アトラスコプコ 世界有数の革新的かつサステイナブルな企業の140年にわたる歴史 1 11 アトラスコプコ 世界有数の革新的かつサステイナブルな企業の140年にわたる歴史 1 2 常により良い方法がある 1873年以来、お客様の課題を解決する革新的なソリューションを開発し、お客様の生産性 を高めることに献身的に取り組んできた優秀な従業員の存在なくしてアトラスコプコの成 功はあり得なかったでしょう。アトラスコプコの世界各地の従業員が、長年にわたってお 客様に最高のサポートを提供し続けてきたからこそ、今のアトラスコプコがあるのです。 鉄道製品メーカーとして創業したアトラスコプコが、現在の中核事業となるコンプレッサ や産業機器、さく岩機を初めて製造したのは20世紀初頭にまでさかのぼります。現在では、 アトラスコプコはこれらの製品をはじめ、さまざまな製品エリアで世界をリードしています。 もちろん、140年の間にはさまざまな変化がありました。アトラスコプコは スウェーデンの一企業から多国籍グループへと成長し、90か所の自社拠点から 約180か国のお客様をサポートするまでになりました。しかしながら、当社の精 神と価値観は一貫して守られています。アトラスコプコが重視するのは革新、 サステナビリティ、および倫理です。お客様が求める以上の新しい製品やサー ビスを開発すること、そして何よりも仕事を楽しむことを使命としています。 世界が変化するに従って、当社も変化する必要があります。人口統計、生活水準、都市 化に見られる主要な変化から新たな需要が生まれ、革新能力が問われることになります。 お客様やビジネスパートナーと協力して、天然資源の利用、安全性、エルゴノミクス、 および生産性に関してより高い要件を満たす新製品を開発しなければならないのです。 アトラスコプコでは、「サステイナブルな生産性」を企業目標として 掲げています。そしてそのことは、当社の140年にわたる歴史が何よりも 雄弁に証明しています。「常により良い方法がある」という当社の強い信 念を支えに、これからもサステイナブルな生産性をお届けしていきます。 2013年2月21日、アトラスコプコ 社長兼CEO ロニー・レテン 3 目次 創業期 スウェーデン社会の近代化 9 新しい経営陣とより高度な製品 11 海外からのヒント 13 空圧工具の商用化 13 お客様のニーズへの対応 17 空圧工具とエアコンプレッサ 19 お客様との協力 19 新たな販売手法 21 お客様中心のアプローチ 23 販売畑出身のリーダー 25 より良い製品の提供 27 革新的なスウェーデン方式 29 現場最前線への輸出 31 専門会社の国際的展開 35 プロジェクト支援サービス 39 ディーゼルエンジンからの撤退と新しいブランドの確立 40 取引先の拡大 4 6 43 権限委任と技術重視への回帰 45 製品開発力の強化 47 3つの製造会社を持つ新しい組織 48 革新的なコンプレッサ技術 51 主な企業買収 53 研究開発のためのプログラム 54 買収による拡大 57 補完的な製品 61 可能性に満ちた産業機器事業 61 新しいブランドポートフォリオ戦略 62 常により良い方法がある 65 勢いを維持する 67 足で稼ぐ営業 69 低迷する市場からの撤退 69 サービスの重視 71 170か国以上に広がるお客様 72 収益を生むサステイナブルな開発 77 先頭を走り続けるアトラスコプコ 79 無音、最小限の電力消費 81 安全性と健康 83 優秀な人材の育成 84 各種情報とデータ 87 アトラスコプコの歴史の所有者は? 101 5 創業期 「誇りを持って導入し、さらなる改良を 施した」アトラスの空圧式工具および機 械の起源を一言で表すとしたらこうなり ます。アトラスは、自社の生産ラインで 使用する工具を購入し、操作者、設計 者、金属工との相互協力により、これら の工具にさらなる改良を施しました。 1 2 アトラスは1873年に鉄道技師のEduard Fränckel、資本家のDavid Otto Francke、銀行家のAndré Oscar Wallenbergによって、スウェーデンの ストックホルムに設立されました。社長にはFränckelが就任し、明る い未来に向けて歩み始めました。 スウェーデン社会の近代化 スウェーデンは経済発展を遂げてお り、最新の鉄道システムが建設されて いました。アトラスの目標は、鉄道網 の建設と運行に必要なあらゆる種類の 機器を提供することでした。ストック ホルム中心地の鉄道駅近くにアトラス の工場を建設し、製造した製品を迅速 に出荷しました。 創業したばかりのアトラス 3 は、Swedish Railの鉄道客車の3分の1 を受注し、かなりの収益を上げ、事業 拡大も視野に入れていました。しかし、1876年にSwedish Railの成長 が突然鈍化しました。実りの多い数年間の後は、赤字の時期が続きま した。しかし、Wallenberg家の支援により、アトラスは再び成功への 道を歩み始めました。 André Oscar Wallenbergがアトラスの創業者の1人であり個人筆頭株 主であったにもかかわらず、名門Wallenberg家はアトラスの創業にそ れほど深く関わっていませんでした。しかし、André Oscar Wallenberg が経営する銀行(Stockholms Enskilda Bank)がアトラスに多額の融 資をしていたため、アトラスが赤字を出せば出すほど、Wallenberg家 の関心も高まることになりました。André Oscar Wallenbergは、1886 年に他界する前、頭取を引き継いだ息子のKnut Agathon(K.A.)に対 して、アトラスの赤字経営を転換するには経営陣を刷新するしかない と告げていました。 9 5 4 6 10 7 8 新しい経営陣とより高度な製品 頭取を引き継いだK.A.Wallenbergはアトラスの売却 先を探しましたが、失敗に終わりました。そこ で、1887年にAB Separator-Alfa Lavalの社長だ ったOscar Lammを新しい社長に任命しました。 Lammのリーダーシップにより赤字は縮小し たものの、より抜本的な対策が必要でした。 アトラスが破綻した際、同銀行はアトラスの 負債のほとんどを清算しました。しかし、ア トラスは破綻前、スチームエンジンや工作機 械などの、より高度な製品の生産へと戦略を 転換し始めていました。自社工場の機械を近 代化し、平削り盤、フライス盤、研磨機も追 加導入しました。コンプレッサやヨークリベ ッターは英国から輸入しました。1888年度年 次報告書には次のような記載があります。 「取締役会は、スチームエンジンやボイラー の生産に注力することの重要性を認識し、空 圧式リベッターを含むいくつかの新型機械を 購入および導入しました」 スチームエンジンへの注力とコンプレ ッサの購入が、まったく新しい事業分野へ の道を開くことになり、その事業分野にお いてアトラスが世界的に有名になること に、Nya Aktiebolaget Atlas(新生アトラス) はほとんど気付いていませんでした。アトラ スが空圧式の工具や機械に対する関心と専門 性を高めるきっかけとなったのは、自社の生 産ラインでの必要に迫られたことでした。 9 11 12 10 海外からのヒント アトラスは自社の生産ラインで、板金を据え込み加工(ハンマでたたいて 短くし、径を太くすること)し、縁をリベットで留めて水漏れを防止す る必要がありました。このことを十分認識していたスウェーデン人若手 技師のGustaf Rydは、1892年に英国を訪れた際、水漏対策用に空圧式コ ーキングハンマを購入しました。翌年には米国から空圧式リベッティン グハンマを購入しています。 これらの新型機械はアトラスの生産ラインにおいて貴重な工具とな り、スペアパーツと代替品に対するニーズもすぐに発生しました。研究 所の有能な職人は、参考となる設計図がない状態からリバースエンジニ アリングによりオリジナルの機械を複製しなければなりませんでした。 1893年に英国の雑誌『Engineering』にコーキングハンマの見本が掲 載された際、Rydはすぐに行動を起こしました。雑誌の発行から3週間 後、Rydはそのコーキングハンマの縮尺図を改良し、その年のうちに生 産を開始しました。翌年、Ryd自身が設計した改良版のハンマが完成し ました。 空圧工具の商用化 当初アトラスは 、自社工場で使用する目的で空圧工具を製造していまし た。操作者、設計者、金属工の相互協力により工具はさらに改良を重ねて いきました。その結果、工具の優れた効率性と信頼性の噂が広まり始め、 スウェーデン国内の他の大手工場からの需要が自然に発生しました。 1894年、そうした大手工場の1つだったMotala Verkstad(1878年に世 界初のオイルタンカーを建造)がアトラスの空圧式リベッティングハン マを購入しました。翌年には、Göteborgs Mekaniska Verkstadも同じも のを購入しました。社外からの需要は増加する一方でしたが、空圧工具 が正式に生産ラインに組み込まれたのは1901年のことでした。 13 1873年の創業以来、アトラスコプコの社長兼 CEOを務めた人物は11名しかいません。1997年に は、Giulio Mazzalupiがスウェーデン人以外として 初めて社長兼CEOに就任し、2009年にはRonnie Leten が2人目となりました。11名のうち、Walter Wehtje とGunnar Brockの2名を除く全員が、アトラスコプコ グループからの内部昇格でした。 14 1873 ~ 1887年 1887 ~ 1909年 1909 ~ 1940年 Eduard Fränckel Oscar Lamm Gunnar Jacobsson Swedish State Railways(ス ウェーデン国営鉄道)のテクニ カルディレクターを務めてい たEduard Fränckelは、ABアト ラスの初代社長に就任しまし た。ABアトラスの設立に従事し た人物の1人でもあります。 Oscar Lammは1890年にWallenberg兄弟(K.A.とMarcus)とと もに、ABアトラスの清算業務を 担当し、後のNya ABアトラスの 設立に従事しました。 1909年にNya ABアトラスの社長 に就任したGunnar Jacobsson は、1917年のABディーゼルモー ターとの合併後も引き続きABア トラスディーゼルで同じ職務に 従事しました。新しい工具類と エアコンプレッサの導入によ り、空圧工具の製品系列を拡張 しました。 1940 ~ 1957年 1957 ~ 1970年 1970 ~ 1975年 1975 ~ 1991年 Walter Wehtje Kurt-Allan Belfrage Erik Johnsson Tom Wachtmeister Walter Wehtjeはそれまで技術 中心だった会社で、新しいタイ プのリーダーシップを発揮しま した。ストックホルムの百貨店 で責任者を務めた経験を持つ彼 は、販売とマーケティング畑で 育ったビジネスマンでした。 Kurt-Allan Belfrageは研究開 発に重点を置く一方、生産工場 の大幅な近代化と拡張にも力を 注ぎました。オイルフリーエア コンプレッサの発売に伴い、新 たな顧客層と応用分野を開拓し ました。 長く語り継がれるであろうErik Johnssonの功績は、主に産業界 でのマーケティング活動に見ら れます。開拓者精神に富み、尽 きることのない行動力の源とし て活躍しました。製品を単独で 販売するのではなく、一式のセ ットとして販売する方式を提示 するという案を実行に移したの はErik Johnssonでした。 Tom Wachtmeisterは1959年にア トラスコプコグループに入社 し、1975年に社長に任命される まで、さまざまな職務を歴任 しました。組織の分権化を進 め、3つの事業エリアに対応す る事業部制を取り入れました。 1991 ~ 1997年 1997 ~ 2002年 2002 ~ 2009年 2009年 ~ Michael Treschow Giulio Mazzalupi Gunnar Brock Ronnie Leten Michael Treschowの指導下での アトラスコプコグループの発展 は、製品開発と企業買収による 安定性の向上、収益性の増大、 健全な成長に集約されます。ブ ランドポートフォリオ戦略とい う新しい概念を持ち込んだのは Treschowでした。 アトラスコプコの古参者でもあ るGiulio Mazzalupiは、スウェ ーデン人以外として初めて社長 兼CEOに就任した人物です。製 品の技術革新、新しい製品戦 略、およびお客様へのアフター サービスの改善により、アトラ スコプコグループの地位を強化 しました。 Gunnar Brockは、事業売却を通 じて中核事業への回帰を図ると 同時に、道路建設事業への進出 も果たしました。営業範囲を拡 大して、お客様中心の企業を構 築する戦略を重視しました。 Ronnie Letenはお客様との関係 にさらに注力し、アトラスコプ コのブランド管理を強化しまし た。サービス戦略/構造の強化 および業務改善などに取り組ん でいます。 15 お客様のニーズへの対応 インダストリアルマーケテ ィングとは、価格を度外視 して契約を結ぶことではな く、何がお客様にとって最 良であるかを判断すること です。長期的な関係を築 き、お客様のニーズを満た す製品を開発することなの です。 1917年、アトラスは ディーゼルモータ ーと合併しました。ディーゼルモータ ーは、K.A. Wallenbergの異母兄弟で あるMarcus Wallenbergによって1898 年にストックホルム郊外のナッカに設 立された船舶用エンジンや定置式ディ ーゼルのメーカーです。非常に技術力 の高い会社で、いくつかの重要な設計 改良はこの会社で行われました。1906 年にJonas Hesselmanが発明した製品 により、モータを前進から後進にすば やく切り換えることが可能になり、船 舶用エンジンの市場が大幅に拡大しま した。 新しい会社名をアトラスディーゼル とし、1920年代にはすべての事業をナ ッカに移転しました。 18 11 空圧工具とエアコンプレッサ 1909年にOscar Lammの後を継いでNew Atlasの社長に就任したGunnar Jacobsson が、アトラスディーゼルの社長にも就任しました。Gunnar Jacobssonはもと もと、アトラスが空圧工具の通常生産を開始するために1901年に設立した独 立の空圧事業部の責任者としてアトラスに入社しました。 Jacobssonの指揮の下、空圧事業部は新しい工具やエアコンプレッサにも 着手し、製品シリーズを拡大しました。1904年には、早くもドイツ製コン プレッサの複製(アトラスのスチームエンジン搭載)を製造、翌1905年に は自社製コンプレッサを発売し、さらには初のアトラス製さく岩機も発売 しました。 空圧工具とコンプレッサの製品シリーズは拡大し続けました。第一次世界 大戦の開戦時には、販売代理店網を通じた収益性の高い輸出市場が確立 していました。1915年には、アトラスの収益の50%以上、利益ベースで はそれ以上の割合を空圧工具が占めていました。スウェーデンは第一次 世界大戦に関与していなかったものの、この戦争により販売代理店網が 崩壊し、空圧工具の輸出は停止となりました。 戦後のより良い未来を期待して、取締役会は1917年にストックホルム 証券取引所に上場する決定を下しました。首尾よく上場を果たしたもの の、アトラスディーゼルの運命は下降線をたどる一方でした。終戦後も 事業は期待していたほどには回復せず、その後数年間にわたって苦難の 時代が続きました。 お客様との協力 1920年代と1930年代 の世界恐慌で大打撃を受けたアトラスディーゼル は、限られた開発資源と輸出事業をディーゼルエンジンに集中しまし た。一方その陰では、お客様中心の取り組みを進めたJosef Hollertzの 尽力により、エアコンプレッサ機器の国内販売が拡大していました。 19 Hollertzはアトラスディーゼルの営業担当者として大成功を収め た人物であり、意志の強い「お客様のオンブズマン」でした。比較的 少数のお客様と親交を深め、お客様が直面している問題を調査しまし た。お客様の工場を訪れ、お客様の意見、力量、品質上の欠陥などを 細かく書き留めました。そしてアトラスディーゼルに戻り、優れた設 計事業部責任者だったErik Rydとお客様の需要や要求について話し合い ました。RydはHollertzとともに足繁くお客様の元を訪れ、お客様が抱 える問題に耳を傾けました。このようなお客様との緊密なやり取りが 重要な設計変更につながり、アトラスの研究開発の代名詞とも言える お客様中心文化の土台となり、今日に至っています。 ポータブルコンプレッサ と軽量さく岩機の開発により、新たな市場が開 かれました。Hollertzは業界の状況を観察し、見込み顧客が直面して いる問題を入念に調査しました。その結果、充実した販売およびサー ビス組織の必要性に気付き、スウェーデンの複数の大都市に販売およ びサービスの支店を設立しました。小規模な企業の多くがポータブル コンプレッサの購入に消極的であることを知ったHollertzは、レンタ ルしてから購入するシステムを考案し、これによりエアコンプレッサ 機器が急速に普及しました。 20 12 アトラスの企業文化改革 13 新たな販売手法 販売における Hollertzの豊富な経験は、ア トラスディーゼルの販売手法トレーニング の基盤となりました。このトレーニングで は、価格について言及する前に、提案する ソリューションがお客様のニーズに適合す るものだと説得することを推奨しました。ま た、Hollertzは利益ベースの販売計画も導入 し、さらに将来に向けて、お客様との長期的 な関係性も築きました。営業担当者が効率的 に時間を使えるように、お客様の長期的な潜 在利益に適合する販売手法や訪問頻度を記し たガイドも作成しました。 ストックホルム郊外のナッカにあるDiesel Motorerと合併し、共同運営を行うようにな っても、アトラスが変わることはありません でした。ディーゼル事業部とエアコンプレッ サ事業部はそれぞれ異なるビジネス文化を持 つ異なる事業部のままで、それぞれの事業部 に所属するエンジニア同士の交流はほとんど ありませんでした。両事業部のうち、ディー ゼル事業部の方が明らかに優遇されておりて おり、主要な開発プロジェクトが実施される のも有能な人材が採用されるのもディーゼル 事業部においてでした。主要職種(上級管理 職や海外セールスオフィスなど)の重要な地 位に就くのもディーゼル事業部の従業員でし た。社員食堂でも、最も良い席を独占するの はディーゼル事業部の従業員だったのです。 財務報告書によると、ディーゼル事業部で は赤字経営が常態化していたのに対して、エ アコンプレッサ事業部は黒字を出していまし た。にもかかわらず、社内におけるディーゼ ル事業部の威信があまりにも高かったため、 大胆な経営判断を下せる人間はいませんでし た。ディーゼル事業部には常に最も多くの資 金が投入されていました。経営陣は、次の組 織再編が完了したらディーゼル部門は必ず立 ち直るという説得を信じ続けました。 21 お客様中心のアプローチ Walter Wehtjeが社長に任命されたのには、アトラスディーゼ ルを技術志向のメーカーから市場志向のメーカーに変革したい との意図がありました。Walterはお客様のニーズを起点にした 製品開発と販売戦略を導入しました。 14 24 15 16 17 Wallenberg Jr.は1933年以来アトラスディーゼルの取 締役会長を務めていました。金融業者であるため、Marcusは赤字補填 の資金注入を繰り返さざるを得ませんでしたが、アトラスディーゼル の主要製品であるディーゼルエンジンは資本を消費するばかりで、 投資を回収できる見込みがほとんどないことが徐々に明らかになり ました。一方、「非主力製品」のエアコンプレッサ機器は、厳しい 操業条件にもかかわらず、独立採算で収入を生み出しており、相対 的にかなり貢献していました。Wallenbergによるこの状況分析に基づ き、Gunnar Jacobssonの後任となる新社長には、それまでの伝統とはま ったく異なる人物が任命されました。 銀行家のMarcus 販売畑出身のリーダー Wallenbergは、アトラスディーゼルを技術中心の製造志向の企業から市 場志向の企業へと変革すべく構造改革をする決断を下しました。この 改革を実行するためにWallenbergが社長に任命したのは、ストックホ ルムの有名百貨店PUBの元責任者であり学生時代の友人でもあるWalter Wehtjeでした。 1940年に社長に就任したWehtjeは、第二次世界大戦により海外事業か ら撤退していたこともあり、国内新規市場でのエアコンプレッサ製品の 販売に注力しました。大戦中、スウェーデンは中立の立場を貫きました が、スウェーデン国防省による基地やシェルターの建設はアトラスディ ーゼルにとって重要な意味を持ちました。建設には岩盤の掘削工事が必 要だったためです。販売畑出身のWehtjeは、それまで消費財の販売を主 に担当していたこともあり、小規模企業への販売に注力し、未開拓の新 規市場を切り開きました。そこで、小規模企業と体系的に連携する販売 組織、X-Salesを設立し、お客様ごとにカスタマイズされた製品ライン と販売戦略を導入しました。 Josef Hollertzの推薦により、X-Salesの責任者には32歳のErik Johnsson が就任しました。Erikが営業担当者を10名募集したところ、多数の若者か 25 18 ら応募がありました。採用した従業員はいずれもエア コンプレッサ機器について特に経験を持っていません でした。彼らは、電話帳を基に作成した見込み顧客の リストを与えられ、各地域に配属されました。彼らの 職務は、リストに記載された企業を体系的に訪れ、ビ ジネスチャンスを見いだすことでした。 より良い製品の提供 X-Sales営業担当者 が主要ターゲットとして重視した のは小規模工場でした。そしてその小規模工場の 投資意欲を促進するために、アトラスディーゼル は相応の小型コンプレッサだけでなく、エアコン プレッサの豊富な用途も提案する必要がありまし た。Wehtjeは生産ラインに何が欠けているのかをす ぐに見抜き、小型コンプレッサとスプレー塗装機器 を製造する2つの国内工場を買収しました。その結果 X-Sales営業担当者は、研磨、掘削、ブラスト、ナッ ト締め、タイヤへの空気注入、スプレー塗装など、 あらゆる用途向けにコンプレッサとエアツールを販 売できるようになりました。 1940年1月22日(月曜日) 第二次世界大戦が開戦した際、攻撃に備 えて多くのスウェーデン人男性が兵役に 就くために仕事を離れました。そして、 仕事を離れた男性に代わって、多くの女 性が社会進出を果たしました。 「この工場ではおよそ10名の女性従 業員が採用され、比較的軽い作業を任さ れました。彼女たちの服装はバラバラで した。1人目は黄色のオーバーオールに 白い帽子、2人目はダンガリーパンツ、 3人目は青いズボンに白い上着、4人目は スカートに革ジャケット、5人目は毛皮 の作業着、6人目は作業コートといった 具合です」 これは、Lambert Wahlbergの日記に残 されていたある日の記述です。Wahlberg は1928年に天井クレーン操作者としてナ ッカにあるアトラスディーゼルに入社 し、30年以上にわたって工場での日々を 日記に付けました。1973年、同社の100 周年記念行事の一環として、その日記の 一部が「Utsikt från en travers — View from a Crane(クレーンからの眺め)」 というタイトルで出版されました。 戦争によって アトラスディーゼルに課された特殊な 事情により、X-Sales営業担当者には新たな専門市場 が切り開かれました。農業市場です。スウェーデン は、食料自給率を高めるために農地を拡大する必要 がありました。そこでスウェーデン政府は、農地か ら岩や石を除去するために農家を支援する特別プロ グラム、「岩石除去事業」を展開し、これがアトラ スディーゼルにとって好機となりました。X-Sales営 業担当者には、大きな岩石を除去した場合に農家が 得られる利益に関する詳細な分析などの関連情報が 与えられました。 27 革新的なスウェーデン方式 アトラスディーゼルが軽量さく岩 機を開発したのとほぼ同時期に、 スウェーデンの鉄鋼メーカーの Sandvikがタングステンカーバイ ドドリルビットの開発に着手しま した。販売に関して鋭い嗅覚を持 つErik Johnssonは、両製品をス ウェーデン方式として同時に販売 することの利点に気付きました。 お客様側の購買担当者は、方式の 価格交渉を自分で行うのは困難だ と考え、豊富な知識を持つ自社の 技術者とアトラスディーゼルの営 業担当者との直接取引を許可せざ るを得なかったのです。 19 30 1920年代と1930年代 にエアコンプレッサ技術の分野で重要な開発を担当 したのは、アトラスディーゼルの元設計責任者、Erik Ryd(Gustaf Ryd の息子)でした。新卒採用のさく岩機技術者だったErikは、アトラスデ ィーゼルラボラトリの上級技術者職に就きました。そして、アトラスデ ィーゼルが初の空圧工具設計事務所を開設した際、Erikが責任者に任命 されました。そこで、営業担当者(当時)のJosef Hollertzと親交を深 め、常にお客様のニーズに合わせて行動することを学びました。 Rydは、素材や熱処理に関する豊富な知識だけでなく、お客様の生産性 を向上させたいという強い熱意も持っていました。これらの資質を兼ね 備えたRydは、素材の強度に関する専門家であるJohn Munckと協力して、 軽量、強力、高性能の空圧式さく岩機を開発しました。1936年に発売さ れたこのワンマンさく岩機は、空圧式プッシャーレッグを搭載できるた め、削岩作業が大幅に合理化しました。 第二次世界大戦中、スウェーデンの地下防衛施設の建設や鉱業ビジネスに この新型さく岩機が使用されました。スウェーデンの硬い岩石を掘削す るのにさまざまなビットが使用されました。掘削距離当たりのコストと いう点では、タングステンカーバイドドリルビットが優れた結果を出し ました。戦争が終わる頃には、空圧式プッシャーレッグを搭載した強力 かつ軽量のさく岩機とタングステンカーバイドドリルビットという革新 的で実証済みの組み合わせが、卓越した性能を発揮することが明らかに なりました。 現場最前線への輸出 終戦後、社長のWalter Wehtjeは輸出の増加に注力しました。1946 年の春には、フランス市場での可能性について調査するために、 Erik Johnssonがパリに派遣されました。フランスの鉱業業界への訪問を 通じて、Johnssonは予想以上に競争が厳しいことを知りました。競合他 社の営業担当者は比較的能力が低く、値下げ競争に陥っていました。そ の結果、フランスとドイツでは掘削装置が非常に低価格となっており、 アトラスの標準型大型さく岩機の販売に乗り出すメリットを見いだせま せんでした。 31 32 20 フランスの市場に進出するには、より優れた方式が必要でした。 Johnssonは、フランスのマシフサントラル山地にある炭鉱を視察した 際に、機器を単体で販売するのではなく方式全体を販売することの価 値を、半ば偶然に発見しました。この視察には、スウェーデンのダイ ヤモンド掘削企業、Svenska Diamantbergborrningsのパリ支社責任者 も同行していました。この視察の間、最新のトンネル掘削手法などに ついて話し合い、スウェーデン式の軽量型方式と米国式の重量型方式 の比較についても意見を交わしました。炭坑に到着してからも、スウ ェーデン方式についての議論が続いていたため、購買担当者は彼らと のやり取りを(話の内容を理解できる)技術者に任せることにしまし た。購買担当者は機材や工具の価格交渉はできても、方式全体につい て議論するだけの知識はなかったのです。 このようにしてスウェーデン方式が完成し、世界中に知られるようにな りました。アトラスディーゼルは、技術者や炭鉱の現場責任者と直接 やり取りする方法を発見したのです。技術者がスウェーデン方式を購 入すれば、あとは所定の手続きを踏むだけで機材とドリルの両方を販 売できます。 技術者がアトラスディーゼルのスウェーデン方式を採用すれば、フ ランス、米国、ドイツの機器はもはや太刀打ちできません。 33 専門会社の国際的展開 21 スウェーデン方式の潜在 力を短期間で普及させるに は、大規模な取り組みが必 要でした。アトラスディー ゼルはディーゼルエンジン の製造を段階的に廃止し、 スウェーデン方式の明白な 優位性を背景に世界市場で 圧倒的なシェアを占めるエ アコンプレッサ製品の専門 会社になりました。 22 商才に長けていたWalter Wehtjeにとっ て、 スウェーデン方式の市場におけ る魅力は明らかでした。そしてErik Johnssonの助言に従い、スウェーデ ン企業であるSandvikens Jernverks AB(Sandvik)との間で、同社のドリ ル鋼とドリルビットの独占販売権の 取得に向けて交渉を開始しました。 両社は1947年に合意に達し、その結 果、Sandvik製タングステンカーバ イドドリルビットを装着した軽量の 空圧さく岩機としてスウェーデン方 式を市場に投入する道が開かれたの です。スウェーデン方式は競合他社 より明らかに有利だったため、アト ラスは世界市場を手に入れました。 23 37 コンプレッサ拠点の設立 1956年、アトラスコプコはアルピックエンジ ニアリングを570万スウェーデンクローネで 買収しました。この買収により、8,000 m2の ポータブルコンプレッサ製造施設と300名の 従業員がアトラスコプコに加わることになり ました。収益性という観点から見れば、当初 は苦戦を強いられたものの、2年以内には満 足のいく結果が得られるようになりました。 アルピックの買収から間もなくして製品 シリーズが拡大され、あらゆる種類のコンプ レッサをカバーできるようになりましたが、 市場で大躍進を遂げたのは1967年のことでし た。この年、アトラスコプコは初の高速オイ ルフリーエアコンプレッサを発売し、顧客基 盤を繊維業界、食品業界、製薬業界などにま で拡大することに成功したのです。この高速 オイルフリーエアコンプレッサは、究極の技 術革新が実現したコンプレッサであることか ら、「Z」と名付けられました。 アルピックは1968年、独立した製造会社 として設立されたアトラスコプコエアパワー に生まれ変わり、アトラスコプコグループの コンプレッサ拠点としての役割を担うように なりました。アトラスコプコエアパワーは当 時、最先端の工場と1,700名の従業員を有す る企業にまで成長していました。同社が製造 するポータブルおよび定置式のコンプレッ サ、アフタークーラ、付属機器の97%が、ア トラスコプコの販売網を通じて世界中に輸出 されていました。 38 24 25 プロジェクト支援サービス 方式の販売は 、製品の 販売よりはるかに困難でした。プロジェクト計画 の策定にあたって、お客様の技術者に具体的な支援を行う必要がある のが普通でした。スウェーデン方式のテスト時にテクニカルサービス を担当したエンジニアのPatrik Danielssonは、その応用方法を誰より もよく知っていました。彼は顧客記録をきちんと管理し、特別な「プ ロジェクト部門」を設置してお客様のコンサルティングにあたりまし た。この部門は、トンネルや坑道、岩石壕の建設での新しい製品や技 術の利用方法についての説明を担当しました。またほとんどの場合、 時間や費用を節約する方法をお客様に助言することができました。 このプロジェクト部門の支援を受けて、若手の堀削指導員、エンジ ニア、およびマネジャー候補で構成される数多くの特別チームが、国 外のお客様の拠点に派遣されて堀削のデモを行いました。デモの結果 は上々で、非常に保守的な国産品信奉者を説得することにさえ成功し たのです。スウェーデン方式は大成功を収めましたが、その成功はス ウェーデン方式の優れた生産性によるものであることは誰の目にも明 らかでした。 しかしアトラスディーゼルの経営 陣は、各地における地位を早急に確立 し、お客様からの信頼を高めるととも に、世界中のお客様に対応できる体制 づくりをしなければ、堀削デモの目 覚ましい結果もそれだけでは長続きし ないと考えました。このような理由か ら、Wehtjeは社長在任中に20社以上の 販売会社を設立しました。 その結果、エアコンプレッサ製品の 売上は1940年代後半だけで10倍に増加 し、1950年代には5倍に増加しました。 26 39 ディーゼルエンジンからの撤退と新しいブランドの確立 27 40 アトラスディーゼルには、ディーゼルエンジンの製造とエ アコンプレッサ製品の継続的な開発を両立できるだけの資 源はありませんでした。そこで1948年、収益性に劣るディ ーゼルエンジンの製造終了を決定しました。最終的に合計 5 447台のディーゼルエンジンを生産したアトラスディー ゼルはその事業を売却し、すべての技術者と工場を収益性 の高いエアコンプレッサ製品と機器の生産拡大に充当でき るようになりました。これ以降、アトラスディーゼルは完 全にエアコンプレッサ製品のみを扱う企業となりました。 1956年、ベルギーのアルピックエンジニアリング NVの買収 後、アトラスディーゼルはアトラスコプコと社名を変更しま した。「コプコ」は商用空圧機器会社を意味するフランス語 の「Compagnie Pneumatique Commerciale」の頭文字です。 28 企業ロゴの作成 独特のデザインと色彩を持つアトラスコ プコのロゴは、世界中で認知されていま す。このロゴは、140年にわたる知識と 経験、アトラスコプコグループの価値 観、収益性のあるサステイナブルな成長 を表しています。このロゴは、アトラス コプコグループの全企業をひとつにまと めるシンボルでもあり、アトラスコプコ が事業展開するすべての市場において絶 大な影響力を持っています。 アトラスコプコのロゴを統一する取 り組みが開始されたのは、当時の経営陣 が共通の体制の下で情報発信することの 重要性を認識した1960年代初頭のことで す。それまでは、数種類のロゴが同時に 使用されていました。1961年に新しい「 字体スタイル」が完成し、使用されるよ うになりました。1997年には、産業用工 具や印刷物に小さいフォントサイズで印 字しても読むことができるよう、字体を より現代的なものに微調整して改良しま した。 41 取引先の拡大 アトラスコプコの国外進出はスウェ ーデン方式のみに基づき、しかも 鉱業のみを対象としていました。し かし、鉱業は経済変動の影響を受け やすい業界であったため1960年代に は、現地の土木、工業部門に重点を 置いた取り組みが行われました。 アトラスコプコの国外進出は、Walter Wehtjeの指 揮の下で開始されました。スウェーデン方式の 優れた性能は、世界中の重要な採掘作業に取り 入れられました。しかし、1957年にWehtjeが退 任する頃には、スウェーデン方式の競争力に陰 りが見え始めていました。また経済状況を敏感 に反映する鉱業は斜陽産業になりつつあり、ア トラスコプコもこの影響と無縁ではいられませ んでした。急速に拡張した事業も重しとなって いました。Wehtjeの直属の部下として配置され た幹部社員は既に50名を超えており、そのうち 約半数は国外の販売会社を担当、その他は技術 開発やスウェーデンおよび国外での製造などさ まざまな部門を担当していました。 44 30 権限委任と技術重視への回帰 この時点で、Marcus Wallenberg Jr.はまたもや画 期的な経営判断を下しました。数か国語が堪能 で経験豊かな外交官でありトップレベルの議論 に慣れているKurt-Allan Belfrageを、Wehtjeの 後任に任命したのです。Belfrageは国際グルー プへの権限委任と調整の点で一流の手腕を発揮 しました。子会社の独立性を高め、技術部門を 完全に再編成するために、組織の再構築に即座 に着手したのです。 29 45 31 32 33 Belfrageは2名の副社長を任命しました。 1人はマーケティングに明るい販売担当の Erik Johnssonであり、もう1人は製造を含む あらゆる技術的問題の担当者でした。 Belfrage自身は、技術的な経験もトレー ニングを受けたこともありませんでしたが、 真っ先に気付いたのは技術面のてこ入れと製 造方式の調整の必要性でした。Wehtjeによる 経営の特徴として、販売力が極度に重視され ていたため、技術面の停滞が起こっていたか らです。製品に関する限り、アトラスコプ コにはもはや競争上の優位性はなく、製造 方式は時代遅れになっていました。Belfrage は社内に技術担当副社長の適任者を見つけら れなかったため、スウェーデン政府系電力 会社、Vattenfallの総責任者であったSture Ekefalkを任命しました。新たな指導陣の下、 徹底的な研究開発が始まりました。 製品開発力の強化 製造工場が近代化され拡張されるとともに、複 数の事業エリアにおける製品開発が開始され ました。コンプレッサが急速に進化したこと で、土木鉱山分野での機械化が進みました。 かつて成功をもたらした軽量のスウェーデン 方式はもはや時代遅れでした。アトラスコプ コの製品シリーズにおいて、高度に機械化さ れた重機のドリリングリグがスウェーデン方 式に取って代わりつつありました。 これほどの会社は2つとない Peter Wallenbergは1926年生まれで、Wallenberg 家の四代目当主です。代々銀行家の家系に生 まれながら、銀行家になるのではなく製造業 の道を選びました。そこで出会った最初の仕 事は販売でした。Wallenbergは間違いなくス ウェーデンで最も有名なビジネスマンです。 これまでスウェーデンの大企業の多くに大き な影響を与え、その影響力は今もなお健在で す。Wallenbergの人脈は、世界中の業界指導 者、経営者、および王侯貴族に及びます。 1953年、Peter Wallenbergはアトラスディー ゼルに入社し、修理工場で働きながら同社の業 務を基礎から学びました。その後、お客様拠点 でのコンプレッサ修理などの業務にあたりまし た。長年、販売担当者として勤務し、同社の米 国、英国、およびローデシアにおける社長を歴 任しました。 1970年にはアトラスコプコの副CEOとなり、 その4年後に会長に就任、さらに1996年にはアト ラスコプコの名誉会長に任命されました。 「アトラスコプコは一番好きな会社か」と の問いに、Wallenbergはこう即答しています。 「これほどの会社は2つとない」 47 製造業向けのハンドヘルドツールも開発され、製品シリーズが拡張 されました。開発作業は、エア組み立てツールや組み立てシステムを 使用した、主に自動車業界における技術革新に照準が合わせられまし た。体系的な工業デザインが導入され、創造性にあふれたデザイナー のRune Zernellが開発プロセスに多大な貢献をしました。1960年代に は、医療専門家との緊密な連携によって、アトラスコプコ製機器のエ ルゴノミクス設計が大幅に向上しました。このような進歩に対し、市 場は好意的に反応しました。 3つの製造会社を持つ新しい組織 研究開発の努力は多くの利益をもたらしました。1960年代末までに、ア トラスコプコはしっかりとした新しい組織を確立し、1968年の大規模 な組織再構築でそれを確固たるものにしました。アトラスコプコグル ープは、土木鉱山機械事業、エアパワー事業、およびツールス事業を 行う3つの製造会社に分割され、3社で1つの販売組織を共有しました。 新組織の発足後、既に60歳を超えていた社長、Belfrageは引退を考えて いました。Wallenberg会長の説得も功を奏さず、Belfrageは1970年に退 職しました。Wallenbergの依頼に応え、Belfrageは自らの後任を指名し ました。選ばれたのはアトラスコプコ社内の人物でした。Belfrageが経 営の指揮をとっていたときに、上司を持たない独立した販売責任者で あったErik Johnssonが社長に就任しました。Johnssonの指揮の下、販 売組織に対し、「高い能力、高品質のサービス、永続的な顧客関係」 を特徴とした大規模な投資が行われました。Johnssonが占めていた販 売ディレクター兼副社長の地位は、Marcus Wallenbergの息子である Peter Wallenbergが引き継ぎました。 48 エルゴノミクスを極める アトラスコプコは、エルゴノミクスツールの設計にかけてはエキ スパートとして認められ、そのノウハウを世界中のお客様に公開 しています。20世紀に書かれた産業デザインの本をどれでも手に とって開いてみれば、アトラスコプコがオペレータの日常的な作 業をどのように改善したのかが記されているはずです。 エルゴノミクスが扱う範囲は、オペレータが電動工具を使 用するときの身体への影響です。エンジニアにとっての課題 は、ハンドルのデザイン、オペレータにかかる外的負荷、重 さ、温度、衝撃反応、振動、騒音、ほこり、油などのさまざま なエルゴノミクスパラメータの最適な組み合わせを発見するこ とです。 電動工具製品の開発設計時にエルゴノミクスを考慮に入れ るのが当たり前になったのは1960年代のことですが、その約10 年前にRune Zernellが先駆的なドリルハンドルを開発していま す。人間の手に合わせて設計されたこの画期的なハンドルは、 今日開発されているドリルにもその形状が幾分残っています。 49 革新的なコンプレッサ技術 アトラスコプコの革新的なコンプレッサ技術は、既存のお客様の 要求や期待を超えています。同時に、これまでまったく開拓され ていないエリアや市場分野での圧縮空気の新しい用途に対応でき る基盤が整っています。 34 52 36 35 37 1950年代初頭は、コンプレッサ技術の急激な進歩が一気に花開いた時期 でした。それは顧客と緊密に連携することで既存の技術を発展および 改良するということにとどまらず、まったく新しい技術に向かって大 きな一歩を踏み出すことでもありました。 スクリュコンプレッサの開発は、スウェーデンの発明家、 Alf Lysholmが1930年代中盤に特許を取得した設計に端を発します。こ の頃、スクリュコンプレッサの実際的な用途はまだ考案されていませ んでした。当時、この複雑なスクリュを、変形や破損、漏れを起こさ ずに十分な精度で製造するのは困難でした。1954年、アトラスコプコ は、Lysholmの発想に従ったスクリュコンプレッサを製造および販売す る権利を手に入れ、翌年、初めてのコンプレッサをスウェーデン企業 LKABの鉱山に納入しました。しかし、全製品群に原理を応用できるよ うになるまでには、多大な開発作業が必要でした。 主な企業買収 アトラスコプコは、ベルギーのコンプレッサ企業、アルピックエンジニ アリング NVを買収した1956年に、将来に向けての重要な一歩を踏み出 しました。若手のスウェーデン人エンジニア、Iwan Åkermanは、すぐに 新しい困難な任務に直面することになりました。彼は買収先企業の技 術分野の責任者となったのです。1956年10月、Åkermanはアトラスコプ コの技術移転を確実に行うために、最初のスウェーデン人従業員とし てベルギーの会社に赴任しました。その後すぐに新しい業務に関与す るようになり、結果、新しい空冷式ポータブルピストンコンプレッサ などの開発に成功しました。 Åkermanは、1955年にラボラトリエンジニアとしてアトラスコプコ に入社するまで、コンプレッサ技術の経験がありませんでした。しか し、ベルギーでコンプレッサラボラトリを統括するうちに、技術革新 プロセスの主要な原動力となりました。このオイルフリーのエアコン Iwan 53 プレッサのおかげで、アトラスコプコグループは引き続き成長と繁栄 を享受することができました。Åkermanは主要な競合他社やさまざまな コンプレッサ技術を研究し、市販のスクリュコンプレッサ部品を使っ ただけの給油式スクリュコンプレッサの実験を開始しました。これに より、アトラスコプコは1958年に初の給油式スクリュコンプレッサを 市場に投入することができたのです。 研究開発のためのプログラム 1962年、ストックホルムのアトラスコプコに戻り、研究開発の責任者と なったÅkermanは、スクリュコンプレッサの効率向上と普及を目指し、 開発課題のプログラムを作成しました。これにより、オイルフリーエ ア用の定置式およびポータブル式高速スクリュコンプレッサの発売の 可能性がおぼろげながら見えてきました。 1967年、アトラスコプコは圧縮チャンバに給油せずにオイルフリー 圧縮空気を発生させるポータブルスクリュコンプレッサを発表しまし た。この技術を基に、定置式電動コンプレッサシリーズの開発も開始 しました。 同シリーズの製品は振動がほとんどないので、お客様の現場に低費 用で設置できます。 54 38 39 オイルフリーの圧縮空気を発生させるこの 製 品 から アトラスコプコの市場はさらに拡大 し、繊維、食品、製薬などの分野で新しい ビジネスチャンスが生まれました。製造 過程でオイルフリーの圧縮空気を使用する 可能性がある新しいカテゴリの見込み顧客 が、新たなターゲットとなったのです。 1968年の組織再構築に伴い、アトラスコ プコのエアパワーNV(前アルピック)が独 立した製造会社となり、Iwan Åkermanが責 任者に就任しました。コンプレッサの開発 製造拠点がベルギーに集約され、約60名の スウェーデン人エンジニアがベルギーに移 りました。Åkermanにとっては、多岐にわた る分野で圧縮空気や圧縮ガスの用途拡大に つながるコンセプトをお客様と緊密に連携 しながら作ることが大きな課題でした。 アトラスコプコサウルス 1984年、オーストラリアのビクトリア海岸に 位置するダイノソーコーブイーストで、新種 の恐竜が発見されました。この恐竜は、発掘 機材を提供したアトラスコプコと、当時アト ラスコプコのステートマネジャーで発掘を支 援したウイリアム・ローズにちなんで、アト ラスコプコサウルスロージと名付けられまし た。アトラスコプコサウルスは、アトラスコ プコトカゲという意味です。 アトラスコプコサウルスは草食で、体長約 2~3m、体重125kg程度と推測されています。 55 買収による拡大 40 41 58 42 43 アトラスコプコはかつてエアコンプレッサ製品のみ を扱う企業でしたが、1970年代半ばからその事業範 囲を拡大してきました。アトラスコプコの戦略的な 企業買収および明確な根拠に裏打ちされたブランド ポートフォリオ戦略により、多様な選択肢と充実し たシステムソリューションをお客様に提供してきて います。 1975年にTom Wachtmeisterが、Erik Johnssonの後任としてアトラスコプ コの社長兼CEOに就任したとき、決して平穏な経営環境ではありません でした。鉱業や土木などの非常に重要な顧客業種で市場が弱体化して いたのです。工業各国では製造コストが上昇しており、特にスウェー デンやベルギーではその傾向が顕著でした。また用途が確立されてい た複数の分野で、圧縮空気が電気や水力などの他のエネルギー源に押 され、従来のコンプレッサに対する需要は減少していました。 Wachtmeisterは、事業の拡大を続けながら収益性を確保するために、 ブレーキとアクセスの両方を使用する必要がありました。このことは 構造改革と合理化ももたらしましたが、特に、製品シリーズの拡張と 市場の拡大につながる複数の戦略的企業買収とアジア重視という結果 に結びつきました。 59 60 44 補完的な製品 1975年秋、アトラスコプコはBerema社の株式の大半を購入しまし た。Berema社が製造する軽量型のガソリン駆動のドリルおよびブレ ーカは、アトラスコプコのコブラドリルとの相性という点で非常に 優れた製品でした。翌年には、フランスの企業Mauguière社を買収す ることによって、コンプレッサ製品ラインに小型コンプレッサが補 完されました。1980年には、エアパワー事業がいくつかの戦略的な 買収を行ったことで、米国での事業の将来性が大幅に強化されまし た。Turbonetics Inc.社の買収によって、アトラスコプコは遠心式コン プレッサに関する貴重なノウハウを得ることができました。1984年に はドイツ企業Linde AG社を買収し、同様にガスコンプレッサ分野での短 期開発が可能になりました。 可能性に満ちた産業機器事業 1980年代初頭、アトラスコプコは削岩工具とエアコンプレッサの両方の 世界的なリーティングカンバニーでしたが、3番目の事業である産業機 器事業は、なお拡大の余地がありました。1984年、Tom Wachtmeister は、アトラスコプコツールズABの社長にMichael Treschowを任命しま した。Treschowの任務は、アトラスコプコの市場における地位を強化 し、このアトラスコプコの3番目の「支柱」である産業機器事業の製品 ラインアを拡大することでした。Treschowは将来有望な産業機器事業 での大規模な事業拡張に向けてただちに基礎固めを行いました。 戦略的企業買収により、米国、フランス、および英国の市場におけ るアトラスコプコの地位が強化されました。1987年には、評価の高い シカゴニューマティックツールズを買収しました。シカゴニューマテ ィックは米国の産業界および自動車業界で極めて有力な地位にあった ため、この買収によりアトラスコプコは、一躍、世界最大のエアコン プレッサ装置およびアセンブリシステムのメーカーになりました。 61 Water for All アトラスコプコは、お客様に対する真の長期的な貢献は 周囲のコミュニティへの貢献をも意味することを認識 し、常に善良で責任ある企業市民であるように努めてい ます。この目的を達成するために、アトラスコプコグル ープは従業員による慈善活動、孤児の支援、自然災害の 被災者支援、環境保護活動への参加を奨励しています。 その中でも広く普及している活動がWater for Allで す。これはアトラスコプコの従業員が運営している非営 利団体で、1984年の発足以来、水不足や清潔でない水 から生じる重大な問題の改善を目指して活動していま す。Water for Allは政治色のない協力団体とともに、 新しい井戸の掘削や天然湧水の保護を行っています。 Water for Allは女性の支援も行っています。なぜな ら、多くが暴力や強姦の危険に満ちた長い道のりを歩い て、衛生上の問題がある水を汲みに行き、そのために赤 痢や場合によってはチフスに感染しがちなのはたいてい が女性や少女だからです。この時間がかかる危険な活動 から解放されれば、女性たちは家族の世話をしたり、小 さな畑を耕して収入を得たり、裏庭で商売を始めたりで きるようになります。あるいは少女であれば学校へ行っ て読み書きを習うこともできます。 Water for Allは、従業員の寄付で賄われています。 アトラスコプコはプロジェクトの発足時から従業員の寄 付総額と同額の寄付を行ってきましたが、2011年以降 は、寄付総額の2倍を拠出しています。 62 翌年には、フランスの産業機器メーカー SA Ets Georges Renaultを買収しました。同 社は研磨機および小型のアセンブリシステム を専門とする企業です。アトラスコプコはこ のように、フランスの業界で非常に強力なブ ランド名を持つサプライヤーを買収しまし た。1990年には、デソーターブラザーズを買 収しました。デソーターは産業機器およびア センブリ装置の分野に広大な基盤を持ってい ました。事業をさらに拡大するため、アトラ スコプコは電動工具メーカーのAEG ElektrowerkzeugeとMilwaukee Electric Toolsを1992年 と1995年にそれぞれ買収しました。 新しいブランドポートフォリオ戦略 Treschowの指揮の下 、意識的な徹底したマルチ ブランド戦略によって産業機器事業部が設立 されました。1991年にWachtmeisterの後任と してアトラスコプコグループの社長兼CEOに就 任したTreschowは、社内の複数のブランドを この戦略に統合しました。 土木鉱山機械事業部門での戦略的買収とい う方針に従い、いくつかの強力なブランド名 を相次いで製品ラインに組み込みました。競 合他社製品であることにはこだわらず、アト ラスコプコの土木鉱山機械事業部門のお客様 に幅広い選択肢を提供する補完的な製品を加 えることに尽力しました。 強力なブランド名を持つ重要な製品の中 でも、特に注目すべき買収として、セコロ ック社のドリル鋼、Craelius社の探査用製 品、Wagner社のローダーおよびトラックなど が挙げられます。 人材の異動による企業文化の強化 お客様 カスタマセンター カスタマセンター カスタマセンター 物流センター 製造会社 物流センター 製造会社 1つの部門 カスタマセンター カスタマセンター 物流センター 製造会社 製造会社 創立時から1980年代後半まで、アトラスコプコは市 場ごとに1つの販売会社(カスタマーセンター)を持 ち、アトラスコプコグループの社長兼CEOに直属の社 長がそれを統括していました。当時は社長兼CEOが社 長を選任し、社長が部下を任命していました。 1980年代、各製品の市場における販売機会を最 大化するため、アトラスコプコは組織の事業部化に 着手しました。これにより各製品はそれぞれの事業 部に割り当てられました。新しい組織が完成したの は1989年のことでした。 事業部は、製品開発から始まるバリューチェー ン全体に対して利益責任を負う事業単位です。カス タマーセンターは販売とサービスを担当し、製造会 社は製品開発プロセス、製造、および流通を担当し ます。各事業部は、事業エリア社長の直属の部下で ある事業部門長が統括します。 この新しい組織のビジネス上の利点は、迅速な 意思決定が可能であることと、成長と収益性の向上 が促進されることです。報告の透明性が増すことに より、潜在的な可能性が見出しやすくなるととも に、対処が必要な領域の特定が容易になります。 アトラスコプコでは、異なる事業部や地域間で の求人情報を把握しやすくするために社内公募制度 を導入しています。取締役会によって任命される社 長兼CEOを除き、すべての求人情報が社内公募制度 で公示され、全従業員が応募できます。この制度が 導入されたときには社員の意識を大きく変化させる 必要がありましたが、数年を経過した現在、この社 内公募制度はアトラスコプコグループ内での人材の 流動性を高め、能力移転を向上させる重要なツール として認識されています。 63 常により良い方法がある 「お客様のビジネスとの緊 密な協力」は、アトラスコ プコグループのあらゆる考 え方の基礎です。技術革新 やマーケティングの革新 は、将来のための確固たる 基盤を形成する上で役割を 果たしますが、これらの革 新は顧客志向に根ざした開 発から生まれます。したが って、顧客志向に根ざした 開発は、アトラスコプコグ ループが新しい市場へと拡 大していくにつれ、その重 要性を増していきます。 イタリア国籍のGiulio Mazzalupi は、1997年にアトラスコプコの社長兼 CEOに就任しました。Mazzalupiはア トラスコプコ初の外国籍の社長兼CEO であるだけでなく、スウェーデンの 上場企業を率いた最初の外国人の1人 です。Mazzalupiはイタリアで採掘技 師として教育を受け、1971年にアト ラスコプコに入社しました。その10年 後、Mazzalupiはベルギーのコンプレ ッサ事業部門の社長に就任しました。 66 勢いを維持する Mazzalupiは 、アトラスコプコグループの地位 を強化するために生産理念を変更し、モジュー ル式設計に基づいて構築されたコアコンポーネ ントと機器に注力しました。また優れた製品革 新と、使用段階の製品に対するカスタマーサポ ートの向上を重視しました。 モジュール式設計は多くの異なる種類の製 品に導入されました。この新しい設計方式は、 製造のスリム化と製品の納期短縮を実現するた めの前提条件でもありました。少ない拠点から 効率的な方法で世界中の市場に製品を提供でき る方式であるため、生産拠点の統合も同時に実 現できるのでした。 膨大な物流業務を伴う国際的なメーカーで あるアトラスコプコは、インターネットやその 他のデジタル通信チャネルの莫大な可能性を明 確に認識していました。そのため、販売対象の 拡大と深化、さらにはインターネットプロバイ ダによる管理サポートを利用した自社のオペレ ーションの効率化を目標として複数のプロジェ クトが推進されました。離れた場所からコンプ レッサを監視できるようになったのも、初代リ モート制御式ドリルリグが発表されたのもMazzalupiの在任期間中でした。 Mazzalupiはお客様第一を常に念頭に置いて いました。そして業務部門がそれを忘れないよ うに、販売会社の名称をカスタマーセンターに 変更しました。カスタマーセンターは、機器の 販売とその耐用年限を通じたサービスの両方を 担当していました。 45 67 46 アトラスコプコでは売上げ重視の姿勢も強化され、Mazzalupiはグル ープとしての一景気サイクルあたりの売上成長率目標を従来の5%から 8%に引き上げました。この目標を達成する方法には、1) 既存事業での 有機的成長、2) アジア市場における地位の強化、3) メンテナンス、ス ペアパーツやアクセサリの供給、機器レンタルなど、使用中の製品か ら得られる売上げ拡大、の3つがありました。 20世紀末、アトラスコプコは、急成長する機器レンタル市場に参入 しました。1997年には、米国企業であるPrime Service Corporationに 対し、当時のアトラスコプコとして最大規模の企業買収を実施しまし た。この買収は、使用中の製品に関連する利益の増大という新しい戦 略に沿った重要なステップでした。その後、レンタル業界での企業買 収を繰り返し、1999年にはNorth American Rental Service Corporation を買収しました。同年、4番目の事業エリアであるレンタルサービス部 門を立ち上げ、2001年にはPrime ServiceとRental Service Corporation を1つの大会社に合併しました。 68 47 足で稼ぐ営業 2002年にMazzalupiが引退し、Gunnar Brockが社長兼CEOに任命されま した。Brockはアトラスコプコに入社する前にスウェーデンのAlfa Laval Group、Tetra Pak Group、Thuleで社長兼CEOの職を歴任しまし た。Brockの経営の下、アトラスコプコに大幅な変更が加えられまし た。まずコアビジネスを重視することが再確認されました。同時に、 好景気を背景に、非常に好調な成長率と収益率が達成されました。販 売部隊(足で稼ぐ営業)を増強し、顧客中心の姿勢を強めた組織編成 にしたのも、Brockの戦略の一部でした。Brockは顧客満足度を非常に 重視し、統一的な方法によるカスタマーロイヤルティの測定を開始し ました。 アトラスコプコグループが力を入れたのは、既に確固たる地位を確 立し、なおかつ中核的専門技術と知識を持つ市場での地位の強化でし た。複数の企業買収も実施しました。2004年には米国のドリリングソ リューションズを相手に大規模な買収を行い、2007年には道路建設市 場向け転圧機および舗装設備の大手サプライヤーであるスウェーデン 企業ダイナパックを買収しました。 低迷する市場からの撤退 アトラスコプコグループの地位が 優位では無く、トップに立つために 多大な犠牲を必要とする市場については、事業の撤退を決定しまし た。2005年、アトラスコプコエレクトリックツールズおよびミルウォ ーキーエレクトリックツールの2部門を抱える業務用電動工具事業を売 却しました。また、2006年には、建設機械レンタル事業についても米 国内の機器レンタルサービス事業を売却しました。これにより、アト ラスコプコグループは以前の3事業エリア編成(コンプレッサ、土木鉱 山機械、産業機器)に戻りました。 69 48 49 70 50 51 2008年の終わりに向けて、世界は経済危機に見舞われました。アト ラスコプコも大きな影響を受け、特に鉱業のお客様からの受注が減り ました。生産能力とコストを調整する対策が取られ、すぐに成果を上 げましたが、それには反応の速い事業部制の組織構造が大きく寄与し ました。これによって、アトラスコプコのビジネスモデルは急激な経 済状況の悪化に耐え、経済が上向きに回復してきたときにも機能する ことが分かりました。 サービスの重視 ベルギー人のRonnie Letenは、2009年、Gunnar Brockの後を継いで社長兼 CEOに就任しました。Letenは1985年にアトラスコプコに入社し、コン プレッサ事業エリアでさまざまな役職を経験した後、2006年に社長に なりました。 Letenはコンプレッサ事業で、Treschowが始めたブランドポートフォ リオ戦略をさらに押し進めました。地域に強いブランド力を持つ数多 くの小規模な企業を買収したアトラスコプコは、市場構造によっては 同一市場で最大4つの異なるブランドを展開できるまでになりました。 複数のブランドを持つことで、市場への参入が容易になり、並列的な 販売チャネルを利用してさらに多くの顧客ニーズを満たすことができ ました。そのうち2つのブランド、アトラスコプコとシカゴニューマテ ィックは、グローバルブランドとして確立されました。 Letenはお客様への高度なサービスの提供に大きな可能性を見出 し、2007年にコンプレッサ事業エリアにサービス専門部門を設立しま した。サービス部門は安定した収益源となり、お客様と頻繁に連絡 を取り合う機会も生まれました。この戦略には2つの目的がありまし た。1つ目はアトラスコプコが販売したユニットすべてにサービスを 提供すること、そして2つ目は「サービスのさらに上のレベルに到達す る」こと、つまり単なるスペアパーツの販売から、機器のモニタリン グなどを含む総合的なサービス契約の提供へとステップアップを図る ことでした。製造部門からサービス事業を切り離すことにより、製造 部門はその中核である製品開発と優れた事業運営、さらに事業対象地 域の拡大と市場参入に自然と注力できるようになりました。 71 さまざまな業界のお客様それぞれに焦点を 当ててサービスを提供できるよう、アトラス コプコは2011年に事業を4つのエリア(コン プレッサ事業、産業機器事業、土木鉱山機械 事業、建設機械事業)に分割しました。各事 業エリアは、グループの使命とビジョンに応 じた独自の戦略を担当し、それぞれにサービ ス専門部門が作られました。 独自の企業文化 アトラスコプコには驚くほど根強い企業文化があります。多 くの国々の多くの人々が数十年かけて培ってきたものです。 価値観を共有し、その価値観に従って生活している人々は会 社に留まります。会社の外に大きなチャンスがあると考えて アトラスコプコグループを退職したものの、すぐに戻って来 た例は数多くあります。 近年、アトラスコプコの戦略と企業文化に対して 『Strategy Book』(後で書名が変更されたため、『The Atlas Copco Book』とも呼ばれる)ほど根源的な影響を与 えた本はほとんどありません。この本の制作にあたって は、Michael Treschow、Giulio Mazzalupi、Gunnar Brock、 およびRonnie Letenの4人の社長兼CEOが協力しました。 同書は、人材と事業を育成する目的で、1996年に初めて 導入されました。その後徐々に改訂を加えながら、アトラス コプコグループのマネジャーに対しサステイナブルで収益性 の高い発展のための一般的な道筋を示してきました。この本 は、アトラスコプコの使命、ビジョン、戦略、および価値観 を明確に伝えています。 2009年には、各従業員が自分専用の1冊を確保できるよう に、合計40,000部が印刷されました。また全従業員が内容を 理解できるように、この本の中の概念について議論する時間 が設けられました。 同書の中で最も重要なページは、「常により良い方法が ある」という信条についてのページです。ウサギは技術革新 を、亀は絶え間ない改善を象徴しています。サステイナブル で収益性の高い成長には、両方が欠かせません。 72 170か国以上に広がるお客様 アトラスコプコの 拡大に伴い、世界中に新会 社が設立されました。21世紀の最初の10年間 で、アジア、アフリカ、東欧の市場でのサー ビスを向上させるために、複数のカスタマー センターが開設されました。2012年の終わ りには、アトラスコプコは90か国に会社を構 え、178か国にお客様を抱えるまでになりま した。 アトラスコプコは絶え間ない進化と非 常に強力な文化を通じて、自らのビジョン 「First in Mind—First in Choice®(常に真 っ先に思い浮かべられ、真っ先に選ばれる企 業)」に従って行動していきます。このビジ ョンはおそらく、商標登録にふさわしい世界 で唯一のものでしょう。 1873年の発足時からの事業展開 1873~1939年 ヨ ー ロ ッ パ — ス ウ ェ ー デ ン 、 ノルウェー、英国 、スペイン アフリカ/中東—ケニア 1940~1957年 ヨーロッパ—フランス、イタリア、 オランダ、キプロス、ベルギー、 デンマーク、オーストリア、ギリシャ 北米—カナダ、米国 南米—ペルー、メキシコ、チリ アフリカ/中東—南アフリカ、モロッコ、 ザンビア、ジンバブエ アジア/南太平洋地域—オーストリア、 ニュージーランド 73 1958~1973年 ヨーロッパ—ポルトガル、アイル ランド、ドイツ、スイス、トルコ 南米—アルゼンチン、ブラジル、 ベネズエラ アフリカ/中東—ボツワナ アジア/南太平洋地域—インド、 フィリピン 1974~1989年 ヨーロッパ—フィンランド 南米—ボリビア、コロンビア アフリカ/中東—イラン、ナミ ビア、サウジアラビア アジア/南太平洋地域—シンガ ポール、香港、台湾、マレー シア、韓国, 日本 74 1990~2007年 ヨーロッパ—ハンガリー、ポーラン ド、スロバキア、ロシア、セルビ ア、チェコ共和国、ブルガリア、 ルーマニア、スロベニア、ラトビ ア、ウクライナ、クロアチア、 マケドニア、リトアニア アフリカ/中東—ガーナ、エジプト、 バーレーン、アラブ首長国連邦 、 クウェート アジア/南太平洋地域—タイ、インド ネシア、中国、カザフスタン、モ ンゴル、パキスタン、ベトナム、 アルメニア 2008~2012年 ヨーロッパ—ボスニア・ヘルツェゴ ビナ アフリカ/中東—アンゴラ、アルジェ リア、ナイジェリア、コンゴ民主共 和国、マリ、レバノン、ブルキナフ ァソ、カメルーン、イラク、モザン ビーク、セネガル、タンザニア 南米—パナマ ア ジ ア / 南 太 平 洋 地 域 — バングラデシュ、 ウズベキスタン 75 収益を生むサステイナブルな開発 21世紀初頭、世界中で気候変動が議論の中心となりました。そ して、使う資源のより少ない、エネルギー効率に優れた製品の 開発への取り組みが続けられ、設計部門や開発部門の業務を 促進する要因となりました。アトラスコプコが掲げた使命は、 収益を生むサステイナブルな開発のためのソリューションに貢 献すると同時に価値を生み出し、倫理的に事業を運営していく というものでした。 78 52 新世紀は激しさを増す気候変動で幕を開け、平均気温上昇の原因は急 速に増加するCO2排出量であるとされていました。この危機に直面し た各国政府は、再生可能エネルギーに着目し、企業運営と製品に効率 性を求めるようになりました。国連とOECDが発行する自発的倫理指針 は、その重要性を増しました。企業は責任ある行動を取り、その成果 を伝えることで従業員の確保、顧客ベースの確立と拡張、さらには企 業評価の保護を実現するよう求められるようになりました。インター ネットの利用により世界中で情報の透明性が高まり、規制に準拠しな い企業はその名声が汚されるリスクに直面しました。 先頭を走り続けるアトラスコプコ アトラスコプコは常に 先頭に立ち、積極的に行動するよう努めてきま した。2002年にアトラスコプコが発行した倫理綱領には、業務遂行上 の倫理や社会および環境面での成果についての事業方針すべてが集約 されていました。アトラスコプコは、財務報告に加えて、社会、倫 理、環境面での成果についてのデータ測定とレポートも行うようにな りました。 事業展開する数多くの市場におけるアトラスコプコの重要性を考 慮して、取締役会は2010年、あらゆる側面で違法行為への対策を強化 し、グループから違法行為を完全に排除することを決定しました。収 益を生むサステイナブルな開発の目標が2011年に定められましたが、 それは企業運営に不可欠な要素としてサステナビリティを重視したも のでした。それ以前のアトラスコプコには、企業レベルでの財務目標 しかありませんでした。 建造物を新しく作る際は国際的な環境規格に従い、交通手段の利用 によるマイナスの影響を減らす取り組みがなされました。さらに、ビ デオ会議などの新しい技術の採用により、出張を削減しながらも専門 家会議は継続しました。この新しい行動方針により、エネルギーだけ でなく時間と費用も節約できました。 79 グループの事業の主要な目標として特筆すべきは、販売する 製品、社内業務、輸送におけるエネルギー効率でした。こうし た目標を受け、エンジニアは同じ資源(使用する材料、人材、 エネルギー)でより多くの性能を発揮する製品や、より少ない 資源で同程度の性能を発揮する製品を開発するようになりまし た。こうした点を強く意識した結果、優れた製品が続々と登場 したため、お客様は資源の使用に責任を持ちながら生産性を高 めることができるようになりました。 無音、最小限の電力消費 着々とした革新の流れがなければ、アトラスコプコは市場で現在の場 所に到達することはできなかったでしょう。生産性の向上、利用者 の身体的負担の軽減、電力消費量の削減、安全性の強化という要件 に背中を押され、グループは自らとビジネスパートナーに対して、 お客様の生産性と成功を守るという課題を課し続けています。 1993年に初めて発表された新世代の電動工具 Tensor S/Power Focusは、アトラスコプコにとって大きな前進で した。このナットランナには、効率性が高く、軽量型で、市場の 他製品より強力な独自のモータが装備されていました。この製品 は大量生産方式の自動車業界で急速に売上を伸ばしました。そし て15年後のTensorファミリーも、ソフトウェアや人に優しい機能 の装備など、改良を続けています。 2005年には、ほぼ無音のサーフェスドリルリグが発売されま した。この機械は、人口密度の高い地域での24時間無休の建設作 業等に最適です。 さらにアトラスコプコは、熱回収システムを内蔵した、水冷 式オイルフリーエアコンプレッサを発表しました。世界初の「エ ネルギー消費コストゼロ」認証を取得したコンプレッサです。 そしてもう1つ、製品開発における重要な前進として、強力な 燃料動力型の新しいアスファルト破砕機が挙げられます。この製 品は人間工学に基づいた環境に優しいデザインで、いくつもの賞 に輝きました。 53 81 54 55 安全性と健康 企業責任 は、安全で健康な職場の重視にも及 びました。2002年、アトラスコプコの最初の 自発的HIV/AIDSプログラムが南アフリカで 実施され、その影響への対応とAIDS蔓延防止 が目指されました。それ以降、このプログラ ムはサハラ以南のすべての事業地域で実施さ れ、数々の賞賛を得てきました。北米とイン ドでも、大きな問題となっている糖尿病に対 する同様のプログラムが実施されています。 また、グループが事業を展開する地域での事 故を減らすための、安全性向上プログラムも 実施されています。これらのプログラムが一 体となって、従業員、その家族、企業にメリ ットをもたらしています。より健康な従業員 が勤務するアトラスコプコは、その事業運営 において大きな中断のリスクの削減を実現し ています。 エネルギー効率向上の優先 コンプレッサは、世界中のほぼすべての業界 でエネルギー源として、あるいはプロセスに 不可欠な要素として利用されています。合計 すると、世界中の製造業で消費される電力量 の約10%が、エアコンプレッサの使用によるも のです。 初期の頃は、コンプレッサによる電力消費 量は膨大なものでした。しかし、最新のモデ ルでは、1904年のモデルで必要だった電力の 11%しか必要としません。オイルフリーピスト ンコンプレッサから高速駆動ターボコンプレ ッサまで、長年をかけて進化した技術により コンプレッサの電力消費量は削減されました が、一方で効率は向上しています。 電力消費量を最大35%削減できるインバー タ駆動(VSD)付きのアトラスコプコのコンプ レッサは、発売後すぐに商業的な成功を収め ました。その特殊なドライブシステムにより コンプレッサは常に適切な量の空気を送り出 すため、電力を節約できます。同時に、排気 熱を回収し、シャワー用の水の加熱などに利 用することもできます。環境によっては、コ ンプレッサが使用したすべての電力を回収で きます。 エネルギー効率に優れたコンプレッサを産 業に採用することで、世界中の企業のCO2排出 量を大幅に削減できます。 83 優秀な人材の育成 サービスの充実 顧客満足度は主にサービスリレーションシップに基づくもので あり、サービスリレーションシップこそがアトラスコプコにグ ローバル展開の強化と提供サービスの拡充のチャンスをもたら すものです。プロフェッショナルサービスはアトラスコプコに とって安定した収益源でもあり、お客様が次もまたアトラスコ プコから購入してくれる可能性を高めてくれます。 アトラスコプコの戦略は、市場に投入された全グループ製 品に対してサービスを提供し、サービス契約やお客様のサステ イナブルな生産性を高めるためのサービスなど、より付加価値 の高いサービスを提供するよう全力を尽くすことです。 2011年後半には、全事業エリアにサービス専門部門ができま した。その時点で、サービス事業がアトラスコプコの収益の40% を占め、従業員の3分の1がサービス事業に従事していました。 サービス組織がプロ意識を持って機能できるように、日々 お客様と顔を合わせる8,000名以上のサービスエンジニアに、 幅広いトレーニングコースが提供されました。こうしたエンジ ニアは、ブランドの説明方法と(当然のことながら)製品のサ ービス方法の両方のトレーニングを受けました。どのエンジニ アも、担当する製品のサービスに必要な認定を受けなければ、 製品のサービスを提供することはできません。 「Atlas Copco Service」のロゴもブランド確立の上で重 要な役割を担うものと認識されており、サービス車両やサービ ス作業着のブランディング強化と統一に役立てられています。 84 アトラスコプコは、人を率いる勇気を持ち、 情熱ある協力者の育成に取り組むマネジャ ーを育成しています。過去140年間に上げて きた成果を見れば、グループがこの面で成 功していることが分かるでしょう。 多様性は継続的な発展のための手段とし て認識されており、あらゆる才能をもつ多 彩な人材から採用を行うことを推奨する数 々の活動が行われています。アトラスコプ コでは、グローバルな構造と要件を反映し たグローバルな経営陣を持つことを目指し ています。経営陣は、アトラスコプコの価 値観 - 革新、責任の遂行、相互理解 - に 従って行動しなければなりません。2012年 の時点で、アトラスコプコの上位350名のマ ネジャーの国籍は45か国に及んでいます。 各市場のローカルチームでは、それぞれ の採用ベースを考慮する必要があります。 この点で、アトラスコプコは女性の採用数 を増やすというさらなる取り組みを行って います。その目的は、女性の昇進数を増や すことにあります。2012年には、全従業員 の17%が女性であり、グループはより多くの 女性が新たな挑戦をすることができるよう さまざまな活動を行いました。 従業員の育成においてトレーニングは不 可欠であり、アトラスコプコは世界中で幅 広いトレーニングコースを全従業員に提供 しています。人材育成を支援するトレーニ ングポータルに加えて、セミナー、OJT(実 地訓練)、社外プログラムなども利用でき ます。倫理綱領のコースは、全従業員が受 講します。 結局のところ、アトラスコプコの成功はたったひとつの資源、つま り人材にかかっていると言えます。多様性、流動性、能力開発を促進 する堅実な計画を定めているアトラスコプコは、すぐにでも次の140年 に向けてスタートを切ることができます。 56 85 各種情報とデータ 会社と経営陣 ABアトラスからアトラスコプコABまで 1873~1890年 ABアトラス 1890~1917年 Nya ABアトラス 1917~1956年 AB アトラスディーゼル 1956年~現在 アトラスコプコAB 取締役会長 1873~1878年 Fredrik Didron 1878~1909年 B A Leijonhuvud 1909~1917年 Oscar Lamm 1917~1933年 Marcus Wallenberg Sr. 1933~1957年 Marcus Wallenberg Jr. 1957~1959年 Walter Wehtje 1959~1974年 Marcus Wallenberg Jr. 1974~1996年 Peter Wallenberg 1996~2003年 Anders Scharp 2003年~現在 Sune Carlsson アトラスコプコグループのCEO 88 1873~1887年 Eduard Fränckel 1887~1909年 Oscar Lamm 1909~1940年 Gunnar Jacobsson 1940~1957年 Walter Wehtje 1957~1970年 Kurt-Allan Belfrage 1970~1975年 Erik Johnsson 1975~1991年 Tom Wachtmeister 1991~1997年 Michael Treschow 1997~2002年 Giulio Mazzalupi 2002~2009年 Gunnar Brock 2009年~現在 Ronnie Leten 各国での設立 各国事業所の設立年 スウェーデン 1873 ブラジル 1969 マケドニア 2004 ノルウェー 1916 ドイツ 1969 ブルガリア 2005 英国 1919 スイス 1969 カザフスタン 2005 スペイン 1931 トルコ 1969 モンゴル 2005 ケニア 1936 ベネズエラ 1973 ルーマニア 2005 フランス 1946 イラン 1974 スロベニア 2005 南アフリカ 1946 ボリビア 1976 アラブ首長国連邦 2005 モロッコ 1948 ナミビア 1976 アルメニア 2006 カナダ 1949 日本 1979 ラトビア 2006 イタリア 1949 シンガポール 1979 リトアニア 2006 オランダ 1949 香港 1980 パキスタン 2006 ザンビア 1949 台湾 1981 ウクライナ 2006 オーストラリア 1950 韓国 1981 クロアチア 2007 ペルー 1950 マレーシア 1982 ベトナム 2007 米国 1950 サウジアラビア 1985 アンゴラ 2008 メキシコ 1952 コロンビア 1986 バングラデシュ 2008 シンバブエ 1952 フィンランド 1986 1953 ハンガリー 1990 ボスニア・ヘルツ ェゴビナ 2008 キプロス ニュージーランド 1953 ガーナ 1992 アルジェリア 2009 チリ 1954 ポーランド 1993 ナイジェリア 2009 コンゴ民主共和国 2010 マリ 2010 パナマ 2010 レバノン 2011 ブルキナファソ 2012 カメルーン 2012 イラク 2012 モザンビーク 2012 セネガル 2012 タンザニア 2012 ウズベキスタン 2012 ベルギー 1955 スロバキア 1993 デンマーク 1955 タイ 1993 オーストリア 1956 ロシア 1996 ギリシャ 1957 インドネシア 1997 ポルトガル 1958 クウェート 1997 インド 1960 セルビア 1997 アイルランド 1965 中国 1998 フィリピン 1967 エジプト 1999 アルゼンチン 1968 チェコ共和国 2001 ボツワナ 1969 バーレーン 2002 89 企業買収 1947年、前身のAB アトラスディーゼルがInjector CoおよびBolinderのディーゼルエンジン部 門を買収しました。この買収以降、世界中の数多くの企業がアトラスコプコファミリーに加わ りました。 90 1947 Injector CoおよびBolinderのディーゼルエンジ ン部門 1997 Thomé-Crepelle Prime Service Inc. 1951 AVOS Railwaysのメンテナンスおよび修理部門 1998 1956 アルピックエンジニアリング NV Hesselman Motor Company JKS Boyles Ceccato 1999 1960 Craelius AB 1975 Berema AB Tool Technics NV Rental Service Corporation ABIRD Holding BV. Rand-Air Ltd. 1976 Mauguière S.A. 2000 Hobic Bit Industries Corporation 1980 Turbonetics Inc. Worthington Compressors Inc. Standard Industrial Pneumatics Inc. 2001 Masons Christensen Products Grassair B.V. 1984 Linde AG 2002 1987 Chicago Pneumatic Ankertechnik GmbH Liuzhou Tech Machinery Co. Ltd. Krupp Berco Bautechnik GmbH 1988 Ets. Georges Renault Secoroc AB Hydro Pneumatic AB 2003 1989 GME Systems Wagner Mining Equipment 1990 Desoutter Ltd. Rotoflow Corporation DreBo Werkzeugfabrik GmbH. Puska Pneumatic S.A. South African Professional Diamond Drilling Equipment (Pty) Ltd.およびMining Drilling Services (Pty) Ltd. Shenyang Rock Drilling Machinery Co. Ltd. 2004 Ingersoll-Rand Drilling Solutions Guimerá S.A.およびその子会社S.A.M.M. S.L. Baker Hughes Mining Tools. Rotex Oy Kolfor Plant Ltd. 1991 AEG Elektrowerkzeuge 1992 Craelius AB 1993 Worthington Creyssensac Robbins Inc. Kango Ltd. 1994 Hamrin Adsorption and Filterteknik AB 1995 Socapel SA Milwaukee Electric Tool Corporation 1996 IRMER+ELZE Elesta Automation AG 2005 2006 2007 Lifton GSE tech-motive tool Scanrotor BIAB Tryckluft AB Ketting Handel B.V. Creemers Compressors B.V. BLM s.r.l. Intermech Ltd. Lutos Pneumatech ConservAir Contex Microtec Systems GmbH The BeaconMedaes Group BEMT Tryckluft AB Thiessen Team Mining Products Consolidated Rock Machinery (Pty) Ltd. Fuji Air Tools Co. Ltd. Shanghai Bolaite BLM Technisches Büro Böhm Dynapac AB ABAC Greenfield Rodcraft Beteiligungsgesellschaft GmbH Mafi-Trench Shenyang Ruifeng 2008 Aggreko European Rental Industrial Power Sales Hurricane GrimmerSchmidt Fluidcon 2009 Service A.C. s.r.o. Focus and Prisma Compressor Engineering 2010 Cirmac International B.V. Kramer Air Tool Inc. H&F Drilling Supplies Ltd. Hartl Anlagenbau Tooling Technologies American Air Products Quincy Compressor 2011 Seti-Tec S.A.S. Kalibrierdienst Stenger SCA Schucker Penlon Medical Gas Solutions Gesan Tencarva ABAC Catalunya J.C. Carter 2012 Guangzhou Linghein Compressor Co. Wuxi Shengda Air/Gas Purity Equipment Co., Ltd. Neumatica GIA Industri AB Perfora S.p.A. Houston Service Industries, Inc. Ekomak Gazcon A/S 上記の買収企業の多くは売却済みです。この情報については言及 されていません。 91 Peter Wallenberg Marketing And Sales賞 アトラスコプコ ABの名誉会長であるPeter Wallenberg博士は、20年間グループに勤務した 後、1974年から1996年まで会長を務めました。Peter Wallenberg Marketing and Sales賞は、 販売およびマーケティングの分野で、導入に成功した最も革新的な方法を表彰するものです。 92 年 受賞者 受賞理由 1997 Charles Robinson(米国) 米国およびカナダの自動車産業における電動工具のマーケティングプ ログラムおよび販売組織。 1998 Leif Larsson(スウェーデン) 顧客満足度を大きく高めた、販売企業と製造企業の間の着実な橋渡し。 1999 Ignace Cappyns(ベルギー) コンプレッサの新シリーズ発売に関連する新しいトレーニングコンセ プト。 2000 Yngve Revander(ドイツ) Tom Tysl(米国) ドイツにおける産業機器事業の基礎固めに対する功績と、短期の小規 模なレンタルのお客様へのサービス方法に関する先見性のある手法。 2001 Debra Sajkowski(米国) Hans Lidén(スウェーデン) お客様との取引を促進する効率的な手段となった、業界の専門家のた めの革新的なWebクラブ。 2002 Åke Larsson(ベルギー) Lars Larson(スウェーデン) Gösta Henningsson(スウェーデ ン) アトラスコプコに販売面およびマーケティング面で類の無い有用性を もたらした配送システム、Daily Direct Deliveries(DDD)の革新的 なコンセプト。 2003 Herbert Hermens(オーストラリ ア) ミルウォーキーエレクトリックツールズの新規市場への進出の成功。 2006 Christian Rougeron(フランス) Jean Guerin(フランス) ブランドポートフォリオ戦略の成功と、同一市場でのグループの複数 のコンプレッサブランド開発に対する功績。 2007 Anil Hingorani(ベルギー) Kristin Dom(ベルギー) Sven Van Dyck(ベルギー) Jeroen Opperdoes(ベルギー) Jan Verstraeten(ベルギー) Rudi Zonnevijlle(ベルギー) 明白な売上アップにつながった、最高の空気品質を保証するコンプレ ッサの販売キャンペーン。 2008 Tine Lefebvre(ベルギー) Urban Pettersson(ベルギー) Vagner Rego(ベルギー) 圧縮空気システムの電力消費量を削減するサービス、AirOptimizer™の 開発とマーケティング。 2009 Andreas Nordbrandt(スウェー デン) Jan Forsell(スウェーデン) 2008年のアフターサービスの売上を大幅に向上させた、ROC CAREサー ビス契約の開発。 年 受賞者 受賞理由 2010 Alex Liebert(スウェーデン)と 同氏が率いるIndustrial Design Group 「アトラスコプコ」、「シカゴニューマティック」、「ダイナパッ ク」の製品シリーズで、各ブランドに独自のイメージを持たせるデザ インランゲージ。 2011 Nico Delvaux(ベルギー) Dirk Beyts(ベルギー) Wouter Ceulemans(ベルギー) Peter Leemans(ベルギー) コンプレッササービスに関する顧客満足度をさらに高める新しい戦略 の導入。 2012 Volker Wiens(ドイツ) Fabrice Homo(フランス) 航空宇宙産業でのより高度な組み立てツールの採用に道を開くプロジ ェクトの成功。 93 John Munck技術革新賞 John Munckは、アトラスコプコで最も成功したエンジニアの1人です。1930年か ら1970年まで当グループに勤務し、テクニカルディレクターなどを歴任しまし た。John Munck賞は毎年、アトラスコプコ製品の品質全体に対して、めざましい貢 献をした製品開発者や設計者、またはチームに贈呈されます。 年 94 受賞者 受賞理由 1991 Christian Schoeps 空気圧式産業用工具の開発。 1992 Dirk Beyts GA90-250シリーズの開発。 1994 Christer Hansson 電動工具の製品開発の成功。 1995 Gunnar Wijk Åke Eklöf Kurt Andersson Sten-Åke Hilberts COP 1838の製品開発。 1996 Guido Luyts Rickard De Bock まったく新しい定置式オイルフリーコンプレッサシリー ズの開発。 1997 Rolf Jacobsson 産業用電動工具用のタービンモータ技術の開発。 2000 Karl-Axel Stjernström Kurt Andersson Jörgen Rodert 大きな穴を掘削する際の生産性を向上させる特許取得済 みの革新的な技術、Coprodシステムの開発。 2001 Sverker Hartwig Chris Lybaert Ludo Van Nederkassel 電力消費量を大幅に削減した、アトラスコプコの VSD(インバータ駆動)コンプレッサ技術の開発。 2002 Carl Carlin 自動車産業向けのアトラスコプコのナットランナシリー ズ開発を牽引した役割。 2004 Roland Henriksson 容易な製造、優れた耐久性、パワーウェイトレシオ、サ ービス性が盛り込まれた、油圧ブレーカにおけるSolid Body Concept(SBC)。 2006 Karl Brodin 自動車産業や一般産業のユーザーにメリットをもたらす 締め付け工具の新シリーズの開発。 2008 Jörgen Appelgrenとそのチーム 機械の性能を向上させ、作業環境を改善する電子制御シ ステムと自動化プラットフォームの開発。 2009 Cesare Manzardo チェッカートなどのアトラスコプコ以外のブランドでの スクリュコンプレッサの創造的な設計。 年 受賞者 受賞理由 2010 Massimiliano Cattaneo Sergio Giannoneaとそのチーム 品質が保証された締め付け工具、STレンチの開発。モジ ュール式の設計により、お客様はそれぞれのニーズに合 わせて機能や予算を調整可能。 2011 Olof Östensson Thomas Lilja Ola Davidsson 振動レベルが大幅に低減されたピックハンマの開発。 2012 Mikael Monsell Thomas Hanspers Mikael Wendel 組 み 立 て ツ ー ル の 革 新 的 な 新 シ リ ー ズ 、 Tensor ST10 Revoの開発。 95 企業データ(1873~1900年) 年 売上 (1,000スウェーデ ンクローネ) 96 純利益 (1,000スウェーデ 総資本 (1,000スウェーデ ンクローネ) ンクローネ) 従業員数 1873 資料なし 資料なし 資料なし 196 1874 資料なし 資料なし 資料なし 資料なし 1875 資料なし 資料なし 資料なし 781 1876 資料なし 資料なし 資料なし 687 1877 資料なし 資料なし 資料なし 577 1878 資料なし 資料なし 資料なし 480 1879 資料なし 資料なし 資料なし 381 1880 資料なし 資料なし 資料なし 360 1881 資料なし 資料なし 資料なし 資料なし 1882 資料なし 資料なし 資料なし 資料なし 1883 資料なし 資料なし 資料なし 資料なし 1884 資料なし 資料なし 資料なし 770 1885 資料なし 資料なし 資料なし 780 1886 資料なし 資料なし 資料なし 561 1887 1,097 -153 6,159 436 1888 1,033 -7 5,596 510 1889 1,131 -5 5,744 504 1890 資料なし 資料なし 資料なし 527 1891 1,483 110 3,121 550 1892 1,240 -8 3,346 518 1893 1,636 36 3,331 510 1894 1,867 156 4,145 553 1895 1,521 339 4,238 582 1896 1,586 127 3,992 641 1897 2,148 182 4,461 650 1898 2,750 177 3,978 66 1899 3,250 530 5,177 776 1900 2,833 335 5,552 713 企業データ(1901~1928年) 年 売上 (1,000スウェーデ ンクローネ) 純利益 (1,000スウェーデ 総資本 (1,000スウェーデ ンクローネ) ンクローネ) 従業員数 1901 2,131 114 5,689 623 1902 1,842 247 6,251 559 1903 2,234 122 6,074 526 1904 1,827 252 7,509 585 1905 1,447 -32 6,164 630 1906 2,917 361 7,010 613 1907 3,233 414 7,814 630 1908 3,147 249 7,682 616 1909 1,532 -33 7,007 463 1910 2,121 186 7,656 447 1911 2,426 320 9,001 474 1912 2,762 331 9,564 453 1913 2,926 352 9,676 550 1914 3,262 700 10,494 600 1915 4,147 704 11,462 580 1916 5,535 1,565 11,764 620 1917 資料なし 2,828 41,400 資料なし 1918 資料なし 1,372 38,600 資料なし 1919 資料なし 1,322 39,955 資料なし 1920 資料なし 5 40,567 1,114 1921 資料なし –325 39,079 資料なし 1922 資料なし -2,902 38,776 資料なし 1923 資料なし -193 26,079 資料なし 1924 資料なし -374 22,991 資料なし 1925 資料なし 69 20,734 778 1926 資料なし 86 21,172 資料なし 1927 資料なし 123 21,857 資料なし 1928 資料なし 316 21,000 資料なし 97 企業データ(1929~1956年) 年 売上 (1,000スウェーデ ンクローネ) 98 純利益 (1,000スウェーデ 総資本 (1,000スウェーデ ンクローネ) ンクローネ) 従業員数 1929 資料なし 563 22,566 1930 資料なし 240 21,008 資料なし 1,004 1931 資料なし 62 19,689 資料なし 1932 資料なし -172 18,626 資料なし 1933 資料なし -240 18,291 資料なし 1934 資料なし 145 13,605 資料なし 1935 資料なし 510 14,763 937 1936 資料なし 651 16,646 資料なし 1937 資料なし 903 19,075 資料なし 1938 資料なし 920 18,708 資料なし 1939 資料なし 961 20,825 資料なし 1940 資料なし 901 20,465 1,462 1941 資料なし 951 24,085 資料なし 1942 資料なし 1,189 27,315 資料なし 1943 資料なし 974 27,965 資料なし 1944 資料なし 1,013 27,512 2,430 1945 資料なし 575 25,934 1,697 1946 資料なし 2,703 30,143 1,732 1947 資料なし 1,506 39,514 1,793 1948 資料なし 1,508 48,835 1,993 1949 66,621 2,423 47,945 2,011 1950 83,386 4,851 53,993 1,992 1951 147,000 5,992 73,353 2,123 1952 197,000 5,403 92,344 2,311 1953 200,000 5,020 91,645 1,899 1954 204,000 6,376 82,490 1,681 1955 247,000 113,228 1,876 1956 315,000 126,414 2,072 資料なし 8,225 企業データ(1957~1984年) 年 売上 (1,000スウェーデ ンクローネ) 純利益 (1,000スウェーデ 総資本 (1,000スウェーデ ンクローネ) ンクローネ) 従業員数 1957 345,000 8,100 133,005 2,091 1958 334,000 11,438 301,306 1,762 1959 380,000 13,663 331,295 1,969 1960 480,000 26,685 451,037 7,740 1961 525,000 21,596 531,703 2,302 1962 582,000 23,029 583,356 2,261 1963 674,000 34,968 588,445 資料なし 1964 766,000 43,678 662,356 597 1965 888,535 53,523 811,732 資料なし 1966 994,866 56,104 954,833 11,061 1967 1,058,000 41,450 1,048,661 11,196 1968 1,138,000 50,649 1,157,447 11,349 1969 1,280,000 67,181 1,330,666 12,734 1970 1,542,000 86,643 2,048,075 13,764 1971 1,696,000 86,969 2,139,279 13,706 1972 1,849,000 91,639 2,245,662 13,881 1973 2,213,000 135,104 2,645,346 15,473 1974 2,949,000 118,079 3,272,445 17,392 1975 3,385,000 135,300 4,060,939 18,236 1976 3,791,200 101,100 3,946,100 18,384 1977 4,157,200 163,600 4,410,500 18,032 1978 4,742,300 208,600 4,545,900 17,664 1979 5,305,400 148,300 4,990,400 17,883 1980 6,226,800 107,800 5,982,600 18,786 1981 7,488,400 256,500 7,077,700 19,538 1982 7,923,900 201,200 8,021,300 18,402 1983 8,092,700 2,700 7,470,000 16,974 1984 9,099,600 281,100 8,216,600 16,484 99 企業データ(1985~2011年) 年 売上 (1,000スウェーデ ンクローネ) 100 純利益 (1,000スウェーデ 総資本 (1,000スウェーデ ンクローネ) ンクローネ) 従業員数 1985 10,062,000 392,300 8,674,500 16,659 1986 10,351,000 330,200 9,262,000 16,498 1987 11,520,000 592,000 10,752,000 18,777 1988 12,812,000 714,000 11,377,000 19,207 1989 15,035,000 765,000 13,258,000 20,057 1990 15,915,000 698,000 13,971,000 21,507 1991 15,030,000 507,000 14,094,000 19,544 1992 16,007,000 598,000 16,219,000 19,195 1993 18,906,000 867,000 17,822,000 18,247 1994 20,914,000 1,194,000 18,198,000 18,104 1995 24,454,000 1,823,000 22,179,000 19,751 1996 25,121,000 1,938,000 23,175,000 21,085 1997 30,032,000 2,208,000 34,790,000 22,296 1998 33,740,000 2,283,000 37,166,000 23,857 1999 36,234,000 2,247,000 53,650,000 24,249 2000 46,527,000 2,924,000 61,688,000 26,392 2001 51,139,000 3,067,000 64,357,000 26,201 2002 47,562,000 -3,889,000 48,668,000 25,787 2003 44,619,000 3,274,000 45,862,000 25,707 2004 43,192,000 4,671,000 48,168,000 26,828 2005 52,742,000 6,581,000 54,955,000 26,258 2006 50,512,000 15,373,000 55,255,000 24,378 2007 63,355,000 7,469,000 56,659,000 29,522 2008 74,177,000 10,190,000 75,394,000 34,119 2009 63,762,000 6,276,000 67,874,000 31,085 2010 69,875,000 9,944,000 71,622,000 31,214 2011 81,203,000 12,988,000 75,109,000 35,131 アトラスコプコの歴史の所有者は? この質問は奇妙に思えるでしょう。しかし、アトラスコプコの新しい社史を作ろう と決めたとき、最初に心に浮かんだのはこの疑問でした。企業の歴史の最初の140 年間について、どのような内容を記述すべきかを決めるのは誰でしょうか。 アトラスコプコはここ数年で急激な成長を遂げ、数々の変化を体験してきまし た。多くの社員が買収によってグループの一員となりました。さらに多くが、既存 の事業や新規市場のために採用されました。彼らすべてに、過去を自分のものと し、過去から学ぶ資格があります。それ以外の社員は、すでに長い間グループに加 わっており、会社の過去と現在を形作るために尽力してきました。新しく加わった 者と昔からいる者 — 全員が一緒になって、アトラスコプコグループのこれからの歴 史を作っていくのです。 では、その歴史の所有者とは誰でしょうか。簡単な答えは、私たち全員というこ とになるでしょう。しかし、別の見方もできます。私たちは、使命、ビジョン、価 値という、非常に強力なアトラスコプコの文化を共有しています。心安らかに、ア トラスコプコの環境の中でやっていけるならば、この場所を離れることは永遠にな いでしょう。 アトラスコプコの歴史が事実に基づいたものとなるよう、ストックホルムの Centre for Business Historyと著者のAnders Johnsonが協力して、1873年から2000 年までの業績について記述しました。 社会や環境に関してはほとんど言及されていませんが、これらの要素がアトラス コプコの発展に影響したことは言うまでもありません。同じことが、謹んでお客様 と呼ばせていただく数々の世界クラスの企業にも当てはまります。アトラスコプコ で働く全員が、私たちの業績に対するその重要性を深く心に刻んでいます。 101 107 写真と説明 番 号 アトラスコプコのサービスバン、1960年代、マ ラヤ、キャメロンハイランドにて. 43 1992年にアトラスコプコが買収したクレリウス で、ドリルビットに使用するダイアモンドをよ りわける作業員 44 1987年、ニューヨークのブルックリン橋で使用 されるシカゴ空圧工具 45 海抜4,600mに位置するボリビア南部のクムラナ 鉱山で働く約100人の作業員。1990年代にアト ラスコプコは、Pionjärと呼ばれるガソリン駆 動のブレーカーを提供して支援しました。 1 1873年当時の株券 23 2 1900年代前半、ストックホルムのアトラスの工 場における機関車製造風景 アトラスコプコのサービスバン、1970年代、エ ジプトにて 24 ペルーのアトラス、1952年 25 1950年代、ペルーにおけるパンアメリカンハイ ウェイの建設工事に、アトラスコプコの機械が 使用されました。 26 Atlas Copco India PTVT Ltd.(アトラスコプコ のインド法人)、1964年 46 27 1956年、アトラスディーゼルは会社名を Atlas Copcoに変更しました(Copcoは、フラン ス語の「Compagnie Pneumatique Commerciale」 の頭文字)。新しい社名はこのイラストによっ て世界中に伝えられました。 1994年は、特に米国とオーストラリアにおい て、掘削と解体に使用するポータブルマシンの レンタルが好調でした。 47 1997年、Prime Serviceの顧客数は約55,000に 上り、米国の機器レンタル市場でトップの地位 にありました。 48 ベトナムの食料品業界で使用されるオイルフリ ーのコンプレッサ。このタイプのコンプレッサ を利用した世界初の製造工程です。 49 米国、カンザス州で使用される、2つのロトフ ローエキスパンダを搭載した独自の天然ガスコ ンプレッサ。機械自体の価格とエネルギー消費 の両面で、お客様のコスト削減に貢献します。 50 1994年、アトラスコプコは製品ラインを拡大す るため、ポータブルコンプレッサの補完製品と してポータブル発電機を発売しました。 51 1996年、アトラスコプコはアジアにおける地 位を強化することを宣言しました。 3 1873年のアトラス創立時の出資者の1人、 André Oscar Wallenberg 4 1920年代、ストックホルムのアトラスの工場。 手前の橋はサンエリック橋です。 5 ストックホルムと隣のリディンゴ島をつなぐ この橋の建設に、アトラスの工具が使われま した。 6 アトラス製の蒸気機関車。ストックホルムの Saltsjöbanan社に納入されました。 7 1900年に作成されたリベッティングハンマの 設計図 8 1900年代前半、BR-12型掘削機を使用する作業員、 9 1877年当時のアトラスの工場 10 1800年代後半、アトラスにおける空圧工具開発 の中心人物、Gustaf Ryd技師とその同僚 11 Gunnar Jacobsson CEO、シックラのディーゼル 工場で訪問客と。 12 1935年12月13日、ルチア祭にて。 13 1920年、シックラのアトラスディーゼルのオフ ィスにて。この建物は1913年に建造され、今な お現存しています。 28 米国カリフォルニア州サンカルロスのCopco Pacificの本社、1953年 29 Marcus Wallenberg Jr.会長とKurt-Allan Belfrage CEO、ブラジルにて 30 1956年、アルピックエンジニアリング社を買収 31 モントレーのAtlas Copco Mexicana(アトラスコ プコのメキシコ法人)の現地支店にて、1982年 32 1960年代ブラジルにて。アトラスコプコの工具 および組み立てシステムを使用する顧客企業の 1つ、フォルクスワーゲン工場での写真 33 ブラジルの道路脇の広告看板、1960年代 34 1970年代、スウェーデン南部のオーランド橋の 建設現場。オーランド橋は当時ヨーロッパ最大 の長さを誇りました。 52 オイルフリーコンプレッサの最終テスト は、1991年、日本のアトラスコプコ工場で実 施されました。 35 空圧工具を使う石工、1940年代 53 36 ベルギー空軍でのデモ、1960年代ごろ 37 ドイツ、ライン川でのポータブルコンプレッ サ、1970年代前半 優れたエネルギー効率を広く知らせるキャン ペーンで、アトラスコプコはマーケティン グ戦略としてスカイダイビングを採用しま した。 14 1960年、現場で作業するスウェーデン人のサー ビス技術者 15 1950年代前半、ストックホルム中心部での水道 管敷設工事 16 1980年代に実施されたカタールでの技術者訓練 17 1939年、スウェーデンの地方での岩石除去作業 18 1952年、英国ウェンブリーの展示会に出展した アトラスディーゼルのショールーム 38 1970年代後半、アトラスコプコは最初のデスク トップコンピュータを導入しました。 19 1950年代、米国で掲載されたアトラス削岩機 の広告 39 20 「Boomer」シリーズの前身で、特に1950年代 に、トンネル建設プロジェクトで使用された削 岩機。軽量せん孔機が使用されていますが、プ ッシャーレッグの代わりに、ストロークの短い 小型の装置が使用された、いわゆる「ラダーフ ィード」と呼ばれる機械です。削岩機とフィー ドが幅の狭いビームに取り付けられ、ラダーが 道を開き、フィードがそこをゆっくりと進みま す。この方法により、削岩工は複数の削岩機を 同時に使用することができました。 1982年、Atlas Copco Jarvaによって、爆発物を 使用せずに立坑掘削が可能な新しいレイズボー リングリグを発表しました。 21 116 22 1970年代後半にポルトガルに納入されたエアコ ンプレッサ 40 1978年、香港で使用されるポータブルコンプ レッサ 41 1997年、ジョイントベンチャーのShanghai Worthington Orient Compressor Co.を設立。 同社は、中国でコンプレッサの現地生産を行 うためにアトラスコプコが設立した2番目の会 社です。 42 1990年、アトラスコプコは、英国の株式公開会 社であり、工具や組み立てシステムを製造して いるDesoutter Brothers(Holdings)PLCを買 収しました。 5 4 - アトラスコプコ南アフリカのウェルネスデイ では、希望者に対する健康相談や全従業員に 55 対するHIVテストが実施されました。 56 2009年、アトラスコプコは女性を対象とした 初のメンターシッププログラムを組織し、 その中で、世界的な女性のためのネットワー ク、「The Pleiades」が正式に設立されま した。 他の説明がない限り、本書の画像は、Centre for Business History(スウェーデン、 ストックホルム)にあるアトラスコプコの歴史アーカイブから採用されたものです。 アトラスコプコグループ内ではこれらの画像を自由に使用できます。高解像度コ ピーが必要な場合やアトラスコプコの歴史アーカイブに関する質問については、 Centre for Business History(電子メール:[email protected]、 Web:www.naringslivshistoria.se)までお問い合わせください。 © Atlas Copco AB, Sweden, 2013 構想、文章、構成:Corporate Communications(Atlas Copco AB) 原案:Corporate CommunicationsとCentre for Business History(スウェーデン) デザインとレイアウト:Boyero & Lindström Great Communication HBとLisa GöthbergおよびKate Meurling 写真:Centre for Business History(スウェーデン)、 Atlas Copco Multi Media Gallery、Nacka kulturcentrum(21ページ)、 ©iStockphoto.com/Peeter Viisimaa(83ページ) 印刷:Prinfo Welins(スウェーデン、エーレブルー) 記事番号:9853 8153 95 初版(1000) 117 相互理解、責任遂行、革新 今日のアトラスコプコの礎となっているのは、お客 様との緊密な協力関係、よりよい手法を模索するあ くなき取り組み、約束を守り抜く姿勢です。生産性 とサステナビリティは両立すると信じる企業の進化 の歴史をご紹介します。 118
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