われわれにとって西欧絵画と言えば印象 画ということになるが、意外なことに西欧 における風景画の成立は東洋に比して遅 い。ルネサンス時代になって聖母子や聖人 たちの背景に自然が見られるが、それはま だ風景画ではない。これが本当の意味での 巻頭エッセイ 対談 京表具の伝統と未来 論考 潮 江 宏 三 榊 原 郎 村 山 秀 紀 世界に発信する京の染め 福 本 繁 樹 梅 原 猛 第二十五回﹁京都美術文化賞﹂ 選考委員を代表して 受賞者のことば 国した航海者や商人が見知らぬ地域の驚異 の情報を次々ともたらすようになった。閉 じられた中で完結していた旧﹁世界﹂は大 きく揺らぎ、新たに﹁世界﹂のイメージが 求められた。その頃から盛んになった地図 製作は、その直接の成果だろう。一方画家 もまた、新情報に刺戟されて、彼方に広が る﹁世界﹂のイメージを絵画化しようとし た。その結果、初めて﹁自然世界﹂そのも のを主題とする絵画が誕生した。美術史で はこれを﹁世界風景﹂と呼ぶが、これほど 適切な呼称はない。かのブリューゲルらが 描いた風景である。また、それが交易都市 アントワープで生まれたことももちろん偶 然ではない。 1 2 16 34 36 38 目 次 潮江 宏三 京都市美術館館長 風景画が描かれる、つまり自然そのものを 実質的な主題とする絵が描かれ、専門の画 家が登場するのは十六世紀になってからの ことである。時代はちょうど大航海時代に 当 た る。 そ れ ま で の 西 欧 人 に と っ て、 ﹁世 界﹂のイメージはヨーロッパ域内に限られ て い た。 そ れ が 大 航 海 時 代 に な り、 ヨ ー ロッパの果ての先にもアジア、アメリカと 1 ﹁ 世 界 ﹂ が 広 が っ て い る こ と を 知 っ た。 地 平線が丸いことも初めて知った。そして帰 西欧風景画の始まりとしての「世界風景」 対談 「京表具の伝統と未来」 京表具の伝統と未来 榊原 郎 村山 秀紀 ︵ 京都市立芸術大学名誉教授︶ ︵有限会社 立入好和堂 表具師︶ 村山 ありがとうございます。 もと京都には、新しいものを受け入れる基盤 備が全国に先駆けて行われてきました。もと は水道の敷設・電気・市電などのインフラ整 京に行き、町が疲弊していく中でも、京都で 榊原 京都は長い歴史の中で、常に時代の先 駆けをしてきました。明治になって天皇が東 んな私が、たまたま京都の中京に店を構える 強をしていて、証券会社に就職しました。そ せんでした。大学時代はマーケティングの勉 までは、表具とも裂ともまったく縁がありま れという生粋の江戸っ子で、京都に移り住む 村山 実を言いますと、私は、母が東京の下 町である神田の神保町、父が深川の木場生ま 江戸っ子と京表具の出会い 榊原 ま ず お 伺 い し た い の は、 村 山 さ ん は ど のようにして京表具の世界に入られたのです や気質のようなものがあったのだろうと考え 立入好和堂の一人娘を妻に迎えたのです。妻 か。 ています。 わせていく、新たな試みが始まっているよう の世界でも、古いものに新しいものを掛け合 ﹁表展﹂で村山さんの独創的な作品 以 前、 を拝見した時、伝統が重んじられる﹁京表具﹂ がどんなに大変なことかも知らずに、三十歳 して、京都の伝統ある表具の世界に入ること いものづくりの世界に衝撃を受けました。そ トンと聞こえてくる。それまで見たこともな の実家に帰ると、決まって打刷毛の音がトン に感じました。つきましては、表具師であり のときに会社を退職し、修行を始めたのです。 当 時、 店 に は、 名 工 と 呼 ば れ た 番 頭 さ ん が ながら現代美術の分野にも関わりがある村山 さんにぜひお話を伺いたいと思いました。 2 3 対×談 対談 「京表具の伝統と未来」 ような仕事をしていま る先代は画商と半々の おり、義理の父に当た り、 代 わ り に 額 の 仕 事 が 掛け軸の仕事が少なくな し た。 し か し、 次 第 に ればならなくなっていま 庭では生活様式も変わ し た が、 一 般 の 日 本 の 家 あって当たり前の環境で 店 は 京 町 屋 で、 掛 け 軸 が 増 え て き ま し た。 う ち の した。高校を卒業して 修行に来ている若い 職人も五∼六人いまし た。 私 は 今 年 で ち ょ うど還暦を迎えますの で、ようやく人生の半 り、 掛 け 軸 を か け る と い う 楽 し み、 習 慣 が な く な っ て い ま す。 掛 け る 分を表具師として過ご したことになります。 だ け で 部 屋 の 中 に 季 節 を 感 じ、 不 要 な 時 は く しい﹂と声を掛けてくれました。彼の個展を デ ザ イ ナ ー が、 ﹁自分の作品を表具にしてほ していた私に、たまたま京都で活躍している 村山 そうなんです。そして何とか現代の人 にも親しまれる表具が作れないものかと模索 ね。 が付いたら、自分で家業ののれんを守らなけ 人は、修行が終わって地元に帰っていく。気 なり、その三年後に父も倒れました。店の職 後に仕事を教えてくれていた番頭さんが亡く 実は私も東京生まれです。三歳で京都に来て、 榊原 東京で三十年、京都で三十年と、村山 さ ん の 世 界 で は 色 々 な 変 化 が あ り ま し た ね。 ました。 とが、私の表具師としての方向性を決定付け そ れ か ら 秋 野 先 生 が お 亡 く な り に な る ま で、 日本人の理想像のようになってきましたから きて、アメリカのような家で生活をするのが、 頃までで、それ以降はアメリカ文化が入って 榊原 日本の生活環境が掛け軸などを当たり 前のように受け入れていたのは昭和二十年代 利で面白いものはないと思うのですが。 るくると巻き上げれば無に返る。こんなに便 榊原 色々ご苦労をされたでしょうね。 村山 ﹁えらいとこに来てしまったな﹂と思 い ま し た ね。 糊 炊 き に 始 ま っ た 修 業 時 代 は、 き っ か け に、 ﹁東京で展覧会を開いたらどう 七十年余り過ごしましたが、京都を理解した 順調に経過したのですが、修業を始めて五年 か ﹂ と 呼 び か け て く だ さ る 方 も 現 れ ま し た。 つもりでも、まだよく分からない部分もあり 合わさって生み出された た 文 化 に、 町 衆 の 存 在 が は京都の御所の中で育っ 考 え て い ま す。﹁ 琳 派 ﹂ 派﹂というものはないと ま し た が、 私 は﹁ 江 戸 琳 という言葉が有名になり と、東京では﹁江戸琳派﹂ ということで言います ま す。﹁ 東 京 ﹂ と﹁ 京 都 ﹂ 先生の作品を数多く表装させていただいたこ 決定的だったのは、平成八年に鉄斎堂さんが 秋野不矩先生の作品を 私に任せてくださった こ と で す。 そ の 時 は ﹁渚のコテージ﹂とい う作品を軸装させてい ただき、裂には更紗を 使いました。それがた またま雑誌﹁太陽﹂の ライターの目に留ま り、誌面に載りました。 4 5 郎氏 榊原 村山 秀紀氏 対談 「京表具の伝統と未来」 ものです。京都の町が醸し出す独特の雰囲気 が、 ﹁琳派﹂を誕生させたのだと言えます。 ﹁京都﹂を一言で言い表わすのは難しいと 思いますが、江戸っ子の村山さんは、 ﹁京都﹂ というものをどのように捉えておられます か。 京で仕事をしているということは、それだけ いるわけではありません。しかし、京都の中 実際に素材の全てを京都にあるもので作って ま す。 確 か に 京 都 は 表 具 の 発 祥 の 地 で す が、 よりも、オンリーワンのものを創り上げたい。 いいこともあります。百人が百人いいという の で す が、 作 品 に よ っ て は、 無 地 だ け の 方 が 先代が残してくれたたくさんのいい裂がある 村 山 お か げ さ ま で、 ほ と ん ど 自 由 に 裂 の 取 り回しをさせていただいています。うちには 村山 ﹁京都﹂という土地の持つブランドの 価値は大きいと思います。東京で個展を開く で他の土地で仕事をしている人よりもプラス 表具師の感性、店の特色を貫いていきたいと と、皆さんが﹁さすが京都ね﹂とおっしゃい 何点かもらえていると感じています。 て店の好みを出すようにしています。 い う 思 い が あ り ま す。﹁ 表 展 ﹂ で も、 意 識 し 榊原 なるほど。ところで、実際にお客様か ら絵や書を預かって表具に仕立てるとき、裂 分の作品を屏風や掛け軸にしたいとの依頼で 作品で埋め尽くすというイベントがあり、自 村山 平成十五年、村上隆さんがルイ・ヴィ トンの仕事をされた時に、原宿の店舗を彼の すか。 の御所などでも盛んに舞われており、昔は京 え る 上 で 重 要 な の は お 能 で す。 お 能 は、 京 都 し た よ う で す ね。 も う 一 つ、 京 都 の 文 化 を 考 榊原 太閤秀吉が天下一を目指す中で生まれ てきた茶の湯の様式が、表具にも大きく影響 榊原 すか。 現 代 美 術 と の 繋 が り は、 い つ 頃 か ら で した。既存の裂ではなかなか合わず、苦労し 都の町衆にもお能の精神が浸透していまし は村山さんのセンスで自由に選んでいるので たのをよく覚えています。現代美術との繋が た。 例 え ば、 尾 形 光 琳 は、 公 家 の 二 条 家 で、 た。私が長年研究している神坂雪佳も﹁琳派﹂ 屋がつぶれてから本格的に絵を描き始めまし 仕舞とか謡だとかで遊び呆けて、家業の呉服 りといえば、その時でしょうか。 表具のルール の画風を継承していますが、その根底にはお 能 の 世 界 が あ り ま す。 と こ ろ が、 近 世 か ら 近 代にかけて茶の湯やお能の世界は﹁型﹂には 道などとともに確立した表具の形がありま 村山 ありますね。微妙な寸法は店によって 多少違うのですが、基本的には桃山の頃に茶 を離れた展覧会の会場を飾る﹁美術﹂になり 藝﹂の一分野だった絵画や彫刻が、生活の場 さらに明治になって欧米文化が導入される と、 そ れ ま で 日 常 生 活 の 中 で 生 き る 作 品﹁ 工 まりすぎました。 す。その他にも、中国から伝わったままの形 ました。そして﹁美術﹂こそが﹁芸術﹂の中 榊原 京表具にはルールのようなものはある のですか。 を継承しているものもあります。 6 7 立入好和堂 対談 「京表具の伝統と未来」 雪佳は一貫して日常活用される﹁工藝﹂作品 た。そんな時代の移り変わりの中でも、神坂 て、周辺部に位置付けられるようになりまし 身の回りに存在していたものは﹁工芸﹂とし 心であり、染織や陶芸、漆芸、表具のような 見方が出てきました。 だけでその建物の価値は変わってくるという 季節を映す豊かな趣向が演出できれば、それ 分 か り ま す。 単 純 に 色、 間 取 り だ け で な く、 全く異なる生活習慣があります。ここに日本 榊原 生活の﹁質﹂という面を、建築家や施 工業者も考えるようになったのかもしれませ 村 山 世 間 の 見 る 目 が 厳 し く な っ た﹁ 美 術 ﹂ よ り も、 ﹁工芸﹂に行く方が表具師も居心地 の生活空間の基本があるような気がします。 を創り続けていました。村山さんが京都で始 が良かったのかもしれませんね。今は表具を ん ね。 ﹁質﹂の中に京都で育ったものがある 仕立てるだけでなく、その表具をどのように 表具の技術は仏教とともに中国から伝 村山 来 し、 中 国 に は 今 で も 掛 け 軸 が あ り ま す。 た め た 試 み は、 ﹁ 型 ﹂ に は ま り 過 ぎ た﹁ 美 術 ﹂ 設えるかという提案ができないと、お客様が だ形は違います。靴を脱いで家に上がる習慣 のではないでしょうか。戦後の日本はアメリ 買ってくださらない。建物の設計の部分から がない国のものを、日本では誰がどうやって と﹁工芸﹂の世界を、再び一つにするきっか 携わるような仕事もあります。コンクリート 今の表具の形にしたのか。当時の日本人が試 カ文化が理想像だといいましたが、日本には の 壁 し か な く て も、 そ こ に 掛 け 軸 を 掛 け て、 行錯誤してできた形の黄金比を延々と守って けなのではないかと思います。 下に床板を合わせて、松を一本飾ってみると、 きた訳です。 ﹁靴を脱いで家に上がる﹂という、アメリカと 見る人が見ればそれがお正月のしつらいだと てよいと思います。 先日、建仁寺の両足院で、東京の富裕層に屏 床 の お 茶 室 に も、 や は り 掛 け 軸 は 必 要 で す。 村山 昔 と 今 で は、 そ れ ぞ れ お 茶 を 楽 し む 方々の好みも変わりました。打ちっぱなしの 榊原 お 茶 室 の 中 の 空 間 に い る 限 り、 全 部 平 等で、敵も味方も、身分もない。まさに子宮 村山 確かに、お茶室は居心地がいいですね。 榊原 私 自 身、 お 茶 室 に 対 す る 一 つ の イ メ ー ジがあります。それは﹁子宮願望﹂です。 村山 今は立礼の茶事もありますしね。 風や掛け軸を見ていただく機会があったので 願望と私は捉えました。何があっても構わな 榊原 面白いですよね。新しい黄金比のルー ルが生まれてもよいと思います。 す が、 そ の 時 に お 茶 室 の 室 礼 を 頼 ま れ ま し い。そこは一つの平等な宇宙なのです。 榊原 逆 に 京 都 と い う の は、 古 い も の を 壊 し て新しく作り直す場所なのだと思います。 るということなのでしょうか。 村山 京 都 の 古 い 伝 統 を 守 る と い う こ と は、 しきたりとかルールをそのままの形で継承す 形を変える た。今は﹁好み﹂のものを置くだけでは、お 客様は満足しないので、村山さんなりの室礼 を考えてほしいとのことでした。結局そのと き は、 掛 け 軸 は 十 五 世 紀 の﹁ ベ ラ ム ﹂︵ 羊 皮 紙 ︶ と い う 教 本 の 一 葉、 水 差 し は イ タ リ ア の 陶 器﹁ マ ジ ョ リ カ ﹂ 、茶入れはアラビアの軟 膏入れの白磁などを使いました。ちゃんとお 茶をやっている人が見たら驚くと思います。 榊原 古くからお茶を嗜んでいる方にすれ ば、作法や形は何よりも大事ですが、それが 全 て で は あ り ま せ ん。 ど ん ど ん 変 わ っ て い っ 8 9 対談 「京表具の伝統と未来」 村山 その繰り返しですよね。時々、自分が やっていることが不安になるのですが、私が が一変するようなものであってほしいと思い しているわけではありませんが、続けていく ません。私は、決して今の京都の伝統を否定 と思って眺めると思うと可笑しくて仕方あり 年後の人々が、 ﹁これが平成の頃の京表具か﹂ その作品は残っていきます。それを五十∼百 納 ま る と い う こ と は、 私 の 意 思 に 関 係 な く、 もったいない話です。 の に 困 っ て い ま す。 絵 具 代 も 高 く つ く の に 飾りますが、会期が終わると作品を収納する れは錯覚です。大きな作品で美術館の壁面を たというような評価の基準が出てますが、あ 在まで、展覧会で入選すればレベルアップし 確 か に、 自 分 の 生 活 の 中 に 何 を 持 ち 込 榊原 むかという基準は大事ですよね。明治から現 ます。 ことが伝統だと思ってやっています。 村山 部 屋 の 中 に、 持 っ て く る こ と が で き な いですよね。よく日本画を描いている学生に 仕立てさせてもらった作家の作品がお客様に 榊原 続 け る こ と は 伝 統 で す。 大 事 な の は、 その続け方なのです。 ﹁ こ の 絵 は 面 白 い と 思 う か ら、 掛 け 軸 に し た 村山 それが、表具師である自分の仕事だと 思っています。表具をもっと日常の場に解放 とを活発に発言してほしいと思います。 れません。表具など伝統の世界から、このこ 榊原 巻くことができない、パネルでしか置 けないような状況は大きな間違いなのかもし 生かしてやろう﹂と思いますね。 姿 が す ご く 可 愛 く て、 ﹁この絵をどうやって どうしたらいいだろう﹂と真剣に悩んでいる 少 な い で す。 で も、 ﹁ 表 具 に す る た め に は、 軸にしようと思って描いている学生は本当に は身近な場所にあって、その部屋の中の空気 せんが、絵を掛けて見る立場からすれば、絵 に と ら わ れ る 必 要 は な い と 思 い ま す。 た だ、 榊原 生 活 環 境 の 変 化 に 伴 い、 表 具 も 掛 け 軸 から額装へとどんどん変わってきました。形 と思ったのです。 それを主役に持ってきてもよいのではないか け ど、 昔 の 裂 は 素 晴 ら し い も の が 多 い の で、 村山 昨 年 は、 古 い 小 袖 や 更 紗 を 主 役 に 持 っ て き た 個 展 な ど も 開 か せ て い た だ き ま し た。 白いと思うのでしょうね。 の中に生まれてくる。これをアメリカ人は面 たと思ったら、広げると独特の世界観が部屋 と 言 う と、 み ん な 本 当 に 悩 み ま す。 今 は 掛 け 村山 そ の 通 り で す。﹁ じ ゃ あ 掛 け 軸 に し た い か ら、 巻 け る よ う に 描 き 方 を 変 え て み て ﹂ 榊原 今は日本画でも塗り込んである作品が 多いから、巻けないですよね。 いんだけど巻ける?﹂と聞いてみます。 へよき 村山 私 の 好 き な 言 葉 に、﹁ い か に 古 事なりとも当代に合はざる事をするは下手な り﹂という小堀遠州の言葉があります。形を 変えるというのは難しいですが、面白くもあ し、 楽 し ん で も ら い た い で す。 実 際 に リ ビ 今の展覧会に出品するような絵は、作品とし ります。私は美術を特に学んだ訳ではありま ングなどに掛けてくださる方も増えてきまし て 生 き て い く と は 思 え ま せ ん 。 私 は﹁ 芸 術 は 本来、裂は絵を引き立たせるための脇役です た。 売り物ではない﹂と教え込まれた世代ですが、 うものを作るのが作家だと思うのです。 お 客 様 が﹁ も う 一 幅、 も う 一 枚 欲 し い ﹂ と 思 く れ て、 ﹁まるでマジックだ﹂とおっしゃっ ニューヨークで個展を開いたとき、あるア メリカ人が掛け軸のことをすごく面白がって てくださいました。 村山 先 日、 東 京 の 美 術 学 校 の 学 生 六 十 人 ほ どが、東京で開いていた私の個展を見にきて 榊原 くるくると巻いて箱の中に納まってい 10 11 対談 「京表具の伝統と未来」 物にも茶碗にも自由に描いていましたからね。 村山 そ う で す。 そ れ を 難 し く 琳 派 と い う の はこういうものだと考えなくてよいと思いま す。あの時、不意に学生から﹁村山さんの中の 琳派は何ですか?﹂と聞かれたのですが、私 は考えた挙句、空間の﹁間﹂だと答えました。 榊原 ﹁間﹂というものをどう捉えるかとい うと、音楽のリズムやメロディと同じなんで すよ。 本 当 に そ う で す。 ヨ ー ロ ッ パ の 人 は 今 村山 でもそういう感じ方をしますよね。ドイツで 喜んでくれたのではないかと思います。 琳派を考察していて、神坂雪佳が見ていたら 京都に来ていました。今の若者らしく自由に マで話し合い、発表するという研修の一環で の作品を見て﹁これからの琳派﹂というテー くれました。その後、その学生たちは、琳派 を 振 っ て い ま す。 こ れ は 日 本 人 に﹁ 間 ﹂ を 上 日本人がウィーンフィルハーモニーのタクト 榊原 日 本 人 も ず っ と や っ て き た こ と で す。 西洋音楽が輸入されて百何十年が経ち、今や る、豊かな見方ができるのだと驚きました。 ロッパの人は、書と音楽のリズムを結びつけ 見 え る ﹂ と 言 わ れ た こ と が あ り ま す。 ヨ ー 前 衛 的 な 書 の 作 品 を 展 示 し た と き、﹁ 楽 譜 に 榊原 雪佳は町の人々から依頼されれば、着 いう修行生活が、世間一般が求める労働環境 とは合わなくなってきています。やってみた 手く掴みとれる国民性があるからではないで しょうか。 は弟子は取っていません。 は残念でなりません。 であった厚い職人層の存在が消えてしまうの 榊原 労 働 と 捉 え る の で は な く、 勉 強 と 捉 え ることができればいいのですが。京都の特色 いという子はいるけどなかなか難しくて、今 村山 神 坂 雪 佳 も 畳 の 寸 法 な ど、 作 品 を 飾 る﹁間﹂まで考えていたと思います。今の日 本 の 家 庭 に﹁ 間 ﹂ を 考 え る 余 裕 が で き れ ば、 もっと掛け軸などが使われると思います。 榊原 可能性は広がっています。 そ う で す ね。 文 化 財 な ど の 修 理 に 関 し 村山 ても、今は糊や紙、作業をする環境にも、厳 さじ加減が分かりましたが、今はそれだけで 伝統を未来につなぐ 格な基準が設けられていて、私たちのような 榊原 村 山 さ ん が 修 業 を 始 め ら れ た 頃 は、 番 頭さんや修行に来ている若い職人など、いい は済まなくなっています。 町 の 一 職 人 に は 手 が 出 せ ま せ ん 。 昔、 う ち の 意味で封建的な職人集団の仕組みが残ってい 店 に い た 番 頭 さ ん な ど、 少 し 糊 を 舐 め れ ば、 たと伺いました。これからもそういう形を続 今、 地 方 の 寺 院 な ど で は、 襖 絵 や 屏 風 が 割 別ものだと思います。 榊原 皮膚感覚とか、味覚とか、五感の中で 育っていく技能と、数字で表わされる世界は けていけると思いますか。 村山 まず難しいと思います。店に住み込ん で、朝早くに起きて、店の前を掃除して、と 12 13 村山氏が仕立てた表装作品 書 陶芸家・加藤良太郎氏筆 アラビア語で《すべての人々に幸あれ》 四字熟語に例えると《五風十雨》 対談 「京表具の伝統と未来」 にしているというケースが非常に多く見受け れて剥がれそうになっているのに、そのまま 材として、修復することができたらよいと思 既存のシステムでは保護されない文化財を教 基 本 の 技 術 を 修 得 し て も ら い ま す。 そ の 後、 榊原 今、修理しておけば、百年は持ちます。 います。 られます。 村山 そういう話はよく聞きますね。例えば 見積もりの段階で断念してしまい、結局自ら 村山 京都には、今でも技術を持っている人 がたくさんいます。しかし、表具屋の主人も できないでしょうか。 の広い空間を使って、指導するようなことは 榊原 表具の心得のある若い職人に、もっと 修理の場で活躍してほしいと思います。お寺 式の中に上手く取り入れています。もちろん あ り ま せ ん が、 掛 け 軸 や 屏 風 を 使 い、 今 の 様 る か 考 え る と、 面 白 い と 思 い ま す。 現 代 美 術 自分の作品がどのような室礼の中で空間を飾 ま す。 天 井 ま で の 高 さ、 壁 の 色、 素 材 な ど、 無理な修理をしてしまうケースが多いですね。 世代交代していくうちに、文化財や古美術に 悩まされますけどね︵笑︶。 村山 あ と は、 日 本 画 の 専 攻 を し て い る 学 生 に、今の生活様式をもっと見てほしいと思い 触れる機会が少なくなってきており、技術の う の が 分 か る の で す が、 森 村 さ ん の 場 合 は、 て い る の で、 ﹁次もこんな感じだろう﹂とい 通の作家の先生なら﹁いつも﹂の絵が分かっ ときにもお手伝いさせていただきました。普 化賞を受賞されましたね。その受賞記念展の 統工芸士の方々の監修の下、二年間みっちり 併設し、京都にいらっしゃる表具の名工や伝 京都には芸術系の大学もたくさんありま す。そこで、修理、修復を専門にした学科を た職人衆が結集していたかのようです。 彼の求めるものを実現できる高い技術をもっ て い る。 ま る で 江 戸 時 代、 尾 形 光 琳 の 下 に、 表具師が作家の創作活動と密接に関 榊原 わって、出来上がった作品をさらによく見せ にありがたい勉強をさせてもらっています。 村山 森村さんといえば、昨年、京都美術文 私の中にすとんと落ちるものがありました。 表 具 に し て い る と い う の は、﹁ な る ほ ど ﹂ と の森村泰昌さんも、専攻は写真で日本画では 継承ということが難しくなっています。 京 都 の 芸 大 だ か ら、 そ う い う 面 白 い 人 榊原 がいるのです。村山さんが森村さんの作品を 毎回全然違うものなので驚かされます。本当 村山 表 具 師 は 黒 子 の 存 在 で す。 ど こ ま で な らば作品の邪魔にならないか、一枚一枚の絵 や書と深く向き合って、答えを出さなければ な り ま せ ん 。 こ こ ま で や っ て き て、 よ う や く 余分なものを削ぎ落とす﹁引き算﹂が分かっ てきました。還暦という一つの節目を迎えま したが、これからどのようにして格好いい表 具師人生の閉じ方をできるのか考え始めてい ます。 榊原 こ れ か ら も、 作 家 と お 互 い に 刺 激 し 合って、それを見る鑑賞者も刺激するような 作品づくりを続けてください。本日はありが とうございました。 14 15 世界に発信する京の染め 世界に発信する京の染め 傑出した日本の染め文化 福 本 繁 樹 ﹂の字の看板が目にと SOMÉ ﹂がそこにあ MUSÉE DE SOMÉ SEIRYU ﹂とは、 ﹁染め﹂をフランス語表記によって世界に発信しようという意気込みをし SOMÉ 京都の和装卸問屋が集中する室町通りを歩くと、東側にことさら大きな﹁ びこんでくる。 ﹁ めしたものだ。現代染色作品を展示する美術館﹁染・清流館 る。 にかえて﹃染め﹄を世界 surface design ﹄に木村重信館長の挨拶文が掲載されている。その文末に﹁本館は京都の、ひいては日本の SOMÉ 織物ではなく染め物にこだわった美術館は世界でも珍しい。二〇〇六年秋の開館と同時に発行された 冊子﹃ 染色アートを世界に発信する拠点となるが、それにともなって 語にしたいものである﹂と記されている。﹁ surface design ﹂とは、染色アートを意味することばとして 一九七〇年代からアメリカで使われだしたことばである ︵註一︶ 。 染色が日本で特異的に発達した造形分野であることは案外知られてない。われわれはおなじ染色模様 でも、着物は﹁そめもよう﹂ 、服地は﹁プリント柄﹂と言い分けている。それは西洋ではもっぱらプリン ト︵印刷︶によって染色模様を施してきた結果である。日本に発達した防染による模様染め文化が、欧米 ではまるまる欠落していたのだが、一九七〇年代あたりから欧米でも創作的な手作業の模様染めが盛んに ﹂と surface design なった。アメリカでは染色アートを盛り上げようと、サーフェス・デザイン協会が一九七六年に発足し、 今日まで活動をつづけている。 か つ て、 国 際 化 に 対 応 す る た め 日 本 で も ア メ リ カ に な ら っ て﹁ 染 め ﹂ を 英 語 で﹁ 16 17 論 考 世界に発信する京の染め 言ってはどうかという意見があった。しかしわたしには納得できる意見ではなかった。むしろ﹁ソメ﹂の 語を世界語にすべきだ、内部に染みる﹁染め﹂と、表面にこだわる﹁サーフェス・デザイン﹂とは反義語 だ、日本人自ら主張しなければ、染めの染めたるものが国際的に理解されることは望めない、などと主張 をくりひろげたのはもう二十年も前である。わたしは数年間論考を発表し、それを拙著﹃染み染み染みる 日本の心、﹁染め﹂の文化﹄ ︵一九九六年 淡交社︶にまとめた。その主張に同調するように、京都から ﹂を世界に発信しようとする美術館が活動をつづけているのは心強いことだ。 SOMÉ ﹁ 京都は染織でさかえた。京都の染めは世界でもレヴェルが高く特異な発達をとげている。低迷をつづけ る京都の染めの危機的状況を打開し、 ﹁ SOMÉ ﹂を現代世界に発信すべき意義をみいだすためにも、いま なぜ京都の染めなのか、議論をはじめるときではないか。 constructed textiles は﹁織物﹂とある。これだけでも染織とテキ textile ︵テキスタイル︶文化と日本の染織文化の構造 textile 議論のためには、染めが日本でいかに発達しているかを、まずあきらかにする必要があるが、それが充 分なされているとはおもえない。まずは、欧米の のちがいを比較してみよう。 辞書によれば、染織は﹁染め物と織物﹂とあり、 は textile ︵プリント︶に大別する。防染による模様染め技法がほとんどな printed textiles スタイルはおなじではないことに気づく。染織は染めと織に大別するが、 ︵構成テキスタイル︶と かった欧米では、近年に導入した模様染め技法をプリントの一種にくわえる ︵註二︶ 。絞り染めや、手描き の友禅や蠟染めもプリント︵印刷︶とするのは日本人には納得しがたいことだが、それがまちがっている が欧米ほど発達してなく、そのおおくを外来語でまにあわせ constructed textiles を、染めでも織でもないのに染織の一種にくわえるのもまちがっていると指摘さ constructed textiles のではないかと指摘すると、同様の理屈で、パッチワーク・アップリケ・レース・フエルト・ニットなど の れ る だ ろ う。 日 本 で は ている。﹁ constructed textiles ﹂の語は日本では聞きなれないことばであろう。しかし、テキスタイル文 と染織のちがいを、さらにくわしく検証すれば、双方の造形思考のちがい、ひいて textile 化にとってもっとも基本的なこの語を知らなければ、テキスタイル文化の構造を理解できない。 このような は文化の基層的なちがいがあきらかになる ︵註三︶ 。双方の比較だけでも、染め、すなわち防染による模様 染め技法が、この日本で突出して発達していることをうかがい知ることができる。 や surface design あるいは print ︵註四︶など dyeing 文化は高いところから低いところへ流れて伝わる。文化の高い地域では、その文化にかんする語彙も発 達している。特異的に発達した日本の﹁染め﹂は、 の語と、まったくおなじ意味であるわけはなく、そのようなことばに置き換えてもしっくりこない。まさ に﹁単語は文化のインデックス﹂である。また、染めの技法名それぞれにおいても同様である。海外で、 日本に発達した染色の技法名にどのようなことばがつかわれているか、具体例をあげよう。 ﹂となる。 yūzen‒zome たとえば、友禅染めの高度な技法と、独特の模様様式は海外には伝わらず、海外では友禅染めは日本語 のまま﹁ shibori や tie‒dyeing ではなく、 ﹁ shibori ﹂が一九八〇年代に国際語として定着した ︵註五︶ 。 pelangi 絞り染めも、とくに日本で多彩に発達したため、単純な技法や模様のイメージしかない インドネシア語の ︵バティック︶に統一されているが、日本は例外で batik はそのことばとともに世界でもてはやされ、近年のファッションにも流行した。 蠟染めに相当する技法は、日本以外の世界で 18 19 世界に発信する京の染め ある。日本の蠟染めはバティックとことなる性質がおおく ︵註六︶ 、日本では蠟染めとバティックを区別す ﹂の呼称が世界の専門家のあいだに定着した。 rōzome る。一九九六年に、ベンジャミン氏が﹃ The World of Rōzome ︵ろう染の世界︶﹄︵註七︶を刊行して以来、 ﹁ 型 染 め は、 型 紙 と 糊 防 染 に よ る 技 法 が 日 本 で 発 達 し て い る う え に、 欧 米 や 産 業 界 で は さ ま ざ ま な プ 版染め︶ ﹂も﹁プリント︵ print, 印刷︶ ﹂も広義の﹁型染め﹂と同義だった。このあたり Pattern dyeing, リ ン ト が 開 発 さ れ て い る の で や や こ し い。 か つ て 欧 米 で は 模 様 染 め が プ リ ン ト だ っ た の で、 ﹁模様染め ︵ に﹁模様﹂が﹁パターン︵型︶ ﹂だと短絡される原因があるのだろう。また日本では﹁型染め﹂を、手描 き染めに対することばとして広義にとらえるか、型紙と糊防染によるものに特化して狭義にとらえるかが Japanese stencil dyeing, paste‒resist ﹂を世界語にしようとしても問題をひきずる。型染めを狭義に特化 katazome ﹂を用いる場合も一部にあるようだが、正確には﹁ katazome 判然としない。そのため﹁ して﹁ ﹂のように説明的な英語が用いられている ︵註八︶ 。このように海外で用いられる染色の技法名 techniques ﹂展がおしえるもの KATAGAMI Style ︱もうひとつのジャポニスム﹂が開催さ KATAGAMI Style にも、多様に、また高度に発達した日本の染めの様相が反映されている ︵註九︶ 。 ﹁ 二〇一二年の夏に京都国立近代美術館で﹁ れた ︵註十︶ 。たいへん示唆にとんだ展示で、現代美術展開の起点となったアール・ヌーヴォーに型紙様式 が決定的な影響をあたえた様相に、あらたな驚きを覚え、その背景にある欧米のテキスタイル事情、たと えば、欧米ではオリジナルな模様文化がきわめてとぼしかったこと、プリントばかりで模様染め技法が ヨーロッパにうけいれられなかったことなどにもおもいをはせることができた。展示を観た私感では、日 本の模様文化は格調がたかく、近代ヨーロッパの著名なデザイナーのものよりもはるかにすぐれている とおもわれた。また、できうるならジャワ更紗から影響をうけたオランダ・バティック︵アール・ヌー ヴォー・バティック︶などと比較してとらえれば、さらにグローバルなかたちで近代デザインの流れを理 ︶の重要性もヨーロッパでは研究されている。 Javanisme 解できるのではないかとおもわれた。ジャポニスムとともに、オランダをはじめヨーロッパ諸国に影響を あたえたジャワニスム︵ 興味ぶかかったのは、タイトルが﹁型紙﹂であって型染めではなかったことと、江戸から明治初期にお けるシンプルな一枚型のデザインがもっぱら対象とされたことである。この事実は、重要な示唆をあたえ ているようだ。また、ヨーロッパと日本で正反対の志向性がみられたことも興味ぶかい。日本の一枚型に 影響をうけたアール・ヌーヴォーのいっぽうで、当時︵明治から大正にかけて︶の京都では、モスリン友 禅に三十∼六十枚の型紙が用いられるなど、多数の版を重ねた複雑なデザインへと展開していた。 明治以降、京都の型染め業界では、京型紙の技術を生かして、つぎつぎと新しい技術が開発された。デ ザインの制約を克服し、効率性、経済性を追求する方向で、写し友禅、スクリーン捺染、印刷式捺染、転 写捺染、ジェット方式捺染、そして近年の﹁次世代高速インクジェット捺染プリンター﹂へと、めまぐる しい勢いで開発されてきた。その結果、型染めは、性能のいい機械による﹁印刷﹂へと収斂した。型染め が開発されればされるほど、型染めが︵狭義の︶型染めではなくなってしまったのである。 いっぽうで﹁型紙、手彫り、糊防染﹂による型染めは、伝統と、創作や大学教育の場に今日まで伝えら 20 21 世界に発信する京の染め れている。この二重構造はいったいどうなっているのか。 ﹁型紙、手彫り、糊防染﹂の型染めは、時代後 れなのか、あるいは創作や大学教育の場に伝えるだけの今日的意義があるものなのか。これはひとり型染 めだけの問題ではない。京都の染め、あるいは日本の工芸全体に共通する問題だろう。 機械が威力を発揮すると、工芸がすたれる。これは世界に普遍的な趨勢である。では工芸はもはや文化 財保護の対象か、スーブニールくらいにしかならないものだろうか。京都の染めの未来は、インクジェッ トプリントにまかせることでいいのか。そうではないだろう。そうではないとすれば、機械、コンピュー タ、インクジェットプリントの威力以外に、なにが重要なのか。 性能のいい機械は、デザインの制約をどんどん解決してくれる。努力と苦心をかさねて開発された機械 が時代をうごかしたこと、また、かつて活躍した稲垣稔次郎︵一九〇二│ KATAGAMI Style 捺染の威力によって、産業的に相当の成功をおさめた。しかしここで考えさせられるのは、シンプルな 一枚型の 一九六三︶や芹沢銈介︵一八九五│一九八四︶の型染めがやはり一枚型であったことである。当時、京都 の業界では多数の複数型ばかりだったので、稲垣の一枚型は珍しく、奇異の目でみられたという。 京都は世界でも珍しく工芸が発達している。近代における京都の三大産業は染織、陶器、漆工だった。 これだけ近代産業、教育制度、情報化が充実した先進社会に、手仕事の工芸が根強く伝えられている例は 驚異ですらある。それは江戸時代の鎖国、明治政府の工芸品輸出の振興策などで、ある程度説明できるだ ろう。でもそれだけだろうか、もうひとつ重要な理由がなくては説明がつかないようにおもわれる。結論 からさきにいえば、日本独特の造形思考にそれがあるのではないだろうか。 生産の効率性、経済性の追求は市場の原理であり、そこに機械が威力を発揮する。しかし問題は﹁デザ インの制約﹂についての解釈である。 ﹁制約﹂とすれば、束縛や不自由にむすびつけて否定的にとらえら れるだろう、しかしはたして﹁制約﹂を否定的にとらえてそれを排除、離脱するだけが、解決や克服の方 法であろうか。 短歌の三十一文字や、俳句の十七音は制約である。しかしその制約は無視、廃止すべきだとは考えられ ない。制約があるからよりつよくうったえてくる。染色家の三浦景生氏は、 ﹁染色というのは絵画と比較 して、技術的に制限が多いですね。制限のなかで仕事をやろうというのは、言葉数を少なくして内容の あることを言いたいというのと共通したようなところがあるように思いますね。 ﹂と述べている ︵註十一︶ 。 工芸家はだれしも﹁制約﹂をわるいものとは考えないだろう。制約をいいものだと考え、技術の開発や錬 磨によって制約内の可能性を開発してきたからこそ、この京都に傑出した工芸文化を築き上げることがで きた。 工芸家であれば、制約をいいものだと感覚的には理解できる。しかしそれを説得性あることばにするの はむつかしい。わたしは教育現場で学生にどのように説明できるのか苦慮してきた。 ﹁なにを﹂よりも﹁いかに﹂ 最初に素材や技法を決めてかかる工芸は、それが制約となって﹁なにを﹂表現するか、つまりイメージ やモチベーションを優先したい場合には都合が悪い。しかし﹁いかに﹂表現するかには、﹁素材・技術・ プロセス﹂における工芸家の心得が威力を発揮する。芸術には自由な発想、確かなコンセプトが重要だと 22 23 世界に発信する京の染め 強調されるが、表現は﹁素材・技術・プロセス﹂ぬきにはできない。 ﹁なにを﹂と﹁いかに﹂はことばの ようにはっきり区別できるものではない。 たとえば日本には雪月花を歌った詩歌があり、春になって桜が咲いてうれしいという、おなじようなコ ンセプトの歌が無数にある。しかし、その感情をいかに表現するかで素晴らしい歌とそうでない歌との差 ができる。﹁いかに﹂がいかに大切かということだ。 勤務先の大阪芸術大学でデザイン学科の学生が工芸学科に来て制作して、工芸が面白いと言う。今では ほとんどパソコンでデザインするのだが、パソコンは百パーセント指示通りにやってくれるが、工芸は指 示しても、ことごとく裏切られる、だから面白いという。 パソコンの場合はプログラミングされているから百パーセントのコントロールができる。しかし、工芸 には想定外のものがはいりこんでくる。そこにおもしろい発見や開発が可能となる。もちろん工芸でも磨 き上げた技術やプロセスを限定してプログラミングを確かなものにすることができる。とくに分業化され た伝統職人の技はそのように完成されている。しかしわたし自身はプログラミングしきれない部分、一回 かぎりの結果に予測をこえるものを探りながら作品をつくろうとする。そのなかで種々の技法を工夫し、 技法の組み合わせを試み、道具やプロセスを考案してきた。 このようなわたしにとって、パソコンのプログラミングは﹁制約﹂にもなるとおもえる。もちろんその ︶がつねに必要である。そこに﹁制 fixed program system プログラムに自由な可能性を拡大させるために、つねに研究、開発がなされてきた。しかしコンピュー タを機能させるためには固定プログラム方式︵ 約﹂をかんじるのである。 なるほどの造形思考 日本の心を示す先人の主張やことばが、わたしの論考や創 作論の指針となってきた。芭蕉が頭でつくる句よりも、おの づ か ら に し て﹁ 成 る 句 ﹂ を 重 ん じ た こ と、 柳 宗 悦 が 説 い た ﹁他力道﹂などである。唐木順三は、 ﹁自﹂は﹁みづから﹂と も﹁おのづから﹂とも読める、 ﹁みづから﹂が﹁おのづから﹂ になり、 ﹁おのづから﹂が﹁みづから﹂になる、それが日本 の心だと書いている ︵註十二︶ 。 親 鸞 の﹁ 自 然 法 爾 ﹂ 、夏目漱 石が晩年にいった﹁則天去私﹂ 、あるいは﹁月が見ゆ﹂﹁鐘が 聞ゆ﹂という自動詞による表現をとりあげて、叙述における 自己度外視、すなわち観察における主観の排除という認識の 方法が、日本人の世界観であるとする城戸幡太郎や、﹁なる﹂ の意味を解説し、 ﹁なる∼なるほど﹂という存在の論理のう ちには、日本的思考の基本的な性格が含まれているという白 川静の主張などに、おおいに啓発された。 24 25 論 考 の キ ー ワ ー ド と な っ た の は﹁ す る ﹂ に た い す る﹁ な る﹂だった。自然を改革しようとする﹁する﹂にたいして、 (左) 《うつり香 '12-102-1》 、(右)《うつり香 '12-102-2》各 102.4 × 102.4 cm 綿布、染料。なるほど染め、蠟染め。2012 年 筆者作 世界に発信する京の染め 生態︵エコロジー︶への思慮をたっとぶのが﹁なる﹂の感性である。日本人は﹁するほど﹂ではなく﹁な るほど﹂と腑におちる。 ﹁なるほど﹂に日本の伝統的な造形志向がある。人間︵プログラマー︶が支配す る固定プログラム方式は、 〝造化に従う〟 ﹁なるほどの造形思考﹂の対極にあるものだろう。プログラミン グによるコントロールには想定外が付きものだ。大自然のはたらきは想定なんてできるものじゃないと、 われわれは痛感したはずだ。 絵模様 生態︵エコロジー︶への思慮をたっとぶ﹁なるほどの造形思考﹂は、 ﹁絵模様﹂の創作姿勢にもみとめ られる。﹁絵﹂も﹁模様﹂も漢語である。日本の古代では、絵とも模様ともつかないことばがつかわれて いただろう。興味深いのは、 ﹁え︵絵︶ ﹂や﹁もよう︵模様︶ ﹂は呉音であって、訓読みがないのだから、 それらに相当する和語がなかったと思われることである。ましてやそのような状況に﹁絵﹂と﹁模様﹂を 区別する意識があったとは思えない。 ﹁絵﹂や﹁模様﹂という外来語をうけいれたが、それらをひとつに した﹁絵模様﹂ということばをうみだしたくなる感性が、日本人に培われていた。琳派などの日本の絵画 が模様のように装飾的だと指摘されること、その絵画がきものをはじめ工芸世界にも同時に展開したこ と、そして、きものの世界に絵模様が爛熟したことなどには、 ﹁絵﹂と﹁模様﹂を区別しない感性を根強 く伝えてきたことが要因となってはいないだろうか。 絵模様の造形には、写生がおもんじられるが、﹁写生﹂の﹁生﹂とはなんなのか。佐藤道信氏によれば、 の訳語におきかえられた﹁写真﹂がある。 photography ﹁写実﹂﹁自然主義的﹂ということばは明治期にできたものだが、 ﹁写生﹂の語は古くからあった。また江 戸時代まで頻繁に用いられた類義語に、近代以降 ﹁写真﹂ ﹁写実﹂から﹁写﹂の字をとって繋げれば﹁真実﹂になることからしても、これらのことばが対象 の本質を表わそうとしたものであることは確かだが、 ﹁真﹂と﹁実﹂はどう違うのか、と考察している ︵註 。また河野元昭氏によれば、 ﹁写生﹂の語は中国では古いが、日本では江戸時代の画論から多出、そ 十三︶ の際日本では﹁しょううつし︵生写・正写︶ ﹂という和語が生まれた、中国では花鳥中心に用いたが、日 本では山水、人物まで広げて用いた、などと指摘している ︵註十四︶ 。 写生によって生の態をうつしそれを模様にする。その模様も﹁ありさま、ようす、かたち﹂を意味し、 視覚以外の要素やうつろいなど、生態へのまなざしをしめしている。ここではくわしく記す余裕はない が、流水紋や雨の表現が日本にゆたかで、欧米にはほとんどない理由は、そのような造形思考にさぐれる のではないか。 ﹁写生﹂と﹁デッサン﹂や﹁スケッチ﹂ 、 ﹁模様﹂と﹁デザイン﹂や﹁パターン﹂の本質的 なちがいに、日本の模様文化を発展させた秘密がかくされているようにおもう。 世界が注目する日本のテキスタイルアート 京都の染織について語るためには、誇らしいできごとについて語らなければならない。ローザンヌ・ビ エンナーレ ︵註十五︶をはじめ、海外の国際展で京都の染織家が世界を席捲するかのようなはなばなしい 活躍をみせてきたことである。残念なことにこのような活躍ぶりは、月刊﹁染織α ﹂のような専門誌以 26 27 世界に発信する京の染め 外、新聞やテレビなどのマスコミには、わずかしかとりあげられてこなかった。染織の街、京都なのだか ら、京都の染織家の国際的な成果がオリンピックのばあいのように大々的に報道されてもいいはずなのだ が⋮と、残念におもいつづけてきた。 ローザンヌ・ビエンナーレ展には長さ十メートルをこす作品も珍しくなく、巨大な作品が展示された。 染織国際展では﹁軽薄長大﹂が得意なテキスタイルアートの面目躍如となった。そして一方、テキスタイ ルアートの世界では一九七〇年代末からミニアチュール展が世界でさかんとなった ︵註十六︶ 。そこでも日 本の染織は注目されてきた。 世界にミニアチュールに対する普遍的な愛好がある。ミニアチュールは、たなごころ︵掌︶でつくり、 たなごころで愛で、愛おしむ、全触覚のものだろう。日本には﹁うつくしい﹂ということばがあるが、か つて﹁うつく︵愛︶しい﹂とは﹁小さいものの美への愛﹂をあらわすことばで、 ﹁いつく︵愛︶しむ﹂も のだった。 一般に作品にこめられる情報量は、作品のおおきさに比例すると考えられるかもしれない。小さな容量 のものは、それだけコンテンツも少ないと。しかし事実は単純ではない。多彩な繊維素材は、各種さまざ まな性質や表情をみせる。そのテクスチュアは、たなごころで愛でるからこそ大きな意味をもつ。手にあ まるもの、手におえないものよりも、手ごろ、手軽がいい。テキスタイルアートは、微細な仕事、全感覚 の世界に可能性を発揮してきた。 軽薄長大とミニアチュールの両面に日本の染織と、その造形思考は、世界で注目されている。京の染め は、世界の期待にこたえなければならない。 ︶ art of dyeing のことだったが、その後、より広い解釈がおこなわれている。そこに日本の造形思考とことなる志向性がみとめ 註一 サーフェス・デザイン協会による﹁サーフェス・デザイン﹂の語の解釈は、当初は染色アート︵ られる。当事者が公開する定義はつぎのようなものである。 The Surface Design Organization was formed in 1976 with the expressed concern of improving communication among artists, designers, industry and teachers working on surface design processes on ︵ 1983 ︶ pre‒woven textiles. ︵ 1987 ︶ Surface design is the coloring patterning/designing of fabric, fiber and other materials. Surface Design refers to any process that gives structure, pattern, or color to fiber & fabric. These include spinning, felting, papermaking, weaving, knotting, netting, looping, dyeing, painting, stitching, cutting, piecing, ︵ 2011 ︶ printing, quilting, & embellishing. AYA/TOJI 大阪芸術大学 染織 に分類される。絞りや手描き染め printed textiles 註二 欧米のテキスタイル文化は、手技が得意とする防染による模様染め技法をうけいれず、さまざまなプリント技法 の一種とされる。 printed textiles を開発してきた。そのため白生地に模様がほどこされるものは の手法も印刷ではないが PORTFOLIO 采/綴 ︵二〇〇〇年 2‒4 大阪芸術大学︶や、﹁染織とテキスタイル﹂﹃染織実習﹄︵二〇〇一年 大阪芸術 註三 詳 細 に つ い て は、 拙 稿﹁ 染 織 と テ キ ス タ イ ル ﹂﹃ ﹄ 1999‒2000 大学︶、﹁﹁染織﹂と﹁テキスタイルアート﹂︱現代染織造形と工芸世界の国際間相違をめぐって﹂﹃民族藝術﹄第 28 29 世界に発信する京の染め 註四 註五 十九号︵二〇〇三年 民族藝術学会︶などにくわしい。 は本来、工業的染色、糸染めなど染料による着色を意味するので、手づくりの防染による模様染めを意味 dyeing する﹁染め﹂の意味合いとのちがいをしめす。 1983, Wada Yoshiko, Mary Kellongg and Jane Barton. Shibori: The Inventive Art of Japanese Shaped Resist の出版が﹁ Shibori ﹂︵絞り染め︶が国際語となる契機となった。 Dyeing. Kodansha International, Tokyo. Eisha Nakano with Barbara B. Stephan, Japanese Stencil Dyeing, Paste‒Resist Techniques, Weatherhill, New 1996. Betsy Sterling Benjamin, The World of Rōzome, Wax‒resist Textiles of Japan, Kodansha International, Tokyo, 性を提供した。 本の蠟染めの特徴で、日本には絵画的で多彩な蠟染めが発達した。日本で開発された引き染め技法が、その可能 註六 チャンチンを用いず、亀裂を避けて微妙な蠟味のテクスチュアを表現し、堰だし技法を多用するなどの傾向が日 註七 註八 York, 1982. 家の作品と、十四名の論文を掲載した。筆者はそこに﹁創作の眼から検証する﹃京都の染め﹄﹂を寄稿しているが、 註九 ﹃民族藝術﹄第二十六号︵二〇一〇年 民族藝術学会︶は、﹁京都の染め﹂を特集し、口絵に二十四名の現代染色 内容が小論と重複する部分がある。 註十 主催者によれば、﹁本展は、十九世紀末から二十世紀初頭にかけて西洋に渡った日本の美術工芸品の中でも特にこ の型紙に注目し、型紙が西洋の芸術家たちの創作活動にどのような影響を与えたのかを紹介する日本で初めての 試みです。日本で生まれた型紙が海を渡り、染色という本来の用途を超えて自由に解釈され、アール・ヌーヴォー ︵二〇〇三年 240 求龍堂︶ をはじめとする西洋の美術工芸改革運動の中で豊かな広がりを見せていった様相を、約四百点の作品とともに俯 世紀は工芸がおもしろい﹄ 瞰する展覧会です﹂とある。 註十一 ﹃ からがみづからであるといふことが、日本人の心のうごきの特色といってよいと思ふ。万葉集巻十三には自然と 註十二 唐木順三は、﹁自然の自はおのづからともみづからとも読む。みづからがおのづからであり、またその逆におのづ 書いてそれをおのづからと読ましてゐる例があるが、その自然が同時にみづから、即ち自己であり、またその逆 に自己が即ち自然であるといふことが、日本人の伝統的な心の動きの中にある。﹂と書いている。︵唐木順三﹃日 本の心 ﹄ 一九六五年 筑摩書房︶ 30 31 21 世界に発信する京の染め 註十三 佐藤道信 ﹃明治国家と近代美術 │ 美の政治学 │﹄ ︵一九九九年 230 吉川弘文館︶ Biennale Internationale de la Tapisserie, International Biennial of ﹂ 山根有三先生古希記念会編﹃日本絵画史の研究﹄︵一九八九年 註十四 河野元昭﹁江戸時代﹁写生﹂考 吉川弘文館︶ 註十五 ロ ー ザ ン ヌ ・ ビ エ ン ナ ー レ の 正 式 名 は ︵国際タピスリー・ビエンナーレ︶。一九六二年の第一回展から一九九五年の第十六回展まで開催され Tapestry た。現代染織造形・テキスタイルアート展開の中心的な国際舞台となり、テキスタイルアートの新しい展開をリー ド、促進する役割をも担った。またテキスタイルアートのアイデンティティをめぐる熾烈な展開がみられた。 一九七〇年代末にメキシコからはじまったという。その後、イギリス、日本、フランスなどでさかんとなり、今 註十六 作品の一辺が十二センチ、二十センチなどと大きさ制限をもうけたテキスタイルアート・ミニアチュール展は、 日なおフランスのアンジェやイタリアのコモをはじめ世界で活況をみせている。最近の日本では二〇一〇年から ﹁テキスタイルアート・ミニアチュール﹂を開催、百名の作家の作品を展示している。 ︵ふくもと しげき 染色家・大阪芸術大学教授︶ 32 33 第 洋 画 回﹁京都美術文化賞﹂受賞者 川 村 悦 子 染 色 第 第 回﹁京都美術文化賞﹂受賞記念展 二〇一三年一月十八日∼一月二十七日 於 京都文化博物館 回京都美術文化賞を受賞された 川村悦子氏、福本潮子氏、伊部京子氏の 氏 の 作 品 と 選 考 委 員 で あ る 梅 原 猛 氏、 中 信 美 術 奨 励 基 金 顧 問 で あ る 石 本 正 氏、 三浦景生氏の先生方に賛助出品いただき 開催しました。 記念展会場風景 公益財団法人 中信美術奨励基金 京都府、京都市、京都府教育委員会、 京都市教育委員会 京都中央信用金庫 第 25 回京都美術文化賞受賞記念展開催のテープカット 梅原 猛氏、伊部 京子氏、福本 潮子氏、川村 悦子氏、 布垣 豊財団理事長 ●主催 ●後援 ●協力 布垣 豊財団理事長による あいさつ 福 本 潮 子 25 25 新宮晋氏、樂吉左衞門氏、公益財団法人 三 2013 年 1 月 18 日∼ 1 月 27 日 於 京都文化博物館 伊 部 京 子 ファイバーアート 第 25 回京都美術文化賞の贈呈 34 35 ●京都府下を基盤にして美術の創作活動を行い、京都府 市民の精神文化向上に多大の功績があった方に対して 賞牌 賞金⋮⋮一人 二百万円 ●創作活動の対象は次のいずれかの分野 絵画︵日本画・洋画・版画︶、彫刻、 工芸︵染織・陶芸・漆芸・その他︶ ●第 回選考委員 梅原 猛︵哲学者・ 国際日本文化研究センター顧問︶ 大田垣 實︵大阪成蹊大学教授︶ 内山 武夫︵美術評論家︶ 新宮 晋︵彫刻家︶ 辻 惟雄︵美術史家︶ 樂 吉左衞門︵陶芸家︶ 第25回「京都美術文化賞」受賞記念展 25 25 京都美術文化賞 2012 年 5 月 30 日 於 ウェスティン都ホテル京都 第25回「京都美術文化賞」 第25回 「京都美術文化賞」 贈呈式
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