特 集 ﹁ シ マ シ マ の 向 こ う に 見 え る も の ﹂

名古屋大学理学部・大学院理学研究科広報誌
October 2004
No.7
●
理
学
部
交
差
点
︱
︱
︱
︱
︱
︱
18
●
名
誉
教
授
に
聞
く
◇
大
沢
文
夫
︱
︱
︱
︱
︱
︱
14
●
講
義
探
検
◇
量
子
化
学
Ⅰ
/
地
球
惑
星
数
学
お
よ
び
演
習
︱
︱
︱
︱
12
●
理
の
先
端
を
い
く
◇
金
銅
誠
之
/
上
出
洋
介
︱
︱
︱
︱
︱
︱
8
●
理
の
エ
ッ
セ
イ
◇
篠
原
久
典
︱
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︱
︱
︱
︱
3
●
時
を
語
る
も
の
◇
庄
司
俊
明
︱
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︱
︱
︱
︱
2
理
学
懇
話
会
よ
り
◇
近
藤
特
集
﹁
シ
マ
シ
マ
の
滋
向
︱
︱ こ
︱
︱ う
︱ に
︱
4 見
え
る
も
の
﹂
名誉教授に聞く
坂野 まずは大沢先生が生物物理を立ち
上げられた当時のお話をお聞かせください。
大沢
僕が生物そのものをやりはじめた
のは1954年ですから、
ちょうど50年前ですね。
1944年に僕は物理学教室に助手として
名大にきました。そのときの先生は地学の
宮部直己*1先生でした。まだ地球科学科
ができる前で、地球物理は理学部の一講
座でした。宮部先生は寺田寅彦*2のお弟
子さんだった方で、
ああしろこうしろといわ
ずに勝手にやらせてくれた。その一方で、
理学部はもちろん医学部の先生や企業
の方などたくさんの人に引きあわせてくれた。
後に他の分野の方とお話をするのがおも
しろくなったのはこのときの経験があった
からですね。
坂野 最初に取り組んだ研究は。
大沢
当初は泥の対流について、つまり
分野としてはコロイド学になります。その後、
高分子、
とくに高分子電解質*3の研究を
始めました。1950年に、
カチャルスキーとクー
ンという高分子の大家が電気をもっている
高分子で筋肉のモデルをつくりました。弱
酸でつくっているから、
アルカリを入れると
伸び、塩酸を入れると縮む。これが世界
最初の人口筋肉です。この筋肉モデルの
伸び縮みを見ながら、
本物の筋肉はどうなっ
ているのか興味がわいてきた。これが生
1961年、名古屋大学理学部に1つの施設が産声を上げた。
物に近づいていったきっかけです。本物の
筋肉の研究がしたくて、研究室のみんな
「分子生物学研究施設」。
と約2年間、
生物の勉強をしました。そして、
この分野の研究施設としては日本で初めて創設されたものだった。
1954年の春、いよいよ生物そのものの研
のちの分子生物学科の前身となったこの研究施設創設の裏側には、
究に取り組むことになりました。
新たな学問を切り開こうとする研究者たちの姿があった。
坂野 どんな方がおられたのでしょうか。
大沢
僕と大井龍夫*4さんと今井宣久*5
その中心にいた大沢文夫名誉教授に当時を振り返っていただいた。
さんと朝倉昌*6さん。ここで大事なことは、
<インタビュアー> 坂野聡美
1946年に物理学教室が講座制度から研
生命理学専攻博士後期課程1年
究室制度*7になったことです。その恩恵を、
だれよりも受けたのが僕でした。50年に転
出した宮部先生のあとを上田良二*8先生
らからまかされた僕は、
その12月に助教授
になりました。28歳のときです。これで1つ
の研究室として独立し、人事のことも他の
14
理 philosophia
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研究室と対等にいえるわけです。
ました。
また純粋の水に戻すとばらばらに
坂野
壊れることもわかっていました。その重合状
すでに生物物理という言葉はあっ
宮部直己(1901-1969)
*1
元名古屋大学理学部教授。
*2 寺田寅彦(1878-1935)
たのでしょうか。
態をなにも考えず、
やみくもに絨毯爆撃的
大沢
にすべての環境条件で試して、
その溶液は
地球物理学者。科学全般に興味をもち、独自のスタイ
ルの現象論は「寺田物理学」と称せられた。科学随
筆家として数々の名文を残す。
どういう性質を示すかを調べていきました。
*3
なにしろ対象物のことしか考えて
いませんでした。物理学会に生体物理分
科会ができたのはもう少しあとのことです。
高分子電解質
製した段階で、変性物が混じっているのだ
一般に分子量が10000以上で、
その主鎖が主として
共有結合でできているような化合物を、高分子化合
物という。電解質とは、溶液中でイオンに解離し、
この
ために電気伝導性をもつ物質。
と思っていたのですが、学会で発表して
*4
実は僕らは、筋肉からアクチンを抽出精
*12
坂野 当時、研究室の雰囲気は。
いると、
ある先生が「あ、
そこにモノマー も
大沢
材料は絶対に自分たちでとると決
いるんですね」
といったんです。それで「あ
めていました。高分子の時代に、材料は自
あ、
そうか」
と気がつきました。早速山ほどあっ
大井龍夫(1924-)
元名古屋大学理学部助教授。
今井宣久(1926-)
*5
名古屋大学名誉教授。
朝倉昌(1927-)
*6
分でつくらなければだめだということを骨
たデータを、全部並び替えてみました。そこ
名古屋大学名誉教授。
身に染みてわかっていましたから。もらっ
でポリマー*13ができるための臨界濃度があ
*7
た高分子はデータが狂います。ましてやタ
ることを発見しました。気体と液体が平衡
ンパク質だから、絶対自分でやらなければ
にあるのと同じようにモノマーとポリマーが
いけない。これが旗印です。
共存するのです。この時点で研究を始め
研究室制度
54年の夏休みに、朝倉昌さんが代表し
てから2年と数カ月がたっていました。次の
講座が、
教授、
助教授、
講師、
助手等上下の身分によっ
て固定された集団であるのに対し、研究室は、同じ目
標を有する研究者たちの自由なる研究組織である。
講座とは異なりきわめて流動性をもった集団である
(坂
田昌一著「科学者と社会」
(論集2)岩波書店、1972
年より)。1946年6月13日に制定された名古屋大学物
理学教室憲章とともに発足し、物理学教室の研究者
組織の基本とされる。
て札幌医大へウサギの殺し方を習いに行
2年間は、
それを証明する実験を続け、最
*8
きました。名古屋大学物理学教室ではウ
初の論文が完成するまでに5年かかりました。
元名古屋大学理学部・工学部教授(本誌第6号P.1
参照)。
サギが現れたと評判になりました。有名に
坂野 その間プレッシャーは感じられませ
*9
なってよかったんですが、
教室としてはびっ
*9
んでしたか。
上田良二(1911-1997)
坂田昌一(1911-1970)
元名古屋大学理学部教授(本誌第2号P.1参照)。
*10 アクチン
くり仰天です。坂田昌一 先生なんかとく
大沢 まったく感じませんでした。僕もあと
に苦手でしたね。ウサギはみんなで殺す
の人も、
そのアクチンの仕事とは別に2、3
んです。耳に注射し、朝倉さんがエーテル
年に1本くらいは論文を書いていたんです。
をかがせて喉を切って、死んだころに今井
だから4人とも、
はけ口はあったわけです。
細い線状の物質。
さんが皮をむいたら大井さんが肉を取る、
それは精神的にはよかった。今から思うと
*12 モノマー
と役目が決まっていました。皮をはぐと湯
不思議なくらい先のことを心配するような
単量体。重合の単位、
あるいはそれが重合せずに存
在している状態をさす。
気がでて、廊下にでていくんです。それが
雰囲気はありませんでした。
*13
朝10時ころで、
ちょうど坂田先生の出勤の
坂野
時間。すると坂田先生は走って逃げてい
かったのでしょうか。
くの。それがまた面白くて
(笑)。
大沢
筋肉を構成する主要なタンパク質。他の主要なタンパ
ク質にミオシンがあり、筋肉の収縮はアクチンとミオシン
の相互作用でおこる。
*11 フィラメント
ポリマー
重合体。モノマーが重合している状態の化合物。
他の物理の先生からの影響も大き
坂田さんの階層論は好きでした。
僕は筋肉を説明するときに階層の図を描
いていたんです。
まず原子から分子になっ
坂野 設備はそろっていたのでしょうか。
てタンパク質分子になって、
集合して集合体
大沢 電気冷蔵庫もない。低温室もない。
の集合になって、
ここで収縮機能が現れます。
遠心器もない。外国ではこの話がいちば
構造と機能の発生学です。坂田さんには
ん受けます。シュトラウプというハンガリー
分子生物の大学院をつくってもらったり、
い
*10
の学者が、
その3つがなくてもアクチン と
ろいろとお世話になりましたが、
いちばんの
いうタンパク質を生成する方法を発明して
恩恵は、
階層論が僕に染み込んだことです。
いました。アクチンは繊維をつくるので高
分子研究の経験が応用できました。
坂野 アクチンを使ってどういう研究をし
坂野 研究費や実験室などでご苦労があっ
ようと考えておられたのでしょうか。
たのではと思いますが。
大沢 アクチン分子は重合してつながって
大沢
*11
フィラメント になるということはわかってい
研究室が狭くて困るということはあ
りませんでした。測定装置は手づくりのも
研究装置の多くは手づくりであった。
写真は流動複屈折測定装置。
理philosophia
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15
大沢
ほとんどわかってもらえないです。
でも人をみるんですね。1960年、38歳のと
きだけど、むしろそのころは若いということ
の方を評価してくれたのではないかな。
1960年は生物物理学会ができた年でもあ
ります。発会式があったのが1960年12月
10日。これは僕の誕生日。内緒で合わせ
てあるんです(笑)。
坂野 そのころ、他の大学でもそういう研
究は始まっていたのでしょうか。
大沢
小谷正雄*17先生が東大で生物物
理を始めるといって大学院生を募集した
のが1960年です。
坂野 学生は集まったのでしょうか。
大沢
何しろ物理教室で生物そのものを
扱うので、始めのうちは上田先生あたりが
すすめてくれないと学生が来てくれませ
んでした。分子生物学研究施設ができた
61年ごろからは日本中に知られるようになっ
て学生が積極的に入るようになりました。
そのときに入ってきたのが郷通子*18さんた
大沢文夫(おおさわ・ふみお)
名古屋大学名誉教授。1922年生まれ。1944年東京大学
理学部物理学科卒業。同年名古屋大学理学部助手。
1959年名古屋大学理学部教授。1973年から大阪大学
基礎工学部教授を併任。1986年に両大学を定年退官。
現在、愛知工業大学客員教授。
のでした。必要ならば、低温室は生物教
*14
室の山田常雄
先生、遠心機は化学の
*15
ちです。物理と分子生物とにまたがって大
きなグループになりました。
郷先生や宝谷紘一*19先生や藤目
江上不二夫 先生に借りました。
坂野
坂野 そうした交流もあって分子生物学
杉江*20先生には私も直接教えていただい
研究施設*16につながるわけですね。
ています。すごい方たちがいらっしゃった
大沢
んですね。
59年に最初の論文が出たころに、
研究施設をつくろうという話がおこりました。
大沢
生物の山田さんと化学の江上さんと3人
違うね。郷さん、宝谷さん、藤目さん、みん
で共同で研究施設の案をつくりました。
な目つきがすごい。
もう、気迫が伝わってく
坂野 その当時、分子生物学といって文
るの。気力が違うんだね。
写真をみるとわかるけど、
目つきが
部省にわかってもらえたのでしょうか。
坂野
分子生物学研究施設は、
なぜ生物
物理学ではなく分子生物学としたのですか。
大沢
分子生物という名前は江上さんの
発案でした。生物物理は1960年に学会が
できたりして、いわば言葉として定着して
いました。
しかし僕は同じ言葉を全部に使
うのはまずいと思っていました。生物物理
学会があり、生物物理学科があり、生物物
理研究所があり、
と皆同じはまずいと。
坂野 それは、境界領域でなくなって、固
定領域になってしまうからですか。
分子生物学研究施設創立当初の第3部門と物理K研のメンバー。前列中央が大沢名誉教授。
16
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大沢 そうです。同じことをやっていても
別の言葉を使っているほうが安全だと考
で記述できるようにした。それは初めてだっ
*14
山田常雄(1909-1997)
元名古屋大学理学部教授。
えた。ですから生物物理研究施設ではな
たんです。まだ物理になっていない生物
く分子生物学研究施設のほうがいいと思
の問題を、
トータルでやっているうちに物
元名古屋大学理学部教授。
いました。だいたい、生物物理って言葉が
理の部分が浮かんでくることを考えた。
*16
がっちりしているでしょう。物理っていうと
坂野
かたそうに聞こえていやだなあと思って。
も構造が解かれたというものが多い。構造
むしろ分子生物という言葉を使いたかった。
を解いたら終わりという風潮があるような
もう1つの理由は分子レベルの生物学
を物理学にしたいという思いがあったから
今、論文の速報などで読んでいて
きて独特なものになるはずである、
という
造と機能だけではなくて、本当は状態論を
やりたい。
もともと物理は状態論が得意な
澤省三 さん、
化学からの竹村彰祐 さん、
はずなんです。
数年後に加わった岡崎令治*23さんは、最
坂野
先生が生物物理という学問を開
かれて50年になります。これから生物物
理はどうした方向に向かうべきでしょうか。
大沢
坂野
研究するに当たってどんなことを
郷通子(1939-)
名古屋大学名誉教授(本誌第1号P.5参照)。
*19
宝谷紘一(1940-)
名古屋大学名誉教授(本誌第3号P.3参照)。
*20
藤目杉江(1938-)
元名古屋大学理学部助教授。
*21
大澤省三(1928-)
名古屋大学名誉教授。
*22
竹村彰祐(1924-)
名古屋大学名誉教授。
*23
岡崎令治(1930-1975)
元名古屋大学理学部教授(本誌第3号P.1参照)。
僕は昔々、
ウサギを殺してやみくも
にやってきました。分子レベルからスタート
考えておられましたか。
して上がっていくという方向だけ決めて、
大沢
生物か物理か化学かということは
行く末は運動機構、
メカニズムに行きたい
問わず、
やみくもに実験しようとした。階層
と思っていました。これからはさらに本質
は分子と決めました。分子から生命現象へ、
的なものがあらわれてくる可能性がある。
下から上がっていくと方向は決めました。
生物の自発性の源に興味をもっています。
物理的問題をピックアップしてやろうと考
すると新しい物理がつくられるかもしれない。
えるのではなく、最初は全部抱え込んでや
新しい物理をつくらなければいけないとい
りました。そして5年かかったら、物理学者
うほうが望ましい。おそらくそうした研究が
らしい結果になったわけやね。統計力学
なされてくるのではないでしょうか。
イ
ン
タ
ビ
ュ
ー
を
終
え
て
小谷正雄(1906-1993)
*18
構造を解いたらわかった、
というこ
型的な例です。ただ僕の気分としては構
初から分子生物そのものです。
*17
大沢
から、
自然に物理学的なアイデアが入って
*22
分子生物学研究施設
1961年に創設され、
1987年には分子生物学科に発展。
1996年に生物学科と統合され現在の生命理学科に
改組。
気がして、違和感を感じるのですが。
ともあります。DNAの2重螺旋なんか、典
*21
江上不二夫(1910-1982)
元大阪大学基礎工学部教授。理論物理学者。のち
に生物物理に転じ、学会創設を主導し、
さらに大阪大
学に生物工学科を創設した。
でした。僕のバックグラウンドは物理です
期待がありました。ですが生物からきた大
*15
『講座:生物物理』
大沢文夫著
(丸善1998年刊)
以前、大沢先生の著書やそれに関連した本をいくつか読んだことがありましたが、先生の研究に対する思い
や情熱に感銘を受けたことを覚えています。今回、
分子生物学科の創立、
また生物物理学の提唱をされた大沢
先生との対談ということで、
日ごろから勉強不足な私は「何を聞いたらいいのだろう」と、大パニックでした。です
が、
やはり直接お話をうかがうというのは、
緊張感だけでなく、
本からの知識と比べて感動の度合いが違いました。
実験設備もお金も何もないところから分子生物学科をはじめられたということで、
どれだけ大変だったか想像
もつきません。
しかし先生のお話からは、苦労してつらかったという印象は感じられませんでした。逆境だからこ
そ、
やりたいことをやるという信念を貫き通すことができたのでしょうし、
またそれが、思い出話として聞く者を楽し
ませるのでしょう。当時の学生さんたちの気迫も今と比べてまったく違うというお話がありましたが、今のような恵
まれた環境で研究をさせてもらえる私はきっと生ぬるい目をしているんだろうな、
と痛感せざるをえませんでした。
私自身、3年とちょっとのあいだ生物物理の分野に属しながらも、
「生物物理とは何か」という問いかけには答
えられないままでした。
しかし今回の対談で「いきものを物理学の見地から解明する学問」=これが生物物理
学の本質であるというお話から、私なりの生物物理イメージを多少なりとももてたような気がします。先生の著書
にあった生物物理学の「積み木細工を超えた生き物のしくみ」という考え方にとても魅力を感じました。私には
物理学のバックグラウンドが全くありませんが、
この対談を機に、
自分の苦手な分野や知らない境地を開拓して
いけたら、
と思いました。
より
「生き物らしさ」を追求していくという生物物理学論や、始めたばかりの研究室でのエピソードなどを、
ある
ときは熱く、
あるときは遠い目をしながら語り、
また、
ときおりはにかむように微笑まれる先生がとても印象的でした。
理 philosophia
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