④総帆あげて

月 報 第 403 号
船 長 よ も や ま 話
船乗りに関する十二章 ④④
土井全二郎
元 朝日新聞編集委員 海事ジャーナリスト らませて青い海を走る練習船の姿だった。そ
総 帆 あ げ て
こでの激しい訓練を思い出し、生きる勇気と
希望を最後まで失わなかった」
(昭和51年1
これまで練習帆船、捕鯨船、混乗船(自動
月13日付朝日新聞投稿欄「論壇」から)
車専用船、コンテナ船)
、近代化船(コンテ
周知のように戦前戦中における練習船とい
ナ船、大型タンカー)に同乗取材する機会を
えば帆装船だった。大成丸(東京高等商船学
得た。当時のメモ類を読み返してみるとき、
校)進徳丸(神戸高等商船学校)日本丸、海
乗船取材の順序が図らずも海運界変遷の流れ
王丸(航海練習所、のち航海訓練所)
。この
にほぼ添うかたちになっているのに気づく。
大型練習帆船四隻(各船とも初代)のうち、
練習帆船では「船乗りの原点」ともいうべき
光景をスケッチできたし、次のクジラ捕り船
では商船の世界では見られなくなった「古き
よき時代」の名残に触れることができた。混
乗船や近代化船ともなると、それまでの海上
生活の根底を揺るがす事態が進行していた。
しばらく、そうした急展開する時代の渦中に
あった海の男たちの証言と周辺事情を振り返
り、現代の海事社会事情を考える手がかりと
してみたい。まずは練習帆船から―。
〈太平洋の白鳥〉
「商船学校に学び、太平洋
戦争中は輸送船に乗り組んでいた。米潜水艦
に撃沈されること三度。乗組員の多くを失い
ながら奇跡的に助かることができたが、いか
だで漂流中、いつも脳裏を去来したものは、
四本マストに真っ白い帆を白鳥のようにふく
ハワイ・ホノルルのダイヤモンド・ヘッド沖を
帆走する日本丸(
『帆船の詩』から)
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大成丸と進徳丸は明治と大正の生まれ、日本
丸新聞」にインタビュー記事が出ていた。
丸と海王丸は昭和初期の就航。新聞投稿にあ
「帆船の良さってのは、なんちゅうか、そ
る練習船がこのうちのどの帆装船を指すかは
う海っつうものが分かるこつかな」「汽船に
不詳だが、いずれにしても「四本マストに白
ばかり乗ってて、あ、船とは、海とはこんな
い帆」であることには変わりなかった。
もんか、てぇ分かったような気持ちになるの
これら明治、大正、昭和と三代にまたがっ
は怖いいねえ」「いまでも帆船に一年乗らん
て誕生した練習帆船の四隻だが、明治期の大
と、忘れてしまっている部分があるのに気づ
成丸建造、大正期の進徳丸建造の際には「練
きますなあ。もし将来、帆船が日本からなく
習船は帆船か、汽船か」の論争がみられてい
なると、いまの技術、帆船のしくみなぞ、す
る。それぞれ背景にある社会環境や海運界事
ぐ忘れられていくでしょうなあ」
情は異なるものの、練習帆船のあり方をめぐ
関連して、かつて「名船長」をうたわれ、
る議論はなにも昨日今日始まった話ではない。
のち運輸省航海訓練所長となった千葉宗雄船
古くて新しい問題なのである。
長(東N93)は、現在の練習帆船の二代目日
「或る者は帆船は止めて汽船とすべきであ
本丸と海王丸建造をめぐる論議のさい、その
ると云い、或る者は帆船の苦業練磨を経なけ
著『練習帆船日本丸・海王丸』(丸ノ内出版)
れば有事に沈着に部下を統制することができ
の中で次のように述べている。
ず、免許所得に帆船の実習を課している事実
「ここで(初代練習帆船の)両船が姿を消
より当然であると……」
(
「大成丸の建造」
『東
すと、将来これを再現しようとしても不可能
京商船大学九十年史』所載)
「
(汽船派は)高
になるだろう」「造船上の技術もさることな
等商船学校の生徒が卒業後に実際に勤務する
がら、かけがえのないのは大型航洋横帆船の
のは汽船であって帆船ではないから、もはや
シーマンシップである。数千年にわたる海上
帆装の練習船による操船実習は不必要である
の経験と生活の知恵からうまれた珠玉の結晶
との見解に立っていた」
「対して〜在校中に
が溶解すると、これをよみがえらせる環境条
海員としての基礎を養成するには、帆船で実
件はもはや取りもどすことができない。これ
習することが最も効果的であるという意見が
強く開陳された」
(
「練習船進徳丸と遠洋航海」
『神戸商船大学五十周年記念誌』所載)
〈ボースンのカタふり〉
昭和51年(1976年)
初夏、米国建国200年記念大帆走会に参加す
べく、ニューヨーク向け長期実習航海に出た
練習帆船日本丸の船上では、東京、神戸両商
船大実習生を相手に、ボースンこと、土井田
圓三甲板長の帆船談義が人気だった。さっそ
く実習生の手による週一回発行の船内「日本
日本丸から海王丸を見る
(千葉宗雄『練習帆船日本丸・海王丸』から。昭
和5年、品川沖で)
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は国の宝というだけではなく、世界の宝とし
習生によるいくつかの感想が聞かれた。「海
て惜しまれる」
は僕に、日本丸という帆船を下さった。青い
練習帆船は船員の教育や実習の場であると
海原に、白い帆をはって疾駆する日本丸。そ
の認識はもちろんだが、いわゆる海技の伝承
んな日本丸を見つめると、なんともいえない
やシーマンシップの継承といった面からの評
いとおしさを感じる」
「帆船による実習は、
価も大切だ、ということになろうか。
船舶運航の技術のみならず、海上労働の意義
や、特殊性を体験会得できるものであり、こ
〈海のロマン〉
「ロマンにつける金はない」
。
れらの会得が、船員にならぬものにとっても、
昭和56年(1981年)度、新しい練習帆船(現
大きなプラスになることは云うまでもないこ
日本丸、海王丸)建造予算要求に対する大蔵
とと思われる」(拙著『総帆あげて』海文堂)
省財政当局の見解が、これだった。
いま千葉船長の話に出てきたこの二代目建
〈大自然との調和〉 航海中、たくさんの海の
造問題はその後進展をみせ、予算案への盛り
仲間たちが日本丸の周囲に遊びにきた。アホ
込みまでこぎつけたのだが、当局の反応はこ
ウドリ、ウミタカ、ウミツバメ。クジラ、ウ
のように冷たかった。もっとも、これについ
ミガメ。エンジン音を発する汽船だとこうは
ては練習帆船のロマン論をすべて否定したも
いかない。「マンボウ見ゆ」との船内放送が
のではなく、
「実習教育を行う上で大型練習
あると、待ってました、とカメラを片手にし
帆船が必要であるとする教育論が不十分であ
た実習生、ボンクで寝ていた連中が飛び起き
る」という見解を別の表現で示したものだと
てくる。当直の実習生も航海士官の目を気に
の解説がある(航海訓練所『五十年史』
)
。年
しながらやってくるが、当の士官連も双眼鏡
中数字を相手にしている担当部署としては
のピントを合わせながら「見える見える」。
「海のロマン」の定量換算、数字的裏付けに
大西洋フロリダ沖では米原子力潜水艦が浮
上してきた。ちょうど展帆作業を終えたとこ
戸惑いがあったのかもしれない。
ちょうどそのころ、当時運輸省の海上安全
ろだった。総帆だったが、無風、快晴。行き
船員教育審議会は「今後における練習船教育
のあり方について」と題する答申案をまとめ
ている(昭和56年3月)
。それによれば、
「帆
船練習船」の「機能」として次のような点が
あるとされた。
「大自然の影響下における安全運航の習得」
「大洋航海の基本的技術の習得」
「船舶職員の
資質及び体力の涵養」
「大型船操船の模擬」
「高
所作業による安全作業の習得」
そ れ が ど ん な も の で あ っ た か ―。 米
ニューヨークをめざした日本丸の船上では実
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マンボウを生け捕る
(
『練習帆船日本丸・海王丸』から)
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脚はなかった。相手原潜はいま潜ってきたば
のための海事政策のあり方について(中間と
かりの海水で濡れていた。その黒光りする艦
りまとめ)」を答申した。海運業界が求める
体から水兵たちがわっと湧いてきてカメラを
人材養成に向け、船員教育訓練システムの改
向け、双眼鏡を手渡している様子があった。
革を強く訴える内容となっている。具体的に
そんな具合だったから日本丸側で
「甲板整列」
は①海運事業者の船舶(社船)を用いた乗船
といった儀礼形式をとることはなかったのだ
実習の導入②帆船実習の義務付けの廃止③実
が、相手がいつまでも興味深かそうに眺めて
習船舶の構成や実習内容等の見直し——。一
いるので、実習生たちはすこうし図に乗り、
方で、船員志望者の増大を図るため、
「感動
格好つけて甲板を歩いていた。
とロマン」を与えることが必要とし、練習帆
風力利用の原始力船と近代科学の原子力船
―。この洋上対決、日本丸の完勝とみた。
船日本丸と海王丸の体験航海や市民クルーズ
の有効利用などを提案している。
「気象、海象など海の大自然には未だ解明
このうち「帆船実習義務付けの廃止」に関
されていない面が大きく、その理解には肉体
しては、全廃ではないといっても従来解釈と
と精神が直接的に海と触れ合うことのできる
異なる一定の方向が示されたことになる。ど
帆船が必要であることを、長い歴史の中で感
んな討議の末の結論だったのだろうか。いま
得してきた」「航空機や原子力発電所の事故
からでも遅くない。国民に対して丁寧な説明
が頻発して、その度毎に人的要因が問題にさ
をすべきであろう。日本丸、海王丸建造に当
れているが、要は技術を過信し人間の原点を
たっては一般からの大きな支持やカンパが
忘れたところにあるように思われる」
「海を
あったことを忘れてもらっては困る。
征服するのではなく海に順応する心が、船の
「感動とロマン」の練習帆船による一般体
安全を守る要点で、帆船によってのみ教えら
験航海の奨励との整合性も気になるところだ。
れるところである」
(西部徹一『船員の戦後
この体験航海で練習帆船にあこがれたが、い
史事典』労働科学研究所出版部)
ざ入学してみると肝心の帆船実習はお預け、
といったマヌケなことになりかねない。「船
〈「船員だまし」
〉
その昔、帝国海軍で「海軍
魂」という言葉がもてはやされた。ところが、
員だまし」じゃないスか、これ。
「帆船に乗るのはあこがれだった。乗って
肝心の戦争がどうにもならなくなって、海軍
みてやはり長年の思いは正しかったことが分
もがたがたになってしまった。で、戦争も末
かった。あの帆のふくらみ、丸い腰。ふだん
期。かつての栄光にあこがれて入隊してきた
は風の吹くままだが、いざというときはボク
志願水兵たちは、あまりのことに、これじゃ
らの号令ひとつ、動作ひとつでどうにでも
あ、まるで「海軍だまし」じゃないスか。ぶ
なってくれる。そして総帆で進む姿のなんと
つぶつ言い合ったそうだ。
いう優雅さ。ボクは抱きしめてやりたいほど
平成19年(2007年)6月、国土交通省の交
通政策審議会海事分科会ヒューマンインフラ
なのだ」(土井全二郎・<写真>安藤聡雄『帆
船の詩』朝日新聞社)
部会は「海事分野における人材の確保・育成
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* * *
日本丸は米国のどこの寄港先で
も大歓迎をうけた。
「ウェルカー
ム」
「ビューティフール」
。消防艇
による赤、黄、青の三色放水も始
まった。出港する大型貨物船、軍
艦からはきちんとした旗信号によ
る挨拶がある。こちらも実習生甲
板整列、総員敬礼で応える。
西海岸ロングビーチで、連日、
停泊中の日本丸を眺め続けるベ
レー帽の老人がいた。帆船に乗っ
ていた。「ボースンだった」と誇
最初の寄港地ロングビーチ港。大勢の見物客がやってきた
(
『帆船の詩』から)
らしげに名乗った。一般公開日で
なかったが、当直士官の許可を得
て船上に招待した。タラップを上
がってきた老人は舷門で直立不動
の姿勢をとり、船尾の「日の丸」
に敬礼した。次いで舷門当直に敬
礼。ぴんと張ったその背に、長い
そして確かな海の経歴が表れてい
た。老人は繰り返して言うのだっ
た。
「船乗りに国境はない。帆船日
本丸は日本の船であっても、世界
の人びとの貴重な共有財産だと
思っています。どうか大切に使っ
て、また新しい仲間たちを連れて
きて下さい。いつでも歓迎します」
本文にはないが、このときの日本丸は米船作業事故乗組員
を洋上収容したこともあった。同年5月21日付ロサンゼル
スタイムスはこれを大きく報じた。右は小川征克・次席一
等航海士(前航海訓練所長)
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