何故にイエスは十字架に?

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何故にイエスは十字架に?
イエスが十字架に架けられて刑死したこと、すなわち「受難」は、キリスト教の教義の中で最も重要な事蹟
とされています。キリスト教のシンボルが十字架であることも、それを証明しています。キリスト教では、イ
しょくざい
エスの死は罪もなく罰せられるはずもない神の子が、人間の罪を身代わりに背負って受け入れた、贖罪として
の死と解釈されています。この贖罪死「受難」を、キリスト教では「神の恵みと愛の現実化」として讃えます。
ここでは、宗教的解釈とは別に、受難に至る背景と受難物語について記します。
受難の歴史的背景
BC13世紀、古代イスラエルの預言者モーセは神の命を受け、イスラエルの民を率いてエジプトを脱出し
ます。途中モーセは、シナイ山で神から十戒を授かり、神とイスラエルの民はお互
いに「イスラエルの神、そして神の民」となる契約を結びます。イスラエルの民は、
自分たちが神の救いを体験するだけでなく、この神の救いと祝福を周りの人々にも
もたらす役割が与えられたと信じました。以降イスラエルの民は唯一神ヤハウェを
信じ、神によって選ばれた民として高い誇りを持つようになりました。
イスラエルの民は、ダビデ王、ソロモン王等の治世とハスモン朝時代を除いて、
長い期間異邦人・異国の侵略、支配を受ける苦難の連続でした。BC6世紀には強
ほしゅう
制的に異国に移住させられる(バビロンの捕囚)など、言い知れぬ苦しみを受けて
おりました。彼らはその原因を「律法(神から与えられた掟・戒め)を犯し、神と
の契約を破ったからでは・・・」と考え、厳しく律法を守ることになります。
モーセと十戒の石版(レンブラント作)
ユダヤ教の成立は、バビロンの捕囚後のBC6世紀末とされていますが、その起源はモーセの出エジプトよ
りもさらに古く、BC20世紀頃ではないかとの説もあります。その聖典は「ヘブル語聖書」
(キリスト教の旧
約聖書)でユダヤ教の基本である律法を中心に、神による天と地の創造と人類の起源に関する物語、民族の歴
史、ユダヤ教を信じる者(ユダヤ人)を救う「救い主」が神によって地上に送られてくることの預言などが書
かれています。ユダヤ人はまさにこの預言を信じて「救世主」の出現を心から待ち続けていたのです。
イエスが受難にあった頃、聖都エルサレムはローマ帝国から派遣された、総督ポンティオ・ピラトによって
統治されていました。エルサレムの聖なる神殿の中庭や都大路を、武装したローマ兵が威圧的に固めている光
景に、人々はくやしさと敵意を煮えたぎらせておりました。武装蜂起を企む集団も多く、ローマ人が残虐な十
たっけい
字架刑(磔刑)を用いたのは、そういった反乱分子を抑え込むためでもありました。人々は精神的な救いだけ
でなく、イスラエルをローマ支配から解放してくれる、
「救世主」の出現を強く求めておりました。
数々の奇跡を起こしたイエスこそ、待ち焦がれた「救世主」ではないかと、大きな期待が掛けられたのです。
ユダヤ教とイエス
ユダヤ人イエスは30歳の頃、ヨルダン川におもむき、洗礼者ヨハネ(注:ヨハネ福音書のヨハネとは異な
ります)の一派に加わります。やがてヨハネから離れたイエスは、神の国の
到来を説いて、ガリラヤからパレスチナ各地、そして国境の外まで宣教して
歩きました。当時のユダヤ人社会は律法解釈を通じて生活の隅々にわたって
細かい規定が適用され、その完全な遵守を求められていましたが、イエスの
教え・言動は、ことごとく律法に反するものでした。例えば、当時悪人・罪
人と見なされていた病人、姦通した者、娼婦たちとも全く意に介さずに接し
たり、安息日に禁止されていたことも平気で行いました。また、イエスはユ
ダヤ教指導者たちに、挑発的とも言える激しい言葉を吐いています。
人間社会においては、組織からの分派行動は憎しみを増幅させ、陰惨な結
果を招くということがしばしば起こりますが、ユダヤ教指導者たちとイエス
の関係も例外ではありませんでした。
キリストの洗礼
(ヴェロッキオ作)
ユダヤ教指導者らは、イエスを抹殺する機会を虎視眈々と狙っていました。
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受難物語
エルサレムへの入城から逮捕・審問・磔刑・埋葬 そして復活
ガリラヤでの活動を終えたイエスは、AD30年頃、弟子たちと首都エルサレムに向かいました。ユダヤ教
の重要な祭りである「過越祭」を聖都で迎えるためです。またイエスには、自分の教えをさらに広めユダヤ教
を改革することも大きな目的であったと思われます。しかし、ユダヤ教指導者の牙城エルサレムに乗り込むの
ですから、相当の覚悟があったはずです。逆にユダヤ教指導者たちは、地方で急成長していた「危険な思想」
がついに首都まで来たか、という警戒感でイエスたちを迎えたに違いありません。
到着早々、神聖なはずの神殿で金儲けがなされている光景を見たイエスは激怒し、商人たちを境内から追い
出してしまいます。さらに、ユダヤ教の実情に痛烈な批判を加えたことで、ユダヤ教指導者たちの益々の反発
を招き、その後のイエスの逮捕、処刑に繋がっていきます。 (マタイ福音書21章~25章)
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イエスの一連の言動を許すべからざるものとして、怒り心頭にあった大祭司カイファを中心としたユダヤ教
の幹部たちは、イエス抹殺の謀議をこらします。
「やはり(過越)祭りの間はいけない。民衆の中で騒ぎが起き
ないようにしよう」。
ベタニアのらい病人シモンの家でイエスが食事をしていると、一人の女が高価な香油を持って現れ、イエス
の頭に注ぎかけました。「何のためにそんな無駄遣いをするのだ?この香油を高く売ったら、貧しい人に施しが
らん ぴ
とが
ほうむ
できたのに」 弟子たちは濫費だと口々に咎めますが、イエスは女をかばい、この行為は自分の 葬 りの備えに
他ならないといいます。
その後、十二人の弟子の一人ユダが祭司長のもとへ行き、イエス
を裏切り、引き渡す報酬として銀貨30枚を受け取ります。ユダは
イエスを引き渡すための機会を狙います。
弟子たちは「どこで過越の食事をする用意をしましょうか?」と
尋ね、祭りを前に心持浮き立っています。イエスは弟子たちと食卓
を囲みますが、席につくと「あなたがたのうちの一人が私を裏切ろ
うとしている」と言いました。弟子たちは不安に駆られ「主よ、それ
は私ですか?」と口々に言います。イエスはそれがユダであること
を断言します。
わたしを売る者
(マシブ作)
食事を終えたイエスと弟子たちは、オリーブ山に出かけました。途中、イエスは弟子たちに「今夜、あなた方
つまづ
は皆、私に 躓 く」と言いました。「私は決して躓きません」と言うペトロに対し、イエスは「あなたは、鶏が鳴く
前に三度私を知らないという」と予告します。
ゲッセマネという所へ、イエスはひとり祈りに行きます。イエスはひど
く動揺し、死ぬほどの悲しみの中で祈りを捧げました。祈り終えたイエス
は、寝入っている弟子たちに「立て、行こう。見よ、私を裏切る者が来た」
と言います。ユダが群衆と共にやって来て 「先生、今晩は」と言って、イ
エスに接吻しました。これは、イエスを逮捕するのに暗闇でも失敗しない
ための合図でした。こうしてイエスは捕えられ、弟子たちは散り散りに逃
げ去りました。
イエスはユダヤ教の最高法院に連行され、大祭司カイファの審問を受け
ます。多くの偽証者がやってきたにも関わらず、死刑にするだけの決定的
キリストの逮捕
(カラヴァッジョ作)
な証言は得られません。イエスは何の抗弁もせず、沈黙したままです。業
を煮やした大祭司は「おまえは神の子キリストか」と詰め寄ります。イエスは「人の子が力ある者の右に座し、天
の雲に乗ってやって来るのを見るであろう」(救い主であるイエスが人々を裁くために天より地上に戻ってく
る)と答えます。それを聞いた大祭司は、
「こいつは神を冒涜した、諸君はどう思われるか?」と祭司長らに問
うと、彼らは「死罪に値する!」と口々に叫びました。周りにいた者たちはイエスに唾を吐きかけ、殴りつけ、
あざけ
口々に嘲弄の言葉を投げつけました。「言い当ててみろ、キリストよ。おまえを打っているのは誰だ?」と 嘲 り
ます。
一方、ペトロは外の中庭に入り込み、その様子を伺っていました。すると、一人の女が「お前さんはイエスの
仲間だね」と聞きます。ペトロは「あんな男は知らない」と否定しますが、門の所で別の女に、また少し間をおい
て別の者に問いかけられます。「確かにあんたも彼らの一人だ。あんたの訛
りがそのことを明らかにしている」「いや、知らない。」 ペトロはその度に
強く否定します。するとすぐさま、鶏が鳴きました。ペトロはイエスの言
葉を思い出し、外に出ると堪え切れず激しく泣きました。 (以上マタイ
福音書26章)
イエスを売り渡したユダは、イエスが死刑を宣告されたと知り、後悔し
て銀貨30枚を祭司長たちに返しに行きます。しかし祭司長たちは「それが
我々に何の関係がある?おまえが自分で始末しろ!」とにべもなく拒否さ
くく
れてしまいます。そこで彼は銀貨を神殿に投げ入れ立ち去った後、首を括っ
ペトロの否認
(ホントホルスト作)
て果ててしまいました。
「死刑」の宣告を受けたイエスですが、死刑執行の権限がローマ総督にあったため、総督ピラトのもとに移送
されます。ピラトは、引き立てられてきたイエスを前に、先刻から途方にくれています。「この男は祭司長らの
証言の間中、一言も弁明しないし、自分の不利になる沈黙を通している。いったい、この男の罪は何なのだ」。
ピラトはイエスに拘りたくない気持ちもあって、過越祭では囚人一人を恩赦するという慣習を使おうとします。
しかし、ユダヤ教祭司長らの煽動に乗った群衆は、「バラバを!」と強盗バラバの釈放を選んでしまいます。ピ
ラトは「ではこのキリストと言われているイエスはどうする?」と群衆に問うと、群衆は「十字架につけろ!」と
叫びたてます。ピラトは「彼は一体どんな悪事を働いたというのか?」と問いますが、集団ヒステリー化した彼
らは「やつを十字架につけろ!」と益々激昂します。暴動になるのを恐れたピラトは、水を取って群衆の前で自
分の手を洗い「この正しい人の血について、私は責任を負わない。おまえたち自身が始末しろ!」と突き放すと、
群衆は「彼の血は我々と、我々の子供たちの上に」と口々に叫び応えるのでした。そこで、ピラトはバラバを釈
放し、先端に鉛の小塊が付いた鞭でイエスを打たせた後、十字架にかけるため兵士たちに引き渡しました。
兵士たちは、茨の冠をイエスの頭上に載せ、葦を右手に持たせ
ひざまず
て、彼の前に跪き「ご機嫌よう、ユダヤの王様よ!」と嘲弄します。
そして彼に唾を吐きかけたり、葦を取ってそれで彼の頭を叩いた
り、さんざんなぶりものにした後、処刑場であるゴルゴタ(意味
は、されこうべ)の丘へイエスを引き立てて行きます。
イエスは二人の死刑囚と一緒に十字架にかけられました。兵士
たちはイエスの頭上に「これはイエス、ユダヤ人の王である」と罪
状を書いて掲げました。通りすがりの者たちは、頭を振りながら
「神殿を打ち壊し、三日でそれを建て直す者よ!自分自身を救っ
てみよ!神の子なら、十字架からおりてこい!」と冒涜すると、
キリストの磔刑
(マンテーニャ作)
同じように祭司長や律法学者たちも「こいつは、他人は救えても
自分自身は救えない。イスラエルの王ならば、いま十字架から降りてこい!そうしたら我々も、信じよう。こ
いつが頼ってきた神がお望みなら、今、救うだろう。やつはこう言っていたのだ。
『私は神の子だ!』」とイエ
スを嘲弄します。
昼の12時になるとあたりは暗くなり、それが3時まで続きました。イエスは「エリ、エリ、ラマ、アザプタ
ニ(わが神よ、わが神よ、なぜ私をお見棄てになったのか)」と叫びました。そこに立っていた何人かがこれを
聞いて言い出しました。「こいつはエリアを呼んでいるぞ!」。好奇心に駆られた彼らは「待て!見てみないか!
エリアが来て助けるかどうか」と言い合いましたが、イエスは再び大声で叫びながら息をひきとりました。
すると、神殿の幕が上から下まで裂けて、真っ二つになりました。同時に大地は震え、岩々が裂けたり、墓
が開いて眠っていた聖人たちの体が起こされるなどの異常な現象が生じました。それを見た百人隊長や兵士ら
は、はなはだしく恐れて言いました。「本当にこの人は、神の子だったのだ。」 その後、ヨセフという名の弟
子によって、イエスの遺体は埋葬され、墓の入り口は大きな石で塞がれます。
翌日、祭司長たちとパリサイ派の人々は、ピラトの所に集まって「閣下、あの男は生前『私は三日目に甦る』
と言っていました。このままにしておくと、弟子どもが死体を盗み出し『イエスは復活した』と言い触らすか
もしれません。そうなると、民衆は前以上に惑わされます。ですから三日目まで墓を見張るように命令して下
さい」と願い出ました。総督ピラトはそれを受け入れ「お前たちの警備兵で、墓の警備をするのがよかろう」と命
じます。命令を受けた彼らは行って、警備兵と共に、石に封印をして墓の警備をしました。
福音書27章)
(以上マタイ
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さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアと他のマリアが墓を見に来ました。
すると大きな地震が起こり、主の使いが現れ「イエスは甦られた」と告げました。11人の弟子たちはガリラ
ヤへ行き、命じられていた山に登ります。すると、イエスが現れて言いました。
「見よ、私は世の終わりまで、
いつもあなた方と共にいるのである」
。 (以上マタイ福音書28章)
最後の晩餐から十字架までの経緯
太陽暦
ユダヤ暦
時刻
日没
21 時頃
木曜日
(マタイ福音書に基づく)
で き ご と
最後の晩餐始まる
ユダの裏切り預言
「パンは私の体、ぶどう酒は私の血」の教え
オリーブ山に登り、弟子の離反を預言する
ゲッセマネの園でのイエスの祈り
イエスは自らのとるべき道に苦悩するが、弟子たちは眠りこけてしまう
イエスが捕まりカイファの邸宅に連行される
大祭司、最高法院の律法学者、長老たちによる裁判が始まる
(夜明け前)ペトロの裏切り、イエスを知らないと言う
除酵祭の
第1日目
過越祭
金曜日
夜明け
イエスに死刑の判決が出る
総督ピラトに引き渡されローマ側の裁判に掛けられる
後悔したユダが自殺する
十字架の刑の決定 強盗バラバの釈放
鞭打たれ、茨の冠を被らされ、ゴルゴタヘと引き立てられる
9 時頃
刑場(ゴルゴタの丘)で十字架の刑が執行される
2人の死刑囚と共に十字架につけられる
12:00
暗闇が続く
15:00
日没
安息日
土曜日
「エリ、エリ、ラマ、アザプタニ」と叫び、イエスが十字架上で息を引き取る
神殿の幕が真ん中から裂け、大地が震える
弟子の一人ヨセフがイエスを埋葬する
安息日が始まる
安息日(土曜日の日没まで)
警備兵が墓を見守る
登場人物プロフィールと語句の説明
イエス・キリスト:紀元前4年頃ベツレヘム生まれ?ナザレで育つ、容姿不明、父ヨセフの職業(大工)を継ぐ?宗教活動を
したのは刑死の前2~3年間。紀元30年頃、磔の刑により33才で亡くなったとされる。キリストとはギリシャ語で「救い主」の意味。
ペトロ:元漁師。イエスが最も信頼した一人。12使徒のリーダー的存在。ペトロとはギリシャ語で岩(頑固者)の意味、イエスが
ニックネームとして付けた。紀元64年頃ローマで殉教。
イスカリオテのユダ:12使徒の最後に名を連ねる。銀貨30枚でイエスを裏切るが、後悔して銀貨を神殿に投げ返し、自殺。
カイファ:サドカイ派に属したユダヤ教の大祭司。イエスを十字架に架けた裁判の長。
ポンティオ・ピラト:ローマ帝国から派遣されているユダヤ総督。在任期間 AD26~36年。冷酷な性格という説もある。ピラトの
眼には、イエスは無罪と映ったようだ。
バラバ:イエスがピラトの所に移送される少し前に投獄された暴徒の指導者?強盗説も。名前は「イエス・バラバ」
エリア:旧約聖書に登場する預言者。ユダヤ教ではモーセ以後、最大の預言者とみなされる。エリアの死が聖書に記載されて
いないことから、1世紀当時、エリアが再来するとの伝承があった。
福 音:ギリシャ語でエヴァンゲリオン。良い知らせの意味。
福音書記者:エヴァンゲリスト。
過越祭:ユダヤ教徒の三大祭の1つで春の祭り。出エジプトを記念して祭り始めた。
除酵祭:過越祭の一部。祭りの期間、ユダヤ教徒はパン種(酵母)の入ったパンを食べてはならないとされている。
安息日:旧約聖書で週の7日目と定められており実際には土曜日にあたる。ユダヤ教徒はこの日には戒律としていかなる労働も
行なわないことが求められる。「日」は基本的に夕方で区切る。つまり金曜日の日没から土曜日の日没まで。
パリサイ派:BC2~AD1世紀頃のユダヤ教主流派。頑ななまでに律法を厳守。
*「受難物語」の表記は、岩波版「新約聖書」に倣っております。
(バス
竹内 務)