第8回(7/2) パリ万博の歴史—エッフェル塔異聞

横浜市立大学エクステンション講座
エピソードで綴るパリとフランスの歴史
第8回(7/2) パリ万博の歴史—エッフェル塔異聞
1 万国博覧会への道
ヴァルター・ベンヤミン(Walter Benjamin 1892-1940)
『パリ ― 19 世紀の首都』
(1935)で以下のように述べる。
「万国博覧会は商品という物神の聖堂である。
『ヨーロッパは商品を見るために移動した』
、と 1855
年にイポリット・テーヌは言う。万国博覧会の始まる前には内国産業博覧会が幾度か催されているが、
その第 1 回は 1798 年にシャン・ド・マルスで開かれた。それは『労働階級を楽しませよう』という意
図にもとづき、
『彼らの解放の祝祭となる』
。労働者が顧客の筆頭である。娯楽産業の枠はまだできて
いなかった。民衆の祝祭がその枠を設定し、シャプタルの工業に関する講演がこの博覧会の幕を切っ
て落とす。
世界の産業化を企画するサンシモンの工業についての講演がこの博覧会という理念を取りあげる。
この新たな領域における最初の権威シュヴァリエはアンファンタンの門弟で、サンシモン主義者の機
関紙『グローブ』の発行者である。サンシモン主義者は世界経済の発展を予見していたが、階級闘争
を予測することはできなかった。世紀半ばごろ、商工業の企画の一翼を担いながら、無産階級の問題
に関しては彼らは手を拱いているよりほかなかった。万国博覧会は商品の交換価値を神聖化する。そ
れが設けた枠の中では、商品の使用価値は後景に退いてしまう。博覧会がくりひろげる目にも彩な幻
像に取り囲まれて、人間はただ気晴らししか望まない。
」
(1)物流と見世物の場として定期市の伝統
人が博覧会に興味をもつのは、
「異」なるものを見出したことへの衝撃に喚起されたか
らである。もし人が見慣れた出来事や出会う者がいつも同じだとすれば、それを「並べ
て比較してみよう」
「異なるものの体系化を図ろう」
「人に己の感動を知らせてやろう」
という気は起こらない。周知の真実をいくら知らせても、それは何の感動も生まないの
を知っているからだ。博覧会の「博覧」とは「異」なるものを秩序立てて解読できるよ
う他者に知らせる(Expose する)試みである。
博覧会なるものが近代資本主義の興隆とともに起きたという点に注目しなければなら
ない。初期の資本主義は商業の資本主義である。つまり、商人は珍奇なものを二束三文
の安値で買い付けてきては、それを別の市場で高く売りつける。そこから利潤を引き出
す。買付市場と売却市場は生産物の種類が異なるほうが買付価格と売却価格の差が大き
い。だから、貿易は遠隔地間の取引のほうに旨味がある[注]。
[注]fair「定期市」と market「週市」の意味の違いに注意したい。
よって、中世ヨーロッパには内陸部における交通の要衝において(年に1~2 度開催
される)定期市というものがあった。ここでは小売ではなく卸売を目的とするものであ
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った。しかし、一か所に荷車で商品を運びこむのは大変なので、やがて見本市として売
り買いの契約のみがなされ、商品は生産地と消費地を直接的に移動することになった。
売り手と買い手は相互に立場を変えるのがふつうで、結局、定期市は、売買で生じた債
権・債務を精算したり、手形などの債権を発行・決済したりするだけの機会となった。
定期市は「お祭り的要素」を付随した。サーカス、旅芸人、舞踊、女衒、酒食、占い、
講談などの気晴らしの場ともなった。ヨーロッパで博覧会がいちばん最初に起こったと
いうのは、国際的商業が古くからおこなわれ、物流が遠隔地どうしという地理的・歴史
的な伝統があったからである。
(2)異文化世界との接触体験 — 大航海時代による「発見」
しかし、これだけでは 19 世紀における内国博覧会および万国博覧会の誕生の理由に
はならない。万国博覧会は単なるヨーロッパ規模の商品取引のための国際的見本市では
ない。ヨーロッパ列強が大航海時代の遠征で異文化世界と接触したという事実である。
そもそもの遠征の動機は金・銀の採掘であったかもしれないが、それはどこにおいても
ありつけるという代ものではない。ヨーロッパ人は進出先で珍奇な商品といっしょに人
種、彼らが織りなす異文化様式、今まで見たこともない動植物を「発見」したのである。
1490 年代から 1520 年代のわずか 30 年ほどで探検と冒険の実践はヨーロッパ人の世界
認識を一変させるほどのショックを与えた。
このようにしてヨーロッパ人たちに新しく「発見」されていった世界は文明が未発達
である場合が多く、ここにキリスト教文化の優越性の証として布教する、または、ヨー
ロッパの富のために搾取・収奪の対象として征服し植民地化する認識を随伴した。この
ことが後の万国博覧会の主要なテーマと重なりあっていく。列強のいずれもキリスト教
布教を旗印に交易拠点の植民地化を強制した。逆らう者には大殺戮と奴隷化を強制し、
財宝は盗奪の対象というお決まりパターンとなった。
経済的にもっとも重要なのが金と銀であるが、それと同時にトウモロコシ、ジャガイ
モ、トマト、トウガラシ、タバコ、コーヒー、ココア、茶、砂糖など無数の植物が「新
大陸」から「旧大陸」に渡り、ヨーロッパ人の食生活を変えていく。人種もそうだ。コ
ロンブスは本国の人々に「インド」を発見した証拠に樹木や鳥類、動物類と共に数人の
インディオを「標本」として連れ帰った。コルテスもメキシコ征服後に多数の珍しい鳥
や動植物と共に軽業師や小人を連れ帰り、スペイン宮廷やローマ教皇庁で「見本市」を
開いた。人間も「発見された珍種」として動植物といっしょくたにされたのである。
大航海時代に現われた「発見」というのは単なる地理学上の大陸や航路の発見ではな
く、ヨーロッパを中心軸として見出した世界での周辺的な「奇異発見」であったのであ
る。これはやがてヨーロッパ自身および文化(宗教観)の自己相対化に向かう要素では
あるが、15・16 世紀の段階ではまだそこまではいかない。
(3)博物学の発展
17 世紀前のヨーロッパでは類似と相違が「知」を構成する基本的原理であった。動植
物を含む自然はそのさまざまな部分が近接し、相似し、反響しあうことによって何らか
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の体系のもとにあることが直感的に認識された。これが発展して博物学という新たな学
問を生み出していく。
「富」についても元々は金・銀であったものが、なぜそうなのかを
つき詰めて考察していくうちに金・銀は「富」の代表格として「富」そのものとは分け
て考えていくことになる。すなわち、こうした富ついての観念の脱線が端緒となって 17
世紀の経済学が形成されていく。
17 世紀から作られはじめる標本陳列館や動植物園は、それまでの見世物として街路を
練り歩く行列を「表」
(タブロー)の形式へと置き換える。諸要素のデタラメ羅列では見
る人を説得できない。類似・相似・相異という雑多な感覚的要素の中に隠された某かの
体系を見出すことが求められていく。人間がつかう言語にもそうした雑多と斉一の連関
という規則性を見出そうとする努力が始まる。すなわち、言語学の創成である。
それを促すうえで決定的要素が誕生した。印刷文化がそれだ。15 世紀半ばに発明され
た印刷術は単に大量出版を可能にしただけではない。個人が得た知識を他者に伝播して
いくうえで言語の意味論的統一が必須となる。図版化された象徴(天国と地獄、超越者
と実世界、善と悪、美と醜、天使と悪魔など)にも規則性がなければ、特定個人の思想
や感情は他者に伝わらない。印刷文化における視覚による経験の均質化は聴覚をはじめ
とする五感が織りなす感覚複合を後景に押しやり、固定された統一的な視点を可能にし
たのである。こうしてひとつの規約的世界が誕生する。雑多な地域の伝承の世界がここ
かしこに跋扈しているのと対照的に、国語で統一された文化が誕生し、これがますます
雑多な伝承文化を駆逐していく。つまり、
「異質性」を説明するためには、だれもが承認
できる「同質性」の視点が必須となる。
印刷文化の発展のおかげで文書が保管され、図書館が創立され、カタログや蔵書目録
が作成されていく。これらは印刷技術の普及を前提にしなければ成立しないが、一方、
文書館、図書館、カタログ・目録はますます知的世界を豊かなものにし、ここで先進が
後進を指導する教育のあり方を問うようになる。従前の知識人とは聖職者と同義であっ
たが、印刷文化の成立とともに俗人の知識人が誕生する。氏素性は優れなくても、質の
よい教育を施されればだれでもいっぱしの知識人と成りうるのだ。
「知」が俗人の前に開
けるというのは、ブルジョアジーの誕生をもって初めて可能になる[注]。
[注]博物学はなんでもないことのように見えて、その歴史的意義は極めて大であり、次代の科学革命の
前提条件となるが、ここではこれ以上はふれない。
博物学は事物の拡がりを単に眺めるものから特徴的諸要素を正確に抽出する技術を錬成した。イン
ド、中国、日本、南北アメリカ、アフリカ、南太平洋の動植物、人間の多様性の生成をどのように説
明するかの問題を人間に突きつける。この課題はそれまでの「幸福なアラビア」
「高貴な野蛮人」とい
った観念を退け、全世界の人類や動植物を分類し、序列化していくことが急務となったのである。
(4)博物館の公開
18 世紀以降、こうした分類・体系化・公的展示という兆候に拍車がかかり、国立の博
物館の創立に発展していく。大英博物館の元はハンス・スローンなる蒐集家が集めた塊
であるが、彼は遺言によりこれを議会に寄贈した。これが元となって大英博物館となっ
て国民に一般公開されていく(1759 年)
。また、ロンドンではキュー、パリではビュフ
79
オンが中心となってそれぞれ植物園を開設する。動物園の開園も 18 世紀から 19 世紀に
かけてであり、いずれも王立という公的施設として一般公開する。ラマルク、サン・テ
ィレール、キュヴィエが動物学の研究をおこない、展示される動物の体系的分類や比較
解剖学を発達させていく。こうした標本の展示、植物の展示、動物の展示というかたち
で博物館は私的機関から公共的機関へ移行していく
(5)博覧会の誕生
大航海時代から博物学の時代へ、そして、博物館や動植物園の体系化と一般公開を通
じて、われわれは博覧会の一歩手前まで到達した。そのつなぎ役を演じたのが資本主義
である。博覧会は市場征覇をめぐるヨーロッパ列強の競り合いのうちに育んできた産業
テクノロジーを博覧会という壮大なスペクタクルのかたちで総合していった。
2 内国博覧会から万国博覧会へ
(1)博覧会の旗振り主役フランス
本稿の主題は万博である。その中で中心的にとりあげるのは 1867 年の第 2 回パリ万
博である。なぜ第 2 回か? というと、ここにその後におけるパリ万博および他都市に
おける万博の原型が見いだせるからである。
まず、結果からみていこう。下表に示すように、万博はパリが群を抜いて多く、合計
7回も開催している。場所はすべてパリ、それもシャン=ド=マルス、アンヴァリード、
セーヌ河畔、シャンゼリゼなど都心部が多い。英米に万博があるのは当然だとしても、
ドイツでおこなわれていない点が注目に値する。イタリアではミラノで 1 回(1913 年)
開催されている。
オリンピックの創唱者がクーベルタンであることを考えれば、こうした分野はフラン
ス人の独断場である。パリのモード祭、カンヌ映画祭、ブザンソン音楽祭、そして最近、
人気を呼んで年々規模を拡大しつつある「ジャパン・エクスポ」のような例もある。
万 国 博 年 表 (1940 年まで)
開催年
都市
会場・出展目玉
入場者
1851
ロンドン
水晶宮 産業機械
600 万人
1853
ニューヨーク
水晶宮模倣
125
1855
パリ
産業宮 産業機械と美術品
520
1862
ロンドン
産業機械 独鉄鋼品 日本美術工芸品
620
1867
パリ
楕円形会場 機械 工芸品 美術品
680
1873
ウィーン
電気モーター 日本庭園
700
1876
フィラデルフィア
建国百年 ミシン タイプライター
1,000
1878
パリ
トロカデロ宮 蓄音機 水族館
1,600
1889
パリ
エッフェル塔 機械館 電灯照明
3,200
80
1893
シカゴ
コロンブス百年 高架鉄道 自動改札
2,750
1900
パリ
新世紀展望 動く歩道 映画 電気宮
4,800
1904
セントルイス
ルイジアナ百年 飛行船 自動車 無線
2,000
1915
サンフランシスコ
パナマ運河 地震復興 芸術スポーツ
1,800
1924
ロンドン
オリンピック記念 大英帝国博
2,700
1925
パリ
装飾美術と近代工業 アールデコ
500
1926
フィラデルフィア
建国 150 年 7 万台大駐車場
640
1930
リエージュ
市制百年 産業と科学 日本機械出品
200
1933
シカゴ
市制百年 無窓建築 プレハブ住宅
4,800
1935
ブリュッセル
民族を通じての平和 参加国展示館
200
1937
パリ
芸術と技術 独ソ館がエ塔を挟み対峙
3,400
1939
ニューヨーク
大戦勃発 ナイロン プラスティック 録音機
4,500
1940
東京<中止>
勝鬨橋
19 世紀半ばから 20 世紀半ばにかけての百年はまさしく万博が国家的な催事の最重要
な形式として全盛期を迎えている。第二次大戦後もこの動きは全世界に広がっていくが、
入場者数こそ増えたとしても、社会の発展の牽引役としての役割は減じていく。という
より、文化的な催事にせよ経済的な催事にせよ、それぞれが多様化するとともに専門化
し、また常態化(日常化)することによって、定期開催する必然性がなくなってきたか
らだ。たとえば、文化・芸術に関する国際的な催事は毎年おこなわれるようになり、商
品見本市も常態化しているのである。それは巨大化し商業化することによって開催国の
負担が増したオリンピックも昔日の絶賛は影を潜めていることにも認められる。
(3)内国博覧会
万博はいきなり国際的な規模で開催されたわけではく、半世紀ほどの前史をもってい
る。その嚆矢は内国博覧会で、開催国はフランスである。
〔発起人〕
文筆家ニコラ=ルイ・フランソワ(1750~1828)⇒ 変名フランソワ・ド・ヌシャトー
Nicola de Neufchâteau…大革命下で穏健派ゆえに逮捕され、ギロチンを待つ運命にあ
ったが、
「テルミドール反動」により釈放される。
彼は大革命の混乱によりフランスの産業は著しい停滞状況にあると考えた。これを
脱却するため国民の精神覚醒を思いついたのだ。
〔原因〕
* 行き過ぎた私権を制限すること
* 過酷な税制の見返りとして産業育成を図ること
総裁政府の成立によってようやく落ち着きを取り戻したフランスは産業の復興のた
めにヌシャトーは「産業神殿 Temple de l’Industrie」の設立を提案。彼は総裁政府
のもとで内相の地位にあったのだ。
1898 年 9 月 22 日に共和国記念日を祝うためにシャン=ド=マルスで内国博覧会の開
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催を提案。実用工芸(家具・時計・陶器・絹・装丁本・歴史画・青銅と大理石像)を
展示品にした。出品者 110 人、会期はわずか 5 日ほどだったが、これが世界初の試み
となった。
この第1回国内博覧会において、半世紀後から大々的に始まる万国博覧会の骨子が
すべて出ているのが特徴。その骨子とはどういうものか?
(A)政府が産業振興のために主催
(B)展示物は実用目的の商品に限定
(C)アトラクションとスペクタルを伴う祝祭
(D)単一会場に全展示物を集中
(E)出品者の資格はフリーで、私企業も私人も参加可能
(F)商品のコンクール
(A)政府が産業振興のために主催
① 反権力的な志向は皆無
② 非政治的側面が濃厚
③ 国益志向……………革命騒乱の後の諸階級和合を基調とする
(B)展示物は実用目的の商品に限定
④ ‘Exposition’の原義は絵画・彫刻の展示会
⑤ 芸術作品は既達成で堪能したから、次は実用工芸品の博覧会を!
⑥ 売却を目的としない Cf. 見本市(Fair)とは異なる
⑦ 商品はもともと見るものではないという常識の裏を掻く
⑧ 買わなくても、買う意志がなくても、見ることができるという気安さ
(C)アトラクションとスペクタルを伴う祝祭
⑨ 騎馬パレード、軍楽隊、気球、照明、花火、ダンス
(D)単一会場に全展示物を集中
⑩ 広い会場:商店の店先は狭小で客の動きは往復の直線
⑪ 博覧会会場は円周的、反復的な動きができる
⑫ 散策のための場所で時間的制約はない
(E)出品者の資格はフリーで、私企業も私人も参加可能
⑬ 当時、メディアはほとんどなく、新聞や看板は例外的な存在
⑭ 商品に対し恰好の宣伝機会を提供
(F)商品のコンクール
⑮ 金・銀・銅のメダルで商品にお墨つきを与える
⑯ 公平な審査で当代一の権威者を審査員に据える
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3 第 1 回ロンドン万博(1851 年)
パリ内国博覧会は全8回で終わり、万国博覧会に発展解消していく。出品者数と会期
はしだいに増え国内産業の振興にプラス効果はあったが、それが万博に発展していくの
は、イギリスでの最初の試みが大成功を収めたからだ。イギリスは内国博覧会を後進工
業国の定期市的な産業振興策とみていたが、その内国博を国際博への転換を提唱する。
ヴィクトリア女王の夫アルバート公がその中心的人物である。
先を急ぐ関係上、
細かい説明は割愛せざるをえない。
第 1 回万国博覧会の中身よりも、
ジョセフ・パクストンが作った「巨大温室」のほうで一躍有名になった。
「水晶宮 Crystal
Palace」
[注]の巨大で透明な空間は産業革命による鉄とガラスの大量生産(温室)とい
う条件と大航海時代以来の博物学の思想が合体して登場したのである。
[注]この綽名は万博主催者の命名によるものではない。風刺画新聞『パンチ』の命名である。挿絵画家
は単なる温室とも、駅舎や工場とも異なる「何か」を感じたはずである。
「水晶」という名称の中に毀
誉褒貶の両方の意味が込められている。この「水晶宮」は中から外を見るよりも、遠望してこそ輝き
を増すものである。ガラス張りのショーウインドウが中の物を高貴に見せるのと同じ効果だ。
これまでの建築物を規定していた光と影および明と暗のコントラストは消失し、陰翳
のない、燦然と輝く光の世界、この光の空間ではあまりに均質な空間が延々とつづき、
遠近感覚や内外の区別が麻痺してしまう。このような影を失った均質の空間に世界各地
から切り取られてきた風景や産物が並べられていくのだ。鉄骨とガラスは自然を征服す
る。換言すれば、ガラス張りの大温室とその中に栽培された多種類の熱帯植物はヨーロ
ッパによる世界支配の証にほかならなかった。
「水晶宮」は本質的に世界を植民地化して
いく眼差しの象徴となった。
ロンドン万博会場は東西に分けられ、東が諸外国、西が大英帝国の産品の展示にあて
られた。これらは原材料、機械、工業製品、彫刻・造形美術の4部門に分類され、整然
と並べられていた。
「整然」とは言いすぎで、十分な分類(大分類、中分類、小分類)を
せず、あまりに多種多様な物をすべて集めてしまったため、
「雑然」と言ったほうが正確
かもしれない。その点ではフランスのほうが観覧者の視線や嗜好を考量し洗練されてい
た。その中心は都市のディオラマ(立体模型)
、イギリスが最も得意とする機関車など産
業機械の分野である。そこに張りつめる空気は「文明崇拝」と「機械崇拝」である。18
世紀以来、博物学が示してきたような体系だった分類の空間とは異質であった。
文明の利器の饗宴は観覧者を飽きさせ疲れさせる。それは主催国の国家元首女王に語
らせるのが最もよいだろう。
「ヴィクトリア女王の日記」にはこう書かれている。
「私たちは機械のセクションに移り、そこに 2 時間留まった。それは非常に興味深く、かつ教えられ
るところが多かった。…[略]… 一つひとつ、とてつもない大きな機械があった。それはS・ラッセ
ルの発明したこの博覧会最大の機械で、砂糖黍を圧し潰してその汁を搾り取るためのものだった。…
[略]…次に作動していない機械のセクションに移動。それは主としてありとあらゆる種類と型の蒸
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気機関車と客車が集められているところだ。客車をひとつのレールから別のレールに転轍する新しい
方法が展示されている。私たちは真夜中の 12 時 5 分に家に戻った。私はへとへとに疲れきり、精神的
に消耗していた。
」
4 万博都市パリ
1851 年のロンドン万博の成功はすぐさま世界各地に余波を及ぼす。直接の影響は 2 年
後のダブリンとニューヨークだが、それはほとんどロンドンの模倣といってよいものだ
った。厳密な意味での後継者は 1855 年のパリである。すでに 1851 年クーデタで権力を
奪取し、翌年には帝政を再開し皇帝にまで成りあがったナポレオン三世はブルジョア的
欲望を商品のスペクタクルの中に回収するにとどまらず、パリという都市全体を帝政の
荘厳化の舞台装置として変容させる仕掛けとしてパリ万博を開催するのである。
ナポレオン三世が急きょ思いたった第1回パリ万博(1855 年)は成功か失敗か判定つ
けがたい中途半端なものに終わったが、1867 年は大成功を収める。これ以後、パリは 78
年、89 年、1900 年、1925 年(国際装飾博)
、1931 年(植民地博)
、1937 年と、第一次世
界大戦期を除きほぼ 10 年毎に大規模な国際博覧会を開いていく。つまり、19 世紀のパ
リは「万博都市」といっても過言ではない入れ込みようだった。
この間にエッフェル塔をはじめ、シャイヨー宮、グラン・パレ、プチ・パレ、アレク
サンドル三世橋、オルセー美術館、パリ近代美術館、と現在知られるパリ名所の元はと
いうと、パリ万博施設として建設されたものである。
5 第2回パリ万博(1867 年)
(1)準備
① 第 1 回の反省から準備期間を開幕まで4年間というふうに長めにとる
② 会場を広大な広場シャン=ド=マルスに新規開設
③ 予算増額 2,000 万フラン(約 200 億円) 国:600 万
市:600 万
起債:800 万
④ 議長にシュヴァリエ、実行委員長にル・プレー(実務重視)
⑤ 展示分類を会場の間取りに反映させる
・同心円状のゾーン……国別に同系列の製品を配置
・放射状のゾーン………同一国の種々の製品を配置
⑥ 会場は 14 万 6 千平方メートル
(2)合理的な7分類
〔本会場=楕円形の同心円構造〕
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* 宇宙観(太陽系、銀河系のイメージ)
* 合理性(観察順の機能性を十分に考慮)
「こうした建物は往々にして長方形である場合が多いが、パレは楕円形であるおかげで角も袋小路も
ないという、大きな利点をもっている。その結果、見物客は来た道を引き返さずにすむ。この例外的
な便利さに加え、庭園と中央会場の利点もあるので、最も人出の多い日でも人の流れはけっして滞る
ことがない」
(ル・プレー)
* パレ Palais はパリの縮小版:工業都市を外側に、住と衣を内側に、外周に公園を
配置する、パリから放射線状に出る鉄道網
①
②
③
④
⑤
⑥
⑦
芸術作品……………………………………審美観
文化・教養に関する素材と応用…………精神界
家具および住居に関する製品……………物質界
衣服(布地を含む)と身に纏う製品……オシャレ
採掘産業の一次産品および加工製品……物象性の原点
機械類および製造業の方法………………広い面積と動力の関係
生鮮および加工食料品……………………お国自慢の「食」で客寄せ
〔別会場〕
① 農業・牧畜(セーヌ川の中之島ビヤンクール島)
② 温室栽培、園芸・果樹栽培(シャン=ド=マルスの四隅の庭園会場)
③ 民衆の肉体的・精神的生活条件を改善するための製品(同上)
(3)開幕の演出
1867 年 4 月 1 日午後 2 時きっかりにナポレオン三世皇帝夫妻がイエーナ橋から姿を
現わし、機械ギャラリーの見学台に乗ると、パイプオルガンが国歌を奏で、それが合
図となって巨大な機械群が一斉に動きはじめるという演出。セレモニーは一切なし
〔高人気レストラン〕
*ロシア風カフェ・コンセール
*トルコとチュニジアのコーヒー
*中国の緑茶サーヴィス
*ドイツ式ビアホール
*フランスワインの人気定着、ワインの日持ち問題を解決したのがパストゥール:55
度でバクテリアを殺菌。この方法が展示され、グラン・プリを獲得 ⇒ フランスワ
インはアジアやアメリカに輸出
(4)人気を博した会場あれこれ
〔交通・運搬機関〕
85
①
②
③
④
水圧利用の蒸気エレベーター
新型機関車と蒸気ブレーキ
鉄道展示 イギリス、プロイセン、ベルギー
客車を引く蒸気二輪自動車!!
〔軍艦と大砲〕
① スクリュー駆動式蒸気船(海軍省の展示)
② セーヌ川にフリゲート艦が停泊
③ 大砲の実射:英・普・仏
〔機械ギャラリー:鉱工業、建設、印刷、食品〕
① 鉱業機械
② 工作機械
③ 製紙(パルプ)
④ 農業機械
⑤ 建設機械 スエズ運河、上下水道
⑥ 繊維機械
⑦ 食品加工機械 砂糖精製、チョコレート製造機、蒸留器
⑧ 印刷機……マリノーニ輪転機
〔衣料品〕
① 新型ミシン 高品質・低廉価格 ⇒ 既製品革命へ
② 染色技術
③ フランス・ブランドの成立:衣類、靴、靴下、ショール、ネクタイ、金モー
ル、手袋、扇子、宝石箱、傘、日傘、帽子、鬘、宝飾品、バッグ(ルイ・ヴ
ィトン)
、トランク、人形(フランス人形)
、おもちゃ、ピストル、剣
〔照明と暖房〕
① 街路灯革命(ガス)……鋳鉄術革新と相俟って街路灯は鉄製に
② ガス暖房(全館暖房)
、ガス湯沸かし器、ガスコンロの登場。
〔フランス・ブランドの成立〕
銀食器のクリストフル、電解メッキの銀器、ホーロー引き食器、
クリスタルガラスの「バカラ」
、香水(従前の No,1 は英国)
〔文化・教養ギャラリー〕
出版書籍、印刷、文房具、画材、装丁、複製技術、写真材料、楽器、医療器具、
教育機器、地図
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〔民衆用製品〕
しかし、不人気に終わった。理由は業者が消極的だったのと、一般のコーナー
があまりに人気を呼び、このコーナーの地味な展示にだれも興味を懐かなかった。
〔民衆教育コーナー〕
これも閑古鳥! 展示の仕方が悪く、啓発のための実演がなされなかった。
〔美術ギャラリー〕
絵画、彫刻、建築、版画……フランスの特異な分野であり、呼びものになって
もおかしくなかったが、結果は無残! 時代の変わりめのせいか?
(5)メイン会場の外側の広大な庭園
主客転倒ほどの高人気となり、万博閉幕後も残してほしいとの声しきりであった。
要するに、現代のアミューズメント・パークそのもの。
池、川、築山、キオスク、劇場、カフェ・コンセール、パノラマ、ディオラマ、レストラン、パン
屋、写真館、商店、即売会場、両替所、郵便局、温室、水族館、植物園、住宅展示、科学の発明館
〔科学の新発明館〕
ガラス、クリーニング、無煙炉、電気冶金、写真、製氷機、名詞印刷、赤十字の医
療器具(佐野常民)
、救急車、電光灯台(40km)
〔エキゾティズム〕
参加国の多さ……米国は南北戦争の後遺症で参加せず、ヨーロッパ諸国、トルコ、
エジプト、ペルシャ、チュニジア、モロッコ、メキシコ、ブラジル、ハワイ、オー
ストリア、中国、シャム、日本
、、
〔人種博覧会〕
① 見世物としての日本娘 (柳橋芸者 おさと、おすみ、おかね)
② チュニジア館の隣に「日本の農家」
「髪は桃割れ、友禅縮緬の振袖に丸帯を締め、長いキセルで煙草盆の火をつけて煙草を吸ったり手
まりをついたり、客が望めばリキュールそっくりの味醂酒のお酌をしたり、茶を供したりした。
」
作家プロスペル・メリメの記述:「日本の女たち[注]を見て大いに気に入りました。彼女た
ちはカフェ・オ・レのような皮膚をし、それが甚だ快適な色合いでした。
」
[注]日本は幕末維新期にあたり、薩長の討幕気運が高まるなか、薩長を支援するイギリスに対抗
しフランスは幕府に肩入れして武器援助をおこなっていたため、幕府としてもナポレオン三世に
敬意を表し、将軍の名代として昭武を派遣し、パヴィリオンを設けざるをえなかった。この万博
が終わった直後に大政奉還が起こるのである。
③ 中国舘では巨人と小人を展示……万博で話題を呼んだことは確実である!
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(6)もうひとつの万博
① 皇帝たちの万博……英、普、露、墺、希、白、西、圃、土、典、埃、蘭、日の
国王または名代が参加
② 変人王 バイエルンのルドヴィッヒ二世……偽名を使って何度も来訪し、水族
館とイスラム建築に熱中、ピエールフォン城が気に入り、ノイシュヴァーンシ
ュタイン城(Neuischwanstein)を建設(1886 年完工)
。
③ 観光都市パリの誕生……オスマン都市改造が大人気
Grand Hôtel, Hôtel Meuris, Louvre Hôtel, Bristre Hotel
④ 労働者住宅……万博の主賓は労働者……労働者向け住宅展示
低価格レストラン、プレハブ住宅、兵舎活用
医療……80 人の医師と 80 軒の薬局
鉄道運賃……半額
(7)万博決算
11 月 2 日に閉幕し会期は 217 日間
① 入場者 680~1100 万(無料入場者を含む)
② 支出:2298 万フラン
収入:2611 万フラン……300 万フラン超の黒字!
〔理念の変質〕
祝祭的要素が前面に出て、当初の教育的目的が後景に退く。
Victor Fournel の感想:
「シャン・ド・マルスの庭園に設けられた数々の娯楽施設はおそらく大部分の観客にとって躓きの石
となるであろう。すなわち、観客は入場するやいなや、これらの施設は彼らを誘惑の輪で取り囲むの
で、よほどストイックな人間でないかぎり、そこを逃げ去る力をもちえない。…庭園は大博覧会の補
足でいるつもりでいながら、その相貌を変えてしまい、教育よりも玩具になる危険をはらんでいる。
…たしかに、博覧会を真に補うような有益でまじめなものも数多いが、会場を支配しているのはバザ
ールと定期市の祭が二つ合わさったような雰囲気である。…それは庭園を生み出したコンセプトの完
全な否定である。博覧会を補う代わりに、それは博覧会を窒息させてしまう。前書きないしは後書き
でしかないものが、作品それ自体を闇に葬り去り、作品にとって代わってきているのである。
」
6 エッフェル塔
ひとたび万博の会場で非日常的な祝祭的気分を味わったパリ市民は主催者のうきうき
した気晴らしの楽しさだけを記憶する。そして、第三共和政の支配者たちはこの記憶を
巧みに使って、国民のあいだで深刻な対立が生まれるたびに、パリ万博の開催で危機を
乗り切ることになる。
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1867 年のパリ万博の 11 年後の 1878 年、次いでそのまた 11 年後の 1889 年に万博を
催していく。78 年も 89 年に共通するのは 67 年の万博の基本理念を継承する点では同
じだが、植民地展示にウェイトがかかったことと、安定期に入ったフランス共和政の宣
揚というプロパガンダ性が強まったことである。政府主導であるのは同じだが、78 年に
過去最高の入場者を出したものの巨額の赤字を出したため、それ以降は博覧会協会のよ
うな主催団体を設立し、民間企業や個人から宝くじ方式で寄付を募るようになった。
会場はシャン・ド・マルス、トロカデロ広場、セーヌ河岸、シャンゼリゼ南端、アン
ヴァリード広場へと広まる傾向を見せた。1889 年と 1900 年が規模の点で圧巻だった。
1889 年の場合、シャン・ド・マルスには産業と美術の展示を中心とする 115 メートル
もの巨大な機械館が建てられ、その横に聳え立つエッフェル塔の下には多数の外国パヴ
ィリオン集められ、トロカデロ広場では園芸部門、オルセー河岸には農業部門の展示館
が建てられた。アンヴァリードにはフランス植民地や自治領のパヴィリオンが一堂に集
められた。
これら多数の会場施設の中で、この万博の最大のモニュメントとなったのはいうまで
もなくエッフェル塔である。すでに 67 年パリ万博の時からこれに関与し、78 年に主会
場の玄関ホールやパリ市展示館などを担当していたエッフェルだが、89 年のパリ万博で
は高さ 300mの巨大鉄塔の建設により、万博のスター的存在に昇りつめていく。
このサクセスストーリーはあまりに多くの零れ話が詰まっていて、紐解けば切りがな
い。たとえば、デュマやモーパサンなど知識人は建設反対の陳情書をパリ市に提出した
ことは有名である。曰く。
「エッフェル塔は商業主義優先のアメリカでさえ欲しなかった
ものであり、疑いようもなくパリの恥である」
、と。それでも完成後のエッフェル塔は各
世界に賛否両論の応酬の渦を描きながらも、大衆的なレベルでは大人気を博し、やがて
はパリのシンボルともなっていく。この経緯については話が長くなるので別の機会に改
めて取りあげることにしたい。
エッフェル塔をたちあげることについてエッフェル自身は当初は興味をもたなかった
といわれる。
「300mもの高い鉄の塔が立つものか!」
「倒れたらどうする?」
「芸術都市
パリには不似合いの長物!」という酷評があまりに続くものだから、反発したエッフェ
ルが敢然と挑んだという説もある。
いずれにせよ、彼が自ら志願して建築コンクールに応募したわけではないことは確か
である。むしろ、パリに 300mの鉄塔の建立を熱心に求めたのは世論のほうである。そ
の前史は長い。フランス人は高所からの景観遠望を望む気質をもつ。それは 18 世紀前
半のテュルゴー図に示されるような鳥瞰図願望である。
「パリの外科手術」とまで呼ばれたオスマンの都市改造は 1853 年から 1870 年まで続
き、万博がしばしば開催されたのは刷新されたパリを国内はもとより世界の人々に誇示
するためだった、と私は言った。パリと世界のその他の万博を較べるとき、際立った対
照がある。それは会場鳥瞰図がパリにおいて傑出して多いことである。単に入場者に会
場案内を周知徹底させるためのものではなく、鳥瞰図には必ずといっていいほど都市遠
景が描かれている。
19 世紀全体を通じて建築家は 300mを超える塔を建てる夢を描き、実際にさまざまな
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プランを提出した。イギリスでもアメリカでも高い塔を建てる構想があったにもかかわ
らず、ほかならぬパリにおいてのみエッフェル塔として実現された点に着目しなければ
ならない。他の都市の万博よりも華々しく、他のどの都市よりも美しく改造されたパリ
を一望のもとに視野におさめたいという願望が、一方で鳥瞰図をつくり、他方でエッフ
ェル塔を建てる原動力になったといってよいだろう。
工業化が抜きんでて激しかったロンドンで鳥瞰図をつくれば工場の煙突ばかり――
「都市のおでき」と揶揄された――ということになって景観を愛でるどころではなかっ
た。煙突・煤煙・スラム・浮浪者で満ち溢れた住みにくい街では外国人に見せたくはな
かったのであろう。ロンドンは住む処ではなく昼間において働く場所であり、有産階級
はみな住処として郊外を選んで出ていく。年がら年中、街中に残るのはほとんどすべて
労働者であった。
一方のパリは芝居小屋や美術館など都市アメニティが整い、街路や大・中・小の公園
が人々の集合場所となっていた。万博を梃として都市改造を見事にやり遂げたパリは住
民の誇りでもあった。それは特に都心部スラムを一掃して都市の美観を取り戻したブル
ジョア層においてそうであった[注1]。ゆえに、彼らが都市美観をこの眼で確かめたく
思ったのは自然の成り行きである。それが 300m上空からパリを眼下にしてみたいとい
う願望に連なっていく[注 2]。
[注 1]ところが、万博はともかく、都市改造は彼らに苛酷な負債を積み残した。すなわち、彼らは都心
部再開発のために居住と職の場を失い、無味乾燥で都市アメニティとはほとんど無縁で、文化的な装
いの皆無の郊外にまき散らされた。つまり、都市再開発は階層間の対立を育んだことである。一方、
田舎から万博見物に出てきた村びとたちは刷新されたパリを見て、
「なぜパリばかりが…」
「パリ栄え
て農村枯れる」という羨望の眼で眺めたのはまちがいない。当時の村びとたちがパリを妬み嫌った理
由のひとつはそこにある。外国人を含む遠来客の称賛の対象が同胞人にとっては嫉視の対象と映るの
である。
[注 2]じっさい、塔の頂上部から下界を望めば 150 キロメートルにわたり、パリとその周辺部がパノラ
マのようにひろがる。この超然とした高さゆえにエッフェル塔は無線電信やラジオ中継局としての機
能をもつ。それゆえに、何度か巻き起こった解体の運命をそのつど逃れることができたのだ。
だが、パリジアン一致しての願望ではない。パリの民衆階層はエッフェル塔とサクレ
=クールを殊のほか嫌う。鉄の塔は近代的であるかもしれないが、歴史の都に似つかわ
しくない。この慨嘆は民衆よりも知識人たちに固有のものである。一方、オリエント風
建築物のサクレ=クールはパリの伝統的景観にマッチしないだけでなく、
「騒動の町パリ
は信仰心がないから騒ぐ」
、という政府の極めつけで信仰心を市民に植えつけるために造
られた教会堂である。カトリックは長く既存体制と結びついて民衆を支配しており、首
都の民衆のあいだではすでに支持基盤を失っていただけに、サクレ=クールは憎らしい
長物と映った。
これら2つの記念碑が今ではパリの象徴となっているのだから、人の意志とは無関係
に作用を及ぼす時の風化作用いうものはまさに偉大であるとともに皮肉でもある。
(c)Michiaki Matsui 2015
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