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赤十字の誕生
スイス人の実業家アンリ・デュナンは、1859年6月、
フランス・サルディニア連合軍とオーストリア軍の間
で行われたイタリア統一戦争の激戦地ソルフェリーノ
の近くを通りかかりました。
そこで見たものは、4万人の死傷者が打ち捨てられ
ているという悲惨なありさまでした。デュナンは、す
ぐに町の人々や旅人達と協力して、放置されていた負
傷者を教会に収容するなど懸命の救護を行いました。
「傷ついた兵士はもはや兵士ではない、人間である。人間同士としてその尊い生命
は救われなければならない。」との信念のもとに救護活動にあたりました。
ジュネーブに戻ったデュナンは、自ら戦争犠牲者の悲惨な状況を語り伝えるととも
に、1862年11月『ソルフェリーノの思い出』という本を出版しました。
この中で、
(1)戦場の負傷者と病人は敵味方の差別なく救護すること
(2)そのための救護団体を平時から各国に組織すること
(3)この目的のために国際的な条約を締結しておくこと
の必要性を訴えました。
この訴えは、ヨーロッパ各国に大きな反響を呼び、1863年2月赤十字国際委員会の
前身である5人委員会が発足、5人委員会の呼びかけに応じてヨーロッパ16カ国が参
加して最初の国際会議が開かれ、赤十字規約ができました。
この規約により各国に戦時救護団体が組織され平時から相互に連絡を保つ基礎がで
き、デュナンの提案の一つが実現しました。
そして翌1864年には、ヨーロッパ16カ国の外交会議で最初のジュネーブ条約(いわ
ゆる赤十字条約)が調印され、ここに国際赤十字組織が正式に誕生したのです。
その後、人道・博愛の精神を根底にした赤十字は、各国で次々と受け入れられてい
きました。
赤十字の創始者
アンリー・デュナン
赤十字の創始者アンリー・デュナン(Henry Dunan
t)は、1828年5月8日、スイスのジュネーブで生ま
れました。父のジャン・ジャック・デュナンはスイ
スの代議員議員のほか政府の孤児保護院の仕事をし、
母のアントワネットは物理学者ダニエル・コラドン
の妹で、児童の教育や福祉問題に熱心でした。この
両親にとってデュナンははじめての子供でした。
デュナンは、1853年、25歳の時に勤めていた銀行
の用務でしばしばアルジェリアを旅するようになり
ました。当時、フランスの植民地であったアルジェ
リアに水利権を得て製粉会社を設立することも旅の
目的でした。
1859年6月中旬のことです。この時もデュナンは
水利権を得る陳情の旅を続け戦場にいるナポレオン
3世やアルジェリア総督マック・マオン将軍を追っ
てイタリアに入りました。デュナンがイタリア統一
戦争の開戦地ソリフェリーノにほど近いカステイリ
オーネに着いた6月25日は、19世紀最大級の激戦が
繰り広げられた翌日でした。
そこで、死傷者が4万人をこえるという激戦の結果、うち捨てられた負傷者の非惨
なありさまを目のあたりにしたデュナンは、どうしてもこの人たちを救わなければな
らないという思いにかられました。デュナンは、すぐに近隣の農家の婦人や旅行者に
協力を呼びかけ、放置されていた負傷者をカステイリオーネの教会に収容するなど、
水利権を得るという旅の目的も忘れて,懸命の救護にあたったのです。
この時の記憶をまとめた手記『ソルフェリーノの思い出』は、1862年11月に出版さ
れましたが、その中で、デュナンはこう訴えています。「負傷して武器を持たない兵士
は、もはや軍人ではない。戦列を離れた一人の人間として、その貴重な生命は守らな
ければならない。そのためには、かねてから国際的な救護団体をつくり、戦争の時に
直ちに負傷者を救助できるようにしておけば、再びソリフェリーノのような悲惨を繰
り返すことはないであろう。また、これらの救護に当たる人々は中立とみなし、攻撃
しないよう約束することが必要である。」
この訴えは、世界中に大きな反響を呼び、多くの支持者を得ました。そして、つい
には赤十字国際委員会の創設に結びついたのです。
しかし、デュナンは、赤十字創設に没頭のあまり、製粉会社の経営に失敗し、1867
年、39歳の時、破産宣告を受けて放浪の身となり、いつしか消息を絶ってしまったの
です。やがて、一人の新聞記者がスイスのハイデンにある養老院で、70歳のデュナン
に出会い「この方が赤十字の父、アンリー・デュナンだ」と報道したのは、1895年の
ことです。
1901年に赤十字誕生の功績が認められ、最初のノーベル平和賞をおくられたデュナ
ンは、ロシア皇后から賜った終生年金だけで余生をおくり、1910年10月30日、ハイデ
ンの養老院で人道主義に徹した82年の生涯を閉じたのです。