「自
指導にあたり、農業開発の大先達ともいわ
由訳・般若心経」、「この街で」、「自由訳・
れています。
イマジン」、「自由訳・良寛」、「良寛さんの
愛語」など。
五十嵐
勉(いがらし
つとむ)
1913(大正 2)年 3 月 1 日∼1987
(昭和62)年 9 月11日
南区(旧月潟村)に生まれました。鏑木清
方の門人小早川清に入門、1942(昭和
17)年、文部省美術展に入選しその頭角
を現しました。その後伊藤深水に師事。
1960(昭和35)年、
「梅干を漬ける家
族」は日展に入選。その後も廔々日展に入
選しました。入選作「裸の子供たちは」は
母校月潟小学校にかかげてあります。
photo by Kazumi KURIGAMI
298
地域を越えた文化資源
池田
寿夫(いけだ
としお)
石山
賢吉(いしやま
けんきち)
1906(明治39)年8月15日∼19
1882(明治15)年∼1964(昭和
44(昭和19)年11月9日
39)年
本名横山敏男。中央区(旭町通)に生まれ
雑誌、新聞記者を経て1913(大正2)
ました。父の早逝により、母が旭町通で下
年、雑誌ダイヤモンドを創刊。それ以来5
宿業を営みながら敏男を育てました。
0年、ダイヤモンド社の社長、会長として
1913(大正2)年、新潟尋常高等小学
経営にあたるとともに、第一線の記者とし
校(現・新潟小学校)に入学。坂口安吾は
て健筆を奮いました。著書に「決算報告の
同級生。安吾の自伝的小説「石の思い」に
見方」など30数冊。
は、
「1番は必ず山田というお寺の子供で2
番が私か又は横山(後にペンネーム池田寿
市島
夫という左翼の評論家か何かになった人で
1907(明治40)年11月20日∼1
ある)という人で、私はたいがい横山に負
948(昭和23)年4月6日
けて3番であったように記憶する」と書か
中央区(古町6番町)で生まれました。家
れています。
業は洋品眼鏡店。新潟尋常高等小学校から
旧制新潟中学校(現・新潟高等学校)から
県立新潟商業学校に入学しますが、店の経
旧制新潟高等学校(現・新潟大学)の医学
営者だった祖父の病気のため中退してしば
部コース、理科乙類を選んだが、入学後次
らく家業を継いでいました。そのころ、東
第に社会主義思想に傾きました。校友会雑
京から帝国麦酒会社新潟出張所社員として
誌に「プロレタリア文学を論ず」
(1926
新潟に来ていた寒河江真之助(詩人でもあ
<同15>年)を載せたり、新潟新聞に「現
った)のところに出入りするようになり詩
代文学の欠陥」
(1927<昭和2>年2月
をつくりました。
22日)を発表したりしました。東京大学
1926(大正15)年8月、寒河江、市
農学部農業経済学科に進学し、新潟高等学
島、八木末雄、新島節の4人で詩誌「新年」
校卒業生をあつめて同人誌「鍛冶場(かじ
を創刊しました。印刷所は横場精良堂、発
ば)」を創刊、「反逆精神と闘争意識」をス
売所は北光社。詩風は、当時としては超モ
ローガンとしました。大学卒業後、日本プ
ダンな芸術至上的で、小千谷出身の詩人西
ロレタリア作家同盟で働いていましたが、
脇順三郎らの提唱した超現実主義運動の新
1933(同8)年、宮本顕治と時を同じ
潟版です。市島と寒河江は中央詩壇で注目
くして警察に検挙されます。
されました。
1939(同14)年春、満州に渡り満州
これより1年前の1925(同14)年、
糧穀会社に勤務し結婚。結核を発病し、彼
東京の「日本詩人」2月号に載った市島の
の地で亡くなりました。
詩「ひどい海」は、萩原朔太郎に激賞され
著書に「日本プロレタリア文学運動の再認
ました、
「市島三千雄君は天才的である。そ
識」「満州水稲作の研究」などがあります。
の前途に嘱望する」と。
三千雄(いちしま
みちお)
1928(昭和3)年に寒河江が東京へ戻
299
地域を越えた文化資源
って洋酒販売業を開いたので、それを頼っ
伊藤
て市島も上京。詩作をつづけましたが生涯
1901(明治34)年4月5日∼199
の作品数は21編でした。
1(平成3)年6月1日
代表作は、
「ひどい海」で、新潟の自然や風
江南区(旧横越町)生まれ。第11代横越
土性を自己の感性で表現したもの。196
村長として1942(昭和17)年から1
2(同37)年3月、中央区上大川前1、
946(同21)年までの間、太平洋戦争
白山小学校前に「海底」同人らによって、
で疲弊し混乱した時期の村政を担いました。
銅版打ち出し碑面の「ひどい海」の詩碑が
戦後、公職追放の通告を受けて村長を辞任
建てられました。
しますが、1955(同30)年に村長選
1992(平成4)年8月、交通事情等に
挙で当選。第14代横越村長として上水道
よって、市内ドン山松林に移築再建(石碑
整備や横雲橋架け替えなどを手がけ、19
に刻み直して)されました。
67(同42)年退任。
威夫(いとう
たけお)
兄は七代伊藤文吉であり、北方文化博物館
伊藤
五郎左衛門(いとう
ごろうざえも
の創設にも協力しました。
ん)
1972(同47)年、勲六等旭日単光章
1778(安永7)年∼1839(天保8)
を受章。旧横越町名誉町民。
年
内野新川開削の功労者。
伊藤
1778(安永7)年、山崎村(現西区)
1874(明治7)5月18日∼1940
に生まれ、養父の中野小屋村(現西区)割
(昭和15)年7月16日
元庄屋を継ぎました。中ノ口川と西川の間
曹洞宗総持寺貫主。幼い頃から肺肋膜を病
に広がる三潟という低湿地帯の排水のため、
み、広大寺に起居して闘病と仏道修行に励
新川開削の願人の中心の1人となり、周辺
んでいましたが、真の信仰を求めるなかで
の村々や新潟町との利害関係を調整し、長
ようやく病弱から解放され、大本山総持寺
岡藩・幕府の許可を得ました。1818(文
へ行くことになりました。一雲水として修
化15)年に着工しましたが資金が尽き、
行中の1898(明治31)年、寺が全焼。
借金と藩の援助金で工事を継続して、18
猛火の中を宝物や重要文書を運び出して抜
20(文政3)年に新川を通水させました。
群の功績をあげました。26歳のとき、選
長岡藩領の願人たちは多くの借金をしまし
ばれて曹洞宗大学林で学びました。191
た。五郎左衛門も田畑・庄屋屋敷を失い、
1(同44)年、総持寺が能登から鶴見へ
後に村を去りました。新川は今も旧西蒲原
移るとともに、副寺(ふうす<禅寺で会計
地域の基幹排水路の役割を果たしており、
をつかさどる役僧>) として10年間活躍
河口の新川排水機場には、新川工事を讃え
しました。1935(昭和10)年、曹洞
た「治水偉績碑」があります。
宗管長、総持寺九世貫主となりました。
300
道海(いとう
どうかい)
地域を越えた文化資源
犬童
球渓(いんどう
きゅうけい)
研究し、弁論を修練しました。
1879(明治12)年∼1943(昭和
1898(明治31)年町会議員となり、
18)年
織物同志会を組織して織物の改良、販路の
熊本県球磨郡藍田村に生まれました。本名
拡大を図り、さらに五泉銀行頭取をつとめ
は信蔵。
「旅愁」や「故郷の廃墟」の作詞者。
るなど、地方の政治、産業、文化、教育な
東京音楽学校師範科を卒業後兵庫県の中学
どの振興に尽くしました。
校に勤めましたが9ヵ月で辞めて新潟県高
明治末期から大正初期にかけて坂口五峰が
等女学校に赴任。1906(明治39)年
「北越詩話」の編集にかかると、それに協
1月から1908(同41)年3月まで教
力して資料の収集、整理、草稿の作成など
鞭をとっていました。
労を惜しみませんでした。
1923(大正12)年五泉町教育会長と
有願和尚(うがんおしょう)
なり、図書館を建設して講演部を設け、自
1737(元文2)年∼1808(文化5)
ら経書、詩文などを講じました。
年8月3日
代官島の名主田沢家に生まれました。幼い
永塚
時、茨曽根の永安寺住職大舟に学び、諸国
1912(明治45)年5月19日∼19
を修行。晩年は新飯田の円通庵に住み、子
93(平成5)年4月22日
ども達に手習いを教えるなど教育を施し、
世界最高記録鶏を作出した養鶏家。
社会奉仕も心掛けました。
鶏の飼育状況が自家用卵生産から10∼2
また、書及び絵画に優れていて、詩歌も巧
0羽程度の飼育状況に推移してきた193
みでした。五合庵に住んでいた良寛とよく
2(昭和7)年に大佐久は養鶏を始めまし
交流を重ね、互いに影響しあいました。2
た。その後1,000羽飼育を達成し、人
0歳の年齢差がありながらも気持ちがよく
工授精による品種改良に努め、戦後まもな
通じ、宗教や書画、詩歌について話し合っ
い1945(同20)年には産卵日本記録
たといいます。
鶏を作出し、連続4年も日本一の座につき
有願は亡くなる時良寛を呼び、その膝にも
ました。
たれて息をひきとったといいます。
1951(昭和26)年には世界最高記録
大佐久(えいづか
だいさく)
(365卵)を樹立。さらに1954(同
歌川
秋南(うたがわ
しゅうなん)
29)年から2年連続で十羽一群世界記録
1862(文久2)年∼1927(昭和2)
を達成し、養鶏界にその名を刻みました。
年10月18日
1947(同22)年、昭和天皇が新潟県
柄目木(現秋葉区)の真柄家の出身で、本
御巡行で巻町の県種鶏場をご訪問された際
名は兼太郎。
に産卵日本記録鶏と共に天覧の栄に浴しま
19歳のとき江戸へ出て勉学に励み、その
した。また、1955(同30)年には品
後帰郷。26歳で五泉の歌川家を継ぎ、家
種改良により十羽一群世界記録を達成し、
塾を開き五泉協会をつくって政治、法制を
参議院議員会館にて農林水産大臣賞を受賞
301
地域を越えた文化資源
しました。
遠藤
長年優れた鶏を作出するため雛の品種改良
1839(天保10)年∼1892(明治
に努め、養鶏界において多大な功績を残し
25)年
ました。
北区(旧豊栄市)に生まれ、代々の庄屋を
七郎(えんどう
しちろう)
継ぎました。1866(慶応2)年の凶作
江川
啓作(えがわ
けいさく)
時、村民の救済のため新発田藩から700
1871(明治4)年7月29日∼193
両を借りました。勤王の志が強く、186
8(昭和13)年
8(明治元)年夏に戊辰戦争が越後に及ぶ
秋葉区(子成場)に生まれました。苦心研
と、自発的に草莽(そうもう)隊(農兵隊)
究を重ね、1897(明治30)年(18
である約150人の北辰隊(ほくしんたい)
99<同32>年、1902<同35>年
を組織し、新政府軍とともに各地を転戦し
説もある)芍薬(しゃくやく)根を台木に
ました。その後、北辰隊は佐渡への進駐、
して牡丹を接木することに成功しました。
東京の第三遊軍隊編入などを命じられ、1
この画期的な接木法により新潟の牡丹の生
870(明治3)年の解隊で全員が帰郷し
産性を増大させました。また、1916(大
ました。七郎は、士族に列せられましたが、
正5)年には芍薬の名花と言われた「黒王
帰郷後は政治に関わらず、村杉温泉(阿賀
丸」を作り出しました。
野市)の規模拡大に取り組みました。顕彰
碑が開市神社境内にあります。
江川
蒼竹(えがわ
そうちく)
1917(大正6)年2月∼2008(平
遠藤
成20)年3月20日
1932(昭和7)年7月6日∼2008
新潟市に生まれました。本名は清。新潟の
(平成20)年12月6日
書道界を代表する人物。1937(昭和1
作曲家。日本の歌謡史に残る大ヒット曲、
2)年上京し書壇院創設者の吉田苞竹に師
「北国の春」などの作曲で広く国民に知ら
事。1947(同22)年父の病気のため
れています。
家族と共に新潟に帰郷しました。県展書道
戦時中に両親の故郷である新潟市へ疎開し
部門の創設運動に取り組み1957(同3
少年期を過ごしました。作曲の原風景は新
2)年(第12回)に実現させるなど、県
潟にあるといいます。1972(昭和47)
内における書道普及に果たした役割は大き
年には中之口音頭の補作詞と作曲。200
なものです。書壇院名誉顧問・審査員、書
5(平成17)年合併記念歌「越後絶唱」
壇院展名誉顧問、県展参与、県美連名誉会
を作曲し、新潟市民に明るい希望と感動を
員などを務めました。
与え、新潟に多大な貢献があったとして「新
実(えんどう
みのる)
潟市特別感謝状」を贈られました。200
8(同20)年、政令市移行記念歌「あり
がとう新潟」を作曲。角田山麓の平成福寿
大観音像は遠藤氏の寄進によるものです。
302
地域を越えた文化資源
1990(同2)年紫綬褒章、2002(同
942(同17)年に入社、その経営の才
14)年勲三等旭日中綬章を受章するほか、
能と決断力は素晴らしく、間もなく専務に
2003(同15)年には大衆音楽の分野
昇進しました。
から初めて文化功労者に顕彰されました。
東映の社長となってからは、自らもプロデ
その生涯に5,000曲を超える作品を世
ューサーとして「ひめゆりの搭」
「飢餓海峡」
に送り出し、没後、国民栄誉賞を受賞、並
といった映画史に残る名作や「旗本退屈男」
びに正四位旭日重光章を受けました。
などのヒット作を生み出し、大勢の俳優、
監督を育てています。
また、多くの子ども向けの名作映画を作り、
母校に教育機材を寄贈するなど、教育と郷
土の発展に尽くしました。
そのほか、日本教育テレビ(現在のテレビ
朝日)の会長、プロ野球「東映フライヤー
ズ」のオーナーなども兼任し、幅広く活躍。
日本の実業界にその名を轟かせました。
東映フライヤーズは1962(同37)年、
パリーグのペナントを獲得、優勝祝賀会で
背番号100が宙に舞い、会心の笑みで乾
杯の音頭をとりました。この年、日本選手
権試合でも阪神を破り、日本一に輝きまし
大川
博(おおかわ
ひろし)
た。
1896(明治29)年∼1972(昭和
47)年
東映映画創設者。西蒲区(旧中之口村)生
まれ。
日本を代表する映画会社東映は、鶴田浩二、
萬屋錦之助、高倉健、藤純子らの大スター
を生み、多くの傑作を世に送りだして来ま
した。
1949(昭和24)年に設立された東映
は、親会社東急の専務が会社経営と映画製
作の陣頭指揮に当ってから急成長します。
その立役者こそが、西蒲区中之口地区出身
の大川博です。
鉄道省の役人として敏腕を振るっていた大
川は、東京の大手私鉄・東急に乞われて1
303
地域を越えた文化資源
大国
実頼(おおくに
さねより)
大澤
仁助(おおさわ
にすけ)
1562(永禄5)年∼1622(元和8)
1874(明治7)年∼1921(大正1
年
0)年
長尾正景の家臣・樋口兼豊の次男。直江兼
西蒲区(旧中之口村)出身。鍛冶屋。宮内
続の弟。幼名は与七。1582(天正10)
省(くないしょう)も購入した越後鎌(え
念に上杉景勝の命で小国氏(天神山城主、
ちごがま)の作り手。
西蒲区)を継ぎ、後に大国姓に改姓しまし
大澤重吉の次男として生まれた仁助は、小
た。1587(同15)年、景勝の新発田
学校を卒業すると、富永(旧吉田町)の鎌
重家討伐を秀吉に報告するため上洛。以後
鍛冶亀倉伝三(かめくらでんぞう)の弟子
京都に居ることが多かったのですが、人質
として住み込み、23歳で独立して鍛冶屋
としての意味もあったといわれています。
を始めました。
景勝の会津移封後は、南山城(2万100
日頃、温厚な仁助は仕事場では別人のよう
0石南会津郡)の城代。連歌の達人で多く
に厳しく、精魂(せいこん)こめて製作し
の句を残しました。
た鎌は数々の賞を受賞し、越後鎌の名声を
全国に轟かせました。
大倉
市十郎(おおくら いちじゅうろう)
1907(明治40)年には天皇陛下御用
(号:息隠<そくいん>)
品として、宮内省が購入しました。また優
1834(天保5)年∼1909(明治4
秀な弟子を 8 人も育てました。
2)年
その間にも、羽黒で農事共励会を創立し、
曽川の儒学者で、亀田で私塾を開いた青木
農業技術の改良発展に努めました。
青城に朱子学を学び、明治初頭の北越戊辰
戦争で農民兵を指揮して戦い、亀田のまち
太田
を戦禍から救いました。
文政元年(1818)正月(一説に181
維新後、21大区の小区長を勤め、さらに
5<文化12>年)∼1900(明治33)
新潟県庁に出仕し、県令、楠本正隆に仕え
年3月
信任を受け、県管内計算掛、女紅場主幹、
長野県下伊那郡鼎(かなえ)村に生まれま
勧農場長を歴任、1877(明治10)年
した。長男儀右衛門が家を継ぎ、姉りつは
には後の新潟市長鈴木長蔵とともに日刊紙、
画家の胡城喜一に嫁し、末弟の木甫は同村
新潟新聞の発行のための活版会社「隆文社」
の太田退助家を継ぎました。家はあまり裕
の経営を始めました。
福ではなく、元結製造の職工となりました。
1883(同16)年、県会議員に当選し
もともと放浪癖があり、若いころ身につけ
て活躍しました。
た鍼灸の医術で生活しながら諸国を遍歴し
木甫(おおた
もっぽ)
ているうちに俳諧を学び宗匠となりました。
広川百鴎が松尾芭蕉の跡を偲んで新潟に
「降雨庵」を創立し、俳諧の振興に専念し
ていることを聞き、1882(明治15)
304
地域を越えた文化資源
年、64歳のとき新潟を訪れました。その
高等学校卒業後、津田塾大学に進学。文学
折の俳句が「柳あり橋あり杖のとめどころ」
に専念、エリオットの影響を受けて詩作も
です。
しました。大学卒業後、中学校と高等学校
2世降雨庵主となり、門弟の指導にあたり
の講師をしますが、心身の健康を害し新潟
ました。その中で吉田除風がもっとも秀れ
に帰省、読書に明け暮れました。
ていたと言われています。1899(同3
大庭利雄と結婚。夫の勤務でアラスカ州シ
2)年頃「俳諧越の曙」という同人誌も出
トカに移住。そこで書いた「三匹の蟹」が、
しています。妻は梅玉尼。
群像新人賞と第59回芥川賞(1968<
木甫の作品には、
「何事もなくて日永きひと
同43>年)を受賞しました。1982(同
りかな」「見て居れば知る人来たり梅に月」
57)年に谷崎潤一郎賞も受賞しています。
などがあります。妻の句には、
「浪おとも静
中央高等学校の寄宿舎生だったころのこと
や磯にきりぎりす」
「老の手にむすぶも涼し
を回想風に書いた作品に「塩引き」
(199
滝の音」などがあります。
3<平成5>年)があります。
NEXT21の脇、西堀通6番町に「柳あ
1996(同8)年4月、第23回川端康
り橋あり杖のとめどころ」の句碑が196
成文学賞を「赤い満月」(「文学界」199
5(昭和40)年に建てられました。
5<同7>年)で受賞。これは1989(同
元)年の第16回に次ぐ2回目の受賞でし
大庭
みな子(おおば みなこ)
た。
1930(昭和5)年11月11日∼20
07(平成19)年5月24日
岡田
本名美奈子。旧姓椎名。東京都生まれ。新
1896(明治29)年12月5日∼19
潟県出身ではないが、母は北区(旧豊栄市)
92(平成4)年9月28日
の出身、父は新潟医専(現・新潟大学医学
西区(旧黒埼町)に生まれました。192
部)出身の海軍軍医でした。父親が上海の
6(大正15)年、31歳の若さで黒埼村
海軍病院に勤務中、母親の実家にきて木崎
助役に就任し、以後村議会議員、村長等を
小学校に通ったこともあります。
歴任。1936(昭和11)年に黒埼村議
1947(昭和22)年、岩国高等女学校
会議員に選ばれ、以降10年10ヵ月歴任
を卒業。この年一家で母の実家である豊栄
したほか、1938(同13)年に新潟県
町(現北区)へ転住。父はここで開業医と
議会議員に初当選し、1971(同46)
なります。みな子は新潟高等女学校(現・
年まで連続8期を務めました。交通運輸事
新潟中央高等学校)専攻科に入学して寮生
業の発展や県の農業振興に尽力し、196
活を送りました。校風に合わず、2学期か
7(同42)年に地方自治への功労が認め
ら新発田高等女学校(現・西新発田高等学
られ勲四等瑞宝章を受章。旧黒埼町名誉町
校)に転校。翌年学制が変わった際、新潟
民。
中央高等学校3年に編入学。彼女の才能が
認められたためでした。
305
幸平(おかだ
こうへい)
地域を越えた文化資源
小川
蕃(おがわ
しげし)
1891(明治24)年10月∼1939
(昭和14)年9月1日
朝鮮医学界の功労者。秋葉区(旧新津市)
に生まれました。東京帝国大学医学部卒業
後、1920(大正9)年京城医学専門学
校外科学教授に就任し、朝鮮総督府医院で
近代外科学の開拓に尽くしました。192
6(同15)年、医学博士となりました。
1928(昭和3)年京城帝国大学医学部
教授となり、熱心に医学生を指導し、門下
から130余名の外科医を各地に送り出し、
朝鮮医学界の発展に貢献しました。
小熊
荻野
久作(おぎの
幸一郎(おぐま こういちろう)
1866(慶応2)年∼1952(昭和2
きゅうさく)
1882(明治15)年3月25日∼
7)年
1975(昭和50)年1月1日
北洋漁業で成功した北海道函館の実業家。
1909(明治42)年、東京帝国大学医
1866(慶応2)年、太郎代浜(北区)
学部卒業後、同校産婦人科教室で研究を続
の旧家の2男として生まれ、7歳で新潟町
け、1912(同45)年、竹山病院(中
の商家の養子となりました。米相場で失敗
央区)産婦人科医長に就任。臨床のかたわ
し、北海道の函館に渡って回船問屋に奉公
ら産婦人科の研究を続けました。
し、海産物商店を開きました。北洋漁業に
氏の研究は婦人の受胎に関するものが多く、
初めて汽船を導入して成功し、海運・倉庫・
50編を超える論文を記述しました。
銀行業にも事業を拡大して、函館経済界の
なかでも排卵期と受胎期に関する研究は画
重鎮となりました。函館図書館や商工会議
期的学制として著名であり、日本医学界の
所社屋の建設費寄付、小熊育英資金の創設
至宝ともいわれています。新潟市名誉市民。
など、社会事業に貢献して「函館の恩人」
といわれました。また、太郎代浜から北海
道へ出稼ぎに出る人は、多くが幸一郎を頼
って行きました。
太郎代の住民は他地域へ行くときに高い砂
丘を越えなければならず、難渋を極めてい
たため、幸一郎は私財を投じて新発田方面
に通じる道路を造りました。村人はその功
績をたたえ、塔婆山金龍庵の境内に里道改
築碑や幸一郎像を建立しました。集落内に
306
地域を越えた文化資源
も同様に里道修築碑があります。
である卯三郎(うさぶろう)は、最初の国
会議員となりました。
小田
喜平太(おだ きへいた)
13歳の時長善館(ちょうぜんかん)で漢
1878(明治11)年2月15日∼19
籍(かんせき)を学び、長岡藩士の家で修
46(昭和21)年3月22日
行した後、帰郷して庄屋職を継いだ卯三郎
チューリップの産業栽培に生涯をかけ、我
は、1889(明治22)年、小吉村初代
が国最初のチューリップ球根の生産に成功
村長となり、村民福祉の増進と教育の向上
しました。この決断と先見が小合(こあい)
をはかりました。また、大河津分水工事な
地区(現秋葉区)に「東洋のオランダ」と
ど冶山・冶水活動に全力を傾けました。
いわれる花園を開花させるきっかけとなり、
小合地区は1955(昭和30)年頃から
小柳
多種多様な園芸品を取り扱うようになって、
1870(明治3)年11月3日∼194
現在では花卉花木の生産地として全国に知
0(昭和15)年7月18日
られています。
文学博士。三条市上保内生まれ(当時上保
司氣太(おやなぎ
しげた)
内村)。東中村(現西蒲区)で代々庄屋を務
小田
与松(おだ
よまつ)
める母の実家で育ち、6歳から漢学に親し
1853(嘉永6)年∼没年不明
みました。各地に多くの逸材を輩出した西
加茂の生まれ。櫛笥村(現南区)の小田家
蒲原郡吉田町(現燕市)の私塾「長善館」
の養子となりました。稲の品種改良につと
に学んだ後に上京して、東京帝国大学文学
め、極早稲「小田珍光」を開発。大正から
部に入学。漢学を修めた後、教師として学
昭和初期にかけて早稲種のシェアでトップ
生の教育にあたりました。
を占めていました。婿の又三も同じく早稲
1904(明治37)年、学習院教授には
種の「小林錦」を開発。親子二代にわたり
じまり、東京帝国大学、駒澤大学で講師を
新品種を開発しています。
歴任、その後大東文化学院学長を務め、我
が国の教育界に多大な貢献をしました。文
小柳
卯三郎(おやなぎ
うさぶろう)
学博士となってからは、漢学のみならず、
1843(天保14)年3月4日∼191
道教研究に先駆的業績を残したほか、宋学
5(大正4)年9月6日
から近代思想に及ぶまで多角的な研究を推
西蒲区(旧中之口村)出身。庄屋、小吉村
進しました。主な著書に「老荘の思想と道
(現西蒲区)初代村長、県会議員、衆議院
教」「東洋思想の研究」などがあり、また、
議員を歴任し、自由民権運動と大河津分水
その深い学識を駆使した「新修漢和大字典」
(おおこうづぶんすい)工事に奔走(ほん
は、後の漢字研究家に大きな影響を与えて
そう)しました。
います。
第1回県会議員。山際七司(やまぎわしち
とりわけ「大漢和辞典」の著者として知ら
し)らと並ぶ国会開設の先達者(せんだつ
れる南蒲原郡下田村出身の諸橋轍次(もろ
しゃ)で、自由民権運動の指導者のひとり
はしてつじ)博士も生涯小柳博士を慕い、
307
地域を越えた文化資源
業績をたたえています。儒者一代の栄誉は
1936(昭和11)年、ベルリンオリン
聖上への御進講にありとまでいわれますが、
ピックでレスリングのフリースタイル・ラ
博士は1940(昭和15)年 1 月 23 日
イト級5位となりました。その後も8年連
の講書始に昭和天皇へ周易を進講しました。
続全日本ウェルター級チャンピオンとなる
など活躍。財団法人日本アマチュアレスリ
お笑い集団NAMARA(おわらいしゅう
ング協会の会長、同協会の名誉会長を務め
だん
ました。1948(同23)年に新潟日報
なまら)
1997(平成9)年にスタートした全国
文化賞を受賞、1992(平成4)年に勲
初の地方お笑い集団。設立のきっかけは、
四等瑞宝章を受章しました。
同年新潟市で開催された「第一回新潟素人
お笑いコンテスト」
(新潟市青年ネットワー
片柳
ク主催)。その後もお笑い活動を続けたいと
生年不明∼1871(明治4)年
いう出場者やスタッフの有志で、お笑い集
幕末維新期、高崎藩(群馬県)は越後蒲原
団 NAMARA が立ち上がりました。ライブ
郡に羽黒(はぐろ)・打越(うちこし)・岩
やメディア、イベント出演のほか、小中学
室(いわむろ)村(現西蒲区)、月潟村(現
校での「お笑い授業」など、これまでのお
南区)など36ヵ村ほどの飛地領を持って
笑いのイメージにとらわれない活動も行っ
いました。1871(明治4)年7月に廃
ています。ٛ
藩置県が実施され、高崎藩は高崎県に名が
礼三(かたやなぎ
れいぞう)
変わりました。同年9月、この年の年貢を
決めるため、高崎藩士の片柳礼三が作柄調
査に訪れました。蒲原郡は、田植え後の干
害と夏以降の水害で不作でした。領民の困
窮振りを見た礼三は、独断で年貢を大幅に
減免しました。藩に申し訳が立たないと思
った礼三は、羽黒村の庄屋の裏で切腹しま
した。遺体は高崎に送られましたが、村で
は血染めの衣類を納めた墓を立て、義士と
してお祀(まつ)りしました。
か行
桂
風間
栄一(かざま
えいいち)
湖村(かつら
こそん)
1868(明治元)年∼1938(昭和1
1916(大正5)年∼2001(平成1
3)年
3)年
漢文学者。名は五十郎。新津(現秋葉区)
新潟市出身。新潟のレスリングの生みの親、
に生まれ、幼少時に福島潟近くの分家の養
育ての親として数多くの選手を育成しまし
子になりました。東京専門学校卒業後、
「日
た。
本新聞」に入社し、正岡子規と文芸欄を分
308
地域を越えた文化資源
担していましたが、のち中国に留学しまし
秋葉山と称するようになりました。177
た。帰国後、早稲田・東洋・国学院の各大
4(安永3)年、下興野新田(現北区)に
学の講壇に立ち、晩年は早稲田大学の名物
桂原山龍雲寺を建立し、葛塚の開発に尽く
教授として知られました。また陶器を愛好
しました。
収集し、陶器に関するすぐれた研究著書「漢
籍解題(かんせきかいだい)」は当時類のな
桂
い中国学会の至宝として尊重されました。
1782(天明2)年2月23日∼185
なお、文豪森鴎外の漢詩の師匠としても有
0(嘉永3)年5月18日
名です。
新津組大庄屋、桂家第6代。1820(文
誉正(かつら
たかまさ)
政3)年、阿賀野川・能代川の洪水に際し
桂
誉章(かつら
たかあき)
て、処理が適切であったとして領主から苗
1734(享保19)年1月29日∼17
字帯刀を許されました。また天保の凶作に
96(嘉永8)年5月22日
際して庭園を造り、窮民に日料を稼がせる
新津組大庄屋、桂家第4代。京都で書籍を
などして救済に尽くしました。文化面では、
収集し、邸内に「萬巻楼(まんがんろう)」
歌人の橘由之(良寛の弟)や国学者の飯塚
と名づけた文庫を造りました。この萬巻楼
久利、鈴木重胤などと交遊しました。特に
は、単に万巻の書を集めた文庫ということ
国学に傾倒し、桂家の国学資料は国学の地
だけでなく、ここを拠点にして文化交流を
方伝播を知るうえで重要です。
通じて新津の文化に大きな影響を与えまし
た。また、俳諧に遊び、1773(安永2)
年に「俳諧十論衆議拾遺」を出版、179
4(寛政6)年には「俳諧三祖塔(はいか
いさんそとう)」を秋葉山に建立しました。
これは、近世越後の文学史を研究するうえ
で極めて有益な資料です。
桂
誉春(かつら
たかはる)
1704(宝永元)年∼1774(安永3)
年11月17日
新津組大庄屋、桂家第3代。1736(元
文元)年、新発田藩より御用達を仰せつけ
られ、1741(寛保元)年には新発田城
西門建立の功により庄屋格となり、176
6(明和3)年には新津組22ヵ村の庄屋
となりました。1763(宝暦13)年、
田家山に秋葉神社を創建し、以来この山を
309
地域を越えた文化資源
加藤
澤男(かとう
さわお)
加藤
順蔵(かとう
じゅんぞう)
1946(昭和21)年∼
1815(文化12)年∼1874(明治
五泉市(旧村松町)生まれ。体操競技の日
7)年
本人選手としてオリンピック3大会に出場。
信濃川西岸にある天野新田(江南区)は、
新潟南高校に進学し、2・3年の時に国体
毎年、信濃川の氾濫に悩まされていました。
とインターハイに出場しました。卒業後は
21歳の若さで天野の名主となった加藤順
東京教育大学(現筑波大学)に進学し、1
蔵はこの困苦を救うため、堤防を築いて水
968(同43)年の4年生の時にメキシ
流を閉じ、新水路を開いて耕地の湛水を鳥
コオリンピックに出場。以後1972(同
屋野潟へ排水する計画を立てました。しか
47)年、ミュンヘンオリンピック、19
し、堤防を築くと河川が停滞するからと沿
76(同51)年、モントリオールオリン
岸の17ヵ村から猛烈な反対の声が上がり
ピックに出場しました。オリンピックでの
ました。順蔵は理解を得るために関係の
成績は3大会に出場し、金メダル8個、銀
村々を24年もの歳月をかけて説き伏せま
メダル3個、銅メダル1個の合わせて12
した。1860(万延元)年にようやく築
個のメダルを獲得しました。
堤工事が始まりました。次に曽川地内に溝
1999(平成11)年、国際スポーツ記
渠を掘り、鳥屋野潟へ常流させることにつ
者協会が選んだ「ザ・ベスト・アスリーツ・
いても133ヵ村から異議申し立てされる
オブ・ザ・センチュリー」の25人のうち
など、順蔵の前に難題が降りかかりました。
の1人として選出された。また、2001
それにも屈せず、その後12年に渡り村々
(同13)年に「体操競技の殿堂」入りを
の了解を得る努力を重ねました。生涯を天
果たし、2004(同16)年には紫綬褒
野地区の治水に捧げた人物です。
章も受章。
加藤
清吉(かとう
せいきち)
中沢太郎治が起こした信濃川分流により、
天野の開拓は促進し、新田開発が大いに進
んでいましたが、依然として繰り返す洪水、
度重なる災いにほとほと疲れ、ともすれば
開墾の意欲を村人は喪失しかけていました。
1808(文化5)年頃、新発田藩主が村
人の安定を計り天野新田の開拓を進めるた
めに、北蒲原郡二枚橋村(現:聖籠町)に
住む、加藤清吉を天野に派遣し、名主の役
職に付きました。
加藤順蔵は清吉の子どもに当たり、親子2
代に渡り里正の地位に付き、天野の開拓に
心血を注ぎました。
310
地域を越えた文化資源
加藤
清二郎(かとう せいじろう)
8(同20)年朝日舞台芸術賞舞踊賞ほか
1898(明治31)年4月8日∼198
受賞歴多数。
2(昭和57)年9月24日
1921(大正10)年に単身上京し、1
924(同13)年に食堂を創立。
「事業は
人なり」という信念を持って食堂経営に当
たり、日本で最大級の規模と内容を有する
食堂・ホテルの「聚楽(じゅらく)チェー
ン」をはじめ、観光事業など関連企業を多
角的に経営。
「日本の食堂王」と称された実
業家。旧白根市名誉市民。
金森
穣(かなもり
じょう)
1974(昭和49)年∼
舞踊家、演出振付家。
photo by Isamu Murai
りゅーとぴあ新潟市民芸術文化会館舞踊部
門芸術監督/Noism(のいずむ) 芸術
金子
監督。2004(平成16)年に設立され
1915(大正4)年9月16日∼194
た、日本初のヨーロッパスタイルのダンス
2(昭和17)年5月27日
カンパニー・劇場専属舞踊芸術集団Noi
日本画家。東京美術学校の日本画科に学び、
smを率いています。
1940 (昭和15)年に首席で卒業しま
ルードラ・ベジャール・ローザンヌにて、
した。日本画の伝統的技法を使った気品の
モーリス・ベジャールらに師事。ネザーラ
ある女性の絵を残し、残念ながら戦争で命
ンド・ダンス・シアターⅡ、リヨン・オペ
を散らしました。その絵のいくつかは、蒲
ラ座バレエ、ヨーテボリ・バレエを経て帰
原神社にかけられています。
孝信(かねこ
たかのぶ)
国。りゅーとぴあ新潟市民芸術文化会館に
舞踊部門芸術監督として迎えられ、Noi
金子
smを設立。自らの豊富な海外経験を活か
1899(明治32)年6月20日∼19
し、革新的なクリエイティビティに満ちた
58(昭和33)年5月27日
カンパニー活動を次々に打ち出し、そのハ
西蒲区(旧岩室村)に生まれました。19
イクオリティな企画力で日本のコンテンポ
15(大正4)年3月東京高等師範国語漢
ラリー・ダンス界をリードしています。
文部を卒業。1945(昭和20)年、学
2003(平成15)年朝日舞台芸術賞、
術上の著書・論文、数ある中で「平安時代
2007(同19)年度芸術選奨文部科学
文学と白氏文集」の研究に対して「帝国学
大臣賞、2008(同20)年度新潟日報
士院賞」を授与されました。
文化賞受賞。Noism08として200
1946(同21)年、慶応大学より文学
311
彦二郎(かねこ ひこじろう)
地域を越えた文化資源
博士の学位を授与され、同年女子学習院、
います。
1947(同22)年には東洋大学教授を
命ぜられました。
神田
この間、和納小学校、岩室小学校、佐渡山
1874(明治7)年2月2日∼1953
小学校、米納津小学校、浦浜中学校、弥彦
(昭和28)年6月28日
中学校、粟生津中学校、国上中学校など、
江南区(旧横越町)生まれ。第3・5・7・
県内各地の校歌を数多く手がけました。
10代横越村長を務め、明治から昭和にか
又一(かんだ
またいち)
けて通算20年2ヵ月に渡り村政を担いま
川田
芳子(かわだ
よしこ)
した。村内教育施設の整備を行ったほか、
1895(明治28)年∼1970(昭和
阿賀野川大改修事業、ٛ 二本木の寿橋の架け
45)年
替えなどにも尽力しました。旧横越町名誉
日本初の映画女優。新潟市出身で、日本舞
町民。
踊市山流の宗家が実家。小学校を卒業した
後に上京、松竹社長の大谷竹次郎と出会う。
北町
一郎(きたまち
いちろう)
新派女優として華やかなスタートを切り、
1907(明治40)年∼1990(平成
1920(大正9)年に松竹キネマの第1
2)年
作となった「島の女」の主演女優に起用さ
ユーモア小説など多数の著作が人々から愛
れ、1924(同13)年の女優人気投票
される「ふるさと」の作家。
で第1位となりました。以来100本以上
小向(現秋葉区)に生まれる。東京商科大
の映画に出演し、代表作には1929(昭
学(現・一橋大学)卒業後、
「婦女界社」に
和4)年、野村芳亭監督の「母」がありま
入社、仕事の傍(かたわ)ら文学の創作を
す。
続けました。戦時中は陸軍報道班員として
主にマライ・スマトラで井伏鱒二、海音寺
川村
修就(かわむら
潮五郎、小栗虫太郎らとともに取材活動を
ながたか)
1795(寛政7)年∼1878(明治1
しました。戦後は文部省の嘱託を務め、1
1)年
948(昭和23)年に「健康教室」を創
1843(天保14)年、幕府直轄領とな
刊し、78歳で退職するまで編集長として
った新潟町の初代奉行です。1852(嘉
学校保健教育の普及に努めました。
永5)年に堺奉行に転じるまでの新潟奉行
詩や評論、翻訳、新短歌など多方面で創作
在任中、新潟にお台場を築き、大砲を鋳造
活動を続け、ユーモア作家としても高い評
してすえ付け、外国船の侵入を防ぐため尽
価を得ました。代表作は1940(同15)
力。また、激しい飛砂の害を防ぐために防
年に出版された自伝的な小説「啓子と猾介」。
砂植林を行いました。その他、風紀厳正、
ユーモア小説のほかに、探偵小説、児童文
物価安定、民生施策にも取り組み数々の業
学など多数の著作を出版。ラジオドラマで
績で新潟町の発展に大きく貢献しました。
も活躍しました。
その遺品は新潟市へ寄贈され、保管されて
312
地域を越えた文化資源
楠本
正隆(くすもと
まさたか)
1838(天保9)年∼1902(明治3
5)年
大村藩士・政治家・男爵。大村藩で尊皇倒
幕派として活躍。1872(明治5)年、
新潟県令に任命され、開港場として恥ずか
しくない町にするために、新潟市民に「市
中心得書」を布告し、市街地の拡大、白山
公園の造園、街灯の設置など様々な新しい
施策を行いました。1875(同8)年、
東京府知事に起用され新潟を去るまで、新
潟町の近代化を強力に推し進めました。
黒井
健(くろい
小池
けん)
左右吉(こいけ そうきち)
1947(昭和22)年 11 月 2 日∼
1903(明治36)年∼2003(平成
中央区白山浦に生まれました。鏡淵小学校、
15)年
白新中学校、新潟高等学校を卒業ののち、
白根の特産「ル レクチエ」の日本での栽培
新潟大学教育学部中等美術科卒業。
に成功。当時、日本梨の栽培に取り組んで
上京して、学習研究社幼児絵本編集部に入
いた小池は、フランス・オルレアン地方か
り絵本の編集に携わりました。
ら苗木を持ち込み栽培に着手。当初は失敗
1973(昭和48)年、フリーのイラス
続きでしたが、産地をあげて栽培に取り組
トレーターとして独立。自作絵本「ぼくの
み、昭和50年代ころから安定した生産が
まち」を出版。1976(同51)年、処
できるようになりました。今では「ル レク
女単行本絵本「あめってあめ」を出版。
チエ」は新潟県を代表する果物になってい
1983(同58)年、雑誌「詩とメルヘ
ます。
ン」に掲載した一連の作品で第 9 回サンリ
南区東萱場には、「ル レクチエ発祥の地」
オ美術賞を受賞しました。
としてル レクチエ顕彰碑が建っています。
主な絵本作品に、「ごんぎつね」(新美南吉
作)、
「手ぶくろを買いに」
(同)、
「みんなみ
古泉
栄治(こいずみ
えいじ)
んなみーつけた」
(木村裕一作)があります。
1915(大正4)年3月26日∼199
画集に「ミシシッピ」「ふる里へ」など。
5(平成7)年8月12日
1988(同63)年、新潟市の市制10
1957(昭和32)年に亀田製菓株式会
0周年記念ポスターのイラストを担当しま
社を設立。1975(同50)年には売上
した。
高米菓日本一を達成しました。行政機関の
審議委員、各種団体の理事、役員などを務
めたほか、亀田町の商工業振興、地域振興
313
地域を越えた文化資源
に多くの功績を残しました。
小唄
また、亀田木遣り岩万燈の復元に際しては
1904(明治37)年11月6日∼19
保存会を結成し、初代会長に就任。197
74(昭和49)年6月21日
6(同51)年から岩万燈祭りを再開しま
新潟市の米穀商の長女として生まれました。
した。旧亀田町名誉町民。
母が他界し、父が破産して、1915(大
勝太郎(こうた かつたろう)
正4)年ごろ、沼垂町(中央区)の料亭「鶴
小泉
其明(こいずみ
きめい)
善」の養女となりました。
「お勝」の名で鶴
1761(宝暦11)年∼1836(天保
善の座敷に上がり、唄が評判の人気芸者に
7)年5月11日
なりました。1929(昭和4)年に上京
1828(文政11)年三条市を中心に発
し、
「勝太郎」の名で芸者・歌手活動を始め、
生した大地震の被害状況を実際に歩いて描
1933(同8)年発売のレコード「島の
き、折本型画帖にして残しました。この画
娘」が大ヒットし、芸者を辞めて「小唄勝
帖を「懲震毖鑑」
(ちょうしんひかん)とい
太郎」を名乗りました。
い、各地の惨状を彩色画29図にわたって
「東京音頭」
「明日はお立ちか」などヒット
詳細克明に描写しています。これは地震資
曲が多く、戦後もスターの座を保ちました。
料としては他に類をみないものであり、単
故郷の新潟でよく公演し、小唄勝太郎襲名
に三条地震の実態を知るだけでなく地震学
演奏会の際には、沼垂小学校にピアノを贈
全般の考察にも有益な資料となっています。
りました。東京府中市で死去。生誕100
周年を記念し、2005(平成17)年、
小泉
蒼軒(こいずみ
そうけん)
鶴善跡地(中央区沼垂東4)に「勝太郎の
1797(寛政9)年∼1873(明治6)
碑」が建てられました。
年10月19日
幕末の地理歴史学者。小泉其明の長子。父
こしの
其明にしたがって越後・佐渡をくまなく廻
1895(明治28)年8月20日∼19
り、父の越佐地図の完成を助けました。父
58(昭和33)年2月27日
の死後、越後の地理と歴史の集大成「越後
西蒲区(旧潟東村)に生まれました。19
志」の完成に生涯を費やして取り組みまし
21(大正10)年、横山大観を訪ね弟子
た。また、
「小泉蒼軒日録」は40年間にわ
入りを請うたが聞き入れられず、のち、上
たって幕末の変動期を通して郷土とともに
野日本肖像画学院に入学。1923(同1
生きた日記集であり、当時の越後を知るう
2)年、関東大震災で帰郷。まもなく巻町
えでたいへん貴重な資料です。
漆山で独立し「美高」と号して画家の道を
千涯(こしの せんがい)
歩きました(当時30歳)
。その後、五泉市、
さらに新潟市へ移住し、雅号を「耕華」
「耕
堂」に改めます。
1935(昭和10)年、良寛研究家相馬
御風により雅号を受け「越後千涯(えちご
314
地域を越えた文化資源
せんがい)」とし、その後「こしの千涯」に
2007(同19)年9月から「新潟市観
改めて、良寛を一筋に描きつづけて無欲清
光大使」に就任。
浄の画境をひらきました。
小林
金吾(こばやし
きんご)
1853(嘉永6)年2月8日∼1932
(昭和7) 年
打越(現西蒲区)出身。公衆浴場を経営し
た、銭湯の先達者。
昔から、越後(新潟)と能登(石川)は東
京の風呂屋の出身地と言われ、そのなかで
も、西蒲原郡は旧中之口村を中心に大勢の
浴場経営者がいました。金吾は東京の風呂
屋の草分けとも言われています。
21歳の時に単身上京。
「人の嫌がることを、
真面目にすればよい」と重労働の風呂屋の
小林
省三郎(こばやし しょうざぶろう)
奉公を選びました。その後独立し、浴場経
1883(明治16)年9月5日∼193
営者として成功を収め、故郷の2男・3男
2(昭和7)年
たちに東京で成功する道を開きました。
西蒲区井随村(旧潟東村)に生まれました。
1898(明治31)年、上京し、後に海
小林
幸子(こばやし
軍兵学校へ入学。1903(同36)年、
さちこ)
1953(昭和28)年12月5日∼
海軍兵学校を卒業し、士官好捕生として日
新潟市中央区生まれ。9歳の時、テレビの
露戦争に参加。中尉に昇進し、戦後に大尉
公開番組でチャンピオンとなり、古賀政男
となります。海軍兵学校教官を経て、大佐
氏にスカウトされデビュー。1979(同
となり、巡洋艦利根、航空母艦鳳翔、赤城
54)年「おもいで酒」200万枚を超え
の艦長となります。その後、霞ヶ浦航空隊
るヒットとなり数々の音楽賞を獲得。以来
司令官から少将に昇進しました。1931
NHK紅白歌合戦では連続出場を遂げ多方
(昭和6)年、満州国で、海軍特設機関長
面にて活躍。その後ヒット曲の中には新潟
を経て、初代海軍部指令官に抜擢され、武
をテーマとする「雪椿」や「越後絶唱」が
勲で海軍中将に昇進、功三級勲二等を叙勲。
あります。中越大震災の際はいち早く復興
後に朝鮮鎮海要港部司令官に転補され、在
支援に協力し、2005(平成17)年、
任2年の後に待命、昭和の初期、越後が生
新潟市より「特別感謝状」が贈られました。
んだ海軍の雄です。
2006(同18)年には、国土交通大臣
より「感謝状」を贈呈され、国より「紺綬
褒章」を授かりました。
315
地域を越えた文化資源
小林
存(こばやし
ながろう)
て夜具(布団)縞・納戸無地・縞木綿など
1877(明治10)年6月6日∼196
の生産が盛んになっていきそれらは品質の
1(昭和36)年3月10日
堅牢な点で評価を受け「小須戸縞」として
大字横越(現江南区)の代々の庄屋の生ま
県内外に広まりました。1896(同29)
れ。1896(明治29)年、東京専門学
年の織物産額は約18万7000反、金額
校(早稲田大学の前身)卒業後、1904
にして14万1140円にのぼっており、
(同37)年に新潟新聞(現新潟日報)主
1875(同8)年に比較すると、10倍
筆に迎えられて以来、ジャーナリストとし
に増大してました。そして1899(同3
て幅広く文筆活動を行いました。
2)年になると、小須戸の機関係者、機業
1912(大正元)年に同社を退職し、民
者・仲買業者・綛染業者、約360人が初
間伝承文化に没頭し、郷土研究誌「高志路」
の同業組合を結成しました。組合名は「小
の創刊をはじめ、「横越村誌」「中魚沼の物
須戸物産組合」と命名され、組長には織物
語」などの郷土誌を刊行。
仲買商の小林勇吉が就任し小須戸縞生産の
特に「越後方言考」
「県内地名考」は名著と
発展に貢献、商工振興にも尽力しました。
され、民俗学の研究と大きな業績に対して
こうして小須戸は、県内では亀田につぐ木
1950(昭和25)年に新潟日報文化賞
綿縞の産地となりました。1901(同3
を受賞。1952(同27)年には日本民
4)年に大火があり、機業者のほとんどが
俗学会名誉会員となりました。
被災してしまい約1200台あった機具は、
烏啼(うてい)と号して句や歌に親しみ、
たったの30台になってしまいました。小
その人柄をして今様の良寛とも言われ、今
須戸物産組合の小林勇吉組合長は小須戸縞
でも多くの人々から敬愛されています。存
を存続させるために機具を集め、機屋も織
の歌碑が、江南区横越東町生家跡と中央区
り子も頑張り、壊滅的だった綿織物生産も、
学校町通3の菅原神社境内にあります。
少しずつ立ち直りをみせることができまし
た。その頃から「足踏み機械」が普及して
小林
勇吉(こばやし
ゆうきち)
作業速度が上がり、品質も一層よくなり小
1868(明治元)年11月1日∼193
須戸縞は全国に知られ販路も広がりました。
1(昭和6)年5月9日
また小林勇吉は1914(大正3)年から
旧小須戸町(現秋葉区)では明治・大正時
織物同業組合の組合長をつとめ、組合では
代を通じて「小須戸縞」といわれる綿小幅
品質向上のために技師を招いて染色講習所
先染めの農業衣料を主として生産していま
を設けるなど、技術員を置いて、染色技術
した。旧小須戸町では幕末の慶応年間(1
の向上に努めました。1916(同5)年
865∼1867)には、機屋が289軒
頃、小須戸の年間生産反数は50万を超え、
にも達しましたが、1868年(明治元)
機どころとして知られるようになりました。
の戊辰戦争にさいし、旧小須戸町が戦火を
蒙ったため、機業も一時頓挫をきたしまし
た。小須戸では摂津紡績の綿糸を原料とし
316
地域を越えた文化資源
小林
米作(こばやし
よねさく)
鳳冠に相談しました。鳳冠はひそかに米麦
1905(明治38)年7月∼2005(平
を船に積み、新潟の回船問屋を通じ秋田へ
成17)年11月
輸送させました。秋田藩主佐竹侯は大いに
100歳で没。小学校4年生のときまで小
喜び、感謝の念を込め「黄鳥一声酒一杯」
須戸(現秋葉区)で過ごし、父親が亡くな
と自書して鳳冠に贈ったそうです。186
ったのを機に親類のいる北海道へ移りまし
7(慶応3)年擬講(ぎこう<浄土宗・浄
た。カメラマンから映画の世界に転じ、終
土真宗大谷派の僧の学階の一つ>)となり
戦後、捕虜としてパン工場で働いた経験を
ました。
基にイースト菌の動きをとらえた映画「生
きているパン」を製作。その後も細胞や細
菌など、作品の題名にもある「ミクロの世
界」と向き合い、科学映画という分野を確
立しました。また光の屈折で細菌を薬で染
めなくとも生きたまま変化してゆくのが撮
影できる位相顕微鏡(いそうけんびきょう)
の発明にも貢献しました。一躍名を上げた
のは1958(昭和33)年に、結核菌を
扱った作品「ミクロの世界」でベネチア記
録映画祭の最高科学映画賞を受賞しました。
以来、「ガン細胞」「細菌物語」「生命誕生」
「マリン・スノー」と極微の世界の住人を
主人公にした傑作は、枚挙にいとまない。
それも1年に1本、1年半に1本という、
文字通り骨身をけずるスローペースの産物
なのです。
五明院
鳳冠(ごみょういん
ほうかん)
1793(寛政7)年∼1867(慶応3)
年7月11日
新津西島(現秋葉区)の蓮徳寺12世。西
蒲区(旧中之口村)で生まれ、23歳のと
き蓮徳寺に入りました。水原の無為信寺の
徳龍に学び、さらに上京して学僧文人の雲
華院大含に師事しました。天保の飢饉のと
き、徳龍は本山の命により秋田城で布教を
していましたが、その惨状を見るに忍びず
317
地域を越えた文化資源
さ行
業といわれた「大正
大蔵経」の編集を1
2年間手伝い、その間に悉曇(しったん)
斎藤
惇夫(さいとう
あつお)
の研究(書法)では、彼の右に出る者なし
1940(昭和15)年 6 月 20 日∼
と言われる権威者となりました。
新潟市に生まれました。1964(昭和3
1938(昭和13)年、満州に渡り、満
9)年、立教大学法学部を卒業。電機会社
州国仏教文化関係事業の中枢で活躍。終戦
を経て、福音館書店編集部に勤務。のち編
の混乱期仏門に入り「栄信」と改めました。
集担当取締役をつとめました。
帰国後真言宗智山派の僧籍に入り、京都総
1970(同45)年、
「グリックの冒険」
本山智積院にあたって学僧たちに悉曇の協
でデビュー。この作品は、1971(同4
議を説きました。
6)年、第4回日本児童文学者協会新人賞
1963(昭和38)年、豊中市豊中不動
を受けました。「冒険者たち」(1972<
寺の住職に迎えられ、新興住宅街にその教
同47>年)は国際アンデルセン特別優良
えを広めました。
賞受賞。
真言密教の教理、梵字(ぼんじ)の第一人
1983(同58)年、
「ガンバとカワウソ
者としていたるところに足跡を残していま
の冒険」で第21回野間児童文芸賞を受賞
す。
しました。
坂井
経堂(さかい
きょうどう)
1818(文政元)年∼1863(文久3)
年
北区上大月の名主の家に生まれ、江戸へ出
て佐藤一斎に陽明学を学びました。名主を
継ぐと家塾を開き、地域の子弟の教育にあ
たりました。のちに、勤皇の大義を貫くた
め再び江戸に出ましたが、志半ばで亡くな
りました。上大月に顕彰碑があります。
酒井
憲次郎(さかい けんじろう)
1903(明治36)年7月16日∼19
32(昭和7)年9月15日
坂井
栄信(さかい
えいしん)
秋葉区(旧新津市)出身の我が国航空界の
1904(明治37)年3月13日∼19
黎明期に傑出したパイロット。1925(大
80(昭和55)年10月30日
正14)年、一等飛行操縦士の免許を取得
四ツ合村(現西蒲区)横戸に生まれ、東洋
し、翌年小樽新聞社に入社しました。19
大学印度哲学を科卒業しました。
26(同15)年、小樽新聞社の複葉機「北
大学在学中からわが国仏教学上世紀の大事
海一号」で千歳着陸場へ降り立ち、このこ
318
地域を越えた文化資源
とが千歳空港の幕開けとなりました。19
28(昭和3)年、国際航空連盟から各国
の最も優秀な記録を樹立したパイロットに
贈られる「ハーモン・トロフィー」を受賞
しました。1932(同7)年、日満議定
書調印の歴史的光景を収めたフィルムを日
本へ空輸中、鳥取県沖合いで遭難、殉職し
ました。没後70周年にあたる2002(平
成14)年、千歳着陸場へ降り立った姿を
現すブロンズ像が新千歳空港に建立されま
した。
坂口
安吾(さかぐち
あんご)
1906(明治39)年10月20日∼1
955(昭和30)年2月17日
坂口仁一郎の5男、本名炳五(へいご)。1
931(昭和6)年に発表した「風博士」
「黒谷村」で新進作家として認められ、1
946(同21)年、戦後の混乱期に発表
した「堕落論」
「白痴」の反俗的態度や文明
批判が当時の日本の人びとの精神面に大き
な影響を与えました。
安吾は純文学、エッセイだけでなく歴史小
説、伝奇物、推理小説、ファルス、地理紀
行など幅広い分野まで優れた作品を残して
います。
中学時代に新潟を離れた安吾ですが、今は
秋葉区大安寺にある坂口家の墓所に眠って
います。
319
地域を越えた文化資源
坂口
献吉(さかぐち
けんきち)
改修の促進などはいずれも仁一郎の努力に
1895(明治28)年8月3日∼196
よるものです。
6(昭和41)年8月13日
また、衆議院議員としての政治活動のほか、
坂口安吾の長兄、元新潟放送初代社長。
漢詩人「五峰」として越後全域にわたる古
1925(大正14)年、電波3法が施行
今の漢詩文を30年余りも採集し、これを
され、全国各地でラジオの民間放送局が設
集大成して「北越詩話」と名づけ刊行しま
立されていきました。新潟では新潟日報社
した。これは日本の名著の一つに数えられ、
が設立を推進し、1927(昭和2)年2
好個の漢文学史であるとともに越後文学史
月、同社取締役会長の坂口献吉は「新潟日
でもあります。
報社報」で「ラジオ新潟構想」を発表し、
「地方放送局が、県や市町村だけでなく諸
団体にとっても大きな役割を持っている」
と、その意義を力説し、開局に向けて努め
ました。
桜木
たけし(さくらぎ
たけし)
1902(明治35)年8月1日∼198
2(昭和57)年5月4日
農民歌人。本名は、阿部長蔵。戦後、国民
全体が自信を失い、無気力になる人が増え
坂口
仁一郎(さかぐち
にいちろう)
ました。桜木は文学の力がこのような人び
1859(安政6)年1月2日∼1923
との心を救うことを知り、1954(昭和
(大正12)年11月2日
29)年「ひしのみ詩社」を結成し、短歌
政治家、漢詩人。郡会議員、県会議員歴任
雑誌「くろ土」を発刊しました。農民魂を
後、1902(明治35)年、衆議院議員
歌うこの雑誌は多くの人たちに愛され、桜
に当選して国政に参画し、以後代議士とし
木の死後も弟子たちに引き継がれ、200
て中央政界に重きをなしました。この間、
4(平成16)年9月号で通巻300号に
郷土の発展に尽くした功績は大きく、阿賀
達し、現在も続いています。
浦橋の架橋、新発田街道の新設、阿賀野川
320
地域を越えた文化資源
笹岡
了一(ささおか
りょういち)
佐藤
幸治(さとう
こうじ)
1907(明治40)年∼1987(昭和
1937(昭和12)年6月9日∼
62)年
南区(旧月潟村)出身。1961(昭和3
秋葉区(旧新津市)生まれ。独学で洋画を
6)年、京都大学法学部を卒業。
学びました。1930(昭和5)年、第1
京都大学名誉教授、近畿大学法科大学院教
回新潟県展(旧県展)に出品、特選を受賞
授、学院長など、学界・教育界で活躍し、
し、安宅安五郎の知遇を得ました。翌年、
司法制度改革審議会会長など数々の要職に
第12回帝展に、ナビ派ふうの明るい色彩
就き、国家社会の進展に大きく寄与、貢献
で描いた作品を出品し初入選。これを機に
されています。旧月潟村名誉村民。
上京するが1937(同12)年、日中戦
争開始とともに徴兵され中国山西省などを
転戦。フィリピンには従軍画家として赴き、
戦争記録画を制作しました。戦後は光風会
に所属し、日展などを発表の舞台として活
躍。1978(同53)年、日展の内閣総
理大臣賞を受賞。1979(同54)年、
新潟日報文化賞を受賞。
佐藤
斎(さとう
いつき)
1909(明治42)年2月14日∼19
89(平成元)年10月8日
西蒲区(旧中之口村)出身。新潟運輸株式
会社社長、県交通安全協会会長、県トラッ
ク協会会長を歴任した、全国屈指(くっし)
の輸送王。
小学校高等科を卒業後、将来性に希望を託
し、20歳にしてトラック1台で運送業を
はじめました。不断の努力によって業績も
次第に向上していきました。
戦時下、各種の統制により、同業者で株式
会社を設立。戦後、新潟運輸株式会社と改
名し、社長となりました。また、タクシー
業、建設業にも参入する一方、長距離輸送
に着目して各大都市に拠点を築き、輸送路
の開拓とその機動力を以(も)って実績を
上げ、業界に名を馳(は)せました。
321
地域を越えた文化資源
佐藤
忠男(さとう
ただお)
1930(昭和5)年10月6日∼
本名飯利忠男。新潟市に生まれました。小
学校高等科を卒業すると少年兵に応募、入
隊3ヵ月で敗戦。新潟鉄道教習所を経て、
新潟市立工業高等学校定時制を卒業。
日本電信電話公社の臨時工をやりながら、
映画評を書きはじめます。昭和20年代の
終わりごろから新潟映画研究会に属してい
ました。当時、県庁まで出かけて「葦沼」
というドキュメンタリー映画をみるなど熱
心に活動しました。そのころのことは、松
浦謙二の「新潟映画街
佐藤
私の喜遊録」
(19
恵(さとう
めぐみ)
73<同48>年9月8日「新潟日報」夕
1966(昭和41)年∼
刊)によると「バサバサの髪、負けん気の
新潟市生まれ。陸上競技、走り高跳びの選
顔、大きな穴のあいた薄茶のセーターに下
手で、元日本記録保持者でした。新潟市立
駄ばき姿、目を潤ませながらとうとうと映
沼垂高校、福岡大学を経て、ミズノトラッ
画を語っていた」ということです。また勉
ククラブに所属。その後、新潟の公立高校
強は、市内の各書店の立ち読みがその教室
に勤務。
だったとも言われています。
1984(同59)年のロサンゼルス、1
26歳のとき、電電公社の正社員に採用さ
988(同63)年のソウル、1992(平
れましたが、東京での映画評論活動をとい
成4)年のバルセロナと、3回オリンピッ
う誘いに乗って上京、
「映画評論」編集部に
クに出場。バルセロナでは7位となりまし
勤めました。
た。
1954(同29)年に発表した「任侠に
ついて」で注目をあつめ、1956(同3
佐野
藤三郎(さの とうざぶろう)
1)年、著作集「日本の映画」を出版して
1923(大正12)年∼1996(平成
本格的な評論活動に入ります。「映画評論」
8)年
「思想の科学」の編集長を勤めました。1
下木戸(東区)の農家の2男に生まれ、尋
962(同37)年以後はフリーの評論家
常高等小学校卒業後、農業に従事しました。
となりました。
終戦後、農民組合に参加し、農地委員に就
著書に「黒沢明の世界」、「日本映画史」全
任しました。1955(昭和30)年、亀
4冊、「小津安二郎の芸術」、「世界映画史」
田郷土地改良区理事長となり、亀田郷の乾
上・下などがあります。
田化の総仕上げと乾田化後の農業技術の確
立に努めました。湿田農業から乾田農業へ
の転換を果たした経験を活かし、1976
322
地域を越えた文化資源
(同51)年から度々訪中し、中国北東部
の三江平原をはじめとする農業開発の技術
指導の中心者となりました。また、新潟市
とハルビン市の友好都市、新潟県と黒龍江
省の友好県省提携にも協力しました。
澤将監四郎兵衛(さわしょうげんしろうび
ょうえい)
1557(弘治3)年∼1615(元和元)
年2月18日
澤将監四郎兵衛は澤家の初代で、本来は甲
斐の国で武田信玄の家臣として仕えていま
した。武田家滅亡後、上杉氏を頼って越後
に入り、1612(慶長17)年に現地に
澤田
半右衛門(さわだ
はんえもん)
来住。かつては低湿地のため水の被害をた
1533(天文2)年新津(現秋葉区)で
びたび受けていたこの地の開墾に力を尽く
最も古い用水堰である一之堰を創始しまし
しました。
た。子孫は歴代半右衛門を襲名し、堰守を
その後、澤家は1616(元和2)年に村
勤めました。
庄屋に、慶安2(1649)年には村々を
一之堰は能代川をせき止め、川の右岸集落
取り締まる大庄屋に任命されました。
全体の耕地を潤したため、その恩恵は計り
知れないものがあります。
澤田
敬義(さわだ
けいぎ)
1873(明治6)年12月3日∼195
澤
政一(さわ
せいいち)
2(昭和27)年2月7日
1918(大正7) 年4月21日∼198
1910(明治43)年、新潟医学専門学
1(昭和56)年12月16日
校創立とともに同校教授、内科医長として
西蒲区(旧中之口村)出身。新潟医科大学
大学昇格に尽くしました。1925(大正
精神医学教室教授、新潟大学医学部付属病
14)年に新潟医科大学長に任ぜられ、1
院長を勤め、
「てんかん発作」の研究に36
934(昭和9)年、退官まで20数年間
年間を捧げました。
医学界に尽くした事績は顕著で、ことに恙
代々庄屋を務めた澤家で幼少期を過ごした
虫(つつがむし)病や本県地方病に関する
政一は、旧制中学を卒業すると、医学を志
研究は学会に重きをなしています。優れた
して北海道帝国大学予科に進みました。
人格と学識経験は学生を訓育し、優れた人
医学部卒業後は、陸軍軍医候補生として入
材を輩出しました。新潟市名誉市民。
隊。復員後、北大を経て新潟医科大学精神
神経科学教室に入局。特に「てんかん発作」
の神経関係、大脳生理に関する研究に打ち
323
地域を越えた文化資源
込みました。中でも「てんかん発作時の細
ら、私塾「養起館」を開いて郷土の子弟を
胞内電位」に関する一連の研究は世界の水
教育しました。
準を越えるものとして高い評価を受けまし
賢林は人びとがつつが虫病の原因を知らず、
た。
農民が全く恐れることなく河川敷の耕地で
仕事をし、そこでつつが虫に刺されて死ん
茂野
六花(しげの
ろっか)
でしまうことに心を痛めていました。
1926(大正15)年7月1日∼198
また信仰の力ばかりを頼って祈祷をしても
5(昭和60)年11月24日
らうだけで治療をせず、助からない人もた
本名録良。新潟市に生まれました。新潟医
くさんいました。そこで、1852(嘉永
科大学(現・新潟大学医学部)を卒業後、
5)年「弁恙虫(つつがむし)」を著し、民
医学部教授、ついで1985(同60)年
間のつつが虫迷信を打破しようとしました。
10月に第9代新潟大学学長になりました。
六花は、
「ホトトギス」誌上で活躍した水原
下村
秋桜子、山口誓子、阿波野青畝、高野素十
1927(昭和2)年7月12日∼
のいわゆる4Sのひとり、高野素十が大正
本名徹也。新潟市に生まれました。
後期に法医学教授となって赴任してきたの
礎尋常小学校、北越商業卒業ののち、海軍
を機に俳句の指導を受けました。素十より
飛行予科練習生となり福岡小富士海軍航空
「六花」の号をもらいました。
隊震洋特別攻撃隊に入り終戦。
素十と同じころ外科教授として赴任してき
著者に「武玉川鑑賞」「私説忠臣蔵」「テレ
た中田みづほも加わって新潟医大俳句会が
ビ川柳」があります。
成立、新潟の俳壇はにぎわいました。
1974(同49)年、
「短句川柳詩論」
「川
俳句は、俳誌「まはぎ」
「芹」
「雪」に投句。
上三太郎伝」により第7回東洋樹川柳賞を
その中から、
「芋の露いびつにころび落ちに
受賞。
けり」
「グランドを越え医学部の花吹雪」
「市
「文芸にいがた」選考委員、
「武玉川文芸社」
内バス花アカシアに触れ触れて」がありま
を主宰。
す。
「川柳は人事詩である」が持論。武玉川研
1988(同63)年の命日、新潟市内イ
究の第一人者であり「川柳の範は柳多留で
タリア軒前に「堀の町でありし新潟柳の芽」
はなくその前身の俳諧武玉川である」と主
の句碑が建てられました。
張して注目されました。
清水
神保
賢林(しみず
けんりん)
梵(しもむら
泰和(じんぼ
ぼん)
やすかず)
1828(文政11)年9月8日∼190
1785(天明5)年∼1840(天保1
6(明治39)年1月6日
1)年
医師、私塾経営、漢詩人。本名を由といい、
津雲田(現西蒲区)に生まれました。18
由斎と号して俳句も詠んでいました。
12(文化9)年に津雲田の庄屋になり、
3代目賢林を継ぎ医業をする傍(かたわ)
1816(同13)年に庄屋職を弟に譲り
324
地域を越えた文化資源
父のいる西船越に移り、1824(文政7)
六字名号を書いたら、嵐はにわかに治まり
年、父の死亡により割元となりました。
ました。この名号は波切り名号ともいわれ
1820(同3)年に稿をおこした「北越
ます。
略風土記」は丸山元純の越後名寄を礎とし
て作ったものです。
焼鮒(やきふな):西区山田、江南区平賀
この「北越略風土記」は北越地誌書の「越
親鸞が流罪を許されて関東へ出向く際、
後名寄」
「越後野史」と共に有名となってい
人々は別離の宴を催し、酒の肴に焼いた鮒
ます。
を差し出しました。親鸞が「我が真宗の御
法仏意にかない、念仏往生疑うことなけれ
親鸞聖人(しんらんしょうにん)
ば、この鮒必ず生きるべし」と念じて、山
鎌倉時代に浄土真宗(真宗・一向宗)を開
王権現の池に放すと、焼いた鮒が生き返っ
きましたが、1207(建永2)年、専修
て泳ぎ出したそうです。
念仏弾圧により越後に流されました。
その後越後に配流された親鸞には、そのあ
繋榧(つなぎがや)
:南蒲原郡田上町、江南
りがたさや教えの興隆を示す奇跡として、
区酒屋町
「親鸞の七不思議」という不思議な現象が
田上の護摩堂山城主が糸でつないだ榧の実
言い伝えられています。
を、菓子として親鸞に差し出しました。親
これら親鸞の七不思議は、戦国時代から次
鸞が「愚禿(ぐとく)
(親鸞の自称)の弘め
第に人々に広がり、江戸時代前期に成立し
る教法、釈迦諸仏のみ心にかない、末世の
たものと見られています。
凡夫往生疑いなくば、この焼きたる榧すな
わち枝葉を生ずべし」と念じて榧の実を埋
逆竹(さかさだけ):中央区鳥屋野
めたら、実を糸でつないだ榧となって生え
鳥屋野にいた親鸞が「この里に親の死した
たそうです。
る子はなきか、御法の風になびく人なし」
と教えを信じる人の少ないことを悲しみ、
八房梅(やつふさのうめ):阿賀野市小島
「わが弘むるところの法、もし仏意にかな
食事に出された塩漬けの梅を、親鸞が「末
わば、この竹必ずまさに根芽を生ずべし」
代の凡夫、弥陀の本願を信じまいらせ、浄
と念じて、持っていた竹の杖を挿したら、
土往生疑いなくんば、漬けたる梅より芽生
逆さに枝葉がつく竹となって生えたそうで
じ、1つの花に8ツの実を結べ」と念じて
す。
植えたら、1つの花に8個の実を結ぶ梅と
なって生えたそうです。
川越名号(かわごえのみょうごう)
:西区平
島、江南区酒屋町
数珠掛桜(じゅずかけさくら)
:阿賀野市小
親鸞が平島で説教して、舟で鳥屋野へ帰る
島
途中、急に嵐となり難破しそうになりまし
親鸞が手にしていた数珠を、かたわらの桜
た。親鸞が筆を出して「南無阿弥陀仏」と
の枝に掛けて説教したら、数珠のように花
325
地域を越えた文化資源
がつながって咲く桜の木となったそうです。
曲協会会長を長く務め、その功績が認めら
れ、1969(昭和44)年、勲四等瑞宝
三度栗(さんどぐり):阿賀野市保田
章を受章しました。ふるさとをこよなく愛
親鸞が説教のお礼に出された焼き栗を植え
した米若は、曽野木の教育振興に貢献しま
たら、1年に3度花をつけ3度実を結ぶ栗
した。
の木となって生えたそうです。
また、曽野木地区公民館の前に、米若の句
碑があります。
鈴木
寅五郎(すずき とらごろう)
1867(慶応3)年7月21日∼194
相馬
5(昭和20)年2月10日
1885(明治18)年∼1952(昭和
1902(明治35)年、新津町(現秋葉
27)年
区)の町長に就任。以後、明治・大正・昭
庄瀬(現南区)出身。東京開成中学校卒業
和にわたり30余年間、町政に携わり町の
後、早稲田大学に入学。在学中から小説を
発展と町民の福利増進を旨として町政を進
発表し、1912(明治45)年∼192
めました。とりわけ教育環境の整備に意を
6(大正15)年ほどの間に「早稲田文学」
用い、小学校の統合、県立高等女学校の誘
「新潮」
「文芸春秋」などに多くの小説を寄
致実現に尽くしました。
稿しています。作品には明治∼大正にかけ
また、飲料水に恵まれない新津にとって上
ての新潟の平野部の農村の様子がよく描か
水道の敷設は全町民の夢であり宿願でした
れており、歴史資料としても貴重なもので
が、1932(昭和7)年、幾多の困難を
す。
泰三(そうま
たいぞう)
乗り越えてこの大事業を完成させ、近代都
市としての礎を築きました。同年、町長の
曽我
職を辞しましたが、豊かな人間性と徳望に
1830(天保元)年∼1884(明治1
よって名町長としてその人格を慕われまし
7)年
た。
浦木(山飯野新田・北区)の農家に生まれ
簡堂(そが
かんどう)
ました。陽明学者の坂井経堂に学びました。
寿々木
米若(すずき よねわか)
江戸で8年間学んで朱子学と陽明学を修め、
1899(明治32)年∼1979(昭和
1855(安政2)年に帰郷、光霽塾(こ
54)年
うせいじゅく)を開いて子弟に教授。青年
米若は曽野木村曽川(現江南区)に生まれ
教育に尽力しました。1887(明治20)
ました。本名は藤田松平。
年4月、撰文が文学博士川田剛(1830
米若は、若い頃から美声の持ち主で村中で
∼1896)
、書が長三州(1833∼18
も評判で、奉公が終わった後、伯父で浪曲
95)による「簡堂曽我君の碑」が門人た
師の寿々木米造(よねぞう)の弟子となり
ちの依頼により、浦木に建てられました。
ました。浪曲「佐渡情話」は、一世を風靡
するほどの大ヒットとなりました。日本浪
326
地域を越えた文化資源
曽我
士郎(そが
しろう)
ました。
生年不明∼1890(明治23)年
1932(昭和7)年7月、新潟医科大学
岡方組(現北区)大庄屋を務めていた家に
助教授として赴任。1953(同28)年
生まれ、坂井経堂に学びました。戊辰戦争
9月、奈良医科大学教授に転出するまでの
が起こると、曽我簡堂や前田又之丞(まえ
21年間、新潟大学で教授、学長、名誉教
だまたのじょう)と相談して岡方正気隊(お
授として務めました。
かがたせいきたい)を組織し、新発田藩の
1923(大正12)年から素十は本格的
統制下に入りました。新政府軍の一員とし
に俳句を始め、高浜虚子に師事し「ホトト
て、米沢や会津方面で警護や物資運搬など
ギス」同人となりました。阿波野青畝、水
の活動を行いました。
原秋桜子、山口誓子と共に4Sといわれ、
ひとつの時代をつくりました。素十の号は、
曽我
量深(そが
りょうじん)
虚子が「素質十分である」ということで与
1875(明治8)年9月5日∼1971
えたといいます。
(昭和46)年6月20日
水原秋桜子がホトトギスを離れ「馬酔木(あ
南区(旧味方村)生まれ。味方小、米北教
しび)」を創刊、独立をはかったのは、虚子
校、真宗第一中学寮、真宗大学、同研究院
が素十をより高く評価し、芸術の真より素
に学び、清澤満之師の学統を継ぎました。
十の求める自然の真の客観写生句を重視し
1897(同30)年、南蒲原郡新潟村大
たからと言われています。
字指出(現見附市)、浄恩寺・曽我慧南師の
「まはぎ」は1929(昭和4)年に、浜
養子となり、曽我と改姓。真宗大学、東洋
口今夜、中田みづほによって亀田町(現江
大学、大谷大学の教授を歴任し、1941
南区)で創刊されましたが、素十は193
(昭和16)年には真宗大谷派講師(東本
2(同7)年頃から参加しました。門人に
願寺最高の学階)に任じられました。19
長谷川耕畝、赤羽岳王、蒲原ひろしなどが
61(同36)年、大谷大学学長に就任(2
います。
期)。1965(同40)年に勲三等瑞宝章
句は「引っぱれる糸まっすぐや甲虫」
「野に
を受章。1971(同46)年6月、96
出れば人みなやさし桃の花」
「生涯に廻り燈
年の生涯を閉じました。旧味方村名誉村民。
籠の句のひとつ」「方丈の大庇より春の蝶」
などがあります。新潟に関連のあるものと
た行
しては、
「砂山にかくるる河口鯊(はぜ)日
和」「冬波の百千万の皆起伏」「餅丸めつつ
高野
素十(たかの
すじゅう)
折々になまいだぶ」
(鍋茶屋にて)などがあ
1893(明治26)年3月3日∼197
ります。笹神村「山びこ通り」の句碑は「耕
6(昭和51)年10月4日
牛の一歩一歩の見守られ」です。
本名與巳(よしみ)。茨城県北相馬郡山王村
に生まれました。旧制長岡中学校から旧制
第一高等学校、東京帝国大学医学部へ進み
327
地域を越えた文化資源
高橋
義彦(たかはし
よしひこ)
批判し、天皇を中心とする国家を理想とす
1870(明治3)年∼1931(昭和6)
る尊王思想を鼓吹(こすい)しました。そ
年
のため、幕府から危険思想の持ち主と見な
保田(やすだ)村(阿賀野市)の地主・旗
された式部は、1759(宝暦9)年に京
野(はたの)家の4男に生まれ、海老ケ瀬
都を追放されました(宝暦事件)。さらに1
(えびがせ)村(東区)の地主・高橋家の
767(明和4)年、知人・山県大弐(や
養子となりました。兄の3男東伍(とうご)
まがただいに)らが明和事件で処刑される
は、大鹿村(秋葉区)の吉田家の養子です。
と、式部も八丈島への流罪となり、その途
2人とも歴史が好きで、1917(大正6)
上、三宅島で病死しました。1913(大
年に相談して、東悟は『大日本地名辞書』
正2)年、白山公園に巨大な記念碑が建て
の編纂(へんさん)、義彦は越後・佐渡の編
られました。
年史料を編さんすることにしました。義彦
は、東京大学史料編纂所などの協力を得て、
竹内
翌年から全国にある越佐の史料を収集し、
1904(明治37)年12月21日∼2
1930(昭和5)年までに『越佐史料』
001(平成13)年2月4日
6巻(戦国時代までの史料を掲載)を刊行
本名竹内照代。北海道札幌市に生まれまし
しました。また、刊行されませんでしたが、
た。日本高女中退。脊椎カリエスのため結
江戸時代初期までの原稿をまとめました。
婚後、婚家を追われて東京へ。婦人記者生
『新潟市史』
(旧版)編纂の顧問も務めまし
活を経て結婚するが25歳で離婚。以後、
た。
病苦と貧困に耐えながら詩作を続けました。
てるよ(たけうち
てるよ)
主にアナキズム系の詩誌を活動の場としま
高橋
留美子(たかはし
るみこ)
した。
1978(昭和53)年、「勝手なやつら」
1929(昭和4)年、渓文社を創設。詩
でデビュー。同年、週刊少年サンデーに「う
集に「叛く」「静かなる愛」(1940<同
る星やつら」を連載開始。
15>年第7回文芸汎論詩集賞を受賞)な
代表作に「うる星やつら」
「めぞん一刻」
「ら
どがあります。
んま1/2」
「犬夜叉」などがあります。
ほかに、自叙伝「海のオルゴール」
、ビデオ
市内を回る循環観光バスのボディに「犬夜
「生きて書く−てるよおばあちゃんの話」
叉」のキャラクターが使われています。
があります。
竹内
武田
式部(たけうち
しきぶ)
武夫(たけだ
たけお)
1712(正徳2)年∼1767(明和4)
1912(明治45)年7月20日∼199
年
9(平成11)年9月26日
本町通(中央区)の医師の家に生まれまし
1947(昭和22)年、黒埼村助役に就
た。若くして京都に出て公家に仕え、国学・
任し2期8年務め、1957(同32)年
神道を学びました。その後、幕府の専横を
に黒埼村長に就任し3期12年間務めまし
328
地域を越えた文化資源
た。
省に勤務し、岐阜県土木課長、東京市土木
また、1971(同46)年から1991
部長などを歴任し、中央官僚としてキャリ
(平成3)年まで5期20年新潟県議会議
アを積む傍ら、大河津分水工事の再開に向
員を務め、1986(昭和61)年から1
けて運動していました。1907(同40)
987(同62)年までは県議会議長の職
年に工事が再開されると、信濃川落水工場
にも就きました。旧黒埼町名誉町民。
主任嘱託として工事にかかわり、1923
(大正12)年の大河津分水竣工の4年後
建部
遯吾(たけべ
とんご)
の1928(昭和3)年に没しました。
1871(明治4)年3月21日∼194
5(昭和20)年2月18日
田沢
社会学者。江南区(旧横越町)生まれ。教
1823(文政6)年∼1883(明治1
員として横越小学校などに勤務後上京しま
6)年
した。1896(明治29)年、東京帝国
臼井村古川(現南区)の名主。信濃川治水
大学卒業後、3年間のヨーロッパへ留学。
の必要性に早くから目をむけ、1865(慶
同大学の社会学の教授となり、わが国の社
応元)年に大河津分水工事を幕府に出願。
会学の開祖と言われました。
1869(明治2)年の治河使総督への誓
1923(大正12)年から衆議院議員を
願により、分水工事を実現させましたが、
2 期務め、1938(昭和13)年に貴族
経費捻出・周辺住民の利害関係などで難航
院議員に任命されました。
し、1875(同8)年に中止になりまし
社会学者として多くの論文・著書を残すと
た。
ともに、水城と号して詩や書に多くの作品
その後は「信濃川分水仮会社(のちに信濃
を残し、幕末の頼山陽(らいさんよう)に
川治水会社と改称)」を起こし、副社長とし
比べうる偉人であると評されました。
て分水工事再開運動を進めますが、188
與一郎(たざわ よいちろう)
3(同16)年に60歳で没しました。後
田沢
実入(たざわ
みのり<又はみのる
事は息子の実入が引き継ぐことになりまし
>)
た。
1852(嘉永5)年∼1928(昭和3)
年
田中
田沢與一郎の息子として南区(旧白根市)
1868(明治元)年∼没年不明
に生まれました。25歳の時に「新潟新聞」
田中
に中ノ口川の治水に関する論文を寄稿し、
生年・没年不明
論客として名を馳せました。1882(明
養蚕の振興に尽力した兄弟。鵜出古木(う
治15)年に父與一郎らと「信濃川分水仮
でこき)
(現秋葉区)に生まれました。明治
会社(のちに信濃川治水会社と改称)」を設
初年に養蚕による地域振興に興味を持ち、
立し、大河津分水工事の再開に向けて運動
弟の吉平とともに、信濃川縁に桑苗を植栽
を始めました。その後新潟県議を経て内務
する一方、蚕種の改良にも努力し、後進の
329
国太郎(たなか くにたろう)
吉平(たなか
よしへい)
地域を越えた文化資源
指導も行いました。1912(明治45)
千野
年、国太郎は「蚕業夜学会」を開設し、3
1913(大正2)年∼2002(平成1
1名の講習生を指導したほか、大正期には
4)年4月12日
自分の桑園を試験場として後進の指導に役
彫刻家。新飯田(現南区)出身。女性像を
立てました。1929∼1935(昭和4
得意としました。1942(昭和17)年
∼10)年には小須戸町(現秋葉区)の町
に院展初入選して以来、日本美術院大観
長を務めたほか、短歌や俳句でも活躍しま
賞・白寿賞など数多くの賞を受賞。198
した。
0(同55)年まで東京藝術大学教授をつ
吉平は福島県伊達郡立木村の朝岡鉄蔵のも
とめ、1986(同61)年、同大学の名
とで養蚕業を学び、帰郷後、兄国太郎とと
誉教授となりました。
もに、養蚕事業の普及・向上に努め、各種
1997(平成9)年、旧白根市(現南区)
品評会で数々の賞を獲得しました。
にて「長井亮之・千野茂
茂(ちの
しげる)
ふるさと巨匠2
人展」開催。2002(同14)年逝去に
田辺
小兵衛(たなべ こへえ)
際し、旧白根市に彫刻38点を寄贈。
生年不明∼1644(天保元)年
2003(同15)年、白根学習館で「千
馬堀村(現西蒲区)に生まれ、代々の村役
野茂作品展」を開催。
人を継ぎました。用水不足に悩む馬堀村の
ため、西川の堤防から取水する長さ35町
長生院
(約3,820m)の馬堀用水を、164
1764(明和元)年∼1835(天保6)
4(正保元)年に通水させました。用水路
年1月14日
設計のため、小兵衛は、夜はローソクの火
東本願寺嗣講。覚路津村(現秋葉区)の農
で測量したと伝わります。用水路開削に反
家で生まれ、14歳のとき西光寺で剃髪し、
対していた長岡藩は、不成功の場合は小兵
その後江戸や京都で修行して天台宗、浄土
衛を死罪とすることを着工の条件としまし
宗、禅宗を修めました。
た。通水式の日、用水の水が流れず、小兵
1802(享和2)年、出雲崎の浄玄寺住
衛はその場で首を斬られました。その直後、
職に就任。その後、良寛の妹みか子を妻に
用水に水が流れないように、藩役人が妨害
迎えています。
工作をしていたのが発覚し、その役人も斬
1818(文政元)年、高倉学寮寮司、翌
首されました。
年擬講、1831(天保2)年嗣講となり、
用水の横に、小兵衛を祀る長恩院があり、
多くの経典を講じました。
毎年祭礼が行われています。
1833(天保4)年、70歳の秋、30
智現(ちょうせいいん
ちげん)
余人の僧に招かれて新潟の勝念寺に赴き、
勧学講を開いて盛会だったそうです。
330
地域を越えた文化資源
綱淵
謙錠(つなぶち
けんじょう)
しば顔を出していました。明朗な気性、豊
1924(大正13)年9月21日∼19
富な学殖、厳密な文章力には定評がありま
96(平成8)年4月14日
した。
樺太(サハリン)に生まれました。のち新
潟に移住。1943(昭和18)年、旧制
弦巻
新潟高等学校(現・新潟大学)に入学し、
1906(明治39)年∼1995(平成
六花寮の総務、寮歌の作詞、作曲などもし
7)年
ています。1945(同20)年、軍隊に
書家。本名、弦巻悌二。書一筋に国際的に
とられ、復員後新潟に戻り苦学を続けまし
活躍したことから、1988(昭和63)
た。新潟在住時代、同人誌「猟人」で活躍。
年に勳五等瑞宝章を受章。高等学校で書道
新潟高等学校卒業後、東京大学英文科に進
教育に力を注ぐ傍ら、現代書道の世界でも
み、1953(同28)年、中央公論社に
新しい時代にふさわしい書芸術に取り組み、
入社しました。「婦人公論」編集長、「谷崎
書道界に新風を吹き込みました。その活躍
潤一郎全集」の編集などに従事。
は旧豊栄市民(現北区)に自信と勇気を与
1971(同46)年3月、中央公論社を
え、郷土の誇るべき書家として1990(平
退社。日本ペンクラブ事務局長を務めるか
成2)年に豊栄市文化賞を受賞。自らの書
たわら創作活動を続けました。1972(同
作品、硯や筆等文房具など6,000点を
47)年「斬(ざん)」で第67回直木賞を
越えるコレクションを旧豊栄市に寄贈しま
受賞し、本格的な作家活動に入りました。
した。寄贈されたコレクションは、博物館
「斬」は、代々世襲の首斬り執行人の山田
に常時展示されています。松蔭を育んだ風
浅右衛門一族の物語。仕事のかたわら死体
土を書作品とともに見つめていただきたい
の生胆による製薬の特権も得ていましたが、
です。
松蔭(つるまき
しょういん)
7代目のときに時代は明治になり、斬首は
絞首刑にかえられ一族はお役御免になりま
デューク・エリントン
す。時代にとり残された職業的喪失感がテ
1899(明治32)年∼1974(昭和
ーマになっています。これは敗戦によって
49)年
故郷樺太を喪失した綱淵自身の物語にほか
アメリカのモダンジャズ演奏家。1964
なりません。立原正秋の推奨で直木賞候補
(昭和39)年の新潟地震のときに、日本
になり、選考委員の大仏次郎の激賞を得ま
各地で公演中でしたが、急きょ次のハワイ
した。ほかに一字題名による歴史小説「鬼」
公演を取り消し「新潟市震災募金音楽会」
「怪」「狄(てき)」などもあります。新潟
を東京で開き、その純益96万円をそっく
と関連のある作品として「越後太平記」
(1
り新潟市に寄付しました。新潟市はその好
980<昭和55>年)が知られています。
意に対し、1966(同41)年5月、新
編集者時代、坂口安吾のもとへ出入りした
潟市の象徴である金の鍵を贈り国際親善名
関係や学生時代安吾の兄の献吉氏の知遇を
誉市民に推しました。
得たことなどから、東京の安吾忌にはしば
331
地域を越えた文化資源
な行
京高等歯科医学校(現・東京医科歯科大学)
に進学。東京で開業しました。
長井
久左衛門(ながい きゅうざえもん)
歯科医として開業のかたわら、白樺派の代
新津(現秋葉区)は石油地帯のため、昔か
表的作家武者小路実篤の研究者として、ま
ら良質の飲み水に恵まれませんでした。1
た武者小路の支援者として生涯を送りまし
807(文化4)年、当時の新津町の庄屋
た。その仕事の第一は、1951(昭和2
である長井久左衛門は水脈を探しているう
6)年刊の角川文庫「友情」の解説からは
ちに、秋葉山のふもとで清泉を発見し、自
じめて、1986(同61)年、出版の画
費で設備を整えて町民に自由に汲ませまし
文集「詩と人生」まで200余編の解説を
た。
書いていることです。次に実篤が戦後、進
この清泉は「幸清水」(さきしみず) と命
駐軍の命令で原稿が書けなかったときの経
名され、その後も尽きることなくわき続け、
済的支援はもちろんのこと、本の出版、原
1932(昭和7)年、上水道が完成する
稿料のことなどすべてをまかされていまし
まで、およそ130年間町民の命の泉とな
た。
「中川に全部まかせる。中川に聞いてく
りました。
れ」が実篤の口ぐせだったといいます。1
925(大正14)年、兄兼良が実篤のや
長井
亮之(ながい
りょうし)
っていた「新しい村」の新潟支部を作った
1903(明治36)年∼2004(平成
とき、実篤を新潟へ招きました。そのとき
16)年12月25日
旧制新潟高等学校の学生だった中川は、実
日本画家。日本美術院特待。1993(平
篤に会ってその人柄と文学にほれました。
成5)年に新潟日報文化賞を受賞するなど
兄の影響もあったが、
「先生の著作をすべて
数多くの展覧会で賞を受け、日本画の巨匠
あつめる覚悟」と当時の日記に書いていま
として知られます。
す。1952(昭和27)年、その蔵書は、
1997(同9)年に旧白根市(現南区)
「実篤文庫」と著者自身に名づけてもらっ
にて「長井亮之・千野茂
て、その扁額も書いてもらって杉並の自宅
ふるさと巨匠2
人展」開催。
に置きました。
死後、遺族から旧白根市に作品22点が寄
現在は遺言によって、横浜にある神奈川県
付されました。
立近代文学館に蔵書と資料のすべては収め
られています。没後の1995(平成7)
中川
孝(なかがわ
たかし)
年1月、皆美社から「武者小路実篤−その
1905(明治38)年11月28日∼1
人と作品の解説」として中川の業績は克子
986(昭和61)年9月2日
夫人によってまとめられました。
白山浦(現中央区)で生まれました。旧制
新潟中学校(現・新潟高等学校)から旧制
新潟高等学校(現・新潟大学)理乙に進学。
新潟医科大学卒の兄兼良の急逝によって東
332
地域を越えた文化資源
長沢
佑(ながさわ
たすく)
長沢
予内(ながさわ
よない)
1910(明治43)年2月17日∼19
1807(文化4)年1月8日∼1872
33(昭和8)年2月17日
(明治5)年1月25日
新潟県中蒲原郡大蒲原村(現五泉市)大字
荻島新田(現秋葉区)名主、小須戸組社講、
長橋に生まれました。2歳のとき生家の囲
医師。
炉裏に落ち、左手の第2指以下が癒着する
新発田藩医の松田本庵に医学を、丹羽思亭
大火傷をしました。
に漢学を学び、さらに1828(文政11)
1922(大正11)年3月、五箇尋常小
年から翌年まで江戸の松崎慊堂のもとで学
学校を卒業後、親戚の家へ子守りに行った
び、そのかたわら医学も修めました。帰郷
り、五泉の若狭屋呉服店に奉公に出ます。
後、1831(天保2)年には小須戸組社
1926(同15)年上京、パン屋へつと
講に任命されました。
めますが店が倒産。帰郷し、全国農民組合
また私塾「反求堂」を開いて漢学を教え、
新潟県連合会南部地区の常任書記となりま
漢方医を開業して治療にあたりました。
した。在京中に、日本プロレタリア作家同
1858(安政5)年、小阿賀野川の荻島
盟とプロレタリア詩人会に参加して創作活
の渡し場で船が転覆して溺死者がでたとき、
動をはじめていました。「貧農のうたへる
「救未溺碑」を撰文(せんぶん)、建立して
詩」
(1929<昭和4>年)、
「蕗のとうを
死者を悼(いた)んだ。
摘む子供等」
(1932<昭和7>年)の詩
がよく知られています。
中田
1932(昭和7)年ころから、新潟市学
1893(明治26)年4月24日∼19
校町通2番町(現中央区)にあった日本プ
75(昭和50)年 8 月 18 日
ロレタリア作家同盟(通称ナルプ)の新潟
本名瑞穂(みずほ)。島根県津和野町に生ま
支部に書記長として常駐。支部の機関紙「旗
れました。父も医師。号はほかに瑞翁、穭
風」の編集などにあたります。1933(昭
翁。旧制第六高等学校を経て東京帝国大学
和8)年、胸の痛みを訴え寝込みます。そ
医学部を卒業。29歳で新潟医科大学外科
んなある日、見舞いに来た文学仲間の本間
教室へ助教授として赴任。高浜虚子の門下
和嘉さんに窮状を訴えます。本間さんは若
として東大俳句会を創設しました。192
き独身女性で祖母と2人住まいでしたが、
9(昭和4)年から俳誌「まはぎ」を主宰
人力車で沼垂の初生町(はつおいちょう)
し、高野素十と共に客観写生を提唱し実践
(現中央区)の自宅へやってきた佑を看病
しました。
しました。20日後ここで死亡しました。
ホトトギス同人で、師虚子から、みづほ、
遺体は、赤い布に包まれて、ぼた雪の降り
素十、浜口今夜は「新潟の三羽烏」と称さ
しきる中、沼垂の火葬場(旧日本石油製油
れました。晩年は、書や画にも天分を発揮
所構内)へ運ばれました。
して會津八一と心友の交わりを深め「心友
墓は、現在、五泉市長橋にあります。
合作」を刊行しました。八一の主治医でも
みづほ(なかた みづほ)
ありました。
333
地域を越えた文化資源
句は「団扇もて万代橋を見に来たり」
「新潟
中野
の里芋と菊今旨し」「新盆の秋艸堂の石畳」
1846(弘化3)年9月8日∼1928
などがあります。なお笹神村の「やまびこ
(昭和3)年2月25日
通り」に「かなかなや念腹の句碑すでに古
金津(かなづ)村(現秋葉区)に生まれ、
り」も建てられています。
代々の庄屋を継ぎました。わが国の石油産
1950(同25)年、新潟日報文化賞、
業の発展に大きく貢献し、長者番付の10
1967(同42)年、文化功労者、翌年
指に数えられ、1代にして巨億の富を築き、
には日本学士院会員に推挙されました。墓
「日本の石油王」といわれました。
は中央区西堀通 4 番町法音寺にあります。
1903(明治36)年、苦難の末ついに
貫一(なかの
かんいち)
機械掘りによる商業規模の油田発掘に成功
長沼
重孝(ながぬま
しげたか)
しました。これを契機に、にわかに石油ブ
1890(明治23)年1月17日∼19
ームが巻きおこり、新津油田は1910(同
82(昭和57)年9月6日
43)年の最盛期には年産高約17万kl
西蒲区(旧中之口村)出身。日本郵船株式
に達し、名実とも日本一になりました。
会社副参事、総司令部民間情報教育図書館
また、1919(大正8)年には私財10
顧問を歴任。新潟県立女子短期大学英文科
0万円を投じて「中野財団」を設立しまし
教授、新潟日米協会幹事、詩人ホイットマ
た。これは育英事業などを目的としたもの
ンの研究者。
で、郷土出身の有益な人材の発掘に寄与し
旧制中学を卒業後、単身渡米。カリフォル
ました。中野家の邸宅及び庭園が「中野邸
ニア州立大学の聴講生となり英文学を専攻。
美術館」として開放されており、隣接して
サンフランシスコの邦字(ほうじ)新聞の
「石油の世界館」があります。
客員記者として、文芸欄、演劇欄を担当。
その後日本郵船に招かれ、ニューヨーク支
成田
店に入社。
(号:碧洋<へきよう>)
退職後の1947(昭和22)年、語学力
1876(明治9)年9月12日∼195
をかわれ駐留軍の新潟軍政部翻訳(ほんや
7(昭和32)年10月23日
く)係になりました。新潟県立女子短期大
石山(現東区)生まれ。独学で尋常小学校
学の創立に際し、英文科教授として迎えら
教員検定試験を受け、19歳で国語、修身、
れました。その傍(かたわ)ら詩人ホイッ
地理、算術、習字の5科目に合格。さらに
トマンの全訳に情熱を傾け、論文集などを
英語、漢学を習得しました。20歳より4
多数刊行しました。
年間、北海道集治看守をつとめ、帰郷後亀
幸 三 郎 (な り た
こ うざ ぶろ う )
田町(現江南区)成田伝吉方に婿養子とな
りました。
亀田町民として1902(明治35)年、
郵便電信局長代理を勤め、町内青壮年を集
めて学友会を組織、1910(同43)年、
334
地域を越えた文化資源
中蒲原郡北部青年会を創設、郡青年会創設
が、火事で工場が消失したり、水害にあっ
にも活躍しました。
たりしました。しかし、持ち前の不屈の精
1923(大正12)年及び1934(昭
神で再起を図りました。やがて中野貫一に
和9)年、町会議員に当選し、政界で活躍
認められ、経営の基盤が固まりました。
しました。また、この頃より郷土史への関
新津(現秋葉区)の製油界に37年間活躍
心が高まり、郡内各地に史料を訪ね、口碑
しましたが、1937(昭和12)年、新
伝説をさぐり、その成果を「亀田郷民新聞」
潟に移り大工場を新設しました。その後、
紙上に「亀田郷土史」として1949(同
飛躍的発展をなしとげ、製油業界にゆるぎ
24)年5月から1952(同27)年4
ない地位を築きました。
月まで164回にわたり連載し、亀田郷民
の考古学や歴史への関心を高め、亀田町史
西方
編纂(へんさん)への気運を作りました。
1916(大正5)年5月17日∼196
故人の収集した考古資料及び執筆した亀田
8(昭和43)年1月21日
郷民新聞掲載の「亀田郷土史」
(コピー)は
中央区に生まれました。1924(大正1
亀田郷土資料館に収蔵されています。
3)年、新潟市礎尋常小学校に入学、19
国雄(にしかた
くにお)
31(昭和6)年、市内二葉高等小学校を
新津
勝資(にいつ
かつすけ)
卒業。卒業と同時に家業の屋根職をつぎま
生年不明∼1600(慶長5)年4月
す。当時の職人の賃金は安く、そのため母
上杉謙信・景勝の時代に戦陣に明け暮れた
は八百屋の行商をしていました。
典型的な武将。丹波守を称し、三条城主山
西方は向学心旺盛で読書家でした。193
吉家から出て新津氏14代を継ぎました。
6(同11)年、数え年21歳のとき、短
敬神崇仏の念が篤(あつ)く、祖先が金津
歌雑誌「ポトナム」に入会し、短歌の指導
の地に奉祀(ほうし)した掘出神社を新津
を受けます。そのころの作品「ひたに木羽
の町に遷し、朝日の普談寺観音堂の再建に
打ちゐる吾を三階の窓より女給ら見下して
願主となり、菩提寺である正法寺を大鹿か
をり」。1941(同16)年「アララギ」
ら新津に移転させるなどしています。また、
に入会し土屋文明に師事します。
「写生が作
一之堰の創始者に特典を与えて民生の安定
歌の基本的態度であること、屋根屋は屋根
を図るなど、領民の撫育(ぶいく)にも意
屋の生活の歌を詠んでいればよい」という
を用いていました。
文明のことばに強く心をひかれました。以
後土屋文明選の「アララギ」誌上に西方の
新津
恒吉(にいつ
つねきち)
作品が目立つようになりました。
1870(明治3)年4月19日∼193
屋根職のうた、
「名誉市民會津八一が歌作る
9(昭和14)年8月18日
書斎の見ゆる屋根に木羽葺く」
「亡き父の葺
我が国製油業界の功労者。1900(明治
きし御堂の屋根瓦信濃川光る晴れし日に見
33)年、新津油田の有望性を見込んで滝
ゆ」。天理教信者でもあった母をうたったう
谷(現秋葉区)に製油工場を設置しました
た、
「病む眼より涙を垂らす吾が母よ神いま
335
地域を越えた文化資源
す説教説きて飽かなく」
。妻をうたったもの
財界と折衝(せっしょう)を重ねて、初め
「浮かびくる離縁せし妻やさしくて堪へが
て外債発行の途を開きました。退職してか
てぬかな青葉の道は」
「狂ひたる妻を思ひて
らは、新しい通信サービスとして登場した
はかなければ煙草もみ消し瓦を結ふ」。貧の
ポケットベルを県内に普及させるため通信
歌「拾ひ来し西瓜喰ふ時表戸を閉すと暑き
会社を創立し、その普及に大きく貢献しま
部屋に立ちあがる」。
した。
1991(平成3)年9月23日、護国神
社境内松林中に歌碑建立除幕、
「瓦葺く屋根
野坂
より見れば暖かき秋の雨降りかすむ新潟」。
1930(昭和5)年10月10日∼
昭如(のさか
あきゆき)
神奈川県鎌倉市生まれ。
西郡
久吾(にしごおり
きゅうご)
1945(昭和20)年6月、神戸大空襲
1867(慶応3)年∼1931(昭和6)
にあい、養父を失いました。新潟県副知事
年
であった実父に引き取られ、1948(同
良寛研究の先覚者。権力や名声のためばか
23)年、旧制新潟高等学校(現新潟大学)
りに必死になっている世の中の人のために、
を経て、早稲田大学仏文科に入学。種々の
解熱剤として良寛の書物を出版しようと決
アルバイトを経験し、1955(同30)
心し、1914(大正3)年教職のかたわ
年、三木鶏郎の冗談工房に入社。戦後の童
ら十数年にわたって良寛の資料収集と集成
謡を代表する「おもちゃのチャチャチャ」
に没頭し、ついに「北越偉人沙門良寛全伝」
を作詞しました。
の出版にこぎつけました。
1967(同42)年、第58回直木賞を
良寛の業績を学問的に研究した書物は、こ
「火垂(ほた)るの墓」
「アメリカひじき」
れが初めてでした。
で受賞。焼跡闇市派といわれました。19
97(平成9)年、
「同心円」で吉川英治文
西村
多計司(にしむら
たけし)
学賞受賞、2002(同14)年、
「文壇」
1914(大正3)年7月3日∼1988
で泉鏡花文学賞受賞。
(昭和63)年5月15日
新潟を描いた作品として「行き暮れて雪」
西蒲区(旧中之口村)出身。電信電話公社
「プアボーイ」があります。
「行き暮れて雪」
総裁秘書役、東京中央電報局長、四国電通
では戦後直後の新潟市の様子が描かれ、花
局長ほかを歴任。通信界の功労者。
月劇場、鍋茶屋、どっぺり坂などが出てき
幼少の頃、昼間は家の手伝い、夜は勉学に
ます。
いそしみ、そのかいあって、仙台逓信(て
1983(同58)年には新潟3区から衆
いしん)講習所普通科へ進み、新潟郵便局
院選に立候補し話題となりました。
へ採用されました。
その後も人一倍勉学に励み、難関である高
等文官試験に合格。電信電話公社総裁の秘
書役に就任後は総裁に同行渡米し、政府・
336
地域を越えた文化資源
びく」
「この川に拠して賑ひし日はすぎぬさ
びれし町が家並ならぶる」。
は行
萩野
左門(はぎの
さもん)
1851(嘉永4)年8月1日∼1917
(大正6)年12月30日
西区(旧黒埼町)に生まれ、幼少より西蒲
原郡粟生津村(現燕市)の長善館で和漢学
を修め、1869(明治2)年より3年に
亘って同館の塾長を勤め、帰宅後は18歳
で村上藩から板井村(現西区)の庄屋役に
野地
曠二(のじ
こうじ)
任命、廃藩の後は村の戸長となりました。
1903(明治36)年2月19日∼19
この頃より自由民権を唱え、郷における自
85(昭和60)年2月12日
由党の先覚者として政界に活躍しました。
本名湊又三郎。福島県会津若松市の渡部家
1879(同12)年、県会議員当選後、
に生まれました。旧制会津中学校を経て東
信濃川・中ノ口川の堤防が貧弱で度重なる
京美術学校を卒業。美術の教師として加古
破堤を憂い、鷲尾政直らと堤防の補強工事
川中学校、白石中学校、同高等女学校に勤
を主張し、
「治水起工議」を記し、大河津分
務ののち、1946(昭和21)年に県立
水事業など県の治水事業に尽力しました。
新津高等女学校(現新津高等学校)に奉職。
1890(同23)年には県会議長、18
湊八枝と結婚後、湊姓になりました。
94(同27)年には衆議院議員、190
吉植庄亮に師事して1922(大正11)
2(同35)年には新潟市長に就任しまし
年、短歌雑誌「橄欖(かんらん)」創刊同人
た。
として加わり、次いで「新潟短歌」の創刊
に参画。
羽黒山
會津八一に傾倒し、八一の日記によれば、
1914(大正3)年11月18日∼19
湊夫妻は時々酒や煙草、茶を贈っている。
69(昭和44)年10月14日
また古筆の鑑定なども依頼し、八一に愛さ
西蒲区(旧中之口村)生まれ。
れた人のひとりと言えます。
16歳で上京し風呂屋で働いていましたが、
短歌は淡々として清澄の歌風、新潟を読ん
先代立浪親方にスカウトされて入門しまし
だものとして次のようなものがあります。
た。生まれつきの素質と体格に恵まれ、稽
「秋かくなりし大川ゆるやかに水脈(みを)
古熱心な羽黒山は、瞬く間に力をつけて、
ひろげてはひたに流るる」
「砂山にやすらぎ
1934(昭和9)年の初土俵以来、スピ
をれば穂にいでて秋草なびくしづまりてな
ード昇進記録を打ち立て一挙に三役まで駆
337
政司(はぐろやま
まさし)
地域を越えた文化資源
け上がります。そして1941(同16)
「良寛」
「解良家の良寛」子供向けの「良寛
年、ついに第36代横綱に推挙されました。
さま」などを著しました。
以来優勝7回、引退するまで実に12年も
の間横綱に在位するという不滅の大記録を
番場
打ちたてました。戦争をはさんだこの時代、
治水功労者。新津(現秋葉区)は阿賀野川
人々に大きな希望を与え、特に横綱昇進直
と信濃川に囲まれ、農業用水には恵まれて
後に故郷で盛大に行われた記念興行は今な
いましたが、たびたび川が氾濫するという
お地域に語り継がれています。
水害がありました。1885(明治18)
1952(同27)年、36歳での最年長
年に市之瀬・覚路津・大秋が水浸しになる
全勝優勝は日本中を興奮の渦に巻き込みま
と、排水機を取り付けて水抜きをしようと
した。引退後、立浪親方を襲名。多くの力
試みましたが、蒸気ポンプの排水機が高額
士を育て、相撲界に多大な貢献をしていま
だと心配され、残念ながら実現には至りま
す。故郷の地名から四股名をとったほど郷
せんでした。その意志は松岡酒造三郎に継
土を愛した羽黒山。幼い頃父を無くし、母
がれることとなりました。
甚三郎(ばんば じんさぶろう)
ミナさんの女手一つで育てられた羽黒山の
早く出世をして母を楽にさせたいという願
伴
いもむなしく、大関昇進直前にミナさんは
生年不明∼1870(明治3)年6月22
亡くなりました。落ち込む羽黒山を励まそ
日
うと、村の人達が化粧まわしを贈りました。
会津藩士。明治戊辰の役、越後口の戦いに
そのまわしは現在羽黒神社に残っています。
参戦出陣しました。
百悦(ばん
ひゃくえつ)
戦後、新政府軍の命令で戦死者の埋葬が困
原田
勘平(はらだ
かんぺい)
難な状況下において、士族の身分を捨て遺
1887(明治20)年1月19日∼19
体埋葬処理に奔走しました。
74(昭和49)年7月19日
その後、新政府軍の監察方の勝手気ままな
間瀬(現西蒲区)生まれました。
取り締まりや町民に対する残酷な仕打ちに
1903(明治36)年、新潟師範高等学
怒った百悦らは、束松峠でその監察方を斬
校を卒業。
りました。百悦は大安寺の坂口津右衛門を
卒業後、寺泊小学校を振り出しに、県内小
頼り慶雲庵に身を寄せましたが、追手に取
学校で教鞭をとり、1912(同45)年
り囲まれ自刃しました。
に木山小学校校長に抜擢され、1937(昭
自刃地の慶雲庵跡には百悦の墓碑が建てら
和12)年、燕市の大田小学校長を最後に
れています。
退職しました。
1912(明治45)年、分水町中島の原
ピエトロ・ミリオーレٛٛ
田家に婿入りして原田勘平になりました。
1874(明治7)年にフランスの曲馬団
教職の傍ら良寛研究の第一人者と呼ばれる
員として新潟にやってきたイタリア人。
までに至り、数多くの著書「訳注良寛詩集」
日本を訪れた際に大けがをしてしまい、新
338
地域を越えた文化資源
潟に置き去りにされてしまいました。そん
10月)などの詩集があります。
ななか当時の新潟県令であった楠本正隆に
牛鍋屋を出すことを勧められ、出店しまし
樋口
たが、1880(同13)年の大火で消失
1886(明治19)年5月11日∼19
してしまいます。しかし、その後周囲の人
79(昭和54)年2月3日
たちの励ましもあって、翌年に本格的な西
西蒲区(旧潟東村)生まれ。1911(同
洋レストランである「イタリア軒」を誕生
44)年に上京し、1924(大正13)
させました。1976(昭和51)年には
年に目黒青果株式会社を設立。その後、1
現在の建物を新築し、「ホテルイタリア軒」
935(昭和10)年には東京荏原青果株
としてホテル業も開始しました。
式会社を創立しました。1950(同25)
顕嗣(ひぐち
けんじ)
年には東京青果卸売人協会会長に就任、以
樋口
恵仁(ひぐち
けいじん)
来青果業界の要職を歴任し、国や東京都な
1923(大正12)年5月4日∼。
どから多くの表彰を受けました。
福島市で生まれました。小学4年生の19
また、読書を愛し、美術品を収集する趣味
33(昭和8)年、父の仕事の関係で新潟
人であり、1970(同45)年には収集
市へ移住。以後、国鉄マンとして越後赤塚
した多くの美術品を、潟東村に寄贈しまし
駅、関屋駅、小針駅等に勤務。退職後は、
た。現在、潟東樋口記念美術館として公開
新潟市内に居を構え、市内広川製本所に入
されています。
り経営に参画しながら、全国的に評価され
旧潟東村名誉村民。
た豆本「佐渡」
「毒消し」
「良寛」、新潟市の
「坂」「建築」、豆本詩集「あのひと抄」を
樋口
世に送りました。
1946(昭和21)年∼2007(平成
詩人としては、1943(同18)年「詩
19)年
と詩人」に新人推薦を受け、1947(同
1997(同7)年まで新潟市内で家業(旅
22)年「谺(こだま)」同人、1951(同
館業)を経営。1999(同11)年、
(財)
26)年に「うらぶれた海底に黄色い花が
新潟観光コンベンション協会勤務。200
咲いたら」の同人となりました。
「うらぶれ
3(同15)年4月より同協会事務局長。
た∼」は後「海底」と改題。
「新潟を夕日の美しい街としてイメージづ
「だれにも読んでもらえ、だれにもわかっ
け、新潟市に首都圏からたくさんの観光客
てもらえ、そしてだれにも書けない詩」を
を呼び込みたい」という思いで、1986
書くことをモットーに詩作をつづけました。
(昭和61)年度の第1回開催から第10
詩集に、第一詩集「秋の風景」
(1956<
回まで「日本海夕日キャンペーン実行委員
同31>年10月)、これは八木末雄に「あ
会」の代表を務めました。毎年1日に約5
ふれる日本的叙情」と激賞されました。そ
∼6万人もの観客を集める「日本海夕日コ
の他「下伊場野村残照」
(1992<平成4
ンサート」を新潟の夏の風物詩として確立。
>年10月)
、
「暦日」
(1992<同4>年
新潟への誘客と情報発信にも大きく貢献し
339
潤一(ひぐち
じゅんいち)
地域を越えた文化資源
ました。
日野
資徳(ひの
すけのり)
晩年は新潟観光コンベンション協会専務理
1848(嘉永元)年7月1日∼1909
事として、新潟市の観光・コンベンション
(明治42)年4月5日
の振興に大きく貢献するとともに、新潟県
通称徳三郎。瓊之舎(たまのや)と号しま
観光復興戦略会議に「にいがた観光カリス
した。中央区の商家に生まれました。幼時
マ」として認定され、新潟の魅力を伝える
から読書を好み、昼は家業に精を出し、夜
ことに尽力されました。
は学問に精進しました。余り熱心に勉強す
るので両親は病気になるのではと心配した
火坂
雅志(ひさか
ほどでした。
まさし)
1956(昭和31)年∼
和漢文を浅見安景に、皇典を小池内宏に学
新潟市生まれ。歴史小説家。1988(同
びました。徹夜がたたって、ついに病気に
63)年、
「花月秘拳行」でデビュー。19
なり、静養をかねて数年諸国を旅行、見聞
99(平成11)年の作品「全宗」が話題
を広めて帰郷しました。
作となり注目されます。主な作品に「覇商
1874(明治7)年、時の県令楠本正隆
の門」、「黒衣の宰相」、「虎の城」などがあ
の推挙で白山神社の神官になりました。宗
ります。また、上杉謙信から教えられた「義」
教、本草、算数に通じ、特に古典、和歌、
と「仁」の志を貫き通した直江兼続の波乱
文法に力をそそぎました。
の人生を描いた作品「天地人」は、第13
和歌は「古今和歌集」(桂園風)を評価し、
回中山義秀文学賞を受賞し、2009(同
自作もそれに近いものでした。
「昨日かも花
21)年、NHK大河ドラマの原作になり
にいとひし山風を身に待つ時とはやなりに
ました。
けり」
「文机にわがおこたりの夢さめて雪の
2008(同20)年に第1回にいがた市
あかりも恥づかしきかな」などがあります。
感謝大賞を受賞。
筆文字も温雅平明で立派でした。良寛に私
淑し、その歌を多く集めました。著書に「新
潟方言考」、歌集に門人の八木亮之の集めた
「瓊の光」があります。
墓は市内正福寺にあります。
會津八一の「鹿鳴集後記」に、日野資徳の
ことが次のように描かれています。
「その頃
新潟の鎮守なる白山神社の禰宜(ねぎ)に
日野資徳といふ人あり。叔父はこの人に就
きて和歌を学び、その社中の高足なりしか
ば、予は小学校への途中に、しばしば詠草
を携へて其門に遣はされしことあり。」
340
地域を越えた文化資源
平出
修(ひらいで
しゅう)
ましたが、その冒頭の作品です。
1878(明治11)年4月3日∼191
4(大正3)年3月17日
平澤
新潟県中蒲原郡石山村猿ヶ馬場(現東区)
1900(明治33)年10月5日∼19
に生まれました。児玉家は江戸時代後期以
89(平成元)年6月17日
来代々村の名主。長兄は石山村長や県会議
南区(旧味方村)生まれ。七穂小、京都府
員を務めました。号は露花、黒瞳子(こく
立二中、四高、京都帝国大学医学部を経て、
どうし)。弁護士、歌人、小説家、評論家。
同医学部助教授、新潟医科大学助教授を務
尋常科石山小学校、亀田高等小学校を卒業
めました。スイス・ドイツへ留学。帰国後、
後、母校の亀田尋常高等小学校の代用教員、
新潟医科大学教授となる。1946(昭和
ほかに新津、十日町、片貝などの小学校を
21)年、京都帝国大学教授に。以後、京都
歴任しました。
大学医学部教授、同大学総長2期などを歴
1900(明治33)年、高田の弁護士平
任。脳神経解剖学の世界的権威者で、19
出善吉の妹ライと結婚して平出家に入籍。
51(同26)年に「脳の錐体外路系に関
上京して義兄の母校明治法律学校に入学、
する研究」により、日本学士院賞受賞、1
1904(同37)年、弁護士になりまし
970(同45)年には勲一等瑞宝章を受
た。あわせて与謝野鉄幹、晶子の新詩社同
章。世界的権威になってからも、機会があ
人となり雑誌「明星」に短歌、評論を発表
る度に故郷を訪れて講演を行いました。南
しました。
「明星」廃刊後、石川啄木、吉井
区味方の笹川邸横に曽我・平澤記念館があ
勇らと「スバル」を刊行、発行所を自宅に
ります。旧味方村名誉村民。
興(ひらさわ
こう)
置きました。
1910(同43)年、鉄幹の依頼で大逆
平松
事件の弁護を引き受け、彼が伝えた事件の
う)
真相が啄木に大きな影響を与えました。彼
1867(慶応 3)年12月27日∼19
自身も「逆徒」
(1913<大正2>年)で、
30(昭和5)年6月14日
幸徳秋水、菅野スガをモデルにした短編小
西蒲区(旧中之口村)出身。道上村長、県
説を発表。ほかに生まれ故郷の農村の悲惨
会議員、県会議長を歴任。水腐地(みずぐ
さを描いた「夜烏」があります。
されち)を美田に変えた政治家。
現在、東区猿ヶ馬場の児玉屋敷跡(猿ヶ馬
幼い頃より英才のほまれ高く、弥彦明訓校
場2丁目)に黒みかげ石の「平出修生誕の
(やひこめいくんこう)を終えて、河根川
地」碑が建立され、経歴、業績などが記さ
青剛斎(かわねがわせいこうさい)の塾で
れています。碑はほかに、中央区西堀通6
漢学を学び、長じて東京に出て増島六一郎
番町に「柳には赤き火かかりわが手には君
(ますじま
が肩あり雪ふる雪ふる」があります。これ
修行しました。
は1909(明治42)年、
「スバル」5月
1897(明治30)年、県会議員となり、
号に「赤火」と題して50首の短歌が載り
連続7回当選、県会議長を2期務めるなど
341
遮那一郎(ひらまつ
しゃないちろ
ろくいちろう)博士に就いて
地域を越えた文化資源
県政の発展に貢献しました。1910(明
のカフェ「プランタン」で慶応義塾大学教
治43)年から21年間道上(どうじょう)
授の永井荷風と出会い、1914(大正3)
村長として耕地と治水の改良のため奔走
年に入籍。しかし翌年2月に離婚。
(ほんそう)し、区域内の木山川(きやま
1931(昭和 6)年、藤間流の名取を返
がわ)流域、大通川(おおどおりがわ)飛
上し、藤蔭流を創立。太平洋戦争中は一時
落川(とびおちがわ)関係の治水改良を実
新潟市に疎開していましたが、終戦ととも
現、上郷水害予防組合の設立に関わり事業
に東京に戻り活躍しました。新舞踊の先駆
を発展させました。
者として、1963(同38)年、舞踊家
では初の文化功労者となりました。代表作
福富
雪底(ふくとみ
せってい)
に「大工」などがあり、紫綬褒章や勲四等
1921(大正10)年9月23日∼20
宝冠章を受章しています。
06(平成18)年
四ツ合村(現西蒲区)横戸に生まれました。
藤沢
1935(昭和10)年、縁あって東京都
1959(昭和34)年∼
台東区上野の広徳寺(臨済宗大徳寺派)福
西区生まれ。作家。新潟明訓高等学校、法
富以清和尚の弟子となり、禅の道に入りま
政大学文学部を卒業。1993(平成5)
す。1944(同19)年、大正大学卒業
年に「ゾーンを左に曲がれ」
(現在は「死亡
後、仙台陸軍予備士官学校に入り陸軍少尉。
遊戯」に改題)でデビュー。多くの作品が
終戦後台湾より復員、寺に戻りました。そ
芥川賞候補、野間文芸新人賞候補になるな
の後、福岡久留米の臨済宗妙心寺梅林寺専
ど注目を浴びました。1998(同10)
門道場で15余年にわたり厳しい禅の修業
年には「ブエノスアイレス午前零時」で第
に励みます。1961(同36)年,広徳
119回芥川賞を受賞。
寺第30代住職になり、
「福富」を継ぎ名を
「雪底」と改めました。
1983(同58)年、一休、沢庵和尚を
生み、また、茶道千利休ゆかりの京都柴野
の臨済宗大徳寺派大本山大徳寺第14代管
長に就任しました。
藤蔭
静樹(ふじかげ
せいじゅ)
1880(明治13)年∼1966(昭和
41)年
日本舞踊家。本名内田八重。新潟市生まれ。
1909(同42)年に上京し、藤間流で
稽古をするかたわら、
「八重次」の名で新橋
芸者に出ました。日吉町(現・銀座八丁目)
342
周(ふじさわ
しゅう)
地域を越えた文化資源
伏見
半七(ふしみ
はんしち)
区)の出身であることを実証し、
「竹内式部
1852(嘉永5)年∼1894(明治2
君事迹考」を著しました。1917(大正
7)年
6)年、東京で死去。
沼垂町(現中央区)の代々の鮭網漁師の家
に生まれ、新潟町の回船問屋に奉公した後、
堀
三菱系の新潟物産会社の手代となりました。
1577(大正5)年∼1639(寛永1
1880(明治13)年、ロシア政府の要
6)年
請を受けて同社が品川港からウラジオスト
江戸時代前期の1616(元和2)年に長
クへ出航させた597トンの豊島丸で、初
岡藩主となり、領内の新潟町に対し、多く
めて対岸貿易に従事しました。同地の将来
の船が新潟湊に出入りするよう船の税、諸
性を確信し、1889(同22)年に66
商人の税など各種の税を免除し、湊の繁栄
tの光正丸で新潟∼ウラジオストクの直行
の礎を築きました。また、新しい町並み(現
貿易を行い、新浦商会を設立しました。こ
在の本町通ほか)の建設を命じ、その後の
の時、持ち帰ったサケ・マスが、北洋漁業
新潟町の基となりました。わずか2年弱の
の発端となりました。1891∼1893
長岡藩主時代に行ったこれらの政策が、み
年には、毎年、商業・漁業の視察団を乗せ
なとまち新潟の発展へ結びついたと言われ
て新潟からウラジオストクへ渡り、事業社
ています。
直竒(ほり
なおより)
のためにシベリア移民社を設立しました。
自らは大もうけせず、死去しました。
本田
文明(ほんだ
ぶんめい)
1813(文化10)年∼1870(明治
星野
恒(ほしの
ひさし)
3)年1月18日
1839(天保10)年∼1917(大正
本田
6)年
生年不明∼1869(明治2)年4月
白根(しろね)町(現南区)の農家の長男
文明、敬斎親子は医業のかたわら実学館と
に生まれました。学問が好きで、曲通村(南
いう塾を開いて子弟に学問を教えていまし
区)梵行寺の僧環洞から漢籍を学びました。
たが、明治維新の初め、医学の普及と進歩
1859(安政6)年、家業を弟に託して、
を図るため医学館を設立したいと考え、水
江戸に出て漢学を修め、1868(慶応4)
原の越後府へ願い出ました。当時の壬生知
年に帰郷して、水原県立広業館の教師を務
事も大いに賛意を表して自ら「仁寿館」と
めました。1875(明治8)年、再び上
命名しましたが、不幸にも父子とも相次い
京して太政官修史局に招かれ、各地の古文
で没したため、ついに実現には至りません
書を収集しました。修史事業が帝国大学に
でした。
移されると、恒も大学に移り、
「大日本史料」
当時、一民間医師の手によって医学校の設
「大日本古文書」を編さん・刊行しました。
立が企画推進されたことは、新潟県の医学
また、1899(同32)年には、江戸時
史上、たいへん特筆すべきことでした。
代中期の思想家・竹内式部が新潟町(中央
343
敬斎(ほんだ
けいさい)
地域を越えた文化資源
本間
俊平(ほんま
しゅんぺい)
俳諧は幕末の三大家の一人である遠藤蒼山
1873(明治6)年8月15日∼194
に師事し、「古木庵契史」と号した。
8(昭和23)年8月13日
1864(元治元)年に出版した亡父の1
間瀬(西蒲区)生まれ。1902(明治3
3回忌追善句集「ひらかさ集」の橘田春湖
5)年にキリスト教の洗礼を受けます。同
の序によると,春湖は1848(嘉永元)
年8月に山口県秋吉台の大理石開発事業の
年に来遊しており、25歳の徳左衛門も影
経営に着手し、キリスト教徒としての実践
響を受けたと思われます。
を通して免囚者等の救済の社会活動に奉仕
徳左衛門は数多くの俳書の編著・蔵書を行
し、秋吉台の聖者と呼ばれ「日本キリスト
って、俳句を地域に広めました。
教界の三平」の1人として仰がれました。
1874(明治7)年、新作は「契史発句
主な著作に「高輪だより」「神の人」「科学
集」を出版しました。
と宗教」等があります。
1914(大正3)年、森鴎外によって本
ま行
間俊平の人生経験をモデルとした小説「鎚
一下」が中央公論に発表されました。また、
前川
玉川学園の学長小原国芳によって俊平の青
1905(明治38)年5月14日∼19
年教育実践について「日本新学校」という
86(昭和61)年6月26日
題名で紹介されています。
建築家。新潟市(現中央区)生まれ。19
國男(まえかわ
くにお)
28(昭和3)年、東京帝国大学工学部建
本間
新作(ほんま
しんさく)
築学科を卒業後に渡仏、同年∼1930(同
1845(弘化2)年10月1日∼193
5)年、ル・コルビュジエに師事した後、
6(昭和11)年7月26日
帰国。同年∼1935(同10)年、レー
県経済界の先駆者。第四銀行の創立を始め、
モンド建築設計事務所に勤務。同年、前川
新潟米穀取引所、日本石油、鉄道会社、水
國男建築設計事務所を設立。設計作品に、
力電気会社、新潟鉄工所等、多くの事業に
新潟市美術館、紀伊國屋書店、神奈川県立
参画、特に農事改良に尽くし、藍綬褒章を
図書館・音楽堂、京都会館、東京文化会館、
授与されました。また、長年郡農会長とし
埼玉県立博物館、東京都美術館、東京海上
て郡政村政に貢献しました。
ビルディング、熊本県立美術館など。日本
建築学会大賞、毎日芸術賞、朝日賞などを
本間
徳左衛門(ほんま
とくざえもん)
受賞。
1824(文政7)年∼1873(明治6)
年4月3日
下新村(現秋葉区)の庄屋、地主、俳人。
白河・会津・村松藩の御用達を勤めた資産
家で、39歳からは養子の新作に家事を任
せて遊芸にふけりました。
344
地域を越えた文化資源
松井
廣(まつい
ひろし)
1886(明治19)年6月13日∼19
61(昭和36)年11月25日
黒埼村(現西区)議会議員に3度、黒埼村
長に4度就任しました。1953(昭和2
8)年の村長就任以降は、上水道事業とし
ては当時全国的にも例を見なかった村自治
体としての全世帯完全給水を進めました。
旧黒埼町名誉町民。
松岡
酒造三郎(まつおか
みきさぶろう)
1866(慶応2)年12月29日∼19
30(昭和5)年1月2日
治水功労者。新津は阿賀野川と信濃川に囲
水島
新司(みずしま
しんじ)
まれ、農業用水には恵まれていましたが、
1939(昭和14)年∼
たびたび川が氾濫するという水害がありま
マンガ家。1958(昭和33)年「深夜
した。松岡が最も心血を注いだのはこの治
の客」でデビュー。
水事業で、特に荻川地区の低地水腐田の開
「あぶさん」「野球狂の詩」「ドカベン」な
拓と排水でした.
どの代表作があります。
1910(明治43)年、松岡の努力によ
作品内にはしばしば故郷新潟に関わりのあ
り覚路津排水機場が稼動を始め、長年水害
る事柄が出てきます。
に苦しんでいた人たちを救いました。また
古町に水島マンガのキャラクターの像が並
私財を投げ打って長割地区を開拓し、農民
ぶ「マンガストリート」があります。
の生活を助けたりもしました。
2005(平成17)年4月、紫綬褒章受
章。
魔夜
峰央(まや
第37回(2007年度)日本漫画家協会
みねお)
マンガ家。1973(昭和48)年、デラ
賞文部科学大臣賞受賞。
ックスマーガレットの「見知らぬ訪問者」
2009(同21)年1月、にいがた市感
でデビュー。
謝大賞受賞。
「パタリロ!」などの代表作があります。
345
地域を越えた文化資源
湊
八枝(みなと
やえ)
宗村
宗二(むねむら
むねじ)
1908(明治41)年3月6日∼200
1943(昭和18)年∼
4(平成16)年8月6日
黒埼町(現西区)出身。1968(同43)
新潟市に生まれました。新潟女子工芸学校
年のメキシコオリンピックにレスリング選
時代より短歌を作っています。1927(昭
手として出場し、グレコローマン・ライト
和2)年、吉植庄亮に師事して短歌結社「橄
級で金メダルを獲得しました。
欖(かんらん)」に所属。のち會津八一、相
馬御風、田崎仁義を顧問に1946(同2
1)年2月「新潟短歌」を創刊。歌誌の題
字は八一の書。歌文集に「花供養」、歌集に
「歳いくたび」「歳香」などがあります。
作品に「潮なりの激しく充つる海のむらこ
のさぶしさに身をさらしゐる」など女性特
有の繊細にして気品のあるものが多くあり
ます。
歌碑は、白山神社裏手の白山会館前に19
88(同63)年3月、建立されました。
歌は「大川のながれひとところもりあがり
上げ潮ならむ光をあつむ」です。
村手
範(むらて
はん)
1877(明治10)年7月6日∼195
9(昭和34)年7月5日
横越(現江南区)の沢海の生まれ。189
6(明治29)年、東京専門学校(早稲田
大学の前身)卒業後、1901(同34)
年に新潟師範学校卒業。
新潟師範附属小学校から、1901(同3
4)年、横越小学校の第9代校長に就任。
以来1931(昭和6)年までの退職まで
の25年間を郷土の子弟の教育に情熱を注
ぎました。1933(同 8)年から194
1(同16)年までの間に横越村の助役を
勤め、1949(同24)年には初代の公
民館長に就任し、復興期の社会教育を他に
先んじて着手しました。旧横越村は戦前か
ら「教育村」と呼ばれてきましたが、その
346
地域を越えた文化資源
背景には栄転の話を断り、地道な郷土教育
小学校、旧制会津若松中学校を経て、19
に一生をささげた範の功績が大きいです。
21(大正10)年、旧制新潟中学校4年
小林存とは同じ年で対照的な性格でしたが、
生に転入。一家で営所通に住みました。
大親友でした。
旧制新潟中学校卒業後、会津奥の氷玉ヶ岡
書は能筆で、横越地域の土地改良碑や神社
尋常高等小学校代用教員になりました。半
の幟の揮毫など多くの作品を残しています。
年後、新潟にもどり、市税務課の臨時雇と
旧横越町名誉町民。
なりました。会津若松時代からの短歌と詩
の創作を新潟でも続けました。
村山
得次郎(むらやま
とくじろう)
1926(同15)年、国鉄に勤務するか
1851(嘉永4)年∼1886(明治1
たわら市島三千雄、寒河江真之助、新島節
9)年
らに会い、詩誌「新年」を創作します。
1873(明治6)年∼1874(同7)
以後、新潟県内の国鉄の駅等に勤務を続け
年、阿賀野川の浅洲を新潟の湊元忠次郎(つ
ながら文芸活動をつづけ、
「新潟短歌」の同
もとちゅうじろう)の協力を得て埋め立て、
人にもなりました。
新屋敷(北区松浜本町4)を造成しました。
八木の特筆すべき業績は、新潟県の現代詩
また、朝市が立ち始めたこの地に二・七の
の動向を詳細に記述した「新潟詩壇史」を
市を開設することに力をつくしました。1
まとめたことです。原稿用紙700枚の著
876(同9)年に松浜の人々により県に
作は、八木の生涯の仕事を語っていると同
市開設の願いが出され、やがて許可され、
時に新潟県の現代詩のことが手に取るよう
現在に至っています。さらに、江戸時代以
にわかります。
来、松ヶ崎掘割を港として利用することを
禁じた新潟町との契約を撤廃して開港する
山岸
ことにも尽力しました。1886(同19)
1893(明治26)年11月25日∼1
年に志半ばに36歳で亡くなりますが、運
986(昭和61)年
動は引き継がれ、1893(同26)年に
西川(現西蒲区)出身の国漢学者。多くの
交易港として国会で正式に認可されました。
古書を集め、文庫や個人の貴重な蔵書など
松浜稲荷神社の境内に頌徳碑が建っていま
を撮影していました。漢文学の研究が多く、
す。
ついで平安時代の物語日記随筆類の研究が
徳平(やまぎし
とくへい)
多くありました。
や行
1949(昭和24)年から宮内庁書陵部
委員の任にあたりました。1967(同4
八木
末雄(やぎ
すえお)
2)年には完成した新宮殿の名称の命名を
1906(明治39)年2月10日∼19
申し付けられました。
89(平成元)年4月21日
1968(昭和43)年11月3日、勲二
福島県双葉郡富岡に生まれました。仙台市
等に叙せられ、瑞宝章が授けられました。
立立町尋常高等小学校、会津若松第一尋常
347
地域を越えた文化資源
山際
七司(やまぎわ
しちし)
書は楷(かい)、行(ぎょう)、草(そう)、
1849(嘉永2)年1月20日∼189
隷(れい)の4体に長じ、頼まれると快く
1(明治24)年6月9日
応じたので、神社の幟(のぼり)や扁額(へ
木場村(現西区)の代々の庄屋の長男に生
んがく)、碑文など数多くの作品を残してい
まれました。1868(慶応4)年の戊辰
ます。
戦争では旧幕府側の米沢藩に従い従軍し、
1870(明治3)年に父の跡を継いで大
山田
河津分水工事の用弁係になりました。その
1876(明治9)年8月8日∼1933
後英国流の立憲主義に関心を寄せ、187
(昭和8)年7月30日
8(同11)年に有志と自立社を結成して、
本名穀城(よしき)、通称こくじょう。佐渡
県会議員となり、そして、県内の国会開設
郡相川町(現佐渡市)2丁目に生まれまし
懇望(こんもう)協議会を組織し、国会開
た。祖父、父ともに歌人の家柄です。15
設の建白書を元老院に提出したり、自由党
歳のとき新潟に来て「北越学館」に学んだ
の結成に加わり幹事となったりしました。
が病気のため半年で帰郷、以来漢籍、国学
1883(同16)年の高田事件、188
を勉強し、政治、歴史、文学等の書籍を読
5(同18)年の大阪事件で拘留され、1
みふけりました。
887(同20)年には保安条例で東京退
幼少のころより和歌をよみ、佐渡の北凕雑
去を命じられました。1890(同23)
誌に寄稿していた花作は、祖父、父と共に
年の第1回帝国議会選挙で新潟県から衆議
新潟新聞にも和歌を投稿していました。そ
院議員に当選しましたが、その翌年に病死
の力量と文才を社長の坂口仁一郎に認めら
しました。
れ、1894(明治27)年、新潟新聞社
花作(やまだ
はなさく)
に入社。地方通信部主任、県会担当記者、
山田
雪嶺(やまだ
せつれい)
編集長を経て主筆となり活躍しました。
1829(文政12)年11月7日∼19
花作にはふたつの顔があり、ジャーナリス
05(明治38)年5月26日
トとしての穀城と歌人としての(小金)花
六分村(現西蒲区)出身。本名は山田甚作
作です。前者は、大正年間を中心に新潟に
(号: 雪嶺、池星)。書道の大家。
やってきた文人墨客を歓待し、その取材記
幼い頃から利発で読書を好み、特に書が巧
事を新潟新聞に書きました。応対した文人
みであった甚作は、越後の書聖、巻菱湖(ま
は、尾崎紅葉、坪内逍遥、北原白秋、有島
きりょうこ)に師事し、その没後は中沢雪
武郎、吉井勇と数えきれないほどです。晩
城(なかざわせつじょう)について才能に磨
年執筆の「県会波瀾史」は労作でした。
きをかけ、書家となりました。
歌人としては、与謝野鉄幹の「亡国の音」
父と兄を相次いで亡くすと、帰郷して庄屋
(1894<同27>年)にいちはやく反
の職を継ぎ、また周囲に請(こ)われて家塾
応して、新潟の地で和歌革新運動をおこし、
(かじゅく)を開き、多くの子弟を指導しまし
若き日の相馬御風、會津八一、小林存らが
た。
その影響を受けました。この運動のために
348
地域を越えた文化資源
月刊機関誌「若菜舟」を出し、
「深雪会」を
兵衛ら5人は、江戸に直接上って勘定奉行
組織しました。
山中代官との直接交渉に当たりました。そ
の結果は農民の訴えを受け入れたものでし
山辺
習学(やまべ
しゅうがく)
たが、原藤兵衛は一時庄屋役取り上げの処
1882(明治15)年11月25日∼1
分を受けました。
944(昭和19)年9月12日
山本丈右衛門は阿賀野川へ注ぐ新加治川の
かつて、我が国の宗教界をリードした仏教
瀬替えを行い、次いで新井郷川のはけ口を
学者です。
改修して、阿賀野川から逆流を防ぐ工事を
四ツ合村(現西蒲区)横戸に生まれました。
行いました。しかし、資金や技術不足から
村の寺(長徳寺)の住職にその資性聡明を
計画半ばにして1770(明和7)年に病
見出され、17歳にして弟子となり名を「習
死しました。北区の葛塚地区前新田には供
学」と改めました。
養塔があります。1818(文化15)年
三条市米北中学、上京して真言中学、大谷
に福島潟開発のさきがけとなった丈右衛門
大学卒業。山形県槙岡の正応寺を継ぎ「山
の冥福を祈って、市島徳次郎を始めとする
辺習学」となりました。
水原13人衆によって建立されました。ま
1915(大正4)年、東本願寺留学生と
た、1864(元治元)年、山本丈右衛門
してインドの仏跡を踏査したのちロンドン
を福島潟開発の先駆者として慰霊するため
大学に留学。
に斉藤七郎治(4代)が建てたものと思わ
帰朝後、大谷大学教授に就任、のちに学長
れる墓もあり、右側面に「明和七年(17
となり、1932(昭和7)年、中心とな
70)十一月朔日仏」と刻まれています。
って仏教文化協会を設立。その後講演、執
筆など学才豊かに多彩な活動で知られてい
吉田
ます。
1895(明治28)年2月18日∼19
著書は20余部に及び、
「新訳仏教聖典」
「地
19(大正8)年2月24日
獄の話」などが有名です。
名曲「琵琶湖周航の歌」の原曲を作曲しま
千秋(よしだ
ちあき)
した。1915(大正4)年に発表した「ひ
山本
丈右衛門(やまもと
じょうえもん)
つじぐさ」の歌は、旧制第三高等学校(現・
生年不明∼1770(明和7)年
京都大学)で愛唱されていました。191
1742(寛保2)年、頸城郡鉢崎村(現
7(同6)年のある日、この美しい曲に旧
柏崎市)の山本丈右衛門は、幕府に福島潟
制第三高等学校の琵琶湖周航のクルーの一
の開発を願い出ました。その結果、幕府は
人、長野県出身の小口太郎が新たに詩を付
1754(宝暦4)年に福島潟周辺の33
け、琵琶湖畔の今津の宿で合唱したのが「琵
ヵ村を幕領とし、翌年丈右衛門に対して開
琶湖周航の歌」の始まりです。後にこの歌
発を許可しました。この時、水原代官が再
は国民的愛唱歌になるほど、人びとからた
検地を伝えたところ、生活が困窮している
いへん愛されています。
上に増税につながるとして当時の庄屋原藤
349
地域を越えた文化資源
吉田
東伍(よしだ
とうご)
義塾大学経済学部を病気のため中退。以後
1864 (元治元)年4月14日∼191
国文学を独修しながら正岡子規、伊藤左千
8(大正7)年1月22日
夫などアララギ派の歌人に親しみ、自身も
不朽の大辞書「大日本地名辞書」の編さん
作歌を志しました。
を、独力でなしとげた歴史地理学者。18
1925(同14)年4月、會津八一の処
95(明治28)年から13年間かけて完
女歌集「南京新唱」を読み、八一に傾倒。
成したこの大著は、実に5,000ページ
その間のことを八一は「友人吉野秀雄」と
を超え、学会に揺るぎない金字塔を打ち立
題して「夕刊ニイガタ」
(1947<昭和2
てました。後に早稲田大学教授となり、1
2>年3月5、6日)に次のように描いて
909(同42)年には文学博士の学位を
います。
「私が大正13年12月に、最初の
授与されています。
歌集『南京新唱』を出した時に、初めてこ
の人から手紙を貰った。その頃は、私の歌
吉田
晩稼(よしだ
ばんか)
について世間では目にとめてくれる人もな
1830(天保元)年10月6日∼190
く、発行所から一銭の印税も貰ふことが出
7(明治4)年
来ないほどであったのに、吉野さんは、集
戊辰戦争前後の約10年間大安寺の坂口家
中の歌はどれもこれも、みんな愛誦してゐ
に遇した遊歴の文人で、本名は寿平、香竹・
るけれども、中に2首だけ意味のわからな
好竹とも号しました。
いものがあると、
『西大寺の邪鬼』と『三輪
長崎で生まれ、江戸へ出て高島秋帆につき
山の石佛』の歌をたづねて来たのであっ
蘭学と銃隊法を学びました。その後越後へ
た。」これに対する八一の返事は、万巻の書
行き、坂口家に招かれ、家塾で子弟の教育
を読んで勉強せよでした。八一と秀雄の師
にあたり、求められて秋葉山で花火を上げ
弟関係は、このときからはじまり終生かわ
たりしました。
ることがありませんでした。
また書に優れ、楷書の雄渾な筆力に名声が
秀雄と新潟とのつながりは深く、
「新潟日報
あり、近郷の富豪は競ってその書を手に入
歌壇」の選者、短歌誌「砂丘」の選評、1
れたといいます。戦後、靖国神社や大蔵省
970(昭和45)年の県民会館前の歌碑
の標柱は晩稼が揮毫しました。新潟にもい
建立「枝堀にもやふ肥舟ほとほとに朽ちし
くつか晩稼の揮毫による石碑が残っていま
がうへに柳散るなり」とつづきます。歌集
す。
に「寒蝉集」
、著書に「良寛和尚の人と歌」
「鹿鳴集歌解」などがあります。
吉野
秀雄(よしの
ひでお)
1902(明治35)年7月3日∼196
吉屋
7(昭和42)年7月13日
1896(明治29)年1月12日∼19
群馬県高崎市新町46に生まれました。父
73(昭和48)年7月11日
母は共に新潟県柏崎市の出身。家は織物問
新潟市営所通(現中央区)にあった県庁官
屋吉野藤。1924(大正13)年、慶応
舎で誕生。父雄一は当時新潟県警務課長。
350
信子(よしや
のぶこ)
地域を越えた文化資源
2歳の時、佐渡郡長になった父と一緒に相
わ行
川町(現佐渡市)に移り4歳の春まで佐渡
で過ごしました。さらに北蒲原郡長に転出
和気
した父と新発田へ。のち栃木県へ移り、栃
1875(明治8)年9月15日∼194
木高等女学校(現・栃木女子高等学校)を
5(昭和20)年11月11日
卒業しました。
1914(大正3)年金津村(現秋葉区)
1919(大正8)年、女学校在学中に大
の村長に推され、以後、1945(昭和2
阪朝日新聞懸賞小説に応募した「地の果ま
0)年まで32年の長きにわたり村長の職
で」が1等に当選、150回にわたり連載
にあって、万年村長といわれました。
されました。また雑誌「少女画報」に投稿
金津村は当時、石油王といわれた中野家の
した「花物語」が好評で、10年以上も連
後援があり、近郷でも裕福な村でしたが、
載され少女小説のベストセラーになりまし
「農業立村」をめざし基本金を蓄積して財
た。
政基盤を固めました。また、1925(大
文壇的地位を確立して、大正中期から昭和
正14)年から20年間「金津村報」を発
にかけて大衆的現代小説「女の友情」
「良人
行し、村政の現状と社会の動きを村民に報
の貞操」を発表。良識的ヒューマニズムは
告して村内の融和と福利の増進を図りまし
話題を呼びました。
た。
戦後の長編「安宅家の人々」は、国内だけ
和気は頭脳明晰、行政手腕卓越との定評が
でなくフランス、デンマークでも訳され出
ありましたが、至って謙虚でした。
一郎(わき
いちろう)
版されました。1952(昭和27)年に
書いた短編小説「鬼火」は第4回女流文学
涌井
者賞を受賞。人間の情念をいきいきと写し
1721(享保6)年∼1770(明和7)
とったこの作品は、作者の純文学作家とし
年
ての力量を世に知らしめました。
1768(明和5)年、長岡藩による御用
さらに、
「女人平家」
「徳川の夫人たち」
「自
金に苦しんだ新潟町民が蜂起し2ヵ月にわ
伝的女流文壇史」等の力作を発表。伝記・
たり町民による自治を行いました。事件後
随筆等にも新境地を開きました。高浜虚子
その中心となった涌井藤四郎とその同志の
の弟子として女流俳人としても知られてい
岩船屋佐次兵衛の2人が処刑されました。
ます。
藩はこの事件を伏せましたが、町民は密か
鎌倉市長谷に優雅な和風の居をかまえて、
に藤四郎を義民として語り伝えました。藤
終生の友人門馬千代子と生涯を共にしまし
四郎らは後に明和義人と呼ばれるようにな
た。
り1928(昭和3)年には白山公園に顕
藤四郎(わくい とうしろう)
彰碑が建てられ、2007(平成19)年
には新潟市政令市移行記念として市民ミュ
ージカルが上演されました。
351
地域を越えた文化資源
鷲尾
いさ子(わしお いさこ)
渡辺
寛三郎(わたなべ
かんざぶろう)
1967(昭和42)年4月1日新潟市生
1887(明治20)年7月29日∼19
まれの女優。新潟清心女子高等学校卒業。
55(昭和30)年2月18日
1985(同60)年の全日空水着キャン
岩室温泉(現西蒲区)に生まれました。1
ペーンガールに選ばれたことがきっかけで、
910(明治43)年、高田師範学校を卒
芸能界デビュー。1989(同64)年に
業し教職につきました。1919(大正8)
サントリーから発売された「鉄骨飲料」の
年に升潟村大潟小学校長に抜擢され、弥彦
CM で一気に大ブレークしました。
麓小学校長、道上小学校長を歴任し、地元
岩室西小学校長を最後に1944(昭和1
鷲尾
雨工(わしお
うこう)
9)年3月に退職しました。
1892(明治25)年4月27日∼19
教職の傍ら郷土史研究に携わり、
「天神山城
51(昭和26)年2月9日
之研究上・下巻」「天神山城研究附小国氏」
黒鳥(現西区)生まれの小説家鷲尾雨工は、
「郷土三巻」等の遺稿を残すとともに、天
1936(昭和11)年に「吉野朝太平記」
神山城址の保存に生涯情熱を傾けました。
で第2回直木賞を受賞しました。黒埼図書
館前に石碑があり、その原稿の冒頭部分が
渡辺
刻まれています。
1888年(明治21)年10月23日∼
1951(同26)年、52歳で亡くなり
1985(昭和60)年8月17日
ましたが、近年再評価され、著書も復刊し
県立新潟商業高校を卒業。
ています。
「明智光秀」
「若き家康」
「北条時
1914(大正3)年、亀田町(現江南区)
宗」
「甲越軍記」のほか、評伝に「鷲尾雨工
の町議会議員に初当選、1923(同12)
の生涯」があります。
年、町長に就任しました。1927(昭和
幸太郎(わたなべ
こうたろう)
2)年から1931(同6)年まで県議会
鷲尾
貞一(わしお
ていいち)
議員、翌1932(同7)年衆議院議員に
1909(明治42)年10月22日∼1
当選、1936(同11)年までその職に
985(昭和60)年9月9日
ありました。1947(同22)年4月、
1935(昭和10)年、明治大学政治経
住民の直接選挙の初代町長に当選、195
済学部卒業。黒埼村教育委員会副委員長、
1(同26)年、1955(同30)年と
黒埼村助役等を経て、1953(同28)
再選されましたが、1957(同32)年
年より西蒲原土地改良区理事に就任しまし
病気のために辞職しました。
た。以後、同理事長、新潟県土地改良事業
その間、県町村会会長、全国町村会副会長
団体連合会理事長、全国土地改良事業団体
に選任されました。旧亀田町名誉市民。
連合会理事を歴任。土地改良制度研究会の
委員として制度の創設、改善や土地改良法
改正等に尽力しました。1985(同60)
年逝去。旧黒埼町名誉町民。
352
地域を越えた文化資源
渡辺
新三郎(わたなべ
しんざぶろう)
鉄筋コンクリート製の沈埋函(ちんまいか
(号:鉄岑<てっしん>)
ん)を埋め込んでトンネルが造られました。
1821(文政4)年∼1897(明治3
工事は1989(平成元)年に、沈埋函を
0)年
建造するドライドックの建設から始まりま
亀田(現江南区)生まれの画家。郷土の画
した。長さ100m余り、幅約29m、高
家、村木雲騰、大倉南岱に絵画を学びまし
さ約9mの沈埋函を8函建造。順次完成し
た。
た沈埋函を据え付け、2000(同12)
1861(文久元)年、長崎に留学、南宋
年に最後の8函目の据え付けが完了。川の
画を学び「鉄岑」の号を得ました。
両岸に、トンネル内の換気を行う立坑も整
山水画と四君子(蘭、菊、梅、竹)の画に
備されました。これは「入船みなとタワー」
優れていました。また彫刻、細工にも優れ
「山の下みなとタワー」として、港の展望
た才覚を持っていました。
スポットにもなっています。
亀田郷土資料館には屏風画「猛虎図」が収
万代島ルートの萬代橋下流橋は、3連のア
蔵されています。
ーチ橋として1998(同10)年に建設
が始まりました。
港口部トンネルと萬代橋下流橋は、それぞ
れ「新潟みなとトンネル」
「柳都大橋」の名
【施設】
がつけられ、2002(同14)年5月1
9日に同時開通しました。また5年後の5
新潟みなとトンネル(にいがたみなととん
月には、万代島に「朱鷺メッセ」が誕生し
ねる)
ました。新潟西港再開発構想は長い時を経
新潟みなとトンネルは、信濃川河口左岸の
て、新潟の玄関口にさまざまな新しい景観
入船地区(中央区)と右岸の山の下地区(東
を生み出しました。
区)を結ぶ河底トンネルです。このトンネ
ルは、1985(昭和60)年頃から始ま
った新潟西港再開発構想の一環として計画
されました。
当時、萬代橋より下流には、両岸を結ぶ連
絡路がなく、港と周辺地域の発展にとって
大きな制約となっていた。そこで港周辺の
交通を円滑にし、流通機能をより向上させ
るため、トンネルによる港口部ルートと橋
による万代島ルートの、2つの連絡ルート
建設が行われることになりました。
港口部ルートの全長は3,260m。この
うち信濃川河底下を通過する850mに、
353
地域を越えた文化資源
【その他】
アルビレックス新潟(あるびれっくすにい
がた)
アルビレックス新潟は新潟市と聖籠町をホ
ームタウンとするサッカーチーム。多くの
サポーターに支えられ、2004(平成1
6)年からJ1リーグに参戦。アルビレッ
クス新潟の前身「アルビレオ新潟」の名は、
チューリップ
はくちょう座のなかでもより輝くオレンジ
小合(新津地区)の小田喜平太氏がオラン
とブルーの二重星が「アルビレオ」という
ダから球根を輸入し、1919(大正8)
ことから名付けられました。また新潟は冬
年秋に作付けしたのが日本における球根の
に多くの白鳥が飛来する地であることから、
商業生産の始まりとされています。
白鳥をキーキャラクターにし、オレンジか
チューリップ球根生産発祥の地として知ら
らは新潟の夕日、ブルーからは日本海が連
れる小合地区に隣接した荻川地区でも古く
想できるということも命名の由来となって
からチューリップ球根の生産が盛んに行わ
います。その後、
「アルビレ(アルビレオ)」
れ、オイルショックによって球根需要が減
+「レックス(ラテン語で『王』)」でアル
り、その打開策としてチューリップ切花の
ビレックス新潟と改名しました。
生産が始まりました。1981(昭和56)
また、
「新潟アルビレックス BB」は、日本
年頃からは東北の市場向けに出荷が始まり
初のプロバスケットボールチームのことで、
ました。また、地元の球根取り扱い業者の
2000(同12)年に誕生。
「新潟アルビ
影響もあり、オランダからの積極的な新品
レックス・ベースボール・クラブ」という
種の導入が進み、現在では一重咲き、八重
野球チームが、2007(同19)年から
咲き、ユリ咲きや色とりどりの品種が生産
「北信越BC(ベースボールチャレンジ)
されています。新潟市食と花の銘産品に指
リーグ」に参戦しています。
定されています。
「SLばんえつ物語」号(
「えすえるばんえ
新潟市食と花の銘産品事業(にいがたしし
つごう」ものがたり)
ょくとはなのめいさんひん)
新潟駅から会津若松駅間の磐越西線を走る
新潟市を代表する園芸品目として消費者や
SL「SLばんえつ物語」号は、
「ばんえつ」
流通関係者に認知されている品目を新潟市
を豊かな森と水に育まれた自然と人が触れ
が「園芸銘産品」に指定し、全国に発信し
合うことで生まれる「物語」と組み合わせ
てきた「園芸銘産品事業」。それに畜産物と
て命名されました。
水産物を加え、2007(平成19)年度
から、新たに制度を拡充したものが「新潟
354
地域を越えた文化資源
市食と花の銘産品事業」です。新潟市食と
花の銘産品としては、野菜、果樹、花き、
畜産物、水産物があります。
新潟市の花・新潟市の木(にいがたしのは
な・にいがたしのき)
新潟市の花はチューリップ、新潟市の木は
ヤナギです。2007(平成19)年4月
1日に制定されました。
新・新潟市の市の花、市の木は市民公募に
よって選定されました。2,200通を超
新潟市民のシンボルマーク(にいがたしみ
える応募の結果、得票数第1位は花がチュ
んのしんぼるまーく)
ーリップ、木がヤナギでした。その後、市
2007(平成19)年4月の政令指定都
緑化審議会に諮問し、答申を受けて、新潟
市移行を記念し、新潟市の魅力を国内外へ
市の花をチューリップ、新潟市の木をヤナ
アピールする時の「顔」となるシンボルマ
ギにすることが決まりました。
ークが決定しました。デザインは一般公募
チューリップは新潟市で古くから生産が行
の結果、新潟市在住の小林成人さんの作品
われており、市民に親しみのある花です。
が大賞に選ばれました。新潟の大地を包む
またヤナギも、新潟のことを「柳都」とも
雄大な夕日をデザイン。大小の赤い月の形
よぶように、新潟市にゆかりの深い木です。
はアジア大陸と新潟を、白い扇の形は日本
チューリップとヤナギのほかに票を集めた、
海を表しています。
ケヤキ、マツ(アカマツ・クロマツ)、サク
このシンボルマークは、いろいろなキャッ
ラと、オニバス、ユリ、ツツジ(サツキを
チコピーと組み合わせて使用されます。新
含む)については、新潟市の推奨する木と
潟市での広報媒体で活用されるほか、市民
花に選定されました。
や法人、その他団体が新潟市のイメージア
ップにつながる活動を実施する際にも申請
すれば、使うことができます。行政のみな
らず、広く市民や企業に使ってほしいとい
う意味を込めて「新潟市民のシンボルマー
ク」という名前になりました。
355