p82~p103

3.都 立 青 山 高 校 時 代
3.1 転 任 の経 緯
明 正 高 校 在 任 中 の昭 和 50 年 頃 のあるとき、若 林 校 長 との雑 談 中 に校 長 および
私 の転 任 のことが話 題 になったが、私 の年 令 が 50 才 になるところであったので、校
長 の意 見 では 50 才 となった後 の転 任 は不 可 能 であると言 われた。
ところが年 が明 けて昭 和 51 年 の新 年 の休 みに家 にいると、1 月 4 日 に全 国 高 等 学
校 校 長 協 会 の森 武 夫 会 長 (物 理 専 攻 )より電 話 があり、急 に転 任 の話 となった。青
山 高 校 に本 年 4 月 から異 動 してほしいということであった。少 し考 えさせてほしいと
思 って返 事 を少 し待 ってほしいと申 し上 げたが、直 ちに O.K.してほしいと言 われ考
える暇 もなく了 承 した。
森 先 生 の説 明 では私 は停 年 まであと 10 年 しかなく、それまで明 正 高 校 で苦 労 す
るよりも高 校 教 師 として最 後 の勤 務 には、少 しでも楽 な学 校 に移 る方 が良 いであろ
うとのご親 切 な配 慮 であった。了 承 したものの、これには唯 一 の条 件 があるのでそれ
を承 諾 してほしいとお願 いした。
それは転 任 する以 上 現 任 校 の校 長 の了 解 が 是 非 必 要 であり、青 山 高 校 の成 田
校 長 が明 正 高 校 に出 向 いて直 接
若 林 校 長 に面 会 して了 解 を得 て
ほしいということであった。
1 月 の 8 日 か 9 日 に学 校 が始 ま
ると、朝 8 時 前 から成 田 校 長 が明
正 に来 られ、事 務 所 も校 長 も何 事
が生 じたのかと大 変 驚 いたとのこと
であった。ここで私 の転 勤 が内 定 し、
異 動 カードはその日 に作 成 して教
東 京 都 立 青 山 高 校 校 舎 と中 庭 (その後
育 庁 に提 出 した。なお、私 の異 動
改築)
と同 時 に、かねての希 望 によって
若 林 校 長 も異 動 することになった。
3.2 授 業 の思 い出
群 制 度 になって以 来 、第 2 学 区 では 22 群 として戸 山 高 校 と組 んだ結 果 、偏 差 値
では学 区 最 高 であり、実 際 に授 業 をしてみると確 かに優 秀 な生 徒 が沢 山 いることが
わかった。1 例 をあげると、私 が極 めて重 要 なポイントであると考 えられる点 について
十 分 な 時 間 を 費 や して説 明 し た とこ ろ 、 生 徒 か ら 「 もう よ く解 っ てい るか ら ス ピー ドア
82
ップしてどんどん先 へ進 んでほしい」と言 われた。
今 までの 経 験 では、生 徒 は英 語 、数 学 およ び国 語 につ いてはその重 要 性 また は
必 要 性 から予 習 をしてくるものが普 通 であったが、理 科 、社 会 などを予 習 してくる者
はほとんどなかったが、青 山 では受 験 に物 理 が必 要 な生 徒 は予 習 して、授 業 進 度
より先 まで学 習 している生 徒 が珍 しくなかった。更 には大 学 初 年 級 で用 いる教 科 書
などにより、自 分 で学 習 している生 徒 もあった。その中 の 1 人 はその書 物 の中 のミス
まで発 見 する程 の力 があった。
3 年 生 で大 学 受 験 に物 理 を必 要 とするクラスの生 徒 などでは、しばしば大 学 レベ
ルの問 題 ( 専 門 課 程 に属 す) を質 問 に持 って来 る生 徒 も数 名 あった。
また、私 にとっては生 徒 の中 に特 に弟 子 という者 が 3 名 あり、極 めて熱 心 で私 と気
心 が合 う生 徒 で、校 内 の同 学 年 の担 任 なども半 ば公 認 していた。普 通 の生 徒 と弟
子 との違 いは、弟 子 が準 備 室 に現 れた折 にはコーヒーなどをご馳 走 したり、特 別 待
遇 をして種 々便 宜 を計 った。
また、クラスによっては私 と気 の合 う組 と気 の合 わぬ組 とがあり、特 に昭 和 53 年 度
2 年 6 組 (国 語 の島 田 耕 治 氏 担 任 ) のクラスは私 と相 性 が非 常 に良 く、授 業 が楽 しく面
白 く進 行 でき、学 年 内 では物 理 の成 績 は断 突 であり、2 年 が終 了 するときに全 員 で
寄 せ書 きをした色 紙 を贈 られ、現 在 でも大 切 に保 存 している。
なお、この クラスは節 分 の日 には 、教 室 前 側 の出 入 ロド アの上 部 に 柊 の葉 と鰯 の
頭 を飾 ってあり、季 節 感 も貴 ぶというエレガントな気 風 を持 った青 山 でも珍 しく印 象
昭 和 56 年 3 年 1 組 (中 央 佐 々木 貞 造 校 長 、その右 八 乙 女 )
83
に強 く残 るクラスであった。
(注 )私 は昭 和 56 年 度 3 年 1組 の担 任 をしたが、このクラスは当 学 年 の中 で、理 科 系 志 望 者 で
特 に優 秀 な生 徒 が最 も多 か った。学 習 、 生 活 指 導 面 で負 担 の少 ないクラスで、進 学 成 績 もこの
学 年 で最 高 であった。しか し自 分 のクラ スにはいわ ゆる弟 子 が 1 人 もいなかったのが残 念 であっ
た。
3.3 クラブの思 い出
1)生 徒 会 のクラブ
青 山 に物 理 クラブはなかったが、無 線 クラブがあったので私 が 1 人 で担 当 した。ク
ラブ員 は毎 年 十 数 名 であり、その中 の多 くはアマチュア無 線 ( 電 話 級 ) の免 許 をもっ
ていた。無 免 許 の場 合 は他 局 との交 信 が法 律 で禁 じられているので、在 学 中 に極
力 免 許 をとらせるように指 導 した。クラブ員 の中 には稀 に電 信 級 の免 許 をもっている
ものもあった。学 校 にはクラブ局 があり、放 課 後 には必 ずしも学 校 とは限 らず自 宅 に
帰 って他 局 と交 信 するものも多 い。日 常 活 動 は個 人 的 なものが中 心 となり、校 内 で
の活 動 は平 常 余 り目 立 つことはない。
しかし、年 3 回 コンテストがあり、多 くは土 曜 18 時 から翌 日 曜 18 時 までの 24 時
間 か、祝 祭 日 前 日 の 18 時 から 24 時 間 にわたって、各 種 周 波 数 帯 の交 信 局 数 を
競 うものであるため、空 中 伝 播 条 件 の良 好 な深 夜 を利 用 することになる。生 徒 は徹
夜 または時 々仮 眠 をとって交 信 を行 う。場 所 は 3 階 の 8 教 室 (1 年 生 のホームルーム)
を全 部 使 用 した。したがって顧 問 の私 もこの 3 回 の中 、学 校 で行 われる 2 回 は生 徒
と共 に 徹 夜 して 見 守 っ ていた 。実 は、こ の 行 事 ( 徹 夜 を 含 む ) が ある の で 顧 問 を 希 望
する人 は な かな かな く、 教 科 との 関 係 など から 青 山 高 校 在 任 中 は 毎 年 顧 問 を 引 き
受 けていた。
2)必 修 クラブ
青 山 に 転 任 す る 少 し前 よ り 新 しい 制 度 と して 、 全 員 が必 ず 加 入 しな け れ ばなら な
いクラブ ( 全 員 参 加 ク ラ ブ と も い う ) が設 けられた。生 徒 の希 望 をできる限 り活 かす方 針
で数 十 のクラブが作 られた。
私 は物 理 クラブを設 けたところ希 望 者 が 20 名 前 後 あった。この生 徒 達 に何 をやら
せるかが大 変 難 しく、いくつかの課 題 を設 定 してみて、それぞれに希 望 者 を集 め各
グループごとに研 究 をさせてみた。課 題 は年 によって異 るが毎 年 6 種 前 後 であった。
生 徒 は 1 年 生 も加 入 しているので、高 校 での物 理 をまだ学 習 していない者 もあるの
で、その点 も考 慮 して課 題 を考 えてみた。
84
私 の主 義 として、研 究 である以 上 教 科
書 や参 考 書 に書 いてある既 によく知 ら
れた現 象 の確 認 検 証 実 験 ではなく、身
近 な現 象 でも今 まで物 理 として研 究 され
たことがないもの、したがっていかなる結
論 がでるか予 め分 からないようなもの(オ
ープンエンドな問 題 )を扱 うことが創 造 力 を伸 ばし
図 5 斜 面 を転 がる円 筒 の運 動
たり、 興 味 を もたせるの に適 当 で あ ると考 えて いる。 よって この 主 旨 に 沿 った課 題 を
設 定 した。
一 例 をあげると、図 5 のようにプラスチック製 円 筒 で上 下 両 端 は半 球 をなし、中 に
ガラス球 を入 れたものを交 互 に階 段 状 の坂 路 を転 倒 しながら落 下 する運 動 を 1 つ
の課 題 とした。これは夜 店 や神 社 の祭 礼 のとき露 店 などでよく販 売 されているので、
知 っている人 も多 いと思 われるが、これの落 下 運 動 を詳 しく研 究 した論 文 をみたこと
がない。
坂 路 (斜 面 )であるから下 にいく程 速 いと思 われがちであるが、これをストロボ写 真
に撮 影 してみると等 速 運 動 であることが判 明 した。 (詳 細 は青 山 高 校 昭 和 51 年 度 必 修
クラブレポート参 照 )
この装 置 も大 型 のものを作 成 し、ストロボ撮 影 などすべて生 徒 の発 想 であり、私 は
テーマを与 えたのみであったが立 派 なレポート ( 立 派 な 物 理 の 論 文 に な り う る ) が完 成 し
た。この他 にもいくつもの研 究 が毎 年 のレポートにまとめられている。
運 動 クラブは別 として、理 系 クラブなどは一 般 になかなか難 しいとされているが、青
山 では生 徒 の優 秀 さによりここまで立 派 な成 果 をあげえたことは喜 びでもあり、私 の
自 慢 でもある。
(注 )青 山 の学 校 放 送 はク ラブではなく、 生 徒 会 の 1 つの機 関 とし て放 送 委 員 会 (A.B.S.)が作
ら れ て お り、 各 学 年 か ら 生 徒 の 希 望 によ り 放 送 委 員 が 選 任 され て 構 成 され て い る 。 指 導 監 督 は
生 活 指 導 部 (い わ ゆる 生 徒 部 ) の担 当 者 ( 私 ) であった。 特 に問 題 になる よ う なことはなく 学 校 放
送 として円 滑 な運 営 ができ た。
3.4 組 合 委 員 として
昭 和 54 年 東 京 都 高 等 学 校 教 職 員 組 合 (以 下 都 高 教 と略 称 ) の本 部 委 員 となった。
これには以 下 のような職 場 の事 情 もあった。
当 時 青 山 では校 務 分 掌 の各 部 長 および新 1 年 の学 年 主 任 は選 挙 で選 出 するこ
とになっており、組 合 の本 部 委 員 の選 挙 は校 務 分 掌 の選 挙 の前 に行 い、本 部 委
85
員 に選 挙 された者 は分 掌 の被 選 挙 権 がなくなる内 規 となっていた。
私 は当 時 都 理 化 研 の事 務 局 を担 当 し、更 に 57 年 の全 国 大 会 では事 務 局 長 に
なっていたので、55 年 以 降 は事 務 局 の仕 事 が多 忙 になることがわかっていた。しか
し学 校 では 54 年 で教 務 部 長 が変 わることになっていて、55 年 の教 務 部 長 候 補 に
私 があげられており、もし選 挙 が行 われれば私 が当 選 する確 率 が極 めて高 いと推
定 されていた。
もし、そのようになると、全 国 大 会 の仕 事 と教 務 の仕 事 とを両 立 させることは極 めて
困 難 のため、選 挙 によって選 出 されない方 法 はただ 1 つしかなかった。それには前
記 のように組 合 本 部 委 員 になることであった。青 山 は今 まで組 合 活 動 には極 めて
不 熱 心 な学 校 であったため、本 部 委 員 などに立 候 補 するような人 はいなかったので、
私 が立 候 補 すれば選 挙 で当 選 することは確 実 なので、本 部 員 に立 候 補 して目 的
を達 成 した。
本 部 員 の主 な仕 事 は、毎 週 火 曜 日 ( 午 前 ・ 午 後 ) に都 立 高 校 全 部 の本 部 委 員 会 、
年 1 回 の組 合 総 会 (2 日 間 ) 、校 内 委 員 会 編 成 と組 合 本 部 と各 校 との連 絡 調 整 、
各 種 集 会 およびデモの参 加 などである。
青 山 分 会 ( 分 会 と は 各 校 の 組 合 組 織 ) は以 前 より組 合 に対 して余 り協 力 的 ではなか
ったので、支 部 委 員 会 (学 区 ごとの本 部 委 員 会 )や本 部 委 員 会 などでの評 判 が悪 か
つ た が 、 私 が 委 員 の 中 で は 年 齢 的 に 最 高 に 近 か っ た ので、 他 の 委 員 や 本 部 執 行
委 員 などにも多 少 遠 慮 があったらしく、余 り強 い圧 力 を受 けなかった。
私 としても少 しは協 力 しなければまずいと考 え、本 部 での校 内 新 聞 作 成 のすすめ
などもあって、B4 の校 内 新 聞 (謄 写 版 印 刷 ) を作 り、「あおやまニュース」として毎 月 発
刊 した。これで青 山 分 会 の本 部 における評 価 も少 しは高 まり、更 に各 種 集 会 やデ
モにも私 に協 力 して、過 去 では例 をみない程 多 くの先 生 が参 加 して下 さり、組 合 本
部 での評 価 も大 変 よくなった。
私 はほとんどすべての会 合 に出 席 し、デモは夜 間 の場 合 も参 加 し、執 行 部 からも
相 当 な信 頼 をえることができた。なお、昭 和 54 年 の社 会 情 勢 は安 定 しており、特 に
大 きな問 題 もなかったので、組 合 活 動 としても余 り困 難 を感 じることはなかった。
しかし私 は元 来 思 想 、信 条 は社 会 党 的 または左 翼 的 でなく、むしろ民 社 党 的 で
あったので、前 任 校 の小 山 台 、明 正 高 校 の先 生 などは大 変 意 外 に感 じ驚 かれたよ
うであったが、私 の後 で組 合 本 部 委 員 になる人 が余 り遠 慮 せずに行 動 できるように
考 えた結 果 であった。
86
(付 表 ) 校 務 分 掌
昭 和 51 年 度
生徒部
昭 和 52 年 度
生徒部 途中 3 年 8 組担任代理
昭 和 53 年 度
生徒部
昭 和 54 年 度
生徒部
東京都高等学校教職員組合本部委員
昭 和 55 年 度
生徒部
昭 和 56 年 度
図書部 3 年 1 組担任
昭 和 57 年 度
教務部
昭 和 58 年 3 月 退 職
87
Ⅱ.理 二 会 の発 足 と活 動
1.理 二 会 の発 足
昭 和 23 年 3 月 東 京 高 等 師 範 学 校 理 科 二 部 を卒 業 した者 の同 期 会 を 23 理 二
会 と呼 称 する。 (以 下 理 二 会 と記 す)
卒 業 当 時 は専 攻 が物 理 と化 学 に別 れていたが、卒 業 後 間 もなく化 学 専 攻 の
人 々の間 では武 谷 教 授 を中 心 として親 睦 を主 目 的 としてアフィニティーというグル
ープができ時 々会 合 が開 かれていた。しかし物 理 専 攻 の人 々の問 ではそのような動
きが全 くなかった。この辺 が物 理 と化 学 の傾 向 の違 いなのかも知 れない。当 時 世 間
では化 学 の人 々はウェットで物 理 の人 々はドライな性 向 があるとよく言 われていたこ
とを思 い出 した。
さて、私 は物 理 科 であったが、理 科 二 部 として両 者 が元 来 は一 つの科 であったの
で 2 つに別 れずやはり卒 業 後 も全 体 を 1 つとしてまとまりのある会 があるべきものと
考 えた。しかし直 ちにそのような会 を作 ることは種 々の困 難 があったので、先 ず手 始
めとして私 が参 加 した理 化 学 協 会 の全 国 大 会 の折 に、その大 会 に出 席 した理 二
会 の人 々に連 絡 をとってその土 地 のどこかで理 二 会 を開 くことにした。
第 1 回 は昭 和 27 年 の高 松 大 会 (四 国 高 松 市 ) で、私 の宿 泊 した旅 館 で 6、7 人 の
参 加 を得 て開 いた。この頃 から理 二 会 の名 称 が用 いられるようになった。これ以 後
はほぼ毎 年 開 かれ、昭 和 38 年 からは私 以 外 にも数 人 の有 志 が幹 事 となって行 わ
れ、昭 和 53 年 には 23 理 二 会 として正 式 に会 則 や経 理 の規 約 が作 成 ・承 認 され、
これからは東 京 在 住 の 10 名 前 後 の人 々が幹 事 となって現 在 まで活 動 が続 けられ
ている。
2.理 二 会 の活 動
会 の主 目 的 は親 睦 、情 報 交 換 などであるため、次 のようなことを行 っている。
1)毎 年 1 回 理 二 会 を実 施
2)恩 師 および会 の人 の死 去 に際 してのこと。 (通 夜 、告 別 式 参 加 、香 典 )
3)会 誌 の発 行
4)その他
1) につ い ては、 前 述 した よう に 全 国 大 会 に 全 国 から 参 加 者 が ある の で、 これ を 機
会 にすると全 国 から理 二 会 への参 加 可 能 性 が大 きくなる。
なお、昭 和 60 年 頃 よりは皆 が次 第 に高 齢 にもなって全 国 大 会 の参 加 者 も減 少 し
てきたので、全 国 大 会 とは無 関 係 に適 当 な時 期 を選 んで行 うことになった。最 近 で
88
は大 部 分 の人 が停 年 に達 し自 由 な時 間 がもてるようになったので、毎 年 1 泊 2 日 で
種 々の都 道 府 県 持 ち廻 りの形 で実 施 されている。
2)については残 念 ながら恩 師 は既 に皆 故 人 となられ、理 二 会 の人 々も平 成 8 年
までに 17 人 亡 くなられている。
可 能 な限 りは代 表 者 が葬 儀 に参 列 しているが、地 方 でやむをえない場 合 は香 典
をお送 りしている。また、ご遺 族 で高 校 生 以 下 の方 がある場 合 には、遺 族 育 英 資 金
なども募 金 した。(福 田 君 、神 田 君 、田 中 君 、越 後 君 )
3)については、昭 和 47 年 (卒 業 後 24 年 ) に第 1 号 、昭 和 53 年 に卒 業 30 周 年 記
念 号 、昭 和 62 年 に卒 業 40 周 年 記 念 号 を発 行 した (これは実 際 には, 卒 業 後 39 年 で
ある) 。平 成 10 年 は卒 業 50 周 年 となるがこのときも発 行 した。
なお、この会 誌 の作 成 に係 る仕 事 はほとんど私 1 人 が行 ってきた。1 号 については
連 絡 費 も印 刷 費 もなく、有 志 の人 々がいくらか寄 付 送 金 して下 さったので、私 の個
人 負 担 と合 わせて発 行 できた。第 2 号 についても私 の個 人 負 担 も必 要 となった。
第 3 号 ・第 4 号 については、はじめて理 二 会 の会 計 の基 金 が確 立 したので財 政 的
に無 理 なく発 行 することができた。したがって、この号 の巻 頭 に初 めて写 真 版 ( 学 校
正 門 と寮 正 門 ) を掲 載 することができた。
4)については、東 京 在 住 の有 志 の人 たちで見 学 会 、新 年 会 などを行 うことがあ
る。
故 渥 美 正 先 生 のお話 では、この長 い間 毎 年 このような会 を継 続 して開 き、また 会
誌 などもこのように節 目 ごとに作 成 している学 年 や科 は他 にはなかったということで
賞 賛 された。これが我 々の誇 りとなり、私 もこの会 の誕 生 前 から中 心 的 に努 力 してき
て、現 在 のように盛 会 と なったことが非 常 に嬉 しく、私 の生 きがいともなっている。お
陰 で現 在 でも多 くの方 々の住 所 や 状 況 なども承 知 してお り、毎 年 年 賀 状 も半 数 の
方 々から頂 き非 常 に有 難 いことと感 謝 している。
(付 表 )
理二会実施表
年 月 日 /会 名
会 場
昭 和 23 年 11 月
東京大会
東 京 新 橋 (ダイヤ菊 )
昭 和 27 年 10 月 10 日
香 川 大 会 (約 10)高 松 市 内 (旅 館 )
昭 和 35 年 8 月 7 日
東 京 大 会 (16) 茗 渓 会 館
89
昭 和 37 年 8 月
長 野 大 会 (12) 長 野 市 内 (ビヤホール)
昭 和 37 年 12 月 27 日
理 二 会 (12)
千 葉 船 橋 ヘルスセンター
×昭 和 38 年 11 月 21 日
理 二 会 (18)
東 京 上 野 (笹 野 雪 )
昭 和 42 年 1 月 7 日
理 二 会 (21) 東 京 新 宿 (若 葉 荘 )
昭 和 44 年 1 月 15 日
理 二 会 (19)
東 京 渋 谷 (北 京 亭 )
×昭 和 47 年 1 月 15 日
理 二 会 (13)
東 京 浅 草 (金 泉 )
昭 和 47 年 8 月 25 日
東 京 大 会 (15)東 京 虎 ノ門 (第 一 楼 )
昭 和 48 年 1 月 13 日
理二会
東 京 新 宿 (久 寿 の喜 )
×昭 和 49 年 2 月 10 日
理二会
埼 玉 浦 和 (正 直 屋 )
昭 和 49 年 8 月
京都大会
京都市
×昭 和 50 年 2 月 8 目
理二会
東 京 代 々木 (寒 内 子 )
昭 和 51 年 1 月 31 日
理 二 会 (11)
横 浜 中 華 街 (大 珍 楼 )
×昭 和 51 年 8 月 27 日
理 二 会 (15)
土浦市
昭 和 53 年 1 月 14 日
理 二 会 (23)
東 京 浅 草 (むぎとろ)
昭 和 53 年 8 月 8 日
金 沢 大 会 (10)
金 沢 (スカイライン 16F)
昭 和 53 年 8 月 18 日
理 二 会 (36)
東 京 神 楽 坂 (教 育 会 館 )
昭 和 54 年 8 月 21 日
90
理 二 会 (約 10) 芦 屋 岡 本 (明 石 屋 )
昭 和 55 年 7 月 29 日
理 二 会 (16) 浦 和 市
昭 和 56 年 8 月 4 日
理 二 会 (11) 岐 阜 市
昭 和 57 年 7 月 29 日
東 京 大 会 (34) 東 京 虎 ノ門 (第 一 楼 )
昭 和 59 年 8 月 18 日
理 二 会 (24) 東 京 渋 谷 (銀 杏 荘 )
昭 和 60 年 6 月 17 日
理 二 会 (21) 東 京 虎 ノ門 (第 一 楼 )
昭 和 62 年 7 月 11 日
理 二 会 (38) 東 京 茗 渓 会 館
昭 和 63 年 7 月 28 日
理 二 会 (22) 山 梨 石 和 温 泉 (ホテル八 田 )
×平 成 1 年 8 月 26 日
理 二 会 (22)群 馬 水上 温 泉 (去 来 荘 )公 立 共 済
×平 成 2 年 8 月 26 日
理 二 会 (22) 千 葉 館 山 (シーサイドホテル)
×平 成 3 年 8 月 25 日
理 二 会 (20)三 重 南 鳥 羽 (リゾートヒルズ豊 浜 )
×平 成 4 年 6 月 7 日
理 二 会 (26) 栃 木 日 光 (ホテル高 原 )
平 成 5 年 5 月 29 日
理 二 会 (36) 東 京 (讃 岐 会 館 )
×平 成 6 年 9 月 12 日
理二会
茨 城 (大 洗 ホテル)
平 成 7 年 5 月 27 日
理 二 会 (31)神 奈 川 江 ノ島 (グランドホテル)
×平 成 8 年 5 月 26 日
理 二 会 (30) 長 野 諏 訪 (華 乃 井 ホテル)
平 成 9 年 5 月 25 日
理 二 会 (30)
岐 阜 高 山 (高 山 観 光 ホテル)
91
平 成 10 年 5 月 27 日
理 二 会 (41) 東 京 五 反 田 (ゆうぽうと)
平 成 11 年 6 月 22 日
理 二 会 (26)北 海 道 札 幌 (ライフオート札 幌 )
平 成 12 年 6 月 1 日
理 二 会 (25) 東 京 銀 座 (がんこ寿 司 )
平 成 13 年 6 月 27 日
理 二 会 (31) 東 京 茗 渓 会 館
平 成 14 年 6 月 6 日
理 二 会 (25) 静 岡 焼 津 (焼 津 グランドホテル)
(注 1)
理 二 会 関 係 の写 真 アルバムは個 人 用 以 外 公 式 のも のは東 京 の幹 事 1 名 が保 管 している。×
印 は私 が欠 席 した会 。
(注 2)
都 道 府 県 名 の後 に大 会 と記 したものは、当 地 における全 国 理 化 教 育 大 会 (日 本 理 化 学 協
会 総 会 )が行 われた時 に当 会 に参 加 された理 二 会 の人 々で、その地 で理 二 会 を開 いたもので
ある。
(注 3)
会 名 の後 、( )内 の数 は参 加 人 数
92
Ⅲ.大 学 受 験 指 導 に関 係 して
1.都 立 小 山 台 高 等 学 校 補 習 科
1.1 設 立 趣 旨
卒 業 生 が 現 役 で大 学 受 験 に失 敗 した場 合 、 その後 の 指 導 について は外 部 の予
備 校 な どに 任 せる よ り、 本 人 のこと を一 番 よく 知 っている 本 校 の先 生 が指 導 する 方
が効 果 も上 り、経 済 的 にも負 担 が軽 くなることから、本 校 卒 業 生 の 1 年 間 に限 って
指 導 する主 旨 で昭 和 33 年 に設 立 された。
これは当 時 の校 長 (斉 藤 氏 ) と PTA 会 長 (三 菱 化 成 会 長 、 都 教 育 委 員 柴 田 周 吉 氏 )
により設 立 され、鵜 川 氏 (桐 蔭 学 園 理 事 長 ) と川 又 氏 を中 心 として昭 和 33 年 4 月 より
運 営 を開 始 した。
1.2 運 営
初 年 度 は教 室 も小 さく生 徒 数 は 50 名 程 度 であったが、年 毎 に実 績 が上 るにつれ
増 加 し、新 しい教 室 が使 用 される状 態 になったときには最 大 150 名 を越 えてしまっ
た。
経 費 は独 立 採 算 性 と し、生 徒 か らの授 業 料 収 入 によ り 運 営 した。 授 業 料 は外 部
予 備 校 の 1/10 程 度 のため、人 数 が少 ない開 設 から 3 年 間 は赤 字 であったが、人
数 の増 加 につれ赤 字 はなくなり、昭 和 36 年 には黒 字 に転 じ安 定 した経 営 ができる
ようになった。
黒 字 になった場 合 の利 益 については、補 習 科 が校 舎 および施 設 、設 備 の一 部 を
使 用 し、光 熱 費 なども使 用 しているので種 々の形 で学 校 の設 備 購 入 などに充 当 し
て利 益 をすべて還 元 した。校 内 各 準 備 室 事 務 室 間 の校 内 電 話 と交 換 機 などの設
置 はこの例 である。
1.3 指 導
校 則 については本 校 生 とほとんど同 じとし下 校 時 刻 のみ実 状 に合 わせて遅 くした。
生 活 指 導 面 では特 に問 題 となるような生 徒 はいなかった。この点 が本 校 生 とは最 も
異 る秀 れた点 である。
授 業 については、英 、数 、国 を中 心 とし、これに理 科 、社 会 を加 えた。教 室 は 1 つ
なので複 数 科 目 の同 時 開 講 はできないので、受 験 のために不 要 な科 目 の時 間 は
図 書 室 などで自 習 することとした。
講 師 には、英 、数 、国 では大 学 および大 手 予 備 校 から有 名 な先 生 を招 き、それ
93
に本 校 の先 生 を少 し加 え、理 科 と社 会 は本 校 の先 生 のみで担 当 した。物 理 は補
習 科 発 足 から廃 止 されるまで私 1 人 で担 当 した。
テストは年 7 回 校 内 で作 成 した問 題 で行 い、これを標 準 偏 差 により 10 段 階 評 価 と
し、こ の 値 を 用 いて 受 験 指 導 を 行 っ た。こ れに よ る合 格 予 想 確 率 は 非 常 に高 く 、こ
の方 法 は年 を重 ねるごとにデータが蓄 積 され確 率 は向 上 して私 が主 任 をした昭 和
38 年 ・39 年 頃 に最 高 80%くらいになった。その当 時 在 科 生 約 150 人 の中 半 数 は
東 大 、東 工 大 、一 橋 他 有 名 国 立 大 学 、残 りの半 数 の多 くは早 大 、慶 大 に合 格 し、
それ以 外 の大 学 は少 数 であった。
また年 2 回 (前 期 終 了 時 7 月 と年 末 12 月 ) PTA を開 催 し、特 に 12 月 は 8 日 (入 試 の
決 戦 に望 む日 )に父 母 および生 徒 と我 々との面 談 により受 験 校 の決 定 を行 った。こ
の会 には在 籍 150 人 中 の大 部 分 の人 が出 席 され、我 々係 3 人 で分 担 しても 1 日
で終 らず 2 日 目 も夜 9 時 過 ぎまでかかるという熱 心 な話 し合 いが行 われた。この熱
意 は現 役 3 年 生 とは比 較 にならず、我 々も心 身 ともに疲 れ切 ったがそれだけ充 実
感 もあった。
1.4 通 学 定 期 券 問 題
私 の前 代 の主 任 、塩 野 入 氏 のときから生 徒 数 が急 増 し、生 徒 の電 車 通 学 におけ
る定 期 券 の購 入 希 望 が強 くなり、我 々も小 山 台 高 校 卒 業 生 というよりは 4 年 生 とい
う感 覚 をもっていたので通 学 定 期 券 の購 入 は当 然 のことと思 い込 んでいた。ところ
が生 徒 が東 急 目 蒲 線 武 蔵 小 山 の駅 で申 し込 んだところ拒 否 されたので驚 いて問
い合 わせてみると、多 くの予 備 校 は東 京 都 から学 校 法 人 として認 可 されているので、
そのような条 件 がないと許 可 できない規 則 になっているとのことであった。
補 習 科 は設 立 当 初 より東 京 都 教 育 委 員 会 に認 可 の申 請 を毎 年 行 っているが、
設 立 者 の一 人 (柴 田 周 吉 氏 ) が都 の教 育 委 員 であるためでもあろうが、申 請 に対 して
認 可 もせず却 下 もされず申 請 書 は受 理 されたままになっている。そこで、これでも通
学 定 期 券 を少 くとも東 急 線 に限 って発 行 してもらう方 策 を研 究 した。駅 長 の話 によ
れば本 社 の運 輸 部 で許 可 されれば発 行 してもよいということであった。
早 速 いろいろな面 から東 急 電 鉄 運 輸 部 長 にお願 いしたが、東 急 本 社 の重 役 会
議 で可 決 されなければできないということになった。そこで東 急 本 社 ( 社 長 五 島 慶 太
氏 ) に最 も影 響 力 のあるところは東 急 の母 体 行 ( こ の と き は 日 本 興 業 銀 行 ) または社 長
の友 人 などであるという判 断 により、それぞれを補 習 科 P.T.A.の役 員 の方 で関 係 さ
れ て い る 方 が あ っ た ので 、 そ の 方 を 通 し て 東 急 社 長 に お 願 い し て いた だ いた 。 間 も
なく重 役 会 議 で了 承 していただきこれ以 後 毎 年 東 急 の通 学 定 期 券 が正 式 に購 入
94
できることになり、電 車 通 学 の生 徒 の経 済 的 負 担 も軽 減 することができた。
塩 野 入 氏 と私 とで夜 まで大 変 苦 労 したことが思 い出 される。会 社 にたった 1 つの
単 純 なことを了 解 してもらうことがいかに容 易 でないかということが身 にしみてわかっ
た。このことを通 して会 社 に最 も影 響 力 をもっているものは、その会 社 に融 資 してい
る銀 行 であることもよくわかった。これは今 後 の社 会 生 活 での 1 つのポイントであると
認 識 した。
平 成 8 年 に起 きた政 治 経 済 の大 事 件 、住 専 問 題 も融 資 銀 行 (母 体 行 ) との関 係
が大 きく、会 社 と銀 行 の関 係 がいかに強 いかということが示 されている。
1.5 補 習 科 廃 止
私 が主 任 をした後 の 3 年 間 (昭 和 40 年 4 月 より 43 年 3 月 ) 主 任 をした三 橋 氏 まで
でこれだけ成 果 を上 げた補 習 科 も、残 念 ながら東 京 都 の命 令 で廃 止 されることにな
った。
この経 緯 をこの際 書 き残 しておきたい。当 時 都 立 のいくつかの高 校 (いわゆる進 学
校 ) には補 習 科 が設 置 されていた。しかし、これは何 れも都 が認 可 したものではない。
あるとき東 京 都 議 会 で 委 員 の一 人 公 明 党 の 伊 藤 氏 によ り 次 のような 点 が問 題 に さ
れた。
補 習 科 では 都 の 教 員 が 勤 務 時 間 中 に 補 習 科 の 授 業 を 担 当 し 、 そ れに 対 し て 報
酬 (講 師 手 当 ) を得 ていることは勤 務 中 のアルバイトとなり公 務 員 法 違 反 であること。
更 に 、 無 料 で 都 の 施 設 で あ る 教 室 な ど を 用 い て い る こ と に も 問 題 が ある 。 こ の よ う
な違 法 性 を指 摘 され、止 むなく全 都 立 高 校 補 習 科 を廃 止 する決 定 が下 された。
このようにして昭 和 33 年 4 月 以 降 苦 労 を重 ね、小 山 台 高 校 の進 学 成 績 を最 大
限 まで向 上 させた補 習 科 は、昭 和 43 年 3 月 までの 10 年 間 で終 止 符 を打 ち再 開 さ
れることはなかった。これ以 後 群 制 度 と相 俟 って小 山 台 高 校 の有 名 大 学 合 格 数 は
激 減 してしまった。
(付 表 )
補習科分担
昭 和 33 年 度 主 任 鵜 川
係 川又 瀬戸 井沢
昭 和 34 年 度 主 任 鵜 川
係 勢山 川又 平井
昭 和 35 年 度 主 任 塩 野 入 係 勢 山 八 乙 女 奥 野
昭 和 36 年 度 主 任 塩 野 入 係 坂 井 八 乙 女 奥 野
昭 和 37 年 度 主 任 塩 野 入 係 落 合 八 乙 女 奥 野
昭 和 38 年 度 主 任 八 乙 女 係 塩 野 入 不 島 奥 野
95
昭 和 39 年 度 主 任 八 乙 女 係 勢 山 三 橋 奥 野
昭 和 40 年 度 主 任 三 橋
係 中山 野沢 奥野
昭 和 41 年 度 主 任 三 橋
係 野沢 原口
昭 和 42 年 度 主 任 三 橋
係 落合 斉藤
外 来 講 師 (敬 称 略 )
英 語 高 村 新 一 、加 賀 谷 林 之 助 * 、大 島 好 道 、藤 川 玄 人 、羽 根 田 俊 治 *
国語 峰村文人
数 学 早 川 庚 弌 、丸 山 茂 彌
* 印 は平 成 8 年 の時 点 で故 人
2.一 橋 学 院
2.1 補 習 科 の延 長 として
前 項 に記 した通 り昭 和 43 年 3 月 で小 山 台 高 校 補 習 科 はなくなったが、私 はこの
前 年 に明 正 高 校 へ転 任 していた。ちょうどこの年 に一 橋 学 院 * では東 工 大 科 ( 東 京
工 業 大 学 を 第 一 志 望 校 と す る 生 徒 を中 心 とし た 理 系 ク ラ ス) を設 置 することになり、当 時 小
山 台 で同 僚 であって学 院 に出 講 し ていた川 又 之 裕 氏 より 出 講 を打 診 された。私 も
当 時 校 務 が 多 忙 ではなかったので研 修 日 のみ 出 講 を受 けるこ ととし、学 院 長 金 子
泰 蔵 先 生 * * と個 人 面 談 を行 い出 講 が決 定 した。
*
正 式 名 称 :学 校 法 人 一 橋 学 院 ・早 慶 外 語 、以 下 略 し て学 院 と記 す。
*
*金 子 先 生 は講 師 の誕 生 日 には birt hday card を贈 られた。(私 のみでなくすべての
講 師 に 対 し てで あ る と 思 う ) こ れ 程 講 師 一 人 一 人 を 大 切 に さ れ る 校 長 は 稀 で あ ろ う と 思 わ れ
る。なお先 生 の自 伝 として「たった一 人 の寺 子 屋 から―自 叙 伝 金 子 泰 蔵 の世 界 ( 1985 年 興
学 社 )」がある 。
面 談 の内 容 は事 務 的 なこと以 外 は忘 却 したが、金 子 先 生 は極 めて高 潔 な人 格
者 で あり、 キ リスト 者 でも あ り、 仕 事 に対 しても 極 めて 厳 し く、 心 から 尊 敬 できる 先 生
と感 じ、私 を高 く評 価 して下 さったので、私 も先 生 の信 頼 にこたえるべく努 力 を傾 注
した。
なお、物 理 の講 師 として私 が選 ばれたのは、小 山 台 高 校 時 代 に多 数 (全 国 一
位 )の生 徒 を東 工 大 に合 格 させ、また東 工 大 入 試 における物 理 の成 績 の占 める割
合 と合 格 最 低 点 が非 常 に高 いということなどにより私 の教 科 指 導 力 が高 く評 価 され
たためであった。
96
2.2 予 備 校 講 師 として
私 の考 えとしては予 備 校 の講 師 は次 の 3 つの条 件 を兼 ね備 えていることが必 要 で
あると考 える。
① 生 徒 の高 い信 頼 を得 ること。
② 信 頼 を得 るために十 分 な実 力 に裏 打 ちされた自 信 をもつこと。
③ タレント性 とある程 度 のカリスマ性 をもつこと。
① と ② に つい て は 先 ず自 分 の 実 力 を 十 分 高 める 必 要 が ある 。 そ れ に は 今 ま で にい
かに多 くの問 題 をこなしてきたかによる。
少 くとも毎 年 旺 文 社 か ら出 版 され る入 試 正 解 の全 問 に目 を通 し、主 要 大 学 の問
題 全 問 、およびその他 の大 学 の問 題 中 良 問 や珍 しい問 題 は必 ず研 究 しておく。更
に大 学 教 養 課 程 レベルの演 習 書 の問 題 などもなるべく多 数 研 究 しておく。
このような努 力 により得 た実 力 をバックとしてはじめて自 信 をもった講 義 ができ、生
徒 の質 問 にも直 ちに即 答 できるようでなければならない。
なお、講 義 については、内 容 が密 度 濃 く正 確 であることは勿 論 であるが、話 にめり
はりがあり、曖 昧 さなくすっきりとした説 明 でなければいけない。また、発 声 や板 書 が
明 瞭 であることは予 備 校 に限 らず、教 師 としては必 ず要 求 されることである。
③ は そ の 人 の 生 ま れ な が ら の 資 質 や 性 格 が 大 い に 関 係 す る の で 、努 力 だ け では
満 足 できない。教 師 としての実 力 があっても必 ずしも予 備 校 に向 かな い人 があるの
はこのためである。講 義 時 間 (多 く は 50 分 また は 100 分 ) の間 中 生 徒 の関 心 を引 きつ
けて集 中 させておくにははこの③が必 要 となる。
予 備 校 教 師 は舞 台 (教 壇 )で踊 る演 技 者 とみることもできる。また、教 祖 的 な面 も
ほしい。「先 生 は神 様 です」と言 われるくらいでもよいであろう。
また、予 備 校 は一 般 に大 教 室 が多 いので最 近 はどこでもマイクを用 いるが、マイク
のない時 には大 声 の必 要 もあり、また椅 子 に腰 を下 ろしての講 義 は生 徒 を引 きつけ
る意 味 では不 適 当 である。教 師 の疲 れを生 徒 に感 じさせてはいけない。バイタリティ
ーのあるところをみせるパフォーマンスも必 要 である。
3.3 学 院 内 業 務
1)出 講 校 舎
東 京 校 * (本 校 ) 昭 和 43 年 〜平 成 7 年
大宮校
昭 和 56 年 〜昭 和 58 年
八 王 子 校 昭 和 62 年 〜平 成 7 年
*東 京 校 での高 校 コース担 当 は昭 和 51 年 、52 年 の 2 年 間
97
2)開 講 講 座
前 期 (4 月 〜7 月 )午 前 総 合 科 、午 後 単 科 ゼミ
後 期 (9 月 〜12 月 )
夏 期 (7 月 〜8 月 )
同
上
各 種 講 座 あり
冬 期 講 習 会 (12 月 〜1 月 )
直 前 学 期 (1 月 〜2 月 )
同
同
上
上
高 校 3 年 コース(月 〜土 夜 間 )各 科 単 科
物 理 はどの期 間 、コースも原 則 として単 科 で午 後 。
講 座 1 回 (1 駒 )は 100 分 (高 校 コースは 150 分 )
私 は週 1 日 出 勤 のときは 100 分 ×2 回 または 100 分 ×3 回 、週 2 日 以 上 出 講 の
ときは、1 日 で 100 分 ×1 回 または 100 分 ×2 回 の講 義 をした。
3)物 理 の講 義
高 校 と異 る点 は、1 時 間 (通 常 1 駒 という) が 100 分 または 90 分 と長 く、生 徒 実 験 は
不 可 能 であり、また演 示 実 験 も身 近 な材 料 を用 いた極 めて単 純 なものしかできない
ことである。
したがって 、講 義 では 黒 板 実 験 と なってしまう ので、図 を 多 用 してな るべく具 体 的
イメージを頭 に描 けるようにすることが極 めて重 要 となる。(私 の作 ったキャッチ・フレー
ズ:図 による 思 考 が問 題 解 決 の第 一 歩 ) このため、講 義 時 間 中 は板 書 し続 けることになり、
座 ることなく話 をし続 け板 書 をし続 けるという状 態 なので肉 体 的 には相 当 な疲 労 と
なる。
私 などは本 務 の学 校 で 1 日 50 分 の授 業 を 4 駒 または 5 駒 受 け持 ち、場 合 によ
ってはその後 100 分 の講 習 などを行 ったりしていたので、肉 体 的 にそれ程 負 担 を感
じないが、長 時 間 立 ち続 ける経 験 の乏 しい人 には初 めのうちは相 当 苦 労 すると思
われる。しかしこれで疲 れを生 徒 に見 せてはいけない。したがって、予 備 校 講 師 は
体 力 的 、精 神 的 にタフでなければいけないことになる。
私 はこのようにして昭 和 43 年 以 来 、高 校 在 職 中 は週 1 日 、高 校 退 職 後 、平 成 7
年 末 までは週 4 日 ないし 2 日 出 講 して (平 成 7 年 は週 1 日 ) 、満 70 才 をもって退 職 し
た。この間 永 年 勤 続 者 表 彰 を受 けた。
4)教 材 作 成
クラスにより教 材 が異 なり、また講 習 会 と直 前 ゼミはそれぞれ独 立 した教 材 となる
ので全 体 としては相 当 多 種 多 様 な教 材 となる。私 は毎 年 5 種 または 6 種 の教 材 を
作 成 した。
98
5)テストの出 題 ・採 点
テストには、校 内 で行 うものと公 開 (オー プン) テストとある。その他 旺 文 社 などのテス
トを利 用 することもある。
校 内 テスト 大 体 前 期 6 回 、後 期 6 回
公 開 テスト 大 進 研 テスト (年 4 回 )
私 大 模 試 (年 1 回 か 2 回 ) 早 慶 入 試 オープン (年 1 回 ) など。
こ の う ち、大 進 研 テスト は 大 学 進 学 研 究 会 ( 略 称 : 大 進 研 ) 加 盟 の 予 備 校 の う ち学
院 を含 む数 校 で分 担 して出 題 ・採 点 をする。
物 理 では選 択 枝 問 題 が少 なく、多 くは記 述 式 であり、各 テストはオリジナル問 題 と
するため、作 成 、採 点 ともに相 当 な労 力 を必 要 とする。
特 に大 進 研 テストなどは、各 予 備 校 のベテラ ン講 師 の評 価 も気 にし なければな ら
ないので、問 題 の作 成 にはそのアイディアが生 れるまでの時 間 と、そのアイディアを
問 題 として具 体 化 するには 3 題 で 2 月 以 上 もかかるのが普 通 であった。
なお、校 内 テストは 4 人 程 度 の 講 師 が交 代 で出 題 したが、公 開 テ スト ( 特 に 大 進
研 ) は平 成 7 年 までは私 1 人 で年 2 回 分 担 当 し、他 の 2 回 は他 の予 備 校 で担 当 し
た。
最 近 は学 院 の生 徒 数 が減 少 したため、物 理 の選 択 者 も減 少 したので採 点 も楽 に
なったが、生 徒 数 の最 も多 い時 期 ( 昭 和 45 年 頃 ) は 1 日 最 大 600 枚 の答 案 を採 点
したこともあった。これは朝 8 暗 から夜 10 時 までの間 になしうる最 大 枚 数 である。
6)その他
毎 年 各 講 師 に配 布 する「指 導 上 の手 引 き」の物 理 の部 分 の原 稿 、毎 年 生 徒 に
配 布 する「サクセス」というパンフレットに年 1、2 回 の原 稿 などがある。
この他 、私 は平 成 3 年 頃 に「物 理 ハンドブック」(251 頁 )を作 成 し、現 在 まで生 徒
に利 用 させている。なお、これを作 成 するには夏 期 40 日 間 をフルに活 用 した。
(注 )講 義 受 講 者 の感 想 は資 料 Ⅵ「合 格 者 の言 葉 」参 照
Ⅳ.外 部 団 体 との関 係
1.東 京 都 理 化 教 育 研 究 会 と日 本 理 化 学 協 会
両 団 体 とも任 意 団 体 で、日 本 理 化 学 協 会 ( 以 下 理 化 学 協 会 と 略 称 ) は東 京 都 理 化
教 育 研 究 会 ( 以 下 都 理 化 研 と 略 称 ) の上 部 団 体 である。都 立 高 等 学 校 ( 全 ・ 定 ・ 職 ) の
教 師 の大 部 分 と私 立 学 校 の一 部 の教 師 が加 入 している。
私 も小 山 台 に就 職 して以 来 加 入 したが、小 山 台 の化 学 の先 生 2 人 は都 理 化 研
99
の幹 事 などをして、会 の活 動 にも積 極 的 に参 加 していたが、私 はまだ経 験 が浅 い
ので、年 1 回 の理 化 学 協 会 の全 国 大 会 に数 年 に 1 回 参 加 する程 度 であった。
この参 加 に要 する費 用 は学 校 ( P.T.A. ) から支 給 されるため、毎 年 物 理 ・化 学 の先
生 が順 番 に 1 人 ずつ参 加 することになっていたので、大 体 4 年 に 1 回 参 加 という形
となっていた。その他 は会 誌 を見 る程 度 であったが、昭 和 35 年 頃 から状 況 も大 分
わかってきたので少 しずつ活 動 に参 加 するようになった。昭 和 42 年 以 降 は都 理 化
研 の幹 事 や理 化 学 協 会 の理 事 など各 種 の仕 事 を分 担 し、責 任 を果 した。
この間 特 に印 象 に残 った活 動 は、理 化 学 協 会 の昭 和 57 年 度 全 国 大 会 の事 務
局 長 となったことであった。
私 が青 山 高 校 に在 職 中 昭 和 54 年 に佐 々木 貞 造 氏 (物 理 ) が校 長 として着 任 し、
都 理 化 研 の事 務 局 が青 山 高 校 に移 ったので、私 が都 理 化 研 の事 務 局 長 となり、
自 動 的 に東 京 における全 国 大 会 の事 務 局 長 と指 名 された。ところが佐 々木 貞 造
氏 は昭 和 57 年 3 月 退 職 されたので都 理 化 研 の事 務 局 は千 歳 高 校 に移 り、千 歳
高 校 長 山 崎 裕 司 氏 (化 学 ) が都 理 化 研 の会 長 となった。
同 氏 はたまたま私 の東 京 高 師 の同 級 生 であったため、気 心 が合 うので 2 人 が中
心 になって、理 科 教 育 振 興 法 制 定 30 周 年 記 念 式 典 、第 53 回 日 本 理 化 学 協 会
総 会 、昭 和 57 年 度 全 国 理 科 教 育 大 会 が国 立 教 育 会 舘 を主 会 場 としてスムース
に進 行 終 了 することができた。なお、この大 会 の会 計 は極 めて煩 雑 で困 難 の多 いも
のであるが、青 山 高 校
の事 務 局 で はこれまた私 の高 師 の 同 級 生 、森 山 英 夫 氏 ( 化 学 ) が担 当 してくれて、
うまく赤 字 も出 さずに終 了 することができた。
また、この大 会 では理 科 教 育 振 興 法 制 定 30 周 年 の記 念 式 典 が最 初 に行 われ、
これには皇 太 子 御 夫 妻 ( 現 天 皇 ・ 皇 后 両 陛 下 ) のご出 席 をいただいたので、その警 備
に関 して 宮 内 庁 、 皇 宮 警 察 、 警 視 庁 と 我 々大 会 事 務 局 と の打 ち合 わ せた事 前 準
備 と当 日 の警 備 が大 変 であった。私 はこのとき初 めて天 皇 家 の皇 位 継 承 順 位 によ
って警 備 の仕 様 が異 るということを知 った。
この大 会 全 体 を通 し、事 前 、当 日 、事 後 の大 量 の仕 事 を都 理 化 研 の先 生 方 が
校 長 を含 めて極 めて緊 密 な連 携 を保 ち積 極 的 に熱 心 に活 動 して運 営 して下 さっ
たことが忘 れられない喜 びであった。
この他 、都 理 化 研 では昭 和 42 年 度 以 来 退 職 まで常 任 幹 事 (昭 和 48、 49 年 は第 2
支 部 長 ) 、また昭 和 57、58 年 には日 本 理 科 教 育 協 会 編 集 委 員 (会 誌 「理 科 」刊 行 ) な
どを勤 めた。また、理 化 学 協 会 では NPC 全 国 整 理 委 員 、全 国 理 事 (研 究 部 ) 、教 育
課 程 委 員 などを務 めた。
100
これらの仕 事 に対 して、昭 和 51 年 の京 都 における全 国 大 会 で表 彰 を受 けた。ま
た、都 立 高 校 退 職 時 には都 理 化 研 の幹 事 の先 生 30 名 程 による「囲 む会 」を開 い
ていただき、記 念 品 まで贈 られ今 尚 感 謝 の気 持 は忘 れられない。なおこの折 の記
念 品 の腕 時 計 はその時 より現 在 まで風 呂 に入 るとき以 外 手 から離 すことなく使 用 さ
せていただき、時 々当 時 のことを偲 ぶ縁 としている。
2.物 理 教 育 学 会
昭 和 20 年 代 頃 、物 理 学 は新 しい発 展 を始 めた。しかし、物 理 教 育 の面 では特 に
重 要 視 されることは少 なく、日 本 物 理 学 会 の中 でも「物 理 教 育 分 科 会 」という 1 つ
の小 さな分 科 会 が年 1 回 の総 会 の時 に開 かれ、研 究 発 表 も少 なく、学 会 の中 では
隅 に付 け加 えられた とい う感 が あっ た。これは 物 理 学 会 の 会 員 が 大 部 分 大 学 の研
究 者 であり、高 校 以 下 の教 員 は極 めて少 ないことによるためである。
また、これは研 究 者 (学 者 ) と教 育 者 とのステータスに関 する意 識 の問 題 にも関 係
第 47 回 日 本 理 化 学 協 会 総 会 表 彰 者 昭 和 51 年 8 月 19 日
(前 列 右 から二 番 目 八 乙 女 )
していると思 われる。 (東 京 教 育 大 学 の名 称 問 題 参 照 )
たまたま昭 和 27 年 の秋 に日 本 理 化 学 協 会 の全 国 大 会 が四 国 の高 松 でひらかれ
た折 、私 は偶 然 宇 高 連 絡 船 (宇 野 高 松 間 ) の船 上 でこの会 に出 席 する
文 部 省 初 等 中 等 教 育 局 長 田 中 ( 義 男 ) 氏 と随 員 の大 橋 ( 秀 雄 ) 氏 と同 席 した。 その
機 会 に私 は 物 理 教 育 の 重 要 性 と、 そのために日 本 物 理 学 会 の一 部 分 ではなく物
理 教 育 専 門 の学 会 を独 立 して作 るべきことを力 説 した。
この頃 既 に心 ある人 々の間 でこのような学 会 を設 立 する準 備 がなされていたらしく、
同 年 ( 昭 和 27 年 ) 日 本 物 理 教 育 学 会 が私 と特 別 な関 係 にあった藤 岡 由 夫 先 生 を
101
会 長 として発 足 し、私 の願 っていた通 りになって満 足 できた。私 も直 ちに入 会 したが、
会 員 番 号 が No.8 ということで、現 在 会 員 番 号 が 1 桁 で生 存 しているのは遂 に私 1
名 になってしまった。私 は昭 和 40 年 代 に評 議 員 、編 集 委 員 など、その後 KBGK *
などに加 わって仕 事 や研 究 を行 ってきた。
*
KBGK とは高 校 物 理 現 代 化 研 究 会 のロ ーマ字 の略 。 文 部 省 の特 定 研 究 (科 学 研 究
費 ) とし て、 物 理 教 育 学 会 の中 心 メンバ ー が加 わ って、 種 々 の研 究 をなし 、 成 果 は 2 冊 の書
籍 として出 版 されている。
3.文 部 省 との関 係
私 は官 僚 組 織 としての文 部 省 を好 まないので文 部 省 の仕 事 はほとんどしたことは
なかったが、小 山 台 高 校 に勤 めて間 もなく同 校 の化 学 の大 岩 先 生 からのお勧 めで、
初 めて文 部 省 の大 学 入 学 資 格 検 定 委 員 (いわゆる大 検 の委 員 ) を引 き受 け、昭 和 26
年 に都 立 西 高 校 の福 本 正 人 氏 と二 人 で出 題 ・採 点 を行 った。この時 の文 部 省 の
担 当 者 は大 橋 秀 雄 氏 と関 氏 とであった。
その後 永 らく大 検 委 員 とはならなかったが、 青 山 高 校 に 転 任 して間 もなく再 度 大
検 委 員 を依 嘱 され、昭 和 54〜56 年 と続 けることになった。
なお、昭 和 26 年 は戦 後 大 検 としては初 回 であり、出 題 形 式 もレベルも現 在 とは大
分 異 っており、委 員 は 2 名 (最 近 では 4〜5 名 ) で、問 題 用 紙 も 1 枚 の長 い帯 状 の形
で、採 点 の場 合 に 1 枚 ずつめくるのが極 めて不 便 であった。
4.校 長 協 会 との関 係
校 長 協 会 からは次 のような委 員 を依 嘱 されて問 題 の検 討 意 見 書 を提 出 した。
1)能 力 開 発 研 究 所 テスト (略 称 :能 研 テスト) 問 題 検 討 委 員 (昭 和 39 年 、40 年 )
このテストは現 在 のセンター試 験 の元 となったものであり、これは主 要 な国 立 大 学
の入 試 前 段 テストの意 味 があった。
2)大 学 入 試 問 題 検 討 委 員 (昭 和 42 年 、43 年 、47 年 )
5.その他
日 本 物 理 学 会 は昭 和 19 年 から 60 年 まで会 員 となっており、昭 和 49 年 には物 理
教 育 分 科 会 の世 話 人 をした。
102
また、大 学 入 試 センターの共 通 一 次 試 験 が始 まって、昭 和 51 年 と昭 和 52 年 に
読 売 新 聞 紙 上 に物 理 の問 題 についてのコメントを記 した。週 間 読 売 にも年 末 号 に
翌 年 のテストの予 想 ポイントなどを 2 回 記 した。
103