伊藤 恵

伊 藤
恵
シューマンの作品に取り組むようになっ
した。余談ですが、子どもの頃家の近くに
てから20年近く過ぎてしまいました。なぜ
あったお墓で遊ぶのが大好きで、勝手に野
こんなにシューマンに想いを寄せるように
花を摘んではどこの家とも知れないお墓に
なったか考えてみますと、何かの節目にシ
供えて喜んでいました。今思うと、そんな
ューマンの作品と出会い、そこで深く関わ
時の気分にシューマンの民謡はぴったりだ
っていくたびに彼の内面の美しい世界の虜
ったのでしょう。有賀先生にはピアノを続
になっていったのかもしれません。そして
けても宜しい、レッスンも先々見ましょう
不思議なことに二人の恩師有賀和子先生、
と言って頂いた大切な思い出の曲になりま
そしてオーストリアのハンス・ライグラフ
した。
先生の前で初めて弾いた曲がシューマンの
作品だったのです。
その後有賀先生のもとで研鑽を積んでい
た桐朋学園高校三年生の時、ハンス・ライ
有賀先生との出会いは私が5歳の時、当
グラフ先生が桐朋に公開レッスンの為に来
時は有賀先生の愛弟子でいらした辻井康子
校なさいました。今度は有賀先生がぜひラ
先生にお習いしていたのですが、桐朋の子
イグラフ先生のレッスンを受けてみなさい
供のための音楽教室での試験の為、康子先
と薦めて下さって受講がかないました。そ
生が有賀先生のレッスンを受けるよう薦め
の時の曲がやはりシューマンの幻想小曲集
て下さったのでした。そして初めて有賀先
作品12でした。レッスンはユーモアに溢れ
生の前で弾いた曲がシューマンのユーゲン
ていて、3曲目の「なぜ?」という可愛い
トアルバムの中の数曲だったのです。特に
曲をあまり大真面に弾いたら、貴女のはシ
民謡という曲が大好きで、哀愁を帯びたテ
ェークスピアの悲劇みたいだとにこにこ笑
ーマにこんなに悲しい音楽があるのかと子
われるので、こちらも思わず吹き出してし
どもながらに感動して、以来シューマンと
まいました。結局二回に分けて全曲見て頂
いう作曲家に不思議な親しみを持ったので
け、ザルツブルクのモーツアルテウムに留
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学して私のもとで勉強しませんかとお誘い
を一番最初にクララに見せていたように、
まで受けたのでした。
ブラームスもいつもクララに助言を求めて
両親は18歳という若さで外国に一人で送
いたのでした。
り出すなどとんでもないと大反対だったの
シューマンとブラームスに愛された女性
ですが、有賀先生がこんなチャンスはそう
の存在ということは、もう本物のミューズ、
そうあるものではないですよと説得して下
女神様でしかありえない、ちょいと単純な
さって留学が叶ったのでした。
私はすっかりクララに憧れてしまったので
私にとってのピアノの母は有賀先生、父
した。
はライグラフ先生なのですが、そのお二人
デビューした頃のインタビューで、クラ
との出会いがシューマンだったというのは
ラ・シューマンみたいな女性になりたい
不思議な気持ちがします。
と、恥ずかしそうに言ってましたから、憧
さて、留学が決まった時にやはり音楽好
れは本気だったのですね。あの時代に沢山
きの伯母がお餞別にと一冊の本を渡してく
のこどもを生んで育てながら演奏活動もし
れました。それは、原田光子著の真実なる
て、飛びきりのスーパーウーマンです。残
女性クララ・シューマンでした。
念ながら足もとにもおよびませんが、来年
クララという素晴らしい天才ピアニスト
シューマンの没後150年という節目の年に、
であった彼女の存在なしにはシューマンの
そのクララの作曲したピアノコンチェルト
初期のピアノ作品は生まれていなかった、
を弾くことになっています。いつか、一晩
許されぬ恋のために会うこともままならな
でロベルトとクララのコンチェルトを弾け
かった二人が交わした手紙の熱きこと、そ
たらどんなに幸せでしょう。私にとってシ
してシューマンは彼女のために、手紙では
ューマンの作品はとても大切な宝石のよう
現しきれない溢れ出る音を書き送った、ま
なものです。一音一音が心の中で光りを放
さに彼女に捧げた愛の音楽・・・・・。
って暖かく輝くのです・・・・
クララはシューマンの死後はブラームス
(いとう
けい
東京芸術大学助教授)
にも愛されて、シューマンが作曲した音楽
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