「記号と再帰」を軸にした放談激論

「記号と再帰」を軸にした放談激論
脇本佑紀
平成二十六年二月八日 於 第二土曜会
•「円相」その起源は知らない。中国で誕生したものかもしれないが、日本でよく親
しまれていることは確かである。建築にも円窓という形で取り入れられているし、
日本酒の銘や社名としてなどありとあらゆるところで愛用されている。古来より神
道では太陽信仰の影響からか円形の鏡を神体とする習慣があった。このことも日本
人と円相をより強く結びつける要因となったに違いない。一筆書きの円は永遠と一
体の象徴であり、また極端に削がれた美しさの象徴でもあろう。
•「太極図」言わずと知れた陰陽の理を表す図である。漢詩などを鑑賞していると二
体の併置に対する美意識が感じられ、このバランス感覚は日本にはないものであ
る。例えば劉廷芝の「代悲白頭翁」の一節では「年年歳歳花相似、歳歳年年人不
同。
」と花と対比したかたちで人の無常を吟ずるが、鴨長明の「方丈記」では「その
あるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。」と、
むしろ花によって人の無常をあらわすのである。
•「Triquetra」Trinity の象徴で、キリスト教の Blessed Trinity すなわち父、子、聖
霊の組が代表的である。Dante Alighieri の「神曲」は地獄・煉獄・天国といった
三部から成るが、本文もまた三行を一単位として構成されており、齋藤曉氏のテキ
ストがこれに影響されていることは有名である。三がキリスト教の影響で好まれて
いるとするよりは、それ以前から西洋人の精神に三体を以って好しと成す美意識が
あったと考えるほうが自然であろう。
1 はじめに
1.1 不立文字と不離文字
自然は記号とは無関係の存在であるように思える。それは如何なる象徴でもないし意味
を孕むこともない。存在することもなくただ存在している存在である。一方、人と記号の
結びつきは強い。人は文化を有し言語を使う生き物である。このことは遺伝子のレベルで
決定された抗いようのない定めだ。我々は不立文字の物理現象に不離文字の物理学で挑ま
なくてはならぬ。この不条理に反抗することそれは記号の限界に挑むということでもあ
る。記号の能力は再帰 (recursion) に象徴されると考えられている。我々はここで「わか
る」の限界に漸近すべく再帰を考察するものである。
1.2 人、言語、文化
世界を見る我々の目は純粋ではない。それは脳によって作られた映像である。求めるも
のは際立つが、意識しない物は見えない。また使用言語も知覚に影響を及ぼす。しとし
と、という擬音語を知る者がそうでない者と異なる雨の音を聞いていることは想像に難く
ない。さらに言語は文化と無関係ではないだろう。言語、ひいては文化が認知に影響を与
えるというこの考えを Sapir-Whorf 仮説という。人と言語を切り離し、言語と文化を切
り離すことははたして可能なのだろうか。それができたとしても、人と文化を切ること
ができぬ。この果てなき堂々巡り、それは不動点である。不動点もまた、再帰の産物なの
だ。記号の能力が内在する特異点、これもまた不条理である。
1.3 一なる統合
二つや三つの見方が相互に関係し合い、時には等価だということが分かっても、その本
質を見たことにはならない。多くの見方を提供する、その大本を捕えない限りは。一なる
統合が希求される。それは関係かもしれないし、なにか物質的なものかも知れないが、も
はや、そういった観念すら越えたものになる可能性もある。問題はこれを記号で表現する
こと、に尽きる。不立文字や不離文字も一つの側面にすぎず、人や文化、言語もまたその
点に過ぎないのかもしれない。これを掴むことができるのは、おそらく汚れなき直感であ
り、これを表現することができるのは、おそらく洗練された “記号力” であろう。そして
世界と人間が一体となったとき、不条理は姿を消す。
1
2 「記号と再帰」
この書はプログラミング言語との対比によって浮き上がる記号学的構造の理解を図るも
のであり、著者が各章において絵画を参照し述べているように、すべての可能な記号につ
いて言及したものではないことに注意。
2.1 二元論と三元論(主に3章)
パースは記号は三つの構成要素によって捉えられると考えた。表意体、直接対象、解釈
項である。表意体とは例えば「木」といったシンボルで、解釈項とはそれによって想起さ
れる「イメージ」である。そして直接対象は物理的実体としての『木』を指す。一方、ソ
シュールは記号の構成要素として次の二点を挙げた。シニフィアンとシニフィエである。
それぞれ「指し示すもの」と「指し示されるもの」を表す。この二つの視点は互いに等価
であろうか?著者の田中氏はソシュールの「差異が意味を生む」という考えに注目し、表
意体がシニフィアンに、直接対象がシニフィエに、そして記号の使用という全体の中で生
じる差異が解釈項に相当すると考え、二者を統一したのである。そして著者の独特な点は
これをプログラムの比較において明確化した。オブジェクト指向プログラミングにおいて
は記号が使用を内在し定義の段階で意味を有する。だが関数型プログラミングにおいては
記号が使用によって意味づけられる。そしてそれらは機能として等価である。
2.2 一次性、二次性、三次性(主に6、7章)
42 という数について考えよう。42 は「整数」なる言葉によって示される数である。だが
同時に、42 という記号が 42 という数を表してもいる。その数は 2A と表しても、101010
と表しても構わない。すべてが 42 を表す記号であり、42 は示すと同時に示されている。
二元論は常にこのような階層性を持つ。芸術などに話を広げれば『木』が「木」なるシン
ボルを示す形で使用されるといったこともあろう。パースの一次性、二次性、三次性とは
その階層の数を表すものと考えることもできよう。三次以降は必要か——すべてのノー
ドは三項関係によって分解できると考えれば三次までで十分である。(c.f. 湯川相互作用、
パンツ分解)一次性とは物理現象としての水の音、二次性とは静寂の表現としての「水の
音」
、三次性とは侘び寂びの表現としての『静寂の表現としての「水の音」
』
、などを思い浮
かべればよいであろうか。松尾芭蕉の思想の表現としての【侘び寂びの表現としての『静
寂の表現としての「水の音」』】は、松尾芭蕉の思想の表現としての『侘び寂びの表現とし
2
ての「俳句」』および俳句としての『静寂の表現としての「水の音」』と分解することがで
きる。(よりよい例えを募集中)
2.3 三次性と記号の再帰(主に4、9—11章)
著者は三次性の例として自画像を挙げている。自画像は画家のイメージ、その解釈、お
よび己を描くという再帰性を含んでおり、三次性を持つと言うことができる。そして関数
型言語を例に取ればこれは引数、非再帰的関数、不動点関数が三次性を成すと言い換え
ることもできよう。ここでこの三次性を通して先ほど論じた二元論・三元論を見直して
みる。
記号の再帰的定義においては、記号の使用とその定義が同時に行われる。したがって二
元論においてはまさに記号の使用から生じる差異がシニフィアン・シニフィエを構成する
という文言が再現され、三元論においては直接対象と解釈項とが縮退する。そして両モデ
ルは等価となる。
この使用と定義の同時性は自然言語を考えるとごく当然の主張である。我々人間は使用
することで言語を習得し、使われ方が変われば言葉はその意を異にする。またこの変化は
記号系において時間が存在していることを指し示すものである。自然言語は再帰の上に成
り立っており、記号の変化によって時間が内包される。
この意味で、自然言語はその使用によって自己を変容する系であると言うこともでき
る。すなわち再帰によって時間を生じ、自ら進化する。
3 人間と再帰—「再帰主義」の潮流
生物としての人間は再帰性によって特徴づけることができる。遺伝子は環境に適応すべ
く変化してきたが、(西洋的)人間はある程度環境を支配する能力を得た。その結果とし
て遺伝子へのフィードバックを制御することが可能となる——これは再帰である。また
その思惟は全世界に及び、そこには自己が含まれる。物理的自然界を思考の始点とするな
らば、自然界は自己を参照できる生命を生んだことになる。人間を思考の始点とするなら
ば、人間は自然界なる観念を得、そこに自己を置くことで再帰した。
また人は言語を有し対象に記号を与えることができる。記号を得るということは再帰を
得るということでもある。記号は再帰の中で意味を持ち、再帰の中で変化していく。時間
3
図 1 再帰する思惟
の所在とは使用の内に生じる記号と意味のつがいの移ろいにある。使用が意味を生むとい
うことは意味について問うこともまた意味を変化させる——言語は言語であるが故に進
化するのである。
4 人間と有限性、無限性
人間が世界に内在するにせよ、世界を内在するにせよ、記号化、言語化という行為は有
限性と密接に関わりあっている。本質的に無限のものは有限で表現することはできない。
チャイティンの議論はこの “仮定” が数学的に取り扱えてしかも不完全性を生むというこ
とを示唆している。また人間の思惟の中にこのような言語化不可能な対象が存在している
であろうことは古来から指摘されてきた。
ここではヤスパースの老子についての文を引用してみる。道(Tao)について述べたも
4
のである。
この書の最初の文章は、もっとも深いところに迫るもので、次のように始まる
「言い表すことのできる道は永遠の道ではない。呼ばれることのできる名は永遠の
名ではない。無名が天と地の世界の根源である」。この文章は単にすべて軽率な知
識を拒けるだけでなく、人間が有限的な事物に対してもっている知り方というもの
を、道のために拒けるものである。「私はその名を知らない、それを示そうとする
場合、私はそれを道と呼ぶ」
この後、「その存在を肯定的に言表しようと思うことは、それを有限化することであろう。
「道は空であり」、無限の深淵である。」と続く。また「われわれの対象となるものは有限
である。」とも。
「呼ばれることのできる名は永遠の名ではない。」とは、まさに記号と時間の議論が思い
起こされて面白い。
5 結びに代えて:ピダハンとアモンダワ
アマゾンはたびたび多様性の象徴とされることが多いように、様々な言語や文化を有す
る。近年、西洋的常識を打ち破る文化と言語を持つものとして二つの部族が注目を浴び
た。ピダハン族とアモンダワ族である。ここではその詳細を論ずる余裕は無いが、参考文
献から印象的な文章をそれぞれ紹介することにしよう。アモンダワ族について、
「彼らにとって『時は金』ではありません。また、何かを達成するために時間に
追われるというようなこともありません。誰も来週、来年のことなど話さないので
す。なぜなら彼らには 『週』、『月』、『年』という言葉すらないのですから。彼ら
は一種の自由を享受している、幸運な人々と言えるでしょう」
ピダハン族について、
だが、ピダハンはたいていはそうした生物としての心配事にもとらわれずに生き
ている。なぜなら一度に一日ずつ生きることの大切さを独自に発見しているから
だ。ピダハンはただたんに、自分たちの目を凝らす範囲をごく直近に絞っただけだ
が、そのほんのひとなぎで、不安や恐れ、絶望といった、西洋社会を席捲している
災厄のほとんどを取り除いてしまっているのだ。
ピダハンは深遠なる真実を望まない。そのような考え方は彼らの価値観に入る余
5
地がないのだ。ピダハンにとって真実とは、魚を獲ること、カヌーを漕ぐこと、子
供たちと笑い合うこと、兄弟を愛すること、マラリアで死ぬことだ。そういう彼ら
は原始的な存在だろうか?人類学ではそのように考え、だからこそピダハンが神や
世界、創世をどのように見ているか懸命に探ろうとする。
しかし面白いことに物事には別の見方もある。西洋人であるわれわれが抱えてい
るようなさまざまな不安こそ、じつは文化を原始的にしているとは言えないだろう
か。そういう不安のない文化こそ、洗練の極みにあるとは言えないだろうか。こち
らの見方が正しいとすれば、ピダハンこそ洗練された人々だ。こじつけがましく聞
こえるだろうが。どうか考えてみてほしい——畏れ、気をもみながら宇宙を見上
げ、自分たちは宇宙のすべてを理解できると信じることと、人生をあるがままに楽
しみ、神や真実を探求する虚しさを理解していることと、どちらが理知をきわめて
いるかを。
著者はピダハンの性質を「直接体験の原則」という形でまとめた。たとえば彼らはその人
が実際に見た話しか信じない。すなわち彼らがキリスト教を受け入れることはけっしてな
いのだ。この原則はある意味再帰を破棄したものと考えることもできよう。彼らは自然数
を持たず、また再帰的文法を持たない。
不条理との格闘のなかでは、知ることだけではなく忘れることも必要かもしれない。
6 参考文献
題の中心的文献は
1. 田中久美子 著, 「記号と再帰」, 東京大学出版会, 2010
表紙のシンボルは以下のページから借用。
2. http://ataraxiathetranquilmind.wordpress.com/
2012/09/22/buddhizing-halloween/enso/
3. http://ja.wikipedia.org/wiki/太極図
4. http://en.wikipedia.org/wiki/Triquetra
頻出する不条理および不条理への反抗について次の文献を引用すべきであろう。
5. アルベール・カミュ 著, 清水徹 訳, 「シーシュポスの神話」, 新潮文庫, 1969
6
ソシュールの思想については最近のものとして上と同じ田中氏による
6. フェルディナン・ド・ソシュール 著, 影浦峡/田中久美子 訳, 「ソシュール 一般言
語講義 コンスタンタンのノート」, 東京大学出版会, 2011
がある。
引用したヤスパースの文は次の書の中にある。
7. カール・ヤスパース 著, 田中元 訳, 「孔子と老子」, 理想社, 昭和五十一年
ピダハン族、ピダハン語に関する報告は
8. ダニエル・L・エヴェレット 著, 屋代通子 訳, 「ピダハン 「言語本能」を越える文
化と世界観」, みすず書房, 2013
アモンダワ族に関する報告はまだ書籍では無いようである。インターネットニュースで参
考にしたのは
9. Rochet News 24, http://rocketnews24.com/2011/05/24/遅刻も年齢もない「時間」の概念が全くない部/, 2011
7