正常化=規範化が問いに付されるということ ―M.フーコーの「外」と「逸脱

正常化=規範化が問いに付されるということ
―M.フーコーの「外」と「逸脱」に関する一考察―
キーワード: 正常化=規範化,
「外」
,逸脱,狂気,非理性の規範,ヘテロトピア
教育システム専攻
舩原 将太
【目次】
問いに付す逸脱の探究を行う。というのも,ジュディッ
序章
ト・ルヴェルも指摘するように,
「外」とは「従属に還元
1
2
カンギレムにおける規範理論
しえないもの」として定式化できるからだ。我々の探究
1.1 変則性 anomalie と異常 anormal
とは,ルヴェルがしめしたこのテーゼの内実を,フーコ
1.2 カンギレムにおける規範 norm の所在
ーのうちに探り,その結果として正常化=規範化を問い
1.3 生物学的規範から社会的規範へ
に付すものとしての「外」をめぐるものとなる。
フーコーにおける「正常化=規範化」
2.1 ペストと癩病の対比から見る正常化=規範化の
図式
3
カンギレムにおける規範理論
第一章ではフーコーの正常化=規範化のモデルを検討
2.2 正常化=規範化に内包される逸脱
する前に,このモデルの理論的素地をなしているとされ
2.3 無限のプロセスとしての正常化=規範化
ているカンギレムの『正常と病理』における規範理論の
2.4 二つの正常化=規範化の差異
レビューを行っている。
フーコーにおける「外」
4
1
同書においてカンギレムは,各個体における差異とし
3.1 「外」の思考について
ての変則性 anomalie と規範からの逸脱としての異常性
3.2 逸脱する文学の言語
anormal という類似する二つの概念の語源まで遡ること
3.3 逸脱する言語と狂気
により,この二つの語が決定的に異なるものであること
「狂気」の再検討
を主張している。このように議論を始めることによって
4.1 差異としての「狂気」
カンギレムは,個体が示す変異が,規範から逸脱する異
4.2 二分法を揺さぶる狂気
常性と即座には結びつかないということを強調するので
4.3 非理性の規範としての狂気
ある。カンギレムが最も強調することは,ある環境に位
4.4 「非理性の規範」が開示するヘテロトピア
置する個体に内在する規範性である。外在的な規範によ
おわりに
っては個体は正常/異常であることが問われるのみに対
し,カンギレムは個体に内在する規範性という視点を導
序章
本論文は,フーコーが権力論の中で示した正常化=規
入することにより,個体がある環境に適応し,生きよう
とする意志をこの文脈の遡上に載せようとするのである。
範化というモデルにおける逸脱という概念の位置づけを
カンギレムによれば,
この個体における規範性について,
修正することにより,このモデルの組み換えを行うこと
規範とは単にある事実を評価し規定することに関わるも
を目的としている。フーコーの語る正常化=規範化にお
のを指すのではない。ゆえに,評価し規定した帰結とし
いて逸脱(するもの)とは排除されるか縮減されるかし
て逸脱するものを戒める効用を有するというわけでもな
かなかったものだが,実のところ逸脱するものの持つイ
い。そうではなく,規範的であることとは,こうしたこ
ンパクトは時として正常化=規範化というモデルそれ自
とを可能にする規範の創設 institue des norms を伴った
体に異議を申し立て,これを問いに付し,構造そのもの
とき,はじめてこの言葉の十全たる意味を表現している
を組み換えるものである。本論文ではフーコーが 1966
と言えるのだ。ここで語られていること,それはこの個
年のテクスト「外の思考」で暗に示した「外」という概
体が病理に冒されていたり,負傷していたり,同じ環境
念を蝶番とすることにより,こうした正常化=規範化を
でこれまで通りの振る舞いを行うことが出来なくなった
としても,この状況に適応しようとする意志を失わない
ず,同じカテゴリに属するものだと思われていた。つま
限り,この個体は外在的規範に反するにもかかわらず常
り,白痴などを示す者は正常な人びととは全く異なる存
に正常でありうるということである。
在であると考えられていた。しかし,エスキロールが 19
カンギレムは,上述の議論を生理学/病理学の問題とし
世紀初頭に提示した「発達」という概念がこの文脈に接
て展開している。我々はこれから,この議論を人間社会
続されることにより,認識が変化していったとフーコー
におけるものに展開し直す必要がある。つまりカンギレ
は言う。つまり,発達が一つの規範として導入されるこ
ムにおいて生物が環境に適応する際に呈する変則性のよ
とにより,精神遅滞と呼ばれるものがこの規範からどの
うに示された図式を,いかにして規範化が行われている
程度逸脱しているものなのか,
他の子供と比較したとき,
社会に位置づけなおすか,ということを論じなければな
精神遅滞を示す子供がどの程度遅れを示しているのかと
らない。この点については,カンギレムの問題を引き受
いう問題設定が可能となったのだ。もはや精神遅滞は理
けて,フーコーが展開を行っていると思われる。
性の絶対的な外部としてみなされなくなっていることが
2
わかるだろう。精神遅滞者とは,発達していく存在とし
フーコーにおける「正常化=規範化」
フーコーが正常化=規範化のモデルを論じているのは,
ての子供がその過程において赴かなければならなかった
『監獄の誕生』及びその前後の講義『精神医学の権力』
状態へ到達しなかったか,遅くに到達しただけの存在と
と『異常者たち』においてである。本章ではこの三つの
みなされるに至ったのである。そしてこのような帰結か
テクストをもとに正常化=規範化における逸脱の位置づ
ら,発達という規範における逸脱である精神遅滞者は,
けに対する分析を行っている。
我々の内部に配慮の対象として組み込まれることになる。
フーコーは『異常者たち』において,癩病とペストと
このようにして,正常化=規範化とは規範を新たに設定
いう二つの病理に対する社会政策の差異のなかに正常化
することによって,正常化=規範化の対象となる逸脱を
=規範化というモデルを見いだしている。17 世紀に生じ
新たに作り出す無限のプロセスとなるのである。
た癩病においては患者を一つの空間に隔離し,排除する
さて,このように論じていくならば,正常化=規範化
ことによって社会の浄化を進めていっていたものが,18
において,社会に位置する個体の有する内在的規範を論
世紀後半に見られるペストへの対策においては,社会の
じることはできないという問題に突き当たる。この問題
内に新たに包摂することを可能とするために,病人に対
を受けて,
次章以降ではフーコーの思想の内部において,
して手厚い配慮が行なわれることになるのだ。フーコー
このような個体の規範性を論じる可能性を探ることにな
において,癩病の際に起こった,社会からの締め出しと
る。
も言える対策は排除にかかわるネガティブなメカニズム
3
なのである。すなわち,癩病においては異常性は社会の
フーコーにおける「外」
本章では,こうした可能性を探る最初の作業として,
側から排除され,締め出されたのちには一切の価値を剥
「外の思考」から議論を始めている。というのも,序章
奪されていた。これに対し,ペストの場合は,異常性は
で示したルヴェルのテーゼ,
「従属に還元され得ない」
も
単に排除されるのではなく,社会に再び組み込み直すこ
のであるとされる「外」が語られているのは,この「外
とが可能なものとみなされる。このことから,ペストの
の思考」というテクストだからである。
場合,癩病のようなネガティブな要素は減少され,むし
フーコーがこのテクストにおいて最も強調している
ろ生産的 productif な側面が強調されるようになる。こ
のは,西欧における近代哲学が一貫して主張してきた主
うした図式は正常化=規範化において基礎をなしている。
体の統一性が実は危いものであること,そしてその危う
正常化=規範化において逸脱という形象は両義的な位置
さを示したものとしての現代文学の存在である。ここで
づけを与えられており,逸脱は解消されなくてはならな
は現代文学によって示される言語の不透明さ,
すなわち,
いものでありながら,逸脱がなければ正常化=規範化は
事物・言語・主体が一致することなく無限の横滑りを見
機能しえないのである。
せるという,言語表象観とも呼べる自明性が崩される地
またフーコーは,逸脱の持つ生産性として,規律シス
平が,逆説的にも言語によって開かれる事態が語られて
テムを追加していくという側面を主張している。このこ
いる。そこでは,言語を軸とした主体の統一性が言語を
を『精神医学の権力』では精神遅滞を例に挙げ,論じて
用いる限りにおいて常に散逸する危うさと隣り合わせと
いる。
なっていることが示されており,主体の統一性の自明性
白痴や痴呆とは,18 世紀ごろまでは一般施療院に隔離さ
が突き崩されてしまう場としての
「外」
が示されていた。
れていた狂気という形象と何ら弁別的特徴を持っておら
廣瀬浩司(2011)はこの主体の散逸と呼べる状況を,同時
期のフーコーのテクスト「侵犯への序言」を引用し,主
いる狂気とは,
「現れ」としては正常でありながらも,こ
体の多数性と表現し,フーコーの思想の連続性を,この
の形象独自の論理,コードによってその存立が可能とな
主体の多数性を語ることに見ている。つまり,文学論と
っているものなのだ。
しての
「外の思考」
や他のテクストでフーコーが論じた,
また佐々木は,『精神疾患とパーソナリティ』に言及
言語というシステムにおける主体の多数性が開かれる可
しながら,近代に成立した心理学によって「理性=自由/
能性を,1970 年代における権力論では,制度的身体の内
狂気=自由の不在」という図式が形成され,結果,それ
に見ようとしたものであるとしているのである。その上
までは人間における倫理の様態の一つであった理性が人
で,1970 年の対談における,上述の「外」を開く文学と
間にとっての本性となってしまったことを強調している。
同等の位置づけを与えられていた「狂気」に着目した。
佐々木によるこの指摘は我々に大きな示唆を与えている。
ここで我々は廣瀬による指摘を受けて,言語のような抽
つまり,理性的であることは人間にとっての本性ではな
象的な形象が示す主体の多数性というものが,制度的身
く,選択しなければならない一つの倫理として捉えるこ
体が表象する狂気によって具体化されているという仮定
とが可能であることを示すことにより,フーコーは狂気
のもと議論を進めていこう。
を理性の対極として捉えるのではなく,別の規範に従っ
4
ているものとして捉え返そうとしていたのではないだろ
「狂気」の再検討
こうしたとき,佐々木慈子(2007 )が指摘するフーコー
における狂気概念の特異性は注目すべきものである。
佐々木によれば,フーコーにおける狂気とは正常化=規
範化が語る狂気とは一致しないということ,常にランガ
ージュ(言語)の問題として語られているということ,
そしてそのランガージュとは,常にすべてのものとの差
異を語っており,その意味で社会との対話の場が開かれ
ているというもの,この三点が特徴として挙げられてい
る。
正常化=規範化の中における狂気とは一致しない狂気
を,
フーコーがいかに論じていたかを確認するために
「狂
気,作品の不在」を検討する。このテクストにおいて,
フーコーは狂気をとりわけ言語の問題として語っている。
そこでは,第一に狂気とは常に社会における「禁止され
た言語行為」の地帯に位置していたこと,第二にフロイ
トが狂気に課されていた禁止からこれを解放したこと,
第三に,これが最も重要な点であると思われるが,「現
れ」として正常であるが,触知したときにその特異性が
露わになるという狂気という形象の奇妙さ,これらにつ
いて言及されている。ここでフーコーは,狂気に見られ
る「現われ」としての正常性を語ることによって,理性
と狂気,正常と異常といった二分法の図式を解体しよう
としているように思われる。すなわち,正常と異常,理
性と狂気の間に穿たれた隔たりを無化することによって,
二つの相容れないと思われていた形象を同一の地平に置
き直していると言ってよいであろう。このように論じる
ことによって,狂気というものが,
「現われ」としては正
常な理性と同一でありながらも,理性とは異なる論理を
包含しているために「理性」によって解釈することが困
難であり,意味が横滑りを続けるものとなったものとし
て論じ直しているのである。すなわち,ここで語られて
うか。
こうしたフーコーの狂気についての語り口から,我々
、
はこの狂気という形象を,
理性とは異なる規範である
「非
、、、、、
理性の規範」として呼ぶこととしたい。つまり,狂人と
見なされる人々は「非理性の規範」を内在している者と
して捉えることが可能であると考える。このように,狂
気を非理性の規範として語ることで,理性と狂気との間
の隔たりを無化し,狂気を社会における他者ではないも
のとして語ろうとしていたというフーコー像を新たに導
き出した。また,3 章において我々は廣瀬の指摘した主
体の多数性という問題を引き受け,制度的身体としての
狂気に接続することにより,
「規範の多数性」
と呼ぶべき
状態も導き出せたと言えるだろう。
また本章の最後ではこうした複数の異なるものが存
立する世界を記述する概念として 1966 年にフーコーが
提示した「ヘテロトピア」に言及している。ヘテロトピ
アとは,
『言葉と物』
においてフーコーが示した語であり,
ボルヘスの引用した中国の百科事典の中にある奇妙な項
目を指し示している。そこには複数の有形無形の事物が
項目として挙げられている。それだけでも奇妙なものな
のだが,とりわけフーコーが着目するのは「この分類に
含まれるもの」というように,全体の中の一個の項目が
まさにその全体を指し示すという,極めて特異なもので
ある。ヘテロトピアとはこのように,同じ項目として秩
序だって羅列されているように見えて,そのうちに内包
する奇妙な一点のことを指す。つまり,整序化されなが
らも,この秩序そのものに内側から揺さぶりをかけるよ
うなものが内包されている世界を記述するために,フー
コーはヘテロトピアという語を用いたのである。本論文
の最後では「非理性の規範」をフーコーの議論の内から
導出することによって,正常化=規範化というモデルが
常化=規範化される,言うなれば正常化=規範化の原初的
依拠する規範が多数生じうる,すなわち「規範の多数性」
な場面として,その特異性が語られるような場である。
がこの場では生じうることを論じてきた。いうなれば,
しかし,このことは同時に次のことも意味すると言える
正常化=規範化のプロセスの中に内包された「非理性の
はずである。すなわち,教育の場とは,非理性の規範に
規範」によって規範が問いに付され,
「規範の多数性」が
よって定立する規範の多数性というものが現れる原初的
保持された世界を構想したフーコー像を提示している。
な場面でもある,と。なぜなら,この場において,人は
そして,このようなヘテロトピア的な要素を多分に含ん
初めて,社会的・外在的規範によって自らが生きる過程
だものとして,正常化=規範化のモデルを書き換えるこ
で編み出してきた内在的な規範が問われることになるか
との可能性を指摘した。
らだ。しかしこのことは同時に,自己の規範と外在的規
おわりに
範のズレが生じ,規範の多数性を知り,複数の規範によ
本研究では,1970 年代のフーコーが提示した正常化=
る終りのない対話が生じるヘテロトピア的な世界を生き
規範化の図式において社会の内部に組み込まれては消滅
る原初的な場面としても了解されなければならない。す
を与儀なくされてきた「逸脱」を,むしろ正常化=規範
なわち,教育の場においても,そこに位置する者が向か
化のプロセスのような閉ざされた円環を根本から問いに
なければならない方向が外在的規範によって示されなが
付すものであると想定したうえで議論を展開してきた。
らも,それとは異なる反応を示してしまう誤謬が孕まれ
その際に,1960 年代における「外」という概念を蝶番と
ていることを,教育は引き受けなければならない。その
することによって,絶対的な審級として機能する規範の
ことを引き受けたうえで,外在的規範と誤謬との終りの
オルタナティブとして「逸脱」や「狂気」という概念を
ない対話が生じる場として,すなわち,そこで共有され
フーコーが構想していたことに着目してきた。そこでは
うる世界像が常に組み変わるものとして記述する教育の
健康と病理,理性と狂気,正常と異常といった正常化=
理論が可能であると考えられる。
規範化のプロセスで展開される二分法的な図式を内側か
ら攪乱するような「非理性の規範」が構想されており,
主要参照文献
フーコーはこの非理性の規範を暗に語ることによって,
カンギレム(滝沢武久訳)
『正常と病理』
法政大学出版会,
「規範の多数性」が許されたヘテロトピア的な世界を語
1987。
ろうとしていたことが明らかとなったと言えるだろう。
――(西谷修訳)
「侵犯への序言」
『ミシェル・フーコー
そしてフーコーは,
自明性が崩される瞬間,
すなわち
「外」
思考集成Ⅰ』
,筑摩書房,1999,304-325 頁。
という瞬間が生起する可能性を常に包摂したヘテロトピ
M.フーコー(豊崎光一訳)
「外の思考」
『ミシェル・フ
ア的な世界を設定することにより,
正常化=規範化や権力
ーコー思考集成Ⅱ』
,筑摩書房,1999,335-365 頁。
テクノロジー,人間諸科学などによって閉ざされた世界
としてではなく,むしろ逸脱する可能性を多分に孕んだ
、、、、、、
人間の手によって構築されうる,開かれた世界の記述を
目指していたことを結論付けることが出来るであろう。
――(渡辺一民・佐々木明訳)『言葉と物――人文科学の
考古学』
,新潮社,1975.
――(田村俶訳)『監獄の誕生――監視と処罰』,新潮社,
1977.
本論でこのように導き出されたことを受けたときに,
――(慎改康之訳)
『異常者たち――コレージュ・ド・フ
フーコーがカンギレムに捧げた「生命――経験と科学」
ランス講義 1974-1975 年度』(ミシェル・フーコー
は注目すべき論文である。
なぜなら,
ここでフーコーは,
講義集成Ⅴ),筑摩書房,2002.
カンギレムが生物に固有のものであるとしている「誤謬
――(慎改康之訳)
『精神医学の権力――コレージュ・ド・
erruer」を,社会における人間へと敷衍させているから
フランス講義 1973-1974 年度』
(ミシェル・フーコー
だ。つまり,誤謬を犯す可能性を多分に含んだ人間と社
講義集成Ⅳ)
,筑摩書房,2006.
会との相互作用のうちに,開かれた世界を構想するフー
コー像を,ここから新たに導き出すことが可能なのであ
廣瀬浩司『後期フーコー――権力から主体へ』
,青土社,
2011。
佐々木慈子『狂気と権力――フーコーの精神医学批判』
,
る。
最後に,ここでこうした正常化=規範化が生じる場
における「非理性の規範」という問題を教育に接近させ
考えなければならないだろう。まず,教育の場面として
の教室空間とは,人が,社会的・外在的規範によって正
水声社,2007。