(全編) ↓世界中のALS患者家族関係者の手記集。横書き800kb。

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けっして絶望しないこと ―
推 賞
英国ケンブリッジ大学教授
スティーヴン・W・ホーキング
私がALSと診断されたのは、21歳のときである。そのとき私は、症状に
ついていっさい話してもらわず、病気の名前さえ知らなかった。病気の内容は
だいたい想像できたので、自分の疑念を確かめることが恐ろしく、何も聞きた
くなかったのだ。
実際には、私が(そしてほかのだれもが)予想したよりうまくいった。AL
Sの進行速度は人によってさまざまで、私の場合には、発病した初期に急速に
悪化したのち、症状の進行か遅くなった。私は結婚し、三人の子供を持ち、妻
や同僚の助けを借りて天文学や理論物理学の研究で成功を収めることができた。
身体的障害は重大なハンディキャップとはなっていない。
大事なことは、ALSにかかっているとわかったら、けっして絶望するな、
ということだと思う。まだ自分ができることに熱中し、障害を乗り越えて楽し
むべきだ。そのために、この本がALS患者の一助となることを願っている。
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胸打つ体験の記録 ― まえがき
私が初めてこの本の編者、ジュディ・オリバーさんにお会いしたのは、19
85年の4月、イタリア北部のバレーゼという町でALS国際会議が開かれた
ときであった。
このシンポジウムは、患者家族の方々も参加し、これまでの研究者のみの学
会とはずいぶん違った雰囲気で、イタリアというお国柄もあって会の運営はい
くらかルーズだったが、それだけに肩の凝らない楽しい会であった。私どもに
とっては、病院や講演会以外でざっくばらんに患者さんや家族の方々と話し合
える機会は意外に少ないので、貴重な経験であった。
オリバーさんは、パイロットをしておられたALS(筋萎縮性側索硬化症)
に苦しむご主人の看護のかたわら,米国力ンザス市でALS患者家族の会の中
心になって活動を続けられ、その会の代表として出席しておられた。この会期
中、何度かオリバーさんと話をする機会があった。
オリバーさんは、ご主人の病気を知ってこれまでどのように生きてきたか、
またこれからこの病気にどう対応していこうとしているかなど、彼女の考えや
生活信条を語ってくれ、私に感想や意見を求められた。私は医師ではあるが、
彼女たちとは一人の人間として話し合うことができた。なかでも、とくにこの
本の計画について熱心に語ってくれたことが、ついこの間のことのように鮮や
かに思い出される。
世界中の患者さんやその家族の方々、医療関係者など、ALSに強い関心を
持っているすべての人にこの病気について語ってもらいたい、そしてともにこ
の病気に立ち向かっていきたいーそれが彼女の願いであった。私は、そんな彼
女の熱意に圧倒された。ぜひやり遂げてほしいと心から賛成したが、果たして
どこまで可能かと、その実現を危ぶむ気持ちも正直いって心のどこかにあった。
*
その次にお会いしたのは1986年、ロサンゼルスでの国際神経筋疾患会議
であった。私は亡くなられた椿忠雄先生(元東京都立神経病院長。日本ALS
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協会の発足に尽力された)とともに、日本でALS国際会議を開催する準備の
ためもあって、会議に出席したのだが、会場の販売部に立っている彼女を見て
驚き、またこの本がすでにできあがっているのを見てさらに驚き、その熱意と
努力に感嘆した。
私はこの手記 In Sunshine and in Shadow : Personal Portraits of ALS edited by
Judy Oliver (Keith Worthington ALS Society,1986)を読んで感動した。
これまでにも、患者さんの克明な闘病の記録、家族の血を吐くような看護の
苦しさ、やがて天命を知り、高僧のような無欲の境地へたどり着く患者さんの
心の動きなど、いずれも貴重な記録が出版されている。しかしこの本では、そ
うした一個人の掘り下げた人生記録とは異なった立場で、できるだけ多くの人
びとの悩み、苦しみ、生きる喜びを記録することを通して、ALSを広く、多
面的に理解してもらい、対応していこうとする試みがユニークである。
この手記のなかには、いま苦しみのどん底にある人から、病気への対応がか
すかに見えはじめた人、また長い苦しみの末、心の平安にたどり着いた人、身
体の苦しみをこえて人と神の深い心に触れた人と、それぞれに、健康なときに
はとうてい到達しえない人間の極限に触れた貴重な体験が随所に見られる。
やはりALSを病む、イギリスの高名な宇宙物理学者スティーヴン・W・ホー
キング博士が推賞文を本書に寄せておられる。昨秋、車椅子で来日された博士
は、気管開窓しておられて発声することができなかったが、わずかに動く手で、
携帯用コンピューターを用いて作成した文章を、音声合成装置で音声化すると
いう方法により、宇宙の成りたちとその未来について講演された。
その講演の様子が繰り返しテレビでも放映され、人びとの深い感動を呼んだこ
とは記憶に新しい。
天は二物を与えずという言葉があるが、ほとんどすべての随意筋が進行性に
麻痺していくALSに苦しむ人たちが、ここまで浄化され、高められ得るのか
と、深い感銘を受ける。また、こうした患者さんたちを診療している医療人と
しては、一人ひとりのうちに、引き出しようもなく閉じ込められている熱い思
いに気づくだけの、感受性を持ち合わせているか、一人ひとりの持つ無限の可
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能性を少しでも引き出すためには何をしたらよいのか、という重い課題を負う
ことにもなった。
私は、ぜひこれを日本の皆さんに読んでほしい、できれば訳したいと真剣に
考えた。しかし、1987年のALS国際会議を日本で開く準備に追われ、私
にはとうていそんな余裕はなかった。
1987年、椿先生のご熱意なくしては日の目を見なかった、その椿先生の
ご逝去に皆が心を痛めながら、京都でALS国際会議が開かれた。これは専門
家のみでなく、患者家族の方々にも世界中から参加していただいた、画期的な
国際会議であった。オリバーさんには、この会議でシンポジストとして話して
いただいた。三度目の出会いである。
彼女は患者家族として、ALS支持組織の一員として、ALSとたたかって
いくために必要なことは、人生に対して肯定的に生きること、すなわち、(1)自
己抑制ができること、(2)他の人とよい協調関係を保つこと、(3)人生に意味と目
的を見いだすことであると強調された。またこの本に触れて、これが各国で翻
訳されて、収益を患者さんのために使ってほしい、また、できるだけ早く日本
語に訳されることを望んでいるともいわれた。
今回、日本ALS協会(JALSA)新潟県支部のボランティアの方々の非常な熱
意とご努力と、サイマル出版会の田村勝夫社長のご好意により、日本語版がで
きたのはまことに喜ばしい。
英語版が出版されてからすでに五年になるが、ALSの本態はまだ十分解明さ
れていないし、治療法も見つかっていない。ALSという重苦しい圧力に負け
ないで、人生を有意義に送るにはどうすればよいか。すべての患者さんに共通
する解決法はないが、一人ひとりに対応する方法はこの本に述べられているよ
うに無数にある。そういう手がかりを、この本のなかにそれぞれの立場で見つ
けることができるだろう。
またこのなかには、ALSを研究する専門家の貴重な体験と研究結果の記録
もある。とくに、臨床家が患者を目の前にしてどのように彼らに話し、支えて
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いくか、家族をどのようにしてよき介護者にしていくか、患者から何を学び、
医師自らの精神的な糧にしていくかを教えられる文章も多い。それだけにこの
本は、多くの患者さんや家族の方々に勇気を与え、さらにALS診療に携わる
専門家にも、新たな決意を与えるものと思う。ALSのみでなく、多くの難病
やターミナルケアに関心を持つ人びとにとっても、一読に値する本である。
(1991年4月)
和歌山県立医科大学神経病研究部教授
八
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瀬
善
郎
ALSとたたかうホーキング
ジョン・ボスロー
「タイム」 誌上で「アインシュタインの再来」と謳われ、科学雑誌「オムニ」
で「空間と時間の魔術師」と評されたスティーヴン・ホーキングは、現代のも
っとも特異な科学者である。彼の人生はそのまま、困難に直面した人間の驚く
べき精神力を表わしている。
ルー・ゲーリック病(ALS)に冒されたホーキングは、長い間車椅子の生
活を送ってきた。
1963年、医者はあと数年の命と宣告した。だがホーキングは、物理学と天
文学の理論家として画期的な研究をなしとげ、めざましい業績を築いてきた。
彼の究極の目標は、宇宙の仕組みを全面的に解明することにほかならない。そ
の目標が、銀河系に満ちあふれている不思議な事象を研究する生活へと彼を引
きこんできたのである。
(『スティーヴン・ホーキングの宇宙』より)
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支援の輪を世界へ ― 編者まえがき
1981年、病院から夫が、ALS(筋萎縮性側索硬化症)という不治の病
にかかっていると電話をかけてきました。その瞬間から、私の人生は大きく変
わりました。
悲しくて涙が止まりませんでした。それから私は祈りました。ショックと祈
りは、たちまち私の心のなかに深い変化を呼び起こしました。これから私たち
は、今まで以上に強い愛情に結ばれて生きていかなければならない、そう悟っ
た私は、子供たちや親戚に夫の病気について話すときも、彼らを慰める余裕を
もつことができました。
まもなく私たちは、カンザスシティにあるALS患者の支援グループに参加
することになりました。悩んでいるのは私たちだけではなかったのです。
それから1年もたたないうちに、私はALS協会地方支部の会報の編集を手
がけていました。会報のなかでも、私はとりわけ「私の闘病法」という欄が好
きでした。ここには、この病気を精神的側面からとらえたコラムが掲載されて
いました。患者は病気に苦しみ、死を覚悟しながらも、生きることについて書
き、暗い調子のものより、気持ちを明るくし、励ますような手紙がたくさんあ
りました。
3年後、私はこうした患者の手記は、世界中のALS患者にとっても関心が
あり、有益なのではないかと思いはじめました。患者だけでなく、 医療関係者
が患者の考えを知るうえでも役に立ち、実情を知った人びとが研究や介護に支
援の手を差しのべてくれるかもしれない、そう考えたのです。
1985年、イタリアのバレーゼで開かれたALS国際会議に出席した私は、
自分の家族とALSとのかかわりを話し、世界中の人びとから手記を集めて本
にしたいと提案しました。この提案に応えて、15ヵ国から手記が送られてき
ました。
*
この本には、ALS(この病気は「運動二ューロン疾患」という名でも知ら
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れる)とたたかっている人びとの手記が収められています。
手記を寄せてくれた人びとは、年齢も人種も、宗教、信条、文化、職業、出
身もさまざまです。
これを一つにまとめることで大きな支援の輪ができる、この本の重要性はそこ
にある、と私は思います。アメリカにはありとあらゆる目的を掲げた支援団体
があり、ALS患者の支援グループも各地にできています。しかし、小さな町
や村に住むALS患者が、自分と同じ境遇の仲間に出会うことはほとんどあり
ません。
また患者の支援グループがアメリカほど普及していない国、そういう考え方
が存在すらしていない国もたくさんあります。東京の病院から手記を送ってき
た男性はこう書いています。「ALSが進行するにつれて、自分にとって大事
なことを他人に伝えたいという欲求がますます強くなります。同じ病気に悩む
患者の方々と、お互いの気持ちを分かち合うために力を合わせていきたい」
こうした「気持ちの分かち合い」は、手記を送ってきた多くの人びとにとっ
て、心いやされる体験ともなりました。ペンシルベニア州キャノンズバーグの
シェルビー・エストークは、「手記を書いて、それをもう一度読み返すことが、
私にはいい治療法だったようです。今はとても不安ですが、やがてそれもなく
なるでしょう。こうしていると、魂がいやされるようです」と書いています。
また、イギリスのスタックスに住むアイリーン・ジョイス・ウエインはごく簡
単にこう述べています。「話を聞いてくれてありがとう」
私はこれらの手記を読みながら、患者を世話する人びとの献身に感動しまし
た。ミズーリ州インディペンデンスのドロシー・バースは、自分を支えてくれ
る夫との一体感を、こう表現しています。「夫がいつもそばにいてくれるので、
医学的な治療を受けるときも精神的な援助を求めるときも、私はつねに『私た
ち』という言葉を使ってきました」
「生と死」という深遠な問題に直面して、いかに人間的に成長し、人生が豊
かになったかを書いている人もたくさんいます。トルーディ・メンネンの詩は、
「私が選んだ道ではないけれど、この道には報いがある」という言葉で終わっ
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ています。私は、患者だけでなく、患者の世話をする人びとが同じように人間
的に成長していく姿を見てきました。患者にしてみれば、そのように考えるこ
とはむずかしいかもしれませんが、他人に自分の面倒を見させることは、病人
が天から授かった才能である、とさえいえます。病人を手助けすることによっ
て、世話する側も自分自身がもっている不安を直視し、他人の立場になって考
えることを教えられるからです。
どうしても手記を送りたい、という強い意志がうかがわれるものもありまし
た。字を書いたりタイプを打ったりできないため、テープに声を吹きこんで送
ってくれた人もいます。メリーランド州ハガーズタウンの病院にいるリチャー
ト・コーガンは呼吸装置をつけていますが、手を使わずに操作できるテープレ
コーダーの装置を自分で考えだし、長い時間をかけて手記を吹きこみました。
また声が出ない人や手が使えない人も、文字板を利用してだれかに書き取って
もらった手記を送ってくれました。
私は、手記の執筆者たちが、自分のできる範囲で他の患者の役に立ちたいと
考えていることに感銘を受けました。なかには、ニューメキシコ州アルバカー
キのキャサリーニ・クラウノーヴェーのように、配偶者をALSで失ったとい
う人もいます。彼女は現在、夫を介護した経験を生かして、ALS患者の世話
や家族の相談にのっています。
この本の最終章「ALS患者に勇気を教えられて」では、さまざまな資格で A
LS患者にかかわってきた専門家が、それぞれの専門の立場から、知識と体験
を述べています。この人たちも「ALSファミリー」に欠かせない一員です。
ベルギーのプランケンベルヘに住むロベルト・デフリースハウェルは、「この
本の出版によって、ALSが広く世間に理解され、患者、研究者、医師、看護
専門家の相互関係か深まることを祈ります」と書いてきました。
*
ここに収録した手記は、文法の誤りを正したり長さを調整したほかは、内容
に手を加えておりません。特定の医師や病院の名前に関しては、大部分削除し
ました。
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カリフォルニア州ポルトラ・ヴァリーのスタニー・ミラーは、「あなたが私
たちの体験をまとめた本を読める日を、首を長くして待っています。どんなに
生命にあふれたものになるでしょう!」と書いています。しかし、これは、こ
の本のために貢献してくれたすべての人びとの本です。陰でボランティアとし
て働いてくれた数多くの人びとの力によって、実現した本なのです。
そのエネルギーとパワーは、一つの目標をめざして力を合わせるところから生
まれています。
ジュディ・オリバー
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目
次
照る日かげる日
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けっして絶望しないこと
胸打つ体験の記録
―
―
推賞(ホーキング博士)
まえがき(八瀬善郎)
ALSとたたかうホーキング(ジョン・ボスロー)
支援の輪を世界へ
―
1.希望を胸に ―
編者まえがき
ALSとたたかう
・・・・・・・
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頑張りぬけば/私たちを助けて
正直に自分を見つめること/二つの世界
暗い考えが忍びこんできたら/死を友として
手に手をとって/たたかう以外に道はない
モールス信号で話す/天国を描く
かゆいだけでもたいへん/私はあきらめない
患者の家族のことも/大丈夫、生きていけます
一日一日を生きる/神よ、心の平静を与えたまえ
2.闘病の日々 ―
ALSとともに
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発病して十六年/不死鳥のように立ち上がった私
ALSを持つ働く母として/忘れていた神様
将来の夢/私はみんなを元気づける
ALSと生きる/桜の花を眺めたい
どうして私が?/命の質を大切に
患者には事実を告げるべき/自立心
ALSの二つの側面/皮肉
祈りと行動
3.患者とともに生きる ―
家族・友人の声 ・・・・66
どのような運命になろうとも
苦しみを成長の糧として / 回復の見込みはなくとも
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救いの可能性 / 言葉なんかいらない
家族全員でたたかうALS/時間が止まった
車椅子がわが家にやってきた
苦労を理解してさえもらえたら / 絶望のどん底で
外側から眺めて / ひとすじの希望
頑張って
4.残された者の思い ―
遺族の手記
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神の腕に抱かれて / 母の贈り物
ともに泣き、ともに笑った / 悲しみと怒りと安堵
途中で立ちどまって / 喜びの涙
毎日を大切に / 誕生と死
彼のおかけで私は成長した / 病気から学んだこと
忘れられない夜 / 私の苦しみが始まった
悪夢から目覚める時 / ミッキー・モックの夢は永遠
国会へのメッセージ
5.ALS 患者に勇気を教えられて
―
・・・・・・・・ 112
医療関係者から
うつ状態とのたたかい / 愛の代償としての悲しみ
旧友への手紙 / ALSとは何か
医師の診断 / 一つのユニークな視点から
自分一人の強制収容所
運命が私をALSに立ち向かわせた / ふさわしい人
患者と研究室をつなぐもの / どの患者もユニーク
家族の三パターン / ALS患者は私の師
食事と生命の質 / 自由の領域
私のコーナーにいてくれ / 幸福とは何か
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ジグソー・パズルの一片 / あなたは一人ではない
存在すること対行動すること
ALSの病状について
感謝をこめて
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― 解説(八瀬善郎/堀川楊)・・・161
あとがき(松本茂)・・・・・・・・・・・170
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頑張りぬけば
ピート・オリバー
(アメリカ・カンザス)
覚えていますか。将来の計画や夢が目の前にパッとひらめいて消え去ってし
まった。病院の一室でのあの瞬間を……。あるいは、もう二度と自分で生計を
立てることができなくなって、自分が自分でなくなったような気持ちになった
ときのこと、見た目の格好よさを失い、行動する自由を失い、生活の自立を失
ったときのことを……。私も、そうした体験をしてきました。そして今振り返
ってみると、自分がなかなかうまくそれを切りぬけてきたことに驚いています。
私にとってALS(筋萎縮性側索硬化症)とたたかう基盤となっているのは,
神への信仰です。知り合いのALS患者はほとんどそうです。何をしても、あ
るいはだれと話しても、前向きの姿勢を取り戻すことができないときでも、信
仰と祈りはそれを与えてくれます。私は永遠の命を信じています。だから、こ
の病気もほんのひとときのものである。しかしそれは重要なひとときであると
考えています。
癌にかかった牧師が「神は毎日その日の分だけの恵みしか与えない」と語っ
ているテープを持っているのですが、私はそれが真実であることを身をもって
体験してぎました。先のことを考えて計画を立てると、失望させられます。う
しろを振り返って、昔ならやれたことを思い出すと、現在の衰弱ぶりがわかっ
て、気が滅入ってきます。
今では目が覚めると(やはり夢ではなかったとがっかりしながら目覚めるの
ですが)、まず今日自分ができることを考え、それに感謝し、さてどれにしょ
うか考え、選んでから実行に移します。私には選択することができるのです。
いいことを考えることもできれば、悪いことを考えることもできる、ハッピー
に過ごすことも、悲しい気持ちで過ごすこともできる。あるいは不安を抱きな
がら計画を立てることもできれば、希望をもって計画を立てることもできるし、
前向きになることも、うしろ向きになることもできます。愛を受け入れ、それ
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に応えることもできれば、愛を圧殺してしまうこともできます。意識して、他
人の愛や配慮や祈りを、健康なエネルギーとして私の中に受け入れるようにし
ています。
希望はたたかいを助けてくれます。奇跡が起こるんじゃないかとさえ思わせ
てくれる。私は期待に胸をふくらませて、薬の試験やEMG(筋電図検査)を
受け、蛇の毒の注射や鍼を打ってもらい、有望な研究の記事を読みました。一
つがだめなら、次のことを試してみます。この次にはサイの角の粉や、銅の腕
輪、ボーイング 707 の古い座席から作った丸薬だって試してみるかもしれませ
ん ! (ちなみに、ユーモアのセンスも役に立ちますよ)
私は大学時代、工学技術を勉強し、フットボー ルをやり、女の子と遊び、パ
ーティに顔をだし、友だちとおしゃべりをして、学生生活を満喫しました。お
かげで、卒業前にクラスを二つ落としました。まだ学期のはじめのうちに、試
験に通りそうもないということはわかっていたのですが、そのままの生活を続
けたのです。私の人生はいつもそんなふうでした。別な時期には、仕事をやめ
たいという衝動にかられたこともありますが、結局はやめませんでした。それ
は後から私の大きな転換点だったことがわかりました。
ばかばかしいようですが、私には、頑張りぬいてやり通せば、何らかの形で
報われるのだと信じこんでいるところがあります。その報いは、どういう形で
やってくるかはっきりしない場合でも、必ず訪れます。ALSにかかってい
る今も同じことです。今度の場合はたいへんなチャレンジですので、これは大
きな報酬が得られる機会なのではないかと思っています。
私たちを助けて
ロズラン・シーガル
(アメリカ・ペンシルバニア)
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はじめて診断を受けたころ、私はヒステリックに泣き叫び、髪をかきむしり、
「なぜ私が」と問う日々を送っていた。それまでやっていたことができないな
ら、人生には何の意味もない、目的もないと思えた。
医師の一人が、グループ・ミーティングに出てみてはどうかと勧めてくれた。
私も、医学的にこの病気を助ける方法がないなら、それも何かの役に立つかも
しれないと思った。自分が直面している肉体的困難にどう対処すべきか、どこ
に助言を求めていいかわからなかったので、ほかの患者がどのようにやってい
るのか知りたかったのだ。
精神的には、このミーティングに出席したことが転機になった。出席した人
たちはみんな親切で、思いやりにあふれ、喜んで自分の経験を話してくれた。
いろいろな役に立つ助言や器具を教えてもらった。とくにチェア・グライド(移
動用の椅子)は役に立った。私は独り暮らしなので、このチェア・グライドが
なければ暮らしていけなかっただろう。
診断を受けてから一八カ月になるが、症状は徐々に悪化している。歩くとき
には助けが必要だし、声が出にくくなっている(コミュニケーションはとても
重要なので、非常に困っている)。それにすぐに疲れるようになった。それで
もまだ私は自宅で生活し、毎朝起きて着替えをする、何かやれることがあるか
ぎり、なるべく自分でやろうと努力している。
以前は、自分の病気についてほとんど人に話すことはなく、知っているのは
家族と友人だけだった。しかし、あるとき、病気のことを公にしたほうが得る
ものが大きいということに気がついた。それで、自分がALSであることを知
ってもらうことにしたわけである。
私は、病気の説明と自分の気持ちを書き、以前新聞に載った記事のコピーを
同封した封書を百通余り作り、私たちの組織の住所を書いた返信用封筒を添え
て投稿した。うれしいことに、この手紙によって千二百ドルが集まった。おか
げで誇らしい気持ちになれた。生きている間に飛躍的進歩があるとは思えない
が、私の努力がほかの人びとの役に立てば、と願っている。
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正直に自分を見つめると
エヴィ・マクドナルド
(アメリカ・アリゾナ)
1979年の砂漠の春は、黄金色の梨と咲きはじめたサボテンの花で輝くば
かりの美しさだった。死について考えるにはふさわしくない季節だった。それ
はちょうど、私のめざすものが何もかももうすぐ手に入るというときで、私は
女性としては全国で一番若い病院運営管理者になるところだった。まさしく成
功への道を歩んでいた。
外見上は、「何もかもうまくいっている」人間、思うままの人生を歩んでい
る人間という印象を与えただろう。でも心の中で一人で考えたり感じたりして
いるときの私は、みじめだった。私の人生は進んでほしくないほうへとどんど
ん進んで、方向を変えようにも、どうしたらいいか見当もつかなかったのだ。
ものを落としたり、つまずいたり、転んだりしはじめたのは、1979年の
春で、どこが悪いのかつきとめるために、何人もの医者に見てもらったが、原
因がわからなかった。そうしているうちにも、体のほうはどんどん悪化した。
それから神経内科医の友人が検査をしてくれた。
こうして、1980年の秋になってALS(筋萎縮性側索硬化症)という病
名が、私自身に関係のあるものになったのだった。もちろん、この病名はよく
知っていた。神経外科看護について教えたときに、この病気についても話した
からである。ところが、今度はその病名を自分自身に使わなければならなくな
ったのだ。
白衣を着たその男性が、壁にもたれて「残念ながらALSです。急速に悪化
しているようで、この分でいくと、あと一年の命でしょう」と無表情にいった
のが、今でもはっきりと思い出せる。
これを聞いたとたん、私の世界はメチャメチャになった。ちゃんと歩いて病
院に行ったのに、六週間後には、ほんの2、3秒しか立っていられなくなった。
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慣れ親しんできた世界は崩れ去った。集中治療を指揮することもでぎなくなっ
たし、一人で暮らすこともできなくなり、車も運転できなくなった。
住居のあるトクソンに戻ると、すっかり変わった自分の体とすっかり変わっ
た自分で、古い生活に立ち向かわなければならなかった。避けられない死を受
け入れ、そのための準備を始めた。
キュープラ=ロスの「死と、死を目前にした諸段階」について教えたことがあ
るので、致命的な病気の扱いについてはよく知っていた。そこで私はその道の
専門家として、死を目前にした者のためのルールにのっとって暮らしはじめた。
私が上手に死を迎えようとしていたので、死と死への準備に関する大学の講座
や研究集会から、話をしてくれと頼まれるようになった。これで自尊心がくす
ぐられ、私はますます調子にのって「 私はもうじき死にます」とまでいうよう
になった。
友人がかつてこんなことを話してくれた一『健康というのは肉体とはほとん
ど関係がなく、心の状態だけが問題なのだ。心の状態が健康で、まだ愛したり、
人のために働いたり、自分を与えられるなら、体が病気でも『健康』でありう
る』と。
はじめは、この言葉も何の意味も持たなかった。「車椅子に座った植物人間
でしかないこの私が、人のために何かするなんてできっこない」と思っていた。
「一人で食事もできないし、髪もとかせない、自分の足で立つこともできや
しない。もうじき死ぬんだ。人のために何かするなんて。 私こそ何かを与えて
くれる人を必要としているのに」
1980年9月から1981年6月にかけて、症状は急速に悪化し、とうと
う最後にはアプ二ア(夜間呼吸停止、30秒から45秒間呼吸ができない状態)
を起こし、毎日の生活のありとあらゆる活動で助けが必要になり、ものを飲み
こむのも、話すのも困難になるところまでいってしまった。自分の病気を、人
生、愛、人間関係、神などについて深く考えるためのきっかけにしようと思っ
たのはそのころだった。
徹頭徹尾正直になると、私の肉体状態にも意味があることがわかってきた。
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▽自分の体がもっと小さければいいと思っていたーー文字どおりやせ衰えつ
つあった。
▽どんな犠牲を払ってでも仕事をやめたかったーー物理的に働けなくなった。
▽私を愛し、世話してくれる人がほしかったーー昼夜を問わずだれかがいつ
も私を「世話」している。
▽注目の的になり、最終的には「みんなの仲間入り」して、人気者になりた
かったー自分の死の過程について講演したり、書いたりすることを頼まれ
るようになった。人から必要とされるようになった。
これだけはっきりすると、疑問がわいてきた。どうしたら、実現しなかった
考えや信念を変えられるだろう? あるがままの自分を、愛に満ちた平安な気持
ちで受け入れることができるだろうか? 本当に正直であるということはどう
いうことだろう? 自分に対し、家族に対し、友人に対し、また社会に対して、
それだけ正直になれるだろうか? 私は死ぬ前にこれらの疑問に答えたいと思
った。
そこで私は自分が信じてきたものーー科学、宗教、物質、職業上の信念、を
もう一度よく考え、どれが実現しなかったか、また、もしこれからそのために
生きるとしたら、どれが価値があるかをはっきり見極めようと思った。この正
直の鏡に映ったものをまともに見るのは、そう簡単なことではなかった。それ
でも自分の人生の真実を正面から見据えるのを避けたいと思う気持ちより、答
えを見出したいという決意のほうが強かった。こうやって反省したとき、私の
心には罪の意識も悔しさもなく、むしろ心が高揚してくるのを感じた。自分の
態度や信念や考え方を変える、いや変貌させるチャンスだと思ったからだ。
それからの数ヵ月間、劇的な変化がたくさん起こった。私は生活を営むため
の一連の新しい原理を選んだ。それは死を強めるのではなく、生を高揚させて
ゆく原理で、次に列挙したような姿勢の変化に要約される。
(1)人から賞賛されたいがために善行を行なう姿勢から、真の奉仕の術を学ぶ
姿勢へと変化。
(2)人生から何かを求める姿勢から、人生に何かを与える姿勢に。
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(3)死にむけて準備するのをやめて、一瞬一瞬を生きる姿勢に。
(4)恨み(とくに両親に対する)から許し(自分自身と他者を許すこと)へ。
(5)自己嫌悪から無条件の自己愛へ。
(6)生から逃れたいと思わずに、生をあるがままの姿で受け入れる姿勢に。
(7)苦しみを伴う感情を拒絶する姿勢から、そうした感情を解放し、分かち合
う姿勢に。
(8)親しい関係を避けずに、自分を愛にゆだねる姿勢に。
このとき、それまで喜んで死ぬ気でいた私の気持ちは逆転して、生きようと
いう気持ちがわいてきた。こうした変化が一つ二つと実現してゆくにつれ、こ
う思うといっていたことが実際に行動に表われるようになるにつれ、私の生活
は見違えるようによくなってきた。
こうした内面の変化の副産物として、体にも変化が出できた。ALSの症状
が弱まり、とうとう後退までしはじめた。
次第に力が戻ってきて、今では正常に歩き(子供のときにボリオにかかった
ので歩行支持器を使用しなければならないが)、話し、呼吸している。私のこ
の話の重要な点は、ALSの症状が消えたということではない。そうではなく
て、肉体の状態とは関係のない人生の質というものを、私が発見したというこ
となのだ。私は、無条件に自分を愛し、他人を愛せることを発見した。このま
まの自分でも「与え」、奉仕することができるし、奉仕には形式はないし、一
瞬一瞬をフルに生きることができるし、「もし10分後に死ぬとしたら、変え
なければならないことがあるか、やらなければならないこと、いわなければな
らないことがあるか?」という問いに、大きな声で「ノー」と答えられる、と
いうことを私は発見したのだ。
それまで私はただ死を待つだけの、車椅子に座ったゼリーみたいなものだっ
た。だが、この発見をしたときーまさしくそのときに私の人生の質がまったく
変貌したのだ。時間がどれだけ残っているかが重要なのではない。重要なのは、
その時間を私がどう生きるか、ということなのだ。
25
二つの世界
トルーディ・メンネン
(タイ・バンコク)
はじめてALSだといわれたとき、本当とは思えませんでした。私は一人で
いるのが好きな人間でしたが、これを契機に、なぜかがらりと変わりました。
この病気についてあらゆることを知るために、だれとでも話し、何でも読みた
いと思ったのです。それがとてもうれしい結果を生み、すでにつきあいの長い
友だちとの関係も、私の問題を一緒に考えることを通して、よりいっそう親密
になりました。多くの人が力になろうと駆けつけてくれて、新しい友人ができ
ました。なかにはまったく予期しなかった人まで含まれています。
今までも、断固たる信念をもった人間だったといいたいけれど、そうではあ
りませんでした。でも今は以前よりものがわかるようになり、ものごとの価値
について、本当に大切なのは何かということについて、前よりずっと現実を踏
まえて考えられるようになったと思います。
アメリカのALS協会と連絡を取ってから、看護婦をしている友人と私は、
この地域のALS患者を訪問しはじめました。また、私は全米ALS協会との
間の文通プログラムの責任者になり、何度かこの地域のテレビ、ラジオ番組に
も出席し、ALSについての記事も書きました。正看護婦の友人と、医者であ
る夫と私の三人は、患者、看護婦、医者、ALS患者を妻に持った者として、
それぞれの立場から看護実習生に話をしました。
今までは、人前で話をするのをいつも避けてきた私ですが、ご覧のとおり、
今では一人でも多くの人にALSについて知らせる機会、病気に打ち勝つため
に今何ができるか話して聞かせる機会があると、「いたずら電話みたいな声」
(と自分でいっているのですが)で「ハイ」といってでかけてゆきます。
障害のない体で生きる世界と、身障者として生きる世界の二つの世界を体験
26
した私は、身障者が何を必要としているかをたくさんの人に知らせる義務があ
るような気がします。私はロサンゼルス市の「障害者が利用しにくい建物委員
会」のメンバーになっています。家族と友人たちは、身障者のための駐車場と
か入り口などについて、以前よりずっと意識し、注意して考えるようになりま
した。
もちろん、どうすることもできない、つらいときもあります。けれど、一番
つらい時期というのは、私でなく家族が体験してきたのかもしれません。ある
意味では、はたで見ているほうがつらいものです。これからの生活について話
し合い、できるかぎりの点で決着をつけました。ALSを宣告されてからの最
初のショックの時期を過ぎると、私たちは前よりいっそう充実した生活を送り、
毎日を、こうならなかった場合よりもう少し楽しく過ごしています。
夫は昨年定年で引退しましたが、あるバンコクの病院の麻酔部門を充実させ
るために、ボランティアの形で麻酔学を教えはじめました。私の事務能力をこ
こで生かせるというのは、本当にうれしいことです。ALSのために、話すこ
とも、飲みこむことも、歩くこともまともにできない私ですが、まだいくらか
貢献もできますし、楽しく働くこともできるのです。
不治の病にかかった者としての思いをこんなふうに書きとめました。これは
今でもすべてそのまま私の気持ちです。
あの瞬間を思い出す
あのときの感情や思いがまざまざとよみがえる
信じられない(もっとよい言葉が見つからない)。一人になりたかった
一人になると、今告げられたこと、暗に告げられたことが
耳の中で何度も何度も何度も響いた
すべては同じーーそれなのに、この私はもはや過去の私ではない
どうやっても、けっしてもとの私には戻れない
私とかかわった人たちも変わったーー少しの間だけ変わった人
しばらく続いた人、そしてこれからも一生変ったままの人
新しい扉が開き、そこに未知の世界がある
27
怖くはない、けれど大きな戸惑いを隠せない
ときどき、先を急ぎたい気持ちが起こる
この底なしの不安
でも一方では、新たな自覚、新たな洞察、より深い感情も体験した
この道をみずから選ぶなどということはない
けれど、この道には数々の報いがある
暗い考えが忍びこんできたら
シャーリーン・モリソン
(アメリカ・インディアナ)
ある意味では、私はALSを受け入れたといってもいいでしょう。といって
も、完全に受け入れているわけではありません。激しい怒りを覚え、どうにも
やり場のない気持ちになって泣くときもあります。だれでもたまには泣きたい
だけ泣きたいものです。でも、たたじっと待っているのは嫌です。ALSを抑
制したり、治療したりする方法が見つかるかもしれません。そのとき死んでい
たのでは元も子もありませんので、少しばかり虚勢を張って、一日でも長く生
きのびようと努力しているわけです。
ALS患者は心を健康に保つ力を持っています。自分の考えを調整できるの
です。暗い考えが忍びこんできたら、こっちが主導権を握って、追い払ってや
るのです。頭の中を前向きの考えで一杯にすれば、自分の過去、現在、未来を
コントロールすることができます。過去に成しとげたこと、楽しかったことを
思い出してください。現在体験する幸せな瞬間をじっくり味わい、長引かせて
ください。これからも楽しいときがあるだろうと考えてください。夢を一つ一
つ実現し、たった一度の自分の人生を最大限に生きるためには、努力が必要な
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のです。
「カップに半分しか入っていない」ではなく、「まだ半分も入っている」と
考えること。くれぐれもこれを忘れないてください。
死を友として
ラス・ミラー
(アメリカ・カリフォルニア)
ALSと宣告される前から、私はすでにジョギングをしたり、ギターを弾い
たりすることはあきらめていた。何をするにもたいへんな努力が必要な今では、
そんなことははるか遠い世界のことのように思える。
私がこの病気とどうたたかってきたかを書いてみたい。最初の重要な第一歩
は、癌センターにおける二カ月間の集中精神治療だった。おかげで、過去を嘆
いたり未来を恐れることなく、その日、その日を生きることに心を傾けられる
ようになった。ときには、失ったものを嘆き、やり場のない怒りを覚えたり、
これからどうなるのだろうと不安になることもある。でも、ひたすら、今日の
ことだけを考え、今このときを生きようと努めている。
自分の死、しかも差し迫った死に立ち向かうのは困難な課題だった。だが、
ある無味ですばらしい経験だったともいえる。数カ月前、私は死と親しくなろ
うと決心した。死のプロセス、それに対する自分の心の中を理解しようと努め
た。本を読み、友人と話すうちに気持ちが落ち着いてきて、それまで不安でた
まらなかった死が、恐ろしくなくなったとはいわないまでも、身近なものに感
じられるようになったのは確かである。
いつか、死を友と呼べる日がくるかもしれない。そのときがきたら、死は歓
迎すべき救い主となることだろう。気管切開や胃瘻造設術といった体を切り刻
29
む延命措置は受けたくないと、心に決めている。
私は自分の決心に満足し、家族や医者にも、そうとりはからってくれるよう
頼んである。
病気とのたたかいでもう一つ大事な点は、ALSの症状が出はじめた初期の
段階から、私たち夫婦は何一つ隠さず、共同経営者や顧客、友人、そして家族
とすべてを分かち合ってきたことだ。
おかげで、皆から受けきれないくらい多くの援助を受けた。車で送り迎えして
くれたり、爪を切ってくれたり、また、精神的な支えともなってくれた。私た
ち夫婦を愛し、気づかってくれるこんなにも多くの友人に恵まれた私は幸せ者
である。
友人の筆頭は何といっても妻である。つねに誠実で献身的、私を深く愛して
くれている。そのうえ、彼女は自分自身の問題ともたたかっている。夫が衰え
ていくのをじっと見ているつらさ、一人残される運命が近づいてくることへの
恐怖といった問題と、懸命にたたかっている。人生や生と死について、夫婦で
語り合うことができるのは幸せなことだと思う。
最近、私は大学の哲学のコースを取りはじめた。ちょっとした楽しみのつも
りだったのだが、予期せぬ効果があった。神、死後の世界、そして善と悪につ
いて、これまで以上に深く(そしてもちろん違う角度から)考えるようになった。
哲学などを勉強すると頭が混乱して、何を信じていいかわからなくなるのでは、
と心配してくれる人もいた。
確かに、私は動揺し、一時的な自己喪失に陥った。だが、それを突きぬける
と、自分が信じているものが(少なくとも現在は)何であるかがはっきりと見
えてきて、今はとても晴れやかな気分である。心のもやもやが薄れ、自分が強
くなったように感じている。
(3章「回復の見込みはなくとも」スタニー・D・ミラーの夫)
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手に手をとって
アンドリュー・ニューヴェーン
(オランダ・ザーンダム)
あなたはALSにかかっていて、これから全身が麻痺してきます。そう聞か
されたとき、私の世界はすべて崩れ去った。文字どおり泣き叫び、ののしった。
気持ちが落ち着くまでに、どんなに時間がかかったことか。
次に、とても苦しい時期がきた。それは私ばかりでなく妻や子供にとっても
苦しい時期だった。潜水の道具をはじめ、サーフボード、モービルハウス、自
動車などを売り払い、二カ月後には私は車椅子に納まっていた。家も車椅子で
自由に動き回れる家屋に移った。過労で妻のテッシーはついに倒れてしまった。
妻は家族や友人の助けもなく、なにもかも一人でやっていた。四六時中私のこ
とを考え、一時も休まず私の世話をしていた。電話をかけてくる人は、いつも
尋ねるのは私のことはかりで、彼女の具合については聞こうともしないが、ま
ちがっていると思う。友だちも訪ねてこなくなった。私たちにはなぜかわから
なかった。妻も私も、病気になる前と人が変わったわけでもないのだが・・。
多くの苦しみが重なるなかで、一つとても有利な点があった。私たち夫婦は
愛しあっていたので、心配事についていつでもなんでも話し合うことができた
のだった。
三年が経ち、ようやくALSと折り合って生きていくことを学んだ。朗らか
な家族になり、今はほぼ毎日を楽しんで生きている。当然ながら、すべてが真
っ暗に見える日もある。そういうときはじっくりと話し合い、一緒に泣くこと
もある。でも次の日には太陽はまた輝いているのだ。
人生を楽しむいろいろな可能性についても見えるようになってきた。今では
いくらか外部からの助けも借りながら、皆で過ごしている。とぎどき、電動車
椅子で町にでかけるが、後ろからテッシーと娘のアンジェラが自転車でついて
くる。テッシーはヨガのレッスンを受けているほか、コミュニティセンターで
31
障害者の人たちと働いている。
私はクラシック音楽のかなり立派なコレクションを持っており、これを聴く
のが何よりの楽しみである。また、失業者の手助けをするソーシャルワーカー
の仕事をしている。夏の間は博物館のガイドをしているし、障害者に関する記
事を新聞や雑誌のために書いたりもしている。この病気があるにもかかわらず、
私たちはとても忙しい生活を送っている。
全部をまとめると、こんな言葉になるだろうか。
手に手をとって
肩を貸しあい
ほんの少しの理解と
抱きしめあう腕
聞いてくれる耳
涙を拭ってくれる友だちのキス
これを経験できることこそ幸せ
これを与えることができるのも幸せ
そして心のゆたかさ
たたかう以外に道はない
マイラ・ローゼンフェルド
(カナダ・トロント)
ALSの患者でありながら、私が前向きの姿勢で生きていられるのはなぜか
と思うことがよくあります。その答えはただ一つ、ほかに道がないからです。
病気に面と向かわないかぎり、衰弱し、死ぬしかないのです。しかし同時に、
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私が長い間ALSとたたかい、生き延びてきたのは、必ずしもその積極的な姿
勢によるものだけではないことも付け加えておかねばなりません。どんなに調
子のよいときでも、体力は着実に衰えているからです。
ALSに対する私の気持ちは、年をとるとともに変ってきました。時間とい
うものには癒す力があります。闘病生活が長いので、私は他の多くの人よりは
ALSに適応し、それを受け入れる時間がありました。最初は、病気のために
自分の能力を生かせないことにいらだち、心もいじけていました。しかし今で
はALS協会のために私がしていることは、多くの人たちの仕事より、やりが
いがあると心から信じています。私を不治の病にかかっている患者としか見て
いない人からすれば、たわごとに聞こえるかもしれませんが、私は今、自分の
人生を完全にコントロールしていると確信しています。もちろん旅行できたら
とか、会議をうまく司会できたらなどといった悔いは残りますが。
私にとって大事なことも変わってきました。女性の権利に対する考え方など
は、病気にならなくとも変わっていたに違いないでしょう。年とともに見方が
変わってきたものもあります。自分の身なりや意見や行動に対して、他人がど
う思うかといったことは気にならなくなりました。また金儲けや出世に熱心な
人や、成功した人たちに興味を感じなくなりました。思いやりとか情けのほう
が、私にとっては大切なのです。
ALSにかかっている人たちも、いかにこの病気が知られていないかを嘆く
だけでなく、もっと人びとに知らせるように努力するべきだと思います。
他人のことを思いやることによって、自分自身の人生も有意義になるのです。
助けを受けるだけでなく、助けを与えることができる、そちらのほうがどんな
に心が満たされることでしょう。ときどき私は、飛行機事故の唯一の生存者で
あるような気になります。自分が生き延びたのは、何か特別な理由があるに違
いないと。でも普段は、一度しか生きられないのだから、その人生を無駄のな
いものにしなければと思っています。その一つの道が、ALSにかかっている
他の人たちを助けることなのです。
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モールス信号で話す
ロバート・モンゴメリー
(アメリカ・ペンシルバニア)
私は四肢麻痺患者で話すこともできません。アマチュア無線とハンディハ
ム・システムのおかげで、息を吸ったり吐いたりして信号を送ることで、再び
外の世界と意志を伝えあうことができるようになりました。自由な時間の大半
は、交信しているか、ハムで話しています。今の一般から上級クラスに、でき
れば特別クラスに上がれるように勉強もしています。
現在までモールス信号で、全米50州、ソ連、南アフリカ、日本、オース
トラリアなど87カ国のアマチュア無線家と交信しました。無線活動によって
8カ国から賞もいただいています。体にハンディがあるということで、アマチ
ュア無線からは何も特別な扱いは受けていません。
天国を描く
渡辺照子
(日本・東京)
私はALSにかかっています。歩くにも足を動かすことができません。ベッ
ドから出ることもできません。でも、あきらめるつもりはありません。この病
気にかかっているのは私一人ではなく、ほかにもたくさんいらっしゃいます。
みんな一緒になって、このたたかいに勝利しましょう。
ある日、絵の先生が病院へやってきて、みんなに絵を教えてくれるようにな
りました。私はすぐに覚え、楽しむようになりました。コンテストに出品する
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ほどに夢中になり、そして、何と入選したのです。あまりに幸福で、信じられ
ないくらいでした。機会さえあれば、ほかのみなさんも絵を習えると想います。
ときどき、手が動かせないときもあります。痛みが激しく、死にそうな気分
のときもあります。でも、そんなふうに感じるとき、絵の先生は、天国を描き
なさいといいます。
絵の先生は、私に幸せと生きる希望を与えてくれます。絵が、生きる力を与
えてくれるのです。
かゆいだけでもたいへん
E・M・S
(アメリカ・ミシガン)
自分の考えていることを自分で書けたらどんなにうれしいでしょう。でも、
ALSという病気のためにそれはできません。そこで、友だちの手を借りて、
今の気持ちを一部なりとも伝えたいと思います。
ぜひほかの人に知っていただきたいと思うのは、ALS患者は運動神経が冒
されていても、感覚神経は正常だということです。体の位置の調整一つで、心
休まることもあれば不快になることもあります。自分で体をかくことのできな
いALS患者にとっては、ちょっと体がかゆいだけでもたいへんなことなので
す。そういうことを人にわかってもらうのに非常に苦労します。
患者と患者を支える人びとの双方が、忍耐強くなることが大切です。優れた
芸術作品を作りあげるように忍耐を練りあげるのです。私はいつも、自分はき
わめて我慢強い人間だと考え、忍耐の学位をもらってもいいと自賛してきまし
た。ところが、それまでは考えたこともないような忍耐の、さらに上をいく強
い忍耐を鍛えなければなりませんでした。医師は患者に、もっとこの病気につ
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いて、その進行具合について説明すべきだと思います。そうすれば、患者は先
のことを考え、必要な助けや設備を得る見通しをつけられるからです。
また、人に見舞いにきてもらうようにすることも大切だと思います。だれか
と話をすることは、病院のべ ッドの上で白い天井をじっと見つめている退屈さ
を紛らわせてくれます。テレビも退屈しのぎにはなりますが、なんといっても
人間との触れ合いにはかないません。
私はあきらめない
リチャード・コーガン
(アメリカ・メリーランド)
ALS患者になってから、13年になります。ALSの診断を受けたとき、
子供たちはまだ2歳3歳でした。妻と子供たちがいますが、家庭生活にはさま
ざまな調整が必要でした。というのは、この4年半の間、私は自宅から90マ
イル(145キロ)離れたナーシングホーム(施設療養所)に入っているので
す。私は首から下に完全に麻痺していて、電動の車椅子と声が出せるレスピレ
ーター(人工呼吸器)を使っています。
家族は頻繁に訪ねてきてくれて、一緒に食事や映画にいきます。患者だけに
注意が向けられ、家族がないがしろにされることがありますが、家族をもっと
重視するべきだと思います。私の家族は、精一杯尽くしてくれます。母は仕事
をやめ、毎朝手伝いにきてくれますし、妻は働き、子供たちは学校から帰ると
家の手伝いをしています。
私は、あきらめていません。まだ、何かの役に立ちたいと思っています。同
室の男性は、私よりは手足の自由がきくのですが、すでに望みを捨てています。
患者自身があきらめてしまったら、家族もあきらめてしまいます。そんな例に、
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今まで何度か出会ったことがあります。私も入所後、1ヶ月ほどふさぎこんで
いましたが、その後、こんなことでくじけてはならないと決心したのです。
私は、自分の意見をはっきりいえる自立した人間でありたい、と努力してい
ます。自分を障害者だとは、思っていません。ただじっと見つめるだけで、理
解しようとしない人たちが一番嫌です。まるで耳が聞こえない人か、幼児でも
相手にしているかのように扱うからです。そういう人たちには、私はただ筋肉
を自由に動かせないだけで普通の人間だ、ということをわかってもらうよう努
めています。医師の中にも、彼らと同じような態度を示す人もいます。私は、
自分が望むように、相手にも接するように心がけています。
これから先も、一日一日を頑張りぬいていさきます。これまでは、楽しい人
生でした。部屋のベッドの上に、生きていくための祈りの言葉が掲げてありま
す。
「神様、どうか今日一日、あなたと私の手におえないようなことが起こらな
いよう、心にかけていてください」
患者の家族のことも
ジョージア・キンドール
(アメリカ・アリゾナ)
私がALSだとわかるとアメリカ中からカードや花、贈り物、親切なメッセ
ージが洪水のように届きました。夫がかつてメジャー・リーグにおり、またア
リゾナ大学でも12年間野球コーチを務めていたため、たくさんの電話が直接、
彼にかかってきました。ところが、タフな運動選手としてのイメージや強さが
災いしたのか、だれも彼のほうに慰めの必要かあるとは思わなかったのです。
注目が私にばかり集中するので、私は夫の気持ちが心配でした。
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ある日、大学時代の親しい友人が二人、私にではなく、彼に会うためにアリ
ゾナまで飛行機でやってきてくれました。週末を思いっきり一緒に笑い、泣き、
思い出話に花を咲かせながら過ごしたのです。忙しい男が二人、私たちが必要
としているものに気がついて、それを実行に移してくれた悪いやりと愛情を、
私はけっして忘れません。
ALSに関していいたいことはたくさんありますが、一つだけアドバイスを
させてください。ALS患者の夫や妻や家族のことを忘れないでください。彼
らの生活も劇的に変わってしまうのですから!
大丈夫、生きていけます
亀 山 晴 美
(日本・岡山)
32歳になる主婦です。私たち夫婦と子供は、この四年間、さまざまなこと
を体験してきました。
ALSだということをはじめて知ったとき、私は妊娠二ヶ月でした。怒りを
恥辱を覚え、死にたいと思いました。好きだったスポーツ(陸上、テニス、自
転車、ジョギング)をはじめ、その他多くのことができなくなりました。不安
で不安でたまらなく、私を理解できない周囲の人と衝突するようになりました。
でも夫がすばらしい人で、私のためにいろいろしてくれました。気が滅入る
と夫を見て、「大丈夫、生きていかれる。ちゃんとやっていかれるんだ」と自
分にいいきかせてきました。生きたいのです。
今では車椅子の生活で、手も動かせないし、話をするのも一苦労です。こん
な苦しみのなかでも、私は毎日生きるたたかいを続けています。決してあきら
めません。
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一日一日を生きる
キャスリン・レナード
(アメリカ・アラバマ)
今日も起きあがることができたことに感謝しつつ、一日一日を生きています。
「だれでも重荷を背負うことができる。どんなにつらくても一日は、だれでも
自分の仕事をすることができる。どんなにつらくても一日は、だれでも、やさ
しく、忍耐強く、誠実に、清らかに生きることができる、太陽が沈むまでは、
そしてそれこそ人生にとって重要なことなのだ」
(ロバート・ルイス・スティーヴンソン)
神よ、心の平静を与えたまえ
ウナ・ヒンショー・ホルダー
(アメリカ・ノースカロライナ)
私の人生は順調、平穏、幸福でした。五六歳を迎えて、もう大きな危機は訪
れまいと思っていました。何とまちがっていたことでしょう!
ALSの診断を受けて四年経ちます。病気のために、それまで想像もできな
かったくらい自分の生活を変えざるをえませんでした。
ALSとわかったときには、すでに自力で立ったり歩いたりすることはでき
なくなっていました。そのとき私はすぐ計画を立てました。銀行の貯金係とし
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ての仕事を続けることが不可能なのは、疑いようもありませんでした。これは
その後も受け入れざるをえなかった現実のうち、もっともつらいことの一つで
した。
私は息子家族が住んでいる故郷の町に戻ることにしました。そこなら身障者
向けに特別に設計されたアパートを借りることができ、私がかねてから重要だ
と思っていた、自立した生活を送れるからです。
その後、病気は進行していません。家の中と、アパートの同じ階なら歩行補
助器で十分です。外出するときは車椅子を使います。
ALSにより体が不自由になったときに、次のことがもっとも役に立ちまし
た。同じ境遇の人にも参考になるかもしれないので記しておきます。
<喜びと満足感をもたらすもの>
▽ 会いにいけない友だちとの文通
▽ 暇つぶしと精神的な刺激のための読書
▽ 創る楽しみと人にあげるための手芸
▽ 外食と買い物(車椅子は折りたためば簡単に自動車に入ります)
▽ 孫のお相手
<建設的なことをする>
▽多くの機関には電話をかける仕事があり、これなら、自宅でできます。
私は日曜学校と教会運営委員会と教会会計委員会から電話連絡の仕事を
引き受けています。
<体力作り>
▽まだ健全な筋肉を強化する体操を理学療法士から教わりました。毎日、
この体操を欠かさずやっています。効果があると強く信じているからで
す。
<よい「先生」にかかる>
▽「よい」先生とは、気を許せる先生です。三人の神経内科医に診てもら
った結果、一番気にいった一人を選びました。彼は私の話によく耳をか
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たむけ、質問にも全部答えてくれます(行くたびに質問はいくつか用意
していきます)。 この先生は、診療をなるべく早く切りあげようとはし
ません。現在、当初ひどかった足の硬直と筋肉の痙攣を抑える薬をいた
だいています。
<悲観的にならない>
▽私はその日その日を生きています。明日のことを心配して今日を台なし
にすることはないと思うのです。
▽ユーモアのセンスを失わないようにしています。人生は見方によってず
いぶん違うと固く信じているからです。
<友だちがいること>
▽友だちの支えほど重要なことはありません。よその町に住んでいたころ
からの友だちとも今でも連絡を取り合っていますし、故郷へ戻ってから
は幼なじみや級友と再会し親交を深めました。
<祈る>
▽私のために多くの人が祈ってくださいました。病気がもっと進行してい
ないのはそのおかげだと信じています。なかでも気に入っているのは次
の祈りです。
神様、自分では変えられないことを受け入れる心の静かさをください。
変えられることを変える勇気をください。
そして、この二つを見分けることのできる知恵をお与えください。
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発病して十六年
川 口 武 久
(日本・松山)
発病してから16年が過ぎ去った。思えば長くもあり、短くもあった。だが
よく耐えに耐え、忍びに忍び、我慢をする力を与えられたものである。われな
がら一人感心している。おそらく健康なときの精神力では、この試練は絶対に
乗り越えることはできなかったであろう。そういう意味では、弱さの中に強さ
を宿らせてくれた神に感謝せねばならない。
世は高齢化社会を迎えようとしている。それに対しての対策、対応が真剣に
検討され、大きな関心を集めているが、ALSも時代とともに変化してきた。
社会から置き去りにされ、底辺でうめいていた難病中の難病が,ようやく見直
されようとしている。同時に医学の進歩は、呼吸器の装着を容易にし、経営栄
養を普及し、もうALSでは亡くならないとさえいう人もいる。おかげで寿命
は10年、20年はおろか、その病状が停止して社会で活躍されている人さえ
現われている。これは何にも勝る励みであろう。しかしこうした現実を喜ぶべ
きではあっても、まだまだ過酷な闘病生活には変わりはない。
ではこの延ばされた命をどのように生かし、用いればよいのだろうか。相変
わらず寝たきりで過ごさなければならないのだろうか。少しでも生活空間を広
げ、生活意識を高めるのは贅沢な望みなのだろうか。
私は後者を選びたいのだが、それには本人の自覚と勇気、それに目的が伴う。
「何だ、それだけのことか」と思われるだろうが、これが全身に麻痺が及んで
いる者には、なかなかむずかしい決意なのだ。だが、このことで挫折していた
のでは、周囲の人は手を差しのべ、動いてはくれない。私たちの意識は最後ま
でしっかりしているとされている。この頼みの綱を最大限に生かすこと。それ
が残された私たちの唯一の特権であり、義務ではなかろうか。
今はコミミュケーションの機器がぞくぞく開発され、意思表示も的確にでき
るようになった。今まで沈黙していた同病者の声なき声が、家族に、医療側に
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伝達される。また手紙となり、本となり、社会に存在をアピールする。ボータ
ブルの呼吸器は外出の機会を作り、外部との交わりが人びとの理解を生む。そ
れに伴って痛みを分かち合い、ともに考え、担いあってくれる輪が広がる。こ
うしていまや国や地方自治体を動かしはじめた。
われわれのこの窮状を救う動きは、われわれの小さな意志力から始まる。そ
れが、やがて大きなパワーになって社会を動かす。これは人間としての尊厳の
回復なのだ。この成果を夢見つつ、これからも機運に便乗して、おおいに頭を
動かせ、自己主張をしていきたいと思う。それがわれわれの人権を保ち、人格
を高めていく最善の手段でもあるのだから。
不死鳥のように立ち上がった私
ベティ・J・ファーガスン
(アメリカ・アイオワ)
「お知らせしたくはないのですが・・・・。あまりうれしい話ではありませ
んからね」
神経内科医はそういうと、足早に検査室を出て、廊下へと姿を消した。この
ときはじめて、私はALSを知ったのだった。知らぬ間に、私の体と生活に深
く入りこんでいたえたいの知れない侵入者。過去六年間、この邪魔者のおかげ
で私は、多くのものを失ってきた。だが逆に一つ一つ失うたびに、私自身や神、
そして周囲の人びとをかってないほど深く信じるようになった。
当初は自分の精神力に頼り、神の導きを信じて、病状を無視してALSのこ
となど聞いたこともないかのように生活しようと心を決めた。まず、私たちは、
はじめての家を買った。それから、息子のジョーンを生んだ。とてもうれしか
った。
44
そのときすでに、最初の症状がでてから1年半が経過していて、それ以上、
病気を否定しつづけるわけにはいかなくなっていた。両手の力が抜け、歩けば
足がもつれ、話せば言葉がつかえるといった状態だった。絶望的な気持ちで、
私は必死で神にかけあった。大切な教師の職を失い、息子の世話をするための
体力も、次第に衰えていった。
しばらく自己憐憫にひたったあと、ALSと対決する現実的な方法を探しは
じめた。そして、この病気の進行経過や、効果的な対処法について、徹底的に
学ぶ決心をした。
でも、図書館や書店には、ALSをごく控えめに扱っている医学書がほんの
二、三冊あっただけだった。住んでいた町には、ALSの支援グループもなか
った。
それからまもなく、夫と私は、17歳になるアルコールと麻薬依存症の私の
姪の後見人になった。その依存症がALSとあまりにも似ていることを知って、
私は愕然とした。
姪の治療カウンセラーによると、依存症その他の厄介な問題を抱えて生きる
ためには、次のような最良の「手段」があるということだった。
一日一日を生きていくことを学ぶ。これまでとは違う、他の重要なものに精
力をかたむける。変えられないことは思いきる。完壁な人生などないことを認
識する。自分の抱える諸問題のすべての側面を理解する。神などの崇高な力を
信じる。
私は、必死でこれらの手段やその他の対処法を、自分の生き方に応用した。
そうすると、次第に元気が出てきた。そして、神にかけあって奇跡的な回復を
期待するかわりに、どんなことがあろうとも積極的に立ち向かう勇気と力を求
めて祈るようになったのだった。
私は、今までのキャリアを「思いきり」、専業主婦という新たな重要な仕事
についた。そして娘のアンを生んだ。
そのころになると、私自身や家族のために、あきらかに助けが必要な状態に
なっていた。両手はほとんど使いものにならず、一人で歩くのもやっとだった。
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すると、通っていた教会で、手伝いを雇うための資金集めをしてくれた。生徒
や友人たちは、子守や庭仕事、その他の家事を無償で助けてくれた。両親は、
必要に応じて長時間子供の世話をしたり、肉や自家製の缶詰めや野菜を分けて
くれたりした。仕事に不慣れな人たちがいたために、問題が生じたこともあっ
たが、自宅で専任の母、妻、まとめ役、そして何よりも家族の一員として生活
できたのは、とても幸せなことだった。
ところが、やっと手にした平穏な生活のただなかで、また新たな陰険きわま
りない怪物が知らぬ間に忍びこみ、大切なすべてのもの・・・結婚生活、子供
たちとの親密な関係、それに家庭生活全般・・・を着々と破壊しはじめたのだ
った。私の精神も、メチャメチャになりそうだった。怒りという怪物だった。
それはまず、デニスを襲った。私は、カウンセリングを受けるように強く勧め
たのだが、彼は二年以上も拒みつづけた。そうしているうちに子供たちも怒り
にとりつかれ、悪い子になり、それに対して私は、厳しく叱ったり、問いつめ
たりした。
そしてついに、わが家の家庭生活は、力の争いを繰り返すほどみじめなもの
になり、コミュニケーションの道がほとんど絶たれてしまった。とうとうデニ
スは、カウンセラーに会いにでかけた。すると恐ろしいことに、カウンセラー
は、そろそろ私をナーシングホーム(施設療養所)に入所させたほうがよい「時
期」なのではないかといったのだった。
何の予告もなく、デニスは私を車に乗せると110キロも離れた私の故郷に
あるナーシングホームに連れていった。夫のしたことに私はショックを受け、
見捨てられたと感じ、憤り、自暴自棄になった。あれだけ苦労して新たに築き
あげた生活が、力ずくで奪いとられてしまったのだ。
老人向けの介護施設にひとり取り残された私は、挫折感に打ちひしがれた。
一面識もなくALSの知識もない何十人もの人たちが、急きょ、私の身の回り
の世話をすることになった。もはや肉体的にも、感情の面でも、そして社会的
側面でも、プライバシーはなくなった。私の不明瞭な発音で意思を伝えること
は困難だった。割り当てられた時間内に食事を終えることもできなかった。病
46
人や死に瀕した人たちのうめき声や、ベッド巡回のまぶしいライト、そして不
安感のために、眠れない夜が続いた。私は、状況を変えることに望みを失って
いた。そして、生きる意欲までもなくしてしまうことや精神的苦悩が原因で、
二年以上も比較的安定した状態が続いていたALSが急速に進行することを恐
れた。涙にくれながらも、ひたすら神を信頼し、勇気と力を求めて祈りつづけ
た。
ただ一心に神の助けを信じているうちに、周囲の人びとの優しい心づかいの
おかげで、私のうちに新たな力がわいてきた。なかでも、ALSに詳しく、人
間の苦悩や結婚のカウンセラーとして経験豊かな、一人のすぐれた牧師に、と
りわけ深い感謝の念を覚えるようになった。彼は、人間関係や家庭生活を失っ
た悲しみや、怒りの感情を乗り越えようとする私の助けとなってくれた。
そして、日々の生活の中に新たな意味を見出す力となり、家族との関係を積極
的に築き直すための、適切な助言を与えつづけてくれた。また、ボランティア
の給食プログラムは、食べ物を食べさせてくれただけでなく、数多くの新たな
友人を得、近くに住む親戚との絆を強める絶好のチャンスを与えてくれた。や
がて私は、ついにナーシングホームの職員に理解され、受け入れられたことを
知って、ほっと安心したのだった。
こうして再び、私は不死鳥のごとく立ち上がり、新たな重要なものを大切に
しながら現在を精一杯生きるようになった。
今は、あるジャーナリストの助けを得て、ALS体験を本にまとめていると
ころである。この本が、多くのものを失って悲嘆にくれている同じような境遇
にある人びとにとって、それぞれが抱える問題の積極的な解決法を見つけ、実
際的な希望を持って現在を精一杯生きる一助となることを願っている。ライタ
ーとしての腕に磨きがかかるにつれて、障害や慢性の病気に苦しむ人びとのた
めの組織や雑誌のためにも書きたいと思うようになった。
深い悲しみにいたる過程を少しずつ学んでいる今、私が家を離れた後の子供
たちの怒りや、見捨てられた気持ちや淋しさに対して、以前よりうまく対処で
きるようになった。限られた面会の機会に、子供たちの一生の思い出となるよ
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うな楽しい経験をともにしようと精一杯努めている。一人の人間としての私や、
家族としてともに暮らした生活を覚えていてもらうために、スクラップブック
や育児日記を取り入れたアルバムの製作にもとりかかっている。
夫との関係では、苦しみのなかで必死にたたかっている彼を理解し、受け入
れ、心の支えになろうと努力している。最近、11歳の甥に読み書きを教える
ようになって、教える喜びを再び味わっている。さらに、今では近くに住む親
戚や新しい友人たちを訪ねて談笑することも、このうえない楽しみとなってい
る。この小さい町を自由に「散歩」できるように、春までに旧式の電動車椅子
を改造してもらいたいと思っている。
私は自分の過去を、教員として、また専業主婦として、まったく別の充実し
た二つの人生を生きる、またとない機会だったのではないかと考えている。い
ずれも短い経験であり苦労もあったが、数々の楽しい思い出や貴重な教訓が私
の中に財産として残っている。その経験は、ライターとしての新たな人生にお
いてもいまだに役立っている。
将来のことは、あまり思い悩まないことにしている。現在の生活を台なしに
するだけだからだ。もうジョーンとアンの育児からは離れているので、彼らが
自分の問題を自分で積極的に解決していく勇気と力を、神が与えてくださるこ
とを信じている。これまで、私が求めさえすれば、必ず授けてくださったよう
に。そして、デニスにも同じようにしてくださることを信じている。
この信念は、いつかまた私たちが家族として固く結ばれ、同じ屋根の下でな
ごやかに暮らせる日がきっとくるという希望を、私に与えてくれる。これから
先、どんなことがあろうとも、必ず私自身、神そして周囲の人びとが、けっし
て屈することなく、励まし勇気づけてくれることを確信している。
48
ALSを持つ働く母として
ドロン・メーソン
(アメリカ・イリノイ)
この間まで、私は生まれたばかりの赤ん坊と、いっぺんに三つのことをや
りたがる幼稚園児のいる働く母親だった。そして今は、やはり働く母親だが、
幼稚園児と、私のすることをじっと見守る小学二年生の子供がいる。そしてそ
の間に、私はALSと診断された。人生の中の優先順位が変ったとはいえない
が、日々の中での優先順位は確かに入れかわった。
もちろん、しなければならない日課はある。だが、私にとってより重要にな
ったのは、夫や子供たちと一緒に楽しく過ごす時間である。私の子供ぐらいの
年齢だと、それがむずかしいときもある。いたずら盛りなので、何でもダメダ
メといいがちになるが、そんなふうになりたくない。ふたりが一生持ちつづけ
る思い出になるかもしれないのだから。今は時間をかけて子供たちのいうこと
を聞いてやり、よく考え、自分を信じるように励ましてやらなくてはならない
と思っている。
子供たちには負担をかけまいと決心している。子供には子供としての、自由
があるべきだと思う。
大人のいうことをきき、年相応の家庭の用事をすべきではあるが、掃除や料理
をしたり、私の世話をすることまで期待してはいけない。とはいえ、時間が経
つにつれ、そうもいかなくなることだろう。 成長するにつれ、自分の行動や、
やりたいことについても決断しなければならなくなる。
その際、私の障害が決断を左右してはならない。子供たちの人生をできるかぎ
り普通の人たちと変わらないものにしようと心に決めている。
いらいらする気持ちや障害の進行に対しては、二つの方法で乗り越えようと
している。一つは、主がいかなるときにも助けてくださると固く信じているこ
とである。 強さと忍耐力をお与えください、とよく主にお願いする。だれかが
私の病気から、また病気と向き合う姿勢から、何かを学ぶのではないかと信じ
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ている。そのだれかとは、私自身力もしれないし、別の人かもしれない。そし
て、「原因不明、治療法も薬もない」という状態はけっして永遠には続かない
と、信仰を通して確信している。
第二に、私の周りには喜んで救いの手を差しのべ、希望を持って励ましてく
れる人びとがいる。職場でもみんなが理解してくれ、進んで手助けしてくれる。
ほとんどが、古くからの知り合いなので、私が独立心の強い人間なのを知って
いる。とぎどきだが、私は周りの人たちにそれとなく注意することがある。
「助けてくれる一番いい方法は、ぎこちなかったり時間がかかるかもしれな
いけど、私が自分でできるように仕向けてくれることなのよ」と。
私自身も周囲が私のことを心配してくれること、ときには助けてもらうのも
必要であることを忘れないようにしなくてはならない。気落ちしている日には、
周りの人が「頑強ってね」とほほえみながら励ましてくれる。
私は、いつだれに何が起こるかわからないという現実を、みんなに思い起こ
させる役をしているのだと思う。そして、人びとの私に対する態度を見ると、
病気の大部分が気持ちの持ち方で変わること、私が積極的でいられるのは彼ら
のおかげでもある、と思わずにはいられない。
忘れていた神様
松 嶋 禮 子
(日本・東京)
このたび、国際的な呼びかけに、生きている証にと思い応募しました。
私は1983年に発病し、2年後に病名を知りました。今は歩行不能、言語
障害が進みつつあり、左腕を吊ってワープロで打っております。病気になる前
は、夫には死別していましたが、職場に恵まれ、子供たちも独立し、私なりに
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幸福でした。
おのれの健康と才覚を頼って神の存在を忘れて生きてきた私が、病を通して
娘に導かれ、教会の門をたたいたのはイースターの日でした。子供のころ日曜
学校に行っていましたが、あの戦争で教会も閉鎖され、それっきり宗教とは無
縁になっていました。
「人はその強さを誇るとき神から遠ざかり、弱きを覚えるとき神に近づくもの
なり」というのは本当です。
川口武久さんが書いた『しんぼう』という本に出合い、深い感謝の念をもっ
てそれを読みました。神の恵みと憐れみから与えられた贈り物のように思われ
ました。一人ではない、過酷な病の中で生きている友がここにもいるのだ、と
感じました。今、その輪が広がり、国際的に連携しつつあることを心から喜ん
でおります。
関係される人びとに、医学に、神様の祝福かありますように。
将来の夢
ラリー・カールソン
(アメリカ・オハイオ)
私に、診断が下ったのは一九七八年のこと。はじめは信じられない気持ちで
した。左の親指と人差し指がほんの少し弱っていただけで、こんなものが命に
かかわるはずはなかったからです。
1980年10月。流動食用のチュー ブをつけました。その後、半年間は口
から少しは食べ物をとれましたが、1981年、昏睡状態から脱した後、レス
ピレーター(人工呼吸器)が取り付けられました。
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レスピレーターによって生きることを選ぶにあたって、患者である私と家族
は祈りに似た思いを持たずにはいられませんでした。レスピレーターはだれに
でも勧められるというものではなく、最終的判断は患者がすべきでしょう。私
は自分の決定に後悔はしていません。
しばらくの間、機械のためしゃべることができないのにイライラしました。
1983年4月、チヤック・スチュードベーカーが自分の開発した、眉毛の動
きで操作する伝達システムを持ってきてくれました。首から下が麻痺して以来、
チャックは私ばかりか私の周囲の人間にとって神の恵みのような人物でした。
そのとき以来、チャックと私、妻のドリスはそのシステムにじっくりと手を加
え、今ではALS患者の家庭に働きかけています。全米のALS患者たちに励
ましの手紙を書いているのです。
チャックは父親をALSで亡くしてから、自分の生活をALS患者とその家
族のために捧げています。私たちにはいつの日かALSトレーニングセンター
を作るという夢があります。そこではALS思考、家族、看護婦、そして医師
もやってきて患者が必要としているケアの方法を学ぶのです。患者のためには、
家庭の雰囲気が味わえる部屋も用意しようと思っています。麻痺はしていても、
呼吸器をつけてはいても、私はワクワクしながら将来に期待をかけています。
神の思し召しあらば、私たちの夢がかない、ALSの治療法が発見されますよ
うに。
私はみんなを元気づける
キャスリン・B・ディッキー
(カナダ・ノヴァスコシア)
52
病気になるまでは、靴下やセーターを編んだり、健康クラブの活動やピアノ
やブリッジを楽しんでいました。教師を9年半していました。家族や友人との
関係では、いつも力強い愛情を持って接してきたと思います。
ALSが進行して、ついに頭部が胸のほうに垂れ下がるようになり、まっす
ぐに体を起こしていられなくなりました。すると家族は、ベッドを居間に移し
て、通りをよく眺められるようにしてくれました。外を通る人はたいてい、手
を振るか、車の警笛を鳴らしていきます。
ALS患者にとって、楽しくのんびり過ごすことがとても重要になります。
私は、楽しい、笑わせてくれるテレビ番組を好んで見ます。「笑えば人は一緒
に笑ってくれるが、泣けば一人で泣くしかない」という古い諺は、かなり当た
っています。ALSが知能まで冒さない病気でよかったと思っています。
多くの人がこういいます。あなたを元気づけようと思ってきたんだが、かえ
ってあなたに元気づけられて出ていくような気がする、と。彼らは私に、愛と
支えと、生きつづける勇気を与えてくれます。
自分のことをお話ししたのは、同じような問題と苦闘しておられる方が多い
と知っているからです。神様は理解してくださいます。そしてきっといつか、
私たちに答えを与えてくださるでしょう。
ALSと生きる
ジョー・フレイ
(アメリカ・カンザス)
テレビでALSを特集した番組を見て、私は自分がこの先どうなるかをはじ
めて知った。怖くなった。しかし同時に、治療の可能性を追求しようという意
欲もわいてきたのだった。なにもできなくなるかもしれないという最悪の可能
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性を受け入れ、そのうえでALSによって死ぬのではなく、ALSとともに生き
ようと決心したのである。自分を哀れみ、病気を恨みつづけていたら「生ける
屍」になってしまう。少なくとも自分自身と自分の考えは自分でコントロール
できる。ALSで死ぬのは簡単だ。ALSとたたかいながらよい人生を送るほ
うが、むずかしいけれど重要なのである。
病気になってからライフスタイルが変わった。逆説的なことに、多くの面で
前より充実いている。工事請負の仕事や、家族、社会全般からのプレッシャー
も感じなくなった。前は、業績を積まなければ認めてもらえないと思っていた。
今はただ存在しているだけでも十分だと考えている。その意味で実存主義的に
なっている。正直いって、もし私が回復したら、かえってなかなか順応できな
いかもしれない。25歳のとき以来、思っていることをずけずけいえる意地悪
じいさんになるのが夢だったのだが、今、その夢に近づいている。
治療に当たっては、健康だったころと同じように接してほしいと思う。AL
Sによって私は多くのものを失ったが、そのほとんどは体に関することだ。愛
情や思いやりといった本当に大事なものは、今も私は表わせるし、聞く耳も持
っている。またそれらを与えることで、私も見返りを受けている。失ったもの
がいかに表面的なものであったかが、わかりはじめているところだ。
桜の花を眺めたい
匿
名
(日本・東京)
治る見込みのない原因不明の病気にかかった患者は、えてして自分を死刑囚
になぞらえる。そしてしばらくすると、生けるものすべてが死ぬ運命にあるの
だという結論にたどりつく。そのとき、患者は人間の寿命は限られていること
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に気づくのである。ほかの人びとはまるで人生は永遠であるかのようにふるま
っている。そうした意味では、患者のほうが健康な人よりほんの少し幸運なの
かもしれない。
ALSが進行するにつれて、自分にとって大事なことを他人に伝えたいとい
う欲求がますます強くなるものである。
私は関係者の方々に、強く要望したい。患者が不快感に悩まなくてすむよう
な医療施設と人員を与えていただきたい。海や山へ出かけるのはもう無理だと
しても、私は窓の外の空の色や雲の形を通して四季の訪れを知るはかない患者
である。ときには、桜の花も見たいし、満月や雪景色も見たい。自分の欲求を
表現できなくなり、あらゆる動作に介助が必要になったときでも、少なくとも
外に連れ出してほしい。青空を眺めたり、木陰でさわやかなそよ風に吹かれた
りするために・・・・。
私は自然が大好きで、自然の中にいると孤独を感じることはめったにない。
逆に、独りで部屋にいると、むしょうにだれかと話したくなり、だれかが訪ね
てきてくれるのを待ちこがれる。たとえ話すことができなくとも、人が話すこ
とに耳を傾け、知的な刺激を得たいのである。昔の話だけでなく世界の出来事
に触れていたいのである。
入浴や洗顔を介助してもらっているうちに、患者と介護者との間にいい関係
が生まれる。介護者がいるということは、患者が、精神的・肉体的にバランス
を保つのに役立つ。まったく動けない患者にとっては、だれかが話しかけてくれ、
手を握ってくれ、背中をさすってくれることは、たいへん重要なことなのであ
る。
同じような病気に悩む患者の方々と、お互いの気持ちを分かち合うために、
できるかぎり力を合わせていきたいと思っている。
(この手記は、一度は読むことも書くこともあきらめたALS患者によ
って書かれた。この男性は、胴体と首を支柱で支え、手首と指に副木を当
てて、電動タイプライターを打った)
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どうして私が
ロベルト・デフリースハウェル
(ベルギー・ブランケンベルヘ)
神経内科医から検査の結果を聞くときがやってきた。
「重い病気です……」と、医師が説明を始めるや、私は待ちきれずに聞いた。
「わかりました。その病気には名前力あるんですか」。医師はいった。
「もちろんあります。運動ニューロン疾患(ALS)というのです。治る見込
みも治療法もわかりません。あなたのかかりつけの医者に知らせておきましょ
う」
私はものもいえなかった。その瞬間、助けを求めるように妻に視線を向けた
が、妻も途方に暮れていた。何かいおうと口を開いたが、声にならなかった。
すっかり動転し、頭の中が混乱して、いろんな思いが浮かんでは消えていった。
目がくらくらして、正常に考えることができなかった。事態を飲みこみ、考え
をまとめ、全体を把握するには時間が必要だった。気がつくと、私たちは家に
向かっていた。医師はほかにも何かいったのかもしれないが、覚えていない。
まるで夢のようだった。
家に着いて、もう一度、医師にいわれたことを反復しようとしたが、妻も私
も話をすることができなかった。ふたりで、ただただ泣いた。その夜、私は眠
れないまま、悶々としていた。一つの疑問が頭から離れなかった。
「どうしで私が ?」
それからは熱に浮かされたような日々が続いた。ものすごい緊張状態にあり、
突然、やるべきことが次つぎに出てきた。病気の名前がわかったので、本や百
科事典を調べまくった。自分の身に降りかかったことについて、もっと知りた
かったのだ。本当になすすべがないのだろうか。親戚の人や友人たちと話すと
56
きも、いつも話題は私の病気のことばかりだった。
どうして突然こんな病気にかかったのだろう、と自問した。痙攣はあった。
それが病気の警告だったらしい。でも、それ以外に前兆はなかったのか。もし
かしたら、もっと早い時期に発病を食い止めることができたのかもしれないの
ではないか。
しばらく経つうちに、私は平静さを取り戻してきた。病気の全容を知ったわ
けではないが、前より物事をはっきり見られるようになっていた。しかし今度
は、「診断は本当に正しいのだろか」という疑問が頭をもたげてきた。私はあ
てどなく、さ迷った。そのころは、まだ車を運転することも、自転車に乗るこ
とも、それまでやっていたことはほとんど何でもできていた。
数カ月が過ぎた。日が短く、気温が低く、風の強い冬の季節が,神経にさわ
ったのだろうか、わからない。深い井戸の中にいるような気分だった。私は怒
りっぽくなった。とうとう、医師に、あなたは自分で自分を憂うつにさせてい
る点が大きいのです、といわれてしまった。
私と妻は暖かい場所へ旅行する計画を立てた。この旅は決まりきった日常生
活から引き離し、新しい環境へ導いてくれた。本当のところ、妻も私と同じく
らい私の病気のために苦しんでいたのだった。ほかの人びとと交わって休暇を
過ごすうちに、私たちはすっかり明るさを取り戻した。私は再び人間に返った
ような気がした。すぐに、多くの人と友だちになった。そのなかには、いずれ
も奥さんが体が悪くて車椅子の生活を送っているという二組の夫婦もいた。
ある日、車椅子を借りてみた。それは思いがけない体験だった! いろいろ
な場所へ出かけ、美しい景色を眺め、それまでは妻から話を聞くだけだった商
店街などにも行ってみた。それ以来、私はどこへ行くにも車椅子を借りて使う
ようになった。こうして、さほどのショックも受けずに車椅子の生活に切り換
えることができた。いつも住んでいた村でそれをやっていたら、もっとショッ
クが大きかったのかもしれない。
あまり病気のことばかり考えているのはよくないと思う。しかし、私にたた
かう力を与えているのは、まさにALSの何たるかを正確に知ることなのである。
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自分の病気についてすべてを知ることによって、それをオープンに話すという
自信がわいてくる。
いろいろなALS団体のバンフレットを読んで、治療方法を探すための研究
に多額の費用が使われ、さらに多くのプロジェクトが資金を待っていることを
知った。政府がこれらのプロジェクトに予算を与えることを強く要望したい。
そして、研究者は力を合わせ、意見や新しい事実の発見を交換して、一日も早
くこの問題を解決していただきたい。どうか、急いでいただきたい!
命の質を大切に
アイリーン・コール
(アメリカ・オンタリオ)
夫のアランと私が病室で静かに語らっていると、ふいに四人の医師が入っ
てきた。
それぞれがひどく深刻な表情をしているなかで、話を切り出したのは神経内
科医長だった。話を闘いてひどい衝撃を受けた私は、その口からでた言葉の一
つ一つを今、思い出すことはできない。治療法も薬物投与の道もなく、一縷の
望みもない、と私たちは告げられたのだ。そして、ライフスタイルを変える心
構えをしておくように、ともいわれた。私たちは、覚悟を決めて、自分たちの
置かれた状況を頭の中でよく推理しておく必要があった。
アランはわからないが、その夜、私は一睡もできなかった。果たすことので
きない数々の夢が次々と脳裏に浮かんで、涙が止まらなかった。一緒に祝うこ
とができない25回目の結婚記念日、ふたりの息子たちにとって父親のいない
卒業式や結婚式。
悲しみのなかで、私はアランに手紙を書こうと決心した。感情が高まり、す
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ぐにも泣き出しそうで、冷静に理性的な話し合いができる状態では、とうてい
なかったからだ。彼を深く愛していること、22年前、誓ったように「病める
ときも、健やかなときも」彼への変わらぬ愛を貫くこと、大切なのは長さでは
なく、命の質なのだから、これからは無用な傷つけあいやいい争いを互いに避
けようという提案。私のさまざまな気持ちや考えを、すべて手紙に書きだした。
そして次の夜、その手紙を病院の彼の枕の下にそっと入れたとき、もうあとに
は引けないと覚悟を決めたのだった。
私たちは短い休暇を数回とって、二人だけのときを過ごした。以前にもまし
て親密になっていた私たち夫婦は、できることすべてを楽しんだ。 カリブ海に
旅行して、星の下で食事をしたり、ダンスをしたり、できるうちに精一杯楽し
んだ。
医師の診断を受けてから現在まで、3年以上の月日が流れた。アランには、
想像を絶するほどの変化が訪れた。今の彼にはコミュニケーションの手段がほ
とんどない。たいへんな努力をして、家族に意思を伝えるのがやっとなのだ。
「イエス」と「ノー」はわずかにうなずいたり、まばたきをしたりして示す。
両手はまったく使えず、両腕を動かすこともできない。両足で体重を支えるこ
とも、もう無理である。一日中、安楽椅子かソファーベッドから離れられない
のだから、彼の毎日は、長く単調なものだ。最大のハンディは、字が読めない
ことだ。音楽やカセットブックを聞いたり、テレビを長時間見たりしているが、
それでも一日がうんざりするほど長いのである。
私にも、数々の変化が訪れた。日に18時間も働きづめの毎日が続き、極度
の疲労が重なって、残念ながらひどくいらいらしている。それでも、彼を入院
させない理由は?
それは、狭い病室で見知らぬ人びととじっと死を待つので
はなく、自宅で家族の一員として生きる権利が彼にはあるからだ。
将来のこと?
うか?
だれにわかるだろう。私は、精神的にまだ耐えられるのだろ
いつまで元気でいられるだろう?
過労のため、すでに体の節々が痛
むようになってきている。アランの状態が、在宅ケアが不可能になるほど悪化
したら?
明日は、予知できないことばかりだ。だが、今日を精一杯生きて、
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また朝を迎える勇気を与えてくださるようにと神に祈っている。
患者には事実を告げるべき
ジム・ベスト
(イギリス・ヨークシャー)
1985年3月、私は検査のために四日間入院し、神経炎と診断を受けまし
た。そのころから、笑うと止まらなくなることに気がついていました。別にお
かしくないときでもそうなのです。泣きたい気分になることもよくありました
が、かろうじて抑えていました。
一ヶ月もすると、仕事をするのがやっと、という状態になりました。その後
4ヶ月間いうにいわれぬ不安に悩みました。それから、妻が本当のところを話
してくれたのです。妻は、どんなことがあっても私に告げてはならないと口止
めされていました。私は真実を知って実にほっとしました。今では、妻が信じ
がたいほど困難な状況に置かれていたことがよくわかります。妻が一人で背負
っていた重荷がどんなにたいへんなものだったか、想像できます。私の意見では、
患者には真実を告げるべきです。
事実はそれ自体が恵みなのかもしれないのです。私はクリスチャンですが、
これは私にとっても家族にとっても非常に意義のあることです。もちろん、ま
だつらくて泣き出したいときもあります。でも私はこの事実を受け入れ、それ
を大事にしようと努力しています。前にこんな文章を読んだことがあります。
「私たちが体験するもっとも価値あるレッスンは、苦難という学校の中で行な
われる」
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自立心
ナンシー・O・ウエスト
(オーストラリア・ミッチェルパーク)
ALSとともに生きることについては、強く感じるところがあります。私は
できることはすべて、自分でやろうと努力しています。もっとも、これは不可
能にも思えるし、普通の二倍の時間がかかったりもしますか、でも私の自立心
を取りあげることは、だれにもできません。精神的に欠陥があるかのように
「見られる」のは我慢ならないのです。なかには、私をじろじろと見る人もい
ますが、これは私にとってもその人たちにとっても、気詰まりなことです。
ユーモアのセンスを持つことは、とても重要だと思います。ときに、気のす
むまで泣くこともありますが、普通は、ただ苦笑して我慢することにしていま
す。何年も過ぎてしまう前に、だれか研究者が、奇跡的な治療法を発見してく
れることを願っています。
ALSの二つの側面
トーマス・プッシー
(アメリカ・ニュージャージー)
ALSにかかってから九年になる。兄は発病して一年もしないうちに亡くな
った。
61
ALSと診断を下した医師は、あと数年の命だろうといった。私と妻は家に
帰り、何度も二人で涙を流した後、二つのことを決めた。一つは、あくまで治
す方法を、少なくとも延命の方法を探しつづけること。もう一つは、毎日を大
事にして、生活を精一杯楽しむということだった。
私たちは治療方法を探しつづけてきたが、成果はほとんどない。しかし、私
はもう死を恐れてはいない。自分はALSの治療法が見つかるまで生き延びて、
その恩恵にあずかるのだと確信している。
病気の初期に、体を動かさないでいることが一番よくないということを知っ
た。じっと座ったきりでいたら、立ちあがれなくなり、日ごとに痛みがひどく
なっていただろう。だから私は動きつづけた。冬になると具合が悪くなるので、
この六年間はフロリダで冬を過ごしてきた。
私にはすばらしい家族と友人がいる。みんなは私の病状を気づかいながらも、
普通の人のように扱ってくれる。なかでもとりわけ私を支え、発奮させ、刺激
を与えてくれるのは、妻である。
兄の場合は私と対照的だった。兄はつれあいを癌で亡くしたあと、15年間、
独りで暮らしていた。妻が亡くなり、さらにその前に、たった一人の子供を失
っていた。兄は、シーズン・オフになるとほとんど人気がなくなる、小さな海
岸の町に住んでいた。ALSにかかったときの兄は、打ちひしがれ、病気とた
たかう意欲がほとんどなかった。
私は毎日、まだ生きていられることを神に感謝している。
皮
肉
ジミー・レイ・リフシー
(アメリカ・テキサス)
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小さいころ、私はよく映画を見にいき、一日中映画館で同じ映画を何度も繰
り返し見たものだった。そんなころ、すでに私は映画のスタントマ ンになりた
いと心に決めていた。名前も知らないのに、大きくなったらあの人のようにな
りたいと思っていた人がいた。彼の出ている映画は、できるかぎり見にいくこ
とにしていた。彼の動作、スタントのすべてをよく見て、家に帰ってからやっ
てみたものだった。
彼のすばらしい離れ業をやってみようとして、危うく死にかけたことも何度
かあった。父のろばを使って、今見てきたとおりにやろうとして、父に尻を叩
かれたのも一度や二度ではなかった。
幌馬車がひっくりかえるのを映画で見て、家の穀物馬車をメチャメチャに壊し
てしまったこともあった。
何年もの間、彼の映画を見て、彼のまねをしてときを過ごし、大きくなった
ら彼のようになるんだと思いつづけてきたにもかかわらず、彼の名前は知らな
いままだった。だから、雑誌「ALSSOAN」(全米ALS協会機関紙)に
ALSにかかった二人の映画のスタントマンの記事が出て、私と、テビッド・
シャープの写真が並んでいるのを見たときには、驚いたなどというものではな
かった。彼こそが、私が長い間、憧れつづけたスタントマンであり、私自身が
スタントマンとなるきっかけを作った人なのだった。
私の人生の中で、これほど皮肉なことはない。私自身、まだ信じられないく
らいである。
祈りと行動
ドロシー・M・バース
(アメリカ・ミズーリ)
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医学が進歩してALSが治療できるようになることを毎日祈っている。でも、
祈るだけでなく一方では行動もする。いずれは治るようなつもりで行動し、生
活している。私がこういう姿勢でいると周囲の人も助かるのではないかと思う。
「心で治す」方法をとる診療所にも行っている。一週おきの面接のことを書い
てみたい。このおかげで症状は1年半も小康状態にある。
まず最初は、恐怖や希望や期待を話すことから始めた。この、話を聞いても
らうということは、知的に精神的に肉体的に治るためには、非常に重要なステ
ップである。今やっている次の段階の診療では、まず体と心をリラックスする
ことから始める。そのとき、単純なバイオフィードバック(生体自己制御装置)
によって体温がモニター(監視)される。自分の意志で体温を上げられるのを
見るのは面白い。このバイオフィードバックのおかげで、心が体に影響を与え
るのをこの目で見ることができる。
この時点で、自分の体の悪い部分、つまり運動神経が、きちんと調和のとれ
た形で機能するために再生する必要がある各部分、細胞や、神経組織や、免疫
組織に意識を集中して、瞑想を始める。
ここで医学的にも根拠のある次の二つのことを頭の中で宣言する。(1)私
の体は神経組織を再生するのに必要なものをすべて持っている、(2)私の免
疫組織と神経組織は調和のとれた形で生きている。ここにさらに第三の確信を
付け加える。・・・一つ一つの細胞、神経、組織が、光と命と愛に満ちていて、
私の体はエネルギーに燃えている。
こうした言葉を唱えると、自分の体が再生されつつあるところが心に浮かぶ。
自分の肉体の機能がすべて回復され、すっかり健康になったところを思い浮か
べる。この瞑想は医者が指導し、それから家で一人で練習する。
これを「偽りの希望」を持たせるやり方だという人もいる。でも私の医者は
「希望が偽りだなんてことがあるだろうか?
希望か脳に作用し、信じること
が生物学的な成果をもたらすのです心で治せない病気はありません」といって
いる。私は尻込みするのではなく、前向きに行動することを学んでいるところ
64
なのである。今でもときどき、憂うつになり、自分の状態に意気消沈すること
がある。でも幸いにそれは長くは続かない。
やりきれない気持ちを、書いて吐き出すのも一つの方法である。思うように
話ができなくなってから、暗い考えや感情を表現するにはもっぱらこの方法を
使ってきた。書き出すと自分の状態がはっきりと見えるし、それにどう対処す
るか決定を下すのにも役立つ。それから、書いた紙を捨ててしまう。マイナス
の要素にこだわっても何の意味もないのだから。
一冊のルーズリーフノートに、読んだり聞いたりした前向きの事項を書きと
めている。・・・ 人 、会話、考え方、楽しい出来事、私を支え、力づけてく
れる愛する家族と友人の出来事など。こういう前向きなことが書いてある紙は
全部取っておく。
65
66
どのような運命になろうとも
トム・レザース
(アメリカ・カンザス)
毎朝、スー・ワーシントンは八時少し前に起きる。元洋服店社長である夫のキ
ースとともに暮らす閑静な住宅地域にふさわしい、ゆったりとした目覚めの時
刻だ。
スー・ワーシントンは、この周囲の環境に似合った優雅な一日を送るものと
人は思うだろう。こまごました家事や子供の送り迎え、ボランティア活動など。
友だちとクラブでテニスをしたり、昼食を楽しんだりもするだろう。さらに、
家でのすてきな夕食。それとも、夫と外に食事にでかけるかも・・・・。
だが、彼女の一日はそれとはまったく違っている。あなたの知っているだれ
とも違う生活。なぜなら、彼女の夫はALS患者だからだ。
キースが発病してから12年。この5年間はレスピレーター(人工呼吸器)
をつけたままだ。装置をはずせば、容態はまたたく間に悪化してしまう。キー
スが生きているのは、ALSについて語るため、この病気に苦しむ患者や、将
来この病気にかかるかもしれない人びとを勇気づけるため、そして、神経機能
が失われ、筋肉が萎縮していくこの致命的な病気の治療法が見つかることを期
待し、その研究の基金集めの先頭に立つためだ。
だが、キース・ワーシントンが生きているのは妻のスーのためでもある。A
LS患者に日夜付き添うのは途方もない手間と時間がかかるが、スーはいやな
顔一つせず、なんとかやってのける。それはひたすら根気のいる仕事で、普通
の人なら一日、いや、一時間で投げ出してしまうだろう。だが、ワーシントン
家の人たちは、それを毎日やっている。私たちには想像もつかないほどのすば
らしい勇気と粘り強さをもって。
スーの一日は朝8時に始まり、そして、真夜中過ぎに終わる。その間彼女は、
夫が生きていくためにしなくてはならない細々とした煩雑なことを、骨惜しみ
せずにこなしていく。
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朝、目覚めたスーが少し眠そうにしていても大目に見てやってほしい。夜中
に一、二度、苦しむ夫に起こされたかもしれないのだから。
キースは彼女の隣の部屋で寝ている。麻痺が進行して、体はおろか、腕すら
動かせなくなって以来、夜は学生の介護人が仮眠をとりながら付き添ってくれ
ている。キースの体の位置が落ち着かなかったり、苦しがったりするときには、
だれかが体を動かしてやらなくてはならない。それに、肺にたまりつづける粘
液を一晩に、四、五回、吸引する必要がある。
夜、キースはまず、横向きの姿勢で寝る。この姿勢になるのがひと苦労だ。
彼の体を持ちあげ、どこも苦しくはないか確認するまで、スーは学生介護人と
二人がかりで、ゆうに30分はかかる。背に枕を当て体が動かないように支え、
さらに、足どうしがこすれないように、もう一つの枕を足の間に挟む。夜中に、
二本の足が触れ合うと痛いからだ。肉が落ちて骨だけの足は、何に触れても激
しく痛む。
気管にレスピレーターがきちんとつながれているかも、確かめておかなくて
はいけない。もし夜中にはずれでもしたら、軽くすんだとしても、患者に苦痛
を与えることになるし、それに危険だ。
スーは、寝ても覚めても、そのことが心配でたまらない。
「ときどき、夜中に目が覚めると、レスピレーターの音が聞こえないような気
がして、どきりとすることがあります」と彼女はいう。
チーチーという鳥の鳴き声のような音がするときがある。それは、キースが
介護人に何かしてもらいたいことがある合図だ。鈴を試したこともある。だが、
キースがいつも鈴を倒してしまい、うまくいかなかつた。介護人が眠っていて、
合図の音に気づかないときでも、スーがその音を聞き漏らすことはない。
「私は飛び起き、キ ースが何かしてほしい様子よ、と叫ぶんです」と彼女は
語る。
ALSと診断されたとき、スーはダラスにいた。医者は長くは生きられない
といった。キースはその言葉を信じ、スーは信じなかった。
「お医者様は、たとえ、次のクリスマスまで生きられたとしても、夫はベッ
68
ドで寝たぎりになるとおっしゃいました。でも、私はそのことを認めたくあり
ませんでした。夫に死が追っているなんて信じられませんでした。そんなこと、
信じられるはずがありません。夫だけは違う、ほかの人はどうあろうと、夫だ
けは助かる、そう思いたかった」
だが、夫婦でこの病気について話し合っていくうち、キースは自分の運命を
受け入れた。
「たとえ、明日死ぬことになっても構わない。これまでにあらゆることをして
きたし、いろんな場所にも行った。私は今、幸せで、とても安らかな心境だ」
とキースは語った。
そのとき、彼は四一歳だった。
会社は彼に、友人が多いカンザスに戻り、会社の事務所で働いたら、と勧め
た。それから四年間、彼は毎日、手ですべてを操作できる車を運転して、会社
に通った。会社の入り口で待ち構えている従業員の手を借り、特別な板を張っ
て体を滑らせるようにして運転席から車椅子に乗り移る。そして、店に行き、
広告担当副社長としての仕事をこなした。
病状が悪化したのは、ほんの数年前のことだ。彼は仕事をやめ、全米ALS
協会支部担当副会長として、地元にある協会の事務所で毎日、働きはじめた。
現在にいたるまで、彼はその仕事を続け、そのかたわら、自分が始めた支援グ
ルーブの月例会を主催している。
現在、夫をALSで失った婦人が週に二度、キースに朝食を食べさせにきて
くれる。その一時間ほどの間に、スーは急いで買い物やらほかの用事をすませ
る。だが、家を離れている間も気が気ではない。間に合う時間に帰れないので
は、と心配なのだ。室内便器を使うときにはだれかの手が必要だからだ。
「私はいつも、走り回っています。でも、私はこれまで、体を動かすのが好き
でしたから、それがとても役立っています」と彼女はいう。
夫の看病や家事の合間に、絶えずかかってくる電話にも出なくてはならない。
ALS協会の事務所から、ワーシントン家の人しか答えられないことを問い合
わせてくるし、ALS基金集めの組織作りの電話もかかってくる。新しい患者
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の看護婦が、どうしたらいいかと、電話で助言を求めてきたりもする。
こうした彼女の生活を支えているのは何なのだろう。
彼女はこう語っている。
「私は夫を愛しています。こんなことになる前から、私たちは一心同体でした。
ですから、夫のためにあれこれするのは当たり前のことなのです」
くじけそうになるとき、彼女は結婚の誓いを思い出す。
「どのような運命になろうとも、と私たちは誓いました・・・私は心からそう
思ってその言葉をいったのです」
(「ザ・エスクワイヤー」編集長)
苦しみを成長の糧として
スー・ワーシントン
(アメリカ・カンザス)
夫のキースは、ALSと12年間たたかった末に亡くなりました。私がその
間、どうやって頑張ってこられたのか、それは神の力と周囲の人たち、家族や
友人、ホームヘルパーといった人びとの支援と愛があったからこそです。一人
ではとうてい、耐えられなかったことでしょう。
夫が一日でも長く生きられるよう、私は祈りました。レスピレーターを使い、
家で暮らすようになった最後の五年間は、とくにそうでした。毎日、夫の生活
をできるかぎり快適なものにするよう気を配りましたので、看病については何
の心残りもありません。私は今ようやく、これまでのことを振り返り、私の経
験・・・私のしたこと、そして、しなかったことをお話しし、ほかの方の役に
立ちたいと思えるようになりました。
夫の死後間もなく、私は、彼が周囲の多くの人に、いかに大きな感銘を与え
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ていたかがわかってきました。そして、なぜ、わが家にこの悲劇が起きたのか、
その意味を理解できるようになりました。私たちはそれまでも仲のよい夫婦で
したが、夫が発病してからの一二年間は、私たちはまさに一体でした。ですか
ら、キースの死後、人生にぽっかり穴があいたようになってしまいました。そ
の空しさは、32年間連れ添った夫がいなくなってしまったということだけで
はありません。ほかの人の役に立っている、自分を捧げているという充足感が
なくなってしまったからです。
私はこの経験から、困っている人の役に立つことが、自分の生きがいである
ことを学びました。
「汝を愛するように、汝の隣人を愛せ」・・・今、その言葉の意味をつくづく
かみしめています。
神を信じる私は、日々の生活の中で出会う多くの人びとを愛することができる
ようになりました。とくにALS患者やそのご家族には強く心がひかれます。
自分も同じ経験をしたので、その人たちの気持ちがよくわかるのです。
それに、この病気とたたかっている人びとの勇気に感銘を受け、励まされも
します。何年も前、キースがALSだと宣告されたとき、この経験から何かい
いことが生まれるなどとは信じられませんでした。でも、今振り返ってみると、
それはまちがいだったことがよくわかります。私はさまざまな点で大きく成長
しました。他人に対する思いやりや、いたわりの心が深くなりました。
この世で一番大切な人が死んでも世界は回りつづけていること、そして、この
私も生きてゆけることを学びました。
私たち夫婦の試練が終わったとき、そこになにがしかの救いが残りました。
過去を嘆かず、その経験を生かすことを学ぶのは大事なことです。苦しみを否
定せず、それを糧に成長するのです。その意味で、他のALS患者や家族の方
たちのお手伝いをすることが、私自身が立ち直る大きな力となりました。
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回復の見込みはなくとも
スタニー・D・ミラー
(アメリカ・カリフォルニア)
主人のラスがALSだとわかったのはつい1年半前のことだった。そのとき、
主人は45歳。地元のシステム会社の共同経営者であると同時に音楽家でもあ
り、また、毎日のように五キロから十キロの距離を走っていた。
主人の場合、病気の進行が非常に速く、発病から3年以内に亡くなるという
50%のグループに入っているようだった。
病気の回復はおろか,病状が安定する望みすら持てなかった。だが、主人は
この病気で死ぬのだ、という事実を受け入れてしまうと、私の気持ちは少し落
ち着いた。主人がALSであるという事実は変えられない。が、その事実の受
け止め方を変えることはできるのである。私たち夫婦は、自分たちにとって何
が大切かを考え直し、生活を楽しく豊かにするように努めた。
ALSと宣告されてから数週間、まだショック状態から抜け出せないでいる
ときに,私たち夫婦は、不治の病にかかっているほかの患者とその配偶者たち
とともに、集中グループ療法を受けた。 参加者に共通しているのは、死と向か
い合っているということだった。集中療法は厳しいものだったが、同時にすば
らしい体験でもあった。肉体的にはかなりきつく、疲れ果てた。ダウンしたの
は私一人ではなかった。
この集中療法で、私は、過去を振り返らず、また、将来に期待を抱かないと
いうことを学んだ。過去にも未来にも目を閉ざすのだ。今日一日のことだけ考
えて生きていくのは意志の力が必要である。が、この数カ月間、充実した生活
が送れたのは、その日一日のことだけに目を注いできたおかげだと思っている。
私たちは気に入っている土地に旅行にでかけた。ラスは仕事を引退し、現在
は大学の哲学のコースをとっている。夫婦で家にいる時間が多いので、家の周
りをきれいに整えた。
72
病気のことは最初から隠したりせず、多くの人たちと、私たちの経験、その
喜びや苦しみを分かち合ってきた。食事やその他の集まりへの招待は断わらな
いで、ほとんどすべて受けてきた。
ラスはスクーターを持っており、それでプライドを保ちながら動き回ること
ができた。
ラスはもう車の運転はしない。でも、彼を学校や会社、病院など、どこへで
も行きたい場所に連れていってくれる友人が大勢いる。みんな私たちの力にな
れることを喜んでくれている。周囲の人の支援のおかげで、私は地元の学校の
パートタイムの仕事を続けることができた。仕事は私の気分転換となり、また
心の支えともなっている。
ラスの場合、病気の進行が非常に速かったので、治療法のことを考えたり、
生きている間に治療法が見つかるかもしれないという期待を抱く、時間的余裕
はなかった。投薬による治療に望みをかける他の患者たちが、期待と絶望の淵
を激しくさ迷うのを見てきたので、私たちがそうした経験をしなくてすんだこ
とは本当によかったと思っている。ラスは以前は投薬と瞑想法で、そして、現
在はビタミン療法でこの病気とたたかっているが、私たち夫婦がこの大切なと
きを、真の意味で力を合わせて生きはじめたのは、主人がこの病気を受け入れ
たときからだったといえよう。
仕事に成功して幸せではあったものの、同時に極度の緊張にさらされていた
主人が、他の人びとの愛情や思いやりに心を開き、精神的に豊かになっていく
のが、はた目にもよくわかった。差し迫っているにせよ、いないにせよ、いず
れは訪れる死を受け入れて精神的に成長していく様子、あとで訂正する時間が
ないかもしれないので、あらゆる関係をきちんとしておこうとする主人の態度
を、私は横でじっと見守っている。
私たちがこれから直面しようとしていることを自覚したときの、あの部屋が
薄暗くなり、冷たいものが重くのしかかる感覚は今でもありありと覚えている。
この病気について詳しい知識を学んでいたときの重苦しい日々、ALSと宣告
された直後の身を切られるような痛みを忘れることはできない。
73
ようやく人生というものがわかりはじめたとき、私たちの未来は粉々に崩れ
去ったのだ。ほかの人たちが羨ましくて仕方がない。あの人たちの夢はかなう
のに、私たちの夢は時速140キロの猛スピードで壁に激突してしまったのだ
から、ラスの、そして私の生活が容赦なく失われていくのを前に、自分がねじ
伏せられ、打ちのめされたように感じるときもある。でも、一方で、これまで
知らなかった深い思いやりやいたわりの心が自分のうちに芽生えた。この経験
を通して私は人間として大きく成長しているのだと思う。
(2章「死を友として」ラス・ミラーの夫人)
救いの可能性
レゼル・L・スネル
(アメリカ・オクラホマ)
1981年のはじめ、主人はALSと診断され、あと五年の命であること、
そしておそらく肺炎で死ぬだろうと告げられた。私たちは茫然とした。それま
で、主人は健康そのものだったから、最初は信じられなかった。医者からの情
報だけでは満足しなかった主人は、オクラホマ大学医学部の図書館に行き、こ
の病気について過去10年間に書かれた文献すべてに目を通した。が、そこに
は、私たちに希望を抱かせるものは何もなかった。
家族の重荷になることを恐れた主人は、末期的な症状の病人に本人の意志に
よる安楽死を認めているグループ、ヘムロック・ソサエティに入会した。主人
が自分で自分の命を絶つなんて、考えるだけでも耐えられなかった。そこで、
私たちは教会の牧師に話をしてくれるようお願いした。
牧師は自分の経験から、どんな場合でも、たとえそれがどんなに惨憺たる状態
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であっても、そこにはいつも「救いの可能性」があるものだと話してくれた。
私たちはこの考えに飛びつき、それを生きるためのスローガンにした。運命だ
とあきらめず、残された時間を最大限に生かそうと決意し、そして、救いの可
能性に期待をつないだ。
医者は患者の支援システムについては何も教えてくれなかった。そこで、主
人は自分で筋ジストロフィー協会(MDA)と連絡をとり、そこで、ALSが
MDAが扱っている四〇難病の一つであることを知った。病院の理学療法士か
ら体を動かす訓練法を習い、関節が固まらないように、その運動を毎日やった。
ほかの六人の患者とその家族で、オクラホマALS患者の会を結成し、全米
ALS協会の支部となった。会員同士が集まって情報交換をしたり、互いに励
ましあったりした。新聞やMDAの会報、それに、地元のラジオやテレビを通
して、ほかの患者にも呼びかけた。こうして、地域の他の患者たちとも連絡を
取り合うことがてきるようになった。この病気に苦しむのが自分一人ではない
ことを知り、皆、喜んでくれた。救いの可能性が現実となったのである。
私たちは、地元のケーブルテレビ用に、ビデオテープの製作を始めた。30
分もののビデオ数本からなる「ALSを超えて」と名づけられたこのビデオシ
リーズは、ALSとたたかっている人びとが利用できる援助について説明して
いる。
あるリハビリ研究所で、介護者の背中に負担をかけずに主人の体を持ちあげ
る方法を習った私は、それを家族の全員に教えた。おかげで皆が楽に手伝える
ようになり、家族の絆はいっそう深まった。これは救いの可能性が現実のもの
となったもう一つの例である。
子供や孫たちとの時間は貴重だった。皆、しょっちゅう会いにきてくれた。
私たち夫婦だけで過ごす時間もまた大切なひとときだった。頭を主人の肩に
あずけ、本を互いに読んで聞かせたり、一緒にクロスワードパズルをしたり、
テレビを見たりして喜びと不安を分かち合った。主人は手を伸ばして私に触れ
ることはできなかったので、私がよく主人を抱きしめてあげた。そばにいる、
それだけで、私たちには大きな慰めだった。気持ちが落ちこむときもあった。
75
でも、たいていは、前向きの態度を保つことができた。
以前は何でもなくやれた雑用ができなくなると、主人は私を励まして、今ま
でやったことがないことをやらせた。芝生で椅子に座りながら、トマトの剪定
の仕方、車のオイル交換やラジェーターの水抜き、不凍液の注入などの方法を
説明してくれた。主人の指示に従い、雨戸や電気のスイッチを取り付けたり、
電気オーブンに新しい電熱線を取り付けたり、芝刈機の板を取りかえたりした。
主人はこの共同作業を誇りにし、楽しんでいた。
体の麻痺が進行するにつれ、主人は、残された人生を他の人のために使おう
という気持ちをいっそう強く持つようになったようだった。不動産や法律につ
いて自分の知識を子供たちに伝えたり、また電話で他のALS患者やその家族
と絶えず連絡をとっていた。受話器を耳に当てることができなくなってからは、
音声増幅機を電話に取り付けて使っていた。
何度か気管支鏡検査を受けたあと、主人は陽圧式呼吸補助機の助けを借りて
肺炎を切りぬけた。集中治療室に六週間入ったあと、主人はもう自分の力では
呼吸できないことが明らかになった。
これ以上耐えられる状況ではないと判断した主人は、これ以上の治療はもうい
いといった。
私たちは医者と子供たち、それに牧師を入れて話し合った。主人は医者に家
で死なせてほしいと頼んだ。息子の一人は、何としてでも父親に生きてほしい
といった。でも主人は、こうした状態で生きることは耐えられず、もう死ぬ覚
悟はできでいるといった。医者は、主人の死をできるだけ安らかなものにする
に同意し、結局、家族全員が主人の意志を尊重することに決めたのだった。
この結論にたどり着くまでの主人の苦悩が私には痛いほどわかった。私は主
人に、もつと頑張ってほしいと嘆願した。だが、主人はこういった。
「君は僕
にこの苦しみを続けさせたいのか」
主人の望みどおりにさせるほかはなかった。
勇気にあふれ、思いやりに満ち、深い愛情を注いでくれた彼、その活発な心
が不自由な体に閉じこめられていた主人も、今はもういない。でも、逆境の中
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で救いの可能性を待つ主人の意志は、主人を知り、主人を愛したすべての人の
心に生きつづけている。
言葉なんかいらない
ナンシー・R・ハイ
(アメリカ・ペンシルバニア)
神経内科医は部屋の向こうの机に真面目くさった顔つきで座り、こう申し渡
しました。
「原因不明、治療法なし、治癒の見込みなし」。ドンはすぐさま、このALS
と呼ばれる病気とたたかう決意を固めたようでした。一方、私は言葉もなく唇
をかみしめながら、熱い涙が頬を伝わるのを感じていました。
友人何人かの好意で、ガレージを寝室に作り替えました。が、ふだん使用す
る部屋にのぼる階段に問題が残っていました。階段をスローブにする必要があ
ったのです。ドンの思いつきと近所の人の熱心な働きで、船のウィンチをつけ
た移動可能なスロープを作りました。車椅子に取り付けて手で操作すれば、彼
を安全に二階に上げられるようになりました。
意思を伝え合うには文字板を使わなければなりませんでした。ドンは病気に
なるとすぐ、声と手足の自由を失ったからです。複雑なコンピューターや機械
をいろいろ試しましたが、ほとんど役に立たなかったり、高価で手が出ません
でした。
友人や身近な人びとの態度や行動は興味深く、ときには失望させられました。
あるとき、私は人間というものは、体が不自由で車椅子に乗っている人は知性
も魅力も失われている、と考えてしまうことに思いいたりました。私たちはこ
の考えを、教会のきさくな集まりでのやりとりのなかで、いくらか直してもら
77
うことができました。ALSに関する資料を使って、この病気の患者が「でき
ること」「できないこと」を説明し、胸に引っかかっていることを理解しても
らおうとしました。数週間もすると、人びとの態度と行動の変化によい結果が
出たのがみてとれました。
私たちの生活にジェシカという特別な少女が登場した日を忘れることができ
ません。生後わずか六カ月の愛らしい「光の天使」。彼女は大きくて醜い車椅
子などというものなど、ものともしませんでした。ドンおじさんの膝によじ登
り、一緒にそこらじゅうを動き回りました。ドンが手を回して抱き締めること
はできなくとも、彼女のほうが彼を抱いてキスをしました。言葉なんか必要だ
ったでしょうか?
目を見つめあうことで話し合えたのです。
言葉による返事が戻ってこないという理由で、会話ができなかったり、何を
しゃべっていいのかわからない大人がいました。ほんの少し腕に触れたり、ウ
インクしたり、「やあ、どうしてる?」と声をかけることが、一千語の言葉以上
の意味を持つという事実が理解できない大人もいました。
もちろん、数は少なくても、いろいろ工夫して援助してくれる人はいました。
ある暑い日に「ドンに何か冷たいものでも」とメモを添えて10ドル札を送っ
てくれた、親切なお年寄りの未亡人がいましたが、私たちはいわれたとおりに
しました。アイスクリームを買ったのです。それから、毎週欠かさず温かい夕
食を届けてくれる女性とその娘さんも、何てありがたかったことでしょう。
訪ねてきてくれなかったり、しようと思えばできるのに助けてくれずガッカ
リさせられた人はいますが、必要としているときに手を差しのべてくれる人び
とにもたくさん恵まれました。ドンが亡くなる数カ月前まで、友人たちが彼を
週一回、YMCAのプールに連れていってくれました。病気の初期には私たち
を遊びに連れ出し、ドンを水上飛行機に乗せてくれたこともあります。
この苦しみは、神様が特別に私たちに、お互いいたわりあい、分かち合うこ
とを教えるために与えてくださったと心から信じています。苦思いもありませ
んし、彼の死も無駄ではありませんでした。ドンをはじめ私たち一家は、多く
の人びとの生命と触れ合うことができたのですから。
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家族全員でたたかうALS
エブリン・K・ハーディー
(アメリカ・ペンシルバニア)
「一生のうちにやっておきたいことがあるのなら、今すぐやったほうがいい
よ。待ってちゃいけない。この先何が起こるかわからないんだから」
これは、癌の苦しい末期段階にあった義兄を夫のボブと見舞いに行ったとき、
義兄がいった言葉だが、その後の私たちにとってどんな意味を持つようになる
か、当時は知るよしもなかった。人生を今、楽しむことを彼は教えていたのだ
った。
「引退したらやろうと夢見ていたことを、妻と一緒に実行する時間があった
らどんなにいいか」と彼はいっていた。
義兄の忠告に従おうと、私たちはキャンピングカーとトラックと七年乗り古
した車をピカピカの新車に買いかえた。ウキウキしながら次の夏旅行計画を立
てた。ところが、次の夏がやってきたとき、ボブがALSにかかっていること
がわかったのだった。
夫の場合、この病気はかなり急速に進行し、その次の夏にはもう車椅子なし
では過ごせなくなっていた。ひどく気分が落ちこみ、身だしなみにも構わなく
なった。体の機能を徐々に失いながら、体に何が起こっているのか頭でははっ
きりわかるのだ。病気と取り組むうえで、おそらくそのことが一番彼をいらだ
たせたことだろう。
そのころ、近所の人の提案で、メソジスト教会の男性グループのメンバーた
ちが毎朝交代でボブに付き添ってくれることになった。午後は家族や友人たち
で世話をする。あのころから今にいたるまで、一五人の男性たちが交代でボブ
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の朝の面倒を見てくれている。彼らの心づかいは、ボブにとって大きな意味を
持っている。朝の当番が終わった後、一人の人がいった。
「ボブが好きだからやっているだけですよ」
何と美しい、真理に満ちた言葉だろうか。彼らの助けなしでは、私は仕事を
続けられなかったと思う。仕事が続けられたからこそ、経済的に自立し、医療
保険も払ってこられたのである。
あるとき息子がいった。
「ALSにかかっているのはお父さんだけじゃない。
家族みんながかかっているんだ」
確かに、この病気は家族全員に深い影響を及ぼした。でも、家族どうしの絆
をいっそう強くし、互いを思いやるようになったことも事実である。
時間が止まった
エイミー・バーキー
(アメリカ・ネブラスカ)
主人のゴードンがALSの診断を下されたのは、1月の寒々とした日でした。
信じられませんでした。72歳の彼がその先長く生きられる望みは断たれまし
た。原因も治療法もわからないとされる病気の診断を受けた主人と、身辺にい
る私たちにとって、時間は止まり、周囲の沈黙と無知の中で私たちは孤立して
しまいました。手を差しのべる人はたくさんいましたが、彼らとて現実には家
族や将来の問題をかかえ、自分たちの生活で精 一杯だったのです。
結局、ALSの患者とその家族は自分たちで対処するしかないということに
気がつきました。アメリカでもALS専門のクリニックと支援グループがある
ところがあります。そのようなところに住んでいれば、病気が進んでも、何と
か秩序と威厳のある生活を送ることができます。
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ALS患者を配偶者に持つ私は、医療に携わる人たちに相当不満を感じてい
ます。彼らは本当の意味で助けになっていないからです。思いやりや共感とい
ったものが、ほとんど感じられませんでした。
ゴードンは絶望的になり、社会から引きこもってしまいました。無力であり、
人のお荷物でしかないという気持ちにとらわれるあまり、現実に目をすえ、理
性的に考えることができなくなったのです。私たち家族も情緒的に非常に不安
定になりました。なかでも私は、自分自身だけでなく、10代の娘と、年老い
た実家の両親の面倒を見なくてはならず、プレッシャーが重くかかります。感
情もエネルギーもまったく使い果たしてしまったこともあります。主人との今
後の生活に対する不安、そしてやがて父親を失うことになる娘への心痛が、私
を苦しめます。すべての生き物のはかなさと脆さを四六時中痛感する日々です。
ALSの患者との生活はまだ日が浅いのですが、いずれ自分の殻から抜け出
し、社会の中でもっと責任のある役割を果たせるようになりたいと願っていま
す。今のところはまだ苦しくて、精神的にも肉体的にも困っている他の人びと
に手を差しのべる余裕はありません。ゴードンの病気とともに生きたのはまだ
数カ月にすぎません。それでも地球上に生きるわれわれ人間の、人生の目的に
対する見方は変りました。新しい見方ができるようになったことで、それだけ
力がわいてきたことに感謝しています。
車椅子がわが家にやってきた
エレナ・ボヴィオ
(イタリア・ジェノヴァ)
夕方でした。車椅子がまもなく届くことになっていたのです。お父さんが運
んできて、台所のまんなかに置きました。私はほんの少し前までのお母さんの
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様子を思いだしていました。健康で強くて、私を学校や、公園に連れていった
り、きつい山道に困った私を助けてくれたりしたお母さん。こんなに短い間に
お母さんが全然歩けなくなったなんて信じられませんでした。
三人は立ったまま車椅子を見つめました。車椅子が何を意味するか考えてい
たのです。沈黙を破ったのはお母さんでした。車輪が小さくて幅が広いから、
まるでジープみたいだといいました。これでどこへでも行くわ、と約束してく
れました。
車椅子がわが家にやってきた日は、そんな具合でした。これで私たちはまた
ほとんどどこへでも、三人一緒に行けるようになったのです。
ときどき、お母さんが病気なのを忘れることさえあります。
苦労を理解してさえもらえたら
ジャネット・B・カーン
(アメリカ・ペンシルベニア)
はじめて母にALSの症状が現われたのは、2年前の私の結婚披露パーティ
の夜だった。そしその6ヵ月後の私の誕生日、母は決定的診断を受けたのだ。
現在、母は主人と私と同居して5ヶ月になる。
私たちの家に移ってくるまで、母は3カ月余り病院に人院していた。その間
に経官食のための胃瘻造設術を受け、呼吸を補助するための人工呼吸器を使う
ようになった。私たちは、彼女をナーシングホーム(施設療養所)に入れるよ
うにという人びとの忠告を断固しりぞけた。10歳のときに父が亡くなり、母
は働きながら一人で私を育てあげ、大学にまでいかせてくれたのだ。彼女を家
に引きとりたいという私に、主人は同意してくれた。
主人と私は、友人たちに助けてもらったり、経済的に可能な範囲で専門の人
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を頼んだりしながら、交代で母の世話をしている。二週間前,巨額の請求書の
支払いのために私は六学年担当の教職に戻ったのだが、先行きが不安である。
私が学校に行っている間、母の面倒を見てもらう看護婦の費用もかかる。それ
も仕方のないことだという人もいれば、私が仕事を続けることに批判的な人も
いる。
今、私たちが経験している困難を理解し、相談にのってくれる人たちがいて
さえくれたら……。私たちの体験や、私たちがどんなに孤独だったか、そのす
べてを記して一冊の本が書けると思うほどだ。だれかにきてもらって、主人と
二人だけで一時間外出することもできない。私たちの関係にとっても、むずか
しい問題である。
うれしいことに、母は経管食のほかに口でも食べられるほど、状態がよくな
った。医師の話では、主人と私の努力のおかげで母は次第によくなっていると
いうことだ。
絶望のどん底で
アイリーン・ブルーノ
(アメリカ・ニュージャージー)
私と家族にとって、ALSはあまりにも過酷でした。私たちはみな、ひどい
無力感を味わっています。母には、まだ病気のことを告げていません。ですか
ら、自分ではかなり激しい脳卒中の発作を起こしたのだと思っています。だれ
も、本当のことを話す勇気がないようです。そんなことが、できるでしょうか?
こんなにも愛している人間に向かって、もうすぐ死ぬ、なんていえるでしょう
か?
母が母であることに違いはないのに、今はもう思うように自己表現がで
きません。それは、母にとってたいへんな苦痛であり、私にとっても死ぬほど
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つらいことです。
母は、家に帰りたがっていますが、医師はそれには反対で、ナーシングホー
ムに入ることを勧めています。24時間体勢のケアが必要だというのです。そ
れはわかるのですが、でも、でもわからない!
ゆっくりと、徐々に彼女に死
が訪れるのをただ見ていることは、何よりも耐えがたい苦痛です。
今、私たちにあるのは残された貴重な時間だけ、そのかけがえのない時間を
私は使ってゆきます。状況は過酷です。でも、私たちがしなければならないこ
と、それは、絶対にあきらめないことです。
外側から眺めて
パット・ベック
(アメリカ・ミシガン)
ほんの四年前に、私たちはALSについて聞きました。そのときは何も知ら
なかったのですが、今ではALSは私たちの心の中で、何と大きな文字となっ
ていることでしょう。ウェイン・グロスベックと私の主人ロイドは、三〇年間
同じ職場で働いていました。私はウェインと奥さんのエイビスを知ってはいま
したが、とくに親しいというわけではありませんでした。ある日エイビスが電
話をしてきて、ウェインがALSと診断されたと知らせてきました。それ以来、
私たちはいろいろと学び合い、特別な友だちになっていきました。
私たちは、何か助けてあげられることはないかと思いました。エイビスとウ
ェインはだれからも隠れたり、逃げたりしようとはしませんでした。ほどなく、
私は磁石に引き寄せられるように、彼らに引きつけられていきました。立ち入
ることなく何か役に立つことはないかと考えて、寝つけない夜もありました。
その年の夏から秋にかけての楽しい外出やいろいろなことを思い出すと、楽し
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くもあり同時につらくもありました。主人が知り合いのなかでもっとも優秀な
男の一人と呼んでいたウェインが、徐々に筋肉のコントロールを失うのを見る
のは、だれにとっても胸が痛む思いでした。
ウェインはALSについてなら何でも、すべて読んで勉強しました。こうし
て得た知識で、彼はまちがいなく、自分に何が起こっているのか、次は何が起
こるのか理解していました。自分の困難に対処しようとする彼の勇気は、最初
から最後まですばらしいものでした。
二人のところへはよく行きました。ご夫婦が新しい必要や限界に自分たちを
合わせていかなければならないのと同じように、私たちもそれに合わせようと
努めました。ウェインは病院用ベッドを必要とするようになり、まもなくそこ
から出ることもできなくなりました。週に一度私たちが行って手伝うことにな
り、同じ曜日に行くことに決めました。
この間じゅう、彼らのユーモアのセンスも価値観も変わりませんでした。一
緒にいてもとても気持ちが楽でした。というのも、彼らはいつでも私たちを必
要としているように感じさせてくれたからです。
私たちは、恐ろしくも悲しい事実から遠ざかろうとしなかったために、二人
のすばらしい友人と愛情という特別な贈り物をもらうことができました。また、
ウェインとエイビスが愛と信仰と信頼をお互いに、また神とともに分かち合う
のを見るという、すばらしい機会にも恵まれました。
この分かち合いのおかげで、彼らはつらいときも耐えていけたのです。そう、
つらいときは数多くありました。
こうした状況で訪問したり、手助けを申し出たりするのは簡単ではありませ
ん。だれにでもできるということではありません。私たちにはそれぞれ限界が
あるのですから、できなくても申しわけなく思う必要はありません。でも、友
だちであることから得られるものは無限です。私たちにできたことはほんのわ
ずかですが、それができたことを神に感謝しています。
私たちは外側から眺めていただけです。でも、病人の立場から外を眺めるの
がどんなことなのか、理解を深めることができました。
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ひとすじの希望
コンスタンス・ハーヴェィ
(オランダ・ベルゲン)
1949年、週末になると私たちは、アル・コールという名前の友だちと一
緒に、住んでいた町からカナダのオンタリオ州南部のあちこちにあるユースホ
ステルヘ、よく自転車旅行をしたものだった。結婚してオランダヘ来てから
30年にもなるが、いつもアルのことを懐かしく思い出し、あれから彼はどう
しただろうと思っていた。1979年になってアルに手紙を書いてみることに
した。そのときはじめてALSという病気のことを知ったのだった。
アル・コールの恐ろしい運命を知って、私は唖然とし、それからALSとた
たかう活動を始めた。夫と友人に力になってもらって、オランダにALS協会
を設立した。
ALSは人間にふりかかる運命の中でも最悪のものだと、1979年当時は
考えていたが、何年もALS患者と一緒に活動してきた今では、ALSを最悪
の不運とは思わないようになった。
昔は、いつか死ななければならないと考えると胃が変になったものだ。今は、
死ぬということも人生のノーマルな一段階で、できるかぎり十分にそれを生き
なければならないと感じるようになった。私は、今というこの瞬間を台なしに
してしまう後悔とか将来への不安を退けて、現在を生きることの価値を学んだ。
また、「恵みを数えよ」という歌の意味が本当にわかった。苦しみを和らげ
るひとすじの光を探そうとしないために、家族の間に緊張が生まれ、家庭崩壊
にさえつながるケースがあるかと思えば、苦境にありながら、小さな恵みに感
謝して幸せな家庭を維持してゆくケースもある。
夫や妻がALSにかかった人は責任を背負わされた囚人みたいなものだと考
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えていた。けれども今では、窓は鉄の柵でおおわれているけれど、戸に鍵がか
かっていない家に住んでいるようなものだ。と考えるようになった。穏やかに、
献身的に生きる妻や夫たちは、自分が超人的な課題を達成する道を選んだとい
うことを自覚している。逆に、いつも愚痴ばかりこぼしている人たちは、選べ
る道があることに気づいていない人たちで、だからこそ罠にはめられたみたい
な気分でいるのだ。人生の伴侶に去られ、一人でALSとたたかっている患者
もいるのである。
ALSが私に与えた一番重要な影響といえば、愛の力に気づいたということ
だろう。家族の愛はもちろん、自分の置かれた状況を最大限に生かし、支えと
助けを受け入れるために、患者は自分自身を愛さなければならない。また、ボ
ランティア活動を支える愛。ALSの治療方法を発見するために努力している
科学者たちの、自分の仕事への愛。
私はアル・コールに約束した。彼のALSとのたたかいを絶対に忘れはしな
いと。アルを記念してオランダALS協会を設立したが、アルはそれを見届け
て亡くなった。
頑張って
ジーニ・グリスン
(アメリカ・カリフォルニア)
私は24時間在宅ケア・セラピストで、ALS患者であるビルと一緒に住ん
でいる。41歳の元気あふれる女性が、レスピレーターを使ってやっと生きて
いる今にも死にそうな62歳の男性に、これほどの時間と労力をかけて尽くし
ていることに、友人たちは複雑な思いを抱いているようだ。しかし、これは、
私が選んだ道なのである。
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この病気が彼を襲ったことに、私は敬しい怒りを覚える。でも、この病気と
ともに生きる私たちの基本的な姿勢は、「あきらめずに、頑張る」ことだ。
ビルの友人の中には、この病気をひどく恐れ、元気だったころのままの彼を
記憶に留めておきたいという人たちもいるので、そういう人には電話や手紙を
もらっても、会わないようにしている。また、在宅ケアに挑む私たちを激励し
つづけてくれる医療関係の人びとに、私は非常に力づけられている。
ビルが積極的に病気に立ち向かうようになると、彼自身が私の強い心の支え
となった。今、彼は回復の見込みがないことを知っているが、一日一日をとて
も大切に生きている。私たちは、毎日をともに楽しもうと努力している。その
うえ、よいことに二人とも柔軟なものの考え方ができる。アイスクリームが食
べたくなれば、たとえ夜中の二時でも一緒に食べる。可能なかぎり、私たちは
今までと同じように暮らしてゆくつもりである。親友のワゴン車でバードウォ
ッチングやピクニックにでかけたり、限られた範囲で遠出することも、まだ可
能である。
過去とは、すばらしく愉快な思い出のこと。現在とは、臨機応変に状況に対
処し、できることすべてを楽しむとき。そして将来とは、治療法が発見される
ときのことである。
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神の腕に抱かれて
ドロシー・マッケナ
(アメリカ・イリノイ)
―――リン・アンは1977年6月18日に結婚し、1978年8月8日、
20歳で亡くなりました。
1977年の春も浅いころ、リンは「ウェディング・ドレスを自分で縫いは
じめたけど、片方の縫いしろに待ち針を指すのに2時間もかかったの」といっ
て、泣きながら二階に上がってきました。どうしても指でピンを持ち上げるこ
とができなかったのでした。七月になると、足が弱ってきました。次には、話
すことも飲みこむこともむずかしくなり、1年後には、動くことや話すことさ
えできなくなりました。
次のメッセージは、本人の希望で、亡くなったあとの日曜日に教会で読みあ
げられたものです。
私はALSというひどい病気にかかり、こんなにも重い十字架を課せられま
した。けれどけっして恨んだり怒ったり憎んだりしていなかったことを知って
いただきたいと思います。自分がどういう人生を歩み、何になれたかなどを考
えると少し悲しくなりますが・・・・。
素敵な年月を過ごしてきたこと、愛情豊かな優しい家族に息まれたこと(私
の家族はとても結束が強く、いつもお互いを助けあっていました)、健康に過
ごした楽しい日々のあったこと、多くのすばらしい人びとと知りあい、親しく
なる機会を得られたことを振り返って、神様に「ありがとう」をいいたいと思
います。
落ちこんで悲しくなると、私はいつでも「神様、そこにいらっしゃるの?」と
聞きます。そうすると、急に神様の腕に抱かれた気分になって、心配する必要
がないことに気づくのです。ものすごく落ち着いて、護られている気持ちにな
ります。
皆様の人生も、私の人生と同じように、愛と幸せと喜びに満ちたものになり
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ますようにお祈りしています。
また会う日まで、神がヨシュアにいった言葉を贈ります。
「強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主がとも
におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない」
(私の堅信の誓い『ヨシュア記、一の九』)
母の贈り物
ウイリアム・パーレット
(スイス・メトメンステッテン)
母にALSの診断が下ったとき、当然のことながら混乱が起こった。子供一
人ひとりに知らせの手紙が届いた後、お互いに知らないことを数えあう手紙が
行き交った。どういうことなのかと密かに医学事典を調べもした。それはあか
らさまではなかったものの、病気が伝染性なのか遺伝するものかどうかを確か
めるためでもあった。
数カ月経つと、知るべきことは一応知り、未知のものに対する恐怖でおびえ
つづけることもなくなった。時間が経つこと自体が、衝撃を和らげてくれた。
アメリカの実家へ帰ったときに、私は母と父を車に乗せてニューヨークに行き、
検査結果を確認し、同時に資料を集めた。そのときから私はきたるべき試練に
意味を持たせようと、何かできることはないか、また自分の目的とすべきこと
は何かと探しはじめた。
母が全米ALS協会についてはじめて知ったのは、テレビのニュース解説番
組でだったと思う。探求心の旺盛な母は、それ以来目的を持って知識を求める
ようになった。母への対応の素早さは感動的だった。協会の創立者、イームス・
ビショップからの手紙は思いやりがあふれ、パンフレットには現実的で配慮の
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行き届いたALS関係のデータが載っていた。おかげでALSの絶望的な行く
末も少し姿を変えた。自分自身の苦しみを通して、同病の人や家族など親しい
人たちに貢敵することもできるという可能性が見えてきたのだ。
母は、機関紙の「ALSSOAN」に出てくる患者仲間に手紙を書き、持ち
前の温かさと朗らかさを分け与えていた。あの雑誌に自分の考えていることを
寄稿するなかに、ユーモアのセンスのはけ口を見つけたようだった。家族や友
人たちの中には死と直面するのが苦手な人もいたが、そういう人たちはALS
研究に寄付をするなど、間接的に母に手を差しのべてくれた。
発病後の母の生存期間はほぼ平均年数だった。私は幸せにも最後の四ヵ月間、
毎日彼女の世話をすることができた。苦しい時期もあった。家族の一人ひとり
がそれぞれの別れ方に苦しんだ。妙なことだが、別れの期間が長引くと、それ
なりの恵みもある。愛し、親しんできたものとの交流を最後まで続けるかどう
か、それは一人ひとりの選択に任せられることになる。
私の場合は、母との交流ばかりでなく、父との交流も重要な意味を持ってい
た。最後の数カ月間の父の尽力と心配りには並々ならぬものがあり、それを通
して父の献身と愛の心の深さを思い知らされた。子供同士だけでなく、子供た
ちと父との間の交流は意義深く、通じやすく、互いに対する思いやりと支え合
う気持ちに満ちていた。これも、母の私たちへの贈り物だったのである。
ともに泣き、ともに笑った
ナンシー・ゴゾラ
(アメリカ・ミネソタ)
母が不治の病に冒されていることを知ったのは、私が30歳のときだった。
そのころ私は両親から450キロほど離れたところに住み、結婚して、小さな
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息子と娘がおり、しかもフルタイムで働いていた。生活はすでにてんやわんや
の状態だった。
最初、母がそんな病気にかかっているなんて信じられなかった。ALSなど
聞いたこともなかったので、それについて書かれたもので手に入るものはすべ
て読みあさった。読めば読むほど憂うつになった。
母が病気の間、私はよく泣いた。深く愛している人を失う自分のために泣い
た。母が耐えなければならない苦しみを思って泣いた。怒りを覚えることのほう
が多く、だまされたようにも感じた。いつも、むかつくような空しい感じをも
ちつづけていた。夜も眠れなかった。かかりつけの医者にいってみると、よく
理解してくれ、それは悲しみに沈んでいる状態なんだよといってくれた。その
後何カ月も憂うつで、怒りっぽい状態が続いた。
とうとう専門的なカウンセリングを受けることにした。そのおかげでずいぶ
ん楽になったのだった。心の痛みと怒りを外に出すことを学んだのだ。すべて
をなげうって母の看病に飛んでいけない自分に対して感じていた罪の意識につ
いても、いくらか話ができるようになった。家族以外の人に自分の悩みをぶち
まけることができるようになった。生活を続けなくてはならない現実を受け入
れ、働きつづけた。
病気の間、母と私はお互いに正直になんでもいいあった。母の病気の進行状
態や私の状態についても話し合い、ともに泣き、ともに笑った。母は闘病の間
ずっと、精神的に強靭だった。彼女が私に力を与えてくれ、人生を精一杯生き
るよう勇気づけてくれた。ほほえみかけ、ハッピーになりなさいな、とよくい
ったものだ。私が母を慰めるのではなく、母が私を慰めることがしばしばだっ
た。そうした語らいのなかで、母は生と死について多くの大切なことを教えて
くれたのだった。
母と過ごせる時間を持ち、助け合えることができてよかったと思っている。
お互いにどれほど相手を愛しているか語り合う時間があったし、過去や未来に
ついて話し合うこともできた。さよならをいう機会もあった。互いに与え合い、
支え合ったので、後悔はない。
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悲しみと怒りと安堵
スミス家の子供たち
(アメリカ・ニュージャージー)
あんなに生き生きしていた女性が、ALSと診断されたわずか4カ月後に死
ぬなんてことがあるでしょうか?
母に最初の症状が現われたのは2月でした。7月、検査のために入院。タバ
コをやめること、もっとカルシウムをとること、運動をすることを指示されて、
退院してきました。それがまちがいだったのでしょうか ?
私たちは昔、母につらくあたりました。タバコを取りあげ、食べなさい、歩
きなさい、運動しなさいと大きな声を出して、なんと残酷な子供たちだったで
しょう。母が私たちを憎んでいないことを願っています。その間じゅう、母は
よくなろうと一生懸命でした。
10月にはALSと診断されました。
私たちが医者の部屋を出てきたとき、母は自分が相当重い病気であることを
感じとっていました。しかし、私たちはすぐには母に伝えないことにしました。
よくなろうとあれほど努力した後でしたから、そんなことをいったらショック
を受けやすい状態になっていました。これまでの努力が無駄だったなどとは、
とてもいえなかったのです。
その後の4カ月間、よいときも悪いときもありましたが、私たちは皆できる
だけのことをしました。今まで、母とは何についても気軽に話し合ってきたの
に、その母がよくしゃべれなくなったので、皆とてもがっかりしました。いっ
ていることがわからないので、母から書いてもらうこともたびたびでしたが、
母は目も不自由になっていたため、書いてもらってもほとんど判読できません
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でした。そこで、臨床心理学者に相談して、母とのコミュニケーションを助け
てもらうことにしました。
セラピストは母の状態を、「知的で感じやすい精神が、衰えていく肉体にと
じこめられ、見えないために書くこともできず、今やしゃべることもできなく
なってしまっている」と説明し、そんなときの感情について話してくれました。
母の目には涙があふれていましたが、何もいいませんでした。われわれ子供た
ちのほうがセラピストを必要としていたのかもしれません。私たちは、望みを
託して、あらゆるところを駆けまわり、無理をしてきたようでした。でも、ほ
かに何ができたでしょう ?
母が亡くなったとき、私たちは、悲しみ、安堵、そして怒りのすべてを一度
に感じました。ほんの数年前まであんなに元気だった人間に、この病気がもた
らしだ悲劇に対する怒りを感ずると同時に、恐れと苦痛がやっと終わったとい
う安堵感がありました。
母に生きていてほしかったという気持ちはありますが、これでよかったのだ
と思っています。今は、母は安らかに眠っており、私たちは皆、いつか母に会
えるのです。
途中で立ちどまって
ボニー・ジャスミン
(アメリカ・ニュージャージー)
母は、ALSの犠牲者だった。母の闘病中に私たちが出逢った数々の困難を、
控えめにいうことなどできない。それでも、この恐ろしい病と母のたたかいは、
私の人生を劇的に変え、数えきれないほど多くの人びとの人生に多大な影響を
及ぼしたことも事実である。
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8年前、母は、自らの希望でナーシングホーム(施設療養所)に入っていた。
絶望的な気持ちで、彼女と向かい合って座っていた日のことを今でもはっきり
覚えている。母は、すっかり変っていた。快活で、まぶしいほど美しかった母。
私は、かっての母を必死で思い出そうとしていた。人びとの触れ合いを求めて
手を差しのべるとき、一番幸せそうでった母。
恐れと悲しみにその瞳の輝きも失せ、慈愛に満ちた笑顔も消えて、そこには
ただ疲労と緊張と拒絶が暗い影を落としていた。そのころの母は、基本的な要
求を表情で私たちに伝え、そのほかはメモを書いて意思表示をしていた。苦し
みのただなかで、かっての他人への心づかいは、その片鱗も残っていなかった。
死の恐怖にひどくおびえていた彼女は、それだけに、生きようとする激しい意
欲に燃えていた。
やがて私の思いを断ちきるかのように、母は私に一枚のメモを手渡した。「家
に連れて帰って。屋根裏部屋でもいいから」
そのときの私の気持ちがわかっていただけるだろうか。
「ああ神様、どうすればよいのでしょう?」
無言のまま私は必死で祈った。前途に横たわる苦難に満ちた現実のことで、
頭が一杯だった。
「何か、家に帰りたい理由があるの?」
私は、母の顔をじっと見つめてたずねた。
力をふり絞って彼女がやっと書いたメモには、前夜、夜勤の看護婦が母に暴
行を働いたという恐ろしいことが記されていた。私は、すぐにも看護婦の詰め
所に怒鳴りこみたい衝動に駆られた。でもそのかわりに、母の弱々しい顔を両
手でそっと挟むと、子供のころ以来ずっと忘れていた母に対する温かい気持ち
と愛情が、次第によみがえってきた。
「ねぇ、お母さん、まず家の人たちと相談してみないと、私ひとりの考えで
お母さんを家に連れて帰るわけにはいかないわ。わかるでしょう?」
母は、わかったというようにうなずいた。
ALS発病後の5年間で、彼女の、自分が有益な価値のある存在だという意
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識は、徐々にむしばまれていったのだった。母が精神的に行きづまったとき、
彼女にもつとも必要なのは神だった。どうにも身動きがとれなくなると、母は
私に助けを求めた。でも、私にはどうすることもできない問題だった。彼女に
自らの価値と尊厳を再び意識させることが、私にできるだろうか?
神様なら?
悩みながら、母は死ぬまでこの問題で苦しみつづけるのではないかと不安にな
った。
ナーシングホームの担当医の話では、病状が急激に悪化したため、母の命は
あと3週間持つかだけの世話をするものだ。母の定められた命を私たちが左右
できないのは、わかっていた。そこで私たちは団結して、彼女が必要とするか
ぎり希望を与え、心の支えになろうと決意した。互いに協力し、神の力も借り
て、ともに勝利への道を歩みはじめた。私たちは互いに絆を深め、数々の障害
や限界を乗り越えていった。こんな言葉を聞いたことがある。
「勝者にとって、
敗北は一時の小休止であるが、敗者にとって、敗北は人生
そのものである」
担当医が予測した3週間は、四年になった。つらいときも、悲しいときもあ
ったが、一度として後悔したことはない。神は、ついに母に手を差しのべられ
た。帰宅後7カ月を経て彼女は信仰生活に入り、その張りつめた表情は、次第
に穏やかになっていった。体力を回復するきざしはまったくなかったが、彼女
の周囲に立ちはだかる壁は取り払われたのだ。それでもまだ、思いきり心配し
たり、泣きたいだけ泣けるような場所が彼女には必要だった。幾度となく、私
たちはともに泣いた。
母は、感情を十分味わってから、自ら判断し、疑い、努力することができる
場所をやっと与えられた。つらく苦しい体験を経た心の傷は、癒えるまでに長
い長い時間がかかるものだ。
季節が重なり、数年が過ぎるうちに、母の思いはそのまま、彼女を愛する人
びとの思いとなった。彼女の部屋を訪ねる友人たちに投げかけられた光り輝く
微笑みは、彼らとともに外の世界に広がっていった。母は、病の重荷に打ちの
めされることを拒み、それを進んで受け入れることで心の安らぎを得たのだっ
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た。
多くの場合、私たちにとって母の看病は挑戦そのものだったが、負担に思う
ようなことはけっしてなかった。そして、個人の価値は、体の健康に基づくも
のではないことを知った。一つの生命の代価は、とうていはかりしれないもの
だ。命の価値を知る機会を逃がさなかった私たちは、ほんとうに幸せだった。
私たちは、気違いじみた日々のスケジュールに追われている途中で立ちどまっ
て、死にゆく者の声に耳を傾けた。私たちが耳にしたものは、十分に経験する
だけの価値があるものだった。
喜びの涙
メリニー・ディラック
(アメリカ・カリフォルニア)
私は一人っ子でした。当年とって43歳。6年前、4人の10代の子供を一人
で育てながら、大学に通っていたころのこと、父が足を引きずるようになりました。
2、3カ月して、父を家に引きとりました。ALSで寝たきりになったのです。そして
2カ月で父は帰らぬ人となりました。
病院用ベッドをリビングルームに置いたのは、父が生活の中心でいられるようにした
かったからです。夜は、私のベッドルームの隣で休んでもらいました。少なくとも週に
一回は家族の集いを持ちました。一人ひとりが第一に優先したのは、家族のほかのメン
バーがおじいさんの世話をしているあいだ、一人は家の外で何か楽しいことをして時間
を過ごす、ということです。私はどんなに疲れていても週に一度は婚約者と夕食をし、
ダンスに行くように心がけました。
訪問看護協会やホスピスは、私たちにとっては天の贈り物でした。ホスピスからきて
くれた人は、父と随分時間を一緒に過ごしてくれました。父が抱いていた無力感や死に
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対する思いなどを、話して外に出すようにしてくれたのです。子供たちにも、『グラン
プス(祖父母たち)』というすばらしい本を薦めてくれました。
父のベッドの周りで、ピザと笑いを分け合いながらのピクニックもやりました。彼の
好きな音楽や、友人たちが作ってくれたテープをかけたこともあります。子供たちの一
人ひとりが、おじいさんととびきり上等の時間を過ごしたようです。涙も流しました。
でもこれは父にも私たちにも必要なことでした。一番上の高校生の娘は「おじいさんに
学校のことをずいぶん助けてもらったのに、卒業するところを見てもらえないのが
残念なの」といって、二人で泣きました。その二日後、父は亡くなりました。
父は弁護士が遺言を完成するまで持ちこたえました。朝、それに署名すると
き、父は私の耳元に囁きました。「愛しているよ」と。その夜、眠っている間
に息を引きとりました。親しい友人やホスピスの女性も交え、夜通し互いを抱
きしめ、話し合い、ワインとごちそうをともにしました。涙は喜びの涙でした。
父の苦しみがこれで終わったのですから。
葬式のかわりに追悼式をしました。子供たち全員と父の親友の何人かは、詩
やユーモアあふれる言葉を書いてきました。父はきっと大喜びしたと思います。
一部始終録音しましたが、いまだに聞き直していません。式の後、みんなでデ
ィズニーランドヘ繰り出しました。父の霊が私たちと一緒だったと思います。
みんな休暇が必要だったんてす。私たちはみんな、できるかぎりのことをしま
したし、父は百パーセント愛されていたことを知りつつ逝きました。
毎日を大切に
シャーリー・リッチー
(ニュージーランド・サウスカンタタベリー)
「神様、そんなこと、絶対に嘘です!」
99
医師が夫に死の宣告を下したとき、私は、心の中で叫んだ。
「原因不明、治療法なし、治癒の見込みなし」
今でも、私はこの冷酷な宣告を受け入れる覚悟など持てない。ケンも私も、
受け入れることができなかった。医学も科学もこれほど発達した現在、そんな
ことがあるのだろうか ?
その思いが、何よりもまず頭に浮かんだ。そして、
徐々に容赦なく麻痺が進行するこの病気の恐ろしさを目の当たりにしたとして
も、ケンの病気が絶望的なものであるという事実を、とうてい受け入れられな
いだろうと思った。私は、この恐るべき病を恨んだ。なんとこの怪物は、こん
なにも愛している夫を、じわじわと冒して身動きのできない体にしていこうと
しているのだ。
ケンの回復のためには、ビタミンやミネラルの摂取、自然食、水泳などの軽
い運動など、あらゆる方法を試みた。
将来に対して、絶えず希望を失わず積極的に立ち向かうことは、けっして容
易なことではなかった。だが、私たちはクリスチャンだったので、 ついにすべ
てを神の手にゆだねた。そして、信じられないほどの心の安らぎと強さを与え
られた。はじめ、医学的に治癒の見込みがないことを知ったとき、ケンは将来
を考えて恐れおののいた。彼のように、活動的で自立心の強い者にとって、な
にもかも他人に依存しなければならない将来の生活は、ひどく耐えがたいもの
だったと思う。
「あまり苦しくなったら、自殺するのを手伝ってほしい」
ある日ケンにそういわれて、私は暗たんとした気持ちになった。私は、何も
答えなかった。夫の自殺に手を貸すなんて、考えただけでも恐ろしい!
ケンは以前にもまして聖書をよく読むようになり、教会のテープも聞くよう
になった。そしてALSや人生や将来に対する姿勢が、次第に変わっていった。
やがて全身に麻痺がおよぶころには、自分の命を絶とうなんて考えはまちがっ
ていた、というようになっていた。私たちは、現在に生きることについて非常
に多くのことをともに学んだ。
死に直面して、ふたりは愛し、泣き、笑うようになった。死は、毒牙を失っ
100
たのだ。私たちは、昨日は思い出、今日は現在、そして明日はまだきていない
今日と考えた。そして、明日があると信じて計画を立てることを学び、それで
も今日がすべてであるかのように生きてきた。矛盾しているようだが、私たち
にとってはそれでうまくいったのだ。毎日がとても大切だった。
この病気に出合ってから、大切だと思うものが変わった。物質的なものは、
もはや重要ではなく、人びとを大切に思うようになったのだ。四人の息子と三
人の娘たち、それに友人たちがかけがえのない財産だった。私たちは、みんな
の訪問を楽しみにしていた。一日を輝かしいものにしてくれたからである。友
だちや教会の人びとは、強い心の支えとなってくれたうえに、さまざまな思い
やりにあふれた行為や、心づかいを示してくれた。この苦悩に満ちた生活の体
験を通じて、私たちの助けとなることを心から願っている友人がたくさんいる
ことを知った。
一方、次第に全身を冒され、話すこともできなくなっていくケンに会うこと
に、どうしても耐えられない人たちも少数ながらいた。彼らは苦痛に耐えかね
て、私たちから遠のいていった。それでも、私たちはその気持ちを理解し、今
までと同じように愛した。以前と変わりなく私たちを訪ねてくれた人たちは、
苦境に立ち向かうケンの姿勢にとても感動したそうだ。ケンの姿は神の愛をそ
のまま体現しており、人びとはわが家で安らぎを感じ、とても勇気づけられた
のである。
在宅で、ケンとともに生きることができる幸せに恵まれたことを神に感謝し
ている。私は、彼を介護するだけの体力にも恵まれていた。それでも、一日二
四時間の介護の重荷に、負担を感じたこともあった。そんなとき、そこらじゅ
うの家具を蹴って歩きたいような気分になって、心の中で思いきり大声でいっ
た。
「神様、
なぜ私たちがこんな目にあうのですか?
あなたは、愛と健康の神、
あなたが、病気をお与えになるはずはありません」
不思議なことに、やがて謙虚な気持ちになり、次第に平安に包まれ、神の声
が聞こえてくるのだった。
101
「あなたが私とともに歩んできた長い年月、あなたが数々の困難に出遭った
とき、私はいつもあなたとともにいたではないか。さぁ、私を信じてついてき
なさい」
そう、苦しみから抜け出す道が見つけられないとき、神はケンと私に心の平
安と力を与えてくださった。一九八四年、ケンは神に召された。
私のALSに対する思いは、今でも変わらない。健康な人間を衰弱させ、無
力な身体障害者にしてしまう威力を恨めしく思っている。だから、解決の道を
見つけるためには、何でもするつもりでいる。時間の許すかぎりALS患者の
手助けもする。そしてまた、忘れられた患者にだれかが彼らを心にかけている
ことを知ってもらうために、私の町に地元グループを作ろうと頑張っている。
ニュージーランドの医学では、今のところいかなる助言をすることもできず、
解決策も見つかっていない。症状を和らげるために何をすればよいか、試行錯
誤を繰り返して、自分たちで答えを探さなくてはならなかった。そのために、
私たちは孤独なたたかいをしていると感じたものだ。
この苦難の道をたどった人がほかにもいることを、この手記で知ってもらえる
ことを強く願っている。
誕生と死
N・L
(フィンランド・ヘルシンキ)
10年経った今でも、当時のことを人に話すのはとてもつらい。私たちは大
家族で、私が生まれ育った家に住んでいて家の中はいつも賑やかだった。夫の
ハンヌは外向的な人で、いつも大勢の人に囲まれていた。当時、私の母は趣味
で織物をやっており、家族、一人ひとりが自分の敷物を持っていた。夫の敷物
102
は、白とマリンブルーと燃えるような赤で、彼の送った人生を象徴するかのよ
うに、「生への情熱」と名づけられていた。
あの日、私たちは8月の日差しを浴びながら、病院の中庭に座っていた。世
界が音を立てて崩れていくのを感じていた。だが、それも束の間のことだった。
私のおなかの中には赤ちゃんが育っていたのだ。まだ生まれない子供に私たち
は希望を託した。
夫がALSと診断されたとき、何をいわれているのかよくわからなかった。
そんな病気は聞いたこともなかったのだから。えたいのしれないものとたたか
うのはたいへんなことだ。最初のころは、その日その日の症状に対処して何と
かそれまでどおりの生活をしていたが、やがて、病状は急速に悪化した。私た
ちは打ちのめされ、現実を認め、ALS患者としての日常を送ることになった。
一日の基本的なことをするのが精一杯となったのだった。
当時の精神的なつらさは忘れられない。病気のせいで、足元がふらついたり
明瞭に話せないのを、酔っ払っていると誤解され、夫はショックを受けた。事
情を説明できずに泣いたり、涙を飲んだことが何度もあった。でも、私たちは
すぐに元気を取り戻し、あれこれと計画を立て考えを練った。それでもいいよ
うのない孤独感を拭い去ることはできなかった。私たちは、ハンヌができるだ
け長く家にいることができ、子供が生まれたあとも、家族一緒に暮らせるよう
にと願っていた。でも、結局、夫はクリスマスの直前に入院し、レスピレータ
ーがつけられた。
もっともうれしかったのは娘のローラが生まれたときだった。出産の翌朝、
義弟と友人が赤ん坊の写真を撮ると、すぐに現像して、夫のところに持ってい
った。夫は同じ病院の別の棟に入院していた。そうでもしなければ、私たちの
生活は大混乱に陥っていただろう。私は毎日、夫を見舞った。退院後は夫の看
病と娘の世話、その他の用事で明け暮れた。
絶望感にとらわれることもあった。そんなときには、森に深くわけ入り、胸
の苦しみを声に出して叫びたい気持ちにかられた。そうして心の中をすべて吐
き出し、新たなエネルギーを得たいと思った。夜になると私は疲れと不安で泣
103
いた。泣き、祈り、そしてまた泣いた。翌朝まで、泣くことでひたすら耐えた。
苦しみに慣れ、それを感じないときさえあった。
落ち着いて精神活動を維持してゆくことが最大の問題だった。夫は知的な人
で、いつもたくさんの本を読んでいた。これについては、病院の有能なスタッ
フが手を貸してくれた。夫のために、アルファベットがディスプレイ画面に出
る特別な意思伝達装置が考案された。おかげで、ほかの人と意思の疎通を保つ
ことができた。でも、どんなすばらしい装置だとしても、十分とはいえないよ
うだった。人生から疎外されるのは耐えがたく、つらいことなのだから。
最後の数週間、私は夫のそばにいて、二人だけで静かに過ごしたいと望んだ。
本当に必要なことだけに集中するために。心と心で語りあい、きたるべき運命
を受け入れるために。
苦しみを経験すると、人は変わる。他人に対する思いやりか深くなり、心が
穏やかになる。私は、死が人生の一部であることを学んだ。私は誕生と死との
出会いに居合わせた。当時のことは、今でもはっきりと覚えている。
彼のおかげで私は成長した
ジョー・エレイン・スミス
(アメリカ・コロラド)
7月4日、主人と私は、最後のゴルフ、ナインホールを楽しんだ。オクラホ
マでのあの暑い休日、私たちは家に帰ってポーチに座って涼むことにした。
主人がALSにかかっているとわかって、私たちは将来に絶望し、不安を感
じていた。いわば本能的に、二人の生活が終わろうとしていることを知り、対
策を講じることを急いだ。泣いている暇はなかった(泣くのはまだあとのこと
だ)一つずつ、実務をすませていった。たとえば、葬儀屋との葬式の式次第の
104
打ち合わせ、弁護士のところでの娘や孫たちのための信託財産の手続き、ブロ
ーカーとの話し合い、家の売却、書類登録のための裁判所への往復。アパート
の賃貸、25歳の目の見えない雄猫を獣医のところで始末してもらったりなど
など。そして娘の近くにいられるようにと、コロラドへ引っ越した。
幕の下ろされる日は、すぐに近づいてきた。彼のかぼそい体を持ちあげるこ
とさえ私にできなくなっていた。コロラドのすばらしい山々を窓の外に見なが
ら、私は「神よ、彼の魂に安らぎを」と声をだして祈った。神の助けがきたの
は、娘が付き添っていたときだった。娘が強く勧めてくれたので、疲れ果てた
私は二階で休んでいた。
最後の日、娘は電話もしないのにやってきた。近くに住む看護婦もそうだっ
た。「もう最後です。あと8時間から12時間くらいの命でしょう」と看護婦
は私にいった。突然、声が聞こえ、外に通じるドアを開けると、がちょうの群
れが家の真上を鳴きながら飛んでいくのが見えた。「何かの知らせだわ」と、
私は叫んだ。病院の部屋へ急いで戻ると、確かに、主人の血圧は低下していた。
看護婦が主人の脈拍、呼吸、体温などを調べている間、私は主人の腫れあが
った手を握って、「暗いトンネル」のこと、旅の終わりには「安息」のための
「神聖な光」が見えることなどを語って聞かせた。心が通じ合ったような奇妙
な感じが部屋にあふれた。主人が私の手の届かないところへ静かに遠ざかるに
つれ、平和で平静な気持ちが私を満たしていった。彼が最後の息をするのを見
たときは、少し羨ましく、心がうずいた。
言葉にはしないまま、私たちは最後のさよならをいった。私たちがともに過
ごした31年間を奪うことはだれにもできない。私たちの一つになった魂、考
え、目標、理想、そして、ともにしてきたことは、だれも取りあげられない。
この世での二人の生活に感謝し、天国で再び一緒になる日を楽しみにしている。
彼のおかげで私は成長した。私は前よりも強くなった。優しい人間になった。
人生を精一杯生きることもできた。主人への愛のために、人類全体への愛も強
くなった。
ためらうことなく、私は主人の脇に立った。彼も私のために同じことをして
105
くれたであろう。
病気から学んだこと
ルイス・ボガート
(アメリカ・ミズーリ)
1980年1月、ジャックがALSの告知を受けたとき、私たちの世界は音
を立てて崩れ去りました。そのうち、支援団体の集まりに二人で出かけるよう
になって、一日一日を大切に生きていくことを少しづつ学んでいきました。
会合に出席している他の患者たちやその家族、医療関係者から、多くのこと
を教えられたのです。そして、私たちは定期的に教会に通ったり、ショッピン
グセンターに行ったり、できるだけ活動的に過ごしました。ワゴン車を買って
からは、外出がずっと楽になりました。教会の人たちをはじめ、家族や友人た
ちは、親身になって助けてくれました。
やがて、飲食物を飲みこむ力がなくなると、ジャックは栄養補給管を挿入す
るために入院しました。その後、肺炎を併発して1983年11月に亡くなり
ました。私たちは、レスピレーターの使用の可能性について、何度も話し合っ
たのですが、レスピレーターを使わないという彼の意志は固かったのです。
この問題を患者と家族がオープンに話し合うことは、たいへん重要だと思いま
す。これからも、数多くの人びとがいずれかの決断を迫られる問題だからです。
ジャックとともに過ごした年月はとても楽しく、今回の経験を彼とともに分
かちあえたことを幸せに思っています。そして、自宅で彼の世話をすることが
できたことを深く感謝しています。
家にいることは、彼にとってなによりも大切なことだったのです。
106
リ
忘れられない夜
匿
名
ALSは、まず主人の両腕を冒した。彼はいつも快活でとても立派だったが、
ただ、どうすることもできない自分の無力さにひどくいらだっていた。六カ月
後、体のほかの部分にも麻痺が始まると、もう外出できなくなった。
それから二年間、私たちは精一杯、かなりうまくやってきた。ところが、あ
る日、夫をべッドから降ろそうとして体を持ちあげた息子が、彼を落としてし
まった。一六歳の子供にとって、相当心の痛手となる出来事だったに違いない。
夫の怪我はたいしたことはなかったが、私は子供たちに負担をかけすぎていた
ことに気づいた。そんなこともあり、やがて夫は入院することになった。その
ころには、話すことも、ものを飲みこむことも困難な状態になっていた。
私たちは彼のために電動タイプライターを買い、病院では腕に支持具を装着
した。彼は指一本でタイプを打ちつづけ、子供たちには短い物語を、私には詩
を何編か書きあげてくれた。これは、彼にとって大きな気晴らしになった。そ
して私たちは、できるかぎり週末には彼を家に連れて帰った。
あるとき、夫が五百ドル欲しいといったので、私は何も聞かずにお金を渡し
た。彼は、私のためにびっくり大パーティを計画していたのだ。私の友人たち
に指示を与える手紙をタイプで打ち、バンドを雇い、ディナーを準備し、バン
ドに私たちのお気に入りの曲を全部演奏するように伝えた。それは、私にとっ
て忘れられない夜となった。出席した友人や子供たちも、けっして忘れること
はないだろう。
私は、彼が何をしているのか、まったく知らなかった。病院側の話では、パ
ーティの計画を進めていた二カ月間が彼を持ちこたえさせたということだった。
一カ月後、彼は他界した。
107
私の苦しみが始まった
アンジェリ力・スヌデルル
(ユーゴスラビア)
ALSは愛する夫を奪いました。すべては一四力月前に始まりました。まず、
話すことが困難になりました。それには本人だけでなく、職場や家の者たちも
どんなに打撃を受けたかわかっていただけると思います。善意と希望が私たち
を支えてくれました。私たちは、そのうちよくなると思っていました。
六ヶ月が過ぎ、専門医が、彼にではなく私にALSがどういう病気か、何を
予想しておくべきかを話してくれました。私は頭をよぎるつらい考えを心の奥
にしまって、彼が飲んだり食べたりするのを手伝いました。息子たちが訪ねて
きたときも、なるべくしっかりしているところを見せ、父親がどうしょうもな
い状態だなどと思わせないようにふるまいました。今でも、よく最後まで頑張
れたものだと思います。
入院したとき、本人もこれが最後だとわかっていたようです。ある朝、彼は
私の腕のなかで息を引きとりました。彼のつらい苦しみは終わりましたが、私
の苦しみが始まりました。
悪夢から目覚める時
マーガレット・ネイデル
(アメリカ・ニューヨーク)
108
運命は私たちに汚い罠をかけました。ヨーロッパでの戦闘とヒトラーの破壊
を生きのびてきたのに、この国で生活を始めて間もなく、ハリーの腕がALS
にかかっていると診断されたのです。当時、それが何なのかわかりませんでし
た。「ルー・ゲーリック病」(ALS)など聞いたこともなく、その人が何者
かも知らなかったのです。
ハリーは家に帰され、私たちだけで何とかしなくてはなりませんでした。私
はハリーの気分を引き立てようとできるだけのことをしました。でも、ハリー
のようにアウトドアタイプの人間が、日に日に弱っていったら、どうしたらよ
いかわからなくなるものです。アドバイスを受けるにも、どこへ行ったらいい
のかさえわかりませんでした。
ハリーは一年から一年半で死ぬといわれました。 信じられませんでした。二
人で死にたいと思いました。ハリーなしには私には何もなかったのです。死ぬ
ことを思いとどまらせたのは、もし私が死んでハリーが残ったらどうしようと
思ったからでした。だれが彼の世話をするのでしょう。だれとも何にも相談で
きなかったのです。
今の患者さんたちは、何と幸運なのでしょう。ほかがどうであれ、とにかく
行けるところがあります。
患者さんの皆さん、とにかく頑張ってください。もう一人ではないのです。
明日か、来週か、来月か、治療法が見つかるかもしれないのです。最後には、
太陽は再びあなたの上に輝きます。そのとき、あなたは悪夢から目覚めるでし
ょう。
ミッキー・モックの夢は永遠
ディビッド・J・ペティグルー
(中国・香港)
109
マイクが香港で亡くなったというのは何だか皮肉な気持ちです。でも、彼に
は一番ふさわしい場所だったようにも思えます。香港は彼が愛し、そして、彼
の人生のうちでもっとも幸せで輝かしいときを送った土地だからです。
マイクは香港で、文字どおり伝説の人でした。彼のような情熱、意欲、エネ
ルギー、そして創造力にあふれた男には会ったことがありません。運よく彼と
仕事をすることができた私たちは、あきらめきれずに彼にかわる人物を探して
います。でも、彼のような男には二度と出会うことはないでしょう。
ロックの王様、ミッキー・モックは香港の顔でした。彼の登場で、日曜の朝
はすっかり変わりました。マイケル・ボーブの声は、この街の多くの広告にバ
イタリティを与えたのです。
マイクは熱帯の島が好きでした。彼がようやく、太陽の光あふれる彼の島を
見つけたときに、最悪の運命に見舞われたのは痛ましいかぎりです。
彼はいまだにほとんど解明されていないALSで亡くなりました。この病気
に冒された彼は、以前の彼を思えば文字どおり影のようになってしまいました。
彼にとってこれは想像を絶する苦しみだったに違いありません。でも、その耐
えがたい苦しみにもかかわらず、彼は生きることへの情熱を持ちつづけました。
普通の生活をしようと努めていました。病気についてぐちをこぼしたり、哀れ
みをこうたりはしませんでした。
この病気の治療法を見つけるための研究基金をアジアに設立するのが、マイ
クの夢でした。われわれはその夢を実現しょうと決意しました。彼の名前で募
金をスタートさせます。
マイケル・ボープはもういません。でも、ミッキー・モックの伝説は消える
ことはありません。私たちは彼のことをけっして忘れません。
(マイケル・ポープの葬儀における追悼の言葉)
110
国会へのメッセージ
エルマー・セリン
(アメリカ・ワシントンDC)
妻のシルヴィアがALSにかかったと告げられたとき、介護の仕方について
は何もいわれませんでした。カリフォルニアに米国ALS協会があるというこ
とを教えてくれただけです。
さっそくこの協会に手紙を書き、ALSに関するパンフレットを送ってもら
いました。 それを丹念に読んでから、ALSそのものについてと、ALS患
者の介護についてもっといろいろ知るために、あちこちの医学図書館も当たり
ました。
また、ALS対策を立て、ALS研究の予算を割り当てるための一連の法案
を立法化せよと、たった一人で国会で陳情活動を始めました。
妻の病状は進んでいましたが、それでもできるかぎり活動的に生活していま
した。安息日にはよそゆきの服を着せ、車椅子のまま自動車に乗りユダヤ教会
に行き、車椅子を押して中へ入って礼拝が終わるまで付き添っていました。
こうした生活を3年間続けたころ、これでは肉体的にも精神的にも私がまい
ってしまうから、妻は老人ホームに入れたほうがいいと娘からいわれました。
はじめはその気になれなかったのですが、最後には同意し、妻を近くの老人ホ
ームに入れました。毎日そこへ通って、八時間から、多いときには15時間も
妻と一緒に過ごしました。
亡き妻を思い、今日にいたるまで自発的に国会で陳情運動をしております。
生化学研究、在宅療養、ホスピス看護、メディケア(主に六五歳以上の高齢者
を対象とした政府の医療保障)とメディケイド(州と連邦政府が共同で行なう
低所得者や身障者のための医療扶助制度)、長年放置されていた麻薬研究、そ
の他の重要な保健活動などがより高額の予算配分を勝ちとるときに、こうした
陳情活動は役に立ちました。74歳になった現在、私はこの運動にかけること
こそ、私の人生を豊かにし、意味あるものにすると考えております。
111
112
うつ状態とのたたかい
ブライアン・S・グールド
(医学博士・アメリカ)
ALS患者の介護に当たっては、当然うつ状態が問題になる。常識で考えて
も、これほど重篤な障害を引き起こす進行性の病気なら、だれでも憂うつにな
るだろう。
ところが、身体障害が進み、意思の疎通が極度にむずかしく、そして近づく
死への恐怖があるにもかかわらず、ALS患者の大多数は、何とか人生に前向
きの姿勢を保っているという少々「不思議な」所見を示した報告が、医学文献
から見受けられる。しかも、患者のほとんどは、病気になる前の性格を保ちつ
づけ、周囲の環境とも積極的にかかわりつづけている。一般的に精神状態があ
まりによいので、あるいは「正常」ではないのではないかという人もいる。何
らかの形で、ALSの病気の過程で、ある種の特異的な脳の機能障害が起こり、
そこからくる生物学的変化のために、この病気を否定したり認識できなくなっ
ているのではないか、と示唆する研究者も何人か出てきた。
そこで、私たち研究班は、ALS患者とその家族に対して、はじめて大規模
な総合的調査を行なった。内容は性格、病気に順応してゆくパターン、治療に
おける患者と家族の相互作用についてなどである。調査完了までに百名に近い
患者とその家族のデータを得た(公表された調査としては、これに次ぐものが
対象患者10名であることに比較すると画期的である)、このように調査べー
スが大きく、かつ調査結果に矛盾がないことから、ここから多くのことが学べ
るものと自信を持っている。
私たちの主要な発見は、医師にとっては驚きかもしれないが、この本の読者
には驚くほどのことではなかろう。主要な発見とはつまり、少なくとも最善の
科学的手法を用いて判断するかぎり、精神的な面ではALS患者は一般の病人
(そのほとんどはずっと軽い疾病で入院している)と何ら変わるところはない
のである。
113
より具体的にいうと、ALS患者の約25%は、病気の過程で精神のうつ状
態をある期間経験してはいるものの、臨床的な意味での真のうつ病にまで進行
してしまったのは、わずか10%なのである。つまり、確かに一時的な悲嘆、
落胆、意気阻喪は比較的よく見られるものの、それは自然に終わり、長続きし
ない。
さらに、脳障害に関する一般の憶測に反して、ALS患者には少しの知的障
害も見受けられず、ほとんどの人は、かなり高度な心理的克服メカニズムをう
まく使いこなしていた。たとえば、患者が残された体の能力を最大限に利用し、
「よい面を強調して」いる姿に私たちは感銘を受けた。
これは間接的否定という一般的な健全な防衛機能を上手に使っているのである。
簡単にいえば、人間は「それについてあまり考えない」ことで不快な状況に耐
えるのである。
ある人が書いているように、「だれでも死ぬことばかり考えていたら、電話
料金の支払いさえできない」だろう。大多数のALS患者にとっても同じこと
なのである。生きることに一生懸命で、障害や死についてくよくよ考えこんで
いる暇などないのだ。
こうした話し合いを通じて、もう一つわかったことがある(これも少々予想
外だったのだが)。
それは、ALS患者にとって、死自体より、自分の肉体や時間、つまり人生に
対する支配権を失うことのほうが、より大きな心理的問題だということだ。
さて、ALS患者自身が概して精神的に健全なのに対して、家族の体験する
衝撃が大きいことを私たちは改めて思い知らされた。明らかにALSは、単な
る一個人の神経系の病ではなく、複数の人間を同時に襲う比類ない大きな苦難
なのである。その大きな負担は、大方は、うつ状態という形で現われる。だが、
うつ病と診断されることは滅多にない。
私たちが面接したどの家族も、家族の一員がALSにかかると、精神的にも
日常生活の面でも深刻な変化をきたすといっている。たとえば、非現実的な罪
悪感、家族のだれかに罪をかぶせること、抑えられない悲しみ、怒りの内向、
114
過剰な自己犠牲、「奇跡的な」治療法をあくまで探すこと、そして患者に向け
られたサディズムにいたるものまである。
通常、家族はALSと自分の苦しみとの関連性を意識していない。また同じ
悩みはどこにでもあり普遍的な問題だということに、まったく気づいていない。
患者自身の勇気を前にして、家族は自分の悩みをむしろ自分の弱さとして恥じ、
だめだとわかりながら効果のない自己防衛の方法にしがみつく。こうした状況
に順応するために専門家の助けを借りていた人はほとんどいなかった。が、そ
の機会が与えられると、数回のカウンセリングでたいへん好ましい結果を示し
た。
数は少ないが、いくつかの家族で有意義な観察をすることができた。ALS
に見舞われた場合は、この病気に家族の一人ひとりが適応していくことが必要
である。同時に一人ひとりがそれぞれのやり方で対処していくことを、お互い
が分別のある態度で受け入れていくことが重要なのだ、ということがわかつた。
そうやってはじめて、家庭の中で緊張と葛藤にかわって、真の支え合いが生ま
れるのである。
最後に、うつ状態はたいへん他人に伝染しやすいものだということも明らか
になった。それは看護する側にも移る。医師が、突然いっさい、受け付けなく
なったり、早々と悲観的すぎる予想をたてたり、またリハビリや理学療法とい
ったごく普通の有効な療法を「どうせやってもしようがない」といった曖昧な
根拠で拒否するといった経験は、どのALS患者にもあるだろう。これは、医
師(または看護婦)の無意識のうつ状態が、病状に対してひどく悲観的で「こ
れが現実なのさ」といってしまう形で出てきているのである。またそれによっ
て自己弁護してもいるのである(「私に問題があるのではない。どうしようも
ない状態なのだから、これ以上私を困らせないでくれ」)
以上の経験を通して、結論として、いくつかの一般的なアドバイスを次に記
す。
(1)人はそれぞれ、その人なりのやり方でストレスに対処していることを
心すること。
115
「適応すること」を押しつけようとしたり、期待どおりに相手が反応してくれ
ないからといって、がっかりしないこと。自分の気持ちを言葉にしたい人もい
れば、したくない人もいる。他の点がうまくいっていれば、どちらがより効果
的とはいえない。
(2)患者の行為こそ、あらゆる面での適応を計る最良のバロメーターであ
る。
感情は誤った指標となりかねない。言葉となって感情が吐き出されても実は
うまく適応が進んでいることもある。また何もいわなくとも、ひそかに深刻な
悩みを抱えている人もいる。その場合、行為が有効な指針となる。普段と変わ
らない興味を持ちつづけ、友人関係も維持し、自発的に会話に参加しているの
であれば、おそらく大丈夫だろう。
(3)ALSは不治の、だが、運がよければ長持ちするという疾患だから、
無理をしないこと。
大騒ぎしてみたり、すべての問題を全部自分で解決する責任を感じたり、ま
た他人を責めたりするのは意味のないことだ。自分も他人も責めてはいけない。
とどのつまりは本当の問題、つまり疾患に対してできることはほとんどないの
である。運悪く、人間というのは自分を無力と感じるよりは罪悪感を持つほう
がましと考え、信じ られないほど多種多様の想像上の過ちで自らを責めたてが
ちなのである。
(4)完全な自己犠牲がもしも効果的な看護法ならお勧めする。が、残念な
がらそれはALSに何の効果ももたらさない。
だからときには充電のために休みをとることもお忘れなく、1日24時間、
週に7日間休みなく看護していれば、必ず大きなしわ寄せがくる。長期戦覚悟
で自分のペ ースを決め、家族の他のメンバーにも同様に余裕のある看護ぺー
スを割り当てよう。たまにあなたが映画に行ったりブリッジをしにでかけたか
らといって、ALS患者は寂しさや嫉妬で死んだりはしない。
(5)目標は、身体機能の面で可能な限り正常さを保つことである。
たとえ、あなたがやったほうがうまくできたとしても、かわりにやってあげ
116
るよりは、患者が自力で行動を続けられるように援助するほうがよい。私は、
障害を持つALS患者が編み出した「シンボルとして行為する方法」がたいへ
ん創造性に富んでいるのに感銘を受けた。たとえば、母親はべッドから起きら
れなくとも、献立を考えたり料理の指揮をとったり、家族と一緒に食卓を囲む
ことはできる。つまり、肉体労働は他人がしても母親としての家庭での役割は
続けられるのである。そのためにもコミュニケーション能力を維持するように、
あらゆる努力を払うべきである。その意味で、最近の安い個人用のエレクトロ
ニクス・コミュニケーション機器は、世界中のどんな精神科医よりもALS患
者たちの精神の健康に大きな効果をもたらした。
(6)担当医がALS治療におけるリハビリに興味を示さなかったり、家族
指導に関与したがらなかった場合、ALSに経験のある人を紹介してもらいた
いと強く希望するかどうかはあなた次第である。
(7)こうしたいろいろな対策を考えて(願わくば試して)みて、それでも
患者なり家族の適応ということで心配が残るようだったら、専門家の判断を仰
ぐことを恐れないでほしい。実際うつ病というのは、一度そうと認められれば
ALSよりもずっと扱いやすい問題なのだから。
(アメリカン・メディカル・インターナショナル/西部医事担当ディレクター)
愛の代償としての悲しみ
パクストン・M・スモール
(哲学博士・アメリカ)
悲嘆は喪失、つまり人の死に対する複雑な感情の組み合わせである。人はそ
れぞれの形で悲嘆に暮れるものだが、ある種の反応はおおかた共通している。
反応の強さはいくつかの要因による。たとえば故人との関係の遠近、重要度、
117
性格、文化の違い、突然死か長くかかったか、といった点である。
愛する人を失った者は、その後のジェット・コースターのような激変に気が
狂いそうだとよくいう。つまり静かな感情状態から耐えがたい悲しみへと、急
激に、思いがけないときに突然変化する。ALSのような難病では死の前から
すでに悲しみは始まっているといえようが、悲しみの期間は、だいたい2年か
ら5年続き、難病の場合も突然死の場合も同じである。最初の1年から1年半
は、失ったことで感情的にまいっている。その後、残された者も社会における
新たな役割と直面しなければならなくなる。大切な人を忘れることはけっして
なくて、結婚記念日、誕生日、休日等々は、死後何年経っても悲しみを誘う。
死の直後は、ショック、無感情、否定という反応が起きる。たとえば、「そ
んなはずが・・・」とか、「信じられない」という言葉をよく耳にする。えて
して最初の数時間から数週間はしっかりとしていて、適切なふるまいができる。
ショック状態にあり感情が麻痺しているのだろう。またこの時期には友人や親
戚がはせ参じて支えてくれるものだ。それが、数週間経ち無感情状態が薄れ、
孤独のつらさが増すころには、そうした支えも遠のいている。悲しみのあまり
声を上げて泣いたり、すすり泣いたり、泣きわめいたりするようになる。夜と
週末が一番つらいという人が多い。ときには回復までの1時間1時間が耐えが
たいこともある。この苦しみは徐々に増して六カ月から九ヵ月あたりでピーク
に達する。それまでは愛する人がいつか戻ってくると考えることがある(否定)。
死を理解するには時間がかかるものだ。
怒り、憂うつ、罪悪感がもっとも頻繁に現われる。自分の愛する人を奪って
しまった神に対し、怒りを覚えることもあろう。自分たちを残して逝ってしま
った故人自身に、医師に、看護婦に、それはもうだれかれ構わず、怒りがわい
てくる。うつ状態は、食事や睡眠に影響し、無力感、絶望感、無気力を伴う。
自殺の誘惑に駆られることもあるかもしれない。集中力がなくなり、考えが混
乱してくる。ほんの些細なことすら決断できなくなる。
故人を思い焦がれ、その人に触れられる感じを追い求めることもある。これ
はたいてい一時的な体験であり、快い感覚として思い起こされる。
118
悲嘆に暮れる人は故人への思いや、死にいたるまでの出来事を考え、頭が一
体になる。故人ともっと違ったかかわり方があったのではないかと思うとき、
罪悪感が頭をもたげる。残された者は死にいたるまでの過程を何度も操り返し
思い起こす。これは多分、自分たちはなすべきことはすべてしたのだと、自分
にいい聞かせるためなのである。故人との関係が複雑だった場合、この罪悪感
は一段と強い。
どのようにして悲しみに対処しているにせよ、大切なのは感情を自由に表わ
せるようにしておくことである。これは覚えていてほしいのだが、深い人間関
係を持つ相手を失うことは必ず深い悲しみを招く。つまりそれも愛することの
代償の一つなのである。
(中西部ホスピスケア心理学スタッフ)
旧友への手紙
クレア・F・リーチ
(高齢者医学ソーシャルワーカー・アメリカ)
親愛なるバージニア
ビルの診断結果かALSと聞き、悲しみに耐えません。確かにたいへんな病
気です。
私は、私どもの神経筋疾患外来にきている患者と家族、そしてその支援団体
に対して、深い尊敬の念と愛情を持つようになりました。優れた方たちだと思
います。体がきかなくなっていくにもかかわらず、いかに人間としての全体性
を失わずにこの体験を受けとめ、人生を生きぬくかについて、彼らと私が互い
に教えあった点をあなたにお伝えしたく思います。
ALSほどの大きな衝撃に直面すれば、もちろんすぐに丸ごと受け入れるこ
119
となどできません。ほとんどの場合、せまりくる重荷を思い、ある程度まで、
少なくとも一時的には苦悩はどんどん大きく複雑なものとなります。自分にふ
りかかってきた不幸に対し「なぜ私が ?」という怒り、絶望、種々の恐怖、今
までのやり方ではどうにもならないという無力感が起きます。今に自分の手に
負えなくなり、病気に打ちのめされてしまうのではないかという感じに、すっ
かりとらわれてしまいます。
もし、あなた自身にこうした苦しみが数週間以上続いているのでしたら、だ
れか心を打ち明けられる人を見つけてください。
私どもの患者や家族は、悩みを現実的な生活の問題としてとらえるようにし
ています。それによって、問題を適当にコントロールし、衝撃が広がりすぎな
いようにと考えています。そのつどできるだけ考えすぎないように努め、克服
しがたい大きな問題は、より小さな、解決可能な問題に分け、それを一時に一
つずつ解決していくようにします。そうすることで、自分も問題を解決するこ
とができ、物事に影響力を持ち(単なる受け身の犠牲者になるのではなく)、
主導権を握ることができると感じるようになります。
私がはじめに書いた、体験を自然に乗り越えてきた人たちというのは、診断
のつく前からすでに、この病気の要求に合った価値観を持っていたようです。
たとえば、幸福感を左右するのは、身の回りの出来事や他人ではなく、むしろ、
自分の下す決定や自分自身の態度であると、ごく当たり前に考えています。
愛情ある心の通いあう人間関係や、その人の精神生活(宗教でなく)を大切に
します。どんな状況にあっても、自分のベストを尽くすことで満足するべきだ
と考え、自分の基準に照らしてみて、立派にその状況に直面できたということ
だけに価値を見出します。自分自身をしっかりコントロールしているわけなの
ですが、その中核となっているのはこうした価値観なのでしょう。何か特別な
出来事に出遭ったときに対処するのも同じことです。ビクトール・フランクル
はこういっています。
「人からすべてのものを奪ったとしても、ただ一つ奪えないものがある。それ
はどんな状況にあっても、自分のとるべき態度を、自ら決めること、自分の道
120
を選択することである」
あと、少なくとも次の三点がALSへの対処を容易にしてくれるものと思い
ます。これは私たちの仲間がやっていることです。第一に、現在を最大限に生
きようとすること、一日一日を精一杯生きるのです。第二に、一人でALSと
たたかおうとしないこと、支援してくれる人びとや組織の近くに身を寄せるの
です。そして第三に、避けがたい感情の荒波に出遭っても、できるかぎり自然
に任せ、だれかに話をすることで何とか切りぬけることです。
今、この手紙を、ビルもあなたの肩越しに読んでいてくれたらと思います。
ビルはALSの診断を受けた多くの人びとが、自分こそもっとも無力な人間だ
と感じるようになる、そんな時期にきているはずです。でも実際には、自分こ
そもっとも影響力を持っているということを発見できるときでもあるのです。
知識ある医師とのよいパートナーシップがあれば、どの治療法を、またどんな
器械をいつ使うか、といった判断に参加することになるでしょう。ただしビル
の決定は、あなたにも関係しますから、あなたに相談しながら決めてくれるよ
うにお願いしたいものです。
ストレスやうつ病が問題となったときにどう対処するかを決めるのも彼です。
こうした問題は、体の機能に重大な影響をもたらしますから、そのほうがよい
と思います。
彼がどんな行動をとるかは、一番身近にいる人をある程度、制約していくこ
とでしょう。肉体的に頼るからといって心理的にも頼りきるということではあ
りません。なぜなら、ALSは、頭の中身や性格は変えないからです。ビルは
いつまでもビルです。
おそらく、あなたがた二人が自由な心で互いに助け合ってゆけば、いろいろな
面で互いに頼りあうことにも慣れるでしょう。たとえば欲求不満が、(その直
接の原因ではないのに)お互いに対しての怒りとして表われることがあります。
そんなとこきのことをよく考えてみてください。するとビルが体のことであな
たに頼っているのと同じく、あなたはご自分の安らぎ(行動、ムード、自分の
やっていることに対する満足感)を得るのに、ビルに頼っていることがよくわ
121
かるでしょう。
ジニー、そんなことは親しい人間関係においては問題にするに足りない、と
お思いになるかもしれませんが、ここで少し微妙な問題が起きてきます。それ
は、お互いに頼りあうという相互依存のもう一つの面です。つまり、あなたが
たは今までになかったようなさまざまな支配力をお互いに対して持ち合うとい
うことです。これはやむをえないことなのですが、ちょっと恐ろしい面もあり
ます。
患者は、介護人に、患者の願いなら何でもかなえてあげたいと(ほとんどの
場合)心底から思わせることで、介護人に対して力を持ちます。一方、介護側は、
介護の質にかかわりなく、介護する側にあるというだけで患者に対して力を持
ちます。これが、もっとも破壊的な形をとると、どちらが主導権を握るかとい
う権力抗争へと歪められていきます。ついには家庭全体のバランスが崩れ去っ
てしまった例を私は見ています。腹を立てた介護人が、面倒を見てくれなくな
ったり、恨みがましく介護にあたったり、患者は患者で、どんな聖人も断わり
たくなるような要求を強います。もちろん、あなたとビルとの間でこんな類の
ことが起きるのではと案じているわけではありません。ただ微妙な、些細な争
いが、不幸な摩擦を引き起こすことは、けっしてまれではないのです。
ジニー、物事をすべて一度に考え直すことはありません。ただ、古いルール
で新しいゲームをやろうとすると、人はまごつくようです。以前は大事だった
ことの多くが無用となり、さぞかしいらだたしいことでしよう。でも、テニス
のラケットでどうやって野球をするのでしょう。これからは、昔の価値観や目
標に次つぎとさよならをしていったほうがいいと思います。もちろんさよなら
に伴う悲しみは避けて通れないのですが、あなたがたの今の生活から新たな目
標や意味を引き出すのです。意味や目標は変化していくものです。正直なとこ
ろ「意義ある」人生を送るためにあえてALSの道を選んだという人には、私
もお目にかかったことはありません。
でも、この道中にある試練や選択の中にも、独特の喜びや慰め、またよいチ
ャンスがあるはずです。約束はできないけれど、ジニー、人によってはいわば
122
その人生を洗い直すうちに、価値観も簡素になり、新しい能力や力が育てられ、
愛や友情が確認され、古い傷や怒りが解決したり無意味になったり、信仰が明
確になったりするようです。またもちろん、すべての人とはいいませんが、人
によっては、「他人がどう思うか」に縛られなくなり、その結果、自分にとっ
て満足できることを求めることに内的な確信と満足が得られるようです。
ALSは、けっして薔薇の花園ではありません。でも無駄遣いする時間もエ
ネルギーもないとき、何が自分にとって大切なのかが、ときとして驚くほどに
明らかになります。そして、さまざまな可能性の中から、自分自身の人生をし
っかりとらえることができる道へと、あなたを導いてくれることでしょう。そ
うなるといいと願いつつ・・・・。
お二人へ愛を込めて
( ナッソウカンティ・メディカルセンター)
ALSとは何か
トルーディ・メンネン
(看護婦・タイ)
筋萎縮性側索硬化症(ALS:Amyotrophic
Lateral
Sclerosis)は、193
8年にその病気で亡くなった有名な野球選手の名をとって、米国ではしばしば
「ルー・ゲーリック病」ともいわれる。世界の他の地域では、運動ニューロン
疾患(Motor
Nueron
Disease)とも呼ばれている。
この病気の名前の意味をよりよく理解するために、以下に説明してみる。
▽ A=否定
▽ MYO=筋肉
▽ TROPHIC=栄養(したがって、amyotrophic
とは「筋肉栄養」が
ないということで、筋肉に栄養が回らないと筋肉は萎縮、すなわちやせ
細ってしまう)
123
▽ LATERAL=側部。筋肉に栄養を与える神経細胞の位置する脊髄上
の部位。ALSではこの部位と、ここも筋滋養にかかわる脊髄前角にあ
る神経細胞とが変性する。変性が進むと、損傷部位に瘢痕ができ、「硬
化」する。
▽ SCLEROSIS=硬化
この病気については、数多くの理論がある。遺伝、「遅発性」ウィルス、代
謝障害、金属中毒、外傷、栄養不全状態、突然変異、などが考えられてきた。
しかし、このどの理論も支持するに足る証拠が得られていない。
ときとして、ALSは10代、20代の若年層に現われることもある、普通
は35歳から、70歳の成人に見られ、その平均年齢は50歳である。女性より
男性に多い。
ほとんどの患者は、診断されたときより3年から5年、生存するが、診断後、
20年以上生きつづける患者もいる。この病気の過程は、急激に進行する場合
もあれば、ある安定期に到達したまま予測不可能な期間続くこともある。場合
によっては、何ら医学的には解明されない理由で快方に向かい、それがさまざ
まな期間続くこともある。
この病気はすべての人種、すべての国籍の人に起こっているが、とくに高い
発生率がグアム島と日本の紀伊半島と、ニューギニア西部にも認められる。
診断上の特徴としては、比較的発症年齢が高いこと、上位と下位両方の運動
ニューロン障害の徴候、不随意の筋収縮がある点である。知覚低下はなく、膀胱、
腸、性機能には何ら直接的影響は見られない。ALS患者は、以下の症候のす
べて、またはその一部を経験する。すなわち、だるさ、歩行困難、低い椅子か
ら立つのがむずかしい。手先がきかない、ろれつが回らない、嚥下困難、筋肉
の痙攣、まぶたに張りがなくなる、疲労、などが挙げられる。
知的機能は損なわれず、患者は意識清明で、彼らにかかわる出来事、彼らの
周りでの出来事を十分察知している。
(「The Professional
Medical
Assistant」の自筆論文より抜粋)
124
医師の診断
フォーブス・ノリス
(医学博士・アメリカ)
ALSは、生命を脅かす病気であり、ときには急速に命取りになることもあ
る。したがって、患者にALSの診断を下すことは、癌のような、他の致命的
な疾患診断を下すのと同じように深刻な問題である。
癌同様、ALSおよびその近縁疾患は、さまざまな状態で現われ、それほど
悪性でない場合や、他の病態の二次的症状として現われることもある。こうした、
その他の病態のいくつかは、治療できるし治癒することさえあり、その際には、
比較的良性の、回復しうる、または、阻止可能な二次性ALSということにな
る。したがって医師が、原発性(特発性)ALSの診断を下す際の最初のステ
ップとして、綿密な理学的診察と検査室での検査が必要となる。
病歴を注意深く聞いたうえで、全般的な内科的診察を行ない、それから、専
門的な神経内科学的診察を行なうべきであろう。欧米では、ほとんどの成人の
場合、一般の臨床医かインターンの初診を受け、その後に、神経内科医に紹介
されることになる。初診時の検査は、標準的な血液検査、尿検査、そして、お
そらくX線検査といったものが含まれる・。神経内科医は、あと数種の検査、
たとえば筋肉の電気的活動を調べるための筋電図(EMG)などの特殊検査を
行なうだろう。
ALSは運動神経の障害であり、二次的に筋肉障害が起こる。運動神経は、
それを傷つける危険性なしに検査することが容易でないので、通常は多数の筋
肉の一つ一つに記録用電極針を数カ月刺して、EMGをとる。ALSの初期で
は多くの場合、神経の損傷を示唆する軽度の異常が見られるが、後期に見られ
るような、特殊な際立った変化は見られない。そうした患者の場合、三ヵ月か
ら六カ月後、EMGを再度行なう必要があり、ときには、特殊なALSの所見
125
を得るためには、もっと後で、三回日のEMGを行なれたければならないこと
さえある。
通常、第一回目のEMG検査の際、運動神経、知覚神経の神経伝達速度(N
CV)を測定するために、腕や脚の体表に近い神経の検査もおこなう。ALS
患者のNCVはEMGとは異なり、必ず正常またはほぼ正常を示す。ALSに
類似した他の疾患では、神経伝達速度が遅くなることがあり、これは重要な診
断基準となる。NCⅤは通常、皮膚から、神経の電気刺激(ショック)を与え
て測定する。また、その際の筋肉の反応も脳波や心電図のように皮膚電極を用
いて記録することができる。
ALSの疑いのある場合はすべて、腰椎穿刺を行ない脳脊髄液を採らなけれ
ばならない。この脊髄液は、原発性ALSの場合は一般的に正常だが、二次的
なALS徴候の原因となっているその他の病態の場合には、異常を示すことが
ある。したがって、新来患者の場合、ALS様の症状のその他の原因を除外す
るためにも、やはりこれは不可欠な検査である。ほとんどの初期症例の場合、
症状が限局していることが多いので、神経内科医も脊髄造影や脊椎管のCTス
キャンやMRスキャンを必要と考えることもある。ときに、神経腫瘍や、椎間
板ヘルニアなどでも、軀幹や上技、下肢にALS様症状が現われることがある。
もし、初期の症状が、構音や嚥下といった脊椎管より上の神経に支配されて
いるところに現われている場合には、腰椎穿刺に加えて、同様な目的で脳のス
キャンを行なう場合もある。
ほとんどのALS患者の場合は、麻痺が進行するにつれて、下位運動ニュー
ロンの(もしくは脊髄性の)弛緩性で、萎縮性の要素とともに、上位運動ニュ
ーロン、すなわち、痙性要素(spastic component)の出現が見られるが、前者
ばかりが支配的になってしまう症例もあり、その場合、医師は筋原性の別の病
気を探すために筋生検を指示することもある。ここでも、血液検査の結果が、
ALSではない、そうした病気を示唆することもあるのだが、こうした患者の
中には、血液検査だけでは誤診されやすい患者もいるため、局部麻酔下で適切
な部位の筋肉の小片を切除し、顕微鏡で見なければならない。神経伝達 速 度の
126
低下がある場合には、足首のところの神経の生検が必要になることもあるし、
または、胸部に一回の切開を入れることで、神経と筋肉両方の標本を一度に得
ることもできるだろう。
いうまでもなく、他に何らかの有意の障害が発見されたら、積極的に治療を
行なってみて、ALS様の症状が食いとめられるか、あるいはまた、快方に向
かうかを見るべきであろう。このために、2、3ヵ月から、ときにはもっと長
い慎重な臨床観察を要するだろう。しばしばこの時点で、EMCをもう一度行
なうとか、またその他の検査を再度行なう必要が生ずることもありうる。
もしそうした症状を説明しうるような他の原因が発見できなかったり、考え
うる他の病態の治療をしても、さらにALSそのものの他の症状が起こってく
るとなると、原発性ALSが主診断となる。とくに、典型的な全身への拡大が
起こったり、典型的なALSの変化がEMGに現われた場合はそういえる。こ
のときこそ、他の医師の意見を求めるべきで、できることなら、ALSのよう
な神経筋の疾患を専門とする神経内科医に相談したいものだ。
ときどき私は最初の神経内科医として、患者を診るように頼まれるが、適切
な検査の後、私は第二の神経内科医が得られるように手配する。 その時点では
じめて、差し迫った重大な問題の可能性の提起をするのが妥当だと私は考える。
そして治療策がない場合、さらに麻痺が進む可能性があると、患者や家族に話
をすべきであろう。けれど、この時点でもまだ、原発性ALSの診断を結論づ
けるべきではない。ある難病の典型的な症状展開を示しながら、その後何の治
療もしなくて寛解したり、回復したりする患者があるということを、どんな熟
練した医師も教えられた経験があるはずだ。二人目の意見を聞くことで、そう
した過ちが完全に防げるとはいいきれないが、その危険はおおいに減るはずで
ある。このような重大な問題のときこそ、三人寄れば文殊の知恵なのである。
相談医による診断と面接に加え、決断のつかないはっきりしない検査結果に
ついては、再検査する場合も出てくる。したがって患者も、もし必要ならば数
日の滞在を予定しておくべきで、ほんの小一時間ほど相談医と会ってALSを
再確認してもらうだけ、などとは考えるべきではない。
127
このようにして相談を持ちこまれたとき、私は患者とその配偶者とともに数
時間は話し合って、彼らの考え方や基本心理を知ることが役に立つと考えてい
る。ときに患者は「動揺させたくないから」といって、配偶者(または家族)
は外で待たせるようにいってきたり、配偶者が事前に私をつかまえて、悪い知
らせは患者にいわないように忠告してきたりする。しかし、家族だけでなく、
患者も差し迫る嵐をすでに感知しているものだ。この先何カ月もの間、家族皆
の力を合わせていかなければならないのだから、まれな例を除いて、この時点
でこそ家族全員を、この先の戦いへ 駆り出さなくてはならない。また、このと
きこそ私は、近代医学によって引かれた、患者と医師との間の分厚いカーテン
を(現実的に可能なかぎり)開ける努力をし、私が彼らの味方であることを具
体的に知らせるべきだと考えている。
もし、原発性ALSが、正しい診断だと思えるようであれば、その診断を伝
えるべきである。
普通は、
以前の医師がすでにそのような指摘をしており、ALS患者は一般に
肉体的にも精神的にも活発なものだから、図書館に行ってALSについて読ん
で知っていたということがよくある。
少なくとも、私の患者のほとんどは、すでにALSについては告げられており、
アメリカ人の場合は、たいていルー・ゲーリックの話を思い起こし、自分の病
と同一視する。
一つ混乱するのは、診断についての話し合いにおいて、運動ニューロン疾患
(MND:motor
neuron
disease)という言葉が使われた場合である。多くの
医師、とくに英国やカナダの医師は、ALSの意味でMNDといっている。事
実、数多くの運動ニューロンの障害があり、そのなかで、今日の成人にもっと
も頻繁に見られるのがALSである。30年前までは、急性ポリオや、ポリオ
の後遺症の麻痺がもっとも数が多かった。古典的ALSには、二つのタイプま
たは「サイズ」がある。一つは、2年から10年にわたって絶えまなく、また
はときどき思い出したようにして進行を続けるもの。もう一つは、始まり方は
同じようであり、まったく同じ症状が現われるのだが、数年経つと進行が停止
128
し、10年から30年後には以前と比べて麻痺がほとんどあるいはまったく進
んでいないというものがある。後者のタイプの経過をたどる人は、ALS患者
でも少数派である。暫定的に「良性ALS」と呼んだりするが、これはあまり
よい名ではなく、比較的良性のALSともいったりする。
この「良性」の症例の中には、病気の後期に、わずかばかりの改善が見られ
ることがある。ここで話が複雑になってくるのは、悪性ALSでも、非常に初
期の段階において、短い期間、症状の改善が見られたり、半年から一年ほどの
間の安定期(すなわち、進行の一時停止)の起こることが、しばしば見られる
ことである。
私たちや、その他の研究者たちも、こうしたタイプのALSを病気の初期段
階で分離していく信頼できる方法をいまだ編み出してはいないし、果たしてこ
れが、同じ疾患の二つのタイプの症状の発現なのか、それともまったく別の疾
患なのかということすら、わかっていない。専門家の間ですら、これだけわか
っていないのだから、新しくALSの疑いの出てきた人に、その人もまたルー・
ゲーリックと同様もう望みはなく、わずかなときしか残されていなくてまった
く治療の可能性はない、などと宣告するのはもちろん誤りである。治療法によ
っては、やってみるべきものもあるし、場合によっては、比較的良性の、長期
にわたる、症状の衰退、寛解が起こることもある。こうした事実は、ALS診
断につきまとう暗黒の世界をかなり明るくしてくれるものである。
さて、やがて訪れる試練では、夫婦が互いを支え合っていかなければならな
い。この時点でよく起こる懸念はALSの遺伝性についてである。普通、家族
性のALS症例について、どこかで読んだり、聞いたりしたことがあるようだ。
ときとぎ患者が「私の叔母のへレンはたしか球麻痺で亡くなりましたが、ある
医者は、あれはALSだったといっていました。これは遺伝するのでしょうか。
子供たちもかかるのでしょうか?」などといったりする。複雑ではあるが、喜ば
しい答えのはずである。確かに ALSが家族の何人かに起こるという例はある
が、たいていは遠い親類などで、その遺伝性はたとえあったとしても非常に弱
いようだ。
129
ALSは以前考えられていたよりは、実際はその発症率が高く、したがって
ある一つの家族の二人以上の者がかかるという偶然のケースも確かに起こりう
る。私がボストンで実習医だったころに診たある患者の例をよく引き合いに出
すのだが、この男は、りんごの木から落ちて、上胸部を骨折した。そのちょう
ど一年前、彼の息子も同じ病棟に入院していたが、息子も実は同じ木から落っ
こちて、まったく同じ骨を折っていたのである。太平洋のマリアナ諸島に位置
するグアム島でも、家族のうち四人も五人もALSを患っている例は簡単に見
つかるが、何ら遺伝的パターンは現われていない。
もっと一般的な例としては、色白の女性が、色の浅黒い友人とともに海に出
かけていく例を挙げてみよう。二人とも、同じ時間日光浴をしても、色白のほ
うが日焼けがひどくなりがちである。海岸で一日中、日光浴をすることは、遺
伝と何の関係もないのだが、色の白さは、確かに遺伝子だ。というわけで、A
LSのような障害に対して、何か知られていない遺伝的な感受性があるという
のは可能性としてうなずけるし、そして、たとえば球麻痺を患ったへレン叔母
さん(実際はALSであったかもしれないし、そうでなかったかもしれない)
のような話につながるのかもしれない。 もう一つ、よく起こる疑問で、古典的悪性ALSの暗い世界を明るくしてくれ
る話が、身体活動に関するものである。多くの書物は、ALS患者はあまり動
き回らないほうがよい。「体力を使い果たしている」のだから「残された力を、
節約すべきだ」と書いている。しかし、これはそれこそ今世紀初頭にALSに
ついていわれていたことで、そこに後になって症状が似た病気である急性ポリ
オの場合は体力を激しく消耗すると悪化する、という臨床経験的な知識がくっ
つけられたのである。 実際はしかし、私の知るかぎり、ALSでもっとも悪いのは、望みを捨てた
ばかりでなく、今までの生活のしかたまでも断念して、寝たきりになってしま
った患者である。体を使わないことから起こる萎縮や関節の硬直などが、AL
Sによって引き起こされる障害を加速するようだ。これに対して、良性のALS
症例に共通しているのは、積極的で活動的な日々を送っていることである。
130
さて、ここまできてはじめて、ALSに対する積極的な、かつ、患者の以前
の生活習慣をできるだけ損なわずに、しかも患者自身が行なえるという療法に
ついてお話しすることができる。いくつかの運動の種類が考えられるし、もし
控えてきたようだったら性生活も再開すべきだろう。
水泳はとくにお勧めしたい。私たちのところの良性のALS患者でも、まだプ
ールに入ってないようだが、ALSが進行するとともに、脚力が衰えて転ぶこ
とが多くなるので、水泳プールは(必ずしも泳がなくても)ALS患者が運動
するのに、もっとも安全な場所の一つといえよう。
どんな病気にせよ、おそらくもっとも決定的な要素は、患者と家族の意欲で
あり、ここで私が述べてきたことも、すべて意欲を高めるためにと思ってのこ
となのである。
おそらく、この意欲を持ちつづけさせることが、医師に課せられたもっとも
重要な義務の一つだろう。アレクサンダー・ポープは「希望は、永遠を胸にも
たらす」と書いている(1733∼34年)。確かにALSのような病気の場
合、このきわめて重大な機能を育むことが患者の介護にも役立つのである。
以上をまとめてみると、ALSの診断は、数多くの臨床の診察や検査がAL
Sと確信するに足る結果を示し、症状を説明するものがほかにないときにはじ
めて、慎重に下されるべきである。良性の症例や、ときには何年にもわたって
起こる寛解例の比較的楽観的なニュースもあわせて話すべきだろう。悪い知ら
せをよい知らせにまじえるには、具体的に対症療法のプログラムを示すのもい
いだろうし、またどういうケースであれ、いくつかのALS臨床研究センター
などで行われている実験的な治療法について話をするのもよかろう。
こうした話はできるかぎり率直に、言葉もやさしくして、患者やその配偶者、
親族など、きたるべき試練に積極的に参加しなくてはならない人びとみんなが、
理解できるよう努めなければならない。家族の持てる力はすべて患者のため、
とくに患者の生きる意欲を保たせるために注がれるべきなのである。
(パシフィック・プレスビテリアン・メディカルセンター/ALSリサーチセンター所長)
131
一つのユニークな視点から
ランス・D・ミーガー
(医学博士・アメリカ)
私は38歳で、10年以上もALSを患っている。四肢が麻痺していて、こ
こ5年間はレスピレーター(人工呼吸器)の世話になっている。またアメリカ
内科学会認定の内科医で、現在もオレゴン州の免許を持っている。というわけ
で、私はこの病気による少し普通ではない生活を、いくらかユニークな観点か
ら見られるのではないかと思う。
ALSで倒れた人のほとんどが、単にALSだけでなく感染症で死亡してい
ることは疑いのないところである。健康で栄養状態のよい人は、どんな感染症
にかかってもたたかう傭えがある。
私の考えでは、ALS患者が嚥下困難の初期の症状を呈したら、咽頭管(首の
上部に取り付け食事を与える管)を付けるのがよいと思う。これは、局部麻酔
による最小限の手術ですむもので、よく行なわれている胃瘻造設術のような大
がかりな手術を要するものではない。呼吸困難が進むとどんな小さな手術でも
危険度が増す。目立たない咽頭管を付けておけば、患者は正常に食べることも
できるし、必要なら管から補給食をとることも簡単にできる。胃瘻のように胃
液を漏らして汚くしたり、不愉快な思いをすることがない。丸薬を飲みこむの
がむずかしくなるかもしれないが、薬は管から採れば簡単である。
私の考えでは、ALS患者に対してよく行なわれる数多い検査の中でも、避
けなければならないものが一つある。バリウムを飲むことだ。医師に多くの情
報を知らせるのはわかるのだが、高価だし、不愉快だし、かなりの危険を伴う。
もう一つの問題は心臓疾患が幾分多く起こることである。ときどき起こるこ
の合併症を低く抑えるために、適当な食事療法が考えられる必要がある。口か
らにしろ経管にしろ、低脂肪、無糖、減塩食が望ましい。繊維質も適当必要で
132
ある。カロリーは一日千五百から二千カロリー。市販の経管食は、脂肪も糖分
もかなり過剰だからラベルをよく読むこと。従圧式レスピレーターを使ってい
る人が多いのは残念である。この種のレスピレーターは、肺の抵抗によって送
られてくる空気量が変わる。つまり、患者がどのくらいの空気を得ているのか
がわからない。それに、この機械は持ち運びが不便だし、適当なアラーム機能
が欠けているものもある。
一方、従量式レスピレーターは、つねに指定された量の空気を種々の気圧で
送りこむため、患者には一定量の空気が与えられる。最近は、たいへん小型の
レスピレーターが出ていて、信頼性も高く、重さは10キロほどである。12
ボルトの電池をつけても、車椅子の下に入る大きさだ。
また、レスピレーターから気管へは、たった一本の軽いチューブがあるだけだ
し、すべてのアラームがそろっている。この装置なら、ほとんどどんな旅行で
もできる。
もし空気の入るカフ付きの気管チューブが必要なら、非常に低圧のカフにし
なければいけない。
長距離の旅行を計画する場合には、適切な器具を用意することが、安全面で
のゆとりとともに安心感を与えてくれる。私も妻と一緒にたいした困難もなく
車や飛行機でよく旅をした。それでもやはり二人だけの旅は多少の冒険を伴う
ので、他にもう一人いてくれるとたいへん助かるだろう。私たちはいつも、ポ
ーダブル吸引器2台、小型の従量式レスピレーター2台と2個のバッテリーを
持ってゆく。私が使うのは、密閉型ゼリー状ゴルフカート用バッテリーだ。こ
れは民間航空機を利用する際に大切な点である。航空会社は、酸素の機内持ち
こみに神経をとがらしていて、そんなものは持っていないことを納得してもら
わなくてはならない。航空会社との交渉は、旅の2カ月前に始めるのが賢明だ
ろう。
私の保険会社はレスピレーターを2台も持つ必要などないと考えて、1台分
しか支払わなかったが、もし彼らのいうとおり1台しか持っていかなかったら、
ちょっとした事件になっていたことがある。アイルランドへの旅の途中、大西
133
洋上で1台が故障したのだ。その後、私が訴訟を起こすと保険会社は立場を変
えた。
実際的なコミュニケーションの手段をすべて失った後は、非常に優秀な言語
病理学者の助けを探し求めた。もしあなたも専門家のアドバイスに従ってみた
いと思っているようだったら、あたの健康管理チームが、ALS患者は皆近い
うちに死ぬ運命にあるのだから多額の費用をつぎこむのは無駄である。といっ
た古びた考えを持っていないことを確認しておく必要がある。私自身もこうし
た現象とやりあわなければならなかった。
私の選んだシステムは小型の携帯可能なバソコンである。小さなディスプレ
イと計算機にあるようなプリンターが付いている。メモリーは、文字でも言葉
でも熟語でも250個記憶し、またユーザーが簡単に変えることができる。印
字はスイッチを2回押すだけで、全体がプリントされるので、とても速い。そ
のうえ、この装置はほとんどのパソコンに接続できるので、コンピュータ ーの
キーボードのように使うことができる。メモリー部も他のコンピューターで利
用できる。1種類のプログラムだけでなく普通のソフトも使える。ほとんどの
パソコンにはエレクトロ二クスの音声アタッチメントがある。あらゆる種類の、
非常に高感度なスイッチは、どの筋肉のわずかな動きにでも対応して作動する。
最近、目の動きだけで作動するビジュアル・システムも出現した。
保険会社はコミュニケーションを医学的な必需品とは認めず、こうした機器
には1銭も出そうとしなかった。義足や義眼は大切と考えるのだが、コミュニ
ケーション補助具は、そうではないらしいのだ。意思疎通のあらゆる方法を断
たれるよりも、足を失うほうを選ぶなんて人はどのくらいいるだろう? 2年に
わたる訴訟が続き、裁判所の入り口で、和解に達した。それでも、この最新式
ハイテク装置にのっけから金を出すという保険会社はあまりないだろうと思う。
ただ会社側も、何度もこうした問題に直面しなくてはならなくなると、もう少
し合理的な考え方をするようになるかもしれない。
以上、患者たちが持っているいくつかの疑問に答え、また多少冒険的な考え
方を促すことができたなら幸いである。今こそ、より大きな消費者の権利を主
134
張すべく皆の力を合わせるべきときがきたと信じる。ALSはただそれと付き
合っていくだけでも一人の手に余ることなのに、少しでも正常に近い生活を送
ろうとすると、目に見えない官僚主義に一人で立ち向かわなくてはならないな
んて、たまらない。
自分一人の強制収容所
エドナ・ハメラ
(看護婦/哲学博士・アメリカ)
人生には意味や生きる目的が必要なのである。ユングもこういっている、「人
が多くのことに耐えられるのは、そこに意味があるからである」と。
私たちは普段、人生の目的など意識して考えない。当たり前に思っている。
ところが皮肉にも、それが邪魔されたとき、はじめて人生の目的について考え
る。ALSのように、体の衰弱が進んでいく病気だと診断されれば、どんな人
でも危機感があおられ、自分の生の意味を問うようになるだろう。
生きる目的は何かと問われたら、普通は神とか、家族とか自分の生きがいに
なっているものをいくつか挙げるだろう。自国の文化で支配的な価値観と関係
している場合もある。私たち米国社会では、その人が自分の力で将来何をする
か、を重視する。これは、努力さえすればほとんど何でも成しとげられるとい
う信念に基づいている。
私が以前担当したあるALSの女性は、その家でのまさしく「しっかり者」
だった。家族は、なかなか診断を受け入れられなかった。彼女が本気で取り組
みさえすればきっと病気は克服できるといった。その家族もまた、支配的な文
化的価値観である、努力さえすれば何事も克服できるという考えに支配されて
いたのである。
135
実存主義者のビクトール・フランクルは、かつてアウシュヴィッツの囚人で
あり、その体験から、生きることの意味や目的について、彼なりの理解に達し
た。彼は、こうした極限状況に生き残れるか否かは、苦しみに何らかの意味を
見出しうるかどうかにかかっている。といっている。
他者のために生き残った者もいれば、ある計画を完了させるために生き延びた
者もいた。逃げることがまったく不可能だとしても、人間は尊厳を持って苦し
み、また死んでゆけるということを、他者に対し、神に対し、自分自身に対し
て示す。という点に意味があったのである。この点が、ALSの患者にとって
も中心的な課題であると私は思う。ただ一つ違うのはALSの場合、その人の
肉体がその人の強制収容所になることだ。
何か大きな目的に挑むとき、つまり、何が大きなものを生みだしたり協力し
たりするとき、人は意味を見出す。いい換えれば、ある目的のために没頭する
ことで、その人は自分自身を乗り越えられる。あるALS患者は、地元の支援
グルー プやALS研究センター設立のために奔走した。
この情熱が彼を頑張らせ、生きがいとなったのは明らかだったし、また、他の
人にとっては模範となった。
創造性もまた生きがいを与えてくれる。新しいものを創ること、目新しさ、
美しさ、調和をかもしだす何か、を創造することは、無意味感への強力な防波
堤となる。
私の出会ったALS患者の中でも、創造性を発揮している例がたくさんある。
できるだけ一人で動けるようにと「自力でコートを着る装置」を発明した人が
いたが、あの嬉しそうな顔は忘れられない。また、手の機能を失ったにもかか
わらず、デッサンや水彩の趣味を続けようと一生懸命な人がいだが、彼の努力
などは、実に驚くべきものであった。
(カンザス大学医療センター精神科看護助教授)
136
運命が私をALSに立ち向かわせた
バーナード・M・パッテン
(医学博士・アメリカ)
1970年のある秋の朝、私はメリーランド州ケーターズバーグからオーシ
ャン・シティへと小型エンジンのセスナ150を飛ばすつもりでいた。このル
ートはよく知っていたし、タンクにはまだ燃料が半分入っていた。ポンプのと
ころは長い行列だったので、満タンにするのはやめ、飛び立ってから飛行計画
を練り直した。すべてが順調に進んでいたのだが、チェサビークベイプリッジ
に差しかかったところで定期グランド・チェックを見ると、対地速度がわずか
48ノットにしかなっていないことがわかった。向かい風を受けて燃料を食っ
てしまっていることに気づいた。そのときはじめて燃料レベルが危ないことに
気づいた。ちょうどそのときチエサピーク湾の対岸の巨大な霧堤に突っこんで
しまい、霧の中をいったいどこに着陸しようかと考えながらさ迷っていた。
超高周波オムニ・レンジャーを使ってソールズベリー空港の真上五千フィー
トに位置をとり、大きな円を描いて回りながらどうすべきかを考えた。同じ勇
気を出すのなら、今こそ助けをこうべきときと考えてソールズベリー空港を呼
び出そうとした。ところがなんと驚いたことに無線が故障していたのである。
もはや安全に着陸し、助かる見込みはないことを意味していた。
右ウィングの燃料タンクはすぐに空となり、左タンクに残された燃料は八分
間の降下と四分間の着陸態勢分しか残されていない計算であった。 そのとき、
私は大人になってはじめて(そして今のところ最後となった)祈りを捧げた。
これは私らしくない行為であり、今日にいたるまで、なぜ祈る気になったりし
たのかもよくわからない。ただ、そのときの状況があまりに恐ろしく、自分が
助かる見込みがほとんどないとなると、祈るのがもっともなことのように思わ
れた。
私の祈りはとても簡単なもので、そのとき脳裏を横切った思いというのは、
137
もし神がこの恐ろしい状況から救ってくれたら私はALSの研究をしよう、と
いうものであった。当時、私は重症筋無力症の研究が順調に進んでいたのに、
なぜそのときALSの研究を選んだのかは、私にも皆目見当がつかない。が、
とにかくこうした思いがそのとき頭をよぎったのである。
祈ってから数秒もしないうちに、双発パイパー機が機体の前を横切った。フ
ラップを降ろし着陸するようだ。また、霧の中であったから計器盤を使ってい
るに違いなく、迷ってはいないはずだ。そこで、その機体の後を追った。滑走
路ではすでに燃料切れであったが、とにかく飛行機も私もばらばらにはならず
にすんだ。
当然のことながら、不注意な燃料管理による無謀な飛行ということで召喚さ
れた。それでも、もしかしたら起こっていたかもしれない事態を考えると、そ
れはもっとも軽い罰にすぎない。
以来、私はALSの研究をしていないと怖くなるのだ。あなたも私と同じ経
験をしていればそう思うことだろう。
私はこの病気を憎み、この病気が人間にすることを憎む。それを阻止し改善
したい。いつかきっと征服される日がくるものと確信している。その日がくる
まで私はあきらめない。ALSは私を謙虚にしてくれた。打ちつづく悪化と破
滅的な状況の中で人がどんなに勇敢になれるかを教えてくれた。私をよりよい
人間、よりよい医師にしてくれた。そしてさらに、患者があの底知れない深い
谷底に一歩一歩近づいていくのを、見つめ、待ち、希望を持ちながらも、ただ
その手を握ってあげているしかできないときもあることを教えてくれた。
(メソジスト病院神経内科医/ベイラー医科大学神経内科助教授)
138
ふさわしい人
アラン・シャピロ
(高齢者医療ソーシャルワーカー・アメリカ)
医学には「ソフト」の面がある。つまり厳密な科学的研究に基づくよりも、
むしろ介護の技術にかかわる部分がある。社会科学に関する面も多い。ケース
によっては、どうしてそうなるのかを不思議に思いながら、扱い方の計画にあ
れこれ手直しをし、それこそカンに頼って進む。こういうとき、私たちはいろ
いろなことに思いをめぐらす。今回は「勇気」について少し考えてみたい。
まず第一に、いったいALSのどこが他の神経学的疾病と異なっているのだ
ろう? ALSにはある特定の患者タイプがあるのだろうか?
その患者は
心理学的に「ふさわしい人」ということで普通の人と違うのだろうか? ALS
は他の人にはない、うつ病とたたかうある種の脳物質を患者に与えているのだ
ろうか ?
答えは明らかにノーである。ALSは通常、高次皮質機能(考えたり、想像
したりする機能)には影響を及ぼさず、また、多発性硬化症のような、プラー
ク( 脱髄巣 )を構成することもないことがわかっている。多発性硬化症の場
合はうつ病がより頻繁に見られる。
自分自身、または身近な患者さんを思い起こしてみてほしい。ALSの進行
には普通あるパターンが浮かびあがってくる。ある日「何かおかしい」と気づ
く。体のある一部が、今までのように動かない。だんだんといろいろなことが
目につくようになる。そして、かかりつけの医者を質問攻めにするのだが、医
者も質問に答えられない。そうこうして、体に何が起こっているのか、きちん
と答えてくれる医者が現われるのを待っているうちに、普通二つのことに気づ
いてゆく。
(1)どこかがとても悪い、(2)それが何にせよ、何が悪いのか知るだけで
こんなに待たなくてはならないとなると、ひどく悪いもので、おそらく冶らな
いのだろう。
139
その時点で正式の診断が出されても、多くの人にとっては、疑問が確認され
たにすぎない。診断が患者の耳に届くころには、すでに無意識のうちに、これ
らのたたかいの精神的な武器となってくれるものを必死に求め、対処する方法
を探しはじめている。
私は、6年ほど前から知っているあるALS患者を思い出す。次つぎと襲い
かかってくる危機とたたかい、そのたびに彼自身の内なる力をつけているのを
目にしてきた。彼は、私や担当の神経内科医、MDA(筋ジストロフィー協会)、
病院など数多くの人びとの仕事を助けてくれた。彼こそ皆から給料をもらうの
にふさわしい人だといつも思う。彼が相談にのってあげたALS患者は、それ
こそ何人にのぼるだろうか。助けを必要とする人にはいつも力を授けてきた。
ときとして私は彼に畏怖の念を抱かずにはいられない。私自身が今やっている
ことなどより、彼がしていることのほうが、はるかにすばらしいものなのでは
ないか、と思わざるをえない。
彼に、どうしてそんなことができるのか、そうやって肉体の限界を乗り越え、
そうまで穏やかでいられるのか、と聞いたことがある。いろいろと答えてくれ
たなかで、一つだけ、忘れられない言葉がある。「生きるってすばらしい」だ。
もし、彼の持てるものを瓶に詰めることができたら、それこそ、どんなうつ病
にも効く薬となるだろう。彼は勇気ある態度の典型である。何事も拒まずにす
べてを受け入れるのだ。
どこかに死が待ち構えていることも、彼は知っている。だが、死が待ってい
るという点ではだれでも同じだということを、彼は皆に知らせようとしている
かのようだ。人生とは死を待つ過程ではなく、命が与えられている限り、私た
ち一人ひとりが作り出していかなければならないものだということが、彼から
じっくりと伝わってくる。
「生きるってすばらいい」、これこそ私たち皆へのメッセージなのである。
(ジューイッシュ・ファミリー・サービス)
140
患者と研究室をつなぐもの
バリー・W・フェストフ
( 医学博士・アメリカ)
一見すると、研究室で働く神経科学者が、ALS患者と臨床的なかかわりあ
いを持つのは多少奇異に思えるかもしれない。しかしよく考えてみていただけ
ば、患者やその家族、そして、担当医らが研究者と自由に話し合っていくこと
の重要性、それもとくに、ALS患者が日常的に直面する種々の問題について
の、臨床的な理解を示す研究者との対話の重要性は、わかってもらえるだろう。
10年ほど前にカンザスシティのALS患者に接しはじめたころ、私はたち
まち数限りないフラストレーションに襲われたものだった。当時私は世界中に
あるかぎりのALSに関する約八百以上の参考文献を読みあさった。その調査
の結果が、後にドナルド・マルドラー博士編の『筋萎縮性側索硬化症の診断と
治療』(The Diagnosis and Treatment of Amyotrophic Lateral Sclerosis)の一章
として出版されたが、その内容は、私自身や共著者のナンシー・ジョーンズ・
クリッガーにとってのみならず、その後、その章を読んだ多くの神経内科医や
研究者とっても、ひどくがっかりするものだった。しかし、その後、毎月AL
S患者グルーブの会合で、患者やその友人、家族らと接したり、またごく普通
の医師と患者の関係に励まされ、私はこの難病の原因、さらに願わくば、その
多くの症例の治療法となるべきものを探り当てようと、質問を投げかけ、仮説
を立てることを試みつづけた。
このように、患者、その家族、友人とのつきあいが続いたこと、また、最近
になって、私自身資金集めの運動に参加したことが、この異常な神経と筋肉の
相互作用の過程に関する基礎研究への情熱を駆り立てた。また、正常な運動単
位組織を特徴づける基礎過程の探究も始めるようになった。病歴を調べ質問票
の結果を判定したことで、私と同僚たちは神経、筋肉系の、蛋白質分解酵素の
141
制御とその自然抑制因子の基礎研究をも始めるようになった。現在私の研究室
で行なわれているこのテストは、まさに、私とALS患者とのつきあいがその
直接のきっかけとなって始まったものてある。
新治療法のテストもまた、患者を見るうちに得られた考えに端を発し、それ
を実験モデルに応用した成果をできるだけ速やかに臨床にもたらそうとするも
のである。いくつかの抗プロテアーゼ剤の公判試験も、今のところ結果は否定
的ではあるが、この疾患に新たな光を投げかけた。また、現在計画中の遺伝子
工学的に作られたヒト成長ホルモンの治験も、診療室に発した着想が研究室に
行き、再び診療室に戻ってきたもので、今その準備も整いつつある。
このように私の場合、患者やその家族からの支えが、努力を倍加してくれて
いる。研究費の許すかぎり、研究室で、私たちは新たな糸口を探しつづけよう。
患者もその家族も、「奇跡の治療法」を探し求めている。が、こうした人びと
と接している神経科学者、神経内科医としていうならば、真の「奇跡」は、家
族に、グループの集まりに、そして組織の活動にあると思う。その雰囲気に接
してきたことが、私自身選んだこの道を歩みつづける一種の活力となってくれ
た。私はそのことに感謝している。
(カンザス大学メディカルセンター神経内科教授/退役軍人医療センター医療調査官)
どの患者もユニーク
ジャネット・グラスバーグ
(ボランティア・アメリカ)
「前は石油掘削機に上っていたっていうのに、今では電球一つ取りかえるこ
ともできなくなった」
これが、私がはじめて出会ったALS患者の口から出てきた最初の言葉だっ
142
た。当時、私は退役軍人の医療センターに勤めており、ALS患者の血中およ
び脊髄液中の鉛量を測定するという研究計画に従事していた。私が最初に強く
感じたのは、この患者がどれほど人とのコミュニケーションを願っているか、
ALSにかかるということがどういうことなのかをどんなに私にわかってもら
いたいと思っているか、だった。彼に検査の許可書にサインしてもらえるまで、
それこそ一時間もの間、そぱに座って話をし、彼がどんな思いをしてきたかを
聞いてあげなくてはならなかった。しかし、この患者は、私に強烈な印象を残
し、それから9年経った今日、私は何と全米ALS財団ミシガン支部の会長と
して資金集めに奔走し、ALS患者の支援に努めている。
私は現在ヘンリー・フォード病院の神経筋疾患の技術専門家である。神経筋
疾患科の部長である夫、マーク・グラスバーグとともに働いている。この2年
間、私たちの診療室で、60名を超えるALS患者を見てきた。私自身も約百
名のALS患者を知っているが、その一人ひとりが皆違っている。この病気に
は一つの定まったパターンといえるものがない。わたしたち一人ひとりがユニ
ークであるように、この病気にかかった各患者の病態も千差万別なのである。
基本的には、人生にうまく順応してきた強く安定している人は、この病気に
もっともよく順応できているようだ。一方、自分の人生に、そして順応してい
くこと自体に苦痛を感じる人は、ALSに順応するのもむずかしいだろう。こ
の病気は、確かに、患者や家族をとてもストレスの強い状況に追いやる。ユー
モアのセンスを持ちつづけること、柔軟性を持っことは、この病気がさまざま
な段階に進行していくときに、大きな助けとなるはずだ。また、たった一人で
はなく、いろいろな人に介護してもらうことを喜んで受け入れる人は、自分の
生活がうまくいくのみならず、介護の荷をただ一人背負わなければならなくな
った人の心の負担を、大きく軽減してあげられることになる。
ALS患者を介護していくうえで、ひとつ興味深いのは、介護者が、思って
いたよりもずっと大きな自分の力を発見していく点である。レスピレーターや
経管栄養チューブの取り扱い、その他種々の家庭介護の術を身につけてゆく。
また、家族の生活を助け、より快適な暮らしが送れるよう、いろいろな装置を
143
作ったりすることもある。
以前、訪問したことのある、あるALS患者は、指一本しか動かすことがで
きず、10年間レスピレーターを着けて、病床にあった。その人の部屋には、
あらゆる種類の装置が備え付けられていたのだが、なかでももっとも重要なの
は、ハム無線をやっていたことだ。彼は一本の指を使って、マイクを操作し、
毎日何時間も、ハム無線でいろいろな人と話をしていた。たいへん積極的にこ
れをやっており、彼が加入している無線クラブでは、彼も参加できるようにと
会合を彼の家で開いたりもしていた。彼は、ALSだからといって人の輪の中
に入り力を尽くすことをやめたりはしなかったのだ。
また別の人は、亡くなるその日まで地域新聞に、お年寄りのためのコラムを
欠かさず書きつづけた。このように、他の人びととのかかわりあいを保ち、活
動しつづける人にとっては、他人に世話してもらうことだけを要求する人に比
べ、それほどこの病気に縛られずにすむようである。
ALS患者にとって今日ある最良のニュースは、ニューヨークのシナイ山病
院で行なわれている研究だろう。そこのALS診療室では、全国平均の3年に
比べて、平均5年間の生存年数となっている。ALS患者ができる最善のこと
は、ALS患者に数多く接してきた神経内科医を見つけ、規則正しい療養プロ
グラムを取り入れることだろう。
ALSはおそらくいくつかの複数の疾患からなるもので、その現われ方も患
者一人ひとり異なる。患者やその家族は、この病気について知識を持つべきで、
できるかぎり多くの文献を読むとよいが、同時に、この病気の経過や急激な進
行に怖がりすぎてもいけない。急速に進行する場合もあれば、そうでない場合
もある。自分の病気の進むぺ ー スをそのまま受け入れ、それに自分を合わせ
ていかなければならない。毎日毎日を人生最後の日であるかのように生き、お
互いに、いうべきことをすべていい、持てる愛をすべて尽くし、したいことを
すべてするべきである。そうすれば、次の日は、再び思いっきり生きられる真
の贈り物として、やってくるのである。
(ミシガンALS支部会長)
144
家族の三パターン
ルシア・W・ランドン
(臨床ソーシャルワーカー・アメリカ)
ALSは、家族全体に重大な影響をもたらす。配偶者、兄弟姉妹、そして家
族全員の感情の流れを引き裂くようなこともある。ALSにつきまとう不安に
いかに対処するかは、その家族が過去に起きた大きな出来事を、どのように対
処してきたかにもよる。ALSのような慢性の病気がもたらすストレスに対処
する際、家族がよく使うパターンが三つあるようだ。いささか不健康ではある
のだが。
第一のパターン。患者から精神的に距離を置いてしまうこと。
つまり、物理的に距離を置いてしまったり、この病気に対する心配事など一
切口にしなくなるというやり方である。関係のないことで家族が争っているよ
うでいて、実はそうやって、ALSのために引き起こされている怒りを隠して
いる。またあるときは、表面的なことばかりをいいあうことで、距離を保とう
とする。これではまるで、二人の間に巨大なピンクの象が立っているのに、ど
ちらもその象については一言も触れなかったという昔話のようだ。
第二のパターン。やりすぎとやらなさすぎのコンビ。
普通、このやりすぎ星の役に回るのは、配偶者とか、患者にとって大切な人
だ。一つの例を挙げよう。エネルギッシュで健康で、夫を愛するメアリーは、
ALSにかかった夫ビルのためには、自分のできることすべてをしてあげたい。
メアリーは自分のことなどほとんどあきらめ、ビルに仕え、ビルを幸せにする
ために自分の生活のすべてを捧げようとする。が、ビルが徐々に体の各部分を
使えなくなっていくたびに、自分がもっとやってあげればよかったのだと考え、
すっかり気落ちしてしまう。だんだんと、自分の実家とも疎遠となり、今まで
145
彼女に充実感を与えてくれていた生活からも離れてしまう。その結果、夫に対
し、病気に対し、彼女はますますのめりこんでいく。当然のことながら、ビル
は自分のことを自分てやろうという気を失う。こうしたやらなさすぎの役に回
ると、自分には力がない、自分はもはや意味ある、役に立つ家族の一員ではな
くなったのだという意識を持つようになる。
第三のパターン。三角関係。
ここでの三角関係というのは、二人の間の問題を、第三者を引きずりこむこ
とで患者の不満をいったり、心配事を話したり、噂をしたりする。たとえば夫
が、妻はもっと自分のことは自分でしてもいいのに、と友人にこぼす。確かに、
他人にこぼすことで一時的には気分がすっとするだろう。そうすれば、もっと
自分で責任を持つように患者自身と話し合わなくてもすむのだから。しかし、
何か問題があるとき、それについてきちんと具体的に相手に伝えることは、た
とえ危険を伴ったとしても、意義ある対話となり、それによって変化への糸口
がつかめるはずなのだ。
ALSのように長期にわたる慢性疾患のもたらす課題はとても大きいもので
ある。たとえ破壊的なものであっても、家族の間のお互いのかかわりあいのパ
ターンはなかなか変えがたいものだ。感情が疎遠になったり、やりすぎ、やら
なさすぎになったり、三角関係になったりするときもあるだろう。こうしたパ
ターンを起こさなくするためには、介護する側が、自分への責任と、助けを必
要とする者への心からの介護との間にバランスをとり、適当な境界線を引くよ
うに努める必要があるのである。
ALS患者は私の師
八 瀬
善 郎
(医学博士・日本)
146
もし、なぜこの30年もの間ALSの研究を続けてきたかと問われれば、そ
れを断念することができなかったから、としか答えられないでしょう。おそら
く、これが、私の生きがいなのでしょう。すべてのALS患者は、過去におい
て私の師であり、今でも毎日、単に医学的なことのみならず、人生について、
多くの貴重なことを教えてくださっています。
ALSを患う人びとは、人間には計りしれないほどの精神と肉体の能力が備
わっていることを、明らかに示しています。この多くの疑問を持った病気を解
決する鍵は、この病気の経過にきっとあると信じていますが、われわれの力は、
今のところそのレベルに達するに足りません。
(和歌山県立医科大学教授)
食事と生命の質
ジャネット・R・ウィットニー
(食餌療養士/化学修士・アメリカ)
この三年間、ALS患者の家族に接してきて、食事が患者にとって非常に負
担になってくる時期があることがわかってきた。食物や食事には、いろいろな
思いが伴うものてある。ある人にとっては食べさせてあげることが愛情を示す
唯一の残された道かもしれない。そんなときは食べ物が拒否されると、介護者
は自分が拒絶されたように思うのである。
ここで、実際に食事方法や調理法の相談にのってきた際に役立ったガイドラ
インを記してみよう。まず、ALS患者の食事能力を詳細に観察してほしい。
それによって、肉汁つきの挽き肉から始まり、すべての食品を挽いたりつぶし
たり、そして最後には、 粥状食へと変えてゆこう。また、舌の力に応じて、粥
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の濃度も変えていかなければならない場合もある。
理想体重を維持していくことが大切である。毎月体重チェックをしてほしい。
もし体重が理想体重より10%落ちたら、普通の店で買える高蛋白、高ビタミ
ン、高ミネラルの食品を加えはじめるとよい。理想体重より20%落ちたら、
市販の栄養補給食品を買うとよい。これは通常の食事に加えてとる場合も、ま
たそれだけで全栄養をまかなう場合もあるだろう。食事をとる方法も、鼻から
のチューブ、食道瘻造設術、胃瘻造設術と、 いろいろと考慮すべきである。最
終的にどの方法にするか決める前に、うまい方法でやっている人に会っておく
のも一助となると思われる。
注意を払っていないと、心理的な深い意味を持ったいろいろなサインを見逃
すことになる。補助的な食事法を十分に早期に始めないと、問題が起こる。と
はいっても、尊厳死を選ぶ文書があるならば、すべての生命維持策を拒否する
という文書に示された患者の意志は尊重されるべきであろう。
生命の質(クォリティ・オブ・ライフ)こそもっとも大切なものなのである。
(ALS栄養コンサルタント)
自由の領域
リチャード・H・アシィ
(カウンセリング牧師・アメリカ)
ALS支援グループの会合でティスカッション・リーダーを務めてきたなか
で、この病気が命を奪っていく様子にただ愕然としている何人ものALS患者
や家族に会ってきた。が、また一方で、力の限界は知りながらも、まだ残され
ている力でできることを重視する数多くの人びとも知るようになった。次に示
したのはアレン・ウィーリスの引用だが、健康であろうと病んでいようと、万
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人にとっての真実を語っているものではないかと思う。
「どんな状況でも、だれにでも、自由の領域と制約された領域がある。人は
そのどちらの世界に住むこともできる。抗しがたい力、鉄拳、越えがたい壁が
あることも認めなければならない。が、それを知って背を向け、自分の自由の
領域に生きることもできるのである。農夫は自分の畑の境界を知らなければな
らないが、かといって、隣の畑を眺めながらただ立ち尽くし、じだんだ踏んで
も仕方のないことだ。それよりは、自分の地を耕し、何の実のなる果樹をどこ
に植えようか、と考えていったほうが得策だろう。自由の範囲がたとえどんな
に小さかろうと、身を尽くし、心を尽くしていけば、領域は広がり、その人の
人生すべてを満たすものとなるはずである」
この著者もいっているように、 柵に背を向け、どこに果樹を植えようかと考
えることこそが、こつなのである。
(カンザス州プレーリーヴィレッジ・ヴィレッジ/ブレスビテリアン教会)
私のコーナーにいてくれ
マニー・ホール
(ボランティア・アメリカ)
なぜALSとかかわりあいを持つようになったかとよく聞かれます。という
のも、私の家族はだれもALSにかかってないからです。 私に少し前にカンザ
スシティにきて、何かボランティアの仕事がないかと探していました。そこへ、
地元のある夫婦が、来る日も来る日もALSとたたかっているという感動的な
話を読み、ちょうどそのすぐあとで仕事の関係で、あるALS患者に出会った
のです。私はたちまちのうちに活発なボランティアとなり、2年後には地元A
LS協会の常任理事になりました。
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このグループのメンバーは、今や私にとって「家族」です。この勇気ある人
びとに励まされてやる気を出しています。けれど、他の専門家と同様「家族」
を失う痛みに絶望してしまうときもあります。
あるとき、一人のALS患者が私にこういいました。
「マニー、君が僕のコーナーにいてくれることはわかっているよ」
この言葉を忘れることができません。以来、人と話をするときにもこの言葉
をよく使います。この言葉には、負けてなんかいられないというか、ボクシン
グでいうならば、いい試合をして、あきらめず、尊厳を持って挑戦に立ち向か
い、できるかぎり自分の力でたたかう、といった意味あいがあります。彼の言
葉は、私がすでに感じていたことを確認させてくれました。そう、私はアルの
コーナーにいるんだ。私は彼の「セコンド 」の一人、彼のそばにいて彼を支え
助けようとする多くの人びとの一人だ、ということを。
これが、私たち支援グループの真髄です。皆がお互いの「セコンド」となり、
グルーブを通じて互いに支え合うチャンスを持ちます。支援グループの会合に
参加すれば、自分の置かれた状況がけっして珍しいものではないことをじかに
知ることができます。他の人も病気とたたかい、苦しみを分かち合おうとして
いることがわかります。
グループとの関係がどんなものでも、会合に参加しようとしまいと、家族意
識は浸透しています。近くでも速くても、私たちの腕はどこまでも伸びてその
人を抱き締めます。私たちの月刊機関紙「ダイアローグ(対話)」は、数多く
のALS患者、その家族、友人の心に届けられます。また電話をかけたり、家
庭訪問したり、手紙を書いたりするのも、すべて私たちの患者への思いを現わ
したものです。
私たちのグループは、患者さんの外出の手伝いをしたり、介助機器を届けた
り、ホームカウンセリングを行なったりするだけでなく、地域社会にも、資金
集めやプレゼント、ボランティアの機会を提供して、参加協力してもらってい
ます。
ALSの患者が、その力を最大限に生かしていくために、私たちは何をした
150
らよいのでしょう?
診断が下された時点で大切なことは、医師、家族、そし
てALS患者の間には、パートナーシップがあるのだということを皆が感じる
ことです。そして、患者は自分自身の将来に対して、自分が大きな役割を持っ
ていることを理解するべきです。
しばしば「ALS」という名のラベルはあまりに強いマイナスのイメージが
つきまとうため、まず生きることよりも死ぬことにばかり気がいってしまいま
す。私たちは患者とその家族に対して、現実的に可能なかぎり、前向きのイメ
ージを持つように励まします。「ALS」という名のイニシャルの順序を入れ
かえて「SLA」(the Science of Livung Association---生きるための団結学)
としたいくらいです。
専門医の中には、ALSにかかった場合、あと何年間生きられるかを予測す
る傾向もあるようですが、最近、ある著名な心理学者がいっていたように、そ
うした予測はおのずとそのとおりになる予言になってしまうものです。まるで
魔法にかけられたように、いわれた人は先をあきらめ、絶望し、亡くなってし
まいます。それよりも肝心なのは生きることで、それも、専門家、地域社会当
局、支援グループによって適切なサービスが提供されるなかで生きることが重
視されるべきです。すべての人にとって、まず第一の使命は高度のクォリティ
・オブ・ライフ(生命の質)を維持することです。
(キース・ワシントンALS協会常任理事)
幸福とは何か
リー・アンナ・クラークディビッド・ワトソン
(心理学者・アメリカ)
151
幸福とは何だろう。幸福を得るためには何が必要なのか。どの程度まで内面、
つまり人生を前向きにとらえられる心の状態に依存していて、どの程度まで外
部、つまり自分でコントロールできないような状況に基づいているのだろうか。
私たち研究者はこうした疑問にさまざまな角度から取り組んできて、一つの
結論に同意した。つまり、幸福は一面的なものではなく、いくつかの要素が互
いにかかわりあった結果で、なかでも肯定感情と否定感情と呼ぶ、二つの要素
が重要である。この二つは正反対のようにきこえるが、むしろ二つの独立した
性格の特色といえる。二つの別個の行動様式、態度、処世法である。いずれも
全生涯を通じて比較的一貫しており、またその名が示すとおり、どちらも感情
に深くかかわっている。
肯定感清の強さ弱さとは、一般にいう元気であるとか元気でない、他人や仕
事と積極的にかかわり合っている、いないといった感じ、人生における自分の
力強さを確信するかしないか、といったことである。否定感情のほうはわれわ
れはより深く研究したので、これから詳しく述べる。
全般的に否定感情の弱い人というのは、何らかの厳しい真実を突きつけられ
ても、うまくいいつくろうことで満足でき、快適な人間関係のためには自分自
身も他人も肯定的にとらえる。集団を好み、協調性があり、相互依存的である。
その結果、当然のことながら、人が周りに集まる。ストレスを感じている人な
どは特に集まりやすい。 順応性が強く型にはまったタイプだが、非現実的でも
あり、幻想、たとえば、難病でもコントロールし征服できるといった幻想にし
がみつく。こうした見方は、生きていくうえで助けになっているようだ。事実、
マイナスの状況に正面から取り組みながら、本当に状況を変えることなんかで
きっこないと考えている人は、実際はできないのに、何とかできると思ってい
る人に比ベて、精神的に苦労が大きい。というわけで、心理学者が自己欺瞞を
お勧めするのも変なものだが、ある程度、現実に直面するのを拒絶することに
は、マイナスよりもプラス面が多いと、われわれの研究は示している。
またわれわれの研究は、幸福を決定していくのは、客観状況よりも、その人
の態度のほうがずっと重要であることも示している。否定的な人は幸福にあら
152
ゆる前提条件をつける。どのくらいお金がなければならないとか、何々大学に
入れなければだめとか、昇進しなければとか、健康にならなくてはとか。一方、
肯定的な視点を持つ人は、たとえ難病といった悲運に見舞われたときでも、人
生をあるがままに受け入れる。自分の置かれた状況を受け入れ、過酷な障害す
らはね返し、客観的にはどんなに悪い事態に見えても、プラスの面を見出す。
こうしてみると、肯定的に考える力をもてばいいだけのように聞こえるかもし
れないが、否定感情の強い人から弱い人へと変身するのは、ただ決心すればい
いというものではない。変わるには長い時間と努力が必要なのである。
結局、だれでも自分の幸福に関しては自分自身に責任があるということをわ
れわれの研究は、指摘している。客観的条件よりも、肯定的な姿勢、楽観的な
態度などが本人のクォリティ・オブ・ライフを決定する。ある人は自然にそれ
ができるが、ある人は努力をしないとほほえみが保てない。いずれにしろ、肯
定的・楽観的なほうがいい。
自分の病気に積極的に取り組む人が、取り組もうとしない人より気分がいい
のは当然で、毎日機嫌がよく、将来に対して楽観的だ。逆に、否定感情が強く
なると、体にも影響が出る。いらいらしたり、気をもんだりしていると、疼痛
や体の不快感がより強烈に感じられる。否定的な感情の強い人のほうが身体の
感覚や痛みについて注意を払い敏感だから、より強く感ずるという説もある。
注意を向ければ、不快感は拡大される。
面白いことに、否定的な感情(不安、怒り、うつ、ストレスなど)が非常に
高まる場合も、また低下する場合も、免疫系の機能低下と関係があるらしい。
慢性疾患に直面したとき(自分自身の場合はとくにだが、親しい者の場合でも)
不安や怒りなどの否定的な感情をある程度感ずるのは、まったく正常であり健
康的だとさえいえる。それは問題に直面し、あきらめずにたたかっている証拠
である。しかし、あるレベルを超えて極端になると、否定感情は心身ともに有
害となる。そうなったら、そうした感情を抑えられるよう、専門家に相談した
ほうがよいだろう。
(サザン・メソジスト大学心理学助教)
153
ジグソー・パズルの一片
リチャード・A・スミス
(医学博士,アメリカ)
196年代の初頭、医学部の学生だった私は、覚えているかぎりALSにつ
いてほとんど聞いたことがなかった。多くの教科書は神経学をテーマにしたも
のでさえ、この疾患に関しては数べージしか触れておらず、熱心な教授に関心
を喚起されなければ、学生はALSに注意を引かれることはなかった。そして、
そのような教授にはついにお目にかからなかった。
事実、私自身がALSにはじめてかかわったのは、二年目の実習生のとき、
スタンフォード大学病院の神経外来に来院していた患者に触れたときだった。
患者の絶え間ない流涎をいかにコントロールするか、というのが緊急の課題だ
った。図書館で調べてみると、数ヵ月前に発表されたドナルド・ムルダー博士
の研究を除いて、ほとんどALSは注目されていないことに気づくのに大して
時間はかからなかった。唾液分泌の生理学に関する文献が、莫大に存在するに
もかかわらず、流涎のコントロールに関する情報は皆無だった。
その生理学の知識を使って唾液の分泌を軽減する外科処置を、私たちは開発
した。この問題に関心を持ってくれと私に懇願した患者が、率先して第一号の
患者になってくれた。彼はどんな不都合も顧みず、いかなる検査も熱心に受け
た。のちに私は、このような熱意はALS患者すべてに共通していることを知
った。
私たちの術式は成功し、やがていくつかの医学雑誌に掲載され、権威ある研
究賞を受賞した。
実習生期間を終了し、私は海軍で二年間の兵役に就かなくてはならなかった。
研究職を与えられ、スクリプス診療所兼研究財団の科学者たちと知り合い、の
ちにそこの神経学、微生物学部門のスタッフに加わった。幸い、その仕事を通
154
して持続性ウィルス感染症に関心のある分子生物学者と接触することができた。
当時、説明のつかない数多くの神経性疾患が、新しい作用を呈する共通のウ
ィルスによる、ということが次第にわかってきた。私にとって一番注目すべき
はポリオ・ウィルスだった。というのも、小児麻痺(ポリオ)とALSの間の
類似点は無視しがたいものだったからである。私の研究が進もうとしていると
き、私が所属していた部が閉鎖されるということを知らされた。
1978年に、ALS財団からサンディエゴに建てる予定の研究所の所長の
ポストを勧められて受諾した。ALS財団とはじめて接触したのは、患者のた
めの月例の支援グループを作る手伝いをしたときだった。私のしっているかぎ
り、ALS患者が定期的に集合して、自分たちのニーズを相談しあう最初の組
織だったはずだ。
ポリオの研究を進めるうえで、デイビッド・コーン博士との共同研究の体制
ができたのは実に幸運だった。コーン博士は、人間の細胞組織内のウィルスの
存在を立証するための独特の手法を持った。核酸専門の化学者だった。彼は、
私を弟子として迎えてくれ、こうして私は、35歳で新しい修業を始めること
になった。
しかし、一年もたたないうちに、この研究グループはアメリカALS協会の
傘下に入って、研究所を閉鎖することになった。私にとっては大きな打撃だっ
た。しかし、約二年間、研究所の維持費を継続して出してくれることに財団は
同意してくれた。私と仲間は、その猶予期間を利用して、自分たちの研究機関
を設立する、という野望を抱いた。だめでもともと、と頑張ったら、驚いたこ
とに数カ月のうちに私たちはれっきとした研究財団として認可されたのだった。
60年代の影響を受けていた私たちは、患者や職員の意見を歓迎し、反映で
きるような組織を作りはじめた。そのアイデアは爆発するように広がり、数カ
月たつと、多数の一般の人びとからの支持や支援を受け、何人かの研究者から、
スタッフに参加したいという要請を受けた。無から出発した私たちは、あっと
いう間に三つの研究所を持つにいたり、大学の小さな一学部ほどの規摸になっ
た。
155
研究データは次つぎと集まったが、コーン博士の初期の研究結果は予想外な
ものだった。調査ケースには、ポリオ感染の証拠が発見できたにもかかわらず、
ALSで死にかけている患者の組織には、何も見つからなかった。今までポリ
オがヒトの神経系で存在しつづけることを証明した人は、だれもいなかったた
め、この所見はたいへん注目され、「総合ウィルス学雑誌」(Jounal of General
Virology)に掲載された。
私は次に、パスツール研究所のミシェル・プライク博士と、第二の共同研究プ
ロジェクトを手がけた。彼は、正常組織にポリオが存在するという、私たちの
以前の所見を再確認してくれた。しかも、ALS患者の神経細胞に、ポリオの
遺伝子学的情報が含まれていることを発見した。
米国各地の研究者を結集して、これらの所見を討議することを決定し、ポー
ク・デイビス社を説得して、そのための資金援助をしてもらった。医師たちは
私たちの所見に対して慎重だったが、科学者たちの方は熱心に討議し、ALS
の原因がウィルスかもしれないという説を受け入れる用意があったようだった。
彼らの反応に元気づけられ、また、ALSウィルス説のことを考えると、私
はウィルス性疾患が治療可能であるという報告に関心を向けずにいられなかっ
た。細菌性疾患と比べ、ウィルス性疾患のほうがはるかに治療困難である。ウ
ィルスがALSを惹起する、と証明できても、その感染を抑制、制御する手立
ては限られていた。
しかし、1980年には希望がもてるようになった。インターフェロンとい
う薬物が、臨床治験で使用可能になったのである。初期の学術報告は大反響を
呼び起こし、短期間のうちに、神経障害を含む種々の疾患にインターフェロン
治療を試みる計画が進んだ。私自身もこの新しい薬物によって、できるかぎり
の知識を得ようと集中的な強化プログラムを開始し、必要とされる臨床データ
を集めることに没頭した。
やがて、インターフェロンを無料で入手することができ、薬理学的研究とA
LS患者の治療試験に要する十分な量を確保できた。
インターフェロン・プロジェクト開始の三年後、1983年に動物における
156
試験を完了し、患者における初の重大な試験を行なった。
ALS治療にインターフェロンを使用するには、インターフェロンが、血液
―脳関門を簡単に通過できないので、直接脊髄液に注射しなければならなかっ
た。インターフェロンが効果を発揮するには、頻繁に投与しなければならない
と確信し、前頭部に埋没した小さな供給所から供給することにした。患者たち
は、インターフェロン投与によく耐え、私たちは、投与量や投与回数をいろい
ろと変えてみた。1984年には、患者の中から被験者を三名選び、検討を続
けた。一人の症状は安定したが、結果には落胆させられた。
もっと治験を進めれば、治療は成功したのだろうか?
当時、数種のインタ
ーフェロンが存在し、単独で使用するより併用したほうが効果が上がることが
示された。もっと大規模な治験ができれば、さらに解答が得られるのかもしれ
ない。今のところ、この問いの答えはわからない。
次第に年を取っていくにつれて私は、人間はいったい何回ほど突破口を開くチ
ャンスを与えられるのか、など考えたりする。もしかしたら、重要なことを見
落としていたのではないか。苦しいときに、もっと長時間、またはもっと一生
懸命働くべきだったのではないか。あるいは、新しい機会が与えられたとき、
方向を変えるべきだったのか、今は、そんな思いが脳裏を去らない。
今後、数年のうちに解答が得られると、状況がよく把握できる立場にある私
は確信する。私が、ジグソー・パズルに、少なくともその一片でも、貢献でき
たとすれば、幸いである。
(神経学研究センター/サンディエゴ)
あなたは一人ではない
ドロレス・ホルデン
(看護婦・アメリカ)
157
痛みもなく、とくに病気だと自覚していない人が、ALSと診断されること
は、明らかに大きな苦痛であり、信じられない場合が多いはずである。しかも、
不幸なことに、診断されると同時に、現在は治療法がなく、将来の治療の見通
しも暗いことを告げられる。
落雷に見舞われたような気分になっている患者が、よい医師に恵まれないで
二重に苦しむ事態がしばしば起こる。ALSという難病は扱いきれない、無駄
な努力である、したがって自分は関心が持てない。という医師はけっして少な
くない。これ以上の処置は不可能だ、もう来院してもしようがない、と忠告さ
れ、早々に病院からおいとまを願われる患者や家族は実に多いはずである。こ
んな目にあった患者と家族は何が何だかわからず、途方に暮れたという。
はじめてALSと診断された患者と家族は、こういうときにALS支援団体
があることに気づく。この支援グループは、ALSという変わった疾患を理解
するための情報を提供し、その疾患を抱えて生活する際のさまざまな困難とそ
の対処方法を教え、家族全体が治療に積極的に参加できるように指導してくれ
る。
支援グループは、新しいALS患者とその家族に対して、ALSにかかって
いるのは自分たちだけではなく、今までも、今も、この疾患を抱えて生活して
いる家族がほかにあることを教えてくれる。苦しんでいるのは自分一人ではな
いことを知ると、人は元気づけられる。
支援グループの組織はいろいろな形をとる。あるところでは患者グルーブを
選び、限られたメンバーによる会合を一定期間にわたって、ソーシャルワーカ
ーの指導のもとで定期的に開く。これこそ、患者とその家族にとって、最適の
方法だという人もいる。しかし、私たちの経験では、患者は、自分の不安を話
したり他の患者の不安を聞いたりするよりも、専門家から病気についてできる
だけ多くの情報を入手したり、長期間にわたってALSとうまく付き合ってき
た患者家族の話を聞きたいと思っていることがわかった。
患者もその家族も、支援グループの会合には例外なく出たがらない。他人の
158
前で疾病の話をしたくない、ALSという現実を認めたくない、自分なりの方
法で問題に立ち向かいたい、など理由はさまざまである。定期的に出席してい
るグループ・メンバーが新しいメンバーを歓迎し、和気あいあいとした雰囲気
で包み、その後の会合にもくるように励ます姿勢はたいしたものである。
会合があまりに頻繁に開かれると負担になるようである。患者家族ができる
だけ普通の生活を維持できるようにしてあげなけれはならないが、メンバーに
ある程度の一貫性と連帯感を持たせるうえでも会合は定期的に開くべきだろう。
少なくとも一人の専門家(医師でないほうがいい)が、会のリーダーとなり、
ガイドのような役割を演じ、グループを生産的で有意義な方向へと導ければ理
想的である。リーダーは質問にすぐ答え、まちがった情報の普及を防ぐ程度の
ALSに関する知識を持っていなければならない。
ALS患者、家族にとって支援団体の価値は、評価しつくせないほど大きな
ものである。いわば昔、大家族が満たしていた諸要求を、現代社会において独
特のやり方で満たしてくれる。つまり、強烈な持続性のストレスに対し、 慰め、
いたわり、理解を与えてくれるのである。ALS患者に治癒の希望が提供でき
るまでは、この恐ろしい破壊的な疾病に苦しむ彼らの負担を少しでも軽減する
ためには、心理的、人道的に支援団体に頼らざるをえないのである。
(パシフィック・プレスビテリアン医療センター/ALS研究センター)
存在すること対行動すること
アン・ カケルマン・コブ
(看護婦/哲学博士・アメリカ)
米国社会は、業績を上げることと行動に重きを置く。私たち一人ひとりは、
それなりに業績を上げよう、「何ごとかを達成しよう」と努力している。内な
159
る生活、すなわち、精神生活を重要視せず、外なる基準に沿って行動すること
をわが国の文化は要求しているようにみえる。「存在すること」「何かになる
こと」よりも「行動すること」を偏重する、こういった文化的背景の中では、
ALSのような慢性疾患を受け入れるのがきわめて困難だと思われる。なぜな
らALSは「行動」の自由をかなり制限するからである。
行動指向は、けっして普遍的な真理ではない。アメリカ・インディアンの文
化のように、個人の業績よりも、家族や友人に対してただ「存在すること」の
ほうがはるかに重要だと思われている文化は、数多いはずである。また、自己
の内面的発達を強調する文化もある。
身体的活動が限られると、それを機に、行動や業績を重んじるアメリカ文化
のかたよりがわかり、より普遍的な真実に応えることができる。内面の精神生
活に目を向け、自分がただ「存在する」というだけで認められるようになる。
瞑想したり、俗世間から離れることによって、自己と生活をよりよく管理する
ことができるかもしれない。さらに、同じような考え方を持つ個人やグループ
とつきあうことによって、彼らの目に映る「自己」の像を、新しい期待に満ち
た前向きの像に変えてゆくことができる。
(カンザス大学地域社会保健介護助教授)
160
ALS の病状についてーーー解説
和歌山県立医科大学教授
八 瀬
善 郎
信楽園病院神託内科
堀 川
楊
筋萎縮性側索硬化症は、一般に、Amyotrophic Lateral Sclerosis という学名か
らALSとかアミトロと呼ばれている典型的な神経難病の一つである。米国で
は有名な野球選手のルー・ゲーリックが本病であったことから、彼の名前をと
って、ルー・ゲーリック病として知られている(以下ALSと略す)。
ALSを中核として、いくつかの病型や非定型の症候群があり、これらを総
称して運動ニューロン疾患(Motor Neuyon Disease. MNDと略)と呼ばれるこ
とが多い。
ALSは通常弧発し、頻度は世界各地でほぼ一定で、人工10万人について
2∼7名の有病者(有病率という)があると推定されている。年間の発病者は
人工10万当たり0.3∼0.5(発病率という)で、ごくまれに(全症例の
数%)遺伝性と考えられる家族内発症が報告されている。しかし、西南太平洋
の一部(紀伊半島南部、グアム、ニューギニア東部)には、一般平均の数十倍
から百倍の有病率で本病が発生している(図)
本病の原因は不明で、多方面から精力的な研究が世界各国で続けられている
が、いまだ定説はない。
161
1.症
状
主症状は筋力低下と筋萎縮である。感覚障害は通常認められないが、発病初
期には筋肉痛、ピリピリ、ジンジンした感じなど異常感覚を訴えることが多い。
また、筋肉がピクピクする(線維束攣縮という)と訴える場合も比較的多い。
運動系が選択的に侵され、感覚障害、眼球運動障害、膀胱直腸障害は末期まで
みられず、長い臥褥患者でも褥瘡はきわめてまれである。しかし、ときに軽度
の排尿障害や眼球運動障害の報告はある。
病気が進行すると、情動失禁(すぐ泣いたり笑ったりする)が認められるが、
精神障害はない。まれに、痴呆を伴うことがある。小脳症状、四肢の振顫や筋
緊張亢進といった錐体外路症状はない。慢性、常時進行性の経過をとるが、ま
れに自然停止もある。
予後は個人差が大きいが、全症例の約80%は、5年以内に重度の呼吸障害
をきたす。まれに、10年、20年、に及ぶ長期生存例もある。一般に、若年
発症の患者、女性、上肢から症状の始まった人は、比較的予後がよい。
初発部位により、次のように分類される。
(1)上肢型
多くは上肢から始まり、指が使いにくい、力がはいらない。こわばってくる
などの訴えがあり、線維束攣縮、いちじるしい小手筋の萎縮がみられる。
162
通常片側より発症し、対側上肢または同側下肢に及ぶ。肩甲部の近位筋より始
まるものもある。
(2)下肢型
前脛骨筋、腓骨筋が侵され、尖足(垂れ足)となり、腱反射は消失、多発神
経炎様の病像を示すので、偽性多発神経炎型と呼ばれる。
(3)球型
構音・嚥下障害を主症状とするもので、初期には咽頭部異物感を訴えること
がある。舌の萎縮・線維束攣縮が見られ、舌の運動は緩慢となり、咽頭反射
も低下・消失する。
(4)混合型
四肢と球部症状がともに起こる。
その他、顔面筋、躯幹筋も次第に萎縮し、末期には全身のやせがいちじるし
く、寝たきりとなるが、高カロリーの栄養補給が続けられると、脂肪沈着の
ためそれほど筋萎縮の目立たないことがある。
2 診断ならびに検査所見
筋力低下、筋萎縮、球症状があり、感覚障害のない典型例では診断は比較的
容易である。
慢性に脱力が進行し、局在性の筋萎縮、線維束攣縮を認め、感覚障害がなけ
れば、まず本病を考える。初期には、強い肩こり、筋肉痛、ジンジンなどの異
常感覚を訴えることが多い。内科的に異常がなくて、体重のいちじるしい減少
をみることもある。
(1)鑑別診断
頸椎症、脳幹腫瘍、また筋ジストロフィー、多発性筋炎などとの鑑別が必要
である。
(2)臨床検査
本病に特徴的な所見はないが、まれに髄液蛋白、血清CPKの軽度上昇を認
める。筋電図、筋生検で神経原性の変化をみる。
163
3 対応と治療
本病患者への対応は、単に薬物投与のみでなく、日常生活指導をいかにする
かが基本となる。
最も重要な課題は病名告知である。医師、看護婦、家族、友人のだれかが、
不用意にこの病名と教科書に普通記載されている経過、予後を口にすれば、患
者は非常なショックを受けるであろう。
病名を告げる場合には、今後どのようにしたら、本人にとって有意義な人生
を送ることができるかを、患者、家族とともに考え、その後の闘病生活を支援
していく姿勢を示すことが必要である。このような周囲の態度が患者の療養意
欲を鼓舞し、精神的安定に大きな助けとなる。
(1)生活指導
療養意欲を高めるために、病気の詳しい説明、研究の現状、懸命に毎日を生
きぬいている患者さんの紹介、などが心の支えとなる。多くの患者さんは、病
名をはっきりいってほしいと願っているが、心の中ではそうでないことを期待
している。それだけに病名告知はきわめて慎重でなければならない。看護者と
患者の微妙な心の連帯、また症状の経過から、自分の病気が難病であるという
認識と、病を受け入れる心の準備ができはじめていることを、周囲が十分に察
することが必要で、軽々しく病名を告げるべぎではない。
病気の説明には、病状、経過は個人差が大きく、また長期生存例もけっして
まれではなく、療養努力により、長期経過をとりうる可能性を強調すべきであ
る。
社会生活では、症状に応じ可能な範囲で就業を続ける。つねに疲労に気をつ
け、無理なスケジュールは避け、疲労回復のための休養を十分にとる。
体力、筋力保持には、リハビリテーション(運動療法)が必要であるが、個
人差が大きいため、各自の体力に応じた計画を工夫することが大事である。A
LS患者で安静臥褥では、進行はかえって速い。本病の長期生存者は、強い療
養意欲をもち、つねに積極的にリハビリに取り組んでおり、この効果を無視す
164
ることはできない。
食事は、可能な限り、時間をかけても、自分で箸またはスプーンで取るよう
にし、高カロリーよりは、内容のバランスが大事で、偏食は是正する。
(2)薬物療法
通院可能な時期には、生活指導に重点を置き、薬物は対症的に使用される。
疲労や筋肉痛に対してビタミン剤、ATP製剤、活性型ビタミンD剤の少量投
与、不安や不眠に精神安定剤、流涎過剰にはアトロピン、ブロパンテリン、ま
た筋緊張の亢進や筋痙攣にはジフェニールヒドラミン(ミオナール)、トルベ
リゾン(ムスカルム)、ジアゼパム(セルシン)、バクロフェン(リオレサー
ル)などはよく使用されるが、脱力や気力低下につながることがあるので用量
と服薬時間に十分注意する。残念ながら疾患の進行を止めうる薬物はまだない。
(3)リハビリテーション
就業可能な時期はもちろん、病状の進行した時期でも、通院治療を主にし、
なんとか日常の輪の中で生活していくことが望ましい。というのは、ALSの
すべての患者では、寝たきりで動こうとしなくなり、病状の進行を速めている
のが日常よく観察されるからである。これは廃用性萎縮に陥りやすいからであ
るし、また患者自身も、入院を繰り返すたびに病状が段階的に進行すると述べ
ている。しかし、リハビリテーションは個人差が大きいためにきわめて難しい。
その病型、初発部位、発病後の進行の程度、疲労度などにより、個々のスケジ
ュールを作成することが必要であるが、わが国では、なお試行錯誤の段階にあ
る。何よりも疲労の積み重ねがかえって進行を速めているようで、どの程度で
疲労が回復するか自己の限界をそのときどきに念頭におきながら、訓練を調整
することが大事である。
したがって、末期に至るまで地域の開業医(家族医)での対応は可能である。
呼吸困難、摂食困難が高度になり、全身衰弱がひどく、経口摂取が不可能にな
れば、やむなく入院の必要がある。
165
(4)発病後期における対応
この時期は、患者・家族間の意思疎通も困難で、一般に療養意欲は低下しが
ちである。
理学療法は、自動運動とともに他動運動も加えたメニューをつくる。たとえ
ば、上肢を動かさないために、肩甲関節周囲炎の痛みには、マッサージ、軽い
被動運動、針灸などもよい。
呼吸困難はいずれ球麻痺や呼吸筋麻痺によって、全例に程度の差はあっても
現われてくる。夜間睡眠時は、そのために上半身を挙上できるリクライニング
ベッドや椅子が必要になる。呼吸不全や麻痺が強くなってきたら、筋弛緩剤は
減量するか、夜間は中止すべきである。
高度の呼吸不全では、酸素吸入、気管切開、人工呼吸管理、または自然経過
にまかすかどうか基本的には、患者と家族の希望による。もし本人が自然経過
を欲しても、苦痛があれば一時的に鎮静剤投与を考えることもある。自らの人
生を自然の手にゆだねたい人、宗教的信念に生きる人、人工呼吸器を使用して
生存の可能な限界に挑戦する人など、さまざまな生き方があり、医学的対応を
超えた人生観―死生観の問題であり、一慨に律することはできない。
もし、自然経過を希望する場合、医師としては、いかに苦痛なくその生をま
っとうしうるかにも心を配るべきで、種々の検査や無理のある治療は避けるべ
きであろう。
嚥下困難になると、食事内容に工夫がいる。あまりさらさらしたものよりは、
やや粘りのある雑炊に、細切りにした野菜や鶏肉などを入れたり、卵をかけた
り、とろろ芋をかきまぜてご飯にかけたり、個人の嗜好により工夫が大切であ
る。この時期には経口摂取のみでは栄養不足となり、輸液や経管栄養が必要で
あるが、高カロリーである必要はない。
立位、座位、排便に日常使われる補助具は、積極的に利用したほうがよいが、
残存機能の保持をつねに心がけなくてはならない。
意思伝達は、発語不能の患者、また家族にとっても、最も苦労する問題であ
166
る。文字板を使って、五十音や日常生活に必要な「排便、排尿、痛い、かゆい、
痰がつまる、枕の位置、寝がえりしたい」など語句を並べ、字や文を示し、瞬
目で患者の意思を知る方法がある。
また、片眼瞬目は「・」、両眼瞬目は「―」というモールス符号を夫婦で覚
え、意思疎通をはかっている例もある。患者の口唇の動きにより、看護者が発
音して確認する方法などいろいろ工夫されているが、深い愛情と、相互の忍耐
が不可欠である。
最近はパーソナル・コンピューターを利用し、残存能力を使ってワンタッチ・
スイッチを動かして文章をつくる、コミュニケーション・エイドもぼつぼつ使
われている。平成三年度からは、日常生活用具の一つとして、在宅患者は購入
の補助も受けられるようになった。
(5)在宅ケアについて
最近の国内外の報告では、かなりの重症例でも在宅治療を続けている人びと
が増加している。すでに病名を知って、自分の生存中に、これまでやれなかっ
たこと、たとえば、体験の集大成、また新しいことへの挑戦など、具体的なこ
とに積極的に関与しょうとする意欲があれば、重症でも可能なことが多い。
病状が進行し、完全臥褥の状態でも、さらに人工呼吸器を装着していても、
家庭事情が許せば、家族と過ごすことが心の大きな支えになる。しかし、患者
自身また家族の不安の多くは、いずれも病状の急変への対応に対してである。
そのために、家庭介護の能力があっても入院となるケースが多い。
日本の現状では、在宅ケアを取り入れたプロジェクトはまだ限られた地域でし
か行なわれていないが、地方自治体の保健婦の難病患者への訪問指導も始まり
つつある。今後、神経難病への包括的な地域ケアシステムが整備され、訪問看
護も充実し、必要なときはいつでも入院できる体制ができれば、重症でも在宅
は可能である。サンフランシスコのALSセンター(Dr.Norris)では、気管切開
後も、患者の90%は自宅に帰れるという。
人生の最後の年月は、家族と過ごせるのが最善である。しかし他方、在宅ケ
167
アは誰にでも可能なわけではなく、ALS患者を含む重症神経難病患者が、安
心して入院できる十分な看護力を備えた長期療養用のべッドの確保も急務であ
る。
診断の参考のために、厚生省特定疾患筋萎縮性側索硬化症調査研究班(19
90年)による、本病の診断手引きを記しておく。
「筋萎縮性側索硬化症」の診断・治療の手引き(1990年)
(1)一般に20歳以上で発病するが、40歳代以後に多い。
(2)発病は緩徐、経過は進行性(病変が限局性で、経過が非進行性のもの
は除外する)。
(3)主な症状は以下のごとくである。
①球症状、舌の線維束性攣縮、萎縮および麻痺、構語障害、嚥下障害。
②上位ニューロン徴候(錐体路徴候)深部反射亢進(下顎反射を含む)、
病的反射の出現。
③下位ニューロン徴候(前角徴候)線維束性攣縮、筋の萎縮と筋力低下。
(4)病型と経過には以下のものがある。
①上肢の小手筋の萎縮(初期には、しばしば一側性)に始まり、次第に
上位・下位ニューロン障害の症状が全身に及ぶ形が多い。
②球症状が初発し、次いで上肢・下肢に上位・下位ニューロン障害の徴
候が現われる。
③下肢の遠位側の筋力低下、筋萎縮に始まり、上位・下位ニューロン障
害の症状が上行する場合がある。
④ときには片麻痺型を示したり、痙性対麻痺の形で症状が現われること
がある。
⑤遺伝性を示す症例がある。
⑥本症は原則として他覚的感覚障害、眼球運動障害、膀胱直腸障害、小
脳徴候、錐体外路徴候、痴呆を欠く、以下の疾患を鑑別する必要がある。
168
頸椎症、頸椎後縦靱帯骨化症、広汎性脊椎管狭窄症、遺伝性脊髄性筋萎
縮性(球脊髄性筋萎縮症、Kugelberg Welander 病)、多発性神経炎(motor
dominant)、多発性筋炎、進行性筋ジストロフィー症、脳幹および脊髄の
腫瘍、偽性球麻痺。
4 難病に立ち向かうために
多くの患者・家族、医療従事者の長い願いがやっと実って、日本ALS協会
という会が日本にも設立された。Japan ALS Association を略してJALSA
と呼ばれている。
欧米諸国ではすでに各国にあり、米国では10以上の支持組織がある。日本で
はやっとJALSAが産声をあげたところだが、こうした組織も含めて、医師、
看護婦、保健婦、ケースワーカー、理学療法士など、ともどもに神経難病の典
型ともいうべきALSの治療と予防に向かって進むことが大事ではなかろうか。
ALSへの対応は、医学研究のあり方について、また、「生きる」という意
味について深くわれわれの胸に問いかけてくる。
参考文献・・・・
(1)八瀬善郎「運動ニューロン変性疾患」平山恵造編『臨床神経内科学』319−327頁、
南山堂、1986。
(2)八瀬善郎「筋萎縮性側索硬化症」『開業医のための難病の診断と治療の手引き』57∼65頁,
六法出版社、1986。
(3)八瀬善郎「神経難病をめぐって」(日本東洋医学雑誌34)63∼69頁、1983。
169
感謝をこめてーーーあとがき
世界中のALS同病者の手記集があると聞き、早く読みたいと願っていた。
このたび新潟県支部のボランティア若林佑子さんほかのご尽力により、日本語
版ができ、慶びにたえない。本書が全国のALS患者、関係者への大きな励ま
しとなることを信じ、また一般社会のこうした病気に対する理解を深める一助
になることを期待している。
原書には15ヵ国、180人の手記が収められているが、紙面の都合上、日
本語版では14カ国、80編に絞り、構成も組み直した。編集は、編者オリバ
ーさんの承諾を得て若林さんが行ない、翻訳に当たっては、若林さんの友人、
中野恵津子さん、村田恵子さんをはじめ、次の方々が、ボランティアとしてご
協力くださった。ここに名を記し、深く感謝の意を捧げる。小林千枝子、内田
美恵、村田靖子、足立佐保子、田総恵子、飯塚迪子、桜内篤子、大谷満里の各
氏である。また写真家、森本二太郎氏にも、快く写真の提供をいただいた。
和歌山県立医科大学の八瀬善郎先生には出版社のご紹介を賜ったのみならず、
丁寧な日本語版へのまえがきと解説をいただいた。信楽園病院(新潟)の堀川
楊先生には、本書刊行の話が出て以来、医学面での監修、助言をはじめ各方面
との連絡調整など、ご多忙中ひとかたならぬご尽力を賜った。また、日野原重
明聖路加看護大学学長には温かい推薦のことばをいただいた。諸先生に深く感
謝申し上げる。
5章に示されているごとく、ALS患者のケアには各方面の専門家および一
般の方々のご協力が必要である。本書発刊までにはたくさんの方々の無償のご
協力をいただいたが、今刊行を機に、さらに支援の輪が広がることを念じてや
まない。協会としては財政的にも苦労しており、その面でのご協力もいただけ
れば幸いてある。(郵便振替・東京7−9438/日本ALS協会)
原著が刊行されて以降今までに、ピート・オリバー氏や松嶋禮子さんなど手
記を寄せられた何人もの方がたが他界されている。一日も早く病因が解明され
170
ることを切に望んでいる。
最後に本書の出版を快諾され、励ましてくださった田村勝夫社長はじめ、サ
イマル出版会の諏訪部大太郎、岡村由美子氏に、協会を代表し心からお礼を申
し述べたい。
日本ALS協会会長
松本
茂
サイマル出版会のめざすもの
*サイマル出版会は、激動する現代史の創造に読者とともに参加する姿勢
で、国際的言論活動を展開するべく出発した。
*思えば、人類は平和のために戦争を続け、世界は一つであることを願い
ながら分裂し続けてきた。科学の発展は、電子情報時代をもたらしたが、
情報の同時性はまた単純同一反応性をも生み、新たな誤解に苦悩する結
果となっている。
*われわれは、こうした新たなる誤解による相剋の根をとり除くために、
また世界の指導国家として再登場した日本の国際的資質を豊かにし、国内
の諸課題を鋭角的にとらえ、国際間の理解を深めるための現実的歴史的素
材を提供しようと志すものである。そして地球上のコミュニケーションを
円滑にすることによって、人間の条件を回復し、世界が平和に一つに運営
統合される事業に、言論活動によって寄与しようと念願するものである。
*このささやかながらも高き理想に精進せんとするわれわれに、幸いにし
て読者諸賢のご支援を期待してやまない。
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(編者・訳者紹介)
Judy
Oriver
1942年米国生れ。カンザス大学で幼児教育を専攻。
1980年、パイロットだった夫ピートのALS発病をきっかけに、
カンザスシティのALS患者支援グループに参加。以来ALS協会
の機関紙の編集にあたるとともに、ALS国際会議でも患者家族の
立場から積極的に活動、世界の関係者に呼びかけて本書を編集。
87年のALS京都国際会議にも参加して来日した。
89年夫の死去の後、平和運動や環境保全運動にも参加している。
開拓時代の民芸についての子供向けの著書がある。
日本ALS協会(JALSA)連絡先
〒162−0837 東京都新宿区納戸町7−103
TEL.03-3267-6942、 FAX.03-3267-6940
Japanese
translation rights arranged
Diretly
with
the
172
author
完