タイ国の交通事故被害者の救済制度について

タイ国の交通事故被害者の救済制度について
高橋奈都
1.本研究の背景と目的
日本では交通事故被害者の救済に関して金銭面の補償
は整備されており、現在は加害者への厳罰化が行われ、
被害者感情に配慮した法整備が整いつつある。一方、タ
イでは保険の加入割合も低く、金銭面の補償すら十分で
ない。今後タイでも救済制度が整備されていくと思われ
るが、その際日本の経験を生かせる可能性があると考え
られる。今後タイが補償を拡充していく上で、保険制度
や法律など様々な問題が生じると思われる。本研究では、
事故特性及び救済制度を日本とタイで比較し、タイにお
ける補償の問題点を明確にする。さらに制度面の違いか
らは見えてこない人々の意識に注目し、タイ人の補償に
対する問題意識とその意識構造を明らかにし、タイの救
済制度の在り方について考察したい。
2.交通事故の現状
2.1 日本の交通事故
近年は交通事故件数が着実に減少しているが、高齢者
の歩行中や運転中の事故、自転車事故の増加が課題とな
っている。さらに飲酒や無免許、特定の疾患を持つ者の
悪質重大事故に対する厳罰化の対応が問題視されている。
2.2 タイの交通事故
近年は交通安全対策の実施により事故件数、死傷者数
ともに減少傾向にある。図-1 に 2011 年の登録車両台
数割合 1)、図-2 に 2011 年から 2012 年にかけての車両
別事故件数 2)を示す。オートバイは登録車両台数割合
が高く事故件数も多いことがわかる。
図-1 登録車両台数割合
図-2 車両別事故件数
図-3 に危険行為を容認するオートバイ運転手の割合
3)を示す。日本では厳しく取り締まられる酒酔い運転や
無免許運転を容認する、危険行為や安全運転に対する誤
った認識を持つ運転手の割合が高い。この数字は交通安
全教育の未成熟さ、タイ人の遵法意識の低さが窺える。
3.被害者救済制度とその比較
3.1 日本の救済制度
自動車損害賠償保障制度(強制保険、任意保険等)、
損害賠償の請求における援助(相談センターの活動強化
等)、事故被害者支援の充実強化(精神被害の相談等)、
被害者感情に配慮した法律の罰則強化が挙げられる 4)。
表-1 に日本の厳罰化の流れ 5)を示す。飲酒運転死亡事
故等重大事故が発生する度に法改正が繰り返されている。
表-1 日本の厳罰化の流れ
違反行為
犯罪類型
平成14年以前 平成14年改正 平成16年改正
酒酔い運転
酒気帯び運転
道路交
通法
刑法
同乗者など
懲役2年
罰金10万円
懲役3か月
罰金5万円
幇助罪など
懲役3年
懲役5年
救護義務違反
罰金20万円
罰金20万円
(ひき逃げ)
業務上過失致 懲役又は禁錮
死傷罪
5年
自動車運転過
失致死傷罪
(過失運転致死
傷罪)
準危険運転致
死傷罪
危険運転致死
致死懲役15年
傷罪
致傷懲役10年
過失運転致死
傷アルコール等
発覚免脱罪
平成19年改 平成26年 無免許運転
施行予定 による加重
正
懲役5年罰金
なし
100万円
懲役3年
なし
罰金50万円
懲役2~5年
罰金30~100
なし
万円
懲役10年
なし
罰金100万円
なし
懲役又は禁
錮7年
罰金100万円
懲役10年
致死懲役
15年
致死懲役20年
致傷懲役15年
懲役15年
→20年
懲役15年
→20年
懲役12年 懲役15年
3.2 タイの救済制度
自動車損害賠償保障制度(強制保険、任意保険)、被
害者救済基金(日本の自動車損害賠償保障事業と同様)
が挙げられる。法制度に関して交通事故の傷害罪は懲役
10 年又は 20,000THB(1THB≒3.1 円)の罰金だが、刑
事裁判は時間がかかるため多くが示談で解決される。
2006 年のタイの拡大家族世帯(”単身世帯”と”核家族
世帯”を除いた世帯)の割合は 33.8%6)と高く、家族と
の 繋 が り が 強 い 。 2009 年 の 世 帯 月 収 入 は 都 市 部 で
30,218THB、農村部で 16,287THB7)と格差が大きいため
都市部に出稼ぎに行く者も多いが、不況時は農村に帰り
農業に従事する。タイ社会は相互扶助のシステムが成立
しており、事故により労働力が期待できなくなった場合
でも、農村や家族がソーシャルセーフティネット(以下、
SSN)となっているが、村が社会福祉的な制度を作り出
した事例は非常に少なく親族内のインフォーマルな相互
扶助が行われているにすぎない 8)とされている。
3.3 救済制度の比較
制度の比較の一例として表-2 で交通事故の強制保険
支払限度額 3)を示す。タイの世帯月収入は日本の 1/10
程であるが、それを考慮してもタイは死亡時に支払われ
る金額が少ないように思われる。
表-2 強制保険支払限度額の比較
強制保険で
支払われる事故
被害者の傷害
図-3 危険行為を容認するオートバイ運転手の割合
懲役3年罰金
50万円
懲役1年
罰金30万円
支払限度額(1名あたり)
日本
タイ
120万円
約16.2万円(54,000THB)
被害者の後遺障害
75~3000万円
(常時介護が必要な
場合は4000万円)
約61.2万円(204,000THB)
被害者の死亡
3000万円
約61.2万円(204,000THB)
4.意識調査の概要
以上を踏まえ、タイにおける交通事故の補償に対する
問題意識とその意識構造を明らかにするために、2013
年 9 月 28 日~10 月 12 日の期間についてタイ国バンコ
ク都と隣接するパトゥムタニ県で意識調査を行った。回
答方法は、直接配布回収する方法と、インターネット上
のソーシャル・ネットワーキング・サービスであるフェ
イスブックに調査票を投稿し、回答を依頼する方法を取
った。直接配布で 108 部、フェイスブック利用で 106 部、
計 214 部を回収し、内 180 部が有効であった。調査票は、
個人属性、今後交通事故に遭った場合の家計への影響の
設問、今後交通事故に遭った場合の自分への影響と加害
者に対する感情の設問で構成されている。
が被害者の救済に影響を及ぼすと仮定した。適合度は
GFI=0.929、AGFI=0.874、RMSEA=0.082、p 値は一部を
除き 0.1 を下回ったため比較的あてはまりの良いモデル
といえる。
結果より「納得できない心情」に最も影響を及ぼす要
因は「精神的負担の心配」であり、「農村 SSN」とは
最も相関がないことがわかる。さらに、「精神的負担の
心配」が「農村 SSN」に与える影響も高いことがわか
る。
5.分析結果
5.1 単純集計結果
特徴の見られた結果に関し、年齢属性を図-4、学歴
属性を図-5 に示す。年齢割合に関しては統計とはそれ
ほど差異が見られず整合性がとれている。学歴に関して
は偏り、統計とのズレが生じてしまった。
図-6 補償に関する意識構造モデル
図-4 年齢属性
図-5 学歴属性
5.2 SEM を用いた分析
分析手法として SEM(共分散構造分析)を用いる。
SEM とは直接観測できない潜在変数を導入し、その潜
在変数と観測変数との間の因果関係を同定することによ
り社会現象や自然現象を理解するための統計的アプロー
チであり、因子分析と多重回帰分析の拡張といえる。
表-3 に分析に使用する変数一覧を示す。
表-3 分析に使用する変数一覧
潜在変数
示談・裁判への
負担の心配
観測変数
No1
No2
No3
精神的負担の
No4
心配
No5
No6
No7
加害者への不満
No8
No9
納得できない心情
No10
―
農村SSN
質問
示談交渉や民事訴訟における負担に困る
捜査や刑事裁判における負担に困る
また同じ事故に遭うのではと心配だ
後遺症が残らないか心配だ
家事や育児への影響が心配だ
(親などの)介護や看病への影響が心配だ
加害者が憎い
加害者に仕返しがしたい
いくら賠償金をもらっても悲しみは癒えない
加害者の刑罰が軽すぎる
困っても実家(農村など)に帰ればいいと思う
本研究では潜在変数の信頼性を検証するために
Cronbach のα係数を用いる。Cronbach のα係数は 0.7
以上で信頼性が高いと言われているが「示談・裁判への
負担の心配」で 0.783、「精神的負担の心配」で 0.751、
「加害者への負担」で 0.651、「納得できない心情」で
0.749 であった。3 変数で 0.7 を上回り、文献によっては
0.6 まで許容されているため潜在変数の信頼性は妥当で
あると思われる。
仮説モデルと分析結果を図-6 に示す。モデルでは
「納得できない心情」をタイ人の補償に対する問題意識
と捉え、その意識構造を示すとともに、「農村の SSN」
6.本研究の成果
本研究により、タイ人の遵法意識が低いこと、タイに
おける救済制度が未成熟であることがわかった。
また、SEM による分析より、交通事故に遭い精神的
な負担を心配する心情が補償に対する問題意識に影響を
及ぼすことから、被害者救済にあたり精神的負担を軽減
させる対策が必要であることを示した。具体的には、日
本では精神被害の相談等を行う事故被害者支援の充実強
化に努めているが、タイにおいても同様の支援が必要で
あると思われる。
精神的負担を心配する心情が農村に帰れば良いと思う
心情に影響を与えることから、被害者が農村や家族を頼
っていることを示した。日本では失われつつある家族や
農村との繋がりが機能していることは注目すべき点であ
り、その機能を生かすことが重要である。
参考文献
1)Department of Highways (DOH) responsibility, 2011
2)Transport Statistics Sub-Division, Department of Land
Transport, http://www.dlt.go.th/th/
3)Road Safety Watch(2553)
4)内閣府、交通安全白書昭和 51 年版-平成 25 年版
5 ) 中 辻 隆 、 Road Safety Management -Japanese case
studies-、pp.8
6)タイ国家統計局、労働力調査第 3 フェーズ
7)National Statistical Office, The 2009 Household SocioEconomic Survey: Whole Kingdom, 2010, Table G(p.25)
8)JICA 研究所、ソーシャル・セーフティ・ネットに関
する基礎調査、pp27