イエス弟子たちを遣わされる

主日集会 2016.9.11
イエス弟子たちを遣わされる
ルカ福音書9:1-9
マルコ福音書1章15節で、イエスはこう宣言しておられる。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を
信じなさい。」と。イエス・キリストによって、天なる出来事がこの地の出来事となった。天と地がつながった。イ
エス・キリストにおいて「神の支配」がこの地に来た。その宣言である。
9:1 イエスは、十二人を呼び集めて、彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と
さず
近くなったと言っても、はるか向こうからだんだんこちらに来つつあると言うのではない。もう来ている。今、
「イ
エス・キリストはここに立っておられる」
。だから悔い改めて心の方向を180度転向して、今まで無視していた神に
権威とをお授けになった。
9:2 それから、神の国を宣べ伝え、病気を直すために、彼らを遣わされた。
その心を向け、神に服する。これが悔い改めである。そして、この神の限りない喜ばしい福音を信ぜよということ
9:3 イエスは、こう言われた。「旅のために何も持って行かないようにしなさい。杖も、袋も、パン
である。
かね
とうらい
すなわ
キリストこそ「神の国の到来」である。キリストを受け入れること、 即 ち「神の国の支配を受け入れること」、
も、金も。また下着も、二枚は、いりません。
9:4 どんな家に入っても、そこにとどまり、そこから次の旅に出かけなさい。
キリストに従うこと、神の支配に従うことである。だから、神の国を宣べ伝えるということは、言い換えればイエ
9:5 人々があなたがたを受け入れない場合は、その町を出て行くときに、彼らに対する証言として、
ス・キリストを宣べ伝えることである。
イエス・キリストなしに「神の国」はありえない。私たち罪人には到底神の「聖なる国」を受ける資格はない。
足のちりを払い落としなさい。」
9:6 十二人は出かけて行って、村から村へと回りながら、至る所で福音を宣べ伝え、病気を直した。
こく しゆ
とう わく
9:7 さて、国主ヘロデは、このすべての出来事を聞いて、ひどく当惑していた。それは、ある人々
が、「ヨハネが死人の中からよみがえったのだ」と言い、
9:8 ほかの人々は、「エリヤが現れたのだ」と言い、さらに別の人々は、「昔の預言者のひとりがよ
みがえったのだ」と言っていたからである。
9:9 ヘロデは言った。「ヨハネなら、私が首をはねたのだ。そうしたことがうわさされているこの人
は、いったいだれなのだろう。」ヘロデはイエスに会ってみようとした。
しかし感謝なことに、イエス・キリストにおいて、私たち罪人が罪人のままで、このだめなままで神の国を受ける
ことができる、その支配に入れていただくことができる。ここに福音がある。
すなわ
その接触の場、そこにイエス・キリストが立っておられる。だから「神の国の宣伝」は 即 ち「イエス・キリスト
すなわ
の宣教」である。だから弟子たちが遣わされる第1の目的は、神の国を宣べ伝えること、 即 ち「イエス・キリスト
を宣べ伝えること」である。
《体の救いは魂の救いのため》
それから、「病気を直すために、彼らを遣わされた」とある。「神の国の支配」即ちイエス・キリストによる救い
は、「魂の救い」であると同時に、この魂の宿り場であるところの「体の救い」でもある。体から離れては「魂」は
その場所を持たない。だから、「魂の救い」は同時に肉体の救いに及ぶ。主ご自身が多くの病人をいやされた。体を
【祈りながら考えよう】
(1)ヘブル2:3-4によれば、当時の弟子たちのメッセージは「そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力
あるわざ」によってあかしされたとある(ヘブル2:3-4)。今日の福音宣教にも奇跡的な「いやし」(しるしと
不思議)が伴うことが、必ず必要なことだと言えますか。
(2)神の国とは「神の支配」の意味。神の国の福音を伝える者の心得を言ってください。
(3)ヘロデはなぜイエスに会ってみようとしたのですか。
【解
説】
《はじめに》
イエスはこれまで、弟子たちを連れて村々町々を回って福音を伝え、さまざまな働きをしてこられたが、求める
お救いになった。そうしながら神の国の福音を宣べ伝えていかれた。
ここで体のことというのは病気だけのことではない。経済問題、様々な人間関係、いろいろな世との関係、仕事
も生活も、そういう一切の具体的な出来事がある。この具体的なことだけが救われるみたいに、全く「魂を置き忘
れて」、いつも体のいやしだとか経済的な救い、あるいは仕事の上の事だとか人間関係における救い、そういういわ
り やく
ば「現世的な救い」だけを目当てとするご利益信仰になる。これはどちらも「神の国の真の救い」を受ける出来事
ではない。イエス・キリストを信じて救われる本当の救いではない。
「魂の救い」だけが宣べ伝えられる、というのなら、イエスは弟子たちに、すべての悪霊を制し、病気をいやす
力と権威をお授けになる必要はなかった。神の国を宣べ伝え、かつ病気を直すために遣わすという必要はない。
しかし、神の国の救いの第1の目的、それは「魂の救い」である。体をいやす、あるいは死人を生き返らすという
ことは第1の目的ではない。手段であって目的ではない。「魂の救い」にともなう出来事である。
《究極的救いの完成に向かって》
者が多く、イエスお一人では手が足りない。神の子といえども今は制限された人の肉体をとっておられるイエスで
あるから、ここにいて同時に他にあることはできない。そこでイエスは、より多くの町々村々に「神の国の福音」
を伝えるために、十二人の弟子たちを遣わすことにされた。それが今日のところの記事である。
8章の終わりで、イエスが会堂管理者ヤイロの娘を、もう一度回復なさった、これもイエスの与える救いそのもの
ではない。ヤイロの娘が、もう一度元気になったとしても、やがてまた病気になり、あるいは何かの事故で死ぬか
もしれない。年取って死ぬ、ただ体が元気になったというだけでは、本当のイエスの与えようとされる救いはそこ
(1)イエスは、十二人を呼び集めて、彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威と
をお授けになった。それから、神の国を宣べ伝え、病気を直すために、彼らを遣わされた(1-2節)
にはない。イエスがこのように回復なさるのは、もう一度元気になって、今度は「魂の救い」を受けさせるためで
ある。そのための病気のいやしであり、そのこと自体が目的ではない。
「それから」という、その言葉には、伝道を開始されてから既に少なくとも2年ぐらいは経過している。そこで
私たちに対する神の救いは、主の再臨の時
イエスは自分に代わってあちこちに遣わそうとなさって、まず十二弟子をご自分のもとに集められた。そしてご自
の第2段階で、主と同じ朽ちない「栄光の復
身の力と権威をこの十二弟子にお授けになった。これがイエスの遣わし方である。弟子たちはただ行くんじゃない。
活の体」を与えられる時、
「からだが贖われる」
イエスから権威を授かり、力を授かって遣わされるのである。即ち、神の子イエス・キリストが背後にあって、後
(ロマ8:23)。
ろ盾となって遣わされる。そしてその力は、悪霊を制し、病気をいやす力である。それから権威である。これはイ
エスご自身が持っておられた権威であり、神の子の権威、神と等しき権威である。
とうらい
《神の国到来の宣言》
彼らが遣わされるまず第1の目的は、
「神の国を宣べ伝える」ということである。
「神の国」は「神の支配」である。
神の聖なる正しい支配、愛ある支配である。神の支配すなわち神の国は、何によって来ているのか。それはイエス
・キリストによって来ている。
究極的第3段階で「新天新地において永遠
に神とともに住むこと」(黙示録21:3)であ
る。それが神がキリストを遣わしてくださっ
たご目的である。
だから、イエスが山上の垂訓の中で語られたように「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、
それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)。そして神はすべてのことを働かせて益とし
てくださり(ロマ8:28)、私たちに「永遠の救い」を全うさせてくださる。
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主日集会 2016.9.11
こころ え
《旅の 心 得》
こころ え
それから、神の国を宣べ伝え、病気を直すために、彼らを遣わされた」そこで、どういう「 心 得」を持って旅し
こころ え
ていくのか、その旅の「 心 得」を弟子たちに与えておられる。これはキリストによって遣わされて行く使徒、伝道
者だけのことではない。私たちすべての信者が、神の国の支配にゆだねていく毎日の生活の中において、ここに語
こころ え
られているこの 心 得をもって生きていくのである。神の国の支配にゆだねていくそのあり方である。
神の国を伝える者であるから、まず伝える者自身が、神の国の原理にのっとって、神の国の支配の中にあって伝
えていくのは当然のこと、キリストの使いとして遣わされて行く者は、そのまま身をもって「神の国の支配を現し
ていく者」でなければならない。
(2)イエスは、こう言われた。
「旅のために何も持って行かないようにしなさい。杖も、袋も、パンも、
金も。また下着も、二枚は、いりません。どんな家に入っても、そこにとどまり、そこから次の旅
に出かけなさい。人々があなたがたを受け入れない場合は、その町を出て行くときに、彼らに対す
る証言として、足のちりを払い落としなさい。」(3-5節)
この旅は神の国の支配をあらわす旅である。全能なる神は豊かである。だから様々な人間の心遣いをもって、旅
のためにいろいろ用意をしていく必要はない。その身柄は全部神が引き受け、責任を負って下さる。
使徒ということは遣わされる者ということ。地上の国でたとえるなら、国から他の国へ遣わされるところの全権
大使みたいなもの。大使の背景はその者の属する国である。アメリカの大使なら、アメリカがその背景にある。そ
の全責任はアメリカが負っている。
神の国は神ご自身の支配である。どんな地上の国より、神の直接支配なさる国を負っている使いである。ならば
何も自分で心配する必要はない。ただ体ひとつ身軽でいけばいい。旅は身軽なほどいい。余分な杖や余分な下着を
持たない非常に簡素な生活をすべきだった。
最初に自分たちを歓迎してくれた「家」に滞在しなければならなかった。もっと快適な家があるのではないかと
期待して、転々と宿泊先を変えてはならないということである。滞在を延長したり、メッセージを拒む人に圧力を
かけたりしてはならなかった。むしろ、「彼らに対する証言として、足のちりを払い落と」すよう指示された。
(3)十二人は出かけて行って、村から村へと回りながら、至る所で福音を宣べ伝え、病気を直した(6節)
おそらくガリラヤの町や村で、弟子たちは「福音」を宣べ伝え、人々の病をいやしたのだろう。彼らのメッセー
ジが御国に関するものであったということを忘れてはならない。王であるお方が彼らのただ中におられるというこ
と、そして、そのお方が悔い改めた人々を喜んで治めてくださるということを告げ知らせたのである。
(4)さて、国主ヘロデは、このすべての出来事を聞いて、ひどく当惑していた。それは、ある人々が、
「ヨハネが死人の中からよみがえったのだ」と言い、(7節)
当時のガリラヤとペレヤの「国主」は「ヘロデ」・アンティパスだった。彼は、父親であるヘロデ大王が治めてい
た領地の4分の1を支配していた。彼の領地で何者かが力ある奇跡を行っている、という知らせが彼のもとに届いた。
彼はすぐに罪の意識にさいなまれた。バプテスマの「ヨハネ」の記憶が、まだ彼の心を悩ませていたのである。
ヘロデはヨハネの首をはね、恐れを知らないヨハネの口を封じた。しかし、彼はいまだにヨハネの人生が及ぼし
た力に取りつかれていた。ヘロデは絶えずヨハネのことを思い出させたこの人物は、いったいだれだったのか。「ヨ
ハネが死人の中からよみがえったのだ」とうわさする者たちもいた。
(5)ほかの人々は、「エリヤが現れたのだ」と言い、さらに別の人々は、「昔の預言者のひとりがよみ
がえったのだ」と言っていたからである。ヘロデは言った。「ヨハネなら、私が首をはねたのだ。そ
うしたことがうわさされているこの人は、いったいだれなのだろう。」ヘロデはイエスに会ってみよ
うとした。(8-9節)
他の者たちは、「エリヤ」か、もしくは(エリヤ以外の)旧約の「預言者のひとり」ではないかと思った。「ヘロ
デ」は、自分がヨハネの「首をはねた」ことを他の者たちに告げることによって、自分の恐れをやわらげようとし
た。しかし、不安感を取り除くことはできなかった。「この人は、いったいだれ」だったのだろうか。彼は「イエス
に会ってみようとした」が、救い主が十字架にかかられる直前までそれは実現しなかった。
主イエスは、ヘロデを震え上がらせた。聖霊に満たされた人生はこれほどの力をもたらす。聖霊に満ちた人の影
響力を決して過小評価してはならない。
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