オノデラユキ 写真の迷宮へ ─ 創造する写真 20 年の軌 跡 ─ 岡部友子 窓 辺に立 つ 身 体 のない古 着。 ファッションモデルのような女 性のシルエッ トの内 部 には、 夜の 街 頭 や歴 史 遺 産などの風 景 が 隠されて いる。 群 衆 の 頭 上には白 い 光 の玉 が 浮 かび、 古 典 的 な 静 物 画 を 装ってビーズ 製 の 犬 の人 形 やジャンク・フードの 袋 が並ぶ 。 オノデラユキ の 作 品 は、「 写 真 」という一 般 的 概 念 に 収まりきらないとこ ろにその魅 力と特 質 がある。 あるときはカメラに細 工を施し、 またあるとき はコンピュータを使 い、 モンタージュやコラージュなどの 技 法を用いながら、 日常の風 景 や事 物 を、 私 たちの 想 像 を 超 えた視 覚 世 界 に作り変 える。 オノ デラユキ の 作 品 を 通 覧してみると、そこにはイメージの玉手 箱 を 開 け たよう に、 さまざまな写 真 表 現 がちりばめられていることに気づく。 どれも手 の 込 んだトリックが 仕 組まれ、 イリュージョンのように 私 たち を 幻 惑 するのだ。 次 はどん な仕 掛 け が 隠されて いるの か、 オノデ ラユキ の 作 品 には、 つ い そ ん なことを期 待してしまう面白さがある。 しかしその 一方 で、 写 真そのもの に対 する批 評 的 態 度 が根 底に貫かれている。 本稿では、パリを拠点とし国際的なスケールで、新たな写真表現に挑み続け るオノデラユキの 20 年 の軌 跡 をたどりながら、その 創 造の秘 密に迫りたい。 1991 – 93「写真新世紀 」からパリへ オノデ ラユ キ は 1962 年 東 京 に 生 まれ た。 桑 沢 デ ザイン 研 究 所 卒 業 後、 服 飾 デ ザイナ ーとしてアパレル・メーカーに勤めるが、 流 行 に左 右 される商 業 ベースの 仕事 に 馴 染 めず、 写 真作 家の 道 を 歩 み はじめる。 写 真 は 独 学 で ある。 当初は父 親のカメラを使 い、 路 上でのスナップや自ら制 作した抽 象 絵 画やオブジェを写すなど模 索を繰り返した。 19 91 年 、「 第 1 回 写 真 新 世 紀 」 [ P. 15 8 ]は に 出 品した〈 君 が 走 って い るの だ、 僕 はダ ン ボ の 耳で 君 を 待 つ 〉 A 3 判のスケッチブックに 11 枚の モノクロ銀 塩プリントを貼り付けたものだ。 シュールなタイトル、 画面には 箱 型の 空 間 や 窓に日輪 のような円、 月の満ち 欠けや 水 滴を思わ せる抽 象 的 な 形 態 が浮 遊している。「 謎 めいていることは 貴 重 である 」と評 され、 優 秀 賞 を 受 賞 する[ 註 1 ]。 これと並 行して、 深 夜 に 156 屋 外で自ら白 いシ ーツを か ぶり、 お 化 け のような 人 影 を 撮 影した シリーズ [ P. 159 ]を 制 作 、その白く浮 遊する謎めいたイメージは次の 〈 Dog 〉 ( 1991 年 ) [ P. 16 0 ]へとつながって いく。〈 白と玉 〉 シリーズ〈 白と玉 〉 ( 19 9 2 – 93 年 ) は いくつもの白い 球 体 が 書 斎 や 茶 の 間、 廃 屋の 空 間に出 現し、 漂 い、 鞠 のよ うに弾 み 、 見慣れた風 景を異 次 元の空 間に変えた。 この 初 期 3 シリーズは、抽 象 的 でありながら、巧みな構 成により詩 的 な 余 韻 を 残 す作 品である。 19 93 年 、 オノデラは自身 の インスタレ ーションによ る 初 個 展「 白と 玉 」を 細 見 画 廊 で 開 催 。 また 同 年 、 詩人 小見さゆりの 詩と 写 真 を 組み合わ せ た 詩 集『 25 オンスの 猫 』 ( 白 水 社 )を 刊 行し、 その 新しい 才 能 は 写 真 界や 美 術 界で 多くの 注目を 集 めた。 しかし、 オノデ ラは日本 で の評 価に執 着することなく、 その 年 のうちにパリに旅 立っていった。 写 真 家 オノデラユキが 誕 生した 19 9 0 年 代、 日本 の 写 真 界 はどのような状 況であったのか、 そして彼 女はなぜパリを選 んだのだろうか。 オノデラユキ の才 能 を見いだした「 写 真 新 世 紀 」は、 19 91 年 に 若 い才 能 を発 掘するための写 真公募 展として創 設された。飯 沢 耕 太 郎( 写 真 評 論 家 ) 、 荒 木 経 惟( 写 真 家 ) 、南條 史 生( 現 代 美 術キュレイター)の 3 名の 選 考 委 員が、 それぞれの 視 点 から若 い才 能 の 発 掘 にあたった。 商 業 写 真や 報 道 写 真が主 流 であった写 真 界 に、 初 めて作 家 志 向の 写 真 家 の 発 表 の 場として 誕 生した この 公 募 展 は、 19 92 年から始まった「 ひとつ ぼ 展 」とともに、 9 0 年 代 の 新 たな写 真 の 土 壌 づくりに大きく貢 献したといえるだろう[ 註 2 ]。 受 賞 者 には、 高橋ジュンコ、H I ROM I X 、野口里佳 、蜷 川実 花、澤田知 子らがおり[ 註 3 ]、 独自の 感 性をもった女 性 写 真 家を多く輩 出したことも、特 筆すべき点である。 「写 真 新 世 紀 」という公募 展 の名が 象 徴 するように、 90 年代の日本の写 真 界 は 新しい局面を 迎 えていた。 70 年 代 末 から、 写 真 を専 門とする美 術 館や ギャラリーが相 次いで 誕 生し[ 註 4 ]、 徐々に写 真がコレクションの対 象として 市 場で注目されるようになったのだ。 それまでは、 主に写 真 集やグラフ誌 な ど印刷 媒 体が写 真の完 成 形態であり、銀塩プリントは単 なる印刷原稿であっ たが、美 術 館やギャラリーで展 示されるようになると、オリジナル・プリント はひとつ の 作 品として 扱わ れるようになった。 また、 展 示 においてインスタ レ ーションが重 視され、現代 美 術と写 真の関 係が緊 密になっていった時 代で もあった。オノデラはその象 徴 的 存 在であったといえるだろう。 一方、 オノデラの向かったフランスではどうか。 当 時、 パリの 写 真 を取り 巻く様 子を「 パリ写 真 月間 」ディレクターを 務 めたジャン=リュック・モンテ 157 158 君が走っているのだ、僕はダンボの耳で君を待つ You Are Running. I’ m Waiting with Ears Like Dumbo ’ s 1991 Dog 1991 159 160 白と玉 White and Sphere 1992 – 93 ロッソは、 次のように 語 って いる。「 ……いまだ か つてない 創 造 の目覚 めが あった。 そ れ まで主 流 であったアメリカの 影 響 を 捨 て、 興 奮と熱 心 な 問 題 [ 註 5 ]。パリ 意 識 に動 かされて、 新しい見 通しと実 践 の試 み をおしす すめた 」 で は、 8 0 年 代 に「 パリ写 真 月間 」が 始まり、 公 的 機 関 による大 規 模 な写 真 コレクション が 誕 生し、 国 立 写 真 学 校 が 創 設 され た。 そして、 先 鋭 的 な 表 現を行う写 真作 家 が 集まり、 彼らの 作 品を扱うギャラリーも質 量ともに増 加 した。 そ れ に 加 えてアー ティストへ の 公 的 支 援 も充 実し、 美 術 家 の 組 合 に 加 盟 すると、 外 国 人であっても公 共アトリエ を 安く借りることが で きた。 パ リは オノデラにとって 理 想 的 な 都 市 であったのだ。 フランス語で「 フォトグラフィ」は「 光( フォト) で描く ( グラフ ) 」ことで、「 真 を写す」と書く日本 語 の「 写 真 」とは、そもそも語 の成り立ちが異 なる。 オノ デ ラは「 町の 古 い 写 真 館 にお ば あさん が やって 来 て、 自分 の 飼 い 猫 の 写 真 を取り出し、 猫 の目の 色をブル ーにして欲しいと注 文していた。 この国では 写 真 の 色 を 変 えてしまうことがごく普 通に行わ れて いるの を目の当たりにし 驚 いた 」と語 って いる。 写 真 が「 光 の 画 」として、 表 現 手 段 のひとつと捉 え られているこの地で、 オノデラは作 家として 育まれていったのだ。 1994 – 96「 Down 」3 部作 不安定な宙吊り状 態ということを自ら認め、そこから世界を見るなら ば、自ずとすべてが見えてきます。何かに所属していることを否定し 異邦人となることを選ばなければならない。つまり、足をつけるべき 大 地さえもフィクションにすぎないということを理 解しなければなら [註 6 ] ないのです。 パリに落ち着いたオノデラは、最初に〈液体とコップ 〉シリーズ[ PP. 138 – 39 ] の 制 作に取りかかった。 コップ を倒し、 こぼれ 出た液 体 をクローズ アップ で 撮 影する。 その 作 業 を、 スケッチするかのように何度も繰り返した。 液体 は 表 面 張 力により盛り上 がり、 いまにも流 れ 出しそうな状 態 のまま静止して い る。 ぼんやりした 光 の室 内 で 起きた、 小さなアクシデ ント。 実 物よりはるか に大きく見せることによって、 日常のありふ れた 光 景 の中に潜 む、 不安 定 で あることの心 地よさと、 謎 めくイメージの 存 在を突きつけた。 次に 着 手したの が〈 古 着 のポートレ ート〉シリーズ[ PP. 14 2 – 55 ]だ。 モン マ ルトルにあるアパルトマンの 窓 を 背 景に古 着を直 立させ、室 内の白い 壁 全 体 161 に向かってフラッシュをたき、 光を反 射させて撮 影した。 この古 着は、 フラ ンスの 美 術 家クリスチ ャン・ボ ル タンスキ ー の 個 展「 Di spersion( 離 散 )」 ( 1993 年 )で、 山のように積み上げられた古 着 の 一 部 を買い、 持ち帰ったも のである。 ボルタンスキ ーが 歴 史 上の 悲 劇 の 象 徴とした古 着 を、 自分 の 部 屋の 窓 辺に一点一点 立 たせることで、 個としての 存 在に引き戻し、 身 体 なき ポートレ ートとして 撮 影した 。 背 景 にひろが る 暗 鬱 な パリの 空、 そ の 雲 間 から 漏 れ る光 の 諧 調 に、 一 つとして 同じもの の な い古 着 の 持 ち主 の人 生 が 重 なる。 [ PP. 14 0 – 41 ]の 撮 影も そしてこの 窓 辺で同 時 期 にもう一つ のシリーズ〈 鳥 〉 行 わ れ た。 鳥 の 群 れ が 驚 いて 四 方 に 羽 ばたこうとする瞬 間 を 捉 えた作 品で ある。 折り重 なる何 羽もの 鳩 の 羽 だけを 画 面 いっぱ い に 写し 取り、 不 規 則 に大きく羽ばたく比 翼のムーブメントと大 気の動きを一 瞬に封じ込 めた。 オノデラは 1995 年、この 3 つのシリーズを「 Down 」と総 称し、東 京の 3 つ のギャラリーをつかってシリーズごとに発 表した[ 註 7 ]。 オノデラは 3 部 作に共 通 するテ ーマを「 不安 定という宙吊り状 態 」とした。 それ はまさしくパリで のオノデラの 置 かれ た状 態と重 なり、 作 家として異 邦 の地で 制 作 を続 ける決 意を表 明しているようにも聞こえてくる。 パリで の成 果 を東 京 で 示した初 めての展 覧 会 は、 オノデ ラの 変 貌 を 強く 印 象づける結 果となった。 なかでも、 一 辺 が 115 センチメートルの正 方形 の 大きさにプリントされた〈 古 着 のポートレ ート〉と〈 鳥 〉シリーズは、 その力強 く堂々とした スケールでオノデラの 飛 躍 を 印 象 づ け た。「 写 真 新 世 紀 」から オノデ ラに注目して いた 飯 沢 耕 太 郎 は、 そ の 驚 きを次のように 記して いる。 「 今 回の Dow n の 連作は、 これらの 初 期のシリーズとは一段 階レ ベル が 違っ ていた。 以前、 彼 女の、 センスの良さはうかがえるがどこかひ 弱な印 象は 完 全 に消え、 骨 格がはっきりした、 力 強い 造 形 力を感じさせる作 品となって い たのである。 …… 少なくとも彼 女にとっては、 パリ滞 在は 大 成 功 だったとい [ 註 8 ]。 えるだろう」 その後、オノデラの作品は徐々にパリでも注目されるようになる。 1995 年、 フランス・モ ード研 究 所で 個 展「 古 着 のポートレ ート」を 開 催し、 翌 年 同シ リーズ で第 21 回「 コダック写 真 批 評 家 賞 」審 査 員特 別 賞 を 受 賞 する。 1997 年 には専属 契 約したラージュ・ソロモン・ギャラリーで「 Dow n 」3 部 作によ る個展を開催した。パリのマレ地区に位置する同ギャラリーは、アネット・メ サジェや ジョージ・バゼリッツ、 A. R . ペンクなどを輩出した名門ギャラリー 162 である。 オノデラは周囲の 作 家 たち[ 註 9 ]に多くの 刺 激を 受 けな がら国 際 的 な作 家として成長していった。 〈 C. V. N. I. 〉 〈 P. N. I. 〉 1997 – 99〈 Camera 〉 カメラを向かい合わせに配置させたり、缶詰のラベルを剝がして裸に してしまったり、誰かの顔写真を切り刻んだりというのは、じつは私 にとって 「小さなイタズラ」のようなものです。でもそのイタズラが「取 り返しのつかない事態 」につながっていき、ときには劇的な結果を招 くこともあります。 オノデ ラユキ は 19 97 年 、 東 京 都 写 真 美 術 館 で 行 わ れ た「 第 2 回 国 際 東 [ PP. 12 2 – 23 ]を出 品した。 これ は暗 京 写 真ビエンナ ーレ 」に新 作〈 C a mer a 〉 闇 の 中 で 2 台 のカメラを 向 か い 合 わ せ、 同 時 にシャッターを 押し、 被 写 体 となったカメラのフラッシュの 光 だけで 写され た写 真である。 そこに撮るも のも、 撮られるものも存 在しない。 ただカメラのレンズの みがクローズ アッ プ され、 120 × 14 4 セン チメートル の 大 きさに引き伸 ばされて いる。 オノデ ラは、 被 写 体となった 片 方のカメラにはあえてフィルムを入れ な かったとい う。 この 作 品 の 発 表 にあたって 2 台 のカメラの関 係 を図で 示し、 フィルムの 入ったカメラが、 フィルムの入っていないカメラのレンズの背 後にひろがる無 限 の 空 間 を撮 って いることを 解 説した。「 撮られることを拒 否するもの の 写 真 」、「 撮 ら れ な か った 写 真 」というコン セプトに は、 懐 疑 や 批 評 を 含 め 、 写 真 を撮る行為そのものに対 する強い関 心が 表れている。 さらに日 本 で の 活 動として、 19 9 9 年 に「 群 馬 青 年ビエ ン ナ ーレ ’ 9 9 」招 待 部 門 に 選 ばれ、群 馬 県 立 近 代 美 術 館 で 個 展 を 開 催 する。 同 展 で は、 〈古 [ P P. 1 2 4 – 31 ] 着 のポートレ ート〉、〈 C a m e r a 〉のほ か 、新たに〈 C . V. N . I . 〉 、 [ PP. 132 – 37 ]を加えた 4 シリーズが 発 表された。 〈 P. N . I . 〉 〈 Camera 〉の説明図 163 〈 C . V. N. I . 〉は、 ラベ ルを 剝 がした 缶 詰 が 放り出され たように宙 を 舞う。 10 9 × 77 セン チメートル の 画 面 の 中 に浮 かぶ 、 ぼ ん やりと写し 出され た 巨 大な 銀 色の円筒は、 何が入っているのかわからない 不気 味な存 在だ。 〈 P. N. I. 〉は 109 × 83 センチメートルの画面に人間の顔らしきものが写され て いる。 これ は 実 物 の人 間 の 顔 ではなく、 雑 誌 や 新 聞 に掲 載 され た肖像 写 真から顔の 部分を 切り取り、福 笑 いのような方 法で再 構 成したものだ。パー ツを 粘 土の上に並 べることによって、 顔 の 造 作らしきボリューム 感 が 生まれ ている。 この 2 つ のシリーズ には、 いずれも 根 底 に消 費 社 会 における「 認 識( アイ デンティファイ )」への 懐 疑 が 表れている。 ラベルのみによって 認 識される、 画 一に大 量 生 産された産 物。 また、 有り得 ないようなバランスで 切り貼りさ れた目、鼻、口を、人の顔として判 明のつく限 界までぼかしたイメージでも、 曖 昧 なまま「 認 識 」してしまおうとする人 間 の 視 覚の 習 性 。 いずれも、 人 間 が 他 者を認 識 すること自体 の 曖 昧さ、 危うさを、 暗 示している。 それぞれの タイトルは、フランス語で「未確 認飛行 物体 Objet Vola nt Non Ident if ié 」 を言い 換えたオノデラの 造 語で、「未確 認 飛 行 缶詰 C onser ve Vola nt Non Ident i f ié 」、「 未 確 認肖像 写 真 Por t r a it Non Ident i f ié 」の略である。 〈 Zoo 〉 〈 窓の外を見よ 〉 2000 – 01〈真珠のつくり方 〉 [ PP. 9 6 – 10 9 ]も、オノデラユキの「 小さなイタズラ」によっ 〈 真 珠 のつくり方 〉 て、 劇 的 な 結 果 を招 いた作 品である。 蚤 の市 で 手 に入れ た 箱 型 カメラの 中 の 空 洞 へ の 関 心 が 着 想 源 であったという。 そこにガラス 玉、 真 珠 の 生 成 の 話など、普段耳にしてきた断片 的 なイメージが 結 びつき、長い時 間をかけて オノデラの頭の中で熟 成され、 この 作品が 生まれた。 何 を 撮るかというより、 まず 撮る 行 為 そ のもの に実 験 的 な 創 意と意 図 が あり、 その 結 果 思いが け ない 映 像 効 果 を 導き出す、 オノデラ 独自の 表 現 ス タイルだ。 昼 間 の 街 の 群 衆を写して いるが、 人々は 闇 に 覆わ れ、 暗 闇 の上 部 にぼんやりとした白い玉 が 映って いる。 これ は、 カメラに入れた小さなガ ラス 玉 が、 光 を 集 めて 乱 射し 引き 起こした 像 である。 カメラの 暗 箱 の 中 で 起きたアクシデントは、 現 実 の風 景を幻 影 に変えてしまった。 さらに オノデラは、 現 像 の 段 階 で 薬 品 処 理 を施し、 写 真 の 粒子を破 壊し 極 限まで 粗くした。 縦 2 メートル の 大 型プリントは 暴力 的 なまでに変 形した 粒子が マチエールとなって、 群 衆 の 姿 を 暗 闇から力強く浮 かび上 がらせてい 164 る。 その 作 品 の 大きさは、 観る人 があたかもカメラの 箱の中に入っているよ うな 感 覚を 呼び 起こす。 貝に異 物を入れて真 珠を つくることにたとえ、 この タイトル がつけられた。 [ PP. 120 – 21 ] 一方でガラス玉という素材は、別のイメージを生み出す。 〈 Zoo 〉 は 世界 各地の動 物 園の動 物 たちの眼球とガラス玉 が二重 写しされた作品だ。 〈 真 珠 の つくり方 〉では、 ガラス 玉はカメラの中にあって内 側より光 を 発し、 〈 Z o o 〉では被 写体として外 部に置 かれ光によりイメージを閉じ込 める。 光と ガラス玉という透 明な 球体 が 織り成 す 神 秘 を、 この 2 つのシリーズは対 照 的 に見せている。 [ PP. 110 – 19 ]は東 京の 郊 外で撮 影された作 品だ。 暗黒 の空 〈 窓の 外 を見よ 〉 間にぽつりと佇 む小さな 家 。 窓 からは 家の 明かりがほん のりと輝いて、 家そ れ自体が光源にも見える。ヨーロピアンスタイルや、北欧スタイルなど時々の 流行を反映する家々は、一世代で建て替えられてしまいそうな(オノデラいわ く「 命 の 短そうな 」)ものとして選 ばれている。 光を採り入れる窓、 光を 発 光 する窓、非 物 質化された家はガラス玉と同様に「光の 装置 」となっている。 20 01 年 、 オノデラはこれらの 新 作 を東 京の 2 つのギャラリーで 発 表した。 20 02 年 、 これ まで に発 表した 9 シリーズの 作 品 をまとめた初 写 真 集『 カメ ラキメラ 』 ( 水声 社 )を 刊 行、 翌年 、 同写 真 集で第 28 回 木 村伊兵 衛写 真 賞を 受 賞した。 〈 液体とテレビと昆虫と 〉 〈 ミツバチ−鏡 〉 2002 – 03〈 Transvest 〉 私の場合、アイデアを思いついた「その時 」よりもそのアイデアをアタ 4 4 マの片隅に捕 獲したまま熟 成させる、その熟 成 期 間のほうが重 要で す。時間の中でアイデ アは成長、変 形、時には突 然 変 異を起こしま す。 4 、 5 年 熟 成が 必 要なケースもあります。そしてある時、現 実化 できる確信が得られるのです。 [ PP. 9 – 25 ]は、20 02 年に始まり現 在も継 続されている、オノ 〈 Tr a n s ve s t 〉 デラの 代 表 的シリーズ である。 様々な人 間のシルエットで構 成 された作 品で あるが、 生 身 の人 間 を撮 影したのではなく、 雑 誌 等 に掲 載 され た 既 存 の イ メージ を 切り抜き、 逆 光で 撮 影したものだ。 さらに目を凝らしてみると、 シ ルエットは 単 なる影ではなく、 そこには多種 多 様 なイメージの 断片 が 詰 め 込 まれている。 夜の 街 頭、 書 籍 から複 写した 顕 微 鏡 写 真 、 歴 史 遺 産の風 景な 165 どであるが、 それらは、 かろうじて判 別 で きるまで黒くつぶしてあり、 照 明 のあて方次 第で見え隠れする[ PP. 7, 95 , 189 ]。その 細 部 を見れば見るほど実体 が 曖 昧 になっていく作品だ。オノデラは、まず昆 虫の 擬 態に着 想し、考えを 巡らせるうちに擬 態 がファッションに、 昆 虫 が人 間に変 化して いったという。 〈 Tr a n s ve s t 〉は、 異性の服を身につける嗜 好「 服 装 倒 錯 」を意 味 する。 [ P P. 3 6 – 3 9 ]は、 テレビ で 放 映 され た 昆 虫をカメ 〈 液 体とテレビと昆 虫と 〉 ラで「 採 集 」したヴァー チ ャル な 画 像 と、 実 際 に 撮 影した 液 体 のリアル な 画 像 を モンタージュした 連 作 で、 そこにはまったく異 なる質 感 が 共 存 する。 〈 Tr a n s ve s t 〉と同 様、 同 一 画 面 にお けるヴァー チャルとリアル の 混 在 が 私 たちを経 験したことのない 視 覚 世界 に導く作品である。 オノデ ラユキ の 作 品 には、 視 覚 的 な 効 果 から イメージ を 作り上げる方 法 〈ミツバチ─鏡 〉のニス仕上げ、アトリエ と、 写 真 を 撮る 行 為 そ のもの を 作 品とする、 2 つ の 手 法 的 アプ ロー チ が あ [ PP. 2 6 – 35 ]は 後 者であ る。 〈 Tr a n s ve s t 〉を前 者とするなら、 〈 ミツバチ ─ 鏡 〉 る。 オノデ ラは留 守 中 の 他 人のアパートを 撮 影 場 所 に 選 び、 深 夜、 懐 中 電 灯を片 手 に 探 検 さな がら 写 真 を 撮 ってまわった。 写され た 画 像 は 鏡 に 映 っ た 室 内 である。 写 真 を見るだけでは、 この 撮 影 過 程 を 知る由もないが、 人 家 に迷 い 込 んだ小さなミツバチ のような視 点 で、 作 家とともにスリリング な 視 覚体 験を共 有 できる作品である。 〈 関節に気をつけろ ! 〉 2004 – 05〈 Roma ̶ Roma 〉 私は 撮 影する場 所を自分自身で 選 びたくなかった。だから Roma と いう名前だけを選びました。この 2 つの Roma を関係づけるのは「名 前 」、 「ステレオ・カメラ」そして「移動する私の身体 」です。 166 20 0 4 年 、オノデラはベルリンとパリで個 展 を開く一方 で、東 京 では 2 つの [ PP. 6 8 – 79 ]、 [ PP. 4 0 – 47 ]を 新 シリーズ〈 Roma ̶ Roma 〉 〈 関 節に気をつけろ ! 〉 発 表した。〈 Roma ̶ Roma 〉に写されて いる 2 つ の 小さな 風 景 はイタリアの ローマ ではない。 ヨーロッパ に点 在 する「 ローマ」という名 の 土 地 の風 景で ある。 ひとつ は スウェーデ ンのバルト海 の島 にあるローマ、 もうひとつ は ス ペインにあるローマである。オノデラは 2 箇所のローマを訪ね、ステレオ・カ メラで 撮 影した。 2 つ のレンズ を 装 着したカメラの 特 性を用い、 右目のレン ズ でスウェーデ ンのローマを、 左目のレンズ でスペ インのローマを機 械 的 に 写して いった。 撮るまで の 行 為 に意 味 をお いたこの 作 品 にお いては、 写 真 家の 存 在や、 恣 意 的 な 判 断を 介在させ ず、 その 地まで「 移 動 」すること自体 を 最 大の目的とした。 カラー写 真 のように見 えるが、 モノクロ写 真 の上に面 〈 Roma ̶ Roma 〉の彩色、アトリエ 相 筆 を 使 い、 油 絵 具で 丹 念 に 彩 色して いる。 19 世 紀 の 土 産 用 写 真 が 念 頭 にあり「 手 彩 色も、 で きれ ば 職 人に 頼 みた かった 」と語るオノデラは、 この 作品で作 家 性の 排 除を試 みている。 そ れ に 対し、〈 関 節 に気 を つ けろ ! 〉は 被 写 体 の 意 味 を 排 除した 作 品 だ。 テレビで放 映されたサッカーの試合を動 画でコンピュータに取り込 み 、画面 をキ ャプ チ ャ ーする。 ネガ を 選 ぶ ように いくつ か の シ ーン を 抽 出し、 ユ ニ フォームを 消し、 選 手 の 顔を 変 形させ、 ボールを 増 やす など加 工を施した。 サッカーの試合であるという要 素を取り去ると、 集 団の 複 雑 な 動きはたちま ち方 向を失い、 ただ 無 軌 道 なムーブメントが 残る。 この 作 品はカメラを使わ ずにコンピュータで 制 作 されて いるが、 オノデラは 完 成 するまでカメラを使 わなかったことに気 がつかなかったと語っている。 オノデラは、 その 視 点を 勝 負の 決 定 的 瞬 間 を 狙うスポーツ 写 真 の対 極 に置 き、 ぶつ かり合う身 体 の 激しい動きだけを抽出したのだ。 167 2005 年、国立国際 美術 館で〈古着のポートレート〉から〈 Roma ̶ Roma 〉、 〈関節に気をつけろ ! 〉まで、パリで 制 作した全 14 シリーズが 一堂に公 開され た。 そ の 多 様 な 写 真 表 現 は、 評 論 家 や 美 術 ジャーナリストによって、 日本 の 多くのメディア で 紹 介され た。 日本 を 離 れ 約 10 年 間 の 仕事 をまとめたこ の回 顧 展 は、 パリで培った実 力を 十 分 実 証しうるものであった。 〈 11 番目の指 〉 2006〈オルフェウスの下方へ 〉 2006 年 、オノデラユキ の 名は、さらに国 際 的 なものとなった。この 年オノ [ 註 10 ] デラは、フランスで 現 在 最も優れた写 真 家に授与される「 ニ エプス賞 」 を受 賞し、その記 念 展としてナント写 真フェスティヴァル、およびパリの 2 つ ニエプス授賞式、国立図書 館 「名誉の部屋 」 の ギャラリーで 個 展 を 同 時 開 催 する。 また、 上 海 美 術 館 で日本人として 初 の 個 展 を開 催 するなど、 1 年 に 5 回の 個 展 を行 い、 世界 各地 約 20 箇 所でグ [ P P. 5 6 – 6 7 ] ル ープ 展 に参 加した 。 東 京 でも、新 作〈 オルフェウスの下方 へ 〉 、 [ PP. 4 8 – 55 ]を発 表している。 〈 11 番目の 指 〉 〈 オルフェウスの下方へ 〉は、 〈 Roma ̶ Roma 〉に 続き、 オノデラ自身 の 移 動 が テ ーマの 作 品であるが、 〈 Roma ̶ Roma 〉が 恣 意 的 な 判 断をさけ たの に 対し、 この 新 シリーズ で は、 実 際 に 起こったホテル の 密 室 失 踪 事 件 を 題 材に、 オノデラが その 続きを推 理 するという思いも寄らない 手 法 がとられて いる。 オノデラは事 件 後、 同じ部屋に泊まり、 行方不 明になった人物に思い を 馳 せ な がら、 室 内 の 写 真 を 撮 影 する。 そして、 行 方不 明 の人物 はこの 部 屋 が立って いる地 上の真 裏 、 す なわち下方に 移 動してしまったのではないか と推 理した。 オノデラは、 ホテル の 天 井 の高さから床 を見下ろすアングルで 撮 影し、 そしてそ の 部 屋 の 真下、 つまり地 球 の 裏 側 に位 置 する 場 所まで 移 168 動し、 ポラロイドでその 土 地 を見下ろすように 収 めた。 作 品 の下方にはそれ ぞれ の 緯 度・経 度 を 示 す 数 字 が 示されて いる。 ポラロイドが 貼られ た手 漉 きの 台 紙 には、 18 世 紀の活 字 で 活 版 印 刷されており、 室 内を写した大 判 バ ライタプ リントにはそ の 活 字 が フォトグラムの 技 法 で 焼 き付 けられて いる。 写 真 の 発 明される以 前の 活 字 を 使うことで、 時 間と空 間 を 瞬 時 に 移 動して しまうストーリーに新たな謎 を加えているのだ。 あらかじめ 何か の 法 則 やス トーリーを 設 定して、 それ に従ってオ ートマティックに自らを 移 動 させ 撮 影 する。 このように風 景と作 家 個 人との関 係 性を断ち切ろうとする行為 の 背 景 には、 写 真 発 明 直 後 のアノニマスな 風 景 写 真 に 対 する憧 憬 が 込 められて い るように思 える。 オノデラは人 間と写 真との関 係 性において、 常に原 点に立 ち戻ろうとしているのだ。 2006 年に発 表され、現在もシリーズの制作が 続いている〈 11 番目の指 〉は、 人 間が 無 意 識 に行う身 体 の動きに 着目し、 ノーファインダーで撮 影した作 品 である。 被 写体 の顔にはレ ース状に穴 が 空けられた 紙 が、写 真にフォトグラ ムの 技 法を使って白く覆ってある。 顔 を 隠 すことによって、 彼らの 動 作 の 意 味をあえて見 えなくしたため 、 その 様 子 は 滑 稽 なものにも見 えるが、 そこに は肖像 権に対 する問 題 意 識も込 められている。タイトルの「11 番目の 指 」は、 10 本 が 被 写 体 の 指であり、 11 本目は 撮 影 者のシャッターを押 す 指をさすと いう。 〈 12 Speed 〉 2007 – 08〈 Annular Eclipse 〉 20 07 年 、 上 海 美 術 館 で 開 催 され た「 カメラ がとらえた日本 」展 に、 オノ [ PP. 8 0 – 81 ]を出 展した。 この 作品は、 シル デラは 新 作〈 A n nu l a r E c l ips e 〉 クスクリーンの 手 法を使 い中国の工 房で 制 作 された、 縦 の 長さが 2 . 5 メート ル に お よ ぶ 大 型 作 品で、 人の 手で 3 8 版を 重 ね る 作 業 は 8 人 が かりで 行 わ れ た。 版 画 技 法 に挑 戦した背 景には、 近 年 、 銀 塩 写 真からインクジェット・ プ リント へ の 移 行 が 加 速 する な かで、 ポ スト 銀 塩 写 真 に あ たる 技 法 へ の 問 題 意 識 が 念 頭 にあったという。「 金 環 食 」を 意 味 する英 語 のタイトル のと おり、 暗 闇 に 浮 か び あ が る 若 い 女 性と 動 物 の シ ル エットの コラ ー ジュは、 〈 Tr a n s ve s t 〉に通じる手法である。 [ PP. 82 – 94 ] 2008 年、オノデラは東 京での個展で、最新シリーズ〈 12 Speed 〉 を発 表した。この 連作 では、インクジェットによるカラー・プリントと銀塩プ リントの 2 つ のヴァージョン で 作 品 を 制 作して いる。 濃 いピンク色の 壁 面と 169 同 色の テ ーブル の上には、 ヘッドホンやスナック菓子 の 袋、 コップの 牛 乳や ビーズ で 編まれた犬の人 形 など、 若 い女 性の 部 屋に散らばっていそうなポッ プ な小 物 が並ぶ。 それらは、 キッチュなもの の 組み合 わ せにもかか わらず、 西洋 の古典 的 な 静 物 画を思わせる堂々とした風 格をも感じさせる。その中央 に置 かれた丸い 鏡には、青々とした 木々が写り込 んでいる。 この 作 品 は、 フォンテ ーヌブロー の 森 の中心 に設 置したセットを使って撮 影された。 屋 外での 撮 影 を証明するのは、唯 一 鏡に映った 森 の木々である。 シリーズ を 構 成 する 12 点は、 同 一 の セットで 鏡 の 向きを少しず つ 変 えな が ら撮 影されており、 個々の 作 品 の 違 いは、 鏡の 角度によってそこに写り込む 「 森 の風 景 」の 微 妙な変 化にすぎない。 間 違 い 探しのように、 それを見 抜く のは難しく、 同 一写 真 が 繰り返されて いるようにも見 える。 このシークエン 〈 Annular Eclipse 〉の制作、 上海の版画工房 スは写 真 なれ ばこそ成 立 する表 現であり、 絵 画とその 性 質を 分 けるところで ある。 壁 面 には 落 書きのような 矢 印と暗 号 め いた文 字 が 描 か れて いる。 こ れ は「 永 劫 」を 意 味 するものであるという。 同じ瞬 間が、 無 限 の 時 間 軸の中 で 何 度も永 劫 に 繰り返される、 ニー チェの思 想「 永 劫 回 帰 」を 連 想させる。 す な わち、 同じセットを 使った 連 続 写 真 が、 現 在 の 世 界 が 過 去 に 存 在し、 将 来も再 度 まったく同じ組み合わ せ から構 成 されるという思 想のメタファと なって いる。 しかしそれ に反するように、 鏡 に映 った 木々の 僅 かな 変 化 は、 時 間 軸 を 表し、 瞬 間 の 同 一 性を 否 定して いる。 キッチュな 小 物 の中に仕 掛 けられ た巧 妙な 謎 か けには、「 時 間 の 無 限 性 」と「 物 質の 有 限 性 」を 示 す 寓 意 が 込 められているのではないだろうか。 170 写真の迷宮へ オノデラは、 私たちの 想 像を 超 える視 覚 世界 を次々と作 品にしてきた。 そ れは泉 のようにわき出るアイデ アを、次々と作 品 化しているように見えるかも し れ ない。 しかし、 着 想 から実 際 に作 品 の 制 作 にとりか かるまで 数 年 を要 するという。 オノデ ラは 写 真 をイメージ で はなく、 あくまでも物 質として 捉 え、 撮 影 方 法 から作 品 の 大 きさまで、 綿 密 な 計 画 に 基づ きイメージ を可塑 化して いく。 現 像 され た 紙 の 表 面の 微 細 なマチエール にもこだわりがあり、 暗 室 作 業 においても時 に光 を入れたり、 薬 品で 粒子を 粗くしたりと、 バライ タ紙 に定 着させるまで 錬 金 術 師のように果 敢に手 を加えていく。 イメージを フィルムに焼 き つ ける瞬 間 は、 作 家 の 恣 意 的 介 在 をで きるだけ 排 除 する一 方、 その前 後 のプロセスは豊 かな 創 意に満ちているのだ。 この 創 意の源はなんだろうか。オノデラはかつて〈 真 珠 のつくり方 〉につい て、「貝に異 物が入ると、その刺 激 で膜 ができ真 珠 がつくられる 」ことに因ん でタイトルを つけたと語 った。 彼 女に次々と作 品 を生み出させるのは、 まさ にオノデラの中に創 造 の 核となる異 物 があるからなのではないだろうか。 そ れ は「 写 真 」そ のもので はないか。 写 真 の 誕 生 以 降、 写 真 は人 間 が 世 界 を 知 覚 する方 法として、 ものの見 方に計り知 れ ない 影 響 を与えてきた。 オノデ ラは作品を 制 作 することで、写 真 を撮ること、写 真 を媒介にして世界 を 知 覚 していくことへの関 心や好 奇心 、 また懐 疑 や 批 評を表 明しているように思え るのである。 これらの 問 題 意 識 は、 真 珠 の 核 のように内 側 に 秘 められて い る。そのため、オノデラの 作品は謎めいた魅 力を湛えているのだ。 今日ではデジタル化によって、ヴァーチャルな視 覚 表 現や 情 報 伝 達 がさら に進 化し、 人 間と写 真・映 像 の関 係はますます 複 雑化していく。「 イメージ、 ましてや デジタルイメージというの はそれ だけでは存 在しない、 すぐ 消えて しまう幻のようなもの」とオノデラは語る。 写 真 は物 質 であるとするオノデラ は、 今 19 世 紀の肖像 写 真 に惹 かれるという。 そして、 写 真 発 明 以 前に遡る 事 件を写 真で 実 現できないかと、 構 想をめぐらせている。 オノデラにとって 写 真という謎 が 解 け ないかぎり、 真 珠 は つくり続 けられ る。 それ は 私 達 を さらなる写 真の 迷宮へいざなうのである。 ( お か べ・ともこ 東 京 都 写 真 美 術 館 学 芸 員 ) 171 註 1 )選 考 委 員、 南 條 史 生の 評より。 グラン プリ受 賞 者 は 木下 伊 織 。 優 秀 賞は オノデラを 含め 11 人 が 受 賞した 。 「写 真 新 世 紀 ( 」 1991 年 – )はキヤノンが、 「ひとつぼ展 ( 」 1992 – 20 08 年 、09 年より 「 1 _Wa l l 」展 ) 2) はリクル ートが主 催 する民 間の 公 募 展 。 3 )高 橋( 19 93 年度 優 秀 賞 )、 H I ROM I X( 19 95 年 度グラン プリ )、 野 口( 19 9 6 年 度グラン プリ )、 蜷 川( 19 9 6 年 度優 秀 賞 )、 澤 田( 2 0 0 0 年 度優 秀 賞 )。 4 )写 真 専 門 の ギ ャラリーとして、 ツァイト・フォト・サロン( 19 78 年 )と、 フォト・ギ ャラリー・イ ンターナショナル( 19 79 年 )がオープ ンした 。 また、 写 真 部 門を併 設した、 川 崎 市 市民ミュージ アム ( 19 8 8 年 )、横 浜市 美 術 館( 19 89 年 )が 開 館 。 19 91 年 に第一次 開 館して いた 東 京 都 写 真 美 術 館は、 19 95 年 に総 合 開 館した 。 『 フ ラン ス 写 真 の 新 た な 展 開 5 )ジ ャン = リュッ ク・ モ ン テ ロ ッソ「 創 造 の 10 年 間:19 8 0 – 9 0 」 19 8 0 – 9 0 :パ リ 市・ヨ ー ロッパ 写 真 館 コレ クション か ら 』展 覧 会 カタ ログ、 東 京 都 写 真 美 術 館 、 19 9 2 年 、 PP. 10 – 11 。 6 )本 稿 中 のオノデ ラユキ の 言 葉 は、 筆 者 によるインタヴュー( 東 京 都 写 真 美 術 館 ニュース『 e y e s 』 2 010 年 6 月所 収 )をもとに 編 集 構 成した 。 「 D ow n 第 1 部:液 体とコップ 」はツァイト・フォト・サロン で( 3 月 6 日 – 25 日 )、「 D ow n 第 2 部: 7) 古着のポートレ ート」はガレリア・キマイラで( 2 月 28 日 – 3 月 25 日 )、「 Dow n 第 3 部:鳥 」は AK I-E X ギャラリーで( 3 月 18 日 – 4 月 2 8 日 )展 示された 。 『 キッチンキマイラ 』19 95 年 6 月。 8 )飯 沢 耕 太 郎「 D ow n t o Z e r o 」 9 )ラージュ・ソロモン・ギャラリーにおける同 期の 作 家に、ハンナ・コリンズ( Ha n na h C ol l i n s )、 ジョン・バル デッサ ーリ ( Jo h n B a ld e s s a r i )、アクセル・ヒュッテ( A x e l Hut t e )、 カンディダ・ヘー ファ( C a nd id a Höfe r )、 トレ ーシー・モファット( Tr a c e y Mof f a t t )などが いる。 10 )初 めて 写 真 画 像 を 定 着させ たフランスの 発 明 家 ニセフォール・ニ エプ スの 名 を 冠したフランス の 写 真 賞。 195 6 年ロベール・ドアノー 、 1959 年ジャンル ー・シーフ、 19 8 8 年 には田 原 桂 一 が 受 賞 して いる。 172 オノデラユキの写真箱 前田恭二 N. I. …… 男はこちらの手を握り返し、ついで私の足もとにひざまずくと、いと も鮮やかな手つきで私の影を頭のてっぺんから足の先まできれいに 草の上からもち上げてクルクルと巻きとり、ポケットに収めました。 [註 1 ] (シャミッソー『影をなくした男 』より) 原 題は『 ペーター・シュレミールの 不思 議な 物 語 』── 軽はずみにも影 を 譲り渡してしまった、この哀れな青 年の 物 語については、私自身 がそうであっ た ように、そ の 昔、子ども向 け の 翻 案 で 読 ん だという人も あ ることだろう。 灰 色 の 服 の 男、 そ の 実 は 悪 魔 の申し 出 に乗 って、 青 年シュレミール は 金 貨 のわき出る革 袋と自分 の 影 を交 換してしまう。 そのとたん に、 すれ 違った 老 婆 や 門 番、 さらには 悪 童 たちから影 が ないと後ろ指をさされることになる。 あるべきものがない 奇妙さに加えて、この頃の 観 念では、影は魂の相同物と 考えられていたらしい[ 註 2 ]。 果 たしてシュレミール がどうなってしまうのか、 そこは再 読していただくことにして、ふとした興 味をそそられるのは、奇譚の 作 者、アーデルベルト・フォン・シャミッソー( Adelber t von Cha misso, 1781 –1838 ) の 伝 記である。 フランス貴 族 の家に生まれ ながら、 1789 年 の革命で ベルリ ンに逃 れ たシャミッソーは、 や が てドイツ・ロマン 派 の 作 家として知られる ことになるのだが、その生涯を終えたのは 1838 年のことだった。これは写真 の歴史においては特筆される、ダゲール( Louis Jacques Mandé Daguerre, 1787–1851 ) の 発 明 の 公 表 前 年 のことに あたる。『 影 をなくした男 』とは つまり、 写 真 以 前の 物 語なのである。 これは少しばかり、意 外なことに思えるかもしれない。影がクルクルと巻き 取られ、 誰 かのポケットに収められるといったことは、 1839 年以 降 の 営み 、 すなわち写真術によるポートレートそのままなのだから。影に似た、むしろ影 以 上に私の姿かたちに近い写 真は、幾らでも私からはがし取ることができる。 たやすくポケットに収めることもできる。あなたの運転免許証のそれのように。 考えてみ れ ば、 それ がまだ当たり前 ではな かった からこそ、 ペーター・シュ 173 レミールの 物 語 は魅 惑 的 な奇 譚たり得たのだろう。 そこには興 味 深いことに、荒 野をさまようシュレミール が「 はぐれてしまっ た 主 の 姿 を探して いるふぜ い」の 影 を見つけ、 わがものにしようと追 いか け る場 面も出てくる。 これ は 影 を残して姿 を 消してしまえる隠 れ 蓑 を 着た人物 の 影 なのだ が、 この主 なき影とは、 影 の みがあり、 そ の 本 体 を見 定 められ ないという点 で、 いっそう写 真 に似 通って いる。 いまここに見 知らぬ 街 角で 撮 影され た スナップ 写 真 があったとして、 キャプションその 他 の 情 報を与え られ なけれ ば、 いつ、 どこなのかを言 い当てることはできそうにない。 そこ を行 き交う人々の 姿もまたしかりで、 主 から「 はぐれてしまった 」影と言うべ きものとなる。 むろん 写 真 を 待たずとも、 そもそもポートレ ートとは一 般 に そうした 性 質の 影ではな かった か、 と主 張 することもで きるだろう。 なるほ どプリニウス『 博 物 誌 』の 伝えるポートレ ートの 起 源 伝 説 ── 陶 器 師ブタデ スの娘 が 恋 する青 年 の出 征に際して、 ランプが 壁に生じさせる影 の輪 郭 をト レ ースしたという話 にせよ、 は たまた 18 世 紀 のヨーロッパ で 流 行したシル エットの 切り絵 にせよ、 それらのポートレ ートもまた像 主 からは がし取られ た 影 のようなものであって、 像 主の 代 わりに、 あちこちへ 移 動して いくだろ う。 場 合 によっては、 誰 を描 いたもの か 分 からなくなるということもあり得 な いで は な い。 しかしな がら、 写 真 の 場 合、 あまりにた や すく、 無 際 限 に は がし 取ることが で きるものだ から、 そ れ だ け 容 易 に、 い つ 、 どこで 誰 を 撮ったものだか同定 できなくなる。 写 真とは 迷子になりやすい、 気まぐれ な 影 なのである。 もう少し丁 寧 に説 明しよう。 写 真とは何 物 かの 光 学 的 な痕 跡 であって、 生 じた 時 点にお いては、 そ の 何 物 かとじか に 結 びつ いて いる。 た だし、 そ の 明 証 性はただちに過 去 の 時 制 へ送り込まれる。 なお かつフィルムやプリント といった薄片となって、常に移 動可能な状 態に置 かれる。 この時 間と空 間に 相 わたる剝 離 によって、 実 物との 結 びつきはひどく不 確 かなものとならざる を得 ない。 影と写 真 の 違 いはそこにある。 実 物から影 を取り去ることはイマ ジネーションの範 疇 に属するけれど、写 真 はすでに実 物からはがし取られた ものとしてあって、 向かうべくして同定しにくい状 態 へ 向かうのである。 あら ゆる写 真が、 同 定不 能 性を潜 在させていると言ってもよい。 そして、 それ ゆ えにこそ、 時 間と場 所を 明 示するキャプションのようなタグが必 要とされる。 なお かつ 強 調されるべきは、ひとたび 写 真にタグが 付されるや 否 や、いつど こで、 誰 であるのか、 この上もなく確 かに明 証し、 固 定 するためのツールと 化 すことだろう。 そ れ が むしろ 写 真 の 有 用 か つ日常 的 な 使 用 法 だと言って 174 よい。 そ の 代 表 例 は、 1885 年 に パリ警 視 庁 のアルフォンス・ベ ル ティヨン ( A lphon s e B e r t i l lon , 1853 – 1914 )が正 面、 側 面の 顔 写 真 を 組み入れ、 システム 化した、 い わ ゆるベ ル ティヨン 法 だろう[ 註 3 ]。 運 転 免 許 証 のような 身 分 証 明 書 のポートレ ートはその 身 近な一 例だと言える。 覆い隠された同定不能 性はしかし、ファウンド・フォトのような形で、不意 に顕 在 化 する ── 現 実 から遊 離し、 現 実と結 びつけるタグが 失われた状 態 で見いだされ る 写 真 。 ここで再 び 強 調しておきたい のだ が、 そ れ は 写 真 の 明 証 性のゆえに、いつどこで、果たして誰なのか、およそ同定不能な状 態に ありな がら、 そ の 同 定 不 能 な何か が 現 実 の 地 平 に存 在 することを 保 証する ことにもなる。写真以前には持ち得なかった、この奇妙な認識をもたらすファ ウンド・フォトとは、これまでも多くのアーティストの使 用してきたところだが、 こうした同 定 不 能 性 に 対 する関 心こそ がオノデラユキ の 仕事 を貫 いて いる。 [ PP. 132 – 37 ]、 [ PP. 12 4 – 31 ]はその意 初 期に制 作された〈 P. N. I . 〉 〈 C . V. N. I . 〉 味 で、 重 要 な 位 置を占めて いよう。 両タイトル に共 通 する「 N. I . 」とは non ident i f ié 、 つまりアイデンティファイされ ない ── いつ、 どこであって、 何 であり誰 であるのか、同定 することができない、という意 味である。 その同 定不 能 性を、伸 び やかに、しかも、純 粋 な形で引き出しているのがオノデラ ユキの 仕事 のように思われる。 以下、 具体 的に見ていくことにしよう。 P …… おも かげ 名倉の大きな家族の面 影 はこの箱の中に納められてあった。風 通し へ や きようだい のいい南向きの部 屋 で、お雪 姉 妹 は集まってながめた。……この写 う ば 真の中には、お 雪が乳 母 と並んで撮ったごく幼い時から、娘 時 代に ふと うつりかわり 肥 った絶頂かと思われるころまで、その時その時の変 遷 を見せるよう こう なものがあった。中には、東 京の学 校にいるころ、友だちと二人洋 もり 傘 を持って写したもので、 顔 のところだけ かきむしって取ったの も あった。 (島崎藤村『家 』より) 写 真と同 定をめぐる問 題はポートレ ート、 とりわけ顔に集 約された形で 現 れ る。 いま引 用してみたの は、 リアリズムの 手 法 で 書 か れ た 約 10 0 年 前 の 小 説の 一場面である。こうした 近代日本 の文学にはしばしば出てくるように、 昔 はプリントを保 管 するのに、 よく写 真 箱 が 使われて いたようである。 アル 175 バムのように整 理され ない 分だけ、 思いがけない写 真との出 会いをもたらす こともあった。 この 家 の 写 真 箱 には、 さまざ まなポートレ ートが入って いる のだが、 そこには 顔のところをむしり取った写 真 が混じって いた。 当 時 は誰 か が世を 去 った 時、 その 写 真 の 顔 を 毀 損 することがあったという[ 註 4 ]。 死 して なお 存 在 するポートレ ートは、 ありし日の 回 想 へ 向 か わ せるとともに、 その 絶 対 的 な 過 去 の 生々しい 現 前によって、 怖 れ の 感 情 を 喚 起 する。 その 際、 毀 損されるのが 顔 であることは、 顔こそが アイデ ンティティの中心 的 な 場であることを如 実 に物 語 って いる。 逆に、 顔を欠いたポートレ ートとは 最 も同定されがたい写 真の 一つだとも言えよう。 オノデラユキの仕事には、やはり顔を欠いたシリーズが含まれている。 〈古着 [ PP. 142 – 55 ]や [ PP. 48 – 55 ] のポートレート〉 〈 11 番目の指 〉 、あるいは〈 Transvest 〉 [ PP. 9 – 25 ]といった作 品 のことだ が、 顔 の 不 在はさしあたり、 同 定不 能 性 へ の関 心 を 意 味 するだろう。 なかでも改めて考えてみたいのは「 ポートレ ート」 と題され ながら、 顔を欠いた〈 古 着 のポートレ ート〉 とその成り立ち、 つまり クリスチャン・ボルタンスキ ーの 仕事との関 係である。 19 93 年 、 パリで の 個 展「 D i s p e r s i on( 離 散 ) 」で、 この 現 代 フランスを 代 表するアーティストは、山と古 着を 積み上げ、観 客が 袋 に詰 めて持ち帰る ことが で きるようにした。 その 観 客 の 一人として、 オノデラは 古 着を持ち帰 り、 一つひとつ、 空 を 背 景 に撮 影した。 それ が〈 古 着 のポートレ ート〉であ る。 古 着は知られる通り、ボルタンスキ ーが 好んで 使う素 材 であり、オノデ ラ は 極 めて 近 い 地 点 か ら 実 質 的 な 出 発 を 果 たした の だとも言えるだろう。 しかし、二人の間には大きな隔たりが 存 在している。考え併 せるべきことは、 ボルタンスキ ーが 古 着と同 様 に、 ポートレ ートをしばしば使 用してきたこと である。 その 仕事 において、ポートレ ートは確 かに存 在した 生の 痕 跡 であっ て、その 集 積は目の前にはいない 他 者ないし 死 者の 生へと意 識 を差し向け、 喪 の 儀 式 に立ち会わ せる。 より立ち入って 説 明 すれ ば、そこではポートレ ー トという生の 痕 跡 が 持 つ 指 標 性 が 前 提となっており、 本 来 的 には 指 示し 得 る は ず の 生 へ 遡 行し 得 な い 状 態 のまま、 痕 跡 に 直 面 させることに よって、 喪 の 感 情 を 抱 か せるのだろう。 古 着 はそ れと同 様 の 働 きをする素 材と言っ てよい。 ところが、 オノデ ラの 作 品 は 同じ 古 着 を 撮 影しな がら、 そ れ を身 につ け ていた誰 か の 生をしのばせる度 合 いは少ない。 少なくともボルタンスキ ー の ようには、 痛切な喪 の 感 情を引き出さないし、 むしろ透 明人 間のポートレ ー トのように見える。 その 違 いは、オノデラが同 様 の 形では、これまで死 者や 176 他 者のポートレ ートを使ってこなかったことに関 係して いよう。 〈 古 着 のポー トレ ート〉の 制 作が 終 わる頃、 オノデラが 構 想したのは、 むしろ例 外 的 に顔 を扱ったシリーズ〈 P. N. I. 〉だった。見られる通り、それ はぐにゃぐにゃした、 ボケ たイメージ にほ か ならな い。 〈 P. N. I . 〉 とは Por t ra it non Ident if ié = 同 定 されざるポートレ ートを 意 味して いる。 いかにも大 胆なことに思 えるの だが、 ボルタンスキ ーの 作 品から古 着をもらい 受 けながら、 オノデラはその 使 用法をすっかり書き換 えている。 つまり指 標 性を備えた痕 跡として扱うの でなく、 むしろ同 定不 能 性へ 着目し、 古 着によって同 定されざるもののポー トレ ートを撮 影したのである。 痕 跡= t r ac e の 持 つ 指 標 性 よりも、 はるか に強く同 定 不 能 性 に 惹 か れ る 独 特さは、 追 跡 不 能 性= u nt r ac e a bi l it y へ の 関 心という形 を取ることもあ [ PP. 5 6 – 67 ]という奇 妙な作 品 の る。 それというのは〈 オルフェウスの下方へ 〉 ことなのだ が、 オノデラは 密 室 で の 失 踪 事 件 の 捜 索に立 ち向 かう。 捜 索 者 が まず なすべきことは何より痕 跡 の 探 索 であるべきだ が、 そ の 関 心 は 痕 跡 なき行方不 明 者の、 追 跡 不 能 性に向けられている。 地 球 の 裏 側を撮 影する という的 外 れ な探 偵作 業に至るのも、 それが 理 由の 一つのように思われる。 こうした 関 心 を 最 も 複 雑 で、 エレ ガ ントな 形 にまとめ上 げ た シリーズ が 〈 Tr a n s ve s t 〉と言ってよいだろう。 先 にも触れたポートレ ートの 起 源 伝 説を 想 起させる、 影 によるポートレ ートであり、 わず か に宙に浮 いて いることか らすれ ば、 主 からはぐれてしまった 影 のようにも見 える。 その直 感 的 な印 象 はそれとして、 ここでは少し 美 術史 的 な 連 想ゲームを 試 みてみよう。 それぞ れ の 作 品 はフレッド・アステアやジョン・ウェインといった、 有名人のように 見 える。 なかには 赤 毛 のアンのような架 空の キャラクターも含まれる。 もっ とも、 大 衆 的 なアイコンを用いて いるからと言って、 その反修 辞 的 な平 板さ に注目したポップ・アートとはおよそ関 係 がなさそうである。 むしろマン・レ イあたりを 連 想させるところがある。 まずは 図 像 的 に見て、 メレット・オッ ペンハ イムのようなモ デルを シルエットで 撮 影した、 そ のファッション 写 真 とよく似ている。 マン・レイは光と影 、 モ ードとアートを交 錯させ、 ミステリ アス な 雰 囲 気 を 演 出して み せ た。 そして もう一 つ、 異 装 趣 味 を 意 味 する 「 Transvest 」というタイトル は、 そのマン・ レイが 撮 影した「 ローズ ・ セラ ヴィ」こと、 マル セル・デュシャンの 女 装ポートレ ートを思い出させる。 彼ら は 性 的 な 同 一 性と 戯 れ、 虚 実 の二 層 を 作り出したわ け だ が、 実 のところ、 そうした 二 重化 のたくらみ にこそ〈 Tr a n s ve s t 〉の面白さがある。 ローズ・セ ラヴィがデュシャンの 扮 装 に過ぎないように、ここでのフレッド・アステアや 177 ジョン・ウェインもそ のような 姿 に見 えるに 過 ぎ な い。 なりす まして いるの は 誰 な の か。 答えは シ ル エットを見 つ め ることで 得 ら れ るだろう。 そこに は 奇 妙 にも、 何 を 撮 ったもの か 判 然としない風 景 や事 物 の イメージ が 蝟 集 して い る。 大 量 に 生 み 出 され、 そ の ま ま見 捨 てら れ た 同 定 不 能 な 写 真= Photog r aph ie Non Ident i f ié 。 彼ら主 な き影 たちは、 誰 にでも愛 され る アイコンに擬 態しているように見える。 逆に言えば、大 衆 的なあこがれによっ て 練り上げられ たアイコンは、 そこから 零 れ お ちたイメージの 残 渣 によって 形 成 され、 二 重 化 されて い るので あ る。 そ の 著し いコントラストによって、 今日の イメージ 環 境を俯 瞰 させながら、 作 品としては、 そこに姿 を 消して い く同定不 能な写 真のポートレ ートとなっているように思われる。 C …… そろそろ〈 P. N. I . 〉から、 もう一つ の 初 期 作 品〈 C . V. N. I . 〉の方へ 話 題を 移していくことにしよう。このタイトルは Conser ve Volant Non Identif ié の 略であって、未 確 認 飛 行 物 体= Obje t Vol a nt Non Ident i f ié のパロディに なっている。 物 体= Obje t は、 缶 詰= C on s er ve に置き換 えられている。 要 するに「 未 確 認 飛 行 缶 詰 」をとらえた写 真である。 タイトルの 通り、 缶 詰はラベルをはぎ 取られ、 宙に浮かんでいる。 ここで も同 定不 能 性 へ の 関 心 を確 か めることが で きるわけ だ が、 ほ かでもない 缶 詰 が 使 わ れて いることは、 もう少し立 ち入ってみたい 気 にさせる。というの も、 内 容 不 詳 の 缶 詰 なるもの は、 ある発 想 の 型を 示 唆 するように 思 えるか らである。 オノデラは〈 古 着のポートレ ート〉に始まって、しばしば 衣 服に関 心 を寄 せ てきた。 缶 詰 が 何か の 食 べ 物 を容 れるように、 衣 服 は身 体 を 包む。 しかも ラベ ルなき缶 詰と同 様 に、 オノデラの 場 合、 その 衣 服を 誰 が 着 て いたの か も分 からないこととして扱われる感 がある。 特 異 なことには〈 P. N. I . 〉では、 顔さえも内 容 不 詳 の 包み 紙 のようなものと見なされる。これを一 般 化 するな ら、容 れ物とその内 容 物という二 項のうち、オノデラの関 心 は容 れ物の方に 向けられていて、 しかも内 容 物を保 証しない 形で扱う傾 向にあると言えるか もし れ ない。 ちなみ に、 それ をさらに写 真とそ の 指 示 対 象、 あるい は 視 覚 イメージと意 味といった 二 項 に敷 衍 すれ ば、 再 び 写 真 の 同 定不 能 性 へ たど り着くことにもなるだろう。 ところで、 オノデラの 作 品 の中 でもう一つ、 ラベルなき缶 詰に似 たものと 178 して逸 することが できないのは、 家 ないし部 屋である。 その 一 例〈 窓の 外 を [ PP. 110 – 19 ]は、 図 像 的に見ても〈 C . V. N. I . 〉 見よ 〉 に近い。 宙に浮く缶 詰の ごとく、 果 たして 誰 が 住 んでいるのか 分 からない 家 が闇に浮かんでいる。 そ の家は他の 多くの容 れ物と同 様、外 側からとらえられているのだが、しかし、 家 や 部 屋の 場 合、 オノデラはその内 側を探 索 するようなシリーズ を 制 作して いる。 すでに一度 触れた〈 オルフェウスの下方へ 〉が それ にあてはまる。 密 室 における探 偵作 業 はたちまち地 球の反 対 側 へ突き抜けていく。 さらに〈 ミツ [ PP. 2 6 – 35 ]においては、部屋 へのひそや かな侵 入は、鏡による反 バチ ─ 鏡 〉 転 像として 記 録される[ 註 5 ]。 容 れ 物の内 側は、 そこにシュルレアリストたち が 時 に液 状でもあるような内 容 物をまさぐったのとは異 なって、 不可知の 領 域のまま、 言うなれ ば虚の世界へ 転じてしまうのである。 これら部 屋 へ の 関 心 はそのまま、 カメラに対 するそれ に連 続 するだろう。 「 カメラ」という言 葉 が「 部 屋 」に由 来 することはいま多言 を要 すまい。 缶 詰 = C on s e r ve の C は 部 屋 = C h a m bl e の C 、 そしてカメラ= C a me r a の C な のである。 カメラを 直 接 に 扱った代 表 的 な シリーズ は〈 真 珠 の つくり方 〉 [ PP. 9 6 – 10 9 ]ということに なる。 カメラに 封 印 され た ガ ラス 球 は 光 を凝 集・ 離 散 させ、 地下世界 のミラーボール か、 異 次 元 の 太 陽 のごときものと化して いる。「 真 珠 の つくり方 」というタイトルにおいては、 カメラは貝、 ガラス 玉 は 真 珠 になぞらえられて いるのだ が、 本 来 的 には貝に入り込 む の は 異 物 で あって、 それ によって生み出されるのが 真 珠である。 だとすれ ば、 異 物 たる ガラス 玉 が 生じさせる真 珠= Pe rl e の P とは 写 真= Phot o g r aph ie の P にほ かならない。 [ PP. 6 8 – 79 ]についても触れておこう。 タ もう一シリーズ、 〈 Roma ̶ Roma 〉 イトル のローマとは名高 い それではなく、 バ ルト海 の島 にあるローマとスペ インのローマなのだという。オノデラはまずローマという地 名に複 数のイメー ジ を 結 びつけることで、 地 名という現 実とのタグ を役 立 たずにして いる。 さ らに二つの風 景写 真 を、 それぞれステレオカメラ用の二葉に振り分 ける。 当 然 な がら、 ステレ オ 写 真もまた 無 効 化してしまう。 もとよりステレ オカメラ は両 眼 の 視 差を 利 用して立体 像 を 結 ばせる 機 器であり、 それ ゆえに身 体 内 部 における生 理 的 なメカニズムを 意 識させるのだが、 オノデラはその 働きを 宙吊りにして いるのだとも言える。 もし二つ のローマが 一つ の立体像を 結 ぶ とすれ ば、 それ は虚の世界 においてほかにない。 この 作 品はそこへのアイロ ニカルな招 待状のようでもある。 179 V …… うち はず 僕の家 に黒 塗の深い写 真 箱がある。多 分君も見たことがある筈 だ。 ご つ た いれ うち たて 種々の写 真が混 雑に入 てある。その中 に田舎町らしい所を縦 に撮っ うち た写真がある。何時ごろからこの写真が 僕の ── というよりか家 の 写 真 箱に入って居るのか 知らない……僕は写 真を見て色々の感 想に 耽った、間 近の家の軒 下に一人の男が立て居る。往 来はさびれて人 かよ ツ子 一人通 って居ない。既に写 真である以 上、天涯地 角、何処かに しか この町が 現存して居るに相違ない。併 し僕とは何の縁もない。縁が ないだけ、つくづくと眺 め入れば入るほど 言い 知れ ぬ懐かしい 心 持 はず が加わって来る。写真を横にしても縦にしても、隠れた家の見える筈 しか よ はないが而 も僕はどうかして軒 先しか見えない家を能 く見た心 地が した。 (国木田独歩「渚 」より) これ はや はり約 10 0 年 前 に 書 か れ た、 書 簡 体 の 掌 編 小 説 の 一 節 である。 作 者の国 木 田 独 歩 は 結 核 を病み 、 茨 城 県 の 海 辺で 静 養することになる。 ほ とんど 事 実そのままかと思わ れることだ が、 書き手 は 転 地 療 養 の前 夜、 そ れまで 気 にもとめ な かった「 黒 塗の 深 い 写 真 箱 」の「 田 舎 町らしい 所を 縦 に 撮った写 真 」につくづく見 入ったのだという。 写 真であるからには、 この 町 はどこかに存 在 するには 違 いない。 しかし、どこなのか 分 からないし、自分 とは何の 縁もない ── これ はまぎれもなくファウンド・フォトの 体 験 にほか ならない。 独 歩という人 は、 自 分とは 縁 な きもの に 対 する 独 特 の 感 受 性 を 持って いた[ 註 6 ]。 それ がここではファウンド・フォトに対 する関 心という形 で 現 れているように思われる。 この 引 用 部 で 興 味を 惹 か れるの は、 何より書き手 の 感 情 である。 ファウ ンド・フォトは一 般に、多くは不 穏なものとして立ち現れる。ここである、誰 であると名 指 すことので きない 同 定 不 能 性 が そ の 理 由 であって、 そ の 意 味 で は 顔 を欠いたポートレ ートのようなものだと言えるかもし れ ない。 ところ が、 書き手 は 言 い 知 れ ぬ 懐 かしさを 覚 えて いる。 しかも、 見 えるは ずのな いところにまで回り込 んで、 その 家 を見 た 気 がしたのだという。 現 実との対 応 関 係 が 失 わ れて いるという同じ 理 由 によって、 ファウンド・フォトは不 安 を与えもすれ ば、 確 か に 存 在 する、 自分とは 縁 な き 世 界 へ見る 者を 紛 れ 込 ませることにもなるものらしい。 180 思うに、オノデラの同定不 能 性への関 心 ── つまり同定不 能なポートレ ー トやラベルをはがされた 缶 詰、 その内 部 に潜 む虚 の 世界へ の 傾 斜 その 他 が 志 向しているのは、 こうした体 験 ではないだろうか。 たとえば身 分 証 明 書 に 貼 付された写 真 のように、 同 定可能 性に埋 め尽くされた現 実 のくびきから解 き放 たれ、そこから遊 離し、縁なき 世界へ飛 び立 つこと。 〈 C . V. N. I . 〉の V とは飛 行= Vol a nt の V にほかならない。 その 作品には〈 Tr a n s ve s t 〉のシル エットのように、 しばしば 宙に浮く図 像を見いだ すことが で きるが、 単 なる 図 像 上の 操 作 にとどまらないと言うべきだろう。 その 行 き先 は 時として、 想 像 的 な 世界となることもあるけれど、 基 本 的 には 独 歩 が「 写 真である以 上、 天 涯 地 角、 何処 かにこの 町が 現 存して居るに相 違 ない」と記したように、 そ こは 私との関 係 性の 外 側にあって、なお かつ 確 かにあると信じられる場 所な のである。 さて、 いまになって 打ち明 けるのはアンフェアなことではあるけ れど、 写 真 箱 の 出てくる近 代 日 本 の 小 説 を 引 用した の は、 か つてオノデ ラにインタ ヴューを行った際、 何か写 真 に結 びつくような原体 験 がないのかどうか 尋 ね たところ、 幼 い 頃の思い出として、 父 親 がさまざ まな写 真 を 缶 にしまってお り、 それらアルバ ムに貼られることのな かったプリントを 好んで 眺 めて いた ── と聞いたことによる[ 註 7 ]。 ここまで書 いてきたのはそれを敷 衍してみた に過 ぎ ない。 もとより原 体 験というには、 いささかならず平凡 なもの かもし れ ないが、その写 真 箱のもたらしたささやかな魅 惑 を、かくも多 彩 な作品と して展 開してきたことに、 むしろ驚 嘆せざるを得 ない。 それらを並べ た 展 覧 会 をまた 一 つ の 写 真 箱 に見 立 て てみ れ ば、 そこにはや はり同 定 されざるも のの魅 惑 が 詰まっていることだろう。 ( まえだ・きょうじ 読 売 新 聞 記 者 ) 181 註 1 )以下、 小 説3編 からの 引用を掲 げるが、 いずれも手 近な文 庫 本 に拠 る。 順 にシャミッソー 作 、 池 』 上 巻 、 19 69 年 、 岩 波 文 庫 )、 国 内 紀 訳『 影 をなくした男 』 ( 19 8 5 年 、 岩 波 文 庫 )、 島 崎 藤 村『 家 ( 木 田 独 歩『牛 肉と馬 鈴 薯・酒 中日記 』 ( 19 70 年 、 新 潮 文 庫 )。 『影 の歴 史 』 2 )影 をめぐる 美 術 史を 概 観したヴィクトル・I・ストイキツァ( V i c t o r I . S t o i c h i t a ) ( A S h o r t Hi s t o r y o f S h a d o w, L ond on : R e a k t i on B o o k s , 19 9 7、 邦 訳=岡 田 温司、西田 兼 訳、 2 0 0 8 年 、 平凡 社 )による。 本 書 に は シャミッソー『 影 をなくした 男 』の 考 察 も含 まれ る。 ち な み に 鄧無 影の説話のように、東洋にも影を失う物 語は存 在しており、多田智満子『鏡のテオーリア』 ( 1993 年、 ちくま学 芸 文 庫 )には、 両 者を比 較したエッセーが 収められて いる。 3 )関連する最 近の論 考に、橋本一径「パスポート写真論 」がある。「 Photographers ’ Ga l ler y Press No. 9 」( 2 010 年 、 Phot o g r a phe r s ’ G a l l e r y) に 収 録 。 なお 、 日本人 によって 記 され た、 フランス で の 身 分 証 明 書 や 警 察 における撮 影 法 の 記 録 に、大 杉 栄「 日本 脱 出 記 」がある。 19 2 3 年 5 月 1 日、 メー デ ーで の 演 説 後 に大 杉 栄 は 拘 束 され 、「 横 向きになって 椅 子 に 坐るとそ の 椅 子 が自然 に回 転し て、 正 面に向くまで の 間 の 全 瞬 間 を 活 動 式 にとる仕 掛 になって いた 」と記して いる。『 自叙伝・日本 脱出記 』 ( 19 71 年 、 岩 波 文 庫 )に収 録 。 4 )東 京 都 写 真 美 術 館 学 芸 員、三井圭司 氏 のご 教 示による。 5 )ここでは扱うことのできなかった話 題として、オノデラの昆 虫に対 する関心がある。それは思うに、 カメラや 鏡 における非人 称 的 なイメージに関 係しており、 それ ゆえに自然 /人 工という問 題 系 を作 品 [ PP. 82 – 9 4 ]については、 こ に導き入れることになる。 やはり言及できな かった 近 作〈 12 S p e e d 〉 の方面 から考えてみることが できるかもしれ ない。 6 )初 期 の 作 品としては、 柄 谷 行人『 日本 近 代 文 学 の 起 源 』でも論じられ た「 忘 れ えぬ 人々」によくう かがえる。 もっとも、 同 様 の 関 心 は一貫しており、 日露 戦 争 直 後 に書かれ た「 号 外 」には、 戦 時下の ように「 通りが かりの 赤 の 他 人にさえ言 葉 を か け てみたい 」ような 気 持 ちで 万人 が 暮らすことが、 戦 争 に拠らずして、可能 にならないものか、という自問が 書きとめられて いる。 7 )インタヴュー 記 事 は 2 0 0 6 年 11 月 18 日付、「 読 売 新 聞 」夕刊 に 掲 載 。 なお 、 東 京 都 写 真 美 術 館 ( 2010 年 6 月 )所 収のインタヴューでも、この写 真を収めた缶の回想 が 語られている。 ニュース『 eyes 』 182 静止する反写真 フランソワ・シュヴァル 静止して いる。 それ がオノデラユキ の 写 真 の中 で 起こって いるもっとも注 目すべき事 態 である。 一 連 の 作 品 を見つ めるうちに、 鑑 賞 者 は、 この 視 覚 世 界が まったく動くことなく、 た だ たゆたうば かりであることに、 や が て気 づくはずである。 この 世 の 物 質は 決してとどまることなく動 き続 ける。 万 物 は 流 転 すると、 私 たちは 考える癖 がついて いて、 自分たちが 創り出したものに対してさえも そうやって対 峙し、そのことに魅了されてもきた。 あらゆるものは分 類され、 統 合され、 歴 史はとどまることなく動き続 け、 しかもそこにはある一定の 筋 道 がある、 という感 覚 に 私 たちは 慣 れ 親しんで いる。 この 世 界 は、 論 理 的 な動きを持 続している、という親しい 感 覚 から、世界 は 動 かず、従って 論 理 も筋 道もない、 という新たな 感 覚へ の 移 行。 それ は、 写 真世界 を 数値 的 に 還 元することはもはや 私 たちには不可能であり、 そうであ れ ば、 私 たちは詩 的 なフィクションの世界 に身を投じるしかない、 ということを意 味している。 物 質がその動きを喪 失し、人もまたヴァーチャルな存 在 でしかない、とい う発 想に立 脚 することで、 オノデラユキの 身振りは、 論 理 以前の思考に回帰 し、 物 語 から、 さらには 動 きの 蓄 積 である歴 史そ のもの からも自由 なもの になる。 今 や、 写 真 の 表 層も、 その 印 画 紙 上に 構 成 され た 物 質もシュミラ ークル [ 訳 註 1 ]も、 た が い に差 異 化 され ることは な い。 写 真 世 界 の 多 様 な要 素 は、 相 互に離 れることなく、完 結した、まるで 一つの 鋳 型 から鋳 造された世界 の ように完 結している。 オノデ ラユキ は、 動 きや そ の イメージの 世 界とは 無 縁 に、 真 実 の 深 遠 の 中に自らの 作 品 を立 ち上げる。 ものと人 が 一 体化したそ の 作 品世 界 の 究 極 の目標 は、 神 秘 的 なまで に 複 雑 な作 品世 界 そ のもの を 完 成 させることなの だ。 イメージは、 まさに解 不 能 の方 程 式 であり、 ものと記 号 の 間 の 関 係 性 は 明 白 ではない。 世界が 合 理 的 に動き、 その 意 味 で 安 定して いるのであ れ ば、 その 世界 のテ ーマは 容 易に識 別出 来るだろうし、 そうでなくともその 存 183 在 を 認 識 することは出 来る。 巧 妙 に 融 合され た多 様 なカテゴリーが 存 在 す る場 合でも、 テ ーマはイメージとものの中 間に書き込まれて いて、 見つけだ すことは不可能ではない。 写 真作 品 のピントがぼけていても、 眼に刺さるほ どにシャープにしあがっていても、 写 真 のテ ーマはその内 容と結 合した 形で 見えてくるにちが いない。 ところが、オノデラユキの 場 合、作品世界 の中に、融 合された多様なカテ ゴリーが見 えたとしても、 そこからは 逆の 効 果 がもたらされる。 ものはそれ と同 定 できるような 形 を持っておらず、 ただ 光 を 受 け入れる役 割を果 たすば かりだ。 ものは明らかな 形 を持たないままにそれ自身 が イメージとなり、 主 体となり、 主 題となって いる。 光 の 粒子 の みが 介在 するシ ナリオの せ いで、 その 陰 影 を手がかりにしてみても、 そこからは副 次 的 な要 素 が出てくるに過 ぎ ない。 服 は肉 体 を 必 要とせ ず、 表 情 は 視 線 を 送るば かりで、 建 物 さえも そのよって立 つ 地面を拒 んでしまうのである。 イメージ が 凝 縮 され れ ばされるほど、 そしてイメージに対 する意 識 が 強け れ ば強 い ほど、 写 真 のマチエール は 変 容しや すくなるだろう。 オノデラユキ のイメージは多くの 要 素の 集合 体であり、撮 影 の時点ではなく、現 像された 時点 で 初 めて全 体 が 明らか になる。 これ は一 つ の 特 有の 現 象と考えるべき だと思わ れるが、 この 現 象 にあっては、 写 真作 品 内の 具 体 的 な 物 体 は、 純 粋 に光とコントラストが 造り上げ た構 成 物 になって いる。 オノデラユキ の 嗜 好 はモノクロ写 真 にあり、 色 彩 のヴァル ール[ 訳 註 2 ]によって物を再 現するこ とには興 味を持たないし、 輝 度( br i l l a nc e )のグラデ ーションを活用して被 写 体 を 誠 実 に記 録して伝 えようとする意 図とも無 縁である。 彼 女の 写 真 は、 あくまでも 構 築され た存 在 であり、 技 術 的 な パラメーター や 様々な 工学 的 環 境、 さらに自身 の 感 性による創 作 なのだ。 その 世 界では、 光 は 粘 土のよ うに自由自在に姿 を 変える素 材として機 能している。 動くことなく静止して いる作 品世 界も、 しかし変 化 することはで きる。 繊 細 で 困 難 な 形 式 を 備えた作 品 が、 そ の イメージ に意 味 をもたらすの は、 ま さにその 変化なのである。作品を 理 解 する手がかりとして、写 真というメディ アが 持 つ 光 学 的・化 学 的 性 質という客 観 性 が、 光 のマチエールとの 間 につ かず 離 れずの 関 係 を 保 っており、 作 品 成 立の 意 識 性 をそこに 求 めることが 考えられるだろう。 驚 異 的とも言える作 品世界 の内 部 には、 意 識 されたマト リックスが 存 在し、そこでは 様々な要 素 が、置き換え可能な構 成 部 品であり 184 ながら、 でも確 かに世界 の 一 部分として、 明 確 な機 能 を果 たしていることに なる。イメージのそれぞれの 部分は、それ自体 が 完 結した世界でありながら、 同 時 に注 意 深く全 体 に 組 み込 まれて いるのだ から、 作 品 を 個 々の イメージ に分 割 することは不可能 である。 この 世 界で は、 部 分 即 全 体 、 全 体 即 部 分 なのである。 歴 史 の な い 世 界で、 もの が自らの 物 語 を 語 るの は自己 撞 着 でしか な い。 時 間および 時 間 性を排 除した作 品 空 間に、 定 理 や 規 則 がはびこる幾 何学 的 な 構 図 の入り込 む 余 地 はない。 目的もなく、 時 間もなく、 た だ 眼 の 錯 覚 だ けで構 成されたかのようにも見えるこの 作 品 空 間には、 いくつかの洗 練され た 物 体しか見ることはで きない。 それ は 持 続 性 の 概 念とは 無 縁 な、 ただ自 己目的 的 でエ ネルギ ー 過 剰 なばかりの 物 体 である。 この 作 品世界 は有用 性 や 交 換 性などには価 値 を求めない。 物 体 が 存 在 する理 由は、 その 機 能 にで はなく、 何のためにそれ が 存 在 するのかが 疑 われ、 揺るがされるところに求 められる。 実 際、 物 体 はその 姿 を見せてはいる。 しかし同 時 に、 物 体 は 私 たちが す でに知っている世界がもはや存 在しないことを宣 言し、 全てをさら し出す光と、 意 味と繋がることのない 記 号とでしか 仲 介され ない「 詩 的 な 物 理 学 」の世界 に入り込 んでいるのだ。 一 般 的 に 言えば、 写 真 作 品 は、 決して無 垢 な存 在 で は な い。 あ る中 心 、 あるテ ーマが 求められ、そのためのレファランスに れている。写 真作品は、 人および人の関 心 事 、 ないしは人 が世界 にもたらしたなにものかをそのテ ー マにする。 それに対して、オノデラユキの関 心 は別の 場 所に向けられている。 定 義 不 可能 なカオスと大 いなる全 体 性 の 追 求こそ が その 場 所である。 そのことは、 写 真 の 背 景に 現 れた 空 を見るとき、 確 かに感じとれるだろう。 オノデラユキ の 写 真世 界で は、 いか にもあり得 そうな オブジェや 瞬 間 が、 実 際 には 無 か ら造り上げられて いる。 オノデラユキ の 写 真 は、 いかにもありそうな 瞬 間 や オブジェを 造り上げ て いるが、 それ は出 来 事 ではなく現 象である。 つまり、 最初にフラッシュがたかれたときの目がくらんだ 原初の 瞬 間から工業 製 品に 至るまで、 ものの 痕 跡 を記 録することの出 来る現 象なのだ。 人の 眼 を幻 惑 するこうした要 素 があまりにも多い ので、 鑑 賞者はそれらを 位 置 づける手 段 や、それらがもたらす 効 果や 影 響 をうまく描 写する術を見い だ せないまま立 ちすくむことになる。 困 惑 の 果てに、 作 品 に対 峙 する 者 は、 185 全てのもの の中心 にはただエ ネル ギ ー の 流 れ があるの み 、 という結 論 にた どり着くにちが いない。 生き物と物 体 、そして、これらがもたらすイメージが 一 体化される場 所は、 未 知の空 間であり、既存 の 物 理 学 が 作用しない 特 別な 領 域にほかならない。 現 実 の 世界 はますます 複 雑 化し、 把 握 困 難 なほど不 明 瞭 な場 所、 自閉 的 な 状 況に向かって進 んでいるが、 オノデラユキ の様々な写 真作 品に映し出され た 光 景 は、 そういった 現 実 的 なあらゆる 機 能 、 意 味、 有 効 性 からもさらに 離 れていくのである。 いまや 我々は「 写 真 の向こう側 」にいる。 ここでは、 一 般 的 な 意 味 での 理 解 を 拒 んで い る、 言 い 換 えれ ば「 新 たな 理 解 の 可 能 性 」が そ の 影 響 力 を、 生き物と物 体 、 さらにイメージの内 部 の 細 かな 襞 にまで及ぼしている。 オノ デラユキ の 世 界 の 秩 序 は 連 続しつ つ、 分 断されて いる。 しかも、 この 秩 序 はいつだって我々には理 解できないままだ。それはまさに謎、神 秘であって、 その中 で 我々の 身 体 はその 意 識 を失 い、 手足は 増 殖し、 何の 役 にも立 たな くなってしまう。 オノデラユキの世界では、人は、自分 が星 座に似たマトリッ クスの 内 部 に 存 在 することに気 が つ かない。 物 体 は 重 力 から解 放 されて 宙 に浮 き、 人は 忘 我 の 中 で 物 体と一 緒 にそ の 形 を 変 えてしまう。 物 体 は 宙に 浮 かぶ が、 人は ある 表 情 を 強 制 され、 変 容 過 程 のさな か にあってさえも重 力からの 解 放は望めない。 にもかかわらず、オノデラユキの写 真世界 は、鮮 や か に重 力と戯 れて いる。 カシミール 効 果 を反 転させ な がら、 彼 女 は 重 力 と反 重 力を巧みに操っている。 彼 女 なら、 光を曲げることだって簡 単 にして 見せてくれるのかもしれ ない。 とはいえ、 重 力を 超 え、 リアリティに死 を宣告できるほどの力とは、 いっ たい 何なのだろうか。 既存 世界で の 写 真 の 機 能 、 状 況を正 確に描 写し伝 達 する、 という機 能 をはるか に 超 えること。 人の 知 覚とそれ による対 象 理 解 、 という理 解 の 手 順を 変 容させる明らかな幻 想の戯 れこそが、結 局のところ何 の 役にも立 たない 従 来 の 写 真 の機 能よりも、 人をもっとずっと遠くまで 連 れ て行けるのだ、 ということを 理 解しなくてはならないだろう。 フィクションはキマイラであり、 現 実 にはあり得 ない世界 の 多 様 性を 受 け 入れるための 特 別な 装 置と考えられている。 これらの、馬鹿げ ても見えるイ メージは、 実 際 のところは、 我々の ニューロン・システムを 通して 刺 激 を与 えているのだが、そのシステムがここではきちんとした法 則 性 から解 放され、 186 規 範に縛られることなく飛び回っているようだ。 彼 女の 写 真作 品 には 様々な操 作が 幾 度となく施 されて いて、 そのために、 もうとっくに道に迷っている鑑 賞者の 視 覚システムをさらに混 乱させている。 私たちがこれまで蓄えてきたイメージの巨 大な在 庫や、 経 験 から身につけた 検 索 システムはそ の 作 品 に 対しては 機 能 で きな い。 というのも、 彼 女 の 作 品 はそれ自体 が す で に 創 造 的 に 構 成 され た存 在 なのだ から。 オノデラユキ の写真作品は、明らかにされているはずの限界を、現 実から乖離 することで、 もう一 度 定 義し直そうとして いる。 生き 物とオブジェはイメージのレ ベ ルで 一 体 化しており、 そこに一 貫して 流 れて い るの は 様 々な 記 号 自 体 の エ ネル ギーなのである。 作 品 の根 底を支える謎は、 解き明かされることを決して求 めていない。 オノデラユキ の 作 品 に存 在 する「 既 成 概 念を 超 えようとする 」要 素 、 それ こそが 彼 女の 写 真 の 創 造 的 な力を 導き出す 新たな価 値 である。 それ は 我々 が現に見ているものについて、そして、そのものがどのように創り出されてい るかについて我々が 改めて推 測し、新たに問い直 すことを要 求している価 値 なのである。作品の題を見てもそれが分かるだろう。 〈 C. V. N. I. 〉、 〈 P. N. I. 〉、 〈 関 節に気をつけろ ! 〉、 〈 Tr a n s ve s t 〉、 〈 液体とテレビと昆 虫と 〉などのタイ トルには、 主 題をあえて隠し、 鑑 賞者をさらに奥 深 い 迷 路 に引きずり込もう とする意 図が 透 けて見 えるのではないだろうか。 写 真作 品 のオリジ ナリティ を確 実 なものにするべく、 露 骨な 表 現は 避 けられているが、 タイトルに示さ れたあやふやなイメージは、 その 一方 でエ ネルギ ーに満ちたもので、 ある意 味 でパラドキシカルな 表 現となって いる。 これこそ が、 見ること、 じっと見 つめることを 知るものだけに与えられ た 特 権 なのである。 このとき、 オノデ ラユキ の 写 真 作 品 は、 誇 大 妄 想 の 誹りをあえて 受 けとめつ つ 、 実 際 のとこ ろ、 必 要 な 謙 虚 さを失ってはいない。 人 が その 身 体 に 縛られて現 実 の 時 空 に 存 在 するものであるからには、 謙 虚 であることは、 必 要 不可欠 な前 提 条 件であるのだから。 仏陀の教えに従う者たちへの手紙 「あなた達はもうすでに自らの肉体から解放されているのだから、魂 が肉体と精神を行き交っている人 生の中で、魂がどれほど 絶 対的な 表 現、新たな言 葉、魂の内なる土地をみつけだせるのか、すでにご 存知でしょう。自らの内部にすみ、肉体に依存することなく精神を動 187 かすことのできるあなた方であれば、自分が自らの思考の中でどのよ うに変容を遂げられるか、どのように自分自身から精神を解 放でき るのか、についてもご存知のはずです。ここでは奪うことがすべてで はない手があり、森のよう連なる家々の屋根、花開くファサード、群 がる車、そして火と大理石の活動よりももっと遠くまで見通すことの 出来る頭があります。この鉄の民 衆は前進する、光の速さで書かれ た言葉は前進する、詩の行から行へと砲弾の力で二つの性は前進し てゆく。こういった精神の道のりの中で何が 変わるのでしょう。打ち 震える心、精神の不満足の中で ? 」 『シュールレアリスム革命 ( 』 第 3 号、1925 年 4 月 15 日 ) より[訳註 3 ] ( Fr a nc oi s C he v a l ニ エプス美 術 館 館長 。 仏 文 和 訳、関口涼子 ) 訳註 1 )複 製としての み 存 在し、 実 体 をもたな い 記 号を 表 す フランス 語( s i mu l a c r a )。 フランスの思 想 家 ボードリヤールによる用語 。 2 )1つ の 色の 強さにおける明 度の度 合 いを 意 味 するフランス語( v a l e u r )。 3 ) A nt on i n A r t au d , "Ad r e s s e au D a l a i-L a m a a nd L e t t r e au x e c o l e s du B ou d d h a ," L a R é v o l u t i o n S u r ré a l i s t e , no. 3 , 15 Apr i l , 19 25 188
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