The Challenges to Peace: Perspectives from the U.S. Peace

The Challenges to Peace: Perspectives from the U.S. Peace Movement
米国の平和運動の課題と展望
2008年10月29日
ガビノ・サバラ司教
1
ありがとうございます。皆さまにお会いできたことをとても喜んでいます。憲法9条を
守るための皆様の努力を支え、また9条を世界の美しいモデルとするために今回日本を訪
問させていただいたことを謙虚に受けとめると同時に、私の国の政府がこのような努力を
崩そうとしていることも十分承知しています。今皆さまの前に立っている私が、平和実現
のために働かれる皆さまへの連帯のしるしとなれることを心から願っております。
米国の平和運動から見た今日の平和の課題について話すようにと依頼されました。米国
パックスクリスティの会長としての私の見方は、カトリックの平和運動の展望です。また
メキシコに生まれたヒスパニックの司教として、ロスアンジェルスの補佐司教として、い
わばスペイン語で言う「プエブロ」民衆ともに生きている現実から、社会の底辺の人々、
あらゆる種類の暴力に直面している人々の見方を皆さまとわかちあうことができると思い
ます。それは移民、貧しい人々、労働者、浅黒い肌をした人びとの声です。米国パックス
クリスティは、今年「外側の戦争、内側の戦争」というイニシャティブを始めました。私
たちは、米国主導の「反テロ戦争」が、イラクにおいてまた米軍が駐在している世界のさ
まざまな場所において、どのようにもっとも弱い人々を標的としているかを、しっかりと
見て、理解すること、つまり戦争は貧困、人種差別、脅迫、人権の否定を直接もたらすこ
とを世論に訴えたいと考えました。このようなコンテキストから、私の話を理解していた
だければと思います。
まず始めに国際パックスクリスティの協力機関である日本カトリック正義と平和協議会
が果たしてきた役割について敬意を表し、感謝したいと思います。正義と平和協議会が、
今回私を日本に招待してくださっただけではなく、アジア太平洋における米軍の再編とい
う恐ろしい現実に、米国に住む私たちの目を開かせてくださったことを感謝します。
初めて正平協の代表者に出会ったのは、2006年米国パックスクリスティの年次総会
の時でした。松浦悟朗司教、シスター弘田と長澤助祭が、9条についてこの総会でアッ
ピールするために参加を希望されたのです。一年後には、長崎の高見大司教が訪米されま
した。私たちは第二次世界大戦後、日本国憲法に9条が組み込まれた歴史については認識
がありましたが、米国が「反テロ戦争」を武器としてアジア太平洋地域で米軍の再編を
行っていること、それに関連して日本が憲法9条を変えるように促していることをまった
く知りませんでした。正平協の米国訪問、その後の協力関係をとおして、私たちは、政府
にたいしてこの点についてロビー活動を行い、同時に非暴力を政治的制度とする力強い実
例としての9条を、宝として大切にするようになりました。まさに9条は、米国と全世界
がどうあっても必要とするあり方なのです。
米国カトリックの平和運動が皆さまがたの9条運動に連帯するようになった経緯におい
て正平協に感謝するだけでなく、米国は日本の平和運動を必要としている事実をお話した
いと思います。
米国の人びとは、米国の政策が世界の人びとにどれほど影響を与えているかを知らなけ
ればなりません。米国の平和運動は、日々必死の努力を続けて、イラク戦争と占領の終
結、イランへの戦争の阻止、拷問廃止の要求、核兵器の廃絶などなどに取り組んでいま
す。(帝国に住んでいると実に多くの課題に取り組まなければならないのです。)しか
し、米国がアジア太平洋地域で何をしているかについては、ほとんど注意を払ってきませ
んでした。平和実現に取り組み、何が起こっているかを知らせ、アッピールを続ける皆さ
まがた、今晩ここに集まっていらっしゃる皆様がたからインスピレーションを得て、私た
ちは皆さまがたとともに歩むようになりました。ですから正平協と皆さまおひとりひとり
に感謝を表します。
それでは今米国に存在する平和を妨げる現実、チャレンジについて、ご一緒に考えてみ
ましょう。
米国の現状を理解するための鍵は、2001、9.11とそれ以降ブッシュ政権によっ
て定められた方向性です。9.11は、深い悲しみと攻撃されるという恐ろしさと不安を
国として体験したときでした。平和運動にかかわっている私たちは、世界の多くの人たち
が、日常的にそのような恐怖と無力感を体験していることに気づいていました。パレス
ティナ、コロンビア、ダルフール、イラク、そして米国内の移民たち。そればかりでな
く、米国の軍事力が、世界の人々を暴力の恐怖におとしめていることは、イラク、アフガ
ニスタンはじめ米軍基地の存在しているところを見れば明らかです。不幸なことに日本の
皆様も私以上にこの現実をご存じです。米国政府は、「反テロ戦争」というまったく存在
しなかった政策を正当化するために、9.11を使い、人々の間に恐怖感を煽りたて、そ
れまでは考えられなかったやり方を支持させています。それは米国が国策として認めてい
る拷問であり、侵略戦争であり、市民権の削減なのです。このようなプロパガンダは確実
に効果をあげるものです。恐怖感を煽りたてられた米国民の大部分は、ブッシュ政権がイ
ラク攻撃の理由としてあげたこと、大量破壊兵器の存在、イラクを9.11の首謀者と結
びつけることを信じたのです。しかしこれらの理由は事実無根でした。一方、隠された戦
争の目的、つまりイラクの豊かな石油資源の確保と地域における米国の覇権戦略について
公に話されることは、ほとんどありません。米国では、24時間一日中、私たちはテレビ
のニュース、インターネットの宣伝をとおして、政治的指導者と専門家と称する人たち
が、恐怖のメンタリティを煽りながら、このように現実を理解しなさいとおしつけていま
す。大切なことは、このようなメディアの奥を見届け、米国と世界において平和を脅かす
ものが本当は何であるかを調べ、それにたいしてどう対応するかに取り組むことでしょ
う。
1983年、25年前、米国のカトリック司教団は、歴史に残る平和教書を発表しまし
た。当時の外交政策の軸は、冷戦構造でした。司教の平和教書は、道徳的な見地から政治
を考えるために重要な貢献を与えたとして政府にも認められました。平和教書は核兵器を
非難しましたが、核兵器の使用を防ぐという目的だけのために、膨大な量の核兵器の貯蔵
を正当化する核抑止を非難するまでにはいたりませんでした。核抑止を、非武装化を進め
るための中間的政策として認めたのです。司教団は、平和教書10年を記念して「平和に
よってまかれる正義の実り」を発表し、軍備縮小の内容として、核兵器の全面的な廃止
を、理想ではなく具体的な政策目標として実現することを要求しました。1989年ベル
リンの壁崩壊によって、共産主義の脅威はもはや存在せず、平和な可能であるという希望
が実感できた時でした。
ところが、核抑止は制度として確立され、昨年米国政府は、1500億ドルの予算で現
在ある核兵器のリニューアルを行い、核兵器研究、デザイン、生産能力の向上を提案しま
した。幸い私たちは議会に圧力をかけ、この核再投資計画を今のところ中止させることが
できました。しかし政府は、9.11戦略を行使して、「反テロ戦争」という新しい戦争
に乗りだし、核兵器先制攻撃を核を持たない国にたいしても行うことを認める条項を国家
安全戦略の文書に入れ込み、先制攻撃という危険な考え方をさらに確立しました。これが
イラク攻撃を支えるいわば土台となったのです。今日の世界は、20年前に平和教書が書
かれたときとは、まったく異なっています。「反共戦争」が、「反テロ戦争」に代わり、
テロがわが国を脅かす最大の危険となりましたが、軍事力と支配が答えであるとする政府
指導者の考えには変わりがなく、この答えが間違っているというところも同じです。ご存
知のように数日後に米国では大統領および議会の選挙が行われます。候補者の考え方を見
極める政治的な討論が熱心に行われているのは良いことですが、同時に米国をまっぷたつ
に分けるネガティブなキャンペーンの時でもありました。米国社会の中で人種差別が未解
決の傷として表面にでてきたのです。
今、米国は分岐点に立っています。この選挙の結果を予測することも、選出された大統
領によって米国が今後どのような方向に向かうのかを予測することも簡単ではありませ
ん。確かに二人の候補者の間には違いがありますが、共和党の大統領であれ民主党の大統
領であれ、国際紛争に向かうときに戦争に傾く米国の姿勢が存在していることが問題で
す。つまり大統領の力を超える強力な存在があり、それは軍需産業につながる膨大な経済
権益を意味する米国の軍産複合体であり、スーパーパワーとしての米国を政治的に正当化
する一国行動主義を推し進める巨額な資金を持つ右翼のシンクタンクなのです。米国が経
済パワーとして失速しつつある今、ワシントンが軍事力として戦略的には優位を保ち続け
ていることから、さらに一国行動の軍事主義に走ることを私たち平和運動は恐れていま
す。誰が大統領になろうとも、市民社会が、平和についての新しいビジョンを訴え続け、
戦争のない世界の実現が緊急なニードであることを発言し続けなければならないのです。
2
9月に行われた最初の候補者討論についてお話し、イラクに焦点をあてたいと思いま
す。
それぞれの候補者にイラクについて「イラクから学んだ教訓は何ですか」という質問が
出されました。唯一の答えは、「暴力は暴力を生み出すだけだ」ということだと思って、
私は答えを期待しました。ところが、「学んだ教訓」という答えに、非常に不満を感じま
した。ジョン・マッケインは、昨年の春に実施された米軍増兵のおかげでイラクの暴力は
激減したと答えました。バラク・オバマは、イラク戦争は間違いだったと述べましたが、
テロリストを捕まえるためにアフガニスタンに派兵すべきと答えました。つまり答えは、
とにかく軍隊、軍隊、軍隊ということなのです。大統領選においては、少なくとも米国で
は、候補者が「タフ」である印象を与えることに重点をおきます。米国が軍事的スーパー
パワーであることを見せることによって軍の総司令官となる資格ありと示すのです。本当
の力は、過ちを認め、その過ちから教訓を学べるところにあるはずなのですが。
教皇ヨハネ・パウロ2世は、戦争について「戦争は常に人類にとっての敗北です」と述
べています。1991年の第一次湾岸戦争の際、教皇は力強く戦争反対を訴えられました
が、同じ言葉が現在のイラクの終わりの見えない暴力状況にも当てはまります。「戦争は
二度とふたたび決してあってはなりません。二度とふたたび決して。戦争は罪のない人々
のいのちを破壊し、私たちに殺すことを学ばせ、殺す人びとの生活にも大混乱をもたら
し、憤りと憎しみを残し、戦争の原因となった問題の解決をさらに困難にしてしまいま
す。戦争の原因となるルーツには、深刻で現実的な苦しみ、人々に課せられた不正、正当
な望みの挫折、貧困、平和な手段では何もかなえられないのだと絶望する人々を利用する
メカニズムのがあることを決して忘れてはなりません。」
明らかに、イラクは、暴力は暴力だけをもたらすことを示すケーススタディです。犠牲
者の数を見ても、双方のいのちが数かぎりなく失われています。4000人以上の米兵、
そして100万人以上のイラク人が死亡していると推定されます。イラク人の5人に1
人、400万人が戦争難民となっています。「殺す側の人々の生活にも大混乱をもたら
す」事実を見ると、32万人以上の米兵が、脳に受けた傷の後遺症に苦しみ、25万人以
上は戦争体験によるPTSDの影響を一生背負うことを余議なくされています。
「戦争は憤りと憎しみを残す」という事実については、米軍が侵略する前のイラクの状
況について考えなければなりません。イラクにおいてシーア派とスン二派の間に対立が起
こったことはかつてありませんでした。彼らの間の結婚は、ごく普通に行われていまし
た。イラクにアルカイダは存在していませんでした。「反テロ戦争」の旗印のもとに勃発
した戦争が、憎悪とますます悪化する過激な暴力を煽りたてたのです。イラクを分析する
多くの人々は、議員も含めて、米軍の占領が暴力状況を悪化させており、それは米軍が
「反乱者」にとって「共通の敵」となっているからだと説明しています。軍事力に頼り、
軍事力による成功を主張することは、内部対立と暴力の一時しのぎにはなるかもしれませ
んが、長期間の安定を確立するための政治的な土台を考えるためには役立たないでしょ
う。軍事戦略ではなく、外交手段の強化こそイラクと周辺地域における長期の平和につい
て真の希望を与えるものです。イラクが今必要としているのは、全国的和解のプロセスに
よりすべてのグループが、交渉のテーブルにつき、地域の安定について話しあうことで
す。保安の問題は深刻ですが、統一された主権国としてのイラクであるならば、過激分子
と交渉することもできるでしょう。米国は、地域の和平について交渉するプロセスに干渉
する合法性をもたないのですから、引き下がるべきです。米国が占領を決定的に終了し、
安定化を国際社会に委ね、イラクに米軍基地を残さないという当初の約束を守ることが必
要です。再び活性化されたイラクが国連、アラブ連盟などと協力することによって、戦争
のもたらした分裂をいやし、安定化へのマップをつくりあげることができるはずです。
米国がイラクから教訓を学ぶことがなければ、私たちはアフガニスタンで同じ過ちを犯
す瀬戸際に今いると恐れています。すでにアフガニスタンでは米軍の増強が行われていま
す。タリバンへの空爆は市民を殺しています。最近に空爆で、90人の市民が殺害された
と国連が発表していますが、そのうちの60人は子供たちでした。テロと戦うどころが、
このような軍事行動によって国民のタリバン支援が強化されているのです。
今日の平和の課題は多く、複雑です。イラク戦争と兵器によって沈没するような世界に
いる私たちは、さらに悪化する貧困、企業主導の経済のグローバル化による不正のシステ
ム、生きるための闘いと共存する途方もない浪費の現実に直面しています。また諸宗教間
の対立、「敵」を悪魔とする傾向も見られます。拷問、深刻化する人種差別と外国人排斥
を容認し、正当化することも課題です。
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米国内における課題について述べたいと思います。
スキャンダルである軍事費の増大は、貧しい人々を直撃し、社会保障の予算の削減をも
たらしています。昨年飢餓人口は3500万人以上、300万の野宿者が、橋の下、シェ
ルター、教会の地下室で生活しています。200万人が刑務所に、4700万が医療保険
なしです。イラクから帰国した人々の中には、適切な医療を受けることができずにいま
す。とくに精神的疾患への治療を受けられずに自殺する元兵士が増えている事実は、実に
悲惨です。ハリケーンカトリーナから3年がたちましたが、ニューオルレアンズの観光地
帯やホテルは再建されましたが、もっとも貧しい数千人は、今もって我が家に戻ることが
できないでいます。
現在米国を直撃している金融危機は、もっとも貧しい人々、またすでにローンを払えずに
家を失った人々に、ますます深刻な影響を与えるでしょう。米国の司教団は、10年以上
前に「すべての人々に経済の正義を」という教書を発表しましたが、その中で、まず経済
は人間のためであり、その反対であってはならないと強調して、「貧しい人々と弱者こ
そ、経済の道徳的価値を測る基準であるべき」と指摘しました。ウォールストリートの救
済に政府が乗り出すという討論において、新しい経済政策の基準どころか、貧しい人々や
弱者についての話が出ることは一切ありませんでした。
もう一つの国内課題は、移民の問題です。パックスクリスティ米国は、「外側の戦争、内
側の戦争」とういイニシャティブに取り組んでいると冒頭申し上げましたが、内側の戦争
とは、移民と白人以外の人々にたいする恐怖と脅迫のキャンペーンを意味します。これは
9.11以降の「反テロ戦争」という旗印で行われているものですが、とくに南アジアか
らの移住者、米国のイスラム共同体、またヒスパニックの移民を標的としています。敵意
に満ちた反移民感情が、保守的なラジオのトークショーやブログをとおして超保守勢力に
よって煽りたてられています。不寛容と憎悪は、おそろしい人種差別主義の表現です。数
としては少数であっても、その声は大きく、ぎょっとするようなものです。市民の自警団
が、米国とメキシコの国境地帯に常駐し、ヒスパニックの指導者や移民の人権を守る活動
をしている人々には死を予告する脅迫状が送られています。政府は9.11以後、国土安
全保障省と移民税関管理局を設置しました。移民税関管理局は、不法残留の労働者を逮捕
するために職場の捜査を行います。ミシシッピでは、600人近い人々が逮捕拘留され、
多くの人々が強制送還されました。この大量逮捕で残されたのは300人近い5歳以下の
こどもたち、187人の就学児童で、両親ではない人びとの世話にならなければなりませ
んが、政治家たちの中には、誰が一番強行な移民政策を実施できるかと自慢する人もいる
のです。第二次世界大戦中に、日本人移民が収容所に入れられた大変悲しい歴史の記憶が
重なります。
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私たちは多くの課題をかかえていますが、最後に「どのように応えるか」についてお話
したいと思います。
今、これほどの貧困、人種差別、拷問と軍事主義の赤裸々な現実において平和のチャレ
ンジに向き合い、私たちのささやかな努力を見るときに、落胆し、希望をうしないがちで
す。イラクにたいして米国が始めた不法で非道徳な戦争は、米国と世界にこの上もない危
険な前例、先制攻撃という許されない前例を作ってしまいました。しかし、暴力と戦争に
かわるやり方は存在するのですから、私たちは戦争廃絶のビジョンを大胆にかかげること
が必要です。国際紛争に対して武力に頼るのではなく、多国間の外交的な和平プロセスに
頼るやりかたに切り替えなければなりません。国家の安全保障は、世界の人々と正義の関
係を構築する「誰も排除しない」人間の安全保障として再定義されなければなりません。
一国の国益は、グローバルな共通善、正義、協力と包括性(排除しない)のために働くこ
とと無関係に検討されてはならないのです。
非暴力とは、ただ武力の行使を避けるということではなく、もっと深い考え方を意味し
ています。非暴力は、正しいかかわりであり、正義と相互関係を求めること、異なった考
えをもつ人々が、お互いを尊敬しながら、双方にとって有益な解決を真剣に探し求めるこ
とを意味しています。
日本の憲法9条は、非暴力を国のありかたとする証であり、私たちが深く称賛するもの
です。9条を守る私たちの協働が成功し、日本が軍事主義と戦争がもたらす暴力の悪循環
の罠に落ち込まないことを心から望みます。9条が存在し続けることは私たちに希望を与
えます。9条は、政治的な意志があれば、非暴力が国の政策として成立しうるというモデ
ルだからです。世界は、このようなモデルを必要としています。戦争のない世界は可能で
あり、そのために行動しなければならないと信じるイマジネーションが必要なのです。
内的な力を持つ国だけが、対話と責任ある関わり方を国の根本的な政策として受け入れ
ることができます。一国が過去の行為について責任をとらず、敵対していた相手と対話を
拒否することは、その国の弱さの現れです。軍事的解決に走ることは、偽りの愛国心の旗
印によって、驚くほどの弱さを隠すことに他なりません。それは「力が正しい」とする嘘
の表現です。米国に住む私たちは、この事実を知りすぎるほど、知っています。
政治家たちが、国策を講じるのを待ってはいられません。彼らがグローバルな共通善の
ために努力することも、戦争廃絶を呼びかけることもないでしょう。しかし国の指導者た
ちが見ないところ、発言しないところを私たちは見、発言しなければなりません。新しい
ビジョンを提供し、この機会を逃してはならないのです。
私たちは、前線に立ち、物事の道徳的側面を指摘し、非暴力を必要とする緊急課題に応
え、正義と平和への渇望に応えなければならないのです。米国の平和運動には、様々な行
動の表現があります。毎日のように、国中の町や市において、私たちは平和の抗議行動を
続け、イラクからの撤退を要求し、拷問廃止のキャンドルサービスを絶えず行っていま
す。戦争と平和について、広く一般にアッピールするティ―チ・イン、また議員にたいし
て訪問、電話アッピールなどを一斉に行う日を定め、議決について私たちの意見を伝えま
す。もう一つの世界は可能であり、どうしても必要です。私たちこそ待たれていたリー
ダーであり、人々が指導するならば、政治指導者がそれに従うでしょう。正義と平和を渇
望する私たちが、戦争にかわるオルタナティブについて発言し、非暴力の預言的展望を訴
え、平和のために働かなければならないのです。世界が必死に求めているのは、まさにこ
の行動です。私たちは瀬戸際に立っています。公民運動のリーダー、キング牧師が言った
ように、国として私たちは「非暴力あるいは破滅すること」のいずれかを選びとるところ
に立っているのです。
最後に司教団メッセージ、それも米国ではなく日本の司教団が敗戦60年に発表した
メッセージから引用して話を終わります。この美しいメッセージに大変感銘を受けまし
た。
『戦後60年平和メッセージ 非暴力による平和への道∼今こそ預言者としての役割を
∼』から。
「2001年9月11日に米国で起きた「同時多発テロ」と、それに続くアフガニスタンやイ
ラクに対する攻撃は、世界に衝撃を与え、深い亀裂をもたらしてしまいました。これらの
武力攻撃は、暴力の悪循環をもたらしています。軍備と武力行使によってではなく、非暴
力を貫き対話によって平和を築く歩みだけが「悪に対して悪をもって報いるという悪循環
から抜け出す唯一の道」なのです。これはガンディーの非暴力による抵抗運動などが示し
ているように、多くの人々の共感をよぶものです。この非暴力の精神は憲法第9条の中
で、国際紛争を解決する手段としての戦争の放棄、および戦力の不保持という形で掲げら
れています。60年にわたって戦争で誰も殺さず、誰も殺されなかったという日本における
歴史的事実はわたしたちの誇りとするところではないでしょうか。」
確かに、皆様はこの事実を誇る権利を持っておられます。私の国も同じように言えたら
と心から思います。メッセージは、教皇ヨハネ・パウロ二世の『平和アピール』の言葉で
くくられています。
「正義のもとでの平和を誓おうではありませんか。今、この時点で、紛争解決の手段と
しての戦争は、許されるべきではないという固い決意をしようではありませんか。人類同
胞に向かって、軍備縮小とすべての核兵器の破棄とを約束しようではありませんか。暴力
と憎しみにかえて、信頼と思いやりを持とうではありませんか。」
ですから疲れることなく歩み続けましょう。戦争が廃絶する日を見ることはないだろう
し、貧困は常に存在するだろうと希望を捨てる誘惑を感じるかもしれませんが、希望を
もって進みつづけなければなりません。
We can do it̶together.
一緒に働くとき、それが確かにできるのです。
(2008年10月29日 東京)