レ・ミゼラブル(第五部)

MISERABLES
レ・ミゼラブル
LES
第五部 ジャン・ヴァルジャン
Hugo
ビクトル・ユーゴー Victo
r
豊島与志雄訳
第一編 市街戦
1
一 サン・タントアー
ぼうさい
ヌとタンプルとの両防寨
社会の病根を観察する者がまず
あげ得る最も顕著な二つの防寨は、
本書の事件と同時代のものではな
い。その二つの防寨は、異なった
二つの局面においていずれも恐る
べき情況を象徴するものであって、
有史以来の最も大なる市街戦たる
2
一八四八年六月の宿命的な反乱の
おり、地上に現われ出たのである。
時として、主義に反し、自由と
平等と友愛とに反し、一般投票に
反し、万人が万人を統べる政府に
反してまでも、その苦悩と落胆と
欠乏と激昂と困窮と毒気と無知と
暗黒との底から、絶望せる偉人と
せんみん
もいうべき賤民は抗議を持ち出す
ことがあり、下層民は民衆に戦い
3
をいどむことがある。
無頼の徒は公衆の権利を攻撃し、
愚衆は良民に反抗する。
それこそ痛むべき争闘である。
なぜかなれば、その暴行のうちに
は常に多少の権利があり、その私
闘のうちには自殺が存するからで
ある。そして無頼の徒といい賤民
といい愚衆といい下層民という侮
辱的なそれらの言葉は、悲しくも、
4
苦しむ者らの罪よりもむしろ統治
する者らの罪を証し、零落者らの
罪よりもむしろ特権者らの罪を証
明する。
しかして吾人は、それらの言葉
を発するに悲痛と敬意とを感ぜざ
るを得ない。哲学はそれらの言葉
に相当する事実の底を究むる時、
悲惨と相並んで多くの壮大さがあ
るのをしばしば見いだすからであ
5
る。アテネは一つの愚衆であった。
無頼の徒はオランダを造った。下
層民は一度ならずローマを救った。
せんみん
そして賤民はイエス・キリストの
あとに従っていた。
いかなる思想家といえども、時
として下層の偉観をながめなかっ
た者はない。
聖ゼロームが心を向けていたの
は、疑いもなくこの賤民へであっ
6
・ ・ ・ でいねい ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
た。﹁都市の泥濘こそ地の大法な
・
り﹂と神秘な言葉を発した時、彼
の心が考えていたのは、使徒や殉
教者らが輩出したそれらの貧民や
浮浪の徒やみじめな者らのことを
であった。
苦しみそして血をしぼってるこ
の多衆の激怒、おのれの生命たる
主義に反するその暴行、権利に反
するその暴挙、などは皆下層民の
7
ク ー デ タ ー
武断政略であって、鎮圧されなけ
ればならないものである。正直な
る者はそういう鎮圧に身をささげ、
多衆を愛するがゆえにかえってそ
れと戦う。しかしながら彼は、対
ゆうじょ
抗しながらもいかにそれを宥恕す
べきものであるかを感じ、抵抗し
とうと
ながらもいかにそれを貴んでいる
ことであろう! おのれのなすべ
きところをなしながら、足を引き
8
止むるようなある不安な何物かを
け う
感ずる稀有な時期は、かかるとこ
ろから到来する。人は固執する、
固執しなければならない。しかし
本心は満足しながらも悲しんでい
る。そして義務の遂行のうちに、
ある痛心の情が交じってくる。
直ちに言を進めるが、一八四八
年六月の暴動は特殊の事実であっ
て、ほとんど歴史哲学のうちにお
9
いて他と同類に置くことのできな
いものである。吾人が上に発した
言葉はすべて、おのれの権利を要
求する労働の聖なる焦慮が感ぜら
るるこの異例の暴動に関しては、
排除しなければならない。この暴
動を人は鎮圧しなければならなかっ
た、それは義務であった、なぜな
らこの暴動は共和を攻撃したから。
しかし根底においては、一八四八
10
年六月は何であったか。それは民
衆のおのれ自身に対する反抗であっ
た。
主題から目を離しさえしなけれ
ば、決して岐路に陥るものではな
い。それでちょっとの間、上にあ
ぼうさい
げたまったく独特な二つの防寨に
読者の注意を向けさせることを、
ここに許していただきたい。その
二つの防寨こそ、一八四八年六月
11
の反抗の特質を示すものである。
一つはサン・タントアーヌ郭外
の入り口をふさいでいた、一つは
タンプル郭外を防護していた。六
月の輝く青空の下にそびえた、こ
の内乱の恐るべき二つの傑作は、
見る者に忘るべからざる印象を与
えた。
ゆう
サン・タントアーヌの防寨は雄
かい
魁なものだった。高さは人家の三
12
階に及び、長さは七百尺に及んで
いた。その郭外の広い入り口すな
わち三つの街路を、一方から他方
おうとつ
までふさいでいた。凹凸し、錯雑
のこぎり
し、鋸形をし、入り組み、広い裂
りょうかくほう
け目を銃眼とし、それぞれ稜角堡
をなす多くの築堤でささえられ、
そこここに突起を出し、背後には
人家の大きな二つの突出部が控え
ていて、既に七月十四日︵一七八
13
九年︶を経てきたその恐るべき場
所の奥に、巨大なる堤防のように
そびえていた。そしてこの大親た
る防寨の後ろには、各街路の奥に
十九の小防寨が重なっていた。そ
の郭外のうちにある広大なる半死
の苦しみは、困窮が最後の覆滅を
望むような危急な瞬間に達してい
ることが、防寨を一目見ただけで
感ぜられた。しかも防寨は何でで
14
きていたか。ある者の言によれば、
七階建ての人家を三つことさらに
破壊して作ったものだといい、あ
る者の言によれば、あらゆる憤怒
の念が奇蹟的に作り上げたものだ
ぞうお
という。そして憎悪のあらゆる手
段をもって築かれた痛むべき光景、
倒壊の趣を持っていた。だれがそ
れを建設したか、とも言い得らる
れば、だれがそれを破壊したか、
15
とびら
とも言い得られた。沸騰せる熱情
ひばち
きれ
が即座に作ったものであった。扉、
ひさし かまち
なべ
鉄門、庇、框、こわれた火鉢、亀
つ
裂した鍋、すべてを与え、すべて
を投げ込み、すべてを押し入れこ
ろがし掘り返し破壊しくつがえし
しきいし
打ち砕いたのである。舗石、泥土、
はり
しん
梁、鉄棒、ぼろ、ガラスの破片、
い す
じゅそ
腰のぬけた椅子、青物の芯、錠前、
くず
屑、および呪詛の念などから成っ
16
ていた。偉大であり、また卑賤で
こんとん
あった。渾沌たるものが即座に作っ
しんえん
た深淵であった。大塊に小破片、
引きぬかれた一面の壁にこわれた
皿、あらゆる破片の恐るべき混和、
シシフォス︵訳者注 地獄の中に
て絶えず大石を転がす刑に処せら
れし人︱神話︶はそこにおのれの
岩を投げ込み、ヨブはそこにおの
びん
れの壜の破片を投げ込んでいた。
17
要するにまったく恐ろしいものだっ
ほるい
た。浮浪の徒の堡塁だった。くつ
がえされた多くの荷馬車はその斜
面を錯雑さしていた。大きな大八
車が一つ、車軸を上にして横ざま
に積まれて、紛糾した正面に一つ
きずあと
の傷痕をつけてるかのようだった。
とりで
乗り合い馬車が一つ、砦の頂にむ
りやりに引き上げられ、あたかも
荒々しい砦の築造者らが恐怖に悪
18
戯を添えんと欲したかのように、
ながえ
その轅をいたずらにある空中の馬
に差し出してるかと思われた。そ
の巨大な堆積、暴動の積層は、あ
らゆる革命がオッサ山とペリオン
山とを積み重ねたものかと︵訳者
注 ジュピテルに反抗した巨人ら
が天に攻め上らんために重ねたテッ
サリーの二つの山︶見る者の心に
思わせた。八九年︵一七︱︶の上
19
に積み重ねた九三年︵一七︱︶、
八月十日︵一七九二年︶の上に積
み重ねた共和熱月九日︵一七九四
年七月二十七日︶、一月二十一日
︵一七九三年︶の上に積み重ねた
共和霧月十八日︵一七九九年十一
月九日︶、共和草月︵一七九五年
五月︶の上に積み重ねた共和檣月
︵一七九五年十月︶、一八三〇年
の上に積み重ねた一八四八年であっ
20
た。場所の要害はその努力にふさ
ぼうさい
わしいものであり、防寨はバス
ティーユの牢獄の消えうせた場所
に出現して恥ずかしくないもので
あった。もし大洋が堤防を築くと
ぼうさい
するならば、おそらくかかる防寨
どとう
を築くであろう。狂猛な怒濤の跡
きけい
はその畸形な堆積の上に印せられ
ていた。しかもその怒濤は、下層
けんごう
の群集だったのである。その喧囂
21
の状の化石が見えるかと思われた。
はち
急激な進歩の暗い大きな蜂の群れ
がおのれの巣の中で騒いでるのが、
この防寨の上に聞こえるかと思わ
やぶ
れた。それは一つの藪であったか、
げんわく
酒神の祭であったか、それとも一
ようさい
つの要塞であったろうか。眩惑の
羽ばたきによって作られたものか
かくめんほう
と思われた。その角面堡のうちに
ご み
は一種の塵芥の山があり、その堆
22
積のうちには一種のオリンポスの
殿堂があった。その絶望に満ちた
混乱のうちに見らるるものは、屋
たるき
根の椽木、色紙のはられた屋根部
屋の断片、砲弾を待ち受けて物の
とびら
えん
破片のうちに立てられてるガラス
とだな
のついた窓の扉、引きぬかれた煙
とつ
筒、戸棚、テーブル、腰掛け、上
こじ
を下への乱雑な堆積、それから乞
き
食さえも拒むような無数のがらく
23
た、そのうちには狂猛と虚無とが
同時にこもっていた。民衆のぼろ
くず
屑、木材と鉄と青銅と石とのぼろ
屑であって、サン・タントアーヌ
郭外が巨大な箒の一掃きでそれら
を戸口に押しやり、その悲惨をもっ
て防寨となしたかのようだった。
首切り盤のような鉄塊、引きち切
られた鎖、絞首台の柱のような角
材、物の破片の中に横倒しに置か
24
れてる車輪、それらのものはこの
そうぼう
無政府の堂宇に、民衆が受けてき
かしゃく
た古い苛責の陰惨な相貌を交じえ
さしていた。実にこのサン・タン
トアーヌの防寨は、すべてのもの
を武器としていた。内乱が社会の
頭に投げつけ得るすべてのものは、
そこに姿を現わしていた。それは
一つの戦いではなくて、憤怒の発
作だった。その角面堡をまもって
25
るカラビン銃は、中に交じってた
さんだんじゅう
数個の霰弾銃とともに、瀬戸物の
破片や、骨片や、上衣のボタンや、
また銅がはいってるために有害な
弾となる寝室のテーブルの足につ
いてる小車輪までも、やたらに発
射した。防寨全部がまったく狂乱
そうじょう
していた。名状し難い騒擾の声を
雲の中まで立ち上らしていた。あ
る瞬間には、軍隊に戦いをいどみ
26
ながら、群集と騒乱とでおおわれ
てしまった。燃ゆるがような無数
の頭が、その頂をおおい隠した。
あり
蟻のような群集がいっぱいになっ
おの
やり
ていた。その頂上には、銃やサー
こんぼう
ベルや棍棒や斧や槍や剣銃などが
つき立っていた。広い赤旗が風に
はためいていた。号令の叫び、進
撃の歌、太鼓の響き、婦人の泣き
こうしょう
声、餓死の暗黒な哄笑、などがそ
27
ぼうさい
こに聞かれた。防寨はまったく常
規を逸したもので、しかも生命を
有していた。あたかも雷獣の背の
ように電光の火花がほとばしり出
ていた。神の声に似た民衆の声が
うなっているその頂は、革命の精
神から発する暗雲におおわれてい
くずかご
た。異常な荘厳さが、巨人の屑籠
をくつがえしたようなその破片の
ご み
堆積から発していた。それは塵芥
28
の山であり、またシナイの山︵訳
者注 モーゼがエホバより戒律を
受けし所︶であった。
上に言ったとおり、この防寨は
革命の名においてしかも革命を攻
撃したのである。偶然であり、無
ろうばい
秩序であり、狼狽であり、誤解で
あり、未知数であったこの防寨は、
立憲議会と民衆の大権と普通選挙
と国民と共和とを向こうにまわし
29
たのである。それはマルセイエー
ズ︵フランス国歌︶にいどみかか
るカルマニョールの歌︵革命歌︶
であった。
ちょうせん
狂乱せるしかも勇壮なる挑戦で
あった。なぜなれば、この古い郭
外は一個の英雄だからである。
かくめんほう
郭外と角面堡とは互いに力を合
わしていた。郭外は角面堡の肩に
すがり、角面堡は郭外に身をささ
30
だんがい
えていた。広い防寨は、アフリカ
ひし
どうくつ
の諸将軍の戦略をも拉ぐ断崖のご
いぼ
とく横たわっていた。その洞窟、
こぶ
その瘤、その疣、その隆肉などは、
しか
言わば顔を顰めて、硝煙の下に冷
さんだん
笑していた。霰弾は形もなく消え
りゅうだん
うせ、榴弾は埋まり没しのみ込ま
れ、破裂弾はただ穴を明け得るの
こんとん
みだった。およそ混沌たるものを
砲撃しても何の効があろう。戦役
31
の最も荒々しい光景になれていた
いのしし
各連隊も、猪のごとく毛を逆立て
かくめんほう
山のごとく巨大なその角面堡の野
獣を、不安な目でながめたのであ
る。
そこから約四半里ばかり先、シャ
トー・ドーの近くで大通りに出て
かど
るタンプル街の角で、ダルマーニュ
という商店の少しつき出た店先か
ら思いきって頭を出してみると、
32
遠くに、運河の向こうに、ベルヴィ
ルの坂道を上ってる街路の中、坂
道を上りきった所に、人家の三階
の高さに達する不思議な障壁が見
られた。それはあたかも左右の軒
並みを連ねたがようで、街路を一
挙にふさぐために最も高い壁を折
り曲げたがようだった。しかしそ
しきいし
の壁は、実は舗石で築かれていた
のである。まっすぐで、規則正し
33
すいえん
く、冷然として、垂直になってお
すみなわ
り、定規をあて墨繩を引き錘鉛を
たれて作られたもののようだった。
もとよりセメントは用いられてい
なかったが、しかもローマのある
障壁に見らるるように、そのため
建築上の強固さは少しも減じてい
なかった。高さから推してまた奥
ちふく
行も察せられた。上層と地覆とは
まったく数学的な平行を保ってい
34
た。灰色の表面には所々に、ほと
んど目につかないくらいの銃眼の
列が黒い糸のように見えていた。
各銃眼の間には一定の等しい距離
が置かれていた。街路には目の届
とびら
くかぎり人影もなかった。窓も扉
も皆しめ切ってあった。そして奥
に立っている防壁のために、あた
かも袋町のようになっていた。防
壁は不動のまま静まり返っていた。
35
何らの人影も見えず、何らの音も
聞こえなかった。一つの叫び声も
なく、一つの物音もなく、息の音
さえもなかった。まったく一つの
墳墓だった。
六月のまぶしい太陽は、その恐
るべき物の上に一面の光を浴びせ
ていた。
ぼうさい
これが、タンプル郭外の防寨で
あった。
36
この場所に行ってそれをながむ
ると、最も豪胆な者でもその神秘
な出現の前に考え込まざるを得な
かった。それはよく整い、よく接
うろこがた
せいさん
合し、鱗形に並び、直線をなし、
きんせい
均斉を保ち、しかも凄惨な趣があっ
た。学理と暗黒とがこもっていた。
ぼうさい
防寨の首領は、幾何学者かもしく
は幽鬼かと思われた。人々はそれ
をながめ、そして声低く語り合っ
37
た。
時々、兵士か将校かあるいは代
議士かだれかが、偶然その寂しい
大道を通りかかると、鋭いかすか
な音がして、通行者は負傷するか
死ぬかして地に倒れた。もし幸い
にそれを免れる時には、閉ざされ
しっくい
た雨戸か、素石の間か、壁の漆喰
たま
かの中に、一発の弾がはいり込む
のが見られた。時とするとそれは
38
ビスカイヤン銃のこともあった。
あさくず
防寨の人々は多く、一端を麻屑と
粘土とでふさいだ鋳鉄のガス管二
本で、二つの小さな銃身をこしら
えていた。ほとんど火薬をむだに
費やすことはなかった。弾はたい
てい命中した。そこここに死体が
しきいし
横たわって、舗石の上には血がた
まっていた。また著者は、一匹の
ちょう
白い蝶が街路を飛び回ってたこと
39
を記憶している。さすがに夏の季
節だけは平然としていた。
付近の大きな門の下には、負傷
者がいっぱいはいっていた。
そこでは、姿を隠してるだれか
から常にねらわれるような感があっ
た。明らかに街路中どこででもね
らい打ちにされるらしかった。
タンプル郭外の入り口に運河の
ろ ば
円橋がこしらえてる驢馬の背中ほ
40
どの空地の後ろに、攻撃縦列をな
して集まってる兵士らは、そのも
かくめんほう
のすごい角面堡を、その不動の姿
を、その冷然たる様を、しかも死
を招くその場所を、まじめな考え
ていさつ
込んだ様子で偵察していた。ある
者らは、帽子が向こうに見えない
きゅうりゅうけい
ように注意しながら、穹窿形の橋
の上まで腹ばいになって進んでいっ
た。
41
勇敢なるモンテーナール大佐は、
身を震わしながらその防寨を嘆賞
・
した。彼はひとりの代議士に言っ
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
・ ・
た。﹁うまく築いたものだ! 一
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
つの不ぞろいな舗石もない。まる
・ ・ ・ ・ ・ ・
で磁器ですね。﹂その時、一発の
弾は、彼の勲章を打ち砕いた。彼
は倒れた。
ひきょうもの
﹁卑怯者め!﹂とある者は言った、
﹁姿を現わせ、見える所に出てこ
42
い。それができないのか。隠れて
ばかりいるのか!﹂
ぼうさい
しかしこのタンプル郭外の防寨
は、八十人の者に守られ一万の兵
に攻撃されて、三日の間持ちこた
えた。四日目に、ザアチャーやコ
ンスタンティーヌの都市になされ
たのと同様の方法が用いられ、人々
は人家をうがち、または屋根に伝
わり、そしてついに防寨は占領さ
43
れた。八十人の﹁卑怯者﹂らのう
ちひとりとして逃げようとはしな
かった。皆そこで戦死を遂げた。
ただひとり首領のバルテルミーだ
けは身を脱したが、彼のことはす
ぐ次に述べるとおりである。
サン・タントアーヌの防寨は雷
電のはためきであり、タンプルの
どうもう
せいさん
防寨は沈黙であった。この二つの
かくめんほう
角面堡の間には獰猛と凄惨との差
44
あご
があった。一つは顎のごとく、一
つは仮面のようだった。
この六月の巨大な暗黒な反乱が
なぞ
一つの憤怒と一つの謎とでできて
いたとすれば、第一の防寨のうち
ドラゴン
には竜が感ぜられ、第二の防寨の
背後にはスフィンクスが感ぜられ
た。
とりで
この二つの砦は、クールネとバ
ルテルミーというふたりの男によっ
45
て築かれたものである。クールネ
はサン・タントアーヌの防寨を作
り、バルテルミーはタンプルの防
寨を作った。どちらの防寨も、築
造者の面影を帯びていた。
たいく
クールネは高い体躯の男であっ
こぶし
た。大きな肩、赤い顔、力強い拳、
大胆な心、公正な魂、まじめな恐
ろしい目をそなえていた。勇敢で、
元気で、激しやすく、猛烈だった。
46
最も真実な男であり、最も恐るべ
き勇士だった。戦争、争闘、白兵
戦、などは彼の固有の空気であり、
彼の気を引き立たした。かつて海
軍士官だったことがあり、その身
振りや声をみても、大洋から出て
き暴風雨を経てきたことが察せら
れた。彼は戦いのうちにもなお暴
風をもたらした。神性を除いては
ダントンのうちにヘラクレス的な
47
ものがあったように、天才を除い
てはクールネのうちにダントン的
なものがあった。
バルテルミーは、やせた、虚弱
かもく
な、色の青い、寡黙な男で、一種
の悲壮な浮浪少年であった。ある
時ひとりの巡査からなぐられて、
その巡査をつけねらい、待ち受け、
殺害し、そして十七歳で徒刑場に
送られた。徒刑場から出てきた彼
48
ぼうさい
は、右の防寨を作ったのである。
その後彼らはふたりとも追放さ
れてロンドンに亡命していたが、
何の因縁か、バルテルミーはクー
ルネを殺した。痛ましい決闘だっ
た。その後しばらくして、色情の
からんだある秘密な事件に巻き込
まれ、フランスの法廷は情状の酌
量を認むるがイギリスの法廷は死
をしか認めないある災厄のうちに、
49
バルテルミーは死刑に処せられた。
ごうき
一個の知力をそなえ確かに剛毅な
人物でありまたおそらく偉大な人
物だったかも知れないこの不幸な
男は、社会の痛ましい制度の常と
して、物質上の欠乏のためにまた
精神上の暗黒のために、フランス
において徒刑場より始め、イギリ
スにおいて絞首台に終わったので
ある。バルテルミーはいかなる場
50
合にも、一つの旗をしか掲げなかっ
た。それは黒い旗であった。
しんえん
二 深淵中の会談
暴動の陰暗な教育を受くること
満十六年に及んだので、一八四八
年六月は一八三二年六月よりもは
るかに知力が進んでいた。それで
シャンヴルリー街の防寨は、上に
51
概説した二つの巨大な防寨に比ぶ
れば、一つの草案に過ぎず一つの
胎児に過ぎなかった。しかし当時
にあっては、それでも恐るべきも
のであった。
マリユスはもはや何物にも注意
を向けていなかったので、暴徒ら
はただアンジョーラひとりの監視
の下に、暗夜に乗じて仕事をした。
防寨は修繕されたばかりでなく、
52
なお大きくされた。上の方へも二
しきいし
尺ほど高められた。舗石の中に立
やり
てられた鉄棒は、槍をつき立てた
ようだった。方々から持ってきて
加えられたあらゆる種類の物の破
片は、ますますその外部を錯雑し
ていた。いかにも巧妙に築かれた
かくめんほう
角面堡で、内部は壁のごとく、外
やぶ
部は藪のようだった。
城壁のように上に上ってる舗石
53
の段は、再び築き直された。
ぼうさい
人々は防寨を整え、居酒屋の下
の広間を片付け、料理場を野戦病
ほうたい
院となし、負傷者に繃帯を施し、
ゆか
床やテーブルの上に散らかってる
火薬を集め、弾丸を鋳、弾薬をこ
めんざんし
しらえ、綿撒糸を裂き、落ち散っ
た武器を分配し、角面堡の内部を
清め、破片を拾いのけ、死体を運
んだ。
54
死体はなお手中にあるモンデ
トゥール小路のうちに積み重ねら
れた。そこの舗石はその後長い間
まっかになっていた。戦死者のう
ちには、四人の郊外国民兵があっ
た。アンジョーラは彼らの軍服を
わきに取って置かした。
アンジョーラは二時間の睡眠を
一同に勧めた。彼の勧告は命令に
等しかった。けれどもその命に応
55
じて眠った者は、わずか三、四人
に過ぎなかった。フイイーはその
二時間のすきを利用して、居酒屋
と向かい合った壁の上に次のよう
な銘を刻み込んだ。
・ ・ ・ ・
民衆万歳!
くぎ
その四文字は、素石の中に釘で
彫りつけたものであって、一八四
八年にもなお壁の上に明らかに残っ
ていた。
56
三人の女どもは、その夜間の猶
予の間にまったく姿を隠してしまっ
た。ために暴徒らはいっそう自由
な気持ちになることができた。
彼女らはとやかくして、どこか
近くの人家に投げ込んだのだった。
負傷者らの大部分は、なお戦う
ふと
ことができ、またそれを欲してい
わらむしろ
た。野戦病院となった料理場の蒲
ん
団や藁蓆の上には、五人の重傷者
57
がいたが、そのうちふたりは市民
兵だった。市民兵は第一に手当を
受けたのである。
下の広間のうちにはもはや、喪
布をかけられてるマブーフと柱に
縛られてるジャヴェルとのほかだ
れもいなかった。
へや
﹁ここは死人の室だ。﹂とアン
ジョーラは言った。
ろうそく
室の内部、一本の蝋燭がかすか
58
に照らしてる奥の方に、死人のテー
ブルが横棒のようになってその前
に柱が立っていたので、立ってる
ジャヴェルと横たわってるマブー
フとは、ちょうど大きな十字架の
ばくぜん
いっせいしゃげき
ようになって漠然と見えていた。
ながえ
乗り合い馬車の轅は、一斉射撃
のために先を折られたが、なお旗
を立て得るくらいは立ったまま残っ
ていた。
59
首領の性格をそなえていて口に
するところを必ず実行するアン
ジョーラは、戦死した老人の血に
まみれ穴のあいてる上衣を轅の棒
に結びつけた。
食事はいっさいできなかった。
ぼうさい
パンも肉もなかった。防寨の五十
人の男は、やってきてからその時
まで十六時間のうちに、居酒屋に
あったわずかな食物をすぐに食い
60
ぼうさい
つくしてしまった。死守する防寨
はすべて、一定の時を経れば必然
いかだ
にメデューズ号の筏︵訳者注 メ
デューズ号の難破者らが乗り込ん
で十三日間大洋の上を漂っていた
筏︶となるものである。人々は飢
餓に忍従しなければならなかった。
サン・メーリーの防寨では、パン
を求むる暴徒らにとり巻かれたジャ
ンヌが、﹁食物!﹂と叫んでいる
61
声に対して、﹁何で食物がいるか、
今は三時だ、四時には皆死ぬん
だ、﹂と答えた。そういう悲壮な
六月六日の日が、到来したばかり
の時だったのである。
もう食物を得ることができなかっ
たので、アンジョーラは飲み物を
ぶどうしゅ
禁じた。葡萄酒を厳禁して、ただ
ブランデーだけを少し分配してやっ
た。
62
あなぐら
居酒屋の窖の中で、密封した十
びん
五本ばかりの壜が見いだされた。
アンジョーラとコンブフェールと
はそれを調べてみた。コンブフェー
ルは窖から出て来ながら言った。
あきな
もとで
﹁初め香料品を商っていたユシュ
じい
ルー爺さんの昔の資本だ。﹂する
ぶど
とボシュエは言った。﹁本物の葡
うしゅ
萄酒に違いない。グランテールが
やつ
眠ってるのは仕合わせだ。奴が起
63
きていたら、なかなかこのまま放っ
ておきはすまい。﹂種々不平の声
をもらす者もあったが、アンジョー
ラはその十五本の壜に最後の断案
を下して、だれの手にも触れさせ
ないで神聖な物としておくために、
マブーフ老人が横たわってるテー
ブルの下に並べさした。
午前二時ごろ人数を調べてみる
と、なお三十七人いた。
64
しきいし
夜は明けかかってきた。舗石の
たいまつ
箱の中に再びともしていた炬火を、
人々は消してしまった。街路から
切り取った小さな中庭のような防
寨の内部は、やみに満たされて、
ふつぎょう
払暁の荒涼たる微明のうちに、こ
われた船の甲板に似寄っていた。
行ききする戦士の姿は、まっ黒な
そうくつ
影のように動いていた。そしてそ
やみ
の恐るべき闇の巣窟の上には、黙々
65
たる幾階もの人家が青白く浮き出
していた。更に上の方には、煙筒
がほの白く立っていた。空は白と
も青ともつかない微妙な色にぼか
されていた。小鳥は楽しい声を立
ぼうさい
てながら空を飛んでいた。防寨の
背景をなしている高い人家は、東
ばら
に向いていたので、屋根の上に薔
い ろ
薇色の反映が見えていた。その四
階の軒窓には、殺された門番の灰
66
色の頭髪が、朝の微風になぶられ
ていた。
たいまつ
﹁炬火を消したのはうれしい。﹂
とクールフェーラックはフイイー
に言った。﹁風に揺らめいてるあ
の光はいやでならなかった。まる
で何かをこわがってるようだった。
炬火の光というものは、卑怯者の
知恵みたいなものだ。いつも震え
てばかりいて、ろくに照らしもし
67
ないからね。﹂
あけぼの
曙は小鳥を目ざめさせるととも
に、人の精神をもさまさせる。人々
はみな話しはじめた。
とい
ジョリーは樋の上をぶらついて
ねこ
る一匹の猫を見て、それから哲学
を引き出した。
﹁猫とはいかなるものか知ってる
ねずみ
か。﹂と彼は叫んだ。﹁猫は一つ
きょうせいぶつ
の矯正物だ。神様は鼠をこしらえ
68
てみて、やあこいつはしくじった
と言って、それから猫をこしらえ
た。猫は鼠の正誤表だ。鼠プラス
猫、それがすなわち天地創造の校
正なんだ。﹂
コンブフェールは学生や労働者
らに取り巻かれて、ジャン・プルー
ヴェールやバオレルやマブーフや
またル・カブュクのことまで、す
べて死んだ人々のことを話し、ま
69
たアンジョーラの厳粛な悲哀のこ
とを語っていた。彼はこう言った。
﹁ハルモディオスとアリストゲイ
トン、ブルツス、セレアス、ステ
ファヌス、クロンウェル、シャー
ロット・コルデー、サント、など
も皆、手を下した後に一時悲哀を
いた
感じたのだ。人の心はたやすく傷
むものであり、人生は至って不思
議なものである。公徳のための殺
70
害の場合でも、もしありとすれば
救済のための殺害の場合でも、ひ
たお
とりの者を仆したという悔恨の念
は、人類に奉仕したという喜びの
情より深いものだ。﹂
そして話は種々のことに飛んだ
が、やがてジャン・プルーヴェー
・ ・
ルの詩のことから一転して、ゼオ
・ ・ ・ ・
ルジック︵訳者注 ヴィルギリウ
スの詩︶の翻訳者らの比較を試み、
71
ローとクールナンとを比べ、クー
ルナンとドリーユとを比べ、マル
フィラートルが訳した数節、こと
にシーザーの死に関する名句をあ
げたが、そのシーザーという言葉
から、話はまたブルツスの上に戻っ
た。
﹁シーザーの覆滅は至当である。﹂
とコンブフェールは言った。﹁キ
ケロはシーザーにきびしい言葉を
72
下したが、あれは正当だ。あの酷
評は決して悪口ではない。ゾイル
あざけ
スがホメロスを嘲り、メヴィウス
がヴィルギリウスを嘲り、ヴィゼ
がモリエールを嘲り、ポープがセー
クスピヤを嘲り、フレロンがヴォ
ルテールを嘲ったのは、昔からよ
しっと
くある嫉妬と憎みからきたのであ
ちょうしょう
る。天才は嘲笑を受け、偉人は多
ほ
少人から吠えらるるのが常である。
73
しかしゾイルス輩とキケロとはまっ
たく別者だ。キケロは思想による
審判者である。あたかもブルツス
が剣による審判者であるのと同じ
だ。僕に言わすれば、後者の審判
すなわち剣によるものは好ましく
ない。しかし古代はそれを許して
いた。ルビコンを渡ったシーザー
は、民衆から来るもろもろの地位
をおのれから出るもののように人
74
に授け、元老院に姿を現わさず、
エウトロピウスが言ったように、
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
王のごときまたほとんど暴君のご
・ ・ ・ ・
ときことを行なった。そして彼は
偉人であったために、それだけ不
幸ともまた幸とも言える。なぜな
れば、彼が偉人であっただけにいっ
そうその教訓は高遠となったから。
しかし僕の目から見れば、彼が受
けた二十三の傷は、イエス・キリ
75
つば
ストの額に吐きかけられた唾ほど
の痛切さを持たない。シーザーは
元老院の議員らから刺されたが、
ほお
キリストは下男らから侮辱され頬
を打たれた。侮辱がより大なるが
ゆえに、人は神を感ずるのだ。﹂
しきいし
積み重ねた舗石の上からそれら
の会談者らを見おろしながら、ボ
シュエはカラビン銃を手にしたま
ま叫び出した。
76
﹁おお、シダテネオム、ミリノス、
プロバリンテよ、エアンチデの三
女神よ! ああたれかわれをして、
ラウリオムやエダプテオンのギリ
シャ人のごとくに、ホメロスの詩
ず
を誦せしむる者があるか!﹂
三 光明と陰影
ていさつ
アンジョーラは偵察に出かけて
77
いた。彼は軒下に沿ってモンデ
トゥール小路から出て行った。
ちょっとことわっておくが、暴
徒らは皆希望に満ちていた。たや
すく前夜の襲撃を撃退したので、
夜明けの襲撃をも前もってほとん
ど軽蔑するような気になっていた。
彼らはその襲撃を微笑しながら待
ち受けていた。彼らはおのれの主
旨を確信するとともに、成功をも
78
はや疑わなかった。その上援兵も
きつつあるに違いないと思ってい
た。彼らはそれをあてにしていた。
光明的な楽観をもって前途を速断
するのは、フランス戦士の力の一
つである。彼らはきたらんとする
一日を三つの局面に分かって、そ
れを確信していた。すなわち、朝
六時には﹁かねて手を入れておい
た﹂一個連隊が裏切ってくる、正
79
午にはパリー全市が立ち上がる、
日没の頃には革命となる。
サン・メーリーの警鐘が前日絶
えず鳴り続けてるのが聞こえてい
ぼうさい
た。それは、も一つの大きな防寨、
すなわちジャンヌの防寨が、なお
支持してる証拠であった。
はち
それらの希望は、蜂の巣におけ
る戦いの騒音のように、一種の快
活なまた恐ろしいささやきとなっ
80
て、人々の群れから群れへとかわ
されていた。
アンジョーラは再び姿を現わし
かけ
た。彼は外部の暗黒の中をひそか
わし
に鷲のように翔り回って戻ってき
たのである。彼はしばし、両腕を
組み片手を口にあてて、人々の喜
ばしい話を聞いていた。それから、
あけぼの
しだいに白んでゆく曙の色の中に
ば ら
いきいきした薔薇のような姿で言っ
81
た。
﹁パリーの全兵士が動員している、
ぼうさい
その三分の一はこの防寨に押し寄
せてくるんだ。その上国民兵も加
わっている。僕は歩兵第五連隊の
帽子と国民兵第六連隊の旗とを見
て取った。攻撃までには一時間ば
かりの余裕しかない。人民の方は、
昨日は沸き立っていたが、今朝は
静まり返っている。今はもう待つ
82
べきものも希望すべきものもない。
郭外も連隊も共にだめだ。われわ
れは孤立だ。﹂
その言葉は、人々の騒々しい話
はち
声の上に落ちかかって、蜂の巣の
上に落ちてくる暴風雨の最初の一
滴のような結果を生じた。皆口を
つぐんでしまった。死の翔り回る
のが聞こえるような名状し難い沈
黙が、一瞬間続いた。
83
それはごくわずかの間だった。
群集の最も薄暗い奥の方から、
一つの声がアンジョーラに叫んだ。
﹁よろしい。防寨を二丈の高さに
しかばね
して皆で死守しよう。諸君、死屍
となっても抵抗しようではないか。
人民は共和党を見捨てるとしても、
共和党は人民を見捨てないことを、
示してやろうではないか。﹂
その言葉は、すべての者の頭か
84
ら個人的な心痛の暗雲を払い去っ
た。そして熱誠な拍手をもって迎
えられた。
右の言葉を発した男の名前は永
久に知られなかった。それはある
労働服を着た無名の男であり、見
知らぬ男であり、忘れられた男で
あり、過ぎ去ってゆく英雄であっ
た。かかる無名の偉人は、常に人
かいびゃく
類の危機と社会の開闢とに交じっ
85
だん
ていて、一定の時機におよんで断
こ
乎として決定的な一言を発し、電
光のひらめきのうちに一瞬間民衆
と神とを代表した後、またたちま
ち暗黒のうちに消えうせるもので
ある。
不屈の決心は、一八三二年六月
六日の空気に濃く漂っていた。右
のこととほとんど同時に、サン・
ぼうさい
メーリーの防寨のうちでは、暴徒
86
かんせい
らが次の喊声を上げた。それは史
上にも残り、当時の判定録にもし
るされたものである。﹁援兵が来
ると否とは問うところでない! われわれは最後のひとりまでここ
で戦死を遂げるんだ。﹂
読者の見るとおり、両防寨は実
際上孤立してはいたが、精神は互
いに通い合っていたのである。
87
四 五人を減じひとり
を加う
しかばね
﹁死屍の抵抗﹂を宣言した無名の
男が、共通の魂の言葉を発した後、
一同の口から何とも言えぬ満足し
た恐るべき叫びが出てきた。その
意味は沈痛であったが調子は勇壮
であった。
﹁戦死万歳! 全員ここにふみ止
88
まろう。﹂
﹁なぜ全員だ?﹂とアンジョーラ
は言った。
﹁全員! 全員!﹂
アンジョーラは言った。
﹁地の理はよく、防寨は堅固だ。
三十人もあれば充分だ。なぜ四十
人を全部犠牲にする必要がある
か?﹂
人々は答え返した。
89
﹁ひとりも去りたくないからだ。﹂
﹁諸君!﹂とアンジョーラは叫ん
げっこう
だ。その声はほとんど激昂に近い
震えを帯びていた。﹁共和は無用
な者まで犠牲にするほど豊富な人
数を有しない。虚栄は浪費である。
ある者にとっては立ち去ることが
義務であるならば、その義務もま
た他の義務と同様に果たすべきで
はないか。﹂
90
主義の人なるアンジョーラは、
絶対のものから来るような偉力を
同志の上に有していた。しかしそ
の絶対的権力にもかかわらず、人々
はなお不平をもらした。
徹頭徹尾首領たるアンジョーラ
は、人々がつぶやくのを見て、な
お主張した。彼は昂然として言っ
た。
﹁ただ三十人になることを恐れる
91
者はそう言え。﹂
不満のつぶやきはますます高まっ
た。
﹁それに、﹂とある群れの中から
声がした、﹁立ち去ると口で言う
ぼうさい
のは容易だが、防寨は包囲されて
るんだ。﹂
﹁市場町の方は開いている。﹂と
アンジョーラは言った。
﹁モンデトゥール街は自由だ、そ
92
してプレーシュール街からインノ
サン市場へ出られる。﹂
つかま
﹁そしてそこで捕る。﹂と群れの
中から他の声がした。﹁戦列兵か
ぜんしょう
郊外兵かの前哨に行き当たる。労
働服をつけ縁無し帽をかぶって通
ればすぐ向こうの目につく。どこ
からきたか、防寨からではないか、
と問われる。そして手を見られる。
火薬のにおいがする。そのまま銃
93
殺だ。﹂
アンジョーラはそれに答えない
で、コンブフェールの肩に触れ、
ふたりで居酒屋の下の広間にはいっ
て行った。
彼らはまたすぐそこから出てき
た。アンジョーラは両手にいっぱ
い、取って置いた四着の軍服を持っ
ていた。後に続いたコンブフェー
ルは、皮帯と軍帽とを持っていた。
94
﹁この服をつけてゆけば、﹂とア
ンジョーラは言った、﹁兵士の間
に交じって逃げることができる。
りっぱに四人分ある。﹂
しきいし
そして彼は、舗石をめくられた
地面の上に四つの軍服を投げ出し
た。
堅忍なる聴衆のうちには身を動
かす者もなかった。コンブフェー
ルは語り出した。
95
れんびん
﹁諸君、﹂と彼は言った。﹁憐憫
の情を少し持たなければいけない。
ここで何が問題であるか知ってい
るか。問題は婦人の上にあるんだ。
いいか。妻を持ってる者はないか。
子供を持ってる者はないか。足で
ゆりかご
揺籃を動かしたくさんの子供に取
り囲まれてる母親を持ってる者は
ないか。君らのうちで、かつて育
ちぶさ
ての親の乳房を見なかった者があ
96
るならば、手をあげてみたまえ。
諸君はここで死にたいと言う。諸
君に今語っている僕もここで死に
たい。しかし僕は、腕をねじ合わ
して嘆く婦人の幻を自分の周囲に
見たくはない。欲するならば死に
たまえ。しかし他の人をも死なし
てはいけない。ここでやがて行な
われんとする自滅は荘厳なもので
ある。しかしその自滅は範囲をせ
97
ばめて、決して他人におよぼして
はいけない。もしそれを近親の者
にまでおよぼす時には、自滅では
なくて殺害となる。金髪の子供ら
のことを考えてみ、白髪の老人ら
のことを考えてみるがいい。聞き
たまえ、今アンジョーラが僕に話
かど
したことを。シーニュ街の角に、
光のさす窓が一つ見えていた、六
ろうそく
階の粗末な窓に蝋燭の光がさして
98
いた、その窓ガラスには、一晩中
眠りもしないで待ってるらしい年
取った女の頭が、ゆらゆらと映っ
ていた。たぶん君らのうちのだれ
かの母親だろう。でそういう者は、
立ち去るがいい。急いで行って、
かあ
母親に言うがいい、お母さんただ
今帰りましたと。安心したまえ、
ここはあとに残った者だけで充分
だ。自分の腕で一家をささえてる
99
者には、身を犠牲にする権利はな
い。それは家庭を破滅させるとい
うものだ。また娘を持ってる者、
妹を持ってる者、そういう者はよ
く考えて見たまえ。自分の身を犠
牲にする、自分は死ぬ、それはか
まわぬ、しかし明日は? パンに
窮する若い娘、それは恐ろしいこ
こ
とではないか。男は食を乞うが、
女は身を売る。あああのうるわし
100
かれん
いやさしい可憐な娘ら、花の帽子
をかぶり、歌いさえずり、家の中
に清らかな気を満たし生きたる香
のようであり、地上における処女
の純潔さで天における天使の存在
を証する者、ジャンヌやリーズや
ミミ、諸君の恵みであり誇りであ
る愛すべき正直なる者、彼女らが
飢えんとするのである。ああ何と
言ったらいいか。世には人の肉体
101
の市場がある。彼女らがそこには
いるのを防ぐのは、彼女らのまわ
りにうち震える諸君の影の手がよ
くなし得るところではない。街路
に、通行人でいっぱいになってる
しきいし
舗石の上に、商店の前に、首筋を
あらわにし泥にまみれてさまよう
女のことを考えて見たまえ。その
女どももまたもとは純潔だったの
だ。妹を持ってる者は妹のことを
102
いんばい
考えてみるがいい。困窮、淫売、
官憲、サン・ラザール拘禁所、そ
ういう所に、あのうるわしい、た
おやかな娘らは、あの五月のライ
ラックの花よりもなおさわやかな
貞節と温順と美とのもろい宝は、
ついに落ちてゆくのだ。ああ諸君
は身を犠牲にする、諸君はもはや
生きていない。それは結構だ。諸
君は民衆を王権から免れさせよう
103
と欲したのだ。しかもまた諸君は
自分の娘を警察の手に渡すのであ
る。諸君、よく注意したまえ、あ
われみの心を持ちたまえ。婦人ら
のことを、不幸なる婦人らのこと
を、われわれは普通あまり念頭に
置いていない。婦人らが男のごと
き教育を受けていないことに自ら
得意となり、彼女らの読書を妨げ、
彼女らの思索を妨げ、彼女らが政
104
治に干与するのを妨げている。そ
こで今晩彼女らが、死体公示所へ
し し
行って諸君の死屍を見分けんとす
るのを、初めからさせないように
してはどうか。家族のある者はわ
れわれの言に従い、われわれと握
手して立ち去り、われわれをここ
に残して自由に働かしてくれては
どうか。むろん立ち去るには勇気
が必要である。それは困難なこと
105
だ。しかし困難が大なるほど、価
ぼう
値はますます大である。諸君は言
おれ
う、俺は銃を持っている、俺は防
さい
寨にきている、どうでも俺は去ら
ないと。どうでもと、そう口で言
うのはたやすい。しかし諸君、明
日というものがある。その明日に
は、諸君はもう生きていないだろ
うが、諸君の家族はまだ残ってい
るだろう。そしていかに多くの苦
106
しみがやってくるか! ここにひ
ほお
かた
とりの健康なかわいい子供がいる
りんご
とする。林檎のような頬をし、片
こと
言交じりにしゃべりさえずり笑い、
くち
脣づけをすればそのいきいきした
肉体が感ぜらるる。ところが彼が
見捨てられた時、どうなりゆくか
考えてみたまえ。僕はそういう子
供をひとり見たことがある。まだ
小さなこれくらいな児だった。父
107
親が死んだので、貧しい人たちが
慈悲心から拾い上げた。しかし彼
ら自身もパンに窮していた。子供
はいつも腹をすかしていた。ちょ
うど冬だった。子供は泣きもしな
かった。彼はストーヴに寄ってゆ
くが、そこには火もなく、煙筒に
は黄色い土が塗りつけてあるばか
りだ。子供はその土を小さな指先
で少しはがして、それを食ってい
108
た。呼吸は荒く、顔はまっさおで、
足には力がなく、腹はふくれてい
た。一言も口をきかなかった。話
しかけても返事をしなかった。そ
してついに死んだ。ネッケルの救
済院に連れていって死なしたのだ。
そこで僕は子供を見た。僕は当時
その救済院に寄宿していたんだ。
今諸君のうちに、父親たる者があ
がんじょう
るならば、頑丈な手に子供の小さ
109
な手を引いて日曜日の散歩を楽し
みとしてる父親があるならば、右
の子供はすなわち自分の子供にほ
かならないと想像してもらいたい。
僕はそのあわれな子供のことをよ
く覚えている、今も目に見るよう
な気がする。裸のまま解剖台の上
ろっこつ
に横たわっていた時、その肋骨は
どまんじゅう
墓場の草の下の土饅頭のように皮
膚の下に飛び出していた。胃袋の
110
どろ
中には泥のようなものが見いださ
れた。歯の間には灰がついていた。
さあ胸のうちに目を向けて、心の
声に耳を傾けようではないか。統
計の示すところによると、親のな
い子供の死亡率は五十五パーセン
トにおよんでいる。僕は繰り返し
て言う、問題は妻の上に、母親の
がんぜ
上に、若い娘の上に、頑是ない子
供の上にある。諸君自身のことを
111
言うのではない。諸君自身のこと
はよくわかっている。諸君が皆勇
敢であることはよくわかっている。
諸君が皆心のうちに、大義のため
に身を犠牲にするの喜びと光栄と
を持ってることは、よくわかって
いる。諸君は有益なまたみごとな
死を遂げんがために選まれたる者
であることを感じており、各人皆
勝利の分前を欲しておることは、
112
よくわかっている。まさにそのと
おりである。しかし諸君はこの世
においてひとりではない。考えて
やらなければならない他の人たち
がいる。利己主義者であってはな
らないのだ。﹂
ちんうつ
人々は皆沈鬱な様子をして頭を
たれた。
最も荘厳なる瞬間における人の
心の不思議な矛盾さよ! かく語っ
113
たコンブフェール自身孤児ではな
かった。彼は他人の母親のことを
思い出していたが、自分の母親の
ことは忘れていた。彼はおのれを
死地に置かんとしていた。彼こそ
﹁利己主義者﹂であった。
マリユスは飲食もせず、熱に浮
かされたようになり、あらゆる希
す
望の外にいで、悲痛の洲に乗り上
げ、最も悲惨な難破者となり、激
114
越な情緒に浸され、もはや最後が
近づいたことを感じて、人が自ら
甘受する最期の時間の前に常に来
ぼうぜん
る幻覚的な惘然さのうちに、しだ
いに深く沈み込んでいた。
生理学者が今彼の様子を観察し
たならば、科学上よく知られ類別
されてる熱性混迷のしだいに高ま
る徴候を見て取り得たであろう。
この熱性混迷が苦悩に対する関係
115
は、あたかも肉体的歓楽が快感に
対するようなものである。絶望に
こうこつ
もまたその恍惚たる状態がある。
マリユスはそういう状態に達して
いた。彼はすべてのことを、外部
から見るようにながめていた。前
に言ったとおり、眼前に起こった
事物も、彼には遠方のもののよう
に思えた。全体はよく見て取れた
ささい
が、些細な点はわからなかった。
116
行ききする人々は炎の中を横ぎっ
てるがようであり、人の話し声は
しんえん
深淵の底から響いてくるがようだっ
た。
しかしながらただ今のことは彼
の心を動かした。その情景のうち
には鋭い一点があって、それに彼
は胸を貫かれ呼びさまされた。彼
はもはや死ぬという一つの観念し
か持っていず、それから気を散ら
117
されることを欲していなかった。
しかし今や彼はその陰惨な夢遊の
うちにあって、自ら身を滅ぼしな
がらも他人を助けることは禁じら
れていないと考えた。
彼は声を上げた。
﹁アンジョーラとコンブフェール
との意見は正当だ。﹂と彼は言っ
た。﹁無益な犠牲を払うの要はな
い。僕はふたりの意見に賛成する。
118
そして早くしなければいけない。
コンブフェールは確かな事柄を言っ
たではないか。諸君のうちには、
家族のある者がいるだろう、母や
妹や妻や子供を持ってる者がいる
だろう。そういう者はこの列から
出たまえ。﹂
だれも動く者はなかった。
﹁結婚した者および一家の支柱た
る者は、列外に出たまえ!﹂とマ
119
リユスは繰り返した。
彼の権威は偉大なものだった。
ぼうさい
アンジョーラはもとより防寨の首
領であったが、マリユスは防寨の
救済主であった。
﹁僕はそれを命ずる!﹂とアン
ジョーラは叫んだ。
﹁僕は諸君に願う!﹂とマリユス
は言った。
その時、コンブフェールの言葉
120
に動かされ、アンジョーラの命令
に揺られ、マリユスの懇願に感動
されて、勇士らは、互いに指摘し
始めた。﹁もっともだ。君は一家
の主人じゃねえか。出るがいい。﹂
とひとりの若者は壮年の男に言っ
た。男は答えた。﹁むしろお前の
方だ。お前はふたりの妹を養って
ゆかなくちゃならねえんだろう。﹂
そして異様な争いが起こった。互
121
いに墳墓の口から出されまいとす
る争いだった。
﹁早くしなけりゃいけない。﹂と
コンブフェールは言った。﹁もう
ま
十五、六分もすれば間に合わなく
なるんだ。﹂
﹁諸君、﹂とアンジョーラは言っ
た、﹁ここは共和である、万人が
投票権を持っている。諸君は自ら
去るべき者を選むがいい。﹂
122
彼らはその言葉に従った。数分
の後、五人の男が全員一致をもっ
て指名され、列から前に進み出た。
﹁五人いる!﹂とマリユスは叫ん
だ。
軍服は四着しかなかった。
﹁ではひとり残らなくちゃならね
え。﹂と五人の者は言った。
そしてまた互いに居残ろうとす
る争いが、他の者に立ち去るべき
123
理由を多く見いださんとする争い
が始まった。寛仁な争いだった。
﹁お前には、お前を大事にしてる
おやじ
女房がいる。︱︱お前には年取っ
おふくろ
た母親がいる。︱︱お前には親父
も母親もいねえ、お前の小さな三
人の弟はどうなるんだ。︱︱お前
は五人の子供の親だ。︱︱お前は
生きるのが本当だ、十七じゃねえ
か、死ぬには早え。﹂
124
ぼうさい
それら革命の偉大な防寨は、勇
壮の集中する所であった。異常な
こともそこでは当然だった。勇士
らはそれを互いに驚きはしなかっ
た。
﹁早くしたまえ。﹂とクールフェ
ラックは繰り返した。
群れの中からマリユスに叫ぶ声
がした。
﹁居残る者をあなたが指定して下
125
さい。﹂
﹁そうだ、﹂と五人の者は言った、
﹁選んで下さい。私どもはあなた
の命令に従う。﹂
マリユスはもはや自分には何ら
の感情も残っていないと思ってい
た。けれども今、死ぬべき者をひ
とり選ぶという考えに、全身の血
は心臓に集まってしまった。彼の
いち
顔は既に青ざめていたが、更に一
126
まつ
け
抹の血の気もなくなった。
彼は五人の方へ進んだ。五人の
者は微笑して彼を迎え、テルモピ
レの物語の奥に見らるるあの偉大
なる炎に満ちた目をもって、各自
彼に叫んだ。
﹁私を、私を、私を!﹂
ぼうぜん
マリユスは惘然として彼らをな
がめた。やはり五人である! そ
れから彼の目は四着の軍服の上に
127
落ちた。
その瞬間、第五の軍服が天から
降ったかのように、四着の軍服の
上に落ちた。
五番目の男は救われた。
マリユスは目を上げた。そして
フォーシュルヴァン氏の姿を認め
た。
ジャン・ヴァルジャンはちょう
ぼうさい
ど防寨の中にはいってきたところ
128
だった。
様子を探ってか、あるいは本能
によってか、あるいは偶然にか、
彼はモンデトゥール小路からやっ
てきた。国民兵の服装のおかげで
たやすくこれまで来ることができ
た。
反徒の方がモンデトゥール街に
しょうへい
出しておいた哨兵は、ひとりの国
民兵のために警報を発することを
129
しなかった。﹁たぶん援兵かも知
れない、そうでないにしろどうせ
捕虜になるんだ、﹂と思って、自
由に通さしたのである。時機はき
わめて切迫していた。自分の任務
から気を散らし、その見張りの位
置を去ることは、哨兵にはできな
かった。
かくめんほう
ジャン・ヴァルジャンが角面堡
の中にはいってきた時、だれも彼
130
に注意を向ける者はいなかった。
すべての目は、選まれた五人の男
と四着の軍服との上に注がれてい
た。ジャン・ヴァルジャンもまた
それを見それを聞き、それから黙っ
て自分の上衣をぬいで、それを他
の軍服の上に投げやった。
人々の感動は名状すべからざる
ものだった。
﹁あの男はだれだ?﹂とボシュエ
131
は尋ねた。
﹁他人を救いにきた男だ。﹂とコ
ンブフェールは答えた。
マリユスは荘重な声で付け加え
た。
﹁僕はあの人を知っている。﹂
その一言で一同は満足した。
アンジョーラはジャン・ヴァル
ジャンの方を向いた。
﹁よくきて下すった。﹂
132
そして彼は言い添えた。
﹁御承知のとおり、われわれは死
ぬのです。﹂
ジャン・ヴァルジャンは何の答
えもせず、救い上げた暴徒に手伝っ
て自分の軍服を着せてやった。
ぼうさい
五 防寨の上より見た
る地平線
133
この危急の時この無残な場所に
おける一同の状態には、その合成
力としてまたその絶頂として、ア
ンジョーラの沈痛をきわめた態度
があった。
アンジョーラのうちには革命の
精神が充満していた。けれども、
いかに絶対なるものにもなお欠け
たところがあるとおり、彼にも不
完全なところがあった。あまりに
134
サン・ジュスト的なところが多く
て、アナカルシス・クローツ的な
ところが充分でなかった︵訳者注
両者共に大革命時代の人︶。け
れど彼の精神は、ABCの友の結
社において、コンブフェールの思
想からある影響を受けていた。最
近になって、彼はしだいに独断の
こうはん
狭い形式から脱し、広汎なる進歩
を目ざすようになり、偉大なるフ
135
ランスの共和をして広大なる人類
の共和たらしむることを、最後の
壮大な革新として受け入れるに至っ
た。ただ直接現在の方法としては、
激烈な情況にあるために、また激
烈な処置を欲していた。この点に
おいては彼は終始一貫していた。
九三年︵一七九三年︶という一語
につくされる恐るべき叙事詩的一
派に、彼はなお止まっていた。
136
しきいし
アンジョーラはカラビン銃の銃
かたひじ
口に片肱をついて舗石の段の上に
立っていた。彼は考え込んでいた。
いぶき
そしてある息吹を感じたかのよう
に身を震わしていた。死のある所
つくえ
には、神占の几のごとき震えが起
こるものである。魂の目がのぞき
ひとみ
出てる彼の眸からは、押さえつけ
た炎のような輝きが発していた。
と突然彼は頭をもたげた。その金
137
が
ちりば
髪は後ろになびいて、星を鏤めた
あんたん
暗澹たる馬車に駕せる天使の頭髪
たてがみ
のようで、また後光の炎を発する
し し
怒った獅子の鬣のようであった。
そしてアンジョーラは声を張り上
げた。
﹁諸君、諸君は未来を心に描いて
みたか。市街は光に満ち、戸口に
は緑の木が茂り、諸国民は同胞の
ごとくなり、人は正しく、老人は
138
子供をいつくしみ、過去は現在を
愛し、思想家は全き自由を得、信
仰者は全く平等となり、天は宗教
となり、神は直接の牧師となり、
人の本心は祭壇となり、憎悪は消
え失せ、工場にも学校にも友愛の
情があふれ、賞罰は明白となり、
万人に仕事があり、万人のために
権利があり、万人の上に平和があ
り、血を流すこともなく、戦争も
139
なく、母たる者は喜び楽しむのだ。
物質を征服するは第一歩である。
理想を実現するは第二歩である。
進歩が既に何をなしたか考えてみ
よ。昔最初の人類は、怪物が過ぎ
かいだ
行くのを恐怖に震えながら眼前に
わし
とら
つめ
見た、水の上にうなりゆく怪蛇を、
かいりゅう
火を吐く怪竜を、鷲の翼と虎の爪
とをそなえてかける空中の怪物た
るグリフォンを。それらは皆人間
140
以上の恐るべき獣であった。しか
わな
るに人間は、罠を、知力の神聖な
る罠を張り、ついにそれらの怪物
を捕えてしまったのである。
かいだ
吾人は怪蛇を制御した、それを
かいりゅう
汽船という。吾人は怪竜が制御し
た、それを機関車という。吾人は
まさにグリフォンを制御せんとし
ている、既に手中に保っている、
それを軽気球という。そしてこの
141
プロメテウスのごとき仕事が成就
する日こそ、すなわち怪蛇と怪竜
とグリフォンとの三つの古代の夢
じゅんち
想を、ついにおのれの意志に馴致
し終わる日こそ、人間は水火風三
界の主となり、他の生ある万物に
対しては、いにしえの神々が昔人
間に対して有していたような地位
を、獲得するに至るだろう。奮励
せよ、そして前進せよ! 諸君、
142
吾人はどこへ行かんとするのであ
るか。政府を確立する科学へであ
おおやけ
る、唯一の公の力となる事物必然
の力へである、自ら賞罰を有し明
白に宣揚する自然の大法へである、
あけぼの
日の出にも比すべき真理の曙へで
ある。吾人は各民衆の協和へ向かっ
て進み、人間の統一へ向かって進
む。もはや虚構を許さず、寄食を
許さぬ。真実なるものによって支
143
配されたる現実、それが目的であ
る。文化はその審判の廷を、ヨー
ロッパの頂に、後には全大陸の中
心に、知力の大議会のうちに、開
くに至るだろう。これにやや似た
ものは既に行なわれた。古代ギリ
シャの連邦議員は、年に二回会議
を開き、一つは神々の場所たるデ
ルフにおいてし、一つは英雄の場
所たるテルモピレにおいてした。
144
やがては、ヨーロッパもこの連邦
議員を有し、地球全体もこの連邦
議員を有するに至るだろう。フラ
ンスは実に、この崇高なる未来を
胸裏にいだいている。それが十九
世紀の懐妊である。ギリシャによっ
て描かれたその草案は、フランス
によって完成されるに恥ずかしく
ないものである。僕の言を聞け、
フイイー、君は勇敢な労働者、民
145
衆の友、諸民衆の友だ。僕は君を
どう
尊敬する。君は明らかに未来を洞
けん
見した、君のなすところは正しい。
君は、フイイー、父もなく母も持
たなかった、そして、仁義を母と
し権利を父とした。君はここに死
なんとしている、すなわち勝利を
得んとしてるのだ。諸君、今日の
事はいかになりゆこうとも、敗れ
ることによってまた打ち勝つこと
146
によって、われわれがなさんとす
るのは一つの革命である。火災が
全市を輝かすように、革命は全人
類を輝かす。しかもわれわれはい
かなる革命をなさんとするのか。
それは今言うとおり真実なるもの
の革命である。政治的見地よりす
れば、ただ一つの原則あるのみだ、
すなわち人間が自らおのれの上に
有する主権である。この自己に対
147
・ ・
する自己の主権を自由という。こ
の主権の二個もしくは数個が結合
するところに国家がはじまる。し
かしその結合のうちには何ら権利
の減殺はない。個々の主権がその
多少の量を譲歩するのは、ただ共
同的権利を造らんがためである。
その量は各人皆同等である。各人
が万人に対してなすこの譲歩の同
・ ・
一を、平等と言う。共同的権利と
148
は、各人の権利の上に光り輝く万
人の保護にほかならない。各人に
・ ・
対するこの万人の保護を、友愛と
いう。互いに結合するあらゆる主
・ ・
権の交差点を、社会という。その
交差は一つの接合であって、その
交差点は一つの結び目である。か
くて社会的関係が生じてくる。あ
る者はそれを社会的約束という。
しかし両者は同一のものである、
149
約束なる語はその語原上より言っ
ても関係という観念で作られたも
のである。われわれはこの平等と
いうことをよく了解しておかなく
てはならない。なぜなれば、自由
を頂点とするならば、平等は基底
だからである。平等とは諸君、同
じ高さの植物を言うのでない、大
かし
きな草の葉や小さな樫の木の仲間
を言うのではない。互いに減殺し
150
しっと
合う一連の嫉妬を言うのではない。
それは、民事上よりすれば、あら
ゆる能力が同等の機会を有するこ
とであり、政治上よりすれば、あ
らゆる投票が同等の重さを有する
ことであり、宗教上よりすれば、
あらゆる本心が同等の権利を有す
・ ・
ることである。平等は一つの機関
を持つ、すなわち無料の義務教育
である。アルファベットに対する
151
権利、まずそこから始めなければ
ならない。小学校を万人に強請し、
中学校は万人の意に任せる、それ
が定法である。同一の学校から同
等の社会が生ずる。そうだ、教育
の問題である。光明、光明! す
べては光明より発し、光明に返る。
諸君、十九世紀は偉大である、し
かし二十世紀は幸福であるだろう。
二十世紀にはもはや、古い歴史に
152
見えるようなものは一つもないだ
さんだつ
ろう。征服、侵略、簒奪、武力に
よる各国民の競争、諸国王の結婚
結合よりくる文化の障害、世襲的
暴政を続ける王子の出生、会議に
よる民衆の分割、王朝の崩壊によ
や
る国家の分裂、二頭の暗黒なる山
ぎ
羊のごとく無限の橋上において額
をつき合わする二つの宗教の争い、
それらももはや今日のように恐る
153
ききん
るに及ばないだろう。飢饉、不正
ばいいん
利得、困窮から来る売淫、罷工か
ら来る悲惨、絞首台、剣、戦争、
および事変の森林中におけるあら
おいはぎ
ゆる臨時の追剥、それらももはや
恐るるに及ばないだろう、否もは
や事変すらもないとさえ言い得る
だろう。人は幸福になるだろう。
地球がおのれの法則を守るごとく、
人類はおのれの大法を守り、調和
154
は人の魂と天の星との間に立てら
れるだろう。惑星が光体の周囲を
回るごとく、人の魂は真理の周囲
を回るだろう。諸君、われわれが
いる現在の時代は、僕が諸君に語っ
ているこの時代は、陰惨なる時代
あがな
である。しかしそれは未来を購う
べき恐ろしい代金である。革命は
一つの税金である。ああかくて人
類は、解放され高められ慰めらる
155
ぼう
るであろう! われわれはこの防
さい
寨の上において、それを人類に向
かって断言する。愛の叫びは、も
し犠牲の高処からでないとすれば
果たしてどこからいで得るか。お
お兄弟諸君、ここは考える者らと
苦しむ者らとの接合点である。こ
しきいし
の防寨は、舗石からもしくは角材
てつくず
からもしくは鉄屑からできてるの
ではない。二つの堆積からできて
156
るのだ、思想の堆積と苦難の堆積
とからである。ここにおいて悲惨
は理想と相会する。白日は暗夜を
抱擁して言う、予は今汝と共に死
せんとし汝は今予と共に再生せん
とする。あらゆる困苦を抱きしむ
ることから信念がほとばしり出る。
苦難はここにその苦痛をもたらし、
思想はここにその不滅をもたらし
ている。その苦痛とその不滅とは
157
かたちづく
相交わって、われわれの死を形造
る。兄弟よ、ここで死ぬ者は未来
の光明のうちに死ぬのである。わ
あけぼの
れわれは曙の光に満ちたる墳墓の
中にはいるのである。﹂
アンジョーラは口をつぐんだ、
というよりもむしろ言葉を途切ら
くちびる
した。彼の脣は、なお自分自身に
向かって語り続けてるかのように、
黙々として動いていた。ために人々
158
は、注意を凝らしなおその言を聞
かんがために彼をながめた。何ら
かっさい
の喝采も起こらなかったが、低い
いぶ
ささやきが長く続いた。言葉は息
き
吹である。それから来る知力の震
えは木の葉のそよぎにも似ている。
六 粗野なるマリユス、
簡明なるジャヴェル
159
マリユスの脳裏に起こったこと
を一言しておきたい。
彼の心の状態を読者は記憶して
いるだろう。彼にとってすべては
もはや幻にすぎなかったとは、前
に繰り返したところである。彼の
識別力は乱れていた。なお言うが、
ひんし
瀕死の者の上にひろがる大きい暗
い翼の影にマリユスは包まれてい
た。彼は墳墓の中にはいったよう
160
に感じ、既に人生の壁の向こう側
にいるような心地がして、もはや
生きたる人々の顔をも死人の目で
しかながめていなかった。
いかにしてフォーシュルヴァン
氏がここへきたのか、何ゆえにき
たのか、何をしにきたのか? そ
れらの疑問をもマリユスは起こさ
なかった。その上、人の絶望には
特殊な性質があって、自分自身と
161
同じく他人をも包み込んでしまう
ものである。すべての人が死にに
きたということも、マリユスには
至って当然なことに思われた。
ただ彼は、コゼットのことを考
えては心を痛めた。
それにまたフォーシュルヴァン
氏は、マリユスに言葉もかけず、
マリユスの方をながめもせず、マ
リユスが声を上げて﹁僕はあの人
162
を知っている﹂と言った時にも、
その声を耳にしたような様子さえ
しなかった。
マリユスにとっては、フォーシュ
ルヴァン氏のそういう態度は意を
安んぜさせるものであった。そし
てもし言い得べくんば、ほとんど
彼を喜ばせるものであった。彼に
とってフォーシュルヴァン氏は怪
なぞ
しいとともにまたいかめしい謎の
163
ごとき人物であって、いつも言葉
をかけることは絶対に不可能のよ
うな気がしていた。その上会った
のはよほど以前のことだったので、
元来臆病で内気なマリユスはいっ
そう言葉をかけ難い気がした。
選ばれた五人の男は、モンデ
ぼうさい
トゥール小路の方へ防寨を出て行っ
た。彼らはどう見ても国民兵らし
く思われた。そのうちのひとりは
164
涙を流しながら去っていった。防
寨を出る前に彼らは残ってる人々
を抱擁した。
生命のうちに送り返される五人
の男が出て行った時、アンジョー
ラは死に定められてる男のことを
考えた。彼は下の広間にはいって
くく
いった。ジャヴェルは柱に括られ
たまま考え込んでいた。
﹁何か望みはないか。﹂と彼にア
165
ンジョーラは尋ねた。
ジャヴェルは答えた。
おれ
﹁いつ俺を殺すのか。﹂
﹁待っておれ。今は弾薬の余分が
ないんだ。﹂
﹁では水をくれ。﹂とジャヴェル
は言った。
アンジョーラは一杯の水を持っ
てき、彼がすっかり縛られてるの
で自らそれを飲ましてやった。
166
﹁それだけか。﹂とアンジョーラ
は言った。
﹁この柱では楽でない。﹂とジャ
ヴェルは答えた。﹁このまま一夜
を明かさせたのは薄情だ。どう縛
られてもかまわんが、あの男のよ
うにテーブルの上に寝かしてく
れ。﹂
そう言いながら頭を動かして彼
はマブーフ氏の死体をさした。
167
読者の記憶するとおり、弾を鋳
たり弾薬をこしらえたりした大き
なテーブルが室の奥にあった。弾
薬はすべてでき上がり火薬はすべ
て用い尽されたので、そのテーブ
ルはあいていた。
アンジョーラの命令で、四人の
暴徒はジャヴェルを柱から解いた。
解いてる間、五番目の男はその胸
に銃剣をさしつけていた。両手は
168
背中に縛り上げたままにし、足に
むちなわ
は細い丈夫な鞭繩をつけておいた。
それで彼は絞首台に上る人のよう
に、一足に一尺四、五寸しか進む
へや
ことができなかった。室の奥のテー
ブルの所まで歩かせて、人々はそ
の上に彼を横たえ、身体のまんな
かをしっかと縛りつけた。
なおいっそう安全にするために、
脱走を不可能ならしむる縛り方を
169
した上、首につけた繩で、監獄に
むながい
おいて鞅と呼ばるる縛り方を施し
た。繩を首の後ろから通して、胸
また
の所で十字にし、それから胯の間
を通し、後ろの両手に結びつける
のである。
人々がジャヴェルを縛り上げて
る間、ひとりの男が室の入り口に
立って、妙に注意深く彼をながめ
ていた。ジャヴェルはその男の影
170
めぐ
を見て、頭を回らした。それから
目をあげて、ジャン・ヴァルジャ
ンの姿を認めた。ジャヴェルは別
ごうぜん
に驚きもしなかった。ただ傲然と
目を伏せて、自ら一言言った。
﹁ありそうなことだ。﹂
七 局面の急迫
夜は急に明けてきた。しかし窓
171
は一つも開かれず、戸口は一つも
ゆる
弛められなかった。夜明けではあっ
ぼうさい
たが、目ざめではなかった。防寨
に相対してるシャンヴルリー街の
一端は、前に言ったとおり、軍隊
の撤退したあとで、今やまったく
自由になったかのように、気味悪
い静けさをして人の通行を許して
いた。サン・ドゥニ街は、スフィ
ンクスの控えてるテーベの大道の
172
つじ
ようにひっそりしていた。四つ辻
は太陽の反映に白く輝いていたが、
せき
生あるものは何もいなかった。寂
ぜん
然たる街路のその明るみほど、世
に陰気なものはあるまい。
何物も目には見えなかったが、
物音は聞こえていた。ある距離を
へだてた所に怪しい運動が起こっ
ていた。危機が迫ってることは明
しょうへい
らかだった。前夜のように哨兵ら
173
が退いてきた、しかし今度は哨兵
の全部だった。
防寨は第一の攻撃の時よりいっ
そう堅固になっていた。五人の男
が立ち去ってから、人々は防寨を
なお高めていた。
市場町の方面を見張っていた哨
兵の意見を聞いて、アンジョーラ
は後方から不意打ちされるのを気
使い、一大決心を定めた。すなわ
174
ちその時まで開いていたモンデ
しじょうほう
トゥール小路の歯状堡をもふさが
した。そのためになお数軒の人家
しきいし
にわたる舗石がめくられた。かく
て防寨は、前方シャンヴルリー街
と、左方シーニュ街およびプティー
ト・トリュアンドリー街と、右方
モンデトゥール街と、三方をふさ
いで、実際ほとんど難攻不落に思
われた。彼らはまったくその中に
175
閉じ込められた。正面は三方に向
ねずみわな
いていたが、出口は一つもなかっ
ようさい
た。﹁要塞にしてまた鼠罠か、﹂
とクールフェーラックは笑いなが
ら言った。
アンジョーラは居酒屋の入り口
しきいし
の近くに三十ばかりの舗石を積ま
した。﹁よけいにめくったもん
だ、﹂とボシュエは言った。
攻撃が来るに違いないと思われ
176
た方面は、今やいかにも深く静ま
り返っていた。でアンジョーラは
一同をそれぞれ戦闘位置につかし
た。
ブランデーの少量が各人に分配
された。
ぼうさい
襲撃に対する準備をしてる防寨
ほど不思議なものはない。人々は
芝居小屋にでもはいったかのよう
に各自に自分の位置を選む。ある
177
ひじ
いは身体をよせかけ、あるいは肱
をつき、あるいは肩でよりかかる。
舗石を立てて特別の席をこしらえ
る者もある。邪魔になる壁のすみ
からはなるべく遠ざかる。身をま
とつかく
もるに便利な凸角があればそれに
こもる。左ききの者は調法で、普
通の者に不便な場所を占むる。多
くの者は腰をおろして戦列につく。
楽に敵を殺し気持ちよく死ぬこと
178
を欲するからである。一八四八年
そげ
六月の悲惨な戦いにおいては、狙
き
撃の巧みなひとりの暴徒が平屋根
の上で戦ったが、一個の安楽椅子
を持ち出していた。そしてそれに
さんだん
腰掛けたまま霰弾にたおれた。
指揮者が戦闘準備の命令を下す
や否やすべて無秩序な運動は止む。
もはや不和もなく、寄り集まりも
なく、陰口もなく、離れた群れも
179
ない。人々の頭の中にあるものは
みな一つに集中し、ただ敵の襲撃
を待つの念だけに変わってしまう。
防寨は危険が来る前までは混乱で
あるが、危険に陥れば規律となる。
危急は秩序を生ずる。
アンジョーラが二連発のカラビ
ン銃を取って、自分の場所として
はざま
る一種の狭間に身を置くや、人々
は口をつぐんでしまった。多くの
180
しきいし
小さな鋭い音が舗石の壁に沿って
ごったに起こった。それは銃を構
える音だった。
また人々の態度は、深い勇気と
信念とを示していた。極度の犠牲
心はかえって力を生ぜさせる。彼
らはもはや希望を持たなかったが、
しかし絶望を持っていた。絶望は
時として勝利を与える最後の武器
であるとは、ヴァージルの言った
181
ところである。最上の手段は最後
の決心から生まれてくる。死の船
ふた
に乗り込むのは、往々にして難破
ひつぎ
から脱する方法となる。柩の蓋は
身をまもる板となる。
前夜のとおり人々の注意は、今
や明るくなって見えてきた街路の
先端に向けられた、というよりそ
よ
こに倚りかかったと言ってもよい。
待つ間は長くなかった。どよめ
182
きの音がサン・ルーの方面にまた
はっきり聞こえ始めた。しかしそ
れは第一回の攻撃のおりの運動と
は異なっていた。鎖の音、大集団
の恐ろしいざわめき、舗石の上に
当たる青銅の音、一種のおごそか
な響き、それらはあるすごい鉄器
が近づいてくるのを示していた。
多くの利害と思想とが交通するた
めにうがち設けられ、恐ろしい戦
183
車を通すために作られたのではな
い、それらの平和な古い街路のう
ちに、一つの震動が起こってきた。
街路の先端に据えられてた戦士
ひとみ
らの瞳は、ものすごくなった。
一門の大砲が現われた。
砲手らが砲車を押し進めてきた。
大砲は発射架の中に入れられてい
た。前車ははずされていた。砲手
の二人は砲架をささえ、四人は車
184
輪の所に添い、他の者らはあとに
続いて弾薬車を引いていた。火の
ひなわ
ついた火繩の煙が見えていた。
ひぶた
﹁打て!﹂とアンジョーラは叫ん
だ。
ぼうさい
防寨は全部火蓋を切った。その
なだれ
射撃は猛烈だった。雪崩のような
煙は、砲門と兵士らとをおおい隠
した。数秒ののち煙が散ると、大
砲と兵士らとが再び見えた。砲手
185
らは静かに正確に急ぎもせず、砲
口を防寨の正面に向けてしまって
いた。弾にあたった者は一人もい
なかった。砲手長は砲口を上げる
ため砲尾に身体をもたせかけ、望
遠鏡の度を合わせる天文学者のよ
うに落ち着き払って、照準を定め
始めた。
﹁砲手、あっぱれ!﹂とボシュエ
は叫んだ。
186
そして、防寨の者は皆拍手した。
一瞬間の後には、大砲は街路の
まんなかに溝をまたいでおごそか
に据えられ、発射するばかりになっ
ていた。恐るべき口は防寨の上に
開かれていた。
やつ
しっ
﹁さあこい!﹂とクールフェラッ
げんこつ
おれ
クは言った。﹁ひどい奴だな、指
ぺい
弾の後に拳骨か。軍隊は俺たちの
方に大きな足を差し出したな。こ
187
んどは防寨も本当に動くぞ。小銃
かすめ
は掠るばかりだが、大砲はぶっつ
かる。﹂
﹁新式の青銅の八斤砲だ。﹂とコ
ンブフェールはそれに続いて言っ
すず
た。﹁あの砲は、銅と錫とが百に
十の割合を越すとすぐに破裂する。
錫が多すぎれば弱くなって、火門
の中に幾つもすき間ができる。そ
の危険を避けしかも装薬を強くす
188
たが
るには、十四世紀式に戻って箍を
はめなくちゃいけない。すなわち
砲尾から砲耳までつぎ目なしの鋼
鉄の輪をたくさんはめて外から強
くするんだ。さもなければどうに
かして欠点を補うんだ。猫捜器で
火門の中にできたすきまがわかる。
しかし最もいい方法は、グリボー
ヴァルの発明した動星器を用いる
ことだ。﹂
189
﹁十六世紀には、﹂とボシュエは
言った、﹁砲身内に旋条を施して
いた。﹂
﹁そうだ、﹂とコンブフェールは
答えた、﹁そうすれば弾道力は増
すが、ねらいの正確さは減ずる。
その上、短距離の射撃には、弾道
は思うようにまっすぐにならず、
ほうぶつせん
抛物線は大きくなり、弾は充分まっ
すぐに飛ばなくて中間の物を打つ
190
ことができなくなる。しかし実戦
においては中間の物を打つ必要が
あって、敵が近くにおり発射を急
ぐ場合には、ますますそれが大切
となる。十六世紀の旋条砲の弾道
わんきょく
が彎曲するその欠点は、装薬の弱
さからきている。そして装薬を弱
くするのは、この種の武器では、
たとえば砲架を痛めないようにと
いうような発射の方の必要からき
191
ている。要するにこの専制者たる
大砲も、欲することを何でもやれ
るわけではない。力には大なる弱
点がある。砲弾は一時間に六百里
しか走れないが、光線は一秒に七
万里走る。それがすなわち、イエ
まさ
ス・キリストのナポレオンに勝る
ところだ。﹂
﹁弾をこめ!﹂とアンジョーラは
言った。
192
防寨の面は砲弾の下にどうなる
であろうか。砲弾に穴をあけられ
るであろうか。それが問題であっ
た。暴徒らが銃に再び弾をこめて
る間に、砲兵らは大砲に弾をこめ
ていた。
かくめんほう
角面堡内の懸念はすこぶる大き
かった。
ごうぜん
大砲は発射された。轟然たる響
きが起こった。
193
﹁ただ今!﹂と快活な声がした。
ぼうさい
砲弾が防寨の上に落ちかかると
同時に、ガヴローシュが防寨の中
に飛び込んできた。
彼はシーニ街の方からやってき
て、プティート・トリュアンドリー
びんしょう
小路に向いてる補助の防寨を敏捷
に乗り越えてきたのだった。
砲弾よりもガヴローシュの方が
ぼうさい
防寨の中に騒ぎを起こした。
194
うずたか
砲弾は雑多な破片の堆い中に没
してしまった。せいぜい乗り合い
馬車の車輪を一つこわしアンソー
の古荷車を砕いたに過ぎなかった。
それを見て人々は笑い出した。
﹁もっと打て。﹂とボシュエは砲
兵らに叫んだ。
八 大砲の真の偉力
195
人々はガヴローシュの周囲に集
まった。
しかし彼は何も物語る暇がなかっ
がいぜん
た。マリユスは駭然として彼を横
の方に招いた。
﹁何しに戻ってきたんだ。﹂
﹁なんだって!﹂と少年は言った。
﹁お前の方はどうだ?﹂
そして彼はおごそかな厚かまし
さでマリユスを見つめた。その両
196
の目は心中にある得意の情のため
ひときわ
に一際大きく輝いていた。
マリユスはきびしい調子で続け
て言った。
﹁戻ってこいとだれが言った! 少なくとも手紙はあて名の人に渡
したのか。﹂
手紙のことについてはガヴロー
シュも多少やましいところがない
でもなかった。防寨に早く戻りた
197
いので、手紙は渡したというより
もむしろ厄介払いをしたのだった。
顔もよく見分けないで未知の男に
託したのは多少軽率だったと、彼
は自ら認めざるを得なかった。実
際その男は帽子をかぶってはいな
かったが、それだけでは弁解にな
らなかった。要するに彼は、手紙
のことについては少し心苦しい点
しっせき
があって、マリユスの叱責を恐れ
198
ていた。でその苦境をきりぬける
ために、最も簡単な方法を取って、
うそ
ひどい嘘を言った。
﹁手紙は門番に渡してきた。女の
人は眠っていたから、目がさめた
ら見るだろう。﹂
マリユスはその手紙を贈るにつ
いて二つの目的を持っていた、コ
ゼットに別れを告げることと、ガ
ヴローシュを救うこと。で彼は望
199
みの半分だけが成就したことで満
足しなければならなかった。
ぼうさい
手紙の送達と、防寨の中にフォー
シュルヴァン氏の出現と、その二
つの符合が彼の頭に浮かんだ。ガ
ヴローシュにフォーシュルヴァン
氏をさし示した。
﹁あの人を知っているか。﹂
﹁いや。﹂とガヴローシュは言っ
た。
200
実際ガヴローシュは、今言った
とおり、暗夜の中でジャン・ヴァ
ルジャンを見たに過ぎなかった。
マリユスの頭の中に浮かんでき
ばくぜん
た漠然たる不安な推測は、ガヴロー
シュの一語に消えうせた。フォー
シュルヴァン氏の意見はわからな
いが、おそらくは共和派だろう。
そうだとすれば、彼が防寨の中に
現われたのも別に不思議はないわ
201
けだった。
そのうちにもうガヴローシュは、
防寨の他の一端で叫んでいた。
おれ
﹁俺の銃をくれ!﹂
クールフェーラックは銃を彼に
返してやった。
ガヴローシュは彼のいわゆる
﹁仲間の者ら﹂に、防寨が包囲さ
れてることを告げた。戻って来る
のは非常に困難だった。戦列歩兵
202
の一隊がプティート・トリュアン
ドリーに銃を組んでシーニュ街の
方を監視しており、市民兵がその
反対のプレーシュール街を占領し
ていた。そして正面には軍勢の本
隊が控えていた。
それだけのことを知らして、ガ
やつ
ヴローシュは加えて言った。
おれ
﹁俺が許すから、奴らにどかんと
一つ食わしてくれ。﹂
203
その間、アンジョーラは自分の
はざま
狭間の所にあって、耳を澄ましな
がら様子をうかがっていた。
襲撃軍の方は、砲弾の効果に不
満だったのであろう、もうそれを
繰り返さなかった。
一中隊の戦列歩兵が、街路の先
端に現われて砲車の後ろに陣取っ
しきいし
た。彼らは街路の舗石をめくり、
そこに舗石の小さな低い障壁をこ
204
しらえた。それは高さ一尺八寸く
らいなもので、防寨に向かって作っ
けんしょう
た一種の肩墻だった。肩墻の左の
かど
角には、サン・ドゥニ街に集まっ
てる郊外国民兵の縦隊の先頭が見
えていた。
向こうの様子をうかがっていた
さんだん
アンジョーラは、弾薬車から霰弾
の箱を引き出すような音を耳にし、
また砲手長が照準を変えて砲口を
205
少し左へ傾けるのを見た。それか
ら砲手らは弾をこめ始めた。砲手
長は自ら火繩桿を取って、それを
火口に近づけた。
﹁頭を下げろ、壁に寄り沿え!﹂
ぼう
とアンジョーラは叫んだ。﹁皆防
さい
寨に沿ってかがめ!﹂
ガヴローシュがきたので、部署
を離れて居酒屋の前に散らばって
た暴徒らは、入り乱れて防寨の方
206
へ駆けつけた。しかしアンジョー
ラの命令が行なわれない前に、大
砲は恐ろしい響きとともに発射さ
れた。果たしてそれは霰弾だった。
かくめんほう
弾は角面堡の切れ目に向かって
発射され、その壁の上にはね返っ
た。その恐ろしいはね返しのため
に、ふたりの死者と三人の負傷者
とが生じた。
もしそういうことが続いたなら
207
ば、防寨はもうささえ得られない。
さんだん
霰弾は内部にはいって来る。
ろうばい
狼狽のささやきが起こった。
﹁ともかくも第二発を防ごう。﹂
とアンジョーラは言った。
そして彼はカラビン銃を低く下
げ、砲手長をねらった。砲手長は
その時、砲尾の上に身をかがめて、
照準を正しく定めていた。
その砲手長はりっぱな砲兵軍曹
208
で、年若く、金髪の、やさしい容
貌の男だったが、恐怖すべき武器
として完成するとともに、ついに
は戦争を絶滅すべきその武器に、
れいり
ちょうどふさわしい怜悧な様子を
していた。
アンジョーラのそばに立ってる
コンブフェールは、その男をじっ
とながめていた。
﹁まったく遺憾なことだ!﹂とコ
209
ンブフェールは言った。﹁こうい
さつりく
う殺戮は実に恐ろしい。ああ国王
がいなくなれば、戦いももうなく
なるんだ。アンジョーラ、君はあ
の軍曹をねらっているが、どんな
男かよくはわからないだろう。い
いか、りっぱな青年だ、勇敢な男
だ、思慮もあるらしい。若い砲兵
は皆相当な教育を受けてる者ども
だ。あの男には、父があり、母が
210
あり、家族があり、意中の女もあ
るかも知れない。多くて二十五歳
より上ではない。君の兄弟かも知
れないんだ。﹂
﹁僕の兄弟だ。﹂とアンジョーラ
は言った。
﹁そうだ、﹂とコンブフェールも
言った、﹁また僕の兄弟でもある。
殺すのはやめようじゃないか。﹂
﹁僕に任してくれ。なすべきこと
211
はなさなければならない。﹂
そして一滴の涙が、アンジョー
ほお
ラの大理石のような頬を静かに流
れた。
と同時に、彼はカラビン銃の引
いっせん
き金を引いた。一閃の光がほとば
しった。砲手長は二度ぐるぐると
回り、腕を前方に差し出し、空気
を求めてるように顔を上にあげた
が、それから砲車の上に横ざまに
212
倒れ、そのまま身動きもしなかっ
た。背中がこちらに見えていたが、
そのまんなかからまっすぐに血が
ほとばしり出ていた。弾は胸を貫
いたのである。彼は死んでいた。
彼を運び去って代わりの者を呼
ばなけれはならなかった。かくて
実際数分間の猶予が得られたので
ある。
213
九 昔ながらの射撃の
手腕
ぼうさい
防寨の中では種々の意見がかわ
された。大砲はまた発射されよう
さんだん
としていた。その霰弾を浴びせら
れては十五、六分しか支持されな
そ
い。その力を殺ぐことが絶対に必
要だった。
アンジョーラは命令を下した。
214
ふとん
おお
﹁蒲団の蔽いをしなくちゃいけな
い。﹂
﹁蒲団はない、﹂とコンブフェー
ルは言った、﹁皆負傷者が寝てい
る。﹂
ジャン・ヴァルジャンはひとり
かど
列から離れて、居酒屋の角の標石
ひざ
に腰掛け、銃を膝の間にはさんで、
その時まで周囲に起こってること
には少しも立ち交わらなかった。
215
﹁銃を持っていて何にもしねえの
かな、﹂とまわりの戦士らが言う
言葉をも、耳にしないがようだっ
た。
ところがアンジョーラの命令が
下されると、彼は立ち上がった。
読者は記憶しているだろうが、
一同がシャンヴルリー街にやって
きた時、ひとりの婆さんは弾の来
ふとん
るのを予想して、蒲団を窓の前に
216
つるしておいた。それは屋根裏の
ぼうさい
窓で、防寨の少し外にある七階建
ての人家の屋根上になっていた。
蒲団は斜めに置かれ、下部は二本
ざお
の物干し竿に掛け、上部は二本の
綱でつるしてあった。綱は屋根部
くぎ
屋の窓縁に打ち込んだ釘に結わえ
られ、遠くから見ると二本の麻糸
のように見えた。防寨からながめ
ると、その二本の綱は髪の毛ほど
217
の細さで空に浮き出していた。
﹁だれか私に二連発のカラビン銃
を貸してくれ。﹂とジャン・ヴァ
ルジャンは言った。
アンジョーラはちょうど自分の
カラビン銃に弾をこめたところだっ
たので、それを彼に渡した。
ジャン・ヴァルジャンは屋根部
屋の方をねらって、発射した。
蒲団の綱の一方は切れた。
218
蒲団はもはや一本の綱で下がっ
てるのみだった。
ジャン・ヴァルジャンは第二発
を発射した。第二の綱ははね返っ
て窓ガラスにあたった。蒲団は二
本の竿の間をすべって街路に落ち
た。
かっさい
防寨の中の者は喝采した。
人々は叫んだ。
﹁蒲団ができた。﹂
219
﹁そうだ、﹂とコンブフェールは
言った、﹁しかしだれが取りに行
くんだ?﹂
実際蒲団は防寨の外に、防御軍
と攻囲軍との間に落ちたのである。
しかるに砲兵軍曹の死に殺気立っ
えんぺいせん
た兵士らは、少し以前から、立て
しきいし
られた舗石の掩蔽線の後ろに腹ば
いになり、砲手らが隊伍を整えて
ぼう
る間の大砲の沈黙を補うため、防
220
さい
寨に向かって銃火を開いていた。
暴徒らの方は、弾薬をむだにしな
いようにそれには応戦しなかった。
銃弾は防寨に当たって砕け散って
いたが、街路はしきりに弾が飛ん
で危険だった。
ジャン・ヴァルジャンは防寨の
切れ目から出て、街路にはいり、
ふとん
弾丸の雨の中を横ぎり、蒲団の所
まで行き、それを拾い上げ、背中
221
に引っかけ、そして防寨の中に戻っ
てきた。
彼は自らその蒲団を防寨の切れ
目にあてた。しかも砲手らの目に
つかぬよう壁によせて掛けた。
さんだん
かくして一同は霰弾を待った。
やがてそれはきた。
ごうぜん
大砲は轟然たる響きとともに一
発の霰弾を吐き出した。しかしこ
んどは少しもはね返らなかった。
222
弾は蒲団の上に流れた。予期の効
果は得られた。防寨の人々は無事
であった。
﹁共和政府は君に感謝する。﹂と
アンジョーラはジャン・ヴァルジャ
ンに言った。
ボシュエは驚嘆しかつ笑った。
彼は叫んだ。
け
﹁蒲団にこんな力があるのは怪し
からん。ぶつかる物に対するたわ
223
む物の勝利だ。しかしとにかく、
大砲の勢いをそぐ蒲団は光栄なる
かなだ。﹂
れいめい
十 黎明
ちょうどこの時刻に、コゼット
は目をさました。
彼女の室は狭く小ぎれいで奥まっ
ていた。家の後庭に面して、東向
224
きの細長い窓が一つついていた。
コゼットはパリーにどんなこと
が起こってるか少しも知らなかっ
た。彼女は前夜外に出なかったし、
﹁騒ぎがもち上がってるようでご
ざいますよ﹂とトゥーサンが言っ
へや
た時には、もう自分の室に退いて
いた。
コゼットは少しの間しか眠らな
かったが、その間は深く熟睡した。
225
彼女は麗しい夢を見た。それはお
そらく小さな寝台が純白であった
せいも多少あろう。マリユスらし
いだれかが、光のうちに彼女に現
われた。彼女は目に太陽の光がさ
したので目ざめた。そして初めは
それもなお夢の続きのような気が
した。
夢から出てきたコゼットの最初
の考えは、喜ばしいものだった。
226
彼女の心はすっかり落ち着いてい
た。数時間前のジャン・ヴァルジャ
ンと同じく彼女も、不幸を絶対に
しりぞけようとする心的反動のう
ちにあった。なぜともなく全力を
つくして希望をいだきはじめた。
それから突然悲しい思いが起こっ
てきた。︱︱この前マリユスに会っ
てからもう三日になっていた。し
かし彼女は自ら考えた。マリユス
227
は自分の手紙を受け取ったに違い
ない、自分のいる所を知ったはず
である、知恵のある人だから、ど
うにかして自分の所へきてくれる
だろう。︱︱そしてそれも確かに
今日だろう、今朝かも知れない。
︱︱もうすっかり明るくなってい
たが、日の光は横ざまに流れてい
た。まだごく早いんだろうと彼女
は思った。けれどもとにかく起き
228
なければならなかった、マリユス
が来るのを迎えるために。
彼女はマリユスなしには生きて
おれないような気がした。そして
それでもう充分だった。マリユス
はきっと来るだろう。こないとい
う理由は少しも認められなかった。
来ることは確かだった。三日間も
苦しむのは既に恐ろしいことだっ
た。三日もマリユスに会わせない
229
とは神様もあまりひどすぎた。け
れど今は、神の残酷な悪戯たる試
練もきりぬけてきたし、マリユス
はきっといい消息を持ってきつつ
あるに違いなかった。実に青春と
はそうしたものである。青春はす
ぐに目の涙をかわかす。悲しみを
不用なものとして、それを受け入
れない。青春はある未知の者の前
における未来のほほえみである、
230
しかもその未知の者は青春自身で
ある。それが幸福であるのは自然
である。その息はあたかも希望で
できてるかのようである。
その上コゼットは、マリユスが
やってこないのはただ一日だけだ
というそのことについて、彼がど
んなことを言ったか、またどんな
説明をしたか、それを少しも思い
出すことができなかった。地に落
231
とした一個の貨幣がいかに巧みに
姿を隠すか、そしていかにうまく
見えなくなってしまうかは、人の
皆知るところである。観念のうち
にもそういうふうに人をたぶらか
すものがある。一度頭脳の片すみ
に潜んでしまえば、もうおしまい
である、姿が見えなくなってしま
う、記憶で取り押さえることがで
きなくなる。コゼットも今、記憶
232
を働かしてみたが少しも効がない
のにじれていた。マリユスが言っ
た言葉を忘れてしまったのは、不
都合なことであり済まないことで
あると、彼女は思った。
彼女は寝床から出て、魂と身体
きとう
と両方の斎戒を、すなわち祈祷と
化粧とをした。
やむを得ない場合には読者を婚
へや
姻の室に導くことはできるが、処
233
女の室に導くことははばかられる。
それは韻文においてもでき難いこ
とであるが、散文においてはなお
さらである。
処女の室は、まだ開かぬ花の内
やみ
へや
部である、闇の中の白色である、
ゆ り
閉じたる百合のひそやかな房で、
太陽の光がのぞかぬうちは人がの
つぼみ
ぞいてはならないものである。蕾
のままでいる婦人は神聖なもので
234
ある。自らあらわなるその清浄な
寝床、自らおのれを恐れる尊い半
うわぐつ
裸体、上靴の中に逃げ込む白い足、
ひとみ
きし
鏡の前にも人の瞳の前かのように
のどもと
身を隠す喉元、器具の軋る音や馬
車の通る音にも急いで肩の上に引
き上げられるシャツ、結わえられ
たリボン、はめられた留め金、締
ひも
められた紐、かすかなおののき、
寒さや貞節から来る小さな震え、
235
あらゆる動きに対するそれとなき
恐れ、気づかわしいもののないお
りにも常に感ずる軽やかな不安、
暁の雲のように麗しいそれぞれの
ひだ
衣服の襞、すべてそれらのものは
語るにふさわしいものではない。
それを列挙するだけで既に余りあ
るのである。
人の目は、上りゆく星に対する
よりも起き上がる若き娘の前に、
236
けいけん
いっそう敬虔でなければならない。
手を触れることができるだけに、
いっそうそっとしておくべきであ
じゅうもう
る。桃の実の絨毛、梅の実の粉毛、
ふくしゃじょう
輻射状の雪の結晶、粉羽におおわ
れてる蝶の翼、などさえも皆、自
らそれと知らない処女の純潔さに
比ぶれば、むしろ粗雑なものにす
ぎない。若き娘は夢にすぎなくて、
まだ一つの像ではない。その寝所
237
ばく
は理想のほの暗い部分のうちに隠
いちべつ
れている。不注意な一瞥はその漠
たる陰影を侵害する。そこにおい
ぼうとく
ては観照も冒涜となる。
それでわれわれは、コゼットが
目をさましたおりのその香ばしい
多少取り乱れた姿については、少
しも筆を染めないでおこう。
東方の物語が伝えるところによ
ば ら
ると、薔薇の花は神からまっ白に
238
作られたが、まさに開かんとする
時アダムにのぞかれたので、それ
は
を羞じて赤くなったという。われ
われは若き娘と花とを尊むがゆえ
に、その前においては無作法な言
ろう
を弄し得ないのである。
コゼットは急いで装いをし、髪
す
まげ
を梳きそれを結んだ。当時の婦人
しん
は、入れ毛や芯などを用いて髷や
びん
鬢をふくらすことをせず、髪の中
239
に座型を入れることはなかったの
で、髪を結うのもごく簡単だった。
それからコゼットは窓をあけ、方々
かど
を見回して、街路の一部や家の角
しきいし
や舗石の片すみなどを見ようとし、
マリユスの姿が現われるのを待と
うとした。しかし窓からは表は少
しも見えなかった。その後庭はか
なり高い壁でとり囲まれて、幾つ
かの表庭が少し見えるきりだった。
240
コゼットはそれらの庭を憎らしく
みぞ
思い、生まれて始めて花を醜いも
つじ
のに思った。四つ辻の溝の一端で
かな
も今は彼女の望みにいっそう叶う
ものだったろう。彼女は気を取り
直して、あたかもマリユスが空か
ら来るとでも思ってるように空を
ながめた。
すると、たちまち彼女は涙にく
れた。変わりやすい気持ちのせい
241
ではなくて重苦しいものに希望の
糸が切られたからだった。彼女は
そういう地位にあった。彼女は何
ばくぜん
とも知れぬ恐怖を漠然と感じた。
実際種々のことが空中に漂ってい
た。何事も確かなことはわからぬ
と思い、互いに会えないことは互
いに失うことだと思った。そして
マリユスが空から戻って来るかも
知れないという考えは、もはや喜
242
ばしいものではなく悲しいものの
ように思われた。
それから、かかる暗雲の常とし
て、静穏の気が彼女の心にまた起
こってき、希望の念と、無意識的
なそして神に信頼した微笑とが、
心に起こってきた。
まだ家中は眠っていた。あたり
いなか
は田舎のように静かだった。窓の
とびら
扉は一つも開かれていず、門番小
243
屋もしまっていた。トゥーサンは
まだ起きていなかったし、父も眠っ
ているのだとコゼットは自然思っ
た。彼女は非常に苦しんだに違い
ない、また今もなお苦しんでいた
に違いない、なぜなら、父が意地
悪いことをしたと考えていたから
である。しかし彼女はマリユスが
必ず来ると思っていた。あれほど
の光明が消えうせることは、まっ
244
たくあり得べからざることだった。
彼女は祈った。ある重々しい響き
が時々聞こえていた。こんなに早
くから大門を開けたりしめたりす
るのはおかしい、と彼女は言った。
ぼうさい
しかしそれは、防寨を攻撃してる
大砲の響きだった。
へや
じゃ
コゼットの室の窓から数尺下の
つばめ
所、壁についてるまっ黒な古い蛇
ばら
腹の中に、燕の巣が一つあった。
245
巣のふくれた所が蛇腹から少しつ
き出ていて、上からのぞくとその
小さな楽園の中が見られた。母親
ひな
は扇のように翼をひろげて雛をお
おうていた。父親は飛び上がって
くち
出て行き、それからまた戻ってき
くちばし
ては、嘴の中に餌と脣づけをもた
らしていた。朝日の光はその幸福
・ ・ ・ ふ
な一群を金色に輝かし、増せよ殖
・ ・
えよという自然の大法はそこにお
246
ごそかにほほえんでおり、そのや
さしい神秘は朝の光栄に包まれて
花を開いていた。コゼットは朝日
の光を髪に受け、魂を空想のうち
に浸し、内部は愛に外部は曙に輝
かされ、ほとんど機械的に身をか
がめて、同時にマリユスのことを
思ってるのだとは自ら気づきもせ
ずに、それらの小鳥を、その家庭
を、その雌雄を、その母と雛とを、
247
小鳥の巣から乙女心を深く乱され
ながらうちながめ始めた。
十一 人を殺さぬ確実
そげき
なる狙撃
襲撃軍の射撃はなお続いていた。
さんだん
小銃と霰弾とはこもごも発射され
た。しかし実際は大なる損害を与
えなかった。ただコラント亭の正
248
面の上部だけはひどく害を受けた。
二階の窓や屋根部屋の窓は、霰弾
のために無数の穴を明けられて、
しだいに形を失ってきた。そこに
陣取っていた戦士らは身を隠すの
やむなきに至った。けれども、そ
れは防寨攻撃の戦術上の手段であっ
て、長く射撃を続けるのも、暴徒
らに応戦さしてその弾薬をなくす
ためだった。暴徒らの銃火が弱っ
249
てき、もはや弾も火薬もなくなっ
たことがわかる時に、いよいよ襲
撃をやろうというのだった。しか
わな
しアンジョーラはその罠にかから
ぼうさい
なかった。防寨は少しも応戦しな
かった。
兵士らの射撃が来るたびごとに
ほお
ガヴローシュは舌で頬をふくらま
ごうぜん
した。それは傲然たる軽蔑を示す
ものだった。
250
﹁うまいぞ、﹂と彼は言った、
おれ
﹁どしどし着物を破ってくれ。俺
ほうたい
たちは繃帯がいるんだ。﹂
クールフェーラックは効果の少
さんだん あざけ
ない霰弾を嘲って、大砲の方へ向
かって言った。
﹁おい、大変むだ使いをするね。﹂
戦いにおいても舞踏会における
がごとく、人は相手をほしがるも
かくめんほう
のである。角面堡がかく沈黙して
251
ることは、攻撃軍に不安を与え、
何か意外の変事が起こりはしない
かと心配させ始めたらしい。そし
しきいし とりで
て彼らは、舗石の砦の向こうを見
届けたく思い、射撃を受けながら
応戦もしないその平然たる障壁の
背後には、どういうことが行なわ
れてるか知りたく思ったらしい。
暴徒らはふいに、近くの屋根の上
かぶとぼう
に日光に輝く一つの兜帽を見いだ
252
した。ひとりの消防兵が高い煙筒
ていさつ
に身を寄せて、偵察をやってるら
しかった。その視線はま上から防
寨の中に落ちていた。
﹁あそこに困った偵察者が出てき
た。﹂とアンジョーラは言った。
ジャン・ヴァルジャンはアン
ジョーラのカラビン銃を返してい
たが、なお自分の小銃を持ってい
た。
253
一言も口をきかずに彼は消防兵
をねらった。そして一瞬の後には、
その兜帽は一弾を受けて音を立て
ながら街路に落ちた。狼狽した兵
士は急いで身を隠した。
第二の観察者がその後に現われ
た。それは将校だった。再び小銃
に弾をこめたジャン・ヴァルジャ
ンは、その将校をもねらい、その
かぶとぼう
兜帽を兵士の兜帽と同じ所に打ち
254
落とした。将校もたまらずにすぐ
退いてしまった。そしてこんどは、
ジャン・ヴァルジャンの考えが向
こうに通じたらしかった。もうだ
れも再び屋根の上に現われなかっ
ぼうさい
た。防寨の中をうかがうことはや
められた。
﹁なぜ殺してしまわないんだ?﹂
とボシュエはジャン・ヴァルジャ
ンに尋ねた。
255
ジャン・ヴァルジャンは返事を
しなかった。
十二 秩序の味方たる
無秩序
ボシュエはコンブフェールの耳
にささやいた。
﹁あの男は僕の言葉に返事をしな
い。﹂
256
﹁射撃をもって好意を施す男だ。﹂
とコンブフェールは言った。
既に昔となってるその当時のこ
とをまだ多少記憶してる人々は、
郊外からきた国民兵らが暴動に対
して勇敢であったことを知ってる
であろう。彼らは特に一八三二年
六月の戦いに熱烈で勇猛だった。
パンタンやヴェルテュやキュネッ
トなどの飲食店の主人のうちには、
257
暴動のために﹁営業﹂を休まなけ
ればならなくなり、舞踏室が荒廃
したのを見て憤激し、飲食店の秩
序を保たんがために、ついに戦死
した者もあった。かく中流市民的
にしてまた勇壮なるこの時代には、
種々の思想にもそれに身をささぐ
る騎士がいるとともに、種々の利
益にもそれをまもる勇士がいた。
動機の卑俗さは何ら行動の勇壮さ
258
を減殺しはしなかった。蓄積され
た貨幣の減少を回復せんがために
は、銀行家らもマルセイエーズを
高唱した。勘定場のためにも叙情
詩的な血が流された。人々はスパ
ルタ的な熱誠をもって、祖国の微
小縮図たる店頭を防御した。
根本においては、それらのもの
の中にこもっていた意義は皆まじ
めなものであったと言うべきであ
259
る。すなわち社会の各要素が、平
等の域にはいる前にまず、闘争の
域にはいっていたのである。
なおこの時代のも一つの特徴は、
政府主義︵きちょうめんな一党派
に対する乱暴な名前ではあるが︶
のうちに交じってる無政府主義で
あった。人々は不規律をもって秩
序の味方をしていた。国民軍の某
大佐の指揮の下に勝手な召集の太
260
鼓はふいに鳴らされた。某大尉は
自分一個の感激から戦いに向かっ
た。某国民軍は﹁思いつき﹂で勝
手な戦いをした。危急の瞬間に、
﹁騒乱﹂のうちに、人々は指揮官
の意見よりもむしろ多く自己の本
能に従った。秩序を守る軍隊の中
に、真の単独行動の兵士が数多あっ
た、しかもファンニコのごとく剣
による者もあれば、アンリ・フォ
261
ンフレードのごとくペンによる者
もあった。
一群の主義によってよりもむし
ろ一団の利益によって当時不幸に
も代表されていた文明は、危険に
陥っていた、あるいは陥っている
と自ら信じていた。そして警戒の
叫びを発していた。各人は自ら中
心となり、勝手に文明をまもり助
かば
け庇っていた。だれも皆社会の救
262
済をもっておのれの任務としてい
た。
おうさつ
熱誠のあまり時としては鏖殺を
事とするに至った。国民兵の某隊
は、その私権をもって軍法会議を
作り、わずか五分間のうちにひと
りの捕虜の暴徒を裁断して死刑に
処した。ジャン・プルーヴェール
が殺されたのも、かかる即席裁判
によってだった。実に狂猛なるリ
263
ンチ法︵私刑の法︶であって、そ
れについてはいずれの党派も他を
非難する権利を有しない。なぜな
らそれは、ヨーロッパの王政によっ
て行なわれたとともにまたアメリ
カの共和政によっても行なわれた
からである。そしてこのリンチ法
には、また多くの誤解が含まって
いた。ある日の暴動のおり、ポー
ル・エーメ・ガルニエというひと
264
りの若い詩人は、ロアイヤル広場
で兵士に追跡されてまさに銃剣で
突かれんとしたが、六番地の門の
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
下に逃げ込んでようやく助かった。
・ ・
﹁サン・シモン派のひとりだ﹂と
兵士らは叫んで、彼を殺そうとし
たのである。彼はサン・シモン公
の追想記を一冊小わきにかかえて
・ ・ ・
いた。ひとりの国民兵がその書物
・ ・
の上にサン・シモンという一語を
265
見て、﹁死刑だ!﹂と叫んだのだっ
た。︵訳者注 サン・シモン公は
社会主義者サン・シモンとは別人︶
一八三二年六月六日、郊外から
きた国民兵の一隊は、上にあげた
ファンニコ大尉に指揮されて、自
ら好んで勝手に、シャンヴルリー
街で大損害を受けた。この事実は
いかにも不思議に思えるが、一八
三二年の反乱後に開かれた法廷の
266
審問によって証明されたものであ
る。ファンニコ大尉は性急無謀な
中流市民で、秩序の別働者とも称
すべき男で、上に述べたような種
類の人々のひとりであり、熱狂的
がんきょう
な頑強な政府党であって、時機が
こないのに早くも射撃をしたくて
たまらなくなり、自分ひとりです
ぼうさい
なわち自分の中隊で防寨を占領し
ようという野心に駆られた。赤旗
267
が上げられ、次いで古い上衣が上
げられたのを黒旗だと思い、それ
げっこう
を見てまた激昂した。将軍や指揮
官らは会議を開いて、断然たる襲
撃の時機はまだきていないと考え、
そのひとりの有名な言葉を引用す
れば、﹁反乱が自ら自分を料理す
る﹂まで待とうとした時、彼は声
高にそれを非難した。彼から見れ
ば、防寨はもう熟していたし、熟
268
したものは落ちるべきはずだった
ので、彼はあえて行動したのだっ
た。
彼が指揮していた一隊も、彼と
同じく決意の者どもであって、一
実見者の言うところによると、
﹁熱狂者ども﹂であった。彼の中
隊は、詩人ジャン・プルーヴェー
かど
ルを銃殺した中隊で、街路の角に
置かれてる大隊の先頭になってい
269
た。最も意外な時機に、大尉は部
ぼうさい
下を防寨に突進さした。その行動
は、戦略よりもむしろ多くほしい
ままな心からなされたもので、ファ
ンニコの中隊には高価な犠牲をも
たらした。街路の三分の二も進ま
いっせいしゃげき
ないうちに、防寨からの一斉射撃
を被った。先頭に立って走ってい
かくめんほう
た最も大胆な四人の兵は、角面堡
の足下でねらい打ちにされた。そ
270
してこの国民兵の勇敢な一群は、
皆豪勇な者らではあったが戦いの
しきいし
粘着力を少しも持っていなかった
ちゅうちょ
ので、しばらく躊躇した後、舗石
の上に十五の死体を遺棄しながら、
退却のやむなきに至った。その躊
躇の暇は、暴徒らに再び弾をこめ
る余裕を与えた。そして避難所た
る角に達しないうちに、第二の一
斉射撃を受けてまた大なる損害を
271
被った。一時彼らは敵味方の射撃
の間にはさまれた。砲兵は何の命
令も受けないのでなお発射を続け
さんだん
ていたから、その霰弾をも受けた
のである。大胆無謀なファンニコ
は、霰弾にたおれたひとりだった。
彼は大砲すなわち秩序から殺され
たのである。
その激しいというよりむしろ狂
げっ
乱的な攻撃は、アンジョーラを激
272
こう
昂さした。彼は言った。
﹁ばか野郎! 下らないことに、
おれ
部下を殺し、俺たちに弾薬を使わ
せやがる。﹂
アンジョーラは暴動の真の将帥
だったが、言葉もそれにふさわし
かった。反軍と鎮定軍とは同等の
武器で戦ってるのではない。反軍
の方は早く力を失いやすいもので
あって、発射する弾薬にも限りが
273
あり、犠牲にする戦士にも限りが
だんやくごう
ある。一つの弾薬盒が空になり、
ひとりの戦士がたおれても、もは
やそれを補充すべき道はない。し
かるに鎮定軍の方には、軍隊が控
えて人員には限りがなく、ヴァン
センヌ兵機局が控えていて弾薬に
は限りがない。鎮定軍には、防寨
の人員と同数ほどの連隊があり、
防寨の弾薬嚢と同数ほどの兵器廠
274
がある。それゆえ常に一をもって
百に当たるの戦いであって、もし
革命が突然現われて戦いの天使の
はかり
炎の剣を秤の一方に投ずることで
ぼうさい
もない限りは、防寨はついに粉砕
さるるにきまっている。しかし一
度革命となれば、すべてが立ち上
しきいし
がり、街路の舗石は沸き立ち、人
かくめんほう
民の角面堡は至る所に築かれ、パ
・ ・
リーはおごそかに震い立ち、天意
275
・ ・ ・ ・
的なものが現われきたり、八月十
日︵一七九二年︶は空中に漂い、
七月二十九日︵一八三〇年︶は空
中に漂い、驚くべき光が現われ、
おとがい
うち開いてる武力の顎はたじろぎ、
し し
獅子のごとき軍隊は、予言者フラ
ンスがつっ立って泰然と構えてい
るのを、眼前に見るに至るのであ
る。
276
十三 過ぎゆく光
こんとん
一つの防寨を守る混沌たる感情
と情熱とのうちには、あらゆるも
のがこもっている。勇気があり、
青春があり、名誉の意気があり、
熱誠があり、理想があり、確信が
とばくしゃ
あり、賭博者の熱があり、また特
かんけつてき
に間歇的な希望がある。
ばくぜん
この一時の希望の漠然たる震え
277
の一つが、最も意外な時に、シャ
よ
ンヴルリーの防寨を突然過ぎった。
﹁耳を澄まして見ろ、﹂となお様
子をうかがっていたアンジョーラ
かく
はにわかに叫んだ、﹁パリーが覚
せい
醒してきたようだ。﹂
実際六月六日の朝、一、二時間
の間、反乱はある程度まで増大し
がんきょう
ていった。サン・メーリーの頑強
しゅんじゅん
な警鐘の響きは、逡巡してる者ら
278
を多少奮い立たした。ポアリエ街
とグラヴィリエ街とに防寨が作ら
がいせんもん
れた。サン・マルタン凱旋門の前
では、カラビン銃を持ったひとり
の青年が、単独で一個中隊の騎兵
えんぺいぶつ
を攻撃した。掩蔽物もない大通り
のまんなかで、彼は地上にひざま
ずき、銃を肩にあて引き金を引い
て、中隊長を射殺し、それから振
・ ・ ・ ・ ・ ・
り向いて言った。﹁これでまたひ
279
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
とり悪者がなくなった。﹂彼はサー
な
ベルで薙ぎ倒された。サン・ドゥ
ニ街では、目隠し格子の後ろから
ひとりの女が、市民兵に向かって
射撃をした。一発ごとに、目隠し
格子の板が動くのが見えた。ポケッ
トにいっぱい弾薬を入れている十
四歳の少年がひとり、コソンヌリー
街で捕えられた。多くの衛舎は攻
撃を受けた。ベルタン・ポアレ街
280
の入り口では、カヴェーニャク・
ド・バラーニュ将軍が先頭に立っ
て進んでいた一個連隊の胸甲兵が、
まったく不意の激しい銃火にむか
え打たれた。プランシュ・ミブレー
街では、屋根の上から軍隊を目が
じゅうき
けて、古い皿の破片や什器などが
投げられた。それははなはだよく
ない徴候で、スールト元帥にその
事が報告された時、昔ナポレオン
281
の参謀だった彼もさすがに考え込
んで、サラゴサの攻囲のおりシュー
シェが言った言葉を思い起こした、
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ しびん ・ ・ ・ ・
﹁婆さんどもまでが溲瓶のものを
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
・ ・ ・ ・ ・ ・
われわれの頭上にぶちまけるよう
・ ・ ・ ・ ・
になっては、とてもだめだ。﹂
暴動は一局部のことと思われて
いた際に突然現われてきた各所の
徴候、優勢になってきた憤怒の熱、
ばくだい
パリー郭外と呼ばるる莫大な燃料
282
の堆積の上にあちらこちら飛び移
る火の粉、それらのものは軍隊の
指揮官らに不安の念を与えた。彼
らは急いでそれらの火災の始まり
をもみ消そうとつとめた。そして
モーブュエやシャンヴルリーやサ
ぼうさい
ン・メーリーなどの各防寨は、最
後に残して一挙に粉砕せんがため
に、各所の火の粉を消してしまう
まで、その攻撃を延ばした。軍隊
283
は沸き立った各街路に突進し、あ
るいは用心して徐々に進み、ある
いは一挙に襲撃しながら、右に左
そうとう
に、大なるものは掃蕩し、小なる
ものは探査した。兵士らは銃を発
とびら
射する人家の扉を打ち破った。同
時に騎兵も活動を始めて、大通り
の群集を駆け散らした。そしてこ
そうじょう
の鎮圧はかなりの騒擾を起こし、
軍隊と人民との衝突に特有な騒々
284
しい響きを立てた。砲火と銃火と
の響きの間々にアンジョーラが耳
にしたのは、その騒ぎの音であっ
た。その上彼は担架にのせられた
負傷者らが通るのを街路の先端に
認めて、クールフェーラックに言っ
た、﹁あの負傷者らはわが党の者
ではない。﹂
しかしその希望は長く続かなかっ
た。光明は間もなく消えてしまっ
285
た。三十分とたたないうちに、空
中に漂ってたものは消散しつくし
た。あたかも雷を伴わない電火の
ようなものだった。孤立しながら
固執する者らの上に人民の冷淡さ
が投げかける鉛のような重い一種
がいとう
の外套を、暴徒らは再び身に感じ
た。
ばくぜん
漠然と輪郭だけができかかって
きたらしい一般の運動は、早くも
286
失敗に終わってしまった。今や陸
軍大臣の注意と諸将軍の戦略とは、
なお残ってる三、四の防寨の上に
集中されることになった。
太陽は地平線の上に上ってきた。
ひとりの暴徒はアンジョーラを
呼びかけた。
﹁われわれは腹がすいてる、実際
こんなふうに何にも食わずに死ぬ
のかね。﹂
287
はざま
ひじ
自分の狭間の所になお肱をつい
ていたアンジョーラは、街路の先
端から目を離さずに、頭を動かし
てうなずいた。
十四 アンジョーラの
情婦の名
しきいし
クールフェーラックはアンジョー
そば
ラの傍の舗石の上にすわって、大
288
ばとう
さんだん
砲をなお罵倒し続けていた。霰弾
と呼ばるる爆発の暗雲が恐ろしい
響きを立てて通過するたびごとに、
ふるだぬき
彼は冷笑の声を上げてそれを迎え
た。
のど
﹁喉を痛めるぞ、ばかな古狸めが。
気の毒だが、大声を出したってだ
かみなり
めだ。まったく、雷鳴とは聞こえ
せき
ないや、咳くらいにしか思われな
い。﹂
289
そして周囲の者は笑い出した。
クールフェーラックとボシュエ
は、危険が増すとともにますます
勇敢な上きげんさになって、スカ
ロン夫人のように、冗談をもって
ぶどうしゅ
食物の代用とし、また葡萄酒がな
いので、人々に快活の気分を注い
でまわった。
えら
﹁アンジョーラは豪い奴だ。﹂と
ボシュエは言った。﹁あのびくと
290
もしない豪勇さはまったく僕を驚
嘆させる。彼はひとり者だから、
多少悲観することがあるかも知れ
えら
ん。豪いから女ができないんだと
いつもこぼしてる。ところがわれ
われは皆多少なりと情婦を持って
いる。だからばかになる、言い換
とら
えれば勇敢になる。虎のように女
し し
に夢中になれば、少なくとも獅子
のように戦えるんだ。それは女か
291
ほんろう
ふくしゅう
ら翻弄された一種の復讐だ。ロー
つらあて
ランはアンゼリックへの面当に戦
死をした。われわれの勇武は皆女
から来る。女を持たない男は、撃
鉄のないピストルと同じだ。男を
勢いよく発射させる者は女だ。と
ころがアンジョーラは女を持って
いない。恋を知らないで、それで
いて勇猛だ。氷のように冷たくて
火のように勇敢な男というのは、
292
まったく前代未聞だ。﹂
アンジョーラはその言葉をも耳
にしないかのようだった。しかし
彼の傍にいた者があったら、彼が
・ ・ ・ ・
半ば口の中でパトリア︵祖国︶と
つぶやくのを聞き取ったであろう。
ボシュエはなお冗談を言い続け
ていたが、その時クールフェーラッ
クは叫んだ。
﹁またきた!﹂
293
そして来客の名を告げる接待員
のような声を出して付け加えた。
﹁八斤砲でございます。﹂
実際新しい人物がひとり舞台に
現われてきた。第二の砲門だった。
砲兵らはすみやかに行動を開始
して、第二の砲を第一の砲の近く
に据えつけた。
ぼうさい
それによって、防寨の最後はほ
ぼ察せられた。
294
しばらくすると、急いで操縦さ
かくめんほう
れた二個の砲は、角面堡に向かっ
ひぶた
て正面から火蓋を切った。戦列歩
兵や郊外国民兵らの銃火も、砲兵
えんご
を掩護した。
ある距離をへだてて他の砲声も
聞こえた。二門の砲がシャンヴル
リー街の角面堡に打ちかかったと
同時に、他の二門の砲はサン・ドゥ
ニ街とオーブリー・ル・ブーシュ
295
街とに据えられて、サン・メーリー
の防寨を攻撃したのである。四個
の砲門は互いに恐ろしく反響をか
わした。
ほ
それら陰惨な闘犬の吠え声は、
こた
互いに応え合ったのである。
今やシャンヴルリー街の防寨を
りゅうだん
攻撃してる二門の砲のうち、一つ
さんだん
は霰弾を発射し、一つは榴弾を発
射していた。
296
榴弾を発射していた砲は、少し
高く照準されて、防寨の頂の先端
に弾が落下するようにねらわれた
ので、そこを破壊して、霰弾の破
しきいし
裂するがような舗石の破片を暴徒
らの上に浴びせた。
かかる砲撃の目的は、角面堡の
頂から戦士らを追いしりぞけ、そ
の内部に集まらせようとするにあっ
た。言い換えれば、突撃の準備だっ
297
た。
一度戦士らが、榴弾のために防
寨の上から追われ霰弾のために居
酒屋の窓から追わるれば、襲撃隊
はねらわれることもなくまたおそ
らく気づかれることもなく、その
街路にはいり込むことができ、前
夜のようににわかに角面堡をよじ
上ることもでき、不意を襲って占
領し得るかも知れなかった。
298
﹁どうしてもあの邪魔な砲門を少
し沈黙させなければいけない。﹂
とアンジジョーラは言った。そし
て叫んだ。﹁砲手を射撃しろ!﹂
一同は待ち構えていた。長く沈
ぼうさい
いっせい
黙を守っていた防寨は、おどり立っ
ひぶた
て火蓋を切った。七、八回の一斉
しゃげき
射撃は、一種の憤激と喜悦とをもっ
て相次いで行なわれた。街路は濃
しょうえん
い硝煙に満たされた。そして数分
299
もや
間の後、炎の線に貫かれたその靄
をとおして、砲手らの三分の二は
砲車の下にたおれてるのがかすか
に見られた。残ってる者らはいか
めしく落ち着き払って、なお砲撃
に従事していたが、発射はよほど
ゆるやかになった。
﹁うまくいった。成功だ。﹂とボ
シュエはアンジョーラに言った。
アンジョーラは頭を振って答え
300
た。
﹁まだ十五、六分間しなければ成
功とはいえない。しかもそうすれ
ば、もう防寨には十個ばかりの弾
薬しか残らない。﹂
その言葉をガヴローシュが耳に
したらしかった。
十五 外に出たるガヴ
ローシュ
301
クールフェーラックは防寨のす
ぐ下の外部に、弾丸の降り注ぐ街
路に、ある者の姿を突然見いだし
た。
かご
ぼうさい
ガヴローシュが、居酒屋の中か
びん
すそ
ら壜を入れる籠を取り、防寨の切
かくめんほう
れ目から外に出て、角面堡の裾で
だんやくごう
殺された国民兵らの弾薬盒から、
中にいっぱいつまってる弾薬を取っ
ては、平然としてそれを籠の中に
302
入れてるのだった。
﹁そこで何をしてるんだ!﹂とクー
ルフェーラックは言った。
ガヴロシーュは顔を上げた。
﹁籠をいっぱいにしてるんだ。﹂
さんだん
﹁霰弾が見えないのか。﹂
ガヴローシュは答えた。
﹁うん、雨のようだ。だから?﹂
クールフェーラックは叫んだ。
﹁戻ってこい!﹂
303
﹁今すぐだ。﹂とガヴローシュは
言った。
そして一躍して街路に飛び出し
た。
読者の記憶するとおり、ファン
ニコの中隊は退却の際に、死体を
方々に遺棄していた。
しきいし
その街路の舗石の上だけに、二
十余りの死体が散らばっていた。
ガヴローシュにとっては二十余り
304
の弾薬盒であり、防寨にとっては
補充の弾薬であった。
街路の上の硝煙は霧のようだっ
だんがい
た。つき立った断崖の間の谷合に
落ちてる雲を見たことのある者は、
暗い二列の高い人家にいっそう濃
くなされて立ちこめてるその煙を、
おおよそ想像し得るだろう。しか
も煙は静かに上ってゆき、絶えず
新しくなっていた。そのために昼
305
の明るみも薄らいで、しだいに薄
暗くなってくるようだった。街路
はごく短かかったけれども、その
両端の戦士は互いに見分けること
がほとんどできなかった。
ぼうさい
かく薄暗くすることは、防寨に
突撃せんとする指揮官らがあらか
じめ考慮し計画したことだったろ
うが、またガヴローシュにも便利
だった。
306
その煙の下に隠れ、その上身体
が小さかったので、彼は敵から見
つけられずに街路のかなり先まで
進んでゆくことができた。まず七、
だんやくごう
八個の弾薬盒は、大した危険なし
に盗んでしまった。
彼は平たく四つばいになって、
かご
籠を口にくわえ、身をねじまげす
くるみ
べりゆきはい回って、死体から死
さる
体へと飛び移り、猿が胡桃の実を
307
だんやくのう
むくように、弾薬盒や弾薬嚢を開
いて盗んだ。
防寨の者らは、彼がなおかなり
近くにいたにかかわらず、敵の注
意をひくことを恐れて、声を立て
て呼び戻すことをしかねた。
ある上等兵の死体に、彼は火薬
筒を見つけた。
のど
﹁喉のかわきにもってこいだ。﹂
と彼は言いながら、それをポケッ
308
トに入れた。
しだいに先へ進んでいって、彼
はついに向こうから硝煙が見透せ
るぐらいの所まで達した。
しきいし
それで、舗石の防壁の後ろに潜
そげき
んで並んでる狙撃戦列兵や街路の
かど
角に集まってる狙撃国民兵らは、
煙の中に何かが動いてるのを突然
見いだした。
そば
ある標石の傍に横たわってる軍
309
曹の弾薬をガヴローシュが奪って
いる時、弾が一発飛んできてその
死体に当たった。
﹁ばか!﹂とガヴローシュは言っ
やつ
た、﹁死んだ奴をも一度殺してく
れるのか。﹂
第二の弾は彼のすぐ傍の舗石に
当たって火花を散らした。第三の
弾は彼の籠をくつがえした。
ガヴローシュはそちらをながめ
310
て、弾が郊外兵から発射されてる
のを認めた。
彼は身を起こし、まっすぐに立
ち上がり、髪の毛を風になびかし、
両手を腰にあて、射撃してる国民
兵の方を見つめ、そして歌った。
ナンテールではどいつも
醜い、
罪はヴォルテール
311
バレーゾーではどいつも
愚か、
罪はルーソー。
かご
それから彼は籠を取り上げ、こ
ぼれ落ちた弾薬を一つ残らず拾い
集め、なお銃火の方へ進みながら、
他の弾薬を略奪しに行った。その
時第四の弾がきたが、それもまた
それた。ガヴローシュは歌った。
312
おれ
公証人じゃ俺はないんだ、
罪はヴォルテール、
俺は小鳥だ、小さな小鳥、
罪はルーソー。
第五の弾がまたそれて、彼にな
せつ
お第三齣を歌わせた。
おれ
陽気なのは俺の性質、
罪はヴォルテール、
313
みじめなのは俺の身じた
く、
罪はルーソー。
そういうことがなおしばらく続
いた。
その光景は、すさまじいととも
にまた愉快なものだった。ガヴロー
ぐろう
シュは射撃されながら射撃を愚弄
していた。いかにもおもしろがっ
314
すずめ
てる様子だった。あたかも猟人を
くちばし
嘴でつっついてる雀のようだった。
群が来るごとに彼は一連の歌で応
じた。絶えず射撃はつづいたが、
どれも命中しなかった。国民兵や
戦列兵も彼をねらいながら笑って
いた。彼は地に伏し、また立ち上
がり、戸口のすみに隠れ、また飛
び出し、姿を隠し、また現われ、
ちょうろう
逃げ出し、また戻ってき、嘲弄で
315
さんだん
から
霰弾に応戦し、しかもその間に弾
だんやくごう
薬を略奪し、弾薬盒を空にしては
かご
自分の籠を満たしていた。暴徒ら
は懸念のために息をつめ、彼の姿
ぼうさい
を見送っていた。防寨は震えてい
たが、彼は歌っていた。それはひ
おと
とりの子供でもなく、ひとりの大
な
人でもなく、実に不思議な浮浪少
年の精であった。あたかも傷つけ
しゅじゅ
得べからざる戦いの侏儒であった。
316
弾丸は彼を追っかけたが、彼はそ
れよりもなお敏捷だった。死を相
手に恐ろしい隠れんぼをやってる
かのようで、相手の幽鬼の顔が近
しっぺい
づくごとに指弾を食わしていた。
しかしついに一発の弾は、他の
よりねらいがよかったのかあるい
こうかつ
は狡猾だったのか、鬼火のような
その少年をとらえた。見ると、ガ
317
ヴローシュはよろめいて、それか
ぼうさい
らぐたりと倒れた。防寨の者らは
しゅじゅ
声を立てた。しかしこの侏儒の中
には、アンテウス︵訳者注 倒れ
て地面に触るるや再び息をふき返
すという巨人︶がいた。浮浪少年
しきいし
にとっては街路の舗石に触れるこ
とは、巨人が地面に触れるのと同
じである。ガヴローシュは再び起
き上がらんがために倒れたまでだっ
318
た。彼はそこに上半身を起こした。
一条の血が顔に長く伝っていた。
彼は両腕を高く差し上げ、弾のき
た方をながめ、そして歌い始めた。
おれ
地面の上に俺はころんだ、
罪はヴォルテール、
みぞ
溝の中に顔つき込んだ、
罪は⋮⋮。
319
彼は歌い終えることができなかっ
た。同じ狙撃者の第二の弾が彼の
言葉を中断さした。こんどは彼も
顔を舗石の上に伏せ、そのまま動
かなかった。偉大なる少年の魂は
飛び去ったのである。
十六 兄は父となる
ちょうどその時リュクサンブー
320
ルの園に︱︱事変を見る目はどこ
へも配らなければならないから述
べるが︱︱ふたりの子供が互いに
手を取り合っていた。ひとりは七
歳くらいで、ひとりは五歳くらい
だった。彼らは雨にぬれていたの
みち
で、日の当たる方の径を歩いてい
た。年上の方は年下の方を引き連
れていたが、二人ともぼろをまと
い顔は青ざめ、野の小鳥のような
321
様子をしていた。小さい方は言っ
ていた、﹁腹がすいたよ。﹂
年上の方はほとんど保護者といっ
たようなふうで、左手に弟を連れ
つえ
ながら、右の手には小さな杖を持っ
ていた。
園の中には他に人もいなかった。
せきぜん
園は寂然としており、鉄門は反乱
のため警察の手で閉ざされていた。
そこに露営していた軍隊は戦いに
322
招かれて出かけていた。
ふたりの子供はどうしてそこに
いたのか? あるいは風紀衛兵の
衛舎のすき間から逃げてきたのか
も知れない。あるいは付近に、ア
ンフェール市門か天文台の丘か、
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ おさなご
産表に包まれたる嬰児︵訳者注 ・ ・ ・ ・ ・
幼児キリストのこと︶を彼らは見
・ ・ ・ ・
いだしぬという文字のある破風の
つじ
そびえている近くの四つ辻かに、
323
ある興行師の小屋があって、そこ
から逃げ出してきたのかも知れな
い。あるいは前日の夕方、園の門
がしめられる時番人の目をのがれ
て、人が新聞などを読む亭の中に
一夜を過ごしたのかも知れない。
それはとにかく事実を言えば、彼
らは戸外に迷った身でありまた一
見自由らしい身であった。しかし
戸外に迷ってしかも自由らしいと
324
す
いうのは、棄てられたということ
である。あわれなふたりの子供は
実際棄てられた者であった。
このふたりの子供は、ガヴロー
シュが世話してやったあの子供た
ちで、読者は記憶しているだろう。
テナルディエの児で、マニョンに
貸し与えられ、ジルノルマン氏の
児とされていたが、今は根のない
枝から落ちた木の葉となり風のま
325
にまに地上に転々していたのであ
る。
マニョンの家にいた当時はきれ
いで、ジルノルマン氏に対する広
告とされていたその着物も、今で
はぼろとなっていた。
その後彼らは、﹁宿無し児﹂と
いう統計のうちにはいることとな
り、パリーの街路の上で、警察か
ら調べられ捨てられまた見つけら
326
れるというような身の上になって
いた。
そのみじめな子供らがリュクサ
ンブールの園の中にいたのも、か
かる騒乱の日のおかげだった。も
し番人らに見つかったら、ぼろ着
物の彼らは追い出されたに違いな
えんゆう
い。貧しい子供は公の園囿にはは
いることを許されていない。けれ
ども、子供として彼らは花に対す
327
る権利を持っていることを、人は
まず考うべきではないだろうか。
ふたりの子供は、鉄門がしめら
れていたためそこにいることがで
きた。彼らは規則を犯していた。
園の中に忍び込みそこに止まって
いた。鉄門が閉じたとて番人がい
なくなるわけではなく、なお見張
りは続けられているはずであるが、
しかしおのずから気がゆるんで怠
328
りがちになるものである。それに
番人らもまた世間の騒ぎに心をひ
かれ、園の中よりも外の方に気を
取られて、もう内部に注意してい
なかったので、従って二人の違犯
者がいることにも気づかなかった。
前日雨が降り、その日の朝も少
しゅうう
し降った。しかし六月の驟雨は大
したことではない。暴風雨があっ
ても、一時間とたつうちには、ど
329
こに雨が降ったかというようにか
らりと晴れてしまう。夏の地面は、
ほお
子供の頬と同じくすぐにかわきや
すい。
夏至に近いま昼の光は刺すがよ
うである。それはすべてを奪い取
しつよう
る。執拗に地面にしがみついてす
べてを吸い取る。太陽も喉がかわ
いてるかと思われる。夕立ちも一
杯の水にすぎない。一雨くらいは
330
すぐに飲み干される。朝はすべて
に水がしたたっていても、午後に
さじん
はすべてが砂塵におおわれる。
ぬぐ
雨に洗われ日光に拭われた緑葉
ほどみごとなものはない。それは
暖かい清涼である。庭の木も牧場
の草も、根には水を含み花には日
を受け、香炉のようになって一時
にあらゆるかおりを放つ。すべて
が笑いのぞき出す。人は穏やかな
331
酔い心地になる。初夏は仮りの楽
園である。太陽は人の心をものび
やかにする。
そして、世にはこれ以上を何も
求めない者がいる。ある気楽者ら
は、空の青いのを見て、これで充
分だと言う。ある夢想家らは、自
然の驚異に没頭して、自然を賛美
するのあまり、善悪に対して無関
心となる。ある宇宙の観照者らは、
332
こうこつ
恍惚として人事を忘れて、人は樹
下に夢想し得るにかかわらず、甲
かわ
せきずい
りんぱせいわんき
の飢えや乙の渇きや、貧しき者の
せんべいぶとん
ちろう
冬の裸体、子供の脊髄の淋巴性彎
ょく
曲、煎餅蒲団、屋根裏、地牢、寒
さに震える少女のぼろ、など種々
のことになぜ心をわずらわすか、
そのゆえんを了解しない。しかし
それらは、平穏なしかも恐ろしい
しかも無慈悲にもひとり満足せる
333
精神である。不思議にも彼らは、
無限なるもののみをもって充分と
している。人の最も必要とする抱
擁し得らるるものを、有限なるも
のを、彼らは知らない。崇高な働
きたる進歩をなし得る有限なるも
ののことを、彼らは考えない。無
限なるものと有限なるものとの人
為的および神為的結合から生ずる
名状し難いものを、彼らは看過す
334
る。ただ無辺際なるものに面して
さえおれば、彼らはほほえむ。か
つて愉快を知らないが、常に恍惚
ちんめん
としている。沈湎することがその
生命である。人類の歴史も彼らに
さ じ
とっては、ただの一些事にすぎな
い。その中にすべては含まってい
・ ・ ・
ない。真のすべては外部にある。
人間という些事に心を労して何の
役に立つか。人間は苦しんでいる
335
というが、あるいはそうかも知れ
ない。しかしとにかく、アルデバ
ラム星の上りゆくのをながめてみ
よ。母親は乳が出ず赤児は死にか
かっているというが、そのような
ことは自分の知るところではない。
もみ
ばら
まあとにかく、一片の樅の白木質
しま
が顕微鏡下に示すあの驚くべき薔
が た
薇形の縞をながめてみよ。でき得
るならば最もうるわしいマリーヌ
336
のレースをそれに比較してみるが
いい! とそう彼らは言う。それ
らの思索家は愛することを忘れて
いるのである。獣帯星座は彼らを
して、泣く児に目を向けることを
得ざらしむる。神は彼らの魂をお
おい隠す。それは微小にして同時
に偉大なる一群の精神である。ホ
ラチウスはそのひとりであり、ゲー
テはそのひとりであり、ラ・フォ
337
ンテーヌもおそらくはそのひとり
であった。実に無限なるもののみ
を事とする壮大なる利己主義者で
あり、人の悲しみに対する平然た
る傍観者であって、天気さえ麗し
ければネロのごとき暴君をも意に
介せず、日の光をのみ見て火刑場
を眼中に置かず、断頭台上の処刑
をながめてもただ光線の作用のみ
を気にし、叫び声もすすりなきの
338
ひんし
声も瀕死のうめきも警鐘の響きも
耳にせず、五月であればすべてを
よく思い、紅色と金色との雲が頭
上にたなびく限りは満足だと称し、
星の光と小鳥の歌とのつきるまで
は幸福であるべく定められている。
輝いたる暗黒なる人々である。
彼らは自らあわれむべき者である
とは夢にも思わない。しかし彼ら
はまさしくあわれむべき者らであ
339
る。涙を流さぬ者は目が見えない。
まゆ
眉の下に両眼を持たず額の中央に
一個の星を持っている、夜と昼と
で同時にできてる者を、あわれみ
かつ賛嘆し得るとするならば、彼
らこそあわれみかつ賛嘆すべき者
らである。
それら思想家の無関心は、ある
者の説によれば、高遠なる哲理か
ら来るものであるという。あるい
340
はそうであるとしても、しかしそ
の高遠さのうちには不具なる点が
びっ
ある。人は不死であるとともに跛
こ
足であり得る。神ヴルカヌスはそ
の例である。人は人間以上である
とともに人間以下であり得る。自
然のうちには広大なる不完全さも
存する。太陽が盲目でないか否か
をだれが知ろうぞ。
しからばおよそ何を信頼すべき
341
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
であるか。太陽は虐偽なりとあえ
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
て言い得べきか。天才も、最高の
人も、恒星たる人も、誤ることが
あり得るのか。いと高きにある者、
最高点にある者、頂にある者、中
天にある者、地上に多くの光を送
る者、彼らの目もわずかしか見え
ないのか、よく見えないのか、あ
るいはまったく見えないのか。そ
れでは絶望のほかはないではない
342
か。否。しからば太陽の上に何が
いわ
存するのか。曰く、神。
一八三二年六月六日の午前十一
時ごろ、人影もない寂しいリュク
さま
サンブールの園は麗しい様を呈し
ていた。五目形に植えられた樹木
や花壇の花は、日光のうちに香気
げんわく
や眩惑の気を送り合っていた。ま
昼の光に酔うた枝々は、互いに相
抱こうとしてるがようだった。シ
343
ほおじろ
コモルの茂みの中には頬白が騒い
すずめ
でおり、雀は勇ましい声を立て、
きつつき
啄木鳥はマロニエの幹をよじ上っ
つつ
て、樹皮の穴を軽く啄き回ってい
ゆ り
た。花壇のうちには百合の花が、
もろもろの花の王らしく咲き誇っ
ていた。それも至当である、香気
のうちにても最も尊厳なるものは
純白から発するかおりである。石
にお
竹の鋭い匂いも漂っていた。マ
344
リー・ド・メディチの愛した古い
小鳥も、高い樹木の中で恋を語っ
ていた。チューリップの花は日の
光を受けて、金色に紅色にまたは
燃ゆるがようになり、あたかも花
はち
で作られた種々の炎に異ならなかっ
むれざ
た。その群咲きのまわりには蜂が
飛び回って、炎の花から出る火花
となっていた。すべては優美と快
活とにあふれ、次にきたるべき雨
345
さえもそうだった。再び来るその
すずらん すいかずら
雨も、鈴蘭や忍冬が恵みをたれる
のみで、少しも心配なものではな
つばめ
かった。燕は見るも不安なほどみ
ごとに低く飛んでいた。そこにあ
る者は幸福の気を呼吸し、生命は
よきかおりを発し、自然はすべて
あいぶ
純潔と救助と保護と親愛と愛撫と
あけぼの
曙とを発散していた。天より落ち
くち
て来る思想は、人が脣づけする小
346
児の小さい手のようにやさしいも
のであった。
木の下に立ってる裸体のまっ白
な像は、点々と光の落ちた影の衣
服をまとっていた。それらの女神
は日光のぼろをまとっていたので
ある。光線はその四方へたれ下がっ
ていた。大きな池のまわりは、焼
けるかと思えるまでに地面がかわ
ききっていた。わずかに風があっ
347
ちり
うず
て、所々に塵の渦を立てていた。
去年の秋から残ってる少しの黄色
い落葉が互いに愉快げに追っかけ
合って、戯れてるがようだった。
豊かな光には何となく人の心を
安らかならしむるものがあった。
生命、樹液、暑気、蒸発気などは
満ちあふれていた。万物の下にそ
の源泉の大きさが感ぜられた。愛
いぶき
に貫かれてるそれらの息吹の中に、
348
反照と反映との行ききの中に、光
らんぴ
の驚くべき濫費の中に、黄金の液
の名状し難い流出の中に、無尽蔵
者の浪費が感ぜられた。そしてそ
の光輝のうしろには、炎の幕のう
しろにおけるがように、無数の星
を所有する神がかすかに認め得ら
るるのであった。
砂がまかれてるために一点の泥
土もなかった、また雨が降ったた
349
じんあい
めに一握の塵埃もなかった。草木
しゅ
の茂みは洗われたばかりの所だっ
うるし
た。あらゆる種類のビロードや繻
す
子や漆や黄金は、花の形をして地
からわき出て、一点の汚れも帯び
ていなかった。壮麗であるととも
しょうしゃ
に瀟洒だった。楽しき自然の沈黙
が園に満ちていた。その天国的な
はと
沈黙とともに、巣の中の鳩の鳴き
ぐんぽう
声、群蜂の羽音、風のそよぎなど、
350
無数の音楽が聞こえていた。季節
の調和は全体を一団の麗しいもの
に仕上げていた。春の来去は適当
な順序でなされていた。ライラッ
ジャスミン
クの花は終わりに近づき、素馨の
花は咲きそめていた。ある花が遅
れていると、その代わりにある昆
虫が早めに出ていた。六月の前衛
ちょう
たる赤い蝶は、五月の後衛たる白
すずかけ
い蝶と相交わっていた。篠懸は新
351
しい樹皮をまとっていた。マロニ
エのみごとな木立ちは微風に波打っ
ていた。実にそれは光り輝いた光
景であった。近くの兵営の一老兵
士は、鉄門から園の中をのぞいて
言った、﹁正装した春だ。﹂
自然はすべて朝食にかかってい
た。万物は食卓についていた。今
はちょうどその時刻だった。青い
大きな卓布が空にかけられ、緑の
352
大きな卓布が地にひろげられてい
こうこう
た。太陽は煌々と輝いていた。神
え
はすべてに食事を供していた。あ
まぐさ
らゆるものは各自の秣や餌を持っ
やまばと
きび
かなりや
はこべ
ていた。山鳩には麻の実があり、
ひわ
はち
鶸には黍があり、金雀には※※が
こまどり
し
あり、駒鳥には虫があり、蜂には
はえ
花があり、蠅には滴虫があり、蝋
め
嘴には蠅があった。彼らは互いに
は
多少相食み合っていた。そこに善
353
と悪との相交わる神秘がある。し
かし彼らは一つとして空腹ではな
かった。
ふたりの見捨てられた子供は、
大きな池のそばまできていたが、
それら自然の光輝に多少心を乱さ
れて、身を潜めようとしていた。
人と否とを問わずすべて壮麗なる
ものに対するあわれな者弱い者の
本能である。そして彼らは白鳥の
354
小屋のうしろに隠れていた。
間を置いて方々に、叫びの声、
そうじょう
騒擾の音、銃火の騒然たる響き、
砲撃の鈍いとどろきなどが、風の
ばくぜん
まにまに漠然と聞こえていた。市
場町の方面には屋根の上に煙が見
えていた。人を呼ぶような鐘の音
が遠くに響いていた。
ふたりの子供は、それらの物音
にも気づかないかのようだった。
355
弟の方は時々半ば口の中で繰り返
した。﹁腹がすいたよ。﹂
ふたりの子供とほとんど同時に、
別のふたり連れが大きな池に近づ
いてきた。五十歳ばかりの老人と
それに手を引かれてる六歳ばかり
の子供とであった。確かに親子で
あろう。子供は大きな菓子パンを
持っていた。
後に廃されたことであるが、そ
356
の当時は、マダム街やアンフェー
ル街などのセーヌ川に沿ったある
家には、リュクサンブールの園の
かぎ
鍵をそなえることが許されていて、
借家人らは、鉄門が閉ざされた時
でも自由に出入りし得られた。こ
の親子はきっとそういう家の人で
あったに違いない。
ふたりの貧しい子供はその﹁紳
士﹂がやって来るのを見て、前よ
357
りもなお多少身を潜めた。
それはひとりの中流市民であっ
た。以前にマリユスがやはりその
池のそばで、﹁過度を慎む﹂よう
にと息子に言ってきかしてる一市
民の言葉を、恋の熱に浮かされな
がら耳にしたことがあったが、あ
るいはそれと同じ人だったかも知
れない。その様子は親切と高慢と
を同時に示していて、その口はい
358
つも開いてほほえんでいた。その
あご
機械的な微笑は、頤が張りすぎて
るのに皮膚が少なすぎるためにで
きるのであって、心を示すという
よりむしろ歯を示してるだけだっ
た。子供はまだ食い終えないでい
るかじりかけの菓子パンを持った
まま、もう腹いっぱいになってる
ような様子だった。暴動があるた
めに子供の方は国民兵服をつけて
359
いたが、父親は用心のために平服
のままだった。
父と子とは二羽の白鳥が浮かん
でる池の縁に立ち止まった。その
市民は白鳥に対して特殊な賛美の
心をいだいてるらしかった。彼は
その歩き方の点ではまったく白鳥
に似寄っていた。
しかし今白鳥は泳いでいた。游
泳は白鳥の主要な才能である。そ
360
れはすこぶるみごとだった。
もしふたりの貧しい子供が耳を
傾けたならば、そして物を理解し
得るだけの年齢に達していたなら
ば、彼らはそこに一個のまじめな
男の言葉を聞き取り得たであろう。
父は子にこう言っていた。
﹁賢い人は少しのものに満足して
生きている。私を見なさい。私は
はなやかなことを好まない。金や
361
宝石で飾り立てた着物を着たこと
はない。そんな虚飾は心の劣った
者のすることだ。﹂
その時、強い叫び声が鐘の音と
騒擾の響きとを伴って、市場町の
方から突然聞こえてきた。
﹁あれはなに?﹂と子供は尋ねた。
父は答えた。
﹁お祭だよ。﹂
すると突然彼は、白鳥の緑色の
362
小屋のうしろに身動きもしないで
隠れてるぼろ着物のふたりの子供
を見つけた。
﹁あんなのがそもそもの始まり
だ。﹂と彼は言った。
そしてちょっと黙った後に言い
添えた。
﹁無政府主義がこの園にまで入り
込んできてる。﹂
そのうちに子供は、菓子パンを
363
かじったが、それをまた吐き出し、
急に泣き出した。
﹁何で泣くんだい。﹂と父は尋ね
た。
なか
﹁もうお腹がすいていないんだも
の。﹂と子供は言った。
父親の微笑はなお深くなった。
﹁お菓子を食べるには何もお腹が
すいてなくてもいい。﹂
﹁このお菓子はいやだ。固くなっ
364
てるから。﹂
﹁もう欲しくないのか?﹂
﹁ええ。﹂
父は白鳥の方をさし示した。
﹁あの鳥に投げてやりなさい。﹂
ちゅうちょ
子供は躊躇した。もう食べたく
ないからと言って、それで他の者
にくれてやる理由とはならない。
父は言い続けた。
﹁慈悲の心を持ちなさい。動物を
365
もあわれまなければいけない。﹂
そして彼は子供の手から菓子を
取って、それを池の中に投げやっ
た。
菓子は岸の近くに落ちた。
あさ
白鳥は遠く池の中程にいて、他
え
の餌を漁っていた。そして市民に
も菓子パンにも気がつかなかった。
市民は菓子がむだに終わりそう
いたず
なのを感じ、その徒らな難破に心
366
を動かされて、激しい合い図の身
振りをしたので、ようやく白鳥の
注意をひいた。
二羽の白鳥は何か浮いてるのを
見つけ、まさしく船のように岸へ
方向を変じ、菓子パンの方へ静か
に進んできた。白い動物にふさわ
しいいかにもゆったりした威風だっ
た。
﹁シーニュ︵白鳥︶にはシーニュ
367
︵合い図︶がわかる。﹂と市民は
とんち
その頓知を得意そうに言った。
その時、遠くの騒擾の響きはま
た急に高まった。こんどはすごい
ように聞こえてきた。同じく一陣
の風にも特にはっきりと意味を語
るものがある。その時吹いてきた
とき
風は、太鼓のとどろきや鬨の声や
一隊の兵の銃火の音や警鐘と大砲
との沈痛な応答の響きなどを、はっ
368
きりと伝えていた。それとちょう
ど一致して、一団の黒雲がにわか
に太陽を蔽うた。
白鳥はまだ菓子パンに達してい
なかった。
﹁帰ろう。﹂と父は言った。﹁テュ
イルリーの宮殿が攻撃されてる。﹂
彼はまた子供の手を取った。そ
れから言い添えた。
﹁テュイルリーとリュクサンブー
369
ルとは、皇族と貴族との間ぐらい
しか離れていない。間は遠くない。
鉄砲の弾が雨のように飛んでくる
かも知れない。﹂
彼は空の雲をながめた。
﹁そしてまた本当の雨も降りそう
だ。空までいっしょになってる。
ブランシュ・カデットは︵若い枝
くじ
は︱︱ブールボン分家は︶挫かれ
る。早く帰ろう。﹂
370
﹁白鳥がお菓子を食べる所が見た
いなあ。﹂と子供は言った。
父は答えた。
﹁そうしては不用心だ。﹂
そして彼は自分の小さな市民を
連れていった。
子供は白鳥の方を残り惜しがっ
かど
て、五目形の植え込みの角に池が
隠れるまで、その方を振り返って
ながめた。
371
そのうちに、白鳥と同時にふた
りの浮浪の子供が菓子パンに近寄っ
てきた。菓子は水の上に浮いてい
た。弟の方は菓子をながめ、兄の
方は去ってゆく市民をながめてい
た。
父と子とは入りくんだ道をたどっ
て、マダム街の方へ通ずる段をな
した木の茂みにはいっていった。
彼らの姿が見えなくなると、す
372
ぐに兄は、丸みをもった池の縁に
腹ばいになり、左手でそこにしが
みつきながら、ほとんど水に落ち
そうになるほど身を乗り出し、右
手を伸ばしてその杖を菓子の方へ
差し出した。白鳥は競争者を見て
急いだ。しかし急ぎながら胸をつ
き出したので、小さな漁夫にはそ
れがかえって仕合わせとなった。
水は二羽の白鳥の前に揺れて退い
373
た。そのゆるやかな丸い波紋の一
つのために、菓子は静かに子供の
杖の方へ押しやられた。白鳥がやっ
てきた時に、杖は菓子に届いた。
子供は一つ強くたたいてそれを引
きよせ、白鳥をおどかし、菓子を
つかみ取り、そして立ち上がった。
菓子はぬれていたが、ふたりは腹
のど
がすき喉がかわいていた。兄はそ
の菓子パンを、大きいのと小さい
374
のと二つに割り、自分は小さい方
を取り、大きい方を弟に与えて、
こう言った。
﹁それをつめ込んでしまえ。﹂
十七 死せる父死なん
とする子を待つ
ぼうさい
マリユスは防寨から外に飛び出
した。コンブフェールもそのあと
375
に続いた。しかしもう間に合わな
かった。ガヴローシュは死んでい
かご
た。コンブフェールは弾薬の籠を
持ち帰り、マリユスはガヴローシュ
の死体を持ち帰った。
彼は思った。ああ、父親が自分
の父にしてくれたことを、自分は
今その子に報いているのだ。ただ、
テナルディエは生きた自分の父を
持ち帰ってくれたが、自分は今彼
376
の死んだ子を持ち帰っているのか。
マリユスがガヴローシュを胸に
かくめんほう
かかえて角面堡に戻ってきた時、
少年の顔と同じく彼の顔も血にま
みれていた。
ガヴローシュを抱き取ろうとし
てかがんだ時、一弾が彼の頭をか
すめた。彼はそれに自ら気づかな
かった。
クールフェーラックは自分の首
377
飾りを解いて、マリユスの額を結
わえてやった。
人々はマブーフと同じテーブル
の上にガヴローシュを横たえ、二
つの死体の上に黒い肩掛けをひろ
げた。それは老人と子供とをおお
うに足りた。
かご
コンブフェールは持ち帰った籠
の弾薬を皆に分配した。
各人に十五発分ずつあった。
378
ジャン・ヴァルジャンはやはり
標石の上に腰掛けたままじっとし
ていた。
コンブフェールが十五発の弾薬
を差し出した時、彼は頭を振った。
﹁まったく珍しい変人だ。﹂とコ
ンブフェールは低い声でアンジョー
ぼうさい
ラに言った。﹁この防寨にいて戦
おうともしない。﹂
﹁それでも防寨を守ってはいる。﹂
379
とアンジョーラは答えた。
﹁勇壮の方面にも奇人がいるわけ
だな。﹂とコンブフェールは言っ
た。
それを聞いたクールフェーラッ
クも口を出した。
﹁マブーフ老人とはまた異なった
種類の男だ。﹂
ここにちょっと言っておかなけ
ればならないが、防寨は銃弾を浴
380
びせられながら、その内部はほと
んど乱されていなかった。こうい
う種類の戦いの旋風を横切ったこ
とのない者は、その動乱に交じっ
て妙に静穏な瞬間があることを、
おそらく想到し得ないだろう。人々
は行ききたり、語り、戯れ、ぶら
さんだん
ぶらしている。霰弾の中でひとり
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ひとりも
の兵士が、﹁ここはまったく独身
の ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
者の朝飯のようだ﹂と言ったのを、
381
実際耳にした男をわれわれは知っ
ている。繰り返して言うが、シャ
かくめんほう
ンヴルリー街の角面堡の中は、至っ
て静穏らしく見えていた。あらゆ
る事変や局面は、すべて通過し終
わっていた、もしくは通過し終わ
らんとしていた。状況は危急なも
のから恐ろしいものとなり、恐ろ
しいものから更に絶望的なものと
あんたん
なろうとしていた。状況が暗澹と
382
なるに従って、勇壮な光はますま
ぼうさい
す防寨を赤く染めていた。アン
ジョーラは若いスパルタ人が抜き
身の剣を陰惨な鬼神エピドタスに
ささげるような態度で、おごそか
に防寨に臨んでいた。
コンブフェールは腹部に前掛け
をつけて負傷者らの手当てをして
いた。ボシュエとフイイーとはガ
ヴローシュが上等兵の死体から取っ
383
た火薬筒で弾薬を作っていたが、
ボシュエはフイイーにこう言った、
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
﹁われわれはじきに他の遊星へ旅
・ ・ ・ ・
立つんだ。﹂クールフェーラック
は自分の場所としておいたアン
しきいし
にちょう
ジョーラの傍の舗石の上に、仕込
づえ
み杖や銃や二梃の騎馬用ピストル
や一梃のポケット・ピストルなど
を、まるで武器箱をひっくり返し
たようにして、若い娘が小さな裁
384
縫箱を片づけるような注意でそれ
を整理していた。ジャン・ヴァル
ジャンは正面の壁を黙ってながめ
むぎわらぼうし
ていた。ひとりの労働者はユシュ
かみ
・ ・ ・
ルー上さんの大きな麦稈帽子を頭
ひも
の上に紐で結わえつけて、日射病
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
にかかるといけねえなどと言って
いた。エークスのクーグールド結
社に属する青年らは、最後にも一
いなかことば
度田舎言葉を急いで口にしておこ
385
うと思ってるかのように、いっしょ
に集まって愉快そうにしゃべり合っ
ていた。ジョリーはユシェルー上
さんの鏡を取ってきて、それに映
して自分の舌を検査していた。数
くず
人の戦士らは、ある引き出しの中
かび
にほとんど黴のはえたパン屑を見
むさぼ
つけ出して、貪るようにそれを食っ
ていた。マリユスは死せる父が自
分に何というであろうかと心を痛
386
めていた。
えじき
はげ
十八 餌食となれる禿
たか
鷹
ぼうさい
なお防寨に独特な心理的事実を
一つ述べておきたい。この驚くべ
き市街戦の特色は一つたりとも省
いてはいけないからである。
上に述べたとおりその内部はい
387
かにも不思議なほど静穏であるけ
れども、それでも中にいる人々に
とっては、防寨はやはり一つの幻
のごとく感じられるものである。
内乱の中には黙示録的神秘があ
もや
る。未知の世界のあらゆる靄は荒々
しい炎を交じえている。革命はス
フィンクスである。防寨の中を通っ
た者はだれでも、夢の中を過ぎた
かと自ら思う。
388
そういう場所で人が感ずるとこ
ろのものは、既にわれわれがマリ
ユスについて指摘してきたとおり
であり、また結果もやがて述べん
せい
とするとおりであるが、実に生以
上でありまた以下である。一度防
寨を出れば、そこで何を見てきた
かはもうわからなくなる。恐ろし
いものであったが、さて何であっ
たかはわからない。人の顔をして
389
戦ってる多くの観念にとりかこま
れていた。未来の光明の中に頭を
つき込んでいた。死体が横たわり
幽霊がつっ立っていた。時間は巨
えいごう
大であって永劫が有する時間のよ
うだった。死の中に生きていた。
もろもろの陰影が過ぎ去っていっ
た。しかしそれらは何であったか?
ろう
血の流るる手をも見た。耳を聾
するばかりの恐ろしい響きがあり、
390
また恐怖すべき静寂があった。叫
んでるうち開いた口があり、また
沈黙してるうち開いた口があった。
煙に包まれていたし、おそらくや
み夜に包まれていた。測り知られ
せいさん
ぬ深みから流れ出る凄惨なものに
つめ
触れたようでもあった。爪の中に
何か赤いもののついてるのが見え
る。しかしもはや何のことだか思
い出せないのである。
391
さて、シャンヴルリー街に戻っ
てみよう。
いっせいしゃげき
突然、二度の一斉射撃の間に、
時を報ずる遠い鐘の音が聞こえた。
﹁正午だ。﹂とコンブフェールは
言った。
その十二の鐘が鳴り終えないう
ちに、アンジョーラはすっくと立
ち上がり、防寨の上からとどろく
ような声を出して叫んだ。
392
しきいし
﹁舗石を家の中に運べ。窓や屋根
裏にそれをあてろ。人員の半分は
射撃にかかり、半分は舗石の方に
かかるんだ。一刻も猶予はできな
い。﹂
おの
肩に斧をかついだ消防工兵の一
隊が、街路の先端に戦闘隊形をな
して現われたのだった。
それは一縦隊の先頭にすぎなかっ
た。そしてその縦隊というのは無
393
ぼうさい
論襲撃隊であった。防寨を破壊す
る任務を帯びてる消防工兵は常に、
防寨を乗り越える任務を帯びてる
兵士の先に立つべきものである。
一八二二年クレルモン・トンネー
くびなわ
ル氏が﹁首繩の一ひねり﹂と呼ん
だ危急の瞬間に、人々はまさしく
際会していたのである。
アンジョーラの命令は直ちにそ
のとおり実行された。かく命令が
394
急速に正確に行なわれるのは船と
防寨とに限ることで、両方とも脱
走することのできない唯一の戦場
である。一分間とたたないうちに、
アンジョーラがコラント亭の入り
口に積ましておいた舗石の三分の
二は、二階の屋根裏に運ばれ、次
の一分間が過ぎないうちに、それ
らの舗石は巧みに積み重ねられて、
二階の窓や屋根裏の軒窓の半ばを
395
ふさいだ。主任建造者たるフイイー
の考案によって巧みに明けられた
かんげき
数個の間隙からは、銃身が差し出
されるようになっていた。かく窓
さんだん
を固めることは、霰弾の発射がや
んでいたのでことに容易だった。
が今や二門の砲は、襲撃に便利な
穴を、あるいはでき得べくんば一
つの割れ目を、そこに作らんがた
りゅうだん
めに、障壁の中央めがけて榴弾を
396
発射していた。
しきいし
最後の防御物たる舗石が指定の
場所に配置されたとき、アンジョー
ラはマブーフの死体がのせられて
びん
るテーブルの下に置いていた壜を、
すっかり二階に持ってこさした。
﹁だれがそれを飲むんだ。﹂とボ
シュエは尋ねた。
やつ
﹁奴らが。﹂アンジョーラは答え
た。
397
それから人々は一階の窓をふさ
とびら
ぎ、夜分に居酒屋の扉を内部から
締め切ることになってる鉄の横木
を、すぐ差し入れるばかりにして
おいた。
ぼう
要塞は完全にでき上がった。防
さい
寨はその城壁であり、居酒屋はそ
やぐら
の櫓だった。
残ってる舗石で人々は防寨の切
れ目をふさいだ。
398
防寨の守備軍は常に軍需品を節
約しなければならないし、攻囲軍
もそれをよく知ってるので、攻囲
軍はわざわざ敵をあせらすような
緩慢な方略を用い、時機がこない
のに早くも銃火の中におどり出し
てみせるような外観だけの策略を
事とし、実際はゆっくり落ち着い
てるものである。襲撃の準備はい
つも一定の緩慢さをもってなされ、
399
次に電光石火の突撃が始められる。
その緩慢な準備の間に、アン
ジョーラはすべてを検査しすべて
を完成するの暇を得た。かかる同
志らが死なんとする以上は、その
死はりっぱなものでなければなら
ない、と彼は思っていた。
彼はマリユスに言った。﹁僕ら
ふたりは主将だ。僕は家の中で最
後の命令を与えよう。君は外にい
400
て見張りをしてくれたまえ。﹂
ぼうさい
マリユスは防寨の頂で見張りの
位置についた。
読者が記憶するとおり野戦病院
とびら
となってる料理場の扉を、アン
くぎづ
ジョーラは釘付けにさした。
﹁負傷者らに累を及ぼしてはいけ
ない。﹂と彼は言った。
彼は下の広間で、簡潔な深く落
ち着いた声で、最後の訓令を与え
401
た。フイイーはそれに耳を傾け、
一同を代表して答えた。
﹁二階に、階段を切り離すための
おの
斧を用意しておけ。それがある
か?﹂
﹁ある。﹂とフイイーは言った。
﹁いくつ?﹂
﹁普通のが二つと大斧が一つ。﹂
﹁よろしい。健全な者が二十六人
なんちょう
残っている。銃は何挺あるか。﹂
402
﹁三十四。﹂
﹁八つ余分だな。その八梃にも同
じく弾をこめて持っていろ。サー
ベルやピストルは帯にはさめ。二
十人は防寨につけ、六人は屋根裏
しきいし
や二階の窓に潜んで、舗石の銃眼
から襲撃軍を射撃しろ。ひとりで
も手をこまぬいていてはいけない。
間もなく襲撃の太鼓が聞こえたら、
し た
階下の二十人は防寨に走り出ろ。
403
早い者から勝手にいい場所を占め
るんだ。﹂
そういう手配りをした後、彼は
ジャヴェルの方を向いて、そして
言った。
﹁きさまのことも忘れやしない。﹂
そしてテーブルの上に一梃のピ
ストルを置いて、彼は言い添えた。
﹁ここから最後に出る者が、この
スパイ
間諜の頭を打ちぬくんだ。﹂
404
﹁ここで?﹂とだれかが尋ねた。
﹁いや。こんな死体をわれわれの
死体に交じえてはいけない。モン
ぼうさい
デトゥール街の小さな防寨はだれ
でもまたぎ越せる。高さ四尺しか
ない。こいつは堅く縛られてる。
そこまで連れていって、そこで始
末するがいい。﹂
その際に及んで、アンジョーラ
よりなお平然たる者があるとすれ
405
ば、それはジャヴェルであった。
そこにジャン・ヴァルジャンが
出てきた。
彼は暴徒らの間に交じっていた
が、そこから出てきて、アンジョー
ラに言った。
﹁君は指揮者ですか。﹂
﹁そうだ。﹂
﹁君はさっき私に礼を言いました
ね。﹂
406
﹁共和の名において。防寨はふた
りの救い主を持っている、マリユ
ス・ポンメルシーと君だ。﹂
﹁私には報酬を求める資格がある
と思いますか。﹂
﹁確かにある。﹂
﹁ではそれを一つ求めます。﹂
﹁何を?﹂
﹁その男を自分で射殺することで
す。﹂
407
ジャヴェルは頭を上げ、ジャン・
ヴァルジャンの姿を見、目につか
ぬくらいの身動きをして、そして
言った。
﹁正当だ。﹂
アンジョーラは自分のカラビン
銃に弾をこめ始めていた。彼は周
囲の者を見回した。
﹁異議はないか?﹂
それから彼はジャン・ヴァルジャ
408
ンの方を向いた。
スパイ
﹁間諜は君にあげる。﹂
ジャン・ヴァルジャンは実際、
テーブルの一端に身を置いてジャ
ヴェルを自分のものにした。彼は
ピストルをつかんだ。引き金を上
げるかすかな音が聞こえた。
それとほとんど同時に、ラッパ
の響きが聞こえてきた。
ぼうさい
﹁気をつけ!﹂と防寨の上からマ
409
リユスが叫んだ。
ジャヴェルは彼独特の声のない
笑いを始めた。そして暴徒らをじっ
とながめながら、彼らに言った。
おれ
﹁きさまたちも俺以上の余命はな
いんだ。﹂
﹁みんな外へ!﹂とアンジョーラ
は叫んだ。
暴徒らはどやどやと外に飛び出
していった。そして出てゆきなが
410
ら、背中に︱︱こう言うのを許し
ていただきたい︱︱ジャヴェルの
言葉を受けた。
﹁じきにまた会おう!﹂
十九 ジャン・ヴァル
ふくしゅう
ジャンの復讐
ジャン・ヴァルジャンはジャヴェ
ルとふたりきりになった時、捕虜
411
の身体のまんなかを縛ってテーブ
なわ
ルの下で結んである繩を解いた。
それから立てという合い図をした。
ジャヴェルはそれに従った。縛
られた政府の権威が集中してるよ
うな名状し難い微笑を浮かべてい
た。
むながい
ジャン・ヴァルジャンは鞅をと
だ ば
らえて駄馬を引きつれるように、
鞅縛りにした繩を取って、ジャヴェ
412
ルを引き立て、自分のうしろに引
き連れながら、居酒屋の外に出た。
ジャヴェルは足をも縛られていて
ごく小またにしか歩けなかったの
で、ゆっくりと進んでいった。
ジャン・ヴァルジャンは手にピ
ストルを持っていた。
ぼうさい
ふたりはかくて防寨の中部の四
角な空地を通っていった。暴徒ら
はさし迫った攻撃の方に心を奪わ
413
れて、こちらに背中を向けていた。
ただマリユスひとりは、少し離
れて防壁の左端に控えていて、ふ
たりの通るのを見た。死刑囚と処
刑人と相並んだありさまは、マリ
ユスの心の中にある死の光で照ら
し出された。
ジャン・ヴァルジャンは一瞬間
もとらえた手をゆるめないで、モ
とりで
ンデトゥール小路の小さな砦を、
414
ようやくにしてジャヴェルにまた
ぎ越さした。
その防壁を乗り越した時、彼ら
はその小路の中で、まったくふた
りきりになった。だれも見ている
者はなかった。暴徒らからは人家
かど
の角で隠されていた。防寨から投
しがい
げ捨てられた死骸が、数歩の所に
恐ろしいありさまをして積み重なっ
ていた。
415
その死骸の重なった中に、一つ
のまっさおな顔と乱れた髪と穴の
あいた手と半ば裸の女の胸とが見
えていた。エポニーヌであった。
ジャヴェルはその女の死体を横
目でじっとながめ、深く落ち着き
払って低く言った。
﹁見覚えがあるような娘だ。﹂
それから彼はジャン・ヴァルジャ
ンの方に向いた。
416
ジャン・ヴァルジャンはピスト
ルを小わきにはさみ、ジャヴェル
を見つめた。その目つきの意味は
言葉にせずとも明らかだった。
﹁ジャヴェル、私だ、﹂という意
味だった。
ジャヴェルは答えた。
﹁復讐するがいい。﹂
ジャン・ヴァルジャンは内隠し
からナイフを取り出して、それを
417
開いた。
・ ・
﹁どすか?﹂とジャヴェルは叫ん
だ。﹁もっともだ。貴様にはその
方が適当だ。﹂
ジャン・ヴァルジャンはジャヴェ
むながいしば
ルの首についてる鞅縛りを切り、
なわ
次にその手首の繩を切り、次に身
をかがめて、足の綱を切った。そ
して立ち上がりながら言った。
﹁これで君は自由だ。﹂
418
ジャヴェルは容易に驚く人間で
はなかった。けれども、我を取り
失いはしなかったが一種の動乱を
おさえることができなかった。彼
ぼうぜん
は茫然と口を開いたまま立ちすく
んだ。
ジャン・ヴァルジャンは言い続
けた。
﹁私はここから出られようとは思っ
ていない。しかし万一の機会に出
419
られるようなことがあったら、オ
ンム・アルメ街七番地にフォーシュ
まゆ
ルヴァンという名前で住んでい
る。﹂
とら
ジャヴェルは虎のように眉をし
かめて、口の片すみをちらと開い
た。そして口の中でつぶやいた。
﹁気をつけろ。﹂
﹁行くがいい。﹂とジャン・ヴァ
ルジャンは言った。
420
ジャヴェルはまた言った。
﹁フォーシュルヴァンと言ったな、
オンム・アルメ街で。﹂
﹁七番地だ。﹂
ジャヴェルは低く繰り返した。
﹁七番地。﹂
彼は上衣のボタンをはめ、両肩
の間に軍人らしい硬直な線を作り、
向きを変え、両腕を組んで一方の
あご
手で頤をささえ、そして市場町の
421
方へ歩き出した。ジャン・ヴァル
ジャンはその姿を見送った。数歩
進んだジャヴェルは振り向いて、
ジャン・ヴァルジャンに叫んだ。
おれ
﹁君は俺の心を苦しめる。むしろ
殺してくれ。﹂
ジャヴェルはジャン・ヴァルジャ
ンに向かってもうきさまと言って
いないのを自ら知らなかった。
﹁行くがいい。﹂とジャン・ヴァ
422
ルジャンは言った。
ジャヴェルはゆるい足取りで遠
ざかっていった。やがて彼はプレー
かど
シュール街の角を曲がった。
ジャヴェルの姿が見えなくなっ
た時、ジャン・ヴァルジャンは空
中にピストルを発射した。
ぼうさい
それから彼は防寨の中に戻って
言った。
﹁済んだ。﹂
423
その間に次のことが起こってい
た。
マリユスは防寨の内部より外部
の方に多く気を取られて、下の広
スパイ
間の薄暗い奥に縛られた間謀をそ
の時までよくは見なかった。
しかし、死にに行くため防寨を
スパイ
またぎ越してる間謀をま昼の光で
見た時、彼はその顔を思い出した。
一つの記憶が突然頭に浮かんでき
424
た。ポントアーズ街の警視のこと
と、防寨の中で自分が使っている
にちょう
二梃のピストルはその警視からも
らったものであることを、思い起
こした。そしてその顔を思い起こ
したばかりでなく、またその名前
を思い起こした。
けれどもその記憶は、彼の他の
観念と同じように、おぼろげで乱
れていた。それは自ら下した断定
425
ではなく、自ら試みた疑問であっ
た。
﹁あの男は、ジャヴェルと名乗っ
たあの警視ではないかしら?﹂
たぶんまだその男のために調停
する時間はあったろう。しかし、
果たしてあのジャヴェルであるか
をまず確かめなければならなかっ
た。
マリユスは防寨の向こう端に位
426
置を占めたアンジョーラを呼びか
けた。
﹁アンジョーラ!﹂
﹁何だ!﹂
﹁あの男の名は何というんだ。﹂
﹁どの男?﹂
﹁あの警察の男だ。君はその名前
を知ってるか。﹂
﹁もちろん。自分で名乗ったん
だ。﹂
427
﹁何という名だ。﹂
﹁ジャヴェル。﹂
マリユスは身を起こした。
その時、ピストルの音が聞こえ
た。
ジャン・ヴァルジャンが再び現
われて、﹁済んだ﹂と叫んだ。
おかん
暗い悪寒がマリユスの心をよぎっ
た。
428
くもん
二十 死者も正しく生
者も不正ならず
ぼうさい
防寨の臨終の苦悶はまさに始ま
ろうとしていた。
その最後の瞬間の悲痛な荘厳さ
を、あらゆるものが助成していた。
空中に漂ってる無数の神秘な響き、
見えない街路の中に行動してる密
けはい
集した軍隊の気配、おりおり高ま
429
る騎兵の疾駆する音、砲兵の行進
がいく
する重いとどろき、パリー街衢に
交差する銃火と砲火、屋根の上に
せんじん
立ち上ってゆく金色の戦塵、恐ろ
しげな遠い一種の叫喚の声、至る
所を脅かす電光、今やすすりなき
するような調子になってるサン・
メーリーの警鐘、季節の穏和、日
光と雲とに満たされた空の輝き、
日光の麗しさ、人家の恐ろしい沈
430
黙。
前日以来、シャンヴルリー街の
両側に並んでる人家は、二つの壁、
荒々しい二つの壁となっていたの
である。戸は閉ざされ、窓は閉ざ
され、雨戸も閉ざされていた。
現在とはいたく異なってる当時
にあっては、あまりに長く続いた
状態を、特に与えられた法典を、
あるいは法治国の美名を、民衆が
431
破り去らんと欲する時間が来る時、
一般の憤怒の念が大気中にひろが
しきいし
る時、都市がその舗石をはぐに同
意する時、反乱がその合い言葉を
耳にささやいて市民をほほえます
時、その時住民は言わば暴動の気
に貫かれて、戦士の後援者となり、
また人家は、よりかかってくる即
座の要塞と相親しんだ。しかし情
況がまだ熟さない時、反乱が決定
432
的な同意を得ない時、群集がその
運動を好まない時には、戦士らは
見捨てられ、都市は反抗の周囲に
さばく
砂漠と変じ、人の魂は冷却し、避
ぼうさい
難所は閉ざされ、街路は防寨を占
あいろ
領せんとする軍隊を助ける隘路と
なるのだった。
し
民衆はいかに強いられても、お
のれの欲する以上に早く足を運ぶ
ものではない。民衆にそれを強い
433
わざわい
んとする者こそ禍である。民衆は
他の自由にはならない。そして民
衆は反乱をその成り行きに放置す
る。暴徒らはペスト患者のごとく
だんがい
見捨てられる。人家は断崖となり、
戸は拒絶となり、家の正面は壁と
なる。その壁は物を見また聞くけ
れども、それを欲しない。多少口
を開いて反徒を救うであろうか。
否。一の審判者となるのである。
434
反徒らをながめて、彼らに罪を宣
告する。それらの閉ざされた人家
こそいかに陰惨なるものであるか。
一見死んでるように思われるが、
実は生きているのである。生命の
流れはそこで切れてるようである
が、実は存続している。もう一昼
夜の間だれも出入りしなかったが、
人はひとりも欠けてはいない。そ
いわお
の巌のように静まり返った家の中
435
き が
では、人が行ききし起臥している。
家庭をなしている。飲みまた食っ
ている。ただ恐ろしいことには、
きょうきょう
戦々兢々としている。その恐怖の
念は、反徒らに対するひどい冷淡
ゆうじょ
さを宥恕するものである。また酌
量すべき情況としては狼狽の念も
いっしょにある。時としては、そ
して実際あったことであるが、恐
怖は熱情となることもある。慎重
436
が憤激に変わり得るように、恐怖
は狂猛に変わり得る。そこから、
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
温和派の熱狂者という意味深い言
葉が生じてくる。極度におびえた
感情は炎となって、そこからすご
い煙のような憤怒の情が生じてく
る。﹁彼ら反徒どもは何を望んで
いるのか? 彼らはかつて満足と
いうことを知らない。彼らは平穏
な人々にまで累を及ぼそうとして
437
いる。これでもまだ革命が足りな
いとでも思っているのか。ここに
何をしに来たのか。勝手に何でも
するがいい。終わりはどうせきまっ
ている。自業自得だ。なるように
なるだろうさ。われわれの知った
ことではない。この街路もかわい
そうに一面に弾傷を受けるのか。
全く無頼漢どもの寄り合いだ。ま
ず第一に戸を開かないことだ。﹂
438
かくして人家は、墓のようなあり
さまになる。反徒はその戸の前で、
さんだん
死の苦しみを受ける。霰弾と抜き
身のサーベルとが近づいてくるの
を見る。叫んだところで、聞いて
る者はあるが助けにきてくれる者
はないのがわかっている。そこに
ひ ご
は他を庇護し得る壁もあり、彼ら
を救い得る人もいる。しかも、壁
には聞く耳があるけれども、人に
439
は石のような心しかない。
とが
だれを咎むるべきであるか?
なんぴと
何人をも、そしてまたすべての
人を。
吾人が属するこの不完全な時代
を。
高遠なる理想が、自ら反乱と変
化し、哲理上の抗議を武装上の抗
議となし、ミネルヴァをパラスと
するのは︵訳者注 ミネルヴァと
440
いうは詩の神としての名称であり、
パラスというは戦の神としての名
称であって、同一の女神である︶、
常に自己を危険にさらしてのこと
である。忍耐しきれずに暴動とな
る理想は、いかなる目に会うかを
自らよく知っている。多くは時機
が早すぎるものである。それで自
ら運命に忍従して、勝利の代わり
に破滅を勇ましく甘受する。拒絶
441
を浴びせる者らを恨むことなく、
かえって彼らを弁護しながら彼ら
み す
に奉仕する。寛大にも見棄てられ
ることに同意する。障害に対して
は不屈であり、忘恩に対しては柔
和である。
とはいえ、そもそもそれは、忘
恩であろうか?
しかり、人類の見地よりすれば。
否、個人の見地よりすれば。
442
進歩は人間の様式である。人類
・ ・
一般の生命を進歩と称する。人類
・ ・
の集団的歩行を進歩と称する。進
歩は前進する。それは天国的なる
ものおよび神的なるものの方へ向
かって、地上的な人間的な大旅行
らくごしゃ
を試みる。けれども落伍者を収容
するための休憩所を持っている。
さんぜん
ある燦然たるカナンの地︵訳者注
神がイスラエル人に与うべきこ
443
とを約束せる土地︱旧約︶が突然
地平線上に現われるのを前にして、
めいそう
瞑想するための停立所を持ってい
る。眠るべき夜を持っている。そ
して、人間の魂の上に影がおりて
いるのを見、眠ってる進歩を暗黒
のうちに探りあてながらそれをさ
まし得ないということは、思想家
の深い痛心の一つである。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
﹁おそらく神は死んでる﹂とジェ
444
ラール・ド・ネルヴァルは本書の
著者に向かってある時言った。し
かしそれは進歩と神とを混同し、
運動の中絶をもって運動者の死と
み な
見做しての言である。
絶望する者は誤っている。進歩
は必ず目をさます。また進歩は結
局眠りながらも前進したと言って
もいい、なぜなら成長したからで
ある。進歩が再び立ち上がる時、
445
その姿は前よりも高くなっている。
常に平静であることは、川自身の
関するところでないと同じく、進
歩自身の関するところではない。
決して障壁を築くな、決して岩石
あわだ
を投入するな。障害は水を泡立た
しめ、人類を沸騰せしむる。そこ
に混乱が生ずる。しかしその混乱
の後にも多少前進したことが認め
られる。一般的平和にほかならな
446
い秩序が立てられるまでは、調和
と統一とが君臨するまでは、進歩
はその道程中に革命を持つであろ
う。
・ ・
しからば進歩とは何であるか?
それは上に言ったとおりである。
民衆の恒久なる生命である。
しかるに、個人の一時的生命が
人類の永遠なる生命に相反するこ
とが、時として起こってくる。
447
吾人はかく高言することができ
る。個人は一定の利益を有してお
り、条件を付してそれを譲り得る
ゆる
ものである。現在は宥し得べき程
度の利己心を持っている。一時の
生命もその権利を有していて、未
来のために常に犠牲にせらるべき
ものではない。現在地上を通るべ
き順番になっている時代は、後に
地上を通るべき順番になってる他
448
の時代のために、結局同等な他の
時代のために、その命脈を縮めら
・ ・ ・ ・ ・
るべきはずではない。すべての者
とよばるるある者がつぶやく。
﹁私は存在している。私は年若く
恋に燃えてる。あるいは、年老い
休息を欲してる。私は一家の父で
はんじょう
あり、働き、繁昌し、事業に成功
し、貸し家を持ち、政府に預けた
金を持ち、幸福であり、妻も子も
449
持っており、すべてそれらのもの
なが
を愛し、生き存らえたい。私を静
かにさしておいて欲しい。﹂そう
いう所から、ある時におよんで、
ごうきょう
人類の豪侠なる前衛に対する深い
冷淡さが生じてくる。
その上また高遠なる理想は、戦
いをなしながらその光り輝く天地
を去るということを、吾人は是認
したい。明日の真理なる理想は、
450
咋日の虚偽から、その方法すなわ
ち戦いを借りてくる。未来なる理
想は、過去のごとく行動する。純
潔なる観念でありながら、自ら違
法の行為となる。おのれの勇壮の
うちに暴戻をも交じえる。その暴
戻については自ら責を負うのが至
当である。主義に反したる時宜と
便宜との暴戻であって、必ずその
罪を負わなければならない。理想
451
がなす反乱も、古い軍法を手にし
かんちょう
て戦う。間諜を銃殺し、反逆者を
処刑し、生ける者を捕えて未知の
暗黒界に投げ込む。死を使用する。
そしてこれは重大なことである。
理想はもはや、その不可抗不可朽
の力たる光明に信念を持たないが
ようである。剣をもって人を打つ。
しかるにいかなる剣も単一なるも
もろは
のはない。あらゆる剣は皆両刃で
452
ある。一方で他を傷つける者は、
他方でおのれを傷つける。
以上の制限を付しながらも、し
かも厳重に付しながらも、未来の
光栄ある戦士らを、理想の司祭ら
を、そが成功すると否とを問わず、
吾人は賛美せざるを得ないのであ
る。彼らの業が流産に終わろうと
も、彼らは尊敬に値する。そして
おそらくその不成功のうちにこそ、
453
彼らはいっそうの荘厳さを持つ。
進歩にかなったる勝利は、民衆の
かっさい
喝采を受くるに足る。しかし勇壮
な敗北は、民衆の心を動かすに足
る。一つは壮大であり、一つは崇
高である。成功よりもむしろ主義
に殉ずることを取る吾人に言わす
れば、ジョン・ブラウンはワシン
トンよりも偉大であり、ピサカネ
はガリバルディよりも偉大である。
454
敗者の味方もなければならない。
未来を企図する偉大なる者らが
失敗する時、人は彼らに対して、
多く不正なる態度を取る。
人は革命者らを非難するに、恐
み な
怖の念を散布することをもってす
ぼうさい
る。防寨をすべて暴行と見做す。
彼らの所説をとがめ、彼らの目的
を疑い、彼らの内心を恐れ、彼ら
の良心を難ずる。現在の社会状態
455
に対抗して、悲惨と苦悩と不正と
悲嘆と絶望とをうずたかく引き起
こし立て直し積み重ね、どん底か
ら暗黒の石塊を引き出して、そこ
に銃眼を作り戦闘を始めることを、
彼らに非難する。そして彼らに向
しきいし
かって叫ぶ、﹁汝らは地獄の舗石
をめくってるのだ!﹂しかし彼ら
は答え得るであろう、﹁それはか
えってわれわれの防寨が善良な意
456
志で作られてる証拠である。﹂
確かに最善の方法は平和のうち
に解決することである。要するに
吾人はかく承認する、舗石のめく
られるのを見る時には人は熊を思
い出す、そして社会が不安を覚ゆ
るのはかかる意欲に対してである。
しかし社会の救済は、社会自身の
考えによる。吾人が呼び起こさん
とするのは、社会自身の意欲であ
457
る。激越なる救治策は必要でない。
好意をもって弊害を研究し、それ
は調べ上げ、次にそれを矯正する
こと、吾人が社会に勧めたいのは
それである。
それはとにかくとして、世界各
地のうちで特にフランスに目を据
ふとう
えて、理想の不撓なる理論をもっ
て大業を果たさんために戦うそれ
らの人々は、たとい倒れても、ま
458
たことに倒れたがゆえに、崇高た
るのである。彼らはおのれの生命
を進歩に対する純なる贈り物とし
て投げ出す。天の意志を成就し、
宗教的行為をなす。一定の時が来
せりふ
れば、台詞渡しの詩の俳優のよう
な無私の心で、神の定めた筋書き
に従って墳墓の中へはいってゆく。
一七八九年七月十四日に不可抗力
をもって始まった人類の大運動に、
459
さんぜん
世界的な燦然たる最上の結果をも
たらさんがために、その希望なき
戦いと堅忍なる消滅とを甘受する。
かかる兵士らはすなわち牧師であ
り、フランス大革命はすなわち神
の身振りである。
そしてまた、他の章において既
に指摘しておいた種々の区別のほ
かに、次の区別をも添加しておく
が至当であろう、すなわち、革命
460
と呼ばるる是認された反乱と、暴
動と呼ばるる否認された革命とで
ある。破裂したる一つの反乱は、
民衆の前に試験を受くる一つの観
念である。もし民衆が黒球を投ず
れば、その観念はむだ花となり、
反乱は無謀の挙となる。
あらゆる機会に、高遠なる理想
が欲するたびごとに、戦いのうち
にはいるということは、民衆のよ
461
くなし得るところではない。国民
は常住不断に英雄や殉教者の気質
を持ってるものではない。
国民は実際的である。先天的に
反乱をいやがる。第一に、反乱は
破滅に終わることが多いからであ
り、第二に、反乱の出発点は常に
抽象的なものだからである。
なぜかなれば、そしてこれはき
わめてみごとなことであるが、献
462
身者らが身をささげるのは常に理
想のためであり、理想のみのため
にである。反乱は一つの熱誠であ
る。熱誠は憤怒することがあって、
そのために武器を執るに至る。し
かしあらゆる反乱は、一つの政府
もしくは制度に射撃を向けるが、
その目標は更に高い所に存する。
たとえば、力説すべきことには、
一八三二年の反乱の首領らが戦っ
463
た目標は、ことにシャンヴルリー
街の若い熱狂者らが戦っている目
標は、必ずしもルイ・フィリップ
ではなかった。打ち明けて言えば、
彼らの大多数は、王政と革命との
中間なるこの王の資格を、充分に
よく認めていた。王を憎む者は一
人もなかった。彼らは昔シャール
十世のうちにあるブールボン本家
を攻撃したごとく、ルイ・フィリッ
464
プのうちにあるブールボン分家を
攻撃したのである。そしてフラン
スにおける王位をくつがえしつつ、
更にくつがえさんと欲したところ
のものは、前に説明したとおり、
人間に対する人間の専横と全世間
の権利に対する一部の特権の専横
とであった。パリーに王がなくな
れば、その影響として世界に専制
者がなくなる。そういうふうに彼
465
らは考えていた。彼らの目的は、
まさしく遠いものであり、おそら
ばくぜん
く漠然たるものであり、努力して
も容易におよばないものだったが、
しかし偉大なるものであった。
まさしくそうである。そして人
はそれらの幻想のために身を犠牲
に供する。犠牲者らにとってはそ
れらの幻想はたいてい幻影に終わ
るけれども、しかも結局人間的な
466
確信が交じってる幻影である。反
徒は反乱を詩化し美化する。自分
のなさんとする事柄に心酔しなが
ら、その悲壮な事柄のうちに身を
投ずる。結果はわかるものではな
い、あるいは成功するかも知れな
い。同志は少数であり、敵には全
軍隊がいる。しかしまもるところ
のものは、権利、自然の大法、一
ま
歩も枉ぐることのできない各人の
467
自己に対する主権、正義、真理、
などである。そして場合によって
は、三百人のスパルタ人︵訳者注
テルモピレにおいてレオダニス
に率いられし兵士︶のごとくに死
するであろう。頭に浮かべるのは、
ドン・キホーテのことではなくレ
オニダスのことである。そして彼
らは前方に進んでゆく。一度踏み
出せばもはや退くことをしない。
468
頭をかがめてまっしぐらに突進す
る。希望として心にいだくところ
のものは、前代未聞の勝利、完成
されたる革命、自由の手に託され
たる進歩、人類の成長、世界の救
済などである。またいかに失敗し
ようとも、結局テルモピレに過ぎ
ない。
進歩のためのかかる戦いは、し
ばしば失敗するものであって、そ
469
の理由は上に述べきたったとおり
である。群集は冒険騎士の誘導に
従わない。重々しい集団は、多衆
は、自身の重さのためにかえって
こわれやすいものであって、冒険
を恐れる。理想のうちには多少の
冒険がある。
その上、忘れてならないことに
は、利害の念もそこに交じってく
る。利害の念は理想と情操とに親
470
しみ難い。時としては、胃袋は心
ま ひ
を麻痺させる。
フランスの偉大と美とは、他の
民衆よりも腹に重きを置くことが
少ないところにある。フランスは
あさなわ
最も平然と自ら腰に麻繩をまとう。
最初に目ざめ、最後に眠る。まっ
すぐに前進する。実に一つの探求
者である。
それはフランスが芸術家だから
471
である。
理想は論理の頂点にほかならな
い。同様に、美は真なるものの頂
にほかならない。芸術家たる民衆
は、終始一貫する民衆である。美
を愛することは光明を欲すること
である。それゆえに、ヨーロッパ
たいまつ
の炬火は、換言すれば文化の炬火
にな
は、まずギリシャによって担われ、
ギリシャはそれをイタリーに伝え、
472
イタリーはそれをフランスに伝え
た。光り輝く神聖なる民衆らよ!
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
彼らは生命のランプを人に伝う。
賛美すべき事には、民衆の詩は
民衆の進歩の要素である。文化の
量は想像力の量によって測られる。
ただし、文化の普及者たる民衆は
強健なる民衆でなければならない。
コリントはそうである。シバリス
はそうでない。柔弱に陥るものは
473
たんのう
衰微する。愛好者であっても堪能
しゃ
者であってもいけない。ただ芸術
家でなければならない。文化の事
業においては、繊巧を事としては
いけない、ただ崇高を事としなけ
ればいけない。この条件において
ひながた
理想の雛型は人類に与えらるる。
近代の理想は、その様式を芸術
のうちに有し、その方法を科学の
うちに有している。科学によって
474
こそ、詩人の荘厳なる幻影すなわ
によってこそ、エデンの
ち社会的美は実現されるであろう。
A+B
園は再び作られるであろう。文化
が到達し得た現在の地点において
は、正確は光彩の必要な一要素で
ある。芸術的情操は、ただに科学
的機能によって助けらるるばかり
でなく、またそれによって完成さ
れる。夢も計算の上に立たなけれ
475
ばならない。勝利者である芸術も、
徒歩者たる科学を支柱としなけれ
ばならない。足場の強固さが大切
である。近代の精神は、インドの
天才を馬車とするギリシャの天才
である、象の上に乗ったるアレク
サンデルである。
独断的信条のうちに化石しもし
くは利得のために堕落したる人種
きょうどうしゃ
は、文化の嚮導者としては不適当
476
である。偶像もしくは金銭の前に
き ざ
跪坐することは、歩行の筋肉と前
いしゅく
進の意志とを萎縮させる。祭儀の
業もしくは商売の業に没頭するこ
とは、民衆の光を減じ、その水準
を低めながらその水平線を低め、
世界の目標たる人間的なるととも
に神的なる知力、諸国民をして伝
教師的たらしむるの知力を、民衆
から奪い去る。バビロンは理想を
477
持たず、カルタゴは理想を持たな
い。アテネとローマとは、数世紀
間の暗黒時代を通じてもなお、文
化の円光を有し維持する。
フランスはギリシャおよびイタ
リーと同質の民衆である。美によっ
てアテネ的であり、偉大によって
にんき
ローマ的である。その上にまた仁
ょう
侠である。フランスは自己を惜し
まない。他の民衆よりもしばしば、
478
献身と犠牲との心を起こす。ただ
その心があるいはきたり、あるい
は去るだけである。かくて、フラ
ンスがただ歩くことをしか欲しな
い時に走る者、もしくはフランス
が立ち上がらんと欲する時に歩く
者、彼らにとっての大なる危険が
生ずる。フランスは時に唯物主義
に陥る。ある瞬間においては、そ
の崇高なる頭脳を満たす観念は、
479
もはやフランスの偉大さを思わせ
るものを少しも持たず、ミズーリ
州や南カロライナ州くらいの大き
さしか持たない。いかんせん、巨
しゅじゅ
人は侏儒の役を演じ、広大なるフ
さ じ
ランスは好奇にも些事を事とする。
策の施しようはない。
それに対しては何も言うことは
ない。恒星のごとき民衆にも時に
しょく
おのれを蝕するの権利がある。た
480
だ、光が再び現われさえすれば、
日蝕が暗夜に終わりさえしなけれ
あけぼの
ば、すべてかまわない。曙と再生
とは同意義である。光の再現は自
我の存続と同一である。
これらの事実をそのまま認定し
ぼうさい
ようではないか。防寨の上に死す
るも、もしくは亡命のうちに倒る
るも、それは時の事情による一つ
の献身として是認さるる。献身の
481
真の名は、公平無私ということで
ある。見捨てらるる者らをして見
捨てられしめよ、国を追わるる者
らをして追われしめよ。吾人はた
だ、偉大なる民衆が退く時には、
その後退のあまりに大ならざらん
ことを希望するに止めよう。再び
理性に返り得るというのを口実に
してあまりに深く下降してはいけ
ない。
482
物質は存在し、一時は存在し、
利益は存在し、腹は存在する。し
かし腹が唯一の英知であってはい
けない。一時の生命もその権利を
持っている、吾人はそれを是認す
る。しかし恒久の生命もまたその
権利を持っている。ただ悲しいか
な、高く上っていてもなお墜落す
ることがある。その事実は史上に
余りあるほど数多ある。卓越して
483
理想を味わってる国民も、次に泥
か
を噛んでそれを甘しとする。そし
てソクラテスを捨ててフォルスタ
フを取る理由を尋ねらるる時、彼
は答える、為政家を好むからであ
ると。
白兵戦の物語に戻る前、なお一
言しておきたい。
今われわれが物語ってるような
けいれん
戦いは、理想を求むる一つの痙攣
484
にほかならない。束縛されたる進
てん
歩は病いを得て、かかる悲壮な癲
かん
癇の発作をなす。この進歩の病い
に、内乱に、吾人は途中で出会わ
ざるを得なかったのである。社会
・
的永罰を受けたる人物を軸とし進
・
歩を真の表題とするこの劇におい
ては、それは幕中にまた幕間に必
ずいできたるべき一局面である。
・ ・
進歩!
485
吾人がしばしば発するこの叫び
こそ、吾人の考えのすべてである。
一編の劇がここまできた以上は、
中に含まってる観念はなお多くの
試練を受くべきものであるとして
とばり
も、今吾人は、よしやその帷をまっ
たく掲げることは許されないまで
も、少なくともその光を明らかに
透かし見せることだけはおそらく
許されるであろう。
486
読者が今眼前にひらいている書
物は、中断や例外の個所や欠点は
あるとしても、初めから終わりま
で、全体においても、局部におい
ても、悪より善への、不正より正
への、偽より真への、夜より昼へ
の、欲望より良心への、枯朽より
生命への、獣性より義務への、地
獄より天への、無より神への、そ
の行進である。出発点は物質であ
487
かいだ
り、到着点は心霊である。怪蛇に
始まり、天使に終わるのである。
二十一 勇士
突然、襲撃の太鼓が鳴り響いた。
うわばみ
襲撃は台風のようだった。前夜
くらやみ
暗闇の中では、兵士らは蟒蛇のご
とくひそかに防寨に押し寄せた。
しかし今は、白日のうちで、その
488
うち開けた街路の中で、奇襲はまっ
たく不可能だった。その上、強大
な武力は明らかに示され、大砲は
ほうこう
咆哮し始めていた。それで軍隊は
一挙に防寨におどりかかった。今
は憤激もかえって妙手段であった。
強力なる戦列歩兵の一縦隊が、一
定の間を置いて徒歩の国民兵と市
民兵とを交じえ、姿は見えないが
ただ足音だけが聞こえる群がり立っ
489
た軍勢をうしろにひきつれて、街
路のうちに襲歩で現われてき、太
鼓を鳴らし、ラッパを吹き、銃剣
を交差し、工兵を先頭に立て、弾
丸の下に泰然として、壁の上に青
はり
銅の梁の落ちかかるような重さで、
防寨めがけてまっすぐに進んでき
た。
障壁はよく持ちこたえた。
暴徒らは猛烈な銃火を開いた。
490
敵からよじ登られる防寨は電光の
たてがみ
鬣をふりかぶったかと思われた。
襲撃は狂猛をきわめて、防寨の表
面は一時襲撃軍をもって満たされ
し
たほどだった。しかし防寨は、獅
し
子が犬を振るい落とすように兵士
ほうまつ
らを振るい落とした。あたかも海
いわお
辺の巌が一時泡沫におおわれるが
ように、襲撃軍におおわれてしまっ
たが、一瞬間の後にはまた、その
491
つき立ったまっ黒な恐ろしい姿を
現わした。
退却を余儀なくされた縦列は街
えんごぶつ
路に密集し、何らの掩護物もなく
かくめんほう
恐るべきありさまで、角面堡に向
かって猛射を浴びせた。仕掛け花
火を見たことのある者は、花束と
言わるる一束の交差した火花を記
憶しているだろう。その花束を垂
直でなしに横に置き、各火花の先
492
さんだん
に小銃弾や猟銃霰弾やビスカイヤ
ふさ
ン銃弾があって、その房のような
雷電の下に死を振るい出している
ぼうさい
と想像してみるがいい。防寨は実
にそういう銃火の下にあった。
両軍とも決意のほどは同じだっ
た。その勇気はほとんど蛮的であっ
て、まず自己犠牲より始まる壮烈
どうもう
な獰猛さを含んでいた。国民兵ま
でもアルゼリア歩兵のごとく勇敢
493
に戦う時代だった。軍隊の方は一
ほふ
挙に敵を屠らんと欲し、反乱の方
はあくまで戦わんと欲していた。
青春と健全とのさなかにおいて死
の苦痛を甘受する精神は、勇敢を
して熱狂たらしむる。その白兵戦
とうび
のうちに各人が掉尾の勇を振った。
しかばね
街路には死屍が累々と横たわった。
防寨には、一端にアンジョーラ
がおり、他の一端にマリユスがい
494
にな
た。全防寨を頭のうちに担ってる
アンジョーラは最後まで身を保と
うとして潜んでいた。三人の兵士
はざま
が、彼の姿も見ないで彼の狭間に
相次いで倒れた。マリユスは身を
おのずか
さらして戦っていた。彼は自ら敵
かくめんほう
の目標となった。角面堡の上から
半身以上を乗り出していた。感情
りんしょくか
を奔放さした吝嗇家ほど激しい浪
費をなすものはなく、夢想家ほど
495
実行において恐ろしいものはない。
マリユスは猛烈でありまた専心で
あった。彼は夢の中にあるように
して戦いの中にいた。あたかも幽
霊が射撃をしてるのかと思われた。
防御軍の弾薬は尽きかかってい
たが、その風刺は尽きなかった。
墳墓の旋風のうちに立ちながら彼
らは笑っていた。
クールフェーラックは帽子をか
496
ぶっていなかった。
﹁帽子をいったいどうした。﹂と
ボシュエは彼に尋ねた。
クールフェーラックは答えた。
やつ
﹁奴らが大砲の弾で飛ばしてしまっ
た。﹂
こうぜん
あるいはまた昂然たる言葉をも
彼らは発していた。
﹁わけがわからない、﹂とフイイー
にがにが
は苦々しげに叫んだ、﹁彼等は、
497
︵そしてフイイーは、旧軍隊のう
ちの知名な人や高名な人など、若
干の名前を一々あげた、︶われわ
れに加わると約束し、われわれを
助けると誓い、名誉にかけて明言
し、しかもわれわれの将たるべき
者でありながら、われわれを見捨
てるのか!﹂
それに対してコンブフェールは、
落ち着いた微笑をしながらただこ
498
う答えた。
﹁世間には、星をながむるように
やっきょう
ま
ただ遠方から名誉の法則を観測す
る者もあるさ。﹂
ぼうさい
防寨の中は、こわれた薬莢が播
き散らされて、雪でも降ったよう
だった。
襲撃軍には数の利があり、反軍
には地の利があった。反徒らは城
よ
壁の上に拠っていて、死体や負傷
499
者らの間につまずき急斜面に足を
取られてる兵士らを、ねらい打ち
な
に薙ぎ倒した。前に述べたような
築き方をして巧妙に固められてる
その防寨は、一握の兵をもって一
軍をも敗走させ得る地の利を実際
有していた。けれども襲撃隊は、
絶えず援兵を受けて弾丸の雨下す
る下にもますます数を増し、いか
んともすべからざる勢いで寄せて
500
きた。そして今や少しずつ、一歩
一歩、しかも確実に防寨に迫って
らせん
きて、あたかも螺旋が圧搾器をし
めつけるようなものだった。
襲撃は相次いで行なわれた。危
険は刻々に増していった。
しきいし
その時、この舗石の上において、
このシャンヴルリー街のうちにお
いて、トロイの城壁にもふさわし
しょうすい
い争闘が起こった。憔悴しぼろを
501
まとい疲れ切ってる防寨の人々は、
二十四時間の間一食もせず、一睡
もせず、余すところは数発の弾の
みとなり、ポケットを探っても弾
薬はなく、ほとんど全員傷を受け、
黒くよごれた布片で頭や腕をまき、
着物には穴があいてそこから血が
流れ、武器としては悪い銃と古い
鈍ったサーベルにすぎなかったが、
しかもタイタン族のように巨大と
502
ぼうさい
なったのである。防寨は十回の余
りも攻め寄せられ、襲撃され、よ
じ登られたが、決して陥落はしな
かった。
この争闘のおおよそのありさま
を知らんとするならば、恐ろしい
勇気の堆積に火をつけ、その燃え
上がるのを見ると思えば大差はな
い。戦いではなくて火炉の内部で
あった。口は炎の息を出し、顔は
503
さま
異様な様に変わり、人間の形が保
たれることはできないかのようで、
戦士らは皆燃え上がっていた。そ
して白兵戦の火坑精らがそのまっ
かな煙の中に行ききするのは、見
るも恐ろしい光景だった。その壮
さつりく
大なる殺戮が相次いで各所に起こ
る光景をここに描写することはや
めよう。一戦闘をもって一万二千
の句を満たす︵訳者注 イリヤー
504
ドのごとく︶の権利は、ただ叙事
詩のみが有するのである。
ならく
・ ・ ・
十七の奈落のうちの最も恐るべ
ヴェダ
きもので、吠陀の中で剣葉林と呼
ばれてるあのバラモン教の地獄の
ありさまも、かくやと思われるほ
どだった。
彼らは敵を間近に引き受け、ピ
げんこ
ストルやサーベルや拳固で接戦し、
遠くから、近くから、上から、下
505
から、至る所から、人家の屋根か
ら、居酒屋の窓から、またある者
あなぐら
は窖にすべり込んでその風窓から、
戦った。ひとりをもって六十人を
相手とした。コラント亭の正面は
半ば破壊されて、見る影もなくなっ
さんだん
た。窓は霰弾を打ち込まれて、ガ
しきいし
ラスも窓縁もなく、舗石でむちゃ
くちゃにふさがれてるぶかっこう
な穴に過ぎなくなった。ボシュエ
506
は殺され、フイイーは殺され、クー
ルフェーラックは殺され、ジョリー
は殺され、コンブフェールはひと
りの負傷兵を引き起こそうとする
せつな、三本の銃剣で胸を貫かれ、
わずかに空を仰いだだけで息絶え
た。
マリユスはなお戦っていたが、
全身傷におおわれ、ことに頭部が
はなはだしく、顔は血潮の下に見
507
えなくなり、あたかもまっかなハ
ンカチを顔にかぶせたがようだっ
た。
アンジョーラひとりはどこにも
傷を受けなかった。武器がなくなっ
た時、左右に手を伸ばして何かを
つかみ取ろうとすると、ひとりの
暴徒が彼の手に刃物の一片を渡し
てくれた。マリニャーノの戦いに
フランソア一世は三本の剣を使っ
508
たが、彼は実に四本の剣を使いつ
くして、今やその折れた一片を手
にしてるのみだった。
ホメロスは言う。﹁ディオメー
デは、麗しきアリスバの地に住み
けるテウトラニスの子アクシロス
ほふ
を屠り、メシステウスの子エウリ
アルスは、ドレソス、オフェルチ
オス、エセポス、および河神アバ
ルバレアが一点の非もなきブコリ
509
オンの種を宿して産めるペダソス
を討ち取り、オデュッセウスはペ
たお
ルコーテのピヂテスを仆し、アン
チロクスはアブレロスを仆し、ポ
リペテスはアチスアロスを仆し、
ポリダマスはシレネのオトスを仆
し、テウセルはアレタオンを仆し
ぬ。メガンチオスはエウリピロス
やり
の槍の下に死しぬ。英雄の王たる
ごうごう
アガメムノンは、轟々たるサトニ
510
しゅんけん
オの大河に洗わるる峻嶮なる都市
に生まれたるエラトスを打ち倒し
ぬ。﹂フランスの古き武勲詩ゼス
トの中においては、塔を引き抜い
て投げつけながら身をまもる巨人
スワンティボール侯を、エスプラ
ンディアンは両刃の炎をもって攻
撃した。フランスの古い壁画の示
すところによれば、ブルターニュ
公とブールボン公とは、武装し紋
511
章をつけ戦いのしるしをつけ、馬
まさかり
にまたがり、鉞を手にし、鉄の面
くつ
と鉄の靴と鉄の手袋をつけ、一つ
あい
まみ
は黄色の馬飾りを施し、一つは藍
いろ
色の馬衣を置いて、互いに相見え
かぶと
た。ブルターニュ公は兜の両角の
し し
ゆ り
間に獅子の記章をつけ、ブールボ
まびさし
ン公は兜の目庇に大きな百合の記
章をつけていた。しかし雄壮たら
んがためには、イヴォンのごとく
512
公爵の兜をかぶるの要はなく、エ
スプランディアンのごとく生ける
炎を手に握るの要はなく、ポリダ
マスの父フィレスのごとく人間の
王エウフェテスから贈られたる美
かっちゅう
しい甲冑をエフィレより持ち帰る
の要はない。ただ一つの確信もし
くは一つの忠誠のために身をささ
ぐれば足りる。昨日まではボース
やリムーザンの農夫であり、今日
513
はリュクサンブールの園のかわい
い子供らのまわりに短い剣を腰に
下げてぶらついてる、あの素朴な
る可憐な兵士、解剖体の一片や一
ひげ
きん
冊の書物の上に背をかがめ、ある
はさみ
いは鋏で髯をつんでいる、あの金
ぱつそうがん
髪蒼顔なる若い学生、彼ら両者を
いぶき
とらえて、義務の息吹を少し吹き
つじ
込み、ブーシュラー四つ辻やプラ
ンシュ・ミブレー袋町で向かい合っ
514
て立たしめ、そして一方は軍旗の
ために戦い、一方は理想のために
戦い、両者共に祖国のために戦っ
てるのだと想わしむるならば、そ
の争闘は巨大なものとなるであろ
う。かくて、人類がもがいてる叙
事詩的な大野において、相争う一
介の兵士と一介の学生とが投ずる
もうこ
影は、猛虎に満ちたリシアの王メ
ガルヨンと諸神に等しい偉大なる
515
アジァクスとが、相格闘しながら
投ずる影に、匹敵することができ
るであろう。
二十二 接戦
生き残ってる首領としてはただ
ぼうさい
防寨の両端に立ってるアンジョー
ラとマリユスとの二人のみになっ
た時、クールフェーラックとジョ
516
リーとボシュエとフイイーとコン
ブフェールとが長くささえていた
たわ
中央部は、彼らの戦死とともに撓
んできた。大砲は都合よい裂け目
を作ることはできなかったけれど
かくめんほう
も、角面堡の中央を三日月形にか
なり広く破壊した。その障壁の頂
は砲弾の下に飛び散って崩れた。
そしてあるいは内部にあるいは外
部に落ち散った破片は、しだいに
517
積もりながら、障壁の両側に、内
部と外部とに、二つの斜面をこし
らえてしまった。外部の斜面は突
入に便利な傾斜を与えた。
力をきわめた襲撃がその点に向
かって試みられた。それは成功し
た。一面に銃剣を逆立て襲歩で進
んできた集団は、不可抗な力をもっ
て寄せてき、襲撃縦隊の密集した
しょうえん
先頭は、斜面の上に硝煙の中から
518
現われてきた。こんどはもはや最
後であった。中央を防いでいた一
群の暴徒は列を乱して退却した。
その時、おのれの生命を愛する
暗い心はある者のうちに目ざめて
きた。森林のごとく立ち並んだ小
銃からねらい打ちにされながら、
数多の者はもう死ぬことを欲しな
かった。自己保存の本能がうなり
出し獣性が人間のうちに再び現わ
519
かくめん
れてくる瞬間である。彼らは角面
ほう
堡の背面をなす七階建ての高い人
家の方へ押しつけられていた。そ
の家は彼らを救うものともなり得
るのだった。それはすっかり締め
切られて、上から下まで障壁をめ
ぐらされたようなありさまだった。
兵士らが角面堡の内部にはいり込
むまでには、一つの戸が開いてま
た閉じるだけの時間はあった。そ
520
いっせん
れには電光の一閃ほどの間で足り
た。突然少しばかり開いてまたす
ぐに閉ざさるるその家の戸は、そ
れら絶望の人々にとっては生命と
なるのだった。家のうしろには街
路があり、逃走も可能であり、余
地があった。彼らはその戸を、銃
け
床尾でたたき足で蹴り、呼び、叫
び、懇願し、手を合わした。しか
しだれもそれを開く者はなかった。
521
四階の軒窓からは、死人の頭が彼
らをながめていた。
しかしアンジョーラとマリユス
と七、八人の者は、彼らのまわり
ていしん
に列を作り、挺身して彼らを保護
していた。アンジョーラは兵士ら
に叫んだ、﹁出て来るな!﹂そし
て一将校がその言に従わなかった
ので、アンジョーラはその将校を
たお
仆してしまった。彼は今や角面堡
522
の内部の小さな中庭で、コラント
亭を背にし、一方の手に剣を握り、
一方の手にカラビン銃を取り、襲
撃者らを食い止めながら、居酒屋
の戸を開いていた。彼は絶望の人々
に叫んだ。﹁開いてる戸は一つき
りだ、こればかりだ。﹂そして身
をもって彼らをおおい、ひとりで
一隊の軍勢に立ち向かいながら、
背後から彼らを通さした。彼らは
523
皆そこに走り込んだ。アンジョー
つえ
ラはカラビン銃を杖のように振り
ば ら
回し、棒術でいわゆる隠れ薔薇と
称する使い方をして、左右と前と
に差しつけられる銃剣を打ち落と
し、そして最後にはいった。兵士
らは続いて侵入せんとし、暴徒ら
は戸を閉ざさんとし、一瞬間恐ろ
しい光景を呈した。戸は非常な勢
はま
いで閉ざされて戸口の中に嵌り込
524
みながら、しがみついていた一兵
士の五本の指を切り取り、そのま
こうちゃく
まそれを戸の縁に膠着さした。
マリユスは外に残されていた。
一発の弾を鎖骨に受けたのである。
彼は気が遠くなって倒れかかるの
を感じた。その時彼は既に眼を閉
じていたが、強い手につかみ取ら
るるような感じを受け、気を失っ
て我を忘れる前にちらと、コゼッ
525
トのことが最後に思い出され、そ
れとともにこういう考えが浮かん
だ、﹁捕虜となった、銃殺される
のだ。﹂
アンジョーラは居酒屋の中に逃
げ込んだ人々のうちマリユスがい
ないのを見て、同じ考えをいだい
た。しかし彼らは皆、自分の死を
考えるだけの余裕しかないような
瞬間にあった。アンジョーラは戸
526
かけがね
えび
に横木を入れ、※をし、錠前と海
じょう
老錠との二重の締まりをした。そ
の間も、兵士らは銃床尾で工兵ら
おの
は斧で、外部から激しく戸をたた
いていた。襲撃者らはその戸めが
けて集まっていた。今や居酒屋の
包囲攻撃が始まった。
兵士らは憤怒に満ちていたこと
を、ここに言っておかなければな
らない。
527
げっこう
砲兵軍曹の死は彼らを激昂さし
た。次に、いっそういけなかった
ことには、襲撃に先立つ数時間の
うちに、暴徒らは捕虜をすべて虐
殺し現に居酒屋の中には頭のない
うわさ
一兵士の死体があるという噂が、
彼らの間に言いふらされた。この
種の痛ましい風説は、たいてい内
乱に伴うものであって、後にトラ
じゃっき
ンスノナン街の惨劇を惹起さした
528
のは、かかる誤報のゆえであった。
戸の防備ができた時、アンジョー
ラは他の者らに言った。
﹁生命を高価に売りつけてやろう
よ。﹂
それから彼はマブーフとガヴロー
シュが横たわってるテーブルに近
づいた。喪布の下には、まっすぐ
こわ
な硬ばった姿が大きいのと小さい
のと二つ見えており、二つの顔は
529
きょうかたびら
ひだ
経帷子の冷ややかな襞の下にぼん
やり浮き出していた。喪布の下か
ら一本の手が出て下にたれていた。
それは老人の手であった。
アンジョーラは身をかがめて、
くちびる
前日その額に脣をあてたように、
その尊むべき手に脣をあてた。
それは彼が生涯のうちにした唯
くち
一の二度の脣づけだった。
ぼうさい
さて話を簡単に進めよう。防寨
530
はテーベの市門のごとく戦ったが、
居酒屋はサラゴサの人家のように
しつよう
戦った。かかる抵抗は執拗である。
身を休むる陣営もなく、軍使を出
すことも不可能である。敵を殺す
以上は皆死を欲する。シューシェ
が﹁降伏せよ﹂と言う時に、パラ
フォクスは答える、﹁弾丸の戦い
の後には刃物の戦いのみだ。﹂
︵訳者注 一八〇九年サラゴサの
531
攻囲の折のこと︶ユシュルー居酒
屋の襲撃にはあらゆるものが交じっ
しきいし
ていた。舗石は窓や屋根から雨の
ごとく降り、兵士らはそれにたた
あなぐら
きつぶされつつ激昂した。窖や屋
根裏から銃弾が飛んだ。攻撃は猛
烈であり、防御は激烈であった。
みなごろし
最後に、戸が破れた時には、鏖殺
の狂猛な蛮行が演ぜられた。襲撃
ゆか
者らはこわされて床に投げ出され
532
た戸の板に足を取られながら、居
酒屋の中に突入したが、そこには
らせんじょう
へや
ひとりの敵もいなかった。螺旋状
おの
の階段は斧に断ち切られて室のま
んなかに横たわっており、数人の
負傷者らは既に息絶えており、生
命のある者は皆二階に上がってい
た。階段の入口だったその天井の
穴から、恐怖すべき銃火が爆発し
た。それは最後の弾薬であった。
533
ひんし
その弾薬が尽きた時、瀕死の苦し
みのうちにある恐ろしい彼らに火
薬も弾もなくなった時、前に述べ
たとおりアンジョーラが取って置
びん
かした壜を各自に二本ずつ取り上
こんぼう
げ、そのこわれやすい棍棒をもっ
しょうさん
て上がってくる兵士らに対抗した。
ぶどうしゅ
それは葡萄酒ではなく硝酸の壜だっ
さつりく
た。われわれはここに、その殺戮
の陰惨な光景をありのまま語って
534
いるのである。包囲された者はあ
らゆる物を武器となす。水中燃焼
物もアルキメデスの名を汚すもの
チャン
ではなく、沸騰せる瀝青もバイヤー
ルの名を汚すものではない。戦争
はすべて恐怖であり、武器を選ぶ
の暇はない。襲撃者らの銃火は不
自由でかつ下から上に向かってな
されるものではあったが、しかも
多くの殺傷を与えた。天井の穴の
535
縁は、間もなく死者の頭にかこま
れ、それから煙を立てる長いまっ
かな糸がしたたった。混乱は名状
すべからざるありさまだった。家
の中に閉じこめられた燃ゆるがよ
うな煙は、この戦闘の上をほとん
せん
ど暗夜のようにおおっていた。戦
りつ
慄すべき光景もこの程度に達すれ
ば、それを現わす言葉はない。今
や地獄の中のようなこの争闘のう
536
ちには、もはや人間はいなかった。
もはや巨人と巨獣との戦いでもな
かった。ホメロスの語るところよ
りもミルトンやダンテの語るとこ
ろにいっそう似てるものだった。
悪魔が攻撃し幽鬼が抵抗したので
ある。
それは怪物的な壮烈さであった。
めいてい
二十三 断食者と酩酊
537
しゃ
者とのふたりの友
はしご
よ
ついに、短い梯子を作り、階段
ざんがい
の残骸をたよりとし、壁を攀じ、
天井に取りつき、引き戸の縁で抵
な
抗する最後の者らを薙ぎ払いなが
ら、戦列兵と国民兵と市民兵とが
入り交じってる二十人ばかりの襲
とうはん
撃者は、その恐ろしい登攀のうち
に大部分は顔の形もわからないま
538
でに傷を受け、血潮のために目も
見えなくなり、憤激し、凶猛となっ
て、二階の広間に侵入した。そこ
には、立ってる者はただひとりに
すぎなかった。それはアンジョー
ラだった。弾薬もなく、剣もなく、
入り来る者らの頭をなぐって床尾
をこわしたカラビン銃の銃身を手
へや
にしてるのみだった。彼は襲撃者
たまつきだい
らを球突台で隔て、室の片すみに
539
まなじり
こうぜん
退き、そこで眦を決し、昂然と頭
を上げ、筒先ばかりの銃を手にし
て立っていたが、その姿はなお敵
に不安を与え、周囲には空地が残
されてだれも近づく者はなかった。
ある者が叫んだ。
﹁これが首領だ。砲手を殺したの
もこの男だ。そこに立ってるのは
ちょうどいい。そのままでいろ。
すぐ銃殺してやる。﹂
540
﹁打て。﹂とアンジョーラは言っ
た。
そしてカラビン銃の断片を投げ
すて、腕を組んで、胸を差し出し
た。
みごとな死を遂げる豪胆さは、
常に人を感動させるものである。
アンジョーラが腕を組んで最期を
甘受するや、室の中の争闘の響き
はやみ、その混乱はたちまち墳墓
541
のごとき厳粛さに静まり返った。
武器をすてて身動きもせずに立っ
そうじょう
てるアンジョーラの威風は、騒擾
を押さえつけてしまったかと思わ
れた。ただひとり一個所の傷も負
わず、崇高な姿で、血にまみれ、
麗しい顔をし、不死身なるかのよ
うに平然としているこの青年は、
いちべつ
その落ち着いた一瞥の威厳のみで
既に、ものすごい一群の者らをし
542
て、彼を殺すに当たって尊敬の念
きょうじ
を起こさしめるかと思われた。彼
びぼう
の美貌は、その瞬間矜持の念にいっ
そう麗しくなって、光り輝いてい
た。そして負傷を知らないととも
に疲労をも知らない身であるかの
ように、恐るべき二十四時間を経
おもて あざや
きたった後にもなお、その面は鮮
ばらいろ
かな薔薇色をしていた。一証人が、
その後軍法会議の前で、﹁アポロ
543
ンと呼ばるるひとりの暴徒がいた﹂
と語ったのは、たぶん彼のことを
言ったのであろう。アンジョーラ
をねらっていたひとりの国民兵は、
銃をおろしながら言った、﹁花を
打つような気がする。﹂
十二人の者が、アンジョーラと
いちぐう
反対の一隅に並び、沈黙のうちに
銃を整えた。
それから一人の軍曹が叫んだ、
544
﹁ねらえ。﹂
ひとりの将校がそれをさえぎっ
た。
﹁待て。﹂
そして将校はアンジョーラに言
葉をかけた。
﹁目を隠すことは望まないか。﹂
﹁いや。﹂
﹁砲兵軍曹を殺したのは君か。﹂
﹁そうだ。﹂
545
その少し前にグランテールは目
をさましていた。
読者の記憶するとおりグランテー
い
ルは、前日から二階の広間で、椅
す
子にすわりテーブルによりかかっ
て眠っていたのだった。
彼は﹁死ぬほどに酔う﹂という
古いたとえを充分に実現していた。
アブサントとスタウトとアルコー
こんすい
ルの強烈な眠り薬は、彼を昏睡に
546
おとしいれた。彼がよりかかって
ぼうさい
るテーブルは小さくて、防寨の役
には立たなかったので、そのまま
にされていた。彼はそのテーブル
の上に胸をかがめ、両腕にぐった
びん
り頭を押しつけ、杯やコップや壜
にとりまかれて、常に同じ姿勢の
ちっぷく
ままでいた。蟄伏してる熊や血を
ひる
吸いきった蛭のように、圧倒し来
る睡魔に襲われていた。小銃の音
547
りゅうだん
へや
も、榴弾の響きも、窓から室には
さんだん
いってくる霰弾も、襲撃の非常な
けんそう
喧騒も、何一つとして効果のある
ものはなかった。ただ彼は時々、
いびき
鼾の声で大砲の響きに答えるのみ
だった。あたかも目をさます手数
なしにそのまま殺してくれる弾を
そこで待ってるようだった。まわ
りには数名の死骸が横たわってい
た。一見したところでは、それら
548
深い永眠に陥ってる者と何らの区
別もなかった。
でいすいしゃ
物音は泥酔者をさますものでは
ない。泥酔者をさますのは静寂の
方である。そういう不思議はしば
しば見らるるところである。あら
ゆるものが崩落する周囲の物音は、
グランテールの我を忘れた眠りを
ますます深くした。物の崩壊は彼
を気持ちよくゆすってくれた。し
549
かるにアンジョーラの前に喧騒が
急にやんだことは、その重い眠り
に対する激動だった。それは全速
力で走ってる馬車がにわかに止まっ
たようなもので、馬車の中にうと
うとと居眠ってる者は目をさます。
グランテールはびっくりして身を
こす
起こし、両腕を伸ばし、眼を擦り、
あくび
あたりをながめ、欠伸をし、そし
ていっさいを了解した。
550
酔いのさめるのは、幕を切って
いちべつ
落とすに似ている。人は一瞥で一
めいてい
つかみに、酩酊が隠していたすべ
てを見て取る。万事が突然記憶に
浮かんでくる。二十四時間の間に
起こったことを少しも知らないで
まぶた
いる酔漢も、眼瞼を開くか開かな
いうちに事情を了解する。すべて
の観念は急に明るくなって蘇って
めいてい
くる。酩酊の曇りは、頭脳を盲目
551
になしていた一種の煙は、たちま
ち晴れて、明るい明瞭な現実の姿
に地位を譲る。
グランテールは片すみに押しや
たまつきだい
られ、球突台のうしろに隠れたよ
うになっていたので、アンジョー
ラの上に目を据えていた兵士らは、
少しも彼に気づかなかった。そし
て軍曹が﹁ねらえ﹂という命令を
再び下そうとした時、突然兵士ら
552
の耳に、傍から強い叫び声が響い
た。
わがはい
﹁共和万歳! 吾輩もそのひとり
だ。﹂
グランテールは立ち上がってい
た。
参加しそこなって仲間にはいる
さんぜん
ことができなかった全戦闘の燦然
たる光は、様子を変えたこの酔漢
の輝く目の中に現われた。
553
彼は﹁共和万歳!﹂と繰り返し、
へや
しっかりした足取りで室を横ぎり、
アンジョーラの傍に立って銃口の
前に身を置いた。
﹁一打ちでわれわれふたりを倒し
てみろ。﹂と彼は言った。
そして静かにアンジョーラの方
を向いて言った。
﹁承知してくれるか。﹂
アンジョーラは微笑しながら彼
554
の手を握った。
その微笑が終わらぬうちに、発
射の音が響いた。
アンジョーラは八発の弾に貫か
くぎづ
れ、あたかも弾で釘付けにされた
かのように壁によりかかったまま
だった。ただ頭をたれた。
グランテールは雷に打たれたよ
うになって、その足下に倒れた。
それから間もなく兵士らは、家
555
の上層に逃げ上がってる残りの暴
徒らを駆逐しにかかった。彼らは
ほんこうし
本格子の間から屋根部屋の中に弾
を打ち込んだ。屋根裏で戦いが始
まった。死体は窓から投げ出され
たが、中にはまだ生きてる者もあっ
た。こわれた乗り合い馬車を起こ
そうとしていた軽歩兵のうちふた
りは、屋根裏の窓から発射された
たお
二発のカラビン銃に仆された。労
556
働服をつけたひとりの男は、腹に
銃剣の一撃を受けて、その窓から
投げ出され、地上に横たわって最
うめ
後の呻きを発した。ひとりの兵士
とひとりの暴徒とは、瓦屋根の斜
面の上にいっしょにすべり、互い
につかみ合った手を離さなかった
どうもう
ので、獰猛な抱擁のまま地上にこ
あなぐら
ろげ落ちた。窖の中でも同じよう
な争闘が行なわれた。叫喚、射撃、
557
じゅうりん
猛烈な蹂躙、次いで沈黙が落ちて
ぼうさい
きた。防寨は占領されていた。
兵士らは付近の人家を捜索し、
逃走者を追撃し始めた。
二十四 捕虜
マリユスは実際捕虜になってい
た。ジャン・ヴァルジャンの捕虜
になっていた。
558
倒れかかった時うしろから彼を
とらえた手、意識を失いながらつ
かまれるのを彼が感じた手は、ジャ
ン・ヴァルジャンの手であった。
ジャン・ヴァルジャンはただそ
こに身をさらしてるというほかに
は、少しも戦闘に加わらなかった。
しかし彼がもしいなかったならば、
その最後の危急の場合において、
だれも負傷者らのことを考えてく
559
れる者はなかったろう。幸いにし
て、天恵のごとくその殺戮中の至
る所に身を現わす彼がいたために、
倒れた者らは引き起こされ、下の
へや
室に運ばれ、手当てをされた。間
を置いて彼は常に防寨の中に現わ
れてきた。しかし打撃や襲撃や、
また一身の防御さえも、彼の手で
は少しもなされなかった。彼は黙々
として人を救っていた。その上、
560
かすりきず
彼はただわずかな擦過傷を受けた
のみだった。弾は彼にあたること
を欲しなかった。彼がこの墳墓の
中にきながら夢想していたものの
一部が、もし自殺であったとした
ならば、その点では彼はまったく
不成功に終わった。しかし宗教に
反する行ないたる自殺を彼が頭に
浮かべていたかどうかは、われわ
れの疑いとするところである。
561
ジャン・ヴァルジャンは濃い戦
雲の中でマリユスを見るような様
子はしていなかった。しかし実際
は、マリユスから目を離さなかっ
た。一発の弾がマリユスを倒した
とら
時、ジャン・ヴァルジャンは虎の
ごとく敏活に飛んでゆき、獲物に
つかみかかるように彼の上に飛び
かかり、そして彼を運び去った。
その時襲撃の旋風は、アンジョー
562
ラと居酒屋の戸口とを中心として
猛烈をきわめていたので、気を失っ
ぼうさい
てるマリユスを腕にかかえ、防寨
しきいし
の中の舗石のない空地を横ぎり、
かど
コラント亭の角の向こうに身を隠
したジャン・ヴァルジャンの姿を、
目に止めた者はひとりもなかった。
みさき
岬のように街路につき出ている
その角の事を、読者は覚えている
だろう。それにさえぎられて数尺
563
さんだん
の四角な地面は、銃弾も霰弾もま
た人の視線をも免れていた。時と
しては、火災のまんなかにあって
へや
少しも焼けていない室があり、ま
た荒れ狂ってる海の中にあって、
岬の手前か袋のような暗礁の中に、
いちぐう
少しの静穏な一隅がある。エポニー
ヌが最後の息を引き取ったのも、
防寨の四角な内部のうちにあるそ
ういうすみにおいてであった。
564
そこまで行って、ジャン・ヴァ
ルジャンは立ち止まり、マリユス
を地上におろし、壁に背を寄せて
周囲を見回した。
情況は危急をきわめていた。
一瞬の間は、おそらく二、三分
の間は、その一面の壁に身を隠す
さつりく
ことができた。しかしこの殺戮の
場所からどうして出たらいいか?
八年前ポロンソー街でなした苦
565
心と、ついにそこを脱し得た方法
とを、彼は思い出した。それはあ
の時非常に困難なことだったが、
今はまったく不可能なことだった。
前面には、七階建てのびくともし
つんぼ
ない聾のような家があって、その
窓によりかかってる死人のほかに
は住む人もないかのように見えて
いた。右手には、プティート・ト
リュアンドリーの方をふさいでる
566
ぼうさい
かなり低い防寨があった。その障
壁をまたぎ越すのはわけはなさそ
うだったが、しかしその頂の上か
ら、一列の銃剣の先が見えていた。
防寨の向こうに配備されて待ち受
けてる戦列歩兵の分隊だった。明
らかに、その防寨を越すことはわ
ざわざ銃火を受けに行くようなも
しきいし
のであり、その舗石の壁の上から
ろくじっちょう
のぞき出す頭は、六十梃の銃火の
567
的となるのだった。左手には戦場
があった。壁の角の向こうには死
が控えていた。
どうしたらよいか?
そこから脱し得るのはおそらく
鳥のみであろう。
しかも、直ちに方法を定め、工
夫をめぐらし、決心を堅めなけれ
ばならなかった。数歩先の所で戦
いは行なわれていた。幸いなこと
568
には、ただ一点に、居酒屋の戸口
に向かってのみ、すべての者が飛
びかかっていた。しかし、ひとり
の兵士が、ただひとりでも、家を
回ろうという考えを起こすか、あ
るいは側面から攻撃しようという
考えを起こしたならば、万事休す
るのだった。
ジャン・ヴァルジャンは正面の
家をながめ、傍の防寨をながめ、
569
次には、狂乱の体になってせっぱ
つまった猛烈さで地面をながめ、
あたかもおのれの目でそこに穴を
明けようとしてるかと思われた。
ながめてるうちに、深い心痛の
ばくぜん
うちにも漠然と認めらるる何かが
浮き出してきて、彼の足下に一定
の形を取って現われた。あたかも
目の力でそこに望む物を作り出し
たかのようだった。すなわち数歩
570
先の所に、外部からきびしく監視
ぼうさい
され待ち受けられてる小さな防寨
しきいし
の根本に、積まれた舗石の乱れて
る下に半ば隠されて、地面と水平
てつごうし
に平たく置かれてる鉄格子を、彼
は見つけたのである。その格子は、
丈夫な鉄の棒を横に渡して作られ
たもので、二尺四方くらいの大き
さだった。それを堅めてる周囲の
舗石がめくられたので、錠をはず
571
されたようになっていた。鉄棒の
間からは、煖炉の煙筒か水槽の管
のような暗い穴が見えていた。ジャ
ン・ヴァルジャンは飛んでいった。
昔の脱走の知識が、電光のように
彼の頭に上がってきた。上に重なっ
てる舗石をはねのけ、鉄格子を引
き上げ、死体のようにぐったりと
なってるマリユスを肩にかつぎ、
ひじ
背中にその重荷をつけたまま、肱
572
ひざ
と膝との力によって、幸いにもあ
まり深くない井戸のようなその穴
の中におりてゆき、頭の上に重い
ふた
鉄の蓋をおろし、その上にまた揺
らいでる舗石を自然にくずれ落ち
てこさせ、地下三メートルの所に
ある舗石の面に足をおろすこと、
それだけのことを彼は、あたかも
じんそく
狂乱のうちになすかのように、巨
わし
人の力と鷲の迅速さとをもってな
573
し遂げた。わずかに数分間を費や
したのみだった。
かくてジャン・ヴァルジャンは、
まだ気を失ってるマリユスと共に、
地下の長い廊下みたいなものの中
に出た。
そこは、深い静穏、まったくの
やみよ
沈黙、闇夜のみであった。
昔街路から修道院の中に落ちこ
んだ時に感じた印象が、彼の頭に
574
浮かんできた。ただ、彼が今になっ
ているのは、コゼットではなくて
マリユスであった。
ばくぜん
襲撃を受けてる居酒屋の恐ろし
そうじょう
い騒擾の響きも、今や漠然たるつ
ぶやきの声のように、かすかに頭
の上方に聞こえるきりだった。
575
第二編 怪物の腸
や
一 海のために痩する
土地
パリーは年に二千五百万フラン
の金を水に投じている、しかもこ
ひ ゆ
れは比喩ではない。いかにしてま
たいかなる方法でか? 否昼夜の
576
別なく常になされている。いかな
る目的でか? 否何の目的もない。
いかなる考えでか? 否何という
考えもない。何ゆえにか? 否理
由はない。いかなる機関によって
か? その腸によってである。腸
いわ
とは何であるか? 曰く、下水道。
二千五百万という金額は、その
方面の専門科学によって見積もら
れた概算のうちの最も低い額であ
577
る。
科学は長い探究の後、およそ肥
料中最も豊かな最も有効なのは人
間から出る肥料であることを、今
日認めている。恥ずかしいことで
あるが、われわれヨーロッパ人よ
りも先に支那人はそれを知ってい
た。エッケベルク氏の語るところ
によれば、支那の農夫で都市に行
おわい
く者は皆、われわれが汚穢と称す
578
おけ
るところのものを二つの桶にいっ
たけざお
ぱい入れ、それを竹竿の両端に下
げて持ち帰るということである。
人間から出る肥料のお陰で、支那
の土地は今日なおアブラハム時代
のように若々しい。支那では小麦
ま
ひよ
が、種を一粒蒔けば百二十粒得ら
かいちょうふん
ざんさい
るる。いかなる海鳥糞も、その肥
く
沃さにおいては都市の残滓に比す
はいせつぶつ
べくもない。大都市は排泄物を作
579
るに最も偉大なものである。都市
こや
を用いて平野を肥すならば、確か
に成功をもたらすだろう。もしわ
れわれの黄金が肥料であるとする
ならば、逆に、われわれの出す肥
料は黄金である。
この肥料の黄金を人はどうして
しんえん
いるか? 深淵のうちに掃きすて
ているのである。
ばくだい
多くの船隊は莫大な費用をかけ
580
ふん
て、海燕やペンギンの糞を採りに、
南極地方へ送り出される。しかる
に手もとにある無限の資料は海に
捨てられている。世間が失ってい
る人間や動物から出るあらゆる肥
料を、水に投じないで土地に与え
るならば、それは世界を養うに足
りるであろう。
標石のすみに積まれてる不潔物、
でいねい
夜の街路を通りゆく泥濘の箱車、
581
ご み
たる
しきいし
塵芥捨て場のきたない樽、鋪石に
おでい
隠されてる地下の臭い汚泥の流れ、
それらは何であるか? 花咲く牧
たむらそう
場であり、緑の草であり、百里香
じゃこうそう
や麝香草や鼠尾草であり、小鳥で
あり、家畜であり、夕方満足の声
を立てる大きな牛であり、かおり
まぐさ
高い秣であり、金色の麦であり、
食卓の上のパンであり、人の血管
を流るるあたたかい血液であり、
582
健康であり、喜悦であり、生命で
もろもろ
ある。地にあっては諸の形に現わ
すがた
れ、天にあっては諸の象に現われ
る、神秘な創造は、そうであらん
ことを望んでいる。
るつぼ
それを取って大なる坩堝に入る
れば、人の豊かなる滋養が流れ出
る。平野の養分は人間の養いとな
る。
人はかかる富をすてるも自由で
583
あり、また吾人のこの意見を笑う
も自由である。しかしそれはかえっ
て大なる無知を表明するにすぎな
いであろう。
統計によれば、フランス一国の
みにて毎年約五億フランの金を、
各河口から大西洋に注ぎ込んでい
るという。見よ、五億の金があれ
ば歳費の四分の一を払い得るでは
ないか。人間の知恵は、その五億
584
どぶ
を喜んで溝の中に厄介払いしてい
る。しかもそれは民衆の滋養分で
あって、それを初めは一滴一滴と
下水道から川に吐き出し、ついに
とうとう
は滔々と川から大洋に吐き出して
いる。下水の一流しは千フランを
むだにしている。そこから二つの
そうせき
結果が生ずる、すなわち痩瘠した
土地と有毒な水と。飢餓は田地か
しっぺい
らきたり、疫病は川から来る。
585
たとえば、現在テームス川がロ
ンドンを毒しつつあることは、顕
著な事実である。
パリーについて言えば、最近下
水道の大部分は、下流の方の最後
の橋下に移さねばならなかった。
そつうせき
弁と疏通堰とを備えて吸い取り
また吐き出す二重管の装置は、人
の肺臓のように簡単な初歩の疏水
の方法であって、既にイギリスの
586
多くの村では充分に行なわれてる
ことであるが、それを設けるだけ
でも、フランスにおいて、田野の
清水を都市に導き都市の肥沃な水
を田野に送るには充分であろう。
そしてごく簡単で容易なその交換
は今日捨てられつつある五億の金
を回収するであろう。しかるに人
はまるで別なことを考えている。
現在の方法は、よくするつもり
587
でかえって悪いことをしている。
意向はよいが、結果は哀れである。
都市を清潔にするつもりで、実は
い び
住民を萎靡さしている。下水道は
誤った考えである。取るものをま
た戻すという二重の働きをする疏
水工事が、ただ洗い清めるだけで
かえって貧弱ならしむる下水道の
代わりに、いたる所に設けらるる
ならば、その時こそ、新しい社会
588
経済の効果と相伴って、土地の産
物は十倍にもなり、貧苦の問題は
著しく軽減されるだろう。その上
に寄食の排除をもってすれば、問
題はまったく解決されるだろう。
しかしそれまでは、公衆の富は
ろうえい
川に流れ去り、漏泄が行なわれる。
漏泄とはちょうど適した言葉であ
る。ヨーロッパはかくのごとくし
て疲弊のうちに滅びてゆく。
589
フランスについては、損失額は
上に述べたとおりである。しかる
に、パリーはフランス全人口の二
ふん
十五分の一を有し、パリー市の糞
は最上とされているので、パリー
の損失高は、フランスが年々失っ
てる五億のうちの二千五百万フラ
ンに当たるとしても、あえて過当
の計算ではない。この二千五百万
フランを、救済や娯楽の事業に用
590
いたならば、パリーの光輝は倍加
するはずである。しかるに市はそ
れを汚水に投じ去っている。それ
でかく言うこともできる、パリー
の一大浪費、その驚くべき華美、
ボージョン︵訳者注 十八世紀の
ごうしゃ
大富豪︶式の乱行、遊興、両手で
ま
蒔き散らすような金使い、豪奢、
ぜいたく
贅沢、華麗、それは実に下水道で
あると。
591
かくて誤った盲目な社会経済学
おぼ
のために、万人の幸福は水に溺れ、
しんえん
水に流れ、深淵のうちに失われて
いる。社会の富をすくい取るため
にサン・クルーの辺に網でも張る
べきであろう。
経済上より言えば、右の事実を
かく約言することができる、すな
かご
わち、パリーは底のぬけた籠であ
ると。
592
パリーは模範市であり、各国民
からまねられる模型的な完全市で
あり、理想の住む首都であり、発
案と衝動と試験との堂々たる祖国
であり、あらゆる精神の住所であ
えんぜん
り中心地であり、宛然一国をなす
都市であり、未来の発生地であり、
バビロンとコリントを結合した驚
くべき都であるが、これを上に述
べきたった見地から見る時には、
593
そび
南支那の一農夫をして肩を聳やか
させるであろう。
パリーを模倣するは、自ら貧窮
に陥ることである。
その上、古来から行なわれてる
愚かなその浪費についてはことに、
パリー自身も一つの模倣者である。
ぐもうじ
この驚くべき愚妄事は新しく始
まったことではない。それは決し
て若気のばかさではない。古人も
594
近代人のようなことをしていた。
リービッヒは言う、﹁ローマの下
水道はローマの農夫の繁栄をこと
ごとく吸いつくした。﹂ローマの
いなか
田舎がローマの下水道によって衰
微させられた時、ローマはまった
くイタリーを疲弊さしてしまった、
そしてイタリーを下水道のうちに
投じ去った時、更にシシリーを投
じ去り、次にサルヂニアを投じ去
595
り、次にアフリカを投じ去ってし
まった。ローマの下水道は世界を
どんぜい
のみ込んだのである。その呑噬の
口を、市と世界とに差し出したの
・ ・ ・ ・ ・ ・
である。全く市と世界とに︵訳者
注 ローマ法王の祝祷中にある言
葉︶である。永遠の都市と、しか
も底知れぬ下水道。
他の方面におけると同じくこの
ことについても、ローマはその実
596
例をたれている。
ぐまい
明知の都市に固有な一種の愚昧
さをもって、パリーはその実例に
ならっている。
かくて、今述べきたった事業を
完成せんがために、パリーはその
地下にも一つパリーを有するに至っ
た。すなわち下水道のパリーであ
つじ
る。そこにも街路があり、四つ辻
があり、広場があり、袋町があり、
597
動脈があり、汚水の血が流れてい
て、ただ人影がないばかりである。
ろう
何者にも、たとえ偉大なる民衆
あ ゆ
にも、阿諛の言を弄してはならな
いから、吾人はあえて言うのであ
る。すべてがある所には、崇高と
ひせん
相並んで卑賤も存する。パリーの
うちには、光明の町たるアテネが
あり、力の町たるチロがあり、勇
気の町たるスパルタがあり、奇跡
598
の町たるニニヴェがありはするが、
でいど
また泥土の町たるルテチア︵訳者
注 古代のパリー︶もある。
けれどその力もまたそこに蔵さ
もろもろ
れている。諸の記念物のうちにお
こう
いても、パリーの巨大な下水の溝
きょ
渠は特に、マキアヴェリやベーコ
ンやミラボーなどのごとき人物に
よって人類のうちに実現された不
ひせん
思議な理想を、すなわち卑賤なる
599
壮大さを実現してるものである。
パリーの地下は、もし中を透視
せきさん
し得るとするならば、巨大な石蚕
の観を呈しているだろう。古い大
都市が立ってる周囲六里のこの土
地には、海綿も及ばないほど多く
あいろ
の水路や隘路がついている。別に
どうくつ
一個の洞窟をなしてる墳墓は別と
こうし
し、ガス管の入り乱れた格子の目
は別とし、給水柱に終わってる上
600
水分配の広大な一連の管は別とし
て、ただ下水道だけでさえ、セー
ヌの両岸の下に暗黒な驚くべき網
の目を作っている。それはまった
く迷宮であって、その傾斜が唯一
の道しるべである。
もや
その湿った靄の中には、パリー
ねずみ
が産んだかと思える鼠の姿が見え
ている。
601
二 下水道の昔の歴史
ふた
蓋を取るようにパリー市を取り
ちょうかんてき
去ったと想像すれば、鳥瞰的に見
らるる下水道の地下の網目は、セー
つぎき
ヌ川に接木した大きな木の枝のよ
うにその両岸に現われてくるだろ
いじょうこうきょ
う。右岸においては、囲繞溝渠が
その枝の幹となり、その分脈は小
枝となり、行き止まりの支脈は細
602
枝となる。
しかしその形は、概略のもので
まったく正確というわけにはゆか
かど
ない。かかる地下の分枝の角は普
通直角をなしているが、植物の枝
には直角なのはきわめてまれであ
る。
その不思議な幾何学的図形にいっ
かたち
そうよく似た象を想像しようとす
くさむら
るならば、叢のように錯雑した不
603
思議な東方文字を、暗黒面の上に
平たく置いたと仮定すればよろし
い。その妙な形の文字は、一見し
たところ入り乱れて無茶苦茶なよ
うであるが、あるいは角と角とで
あるいは一端と一端とで、互いに
結び合わされている。
汚水だめや下水道は、中世や後
期ローマ帝国や古い東方諸国など
において、多大の役目をなしてい
604
た。疫病はそこから発し、専制君
主らはそこに死んだ。衆人はその
ようらん
腐敗の床を、恐るべき死の揺籃を、
けいけん
そうくつ
一種敬虔な恐怖をもってながめて
ほら
いた。ベナレスの寄生虫の巣窟は、
し し
バビロンの獅子の洞にも劣らぬ幻
惑を人に与えていた。ユダヤ神学
の書物によれば、テグラート・ファ
ラザル︵訳者注 古代アッシリア
の王︶はニニヴェの汚水だめによっ
605
て誓っていた。ライデンのヨハン
が偽りの月を出してみせたのは、
ムュンステルの下水道からである。
このヨハンに相当する東方人でコ
ラサンの隠れた予言者モカナが、
偽りの太陽を出してみせたのは、
ケクシェブの汚水井戸からである。
げすいこうきょ
人間の歴史は下水溝渠の歴史に
反映している。死体投棄の溝渠は
ローマの歴史を語っていた。パリー
606
の下水道は古い恐るべきものであっ
た。それは墳墓でもあり、避難所
でもあった。罪悪、知力、社会の
抗議、信仰の自由、思想、窃盗、
人間の法律が追跡するまたは追跡
きづ
したすべてのものは、その穴の中
がいとうとうぞく
に身を隠していた。十四世紀の木
ちぼうと
槌暴徒、十五世紀の外套盗賊、十
六世紀のユーグノー派、十七世紀
のモラン幻覚派、十八世紀の火傷
607
強盗、などは皆そこに身を隠して
いた。百年前には、夜中短剣がそ
こから現われてきて人を刺し、ま
す り
た掏摸は身が危うくなるとそこに
どうけつ
潜み込んだ。森に洞穴のあるごと
く、パリーには下水道があった。
ゴール語のいわゆるピカルリアと
いう無籍者らは、クール・デ・ミ
ラクル一郭の出城として下水道に
居を構え、夕方になると寝所には
608
どうもう
いるように、せせら笑った獰猛な
様子でモーブュエの大水門の下に
戻っていった。
ヴィード・グーセ袋町︵巾着切
袋町︶やクープ・ゴルジュ街︵首
切り街︶などを毎日の仕事場とし
てる者どもが、シュマン・ヴェー
ろうおく
ルの小橋やユルポアの陋屋を夜の
住居とするのは、至って当然なこ
とだった。そのために無数の口碑
609
が伝わっている。あらゆる種類の
幽鬼がその長い寂しい地郭に住ん
ふらん
でいる。至る所に腐爛と悪気とが
ある。中にいるヴィヨンと外のラ
ブレーと︵訳者注 盗賊の仲間に
はいったことのある十五世紀の大
詩人、および愉快な風刺家であっ
た十六世紀の文豪︶が互いに話し
合う風窓が、所々についている。
いにしえのパリーにおいては、
610
ひはい
下水道の中にあらゆる疲憊とあら
ゆる企図とが落ち合っていた。社
ざんさい
会経済学はそこに一つの残滓を見、
そうはく
社会哲学はそこに一つの糟粕を見
る。
下水道は都市の本心である。す
べてがそこに集中し互いに面を合
わせる。その青ざめたる場所には、
くらやみ
暗闇はあるが、もはや秘密は存し
ない。事物は各、その真の形体を
611
保っている、もしくは少なくとも
その最後の形体を保っている。不
潔の堆積なるがゆえに、その長所
として決して他を欺かない。率直
がそこに逃げ込んでるのである。
バジル︵訳者注 ボーマルシェー
の戯曲﹁セヴィールの理髪師﹂中
の人物にて滑稽なる偽善者の典型︶
の仮面はそこにあるが、しかしそ
の厚紙も糸もそのままに見え、外
612
面とともに内面も見えていて、正
でいど
直なる泥土が看板となっている。
その隣には、スカパン︵訳者注 モリエールの戯曲﹁スカパンの欺
罔﹂中の人物にて巧妙快活なる欺
罔者の典型︶の作り鼻がある。文
明のあらゆる不作法は、一度その
役目を終われば、社会のあらゆる
どぶ
ものがすべり込むこの真実の溝の
中に落ちてゆき、そこにのみ込ま
613
れてしまう。しかしそこでは身を
隠しはしない。それらの錯雑は一
つの告白である。そこでは、偽り
こ と
の外見もなく、何らの糊塗もなく、
しゅうろう
醜陋もそのシャツをぬぎ、まった
しんきろう
くの裸となり、幻や蜃気楼は崩壊
し、用を終えしもののすごい顔つ
きをしながら、もはやただあるが
びん
ままの姿をしか保たない。現実と
いんめつ
堙滅とのみである。そこでは、壜
614
かご
ひぼ
の底は泥酔を告白し、籠の柄は婢
く
僕の勤めを語る。そこでは、文学
りんご
上の意見を持っていた林檎の種は、
再び単なる林檎の種となる。大き
ろくしょう
な銅貨の面の肖像は素直に緑青で
つば
蔽われ、カイファスの唾はフォル
おうとぶつ
スタフの嘔吐物と相会し︵訳者注
前者はキリストを処刑せしユダ
ヤの司祭、後者はジャンヌ・ダル
クに敗られしイギリスの将軍︶、
615
くぎ
賭博場から来るルイ金貨は自殺者
ひも
の紐の端が下がってる釘と出会い、
青白い胎児はこの前のカルナヴァ
ル祭最終日にオペラ座で踊った金
ぴか物に包まれて転々し、人々を
せんぷ
裁いた法官帽は賤婦の裳衣だった
ちんでき
腐敗物の傍に沈溺する。それは友
じっきん
愛以上であり、昵近である。脂粉
を塗っていたものもすべて顔を汚
す。最後の覆面も引きはがれる。
616
下水道は一つの皮肉家である。そ
れはすべてのことをしゃべる。
不潔なるもののかかる誠実さは、
吾人を喜ばせ吾人の心を休める。
国家至上の道理、宣誓、政略、人
間の裁判、職務上の清廉、地位の
威厳、絶対に清い法服、などが装
ういかめしい様子を、地上におい
て絶えず見続けてきた後、下水道
にはいってそれらのものにふさわ
617
おでい
しい汚泥を見るのは、いささか心
を慰むるに足ることである。
それがまた同時に種々のことを
教える。さきほど述べたとおり、
歴史は下水道を通ってゆく。サン・
バルテルミーのごときあらゆる非
しきいし
道は、鋪石の間から一滴一滴とそ
こにしたたる。公衆の大虐殺は、
政治上および宗教上の大殺戮は、
この文明の地下道を通って、そこ
618
しがい
に死骸を投げ込んでゆく。夢想家
の目より見れば、史上のあらゆる
きょうかた
虐殺者らがそこにいて、恐ろしい
ひざ
薄暗がりの中に膝をかがめ、経帷
びら
子の一片を前掛けとし、悲しげに
おのれの所業をぬぐい消している。
ルイ十一世はトリスタンと共にお
り、フランソア一世はデュプラー
と共におり、シャール九世は母親
と共におり、リシュリユーはルイ
619
十三世と共におり、ルーヴォアも、
ルテリエも、エベールも、マイヤー
つめ
ルもおり、皆石を爪でかきながら、
おのれの行為の跡を消そうと努め
どうけつ
ている。それらの洞穴の中には、
ほうき
幽鬼らの箒の音が聞こえる。社会
の災害の大なる悪臭が呼吸される。
片すみには赤い反映が見える。そ
こには血のしたたる手が洗われた
恐ろしい水が流れている。
620
社会観察者はそれらの影の中に
はいらなければいけない。それら
の影も社会実験室の一部をなす。
哲学は思想の顕微鏡である。すべ
てはそれから逃げようと欲するが、
何物もそれから脱することはでき
ない。方々逃げ回ってもむだであ
る。逃げ回りながら人はいかなる
方面を示すか? 不名誉な方面を
ではないか。哲学は活眼をもって
621
悪を追求し、虚無のうちにのがれ
う
去るのを許さない。消滅する事物
とまつ
の塗抹のうちにも、消え失する事
物の縮小のうちにも、哲学はすべ
ひ い
てを認知する。ぼろを再び緋衣と
なし、化粧品の破片を再び婦人と
おすいこうきょ
なす。汚水溝渠で都市を再び作り
でいど
びん
出し、泥土で再び風俗を作り出す。
つぼ
陶器の破片を見ては、壺や瓶を結
つめあと
論する。羊皮紙の上の爪跡で、ユー
622
デンガスのユダヤ居住地とゲットー
のユダヤ居住地との差を見て取る。
今残っているもののうちに、かつ
けっ
てありしものを見いだす、すなわ
どうくつ
ぼくこん
しょうか
ろう
ち、善、悪、偽、真、宮殿内の血
こん
痕、洞窟の墨痕、娼家の蝋の一滴、
与えられた苦難、喜んで迎えられ
た誘惑、吐き出された遊楽、りっ
ぱな人々が身をかがめつつ作った
ひだ
襞、下等な性質のために起こる心
623
おどく
のうちの汚涜の跡、ローマの人夫
らの短上衣にあるメッサリナ︵訳
者注 クラウディウス皇帝の妃に
ひじ
して淫乱で有名な女︶の肱の跡、
などを見いだすのである。
三 ブリュヌゾー
パリーの下水道は、中世におい
ては伝説的な状態にあった。十六
624
世紀に、アンリ二世はその測量を
試みたが、失敗に終わった。メル
シエの立証するところによれば、
今から百年足らず前までは、下水
道はまったく放棄されていて、な
るがままに任せられていた。
そういうふうにこの古いパリー
は、論議と不決定と模索とにすべ
て放任されていた。長い間かなり
ぐまい
愚昧のままであった。その後、八
625
九年︵一七八九年︶はいかにして
都市に精神が出て来るかを示した。
しかしいにしえにおいては、首府
はあまり頭脳を持っていなかった。
精神的にもまたは物質的にも自分
の仕事を処理する道を知らず、弊
害を除去することができないとと
もに汚物を除去することもできな
かった。すべてが妨害となり、す
べてが疑問となった。たとえば、
626
下水道はまったく探査することが
できなかった。市中においては万
事わけがわからないとともに、汚
水だめの中においては方向を定め
ることができなかった。地上にて
は了解が不可能であり、地下にて
は脱出が不可能だった。言語の混
どうけつ
乱の下には洞穴の混乱があった。
迷宮がバベルの塔と裏合わせになっ
ていた。
627
時とするとパリーの下水道は、
あたかも軽視されたナイル川が突
はんらん
然憤ることがあるように、氾濫の
念を起こすことがあった。きたな
らしいことではあるが、実際下水
ちょういつ
道の漲溢が幾度も起こった。時々
この文明の胃袋は不消化に陥り、
のどもと
はんすう
汚水は市の喉元に逆流し、パリー
おでい
はその汚泥を反芻して味わった。
そしてかく下水道と悔恨との類似
628
は実際有益だった。それは人に警
告を与えた。しかしそれもかえっ
て悪い意味にばかり取られた。市
はその泥土の鉄面皮に腹を立てて、
不潔が再び戻って来るのを許さな
かった。なおいっそうよく追い払
おうとした。
一八〇二年の氾濫は、八十歳ほ
どになるパリー人が今もよく記憶
している。汚水は、ルイ十四世の
629
銅像があるヴィクトアール広場に
縦横にひろがり、またシャン・ゼ
リゼーの下水道の二つの口からサ
ン・トノレ街へはいり、サン・フ
ロランタンの下水道からサン・フ
ロランタン街へ、ソンヌリーの下
水道からピエール・ア・ポアソン
街へ、シュマン・ヴェールの下水
道からポパンクール街へ、ラップ
街の下水道からロケット街へはいっ
630
いしどい
た。シャン・ゼリゼーの石樋をお
おうこと、三十五センチの高さに
およんだ。そして南の方は、セー
ヌ川への大水門から逆行して、マ
ザリーヌ街やエショーデ街やマレー
街まではいり込み、百九メートル
の距離の所、ちょうどラシーヌが
昔住んでいた家の数歩前の所で、
ようやく止まった。十七世紀に対
しては国王︵ルイ十四世︶よりも
631
詩人︵ラシーヌ︶の方を尊敬した
わけである。その深さはサン・ピ
しきいし
エール街が最高で、水口の舗石の
上三尺に達し、その広さはサン・
サバン街が最高で、二百三十八メー
トルの距離にひろがった。
十九世紀の初めにおいても、パ
リーの下水道はなお神秘な場所で
でいど
あった。およそ泥土は決して令名
を得るものではないけれども、当
632
時はその悪名が恐怖を起こさせる
ばくぜん
ほどに高かった。パリーは漠然と、
どうけつ
自分の下に恐ろしい洞穴があるの
む
を知っていた。一丈五尺もある百
か で
足虫が群れをなし、怪獣ベヘモス
の浴場にもなり得ようという、テー
ベの奇怪な沼のように人々はそれ
なが
を思っていた。下水掃除人らの長
ぐつ
靴も、よく知られてるある地点よ
り先へは決して踏み込まなかった。
633
サント・フォアとクレキ侯とがそ
の上で互いに親交を結んだという
じんかいそうじにん
あの塵芥掃除人の箱車が、下水道
あ
の中にそのまま空けられていた時
代、それからあまり遠くない時代
しゅんせつ
だったのである。下水道の浚渫は
まったく豪雨にうち任せてあった
が、雨水はそれを掃除するという
へいそく
よりも閉塞することの方が多かっ
こうきょ
た。ローマは汚水の溝渠に多少の
634
詩味を与えてゼモニエ︵階段︶と
呼んでいたが、パリーはそれを侮
辱してトルー・プュネー︵臭気孔︶
と呼んでいた。科学も迷信も同じ
けんお
嫌悪の情をいだいていた。臭気孔
は、衛生にとっても伝説にとって
けんお
も共に嫌悪すべきものだった。大
入道がムーフタールの下水道の臭
きゅうりゅう
い穹窿の下に閉じ込められていた。
マルムーゼら︵訳者注 ルイ十五
635
世の時陰謀をはかった青年諸侯︶
の死体はバリユリーの下水道に投
ぜられていた。ファゴンの説によ
ると、一六八五年の恐ろしい熱病
は、マレーの下水道にできた大き
な割れ目から起こったものとのこ
とである。その割れ目は、一八三
三年まで、サン・ルイ街の風流馬
車の看板が出てる前の方に、大き
く口を開いたままであった。また
636
モルテルリー街の下水道の口は、
疫病の出口として有名だった。一
さま
列の歯に似て先のとがった鉄棒の
こうし
格子がついてる様は、その痛まし
い街路の中にあって、あたかも地
かいりゅう
獄の気を人間に吹きかける怪竜の
口かと思われた。民衆の想像は、
パリーの陰暗な下水道に、ある無
窮的な恐ろしいことどもを付け加
えていた。下水道は底なしであっ
637
た。バラトロム︵訳者注 アテネ
にて死刑囚を投げ込みし深淵︶で
ふらん
あった。その恐ろしい腐爛の地域
を探険しようという考えは、警察
やみ
の人々にも起こらなかった。その
しら
しんえん
未知の世界を検べること、その闇
おもり
の中に錘を投ずること、その深淵
の中に探査に行くこと、だれがそ
れをあえてなし得たろうか。それ
せんりつ
こそ戦慄すべきことだった。けれ
638
ども、やってみようという者もい
こうきょ
た。汚水の溝渠にもそのクリスト
フ・コロンブスがいた。
一八〇五年のある日、例のとお
り珍しく皇帝がパリーにやってき
た時、ドゥクレスだったかクレテ
だったか時の内務大臣がやってき
ないえつ
て、内謁を乞うた。カルーゼルの
広場には、大共和国および大帝国
の偉大なる兵士らのサーベルの音
639
が響いていた。ナポレオンの戸口
は勇士らでいっぱいになっていた。
ラインやエスコーやアディジェや
ナイルなどの戦線に立った人々、
ジューベールやドゥゼーやマルソー
やオーシュやクレベルらの戦友、
フルーリュスの気球兵、マイヤン
てきだんへい
スの擲弾兵、ゼノアの架橋兵、エ
ジプトのピラミッドをも見てきた
どろ
軽騎兵、ジュノーの砲弾から泥を
640
浴びせられた砲兵、ゾイデルゼー
に停泊してる艦隊を強襲して占領
した胸甲兵、また、ボナパルトに
従ってロディの橋を渡った者もお
ざん
り、ムュラーと共にマントアの塹
ごう
壕中にいた者もおり、ランヌに先
あいろ
立ってモンテベロの隘路を進んだ
者もいた。当時の軍隊はすべて、
分隊または小隊で代表されて、テュ
イルリー宮殿の中庭に並び、休息
641
中のナポレオンを護衛していた。
大陸軍が過去にマレンゴーの勝利
を持ち前途にアウステルリッツの
さんぜん
勝利を控えてる燦然たる時代だっ
た。内務大臣はナポレオンに言っ
た、﹁陛下、私は昨日帝国におい
て最も勇敢な男に会いました。﹂
﹁どういう男だ? そしてどうい
うことをしたのか、﹂と皇帝はせ
き込んで言った。﹁ある事をした
642
いと申すのです。﹂﹁何を?﹂
﹁パリーの下水道にはいってみよ
うと申します。﹂
その男は実在の人物で、ブリュ
ヌゾーと言う名前であった。
四 世に知られざる事
がら
その探険はやがて行なわれた。
643
恐るべき戦陣だった、疫病と毒ガ
スとに対する暗黒中の戦いだった、
同時にまた発見の航海だった。そ
の探険隊のうちでまだ生き残って
れいり
るひとり、当時ごく若い怜悧な労
働者だったひとりが、公文書の文
体に適せぬので警視総監への報告
中にブリュヌゾーが省略しなけれ
ばならなかった不思議な事実を、
今から数年前まで人に語ってきか
644
していた。当時の消毒方法はきわ
めて初歩の程度だった。ブリュヌ
ゾーが地下の網目の最初の支脈を
越すか越さないうちに、二十人の
一隊のうち八人の者はもう先へ進
むことを拒んだ。仕事は複雑で、
しゅんせつ
探険とともに浚渫の役をも兼ねて
きよ
いた。潔めながらまた同時に種々
の測量をしなければならなかった。
てつ
すなわち、水の入り口を調べ、鉄
645
ごうし
格子および穴を数え、支脈をきわ
め、分岐点の水流を見、種々のた
まりに関する区画を見て取り、主
きゅうりゅう
要水路に続いてる小水路を探り、
すいどう かなめいし
各隧道の要石の下の高さ、穹窿の
わんきょくぶ
彎曲部と底部とにおける広さ、な
どを測定し、終わりに、各水口と
直角に水面線を、底部と街路の地
面と両方からの距離で定めるので
あった。前進は遅々として困難だっ
646
はしご
でいちゅう
た。下降用の梯子が底の泥中に三
尺も没することは珍しくなかった。
角灯はガスのためによく燃えなかっ
た。気絶した者を時々運び出さな
ければならなかった。ある所は絶
壁のようになっていた。地面はく
ずれ、石畳は落ち、下水道はすた
れ井戸のようになっていた。堅い
足場は得られなかった。ひとりの
者が突然沈み込み、それを引き上
647
げるのも辛うじてだった。化学者
フールクロアの注意に従って、十
かご
分に潔めた場所には樹脂に浸した
あさくず
麻屑をいっぱいつめた大きな籠に
きのこ
火をともしていった。壁には所々、
はれもの
腫物とも言えるような妙な形の菌
よう
様のものが、一面に生じていた。
呼吸もできないほどのその場所で
は、石までが病気になってるかと
思われた。
648
しも
ブリュヌゾーはその探険におい
かみ
て、上から下へと進んでいった。
グラン・ユルルールの二つの水路
が分かれてる所で、彼はつき出た
石の上に一五五〇という年号を読
み分けた。その石はフィリベール・
ドゥロムがアンリ二世の命を受け
て、パリーの下水道を探険した時、
最後に到着した地点を示すもので、
こん
下水道にしるされた十六世紀の痕
649
せき
跡だった。またブリュヌゾーは、
一六〇〇年から一六五〇年の間に
上をおおわれた二つ、ポンソーの
水路とヴィエイユ・デュ・タンプ
ル街の水路との中に、十七世紀の
手工を見いだし、一七四〇年に切
しゅうごうこう
り開かれて上をおおわれた集合溝
きょ
渠の西部に、十八世紀の手工を見
きゅうりゅう
いだした。その二つの穹窿、こと
いじ
に新しい方の一七四〇年のは、囲
650
ょうこうきょ
しっくいこうじ
繞溝渠の漆喰工事よりもいっそう
きれつ
亀裂や崩壊がはなはだしかった。
囲繞溝渠は一四一二年に成ったも
ので、その時メニルモンタンの小
さな水流はパリーの大下水道に用
いられて、農夫の下男が国王の侍
従長になったほどの昇進をし、グ
ロ・ジャンがルベルに︵杢兵衛ど
んがお殿様に︶なったようなもの
だった。
651
所々に、ことに裁判所の下の所
ちろ
に、下水道の中に作られた昔の地
う
牢の監房とも思えるようなものが
イン
わずかに認められた。恐ろしい地
パーセ
下牢である。それらの監房の一つ
には、鉄の首輪が下がっていた。
一同はそれらを皆ふさいでいった。
また発見された物にはずいぶん珍
ひひ
しいものがあった。なかんずく猩々
がいこつ
の骸骨はすぐれたものであった。
652
この猩々は一八〇〇年に動植物園
から姿を隠したもので、十八世紀
の末ベルナルダン街に猩々が出た
という名高い確かな事実と、おそ
らく関係があるものに違いない。
できし
獣はあわれにも下水道の中に溺死
してしまったのである。
アルシュ・マリオンに達する長
あいろ
お
かご
い丸天井の隘路の下に、少しも破
くずや
損していない屑屋の負い籠が一つ
653
あったことは、鑑識家らの嘆賞を
買い得た。人々が勇敢に征服して
でいど
いった泥土の中には、至る所に、
金銀細工物や宝石や貨幣などの貴
ふるい
重品が満ちていた。もし巨人があっ
こ
てその泥土を漉したならば、篩の
中に数世紀間の富が残ったに違い
ない。タンプル街とサント・アヴォ
ア街との二つの水道の分岐点では、
ユーグノー派の珍しい銅のメダル
654
が拾われた。その一面には、枢機
官の帽をかぶった豚がついており、
他の面には、法王の冠をかぶった
狼がついていた。
だいこうきょ
大溝渠の入り口の所で、最も意
外なものに人々は出会った。その
てつごうし
入り口は、昔は鉄格子で閉ざされ
ひじがね
ていたのであるが、もう肱金しか
残っていなかった。ところがその
肱金の一つに、形もわからないよ
655
ごれた布が下がっていた。おそら
く流れてゆく途中でそこに引っか
かって、やみの中に漂い、そのま
ま裂けてしまったものだろう。ブ
リュヌゾーは角燈をさしつけて、
そのぼろを調べていた。バチスト
織りの精巧な麻布で、いくらか裂
け方の少ない片すみに、冠の紋章
LAU
ししゅう
という七文字が刺繍し
がついていて、その上に
BESP
656
Laubespine
てあった。冠は侯爵の冠章だった。
七文字は
︵ローベスピーヌ︶という女名の
略字だった。一同は眼前のその布
ひつぎぎれ
片がマラーの柩布の一片であるこ
とを見て取った。マラーには青年
時代に情事があった。それは獣医
きぐう
としてアルトア伯爵の家に寄寓し
ていた頃のことである。歴史的に
証明されてるある一貴婦人との情
657
事から、右の敷き布が残っていた。
偶然に取り残されていたのか、あ
るいは記念として取って置かれた
のか、いずれかはわからないがと
にかく、彼が死んだ時家にある多
少きれいな布と言ってはそれが唯
ひつぎぎれ
一のものだったので、それを柩布
としたのであった。婆さんたちは、
・ ・ ・ ・
この悲劇的な民衆の友を、歓楽の
からんだその布に包んで、墳墓へ
658
送りやったのである。
ブリュヌゾーはそこを通り越し
た。一同はぼろをそのままにして
おいて手をつけなかった。それは
軽蔑からであったろうか、あるい
は尊敬からであったろうか? と
もあれマラーはそのいずれをも受
けるの価値があった。その上宿命
の跡はあまりに歴然としていて、
ちゅうちょ
人をしてそれに触れることを躊躇
659
さしたのである。もとより、墳墓
に属する物はそれが自ら選んだ場
所に放置しておくべきである。要
するにその遺物は珍しいものであっ
た。侯爵夫人がそこに眠っており、
マラーがそこに腐っていた。パン
テオンを通って、ついに下水道の
ねずみ
鼠の中に到着したのである。その
寝所の布片は、昔はワットーによっ
ひだ
てあらゆる襞まで喜んで写される
660
ものであったが、今はダンテの凝
視にふさわしいものとなり果てて
いた。
おすいこうきょ
パリーの地下の汚水溝渠を全部
検分するには、一八〇五年から一
二年まで七年間を要した。進むに
したがってブリュヌゾーは、種々
の大事業を計画し、指揮し、成就
した。一八〇八年には、ポンソー
の水路の底部を低くし、また方々
661
に新水路を作っては下水道をひろ
げ、一八〇九年には、サン・ドゥ
ニ街の下をインノサンの噴水の所
まで、一八一〇年には、ゾロアマ
ントー街の下とサルペートリエー
ル救済院の下とに、一八一一年に
は、ヌーヴ・デ・プティー・ペー
ル街の下、マイュ街の下、エシャ
ルプ街の下、ロアイヤル広場の下
に、一八一二年には、ペー街の下
662
とアンタン大道の下とに、下水道
をひろげた。同時にまた、あらゆ
る水路を消毒し健全にした。二年
目からブリュヌゾーは、婿のナル
ゴーをも仕事に加わらした。
かくのごとくして十九世紀の初
めには、旧社会はその二重底を清
め下水道の化粧をした。とにかく
それだけ清潔になったわけである。
うきょく
迂曲し、亀裂し、石畳はなくな
663
り、裂け目ができ、穴があき、錯
かど
雑した曲がり角が入り組み、秩序
もなく高低し、悪臭を放ち、野蛮
しきいし
で、暗黒のうちに沈み、舗石にも
しょうこん
壁にも傷痕がつき、恐怖すべき姿
で横たわっている、そういうのが
パリーの昔の下水道をふり返って
かもあし
見たありさまだった。四方への分
ざんごう
岐、塹壕の交差、枝の形、鴨足の
形、坑道の中にあるような亀裂、
664
盲腸、行き止まり、腐蝕した丸天
しっしん
井、臭い水たまり、四壁には湿疹
しんしゅつぶつ
のような滲出物、天井からたれる
水滴、暗黒、実にバビロンの町の
どうくつ
しんえん
胃腸であり、洞窟であり、墓穴で
うが
あり、街路が穿たれている深淵で
あり、かつては華麗であった醜汚
ほうこう
の中に、過去と称する盲目の巨大
もぐら
な土竜が彷徨するのが暗黒の中に
もぐら
透かし見らるる、広大なる土竜の
665
穴であって、その古い吐出口の墓
窟のごとき恐ろしさに匹敵するも
のは何もない。
繰り返して言うが、そういうの
・ ・
がすなわち過去の下水道であった。
五 現在の進歩
今日では、下水道は清潔で、冷
ややかで、まっすぐで、規則正し
666
い。イギリスにてレスペクタブル
︵りっぱな︶という言葉が含む意
味の理想的なものを、ほとんど実
かみしも
現している。整然として薄ら明る
すみなわ
く、墨繩で設計され、あたかも裃
をつけたようにきちんとしている。
一介の町人が国家の顧問官となっ
たようにかしこまっている。中に
はいってもたいてい明らかに見え
おでい
る。汚泥も端正に控えている。一
667
見した所では、あの昔の地下廊下
かとも思われやすい。地下廊下は、
﹁民衆が王を愛していた﹂古いの
んきな時代には、少しも珍しくな
いもので、王侯たる人々が逃走す
るのに至って便利なものだった。
かく今日の下水道は美しい下水道
である。純粋な様式ですべて支配
されている。直線的なアレキサン
ドリア式古典味は、詩から追い払
668
われて、建築のうちに逃げ込んだ
らしく、この長い薄暗いほの白い
丸天井のあらゆる石に交じってい
せりもち
るかと思われる。各出口は皆迫持
になっている。リヴォリ街の所は
こうきょ
溝渠の中においても一派をなして
いる。その上、幾何学的な線が最
も適当した場所を求むれば、それ
はいせつごう
はまさしく大都市の排泄濠であろ
う。そこではすべてが最も短距離
669
の道を選ばなければならない。下
水道は今日多少官省ふうな趣を呈
している。時として警察は下水道
に関する報告をなすが、もはやそ
の中でも敬意を欠かされてはいな
い。それに対する公用語中の単語
も、上等になって品位をそなえて
いる。腸と言われていたものも今
すいどう
日では隧道と言われ、穴と言われ
ていたものも今日では検査孔と言
670
われている。もしヴィヨンが昔の
予備の住居を尋ねても、今はその
影さえ見つけ得ないだろう。しか
あなぐら
しこの網の目のような窖の中には
げっしじゅう
やはり、昔からの齧歯獣の民が住
んでいて、昔よりかえって多いく
ねずみ
らいである。時々、古猛者の鼠が
下水道の窓から首を出してみて、
パリーの者らをのぞくことがある。
けれどもその寄生動物でさえ、お
671
のれの地下の宮殿に満足して温和
になっている。もう汚水溝渠には
どうもう
初めのような獰猛さは少しもない。
雨水は昔の下水道を汚していたが、
きよ
今日の下水道を洗い潔めている。
とは言えあまり安心しすぎてはい
けない。有毒ガスはまだそこに住
んでいる。完全無欠というよりも、
むしろ偽善である。警視庁と衛生
局とでいかに力をつくしても及ば
672
なかった。あらゆる清潔法が講ぜ
ざんげ
られたけれども、今になお、懺悔
した後のタルテュフ︵訳者注 モ
リエールの戯曲﹁タルテュフ﹂の
主人公で偽善者の典型︶のように
何となく怪しい臭気を放っている。
そうとう
全体より見れば汚水の掃蕩は下
水道が文明に尽す務めであるから、
そしてこの見地よりすれば、タル
テュフの良心はアウジアスの家畜
673
小屋︵訳者注 牛が三千頭もいな
がら三十年も掃除をしたことのな
いという物語中の家畜小屋︶より
も一進歩というべきであるから、
確かにパリーの下水道は改善され
たわけである。
それは進歩以上である。一つの
変形である。昔の下水道と現今の
下水道との間には、一大革命があ
る。そしてその革命はだれがなし
674
たか? 吾人が上に述べた世に忘
られてるブリュヌゾーである。
六 将来の進歩
かいさく
パリー下水道の開鑿は、決して
ささ
些々たる仕事ではなかった。過去
十世紀の間力を尽しながら、あた
かもパリー市を完成することがで
きなかったと同様に、それを完成
675
することはできなかった。実際下
水道は、パリーの拡大からあらゆ
る影響を受けている。それは地中
において無数の触角をそなえた暗
すいし
黒な水※のようなもので、地上に
市街がひろがるとともに地下にひ
ろがってゆく。市街が一つの街路
を作るたびごとに、下水道は一本
の腕を伸ばす。昔の王政時代には、
二万三千三百メートルの下水道し
676
か作られてはいなかった。一八〇
六年一月一日のパリーはほとんど
そのままの状態であった。この時
以来、すぐ後で再び述べるが、下
水道の事業は着々として勇ましく
再び始められ続けられてきた。ナ
ポレオンは、妙な数ではあるが、
四千八百四メートル作り、ルイ十
八世は五千七百九メートル、シャー
ル十世は一万八百三十六メートル、
677
ルイ・フィリップは八万九千二十
メートル、一八四八年の共和政府
は二万三千三百八十一メートル、
現政府は七万五百メートル作った。
現在では全部で二十二万六千六百
十メートル、すなわち六十里の下
水道となっている。パリーの巨大
な内臓である。なお人目につかな
い小枝は常に作られつつある。そ
れは世に知られない広大な建造で
678
ある。
読者の見るとおり、パリーの地
下の迷宮は今日、十九世紀の初め
より十倍もの大きさになっている。
おすいこうきょ
その汚水溝渠を今日のような比較
的完全な状態になすには、いかば
かりの忍耐と努力とが必要であっ
たか、想像にも余りあるほどであ
ぶぎょう
る。いにしえの王政時代の奉行と
十八世紀の末十年間の革命市庁と
679
が、一八〇六年以前に存在してい
うが
た五里の下水道を穿つに至ったの
も、辛うじてのことだった。あら
ゆる種類の障害がその事業を妨げ
た、あるいは地質上の障害もあれ
つる
ば、あるいはパリーの労働者階級
くわ
きり
の偏見から来る障害もあった。鶴
はし
嘴や鍬や鑚などのあらゆる操作に
著しく不便な地層の上に、パリー
は立っている。パリーという驚く
680
べき歴史的組織が積み重ねらるる
その地質的組織ほど、穿ち難く貫
ちゅうせきそう
き難いものはない。その沖積層の
中に何かの形で工事を始めて進み
込もうとすると、地下の抵抗は際
と
限もなく現われてくる。溶けた粘
土があり、流れる泉があり、堅い
からし
岩があり、専門の科学で俗に芥子
でいど
と言われる柔らかい深い泥土があ
る。薄い粘土脈やアダム以前の大
681
か き
洋にいた牡蠣の殻をちりばめてる
化石層などと交互になっている石
炭岩層の中を、鶴嘴は辛うじて進
んでゆく。時とすると水の流れが
突然現われてきて、始められたば
きゅうりゅう
かりの穹窿を突きこわし、人夫ら
おぼ
を溺らすこともある。あるいは泥
ばくふ
灰岩が流れ出し、瀑布のような勢
いで奔騰して、ごく大きな押さえ
はり
の梁をもガラスのように砕く。最
682
近のことであるが、ヴィエットで、
か
サン・マルタン掘割りの水を涸ら
しもせず航運にも害を与えないよ
うにして、その下に集合下水道を
通さなければならなかった時、掘
割りの底に裂け目ができて、にわ
かに地下の工事場に水があふれて
き、吸い上げポンプの力にもおよ
ばなかった。それで潜水夫を入れ
てその裂け目をさがさせると、大
683
だまりの口の所にあることがわかっ
たので、非常な骨折りでそれをふ
さいだ。また他の所、すなわちセー
ヌ川の近くやあるいはかなり離れ
た所でも、たとえばベルヴィルや
グランド・リューやリュニエール
通路などで、人が足を取られてすっ
かり沈み込んでしまうほどの底な
でいさ
し泥砂に出会った。その上になお、
有毒ガスのための窒息、土壌の墜
684
落のための埋没、突然の崩壊。そ
の上になお、チブスもあって、人
夫らはしだいにそれに感染する。
ざんごう
近頃でも、深さ十メートルの塹壕
の中で働きながら、ウールクの主
要水管を入れるための土堤を作っ
すいどう
てクリシーの隧道を掘り、更に、
地すべりのする間を、多くはごく
かいさく
臭い開鑿をやり支柱を施して、オ
ピタル大通りからセーヌ川までビ
685
きゅうりゅう
エーヴルの穹窿を作り、更に、モ
いっすい
ンマルトルの溢水からパリーを救
い、マルティール市門の近くに停
滞してる九町歩余の濁水に出口を
与えるために働き、更に、四カ月
間昼夜の別なく十一メートルの深
さの所で働いて、ブランシュ市門
からオーベルヴィリエの道に至る
一条の下水道を作り、更に、未聞
のことではあったが、塹壕もなく
686
まったく地中で、バール・デュ・
ベク街の下水道を地下六メートル
うが
の所に穿った後に、監督のモンノー
は死亡した。また、トラヴェルシ
エール・サン・タントアーヌ街か
らルールシーヌ街に至るまで市中
の各地点に、三千メートルにおよ
ぶ下水道の穹窿を作り、更に、ア
ルバレートの支脈を作って、サン
つじ
シエ・ムーフタール四つ辻に雨水
687
はんらん
の氾濫するのを防ぎ、更に、流砂
の中に石とコンクリートとの土台
を作って、その上にサン・ジョル
ジュの下水道を設け、更に、ノー
トル・ダーム・ド・ナザレの支脈
の底を下げるという恐るべき工事
を指揮した後に、技師のデュロー
は死亡した。しかし、戦場の虐殺
よりもずっと有益なそれら勇敢な
行為については、何らの報告文も
688
作られていない。
一八三二年におけるパリーの下
水道は、今日の状態とは非常な差
があった。ブリュヌゾーは一刺戟
を与えたが、その後なされた大改
造をいよいよ着手さしたのはコレ
ラ病の流行だった。たとえば口に
するも驚くべきことではあるが、
一八二一年には、大運河と言わる
いじょうこうきょ
る囲繞溝渠の一部が、ちょうどヴェ
689
ニスの運河のように、グールド街
わだかま
に裸のまま蟠っていた。その醜悪
ふた
の蓋をするに要した二十六万六千
八十フラン六サンチームの金を、
パリー市が調達し得たのは、よう
やく一八二三年のことである。コ
ンバとキュネットとサン・マンデ
との三つの吸入井戸を、その出口
と種々の装置とたまりと清浄用の
分脈とをつけて完成したのは、わ
690
ずかに一八三六年のことである。
それからしだいにパリーの腹中の
溝渠は新しく作り直され、また前
に言ったとおり、最近四半世紀ば
かりの間に十倍以上の長さとなっ
た。
今から三十年前、すなわち一八
三二年六月五日六日の反乱のおり
には、下水道の大部分はほとんど
昔のままだった。大多数の街路は、
691
今日では中高となっているが、当
こうばい
時は中低の道にすぎなかった。街
つじ
路や四つ辻の勾配が終わってる低
てつごうし
部には、大きな四角の鉄格子が方々
に見えていた。格子の太い鉄棒は、
みが
群集の足に磨かれて光っており、
馬車にはすべりやすくて危険であ
り、馬もよくころぶほどだった。
きょうりょう
Cas
橋梁や道路に関する公用語では、
それらの低部や鉄格子に
692
sis︵訳者注 ラテン語にては
くもの巣という意味になる︶とい
う意味深い名前を与えていた。こ
の一八三二年には、エトアール街、
サン・ルイ街、タンプル街、ヴィ
エイユ・デュ・タンプル街、ノー
トル・ダーム・ド・ナザレ街、フォ
リー・メリクール街、フルール河
岸、プティー・ムュスク街、ノル
マンディー街、ポン・トー・ビー
693
シュ街、マレー街、サン・マルタ
ン郭外、ノートル・ダーム・デ・
ヴィクトアール街、モンマルトル
郭外、グランジュ・バトリエール
街、シャン・ゼリゼー、ジャコブ
街、トールノン街、などの多数の
おすいこ
街路には、昔のゴチック式の汚水
うきょ
溝渠がまだその口を皮肉らしく開
いていた。時代のついた厚顔さを
そなえ、時には標石でめぐらされ
694
くうどう
た、のろまな巨大な石の空洞であっ
た。
一八〇六年のパリーの下水道は、
一六六三年五月に調べられたのと
ほとんど同じで、五千三百二十八
ひろ
尋だった。ところがブリュヌゾー
の工事の後、一八三二年一月一日
には、四万三百メートルとなって
いた。すなわち一八〇六年から三
一年まで毎年平均七百五十メート
695
ル作られたことになる。その後、
毎年八千メートルから時には一万
すいどう
メートルに及ぶ隧道が、コンクリー
しっくいこう
トで固めた上に水硬石灰の漆喰工
じ
事を施して作られた。一メートル
に二百フランとして、現今のパリー
の下水道六十里は四千八百万フラ
ンを示している。
最初に指摘した経済上の進歩論
のほかに、公衆衛生の重大な案件
696
が、パリーの下水道というこの大
問題に関連している。
パリーは水の層と空気の層と二
つの間にはさまれている。水の層
はかなり深い地下に横たわってい
せんこう
るが、既に二つの穿孔によって達
はくあ
せられていて、白堊とジュラ系石
灰岩との間にある緑の砂岩帯から
供給される。この砂岩帯は、半径
二十五里の円盤でおおよそを示す
697
ことができる。多数の大小の河川
がその中に浸透している。グルネ
ルの泉の水一杯を飲めば、セーヌ、
マルヌ、イオンヌ、オアーズ、エー
ヌ、シェル、ヴィエンヌ、ロアー
ル、などの諸川の水を飲むことに
なる。この水の層は健全なるもの
である。第一に空からき、つぎに
地からきたものである。しかるに
空気の層は不健全で、下水道から
698
おすいこうきょ
きたものである。汚水溝渠のあら
ゆる毒ガスが市中の呼吸に交じっ
ている。そこから悪い気息が起こっ
てくる。科学の証明するところに
よれば、肥料の堆積の上で取った
空気も、パリーの上で取った空気
よりははるかに清い。けれども一
定の時日を経たならば、進歩する
につれ、各種の機関も完成し、光
明も増加して、人は水の層を用い
699
て空気の層を清めるようになるで
あろう。言い換えれば、下水道を
せんじょう
洗滌するようになるであろう。下
水道の洗滌という語に吾人がいか
なる意味を持たしてるかを、読者
は既に知っているはずである。す
おわい
なわちそれは、汚穢を土地に返す
事である、汚穢を土地に送り肥料
を田野に送る事である。この簡単
な一事によって、社会全体が貧窮
700
の減少と健康の増進とを得るであ
ろう。現今にあっては、パリーか
らの疫病の放射は、ルーヴルを疫
こしき
病車の轂とすれば、その周囲五十
里におよんでいる。
過去十世紀の間汚水溝渠はパリー
の病毒だったとも言い得るだろう。
下水道は市が血液の中に持ってる
汚点である。人民も本能からよく
とじゅうしゃ
それを知っていた。屠獣者の仕事
701
は、非常に恐れられて、長い間死
刑執行人の手にゆだねられていた
が、下水掃除夫の仕事も、昔はそ
れとほとんど同じように危険なも
のであり、同じように民衆からい
やがられていた。泥工に頼んでそ
の臭い堀の中にはいってもらうに
は、高い賃銀を出さなければなら
はしご
なかった。井戸掘り人の梯子もそ
こにはいるには躊躇していた。
702
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
﹁下水道におりてゆくのは墓穴の
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
中にはいることだ、﹂というたと
えまでできていた。その上前に述
けんき
べたとおり、あらゆる種類の嫌忌
すべき伝説のために、その巨大な
下水道は恐ろしいことどもでおお
われていた。実に世に恐れられた
どうくつ
洞窟であって、その中には、人間
の革命とともに地球の革命の跡ま
で残っており、ノアの大洪水のお
703
りの貝殻からマラーのぼろに至る
まで、あらゆる大変災の遺物が見
いだされるのである。
704
でいど
第三編 泥土にして霊
一 下水道とその意外
なるもらい物
ジャン・ヴァルジャンがはいり
込んだのは、パリーの下水道の中
へだった。
ここにまたパリーと海との類似
705
がある。大洋の中におけるごとく、
下水道の中にはいり込む者はその
まま姿を消すことができる。
実に驚くべき変化だった。市の
まんなかにありながら、ジャン・
ヴァルジャンは市の外に出ていた。
ふた
またたくまに、一つの蓋を上げそ
れをまた閉ざすだけの暇に、彼は
ま昼間からまったくの暗黒に、正
そうじょう
午から真夜中に、騒擾の響きから
706
な
沈黙に、百雷の旋風から墳墓の凪
ぎに、そしてまた、ボロンソー街
の変転よりもなおいっそう不思議
な変転によって、最も大なる危険
から最も全き安全にはいってしまっ
た。
あなぐら
突然窖の中に陥ること、パリー
ひみつろう
の秘密牢の中に姿を消すこと、死
に満ちてる街路を去って生の存す
る一種の墳墓に移ること、それは
707
まったく不思議な瞬間だった。彼
はしばしあっけに取られて、耳を
ぼうぜん
澄ましながら惘然とたたずんだ。
わな
救済の罠は突然彼の下に口を開い
たのである。天の好意は彼を欺い
て言わば捕虜にしてしまったので
ある。驚嘆すべき天の待ち伏せで
ある。
ただ負傷者は少しの身動きもし
なかった。ジャン・ヴァルジャン
708
にな
はその墓穴の中で今自分の担って
る男が、果たして生きてるのか死
んでるのかを知らなかった。
彼の第一の感じは、盲目になっ
たということだった。にわかに彼
は何にも見えなくなった。それか
ろうしゃ
らまた、しばらくの間は聾者になっ
たような気もした。何も聞こえな
かった。頭の上数尺の所で荒れ狂っ
てる虐殺の暴風は、前に言ったと
709
おり厚い地面でへだてられたので、
ごくかすかにぼんやり響いてくる
だけで、ある深い所にとどろいて
る音のように思われた。彼は足の
下が堅いことを感じた。それだけ
であった。しかしそれで十分だっ
た。一方の手を伸ばし、次にまた
他方の手を伸ばすと、両方とも壁
に触れた。そして道の狭いことが
わかった。足がすべった。そして
710
しきいし
舗石のぬれてることがわかった。
ふち
穴や水たまりや淵を気使って、用
心しながら一歩ふみ出してみた。
そして石畳が先まで続いてるのを
悟った。悪臭が襲ってきたので、
それがどういう場所であるかを知っ
た。
しばらくすると、彼はもう盲目
ではなかった。わずかな光が今す
べり込んできた口からさしていた
711
あなぐら
し、また目もその窖の中になれて
きた。物の形がぼんやり見え出し
てきた。彼がもぐり込んできたと
すいどう
しか言いようのないその隧道は、
後ろを壁でふさがれていた。それ
は専門語で分枝と言わるる行き止
まりの一つだった。また彼の前に
も他の壁が、暗夜の壁があった。
穴の口からさしてくる光は、前方
十一、二歩の所でなくなってしま
712
い、下水道の湿った壁をようやく
数メートルだけほの白く浮き出さ
やみ
していた。その向こうは厚い闇だっ
た。そこにはいってゆくことはい
かにも恐ろしく、一度はいったら
そのままのみ尽されそうに思われ
もや
た。けれどもその靄の壁の中につ
き入ることは不可能ではなく、ま
た是非ともそうしなければならな
かった。しかも急いでしなければ
713
ならなかった。ジャン・ヴァルジャ
しきいし
ンは、自分が舗石の下に見つけた
てつごうし
鉄格子は、また兵士らの目にもつ
くかも知れないと思った。すべて
はその偶然の機会にかかっている
と思った。兵士らもまたその井戸
の中におりてきて、彼をさがすか
も知れなかった。一分間も猶予し
てはおれなかった。彼はマリユス
を地面におろしていたが、それを
714
また拾い上げた、というのも実際
のありさまを示す言葉である。そ
して彼はマリユスを肩にかつぎ、
前方に歩き出した。彼は決然とし
て暗黒の中にはいって行った。
しかし実際においてふたりは、
ジャン・ヴァルジャンが思ってい
たほど安全になったのではなかっ
た。種類は違うがやはり同じく大
なる危険が、彼らを待ち受けてい
715
どうくつ
た。戦闘の激しい旋風の後に毒気
かんせい
と陥穽との洞窟がきたのである。
おすいこうきょ
混戦の後に汚水溝渠がきたのであ
る。ジャン・ヴァルジャンは地獄
の一つの世界から他の世界へ陥っ
たのである。
五十歩ばかり進んだ時、彼は立
ち止まらなければならなかった。
すいどう
問題が一つ起こった。隧道は斜め
にも一つの隧道に続いていた。二
716
つの道が開いていた。いずれの道
を取るべきか、左へ曲がるべきか
右へ曲がるべきか。その暗い迷宮
の中でどうして方向を定められよ
う。しかし前に注意しておいたと
おり、その迷宮には一つの手がか
りがある。すなわちその傾斜であ
る。傾斜に従っておりてゆけば川
に出られる。
ジャン・ヴァルジャンは即座に
717
それを了解した。
彼は考えた。たぶんここは市場
町の下水道に違いない。それで、
道を左に取って傾斜をおりてゆけ
ば、十五分とかからないうちに、
ポン・トー・シャンジュとポン・
ヌーフとの間のセーヌ川のどの出
口かに達するだろう。すなわちパ
リーの最も繁華な所にま昼間身を
さらすことになる。おそらく四つ
718
つじ
辻の人だかりに出っくわすだろう。
血に染まった二人の男が足下の地
面から出てくるのを見ると通行人
の驚きはどんなだろう。巡査がやっ
てき、近くの衛兵らが武器を取っ
てやってくる。地上に出るか出な
いうちに取り押さえられる。それ
よりもむしろ、この迷宮の中には
いり込み、暗黒に身を託し、天運
のままに出口を求めた方が上策で
719
ある。
かど
で彼は傾斜の上の方へと右に曲
がった。
すいどう
隧道の角を曲がると、穴の口か
らさしていた遠い光は消えてしま
い、暗黒の幕が再びたれてきて、
彼はまた目が見えなくなった。そ
れでも彼は前進をやめずに、でき
るだけ早く進んだ。マリユスの両
腕は彼の首のまわりにからみ、両
720
足は背後にたれていた。その両腕
を彼は一方の手で押さえ、他の手
ほお
で壁を伝った。マリユスの頬は彼
の頬に接し、血のためにそのまま
なまあ
こびりついた。彼はマリユスの生
たたか
温い血が自分の上に流れかかって、
服の下までしみ通るのを覚えた。
けれども、負傷者の口元に接して
いる耳に湿気のある温味が感ぜら
れるのは、呼吸のしるしで、従っ
721
てまた生命のしるしだった。今や
彼がたどっている隧道は、初めの
より広くなっていた。彼はかなり
骨を折ってそれを歩いていった。
前日の雨水はまだまったく流れ去っ
ていず、底の中ほどに小さな急流
を作っていたので、彼は水の中に
足をふみ入れないようにするため、
壁に身を寄せて行かなければなら
なかった。そういうふうにして彼
722
はひそかに足を運んだ。あたかも
やみ
見えない中を手探りして地下の闇
の脈の中に没してゆく夜の生物の
ようだった。
けれども、あるいは遠い穴から
もや
わずかの明りがその不透明な靄の
中に漂ってるのか、あるいは目が
暗闇になれてくるのか、少しずつ
ぼんやりした影が見え、手で伝っ
ばく
てる壁や頭の上の丸天井などが漠
723
ぜん
然とわかってきた。魂が不幸のう
ちに拡大してついにそこに神を見
どうこう
いだすに至ると同じように、瞳孔
は暗夜のうちに拡大してついには
そこに明るみを見いだすに至るも
のである。
行く手を定めることは困難であっ
た。
下水道の線は、上に重なってる
街路の線を言わば写し出してるも
724
のである。パリーのうちには当時
二千二百の街路があった。そのちょ
うど下に下水道と称する暗黒な枝
が錯綜してるのを想像してみるが
いい。当時存在していた下水道の
組織は、それを端から端へつなぎ
合わしてみると、十一里の長さに
達していた。上に述べたとおり、
現在におけるその網の目は、最近
三十年間の特に活発な工事によっ
725
て、六十里にも及んでいる。
ジャン・ヴァルジャンはまず第
一に思い違いをした。彼は今サン・
ドゥニ街の下にいるものと思った
のであるが、不幸にも実はそうで
なかった。サン・ドゥニ街の下に
は、ルイ十三世の時代にできた古
だいこうきょ
い石の下水道があって、大溝渠と
言われてる集合溝渠にまっすぐ続
いている。そして昔のクール・デ・
726
ひじ
ミラクルの高みで右に肱を出し、
また一本の枝が別れてサン・マル
タンの下水道となり、四つの腕は
十字形に交差している。しかしコ
ラント亭のそばに入り口があるプ
すい
ティート・トリュアンドリーの隧
どう
道は、サン・ドゥニ街の地下とは
まったく連絡がなく、モンマルト
ルの下水道に続いていた。ジャン・
ヴァルジャンがはいり込んだのは
727
それへだった。そこには道に迷う
所がたくさんあった。モンマルト
ルの下水道は、古い網の目のうち
で最も入り組んだものの一つであ
る。幸いにもジャン・ヴァルジャ
ンは、帆柱をたくさん組み合わし
たような図形をしてる市場町の下
水道を通り越した。しかし彼の前
には幾つもの難関があった。多く
かど
の街路の角が︱︱まったくそれは
728
街路である︱︱暗黒の中に疑問符
のように控えていた。第一に左の
方には、判じ物のようなプラート
リエールの大下水道が、郵便局や
麦市場の建て物の下などに、T字
形やZ字形の紛糾した枝をつき出
し、Y字形をなしてセーヌ川に終
すいどう
わっている。第二に右の方には、
わんきょく
カドラン街の彎曲した隧道が歯の
ような三つの行き止まりを持って
729
控えている。第三にまた左の方に
は、マイュの下水道の一脈が、既
に入り口近くからフォーク形に錯
雑し、稲妻形に続いていて、各方
面に交差し分岐してるルーヴルの
大流出口に達している。最後にま
た右の方には、ジューヌール街の
いじょう
行き止まりの隧道があって、囲繞
こうきょ
溝渠に達するまで小さな横穴が方々
についている。そしてこの囲繞溝
730
渠のみが、十分安心できるくらい
の遠い出口に彼を導き得るのであっ
た。
もしジャン・ヴァルジャンが、
上に指摘したようなことを多少知っ
ていたならば、ただ壁に手を触れ
ただけで、サン・ドゥニ街の下水
道にいるのではないことをすぐに
気づいたろう。というのは、古い
かこうが
切り石の代わりに、すなわち花崗
731
ん
しっくい
ひろ
岩と肥石灰漆喰とで作られ一尋八
百フランもする底部と溝とを供え
て下水道に至るまで広壮厳然たる
昔の建築の代わりに、近代の安価
な経済的方法、すなわちコンクリー
トの層の上に水硬石灰で固めた砂
岩の一メートル二百フランの工事
・ ・ ・
を、いわゆる小材料でできた普通
の泥工事を、彼は手に感じたはず
である。しかし彼はそれらのこと
732
を少しも知っていなかった。
彼は、何も見ず、何も知らず、
偶然のうちに没し、言いかえれば
天命のうちにのみ込まれて、懸念
しながらも落ち着いて前方に進ん
でいった。
けれども実を言えば、彼はしだ
いにある恐怖の情にとらえられて
いった。彼を包んでいた影は彼の
精神の中にもはいってきた。彼は
733
なぞ
一つの謎の中を歩いていたのであ
る。その汚水の道は実に恐るべき
げんわく
ものである。眩惑をきたさせるま
でに入り組んでいる。その暗黒の
パリーのうちにとらえらるる時、
りつぜん
人は慄然たらざるを得ない。ジャ
ン・ヴァルジャンは目に見えない
道を探り出してゆかなければなら
なかった。否ほとんど道を作り出
してゆかなければならなかった。
734
その不可知の世界においては、踏
み出してみる各一歩は、それが最
後の一歩となるかも知れなかった。
いかにしてそこから出られるであ
ろうか。出口が見つかるであろう
か。しかも時期おくれにならない
うちに出口が見つかるであろうか。
はち
石造の蜂の巣のようなその巨大な
地下の海綿は、彼に中を通りぬけ
やみ
させるであろうか。ある意外な闇
735
の結び目に出会いはしないだろう
か。脱出し得られぬ所に、通過し
得られぬ所に、陥りはしないだろ
うか。その中でマリユスは出血の
ために死に、彼は空腹のために死
にはすまいか。ふたりともその中
がいこつ
に埋没し終わって、二つの骸骨と
なり、その暗夜の片すみに横たわ
るに至りはすまいか。それは彼自
身にもわからなかった。彼はそれ
736
らのことを自ら尋ねてみたが、自
ら答えることができなかった。パ
しんえん
リーの内臓は一つの深淵である。
いにしえの予言者のように、彼は
怪物の腹中にいたのである。
突然彼は意外な驚きを感じた。
最も思いがけない瞬間に、そして
やはりまっすぐに進み続けていた
時に、傾斜を上っているのでない
つま
ことに気づいた。水の流れは、爪
737
さき
かかと
先からこないで、踵の方に当たっ
ていた。下水道は今下り坂になっ
ていた。どうしたわけだろう。さ
てはにわかにセーヌ川に出るので
あろうか。セーヌ川に出るのは大
なる危険であったが、しかし引き
返すの危険は更に大きかった。彼
は続けて前に進んだ。
しかし彼が進みつつあったのは
セーヌ川の方へではなかった。セー
738
ヌ右岸にあるパリーの土地の高脈
ぶん
は、一方の水をセーヌ川に注ぎ他
だいこうきょ
方の水を大溝渠に注いでいる。分
すいれい
水嶺をなすその高脈は、きわめて
不規則な線をなしている。排水を
両方に分つ最高点は、サント・ア
ヴォア下水道ではミシェル・ル・
かなた
コント街の彼方にあり、ルーヴル
の下水道では大通りの近くにあり、
モンマルトルの下水道では市場町
739
の近くにある。ジャン・ヴァルジャ
ンが到着したのは、その最高点で
いじょうこうきょ
あった。彼は囲繞溝渠の方へ進ん
でいた。道筋はまちがっていなかっ
た。しかし彼はそれを少しも自ら
知らなかった。
枝道に出会うたびごとに、彼は
かど
その角に一々さわってみた。その
すいどう
口が今いる隧道よりも狭い時には、
そちらに曲がり込まないでまっす
740
ぐに進んでいった。狭い道はすべ
て行き止まりになってるはずで、
目的すなわち出口から遠ざかるだ
けであると、至当な考えをしたか
らである。かくして彼は、上にあ
げておいた四つの迷路によって暗
わな
黒のうちに張られてる四つの罠を、
免れることができた。
ぼうさい
時には、防寨のため交通が途絶
され暴動のため石のように黙々と
741
してるパリーの下から出て、いき
いきたる平常のパリーの下にはいっ
たのを、彼は感ずることができた。
ふいに頭の上で、雷のような遠い
連続した音が聞こえた。それは馬
車の響きであった。
彼は約三十分ばかり、少なくと
も自ら推測したところによると約
三十分ばかり、歩き続けていたが、
なお休息しようとも思わなかった。
742
ただマリユスをささえてる手を代
えたのみだった。暗さはいよいよ
深くなっていたが、その深みがか
えって彼を安心さした。
突然彼は前方に自分の影を認め
た。影は足下の底部と頭上の丸天
井とをぼんやり染めてるほのかな
弱い赤みの上に浮き出していて、
隧道のじめじめした両側の壁の上
に、右へ左へとすべり動いた。彼
743
ぼうぜん
は惘然としてうしろを振り返った。
うしろの方に、彼が今通ってき
たばかりの隧道の中に、しかも見
たところ非常に遠く思われる所に、
やみ
厚い闇を貫いて、こちらをながめ
てるような一種の恐ろしい星が燃
え上がっていた。
それは下水道の中に出る陰惨な
警察の星であった。
星の向こうには、黒いまっすぐ
744
なぼんやりした恐ろしい十個たら
ずの影が、入り乱れて揺らめいて
いた。
二 説明
六月六日に下水道内捜索の命令
が下された。敗亡者らがあるいは
そこに逃げ込んではすまいかとい
う懸念があったので、ブュジョー
745
そうとう
将軍が公然のパリーを掃蕩してい
る間に、ジスケ警視総監は隠密の
パリーを探索することになったの
である。上は軍隊によって下は警
察によって代表された官力の二重
戦略を必要とする、相関連した二
重の行動であった。警官と下水夫
との三隊は、パリーの地下道を探
険しにかかって、一つはセーヌ右
岸を、一つは左岸を、一つはシテ
746
島を探った。
こんぼう
警官らは、カラビン銃、棍棒、
剣、短剣、などを身につけていた。
その時ジャン・ヴァルジャンに
じゅんらたい
さし向けられたのは、右岸巡邏隊
の角灯だった。
すいどう
その巡邏隊は、カドラン街の下
わんきょく
にある彎曲した隧道と三つの行き
止まりとを見回ってきたところだっ
た。彼らがそれらの行き止まりの
747
奥に大角灯を振り動かしてる時、
既にジャン・ヴァルジャンは途中
でその隧道の入り口に出会ったが、
本道より狭いのを知って、それに
はいり込まなかった。彼は他の方
へ通っていった。警官らはカドラ
いじょう
ンの隧道から出てきながら、囲繞
こうきょ
溝渠の方向に足音が聞こえるよう
に思った。実際それはジャン・ヴァ
ルジャンの足音だった。巡邏の長
748
をしてる警官はその角灯を高く上
げ、一隊の人々は足音が響いてく
もや
る方向へ靄の中をのぞき込んだ。
ジャン・ヴァルジャンにとって
は何とも言い難い瞬間だった。
幸いにも、彼はその角灯をよく
見ることができたが、角灯の方は
彼をよく見ることができなかった。
角灯は光であり、彼は影であった。
彼はごく遠くにいたし、あたりの
749
暗黒の中に包まれていた。彼は壁
に身を寄せて立ち止まった。
それに彼は、後方に動いてるも
のが何であるかを知らなかった。
不眠と不食と激情とは、彼をもま
た幻覚の状態に陥らしていた。彼
は一つの火炎を見、火炎のまわり
に幽鬼を見た。それはいったい何
であるか、彼にはわけがわからな
かった。
750
ジャン・ヴァルジャンが立ち止
まったので、音はやんだ。
じゅんら
巡邏の人々は、耳を澄ましたが
何にも聞こえず、目を定めたが何
にも見えなかった。彼らは互いに
相談を始めた。
当時モンマルトルの下水道には
・ ・ ・
ちょうどその地点に、通用地と言
つじ
われてる一種の四つ辻があった。
大雨のおりなどには雨水が流れ込
751
んできて地下の小さな湖水みたよ
うになるので、後に廃されてしまっ
た。巡邏の者らはその広場に集ま
ることができた。
ジャン・ヴァルジャンは幽鬼ら
がいっしょに丸く集まってるのを
見た。その犬のような頭は、互い
に近く寄ってささやきかわした。
それらの番犬がなした相談の結
果は次のことに帰着した。何か思
752
い違いをしたのである。音がした
いじょう
のではない。だれもいない。囲繞
こうきょ
溝渠のうちにはいり込むのはむだ
である。それはただ時間を空費す
るばかりだ。それよりもサン・メー
リーの方へ急いで行かなければい
けない。何かなすべきことがあり
追跡すべき﹁ブーザンゴー﹂がい
るとするならば、それはサン・メー
リーの方面においてである。
753
徒党というものは時々その古い
あだな
侮辱的な綽名を仕立て直してゆく。
・ ・ ・ ・ ・ ・
一八三二年には、﹁ブーザンゴー﹂
︵水夫帽︶という言葉は、既にす
・ ・ ・ ・ ・
たってるジャコバンという言葉と、
当時まだあまり使われていなかっ
・ ・ ・ ・
たがその後広く用いられたデマゴー
・
グという言葉との、中間をつない
で過激民主党をさすのだった。
そ
隊長は斜めに左へ外れてセーヌ
754
川への斜面の方に下ってゆくよう
命令を下した。もし彼らが二つに
分かれて二方面へ進んでみようと
いう考えを起こしたならば、ジャ
ン・ヴァルジャンは捕えられてい
たろう。ただ一筋の糸にかかって
いたのである。おそらく警視庁で
は、戦闘の場合を予想し暴徒らが
多数いるかも知れないと予想して、
巡邏隊に分散することを禁ずる訓
755
令を出したのであろう。一隊はジャ
ン・ヴァルジャンをあとに残して
歩き出した。すべてそれらの行動
についてジャン・ヴァルジャンが
認めたことは、にわかに角灯が彼
方に向いて光がなくなったことだ
けだった。
隊長は警官としての良心の責を
免れるため、立ち去る前に、見捨
ててゆく方面へ向かって、すなわ
756
ちジャン・ヴァルジャンの方へ向
かって、カラビン銃を発射した。
すいどう
その響きは隧道の中に反響また反
響となって伝わり、あたかもその
巨大な腸の腹鳴りするがようだっ
しっくい
た。一片の漆喰が流れの中に落ち
て、数歩の所に水をはね上げたの
で、ジャン・ヴァルジャンは頭の
上の丸天井に弾があたったのを知っ
た。
757
調子を取ったゆるやかな足音が、
しばらく隧道の底部の上に響き、
遠ざかるにしたがってしだいに弱
くなり、一群の黒い影は見えなく
なり、ちらちらと漂ってる光が、
丸天井に丸い赤味を見せていたが、
それも小さくなってついに消えて
しまい、静寂はまた深くなり、暗
やみ
黒はまた一面にひろがり、その闇
の中にはもう何も見えるものもな
758
く聞こゆるものもなくなってしまっ
た。けれどもジャン・ヴァルジャ
ンは、なおあえて身動きもせずに、
長い間壁に背をもたしてたたずみ、
ひとみ
耳を傾け、瞳をひろげて、その一
隊の幻が消えうせるのをながめて
いた。
三 尾行されたる男
759
そうじょう
世間の重大な騒擾の最中にも平
然として保安と監視との義務を怠
らなかったことは、当時の警察に
認めてやらなければならない。暴
動も警察の目から見れば、悪漢ら
を手放しにするの口実とはならな
ひん
いし、政府が危険に瀕しているか
らといって、社会を閑却するの口
実とはならない。平常の職務は、
異常な場合の職務の間にも正確に
760
尽されていて、少しも乱されては
いなかった。政治上の大事件が始
まってる最中にも、あるいは革命
となるかも知れないという不安の
ぼうさい
下にも、反乱や防寨に気を散らさ
るることなく、警官は盗賊を﹁尾
行﹂していた。
ちょうどそういう一事が、六月
六日の午後、セーヌ右岸のアンヴァ
みぎわ
リード橋の少し先の汀で行なわれ
761
ていた。
今日ではもうそこに川岸の汀は
ない。場所のありさまは一変して
いる。
さてその川岸の汀の上で、ある
距離をへだててる二人の男が、明
らかに互いの目を避けながらも互
いに注意し合ってるらしかった。
先に行く男は遠ざかろうとしてい
たし、あとからついてゆく男は近
762
寄ろうとしていた。
それはあたかも遠くから黙って
なされてる将棋のようなものだっ
た。どちらも急ぐ様子はなく、ゆ
るやかに歩いていた。あまり急い
でかえって相手の歩みを倍加させ
はすまいかと、互いに気使ってる
がようだった。
たとえば、食に飢えた者が獲物
を追っかけながら、それをわざと
763
様子に現わすまいとしてるのと同
こうかつ
じだった。獲物の方は狡猾であっ
て、巧みに身をまもっていた。
いたち
追われてる鼬と追っかけてる犬
との間の適宜な割合が、ちょうど
両者の間に保たれていた。のがれ
ようとしてる男は、体も小さく顔
もやせていた。捕えようとしてる
男は、背の高い偉丈夫で、いかめ
しい様子をしており、腕力もすぐ
764
れてるらしかった。
第一の男は、自分の方が弱いの
を知って、第二の男を避けようと
していた。しかしおのずから一生
懸命の様子が現われていた。彼を
よく見たならば、逃走せんとする
痛ましい敵対心と恐れに交じった
虚勢とが、その目の中に読み取ら
れたであろう。
みぎわ
川岸の汀には人影もなかった。
765
通りすがりの者もなかった。所々
につないである運送船には、船頭
もいず人夫もいなかった。
向こう岸からでなければふたり
の様子をたやすく見て取ることは
できなかった。そしてそれだけの
距離を置いてながめる時には、先
に行く男は、毛を逆立てぼろをま
とい怪しい姿をして、ぼろぼろの
仕事服の下に不安らしく震えてお
766
り、後ろの男は、古風な役人ふう
な姿をして、フロック型の官服を
あご
つけ頤の所までボタンをはめてい
るのが、見て取られたろう。
読者がもし更に近くからふたり
をながめたならば、彼らが何者で
あるかをおそらく知り得たろう。
第二の男の目的は何であったか?
おそらく第一の者にもっと暖か
い着物を着せてやろうというのに
767
違いなかった。
国家の服をつけてる者がぼろを
まとってる男を追跡するのは、そ
の男にもやはり国家の服を着せん
がためにである。ただ問題はその
色にある。青い服を着るのは光栄
であり、赤い服を着るのは不愉快
である。
ひ
世には下層にも緋の色がある。
︵訳者注 上層に皇帝の緋衣のあ
768
るごとくに︶
第一の男がのがれんと欲してい
たのは、たぶんこの種の不愉快と
緋の色とであったろう。
第二の男が第一の男を先に歩か
してなお捕えないでいるのは、そ
の様子から推測すると、彼をある
著名な集合所にはいり込ませ、一
群のいい獲物の所まで案内させよ
うというつもりらしかった。その
769
巧みなやり方を﹁尾行﹂という。
右の推測をなお確かならしむる
から
つじばし
ことには、ボタンをはめてる男は
みぎわ
川岸通りを通りかかった空の辻馬
ゃ
車を汀から見つけて、御者に合い
図をした。御者はその合い図を了
解し、またきっと相手がどういう
人であるかを見て取ったのだろう、
手綱を回らして、川岸通りの上か
ら並み足でふたりの男について行
770
き始めた。そのことは、先に歩い
てるぼろ服の怪しい男からは気づ
かれなかった。
辻馬車はシャン・ゼリゼーの並
むち
み木に沿って進んでいた。手に鞭
を持ってる御者の半身が胸欄の上
から見えていた。
警官らに与えられてる警察の秘
密訓令の一つに、こういう個条が
ある。﹁不時の事件のためには常
771
に辻馬車を手に入れ置くべし。﹂
互いにみごとな戦略をもって行
動しながらふたりの男は、川岸通
りの傾斜が水ぎわまで下ってる所
に近づいていった。そこは当時、
パッシーから到着する辻馬車の御
者らが、馬に水を飲ませるために
川までおりてゆけるようになって
いた。けれどもその傾斜は、全体
の調和を保つためにその後つぶさ
772
のど
れてしまった。馬はそのために喉
をかわかしているが、見た所の体
裁はよくなっている。
仕事服の男は、シャン・ゼリゼー
に逃げ込むためにその傾斜を上っ
てゆくつもりらしかった。シャン・
ゼリゼーは樹木の立ち並んだ場所
だった。しかしその代わりに、巡
査の往来が繁く相手は容易に助力
を得られるわけだった。
773
川岸通りのその地点は、一八二
四年ブラク大佐がモレー市からパ
リーに持ってきたいわゆるフラン
ソア一世の家と言わるる建て物か
ら、ごく近い所であった。衛兵の
とんしょ
屯所もすぐそばにあった。
ところが意外にも、追跡されて
る男は、水飲み場の傾斜を上って
ゆかなかった。彼はなお川岸通り
みぎわ
に沿って汀を進んでいった。
774
彼の地位は明らかに危険になっ
ていった。
セーヌ川に身を投げるのでなけ
れば、いったい彼はどうするつも
りだろう。
先に行けばもう川岸通りに上る
方法はなかった。傾斜もなければ
階段もなかった。少し先は、セー
ヌ川がイエナ橋の方へ屈曲してる
地点で、汀はますます狭くなり、
775
薄い舌ほどになって、ついに水の
中に没していた。そこまで行けば、
右手は絶壁となり、左と前とは水
となり、うしろには警官がやって
きて、彼はどうしても四方からは
さまれることになるのだった。
もっともその汀のつきる所には、
何の破片とも知れない種々の遺棄
物が六、七尺の高さに積もって、
人の目をさえぎってはいた。しか
776
しその男は一周すればすぐに見つ
けられるようなその残壊物の堆積
のうしろに、うまく身を隠そうと
でも思っていたのだろうか。それ
は児戯に類する手段であった。彼
も確かにそんなことを考えていた
のではあるまい。それほど知恵の
ない盗人は世にあるものではない。
残壊物の堆積は水ぎわに高くそ
みさき
びえていて、川岸通りの壁まで岬
777
のようにつき出ていた。
追われてる男は、その小さな丘
の所まで行って、それを回った。
そのためにもひとりの男からは見
えなくなった。
あとの男は、相手の姿を見るこ
とができなくなったが、それとと
もに先方から見られることもなく
なった。彼はその機会に乗じて、
今までの仮面を脱してごく早く歩
778
き出した。間もなく残壊物の丘の
所に達して、それを一巡した。そ
ぼうぜん
して彼は惘然として立ち止まった。
彼が追っかけてきた男はもうそこ
にいなかった。
仕事服の男はまったく雲隠れし
てしまったのである。
みぎわ
汀は残壊物の堆積から先には三
十歩ばかりしかなく、川岸通りの
壁に打ちつけてる水の中に没して
779
いた。
逃走者がセーヌ川に身を投ずる
か川岸通りによじ上るかすれば、
必ず追跡者の目に止まったはずで
ある。いったい彼はどうなったの
であろう?
上衣によくボタンをかけてる男
こぶし
は、汀の先端まで進んでゆき、拳
を握りしめ目を見張り考え込んで、
しばらくたたずんだ。と突然彼は
780
額をたたいた。地面がつきて水と
ぶあつ
なってる所に、分厚な錠前と三つ
すじかね
の太い肱金とのついてる大きな低
てつごうし
い円形の鉄格子を、彼は認めたの
だった。その鉄格子は、川岸通り
の下に開いてる一種の門であって、
みぎわ
その口は川と汀とにまたがってい
た。黒ずんだ水が下から流れ出て
いた。水はセーヌ川に注いでいた。
さび
その錆ついた重い鉄棒の向こう
781
に、一種の丸い廊下が見えていた。
しっせき
男は両腕を組んで、叱責するよ
にら
うな様子で鉄格子を睨めた。
しかし睨んだだけでは足りない
ので、彼はそれを押し開こうとし
た。そして揺すってみたが、鉄格
子はびくともしなかった。何の音
も聞こえなかったけれども、たぶ
んそれは今しがた開かれたはずで
ある。そんな錆ついた鉄格子にし
782
ては、音のしなかったのが不思議
である。またそれは再び閉ざされ
たに相違ない。してみれば、つい
かぎ
先刻その門を開いて閉ざした男は、
かいもんかぎ
開門鉤ではなく一つの鍵を持って
いたことは確かである。
てつごうし
その明らかな事実は、鉄格子を
揺すっている男の頭に突然浮かん
できた。彼は憤然として思わず結
論を口走った。
783
﹁実にけしからん、政府の鍵を持っ
ている!﹂
それから彼は直ちに冷静に返っ
て、頭の中にいっぱい乱れてる考
れいば
えのすべてを、ほとんど冷罵のよ
うな一息の強い単語で言い放った。
﹁よし、よし、よし、よしっ!﹂
そう言って、あるいは男が再び
出て来るのを見るつもりか、ある
いは他の男どもがはいってゆくの
784
を見るつもりか、とにかく何事か
を期待しながら、気長く憤怒を忍
んでる猟犬のような様子で、残壊
物の堆積のうしろに潜んで見張り
をした。
彼の足並みに速度を合わしてき
つじばしゃ
た辻馬車の方も、上方の胸欄のそ
ばに止まった。御者は長待ちを予
えんばく
想して、下の方が湿ってる燕麦の
袋を馬の鼻面にあてがった。そう
785
いう食物の袋はパリー人のよく知っ
てるもので、ついでに言うが、彼
ら自身も時々政府からそれをあて
がわれることがある。まれにイエ
ナ橋を渡る通行人らは、遠ざかる
前に振り返って、あたりの景色の
中にじっと動かないでいる二つの
みぎわ
もの、汀の上の男と川岸通りの上
つじばしゃ
の辻馬車とを、しばらくながめて
いった。
786
四 彼もまた十字架を
負う
ジャン・ヴァルジャンは再び前
進し始めて、もう足を止めなかっ
た。
行進はますます困難になってき
た。丸天井の高さは一定でなかっ
た。平均の高さは五尺六寸ばかり
で、人の身長に見積もられていた。
787
ジャン・ヴァルジャンはマリユス
を天井に打ちつけないように背を
かがめなければならなかった。各
瞬間に身をかがめ、それからまた
立ち上がり、絶えず壁に触れてみ
なければならなかった。壁石の湿
気と底部の粘質とは、手にもまた
足にもしっかりしたささえを与え
はい
なかった。彼は都市のきたない排
せつぶつ
泄物の中につまずいた。風窓から
788
時々さしてくる明るみは、長い間
を置いてしか現われてこなかった
し、太陽の光も月の光かと思われ
るほど弱々しかった。その他はす
もや
べて、靄と毒気と混濁と暗黒のみ
だった。ジャン・ヴァルジャンは
のど
腹がすき喉がかわいていた。こと
にかわきははなはだしかった。し
かもそこは海のように、水が一面
にありながら一滴も飲むことので
789
きない場所だった。彼の体力は、
読者の知るとおり非常に大であっ
て、清浄節欲な生活のために老年
におよんでもほとんど減じてはい
なかったが、それでも今や弱り始
めてきた。疲労は襲ってき、その
ために力は少なくなり、背の荷物
はしだいに重さを増してきた。マ
リユスはもう死んでるのかも知れ
ないと思われた。命のない身体の
790
ようにずっしりした重さがあった。
ジャン・ヴァルジャンはその胸を
なるべく押さえないように、また
その呼吸がなるべく自由に通うよ
うなふうに、彼をになっていた。
ねずみ
足の間には鼠がすばやく逃げてゆ
ろうばい
くのを感じた。中には狼狽の余り
か
彼に噛みついたのがあった。時々
下水道の口のすき間から新しい空
気が少し流れ込んできたので、彼
791
はまた元気になることもあった。
いじょうこうきょ
彼が囲繞溝渠に達したのは、午
後三時ごろであったろう。
最初に彼は突然広くなったのに
驚いた。両手を伸ばしても両方の
壁に届かず頭も上の丸天井に届か
すいどう
ないほどの広い隧道に、にわかに
出たのだった。実際その大溝渠は、
広さ八尺あり高さは七尺ある。
モンマルトル下水道が大溝渠に
792
合してる所には、他の二つの隧道、
すなわちプロヴァンス街のそれと
れいり
屠獣所のそれとが落ち合って、四
つじ
つ辻を作っている。ごく怜悧な者
でなければその四つの道のうちを
選択することは困難であった。幸
いにジャン・ヴァルジャンは一番
広い道を、すなわち囲繞溝渠を選
みあてた。しかしそこにまた問題
が起こってきた。傾斜を下るべき
793
か、あるいは上るべきか? 事情
は切迫しているし今はいかなる危
険を冒してもセーヌ川に出なけれ
ばいけないと、彼は考えた、言い
換えれば、傾斜をおりてゆかなけ
ればならないと。彼は左へ曲がっ
た。
その選定は彼のために仕合わせ
だった。囲繞溝渠はベルシーの方
へとパッシーの方へと二つの出口
794
があると思い、その名の示すがよ
うにセーヌ右岸のパリーの地下を
取り巻いてると思うのは、誤りで
ある。来歴を考えればわかること
であるが、その大溝渠は昔のメニ
ルモンタン川にほかならないので
あって、上手に上ってゆけば一つ
の行き止まりに達する。その行き
止まりはすなわち、昔の川の出発
ふもと
点で、メニルモンタンの丘の麓に
795
ある源泉だった。ポパンクール街
より以下のパリーの水を合し、ア
ムロー上水道となり、昔のルーヴィ
エ島の上手でセーヌ川に注いでる
一脈とは、何ら直接の連絡はない
のである。集合溝渠を完全ならし
しも
むるその一脈は、メニルモンタン
かみ
街の下では、上と下とに水を分か
つ地点となってる一塊の土壌で、
大溝渠からへだてられている。も
796
すいどう
しジャン・ヴァルジャンが隧道を
上っていったならば、限りない努
力を重ねた後、まったく疲れきり、
息も絶えだえになって、暗黒の中
で一つの壁につき当たったであろ
う。そして彼はもう万事休したに
違いない。
なお厳密に言えば、その行き止
ふくそうてん
まりから少しあとに引き返し、ブー
つじ
シュラー四つ辻の地下の輻湊点に
797
も迷わないで、フィーユ・デュ・
カルヴェールの隧道にはいり、次
に左手のサン・ジルの排水道には
いり、次に右に曲がり、サン・セ
バスティヤンの隧道を避ければ、
アムロー下水道に出られ、それか
ら更に、バスティーユの下にある
F字形の隧道に迷いこまなければ、
ぞうへいしょう
造兵廠の近くのセーヌ川への出口
に達するのだった。しかしそれに
798
せきさん
は、巨大な石蚕のような下水道を
よく知りつくし、あらゆる枝と穴
とを知っていなければならなかっ
たろう。しかるに、なおことわっ
ておくが、彼は自らたどってるそ
の恐るべき道筋について何らの知
識をも持っていなかった。もしど
ういう所にいるかと人に尋ねられ
たとしたら、彼はただ暗夜のうち
にいるのだと答えたろう。
799
本能は彼にいい助言を与えたの
である。傾斜をおりてゆけば、実
際あるいは救われるかも知れなかっ
た。
つめ
彼は、ラフィット街とサン・ジョ
わし
ルジュ街との下で鷲の爪の形に分
岐してる二つの隧道と、アンタン
大道の下のフォーク形に分かれて
る長い隧道とを、そのまま右にし
てまっすぐに進んでいった。
800
たぶんマドレーヌの分岐らしい
一つの横道から少し先まで行った
時、彼は立ち止まった。非常に疲
れていた。おそらくアンジュー街
ののぞき穴であったろうが、かな
り大きな風窓がそこにあって、相
当強い光がさし込んでいた。ジャ
ン・ヴァルジャンは負傷してる弟
に対するような静かな動作で、マ
リユスを下水道の底の段の上にお
801
ろした。マリユスの血に染まった
顔は、風窓から来る白い明るみを
受けて、墳墓の底にあるもののよ
うに思われた。その目は閉じ、髪
は赤い絵の具を含んだままかわい
は け
てる刷毛のようになって額にこび
くちびる
りつき、両手は死んだようにだら
し し
りとたれ、四肢は冷たく、脣のす
みには血が凝結していた。血のか
えりかざ
たまりが襟飾りの結び目にたまっ
802
ていた。シャツは傷口にはいり込
み、上衣のラシャはなまなましい
こす
肉の大きな切れ目をじかに擦って
いた。ジャン・ヴァルジャンは指
先で服を開いて、その胸に手をあ
ててみた。心臓はまだ鼓動してい
た。彼は自分のシャツを裂き、で
きるだけよく傷口を縛って、その
出血を止めた。それから薄ら明か
りの中で、依然として意識もなく
803
またほとんど息の根もないマリユ
スの上に身をかがめ、言葉に尽し
難い恨みの情をもって見守った。
マリユスの服を開く時、ジャン・
ヴァルジャンはそのポケットに二
つの物を見いだした。前日入れた
まま忘れられてるパンと、マリユ
スの紙ばさみであった。彼はその
パンを食い、次に紙ばさみを開い
てみた。第一のページにマリユス
804
が認めた数行が見えた。その文句
は読者の記憶するとおりである。
予はマリユス・ポンメルシー
という者なり。マレーのフィー
ユ・デュ・カルヴェール街六
番地に住む予が祖父ジルノル
しがい
マン氏のもとに、予の死骸を
送れ。
805
ジャン・ヴァルジャンは風窓か
らさしこむ光でその数行を読み、
しばらく何か考え込んだようにし
てたたずみながら、半ば口の中で
繰り返した、﹁フィーユ・デュ・
カルヴェール街六番地、ジルノル
かみばさ
マン氏。﹂それから彼は紙挾みを
またマリユスのポケットにしまっ
た。彼は食を得たので力を回復し
た。それでマリユスを再び背に負
806
い、その頭を注意して自分の右肩
にもたせ、また下水道を下り始め
た。
メニルモンタンの谷に沿って曲
がりながら続いてる大溝渠は、お
よそ二里ほどの長さだった。その
し
間おもな部分には皆石が鋪いてあっ
た。
ジャン・ヴァルジャンの地下の
道筋を読者によくわからせるため
807
に、われわれは一々パリーの街路
の名前をあげているが、彼自身は
たいまつ
もとより炬火のようなそういう知
識を持たなかった。パリーのいか
なる地帯を横ぎってるのか、また
いかなる道筋をたどってるのか、
それを彼に示してくれるものは何
もなかった。ただ、時々出会う光
くま
の隈がますます薄くなってゆくの
で、日光はもう往来にささず日暮
808
れに間もないことが、わかるばか
りだった。そして頭の上の馬車の
かんけつ
とどろきは、連続してたのが間歇
てき
的になり、後にはほとんど聞こえ
なくなってしまったので、もうパ
リーの中央の地下にいるのではな
く、外郭の大通りか出外れの川岸
通りかに近いある寂しい場所に近
づいたことが、推定されるだけだっ
た。人家や街路の少ない所には、
809
下水道の風窓も少なくなる。今や
ジャン・ヴァルジャンのまわりに
は暗やみが濃くなっていた。それ
やみ
でも彼は闇の中を手探りでなお前
進し続けた。
やみ
するとにわかに、その闇は恐ろ
しいほどになってきた。
五 砂にも巧みなる不
誠実あり
810
ジャン・ヴァルジャンは水の中
でいど
にはいってゆくのを感じ、また足
しきいし
の下にはもう舗石がなくて泥土ば
かりなのを感じた。
ブルターニュやスコットランド
のある海岸では、旅客や漁夫など
が、干潮の時岸から遠い砂浜を歩
いていると、数分前から歩行が困
難になってるのを突然気づくこと
チャン
が往々ある。足下の砂浜は瀝青の
811
ようで、足の裏はすいついてしま
もち
う。それはもう砂ではなくて黐で
ある。砂面はまったくかわいてい
るが、歩を運ぶごとに、足をあげ
るとすぐに、その足跡には水がいっ
ぱいになる。けれど目に見た所で
は普通の砂浜と何の違いもない。
広い浜は平たく静かであり、砂は
一面に同じありさまをし、固い所
とそうでない所との区別は少しも
812
はねむし
つかない。跳虫の小さな雲のよう
な楽しい群れは、行く人の足の上
に騒々しく飛び続ける。人はなお
その道を続け、前方に進み、陸地
の方へ向かって、岸に近づこうと
する。彼は別に不安を覚えない。
実際何の不安なことがあろう。た
だ彼は一歩ごとに足の重みが増し
てゆくように感ずるばかりである。
するとにわかに沈み出す。二、三
813
寸沈んでゆく。まさしく道筋が悪
いのである。正しい方向を見定め
るために彼は立ち止まる。ふと自
分の足下を見る。足は見えなくなっ
ている。砂の中に没している。そ
れで足を砂から引き出し、元きた
方に戻ろうとしてうしろを向く。
するとなお深く沈んでゆく。砂は
くるぶし
踝まで及ぶ。飛び上がって左へ行
すね
こうとすると砂は脛の半ばまで来
814
ひざが
る。右へ行こうとすると、砂は膝
しら
頭まで来る。その時彼は、流砂の
中に陥ってることを、人が歩くを
得ず魚が泳ぐを得ない恐るべき場
所に立ってることを、始めて気づ
いて、名状すべからざる恐怖に襲
われる。荷物があればそれを投げ
ひん
捨てる。危険に瀕した船のように
身を軽くしようとする。しかしも
ひざ
う遅い。砂は膝の上まで及ぶ。
815
彼は助けを呼ぶ、帽子やハンカ
チを振る。砂はますます彼を巻き
込む。もし浜辺に人がいないか、
陸地があまり遠いか、特に危険だ
という評判のある砂床であるか、
あたりに勇者がいないかすれば、
もう万事終わりである。そのまま
没するのほかはない。彼が定めら
れた刑は、恐るべき徐々の埋没で、
避け難い執念深いそして遅らすこ
816
とも早めることもできないもので
あり、幾時間も続いて容易に終わ
らないものであって、健康な自由
な者を立ったままとらえ、足から
引き込み、努力をすればするほど、
叫べば叫ぶほど、ますます下へ引
きずりこみ、抵抗すればそれを罰
するかのようにいっそう強くつか
み取り、徐々に地の中に埋めてゆ
き、しかも、一望の眼界や、樹木
817
や、緑の野や、平野のうちにある
村落の煙や、海の上を走る船の帆
や、さえずりながら飛ぶ小鳥や、
太陽や、空などを、うちながめる
だけの余裕を与えるのである。そ
の埋没は、地面の底から生ある者
の方へ潮のごとく高まってくる一
つの墳墓である。各瞬間は酷薄な
埋葬者となる。とらわれた悲惨な
男は、すわり伏しまたはおうとす
818
る。しかしあらゆる運動はますま
す彼を埋めるばかりである。彼は
身を伸ばして立ち上がり、沈んで
ゆく。しだいにのみ込まれるのを
感ずる。叫び、懇願し、雲に訴え、
腕をねじ合わせ、死者狂いとなる。
もう砂は腹までき、次に胸におよ
ぶ。もう半身像にすぎなくなる。
両手を差し上げ、恐ろしいうなり
つめ
声を出し、砂浜の上に爪を立てて
819
その灰のようなものにつかまろう
とし、半身像の柔らかい台から脱
りょうひじ
するため両肱に身をささえ、狂気
のように泣き叫ぶ。砂はしだいに
上がってくる。肩におよび、首に
およぶ。今や見えるものは顔だけ
になる。大声を立てると、口には
砂がいっぱいになる。もう声も出
ない。目はまだ見えているが、そ
れもやがて砂にふさがれる。もう
820
何も見えなくなる。次には額が没
してゆく。少しの髪の毛が砂の上
に震える。一本の手だけが残って、
砂浜の表面から出て動き回る。そ
れもやがて見えなくなる。そして
一人の人間が痛ましい消滅をとげ
るのである。
時には騎馬の者が馬と共に埋没
することもあり、車を引く者が車
と共に埋没することもある。皆砂
821
浜の下に終わってしまう。それは
水の外の難破である。土地が人を
おぼ
溺らすのである。土地が大洋に浸
わな
されて罠となる。平地のように見
せかけて、海のように口を開く。
しんえん
深淵もそういうふうに人を裏切る
ことがある。
かかる悲惨なできごとはある地
方の海浜には常に起こり得ること
であるが、三十年前のパリー下水
822
道にも起こり得るのであった。
一八三三年に始められた大工事
以前には、パリーの地下の道はよ
く突然人を埋没させるようになっ
ていた。
水が特に砕けやすい下層の地面
にしみ込むので、古い下水道では
しきいし
舗石であり新しい下水道ではコン
クリートの上に固めた水硬石灰で
ある部分は、もうそれをささえる
823
ものがなくなって揺るぎ出してい
ゆかいた
た。この種の牀板においては、一
しわ
つの皺はすなわち一つの割れ目で
ある。一つの割れ目はすなわち一
つの崩壊である。底部はかなり長
く破壊していた。泥濘の二重の深
淵たるその亀裂を専門の言葉では
・ ・ ・
崩壊孔と称していた。崩壊孔とは
何であるか? 突然地下で出会う
海岸の流砂である。下水道の中に
824
あるサン・ミシェルの丘の刑場で
ある。水を含んだ土地は溶解した
ようになっている。その分子は柔
らかい中間に漂っている。土でも
なく水でもない。時としては非常
な深さにおよんでいる。そういう
ものに出会うほど恐ろしいことは
ない。もし水が多ければ、死はす
みやかであって、直ちにのみ込ま
どろ
れてしまう。もし泥が多ければ、
825
死はゆるやかであって、徐々に埋
没される。
そういう死は人の想像にもおよ
ばないだろう。埋没が海浜の上に
おいても既に恐るべきものである
げすいこうきょ
とするならば、下水溝渠の中にお
いてはどんなものであろう。海浜
においては、大気、外光、白日、
朗らかな眼界、広い物音、生命を
雨降らす自由の雲、遠くに見える
826
船、種々の形になって現われる希
望、き合わせるかも知れない通行
人、最後の瞬間まで得られるかも
知れない救助、それらのものがあ
るけれども、下水道の中において
はただ、沈黙、暗黒、暗い丸天井、
でいど
既にでき上がってる墳墓の内部、
おお
上を蔽われてる泥土の中の死、す
おわい
なわち汚穢のための徐々の息苦し
つめ
さ、汚泥の中に窒息が爪を開いて
827
のど
ひんし
人の喉をつかむ石の箱、瀕死の息
に交じる悪臭のみであって、砂浜
ではなく泥土であり、台風ではな
くて硫化水素であり、大洋ではな
ふんにょう
くて糞尿である。頭の上には知ら
ぬ顔をしている大都市を持ちなが
いたず
ら、徒らに助けを呼び、歯をくい
しばり、もだえ、もがき、苦しむ
のである。
かくのごとくして死ぬる恐ろし
828
さは筆紙のおよぶところではない。
時とすると死は、一種の壮烈さに
あがな
よってその恐ろしさを贖われるこ
とがある。火刑や難破のおりなど
には、人は偉大となることがある。
炎や白波の中においては、崇高な
態度も取られる。そこでは滅没し
ながら偉大な姿と変わる。しかし
下水の中ではそうはゆかない。そ
の死は醜悪である。そこで死ぬの
829
は屈辱である。最後に目に浮かぶ
ものは汚穢である。泥土は不名誉
と同意義の言葉である。それは小
いや
さく醜くまた賤しい。クレランス
︵訳者注 イギリスのエドワード
四世の弟で、王に背いた後死刑に
処せられた時、自ら葡萄酒の樽の
たる
中の溺死の刑を求めたと伝えられ
ぶどうしゅ
ている︶のように芳香葡萄酒の樽
の中で死ぬのはまだいいが、エス
830
クーブロー︵訳者注 本章末節参
どぶさらいにん
照︶のように溝浚人の墓穴の中で
死ぬのはたまらない。その中でも
がくのは醜悪のきわみである。死
でいすいちゅう
の苦しみをしながら泥水中を歩く
のである。地獄と言ってもいいほ
どの暗黒があり、泥穴と言っても
でいねい
いいほどの泥濘があって、その中
に死んでゆく者は、果たして霊魂
かえる
となるのか蛙となるのかを自ら知
831
らない。
せいさん
墳墓はどこにあっても凄惨なも
のであるが、下水道の中では醜悪
なものとなる。
崩壊孔の深さは一定でなく、ま
たその長さや密度も場所によって
異なり、地層の粗悪さに比例する。
時とすると、三、四尺の深さのこ
ともあれば、八尺から十尺にもお
よぶことがあり、あるいは底がわ
832
からぬこともある。その泥土はほ
とんど固くなってる所もあれば、
ほとんど水のように柔らかい所も
ある。リュニエールの崩壊孔では、
ひとりの人が没するに一日くらい
かかるが、フェリポーの泥濘では
五分間くらいですむ。泥土の密度
いかんに従ってその支持力にも多
少がある。大人が没しても子供な
ら助かる所がある。安全の第一要
833
件は、あらゆる荷物を捨ててしま
しな
うことにある。足下の地面が撓う
かご
のを感ずる下水夫らは、いつもま
お
ず第一に、その道具袋や負い籠や
どろおけ
泥桶を投げ捨てるのであった。
崩壊孔のできる原因は種々であ
ぜいじゃく
る。地質の脆弱、人の達し得ない
ほど深い所に起こる地すべり、夏
の豪雨、絶え間ない冬の雨、長く
りんう
続く霖雨など。また時とすると、
834
泥灰岩や砂質の地面に立ち並んで
る周囲の人家の重みのため、地廊
の丸天井が押しやられてゆがむか、
あるいは、その圧力のために底部
が破裂して割れ目ができることも
ある。パンテオンの低下は、一世
紀以前に、サント・ジュヌヴィエー
すいどう
ヴ山の隧道の一部をそういうふう
にしてふさいでしまった。人家の
重みのために下水道がくずれる時、
835
しきいし
ある場合にはその変動は、舗石の
のこぎりがた
間が鋸形に開いて上部の街路に現
われた。その裂け目は亀裂した丸
天井の長さだけうねうねと続いて
いて、損害は明らかに目に見える
ので、すぐに修復することができ
た。けれどもまた、内部の惨害が
こんせき
少しも外部に痕跡を現わさないこ
ともしばしばあった。そういう場
合こそ下水夫は災いである。底の
836
ぬけた下水道に不用意にはいって、
そのままになった者も往々ある。
古い記録は、そのようにして崩壊
孔の中に埋没した下水夫を列挙し
ている。幾多の名前が出ている。
そのうちには、ブレーズ・プート
ランという男があるが、カレーム・
プルナン街の広場の下の崩壊孔に
埋没した下水夫である。彼はニコ
ラ・プートランの兄弟であって、
837
このニコラ・プートランは、一七
みどりご
八五年に嬰児の墓地と言われてい
た墓地の最後の墓掘り人であった。
その年にこの墓地は廃せられてし
まったのである。
またその中には、上にちょっと
あげた愉快な青年子爵エスクーブ
くつした
ローもいる。彼は絹の靴下をはき
バイオリンをささげて襲撃が行な
われたレリダ市の攻囲のおりの勇
838
士のひとりだった。エスクーブロー
はある夜、従妹たるスールディ公
爵夫人のもとにいた所を不意に見
つけられ、公爵の剣をのがれるた
めにボートレイ下水道の中に逃げ
できし
込んだが、その崩壊孔の中に溺死
してしまった。スールディ夫人は
くすりびん
その死を聞いた時、薬壜を取り寄
か
せて塩剤を嗅ぎ、嘆くのを忘れた。
そういう場合には恋も続くもので
839
はない。汚水だめは恋の炎を消し
てしまう。ヘロはレアドロスの溺
死体を洗うのを拒み、チスベはピ
ラムスの前に鼻をつまんで﹁おお
臭い!﹂と言う。︵訳者注 古代
の物語中の話︶
六 崩壊孔
ジャン・ヴァルジャンは一つの
840
崩壊孔に出会ったのである。
かかる崩壊は、当時シャン・ゼ
リゼーの地下にしばしば起こった
ことで、非常に流動性のものだっ
たから、水中工事を困難ならしめ
ぜいじゃく
地下構造を脆弱ならしめていた。
その流動性は、サン・ジョルジュ
街区の砂よりもいっそう不安定な
ものであり、マルティール街区の
ガスを含んだ粘土層よりもいっそ
841
う不安定なものだった。しかも、
サン・ジョルジュの砂地は、コン
クリートの上に石堤を作ってよう
やく食い止められたものであり、
マルティールの粘土層は、マル
ティール修道院の回廊の下では鋳
うが
鉄の管でようやく通路が穿たれた
ほど柔らかいものであった。一八
三六年に、今ジャン・ヴァルジャ
ンがはいり込んだその石造の古い
842
下水道を改造するために、サン・
トノレ郭外の下がこわされた時、
シャン・ゼリゼーからセーヌ川ま
で地下に横たわってた流砂は非常
な障害となって、工事は六カ月近
くも続き、付近の住民、ことに旅
館や馬車を所有してる人々の、ひ
どい不平の声を受けたものである。
工事は困難なばかりでなく、また
至って危険なものだった。実際、
843
雨が四カ月半も続き、セーヌ川の
いっすい
溢水が三度も起こった。
ジャン・ヴァルジャンが出会っ
しゅうう
た崩壊孔は前日の驟雨のためにで
きたものであった。下の砂土によ
しきいし
うやくささえられていた舗石はゆ
がんで、雨水をふさぎ止め、水が
中にしみ込んで、地くずれが起こっ
でいど
ていた。底部はゆるんで、泥土の
中にはいり込んでいた。どれほど
844
の長さに及んでいたか、それはわ
からない。やみは他の所よりもずっ
と濃くなっていた。それは暗夜の
どうくつ
洞窟の中にある泥土の穴だった。
ジャン・ヴァルジャンは足下の
舗石が逃げてゆくのを感じた。彼
でいねい
は泥濘の中にはいった。表面は水
であり、底は泥であった。けれど
もそれを通り越さなければならな
かった。あとに引き返すことは不
845
可能だった。マリユスは死にかかっ
ており、ジャン・ヴァルジャンは
疲れきっていた。それにまたどこ
にも他に行くべき道はなかった。
ジャン・ヴァルジャンは前進した。
その上、初めの二、三歩ではその
くぼち
窪地はさまで深くなさそうだった。
しかし進むに従って、足はしだい
すね
ひざ
に深く没していった。やがては、
どろ
泥が脛の半ばにおよび水が膝の上
846
におよんだ。彼は両腕でできるだ
けマリユスを水の上に高く上げな
がら、進んでいった。今や泥は膝
におよび、水は帯の所におよんだ。
もう退くことはできなかった。ま
でい
すます深く沈んでいった。底の泥
ど
土は、ひとりの重さにはたえ得る
くらい濃密だったが、明らかにふ
たりを支えることはできなかった。
マリユスとジャン・ヴァルジャン
847
とは、もし別々に分かれたらある
いは無事ですむかも知れなかった。
しかしジャン・ヴァルジャンは、
しがい
おそらくはもう死骸になってるか
ひんし
も知れない瀕死のマリユスをにな
いながら、続けて前進した。
わき
水は腋まできた。彼は今にも沈
み込むような気がした。その深い
泥土の中で歩を運ぶのも辛うじて
であった。ささえとなる泥の密度
848
はかえって障害となった。彼はな
おマリユスを持ち上げ、非常な力
を費やして前進した。しかします
ます沈んでいった。もう水から出
てるのは、マリユスをささえてる
こうずい
両腕と頭とだけだった。洪水の古
い絵には、そういうふうに子供を
差し上げてる母親が見らるる。
彼はなお沈んでいった。水を避
けて呼吸を続けるために、頭をう
849
しろに倒して顔を上向けた。もし
その暗黒の中で彼を見た者があっ
たら、影の上に漂ってる仮面かと
思ったかも知れない。彼は自分の
上に、マリユスのうなだれた頭と
そうはく
蒼白な顔とを、ぼんやり見分けた。
彼は死に物狂いの努力をして、足
を前方に進めた。足は何か固いも
のに触れた。一つの足場である。
ちょうどいい時だった。
850
彼は身を伸ばし、身をひねり、
夢中になってその足場に乗った。
あたかも生命のうちに上ってゆく
階段の第一段のように思えた。
どろ
危急の際に底の泥の中で出会っ
たその足場は、底部の向こうの一
端だった。それは曲がったままこ
われないでいて、板のようにまた
一枚でできてるかのように、水の
しな
下に撓っていた。よく築かれた石
851
せりもち
畳工事は、迫持になっていてかく
までに丈夫なものである。その一
片の底部は、半ば沈没しながらな
お強固で、まったく一つの坂道と
なっていた。一度その坂に足を置
けば、もう安全だった。ジャン・
ヴァルジャンはその斜面を上って、
でいねいこう
泥濘孔の彼岸に着いた。
彼は水から出て、一つの石に出
会い、そこにひざまずいた。彼は
852
自然にそういう心地になって、し
ばらくそこにひざまずいたまま、
全心を投げ出して言い知れぬ祈念
を神にささげた。
彼は身を震わし、氷のように冷
ひんし
たくなり、臭気にまみれ、瀕死の
者をになって背をかがめ、泥濘を
したたらし、魂は異様な光明に満
たされながら、立ち上がった。
853
七 上陸の間ぎわに座
礁することあり
ジャン・ヴァルジャンは再び進
み出した。
けれども、崩壊孔の中に生命は
落としてこなかったとするも、力
はそこに落としてきたがようだっ
ひはい
た。極度の努力に彼は疲憊しつく
していた。今は身体に力がなくて、
854
三、四歩進んでは息をつき、壁に
よりかかって休んだ。ある時は、
マリユスの位置を変えるために段
の所にすわらなければならなかっ
た。そしてもう動けないかと思っ
た。しかしたとい力はなくなって
いたとするも、元気は消えうせて
いなかった。彼はまた立ち上がっ
た。
彼はほとんど足早に絶望的に歩
855
き出して、頭も上げず、息もろく
につかないで、百歩ばかり進んだ。
すると突然壁にぶつかった。下水
かど
道の曲がり角に達し、頭を下げて
歩いていたので、その壁に行き当
たったのである。目を上げてみる
すいどう
と、隧道の先端に、前方の遠いご
かなた
くはるかな彼方に、一つの光が見
えた。今度は前のように恐ろしい
光ではなかった。それは楽しい白
856
い光だった。日の光であった。
ジャン・ヴァルジャンは出口を
認めたのである。
えいごう
永劫の罰を被って焦熱地獄の中
にありながら突然出口を認めた魂
にして始めて、その時ジャン・ヴァ
ルジャンが感じた心地を知り得る
だろう。その魂は、焼け残りの翼
をひろげて、光り輝く出口の方へ、
狂気のごとく飛んでゆくに違いな
857
い。ジャン・ヴァルジャンはもう
疲労を感じなかった。もうマリユ
スの重みをも感じなかった。足は
再び鋼鉄のように丈夫になって、
歩くというよりもむしろ走っていっ
た。近づくにしたがって、出口は
ますますはっきり見えてきた。そ
きゅうりゅうけい せりもち
れは穹窿形の迫持で、しだいに低
くなってる隧道の丸天井よりも更
に低く、丸天井が下がるにしたがっ
858
せば
てしだいに狭まってる隧道よりも
ろうと
更に狭かった。隧道は漏斗の内部
のようになっていた。かくしだい
につぼんでる不都合な形は、重罪
監獄の側門を模したもので、監獄
では理に合っているが、下水道で
は理に合わないので、その後改造
されてしまった。
ジャン・ヴァルジャンはその出
口に達した。
859
そこで彼は立ち止まった。
まさしく出口ではあったが、出
ることはできなかった。
てつごうし
丸い門は丈夫な鉄格子で閉ざさ
れていた。そして鉄格子は、酸化
ひじがね
した肱金の上にめったに開閉され
かまち
た様子も見えず、石の框に厚い錠
さ
前で固定してあり、錠前は赤く錆
れんが
がんじょう かんぬき
びて、大きな煉瓦のようになって
かぎあな
いた。鍵穴も見え頑丈な閂子が鉄
860
の受座に深くはいってるのも見え
ていた。錠前は明らかに二重錠が
おろされていた。それは昔パリー
がやたらに用いていた牢獄の錠前
の一つだった。
鉄格子の向こうには、大気、川、
昼の光、狭くはあるが立ち去るに
みぎわ
は足りる汀、遠い川岸通り、容易
しんえん
に姿を隠し得らるる深淵たるパ
リー、広い眼界、自由、などがあっ
861
た。右手には下流の方にイエナ橋
が見え、左手には上流の方にアン
ヴァリード橋が見えていた。夜を
待って逃走するには好都合な場所
だった。パリーの最も寂しい地点
の一つだった。グロ・カイユーに
はえ
向き合ってる汀だった。蠅は鉄格
子の間から出入していた。
午後の八時半ごろだったろう。
日は暮れかかっていた。
862
ジャン・ヴァルジャンは底部の
かわいた所に壁に沿ってマリユス
をおろし、それから鉄格子に進ん
でいって、その鉄棒を両手につか
んだ。そして狂気のごとく揺すっ
たが、少しも動かなかった。鉄格
とびら
子はびくともしなかった。弱い鉄
て こ
棒を引きぬいて槓杆とし扉をこじ
あけるか錠前をこわすかするつも
りで、彼は鉄棒を一本一本つかん
863
きば
だが、どれも小揺るぎさえしなかっ
とら
た。虎の牙もおよばないほど固く
植わっていた。一つの槓杆もなく、
一つの力になる物もなかった。障
害は人力のおよぶべくもなかった。
扉を開くべき方法は何もなかった。
それでは彼は、そこで終わらな
ければならなかったのか。どうし
たらいいか。どうなるのか。引き
返して、既に通ってきた恐ろしい
864
道程を繰り返すには、その力がな
かった。それにまた、ようやく奇
でいねい
跡のように脱してきたあの泥濘の
あな
孔を、どうして再び通ることがで
きよう。更にその泥濘の後には、
じゅんらたい
あの警官の巡邏隊があるではない
か。確かに二度とそれからのがれ
られるものではない。そしてまた、
どこへ行ったらいいか。どの方向
を取ったらいいか。傾斜について
865
進んでも、目的を達せられるもの
ではない。他の出口にたどりつい
ふた
た所で、必ずやそれも石の蓋か鉄
の格子かでふさがれているだろう。
あらゆる口がそういうふうに閉ざ
されてることは疑いない。彼がは
いってきた鉄格子は偶然にもゆる
んでいたが、しかし下水道の他の
口がすべて閉ざされてることは明
ろうごく
らかである。彼はただ牢獄の中に
866
逃げ込み得たに過ぎなかった。
万事終わりであった。ジャン・
ヴァルジャンがなしてきたすべて
は徒労に帰した。神はそれを受け
入れなかったのである。
かれらは二人とも、死の大きな
暗い網に捕えられてしまった。そ
してジャン・ヴァルジャンは、暗
黒の中に震え動くまっ黒な網の糸
く も
の上に恐るべき蜘蛛が走り回るの
867
を感じた。
彼は鉄格子に背を向け、やはり
身動きもしないでいるマリユスの
しきいし
そばに、舗石の上に、すわるとい
うよりもむしろ打ち倒れるように
りょうひざ
身を落とした。その頭は両膝の間
にたれた。出口はない。それが苦
悶の最後の一滴であった。
その深い重圧の苦しみのうちに、
だれのことを彼は考えていたか。
868
それは自分のことでもなく、また
マリユスのことでもなかった。彼
はコゼットのことを思っていたの
である。
八 裂き取られたる上
衣の一片
その喪心の最中に、一つの手が
彼の肩に置かれ、一つの声が低く
869
彼に話しかけた。
﹁山分けにしよう。﹂
やみ
その闇の中にだれがいたのであ
ろうか。絶望ほど夢に似たものは
ない。ジャン・ヴァルジャンは夢
をみてるのだと思った。少しも足
音は聞こえなかったのである。現
実にそんなことがあり得るだろう
か。彼は目をあげた。
一人の男が彼の前にいた。
870
男は労働服を着、足には何にも
くつ
はかず、靴を左手に持っていた。
明らかに彼は、足音を立てないで
ジャン・ヴァルジャンの所まで来
るために、靴をぬいだのだった。
ジャン・ヴァルジャンはその男
がだれであるかを少しも惑わなかっ
かいこう
た。いかにも意外な邂逅ではあっ
たが、見覚えがあった。テナルディ
エだった。
871
言わば突然目をさましたような
ものだったが、ジャン・ヴァルジャ
ンは危急になれており、意外の打
撃をも瞬間に受け止めるように鍛
えられていたので、直ちに冷静に
返ることができた。それに第一、
事情は更に険悪になり得るはずは
なかった。困却もある程度におよ
べば、もはやそれ以上に大きくな
り得ないものである。テナルディ
872
エが出てきたとて、その闇夜をいっ
そう暗くすることはできなかった。
しばし探り合いの時間が続いた。
テナルディエは右手を額の所ま
まびさし
で上げて目庇を作り、それから目
まゆね
をまたたきながら眉根を寄せたが、
それは口を軽くとがらしたのとと
もに、相手がだれであるかを見て
取ろうとする鋭い注意を示すもの
だった。しかし彼はそれに成功し
873
なかった。ジャン・ヴァルジャン
は前に言ったとおり、光の方に背
を向けていたし、またま昼間の光
どろ
でさえも見分け難いほど泥にまみ
れ血に染まって姿が変わっていた。
あなぐら
それに反してテナルディエは、窖
の中のようなほの白い明りではあ
るがそのほの白さの中にも妙にはっ
てつごうし
きりしてる鉄格子から来る光を、
まっ正面に受けていたので、通俗
874
ひ ゆ
な力強い比喩で言うとおり、すぐ
にジャン・ヴァルジャンの目の中
に飛び込んできたのである。この
条件の違いは、今や二つの位置と
二人の男との間に行なわれんとす
る不思議な対決において、確かに
ジャン・ヴァルジャンの方にある
有利さを与えるに足りた。会戦は、
覆面をしたジャン・ヴァルジャン
と仮面をぬいだテナルディエとの
875
間に行なわれた。
ジャン・ヴァルジャンはテナル
ディエが自分を見て取っていない
のをすぐに気づいた。
ふたりはその薄暗い中で、互い
に身長をはかり合ってるように、
しばらくじろじろながめ合った。
テナルディエが先に沈黙を破った。
﹁お前はどうして出るつもりだ。﹂
ジャン・ヴァルジャンは返事を
876
しなかった。
テナルディエは続けて言った。
とびら
﹁扉をこじあけることはできねえ。
だがここから出なけりゃならねえ
んだろう。﹂
﹁そのとおりだ。﹂とジャン・ヴァ
ルジャンは言った。
﹁じゃあ山分けだ。﹂
﹁いったい何のことだ?﹂
﹁お前はその男をやっつけたんだ
877
おれ
ろう。よろしい。ところで俺の方
かぎ
に鍵があるんだ。﹂
テナルディエはマリユスをさし
示した。彼は続けて言った。
﹁俺はお前を知らねえ、だが少し
手伝おうというんだ。おだやかに
話をつけようじゃねえか。﹂
ジャン・ヴァルジャンは了解し
はじめた。テナルディエは彼を人
殺しだと思ってるのだった。テナ
878
ルディエはまた言った。
﹁まあ聞けよ、お前はそいつの懐
中を見届けずにやっつけたんじゃ
おれ
あるめえ。半分俺によこせ。扉を
開いてやらあね。﹂
そして穴だらけの上衣の下から
かぎ
大きな鍵を半ば引き出しながら、
彼は言い添えた。
﹁自由な身になる鍵がどんなもの
か、見てえなら見せてやる。これ
879
だ。﹂
ジャン・ヴァルジャンは、老コ
あぜ
ルネイユの用語を借りれば、﹁唖
ん
然とした。﹂そして眼前のことが
果たして現実であるかを疑ったほ
どである。それは恐ろしい姿で現
われてくる天意であり、テナルディ
エの形となって地から出て来る善
良な天使であった。
テナルディエは上衣の下に隠さ
880
れてる大きなポケットに手をつき
込み、一筋の綱を取り出して、そ
れをジャン・ヴァルジャンに差し
出した。
﹁さあ、﹂と彼は言った、﹁おま
けにこの綱もつけてやらあな。﹂
﹁綱を何にするんだ。﹂
﹁石もいるだろうが、それは外に
ある。こわれ物がいっぱい積んで
あるんだ。﹂
881
﹁石を何にするんだ。﹂
﹁ばかだな。お前はそいつを川に
投げ込むつもりだろう。すりゃあ
石と綱とがいるじゃねえか。そう
しなけりゃ水に浮いちまわあな。﹂
ジャン・ヴァルジャンはその綱
を取った。だれにでも、そういう
ふうにただ機械的に物を受け取る
ことがある。
テナルディエは突然ある考えが
882
浮かんだかのように指を鳴らした。
おれ
﹁ところで、お前はどうして向こ
どろあな
うの泥孔を越してきたんだ。俺に
はとてもできねえ。ぷー、あまり
いいにおいじゃねえな。﹂
ちょっと黙った後、彼はまた言
い出した。
﹁俺がいろんなことを聞いてるの
に、お前が一向返事もしねえのは
もっともだ。予審のいやな十五、
883
六分間の下稽古だからな。それに、
口をききさえしなけりゃあ、あま
り大きな声を出しゃしねえかとい
う心配もねえわけだからな。だが
どっちみち同じことだ。お前の顔
もよく見えねえし、お前の名も知
らねえからといって、お前がどん
な人間でどんなことをするつもり
か、俺にわからねえと思っちゃま
ちがえだぜ。よくわかってらあね。
884
お前はその男をばらして、今どこ
かに押し込むつもりだろう。お前
には川がいるんだ。川ってものは
ばかなことをすっかり隠してしま
うものだからな。困るなら俺が救っ
てやらあ。正直者の難儀を助ける
なあ、ちょうど俺のはまり役だ。﹂
ジャン・ヴァルジャンが黙って
るのを彼は一方に承認しながらも、
明らかに口をきかせようとつとめ
885
ていた。彼は横顔でも見ようとす
るように、相手の肩を押した。そ
してやはり中声をしたまま叫んだ。
﹁泥孔と言やあ、お前はどうかし
てるね。なぜあそこにほうり込ん
でこなかったんだ?﹂
ジャン・ヴァルジャンは黙って
いた。
えりかざ
テナルディエは襟飾りとしてる
のどぼとけ
ぼろ布を喉仏の所まで引き上げた。
886
それは真剣になった様子を充分に
示す身振りだった。そして言った。
りこ
﹁だが、つまりお前のやり方は悧
う
巧だったかも知れねえ。職人が明
日穴でもふさぎに来れば、そこに
死人が捨てられてるのをきっと見
つける。そうすりゃあ、それから
それと糸をたぐって跡をかぎつけ、
お前の身におよんでくる。下水道
やつ
の中を通った奴がいる。それはだ
887
れだ、どこから出たんだ、出るの
を見た者があるか? なんて警察
はなかなか抜け目がねえからな。
下水道は裏切って、お前を密告す
る。死人なんていう拾い物は珍し
いし、人の目をひく。だから下水
道を仕事に使う奴はあまりいねえ。
ところが川とくりゃあ、だれでも
使ってる。川はまったく墓場だか
らな。一月もたってから、サン・
888
クルーの網に死体がひっかかる。
そうなりゃあかまったこたあねえ。
身体は腐ってらあ。だれがこの男
を殺したか、パリーが殺したんだ、
てなことになる。警察だってろく
に調べやしねえ。つまりお前は上
手にやったわけだ。﹂
テナルディエがしゃべればしゃ
べるほど、ジャン・ヴァルジャン
はますます黙り込んだ。テナルディ
889
エはまた彼の肩を押し動かした。
かぎ
﹁さあ用事をすまそう。二つに分
おれ
けるんだ。お前は俺の鍵を見たん
だから、俺にも一つお前の金を見
せなよ。﹂
どうもう
テナルディエは荒々しく、獰猛
いか
で、胸に一物あるらしく、多少威
く
嚇するようなふうだったが、それ
でもごくなれなれしそうだった。
不思議なことが一つあった。テ
890
ナルディエの態度は単純ではなかっ
た。まったく落ち着いてるような
様子はなかった。平気なふうを装
いながら、声を低めていた。時々
口に指をあてては、しッ! とつ
ぶやいた。その理由はどうも察し
難かった。そこには彼らふたりの
ほかだれもいなかった。おそらく
他に悪党どもがどこかあまり遠く
ない片すみに潜んでいて、テナル
891
ディエはそれらと仕事を分かちた
くないと思ってるのだと、ジャン・
ヴァルジャンは考えた。
テナルディエは言った。
﹁話を片づけてしまおう。そいつ
は懐中にいくら持っていたんだ?﹂
ジャン・ヴァルジャンは身体中
方々さがした。
読者の記憶するとおり、いつも
金を身につけてるのは彼の習慣だっ
892
た。臨機の策を講じなければなら
ない陰惨な生活に定められてる彼
は、金を用意しておくのを常則と
していた。ところがこんどに限っ
て無一物だった。前日の晩、国民
兵の服をつけるとき、悲しい思い
に沈み込んでいたので、紙入れを
持つのを忘れてしまった。彼はた
だチョッキの隠しにわずかな貨幣
を持ってるだけだった。全部で三
893
十フランばかりだった。彼は汚水
に浸ったポケットを裏返して、底
部の段の上に、ルイ金貨一個と五
フラン銀貨二個と大きな銅貨を五、
六個並べた。
テナルディエは妙に首をひねり
したくちびる
ながら下脣をつき出した。
﹁安っぽくやっつけたもんだな。﹂
と彼は言った。
彼はごくなれなれしく、ジャン・
894
ヴァルジャンとマリユスとのポケッ
トに一々さわってみた。ジャン・
ヴァルジャンは特に光の方に背を
向けることばかりに気を使ってい
たので、彼のなすままに任した。
テナルディエはマリユスの上衣を
びんし
扱ってる間に、手品師のような敏
ょう
捷さで、ジャン・ヴァルジャンが
気づかぬうちに、その破れた一片
を裂き取って、自分の上衣の下に
895
隠した。その一片の布は、他日被
害者と加害者とがだれであるかを
知る手掛かりになるだろうと、多
分考えたのだろう。しかし金の方
は、三十フラン以外には少しも見
いださなかった。
﹁なるほど、﹂と彼は言った、
﹁ふたりでそれだけっきり持たね
えんだな。﹂
・ ・ ・
そして山分けという約束を忘れ
896
て、彼は全部取ってしまった。
大きな銅貨に対しては彼もさす
ちゅうちょ
がにちょっと躊躇した。しかし考
えた末それをも奪いながら口の中
でつぶやいた。
﹁かまわねえ、あまり安すぎるか
らな。﹂
それがすんで、彼はまた上衣の
かぎ
下から鍵を引き出した。
﹁さあ、お前は出なけりゃなるめ
897
え。ここは市場のようなもんで出
る時に金を払うんだ。お前は金を
払ったから、出るがいい。﹂
そして彼は笑い出した。
彼がそういうふうに、見知らぬ
男に鍵を貸してやり、その門から
他人を出してやったのは、一殺害
人を救ってやろうという純粋無私
な考えからであったろうか。それ
については疑いを入れる余地があ
898
る。
テナルディエはジャン・ヴァル
ジャンに自ら手伝って再びマリユ
スを肩にかつがせ、それから、つ
てつごうし
いて来るように合い図をしながら、
はだし
跣足の爪先でそっと鉄格子の方へ
進み寄り、外をのぞき、指を口に
あて、決心のつかないようなふう
でしばらくたたずんだ。やがて外
の様子をうかがってしまうと、彼
899
とびら
す
かん
は鍵を錠前の中に差し込んだ。閂
ぬき
子はすべり、扉は開いた。擦れる
きし
音もせず、軋る音もしなかった。
ごく静かに開かれてしまった。そ
ひじ
れでみると明らかに、鉄格子と肱
がね
金とはよく油が塗られていて、思っ
たよりしばしば開かれていたもの
らしい。その静けさは気味悪いも
のだった。隠密な往来がそこに感
ぜられ、夜の男どもの黙々たる出
900
おおかみ
入りと罪悪の狼の足音とがそこに
感ぜられた。下水道はまさしく、
秘密な盗賊仲間の同類だった。音
ぞうひん
を立てないその鉄格子は贓品受け
取り人だった。
とびら
テナルディエは扉を少し開き、
ジャン・ヴァルジャンにちょうど
てつごう
通れるだけのすき間を与え、鉄格
し
子を再び閉ざし、錠前の中に二度
かぎ
鍵を回し、息の根ほどの音も立て
901
ないで、暗黒の中にまた没してし
まった、彼は虎のビロードのよう
な足で歩いてるかと思われた。一
瞬間の後には、天意ともいうべき
けんお
その嫌悪すべき男は、目に見えな
いもののうちにはいり込んでしまっ
ていた。
ジャン・ヴァルジャンは外に出
た。
902
九 死人と思わるるマ
リユス
ジャン・ヴァルジャンはマリユ
みぎわ
スを汀の上にすべりおろした。
彼らは外に出たのである。
毒気と暗黒と恐怖とは背後になっ
た。自由に呼吸される清純な生き
た楽しい健全な空気は、あたりに
あふれていた。周囲は至る所静寂
903
あおぞら
であったが、しかしそれは蒼空の
うちに太陽が沈んでいった後の麗
わしい静寂だった。薄暮の頃で、
夜はきかかっていた。夜こそは大
なる救済者であり、苦難から出る
ために影のマントを必要とするあ
らゆる魂の友である。空は大きな
平穏となって四方にひろがってい
くち
た。川は脣づけをするような音を
立てて足下に流れていた。シャン・
904
にれ
ゼリゼーの楡の木立ちの中には、
互いに就寝のあいさつをかわして
る小鳥の軽い対話が聞こえていた。
ほの青い中天をかすかに通してた
だ夢想の目にのみ見える二、三の
星は、無辺際のうちに小さな点と
なって輝いていた。夕はジャン・
ヴァルジャンの頭の上に、無窮な
るものの有するあらゆる静穏を展
開していた。
905
しかりとも否とも言い難い微妙
な不分明な時間だった。既に夜の
もや
靄はかなり濃くなっていて、少し
離るれば人の姿もよくわからない
が、なお昼の明るみはかなり残っ
ていて、近くに寄れば相手の顔が
認められた。
ジャン・ヴァルジャンはしばら
くの間、そのおごそかなまたやさ
しい清朗の気にまったく打たれて
906
しまった。かく我を忘れさせる瞬
間もよくあるものである。そうい
う時、苦悩は不幸なる者をわずら
わすのをやめる。すべては思念の
中に姿を潜める。平和の気は夢想
する者を夜のようにおおう。そし
て輝く薄明の下に、光をちりばむ
る空をまねて、人の魂も星に満た
される。ジャン・ヴァルジャンは
頭の上に漂ってるその輝く広い影
907
をうちながめざるを得なかった。
えいごう
彼は思いにふけりながら永劫の空
のおごそかな静寂のうちに、恍惚
と祈念との情をもって浸り込んだ。
それから急に、あたかも義務の感
が戻ってきたかのように、彼はマ
てのひら くぼ
リユスの方へ身をかがめ、掌の窪
の中に水をすくって、その数滴を
静かに彼の顔にふりかけた。マリ
まぶた
ユスの眼瞼は開かなかった。けれ
908
ども半ば開いてるその口には息が
通っていた。
ジャン・ヴァルジャンは再び川
に手を入れようとした。その時、
姿は見えないがだれかが背後に立っ
てるような言い知れぬ不安を突然
感じた。
だれでもそういう感銘を知って
るはずだが、それについては既に
他の所で述べてきたとおりである。
909
ジャン・ヴァルジャンはふり返っ
た。
感じたとおり、果たして何者か
がうしろにいた。
背の高いひとりの男が、フロッ
ク形の長い上衣を着、両腕を組み、
こん
しかも右手には鉛の頭が見える棍
ぼう
棒を持って、マリユスの上にかが
んでるジャン・ヴァルジャンの数
歩うしろの所に、じっと立ってい
910
た。
それは影に包まれていて幽霊の
ように見えた。単純な者であった
ら、薄暗がりのために恐怖を感じ
たろう。思慮ある者であったら、
棍棒のために恐怖を感じたろう。
ジャン・ヴァルジャンはその男
がジャヴェルであることを見て取っ
た。
テナルディエを追跡したのはジャ
911
ヴェルにほかならなかったことを、
読者は既に察したであろう。ジャ
ぼうさい
ヴェルは望外にも防寨から出た後、
警視庁へ行き、わずかの間親しく
総監に面接して口頭の報告をし、
それからまた直ちに自分の任務に
ついた。読者は彼のポケットに見
いだされた書き付けのことを記憶
しているだろう。それによると彼
の任務には、しばらく前から警察
912
の注意をひいていたセーヌ右岸の
シャン・ゼリゼー付近を少し監視
することも含まっていた。彼はそ
こでテナルディエを見つけ、その
跡をつけたのだった。その後のこ
とは読者の知るとおりである。
ジャン・ヴァルジャンの前に親
てつごうし
切にも鉄格子を開いてやったのは、
テナルディエの一つの妙策だった
ことも、また同様にわかるはずで
913
ある。テナルディエはジャヴェル
がまだそこにいることを感じてい
た。待ち伏せされてる男は的確な
きゅうかく
一つの嗅覚を持ってるものである。
そこで猟犬に一片の骨を投げ与え
てやる必要があった。殺害者とは
何という望外の幸いであろう! それは又とない身代わりであって、
どうしてものがすわけにはゆかな
い。テナルディエは自分の代わり
914
にジャン・ヴァルジャンを外につ
き出すことによって、警察に獲物
ゆる
を与え、自分の追跡を弛ませ、いっ
そう大きな事件のうちに自分のこ
スパイ
とを忘れさせ、いつも間諜が喜ぶ
待ち甲斐のある報酬をジャヴェル
もう
に与え、自分は三十フランを儲け、
そして、自分の方はそれに紛れて
身を脱し得ることと思った。
ジャン・ヴァルジャンは一つの
915
暗礁から他の暗礁へぶつかったの
である。
相次いでテナルディエからジャ
ヴェルへと落ちていった二度の災
難は、あまりにきびしすぎた。
前に言ったとおり、ジャン・ヴァ
ルジャンはまったく姿が変わって
いたので、ジャヴェルはそれと見
て取り得なかった。彼は両腕を組
んだまま、目につかないくらいの
916
こんぼう
動作で棍棒を握りしめてみて、そ
れから簡明な落ち着いた声で言っ
た。
﹁何者だ。﹂
﹁私だ。﹂
﹁いったいだれだ?﹂
﹁ジャン・ヴァルジャン。﹂
ひざ
ジャヴェルは棍棒をくわえ、膝
をまげ、身体を傾け、ジャン・ヴァ
ルジャンの両肩を二つの万力では
917
さむように強い両手でとらえ、そ
の顔をのぞき込み、そして始めて
それと知った。二人の顔はほとん
ど接するばかりになった。ジャヴェ
ルの目つきは恐ろしかった。
つめ
し し
ジャン・ヴァルジャンはあたか
やまねこ
も山猫の爪を甘受してる獅子のよ
うに、ジャヴェルにつかまれたま
まじっとしていた。
﹁ジャヴェル警視、﹂と彼は言っ
918
た、﹁私は君の手中にある。それ
け さ
に今朝から、私はもう君に捕えら
れたものだと自分で思っていた。
君からのがれるつもりならば、住
所などを教えはしない。私を捕え
るがいい。ただ一つのことを許し
てもらいたい。﹂
ジャヴェルはその言葉を聞いて
るようにも思われなかった。彼は
ジャン・ヴァルジャンの上にじっ
919
ひとみ
あご
しわ
と瞳を据えていた。頤に皺を寄せ、
くちびる
脣を鼻の方へつき出して、荒々し
い夢想の様子だった。それから彼
はジャン・ヴァルジャンを放し、
こんぼう
すっくと身を伸ばし、棍棒を充分
手のうちに握りしめ、そして夢の
中にでもいるように、次の問を発
した、というよりむしろつぶやい
た。
﹁君はここに何をしてるんだ、そ
920
してその男は何者だ。﹂
彼はもうジャン・ヴァルジャン
をきさまと呼んではいなかった。
ジャン・ヴァルジャンは答えた
が、その声の響きにジャヴェルは
始めて我に返った。
﹁私が君に話したいのもちょうど
この男のことだ。私の身は君の勝
手にしてほしい。だがまずこの男
をその自宅に運ぶのを手伝っても
921
らいたい。願いというのはそれだ
けだ。﹂
ジャヴェルの顔は、人から譲歩
を予期されてると思うたびごとに
いつもするように、すっかり張り
つめた。けれども彼は否とは言わ
なかった。
彼は再び身をかがめ、ポケット
からハンカチを引き出し、それを
水に浸して、マリユスの血に染まっ
922
てる額をぬぐった。
ぼうさい
﹁防寨にいた男だな。﹂と彼は独
語のように半ば口の中で言った。
﹁マリユスと呼ばれていた者だ。﹂
たんてい
彼こそ実に一流の探偵というべ
きであって、やがて殺されるのを
知りながらも、すべてを観察し、
すべてに耳を傾け、すべてを聞き
取り、すべてのことを頭に入れて
くもん
いたのである。死の苦悶のうちに
923
ありながら、様子をうかがい、墳
墓へ一歩ふみ込みながら、記録を
とっていたのである。
彼はマリユスの手を取って脈を
み
診た。
﹁負傷している。﹂とジャン・ヴァ
ルジャンは言った。
﹁死んでいる。﹂とジャヴェルは
言った。
ジャン・ヴァルジャンは答えた。
924
﹁いや、まだ死んではいない。﹂
ぼうさい
﹁君はこの男を、防寨からここま
で運んできたんだな。﹂とジャヴェ
ルは言った。
下水道を横ぎってきたその驚く
べき救助についてその上尋ねるこ
ともせず、また彼の問にジャン・
ヴァルジャンが何とも答えないの
を気にも止めなかったのを見ると、
何か深く彼の頭を満たしていたも
925
のがあったに違いない。
ジャン・ヴァルジャンの方は、
ただ一つの考えしかいだいていな
いようだった。彼は言った。
﹁この男の住所は、マレーのフィー
ユ・デュ・カルヴェール街で、そ
の祖父⋮⋮名前を忘れてしまっ
た。﹂
ジャン・ヴァルジャンはマリユ
スの上衣を探り、紙ばさみを取り
926
出し、マリユスが鉛筆で走り書き
したページを開き、それをジャヴェ
ルに差し出した。
文字が読めるくらいの光は、ま
だ空中に漂っていた。その上ジャ
ヴェルの目は、夜の鳥のように暗
りんこう
中にも見える一種の燐光を持って
いた。彼はマリユスの書いた数行
を読み分けてつぶやいた。
﹁フィーユ・デュ・カルヴェール
927
街六番地、ジルノルマン。﹂
それから彼は叫んだ。﹁おい、
御者!﹂
つじばし
読者の思い起こすとおり、辻馬
ゃ
車は万一の場合のために待ってい
た。
かみばさ
ジャヴェルはマリユスの紙挾み
を取り上げてしまった。
まもなく、馬車は水飲み場の傾
みぎわ
斜をおりて汀までやってき、マリ
928
ユスは奥の腰掛けの上に置かれ、
ジャヴェルとジャン・ヴァルジャ
ンとは相並んで前の腰掛けにすわっ
た。
つじばしゃ
戸は閉ざされ、辻馬車はすみや
かに遠ざかって、川岸通りをバス
ティーユの方向へ上っていった。
一同は川岸通りを去って、街路
にはいった。御者台の上に黒く浮
むち
き出してる御者は、やせた馬に鞭
929
をあてていた。馬車の中は氷のよ
うな沈黙に満たされていた。マリ
ユスは身動きもせず、奥のすみに
身体をよせかけ、頭を胸の上にぐ
たりとたれ、両腕をぶら下げ、足
ひつぎ
は固くなって、もうただ柩を待っ
てるのみであるように思われた。
ジャン・ヴァルジャンは影ででき
てるかのようであり、ジャヴェル
は石でできてるかのようだった。
930
そして馬車の中はまったくの暗夜
であって、街灯の前を通るたびご
とに、明滅する電光で照らされる
ように内部が青白くひらめいた。
しがい
死骸と幽霊と彫像と、三つの悲壮
な不動の姿が、偶然いっしょに集
まって、ものすごく顔をつき合わ
してるかと思われた。
むす
十 生命を惜しまぬ息
931
こ
子の帰宅
しきいし
舗石の上に馬車が揺れるたびご
とに、マリユスの頭髪から一滴ず
つ血がたれた。
馬車がフィーユ・デュ・カル
ヴェール街六番地に達した時は、
もうま夜中だった。
ジャヴェルはまっさきに馬車か
らおり、大門の上についてる番地
932
お や ぎ
を一目で見て取り、牡山羊とサチー
ル神とが向かい合ってる古風な装
かなづち
飾のある練鉄の重い金槌を取って、
案内の鐘を一つ激しくたたいた。
とびら
片方の扉が少し開いた。ジャヴェ
ルはそれを大きく押し開いた。門
あくび
番は欠伸をしながら、ぼんやり目
ろう
をさましたようなふうで、手に蝋
そく
燭を持って半身を現わした。
家の中は皆寝静まっていた。マ
933
レーでは皆早寝で、ことに暴動の
日などはそうである。その善良な
古い町は、革命と聞くと恐れおの
のき、眠りの中に逃げ込んでしま
ひとさら
う。あたかも子供らが、人攫い鬼
の来るのを聞いて、急いで頭から
ふとんをかぶるようなものである。
その間に、ジャン・ヴァルジャ
ひざ
ンは両わきをささえ御者は膝を持っ
て、ふたりでマリユスを馬車から
934
引き出した。
そういうふうにマリユスをかか
えながら、ジャン・ヴァルジャン
は大きく裂けてる服の下に手を差
し込んで、その胸にさわってみ、
なお心臓が鼓動してるのを確かめ
た。しかも、馬車の動揺のために
かえって生命を取り返したかのよ
うに、心臓の鼓動はいくらか前よ
りもよくなっていた。
935
ジャヴェルはいかにも暴徒の門
番に対する役人といった調子で、
その門番に口をきいた。
﹁ジルノルマンという者の家はこ
こか。﹂
﹁ここですが、何の御用でしょ
う?﹂
﹁息子を連れ戻してきたのだ。﹂
﹁息子を?﹂と門番はぼんやりし
たふうで言った。
936
﹁死んでいるんだ。﹂
よごれたぼろぼろの服をつけた
ジャン・ヴァルジャンが、ジャヴェ
ルのうしろに立ってるので、門番
は恐ろしそうにそちらをながめて
いた。するとジャン・ヴァルジャ
ンは頭を振って、死んでるのでは
ないと合い図をした。
門番にはジャヴェルの言葉もジャ
ン・ヴァルジャンの合い図もよく
937
わからないらしかった。
ジャヴェルは続けて言った。
ぼうさい
﹁この者は防寨に行っていたが、
このとおり連れてきたのだ。﹂
﹁防寨に!﹂と門番は叫んだ。
おやじ
﹁そして死んだのだ。親父を起こ
しに行け。﹂
門番は身を動かさなかった。
﹁行けと言ったら!﹂とジャヴェ
ルはどなった。
938
そして彼は付け加えた。
あ す
﹁いずれ明日は葬式となるだろ
う。﹂
ジャヴェルにとっては、公道に
おける普通のできごとは、すべて
整然と分類されていた。それは警
戒と監視との第一歩である。そし
て各事件はそれぞれの部門を持っ
ていた。普通にありそうな事柄は
すべて、言わば引き出しの中にし
939
まわれていて、場合に応じて必要
なだけ取り出さるるのだった。街
路の中には、騒擾、暴動、遊楽、
葬式、などがあった。
門番はただバスクだけを起こし
た。バスクはニコレットを起こし
た。ニコレットはジルノルマン伯
母を起こした。祖父の方はなるべ
く遅く知らせる方がいいとされて、
眠ったままにして置かれた。
940
へ や
マリユスは建て物の他の部屋の
者がだれも気づかないうちに二階
あんらくいす
に運ばれ、ジルノルマン氏の次の
へや
室の古い安楽椅子に寝かされた。
そしてバスクが医者を迎えに行き、
たんす
ニコレットが箪笥を開いてる間に、
ジャン・ヴァルジャンはジャヴェ
ルから肩をとらえられてるのを感
じた。
彼はその意味を了解し、ジャヴェ
941
ルの足音をうしろにしたがえなが
ら階段をまたおりていった。
門番は恐ろしい夢の中にいるよ
うな心地で、彼らがはいってきた
とおりにまた出て行くのをながめ
た。
彼らは再び馬車に乗った。御者
も御者台に上った。
﹁ジャヴェル警視、﹂とジャン・
ヴァルジャンは言った、﹁も一つ
942
許してもらいたい。﹂
﹁何だ?﹂とジャヴェルは荒々し
く尋ねた。
﹁ちょっと自宅に戻るのを許して
ほしい。それからあとは君の存分
にしてもらおう。﹂
あご
ジャヴェルは上衣のえりに頤を
埋め、しばらく黙り込んでいたが、
それから前の小窓を開いた。
﹁御者、﹂と彼は言った、﹁オン
943
ム・アルメ街七番地へやれ。﹂
十一 絶対者の動揺
彼らは先方に着くまで一言も口
をきかなかった。
ジャン・ヴァルジャンが望んで
いることは何であったか? 既に
はじめたところをなし終えること、
すなわち、コゼットに事情を知ら
944
せ、彼女にマリユスの居所を告げ、
他の何か有益な注意を与え、また
でき得るならばある最後の処置を
取ることだった。彼自身のことは、
彼一身に関することは、万事終わっ
ていた。彼はジャヴェルに捕えら
れ、少しも抵抗しなかった。もし
他の者がそういう地位に立ったら、
こうしま
テナルディエにもらった綱とこれ
ちろう
からはいるべき第一の地牢の格子
945
ど
ばくぜん
は
窓とに、おそらく漠然と思いを馳
せたであろう。しかしミリエル司
教に会って以来ジャン・ヴァルジャ
ンのうちには、あらゆる暴行に対
して、あえて言うが自身の生命を
けいけん
害する暴行に対しても、深い敬虔
ちゅうちょ
な躊躇の情があったのである。
自殺ということは、未知の世界
に対する一種神秘的な違法行為で
あり、ある程度まで魂の死を含み
946
得るものであって、ジャン・ヴァ
ルジャンにはなし得ないことだっ
た。
オンム・アルメ街の入り口で馬
車は止まった。その街路は非常に
狭くて馬車ははいれなかった。ジャ
ヴェルとジャン・ヴァルジャンと
は馬車から降りた。
御者は馬車のユトレヒト製ビロー
どろ
ドが、被害者の血と加害者の泥と
947
で汚点だらけになったことを、
﹁警視様﹂にうやうやしく申し出
た。彼はその事件を殺害だと思っ
ていたのである。そして損害を弁
償してもらわなければならないと
言い添えた。同時に彼はポケット
から手帳を取り出して、﹁何とか
御証明を一行﹂その上に書いてい
ただきたいと警視様に願った。
ジャヴェルは御者が差し出して
948
る手帳を退けて言った。
﹁待ち合わせと馬車代とをいれて
全部でいくらほしいのか。﹂
﹁七時間と十五分になりますし、﹂
と御者は答えた、﹁ビロードはま
新しだったものですから、警視様、
八十フランいただきましょう。﹂
ジャヴェルはポケットからナポ
レオン金貨を四つ取り出して与え、
馬車を返してやった。
949
ジャン・ヴァルジャンはすぐ近
くにあるブラン・マントーの衛舎
かアルシーヴの衛舎かに、ジャヴェ
ルが自分を徒歩で連れてゆくつも
りだろうと思った。
彼らはオンム・アルメ街にはいっ
て行った。街路はいつものとおり
寂然としていた。ジャヴェルはジャ
ン・ヴァルジャンのあとに従った。
彼らは七番地に達した。ジャン・
950
ヴァルジャンは門を叩いた。門は
開いた。
﹁よろしい。上ってゆくがいい。﹂
とジャヴェルは言った。
し
そして妙な表情をし、強いて口
をきいてるかのようなふうで言い
添えた。
﹁わたしはここで君を待ってい
る。﹂
ジャン・ヴァルジャンはジャヴェ
951
ルの顔をながめた。そんなやり方
はジャヴェルの平素にも似合わぬ
ことだった。けれども、今ジャヴェ
ごうぜん
ルが一種傲然たる信任を彼に置い
ねずみ
ているとしても、それはおのれの
つめ
爪の長さだけの自由を鼠に与える
ねこ
猫の信任であるし、またジャン・
ヴァルジャンは一身を投げ出して
万事を終わろうと決心していたの
で、別に大して驚くにも当たらな
952
いことだった。彼は戸を押し開き、
家の中にはいり、もう寝ていて寝
床の中から門を開く綱を引いてく
れたその門番に、﹁私だ﹂と言い
残し、階段を上っていった。
二階にきて彼は立ち止まった。
あらゆる悲しみの道にも足を休む
べき場所がある。階段の上の窓は、
揚げ戸窓になっていたが、いっぱ
い開かれていた。古い家には多く
953
見受けられるとおり、その階段も
外から明りが取られていて、街路
が見えるようになっていた。ちょ
うど正面にある街路の光が少し階
あかり
段に差して灯火の倹約となってい
た。
ジャン・ヴァルジャンは息をつ
くためかあるいはただ機械的にか、
その窓から頭を出した。そして街
路の上に身をかがめてみた。街路
954
は短くて、端から端まで明るく街
灯に照らされていた。ジャン・ヴァ
ぼうぜん
ルジャンは惘然として我を忘れた。
そこにはもうだれもいなかったの
である。
ジャヴェルは立ち去っていた。
十二 祖父
あんらくいす
人々からとりあえず安楽椅子の
955
上にのせられたまま身動きもしな
いで横たわってるマリユスを、バ
スクと門番とは客間の中に運んだ。
呼ばれた医者は駆けつけてきた。
お ば
ジルノルマン伯母は起き上がって
いた。
ジルノルマン伯母は驚き恐れて、
うろうろし、両手を握り合わせ、
﹁まあどうしたことだろう、﹂と
口にするきり何にもできなかった。
956
時とするとまた言い添えた、﹁何
もかも血だらけになる。﹂それか
ら最初の恐怖がしずまると、彼女
の頭にも事情が多少わかってきて、
﹁こうなるにきまっている、﹂と
いう言葉を出させた。それでも彼
女は、そういう場合によく口にさ
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
れる﹁私が言ったとおりだ﹂とま
では言わなかった。
医者の言いつけで、たたみ寝台
957
が一つ安楽椅子のそばに据えられ
た。医者はマリユスを診察して、
脈がまだ続いており、胸には一つ
くちびる
も深い傷がなく、脣のすみの血は
鼻孔から出てるものであることを
しら
検べ上げた後、彼を平たく寝台の
上に寝かし、呼吸を自由にさせる
まくら
ために、上半身を裸にし、枕を与
えないで頭が身体と同じ高さに、
というよりむしろ多少低くなるよ
958
うにした。ジルノルマン嬢はマリ
ねんじゅきと
ユスが裸にされるのを見て席をは
へや
ずした。そして自分の室で念珠祈
う
祷を唱えはじめた。
胴体は内部におよぶ傷害を一つ
かみばさ
も受けていなかった。一弾は紙挾
わき
みに勢いをそがれ、横にそれて脇
にひどい裂傷を与えていたが、そ
れは別に深くはなく、したがって
危険なものではなかった。下水道
959
の中を長く通ってきたために、折
れた鎖骨はまったく食い違って、
そこに重な損傷があった。両腕は
一面にサーベルを受けていた。顔
にはひどい傷は一つもなかった。
けれども頭はすっかりめちゃくちゃ
になっていた。それらの頭部の傷
はどういう結果をきたすであろう
か、頭皮だけに止まってるのだろ
うか、脳をも侵してきはしないだ
960
ろうか? その点がまだ不明だっ
た。重大な兆候は、それらの傷の
ために気絶してることであって、
そういう気絶からはついに再びさ
めないことがよくある。その上彼
は出血のために弱りきっていた。
ぼうさい
ただ帯から下の部分は、防寨にま
もられて無事だった。
バスクとニコレットとは布を引
ほうたい
き裂いて繃帯の用意をした。ニコ
961
レットはそれを縫い、バスクはそ
めんざんし
れを巻いた。綿撒糸がないので、
医者は一時綿をあてて傷口の出血
を止めた。寝台のそばには、外科
手術の道具が並べられてるテーブ
ろうそく
ルの上に、三本の蝋燭が燃えてい
た。医者は冷水でマリユスの頬と
おけ
頭髪とを洗った。桶一杯の水はた
ちまち赤くなった。門番は手に蝋
燭を持ってそれを照らしていた。
962
医者は悲しげに考え込んでいる
らしかった。時々彼は自ら心のう
ちで試みてる問に自ら答えるよう
に、否定的に頭を振った。医者が
ひとりでやるその不思議な対話は、
病者に対する悪いしるしである。
医者がマリユスの顔をぬぐって、
まぶた
なお閉じたままの眼瞼に軽く指先
とびら
をさわった時、その客間の奥の扉
が開いて、青ざめた長い顔が現わ
963
れた。
祖父であった。
二日間の暴動は、ジルノルマン
氏をひどく刺激し怒らせ心痛さし
ていた。前夜彼は一睡もできず、
またその一日熱に浮かされていた。
晩になると、家中の締まりをよく
しろと言いつけながら、早くから
床について、疲労のため軽い眠り
に入った。
964
老人の眠りはさめやすいもので
へや
ある。ジルノルマン氏の室は客間
に接していたので、皆は用心をし
ていたが、物音は彼をさましてし
とびら
まった。彼は扉のすき間から見え
る光に驚いて、寝床から起き出し、
手探りにやってきた。
しきい
彼は閾の上に立ち、半ば開いた
扉の取っ手に片手をかけ、頭を少
し差し出してふらふらさし、身体
965
きょうかたびら
は経帷子のように白いまっすぐな
むひだ
無襞の寝間着に包まれ、びっくり
した様子であった。その姿はあた
かも墳墓の中をのぞき込んでる幽
霊のようだった。
彼は寝台を見、ふとんの上の青
年を見た。青年は血にまみれ、皮
ろう
膚は蝋のように白く、目は閉じ、
くちびる
口は開き、脣は青ざめ、帯から上
は裸となり、全身まっかな傷でお
966
おわれ、身動きもせず、明るく照
らし出されていた。
祖父は頭から足先までその固い
五体の許すだけ震え上がり、老年
のために目じりが黄色くなってる
両眼はガラスのような光におおわ
がいこつ
れ、顔全体はたちまち骸骨のそれ
のように土色の角を刻み、両腕は
ば ね
撥条が切れたようにだらりとたれ
ぼうぜん
下がり、惘然たる驚きの余りその
967
震えてる年老いた両手の指は一本
りょうひざ
一本にひろがり、両膝は前方に角
度をなしてこごみ、寝間着の開き
目から白い毛の逆立ったあわれな
膝頭があらわにのぞき出し、そし
て彼はつぶやいた。
﹁マリユス!﹂
だんなさま
﹁旦那様、﹂とバスクは言った、
﹁若旦那様は人に運ばれてこられ
ぼうさい
ました。防寨に行かれまして、そ
968
して⋮⋮。﹂
﹁死んだのだ!﹂と老人は激しい
声で叫んだ、﹁無頼漢めが!﹂
その時、墳墓の中の変容もかく
やと思われるばかりに、その百歳
に近い老人は若者のようにすっく
と身を伸ばした。
﹁あなたは医者ですね。﹂と彼は
言った。﹁まず一つのことをはっ
きり言ってもらいたいです。そい
969
つは死んでいるのでしょう、そう
ではないですか。﹂
医者は心痛の余り黙っていた。
ジルノルマン氏は両手をねじ合
わしながら、恐ろしい笑いを発し
た。
ぼうさい
﹁死んでいる、死んでいる。防寨
で生命を投げ出したのだ、このわ
つらあて
しを恨んで。わしへの面当にそん
なことをしたのだ。ああ吸血児め
970
が! こんなになってわしの所へ
戻ってきたのか。ああ、死んでし
まったのか!﹂
彼は窓の所へ行き、息苦しいか
のようにそれをいっぱい開き、そ
くらやみ
して暗闇の前に立ちながら、街路
の方に暗夜に向かって語り始めた。
のど
﹁突かれ、切られ、喉をえぐられ、
ほふ
屠られ、引き裂かれ、ずたずたに
切りさいなまれたのだ。わかった
971
か、恥知らずめが! お前はよく
知ってたはずだ、わしがお前を待っ
へや
ていたこと、お前の室を整えて置
いたこと、お前の小さな子供の時
まくらもと
分の写真をいつも寝床の枕頭に置
いていたことも。よく知ってたは
ずだ、お前はただ帰ってきさえす
ればよかった、もう長い年月わし
はお前の名を呼んでいた、夕方な
ひざ
どどうしていいかわからないで膝
972
に手を置いたまま暖炉のすみにじっ
としていた、お前のためにぼんや
りしてしまっていた。お前はよく
知ってたはずだ、ただ戻ってきさ
わたくし
えすればよかったのだ、私ですと
言いさえすればよかったのだ。お
前はこの家の主人となる身だった
のだ。わしは何でもお前の言うこ
とを聞いてやるはずだったのだ、
じいさん
この老いぼれたばかな祖父をお前
973
は思うとおりにすることができた
のだ。お前はそれをよく知ってい
ながら、﹃いや、彼は王党だ、彼
え こ じ
の所へ行くもんか、﹄と言った。
ぼうさい
そしてお前は防寨に行き、依怙地
に生命を捨ててしまった。ベリー
公についてわしが言った事柄の腹
い
癒せだ。実に不名誉なことだ。だ
がまあ床について、静かに眠るが
いい。ああ死んでしまった。これ
974
めざめ
がわしの覚醒だ。﹂
医者はこんどは両方を心配し出
して、ちょっとマリユスのそばを
離れ、ジルノルマン氏の所へ行き、
その腕を取った。祖父はふり返り、
大きく開いた血走ってるように思
われる目で彼をながめ、それでも
落ち着いて彼は言った。
﹁いやありがとう。わしは何とも
ない。わしは一個の男子だ。ルイ
975
十六世の死も見てきた。あらゆる
事変を経てきた。だがただ一つ恐
ろしいことがある。新聞紙が世に
害毒を流すのを考えることだ。で
じょうぜつか
たらめ記者、饒舌家、弁護士、弁
論家、演壇、論争、進歩、光明、
人権、出版の自由、そういうもの
があればこそ、子供は皆こういう
姿になって家に運ばれて来るのだ。
のろ
ああマリユス! 呪うべきことだ。
976
殺されてしまった。わしより先に
死んでしまった。防寨、無頼漢!
ドクトル、君はこの辺に住んで
るのでしょう。わしは君をよく知っ
ている。君の馬車が通るのをわし
はよく窓から見かけた。わしは誓っ
て言う。わしが今怒ってると思っ
てはまちがいです。死んだ者に対
して怒っても仕方がない。それは
ばかげたことだ。これはわしが自
977
分で育てた子供です。この子がま
だごく小さい時、わしはもう老年
くわ
になっていた。小さな鍬と小さな
い す
椅子とを持ってテュイルリーの園
でよく遊んでいた。そして番人に
しかられないように、わしは杖の
先で、彼が鍬で地面に掘った穴を
よく埋めてやった。ところが他日、
ルイ十八世を打ち倒せと叫んで、
出ていってしまった。それはわし
978
ばらいろ
ほお
の罪ではない。彼は薔薇色の頬を
な
し、金髪であった。母親はもう亡
くなっていた。小さな子供は皆金
色の髪をしてるものだが、なぜで
しょう。これはひとりのロアール
の無頼漢の子です。だが父親の罪
は子供の知ったことではない。わ
しはこれがほんのこれくらいの大
きさの時のことを覚えている。ま
・
だドという音を言えない時だった。
979
小鳥のようにやさしいわけのわか
らぬ口をきいていた。ある時ファ
ルネーゼのヘラクレス像の前で、
大勢の者が彼を取り巻いて嘆賞し
たことを、わしは覚えている。そ
れほどこの子は美しかった。まる
で絵に書いたようだった。わしは
時々大きい声をすることもあり、
つえ
杖を振り上げておどかすこともあっ
たが、それもただ戯れであること
980
こごと
を彼はよく知っていた。朝わしの
へや
室へはいってくると小言を言った
が、それでもわしにとっては日の
光がさしてくるようなものだった。
そういう子供に対しては、だれで
も無力なものだ。子供はわれわれ
を奪い、われわれをとらえて、決
して放さないものだ。実際この子
のようにかわいいものは世になかっ
た。そして今、この子を殺してし
981
まったラファイエット派やバンジャ
マン・コンスタン派やティルキュ
イル・ド・コルセル派などは、何
やつ
という奴どもだ! このままで済
ますことはできない。﹂
やはり身動きもせずに色を失っ
てるマリユスに彼は近寄って、ま
た両腕をねじ合わした。医者もマ
リユスのそばに戻っていた。老人
くちびる
の白い脣は、ほとんど機械的に動
982
いて、臨終の息のように、ようや
く聞き取れるかすかな言葉をもら
した。﹁ああ、薄情者、革命党、
しがい
無法者、虐殺人!﹂それは死骸に
ひんし
対して瀕死の者がつぶやく非難の
声であった。
内心の爆発は常に外に現われな
ければやまないものである。引き
続いて言葉は少しずつ出てきたが、
しかし祖父にはもうそれを口にす
983
るだけの力がないように見えた。
彼の声は他界から来るかと思われ
るほど遠くかすかになっていた。
﹁それももうわしにとっては同じ
ことだ。わしも間もなく死ぬんだ。
ああパリーのうちにも、このあわ
れな子を喜ばせるだけの女はいな
かったのか! なぜこの世をおも
しろく楽しもうとはせず、戦いに
ほふ
行って畜生のように屠られてしまっ
984
たのか。それもだれのため何のた
めかと言えば、共和のためではな
いか! 若い者はショーミエール
にでも行って踊ってればいいのだ。
二十歳といえばめったにない大事
な年齢だ。ろくでもないばかな共
和めが! 世の母親がいくらきれ
さら
いな子供をこしらえても、皆攫っ
てゆきやがる。ああこの子は死ん
でしまった。そのためにお前のと
985
わしのと二つの葬式がこの家から
出るだろう。お前がそんなことを
したのも、ラマルク将軍の目を喜
ばせるためなのか。だがそのラマ
ルク将軍がいったいお前に何をし
いのししむしゃ
てくれたか。猪武者めが、向こう
見ずめが! 死んだ者のために死
ぬなんてなんのことだ。これで気
が狂わずにいられるか。考えてみ
るがいい、わずか二十歳で! そ
986
してあとに残る者のことはふり向
いて見ようともしない。このよう
にして世にあわれな人のいい老人
は、ただひとりで死ななければな
らないのか。おおただひとりでく
たばってしまうのか! だがとに
かくそれで結構だ。わしの望みど
おりだ。わしもこれでさっぱり往
生するだろう。わしはあまり長生
きしてる。もう百歳だ、万々歳だ。
987
長い前から死んでよかったのだ。
この打撃で済んだ。もう終わりだ。
かえって仕合わせというものだ!
か
この子にアンモニアを嗅がせた
りやたらに薬を飲ませたりしても、
もう何の役に立とう。ドクトル、
もう君がどんなに骨折ってもむだ
ですぞ。ねえ、彼は死んでいる、
まったく死んでいる。わしはよく
それを知っている。わし自身も死
988
んでるのだから。彼は世の中を半
分しか知らなかった。ああ今の時
代は、汚れてる、汚れてる、汚れ
てるんだ。時代自身も、思潮も、
学説も、指導者も、権威者も、学
者も、三文文士も、へぼ思想家も、
それから六十年来テュイルリー宮
からす
殿の烏の群れを脅かした多くの革
命も、皆汚れてるんだ。そしてお
前はこんなふうに身を殺しながら、
989
わしに対して慈悲の心を持たなかっ
たのだから、わしもお前の死を別
に悲しくは思わない。わかったか、
人殺しめ!﹂
ちょうどその時マリユスは、静
まぶた
かに眼瞼を開いた。そしてその目
こんすいてき
は、まだ昏睡的な驚きにおおわれ
ながら、ジルノルマン氏の上に据
えられた。
﹁マリユス!﹂と老人は叫んだ、
990
﹁マリユス、わしの小さなマリユ
ス、わしの子、わしのかわいい子!
目を開いたか、わしを見てるの
か、生きてくれたのか! ありが
たい!﹂
そして彼は気を失って倒れた。
991
第四編 ジャヴェルの変調
ジャヴェルはゆるやかな足取り
でオンム・アルメ街を去っていっ
た。
生涯に始めて頭をたれ、生涯に
始めて両手をうしろにまわして、
彼は歩いていた。
その日までジャヴェルは、ナポ
レオンの二つの態度のうち決意を
992
示す方の態度をしか、すなわち胸
に両腕を組む態度をしか取ったこ
とはなかった。遅疑を示す方の態
度は、すなわち両手をうしろにま
わす方の態度は、彼の知らないと
ころだった。しかるに今や一変化
さま
が起こっていた。彼の全身には緩
ちんうつ
慢沈鬱の気が漂って、心痛の様が
現われていた。
彼は静かな街路を選んではいっ
993
ていった。
それでも彼は一定の方向に進ん
でいた。
彼はセーヌ川に達する最も近い
道をたどり、オルム川岸にいで、
その川岸通りに沿い、グレーヴを
通り越し、そしてシャートレー広
場の衛舎からわずか離れた所、ノー
かど
トル・ダーム橋の角に立ち止まっ
た。セーヌ川はそこで、一方ノー
994
トル・ダーム橋とポン・トー・シャ
ンジュの橋とにはさまれ、他方メ
ジスリー川岸とフルール川岸とに
はさまれて、まんなかに急流を通
しながら四角な湖水みたようになっ
ていた。
セーヌ川のその辺は水夫たちが
恐れてる場所である。今日はなく
くい
なっているが当時は橋の水車の杭
があって、そのために急流が狭め
995
られ激せられてはなはだ危険だっ
た。二つの橋が近いので危険はな
お大となっている。橋弧の下は激
しく水が奔騰している。水は大き
な恐ろしい波を立てて逆巻き、そ
こに集まってたまり、太い水の綱
で橋杭を引き抜こうとしてるかの
ように打ちつけている。そこに一
度陥る者は再び姿を現わすことが
おぼ
なく、最も泳ぎに巧みな者も溺れ
996
てしまう。
りょうひじ
くち
ジャヴェルは橋の欄干に両肱を
あご
つまきき
もたせ、頤を両手に埋め、濃い口
ひげ
髭を爪先で機械的にひねりながら、
考え込んだ。
一つの珍事が、一つの革命が、
一つの破滅が、彼の心の底に起こっ
たのである。深く反省すべき問題
がそこにあった。
ジャヴェルは恐ろしい苦悶をい
997
だいていた。
数時間前から既にジャヴェルの
考えは単純でなくなっていた。彼
の心は乱されていた。その一徹な
澄み切った頭脳は、透明さを失っ
ていた。その水晶のごとき澄明さ
のうちには、一片の雲がかけてい
た。ジャヴェルは自分の本心のう
ちに義務が二分したのを感じ、自
らそれをごまかすことができなかっ
998
みぎわ
た。セーヌ川の汀で、意外にもジャ
ン・ヴァルジャンに会った時、彼
のうちには、獲物を再びつかんだ
おおかみ
狼のごときものと主人に再びめぐ
り会った犬のごときものとがあっ
た。
彼は自分の前に二つの道を見た。
両方とも同じようにまっすぐであっ
たが、とにかく二つであった。生
涯にただ一本の直線しか知らなかっ
999
た彼は、それにおびえた。しかも
痛心のきわみには、その二つの道
は互いに相入れないものだった。
二つの直線は互いに排し合ってい
た。いずれが真実のものであった
ろうか。
彼の地位は名状し難いものであっ
た。
悪人のおかげで生命を保ち、そ
の負債を甘受してそれを償却し、
1000
心ならずも罪人と同等の位置に立
ち、恩に対して他の恩を返すこと、
﹁行け﹂と言われたのに対してこ
んどは﹁自由の身となれ﹂と言っ
てやること、私的な動機からして
一般的責務を犠牲にし、しかもそ
の私的な動機のうちにも、同じく
すぐ
一般的なまたおそらく更に優れた
何かを感ずること、自分一個の本
心に忠実なるため社会に裏切るこ
1001
と、それら種々の不合理が現実に
現われてきて彼の上に積み重なっ
たので、彼はなすところを知らな
かった。
ジャヴェルを驚かした一事は、
ゆる
ジャン・ヴァルジャンが彼を赦し
ぼうぜん
たことであり、彼を茫然自失せし
めた一事は、彼自らがジャン・ヴァ
ルジャンを赦したことであった。
彼はいかなる所に立っていたの
1002
か。彼はおのれをさがしたが、も
はやおのれを見いだすことはでき
なかった。
今やいかになすべきであったか?
ジャン・ヴァルジャンを引き渡
すは悪いことであり、またジャン・
ヴァルジャンを自由の身にさして
おくのも悪いことだった。第一の
場合においては、官憲の男が徒刑
お
場の男よりも更に低く墜ちること
1003
であり、第二の場合においては、
徒刑囚が法律よりも高く上って法
律を足に踏まえることだった。二
つの場合とも、彼ジャヴェルにとっ
ては不名誉なことであった。いか
なる決心を取っても墜堕が伴うの
だった。人の宿命には不可能の上
に垂直にそびえてる絶壁があるも
ので、それから向こうは人生はも
しんえん
はや深淵にすぎなくなる。ジャヴェ
1004
ルはそういう絶壁の縁の一つに立っ
ていた。
彼の心痛の一つは、考えなけれ
ばならなくなったことである。相
矛盾するそれらの感情の激しさは、
彼をして考えるの余儀なきに至ら
しめた。思考ということは、彼が
かつて知らなかったことであって、
何よりも彼を苦しめた。
思考のうちには常に内心の反乱
1005
が多少あるもので、彼は自分のう
ちにそういう反乱を持ってるのに
いら立った。
自分の職務の狭い範囲外に属す
るいかなる問題に関する思考も、
あらゆる場合において彼に取って
は、一つの無用事であり一つの退
屈事だった。しかし今や過ぎた一
日のことを考えると苦しくなった。
それでも彼は、そういう打撃の後
1006
に自分の本心をのぞき込み、自ら
けんかく
おのれを検覈せざるを得なかった。
せん
彼は自分のなしてきた事柄に戦
りつ
慄した。彼ジャヴェルは、警察の
あらゆる規則に反し、社会上およ
び司法上の組織に反し、法典全部
に反し、自らよしとして罪人を放
免したのである。それは彼一個に
は至当であった。しかし彼は私事
のために公務を犠牲にした。それ
1007
は何とも名状し難いことではなかっ
たか。自ら犯したその名義の立た
ない行為に顔を向けるたびごとに、
彼は頭から足先までふるえ上がっ
た。いかなる決心を取るべきであ
るか。今はただ一つの手段きり残っ
ていなかった。急いでオンム・ア
ルメ街に戻りジャン・ヴァルジャ
ンを下獄させること、それこそ明
らかに彼がなさなければならない
1008
ことだった。しかし彼はなし得な
かった。
何かがその方への道を彼にふさ
いでいた。
何物であるか? 何であるか?
法廷や執行文や警察や官憲など
より他のものが、世にはあるので
あろうか。ジャヴェルは当惑した。
神聖なる徒刑囚、法をもっても
裁くことのできない囚人、しかも
1009
それはジャヴェルにとって現実で
あった。
罰を与えるための人間であるジャ
ヴェルと、罰を受くるための人間
であるジャン・ヴァルジャンと、
互いに法の中にあるそのふたりが、
ふたりとも法を超越するに至った
ことは、恐るべきことではなかっ
たか。
いったいどうしたわけであるか。
1010
かかる異常事が世に起こるもので
あろうか、そしてだれも罰を受け
ないことがあり得るだろうか。ジャ
ン・ヴァルジャンは社会組織全体
よりも強力であって自由の身とな
り、彼ジャヴェルはなお政府のパ
ンを食い続けてゆく、そういうこ
とがあり得るだろうか。
彼の夢想はしだいに恐ろしくなっ
てきた。
1011
そういう夢想の間にも彼はなお、
フィーユ・デュ・カルヴェール街
に運ばれた暴徒のことについて、
多少の自責を持つはずであった。
しかし彼はそのことを念頭に浮か
べなかった。小さな過失はより大
なる過失のうちに消えてしまった。
それにまた、その暴徒は確かに死
んでいた。法律上の追跡は死人に
まで及ぶものではない。
1012
ジャン・ヴァルジャンという一
点こそ、彼の精神を圧する重荷で
あった。
ジャン・ヴァルジャンは彼をまっ
たく困惑さした。彼の生涯の支柱
だったあらゆる定理はその男の前
にくずれてしまった。彼ジャヴェ
ルに対するジャン・ヴァルジャン
の寛容は、彼を圧倒してしまった。
昔彼が虚偽とし狂愚として取り扱っ
1013
てきた他の事実も思い出されて、
今や現実のものとなってよみがえっ
てきた。マドレーヌ氏の姿は、ジャ
ン・ヴァルジャンの背後に再び現
われ、その二つの姿が重なり合っ
て一つとなり、崇敬すべきものと
なった。恐ろしい何ものかが、囚
人に対する賛嘆の情が、魂のうち
し
に沁み通ってくるのをジャヴェル
は感じた。徒刑囚に対する尊敬、
1014
そういうことがあり得るであろう
りつぜん
か。彼は慄然として、身をささえ
ることができなかった。いかにも
だえても、内心の審判のうちにお
いて、その悪漢の荘厳さを自白せ
ざるを得なかった。それは実にた
え難いことであった。
慈善を施す悪人、あわれみの念
が強く、やさしく、救助を事とし、
寛大で、悪に報ゆるに善をもって
1015
ぞうお
れんびん
し、憎悪に報ゆるに許容をもって
ふくしゅう
し、復讐よりも憐愍を取り、敵を
滅ぼすよりも身を滅ぼすことを好
み、おのれを打った者を救い、徳
の高所にあってひざまずき、人間
よりも天使に近い徒刑囚、そうい
う怪物が世に存在することを、ジャ
ヴェルは自認するの余儀なきに至っ
た。
事情はそのまま存続するを得な
1016
かった。
けんお
あえて力説するが、あの怪物に、
いや
その賤しむべき天使に、その嫌悪
ぼうぜん
すべき英雄に、彼を茫然たらしむ
るとともに憤激さしたその男に、
まさしく彼は何ら抵抗することな
く屈服したのではなかった。ジャ
ン・ヴァルジャンと向き合って馬
ほうこう
車の中にいた間に、幾度となく法
とら
の虎は彼のうちに咆哮した。幾度
1017
となく彼はジャン・ヴァルジャン
の上に飛びかかりたい念に駆られ
た。彼をつかみ彼を食わんとした、
すなわち彼を捕縛せんとした。実
際それは誠に容易なことだった。
衛舎の前を通りかかる時、﹁これ
は監視違反の囚人だ﹂と叫び、憲
兵らを呼び、﹁この男を君たちに
引き渡す﹂と言い、それから自分
は立ち去り、罪人をそこに残し、
1018
その他のことはいっさいかまわず、
自分は少しもそれに関与しなけれ
ばよかったのである。ジャン・ヴァ
ルジャンは永久に法律の捕虜とな
り、法律の欲するままに処理せら
るるだろう。それこそ最も正当な
ことだった。ジャヴェルはそれら
のことをひとり考えた。そしてそ
の方向を取り、手を下し、彼をつ
かもうとした。しかし今それがで
1019
きなくなったと同じく、その時に
もそれができなかった。ジャン・
けい
ヴァルジャンの首筋に向かって痙
れんてき
攣的に手をあげるたびごとに、そ
の手は非常な重さに圧せられるよ
うに再び下にたれた。そして彼は
自分に叫びかける一つの声を、異
様な声を、頭の奥に聞いた。﹁よ
ろしい。汝の救い主を引き渡せ。
それからポンテオ・ピラト︵訳者
1020
注 キリストを祭司の長等に引き
たらい
渡せしユダヤの太守︶の盥を取り
寄せて汝の手を洗うがいい。﹂
次に彼の考えは自分自身の上に
戻ってきて、壮大となったジャン・
ヴァルジャンの傍に、堕落した自
身ジャヴェルの姿を見た。
一徒刑囚が彼の恩人だったので
ある!
しかしまた、何ゆえに彼は自分
1021
を生かしておくことをその男に許
ぼうさい
したのだったか。彼は防寨の中で
殺さるべき権利を持っていた。彼
はその権利を用うべきだったろう。
他の暴徒らを呼んでジャン・ヴァ
ルジャンを妨げ、無理にも銃殺さ
れること、その方がよかったので
ある。
彼の最大の苦悶は、確実なもの
がなくなったことであった。彼は
1022
自分が根こぎにされたのを感じた。
法典ももはや彼の手の中では丸太
にすぎなかった。彼はわけのわか
らぬ一種の懸念と争わなければな
らなかった。その時まで彼の唯一
き く
の規矩だった合法的肯定とはまっ
たく異なった一つの感情的啓示が、
もと
彼のうちに起こってきた。旧の公
明正大さのうちに止まるだけでは、
もう足りなくなった。意外な一連
1023
の事実が突発して、彼を屈服さし
た。一つの新世界が彼の魂に現わ
れた。すなわち、甘受してまた返
しゅんげん
きそん
してやった親切、献身、慈悲、寛
れんびん
容、憐愍から発した峻厳の毀損、
個人性の承認、絶対的裁断の消滅、
永劫定罪の消滅、法律の目におけ
る涙の可能、人間に依存する正義
とは反対の方向を取る一種の神に
依存する正義。彼は暗黒のうちに、
1024
いまだ知らなかった道徳の太陽が
恐ろしく上りゆくのを見た。それ
げんわく
し
は彼をおびえさし、彼を眩惑さし
わし
た。鷲の目を持つことを強いられ
ふくろう
た梟であった。
彼は自ら言った、これも真実な
のだ、世には例外がある、官憲も
ろうばい
狼狽させられることがある、規則
しゅんじゅん
も事実の前に逡巡することがある、
万事が法典の明文のうちに当ては
1025
まるものではない、意外事は人を
服従させる、徒刑囚の徳は役人の
わな
徳を罠にかからせることもある、
怪物が神聖になることもある、宿
命のうちにはそういう伏兵もある。
そして彼は絶望の念をもって、自
分はそういう奇襲を避けることが
できなかったのだと考えた。
彼は親切というものの世に存在
することを認めざるを得なかった。
1026
あの囚人は親切であった。そして
彼自身も、不思議なことではある
が、先刻親切な行ないをなしてき
た。彼は変性したのだった。
ひきょう
彼は自分が卑怯であるのを認め
た。彼は自ら恐ろしくなった。
ジャヴェルの理想は、人間的た
ることではなく、偉大たることで
はなく、崇高たることではなかっ
た。一点の非もないものとなるこ
1027
とであった。
しかるに彼は今や歩を誤ってい
た。
どうして彼はそうなったのか、
どうしてそういうことが起こった
のか? それは彼自身にもわから
なかった。彼は両手で頭を押さえ、
いかに考えてみても、自らそれを
説明することができなかった。
確かに彼はジャン・ヴァルジャ
1028
ンを再び法律の下に置こうと常に
考えていた。ジャン・ヴァルジャ
とりこ
ンは法律の虜であり、彼ジャヴェ
どれい
ルは法律の奴隷であった。ジャン・
ヴァルジャンを手にしてる間、そ
れを放ちやろうという考えを持っ
てるとは、彼はただの瞬時も自ら
認めなかった。彼の手が開いてジャ
ン・ヴァルジャンを放したのは、
ほとんど自ら知らずに行なったこ
1029
とだった。
なぞ
あらゆる種類の謎のような新奇
なことが、彼の眼前に現われてき
た。彼は自ら問い自ら答えたが、
その答はかえって彼を脅かした。
彼は自ら尋ねてみた。﹁私がほと
んど迫害するまでに追求したあの
囚徒は、あの絶望の男は、私を足
ふくしゅう
の下に踏まえ、復讐することがで
えんこん
き、しかも怨恨のためと身の安全
1030
のために復讐するのが至当であり
ゆる
ながら、私の生命を助け、私を赦
したが、それはいったいなぜであっ
たか。私的な義務というか。否。
義務以上の何かである。そして私
もまたこんどは、彼を赦してやっ
たが、それはいったいなぜであっ
たか。私的な義務というか。否。
義務以上の何かである。それでは
果たして、義務以上の何かがある
1031
のであるか?﹂そこになって彼は
はかり
おびえた。彼の秤ははずれてしまっ
しんえん
た。一方の皿は深淵のうちに落ち、
一方の皿は天に上がった。そして
ジャヴェルは、上にあがった方と
下に落ちた方とに対して、等しく
恐怖を感じた。彼はヴォルテール
派とか哲人とか不信者とか呼ばれ
るような人物では少しもなかった。
否かえって本能から、うち立てら
1032
れたキリスト教会を尊敬していた。
けれどもただ、社会全体のいかめ
しい一片としてしかそれを知らな
かった。秩序は彼の信条であって、
それだけで彼には充分だった。成
年に達し今の職務について以来、
彼は自分の宗教のほとんど全部を
警察のうちに置いてしまった。そ
して、少しも皮肉ではなく、最も
まじめな意味において、彼は前に
1033
われわれが言ったとおり、人が牧
たんてい
師であるごとく探偵であった。彼
は上官として総監ジスケ氏を持っ
ていた。彼はこの日まで、神とい
う他の上官のことをほとんど考え
てみなかった。
この神という新しい主長を彼は
意外にも感得して、そのために心
が乱された。
彼はその思いがけないものに当
1034
面して困惑した。彼はその上官に
対してはどうしていいかわからな
かった。今まで彼が知っていたと
ころでは、部下は常に身をかがむ
ひぼう
べきものであり、背反し誹謗し議
論してはいけないものであり、あ
まりに無茶な上官に対しては辞表
を呈するのほかはなかった。
しかしながら、神に辞表を呈す
るにはいかにしたらいいであろう
1035
か?
またそれはともかくとして、一
つの事実がすべての上に顕然とし
てそびえ、彼の考えは常にその点
に戻っていった。すなわち恐るべ
き違反の罪を犯したという一事で
あった。監視違反の再犯囚に対し
て、彼は目を閉じてきたのだった。
ひとりの徒刑囚を放免してきたの
だった。法律に属するひとりの男
1036
を盗んできたのだった。彼はまさ
しくそういうことを行なった。彼
はもはや自分自身がわからなくなっ
た。自分は果たして本来の自分で
あるか確かでなかった。自分の行
げんわく
為の理由さえも見失い、ただ眩惑
のみが残っていた。彼はその時ま
で、暗黒なる清廉を生む盲目的な
信念にのみ生きていた。しかるに
今や、その信念は彼を去り、その
1037
清廉は彼になくなった。彼が信じ
ていたことはすべて消散した。自
がんきょう
分の欲しない真実が頑強につきま
とってきた。今後彼は別の人間と
ならなければならなかった。突然
そ こ ひ
内障眼の手術を受けた本心の異様
いと
な苦痛に悩んだ。見るのを厭って
むな
いたものを見た。自己が空しくな
り、無用となり、過去の生命から
切り離され、罷免され、崩壊され
1038
たのを、彼は感じた。官憲は彼の
うちに死滅した。彼はもはや存在
の理由を持たなかった。
かき乱されたる地位こそは恐る
べきものである。
かこうがん
花崗岩のごとき心であって、し
かも疑念をいだく。法の鋳型の中
で全部鋳上げられた懲戒の像であっ
て、しかもその青銅の胸の中に、
ほとんど心臓にも似たる不条理不
1039
従順なるある物を突然に認める。
その日まで悪だと思っていたもの
が善となり、その善に対して善を
報いなければならなくなる。番犬
なめ
であって、しかも敵の手を舐る。
くぎ
氷であって、しかも溶解する。釘
ぬ
抜きであって、しかも普通の手と
なる。突然に指が開くのを感ずる。
つかんだ獲物を放つ。それは実に
恐怖すべきことである。
1040
もはや進むべき道を知らずして
後退する一個の人間の鉄砲弾であっ
た。
自ら次のことを認めざるを得な
いとは何たることであろう! す
むびゅう
なわち、無謬なるもの必ずしも無
謬ではない。信条のうちにも誤謬
があり得る。法典はすべてを説き
つくすものではない。社会は完全
ではない。官憲も動揺することが
1041
ある。動かすべからざるもののう
ちに割れ目のできることがある。
裁判官も人間である。法律も誤る
ことがある。法廷も誤認すること
がある。大空の広大なる青ガラス
にも亀裂が見らるるのか?
ジャヴェルのうちに起こったこ
とうきょく
とは、直線的な心の撓曲であり、
魂の脱線であり、不可抗の力をもっ
てまっすぐに突進し神に当たって
1042
砕け散る、清廉の崩壊であった。
確かにそれは異常なことだった。
秩序の火夫が、官憲の機関車が、
軌道を走る盲目なる鉄馬にまたがっ
て進みながら、光明の一撃を受け
て落馬したのである。変更を許さ
ざるもの、直接なるもの、正規な
るもの、幾何学的なるもの、受動
たわ
的なるもの、完全なるものが、撓
んだのである。機関車に対しても
1043
ダマスクスの道があったのである。
︵訳者注 聖パウロのある伝説に
由来し、突然内心の光輝によって
心機一転することをダマスクスの
道という︶
常に人の内部にあって真の良心
せんこう
となり虚偽に反発する神、閃光を
して消滅することを得ざらしむる
禁令、光輝をして太陽を記憶せし
むるの命令、魂をして虚構の絶対
1044
とそれに接する真の絶対とを見分
けしむるの訓令、死滅せざる人間
さん
性、滅落せざる人心、そういう燦
ぜん
然たる現象を、おそらく人間の内
うる
部の最も美わしい不可思議を、ジャ
ヴェルは知ったであろうか。ジャ
ヴェルはそれを見通したであろう
か。ジャヴェルはそれを了解した
であろうか。否々。しかしながら、
その不可解にして明白なるものの
1045
圧力の下に、彼は自分の頭脳が少
しく開けるのを感じた。
彼はその異変のために面目を一
新した、というよりもむしろその
犠牲となった。彼は憤激しながら
それに打たれた。彼がその中に見
たところのものは、存立の大なる
じらい
困難のみだった。爾来永久に呼吸
を妨げられるような心地がした。
頭の上に未知のものを持つこと、
1046
それに彼はなれていなかった。
それまで自分の上に持ってたと
ころのものは、明確単純清澄な表
面であるように彼の目には見えて
いた。そこには、何ら未知のもの
もなく暗黒なものもなかった。規
定されたるもの、整理されたるも
の、鎖につなぎ止められたるもの、
簡明なるもの、正確なるもの、範
囲の定められたるもの、限定され
1047
たるもの、閉鎖されたるもの、ば
かりであった。すべて予見された
るものであった。官憲は一つの平
坦なるものであった。その中には
何らの墜落もなく、それに対して
げんわく
は何らの眩惑もなかった。ジャヴェ
ルが今まで未知のものを見てきた
のは、ただ下方においてのみだっ
こんとんかい
た。不規律、意想外、渾沌界の錯
雑した入り口、いつすべり落ちる
1048
しんえん
かもわからない深淵、そういうも
のは、賊徒や悪人や罪人などのす
べて下層地帯に存在していた。し
かるに今ジャヴェルはあおむけに
転倒し、異様な妖怪すなわち上方
ろうばい
の深淵を見て、にわかに狼狽した。
どうしたことであろう、徹頭徹
尾突きくずされ、絶対に失調させ
られるとは! およそ何に信頼し
たらいいか。確信していたものが
1049
崩壊してしまうとは!
よろい
社会の鎧の欠陥が寛厚なる一罪
人によって見いだされ得るのか。
しもべ
法律の正直なる僕が、ひとりの男
を放免するの罪とそれを捕縛する
の罪との二つの罪の間に、突然板
ばさみになることがあり得るのか。
国家が役人に与える訓令のうちに
も、不確かなるものがあるのか。
義務のうちにも行き止まりがある
1050
ものなのか。ああそれらはすべて
実際のことだったのか。刑罰の下
に屈している昔の悪漢がすっくと
立ち上がってついに正当となるこ
とがあるのも、真実だったのか。
そんなことが信じ得られようか。
こ
それでは、法律も変容した罪悪の
ゆうめん
前に宥免を乞いながら退かなけれ
ばならないような場合が、世には
あるのか。
1051
そうだ、それは事実であった。
ジャヴェルはそれを見、それに触
れた。ただにそれを否定し得なかっ
かちゅう
たばかりでなく、自らその渦中の
ひとりであった。それはまさしく
現実であった。現実がかかる異様
のろ
な姿になり得るとは、実に呪うべ
きことだった。
もし事実がその本分を守るなら
ば、必ずや事実は法を証明するこ
1052
とをしかしないであろう。なぜな
らば、事実を世に送るものは神で
あるから。しかるに今や、無政府
主義までが天からおりてこようと
するのか。
ぼうぜん
かくて、ますます加わってくる
はんもん
煩悶のうちに、茫然自失した幻覚
のうちに、ジャヴェルの感銘を押
さえ止め訂正するすべてのものは
消えうせ、社会も人類も宇宙も皆、
1053
じらい
彼の目には爾来ただ単に忌まわし
いだけの姿となって映じた。そし
て、刑法、判決、至当なる立法の
力、終審裁判所の決定、司法官職、
政府、嫌疑と抑圧、官省の知恵、
むびゅう
法律の無謬、官憲の原則、政治的
および個人的安寧が立脚するあら
ゆる信条、国王の大権、正義、法
典から発する理論、社会の絶対権、
公の真理、すべてそれらのものは、
1054
じんかい
こんとん
破片となり塵芥となり渾沌たるも
のとなってしまった。秩序の監視
しもべ
人であり、警察の厳正な僕であり、
社会を保護する番犬である、彼ジャ
ヴェル自身も、打ち負かされてし
まった。そしてそれらの廃墟の上
に、緑の帽を頭にかぶり円光を額
にいただいてるひとりの男が立っ
ていた。彼が陥った惑乱はそうい
うものであり、彼が魂のうちに持っ
1055
た恐るべき幻はそういうものであっ
た。
それはたえ得ることであったろ
うか。否。
きびしい状態があるとすれば、
それこそまさにきびしい状態であっ
た。それから脱する道は二つしか
なかった。一つは、決然としてジャ
ン・ヴァルジャンに向かって進ん
ちろう
でゆき、徒刑囚たる彼を地牢に返
1056
納すること。今一つは⋮⋮。
ジャヴェルは橋の胸壁を離れ、
こんどは頭をもたげて、シャート
レー広場の片すみにともってる軒
かっ
灯で示されている衛舎の方へ、確
こ
乎たる足取りで進んでいった。
そこまで行って彼は、ひとりの
巡査が中にいるのをガラス戸から
認め、自分もはいっていった。衛
とびら
舎の扉のあけ方だけででも、警察
1057
の者らは互いにそれと知り得るの
である。ジャヴェルは自分の名前
を告げ、名刺を巡査に示し、それ
ろうそく
から一本の蝋燭がともってるその
テーブルの前にすわった。テーブ
ルの上には、一本のペンと、鉛の
つぼ
インキ壺と、少しの紙とがのって
じゅんら
いた。不時の調書や夜間巡邏の訓
令などのために備えてあるものだっ
た。
1058
わらいす
いつも一個の藁椅子がついてる
そのテーブルは、規定の品である。
いずれの分署にも備えてある。そ
のこくず
して必ず、鋸屑がいっぱいはいっ
つ げ
てる黄楊の平皿と、赤い封蝋がいっ
ぱいはいってるボール箱とが上に
のっている。それは官省ふうの最
下級をなすものである。国家の文
学はまずそこで始まる。
ジャヴェルはペンと一枚の紙と
1059
を取って、書き始めた。彼が書い
た文句は次のとおりだった。
職務上の注意事項
いちべつ
一、警視総監閣下の一瞥せ
られんことを願う。
くつ
はだ
二、予審廷より来る囚徒ら
しきいし
ちょりつ
は、身体検査中、靴を脱ぎ跣
し
足のまま舗石の上に佇立す。
監獄に戻るにおよんで多くは
1060
せき
咳を発す。ために病舎の費用
を増すに至る。
三、製糸監は、所々に警官
の配置あるをもってはなはだ
よろし。しかれども、重大な
る場合のために、少なくとも
ふたりの警官は互いに見得る
位置を保つ要あるべし。かく
せば、もし何らかの理由によっ
て、ひとりが務めを怠ること
1061
ありとも、他のひとりがそれ
を監視し補足するを得ん。
四、マドロンネット監獄に
おいては、たとい金を払うも
い す
囚徒に椅子を与えざる特殊の
規則あれど、その何ゆえなる
あた
やを解する能わず。
五、マドロンネットにおい
ては、酒保の窓に二本の鉄棒
あるのみ。これ酒保をして、
1062
囚徒に手を触るるを得せしむ
るものなり。
六、呼び出し人と普通に称
せられて他の囚徒らを面会所
に呼ぶの用をなす囚徒は、名
前を声高に叫ぶごとに当人よ
り二スーずつ徴発す。これ一
つの奪取なり。
七、一筋の糸のたれたるも
のあれば、該囚徒は織物工場
1063
において十スーずつ賃金を差
し引かる。これ請け負い者の
弊風なり。織物はそのために
粗悪となるものに非ざればな
り。
八、フォルス監獄を訪れる
者が、サント・マリー・レジ
プシエンヌ面会所に至るため
に、必ず﹁小僧の中庭﹂を通
るは、憂慮すべきことなり。
1064
九、毎日憲兵らが、警視庁
の中庭において、司法官らの
行なえる尋問を語り合うは、
確かなる事実なり。神聖なる
べき憲兵が、予審廷にて聞け
ることを繰り返し語るは、風
びんらん
紀の重大なる紊乱なり。
十、アンリー夫人は正直な
る女にして、その酒保はきわ
めて清潔なり。しかれども、
1065
わな
秘密監の罠の口をひとりの女
あら
が握るは、よきことに非ず。
そは大文明の附属監獄にとり
て恥ずべきことなり。
ジャヴェルは一つの句読点をも
略さず、紙に確かなペンの音を立
てながら、最も冷静正確な手跡で、
右の各行をしたためた。そして最
後の行の次に署名をした。
1066
一等警視 ジャヴェル
シャートレー広場の
分署において
一八三二年六月七日
午前一時頃
ジャヴェルは紙の上の新しいイ
ンキをかわかし、紙を手紙のよう
に折り、それに封をし、裏に﹁制
1067
度に関する覚え書き﹂としたため、
それをテーブルの上に残し置き、
てつごう
そして衛舎から出て行った。鉄格
し
子のはまってるガラス戸は彼の背
後に閉ざされた。
彼はシャートレー広場を再び斜
めに横ぎり、川岸通りにいで、ほ
とんど自動機械のような正確さで、
十五、六分前に去った同じ場所へ
ひじ
戻ってきた。彼はそこに肱をつき、
1068
胸壁の同じ石の上に同じ態度で身
を休めた。前の時から身を動かし
たとは思えないほどだった。
やみ
一点のすき間もない闇だった。
ま夜中に引き続く墳墓のような時
間だった。雲の天井が星を隠して
せいさん
いた。空には凄惨な気が深くよど
んでいた。シテ島の人家にももう
一点の光も見えなかった。通りか
かる者もなかった。街路も川岸通
1069
せきぜん
りも、見える限り寂然としていた。
ノートル・ダームの堂宇と裁判所
の塔とが、暗夜のひな形のように
見えていた。一つの街灯の光が川
岸縁を赤く染めていた。多くの橋
もや
の姿は、靄の中に相重なってぼか
されていた。川の水は雨のために
増していた。
読者の記憶するとおり、ジャヴェ
ルがよりかかってるその場所は、
1070
ちょうどセーヌ川の急流の上であっ
らせん
て、無限の螺旋のように解けては
うずま
また結ばるる恐るべき水の渦巻き
を眼下にしていた。
ジャヴェルは頭をかがめてなが
め入った。すべてはまっくらで、
あわだ
何物も見分けられなかった。泡立
つ激流の音は聞こえていたが、川
の面は見えなかった。おりおり、
くら
目が眩むばかりのその深みの中に、
1071
ぼうばく
一条の明るみが現われて茫漠たる
うねりをなした。水には一種の力
があって、最も深い闇夜のうちに
も、どこからともなく光を取って
へび
きてそれを蛇の形になすものであ
る。が、再びその明るみも消え、
すべてはまたおぼろになった。広
大無限なるものがそこに口を開い
てるかと思われた。下にあるもの
しんえん
は水ではなく、深淵であった。川
1072
岸の壁は、切り立ち、入り組み、
霧にぼかされ、たちまちに隠れて、
けんがい
無窮なるものの懸崖のようだった。
何物も見えなかったが、水の敵
意ある冷たさとぬれた石の無味な
ふち
においとは感ぜられた。荒々しい
いぶき
息吹がその淵から立ち上っていた。
目には見えないがそれと知らるる
増水、波の悲壮なささやき、橋弧
の気味悪い大きさ、頭に浮かんで
1073
くうどう
くるその陰惨な空洞中への墜落、
りつぜん
すべてそれらの暗影は人を慄然た
らしむるものに満たされていた。
ジャヴェルはその暗黒の口をな
がめながら、しばらくじっとたた
ずんでいた。専心に似た注視で目
に見えないものを見守っていた。
水は音を立てて流れていた。する
と突然、彼は帽子をぬぎ、それを
川岸縁に置いた。一瞬間の後には、
1074
帰りおくれた通行人が遠くから見
たならば幽霊と思ったかも知れな
いような黒い高い人影が、胸壁の
上にすっくと立ち現われ、セーヌ
川の方へ身をかがめ、それからま
た直立して、暗黒の中にまっすぐ
に落ちていった。鈍い水音が聞こ
えた。そして水中に没したその暗
けいれん
い姿の痙攣の秘密は、ただ影のみ
が知るところだった。
1075
第五編 孫と祖父
一 亜鉛の張られたる
樹木再び現わる
上に述べきたった事件より少し
後、ブーラトリュエルはひどく心
を動かされた。
ブーラトリュエルというのは、
1076
あのモンフェルメイュの道路工夫
で、本書の暗黒なる場面において
べっけん
読者が既に瞥見した男である。
読者はたぶん記憶してるだろう
が、ブーラトリュエルは種々の怪
しい仕事をやっていた。石割りを
しながらも、大道で旅客の持ち物
どかた
を強奪していた。土方でかつ盗賊
でありながら、一つの夢想をいだ
いていた。彼はモンフェルメイュ
1077
の森の中に埋められてるという宝
のことを信じていた。いつかはあ
る木の根本の地中に金を見いだし
てやるつもりでいた。そしてまず
それまでは通行人のポケットの金
に好んで目をつけていた。
けれども当座の間は彼も謹慎し
ていた。彼はわずかに身を脱した
のだった。読者の知るとおり、彼
ろうおく
はジョンドレットの陋屋の中で、
1078
他の悪漢らとともに捕縛された。
ところが、悪徳も時には役に立つ
もので、泥酔のために助かった。
彼がそこに盗賊としていたのかも
しくは被害者としていたのか、ど
うしてもわからなかった。待ち伏
せの晩泥酔していたことが証明さ
れたので、免訴の申し渡しによっ
て、自由の身となった。彼はまた
森の中に逃げ込んだ。彼はガンエー
1079
からランニーへ至る道路工事に立
ち戻り、政府の監視の下に、国家
のために道路の手入れをなし、し
ふさ
おれた顔つきをし、ひどく鬱ぎこ
み、危うく身を滅ぼさんとした悪
事に対してもだいぶ熱がさめてい
た。しかし身を救ってくれた酒に
対しては、いっそうの愛着をもっ
て親しんでいた。
わらごや
道路工夫の藁小屋に戻って間も
1080
なく、彼がひどく心を動かされた
ことというのは、次のような事柄
だった。
ある朝まだ日の出より少し前の
頃、ブーラトリュエルはいつもの
とおり仕事に、またおそらくは待
ち伏せに出かけたが、その途中で、
樹木の枝葉の間にひとりの男を認
めた。彼はそのうしろ姿を見ただ
けだったが、遠方から薄ら明りの
1081
中にながめた所では、かっこうに
どうやら見覚えがあるような気が
した。ブーラトリュエルは酒飲み
めいせき
ではあったが、正確明晰な記憶力
を持っていた。そういう記憶力は、
法律的方面と多少の争いをしてる
者にとっては、欠くべからざる護
身の武器である。
やつ
﹁あの男は見かけたような奴だが、
はてな?﹂と彼は自ら尋ねてみた。
1082
しかし、頭の中にぼんやり残っ
てるだれかにその男が似てるとい
うだけで、そのほかは何にも自ら
答えることができなかった。
それでもブーラトリュエルは、
それをだれとはっきりきめること
はできなかったが、種々考え合わ
せ推測してみた。男は土地の者で
はない。どこからかやってきた者
に相違ない。明らかに徒歩できた
1083
のである。今時分モンフェルメイュ
を通る客馬車は一つもない。男は
夜通し歩いたに違いない。それで
はいったいどこからきたのだろう?
りょのう
遠方からではない。旅嚢も包み
も持っていないのを見てもわかる。
きっとパリーからきたのであろう。
ところで、なぜこの森の中にきた
のか、なぜこんな時刻にきたのか、
何をしにきたのか?
1084
ブーラトリュエルは宝のことを
考えた。それから記憶をたどって
いると、既に数年前、ある男のこ
とで同じように心をひかれたこと
があったのを、ぼんやり思い出し
た。どうもその男と同一人である
ように考えられた。
そんなことを考えふけりながら、
めいそう
自分の瞑想の重みの下に、彼は頭
を下げていた。それは自然のこと
1085
ではあるが、あまり上手なやり方
ではなかった。彼が頭を上げた時、
もうそこにはだれもいなかった。
男は森と薄暗がりとの中に消えて
しまっていた。
﹁畜生め、﹂とブーラトリュエル
は言った、﹁今一度見つけ出して
やつ
やらあ。どこの奴かさがし出して
やらあ。うろついてる盗賊め、何
か
かわけがあるに違いねえ。嗅ぎ出
1086
おれ
してやるぞ。この森の中で、俺に
ないしょ
内密で仕事をしようたって、やれ
るものか。﹂
つるはし
彼は鋭くとがった鶴嘴を取り上
げた。
﹁さあ、﹂と彼はつぶやいた、
﹁これで地面でも人間でもさがせ
る。﹂
そして糸と糸とをつなぎ合わし
てゆくように、男がたどったと思
1087
われる道筋にできるだけよく従い
ながら、彼は木立ちの中を進み始
めた。
大またに百歩ばかり進んだ頃、
上りかける太陽の光の助けを得た。
所々砂の上についてる足跡、踏み
かん
にじられた草、押し分けられた灌
ぼく
木、目をさましながら伸びをする
美人の腕のようなやさしいゆるや
かさで、茂みの中に身を起こしつ
1088
つある曲げられた若枝、そういう
ものが彼に道筋を示してくれた。
彼はそれに従っていった。それか
らそれを見失った。時は過ぎていっ
た。彼は森の中に深くはいり込ん
だ。そして一種の高所に達した。
ふし
ギーユリーの歌の節を口笛で吹き
ながら遠くの小道を通ってゆく朝
の猟人をひとり見て、彼は木へ登っ
てみようと思いついた。年は取っ
1089
びんしょう
ていたがなかなか敏捷だった。ちょ
うどそこには、チチルス︵訳者注
※の木の下に横たわってる瞑想
的な羊飼い︱︱ヴィルギリウスの
詩︶とブーラトリュエルとにふさ
ぶな
わしい※の大木が一本あった。ブー
ラトリュエルはできるだけ高くそ
の※に登った。
それはいい思いつきだった。木
立ちが入り組んで森が深くなって
1090
せきぜん
る寂然たる方面をながめ回すと、
突然男の姿が見えた。
しかし男は、見えたかと思うま
にまた隠れてしまった。
男は大木の茂みにおおい隠され
てるかなり向こうの開けた場所へ、
はいり込んだ、というよりもむし
ろすべり込んだのである。しかし
ブーラトリュエルはその開けた場
うす
所をよく知っていて、そこには臼
1091
いし
石がうずたかく積んであり、その
トタンいた
そばに、亜鉛板を樹皮へじかに打
くり
ち付けてある枯れかかった栗の木
が一本あるのを、よく見ておいた。
その開けた場所は、ブラリュの地
所と昔言われた所だった。積まれ
た石は何にするためのものかわか
らなかったが、三十年前までは確
かにそのまま残っていた。今日も
いた
まだたぶんそこにあるだろう。板
1092
べい
塀がいくら長くもつと言っても、
およそ石の積んだのくらい長くも
つものはない。ところがそこには
一時のものでたくさんで、長くも
たせなければならないような理由
は一つもなかったのである。
ブーラトリュエルは喜びの余り
大急ぎで、木からおりた、という
よりむしろすべり落ちた。穴は見
つかった。今は獣を捕えるだけだっ
1093
た。夢みていたあのたいへんな宝
は、たぶんそこにあるに違いなかっ
た。
しかしその開けた場所まで行く
のは、そう容易なことではなかっ
た。無数の稲妻形の意地悪く曲が
りくねってる知った小道から行け
ば、十五分くらいは充分かかるの
だった。一直線に進んでゆくには、
木の茂みがその辺はことに厚く、
1094
いばら
荊棘が深く強くて、三十分はたっ
ぷりかかるのだった。ブーラトリュ
エルはこの点を思い誤った。彼は
一直線の方を信じた。一直線とい
うことは、尊むべき幻覚ではある
が、往々人を誤らせることが多い。
茂みが深く交差していたが、ブー
ラトリュエルはそれを最善の道の
ように思った。
おおかみ
﹁狼の大通りから行ってやれ。﹂
1095
と彼は言った。
ブーラトリュエルはいつも斜め
な道を取るになれていて、こんど
あざみ
やぶ
だけまっすぐな道を歩くのは誤り
だった。
の ば ら
彼は思い切って、入り乱れた藪
さんざし
の中につき進んだ。
ひいらぎ いらぐさ
柊や蕁麻や山査子や野薔薇や薊
いばら
や気短かな茨などと戦わなければ
そうしょう
ならなかった。非常な掻傷を受け
1096
た。
低地の底では水たまりに出会っ
て、それを渡らなければならなかっ
た。
彼はついに四十分ばかりの後、
ブラリュの空地へたどりついた。
汗を流し、着物をぬらし、息を切
らし、肉を引き裂かれ、恐ろしい
姿になっていた。
空地にはだれもいなかった。
1097
ブーラトリュエルは石の積んで
ある所へ走り寄った。石は元のと
おりだった。動かされた跡はなかっ
た。
男の方は、森の中に消えうせて
いた。逃げてしまっていた。どこ
へ、どの方面へ、どの茂みの中へ
か? それを察知することはまっ
たくできなかった。
しかも遺憾きわまることには、
1098
石の積んであるうしろに、亜鉛の
張ってある木の前に、掘り返した
ばかりの新しい土があり、忘れら
つるはし
れたか捨てられたかした鶴嘴が一
つあり、また穴が一つあった。
から
穴は空だった。
どろぼう
﹁泥坊め!﹂とブーラトリュエル
こぶし
は地平線に向かって両の拳を振り
上げながら叫んだ。
1099
二 マリユス国内戦よ
りいでて家庭戦の準備をなす
マリユスは長い間死んでるのか
生きてるのかわからない状態にあっ
た。数週間熱が続き、それに伴っ
こんめい
て意識の昏迷をきたし、また、傷
そのものよりもむしろ頭部の傷の
刺激から来るかなり危険な脳症の
徴候を示していた。
1100
彼は最初のうち幾晩も、熱に浮
じょうぜつ
かされた痛ましい饒舌になり、妙
しつよう
に執拗な苦悩のうちに、コゼット
の名を呼び続けた。二、三の大き
な傷はことに危険なものだった。
のう
大きな傷口の膿は常に内部へ吸収
されがちなもので、その結果、大
気のある影響を受けて患者を殺す
ことがある。それで天気の変化す
るごとに、わずかの暴風雨にも、
1101
医者は心配していた。﹁何よりも
まず病人の気をいら立たせてはい
ほうたい
けません、﹂と彼は繰り返し言っ
ばんそうこう
ていた。絆創膏でガーゼや繃帯を
止める仕方は当時まだ見いだされ
ていなかったので、手当ては複雑
で困難だった。ニコレットは敷き
めんざんし
布を一枚ほごして綿撒糸を作った。
﹁天井ほどの大きな敷き布﹂と彼
えんかせんじょうやく
女は言っていた。塩化洗滌薬と硝
1102
酸銀とを腐蝕部の奥まで達せさせ
るのも、容易なことではなかった。
ぼうぜん
危険の間、ジルノルマン氏は孫の
まくらもと
枕頭につき添いながら惘然として、
マリユスと同様に死んでるのか生
きてるのかわからなかった。
毎日、時によると一日に二度も、
門番の言うところによるとごくりっ
ぱな服装の白髪の紳士が、病人の
様子を尋ねにきて、手当てのため
1103
めんざんし
と言って綿撒糸の大きな包みを置
いていった。
ひんし
ついに九月の七日、瀕死のマリ
ユスが祖父の家に運ばれてきた悲
しい夜から満三カ月たった時、医
者はその生命を保証すると明言し
た。回復期がやってきた。けれど
ざせつ
もなお彼は、鎖骨の挫折からくる
ながい
容態のために、二カ月余りも長椅
す
子の上に身を横たえていなければ
1104
ならなかった。いつまでも口のふ
さがらない傷が残って、手当てを
長引かし、病人をひどく退屈がら
せることがよくある。
しかし、その長い病と長い回復
期とのために、彼は官憲の追求を
免れた。フランスにおいてはいか
おおやけ
なる激怒も、公の激怒でさえ、六
カ月もたてば消えてしまう。それ
に当時の社会状態にあっては、暴
1105
動はだれでもしやすい過失であっ
て、それに対してはある程度まで
目を閉じてやらなければならなかっ
た。
なおその上、ジスケの無茶な命
よろん
げっこう
令は、負傷者を申し出るように医
し
者に強いて、輿論を激昂さし、ま
た輿論のみでなく第一に国王をも
激昂さしたので、負傷者らはその
激昂のために隠匿され保護された。
1106
そして軍法会議では、戦争中に捕
虜となった者のほかは、いっさい
不問に付することに決した。それ
でマリユスは無事のままでいるこ
とができた。
ジルノルマン氏は最初あらゆる
心痛を経て、次にあらゆる狂喜を
そば
感じた。毎晩負傷者の傍で夜を明
かすのをやめさすのは、非常な骨
折りだった。彼はマリユスの寝台
1107
ひじか
い す
のそばに自分の大きな肱掛け椅子
を持ってこさした。圧定布や繃帯
を作るためには家にある最上の布
を使うように娘に言いつけた。け
れどもジルノルマン嬢は、年取っ
りこう
た悧巧な女だったので、老人の命
に従うように見せかけながら、最
めんざん
上の布は皆しまっておいた。綿撒
し
糸を作るにはバチスト織りの布よ
りも粗悪な布の方がよく、新しい
1108
す
布よりも擦り切れた布の方がよい
ということを、ジルノルマン氏は
どうしても承認しなかった。手当
つつし
ての時には、ジルノルマン嬢は謹
んで席をはずしたが、ジルノルマ
ン氏はいつもそこについていた。
はさみ
鋏で死肉を切り取る時、彼はいつ
も自ら﹁いた、いたい!﹂とうめ
ちゃわん
いていた。震えを帯びてる老衰し
せんやく
た姿で病人に煎薬の茶碗を差し出
1109
してる所は、見るも痛ましいほど
だった。彼はやたらにいろんなこ
とを医者に尋ねた。そしていつも
同じ質問を繰り返してることには
自ら気づかなかった。
マリユスがもう危険状態を脱し
たと医者から告げられた日、老人
は常識を失った。彼は門番に慰労
としてルイ金貨を三つ与えた。そ
へや
の晩自分の室に退くと、親指と人
1110
差し指とでカスタネットの調子を
取って、ガヴォットを踊り、次の
ような歌を歌った。
ジャンヌの生まれはフー
ゼール、
羊飼い女のまことの巣。
われは愛す、その裳衣、
すね者。
1111
愛は彼女のうちに生く。
ひとみ
彼女の瞳のうちにこそ、
愛は置きぬ、その矢筒、
やたら者。
われは彼女を歌にせん。
ディアナよりもなおいと
し、
ちぶさ
わがジャンヌとその乳房、
ちから者。
1112
い す
それから彼は椅子の上にひざま
とびら
ずいた。少し開いてる扉のすきか
ら彼の様子を注意していたバスク
は、たしかに彼が祈りをしている
のだと思った。
その時まで、彼はほとんど神を
信じていなかったのである。
マリユスの容態がますますよく
なってゆくごとに、祖父は狂わん
ばかりになった。やたらにうれし
1113
げな機械的な行動をした。自分で
なぜともわからずに階段を上った
り下ったりした。隣に住んでたひ
とりの美しい婦人は、ある朝大き
ぼうぜん
な花輪を受け取って茫然とした。
それを贈ったのはジルノルマン氏
だった。そのために彼女は夫から
疑られまでした。ジルノルマン氏
ひざ
はニコレットを膝に抱き上げよう
とした。マリユスを男爵殿と呼ん
1114
だ。﹁共和万歳!﹂と叫ぶことも
あった。
彼は始終医者に尋ねた、﹁もう
危険はないでしょうね。﹂彼は祖
母のような目つきでマリユスをな
がめた。マリユスが物を食べる時
はそれから目を離さなかった。彼
はもう自分を忘れ、自分を眼中に
置いていなかった。マリユスが一
家の主人となっていた。彼は喜び
1115
の余り自分の地位を譲り与え、孫
に対して自分の方が孫となってい
た。
そういう喜悦のうちにあって、
彼は最も尊むべき子供となってい
なお
た。癒りかかった病人を疲らした
りわずらわしたりすることを恐れ
て、ほほえみかける時でさえその
うしろにまわった。彼は満足で、
愉快で、有頂天で、麗しく、若々
1116
しくなった。その白髪は、顔に現
われてる喜びの輝きに、一種のや
さしい威厳を添えた。高雅な趣が
しわ
顔の皺といっしょになる時には、
いかにも景慕すべきものとなる。
花を開いた老年のうちには言い知
あけぼの
れぬ曙の気がある。
マリユスの方は、人々に包帯を
させ看護をさせながら、コゼット
という一つの固定した観念をいだ
1117
いていた。
こんめい
熱と昏迷とが去って以来、彼は
もうその名前を口にせず、あるい
はもうそのことを考えていないの
かとも思われた。しかし彼が黙っ
ていたのは、まさしく彼の魂がそ
こに行ってるからだった。
彼はコゼットがどうなったか少
しも知らなかった。シャンヴルリー
街の事件はただ一片の雲のように
1118
記憶の中に漂っていた。エポニー
ヌやガヴローシュやマブーフやテ
ぼうさい
ナルディエ一家の者や、防寨の硝
煙にものすごく包まれてる友人ら
などは、皆ほとんど見分けのつか
ないほどの影となって彼の脳裏に
浮かんでいた。その血まみれの事
件のうちに不思議にもフォーシュ
ルヴァン氏が現われたことは、暴
なぞ
風雨中の謎のように彼には思えた。
1119
自分の生命については彼は何にも
わからなかった。どうしてまただ
れから救われたのか少しも知らな
かった。周囲の人々にもそれを知っ
てる者はなかった。周囲の人々か
つじばしゃ
ら彼が聞き得たことは、辻馬車に
乗せられて夜中にフィーユ・デュ・
カルヴェール街に運ばれてきたと
いうことだけだった。過去も現在
ばく
も未来も、すべては彼にとって漠
1120
ぜん
もや
然たる観念の靄にすぎなかった。
しかしその靄の中に、不動な一点
かこうがん
が、明確な一つの形が、花崗岩で
できてるようなある物が、一つの
決意が、一つの意志が、存在して
いた。すなわち再びコゼットに会
うことだった。彼にとっては、生
命の観念とコゼットの観念とは別々
のものではなかった。彼は心のう
ちで、その一方だけを受け取るこ
1121
とはすまいと決していた。だれで
も自分を生きさせようと望む者に
は、祖父にも運命にも地獄にも、
消えうせたエデンの園を戻すよう
ほぞ
に要求してやろうと、決心の臍を
固めていた。
それに対する障害は、彼も自ら
よく認めていた。
特に一事をここに力説しておく
が、祖父のあらゆる親切や慈愛も、
1122
彼の心を奪うことは少しもできず、
彼の心を和らげることはあまりで
きなかった。第一、彼はすべての
ことをよく知っていなかった。次
に、まだおそらく熱に浮かされて
る病床の夢想のうちに彼は、自分
を懐柔しようとする変な新しい試
な
みと見做して、祖父のやさしい態
度を信じなかった。彼は冷淡にし
ていた。祖父はそのあわれな老い
1123
むな
た微笑を空しく費やすのみだった。
マリユスはこう考えていた。自分
が何にも口をきかずなされるまま
にしている間だけ、祖父も穏やか
にしているのだ、しかし問題が一
度コゼットのことにおよんだなら、
祖父の顔は一変し、その真の態度
が仮面をぬいで現われて来るに違
いない。その時こそきびしいこと
が起こってくる、家庭問題の再発、
1124
身分の相違、一度に出てくるあら
ちょうろう
ゆる嘲弄や異議、フォーシュルヴァ
ンとかまたはクープルヴァン、財
産、貧乏、困窮、首につけた石、
将来、などということが。そして
激しい反対と、結局の拒絶。かく
考えてマリユスはあらかじめ心を
固めていた。
それからなお、生命を回復する
にしたがって、心の古い痛みはま
1125
た現われてき、記憶の古傷はまた
口を開いてきた。彼は再び過去の
ことを思いやった。ポンメルシー
大佐は再びジルノルマン氏と彼マ
リユスとの間につっ立った。自分
の父に対してあれほど不正で酷薄
であった人から、何ら真の好意が
望まれるものではないと彼は考え
た。そして健康とともに、祖父に
がんこ
対する一種の頑固さが彼に戻って
1126
きた。そのために老人はやさしく
心を痛めた。
ジルノルマン氏は少しも様子に
現わしはしなかったが、マリユス
が家に運ばれてきて以来、意識を
回復して以来、一度も自分を父と
呼んだことのないのを、深く心に
とめていた。もとよりマリユスは
他人らしい敬称で彼を呼びはしな
かった。しかしその父という語も
1127
または敬称をも使わないように、
一種の言い回し方をしていた。
危機は明らかに近づいてきた。
かかる場合にいつもあるとおり、
マリユスはまず試みのために、い
よいよ戦端を開く前に斥候戦をやっ
せぶみ
てみた。いわゆる瀬踏である。あ
る朝偶然にも、ジルノルマン氏は
手にした新聞のことから、国約議
会のことを少し論じ、ダントンや
1128
こうふん
サン・ジュストやロベスピエール
あざけ
に対して王党らしい嘲りの口吻を
もらした。すると、﹁九十三年に
働いた人々は皆大人物です、﹂と
マリユスはいかめしく言った。老
つぐ
人は口を噤んでしまって、その日
は終日一言も発しなかった。
マリユスは一歩も譲ることをし
ない往年の祖父をいつも頭に置い
ていたので、その沈黙を深い憤怒
1129
の集中だと思い、それから激しい
論争が起こることを予期し、頭の
奥で戦いの準備をますます固めた。
彼は心にきめていた、もし拒絶
される場合には、包帯を破りすて、
鎖骨をはずし、残ってる傷をなま
なましくむき出し、いっさい食物
を取るまいと。傷はすなわち戦い
の武器だった。コゼットを得るか
もしくは死ぬ、と彼は決心してい
1130
た。
こうかつ
彼は病人の狡猾な忍耐で好機会
を待っていた。
その機会は到来した。
三 マリユス攻勢を取
る
ある日ジルノルマン氏は、戸棚
びん
の大理石板の上に壜やコップを娘
1131
が片づけてる時、マリユスの上に
身をかがめて、最もやさしい調子
で彼に言った。
﹁ねえマリユス、わしがもしお前
さかな
だったら、もう魚より肉の方を食
ひ ら め
べるがね。比目魚のフライも回復
期のはじめには結構だが、病人が
立って歩けるようになるには、上
わきにく
等の脇肉を食べるに限るよ。﹂
マリユスはもうほとんど体力を
1132
すべて回復していたが、更にその
力を集中して、そこに半身を起こ
こぶし
し、握りしめた両の拳を敷き布の
上につき、祖父の顔をまともにじっ
とながめ、恐ろしい様子をして言っ
た。
﹁そうおっしゃれば一つ申したい
ことがあります。﹂
﹁何かね?﹂
﹁私は結婚したいのです。﹂
1133
﹁そんなことなら前からわかって
いる。﹂と祖父は言った。そして
笑い出した。
﹁何ですって、わかっていますっ
て?﹂
﹁うむ、わかっているよ。あの娘
をもらうがいい。﹂
ぼうぜん
マリユスはその一言に惘然とし
げんわく
て眩惑し、手足を震わした。
ジルノルマン氏は続けて言った。
1134
﹁そうだ、あのきれいなかわいい
娘をもらうがいい。あの娘は毎日、
老人を代わりによこしてお前の様
子を尋ねさしている。お前が負傷
してからというもの、いつも泣き
めんざんし
ながら綿撒糸をこしらえてばかり
いる。わしはよく知ってる。オン
ム・アルメ街七番地に今住んでい
る。ああいいとも。好きならもら
うがいい。お前はすっかりはまり
1135
込んでいるな。お前はつまらない
計画を立てて、こう考えたんだろ
じじい
う。﹃あの祖父に、あの摂政時代
み い ら
と執政内閣時代との木乃伊に、あ
しゃれもの
の古めかしい洒落者に、あのゼロ
ントとなったドラントに︵訳者注
共にモリエールの戯曲中の人物
にて、ゼロントは欺かれやすい愚
かな好々爺、ドラントはばかげた
気取りや︶、きっぱりと思い知ら
1136
してやろう。彼だって昔は、おも
いろおんな
しろいことをやって、情婦をこし
らえ、小娘をひっかけ、幾人もの
コゼットを持っていたんだ。お化
粧をし、翼をつけ、春のパンを食っ
たことがあるんだ。昔のことを少
し思い出さしてやらなけりゃいけ
ない。どうなるかみてるがいい。
かぶとむし
戦争だ。﹄そう思ってお前は甲虫
の角をつかまえたわけだな。いい
1137
考えだ。そこでわしが脇肉はどう
だと言い出したら、実は結婚した
いのですが、と答えたんだな。そ
れは話をそらすというものだ。お
前は少し言い争うつもりでいたん
ふるだぬき
だろう。わしがこれでも古狸であ
ることを、お前は知らなかったん
おじ
だ。どうだね。腹が立つかね。祖
い
父さんを少しばかにしてやろうな
どと思っても、そうはいかないさ。
1138
議論なんかしかけようたってむだ
しゃく
なことさ。弁護士さん、癪にさわ
るかね。まあ怒るのは損だよ。お
前のすきなようにしてやれば、文
句もなかろうというものだ。ばか
だね。まあ聞きなさい。わしもな
りこ
かなかずるくてな、いろいろ調べ
そうきへい
うそ
てみたんだ。なるほどきれいで悧
う
巧な娘だ。槍騎兵の話も嘘だった。
めんざんし
綿撒糸を山のように作ってくれた
1139
の
よ。実にりっぱな娘だ。お前に逆
ぼ
上せきってる。もしお前が死んだ
ら、三人になるところだった、娘
の葬式がわしの葬式に続いて出る
所だった。わしもな、お前がよく
まくらもと
なりかけてからは、娘を枕頭に連
れてきてやろうとは思ったが、美
男子が負傷して寝てる所へ、夢中
になってる若い娘をすぐに連れて
くるのも、小説ならともかく、実
1140
お ば
際はちと困るからな。伯母さんも
どう言うかわからないしね。お前
は素裸になってる時の方が多いく
らいだった。いつもそばについて
たニコレットに聞いてみなさい、
婦人を傍に置けたかどうか。それ
からまた医者もどう言うかわから
ない。きれいな娘は決して人の熱
を下げてくれるものではないから
な。だが、もうそれでいい、こん
1141
な話はやめよう。すっかりきまっ
てる。でき上がってる。まとまっ
てることなんだ。あの娘をもらう
がいい。わしの意地悪さと言えば
まあそんなものだ。ねえ、わしは
な、お前からきらわれてるのを見
て取って、こう考えた。﹃こいつ
おれ
が俺を愛するようになるには、ど
うしたらいいかな。﹄そしてまた
わしは考えた。﹃なるほど、コゼッ
1142
トが俺の手の中にある。コゼット
を一つくれてやろう。そうしたら
少しは俺を愛してくれるに違いな
い。あるいはまた、愛しない理由
を言うに違いない。﹄ところがお
じい
前は、この爺さんがやかましく言
い、大きな声を立て、反対をとな
え、その夜明けのような娘の上に
つえ
杖を振り上げることと、思ってい
たんだろう。だがそんなことをわ
1143
しがするものか。コゼットも結構、
恋も結構、わしはもうそれで十分
だ。だからどうか結婚してくれ。
かわいいお前のことだもの、幸福
になってくれ。﹂
そう言って、老人は涙にむせん
だ。
彼はマリユスの頭を取り、それ
を年老いた胸に両腕で抱きしめた。
そしてふたりとも泣き出した。泣
1144
くのは最上の幸福の一つの形であ
る。
﹁お父さん!﹂とマリユスが叫ん
だ。
﹁ああ、ではわしを愛してくれる
か?﹂と老人は言った。
それは名状し難い瞬間だった。
ふたりは息をつまらして、口をき
くこともできなかった。やがて老
人はつぶやいた。
1145
﹁さあ、これで口もあけた。わし
をお父さんと言ってくれた。﹂
マリユスは祖父の腕から頭をは
ずして、静かに言った。
﹁ですがお父さん、もう私は丈夫
になっていますから、彼女に会っ
てもよさそうに思います。﹂
あ す
﹁それも承知してる。明日会わし
てやろう。﹂
﹁お父さん!﹂
1146
﹁何かね。﹂
﹁なぜ今日はいけないんです。﹂
﹁では今日、そう今日にしよう。
お前は三度お父さんと言ったね、
それに免じて許してやろう。わし
が引き受ける。お前のそばへ連れ
てこさせよう。こうなるだろうと
思っていた。ちゃんと詩にもなっ
・ ・
てる。アンドレ・シェニエの病め
・ ・ ・
る若者という悲歌の末句だ。九十
1147
ざんしゅ
三年の悪⋮⋮大人物どもから斬首
されたアンドレ・シェニエのね。﹂
ジルノルマン氏はマリユスが
まゆ
ちょっと眉をしかめたように思っ
た。しかしあえて言っておくが、
マリユスはまったく歓喜のうちに
包まれ、一七九三年のことなんか
よりもコゼットのことを多く考え
ていて、老人の言葉に耳を傾けて
いなかった。けれども祖父は、折
1148
り悪しくアンドレ・シェニエを口
にして自ら震え上がり、急いで弁
解を始めた。
ざんしゅ
﹁斬首というのは適当でない。事
実を言えば、革命の偉人たちは、
確かに悪人ではなく英雄であった
が、アンドレ・シェニエを少し邪
魔にして、彼を断頭⋮⋮すなわち、
その英傑たちは、共和熱月七日
︵一七九四年七月二十五日︶、公
1149
衆の安寧のために、アンドレ・シェ
ニエに願って⋮⋮。﹂
ジルノルマン氏は自分の言おう
のど
とする言葉に喉をしめつけられて、
あとを続けることができなかった。
言い終えることも言い直すことも
できず、娘がマリユスのうしろで
枕を直してる間に、激情に心転倒
して、老年の足が許す限りの早さ
で、寝室の外に飛び出し、うしろ
1150
とびら
あわ
に扉を押ししめ、まっかになり、
のど
喉をつまらし、口に泡を立て、目
へや
をむき出して、ちょうど次の室で
くつ
靴をみがいていた正直なバスクと
ばったり顔を合わした。彼はバス
えり
クの襟をとらえ、まっ正面から勢
い込めてどなりつけた。﹁畜生、
その悪漢どもが殺害したんだ!﹂
﹁だれをでございますか。﹂
﹁アンドレ・シェニエをだ!﹂
1151
﹁さようでございます。﹂とバス
クは驚き恐れて言った。
四 フォーシュルヴァ
ン氏の小わきの包み
コゼットとマリユスとは再び会っ
た。
その面会はどんなものであった
か、それを語るのをわれわれはや
1152
めよう。世には描写すべからざる
ものがある。たとえば太陽もその
一つである。
コゼットがはいってきた時には、
バスクやニコレットをも加えて一
へや
家の者が皆マリユスの室に集まっ
ていた。
しきい
彼女は閾の上に現われた。その
姿はあたかも円光に包まれてるか
と思われた。
1153
ちょうどその時祖父は鼻をかも
うとしていた。彼はそれを急にや
め、ハンカチで鼻を押さえたまま、
その上からコゼットをながめた。
﹁みごとな娘だ!﹂と彼は叫んだ。
それから彼は大きな音を立てて
鼻をかんだ。
コゼットは、酔い、喜び、おび
え、天に上ったような心地になっ
ていた。彼女はおよそ幸福が与え
1154
得るだけの恐怖を感じていた。彼
女は口ごもり、まっさおになり、
またまっかになり、マリユスの腕
に身を投じたく思いながらあえて
なし得なかった。大勢の人前で愛
するのをはずかしがったのである。
人は幸福なる恋人らに対して無慈
悲である。彼らが最もふたりきり
でいたく思う時にはそこに控えて
いる。しかしふたりはまったく他
1155
人を必要としないのである。
コゼットと共に、白髪の老人が
ひとりそのあとからはいってきた。
彼は荘重な顔つきをしていたが、
それでもほほえんでいた。しかし
それはぼんやりした痛ましい微笑
だった。この老人は﹁フォーシュ
ルヴァン氏﹂で、すなわちジャン・
ヴァルジャンであった。
えり
彼は新しい黒服をまとい白い襟
1156
かざ
飾りをつけて、門番が言ったとお
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
りごくりっぱな服装をしていた。
公証人ででもありそうなそのき
ちょうめんな市民が、あの六月七
日の夜、気絶したマリユスを腕に
かかえ、ぼろをまとい、不潔で醜
どろ
く荒々しく、血と泥とにまみれた
顔をして、門の中にはいってきた
恐ろしい死体運搬人であろうとは、
門番は夢にも思いつかなかった。
1157
しかしどことなく見覚えがあるよ
うに思った。フォーシュルヴァン
氏がコゼットと共にやってきた時、
門番はそっと女房にささやかざる
を得なかった。﹁何だかあの人は
前に見たことがあるようにいつも
思われてならないがね、どうも変
だ。﹂
フォーシュルヴァン氏はマリユ
へや
スの室の中で、わきによけるよう
1158
とびら
に扉のそばに立っていた。彼は小
わきに、紙にくるんだ八折本らし
い包みを抱えていた。包み紙は緑
かび
がかった色で、黴がはえてるよう
だった。
﹁あの人はいつもああして書物を
抱えていなさるのかしら。﹂と書
物ぎらいなジルノルマン嬢は、低
い声でニコレットに尋ねた。
﹁そう、あの人は学者だ。﹂とそ
1159
の声を耳にしたジルノルマン氏は
同じ小声で答えた。﹁だがそんな
ことはかまわんじゃないか。わし
が知ってるブーラールという人も
やはり、いつも書物を持って歩い
ていて、ちょうどあのように古本
を胸に抱いていた。﹂
そしてお辞儀をしながら、彼は
高い声で言った。
﹁トランシュルヴァンさん⋮⋮。﹂
1160
ジルノルマン老人は他意あって
そんなふうに呼んだのではなかっ
た。人の名前にとんちゃくしない
のは、彼にとっては一つの貴族的
な癖だった。
﹁トランシュルヴァンさん、わた
しは、孫のマリユス・ポンメルシー
男爵のために御令嬢に結婚を申し
込みますのを、光栄と存じます。﹂
﹁トランシュルヴァン氏﹂は頭を
1161
下げた。
﹁これできまった。﹂と祖父は言っ
た。
そしてマリユスとコゼットとの
方を向き、祝福するように両腕を
ひろげて叫んだ。
﹁互いに愛し合うことを許す。﹂
彼らは二度とその言葉を繰り返
させなかった。言われるが早いか
すぐに楽しく話し出した。マリユ
1162
ながいす
ひじ
スは長椅子の上に肱をついて身を
起こし、コゼットはそのそばに立っ
て、互いに声低く語り合った。コ
ゼットはささやいた。﹁ああうれ
しいこと、またお目にかかれたの
ね。ねえ、あなた、あなた! 戦
争においでなすったのね。なぜな
よつき
の。恐ろしいことだわ。四月の間
私は生きてる気はしなかったわ。
戦争に行くなんて、ほんに意地悪
1163
ね。私あなたに何をして? でも
許して上げてよ。これからもうそ
んなことをしてはいけないわ。さっ
き、私たちに来るようにって使い
がきた時、私はまたもう死ぬのか
と思ったの。でもうれしいことだっ
たのね。私は悲しくて悲しくて、
着物を着換えることもできなかっ
な り
たのよ。大変な服装をしてるでしょ
えりかざ
う。しわくちゃな襟飾りをしてる
1164
ところをごらんなすって、お家の
方は何とおっしゃるでしょうね。
さあ、あなたも少し話してちょう
だい。私にばかり口をきかしてい
らっしゃるのね。私たちはずっと
オンム・アルメ街にいたのよ。あ
なたの肩の傷はさぞひどかったん
でしょうね。手がはいるくらいだっ
はさみ
たそうですってね。それに鋏で肉
を切り取ったんですってね。ほん
1165
とに恐ろしい。私は泣いてばかり
いたので、目を悪くしてしまった
の。どうしてあんなに苦しんだか
じいさ
と思うとおかしいほどよ。お祖父
ま
様は御親切そうな方ね。静かにし
ていらっしゃいな、肱で起き上がっ
てはいけないわ。用心なさらない
さわ
と、障るでしょう。ああ私ほんと
に仕合わせだこと! 悪いことも
もう済んでしまったのね。私どう
1166
かしたのかしら。いろんなことを
お話したいと思ったのに、すっか
り忘れてしまった。やっぱりあな
たは私を愛して下さるの? 私た
ちはオンム・アルメ街に住んでる
めん
のよ。庭はないの。私はいつも綿
ざんし
撒糸ばかりこしらえていたわ。ね
た
えあなた、ごらんなさい、指に胼
こ
胝ができてしまったわ。あなたが
悪いのよ。﹂マリユスは言った。
1167
﹁おお天使よ!﹂
・ ・
天使という言葉こそ、使い古す
ことのできない唯一のものである。
他の言葉はみな、恋人らの無茶な
使用にはたえ得ない。
それから、あたりに人がいるの
で、ふたりは口をつぐんでもう一
言も言わず、ただやさしく手を握
り合ってるばかりだった。
へや
ジルノルマン氏は室の中にいる
1168
人々の方へ向いて声高に言った。
﹁みんな声を高くして話すんだ。
楽屋の方で音を立てるんだ。さあ、
子供ふたりで勝手にしゃべくるよ
うに、少し騒ぐがいい。﹂
そして彼はマリユスとコゼット
に近寄って、ごく低く言った。
﹁うちとけて親しむがいい。遠慮
するにはおよばない。﹂
お ば
ジルノルマン伯母は、古ぼけた
1169
家庭にかく突然光がさし込んでき
ぼうぜん
たのを惘然としてながめていた。
やまばと
惘然さのうちには何らの悪意もな
ねた
かった。それは二羽の山鳩に対す
ふくろう
る梟の憤った妬ましい目つきでは
少しもなかった。五十七歳の罪の
あぜん
ない老女の唖然たる目つきであり、
むな
愛の勝利をながめてる空しい生命
だった。
﹁どうだ、﹂と父は彼女に言った、
1170
﹁こんなことになるだろうとわし
がかねて言ったとおりではない
か。﹂
彼はちょっと黙ったが、言い添
えた。
﹁他人の幸福も見るものだ。﹂
それから彼はコゼットの方に向
いた。
﹁実にきれいだ、実にきれいだ!
グルーズの絵のようだ。おい、
1171
いたずらっ児さん、お前はひとり
でこれからその娘さんを独占する
んだな。わしと張り合わずにすん
で仕合わせだ。わしがもし十五年
も若けりゃ、剣を取ってもお前と
競争するからな。いや、お嬢さん、
ほ
わたしはお前さんに惚れ込んでし
まった。しかし怪しむに当たらな
い。それはお前さんの権利だ。あ
あこれで、美しいきれいな楽しい
1172
かわいい結婚が一つ出来上がる。
ここの教区はサン・ドゥニ・デュ・
サン・サクルマンだが、サン・ポー
ルで結婚式をあげるように許しを
得てやろう。あの教会堂の方が上
等だ。ゼジュイット派が建てたも
のだ。あの方が美しい。ビラーグ
枢機官の噴水と向き合っている。
ゼジュイット派建築の傑作は、ナ
ムュール市にあって、サン・ルー
1173
と言われてる。お前たちが結婚し
たらそこへ行ってみるがいい。旅
するだけの価値はある。お嬢さん、
わたしも全然お前さんの味方だ。
娘が結婚するのはいいことだ。結
婚するようにできている。聖カテ
リナ︵訳者注 四世紀初葉の殉教
者にして若い娘の守護神︶のよう
な女で、わしがいつもその髪を解
かせたく思うのが、世にはたくさ
1174
んある。娘のままでいるのも結構
なことだが、それはどうも冷たす
ふ
ぎる。聖書にもある、増せよ殖え
よと。人民を救うにはジャンヌ・
ダルクのような女も必要だが、し
お
かし人民を作るにはジゴーニュ小
ば
母さん︵訳者注 人形芝居の人物
にて、裳衣の下からたくさんの子
供を出してみせる女︶のような女
が必要だ。だから美人はすべから
1175
く結婚すべし。実際独身でいて何
のためになるかわしにはさっぱり
わからん。なるほど、教会堂に特
別の礼拝所を持ち、聖母会の連中
うわさ
の噂ばかりする者も世にはある。
しかし結婚して、夫はりっぱな好
男子だし、一年たてば金髪の大き
ふと
あけぼの
な赤ん坊ができ、元気に乳を吸い、
もも
腿は肥ってよくくくれ、曙のよう
ばらいろ
に笑いながら、薔薇色の小さな手
1176
ろうそく
でいっぱいに乳房を握りしめると
きとう
すれば、晩の祈祷に蝋燭を持って
・ ・ ・ ・
象牙の塔︵聖母マリア︶を歌うよ
まさ
りも、よほど勝っている。﹂
かかと
祖父は九十歳の踵でくるりと回っ
ば ね
て、発条がとけるような具合に言
い出した。
﹁かくてアルシペよ、夢想に
かぎり
限界を定めて、
な
やがて汝が婚姻するは、まこ
1177
となるか。
時にね。﹂
﹁何です、お父さん。﹂
﹁お前には親しい友だちがあった
か。﹂
﹁ええ、クールフェーラックとい
う者です。﹂
﹁今どうしてる?﹂
﹁死んでいます。﹂
﹁それでいい。﹂
1178
彼はふたりのそばに腰を掛け、
コゼットにも腰掛けさし、彼らの
しわ
四つの手を自分の年老いた皺のあ
る手に取った。
﹁実にりっぱな娘さんだ。このコ
ゼットはまったく傑作だ。小娘で
また貴婦人だ。男爵夫人には惜し
い。生まれながらの侯爵夫人だ。
まつげ
睫毛もりっぱだ。いいかね、お前
たちは本当の道を踏んでるという
1179
ことをよく頭に入れとかなくては
いかん。互いに愛し合うんだ。愛
してばかになるんだ。愛というも
ぐもう
のは、人間の愚蒙で神の知恵だ。
互いに慕い合うがいい。ただ、﹂
と彼は急に沈み込んで言い添えた、
﹁一つ悲しいことがある。それが
わしの気がかりだ。わしの財産の
半分以上は終身年金になっている。
わしが生きてる間はいいが、わし
1180
が死んだら、もう二十年もしたら、
かわいそうだが、お前たちは一文
なしになる。男爵夫人たるこのまっ
白な美しい手も、食うために働か
なくてはならないことになるだろ
う。﹂
その時、荘重な落ち着いた声が
聞こえた。
﹁ウューフラジー・フォーシュル
ヴァン嬢は、六十万フランの金を
1181
持っています。﹂
その声はジャン・ヴァルジャン
から出たのだった。
彼はその時まで一言も口をきか
ずにいた。だれも彼がそこにいる
ことさえ知らないがようだった。
そして彼は幸福な人々のうしろに
じっと立っていた。
﹁ウューフラジー嬢というのは何
のことだろう?﹂と祖父はびっく
1182
りして尋ねた。
﹁私です。﹂とコゼットは答えた。
﹁六十万フラン!﹂とジルノルマ
ン氏は言った。
﹁たぶん一万四、五千フランはそ
れに足りないかも知れませんが。﹂
とジャン・ヴァルジャンは言った。
そして彼はジルノルマン嬢が書
物だと思っていた包みをテーブル
の上に置いた。
1183
ジャン・ヴァルジャンは自ら包
みを開いた。それは一束の紙幣だっ
た。人々はそれをひろげて数えて
みた。千フランのが五百枚と五百
フランのが百六十八枚はいってい
て、全部で五十八万四千フランあっ
た。
﹁これは結構な書物だ。﹂とジル
ノルマン氏は言った。
お ば
﹁五十八万四千フラン!﹂と伯母
1184
がつぶやいた。
﹁これで万事うまくいく、そうじゃ
ないか。﹂と祖父はジルノルマン
嬢に言った。﹁マリユスの奴、分
限者の娘を狩り出したんだ。こう
なったらお前も若い者の恋にかれ
これ言えやしないだろう。学生は
六十万フランの女学生を見つけ出
す。美少年はロスチャイルド以上
の働きをするというものだ。﹂
1185
﹁五十八万四千フラン!﹂とジル
ノルマン嬢は半ば口の中で繰り返
していた。﹁五十八万四千フラン、
まあ六十万フランだ。﹂
マリユスとコゼットとは、その
間ただ互いに顔を見合っていた。
ふたりはそんなことにほとんど注
意もしなかった。
五 金は公証人よりも
1186
むしろ森に託すべし
読者は長い説明を待つまでもな
く既に了解したであろう。ジャン・
ヴァルジャンはシャンマティユー
事件の後、最初の数日間の逃走に
よって、パリーにき、モントル
イュ・スュール・メールでマドレー
もう
ヌ氏の名前で儲けていた金額を、
ちょうどよくラフィット銀行から
1187
引き出すことができた。そして再
び捕えられることを気使って︱︱
果たして間もなく捕えられたが︱
︱モンフェルメイュの森の中のブ
ラリュの地所と言われてる所に、
その金を埋めて隠しておいた。金
額は六十三万フランで、全部銀行
かさ
紙幣だったので、わずかな嵩で一
つの小箱に納めることができた。
ただその小箱に湿気を防ぐため、
1188
きくず
かし
更に栗の木屑をいっぱいつめた樫
の箱に入れておいた。同じ箱の中
に彼は、も一つの宝である司教の
しょくだい
燭台をもしまった。モントルイュ・
スュール・メールから逃走する時
彼がその二つの燭台を持っていっ
たことを、読者は記憶しているだ
ろう。ある夕方ブーラトリュエル
が最初に見つけた男は、ジャン・
ヴァルジャンにほかならなかった。
1189
その後ジャン・ヴァルジャンは、
金がいるたびごとにそれを取りに
ブラリュの空地にやってきた。前
に言ったとおり彼が時々家をあけ
たのは、そのためだった。彼は人
つる
の気づかない茂みの中に一本の鶴
はし
嘴を隠しておいた。それから彼は、
マリユスが回復期にはいったのを
見た時、その金の役立つ時機が近
づいたのを感じて、それを取りに
1190
出かけていった。ブーラトリュエ
ルが森の中でこんどは夕方でなく
早朝に見かけた男は、やはりジャ
ン・ヴァルジャンだった。ブーラ
トリュエルはその鶴嘴だけを受け
継いだ。
実際に残ってた金額は五十八万
四千五百フランだった。ジャン・
ヴァルジャンはそのうち五百フラ
ンだけを自分のために引き去って
1191
おいた。﹁あとはどうにかなるだ
ろう、﹂と彼は考えた。
その金額とラフィット銀行から
引き出した六十三万フランとの間
の差額は、一八二三年から一八三
三年に至る十年間の費用を示すも
のである。そのうち修道院にいた
五年間は、ただ五千フランかかっ
たのみだった。
ジャン・ヴァルジャンは二つの
1192
だんろだな
銀の燭台を暖炉棚の上に置いた。
そのりっぱなのを見てトゥーサン
はひどく感心していた。
それからまたジャン・ヴァルジャ
ンは、ジャヴェルから免れたこと
を知っていた。その事実が自分の
前で話されるのを聞いて、彼は機
関新聞で更に確かめてみた。その
記事によると、ジャヴェルという
ひとりの警視が、ポン・トー・シャ
1193
できし
ンジュとポン・ヌーフの二つの橋
せんたくぶね
の間の洗濯舟の下に溺死してるの
が発見された、しかるに彼は元来
上官からもごく重んぜられ何ら非
難すべき点もない男であって、そ
の際残していった手記によって考
えれば、精神に異状を呈して自殺
を行なったものらしい、というの
だった。ジャン・ヴァルジャンは
考えた。﹁実際彼は、私を捕えな
1194
がら放免したところをみると、ど
うしても既にあの時から気が狂っ
ていたに違いない。﹂
六 コゼットを幸福な
らしむるふたりの老人
ことごと
結婚の準備は悉く整えられた。
医者に相談すると、二月には行なっ
てもいいという明言が得られた。
1195
今は十二月だった。かくて全き幸
福の楽しい数週間が過ぎていった。
祖父も同じように幸福だった。
彼はよく十四、五分間もコゼット
み と
に見惚れてることがあった。
﹁実にきれいな娘だ!﹂と彼は叫
んだ。﹁そして至ってやさしく親
切そうな様子だ。いとしき者よわ
が心よ、などと言ってもまだ足り
ない。これまで見たこともないほ
1196
すみれ
ど美しい娘だ。やがては菫のよう
に香んばしい婦徳も出て来るだろ
う。まったく優美の至りだ。こん
な婦人といっしょにおれば、だれ
でもりっぱな生活をしないわけに
はゆかない。マリユス、お前は男
爵で金持ちだ。もう弁護士なんか
にはならないでくれ、頼むから。﹂
コゼットとマリユスとは、にわ
かに墳墓から楽園に移ったがよう
1197
だった。その変化はあまりに意外
だったので、ふたりはたとい目が
くら
眩みはしなかったとするもまった
ぼうぜん
く惘然としてしまった。
﹁どうしてだかお前にわかる?﹂
とマリユスはコゼットに言った。
﹁いいえ。﹂とコゼットは答えた。
﹁ただ神様が私たちを見てて下さ
るような気がするの。﹂
ジャン・ヴァルジャンはすべて
1198
のことをなし、すべてを平らにし、
すべてを和らげ、すべてを容易な
らしめた。彼はコゼット自身と同
じくらい熱心に、また表面上いか
にもうれしそうに、彼女の幸福を
早めようとした。
彼は市長をしていたことがある
ので、コゼットの戸籍という彼ひ
とりが秘密を握ってる困難な問題
をも、よく解決することができた。
1199
その身元を露骨に打ち明けたら、
あるいは結婚が破れるかも知れな
かった。彼はあらゆる困難をコゼッ
トに免れさした。彼女のために死
に絶えた一家をこしらえてやった。
それはいかなる故障をも招かない
安全な方法だった。コゼットは死
まつえい
に絶えた一家のただひとりの末裔
となり、彼の娘ではなくて、もひ
とりのフォーシュルヴァンの娘と
1200
なった。ふたりのフォーシュルヴァ
ン兄弟はプティー・ピクプュスの
修道院で庭番をしていたことがあ
るので、そこに聞き合わされた。
よい消息やりっぱな証明はたくさ
んあった。善良な修道女らは、身
元なんかの問題はよく知りもせず
あまり注意してもいなかったし、
また不正なことがされてようとも
思っていなかったので、小さなコ
1201
ゼットはふたりのフォーシュルヴァ
ンのどちらの娘であるかを本当に
知ってはいなかった。彼女らは望
まれるままの口をきき、しかも心
からそう述べ立てた。身元証明書
はすぐにでき上がった。コゼット
は法律上ウューフラジー・フォー
シュルヴァン嬢となった。彼女は
両親ともにない孤児と確認された。
ジャン・ヴァルジャンはうまく取
1202
り計らって、フォーシュルヴァン
という名の下にコゼットの後見人
と定められ、またジルノルマン氏
は後見監督人と定められた。
五十八万四千フランは、名を明
な
かすことを欲しなかった今は亡く
なってるある人から、コゼットへ
遺贈されたものとなった。その遺
産は初め五十九万四千フランだっ
たが、内一万フランはウューフラ
1203
ジー嬢の教育費に使われ、その内
五千フランは修道院に支払われた
ものだった。その遺産は第三者の
手に保管され、コゼットが丁年に
達するか結婚するかする時彼女に
渡されることになっていた。それ
らのことは、読者の見るとおりい
かにももっともなことであって、
特に百万の半ば以上という金がつ
いておればなおさらだった。もと
1204
よりいぶかしい点も所々ないでは
なかったが、人々はそれに気づか
なかった。当事者のひとりは愛に
目がおおわれていたし、他の人た
ちは六十万フランに目がおおわれ
ていた。
コゼットは自分が長く父と呼び
続けていた老人の娘でないことを
聞かされた。彼はただ親戚であっ
て、もひとりのフォーシュルヴァ
1205
ンという人が本当の父であった。
他の時だったらそのことは彼女の
心を痛ませたろう。しかし今は得
も言えぬ楽しい時だったので、そ
れはただわずかな影であり一時の
曇りにすぎなかった。彼女はまっ
たく喜びに満たされていたので、
その雲も長く続かなかった。彼女
はマリユスを持っていた。青年が
きて、老人は姿を消した。人生は
1206
そうしたものである。
それにまた、コゼットは長年の
間、自分の周囲に謎のようなこと
を見るになれていた。不可思議な
幼年時代を経てきた者は皆、いつ
もある種のあきらめをしやすいも
のである。
それでも彼女は続けてジャン・
ヴァルジャンを父と呼んでいた。
心も空に喜んでいるコゼットは、
1207
ジルノルマン老人にも深く感謝し
あいぶ
ていた。実際老人はやたらに愛撫
の言葉や贈り物を彼女に浴びせか
けた。ジャン・ヴァルジャンが彼
女のために、社会における正当な
地位と適当な身元とを作ってやっ
てる間に、ジルノルマン氏は結婚
の贈り物に腐心していた。壮麗で
あることほど彼を喜ばせるものは
なかった。祖母から伝えられてる
1208
バンシュ製レースの長衣をもコゼッ
トに与えた。彼は言った。﹁こう
いう物もまた生き返ってくる。古
い物も喜ばれて、わしの晩年の若
い娘がわしの幼年時代の婆さんの
ような服装をするんだ。﹂
中ぶくれのりっぱなコロマンデ
うるしとだな
ル製の漆戸棚をも彼は開放してし
まった。それはもう長年の間開か
れたことのないものだった。彼は
1209
言った。﹁この婆さんたちにもひ
ざんげ
とつ懺悔をさしてやれ。腹に何を
しまってるか見てやろう。﹂そし
て彼は自分の幾人もの妻や情婦や
お婆さんたちの用具がいっぱいつ
どんす
まってる引き出しの中を、大騒ぎ
なんきんじゅす
でかき回した。南京繻子、緞子、
模様絹、友禅絹、トゥール製の炎
模様粗絹の長衣、洗たくにたえる
金縁の印度ハンカチ、織り上げた
1210
はさみ
ばかりで鋏のはいっていない裏表
なしの花模様絹、ゼノアやアラン
ししゅう
ソン製の刺繍、古い金銀細工の装
飾品、微細な戦争模様のついてる
象牙の菓子箱、装飾布、リボン、
それらをすべて彼はコゼットに与
えた。コゼットはマリユスに対す
る愛に酔いジルノルマン氏に対す
る感謝の念にいっぱいになって、
心の置き所も知らず、繻子とビロー
1211
ドとをまとった限りない幸福を夢
みていた。結婚の贈物が天使から
ささげられてるような気がした。
彼女の魂はマリーヌのレースの翼
そうくう
をつけて蒼空のうちに舞い上がっ
ていた。
こうこつ
ふたりの恋人の恍惚の情におよ
ぶものは、前に言ったとおり、た
だ祖父の歓喜あるのみだった。か
くてフィーユ・デュ・カルヴェー
1212
ル街には楽隊の響きが起こったか
のようだった。
こぶ
祖父は毎朝コゼットへ何かの古
つ
物を必ず贈った。あらゆる衣裳が
さんらん
彼女のまわりに燦爛と花を開いた。
マリユスは幸福のうちにも好ん
でまじめな話をしていたが、ある
日、何かのことについてこう言っ
た。
﹁革命の人々は実に偉大です。カ
1213
トーやフォキオン︵訳者注 ロー
マおよびアテネの大人物︶のよう
に数世紀にわたる魅力を持ってい
て、各人がそれぞれ古代の記念の
ようです。﹂
﹁古代の絹!﹂と老人は叫んだ。
﹁ありがとう、マリユス。ちょう
どわしもそういう考えをさがして
るところだった。﹂
そして翌日、茶色の観世模様古
1214
代絹のみごとな長衣がコゼットの
結婚贈り物に加えられた。
祖父はそれらの衣裳から一つの
哲理を引き出した。
﹁恋愛は結構だ。だが添え物がな
くてはいかん。幸福のうちにも無
用なものがなくてはいかん。幸福
そのものは必要品にすぎない。だ
から大いにむだなもので味をつけ
るんだ。宮殿と心だ。心とルーヴ
1215
ル美術館だ。心とヴェルサイユの
大噴水だ。羊飼い女にも公爵夫人
のような様子をさせることだ。矢
車草を頭にいただいてるフィリス
にも十万フランの年金をつけるこ
とだ。大理石の柱廊の下に目の届
いなかげしき
く限り田舎景色をひろげることだ。
田舎景色もいいし、また大理石と
黄金との美観もいい。幸福だけの
幸福はパンばかりのようなものだ。
1216
食えはするがごちそうにはならな
い。むだなもの、無用なもの、よ
けいなもの、多すぎるもの、何の
役にも立たないもの、それがわし
は好きだ。わしはストラスブール
グの大会堂で見た時計を覚えてい
る。それは四階建ての家ほどある
大きな時計で、時間を教えてもい
たが、親切にも時間を教えてはい
たが、そのためにばかり作られた
1217
ものではなさそうだった。正午や
ま夜中や、太陽の時間である昼の
十二時や、恋愛の時間である夜の
十二時や、そのほかあらゆる時間
を報じたあとで、種々なものを出
してみせた。月と星、陸と海、小
鳥と魚、フォイボスとフォイベ
︵訳者注 太陽の神と月の神︶、
へきがん
また壁龕から出て来るたくさんの
もの、十二使徒、皇帝カルル五世、
1218
エポニーネとサビヌス︵訳者注 ローマ人の覊絆からゴール族を脱
せしめんと企てた勇士夫婦︶、そ
の上になお、ラッパを吹いてる金
色の子供もたくさんいた。そのた
びごとになぜともなく空中に響き
渡らせる楽しい鐘の音は、言うま
でもないことだ。ただ時間だけを
告げる素裸のみじめな時計が、そ
れと肩を並べることができようか
1219
ね。わしはな、ストラスブールグ
の大時計の味方だ。シュワルツワ
ほととぎす
ルト︵黒森山︶の杜鵑の声を出す
だけの目ざまし時計より、それの
方がずっとよい。﹂
ジルノルマン氏は特に、結婚式
へりくつ
のことについて屁理屈を並べてい
た。彼の賛辞のうちには十八世紀
の事柄がやたらにはいってきた。
﹁お前たちは儀式の方法を心得て
1220
いない。近ごろの者は喜びの日を
どうしていいかよく知らないの
だ。﹂と彼は叫んだ。﹁お前たち
の十九世紀は柔弱だ。過分という
ことがない。金持ちをも知らなけ
れば、貴族をも知らない、何事に
もいがぐり頭だ。お前たちのいわ
ゆる第三階級というものは、無味、
無色、無臭、無形だ。家を構える
中流市民階級の夢想は、自分で高
1221
さらさ
言してるように、新しく飾られた
したん
紫檀や更紗のちょっとした化粧部
屋にすぎない。さあお並び下さい、
しまりやさんがけちけち嬢さんと
結婚致します、といったような具
合だ。そのぜいたくや華美として
ろうそく
は、ルイ金貨を一つ蝋燭にはりつ
けるくらいのものだ。十九世紀と
はそんな時代なんだ。わしはバル
チック海の向こうまでも逃げてゆ
1222
きたいほどだ。わしは既に一七八
七年から、何もかもだめになった
と予言しておいた。ローアン公爵
やレオン大侯やシャボー公爵やモ
ンバゾン公爵やスービーズ侯爵や
顧問官トゥーアル子爵が、がた馬
車に乗ってロンシャンの競馬場に
行くのを見た時からだ。ところが
み
果たしてそれは実を結んだ。この
世紀ではだれでも皆、商売をし、
1223
もう
相場をし、金を儲け、そしてしみっ
たれてる。表面だけを注意して塗
せっけん
ぬぐ
り立ててる。おめかしをし、洗い
そ
す
くつずみ
立て、石鹸をつけ、拭いをかけ、
ひげ
髯を剃り髪を梳き、靴墨をつけ、
は け
てかてかさし、みがき上げ、刷毛
をかけ、外部だけきれいにし、一
点のほこりもつけず、小石のよう
に光らし、用心深く、身ぎれいに
いろおんな
してるが、一方では情婦をこしら
1224
こえだめ
ちりだめ
えて、手鼻をかむ馬方でさえ眉を
しか
顰むるような、肥料溜や塵溜を心
の底に持っている。わしは今の時
代に、不潔な清潔という題辞を与
えてやりたい。なにマリユス、怒っ
てはいけないよ。わしに少し言わ
してくれ。別に民衆の悪口を言う
んじゃない。お前のいわゆる民衆
のことなら十分感心してるのだが、
中流市民を少しばかりたたきつけ
1225
てやるのはかまわんだろう。もち
ろんわしもそのひとりだ。よく愛
むち
する者はよく鞭うつ。そこでわし
はきっぱりと言ってやる。今日で
は、人は結婚をするが結婚の仕方
を知らない。まったくわしは昔の
風習の美しさが惜しまれる。すべ
にんき
てが惜しまれる。その優美さ、仁
ょう
侠さ、礼儀正しい細やかなやり方、
いずれにも見らるる愉快なぜいた
1226
くさ、すなわち、上は交響曲から
下は太鼓に至るまで婚礼の一部と
こうた
なっていた音楽、舞踊、食卓の楽
うが
しい顔、穿ちすぎた恋歌、小唄、
花火、打ち解けた談笑、冗談や大
騒ぎ、リボンの大きな結び目。そ
くつしたど
れから新婦の靴下留めも惜しまれ
る。新婦の靴下留めは、ヴィーナ
い と こ ど う し
スの帯と従姉妹同士だ。トロイ戦
争は何から起こったか? ヘレネ
1227
の靴下留めからではないか。なぜ
人々は戦ったか、なぜ神のような
ディオメーデはメリオネスが頭に
いただいてる十本の角のある青銅
かぶと
の大きな兜を打ち砕いたか、なぜ
やり
アキレウスとヘクトルとは槍で突
き合ったか? それも皆ヘレネが
靴下留めにパリスの手を触れさし
たからではないか。コゼットの靴
下留めからホメロスはイリアード
1228
をこしらえるだろう。その詩の中
じょうぜつ
にわしのような饒舌な老人を入れ
て、それをネストルと名づけるだ
ろう。昔はね、愛すべき昔では、
人は賢い婚礼をしたものだ。りっ
ぱな契約をし、次にりっぱなごち
そうをしたものだ。キュジャスが
出てゆくとガマーシュがはいって
きたものだ︵訳者注 前者は法律
学者の典型にて、後者はドン・キ
1229
ホーテの一※話中に出てくる婚礼
の大馳走をする田舎者︶。という
やつ
のも、胃袋というものは愉快な奴
で、自分の分け前を求め、自分も
また婚礼をしようとするからだ。
皆よく食ったし、また食卓では、
胸当てをはずして適宜にえりを開
いてる美人と隣合ってすわったも
のだ。皆大きく口をあいて笑うし、
あの時代は実に愉快な者ばかりだっ
1230
た。青春は花輪だった。若い男は
ば ら
皆、ライラックの一枝か薔薇の一
握りかを持っていた。軍人までも
皆羊飼いだった。たとい竜騎兵の
将校でも、フロリアン︵訳者注 十八世紀の後半の寓話作者︶と人
から呼ばるる術を心得ていた。皆
ひぎぬ
きれいに着飾るように心掛けてい
ししゅう
た。刺繍をつけ緋絹をつけていた。
市民は花のようだったし、侯爵は
1231
きゃはんど
宝石のようだった。脚絆留めをつ
ながぐつ
けたり長靴をつけたりはしなかっ
つやつや
た。はなやかで、艶々しく、観世
えびちゃいろ
模様をつけ、蝦茶色ずくめで、軽
きゃしゃ
快で、華奢で、人の気をそらさな
いが、それでもなお腰には剣を下
くちばし つめ
げていた。蜂雀も嘴と爪とを持っ
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
てるものだ。優美なる藍色服の人々
の時代だった。その時代の一面は
繊麗であり、一面は壮麗だった。
1232
そして人々は遊び戯れていたもの
だ。ところが今日ではだれも皆ま
じめくさってる。市民はけちで貞
節ぶってる。お前たちの世紀は不
幸なものだ。あまり首筋を出しす
ぎてると言っては優美の女神を追
いやっている。あわれにも、美し
さをも醜さと同じように包み隠し
てる。革命から後は、だれでもズ
こ
ボンをはくようになった、踊り娘
1233
までそうだ。道化女もまじめくさ
り、リゴドン踊りも理屈っぽくなっ
あご
てる。威儀を正してなけりゃいけ
えりかざ
ない。襟飾りの中に頤を埋めてい
なけりゃ気を悪くされる。結婚し
ようとする二十歳の小僧の理想は、
ロアイエ・コラール氏︵訳者注 立憲王党派の謹厳なる学者︶のよ
うになろうということだ。そして
お前たちは、そういう威容をばか
1234
り保ってついにどうなるか知って
わいしょう
るのか。ただ矮小になるばかりだ。
よく覚えておくがいい、快活は単
に愉快であるばかりでなく、また
偉大である。だから快活に恋をす
るがいい。結婚するなら、熱情と
無我夢中と大騒ぎと混沌たる幸福
とをもって結婚するがいい。教会
堂でしかつめらしくしてるのもよ
み さ
いが、弥撒がすんだら、新婦のま
1235
うずま
わりに夢の渦巻きを起こさしてや
るがいい。結婚は堂々としていて
ほうし
しかも放恣でなくちゃいかん。ラ
ンスの大会堂からシャントルーの
堂まで練り歩かなくちゃいかん。
元気のない婚礼は思ってもいやだ。
少なくともその当日だけは、オリ
ンポスの殿堂にはいった気でなく
てはね。神々になった気でなくて
はね。ああみんなして、空気の精
1236
や遊びの神や笑いの神や銀楯の精
兵などになるがいい。小鬼になる
がいい。結婚したての者は皆アル
ドブランディニ侯︵訳者注 十七
世紀の初めに見いだされた華麗な
結婚図の古い壁画の主人公︶のよ
うでなくちゃいけない。生涯にた
だ一度のその機会に乗じて、白鳥
や鷲と共に火天まで舞い上がって
いくんだ。そして翌日また中流市
1237
かえる
民の蛙の中に落ちてこないですむ
ようにしなくちゃいけない。結婚
について倹約したり、その光輝を
そぐようなことをしてはいけない。
光栄の日にけちけちするものでは
ない。婚礼は世帯ではない。わし
の思いどおりにやれたら、実にみ
やびなものになるんだがな。木立
ちの中にはバイオリンの音を響か
してやる。計画と言っては、空色
1238
と銀だ。儀式には田野の神々をも
並べてみせる。森の精や海の精を
も招きよせてみせる。アンフィト
リテ︵訳者注 海の女神︶の婚礼、
ばらいろ
薔薇色の雲、髪を結わえた素裸の
水の精ども、女神に四行詩をささ
げるアカデミー会員、海の怪物に
引かれた馬車。
トリトン︵海の神︶は先に駆
ほ ら
けりつ、法螺の貝もて
1239
人皆を歓喜せしむる楽を奏し
ぬ。
これが儀式の目録だ、目録の一つ
だ。さもなくばわしはもう何にも
知らん、断じて!﹂
祖父が叙情詩熱に浮かされて、
自ら自分の言葉に耳を傾けてる間
に、コゼットとマリユスとは自由
こうこつ
に顔を見合わして恍惚としていた。
お ば
ジルノマン伯母はいつもの平然
1240
たる落ち着きでそれらのことをな
がめていた。彼女は五、六カ月以
来、ある程度までの感動を受けた。
マリユスが戻ってきたこと、血に
ぼうさい
まみれて運ばれてきたこと、防寨
から運ばれてきたこと、死にかかっ
ていたが次に生き返ったこと、祖
父と和解したこと、婚約したこと、
貧乏な女と結婚すること、分限者
の女と結婚すること。六十万フラ
1241
ンは彼女の最後の驚きだった。そ
れから最初の聖体拝領の時のよう
な無関心さがまた戻ってきた。彼
女は欠かさず教会堂の祭式に列し、
きとうしょ
大念珠をつまぐり、祈祷書を読み、
・ ・ ・ ・ ・ ・
家の片すみで人々がわれ汝を愛す
・ ・ ・
をささやいてる間に、他の片すみ
・ ・ ・
でアヴェ・マリアをささやき、そ
ばくぜん
してマリユスとコゼットとを漠然
と二つの影のようにながめていた。
1242
しかし実際彼女の方が影の身であっ
た。
ある惰性的な苦行の状態がある
ま ひ
もので、その時人の魂は麻痺して
中性となり、世話事とも言い得る
すべてのことに無関心となり、地
震や大変災などを除いては、何事
にも何ら人間らしい感銘を受くる
ことなく、何ら楽しい感銘をも苦
しい感銘をも受くることがなくな
1243
る。ジルノルマン老人は娘にこう
言った。﹁そういう帰依の状態は、
はなかぜ
鼻感冒と同じものだ。お前は人間
のにおいを少しも感じない。悪い
においも良いにおいも感じない。﹂
その上、六十万フランの金は、
どうでもいいという気を老嬢に起
こさした。父はいつも彼女をあま
り眼中においていなかったので、
マリユスの結婚承諾についても彼
1244
女に相談をしなかった。例のとお
り熱狂的な行動を取り、奴隷となっ
た専制者の態度で、ただマリユス
を満足させようという一つの考え
しか持っていなかった。伯母につ
いては、伯母が実際そこにいるか
どうか、伯母が何かの意見を持っ
てるかどうか、それを彼は考えて
もみなかった。彼女はきわめて温
順ではあったが、そのために多少
1245
気を悪くした。そして内心では少
し不満を覚えながら、表面は冷然
として、自ら言った。﹁父はひと
りで結婚問題をきめてしまったの
だから、私もひとりで遺産の問題
をきめてしまおう。﹂実際彼女は
財産を持っていたが、父は財産を
持たなかった。それで彼女は、そ
こに自分の決心をおいていた。結
婚するふたりが貧乏だったら貧乏
1246
おい
のままにしておいてやれ、甥には
めと
お気の毒様だ、一文なしの女を娶
るなら彼も一文なしになるがいい。
ところがコゼットの持っている百
お ば
万の半ば以上の金は、伯母の気に
入った、ふたりの恋人に対する心
持ちを変えさした。六十万と言え
ば尊敬に価するものである。そし
て明らかに彼女は、若いふたりに
もう金の必要がなくなった以上、
1247
彼らに自分の財産を与えてやるよ
りほかにしようがなくなったので
ある。
新夫婦は祖父の所に住むことに
話がまとまっていた。ジルノルマ
へや
ン氏は家で一番美しい自分の室を
是非とも彼らに与えようと思って
・ ・ ・
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
いた。彼はこう言った。﹁それで
・ ・ ・ ・ ・ ・
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
わしも若返る。元から考えていた
・ ・ ・
ことだ。わしはいつも自分の室で
1248
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
結婚式を行ないたいと思っていた
・ ・
んだ。﹂彼はその室に、優美な古
い珍品をやたらに備えつけた。ま
た天井と壁には大変な織物を張ら
ひとかま
せた。それは彼が一機そっくり持っ
しゅす
ていて、ユトレヒト製だと思って
きんぽうげいろ
るもので、毛莨色の繻子のような
さくらそういろ
地質に蓮馨花色のビロードのよう
な花がついていた。彼は言った。
﹁ローシュ・ギヨンでアンヴィル
1249
とばり
公爵夫人の寝台の帷となっていた
のも、これと同じ織物だ。﹂また
だんろだな
彼は暖炉棚の上に、裸の腹にマッ
フをかかえてるサクソニー製の人
形を一つ据えた。
ジルノルマン氏の図書室は弁護
士事務室となった。読者の記憶す
るとおり、弁護士たる者は組合評
議員会の要求によって事務室を一
つ持っていなければならなかった
1250
ので、マリユスにもその必要があっ
たのである。
七 幸福のさなかに浮
かびくる幻
ふたりの恋人は毎日顔を合わし
ていた。コゼットはいつもフォー
シュルヴァン氏と共にやってきた。
ジルノルマン嬢は言った。﹁こん
1251
なふうに嫁さんの方からきげんを
取られに男の家へやって来るのは、
まるでさかさまだ。﹂けれどもマ
リユスはまだ回復期にあったし、
い す
フィーユ・デュ・カルヴェール街
ひじか
の肱掛け椅子はオンム・アルメ街
わらいす
の藁椅子よりもふたりの差し向か
いに好都合だったので、自然とコ
ゼットの方からやって来る習慣に
なったのである。マリユスとフォー
1252
シュルヴァン氏とは絶えず会って
いたが、話をし合うことはあまり
なかった。自然とそういうふうに
黙契ができたかのようだった。娘
にはすべて介添えがいるものであ
る。コゼットはフォーシュルヴァ
ン氏といっしょでなければやって
こられなかったろう。しかしマリ
ユスにとっては、コゼットあって
のフォーシュルヴァン氏であった。
1253
彼はフォーシュルヴァン氏をとに
かく迎えていた。かくて彼らは、
万人の運命を一般に改善するとい
う見地から政治上の事柄を、微細
ばくぜん
にわたることなく漠然と話題に上
せて、しかりもしくは否というよ
りも多少多くの口をきき合うこと
もあった。一度マリユスは、教育
というものは無料の義務的なもの
になして、あらゆる形式の下に増
1254
加し、空気や太陽のように万人に
惜しまず与え、一言にして言えば、
民衆全体が自由に吸入し得らるる
ようにしなければいけないという、
平素の持論を持ち出したが、その
時ふたりはまったく意見が合って、
ほとんど談話とも言えるくらい口
をきき合った。そしてフォーシュ
ルヴァン氏がよく語りしかもある
程度まで高尚な言葉を使うのを、
1255
マリユスは認めた。けれども何か
が欠けていた。フォーシュルヴァ
ン氏には普通の人よりも、何かが
足りなくまた何かが多すぎていた。
マリユスは頭の奥でひそかに、
自分に向かっては単に親切で冷然
たるのみのフォーシュルヴァン氏
に対して、あらゆる疑問をかけて
みた。時とすると、自分の思い出
にさえ疑いをかけてみた。彼の記
1256
憶には、一つの穴、暗い一点、四
ひんし
カ月間の瀕死の苦しみによって掘
しんえん
られた深淵が、できていた。多く
のことがその中に落ち込んでいた。
そのために、かくまじめな落ち着
いた人物であるフォーシュルヴァ
ぼうさい
ン氏を防寨の中で見たというのは、
果たして事実だったろうかと自ら
疑ってみた。
もとより、過去の明滅する幻が
1257
彼の脳裏に残したものは、単なる
ぼうぜん
惘然さのみではなかった。幸福中
ちんうつ
にもまた満足中にも人をして沈鬱
に後方をふり返り見させる記憶の
てんめん
纒綿から、彼が免れていたと思っ
てはいけない。消えうせた地平線
の方をふり返り見ない頭には、思
想もなければ愛もないものである。
時々マリユスは両手で頭をおおっ
た。そして騒然たるおぼろな過去
1258
よ
が、彼の脳裏の薄ら明りの中を過
ぎっていった。彼はマブーフが倒
さんだん
れる所を再び見、霰弾の下に歌を
歌ってるガヴローシュの声を聞き、
くちびる
エポニーヌの額の冷たさを脣の下
に感じた。アンジョーラ、クール
フェーラック、ジャン・プルー
ヴェール、コンブフェール、ボシュ
エ、グランテール、などすべての
友人らが、彼の前に立ち現われ、
1259
次いでまた消えうせてしまった。
それらの、親しい、悲しい、勇敢
な、麗しい、あるいは悲壮な者ら
は、皆夢であったのか? 彼らは
実際存在していたのか? 暴動は
すべてを硝煙のうちに巻き込んで
しまっていた。それらの大なる苦
熱は大なる幻を作り出す。彼は自
ら問い、自ら憶測し、消えうせた
げんうん
それらの現実に対して眩暈を感じ
1260
た。彼らは皆どこにいるのか。皆
死んでしまったというのは真実で
あるか。彼を除いたすべての者は
暗黒の中に墜落してしまっていた。
それはあたかも芝居の幕のうしろ
に隠れたことのように彼には思わ
れた。人生にもかく幕のおりるこ
とがある。神は次の場面へと去っ
てゆく。
そして彼自身は、やはり同じ人
1261
間なのか。貧しかったのに富有と
なった。孤独だったのに家庭の人
となった。望みを失ってたのにコ
めと
ゼットを娶ることとなった。彼は
墳墓を通ってきたような気がした。
暗黒な姿で墳墓にはいり込み、純
白な姿でそこから出てきたような
気がした。しかもその墳墓の中に、
他の者は皆残ってるのである。あ
る時には、それら過去の人々がま
1262
た現われてき、彼の周囲に立ち並
いんうつ
んで彼を陰鬱になした。その時彼
はコゼットのことを考えて、また
心が朗らかになるのだった。その
災いを消散させるには、コゼット
を思う幸福だけで充分だった。
フォーシュルヴァン氏もそれら
消えうせた人々のうちにほとんど
ぼうさい
はいっていた。防寨にいたフォー
シュルヴァン氏が、肉と骨とをそ
1263
なえまじめな顔をしてコゼットの
そばにすわってるこのフォーシュ
ルヴァン氏と同一人であるとは、
マリユスには信じ難かった。第一
こんめい
の方はおそらく、長い間の昏迷の
うちに現滅した悪夢の一つであろ
う。その上、ふたりともきわめて
謹厳な性格だったので、マリユス
はフォーシュルヴァン氏に向かっ
ただ
て何か聞き糺すこともでき難かっ
1264
ただ
た。聞き糺してみようという考え
さえ彼には浮かばなかった。ふた
りの間のそういう妙なへだたりは、
前に既に指摘しておいたとおりで
ある。
ふたりとも共通の秘密を持って
いながら、一種の黙契によって、
そのことについては互いに一言も
交じえない。そういう事実は案外
たくさん世にあるものである。
1265
ただ一度、マリユスは探りを入
れてみたことがあった。彼は会話
の中にシャンヴルリー街のことを
持ち出して、フォーシュルヴァン
氏の方へ向きながら言った。
ま ち
﹁あなたはあの街路をよく御存じ
でしょうね。﹂
﹁どの街路ですか。﹂
﹁シャンヴルリー街です。﹂
﹁そういう名前については別に何
1266
の考えも浮かびませんが。﹂と
フォーシュルヴァン氏は最も自然
らしい調子で答えた。
答えは街路の名前についてであっ
て、街路そのものについてではな
かったが、それでもマリユスはよ
く了解できるような気がした。
﹁まさしく自分は夢をみたのだ。﹂
とマリユスは考えた。﹁幻覚を起
こしたのだ。だれか似た者がいた
1267
のだろう。フォーシュルヴァン氏
はあすこにいたのではない。﹂
ゆくえ
八 行方不明のふたり
の男
歓喜の情はきわめて大きかった
けれども、マリユスの他の気がか
りを全然消すことはできなかった。
結婚の準備が整えられてる間に、
1268
定まった日を待ちながら、彼は人
せんさく
を使って困難な既往の穿鑿を細密
になさした。
彼は諸方面に恩を被っていた。
父のためのもあれば、自分自身の
ためのもあった。
まずテナルディエがいた。また
彼マリユスをジルノルマン氏のも
とへ運んでくれた未知の人がいた。
マリユスはそのふたりの者を探
1269
し出そうとつとめた。結婚し幸福
になって彼らのことを忘れようと
は思わなかった。その恩を報じな
ければ、これから光り輝いたもの
となる自分の生活に影がさしはし
ないかを恐れた。その負債をいつ
までも遅滞さしておくことは彼に
はできなかった。楽しく未来には
いってゆく前に過去の負いめを皆
済ましたいと願った。
1270
たといテナルディエは悪漢であ
ろうとも、そのためにポンメルシー
大佐を救ったという事実を少しも
曇らせはしなかった。テナルディ
エは世の中のだれにとっても一個
の盗賊だったが、マリユスにとっ
てだけはそうでなかった。
そしてマリユスは、ワーテルロー
の戦場の実景についてはまったく
無知だったので、父はテナルディ
1271
エに対して、生命の恩にはなって
るが感謝の義務はないという妙な
地位に立ってる特別の事情を、少
しも知らなかった。
マリユスは種々の人に頼んだが、
ゆくえ
だれもテナルディエの行方をさが
しあてることはできなかった。そ
そうせき
の踪跡はまったくわからなくなっ
てるらしかった。テナルディエの
女房は予審中に監獄で死んでいた。
1272
その嘆かわしい一家のうちで生き
残ってるのはテナルディエと娘の
アゼルマだけだったが、ふたりと
も暗黒の中に没し去っていた。社
しんえん
会の不可知なる深淵は再び黙々と
とざ
して彼らの上を鎖していた。その
深淵の面には、何かが陥ったこと
おもり
を示してくれ、また錘を投ずべき
場所を示してくれるような、揺る
ぎや、震えや、かすかな丸い波紋
1273
さえも、もはや見られなくなって
いた。
テナルディエの女房は死に、ブー
ラトリュエルは免訴となり、クラ
クズーは消えうせ、おもな被告は
脱走してしまったので、ゴルボー
屋敷の待ち伏せの裁判はほとんど
くう
空に終わってしまった。事件はか
あいまい
なり曖昧のままになっていた。重
罪裁判廷はふたりの従犯人で満足
1274
しなければならなかった。すなわ
ちパンショー一名プランタニエ一
名ビグルナイユとドゥミ・リアー
ル一名ドゥー・ミリアールとであっ
て、ふたりとも審理の上十年の徒
刑に処せられた。脱走した不在の
共犯人らに対しては、無期徒刑が
宣告された。頭目であって主犯者
たるテナルディエは、同じく欠席
裁判所によって死刑を宣告された。
1275
テナルディエに関して世に残って
ろうそく
るものは、その宣告だけで、あた
ひつぎ
かも柩のそばに立ってる蝋燭のよ
せい
うに、彼の葬られた名前の上に凄
さん
惨な光を投じていた。
その上この処刑は、再び捕縛さ
れる恐れのためにテナルディエを
最後の深みへ追いやってしまった
ので、彼をおおう暗黒をいっそう
深からしめるのみだった。
1276
もひとりの男に関しては、すな
わちマリユスを救ってくれた無名
の男に関しては、初めのうち多少
捜索の結果が上がったけれど、そ
れから急に行き止まってしまった。
すなわち、六月六日の夜フィーユ・
デュカルヴェール街へマリユスを
つじばしゃ
乗せてきた辻馬車を見いだすこと
ができた。その御者の言うところ
はこうであった。六月六日、シャ
1277
だいこうきょ
ン・ゼリゼー川岸通りの大溝渠の
出口の上で、午後の三時から夜ま
で、ある警官の命令で彼は﹁客待
てつごうしぐ
ち﹂をしていた。午後の九時ごろ、
みぎわ
川の汀についてる下水道の鉄格子
ち
口が開いた。ひとりの男がそこか
ら出てきて、死んでるらしい他の
男を肩にかついでいた。そこに番
をしていた警官は、生きている男
を捕え、死んでいる男を押さえた。
1278
警官の命令で、御者は﹁その人た
ち﹂を馬車に乗せた。最初フィー
ユ・デュ・カルヴェール街へ行っ
た。死んでる男はそこでおろされ
た。その死んでる男というのはマ
リユス氏であった。﹁こんどは﹂
生きていたけれども、御者は確か
に見覚えていた。それからふたり
はまた彼の馬車に乗った。彼は馬
むち
に鞭をあてた。古文書館の門から
1279
数歩の所で、止まれと声をかけら
れた。その街路で彼は金をもらっ
て返された。警官はもひとりの男
をどこかへ連れて行った。それ以
上のことは少しも知らない。その
晩は非常に暗かった。
前に言ったとおり、マリユスは
ぼうさい
何にも覚えていなかった。防寨の
中であおむけに倒れかかる時背後
から力強い手でとらえられたこと
1280
だけを、ようやく思い出した。そ
れから何にもわからなくなった。
意識を回復したのはジルノルマン
氏の家においてだった。
彼は推測に迷った。
御者の言う男が彼自身であるこ
とは疑いなかった。けれども、シャ
ンヴルリー街で倒れてアンヴァリー
みぎわ
ド橋近くのセーヌ川の汀で警官か
ら拾い上げられたとは、どうした
1281
のであったろうか。だれかが彼を
市場町からシャン・ゼリゼーまで
運んでくれたには違いなかった。
だがどうして? 下水道を通って
か。それにしては驚くべき献身的
な行為である。
だれかしら。だれだろうか?
マリユスがさがしてるのはその
男であった。
彼の救い主であるその男につい
1282
そう
ては、何にもわからず、何らの踪
せき
跡もなく、少しの手掛かりもなかっ
た。
マリユスは警察の方には内々に
せざるを得なかったが、それでも
ついに警視庁にまで探索を進めて
みた。しかしそこでも他の所と同
じく、何ら光明ある消息は得られ
つじばしゃ
なかった。警視庁では辻馬車の御
者ほどもその事件を知っていなかっ
1283
だいこうきょ
とびら
た。六月六日大溝渠の鉄の扉の所
でなされた捕縛などということは
少しも知られていなかった。その
件については何ら警官の報告も届
いていなかった。警視庁ではそれ
ねつ
を作り話だと見なした。それを捏
ぞう
造したのは御者だとされた。御者
というものは、少し金をもらいた
いと思えば何でもやる、想像の話
でもこしらえる。とは言うものの、
1284
その事柄はいかにも確からしかっ
た。マリユスはそれを疑い得なかっ
た。少なくとも、上に述べたとお
り、自分がその男だということは
疑い得なかった。
その不思議な謎においてはすべ
てが不可解だった。
てつごうしぐち
その男、気絶したマリユスをか
だいこうきょ
ついで大溝渠の鉄格子口から出て
来るのを御者が見たというその不
1285
思議な男、ひとりの暴徒を救助し
てる現行を見張りの警官から押さ
えられたというその不思議な男、
彼はいったいどうなったのか? 警官自身はどうなったのか? な
ぜその警官は口をつぐんでいたの
であろうか。男はうまく逃走して
しまったのであろうか。彼は警官
を買収したのであろうか。マリユ
スがあらん限りの恩になってるそ
1286
の男は、なぜ生きてるしるしだに
伝えてこなかったのか。その私心
のない行ないは、その献身的な行
ないにも劣らず驚くべきものだっ
た。なぜその男は再び出てこなかっ
たのか。おそらく彼はいかなる報
酬を受けてもなお足りなかったの
かも知れないが、しかしだれも感
謝を受けて不足だとするはずはな
い。彼は死んだのであろうか、ど
1287
ういう人であったろうか、どうい
う顔をしていたのか? それを言
い得る者はひとりもなかった。そ
の晩は非常に暗かったと御者は答
えた。バスクとニコレットとはすっ
ろうばい
かり狼狽して、血にまみれた若主
人にしか目を注がなかった。ただ、
ろうそく
マリユスの悲惨な帰着を蝋燭で照
らしていた門番だけが、問題の男
の顔をながめたのであるが、その
1288
語るところはこれだけだった、
﹁その人は恐ろしい姿だった。﹂
マリユスは探査の助けにもと思っ
て、祖父のもとへ運ばれてきた時
身につけていた血に染んだ服をそ
のまま取って置かした。上衣を調
すそ
べてみると、裾が妙なふうに裂け
ていた。その一片がなくなってい
た。
ある晩マリユスは、その不思議
1289
なできごとや、試みてみた数限り
ない探査や、あらゆる努力が無効
に終わったことなどを、コゼット
とジャン・ヴァルジャンとの前で
話した。ところが﹁フォーシュル
ヴァン氏﹂の冷淡な顔つきは彼を
いら立たした。彼はほとんど憤怒
の震えを帯びてる強い調子で叫ん
だ。
﹁そうです、その人はたといどん
1290
な人であったにせよ、崇高な人で
す。あなたはその人のしたことが
わかりますか。その人は天使のよ
うにやってきたのです。戦いの最
中に飛び込んでき、私を奪い去り、
ふた
下水道の蓋をあけ、その中に私を
引きずり込み、私をになって行か
なければならなかったのです。恐
ろしい地下の廊下を、頭をかがめ、
身体を曲げ、暗黒の中を、汚水の
1291
中を、一里半以上も、背に一つの
しがい
死骸をになって一里半以上も、歩
かなければならなかったのです。
しかも何の目的でかと言えば、た
だその死骸を救うということだけ
です。そしてその死骸が私だった
のです。彼はこう思ったのでしょ
う。まだおそらく生命の影が残っ
てるらしい、このかすかな生命の
と
ために自分一身を賭してみようと。
1292
しかも彼は自分の一身を、一度だ
けではなく幾度も危険にさらした
のです。進んでゆく一歩一歩が皆
危険だったのです。その証拠には、
下水道を出るとすぐに捕えられた
のでもわかります。どうです、彼
はそれだけのことをやったのです。
しかも何らの報酬をも期待しては
いなかったのです。私は何者だっ
たのでしょう、ひとりの暴徒にす
1293
ぎなかったのです、ひとりの敗北
者にすぎなかったのです。ああ、
もしコゼットの六十万フランが私
のものであったら⋮⋮。﹂
﹁それはあなたのものです。﹂と
ジャン・ヴァルジャンはさえぎっ
た。
﹁そうなれば、﹂とマリユスは言っ
た、﹁あの人を見つけ出すために
私はそれを皆投げ出してもかまい
1294
ません。﹂
ジャン・ヴァルジャンは黙って
いた。
1295
第六編 不眠の夜
一 一八三三年二月十
六日
一八三三年二月十六日から十七
日へかけた夜は、祝福されたる夜
であった。夜の影の上には天が開
けていた。マリユスとコゼットと
1296
の結婚の夜だった。
その日は実に麗しい一日だった。
それは祖父が夢想したような空
色の祝典ではなく、新郎新婦の頭
上に天使や愛の神が飛び回る夢幻
的な祝いではなく、門の上に美し
い彫刻帯をつけるのにふさわしい
結婚ではなかった。しかしそれは
ほほえ
楽しい微笑んでる一日だった。
一八三三年の結婚式のありさま
1297
は、今日とは非常に異なっていた。
新婦を連れ、教会堂から出るとす
ぐに逃げ出し、自分の幸福をはず
かしがって身を隠し、破産者のよ
うに人を避ける様子とソロモンの
賛歌のような歓喜とを一つにする
という、あのイギリスふうの雅致
は、まだフランスに行なわれてい
なかった。その楽園を駅馬車の動
きし
揺に任し、その神秘を馬車の軋る
1298
はたごや
音で貫かせ、旅籠屋の寝床を結婚
の床とし、そして一生のうちの最
も神聖な思い出を、駅馬車の車掌
や宿屋の女中などと差し向かいに
なった光景に交じえながら、一晩
だけの卑俗な寝床に残してくると
いう、そういうやり方のうちに、
貞節な微妙な謹直な何かがあるこ
とは、まだ了解されていなかった。
現今十九世紀の後半においては、
1299
区長とその飾り帯、牧師とその法
衣、法律と神、それだけでは足り
なくなっている。それに加うるに、
ロンジュモーの御者︵訳者注 美
声を持ったある駅馬車の御者が結
婚の間ぎわに女をすててオペラ役
者になって浮かれ歩くという歌劇
中の人物︶をもってしなければな
らない。赤い縁取りと鈴ボタンの
ついてる青い上衣、延べ金の腕章、
1300
緑皮の股衣、尾を結んだノルマン
ディー馬への掛け声、にせの金モー
なが
ル、塗り帽子、髪粉をつけた変な
むち
頭髪、大きな鞭、および丈夫な長
ぐつ
靴。けれどもフランスではまだ、
イギリスの貴族がするように、新
郎新婦の駅馬車の上に底のぬけた
上靴や破れた古靴などをやたらに
投げつけるほど、優美のふうが進
んではいない。その風習は、結婚
1301
の当日伯母の怒りを買って古靴を
ぎょうこう
投げつけられたのがかえって僥倖
になったという、マールボルーあ
るいはマルブルーク公となった
チャーチル︵訳者注 十八世紀は
じめのイギリスの将軍でおどけ唄
の主人公として伝説的の人物となっ
た人︶に由来するものである。そ
ういう古靴や上靴は、まだフラン
スの結婚式にははいってきていな
1302
い。しかし気長に待つがいい。い
わゆるいい趣味はだんだんひろがっ
てゆくもので、やがてはそれも行
なわれるようになるだろう。
一八三三年には、また百年以前
には、馬車を大駆けにさせる結婚
式などというものは行なわれてい
なかった。
変に思われるかも知れないが、
その頃の人の考えでは、結婚とい
1303
おおやけ
うものはごく打ち解けた公の祝い
じゅんぼく
であり、淳朴な祝宴は家庭の尊厳
を汚するものではなく、たといそ
みだ
のにぎわいは度を越えようと、猥
らなものでさえなければ、少しも
幸福の妨げとなるものではないと
され、また、やがて一家族が生ま
れいずべきふたりの運命の和合を
どうせい
へや
まず家の中で始め、同棲生活がそ
くさび
の楔として長く結婚の室を有する
1304
ことは、至って尊い善良なことだ
とされていた。
そして人々は、不謹慎にも自宅
で結婚をしたのである。
マリユスとコゼットとの結婚も、
すた
現今廃っているその風習に従って、
ジルノルマン氏の家でなされた。
教会堂に掲示すべき予告、正式
の契約書、区役所、教会堂、それ
ら結婚上の仕事はごく当然な普通
1305
なことではあるが、いつも多少の
面倒をきたすものである。そして
二月十六日まででなければすっか
り準備ができ上がらなかった。
しかるに、われわれはただ正確
を期するためにこの一事を言うの
であるが、十六日はちょうど謝肉
祭末日の火曜日だった。それで人々
ちゅうちょ
はいろいろ躊躇したり気にかけた
お ば
りし、ことにジルノルマン伯母は
1306
ひどく心配した。
﹁謝肉祭末日なら結構だ。﹂と祖
ことわざ
父は叫んだ。﹁こういう諺がある。
謝肉祭末日の結婚ならば
謝恩を知らぬ子供はできない。
是非ともやろう。十六日にきめよ
う。マリユス、お前は延ばしたい
か。﹂
﹁いいえ、ちっとも。﹂と恋人は
答えた。
1307
﹁ではその日が結婚だ。﹂と祖父
は言った。
それで、世間のにぎわいをよそ
にして、十六日に結婚式があげら
れた。その日は雨が降った。けれ
あまがさ
ども、たとい他の者は皆雨傘の下
にいようとも、恋人らがながめる
そうてん
幸福の蒼天は、常に空の片すみに
残ってるものである。
その前日、ジャン・ヴァルジャ
1308
ンはジルノルマン氏の面前で、五
十八万四千フランをマリユスに渡
した。
結婚は夫婦財産共有法によって
なされたので、契約書は簡単だっ
た。
トゥーサンはジャン・ヴァルジャ
ンに不用となったので、コゼット
が彼女を引き取って、小間使いの
格に昇進さした。
1309
ジャン・ヴァルジャンの方は、
ジルノルマン家のうちに特に彼の
へや
ために設けられたきれいな室を提
とうさま
供された。そして、﹁お父様、ど
うかお願いですから、﹂とコゼッ
トが切に勧めるので、彼も仕方な
しに、その室に住もうというおお
よその約束をした。
結婚の定日の数日前、ジャン・
ヴァルジャンに一事が起こった。
1310
すなわち右手の親指を少し負傷し
たのである。大した傷ではなかっ
た。そして彼はそれを気にかけた
り包帯したりまたは調べてみたり
することをだれにも許さなかった、
コゼットにも許さなかった。それ
でも彼は、その手を布で結わえ、
腕を首からつらなければならなかっ
た。そして署名することができな
くなった。ジルノルマン氏がコゼッ
1311
トの後見監督人として彼の代わり
をした。
われわれは読者を区役所や教会
堂まで連れて行くことをよそう。
人は通例そこまでふたりの恋人に
ついて行くものでなく、儀式が結
婚の花束をボタンの穴にさすとす
ぐ、背を向けて立ち去るものであ
る。だからわれわれはここに一事
をしるすに止めよう。その一事は、
1312
もとより婚礼の一行からは気づか
れなかったことであるが、フィー
ユ・デュ・カルヴェール街からサ
ン・ポール教会堂までの道程の途
中で起こったものである。
しき
当時、サン・ルイ街の北端で舗
いし
石の修復がされていて、パルク・
ロアイヤル街から先は往来がふさ
がれていた。それで婚礼の馬車は
まっすぐにサン・ポールへ行くこ
1313
とができず、どうしても道筋を変
えなければならなかった。一番簡
単なのは大通りへ回り道をするこ
とだった。ところがちょうど謝肉
祭末日なので大通りには馬車がいっ
ぱいになってるだろうと、客のひ
とりは注意した。﹁なぜです?﹂
とジルノルマン氏は尋ねた。﹁仮
装行列があるからです。﹂すると
祖父は言った。﹁それはおもしろ
1314
い。そこから行きましょう。この
若い者たちは結婚して、これから
人生のまじめな方面にはいろうと
するんです。仮装会を少し見せる
のも何かのためになるでしょう。﹂
一同は大通りから行くことにし
た。第一の婚礼馬車には、コゼッ
お ば
トとジルノルマン伯母とジルノル
マン氏とジャン・ヴァルジャンと
が乗った。マリユスは習慣どおり
1315
花嫁と別になって第二の馬車に乗っ
た。婚礼の行列はフィーユ・デュ・
カルヴェール街を出るとすぐに、
マドレーヌとバスティーユの間を
往来してる絶え間のない長い馬車
の行列の中にはいり込んだ。
仮装の人々は大通りにいっぱい
になっていた。時々雨が降ったけ
れども、パイヤスやパンタロンや
ジルなどという道化者らはそれに
1316
おく
臆しもしなかった。その一八三三
年の冬の上きげんさのうちにパリー
はヴェニスの町のようになってい
た。今日ではもうそういう謝肉祭
末日は見られない。今日存在して
いるものは皆広い意味の謝肉祭で
あって、本当の謝肉祭はもはやな
くなっている。
横町は通行人でいっぱいになっ
ており、人家の窓は好奇な者でいっ
1317
ぱいになっていた。劇場の回廊の
上にある平屋根には見物人が立ち
並んでいた。仮装行列のほかにま
た、謝肉祭末日の特徴たるあらゆ
る馬車の行列が見られた。ちょう
しょうようばしゃ
ほろ
どロンシャンにおけるがように、
つじばしゃ
辻馬車、市民馬車、逍遙馬車、幌
こばしゃ
小馬車、二輪馬車、などが警察の
規則で互いに一定の距離を保ち、
あたかもレールにはめ込まれたよ
1318
うにして、整然と進んでいた。そ
れらの馬車の中にある者はだれで
も、見物人であると同時にまた人
から見物されていた。巡査らは、
平行して反対の方向へ行くその間
断なき二つの行列を、大通りの両
側に並ばせ、その二重の運行が少
しも妨げられないように、馬車の
かみて
二つの流れを、一つは上手のアン
しもて
タン大道の方へ、一つは下手のサ
1319
ン・タントアーヌ郭外の方へと、
厳重に監視していた。上院議員や
大使などの紋章のついた馬車は、
道の中央を自由に往来していた。
ある壮麗なおもしろい行列、こと
に飾り牛の行列なども、同様の特
権を持っていた。そういうパリー
の快活さのうちに、イギリスはそ
むち
の鞭を鳴らしていた、すなわちセー
あだな
モアー卿と一般に綽名されてる駅
1320
馬車は、大きな音を立てて走り過
ぎていた。
二重の行列は、羊飼いの番犬の
ように並んで駆けてる市民兵で付
き添われていたが、その中には、
じい
爺さんや婆さんたちがいっぱい乗
り込んでる正直な家族馬車が交じっ
ていて、その戸口には仮装した子
供の鮮やかな一群が見えていた。
どうけこぞう
七歳ばかりの道化小僧や六歳ばか
1321
りの道化娘らで、公然と一般の遊
楽に加わってることを感じ、道化
役者の品位と役人のしかつめらし
さとをそなえてる、愉快な少年少
女らであった。
時々、馬車の行列のどこかに混
雑が起こり、両側のどちらかの列
に結び目ができて、それが解ける
まで立ち止まることもあった。一
つの馬車に故障が起これば、それ
1322
ですぐに全線が動けなくなった。
しかしやがて行進は始まるのだっ
た。
婚礼の馬車は、バスティーユの
方へ向かって大通りの右側を進ん
でる列の中にはいっていた。とこ
ろがポン・トー・シュー街の高み
で、しばらく行列が止まった。そ
れと同時に、マドレーヌの方へ進
んでる向こう側の行列も同じく行
1323
進を止めた。そして行列のちょう
どその部分に一つの仮装馬車があっ
た。
それらの仮装馬車は、否むしろ
それらの仮装の荷物は、パリーに
なじみの深いものである。もしそ
ういう馬車が、謝肉祭末日や四旬
節中日などに見えないと、人々は
何か悪いことがあるのだと思い、
・ ・ ・ ・
互いにささやき合う。﹁何かわけ
1324
・ ・ ・ ・ ・ ・
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
があるんだな。たぶん内閣が変わ
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
るのかも知れない。﹂通行人の上
の方に揺り動かされてるたくさん
のカサンドルやアールカンやコロ
ンビーヌなどの道化、トルコ人か
ら野蛮人に至るまでありとあらゆ
る滑稽な者、侯爵夫人をかついで
るヘラクレス神、アリストファネ
み こ
スに目を伏せさせた巫女のように、
ラブレーにも耳を押さえさせるか
1325
ばらいろ
にくじゅばん
と思われるばかりの無作法な女ど
あさくず かつら
やぶにらみ
めがね
も、麻屑の鬘、薔薇色の肉襦袢、
しゃれもの
洒落者の帽子、斜眼者の眼鏡、蝶
になぶられてるジャノー︵訳者注
滑稽愚昧な人物︶の三角帽、徒
歩の者らに投げつける叫び声、腰
こぶし
にあてた拳、無作法な態度、裸の
肩、仮面をつけた顔、ほしいまま
な醜態、それから花の帽子をかぶっ
ま
た御者が撒き散らす無茶苦茶な悪
1326
口、そういうのがこの見世物のあ
りさまである。
ギリシャにはテスピスの四輪馬
車が必要であったが、フランスに
つじばしゃ
はヴァデの辻馬車が必要である。
︵訳者注 前者は悲劇の開祖たる
ギリシャ詩人、後者は通俗詩の開
祖たるフランス詩人︶
いかなるものも皆道化化され得
る、道化そのものも更に道化化さ
1327
れ得る。古代美の渋面であるサツ
ルヌス祭も、しだいに度を強めて
カルナヴァル
きてついに謝肉祭末日となってい
ぶどうづる
る。昔は葡萄蔓の冠をかぶり太陽
の光を浴び、神々しい半身裸体の
うちに大理石で造られたような乳
バッカス
房を示していた酒神祭も、今日で
は北部の湿ったぼろの下に形がく
ずれてきて、仮面行列と言われる
ようになっている。
1328
仮装馬車の風習は王政時代のご
く古くからあった。ルイ十一世の
会計報告によれば、﹁仮装辻馬車
三台のためにトールヌア貨幣二十﹂
を宮廷執事に使わせている。現今
では、それら一群の騒々しい仮装
つじばしゃ
人物らは、たいてい旧式な辻馬車
の上段にいっぱい立ち並び、ある
ほろ
いは幌をおろした市営幌馬車にが
やがやつまっている。六人乗りの
1329
い す
馬車に二十人も乗っている。椅子
ながえ
や腰掛けや幌の横や轅にまでも乗っ
ている。照灯にまたがってる者さ
えある。あるいは立ち、あるいは
寝ころび、あるいは腰をかけ、あ
すね
るいは足をねじ曲げ、あるいは脛
ひざ
をぶら下げてる。女は男の膝に腰
掛けてる。遠くから見ると、それ
らのうようよした頭が妙なピラミッ
ド形をなしている。そしてこの一
1330
馬車の者どもは、群集のまんなか
に歓喜の山となってそびえている。
コレやパナールやピロン︵訳者注
皆諧謔風刺に富んだ詩人︶など
のような言葉が、更に隠語を交じ
えてそれから流れ出る。その上方
から群集の上に、野卑な文句が投
げつけられる。できる限りたくさ
んの人を積んでるその馬車は、戦
利品のようなありさまに見える。
1331
けんそう
前部は喧騒をきわめ、後部は混雑
ほ
をきわめている。一同は怒鳴り、
わめ
き
喚き、吼え、笑い、有頂天になっ
ひ い
ている。快活の気はわき立ち、譏
し
刺は燃え上がり、陽気さは緋衣の
やせ
ようにひろがっている。二匹の痩
うま
馬は、花を開いてる滑稽を神に祭
こうしょう
り上げて引いてゆく。それは哄笑
がいせんしゃ
の凱旋車である。
その哄笑は、露骨というにはあ
1332
まりに皮肉すぎる。実際その笑い
には怪しげな気がこもっている。
それは一つの使命を帯びてるので
ある。パリー人に謝肉祭を示すの
役目を持ってるのである。
それら野卑無作法な馬車には、
何となく暗黒の気が感ぜらるるも
のであって、思索家をして夢想に
沈ませる。その中には政府がいる。
こうしょう
公人と公娼との不思議な和合がそ
1333
こにはっきりと感ぜらるる。
種々の醜悪が積み重なって一つ
の快活さを作り上げること、破廉
ひせん
恥と卑賤とを積み上げて民衆を酔
わすこと、間諜が醜業をささえる
柱となって衆人を侮辱しながらか
えって衆人を侮辱しながらかえっ
て衆人を笑わせること、金ぴかの
ぼろであり、半ば醜業と光明とで
ほ
あり、吠えまた歌っている、その
1334
つじばしゃ
生きた恐ろしい積み荷が、辻馬車
の四つの車輪に運ばれてゆくのを
見て、群集が喜ぶこと、あらゆる
恥辱でできてるその光栄に向かっ
かっさい
て、人々が手をたたいて喝采する
かい
こと、二十の頭を持った喜悦の怪
だ
蛇を自分たちのまんなかに引き回
してもらうという以外には、群集
にとって何らおもしろいにぎわい
もないということ、それは確かに
1335
悲しむべきことである。しかしど
うしたらいいのか。リボンと花と
おせん
で飾られた汚賤のそれらの車は、
公衆の笑いによって侮辱されなが
ゆる
ら赦されているではないか。すべ
ての者の笑いは、一般の堕落を助
ける。ある種の不健全なにぎわい
は、民衆を分散さして多衆となす。
そして多衆にとっては暴君にとっ
かいぎゃく
てと同じく、諧謔が必要である。
1336
国王にはロクロールがあり、人民
にはパイヤスがある︵訳者注 前
者はルイ十四世の下にいた諧謔を
もって知られし将軍、後者は卑俗
な喜劇によく出て来る一種の道化
役︶。パリーは荘厳な大都市たる
ことを止むる時には常に狂愚な大
都会となる。謝肉祭はその政治の
一部分となっている。うち明けて
言えば、パリーは好んで破廉恥な
1337
喜劇を受け容れる。もし主人があ
れば、その主人はただ一事をしか
どろ
求めない、すなわちわれに泥を塗っ
てくれと。ローマも同じ気質を持っ
ていた。ローマはネロを愛してい
た。しかるにネロは巨大なる泥塗
り人であった。
さて、前に言ったとおり、婚礼
の行列が大通りの右側に止まった
時偶然にも、仮面をつけた男女が
1338
房のようにかたまって乗り込んで
るその大きな四輪馬車の一つが、
大通りの左側に止まった。そして
仮装馬車はちょうど新婦の馬車と
大通りをはさんで向かい合った。
﹁おや!﹂と仮装のひとりが言っ
た、﹁婚礼だ。﹂
うそ
﹁嘘の婚礼だ。﹂と他のひとりが
おれ
言った。﹁本物は俺たちの方だ。﹂
そして、婚礼の列の方へ言葉を
1339
かけるには少し離れすぎていたし、
また巡査の制止の声を恐れていた
ので、仮装のふたりは他の方を向
いた。
すぐに、仮装馬車の者らはごく
あくば
忙しくなった。群集が彼らに悪罵
の声をかけ始めた。それは仮装の
者らに対する群集の愛撫である。
今言葉をかわしたふたりも、仲間
の者らといっしょに、衆人に立ち
1340
向かわなければならなかった。彼
らは道化者のあらゆる武器を持っ
あくぎゃく
ていたが、無数の人々の悪謔を相
手にして他を顧みるの余裕がなかっ
た。そして仮装の者らと群集との
かいぎゃく
間に激しく諧謔がかわされた。
そのうちに、同じ馬車に乗って
いた他の仮装のふたり、すなわち
じい
お爺さんのふうをしてばかに大き
くろひげ
な黒髭をつけてる鼻の大きなスペ
1341
イン人と、黒ビロードの仮面をつ
けてるごく若いやせたはすっぱ娘
とが、やはり婚礼の馬車に目を止
めて、仲間の者らと道行人らとが
互いに野次りかわしてる間に、低
い声で話をした。
けんそう
彼らのふたりの内緒話は、喧騒
の声に包まれて他にもれなかった。
去来する雨に、あけ放してある馬
車の中はすっかりぬれていた。そ
1342
れに二月の風はまだ寒い。スペイ
ン人に答えながら、首筋をあらわ
にしたはすっぱ娘の方は、震え笑
せき
いかつ咳をしていた。
その会話は次のとおりだった。
︵訳者注 以下の会話は隠語を交
じえたものと想像していただきた
い︶
﹁なあ、おい。﹂
とう
﹁なによ、お父さん。﹂
1343
﹁あの爺さんが見えるか。﹂
﹁どの爺さん?﹂
﹁向こうの、婚礼馬車の一番先の
に乗ってる、こちら側のさ。﹂
﹁黒い布で腕をつってる方の。﹂
﹁そうだ。﹂
﹁それがどうしたの。﹂
﹁どうも確かに見覚えがある。﹂
﹁そう。﹂
か
﹁この首を賭けてもいい、この命
1344
おれ
を賭けてもいい、俺は確かにあの
パンタン人︵パリー人︶を知って
る。﹂
﹁なるほど今日は、パリーはパン
タンだね。﹂︵訳者注 パンタン
とは小さな操り人形のことにて仮
面道化をさすのであるが、また下
層の俗語ではパリーのことをパン
タンという︶
﹁少しかがんだらお前に花嫁が見
1345
えやしないか。﹂
﹁見えない。﹂
﹁花婿の方は?﹂
﹁あの馬車には花婿はいないよ。﹂
﹁なあに!﹂
じい
﹁いないよ、もひとりの爺さんが
花婿なら知らないが。﹂
﹁とにかくよくかがんで花嫁を見
てくれ。﹂
﹁見えやしないよ。﹂
1346
﹁じゃいいさ。だが手をどうかし
てるあの爺さんを、俺は確かに知っ
てる。﹂
﹁爺さんを知ってるったって、そ
れがなにになるんだね。﹂
﹁それはわからねえ。だが時には
何かになるさ。﹂
じい
﹁あたしは爺さんなんかあまり気
には止めないよ。﹂
﹁俺はあいつを知ってる!﹂
1347
﹁勝手に知るがいいよ。﹂
﹁どうして婚礼の中に出てきたの
かな。﹂
﹁よけいなことだよ。﹂
﹁あの婚礼はどこから出たのか
な。﹂
﹁あたしが知るもんかね。﹂
﹁まあ聞けよ。﹂
﹁なに?﹂
﹁ちょっと頼まれてくれ。﹂
1348
﹁なにを?﹂
﹁馬車からおりてあの婚礼の跡を
つけるんだ。﹂
﹁どうして?﹂
﹁どこへ行くのか、そしてどうい
う婚礼か、少し知りてえんだ。急
いでおりて駆けていけ、お前は若
いから。﹂
﹁この馬車を離れることはできな
いよ。﹂
1349
﹁なぜだ。﹂
﹁雇われているんだからさ。﹂
﹁畜生!﹂
﹁はすっぱ娘になって警視庁から
一日分の給金をもらってるじゃな
いかね。﹂
﹁なるほど。﹂
﹁もし馬車から離れて、警視に見
つかろうもんなら、すぐにつかまっ
てしまう。よく知ってるくせに。﹂
1350
﹁うん、知ってるよ。﹂
かみ
﹁今日は、あたしはお上から買わ
れた身だよ。﹂
じい
﹁それはそうだが、どうもあの爺
さんが気になる。﹂
﹁爺さんなのが気になるの。若い
娘でもないくせにね。﹂
﹁一番先の馬車に乗ってる。﹂
﹁だから?﹂
﹁花嫁の馬車に乗ってる。﹂
1351
﹁それで?﹂
﹁花嫁の親に違いねえ。﹂
﹁それがどうしたのさ。﹂
﹁花嫁の親だというんだ。﹂
﹁そうさね、ほかに親はいやしな
い。﹂
﹁まあ聞けよ。﹂
﹁なんだね?﹂
おれ
﹁俺は仮面をつけてでなけりゃ外
にはあまり出られねえ。こうして
1352
りゃ、顔が隠れてるからだれにも
あした
わからねえ。だが明日になったら
もう仮面がなくなる。明日は灰の
水曜日︵四旬節第一日︶だ。うっ
つか
かりすりゃ捕まっちまう。また穴
の中に戻らなきゃあならねえ。と
ころがお前は自由な身体だ。﹂
﹁あまり自由でもないよ。﹂
﹁でも俺よりは自由だ。﹂
﹁だからどうなのよ?﹂
1353
﹁あの婚礼がどこへ行くか調べて
もらいたいんだ。﹂
﹁どこへ行くか?﹂
﹁そうだ。﹂
﹁それはわかってるよ。﹂
﹁なに、どこへ行くんだ?﹂
﹁カドラン・ブルーへさ。﹂
﹁なにそっちの方面じゃねえ。﹂
﹁それじゃ、ラーペへさ。﹂
﹁それともほかの方かも知れね
1354
え。﹂
﹁それは向こうの勝手さ。婚礼な
んてものはどこへ行こうと自由じゃ
ないか。﹂
﹁まあそんなことはどうでもいい。
とにかく、あの婚礼はどういうも
じい
ので、あの爺さんはどういう男で、
またあの人たちはどこに住んでる
か、それを俺に知らしてくれとい
うんだ。﹂
1355
﹁いやだよ! ばかばかしい。一
週間もたってから、謝肉祭の終わ
りの火曜日にパリーを通った婚礼
がどこへ行ったか調べたって、な
わら
かなかわかるもんじゃないよ。藁
ご や
小屋の中に落ちた針をさがすよう
なもんだ。わかりっこないよ。﹂
﹁でもまあやってみるんだ。いい
かね、アゼルマ。﹂
そのうち二つの列は、大通りの
1356
両側で反対にまた動き出した。そ
して花嫁の馬車は仮装馬車から見
えなくなってしまった。
二 なお腕をつれるジャ
ン・ヴァルジャン
夢想を実現すること。だれがそ
れを許されているか。それには天
における推薦を得なければならな
1357
い。人は皆自ら知らずして候補に
立つ、そして天使らが投票をする。
コゼットとマリユスとはその選に
はいっていた。
区役所と教会堂とにおけるコゼッ
さんぜん
トは、燦然として人の心を奪った。
彼女の身じたくは、ニコレットの
おも
手伝いで重にトゥーサンがやった
のである。
こはく
コゼットは白琥珀の裳衣の上に
1358
しゃ
バンシュ紗の長衣をまとい、イギ
ししゅう
オレンジ
リス刺繍のヴェール、みごとな真
くびわ
珠の首環、橙花の帽をつけていた。
それらは皆白色だったが、その白
ずくめの中で彼女は光り輝いてい
た。美妙な純潔さが光明のうちに
ほころ
綻びて姿を変えようとしてるあり
さまだった。処女が女神になろう
としてるのかと思われた。
つやつや
マリユスの美しい髪は艶々とし
1359
かお
きずあと
て薫っていた。その濃い巻き毛の
ぼうさい
下には所々に、防寨での創痕であ
る青白い筋が少し見えていた。
こうぜん
祖父は昂然として頭をもたげ、
バラス︵訳者注 革命内閣時代の
華美豪奢な人物︶の時代のあらゆ
る優美さを最もよく集めた服装と
態度とをして、コゼットを導いて
いた。ジャン・ヴァルジャンが腕
をつっていて花嫁に腕を貸すこと
1360
ができなかったので、彼がその代
わりをしているのだった。
ジャン・ヴァルジャンは黒い服
装をして、そのあとに従いほほえ
んでいた。
﹁フォーシュルヴァンさん、﹂と
祖父は彼に言った、﹁実にいい日
ではありませんか。これで悲しみ
や苦しみはおしまいにしたいもん
です。これからはもうどこにも悲
1361
しいことがあってはいけません。
まったく私は喜びを主張します。
悪は存在の権利を持つものではあ
りません。実際世に不幸な人々が
いることは、青空に対して恥ずべ
きことです。悪は元来善良である
人間から来るものではありません。
人間のあらゆる悲惨は、その首府
として、またその中央政府として、
地獄を持っています、言い換えれ
1362
ば悪魔のテュイルリー宮殿を持っ
てるのです。いやこれは、今では
私も過激派のような言い方をする
ようになりましたかな。ところで
私はもう、何ら政治上の意見は持っ
ていません。すべての人が金持ち
であるように、すなわち愉快であ
るように、それだけを私は望んで
いるんです。﹂
あらゆる儀式を完成させるもの
1363
として、区長の前と牧師の前とで
ある限りのしかりという答えを発
した後、区役所の書面と奥殿の書
面とに署名した後、ふたり互いに
指輪を交換した後、香炉の煙に包
てん
まれて、まっ白な観世模様絹の天
がい
蓋の下に相並んでひざまずいた後、
ふたり互いに手を取り合って、す
べての人々から賛美されうらやま
れつつ、マリユスは黒服をまとい
1364
彼女は白服をまとい、大佐の肩章
まさかり しきいし
をつけ鉞で舗石に音を立てる案内
人のあとに従い、魅せられてる見
りょうひ
物人の人垣の間を進んで、両扉と
も大きく開かれてる教会堂の表門
の下まで行き、再び馬車に乗るば
かりになって、すべてが終わった
時、コゼットはまだそれが夢では
ないかと疑っていた。彼女はマリ
ユスをながめ、群集をながめ、空
1365
をながめた。あたかも夢からさめ
るのを恐れてるがようだった。そ
のびっくりした不安な様子は言い
知れぬ一種の魅力を彼女に添えて
いた。家に戻るために、彼らはいっ
しょに相並んで同じ馬車に乗った。
ジルノルマン氏とジャン・ヴァル
ジャンとがふたりに向き合ってす
お ば
わった。ジルノルマン伯母は一段
だけ位を落とされて、二番目の馬
1366
車に乗った。祖父は言った。﹁こ
れでお前たちは、三万フランの年
金を持ってる男爵および男爵夫人
となったわけだ。﹂コゼットはマ
リユスに近く寄り添って、天使の
ようなささやきで彼の耳根をなで
た。﹁本当なのね。私の名もマリ
ユスね。私はあなたの夫人なの
ね。﹂
彼らふたりは光り輝いていた。
1367
彼らは、再び来ることのない見い
だそうとて見いだせない瞬間にあ
り、あらゆる青春と喜悦とのまば
ゆい交差点にあった。彼らはジャ
ン・プルーヴェールの詩を実現し
ていた。ふたりの年齢を合わして
も四十歳に満たなかった。精気の
ような結婚であって、そのふたり
ゆ り
の若者は二つの百合の花であった。
彼らは互いに見ることをせず、し
1368
かも互いに見とれ合っていた。コ
ゼットはマリユスを光栄の中にな
がめ、マリユスはコゼットを祭壇
の上にながめていた。そしてその
祭壇の上とその光栄の中とに、ふ
たりは共に神となって相交わり、
かすみ
その奥に、コゼットにとっては霞
のうしろに、マリユスにとっては
炎の中に、ある理想的なものが、
くち
現実的なものが、脣づけと夢との
1369
会合が、婚姻の枕が、横たわって
るのだった。
過去のあらゆる苦しみは戻って
きて、かえって彼らを酔わした。
はんもん
苦痛、不眠、涙、煩悶、恐怖、絶
望、それらのものも今は愛撫と光
輝とに姿を変じて、まさにきたら
んとする麗しい時間を更に麗しく
するように思われた。そしてあら
ゆる悲しみも今は喜びの装いをす
1370
る召し使いのように思われた。苦
しんだのはいかに仕合わせなこと
であるか。彼らの不幸は今や彼ら
あけぼの
の幸福に曙の色を与えていた。ふ
くもん
たりの愛の長い苦悶はついに昇天
の喜びに達したのである。
彼らふたりの魂のうちには、マ
リユスにあっては快楽の色に染め
られコゼットにあっては貞節の色
に染められてる同じ歓喜があった。
1371
彼らは声低く語り合った。ふたり
でプリューメ街の小さな庭をまた
見に行こうと。コゼットの長衣の
ひだ
襞はマリユスの上に置かれていた。
そういう日こそは、夢幻の確実
との得も言えぬ混同の日である。
人は実際に所有しまた仮想する。
種々想像するだけの余裕がまだ残っ
ている。ま昼にあってま夜中のこ
とを思うその日こそは、実に名状
1372
し難い情緒に満ちてるものである。
彼らふたりの心の楽しさは、衆人
の上にも流れ出し、通りすがりの
者らにも喜悦の気を与えていた。
サン・タントアーヌ街のサン・
ポール教会堂の前には、多くの人
が立ち止まって、コゼットの頭の
オレンヂ
上に震える橙花を馬車のガラス戸
越しにながめていた。
それから一同は、フィーユ・
1373
デュ・カンヴェール街の自宅に戻っ
た。マリユスはコゼットと相並ん
で、かつて瀕死の身体を引きずり
上げられたあの階段を、光り輝き
こうぜん
昂然として上っていった。貧しい
人々は、戸口の前に集まってもらっ
た金を分かちながら、ふたりを祝
ま
福した。至る所に花が撒かれてい
ば ら
た。家の中も教会堂に劣らずかお
こう
りを放っていた。香の次に薔薇の
1374
花となったのである。ふたりは無
窮のうちに歌声を聞くような気が
し、心のうちに神をいだき、宿命
を星の輝く天井のように感じ、頭
の上に朝日の光を見るがように思っ
た。突然大時計が鳴った。マリユ
スはコゼットの美しい裸の腕と、
胴衣のレース越しにかすかに見え
る薔薇色のものとをながめた。そ
してコゼットはマリユスの視線を
1375
見て、目の中までもまっ赤になっ
た。
ジルノルマン一家の旧友の多数
は、皆招待されていた。人々はコ
ゼットのまわりに集まって、先を
争いながら男爵夫人と彼女に呼び
かけた。
今は大尉になってるテオデュー
ル・ジルノルマン将校も、徒弟ポ
ンメルシーの結婚に列するため、
1376
任地のシャルトルからやってきて
いた。コゼットは彼の顔を忘れて
いた。
彼の方では、いつも婦人らから
きれいだと思われてばかりいたの
で、もうコゼットのことも頭に残っ
ていなかった。
そうきへい
﹁この槍騎兵の話を本当にしない
でよかった。﹂とジルノルマン老
人はひとりで思った。
1377
コゼットはこれまでにないほど
ジャン・ヴァルジャンに対してや
さしかった。また彼女はジルノル
マン老人としっくり調子が合って
いた。老人が盛んに警句や格言を
使って喜びを述べ立ててる間、彼
女は愛と善良さとをかおりのよう
に発散さしていた。幸福はすべて
の者が楽しからんことを欲するも
のである。
1378
彼女はジャン・ヴァルジャンに
話しかける時は、少女時代の声の
調子に戻っていた。また、ほほえ
みを送って彼に甘えていた。
きょうおう
饗応の宴は食堂に設けられてい
た。
昼間のように明るい灯火は、大
なる喜びの席にはなくてならない
もや
ものである。靄と暗さとは決して
幸福な人々の好むものではない。
1379
彼らは黒い姿となるのを喜ばない。
くらやみ
夜はよいが、暗闇はいけない。も
し太陽が出ていなければ、それを
別に一つこしらえなければならな
い。
食堂は楽しい器具の巣であった。
中央には、まっ白に光ってる食卓
の上に、平たい延べ金の下飾りが
だいしょくだい
ついてるヴェニス製の大燭台が一
ろうそく
つあって、その四方の枝の蝋燭に
1380
囲まれたまんなかには、青や紫や
赤や緑などに塗った各種の鳥がと
おおしょくだい
まっていた。大燭台のまわりには
多くの飾り燭台があり、壁には三
枝もしくは五枝に分かれた反射鏡
がかかっていた。鏡、水晶器具、
ガラス器具、皿、磁器、陶器、土
器、金銀細工物、銀の器具など、
すべてが輝き笑っていた。燭台の
間々には花輪がいっぱい積まれて
1381
いて、至る所光か花かであった。
ま
次の間では、三つのバイオリン
と一つの笛とが制音器をつけて、
ハイドンの四部合奏曲を奏してい
た。
ジャン・ヴァルジャンは客間の
い す
入り口の横手の椅子にすわってい
とびら
て、扉が開くとほとんどそのうし
ろに隠れるようになっていた。食
堂にはいるちょっと前に、コゼッ
1382
トはふと引きずられるように彼の
そばに寄ってゆき、両手で花嫁の
衣裳をひろげながら深い愛敬の様
子を示し、やさしいいたずらそう
な目つきをして尋ねた。
﹁お父さま、あなたおうれしく
て?﹂
﹁ああ、﹂とジャン・ヴァルジャ
ンは言った、﹁うれしい。﹂
﹁では笑ってちょうだいな。﹂
1383
ジャン・ヴァルジャンは笑顔を
した。
やがて、バスクは食事の用意が
整ったことを告げた。
客人らは、コゼットに腕を貸し
てるジルノルマン氏のあとについ
て、食堂にはいり、予定の順序で
食卓のまわりに並んだ。
い す
花嫁の右と左とにある二つの大
ひじか
きな肱掛け椅子には、一つにジル
1384
ノルマン氏がすわり、一つにジャ
ン・ヴァルジャンがすわることに
なっていた。ジルノルマン氏は席
ひじか
についた。しかしも一つの肱掛け
い す
椅子にはだれもいなかった。
人々は﹁フォーシュルヴァン氏﹂
の姿を見回した。
彼はもうそこにいなかった。
ジルノルマン氏はバスクに声を
かけた。
1385
﹁フォーシュルヴァンさんはどこ
におらるるか知っていないか。﹂
﹁はい存じております。﹂とバス
クは答えた。﹁フォーシュルヴァ
ン様は、お手の傷が少し痛まれて、
男爵お二方と会食ができないから、
だんなさま
旦那様によろしく申し上げてほし
いと私にお伝えでございました。
そして今晩は御免を被って、明朝
来るからと申されて、ただ今お帰
1386
りになりました。﹂
から
その空の肱掛け椅子のために、
しら
婚礼の宴は一時白けた。しかし
フォーシュルヴァン氏は不在でも、
ジルノルマン氏がそこにいて、ふ
たり分にぎやかにしていた。もし
傷が痛むようならフォーシュルヴァ
ン氏は早くから床につかれた方が
よいが、しかしそれもちょっとし
・ ・ ・ ・
たいたいたに過ぎない、と彼は断
1387
言した。そしてその言葉でもう充
分だった。それにもとより、一座
喜びにあふれてる中にあってその
いちぐう
薄暗い一隅などは何でもないこと
だった。コゼットとマリユスはも
う幸福の影しか頭に映らないよう
な利己的な至福な瞬間にあった。
それにまたジルノルマン氏は妙案
を思いついた。﹁ところでその肱
あ
掛け椅子が空いている。マリユス、
1388
お ば
お前がそこにすわるがいい。伯母
さんの方に権利はあるんだが、きっ
とお前に許してくれるよ。その席
はお前のだ。それが正当で、また
至極おもしろい。好運児と幸運女
かっ
とは相並ぶべしだ。﹂人々は皆喝
さい
采した。マリユスはコゼットのそ
ばにジャン・ヴァルジャンの席に
ついた。そして万事うまくいった
ので、初めジャン・ヴァルジャン
1389
の不在を悲しく思っていたコゼッ
トも、ついに満足するようになっ
た。マリユスがジャン・ヴァルジャ
ンの代わりになった時、コゼット
うわぐつ
はもう神を恨まなかった。彼女は
しろじゅす
白繻子の上靴をつけた小さなやさ
い す
しい足を、マリユスの足の上にの
せた。
ひじか
肱掛け椅子はふさがり、フォー
シュルヴァン氏はなくなってしま
1390
い、何も欠けた所はなかった。そ
して五分もたつうちには、食卓全
体はすべてを忘れた上きげんで、
端から端まで笑いさざめいていた。
食後の茶菓子の時になって、ジ
ルノルマン氏はたち上がり、九十
二歳の高齢のために手が震えるの
でこぼれないようにと、半分ばか
り注がしたシャンパンの杯を取り、
新夫婦の健康を祝した。
1391
﹁お前たちは二度の説教をのがれ
ることはできない。﹂と彼は声を
張り上げた。﹁朝に司祭の説教が
あり、晩に祖父の説教があるのだ。
まあわしの言うことを聞くがいい。
わしはお前たちに一つの戒めを与
える、それは互いに熱愛せよとい
うことだ。わしはくどくど泣き言
を並べないで、すぐに結論に飛ん
でゆく、すなわち幸福なれという
1392
のだ。万物のうちで賢いのはただ
はと
鳩だけである。ところが哲学者ら
は言う、汝の喜びを節せよと。し
かるにわしは言う、汝の喜びを奔
放ならしめよと。むちゃくちゃに
のぼせ上がるがいい、有頂天にな
るがいい。哲学者どもの言うこと
あ ほ
は阿呆の至りだ。彼らの哲学なん
のど
かはその喉の中につき戻すがいい
ば
のだ。かおりが多すぎ、開いた薔
1393
ら
うぐいす
薇の花が多すぎ、歌ってる鶯が多
すぎ、緑の木の葉が多すぎ、人生
に曙が多すぎる、などということ
があり得ようか。互いに愛しすぎ
るということがあり得ようか。互
いに気に入りすぎるということが
あり得ようか。気をつけるがいい、
エステル、お前はあまりにきれい
すぎる、気をつけるがいい、ネモ
ラン、お前はあまりに麗しすぎる
1394
︵訳者注 フロリアンの牧歌中の
若い女と男︶、などというのは何
というばかげたことだ。互いに惑
わしよろこばし夢中にならせすぎ
るということがあり得るものか。
あまり上きげんすぎるということ
があり得るものか。あまり幸福す
ぎるということがあり得るものか。
汝の喜びを節せよだと、ばかな。
哲学者どもを打ち倒すべしだ。知
1395
恵はすなわち歓喜なり、歓喜せよ、
歓喜すべし。いったいわれわれは、
善良だから幸福なのか、もしくは
幸福だから善良なのか? サンシー
金剛石は、アルレー・ド・サンシー
の所有だったからサンシーといわ
れるのか、またはサン・シー︵百
六︶カラットの重さがあるからサ
ンシーと言われるのか? そうい
うことはわしにはわからない。人
1396
生はそんな問題で満ちている。た
だ大切なのは、サンシー金剛石を
所有することだ、幸福を所有する
ことだ。おとなしく幸福にしてい
るがいい。太陽に盲従するがいい。
太陽とは何であるか? それは愛
だ。愛と言わば婦人だ。ああそこ
にこそ全能の力はあるんだ。それ
が婦人だ。この過激派のマリユス
に聞いてみるがいい、彼がこのコ
1397
どれい
ゼットという小さな暴君の奴隷で
ないかどうかを。しかも甘んじて
そうなってるではないか。実に婦
人なるかなだ。ロベスピエールの
ごとき者でさえ長く地位を保つこ
とはできない。常に婦人が君臨す
るのだ。わしがまだ王党だという
のも、この婦人の王位に対しての
ことだ。アダムは何であるか? それはイブの王国だ。イヴにとっ
1398
ては八九年︵一七八九年︶の事変
ゆ り
なんかはない。百合の花を冠した
しゃく
国王の笏はあった、地球を上にの
せた皇帝の笏はあった、鉄ででき
たシャールマーニュ大帝の笏はあっ
た、黄金でできたルイ大王の笏は
あった、けれども革命は、親指と
人差し指とで、一文のねうちもな
わらくず
い藁屑のようにそれらをへし折っ
てしまった。廃せられ砕かれ地に
1399
投ぜられて、もはや笏はなくなっ
らんじゃ
ている。ところが、蘭麝のかおり
ししゅう
を立てる刺繍した小さなハンカチ
に対して、革命をやれるならやっ
てみるがいい。一つ見たいものだ。
やってみなさい。なぜそれが強固
かと言えば、一片の布だからだ。
ああ諸君は十九世紀ですね。どう
です。われわれは十八世紀の者で
す。そしてわれわれも諸君と同じ
1400
くらいにばかであった。しかし諸
・ ・ ・
君は、ころりがコレラ病と言われ
るようになり、ブーレ踊りがカ
チューシャ舞踏と言われるように
なったからと言って、世界に大変
化をきたしたと思ってはいけませ
ん。根本においては、常に婦人を
愛せざるを得ないでしょう。その
原則からはだれだってなかなか出
られるものではない。それらの鬼
1401
女がわれわれの天使である。そう
くち
だ、愛と婦人と脣づけ、その世界
からだれも出られるものではない。
わしはむしろそこにはいりたいと
思うくらいだ。ヴィーナスの星
しゃれおんな
︵金星︶が、天空の偉大な洒落女
が、大洋のセリメーヌが、あらゆ
るものをおのれの下に静めながら、
はとう
海の波濤をも一婦人のように物と
もしないで、無窮の空に上ってゆ
1402
くのを、諸君のうちに見られた方
がありますか。大洋はすなわち謹
厳なアルセストです︵訳者注 モ
リエールの戯曲﹁人間ぎらい﹂中
の主人公にてセリメーヌはその中
の嬌艶な女︶。ところで彼がいか
にが
に苦い顔をしていようと、ヴィー
ナス︵愛の神︶が現われてくれば、
ほほえまざるを得ないのである。
この粗暴な獣も屈服してしまう。
1403
われわれにしても同じことだ。憤
しぶき
怒、暴風、雷鳴、天井まで水沫が
飛んでいようと、ひとりの婦人が
舞台に現わるれば、一つの星が上っ
てくれば、平伏してしまうのであ
る。マリユスは六カ月前には戦争
をしていた。しかるに今日は結婚
をしている。それは結構なことだ。
マリユス、そうだとも、コゼット、
お前たちのやることはもっともだ。
1404
大胆にふたり頼り合って生きてゆ
くがいい、互いに恋し合うがいい、
さんざん他の者をうらやませるが
いい、互いに崇拝し合うがいい。
くちばし
お前たちふたりの嘴で、地上にあ
わらくず
りとあらゆる幸福の藁屑をつまみ
取って、それで生涯の巣を作るが
いい。愛し愛さるることは、若い
時には麗しい奇蹟のような気がす
るものだ。だがそれは、自分たち
1405
が始めて考え出したことだと思っ
あこが
てはいけない。このわしもやはり
は
夢をみたり、思いを走せたり、憧
れをいだいたりしたことがある。
わしもやはり、月のように輝いた
魂を自分のものにしたことがある。
恋愛は六千歳の子供だ。恋愛は長
はくぜん
い白髯をつけてもいい者なんだ。
メトセラ︵訳者注 ノアの祖父に
て九百六十九年生きたと言わるる
1406
人物︶もキューピッドに比ぶれば
鼻たらし小僧にすぎない。六十世
紀も前から男女は互いに愛しなが
こうかつ
ら困難をきりぬけてきた。狡猾な
悪魔は人間をきらい始めたが、いっ
そう狡猾な人間は女を愛し始めた。
そうして、悪魔から受ける災いよ
りもいっそう多くのいいことをし
た。この妙策は、地上の楽園の初
めから見いだされていたのである。
1407
この発明は古くからのものだが、
いつまでも新しいものである。そ
れを利用しなければいけない。フィ
レモンとボーシスになるまでは、
まずダフニスとクロエになるがい
い︵訳者注 前者は近代のオペラ
の中のふたりの恋人、後者はギリ
シャの物語の中のふたりの恋人︶。
お前たちがふたりいっしょにいさ
えすれば、何も不足なものはなく、
1408
コゼットはマリユスにとって太陽
となり、マリユスはコゼットにとっ
て全世界となる、そういうふうで
なくてはいかん。コゼット、夫の
ほほえみをお前の晴天とするがい
い、マリユス、妻の涙をお前の雨
とするがいい。そして願わくば、
お前たちの家庭に決して雨が降ら
ないようにな。お前たちは恋愛結
くじ
婚といういい籤を引きあてた。そ
1409
の大変な賞品を得たのだから、そ
かぎ
れを大事にし、鍵をかけてしまっ
て置き、やたらに使ってしまわな
いで、互いに愛し合い、その他の
ことは顧みないでいい。わしが言
うことをよく心に止めておかなく
ボンサンス
てはいかん。これは良識だ。良識
は決して人を誤るものではない。
互いに信仰し合わなくてはいかん。
だれにでも神を拝む独特のやり方
1410
があるものだ。ところで神を拝む
最もいい方法は、自分の妻を愛す
ることだ。私はお前を愛する! というのがわしの教理要領だ。だ
れでも愛を持ってるものはすなわ
ち正教派だ。アンリ四世の誓投詞
めいてい
では飽食と酩酊との間に神聖とい
うものが置かれていた。すなわち
酔っ払いの神聖なる腹!︵訳者注
語気を強めるために、よし、畜
1411
生、などというのと同じ意味のも
の︶しかしわしはそういう宗派で
はない。それには婦人が忘れられ
てる。アンリ四世の誓投詞にそう
いうことがあるのはわしの意外と
するところだ。諸君、婦人なるか
なです。人はわしを老人だと言う。
しかし不思議にもわしは自分なが
ら若返ってくるような気がする。
むつごと
わしは森の中に行って睦言を聞き
1412
たいくらいだ。麗しく幸福である
道を心得てるそれらの若者どもは、
わしの心を酔わしてくれる。もし
だれか見たいというなら、すてき
な結婚をしてみせてもいい。いず
れの点から考えても、神がわれわ
れ人間を作ったのは、こういうこ
とをさせるためだったに違いない、
すなわち、夢中にかわいがり、喋々
ちょうちょうなんなん
喃々し、美しく着飾り、鳩のよう
1413
おんどり
になり、牡鶏のようになり、朝か
ら晩まで恋愛をつっつき回し、か
わいい妻のうちに自分の姿を映し
てみ、得意になり、意気揚々とし
そ
て、反りくり返ることだ。それが
人生の目的である。御免を被って
申せば、われわれ老人がまだ若い
頃一般に考えていたことは、そう
いうようなことだった。ああその
頃は、いかにあでやかな女が、愛
1414
くるしい顔ややさしい姿が、たく
さんいたことだろう! わしはそ
の中を荒し回ったものだ。すべか
らく互いに愛し合うべし。もし愛
し合うことがなかったならば、春
があったとて何の役に立つかわし
にはわからない。そうなったらわ
しはむしろ神に願って、神がわれ
われに示してくれる美しいものを
皆寄せ集め、それをわれわれから
1415
取り戻し、花や小鳥やきれいな娘
を、再びその箱に閉じ込めてもら
いたいくらいだ。子供たちよ、こ
こうこうや
の好々爺の祝福を受けてくれ。﹂
きょうえん
その一晩の饗宴は、にぎやかで
快活で楽しいものだった。一座を
支配する祖父の上きげんさは、す
べてのものの基調となり、各人は
ほとんど百歳に近い老人のへだて
ない態度に調子を合わしていた。
1416
舞踏も少し行なわれ、また盛んに
じい
談笑された。甘えっ児の婚礼だっ
たかさご
た。高砂の爺さんを招いてもいい
ほどだった。それにまた、高砂の
爺さんはジルノルマン老人のうち
に含まれていた。
せいじゃく
かくて大騒ぎをした後に、静寂
が落ちてきた。
新夫婦は退いていった。
十二時少し前に、ジルノルマン
1417
家は寺院のようにひっそりとなっ
た。
ここでわれわれは筆を止めよう。
結婚の夜の入り口には、ひとりの
天使が立っていて、ほほえみなが
ら口に指をあてている。
愛の祝典があげらるる聖殿に対
めいそう
しては、人の魂は瞑想にはいって
ゆく。
それらの人家の上には光輝があ
1418
るに違いない。その中にこもって
る喜びは、光となって石の壁を通
し、ほんのりと暗黒を照らすに違
いない。その運命に関する神聖な
祝いは、必ずや天国的な光明を無
窮のうちに送るに相違ない。愛は
るつ
男女の融合が行なわれる崇高な坩
ぼ
堝である。一体と三体と極体と、
人間の三位一体がそれから出てく
る。かく二つの魂が一つとなって
1419
生まれ出ることは、影にとっては
感動すべきことに違いない。愛す
る男はひとりの牧師である。歓喜
せる処女はびっくりする。かかる
喜悦のあるものは神のもとまで達
する。真に結婚がある所には、す
なわち恋愛がある所には、理想も
あけぼの
それに交じってくる。結婚の床は、
くらやみ
暗闇の中の一隅に曙を作り出す。
かたち
もし上界の恐るべきまた麗しい象
1420
を肉眼で見得るものとするならば、
夜の形象が、翼のある見知らぬ者
よ
らが、目に見えない境を過ぎりゆ
く青色の者らが、身をかがめて、
輝く人家のまわりに暗い頭を寄せ
集め、満足し祝福しつつ、処女の
新婦を互いにさし示し、やさしい
きよ
驚きの様子をして、その聖い顔の
上に人間の至福の反映を浮かべて
いるのを、おそらく人は見るであ
1421
ろう。もしその極致の瞬間に、歓
げんわく
喜に眩惑せるふたりの者が、他に
だれもいないと信じつつも耳を澄
ますならば、飛びかわす翼の音を
室の中に聞くであろう。完全なる
幸福は、天使をも参与させるもの
である。その小さな暗い寝所は、
きよ
全天空を天井としている。愛に聖
くちびる
められた二つの脣が、創造のため
くち
に相接する時、その得も言えぬ脣
1422
せいしん
こうばく
づけの上には、星辰の広漠たる神
秘のうちに、必ずや一つの震えが
起こるに相違ない。
それらの幸福こそ真正なるもの
である。それらの喜悦を外にして
は真の喜悦は存しない。愛、そこ
こうこつ
にこそ唯一の恍惚たる喜びがある。
他のすべては皆嘆きである。
愛しもしくは愛した、それで充
分である。更に求むることをやめ
1423
ひだ
よ。人生の暗い襞のうちに見いだ
され得る真珠は、ただそれのみで
ある。愛することは成就すること
である。
そば
三 側より離さざる物
ジャン・ヴァルジャンはどうなっ
たか?
コゼットのやさしい命令で笑顔
1424
をしたあと間もなく、だれからも
注意を向けられていないのに乗じ
て、ジャン・ヴァルジャンは立ち
上がり、人に気づかれぬうちに次
ま
ほこり
の間へ退いた。八カ月以前に、彼
どろ
が泥と血と埃とでまっ黒になって、
祖父のもとへその孫を運んではいっ
へや
てきたのも、やはりその同じ室へ
であった。今やその古い壁板は、
緑葉と花とで飾られていた。かつ
1425
あんらくい
てマリユスが横たえられた安楽椅
す
子には、音楽師らが集まっていた。
くつた
黒い上衣と短いズボンと白い靴足
び
袋と白い手袋とをつけたバスクは、
これから出そうとする皿のまわり
ば ら
にそれぞれ薔薇の花を配っていた。
ジャン・ヴァルジャンは首につっ
た腕を彼に示し、席をはずす理由
を伝えてくれるように頼んで、そ
こを出て行った。
1426
食堂の窓は街路に面していた。
ジャン・ヴァルジャンはしばらく、
それらの明るい窓の下の影の中に、
身動きもしないでたたずんでいた。
彼は耳を澄ました。祝宴の混雑し
た物音が伝わってきた。祖父の堂々
たる声高な言葉、バイオリンの響
こうしょう
き、皿やコップの音、哄笑の声、
などが聞こえてきた。そして彼は
その愉快な騒ぎの中に、コゼット
1427
の楽しいやさしい声を聞き分けた。
彼はフィーユ・デュ・カルヴェー
ル街を去って、オンム・アルメ街
へ帰っていった。
帰ってゆくのに彼は、サン・ル
イ街とキュルテュール・サント・
カトリーヌ街とブラン・マントー
教会堂の方の道筋を取った。それ
は少し遠回りの道だったが、三カ
月以前から、ヴィエイユ・デュ・
1428
でいねい
タンプル街の混雑と泥濘とを避け
るために、コゼットと共にオンム・
アルメ街からフィーユ・デュ・カ
ルヴェール街へ行くのに、毎日通
いなれた道筋であった。
コゼットが通りつけたその道は、
彼に他の道筋を取らせなかった。
ジャン・ヴァルジャンは自分の
ろうそく
家に戻った。蝋燭をともして階段
を上っていった。部屋はがらんと
1429
していた。トゥーサンももういな
かった。ジャン・ヴァルジャンの
へや
足音は、室の中にいつもより高く
とだな
響いた。戸棚は皆開かれていた。
彼はコゼットの室へはいった。寝
あやぬの
台には敷き布もなかった。綾布の
枕は枕掛けもレース飾りもなくなっ
しも
て、床の下の方にたたまれてる夜
具の上にのせてあり、床はむき出
しになってもうだれも寝られない
1430
ようになっていた。コゼットが大
事にしていた細々した婦人用の器
物は、皆持ってゆかれていた。残っ
てるのはただ、大きな家具と四方
の壁ばかりだった。トゥーサンの
寝床も同じように取り片づけてあっ
た。ただ一つの寝床だけが用意さ
れていて、だれかを待ってるよう
だった。それはジャン・ヴァルジャ
ンの寝床だった。
1431
ジャン・ヴァルジャンは壁をな
とだな
がめ、戸棚の二、三の戸を閉ざし、
へや
室から室へと歩き回った。
それから彼は自分の室にはいり、
しょくだい
テーブルの上に燭台を置いた。
彼はつるしていた腕をはずし、
別に痛みもしないかのようにその
右手を使っていた。
彼は自分の寝台に近寄った。そ
して彼の目は、偶然にかまたは意
1432
あってか、コゼットがうらやんで
・ ・ ・
たつき物の上に、決して彼のそば
かばん
を離れない小さな鞄の上に落ちた。
六月四日オンム・アルメ街にやっ
まくらもと
てきた時、彼はそれを枕頭の小卓
の上に置いていた。彼はすばしこ
くその小卓の所へ行き、ポケット
かぎ
から一つの鍵を取り出し、そして
鞄を開いた。
彼はその中から、十年前コゼッ
1433
トがモンフェルメイュを去る時に
つけていた衣裳を、静かに取り出
した。第一に小さな黒い長衣、次
えりま
に黒い襟巻き、次にコゼットの足
はごく小さいので今でもまだはけ
こどもぐつ
そうな丈夫な粗末な子供靴、次に
あやお
ごく厚い綾織りの下着、次にメリ
ヤスの裳衣、次にポケットのつい
くつた
はぎ
てる胸掛け、それから毛糸の靴足
び
袋。その靴足袋には、小さな脛の
1434
形がまだかわいく残っていて、ほ
たなごころ
とんどジャン・ヴァルジャンの掌
の長さほどしかなかった。それら
のものは皆黒い色だった。彼女の
ためにそれらの衣裳をモンフェル
メイュまで持ってってやったのは
彼だった。今彼はそれらを鞄から
取り出しては、一々寝床の上に並
べた。彼は考え込んでいた。昔の
ことを思い起こしていた。冬で、
1435
ごく寒い十二月のことだった。彼
女はぼろを着て半ば裸のまま震え
ていた。そのあわれな小さな足は
木靴をはいてまっかになっていた。
彼ジャン・ヴァルジャンは、それ
らの破れ物を脱がせて、この喪服
をつけさしてやった。彼女の母も、
彼女が自分のために喪服をつける
のを見、ことに相当な服装をして
暖かにしてるのを見ては、墓の中
1436
できっと喜んだに違いなかった。
また彼はモンフェルメイュの森の
ことを思い出していた。コゼット
と彼とはふたりいっしょにその森
を通っていった。天気のこと、葉
の落ちた樹木のこと、小鳥のいな
い木立ちのこと、太陽の見えない
空のこと、それでもなお楽しかっ
たこと、などが皆思い出された。
そして今彼はそれらの小さな衣類
1437
えりま
を寝床の上に並べ、襟巻きを裳衣
くつたび
のそばに置き、靴足袋を靴のそば
に置き、下着を長衣のそばに置き、
それらを一つ一つながめた。あの
時彼女はまだごく小さかった。大
きな人形を腕に抱き、ルイ金貨を
この胸掛けのポケットに入れ、そ
して笑っていた。ふたりは手を取
り合って歩いた。彼女が頼りとす
る者は、世にただ彼ひとりだった。
1438
そこまで考えた時、ジャン・ヴァ
ルジャンの敬すべき白髪の頭は寝
床の上にたれ、その堅忍な老いた
心は張り裂け、その顔はコゼット
の衣裳の中に埋ってしまった。も
しその時階段を通る者があったら、
激しいすすり泣きの声が耳に聞こ
えたであろう。
くもん
四 きわみなき苦悶
1439
われわれが既にその多くの局面
をながめてきた古い恐るべき争闘
が、再び始まった。
ヤコブが天使と争ったのはただ
一夜だけであった。しかるに痛ま
しくも、ジャン・ヴァルジャンが
暗黒の中で自分の本心とつかみ合っ
て猛烈に争うのを、幾度吾人は見
たことであろう!
実に異常な争闘であった。ある
1440
時は足がすべり、ある時は足下の
地面がくずれた。善へ進まんとあ
せる本心が、彼をつかみ彼を圧倒
したことも、幾度であったろう。
一歩も譲らない真理が、彼の胸を
ひざ
膝の下に押さえつけたことも、幾
度であったろう。彼が光明から投
ゆうじょ
げ倒されてその宥恕を願ったこと
も、幾度であったろう。彼のうち
にまた彼の上に司教からともされ
1441
げんわく
た仮借なき光明が、盲目ならんと
し
欲する彼を強いて眩惑さしたこと
いわお
も、幾度であったろう。巖に身を
きべん
ささえ、詭弁によりかかり、塵に
まみれ、あるいは本心を自分の下
に打ち倒し、あるいは本心から打
ち倒されながら、争闘のうちに彼
が立ち直ったことも、幾度であっ
あいまい
たろう。曖昧な理屈を立てた後、
こうかつ
利己心の一見道理あるらしい狡猾
1442
な論法を用いた後、憤った本心か
かんねい
ら﹁奸佞の徒、みじめなる奴、﹂
と耳に叫ばれるのを彼が聞いたの
がんめい
も、幾度であったろう。頑迷なる
りょうぜん
彼の思想が、瞭然たる義務の下に
けいれんてき
痙攣的なうめきを発したのも、幾
度であったろう。神に対する抗争。
暗い汗。多くの秘密な傷、彼ひと
りだけが感ずる多くの出血。彼の
す
痛ましい生が受くる多くの擦り傷。
1443
血にまみれ、傷におおわれ、身を
砕かれ、光に照らされ、心に絶望
の念をいだき、魂に清朗の気をた
たえて、彼がまた起き上がったの
も、幾度であったろう。敗者であ
りながら彼は勝者のように感じて
くじ
いた。そして彼の本心は、彼を挫
き苦しめ打ち折った後、恐ろしい
こうこう
煌々たる落ち着いた姿をして彼の
上につっ立ち、彼に言った、﹁今
1444
は平和に歩くがいい!﹂
しかし、かく陰惨な争闘から出
てきた後では、それもいかに悲し
い平和であったことか!
けれどもその晩ジャン・ヴァル
ジャンは、最後の戦いをしてるよ
うな心地になった。
痛切な一つの問題が現われてい
た。
定められた運命はまっすぐなも
1445
のではない。それは当の人間の前
にまっすぐな大道となって開けゆ
くものではない。行き止まりもあ
り、袋庭もあり、まっくらな曲が
かど
つじ
り角もあり、多くの道が交錯して
よ
る不安な四つ辻もある。ジャン・
ヴァルジャンは今、それらの四つ
辻のうち最も危険なものに立ち止
まっていた。
彼は善と悪との最後の交差点に
1446
到達していた。その暗黒な接合点
を眼前に見ていた。そしてこんど
も、他の痛ましい変転の折既に幾
度か起こったように、二つの道が
前に開けていた。一つは彼を誘惑
し、一つは彼を恐れさした。いず
れを取るべきであるか?
彼を恐れさする道の方を、神秘
な指先がさし示していた。その指
こそは、影の中に目を定めるたび
1447
ごとに万人が認め得るところのも
のである。
ジャン・ヴァルジャンはなお一
かんせい
度、恐るべき港とほほえめる陥穽
とのいずれかを選択しなければな
らなかった。
いや
それでは、魂は癒され得るが運
命はいかんともし難いということ
は、果たして真実なのか。不治の
宿命! 恐るべきことである。
1448
彼の前に現われた問題とは、次
のようなものであった。
ジャン・ヴァルジャンはコゼッ
トとマリユスとの幸福に対してい
かなる態度を取らんとしていたの
か。しかもその幸福たるや、彼が
自ら望み、彼が自ら作ってやった
ものである。彼はその幸福を自分
の内臓のうちにしまい込んでいた
が、今やそれを取り出してながめ
1449
ていた。そして、自分の胸から血
煙を立てる短刀を引きぬきながら
その上におのれの製作銘を認むる
刀剣師のような一種の満足を、彼
は感じ得るのであった。
コゼットはマリユスを得、マリ
ユスはコゼットを所有していた。
彼らはすべてを、富をさえも得て
いた。しかもそれは彼が自らなし
てやった業だった。
1450
しかし、今現に存在し今そこに
あるその幸福に対して、彼ジャン・
ヴァルジャンはどうしようとして
いたのか。彼はその幸福の仲間に
はいってもよかったであろうか。
それを自分のものであるかのよう
に取り扱ってもよかったであろう
か。確かにコゼットは他人のもの
であった。しかし彼ジャン・ヴァ
ルジャンは、自分が保有し得るだ
1451
けのものをコゼットから保有して
もよかったであろうか、推定され
たものではあるがしかし大切にさ
れていた父たるの地位に、彼は今
までどおり止まっていてもさしつ
かえなかったであろうか。平然と
してコゼットの家にはいり込んで
もよかったであろうか。その未来
の中に自分の過去を、一言も明か
さずに持ち込んでもよかったであ
1452
ろうか。当然であるかのようにそ
こに出てゆき、素性を隠しながら
その輝く炉辺にすわっても、さし
つかえなかったであろうか。彼ら
きよ
の潔い手を自分の悲惨な手のうち
に、ほほえみながら取ってもよかっ
たであろうか。ジルノルマン家の
客間の平和な炉火の前に、法律の
不名誉な影をあとに引きずってる
自分の足を置いても、よかったで
1453
あろうか。コゼットとマリユスと
わけまえ
共に、彼も幸運の分前をもらって
もよかったであろうか。自分の頭
の上の曇りと彼らの上の雲とを深
めても、さしつかえなかったであ
ろうか。彼らふたりの至福に自分
の覆滅を、第三者として付け加え
てもよかったであろうか。やはり
何も打ち明けないでもよかったで
あろうか。一言にして言えば、そ
1454
れらふたりの幸福な者のそばに、
宿命の気味悪い沈黙としてすわっ
ていても、さしつかえないのであっ
たろうか。
人は常に宿命とその打撃とにな
れていて、ある種の疑問が恐ろし
い赤裸の姿で現われてきても、あ
えて目をあげてそれを見つめ得る
ようになっていなければいけない。
善と悪とはそのきびしい疑問の背
1455
後に控えている。﹁どうするつも
りか、﹂とそのスフィンクスは尋
ねる。
ジャン・ヴァルジャンはそうい
う試練になれていた。彼はそのス
フィンクスをじっと見つめた。
彼はその残忍な問題をあらゆる
方向から考究した。
あの麗しいコゼットは、難破者
いたご
たる彼にとっては一枚の板子であっ
1456
た。しかるに今やいかにすべきで
あったか。それに取りついている
べきか。それを離すべきか!
もしそれに取りついていれば、
彼は破滅から免れ、日光のうちに
上ってゆき、衣服と頭髪とから苦
い水をしたたらせ、救われ、生き
ながらえることができるのだった。
もしそれを離せば!
しんえん
その時は深淵あるのみだった。
1457
かく彼は自分の考えに悲痛な相
談をなしてみた。あるいは更に適
切に言えば、戦いを開いた。彼は
心のうちで、あるいは自分の意志
に対してあるいは自分の確信に対
して、猛然として飛びかかっていっ
た。
泣くことができたのは、ジャン・
ヴァルジャンにとって一つの仕合
わせだった。それはおそらく彼の
1458
心を晴らしたであろう。けれども
争いの初めは激烈だった。一つの
暴風雨が、昔彼をアラスの方へ吹
きやったのよりもいっそう猛烈な
暴風雨が、彼のうちに荒れ回った。
過去は現在の前に再び現われてき
た。彼はその両者を比較し、そし
せき
てすすり泣いた。一度涙の堰が開
かるるや、絶望した彼は身をもだ
えた。
1459
彼は道がふさがったのを感じて
いた。
ああ、利己心と義務との激戦に
こんめい
おいて、昏迷し、奮激し、降伏を
がえ
肯んぜず、地歩を争い、何らかの
逃げ道をねがい、一つの出口を求
ぎぜん
めつつ、巍然たる理想の前から一
歩一歩退く時、後方にある壁の根
せいさん
本は、いかに凄惨なる抵抗を突然
なすことであるか。
1460
道をさえぎる聖なる影を感ずる
心地は!
目に見えざる酷薄なるもの、そ
しつよう
れはいかに執拗につきまとってく
ることか!
本心との戦いには決して終わり
がない、ブルツスといえどもあき
らめるがいい。カトーといえども
あきらめるがいい。本心は神なる
がゆえに、底を持たない。その井
1461
戸の中へ、一生の仕事を投げ込み、
幸運を投げ込み、富を投げ込み、
成功を投げ込み、自由や祖国を投
げ込み、安寧も、休息も、喜悦も、
皆投げ込んでみよ。まだ、まだ、
びん
まだ足りない。瓶を空しゅうし、
つぼ
壺の底をはたけ。そして終わりに、
おのれの心をも投げ込まなければ
ならない。
もや
いにしえの地獄の靄の中には、
1462
おおだる
そういう大樽がどこかにある。
それを拒むのは許されないこと
であろうか。尽きることなき追求
はその権利を持ってるのであろう
か。限りなき鉄鎖は人力のたえ得
ないものではないのであろうか。
シシフス︵訳者注 死後地獄の中
にて永久に岩石を転がす刑に処せ
られし者︶やジャン・ヴァルジャ
ンが、﹁もうこれが力の限りだ!﹂
1463
と言うのを、だれかとがめる者が
あろうか。
まそん
物質の服従には、磨損するがた
めに一定の限度がある。しかるに、
精神の服従には限度がないのであ
ろうか。永久の運動が不可能であ
るとするのに、それでも永久の献
身が求め得らるるのであろうか。
第一歩は容易である。困難なの
は最後の一歩である。シャンマティ
1464
ユーの事件も、コゼットの結婚お
よび続いて来る事柄に比ぶれば何
であったろう。再び徒刑場にはい
ることも、虚無のうちにはいりゆ
くことに比ぶれば何であろう。
下降の第一段は、いかに暗いも
のであることか。更に第二段は、
いかに暗黒なるものであることか!
このたびは、いかにして顔をそ
むけないでおられようぞ。
1465
殉教は、一つの浄化である、侵
蝕による浄化である。聖化せしむ
かしゃく
る苛責である。最初のうちはそれ
を甘んじて受くることができる。
赤熱した鉄の玉座にすわり、赤熱
した鉄の冠を額にいただき、赤熱
した鉄の王国を甘諾し、赤熱した
しゃく
鉄の笏を執る。しかしなおその上
に炎のマントを着なければならな
い。そしてその時こそ、みじめな
1466
肉体は反抗し、人はその苦痛を避
けたく思うことが、ないであろう
か。
ついにジャン・ヴァルジャンは、
喪心の極、平静のうちにはいった。
彼は計画し、夢想し、光明と陰
はかりざら
影との神秘な秤皿の高低をながめ
た。
光り輝くふたりの若者に自分の
刑罰を添加すること、もしくは、
1467
救う道なき自分の陥没を自分ひと
りに止めること。前者はコゼット
を犠牲にすることであり、後者は
自己を犠牲にすることであった。
彼はいかなる解決をなしたか。
いかなる決心を定めたか。宿命の
森厳なる尋問に対して彼が心のう
ちでなした最後の確答は、何であっ
とびら
たか。いかなる扉を開こうと彼は
決心したか。生命のいかなる方面
1468
の扉を、彼はいよいよ閉鎖しよう
と決心したか。四方をとりまいて
だんがい
る測り知られぬ断崖のうち、いず
れを彼は選んだか。いかなる絶端
しんえん
を彼は甘受したか。それらの深淵
のいずれに向かって、彼は首肯し
たか?
こんめいてき
彼の昏迷的な夢想は終夜続いた。
彼はそのまま同じ態度で、寝床
の上に身をかがめ、巨大な運命の
1469
下に平伏し、おそらくは痛ましく
も押しつぶされ、十字架につけら
うつむ
れた後俯向けに投げ出された者の
こぶし
ように、拳を握りしめ両腕を十の
字にひろげて、夜が明けるまでじっ
としていた。十二時間の間、冬の
長い夜の十二時間の間、頭も上げ
ず一言も発しないで、凍りついた
ようになっていた。自分の思念が、
あるいは蛇のように地面をはい、
1470
わし
かけ
あるいは鷲のように天空を翔って
しがい
る間、死骸のように身動きもしな
いでいた。その不動の姿は、あた
かも死人のようだった。と突然彼
けいれんてき
は痙攣的に身を震わし、その口は
コゼットの衣裳に吸い着いて、そ
くち
れに脣づけをした。彼がなお生き
てることを示すものはただそれだ
けだった。
それを見ていた者は、だれであ
1471
るか、だれかであるか? ジャン・
ヴァルジャンはただひとりであっ
て、そこにはだれもいなかったで
はないか。
やみ
否、闇の中にある﹁あの人﹂が。
1472
第七編 苦杯の最後の一口
一 地獄の第七界と天
国の第八圏
結婚の翌日は寂しいものである。
人々は幸福なふたりの沈思に敬意
を表し、またその眠りの長引くの
に多少の敬意を表する。訪問や祝
1473
辞の混雑はしばらく後にしか始まっ
てこないものである。さて二月十
はねぼうき
七日の朝、もう正午少し過ぎた頃
ふきん
だったが、バスクが布巾と羽箒と
を腕にして、﹁次の間を片づけ﹂
とびら
ていた時、軽く扉をたたく音が聞
こえた。呼び鐘は鳴らされなかっ
た。こういう日にとっては少し不
謹慎な訪れ方だった。バスクが扉
を開くと、フォーシュルヴァン氏
1474
が立っていた。バスクは彼を客間
に通した。客間はまだいっぱい取
り散らされていて、前夜の歓楽の
なごりをとどめていた。
だんなさま
﹁まあ旦那様、﹂とバスクは言っ
た、﹁私どもは遅く起きましたの
で。﹂
﹁御主人は起きておいでかね。﹂
とジャン・ヴァルジャンは尋ねた。
﹁お手はいかがでございます。﹂
1475
とバスクは尋ね返した。
﹁だいぶいい。御主人は起きてお
いでかね。﹂
おおだんなさ
﹁どちらでございますか、大旦那
ま
様と若旦那様と。﹂
﹁ポンメルシーさんの方だ。﹂
﹁男爵様でございますか。﹂と言
いながらバスクはまっすぐに身を
伸ばした。
男爵などということは召し使い
1476
にとってはことに尊く思われるも
のである。彼らはそれから何かを
よまつ
受ける。哲学者が称号の余沫とで
も呼びそうなものを、彼らは自分
の身にまとって喜ぶ。ついでに言
うが、マリユスは共和の戦士であ
り、実際それを行為に示してきた
が、今は心ならずも男爵となって
いた。この称号に関して家庭内に
小さな革命が起こっていた。その
1477
称号を好んで用いるのは今ではジ
ルノルマン氏であって、マリユス
はむしろそれを避けていた。しか
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
し、﹁予が子は予の称号を用うべ
・
し﹂とポンメルシー大佐から書き
残されていたので、マリユスもそ
れに服従していた。その上、女た
る自覚ができかかってきたコゼッ
トは、男爵夫人たることを喜んで
いた。
1478
﹁男爵でございますか。﹂とバス
クは繰り返した。﹁見て参りましょ
う。フォーシュルヴァン様がおい
でになりましたと申し上げましょ
う。﹂
﹁いや、私だと言わないでくれ。
内々にお話したいことがあると言っ
てる人とだけで、名前は言わない
でくれ。﹂
﹁へえ!﹂とバスクは言った。
1479
﹁ちょっとびっくりさしてみたい
から。﹂
﹁へえ!﹂とバスクは、前の﹁へ
え!﹂を自ら説明するようにして
繰り返した。
そして彼は出て行った。
ジャン・ヴァルジャンはひとり
になった。
上に言ったとおり、客間の中は
すっかり取り散らされていた。も
1480
ばくぜん
し耳を澄ましたら、婚礼の漠然た
る騒ぎがまだ聞こえそうにも思わ
ゆか
れた。床の上には、花輪や髪飾り
ろうそく
から落ちた各種の花が散らばって
は り
いた。根元まで燃えつきた蝋燭は、
しょくだい
燭台の玻璃に蝋のしたたりを添え
ていた。器具はすっかりその位置
い す
が乱されていた。片すみには、三、
ひじか
四脚の肱掛け椅子が互いに丸く寄
せられてなお話を続けてるがよう
1481
へや
だった。室全体が笑っていた。宴
の果てた跡にもなお多くの優美さ
が残ってるものである。すべてが
幸福だったのである。乱れてるそ
しぼ
れらの椅子の上で、凋んでるそれ
らの花の間で、消えてるそれらの
灯火の下で、人々は喜びの念をい
だいたのである。今や太陽の光は
蝋燭の後を継いで、客間のうちに
楽しくさし込んでいた。
1482
数分間過ぎた。ジャン・ヴァル
ジャンはバスクと別れた所にじっ
と立っていた。顔は青ざめていた。
その目は落ちくぼんで、不眠のた
がんか
めほとんど眼窩の中に隠れてしまっ
しわ
ていた。その黒服には乱れた皺が
ついていて、一晩中着通されたこ
とを示していた。その肱は敷き布
とすれ合った跡が白く毛ばだって
いた。彼は自分の足もとに、太陽
1483
の光で窓の形が床の上に投げられ
てるのをながめていた。
とびら
扉の所に音がした。彼は目をあ
げた。
マリユスがはいってきた。頭を
え
上げ、口もとに笑みを浮かべ、一
種の輝きを顔に漂わせ、ゆったり
とした額で、揚々たる目をしてい
た。彼もまた一睡もしていなかっ
た。
1484
﹁あああなたでしたか、お父さ
ん!﹂と彼はジャン・ヴァルジャ
やつ
ンを見て叫んだ。﹁バスクの奴妙
にもっともらしい様子をしたりな
んかして! それにしてもたいそ
う早くいらしたですね。まだ十二
時半にしかなりませんよ。コゼッ
トは眠っています。﹂
フォーシュルヴァン氏に向かっ
てマリユスが言った﹁お父さん﹂
1485
という言葉は、最上の喜びを意味
するものだった。読者の知ってる
とおり、彼らの間には常に、絶壁
と冷ややかさと気兼ねとが、砕き
と
融かさなければならない氷が、介
在していた。ところが今やマリユ
スに喜びの時がきて、その絶壁も
低くなり、その氷も融け、フォー
シュルヴァン氏は彼にとってもコ
ゼットにとっても同じくひとりの
1486
父となったのである。
きよ
彼は続けて言った。喜悦の聖い
発作の特色として、言葉は彼から
あふれ出た。
﹁お目にかかってほんとにうれし
く思います。昨日いて下さらなかっ
たので私どもはどんなに寂しかっ
たでしょう。よくきて下さいまし
た、お父さん。お手はいかがです。
よろしい方で、そうではありませ
1487
んか。﹂
そして、自らいいと答えたのに
満足しながら、彼はなお言い続け
た。
﹁私どもはふたりでよくあなたの
うわさ
噂ばかりしています。コゼットは
どんなにかあなたを慕っています。
へや
この家にあなたのお室があること
もお忘れではありませんでしょう
ね。私どもはもうオンム・アルメ
1488
街をあまり好みません。実際もう
好ましくありません。どうしてあ
なたはあんな街路にお移りなすっ
たのです。あすこは、不健康で、
うるさくて、きたなくて、一方の
さく
端には柵があり、寒くて、とても
行けやしません。ここにお住みに
なったがよろしいです。今日から
そうなすって下さい。そうでない
とコゼットが承知しませんよ。まっ
1489
たくコゼットは私どもを自分の好
きなとおりにするつもりでいます。
へや
あなたはあの室をごらんなすった
でしょう。私どもの室のすぐわき
で、庭に向いています。錠前も直
してあれば、寝台も整っていて、
すっかり用意ができています。た
だおいでになりさえすればよろし
いんです。コゼットはあなたの寝
台のそばに、ユトレヒト製ビロー
1490
ドの大きな安楽椅子を据えて、お
父様をいたわっておくれと言いま
した。春になるといつも、窓の正
うぐいす
面にあるアカシアの茂みに、鶯が
やってきます。二カ月の間も続い
へや
ております。その鶯の巣がお室の
左にあって、私どものが右手にあ
るわけです。晩には鶯が歌い、昼
間はコゼットがお話相手になりま
す。室は日当たりも上等です。コ
1491
ゼットがあなたの書物も並べてあ
げます。クック大尉の旅行記やヴァ
ンクーヴァーの旅行記や、何でも
御入用なものを整えてあげます。
たしかごく大事にしていられる小
かばん
さな鞄が一つありましたね。あの
ためには片すみにちゃんと置き場
所をこしらえさしてあります。私
の祖父はまったくあなたに心服し
ています。ちょうどいいお相手で
1492
す。みんないっしょに住みましょ
う。あなたはトランプを御存じで
すか。もしおやりでしたら祖父は
どんなに喜ぶでしょう。私が裁判
所に弁論に出る時には、あなたが
コゼットを散歩に連れていって下
さい、昔リュクサンブールでなすっ
たように、コゼットに腕を貸して。
私どもは是非ともごく幸福にした
いときめています。それにはあな
1493
たの幸福も欠けてはいけません。
ねえお父さん。そして今日は、私
どもといっしょに朝食をして下さ
い。﹂
﹁私は、﹂とジャン・ヴァルジャ
ンは言った、﹁あなたに一つ話し
たいことがあるんです。私はもと
徒刑囚だった身の上です。﹂
およそ鋭い音は、耳に対すると
同じく精神に対しても、知覚の範
1494
囲を越すことがある。フォーシュ
・ ・ ・
ルヴァン氏の口から出た﹁私はも
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
と徒刑囚だった身の上です﹂とい
う言葉は、マリユスの耳に響きは
したが、まとまった意味の範囲を
越えたものだった。マリユスは了
解しなかった。ただ何か言われた
ように思えたが、何であるかわか
らなかった。彼はぼんやりしてし
まった。
1495
その時彼は、相手が恐ろしい様
子をしてるのに気づいた。彼は自
分の喜びに夢中になって、相手の
ひどく青ざめてるのがそれまで目
にはいらなかった。
ジャン・ヴァルジャンは右腕を
つっていた黒布を解き、手に巻い
ていた包帯をはずし、親指を出し
て、それをマリユスに示した。
﹁手はなんともなっていません。﹂
1496
と彼は言った。
マリユスはその親指をながめた。
﹁初めからなんともなかったので
す。﹂とジャン・ヴァルジャンは
また言った。
きずあと
実際何らの傷痕もなかった。
ジャン・ヴァルジャンは言い続
けた。
﹁私はあなたの結婚の席にいない
方がよかったのです。できるだけ
1497
出席しないようにつとめました。
私は偽証をしないために、結婚の
契約書に無効なものをはさまない
うそ
ために、署名することをのがれる
け が
ために、怪我をしたと嘘を言いま
した。﹂
マリユスは口ごもった。
﹁どういうわけですか。﹂
﹁そのわけは、﹂とジャン・ヴァ
ルジャンは答えた、﹁私は徒刑場
1498
にはいったことがある身だからで
す。﹂
﹁そんなことが!﹂とマリユスは
恐れて叫んだ。
﹁ポンメルシーさん、﹂とジャン・
ヴァルジャンは言った、﹁私は十
九年間徒刑場にいました。窃盗の
ためにです。次に無期徒刑に処せ
られました。窃盗のためにです。
再犯としてです。今では脱走の身
1499
の上です。﹂
マリユスはいたずらに、現実の
前にたじろぎ、事実を拒み、明確
を排しようとしたが、しかもその
本意を屈しなければならなかった。
彼はようやくいっさいを了解し始
めた。そしてかかる場合の常とし
て、言外のことまで了解した。内
けんお
りつぜん
心にさしてきた嫌悪すべき光に彼
せんりつ
は戦慄を覚えた。慄然たる一つの
1500
よ
観念が彼の精神を過ぎった。自分
にあてられてる一つのおぞましい
かいま
宿命を、未来のうちに垣間見た。
﹁すべてを言って下さい、すべて
を言って下さい!﹂と彼は叫んだ。
﹁あなたはコゼットの父ですね。﹂
そして彼は言い難い恐怖に駆ら
さが
れて二、三歩後ろに退った。
ジャン・ヴァルジャンは天井ま
で伸び上がるかと思われるような
1501
おごそかな態度で頭を上げた。
﹁今あなたは私の言うことを信じ
て下さらなければいけません。そ
して、私のような者の誓言は法廷
からは受け入れられませんけれど
も⋮⋮。﹂
そこで彼はちょっと口をつぐん
だ。それから一種の崇厳陰惨な力
をもって、ゆっくりと一語一語力
を入れて言い添えた。
1502
﹁⋮⋮私の言葉を信じて下さい。
コゼットの父は私ですと! 神に
誓って否と言います。ポンメルシー
いなかもの
男爵、私はファヴロールの田舎者
です。樹木の枝切りをして生活し
ていた者です。名前もフォーシュ
ルヴァンではなく、ジャン・ヴァ
ルジャンと言います。コゼットと
は何の縁故もありません。御安心
下さい。﹂
1503
マリユスはつぶやいた。
﹁だれが証明してくれましょう⋮
⋮。﹂
﹁私がです。私がそう言う以上
は。﹂
マリユスは相手をながめた。相
手は沈痛で落ち着いていた。そう
いう静平から偽りが出ようはずは
なかった。氷のごとき冷ややかさ
は誠実なものである。その墳墓の
1504
ごとき冷然さのうちには真実が感
ぜられた。
﹁私はあなたの言葉を信じます。﹂
とマリユスは言った。
ジャン・ヴァルジャンは承認す
るように頭を下げ、そしてまた言
い続けた。
﹁コゼットに対して私は何の関係
がありましょう。ただ通りがかり
の者にすぎません。十年前までは
1505
彼女が世にいることすらも知りま
せんでした。なるほど私が彼女を
愛していたのは本当です。既に年
を取ってからごく小さな娘を見る
と、それを愛したくなるものです。
年を取ってくると、どの子供に対
しても祖父のような気になるもの
です。私のような者でも人並みの
心をいくらか持ってるらしいです。
コゼットは孤児でした。父も母も
1506
ありませんでした。それでせめて
私でもあった方がよかったのです。
そういうわけで私は彼女を愛し始
めました。子供という者はか弱い
もので、偶然出会った私のような
者でもその保護者となり得ます。
私はコゼットに対して保護者の務
めをしてきました。私はそれくら
よ
いのことを善い行ないだと言い得
ようとは思いませんが、しかしも
1507
し善い行ないだとすれば、私がそ
れをしたことも考えてやって下さ
い。私の罪を多少なりと軽くする
ものとして考えていただきたいで
す。そして今日、コゼットは私の
手もとを離れ、ふたりは行路を異
にすることになりました。これか
ら以後、私はもうコゼットに対し
ては何の関係もなくなります。彼
女はポンメルシー夫人です。彼女
1508
の保護者が変わったわけです。そ
してコゼットにはそれが仕合わせ
です。万事好都合です。六十万フ
ランの金については、あなたは何
とも言われませんが、私から先に
申し上ぐれば、それは委託された
ものです。その委託金がどうして
私の手にはいったか、それは問う
必要はありますまい。私はただそ
れを返すまでです。それ以上私は
1509
人に求めらるるところはないはず
です。私は自分の本名を明かして
本来の自分に返りました。それは
私一個に関することです。ただ私
は、私がどんな人間だかあなたに
知っていただきたいのです。﹂
そしてジャン・ヴァルジャンは
マリユスの顔を正面からじっとな
がめた。
マリユスが感じたことは、ただ
1510
雑然たる連絡もないことばかりだっ
た。宿命のある種の風は人の魂の
うちにそういう波を立たせるもの
である。
自分のうちのすべてのものが分
散してしまうような惑乱の瞬間を
知らない者は、およそ世にあるま
い。そういう時人は、いつも的は
ずれのことをでたらめに口にする。
世には突然意外なことが現われて
1511
くることもあって、人はそれにた
え得ないで、強烈な酒を飲んだよ
うに酔わされてしまう。マリユス
は新たに現われてきた自分の地位
ぼうぜん
に惘然としてしまって、ほとんど
相手の自白を難ずるがような口の
きき方をした。
﹁ですが、﹂と彼は叫んだ、﹁な
ぜあなたはそんなことを私に言う
し
のです。だれに強いられて言うの
1512
です。自分ひとりで秘密を守って
おればいいではありませんか。あ
なたは告発されてもいず、捜索さ
れてもいず、追跡されてもいない
ではありませんか。自ら好んでそ
んなことを打ち明けられるのには
何か理由があるでしょう。言って
おしまいなさい。何かあるでしょ
う。どういうつもりで自白をなさ
るのです。どういう動機で?﹂
1513
﹁どういう動機?﹂とジャン・ヴァ
ルジャンは、マリユスに話しかけ
るというよりもむしろ自分自身に
話しかけるような低い鈍い声で答
えた。﹁なるほど、この囚徒が私
は囚徒ですと言ったのは、どうい
う動機からかと、そうです、妙な
動機でです。それは正直からです。
不幸なことですが、私の心の中に
私をつなぎ止めてる一筋の綱があ
1514
ります。ことに老年になるとその
綱がますます丈夫になるものです。
まわりの生活がすべてこわれかけ
てくるのに、その綱だけは頑固に
残ります。もし私が、その綱を払
いのけ、それを断ち切り、その結
び目を解くか切り捨てるかして、
遠くへ立ち去ることができてたら、
私は救われたでしょう。ただ出立
つするだけでよかったでしょう。
1515
ブーロア街に駅馬車もあります。
そうすれば、あなたは幸福になり、
私は行ってしまうだけです。で私
はその綱を切ろうとつとめ、引き
のけようとしたが、綱は丈夫で、
中々切れるどころではなく、私の
心をいっしょに引きもぎろうとす
るのです。その時私は、他の所へ
行って生活することはできないと
思いました。どうしても他へは行
1516
けません。で、なるほどあなたの
言われるのは道理です、私はばか
です。このまま黙ってここにいれ
へや
ばいいわけです。あなたは私に室
を一つ与えて下さるし、ポンメル
シー夫人は私を愛して、あの人を
あんらくいす
いたわっておくれと安楽椅子に言っ
じ い
て下さるし、あなたのお祖父様は
私がここにいさえすればよろしい
とおっしゃるし、私がそのお相手
1517
となり、皆いっしょに住みいっしょ
に食事をし、私はコゼット⋮⋮い
やごめん下さい、つい口癖になっ
てるものですから、で私はポンメ
ルシー夫人に腕を貸し、皆同じ屋
根、同じ食卓、同じ火、冬には暖
炉の同じ片すみに集まり、夏には
いっしょに散歩をする。実に喜ば
しいことで、実に楽しいことで、
それ以上のことはありません。そ
1518
して一家族のように暮らしてゆく、
一家族のように!﹂
その言葉を発して、ジャン・ヴァ
ルジャンはにわかに荒々しくなっ
た。彼は両腕を組み、あたかもそ
こに深い穴でも掘ろうとしてるよ
ゆか
うに足下の床をにらみつけ、声は
急に激しくなった。
﹁一家族! いや。私には家族は
ない。私はあなたの家族のひとり
1519
ではありません。およそ人間の家
族にはいるべき者でありません。
人が自分の家とする所では、どこ
へ行っても私はよけいな者となる
のです。世にはたくさんの家庭が
あるが、私が加わり得る家庭はあ
りません。私は不幸な者です。社
会の外にほうり出されてる人間で
す。父母があったとさえも思えな
いくらいです。私があの娘さんを
1520
結婚さした日、私のすべては終わ
りました。彼女が幸福であること、
愛する人といっしょにいること、
親切な御老人がおらるること、ふ
たりの天使の家庭ができたこと、
家中喜びに満ちてること、万事よ
くいってること、それを私は見て、
自分で言いました、汝は入るべか
うそ
らずと、実際私は、嘘をつくこと
もでき、あなた方皆を欺くことも
1521
でき、フォーシュルヴァン氏となっ
てることもできました。そして彼
女のためである間は嘘もつきまし
た。しかし今は私のためである以
上、嘘をついてはいけないのです。
なるほど私がただ黙ってさえおれ
ば、今のまま続いていったでしょ
し
う。あなたは、だれに強いられて
自白するのかと私にお尋ねなさる。
それは下らないものです。私の良
1522
心です。けれども、黙っているの
もまたたやすいことでした。私は
一晩中、黙っていようといろいろ
考えてみました。あなたは私にす
べてを打ち明けてくれと言われる。
実際私があなたに申したことは普
通のことではないので、あなたが
そう言われるのも無理はありませ
ん。ところで私は一晩中、いろい
ろ理屈を並べてみ、至当な理由を
1523
並べてみて、できるだけの努力は
しました。しかしどうしても私の
力に及ばないことが二つあったの
です。私の心をここにつなぎとめ
くぎ
釘付けにしこびりつかせてる綱を
断ち切ることと、ひとりでいる時
私に低く話しかけるある者を黙ら
け さ
せることとです。それで私は今朝
あなたにすべてを自白しにきまし
た。すべてを、もしくはほとんど
1524
すべてをです。私にだけ関係した
ことで言う必要のないものは、胸
にしまって申しません。要点は既
に御存じのとおりのことです。私
は自分の秘密を取り上げて、あな
たの所へ持ってきました。そして
あなたの目の前に底まで開いて見
せました。これは容易な決心では
なかったのです。私は終夜苦しみ
ました。私は自ら言ってみました。
1525
これはシャンマティユー事件とは
違う、自分の名前を隠したとてだ
れに害を及ぼすものでもない、
フォーシュルヴァンという名前は
あることをしてやった礼として
フォーシュルヴァン自身からもらっ
たものである、それを自分の名前
としておいてさしつかえない、あ
へや
なたからいただくあの室にはいっ
たらどんなに幸福だろう、だれの
1526
邪魔にもなるまい、自分だけの片
すみに引きこもっていよう、コゼッ
トはあなたのものであるが、私は
彼女と同じ家にいることを考えて
いようと。そうすれば各自相応な
幸福を得られるわけです。続けて
フォーシュルヴァンとなっておれ
ば、すべてはよくなるわけです。
もちろんただ私の魂を別にしては
です。そうして私のまわりには喜
1527
びの光が満ち、私の魂の底だけが
暗黒なばかりです。しかし人は幸
福であるだけでは足りません。満
足でなければいけません。そうし
て私はフォーシュルヴァン氏となっ
ており、自分の本当の顔を隠し、
あなたの晴れやかな心の前に私は
なぞ
謎をいだき、あなたの白日の輝き
の中に私は影をいだき、何らの警
告もせず善良な顔をしてあなたの
1528
家庭に徒刑場を引き入れ、もしあ
なたに知られたら追い払われるに
違いないと考えながら、あなたと
同じ食卓につき、もし召し使いた
ちに知られたら実に汚らわしいと
言われるに違いないと思いながら、
彼らから用をしてもらうことにな
るのです。当然あなたからきらわ
ひじ
れるべき肱をあなたに接し、あな
かた
たの握手を騙り取ることになりま
1529
す。あなたの家では、尊い白髪と
らくいん
烙印をおされた白髪との両方に、
尊敬を分かつことになります。最
も親しい談話の折り、皆が互いに
心の底まで打ち開いてると思って
じいさま
る時に、あなたのお祖父様とあな
た方ふたりと私と四人いっしょに
いる時に、そこにはもひとり見知
らぬ男がいることになります。私
ふた
は自分の恐ろしい井戸の蓋を開く
1530
まいということにばかり注意して、
あなた方の生活のうちに立ち交わ
ることになります。そうしてもは
や葬られてる私が、生命のあるあ
なた方の邪魔にはいることになり
ます。私は永久に彼女につきまと
うことになります。あなたとコゼッ
トと私と三人とも、緑色の帽子を
かぶることになります。あなたは
それでも平然としておられますか。
1531
私は最も踏みにじられた人間にす
ぎません。そしてこんどは最も恐
ろしい人間となるわけです。そし
て毎日罪悪を犯すこととなるでしょ
うそ
う。毎日嘘をつくこととなるでしょ
う。毎日暗夜の仮面をつけること
となるでしょう。毎日自分の汚辱
をあなた方に分かつこととなるで
しょう。毎日です、しかも私の愛
するあなた方に、私の子供たるあ
1532
なた方に、潔白なるあなた方にで
す。黙っているのが何でもないこ
とでしょうか。沈黙を守っている
のがわけもないことでしょうか。
いえ、わけもないことではありま
ぎま
せん。沈黙が虚偽となることもあ
きょうだ
ります。しかも私の虚偽、私の欺
ん
瞞、私の汚辱、私の怯懦、私の裏
切り、私の罪悪、それを私は一滴
一滴と飲み、また吐き出し、また
1533
飲み込み、夜中に終えてはまた昼
あいさつ
に始め、そして私の朝の挨拶も偽
りとなり、晩の挨拶も偽りとなり、
その虚偽の上に眠り、その虚偽を
パンと共に食い、しかもコゼット
と顔を合わせ、天使のほほえみに
地獄の者のほほえみで答え、忌む
まんちゃくしゃ
べき瞞着者となるわけです。幸福
になるにはどうしたらいいでしょ
うか。ああこの私が幸福になるに
1534
は! そもそも私に幸福になる権
利があるのでしょうか。私は人生
の外にいる者です。﹂
ジャン・ヴァルジャンは言葉を
切った。マリユスは耳を傾けてい
くもん
た。かかる一連の思想と苦悶との
声は決して中断するものではない。
ジャン・ヴァルジャンは再び声を
低めたが、こんどはもう単に鈍い
せいさん
声ではなくて凄惨な声だった。
1535
﹁なぜそんなことを言うのかとあ
なたは尋ねなさる。告発されても
捜索されても追跡されてもいない
ではないかと、あなたは言われる。
ところが事実私は告発されてるの
です。捜索され、追跡されてるの
です。だれからかと言えば、私自
身からです。私の行く手をさえぎ
る者は私自身です。私は自分を引
きつれ、自分を突き出し、自分を
1536
捕縛し、自分を処刑しています。
人は自分自身を捕える時ほど、し
かと捕えることはないものです。﹂
そして彼は自分の上衣をぐっと
つかんで、それをマリユスの方へ
引っ張った。
こぶし
﹁この拳をごらん下さい。﹂と彼
えり
は言い続けた。﹁この拳は襟をつ
かんでどうしても放さないように
は見えませんか。ところでこれと
1537
同じも一つの拳があります。すな
わち良心です。人は幸福でありた
いと欲するならば、決して義務と
いうことを了解してはいけません。
なぜなら、一度義務を了解すると、
義務はもう一歩も曲げないからで
す。あたかも了解したために罰を
受けるがようにも見えます。しか
し実はそうではありません。かえっ
て報われるものです。なぜなら、
1538
義務は人を地獄の中につき入れま
すが、そこで人は自分のそばに神
はら
を感ずるからです。人は自分の内
わた
臓を引き裂くと、自分自身に対し
て心を安んじ得るものです。﹂
そして更に痛切な音調で、彼は
言い添えた。
﹁ポンメルシーさん、これは常識
をはずれたことかも知れませんが、
しかし私は正直な男です。私はあ
1539
お
なたの目には低く堕ちながら、自
分の目には高く上るのです。前に
も一度そういうことがありました
が、こんどほど苦しいものではあ
りませんでした。何でもないこと
でした。そう、私はひとりの正直
な男です。しかし私の誤ったやり
方のために、もしあなたがなお続
けて私を重んずるようなことにな
れば、私はもう正直ではなくなり
1540
いや
ます。ところが今あなたは私を賤
しんでいられるから、私は正直な
男と言えるのです。私は一つの宿
にな
命を担っていまして、人の尊敬は
ただ盗んでしか得られないのです
が、そういう尊敬はかえって私を
はずかしめ私の内心を苦しめます。
そして自ら自分を尊敬するには、
人から賤しまれなければいけない
のです。その時私は始めてまっす
1541
ぐに立てます。私は自分の良心に
服従してる一徒刑囚です。他に類
もないことだとは自分でも知って
います。しかしどうしたらいいの
でしょう。それが事実です。私は
自分自身に対して約束をしていま
す。それを守るだけです。生涯の
うちには身を縛られるようなこと
に出会いもすれば、義務のうちに
引きずり込まれるような機会に会
1542
うこともあります。おわかりでしょ
う、ポンメルシーさん、私の生涯
にはいろいろなことが起こったの
です。﹂
ジャン・ヴァルジャンはまた言
葉を切りながら、自分の言葉の後
にが
口がいかにも苦いかのようによう
つば
やく唾をのみ込んで、また続けた。
けんお
﹁そういう嫌悪すべきものを身に
担っている場合、人はそれをひそ
1543
かに他人へ分かち与えてはいけま
せん、自分の疫病を他人に伝染さ
してはいけません、気づかれない
ようにして他人を自分の深みへ引
きずり込んではいけません、他人
にまでも自分の赤い着物をまとわ
こうかつ
せてはいけません、狡猾なやり方
をして自分のみじめさで他人の幸
きよ
福を妨げてはいけません。聖い人々
に近寄って、目に見えない自分の
1544
うみ
膿をひそかに他人になすること、
それは忌むべきことです。フォー
シュルヴァンは私にその名前を貸
してくれはしましたが、私にはそ
れを用うる権利はありません。彼
は私にその名前を与えることもで
きましたが、私はそれを取ること
ができませんでした。一つの名前
はすなわち一つの自己です。とこ
ろで私はひとりの田舎者にすぎま
1545
せんが、このとおり少しは考えも
し、少しは書物も読みました。そ
して物事のわきまえもあります。
このとおり相当に自分の意見も表
白できます。私は自分で自分を教
育しました。そう確かに、他人の
名前を盗み取ってその下に身を置
くのは、不正直なことです。アル
ファベットの文字は、金入れや時
かた
計のように騙り取ることもできま
1546
す。しかし、肉と骨とをそなえた
偽りの名前となり、生きた偽りの
かぎ
鍵となり、錠前をこじあけて正直
な人の家にはいり込み、決してまっ
ぬす
すぐに物を見ず、いつも偸み見ば
かりをし、自分の内部に汚辱をい
だいていることは、どうして、ど
うして、どうして! それよりも
むしろ、苦しみもだえ、血をしぼ
つめ
り、涙を流し、爪で肉体をかきむ
1547
しり、悩みにもだえて夜を過ごし、
自分の心身を自ら食いつくす方が、
よほどまさっています。そういう
わけで、私はすべてをあなたに話
しに参ったのです。おっしゃると
おり自ら好んでです。﹂
彼は苦しい息をついて、最後の
言葉を投げつけた。
﹁昔私は生きるために、一片のパ
ンを盗みました。そして今日私は、
1548
生きるために一つの名前を盗みた
くはありません。﹂
﹁生きるため!﹂とマリユスは言
葉をはさんだ。﹁生きるためにそ
の名前があなたに必要なわけはな
いでしょう。﹂
﹁ああ、あなたの言われる意味は
よくわかります。﹂とジャン・ヴァ
ルジャンは答えながら、幾度も続
けて頭をゆるく上げ下げした。
1549
それから沈黙が落ちてきた。ふ
たりとも黙り込んで、深く考えの
ふち
淵に沈んでしまった。マリユスは
テーブルのそばにすわり、折り曲
げた指の一本の上に口の角をもた
せていた。ジャン・ヴァルジャン
は歩き回っていた。そして彼は鏡
の前に立ち止まり、そこにじっと
たたずんだ。それから、映ってる
自分の姿も目に入れないで鏡の面
1550
をながめながら、あたかも内心の
推理に答えるかのように言った。
﹁でも、これで私は気が安らい
だ!﹂
へや
彼はまた歩き出して、室の先端
まで行った。そして向き返ろうと
した時、マリユスが自分の歩いて
るのをながめているのに気づいた。
その時彼は、名状し難い調子でマ
リユスに言った。
1551
﹁私の足は少し引きずり加減になっ
ています。その理由ももうおわか
りでしょう。﹂
それから彼はマリユスの方へすっ
かり向き直った。
﹁ところで、まあ仮りにこうなっ
たとしたらどうでしょう、私が何
にも言わず、フォーシュルヴァン
氏となっており、あなたの家には
いり込み、あなたの家庭のひとり
1552
となり、自分の室をもらい、毎朝
楽しく食事をし、晩は三人で芝居
に行き、私はテュイルリーの園や
ロアイヤル広場にポンメルシー夫
人の伴をし、皆いっしょに暮らし、
私も人並みの人間と思われている
とします。しかるにある日、私も
そこにおり、あなた方もそこにお
られ、いっしょに話をし笑い合っ
ている時に、突然ジャン・ヴァル
1553
ジャンと叫ぶ声が聞こえ、警察の
恐ろしい手が陰から現われてき、
私の仮面をにわかにはぎ取るとし
ます!﹂
彼はまた口をつぐんだ。マリユ
りつぜん
スは慄然として立ち上がっていた。
ジャン・ヴァルジャンは言った。
﹁それをあなたはどう思われま
す?﹂
マリユスは沈黙をもってそれに
1554
答えた。
ジャン・ヴァルジャンは続けて
言った。
﹁私は黙っていない方が正しいと、
あなたにもよくおわかりでしょう。
でどうか、あなたは幸福で、天に
あって、ひとりの天使をまもる天
使となり、日の光の中に住み、そ
れに満足して下さい。そして、ひ
とりのあわれな罪人が、自分の胸
1555
を開いて義務をつくすために取っ
た手段については、心をわずらわ
さないで下さい。今あなたの前に
立ってるのはひとりのみじめな男
です。﹂
へや
マリユスは静かに室を横切り、
ジャン・ヴァルジャンのそばにき
て、彼に手を差し出した。
しかしマリユスは相手が手を出
さないので、進んでそれを取らな
1556
ければならなかった。ジャン・ヴァ
ルジャンはなされるままに任した。
マリユスはあたかも、大理石の手
を握りしめたような気がした。
﹁私の祖父にはいくらも親しい人
がいます。﹂とマリユスは言った。
﹁あなたの赦免を得るように努め
てみましょう。﹂
﹁それはむだなことです。﹂とジャ
ン・ヴァルジャンは答えた。﹁私
1557
は死んだ者と思われています。そ
れで充分です。死んだ者は監視を
免れています。静かに腐蝕してる
な
と見做されています。死は赦免と
同じことです。﹂
そしてマリユスに握られていた
手を放しながら、犯すべからざる
威厳をもって言い添えた。
﹁その上、義務を果たすことは、
頼りになる友を得ると同じです。
1558
私はただ一つの赦免をしか必要と
しません、すなわち自分の良心の
赦免です。﹂
その時、客間の他の一端にある
とびら
扉が少し静かに開いて、その間か
らコゼットの頭が現われた。こち
らからはそのやさしい顔だけしか
見えなかった。髪はみごとに乱れ
まぶた
ており、眼瞼はまだ眠りの気にふ
くらんでいた。彼女は巣から頭を
1559
差し出す小鳥のような様子で、最
おっと
初に夫をながめ、次にジャン・ヴァ
ば ら
ルジャンをながめ、そして薔薇の
花の奥にあるほほえみかと思われ
るような笑顔をして、彼らに言葉
をかけた。
﹁政治の話をしていらっしゃるの
ね、私をのけものにして何という
ことでしょう!﹂
ジャン・ヴァルジャンは身を震
1560
わした。
﹁コゼット!﹂とマリユスはつぶ
やいた。そしてそのまま口をつぐ
んだ。あたかも彼らふたりは罪人
ででもあるかのようだった。
コゼットは光り輝いて、なおふ
たりをかわるがわる見比べていた。
その日の中には、楽園の反映があ
るかと思われた。
﹁実際の所をつかまえたのよ。﹂
1561
とコゼットは言った。﹁フォーシュ
ルヴァンお父様が、良心だの義務
を果たすだのとおっしゃってるの
と
を、私は扉の外から聞いたんです
もの。それは政治のことでしょう。
いやよ。すぐ翌日から政治の話を
するなんていけないことよ。﹂
﹁そうではないんだよ、コゼッ
ト。﹂とマリユスは答えた。﹁僕
たちは用談をしている。お前の六
1562
十万フランをどこに預けたら一番
いいか話し合って⋮⋮。﹂
﹁いえ、そんなことではないわ。﹂
とコゼットはそれをさえぎった。
﹁私もはいって行ってよ。私が参っ
てもいいでしょう。﹂
彼女は思い切って扉から出て、
そで
客間の中にはいってきた。たくさ
ひだ
んの襞と大きな袖のあるまっ白な
広い化粧着をつけて、それを首か
1563
ら足先まで引きずっていた。古い
ゴチックの画面には天使のまとう
そういう美しい長衣が黄金色の空
に描いてある。
コゼットは大鏡に映して自分の
姿を頭から足先までながめ、それ
から言い難い喜びにあふれて叫ん
だ。
﹁むかし王様と女王様とがおられ
はなし
ました、というお噺のようだわ。
1564
私ほんとにうれしいこと!﹂
そう言って彼女は、マリユスと
ジャン・ヴァルジャンとに会釈し
た。
い す
﹁さあ私は、﹂と彼女は言った、
ひじか
﹁あなた方のそばの肱掛け椅子に
すわっていますわ。もう三十分も
すれば御飯なのよ。何でも好きな
ことを話しなさるがいいわ。男の
方って話をしずにはいられないも
1565
のね。私おとなしくしています
わ。﹂
マリユスは彼女の腕を取って、
やさしく言った。
﹁僕たちは用談をしているのだか
らね。﹂
﹁あそうそう、﹂とコゼットはそ
れに答えて言った、﹁私窓をあけ
たら、庭にたくさんピエロ︵訳者
注 雀の俗称︶がきていましたわ。
1566
小鳥の方のよ、仮装のではないの
よ。今日は灰の水曜日︵四旬節第
一日︶でしょう。でも小鳥には大
斎日もないのね。﹂
﹁僕たちは用談をしているんだか
ら、ねえ、コゼット、ちょっと向
こうへ行ってておくれ。数字のこ
えり
とだからお前は退屈するに違いな
い。﹂
け さ
﹁まああなたは、今朝きれいな襟
1567
かざ
飾りをしていらっしゃるのね。ほ
んとにおしゃれだこと。いえ、数
字でも私は退屈しませんわ。﹂
﹁きっと退屈するよ。﹂
﹁いいえ。なぜって、あなたのお
話ですもの。よくはわからないか
知れないけれど、おとなしく聞い
ていますわ。好きな人の声を聞い
ておれば、その意味はわからなく
てもいいんですもの。ただ私はいっ
1568
しょにいたいのよ。あなたといっ
しょにいますわ、ねえ。﹂
﹁大事なお前のことだけれど、そ
れはいけないんだ。﹂
﹁いけないんですって!﹂
﹁ああ。﹂
﹁よござんすわ。﹂とコゼットは
言った。﹁いろんなお話があるん
じいさま
み さ
だけれど。お祖父様はまだお起き
おばさま
になっていません。伯母様は弥撒
1569
に参られました。フォーシュルヴァ
へや
ンお父様の室では、暖炉から煙が
出ています。ニコレットは煙筒掃
除人を呼びにやりました。トゥー
けんか
サンとニコレットとはもう喧嘩を
しました。ニコレットがトゥーサ
ども
ンの吃りをからかったんです。で
も何にもあなたには話してあげな
いわ。いけないんですって? で
は私の方でも、覚えていらっしゃ
1570
い、いけないと言ってあげるわ。
どちらが降参するでしょうか。ね
え、マリユス、私もあなたたちお
ふたりといっしょにここにいさし
て下さいな。﹂
﹁いや、是非ともふたりきりでな
ければいけないのだ。﹂
﹁では私はほかの者だとおっしゃ
るの?﹂
ジャン・ヴァルジャンはそれま
1571
で一言も発しなかった。コゼット
は彼の方を向いた。
せっぷん
﹁まずお父様、私はあなたに接吻
していただきたいわ。私の加勢も
しず何ともおっしゃらないのは、
どうなすったんです。そんなお父
様ってあるものでしょうか。この
とおり私は家庭の中でごく不幸で
おっと
すの。夫が私をいじめます。さあ
すぐに私を接吻して下さいな。﹂
1572
ジャン・ヴァルジャンは近寄っ
た。
コゼットはマリユスの方を向い
た。
﹁私はあなたはいや。﹂
それから彼女はジャン・ヴァル
ジャンに額を差し出した。
ジャン・ヴァルジャンは一歩進
み寄った。
コゼットは退った。
1573
﹁お父様、まあお顔の色が悪いこ
と。お手が痛みますの。﹂
﹁それはもうよくなった。﹂とジャ
ン・ヴァルジャンは言った。
﹁よくお眠りにならなかったんで
すか。﹂
﹁いいや。﹂
﹁何か悲しいことでもおありにな
るの。﹂
﹁いいや。﹂
1574
せっぷん
﹁私を接吻して下さいな。どこも
お悪くなく、よくお眠りになり、
御安心していらっしゃるのなら、
こごと
私何とも小言は申しません。﹂
そして新たに彼女は額を差し出
した。
ジャン・ヴァルジャンは天の反
くちびる
映の宿ってるその額に脣をあてた。
﹁笑顔をして下さいな。﹂
ジャン・ヴァルジャンはその言
1575
に従った。しかしそれは幽霊の微
笑のようだった。
おっと
﹁さあ夫から私をかばって下さ
い。﹂
﹁コゼット!﹂とマリユスは言っ
た。
﹁お父様、怒ってやって下さい。
私がいる方がいいと言ってやって
下さい。私の前ででもお話はでき
ます。私をばかだと思っていらっ
1576
しゃるのね。ほんとにおかしいわ、
用談だの、金を銀行に預けるだのっ
て、大した御用ですわね。男って
もったい
何でもないことに勿体をつけたが
るものね。私ここにいたいんです。
け さ
私は今朝大変きれいでしょう、マ
リユス、私を見てごらんなさい。﹂
そしてかわいい肩を少しそびや
かし、ちょっとすねてみた何とも
言えない顔をして、彼女はマリユ
1577
スをながめた。ふたりの間には一
種の火花があった。そこに人がい
ようと少しもかまわなかった。
﹁僕はお前を愛するよ!﹂とマリ
ユスは言った。
﹁私はあなたを慕ってよ!﹂とコ
ゼットは言った。
そしてふたりはどうすることも
・ ・
できないでしかと抱き合った。
﹁もうこれで、私がここにいても
1578
いいでしょう。﹂とコゼットは勝
ち誇ったようにちょっと口をとが
ひだ
らして化粧着の襞をなおしながら
言った。
﹁それはいけない。﹂とマリユス
は哀願するような調子で答えた。
﹁僕たちはまだきまりをつけなけ
ればならないことがあるから。﹂
﹁まだいけないの?﹂
マリユスは厳格な口調で言った。
1579
﹁コゼット、どうしてもいけない
のだ。﹂
﹁ああ、あなたは太い声をなさる
のね。いいわ、行ってしまいます。
お父様も私を助けて下さらないの
ね。お父様もあなたも、ふたりと
じいさま
もあまり圧制です。お祖父様に言
いつけてあげます。私がまたじき
に戻ってきてつまらないことをす
るとお思いなすっては、まちがい
1580
ほこ
ですよ。私だって矜りは持ってい
がた
ます。こんどはあなた方の方から
いらっしゃるがいいわ。私がいな
けりゃあなた方の方で退屈なさる
から、見ててごらんなさい。私は
行ってしまいます、ようございま
す。﹂
そして彼女は出て行った。
とびら
二、三秒たつと、扉はまた開い
とびら
て、彼女の鮮麗な顔が扉の間から
1581
も一度現われた。彼女はふたりに
叫んだ。
﹁ほんとに怒っていますよ。﹂
へや
扉は再び閉ざされ、室の中は影
のようになった。
彼女が現われたのは、あたかも
よ
道に迷った太陽の光が、自ら気づ
やみよ
かないで突然闇夜を過ぎったがよ
うなものだった。
マリユスは扉が固く閉ざされた
1582
のを確かめた。
﹁かわいそうに!﹂と彼はつぶや
いた、﹁コゼットがやがて知った
ら⋮⋮。﹂
その一言にジャン・ヴァルジャ
こんめい
ンは全身を震わした。彼は昏迷し
た目でマリユスを見つめた。
﹁コゼット! そう、なるほどあ
なたはコゼットに話されるつもり
でしょう。ごもっともです。だが
1583
私はそのことを考えていませんで
した。人は一つの事には強くても、
他の事にはそうゆかない場合があ
ります。私はあなたに懇願します、
哀願します、どうか誓って下さい、
彼女には言わないと。あなたが、
あなただけが、知っている、とい
うので充分ではないでしょうか。
し
私は他から強いられなくとも自ら
それを言うことができました。宇
1584
宙に向かっても、世界中に向かっ
ても、公言し得るでしょう。私に
は結局どうでもいいことです。し
かし彼女は、彼女には、それがど
んなことだかわかりますまい。ど
んなにおびえるでしょう。徒刑囚、
それが何であるかも説明してやら
なければなりますまい。徒刑場に
はいっていた者のことだ、とも言っ
てやらなければなりますまい。彼
1585
ひとくさり
女は、かつて一鎖の囚人らが通る
い す
のを見たことがあります。ああ!﹂
ひじか
彼は肱掛け椅子に倒れかかり、
両手で顔をおおうた。声は聞こえ
なかったが、肩の震えを見れば、
泣いてるのが明らかだった。沈黙
ていきゅう
の涕泣、痛烈な涕泣だった。
むせび泣きのうちには息のでき
けいれん
ないことがある。彼は一種の痙攣
にとらえられ、息をするためのよ
1586
そ
うに椅子の背に身を反らせ、両腕
をたれ、涙にぬれた顔をマリユス
の前にさらした。そしてマリユス
は、底のない深みに沈んでるかと
思われる声で、彼が低くつぶやく
のを耳にした。
﹁おお死にたい!﹂
﹁御安心なさい、﹂とマリユスは
言った、﹁あなたの秘密は私だけ
でだれにももらしません。﹂
1587
そしてマリユスは、おそらく読
者が想像するほど心を動かされて
はいなかったであろうが、一時間
ばかり前から意外な恐ろしいこと
にもなれてこざるを得なかったし、
目の前で一徒刑囚の姿が徐々に
フォーシュルヴァン氏の姿に重なっ
てくるのを見、痛むべき現実にし
だいにとらえられ、その場合の自
然の傾向として、相手と自分との
1588
間にできたへだたりを認めざるを
得ないようになって、こう言い添
えた。
﹁私は、あなたが忠実にまた正直
に返して下すった委託金について、
一言も言わないではおられないよ
うな気がします。それは実に清廉
な行ないです。あなたはその報酬
を受けられるのが正当です。どう
かあなたから金額を定めて下さい、
1589
それだけ差し上げますから。いか
ほど多くとも御遠慮にはおよびま
せん。﹂
﹁御親切は感謝します。﹂とジャ
ン・ヴァルジャンは穏やかに答え
た。
彼はしばらく考え込んで、人差
つめ
し指で親指の爪を機械的にこすっ
ていたが、やがて口を開いた。
﹁もうほとんど万事すんだようで
1590
す。そして最後にも一つ残ってい
ますが⋮⋮。﹂
﹁何ですか。﹂
ジャン・ヴァルジャンはこれを
ちゅうちょ
最後というように躊躇しながら、
声という声も出さず、ほとんど息
もしないで、言った、というより
むしろ口ごもった。
﹁すべてを知られた今となっては、
御主人としてあなたは、私がもう
1591
コゼットに会ってはいけないとお
考えになるでしょうか。﹂
﹁その方がいいだろうと思いま
す。﹂とマリユスは冷ややかに答
えた。
﹁ではもう会いますまい。﹂とジャ
ン・ヴァルジャンはつぶやいた。
とびら
そして彼は扉の方へ進んでいっ
た。
かんぬき
彼はとっ手に手をかけ、閂子は
1592
はずれ、扉は少し開いた。ジャン・
ヴァルジャンは通れるくらいにそ
れを開き、ちょっと立ち止まり、
それからまた扉をしめて、マリユ
スの方へ向き直った。
彼はもう青ざめてるのではなく、
ほとんど色を失っていた。目には
もう涙もなく、ただ悲壮な一種の
炎が宿っていた。その声は再び不
思議にも落ち着いていた。
1593
﹁ですが、﹂と彼は言った、﹁も
しおよろしければ、私は彼女に会
いにきたいのです。私は実際それ
を非常に望んでいます。もしコゼッ
トに会いたくないのでしたら、あ
なたにこんな自白はしないで、す
ぐにどこかへ行ってしまったはず
です。けれども、コゼットのいる
所に留まっており、やはり続けて
会いたいと思いますから、すべて
1594
を正直にあなたに申さなければな
らなかったのです。私の考えの筋
はおわかりでしょう、容易にわか
ることです。私は九カ年以上も彼
女といっしょにいたのです。私ど
あばらや
もは初めは大通りの破家に住み、
それから修道院に住み、次にリュ
クサンブールの近くに住んでいま
した。あなたが始めて彼女に会わ
れたのはリュクサンブールでです
1595
ね。彼女の青いペルシの帽を覚え
ておいでですか。それから私ども
は、アンヴァリード街区に行きま
した。鉄門と庭とのある家です。
プリューメ街です。私は小さな後
庭の離れに住んでいて、そこから
いつも彼女のピアノを聞いていま
した。それが私の生命でした。私
どもは決して別々になったことは
ありませんでした。九年と何カ月
1596
か続いたのです。私は実の親のよ
うであり、彼女は実の娘のようで
した。あなたにもよくおわかりか
どうか知りませんが、ポンメルシー
さん、今立ち去ってしまい、もう
彼女に会わず、もう彼女に言葉も
かけず、まったく彼女を失ってし
まうのは、実にたえ難いことです。
もし悪いとお考えになりませんで
したら、私は時々コゼットに会い
1597
にきたいのです。たびたびは参り
ません。長居もいたしません。表
へや
の小さな室にきめていただいても
し た
よろしいです。階下の室ででもよ
ろしいです。召し使い用の裏門か
ら出入りしてもかまいません。し
かしそれではかえって怪しまれま
しょう。やはり普通の表門からは
いった方がよろしいでしょう。まっ
たくのところ私は、なおコゼット
1598
に会いたいのです。どんなにまれ
にでもよろしいです。私の地位に
なって考えて下さい。私はそれ以
外に何の望みもありません。それ
にまたもちろん用心もしなければ
なりません。私がまったくこなく
なれば、かえって悪いことになり、
人から不思議に思われるでしょう。
で最も都合よくするには、夕方参っ
た方がいいでしょう、夜になろう
1599
とする頃。﹂
﹁毎晩こられてもよろしいです。﹂
とマリユスは言った。﹁コゼット
にお待ちさせます。﹂
﹁御親切はありがたく思います。﹂
とジャン・ヴァルジャンは言った。
マリユスはジャン・ヴァルジャ
とびら
ンにお辞儀をし、幸福は絶望を扉
の所まで送り出し、そしてふたり
は別れた。
1600
二 語られし秘密の中
の影
マリユスの心は転倒してしまっ
た。
コゼットのそばについてるその
男に対して、彼がいつも感じてい
た一種のへだたりは、今や彼にも
了解できた。その男の身には何と
なぞ
なく謎のような趣があって、彼は
1601
本能からそれに気づいていたので
ある。謎というのは、最も忌まわ
しい汚辱、徒刑場だった。あの
フォーシュルヴァン氏は徒刑囚ジャ
ン・ヴァルジャンであった。
幸福の最中に突然そういう秘密
はと
を知ることは、あたかも鳩の巣の
さそり
中に蠍を見いだすがようなものだっ
た。
マリユスとコゼットとの幸福は、
1602
となり
今後かかるものと隣しなければな
らないように定められていたのか。
それはもう動かし難い事実だった
のか。成立した結婚の一部として
その男を受け入れなければならな
かったのか。もはやいかんともす
る道はなかったのか。
マリユスは徒刑囚ともまた離れ
難い関係となったのか。
いかに光明や喜悦の冠をいただ
1603
こうとも、人生の紅の時期を、幸
福な愛を、いかに味わおうとも、
それを忍ぶことができようか。か
こうこつ
かる打撃は、恍惚たる大天使をも、
光栄に包まれたる半神をも、必ず
せんりつ
や戦慄させるであろう。
かかる限界の激変の常として、
マリユスは自ら責むべき点はない
どうさつ
かを顧みてみた。洞察の明を欠い
てはいなかったか。注意の慎重さ
1604
を欠いてはいなかったか。いつと
なくうっかりしてはいなかったか。
おそらく多少その気味があったか
も知れない。ついにコゼットとの
結婚に終わったその恋愛事件のう
ちに、まず周囲のことを明らかに
しないで、不注意にふみ込んでゆ
きはしなかったか。およそ吾人が
生活から少しずつ改善されてゆく
のは、吾人が自ら自身に対してな
1605
す一連の認定によってであるが、
彼も今、自分の性質の空想夢幻的
な一面を自認した。そういう一面
は、多くの者が有する一種の内心
の雲であって、熱情や悲哀の激発
のうちにひろがってゆき、魂の気
温に従って変化し、その人全体を
侵し、その本心を霧に包んでしま
うものである。われわれは前にし
ばしば、マリユスの個性のこの独
1606
特な要素を指摘しておいた。マリ
ユスは今になってようやく思い起
こした、自分の恋に酔いながらプ
リューメ街で、無我夢中になって
いた六、七週間の間、あのゴルボー
あばらや
の破家における活劇のことを、争
闘の間沈黙していて次に逃げ出す
という不思議な行動を被害者が取っ
たあの活劇のことを、コゼットに
一口も語らなかったのを。その事
1607
件を少しもコゼットに話さなかっ
たというのは、どうしたことだろ
うか。ごく最近のことだったのに!
テナルディエという名前をさえ
口外しなかったのは、ことにエポ
ニーヌに会った日でさえ口をつぐ
んでいたのはどうしたことだった
ろうか。今となってみれば、彼は
その当時の自分の沈黙をほとんど
自ら説明に苦しむほどだった。け
1608
れどもいろいろ理由も考えられた。
自分のそそっかしいこと、コゼッ
トに酔ってしまっていたこと、す
べてが恋にのみつくされていたこ
と、互いに理想の天地に舞い上がっ
ていたこと、またおそらく、その
激越な楽しい心の状態にほとんど
わからぬくらいの理性が交じって
ばくぜん
いて、ために漠然たる鋭い本能か
ら、あの触れることを恐れていた
1609
恐怖すべき事件について、何らの
役目もつとめたくなく、ただのが
れようとばかり欲していて、その
話をしまたは証人となるには同時
に告訴者とならざるを得ない地位
に自分が立ってるあの事件を、記
いんめつ
憶のうちに隠して堙滅さしてしま
おうとしていたこと。それにまた、
その数週間は電光のようであって、
ただ愛し合うのほか何の余裕もな
1610
かった。それからまた、すべてを
考量し、すべてをひっくり返して
み、すべてを調べて、ゴルボー屋
敷の待ち伏せのことをコゼットに
話し、テナルディエという名前を
彼女に言ったところで、その結果
はどうなったろうか。ジャン・ヴァ
ルジャンが徒刑囚であることを発
見したところで、彼マリユスの心
が変わり、またコゼットの心が変
1611
わったであろうか。それで彼は退
いたであろうか。彼女を愛しなく
なったであろうか。彼女と結婚し
なくなったであろうか。否。何か
が今と違うようになったであろう
か。否少しも。それでは何も後悔
し、何も自責することはなかった
ではないか。すべていいようになっ
めいていしゃ
たのだ。恋人と呼ばるる酩酊者に
とっては一つの神があるものであ
1612
る。マリユスは盲目でありながら、
どうさつ
洞察の明をそなえていたのと少し
も変わらない道をたどったのであ
る。恋は彼の目をおおっていた。
しかしそれはどこへ導かんがため
にか。楽園へ導かんがためにでは
なかったか。
かたわら
しかし今後は、その楽園は傍に
地獄を引き連れてゆくことになっ
たのである。
1613
あの男に対して、ジャン・ヴァ
ルジャンとなったフォーシュルヴァ
ンに対して、元からマリユスがい
だいていたへだたりの感じは、今
けんお
は嫌悪の情を交じうるに至った。
あえて言うが、その嫌悪の情の
中にはまた、あわれみの念があり、
ある驚きの念さえも含まれていた。
その盗人は、その再犯の盗人は、
委託金をそのまま返した。しかも
1614
いくらであるかと言えば、実に六
十万フランである。彼ひとりしか
その秘密を知ってる者はなかった。
そしてすべてを自分のものとなし
得るのだった。しかも彼はそっく
り返してしまった。
その上、彼は自ら進んで身分を
打ち明けた。しかも何からも強い
られたのではない。彼がいかなる
者であるかを人に知られたとすれ
1615
ば、それは彼自身の言葉によって
である。その自白はただに屈辱を
甘受するばかりではなく、また危
険をも甘受するものであった。罪
人にとっては、仮面は単なる仮面
でなく、また一つの避難所である。
彼はその避難所を自ら捨ててしまっ
た。偽名は一身の安全を得さする
ものである。彼はその偽名を自ら
投げ捨ててしまった。徒刑囚たる
1616
彼も正しい家庭のうちに長く身を
隠し得たのであるが、彼は自らそ
の誘惑に抵抗した。そしてそれら
はいかなる動機からかと言えば、
ただ良心の懸念からである。彼は
偽りだとはどうしても思えない強
い調子でそれを自ら説明した。要
するにこのジャン・ヴァルジャン
なる者がいかなる男であったにせ
よ、確かに目ざめたる一つの良心
1617
であった。そこには神秘な再生が
始まっていた。そして外からなが
めたところによれば、彼は既に長
しもべ
い以前から謹直の僕となっていた。
げせん
かかる正と善との発動は下賤な性
格者にはあり得べからざることで
かくせい
ある。良心の覚醒、それは魂の偉
大さを示すものである。
ジャン・ヴァルジャンは誠実で
あった。その誠実さは、目に見え
1618
るものであり、手に触れられるも
のであり、否定し得べからざるも
のであり、そのために彼が自ら受
けた悲痛の情によっても明らかに
知らるるものであって、真実か否
せんさく
かの穿鑿を不用ならしめ、彼が言っ
たすべてに権威を与えていた。か
くてマリユスは不思議な地位には
さまれた。フォーシュルヴァン氏
の口から出てくるものは、すべて
1619
不誠実であり、ジャン・ヴァルジャ
ンの口から発するものは、すべて
誠実であった。
マリユスは種々考慮してジャン・
ヴァルジャンに対する不思議な貸
借表を作ってみ、その貸しと借り
とを調べ上げ、一つの平均点に達
せんとつとめた。しかしそれらは
すべてあたかも暴風雨の中にある
がようだった。マリユスはその男
1620
に対して明確な観念を得ようとつ
とめ、言わばジャン・ヴァルジャ
ンの思想の奥底まで見きわめよう
としたが、彼の姿はいかんともし
もや
難い靄の中に出没してとらえ難かっ
た。
正直に返された委託金、誠実に
なされた告白、それは善良なるこ
とであった。それはあたかも雲の
中にひらめく光のようなものだっ
1621
た。が次にまた雲は暗くなった。
マリユスの記憶はいかにも混乱
していたが、多少の影は浮かんで
きた。
ろうおく
ジョンドレットの陋屋における
あの事件は果たしてどういうこと
であったろうか。警官がきた時、
なぜあの男は訴えることをせずに
逃げ出してしまったのか。そのこ
とについてはマリユスも答えを見
1622
いだし得た。すなわちその男は脱
走の身で法廷から処刑されていた
からである。
次に第二の疑問が起こってきた。
ぼうさい
なぜあの男は防寨にやってきたの
か。というのは、今やマリユスは
あぶりだ
炙出しインキのように、記憶が激
しい情緒のうちに再び現われてく
るのを明らかに認めたからである。
あの男は防寨にいた。しかも戦っ
1623
てはいなかった。いったい何をし
にきたのであるか。その疑問に対
して、一つの幻が浮かんできて答
えた、ジャヴェルと。ジャン・ヴァ
ルジャンが縛られてるジャヴェル
を防寨の外へ連れてゆくすごい光
景を、マリユスは今明らかに思い
起こした、そしてモンデトゥール
かど
小路の角の向こうに恐ろしいピス
トルの音がしたのを、今なお耳に
1624
するがように覚えた。おそらくあ
スパイ
の間諜とあの徒刑囚との間には、
ぞうお
憎悪の念があったに違いない。互
ふくし
いに邪魔になっていたのであろう。
ぼうさい
それでジャン・ヴァルジャンは復
ゅう
讐をしに防寨へきたのだ。彼は遅
くやってきた。たぶんジャヴェル
が捕虜になってることを知ってき
たのかも知れない。コルシカのい
わゆるヴェンデッタ︵訳者注 コ
1625
ルシカの閥族間に行なわれる猛烈
な復讐︶はある種の下層社会には
いりこんで一つの法則となってい
る。半ば善の方へ向かってる者で
もそれを至当だと思うほど普通の
ことになっている。彼らは悔悟の
途中において窃盗は慎むとしても、
ちゅうちょ
復讐には躊躇しない。それでジャ
ン・ヴァルジャンはジャヴェルを
殺したのだ。あるいは少なくとも
1626
殺したらしい。
最後になお一つの問題が残って
いた。そしてこれには何らの解答
も得られなかった。マリユスはあ
くぎぬ
たかも釘抜きにはさまれたように
感じた。すなわち、ジャン・ヴァ
ルジャンとコゼットとあれほど長
く生活を共にしてきたのは、どう
してだったろうか。この少女をあ
の男といっしょに置いた痛ましい
1627
天の戯れは、何の意味だったろう
か。天上には二重鍛えの鎖もある
もので、神は天使と悪魔とをつな
ぎ合わして喜ぶのであろうか。罪
ろうごく
悪と潔白とが悲惨の神秘な牢獄に
へや
おいて室を同じゅうすることもあ
るのか。人間の宿命と呼ばるる一
連の囚徒のうちにおいて、二つの
きよ
額が、一つは素朴であり、一つは
どうもう
獰猛であり、一つは曙の聖い白色
1628
ごうか
に浸り、一つは劫火の反映で永久
に青ざめている、二つの額が、相
並ぶこともあるのか。その説明し
難い配合をだれが決定し得たのか。
いかにして、いかなる奇跡によっ
て、この天の少女と地獄の老人と
の間に共同の生活が立てられたの
おおかみ
か。何者が子羊を狼に結びつけ得
たのか。そして更に不可解なこと
には、何者が狼を子羊に愛着させ
1629
得たのか。なぜならば、その狼は
子羊を愛していたではないか、凶
猛なる者がか弱い者を慕っていた
ではないか、また九カ年間、天使
は怪物によりかかって身をささえ
ていたではないか。コゼットの幼
年および青年時代、世の中への顔
きよ
出し、生命と光明との方への潔い
生育、それらは皆この不思議な献
身によってまもられていたのであ
1630
しんえん
る。ここに問題は、言わば数限り
なぞ
ない謎に分かれ、深淵の下に更に
深淵が開けてきて、マリユスはも
げんうん
はや眩暈を感ぜずにはジャン・ヴァ
ルジャンの方をのぞき込むことが
できなかった。その深淵のごとき
男はそもそも何者であったろうか。
ひ ゆ
創世紀の古い比喩は永久に真な
るものである。現在のごとき人間
の社会には、将来大なる光によっ
1631
て変化されない限り、常に二種の
人間が存在する。一つは高きにあ
る者であり、一つは地下にある者
である。一つは善に従う者、すな
わちアベルであり、一つは悪に従
うもの、すなわちカインである。
しかるに今、このやさしい心のカ
インは、そもそもいかなるもので
あったろうか。処女に対して、敬
虔な心を傾けて愛し、彼女を監視
1632
し、彼女を育て、彼女をまもり、
彼女を敬い、自ら不潔の身であり
ながら、純潔をもって彼女をおお
い包むこの盗賊は、そもそもいか
む く
なるものであったろうか。無垢な
る者を尊んで、それに一つの汚点
おでい
をもつけさせなかったこの汚泥は、
そもそもいかなるものであったろ
うか。コゼットを教育したこのジャ
ン・ヴァルジャンは、そもそもい
1633
かなるものであったろうか。上り
ゆく一つの星をしてあらゆる影と
雲とを免れさせんとのみつとめた、
この暗黒の男は、そもそもいかな
るものであったろうか。
そこにジャン・ヴァルジャンの
秘密があった。またそこに神の秘
密があった。
その二重の秘密の前にマリユス
はたじろいだ。ある意味において、
1634
一つは他を確実ならしめていた。
この一事の中に、ジャン・ヴァル
ジャンの姿とともにまた神の姿も
見られた。神はおのれの道具を持っ
ている。神は欲するままの道具を
使用する。神は人間に対しては責
任を持たない。吾人はいかにして
神の意を知り得ようぞ。ジャン・
ヴァルジャンはコゼットのために
力を尽した。彼はある程度まで彼
1635
女の魂を作り上げた。それは争う
べからざる事実だった。しかるに、
その仕事をした者は恐るべき男で
あった。しかしなされた仕事はみ
ごとなものであった。神はおのれ
の心のままに奇跡を行なった。神
は麗しいコゼットを作り上げ、そ
の道具としてジャン・ヴァルジャ
ンを使った。神は好んでこの不思
議な共同者を選んだ。それはどう
1636
いうつもりであったかを、吾人は
神に尋ぬべきであろうか。肥料が
ば ら
春に手伝って薔薇の花を咲かせる
のは、別に珍しいことでもないで
はないか。
マリユスはそういう答えを自ら
与えて、自らそれをよしと思った。
上に指摘したあらゆる点に関して、
彼はあえてジャン・ヴァルジャン
に肉迫してゆかなかった。あえて
1637
肉迫し得ないでいるのは自ら気づ
しょうあい
かなかった。彼はコゼットを鍾愛
し、コゼットを所有し、そしてコ
ゼットは純潔に光り輝いていた。
それでもう彼には充分だった。こ
の上いかなる説明を要しようぞ。
コゼットは光輝そのものであった。
光輝を更に明らかにする要があろ
うか。マリユスはすべてを持って
いた。更に何を望むべきことがあ
1638
ろう。まったく、それで十分では
ないか。ジャン・ヴァルジャン一
身のことなどは、彼の関すること
ではなかった。その男のいかんと
もし難い影をのぞき込みながら、
彼はそのみじめなる男の荘重な断
・ ・ ・ ・ ・
言にすがりついた。﹁コゼットに
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
対して私は何の関係がありましょ
・
う。十年前までは彼女が世にいる
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
ことすらも知りませんでした。﹂
1639
ジャン・ヴァルジャンはただ通
りがかりの者にすぎなかった。そ
れは彼が自ら言ったことである。
そして彼は今通りすぎようとして
いた。彼がいかなる者であったに
せよ、その役目はもう終わってい
た。今後コゼットのそばで保護者
の役目をする者はマリユスとなっ
そうてん
ていた。コゼットは蒼天のうちに、
おっと
自分と似寄った者を、恋人を、夫
1640
を、天国における男性を、見いだ
したのである。翼を得姿を変えた
コゼットは、空虚な醜い脱殻たる
ジャン・ヴァルジャンを、地上に
残してきたのだった。
かくてマリユスは種々考え回し
たが、いつも終わりには、ジャン・
ヴァルジャンに対する一種の恐怖
に落ちていった。おそらくそれは
聖なる恐怖であったろう。なぜな
1641
・ ・ ・ ・
ら彼は、その男のうちに天意的な
・ ・
ものを感じていたからである。け
れどもとにかく、いかに考えてみ
く
ても、またいかに事情を酌んでやっ
ても、常にこういう結論に落ちゆ
かざるを得なかった。すなわち、
彼は徒刑囚である。換言すれば、
社会の最も下の階段よりも更に下
にいて、自分の立つべき階段を有
しない者である。最下等の人間の
1642
次が、徒刑囚である。徒刑囚は言
わば生きた人間の仲間にはいる者
ではない。徒刑囚は法律から、お
よそ奪われ得る限りの人間性を皆
奪われた者である。マリユスは民
主主義者であったが、刑法上の問
題については厳格な社会組織の味
方であって、法律に問わるる者に
対してはまったく法律と同じ精神
で臨んでいた。彼もまだあらゆる
1643
進歩をしたとは言えなかった。人
間によって書かれたものと神によっ
て書かれたものとを、法律と権利
とを、彼はまだ区別し得なかった。
人力にて廃しまたは回復し得ざる
ものをも処断するの権利を人が有
するか否かを、少しも精査し考察
・ ・
していなかった。刑罰という語に
少しも反感を持っていなかった。
成文律を犯した者が永久の罰を被
1644
るのは、きわめて至当なことであ
ると考え、文明の方法として、社
会的永罰を承認していた。彼は天
性善良であり、根本においては内
心の進歩をもなし遂げていたので、
必ずや将来更に進んだ考えを持つ
には違いなかったが、現在におい
てはまだ右のような地点にしかい
なかった。
そういう思想状態にあったので、
1645
彼にはジャン・ヴァルジャンがい
かにも醜いいとうべきものに見え
す
た。それは神に見棄てられたる男
だった。徒刑囚だった。この徒刑
囚という一語は、彼にとっては、
審判のラッパの響きのように思え
た。そして長くジャン・ヴァルジャ
ンをながめた後、彼が最後に取っ
た態度は顔をそむけることだった。
・ ・
退け︵訳者注 サタンよ退け︶で
1646
あった。
あえて実際のところを言うなら
ば、マリユスはジャン・ヴァルジャ
ンにいろいろ尋ねて、ついにジャ
・ ・ ・
ン・ヴァルジャンをして﹁あなた
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
は私にすべてを打ち明けてくれと
・ ・ ・ ・
言われる﹂と言わしめた程であっ
たが、それでも重要な二、三の疑
問は避けたのだった。それらの疑
問が頭に浮かばないではなかった
1647
が、彼はそれを尋ねることを恐れ
ぼうさい
た。すなわち、ジョンドレットの
ろうおく
陋屋のこと、防寨のこと、ジャヴェ
ルのこと。それらの疑問からはい
かなる事実が現われてくるか見当
がつかなかった。ジャン・ヴァル
ちゅうちょ
ジャンは自白を躊躇するような男
とは思われなかった。そしてマリ
し
ユスは、強いて彼の口を開かせた
後、また中途で、彼の口をつぐま
1648
せたくなるかも知れなかった。あ
る非常な疑念の場合において、一
つの問いを発した後、その答えが
恐ろしくなって耳をふさごうとす
るようなことは、だれにでもある
ひきょう
ものである。そういう卑怯な念は、
恋をしてる場合にことによく起こっ
てくる。いとうべき事情を極度に
聞きただすのは、賢明なことでは
ない。自分の生命と分かつべから
1649
ざる方面が必ずや関係してくるよ
うな場合には、ことにそうである。
ジャン・ヴァルジャンが我を捨て
てかかった説明からは、いかなる
恐ろしい光が出て来るかわからな
かったし、その忌むべき光がコゼッ
トの身にまでおよぶかも知れなかっ
た。その天使の額にも、地獄の光
が多少残ってるかも知れなかった。
ひまつ
電光の飛沫もなお雷である。人の
1650
宿命にも一種の連帯性があるもの
で、潔白それ自身といえどもなお、
他物をも染める反射の痛ましい法
則によって罪悪の印が押されてる
ことがある。最も純潔なるものに
も、忌むべきものと隣した反映の
跡がなお残ってることがある。正
当か不当かは別として、とにかく
マリユスは恐れをいだいた。彼は
既にあまりあるほどのことを聞か
1651
されていた。その上深入りするこ
とよりもむしろ心を転ずることを
求めていた。彼は我を忘れて、ジャ
ン・ヴァルジャンに対しては目を
閉じながら、コゼットを両腕に抱
き去った。
やみ
その男は闇夜であった。生きた
る恐ろしい闇夜であった。いかに
してその奥底を探ることをなし得
よう。闇に向かって問いを発する
1652
のは恐怖すべきことである。いか
なる答えが出てくるかわかったも
あけぼの
のではない。そのために曙までも
永久に暗くされるかも知れない。
そういう精神状態にあったから、
以来その男がコゼットと何らかの
接触を保つということは、マリユ
スにとっては思うもたえ難いこと
だった。自ら躊躇してなし得なかっ
たその恐ろしい問い、動かすべか
1653
らざる決定的な解決が出て来るか
も知れなかったその恐ろしい問い、
それをあえて発しなかったことを、
彼は今となってほとんど自ら責め
た。彼は自分があまりに善良で、
あまりにおだやかで、更に言えば、
あまりに弱かったのを知った。そ
の弱さのために彼は、不注意な譲
歩をするに至ったのである。彼は
その感傷に乗ぜられた。彼は誤っ
1654
た。きっぱりと簡単にジャン・ヴァ
ルジャンを拒絶すべきであった。
ジャン・ヴァルジャンはむしろ火
に与うべき部分であって、彼はそ
れを切り捨てて自分の家を火災か
ら免れさせるべきであった。彼は
自ら自分を恨み、また自分の耳を
ふさぎ目をふさいで巻き込んでいっ
たその情緒の突然の旋風を恨んだ。
彼は自分自身に不満だった。
1655
今はいかにしたらいいか。ジャ
ン・ヴァルジャンの訪問は彼のは
なはだしくいとうところだった。
あの男を家に入れて何の役に立つ
か。どうしたらいいか。そこまで
考えてきて彼は迷った。彼はそれ
以上掘り下げることを欲せず、そ
れ以上深く考慮することを欲しな
かった。彼は自ら自分を測ること
を欲しなかった。彼は約束を与え
1656
ていた、言わるるままに約束して
しまった。ジャン・ヴァルジャン
は彼の誓約を得ていた。徒刑囚に
対しても、否徒刑囚に対してであ
るからなおさら、約束は守らなけ
ればならない。とは言え彼の第一
の義務はコゼットに対するものだっ
た。要するに彼は、何よりもまず
けんお
嫌悪の念に揺すられた。
マリユスは、頭の中にあるあら
1657
ゆる観念を一々取り上げ、そのた
びごとに心を動かされながら、雑
然たる全体のことを持ちあぐんだ。
その結果深い惑乱に陥った。また
その惑乱をコゼットに隠すのは容
易なことではなかった。しかし愛
は一つの才能である。マリユスは
ついにそれを隠し遂げた。
はと
その上彼は、鳩の白きがように
率直であって何らの疑念をもいだ
1658
いていないコゼットに、それとな
くいろいろなことを尋ねてみた。
彼女の子供の時のこと、彼女の若
い時のこと、それについて彼女と
話をしてみた。そしてあの徒刑囚
がコゼットに対して、およそあり
得る限り善良で慈悲深くりっぱに
振る舞ってきたことを、しだいに
確認するに至った。マリユスが推
察し仮定していたことはすべて事
1659
いらくさ
実だった。その気味悪い蕁麻はこ
ゆ り
の百合を愛して保護してきたので
あった。
1660
第八編 消えゆく光
へや
一 下の室
翌日、夜になろうとする頃、ジャ
ン・ヴァルジャンはジルノルマン
家を表門から訪れた。彼を迎えた
のはバスクだった。バスクはちょ
うど中庭に出ていて、何か言いつ
1661
けを受けてでもいるがようだった。
だれそれ
誰某さんがこられるから気をつけ
ておいでと召し使いに言うと、ちょ
うどその人がやってくる、そうい
うことも時々あるものである。
バスクはジャン・ヴァルジャン
が近寄るのも待たないで、彼に言
葉をかけた。
し た
﹁二階がおよろしいか階下がおよ
ろしいか伺うようにと、男爵様の
1662
仰せでございます。﹂
し た
﹁階下にしよう。﹂とジャン・ヴァ
ルジャンは答えた。
うやうや
バスクはもとよりきわめて恭し
とびら
い態度で、低い室の扉を開いて、
そして言った。﹁ただ今奥様に申
し上げます。﹂
ジャン・ヴァルジャンが通され
たのは、丸天井のついたじめじめ
した階下の室で、時々物置きに使
1663
し
われ、街路に面し、赤い板瓦が舗
てつごうし
いてあり、鉄格子のついた窓が一
つあるきりで、中は薄暗かった。
ほうき
それははたきやブラシや箒でい
へや
じめられる室ではなかった。ほこ
く も
りは静かに休らっていた。蜘蛛は
何らの迫害も受けないでいた。りっ
ぱな蜘蛛の巣が一つ、まっ黒に大
きくひろげられ蠅の死体で飾られ
て、窓ガラスの上に車輪のように
1664
かかっていた。室は狭くて天井も
あきびん
低く、一隅には空罎が積まれてい
ごふん
た。石黄色の胡粉で塗られた壁は、
はくらく
所々大きく剥落していた。奥の方
に黒塗りの木の暖炉が一つあって、
たな
狭い棚がついていた。中には火が
・ ・ ・ ・ ・
燃えていた。それは﹁階下にしよ
・
う﹂というジャン・ヴァルジャン
の返事が既に予期されてたことを、
明らかに示すものだった。
1665
ひじか
い す
二つの肱掛け椅子が暖炉の両す
みに置かれていた。椅子の間には、
毛よりも糸目の方がよけいに見え
じゅうたん
てる古い寝台敷きが、絨毯の代わ
りにひろげられていた。
室の中は暖炉の火の輝きと窓か
らさす薄明りとで照らされてるの
みだった。
ジャン・ヴァルジャンは疲れて
いた。数日来食も取らず眠っても
1666
いなかった。彼は肱掛け椅子の一
つに身を落とした。
と も
バスクが戻ってきて、点火した
ろうそく
蝋燭を一本暖炉の上に置き、また
出て行った。ジャン・ヴァルジャ
あご
ンは首をたれ、頤を胸に埋めて、
バスクにも蝋燭にも目を向けなかっ
た。
突然彼は飛び上がるようにして
身を起こした。コゼットが彼のう
1667
しろに立っていた。
彼は彼女がはいってくるのを見
けはい
はしなかったが、その気配を感じ
たのだった。
彼は振り向いて彼女をながめた。
彼女はいかにもあでやかな美しさ
ひとみ
だった。しかし彼がその深い眼眸
でながめたのは、その美ではなく
て魂であった。
﹁まあ、﹂とコゼットは叫んだ、
1668
﹁何というお考えでしょう! お
父様、私あなたが変わったお方だ
とは知っていましたが、こんなこ
とをなさろうとは思いもよりませ
んでしたわ。ここで私に会いたい
とおっしゃるのだと、マリユスが
申すのですよ。﹂
﹁そう、私から願ったことだ。﹂
﹁そうおっしゃるだろうと思って
いました。ようございます。仕返
1669
しをしてあげますから。でもまあ
最初のことからしましょう。お父
様、私を接吻して下さいな。﹂
ほお
そして彼女は頬を差し出した。
ジャン・ヴァルジャンは不動の
ままでいた。
﹁お動きなさいませんのね。わか
りますよ。罪人のようですわ。で
もとにかく許してあげます。イエ
ス・キリストも言われました、他
1670
の頬をもめぐらしてこれに向けよ
と。さあここにございます。﹂
そして彼女は他の頬を差し出し
た。
ジャン・ヴァルジャンは身動き
もしなかった。あたかもその足は
くぎ
床に釘付けにされてるがようだっ
た。
﹁本気でそうしていらっしゃる
の。﹂とコゼットは言った。﹁私
1671
あなたに何かしましたかしら。ほ
んとに困ってしまいますわ。私あ
なたに貸しがありますのよ。今日
は私どもといっしょに御飯を召し
上がって下さらなければいけませ
ん。﹂
﹁食事は済んでいる。﹂
うそ
﹁嘘ですわ。私ジルノルマン様に
あなたをしかっていただきますよ。
じいさま
お祖父様ならお父様を少したしな
1672
めることができます。さあ、私と
いっしょに客間にいらっしゃいよ、
すぐに。﹂
﹁いけない。﹂
それでコゼットは多少地歩を失っ
うわて
た。彼女は上手に出るのをやめて、
こんどはいろいろ尋ねるようになっ
た。
﹁どうしてでしょう! 私に会う
へや
のに家で一番きたない室をお望み
1673
なさるなんて。ここはほんとにひ
どいではありませんか。﹂
﹁お前も知っ⋮⋮。﹂
ジャン・ヴァルジャンは言い直
した。
﹁奥さんも御存じのとおり、私は
変人だ、私にはいろいろ変わった
癖がある。﹂
コゼットは小さな両手をたたい
た。
1674
﹁奥さん! 御存じのとおり!⋮
⋮それもまた変だわ。どういうわ
けでしょう?﹂
ジャン・ヴァルジャンは時々ご
まかしにやる例の悲痛なほほえみ
を彼女に向けた。
﹁あなたは奥さんになることを望
んだ。そして今奥さんになってい
る。﹂
﹁でもあなたに対してはそうでは
1675
ありませんわ、お父様。﹂
﹁もう私を父と呼んではいけな
い。﹂
﹁まあ何をおっしゃるの?﹂
﹁私をジャンさんと呼ばなければ
いけない、あるいはジャンでもい
い。﹂
﹁もう父ではないんですって、私
はもうコゼットではないんですっ
て、ジャンさんですって。いった
1676
いどうしてでしょう。大変な変わ
りようではありませんか。何か起
こったのですか。まあ私の顔を少
し見て下さいな。あなたは私ども
といっしょに住むのをおきらいな
さるのね。私の室をおきらいなさ
るのね。私あなたに何をしまして!
何をしましたでしょう。何かあ
るのでございましょう。﹂
﹁いや何にも。﹂
1677
﹁それで?﹂
﹁いつもと少しも変わりはない。﹂
﹁ではなぜ名前をお変えなさる
の。﹂
﹁あなたも変えている。﹂
彼はまた微笑をして言い添えた。
﹁あなたはポンメルシー夫人となっ
ているし、私はジャンさんとなっ
ても不思議ではない。﹂
﹁私にはわけがわかりませんわ。
1678
何だかばかげてるわ。あなたをジャ
おっと
ンさんと言ってよいか夫に聞いて
みましょう。きっと許してはくれ
ないでしょう。あなたはほんとに、
大変私に心配をさせなさいますの
ね。いくら変わった癖があるから
といって、この小さなコゼットを
苦しめてはいけません。悪いこと
ですわ。あなたは親切な方だから、
意地悪をなすってはいけません。﹂
1679
彼は答えなかった。
彼女は急に彼の両手を取り、拒
む間を与えずそれを自分の顔の方
あご
へ持ち上げ、頤の下の首元に押し
あてた。それは深い愛情を示す所
作だった。
﹁どうか、﹂と彼女は言った、
﹁親切にして下さいな。﹂
そして彼女は言い進んだ。
﹁私が親切というのはこういうこ
1680
とですわ。意地っ張りをなさらな
いで、ここにきてお住みになって、
またちょいちょいいっしょに散歩
して下すって、プリューメ街のよ
うにここにも小鳥がいますから、
私どもといっしょにお暮らしなすっ
て、オンム・アルメ街のひどい家
をお引き払いになり、私たちにい
なぞ
ろんな謎みたいなことをなさらず、
普通のとおりにしていらっして、
1681
ばんさん
私どもといっしょに晩餐もなされ
ば、私どもといっしょに昼御飯も
お食べになり、私のお父様になっ
て下さることですわ。﹂
彼は取られた手を離した。
﹁あなたにはもう父はいらない、
おっと
夫があるから。﹂
コゼットは少し気を悪くした。
﹁私に父がいらないんですって!
そんな無茶なことをおっしゃる
1682
なら、もう申し上げる言葉もあり
ません。﹂
﹁トゥーサンだったら、﹂とジャ
よ
ン・ヴァルジャンは考えの拠り所
を求めて何でも手当たりしだいに
つかもうとしてるかのように言っ
た、﹁私にはまったくいつも自己
一流のやり方があることを、一番
に認めてくれるだろう。何も変わっ
たことが起こったのではない。私
1683
はいつも自分の薄暗い片すみを好
んでいた。﹂
﹁でもここは寒うございます。物
もよく見えません。そしてジャン
さんと言ってくれとおっしゃるの
も、あまりひどすぎます。私にあ
なたなんておっしゃるのもいやで
す。﹂
﹁ところで、さっきここへ来る途
中、﹂とジャン・ヴァルジャンは
1684
それに答えて言った、﹁サン・ル
イ街で私の目についた道具が一つ
ある。道具屋の店先に置いてあっ
た。私がもしきれいな女だったら
あの道具をほしがったに違いない。
ごくりっぱにできてる新式の化粧
ば ら
台だった。たしかあなたが薔薇の
木と言っていたあの道具だった。
はめきざいく
篏木細工も施してあった。鏡もか
なり大きかった。引き出しもいく
1685
つかついていた。実にきれいなも
のだった。﹂
﹁ほんとに人をばかにしていらっ
しゃるわ!﹂とコゼットは答え返
した。
そしてこの上もないかわいい様
くちびる
子で、歯をくいしばり、脣を開い
て、ジャン・ヴァルジャンに息を
吹きかけた。それは猫のまねをし
た美の女神だった。
1686
﹁私はもう腹が立ってなりませ
きのう
ん。﹂と彼女は言った。﹁昨日か
ら、みんなで私にひどいことばか
りなさるんですもの。私はほんと
に怒っています。私にはわけがわ
かりません。マリユスが何か言っ
てもあなたは私をかばって下さら
ないし、あなたが何かおっしゃっ
てもマリユスは私の味方になって
くれません。私はひとりぽっちで
1687
へや
す。私はおとなしく室まで用意し
ています。もし神様にでもはいっ
ていただけるのでしたら、ほんと
に喜んでお入れしたいくらいです。
だれもその室にはいって下さる人
もありません。室の借り手がない
ので私は破産してしまいます。ニ
コレットに少しごちそうのしたく
をさしても、どなたも食べて下さ
いません。そして私のフォーシュ
1688
ルヴァンお父様はジャンさんと言
は り き
えとおっしゃるし、また、壁には
ひげ
髯がはえていて、玻璃器の代わり
あきびん
には空罎が並んでおり、窓掛けの
代わりには蜘蛛の巣が張っている
ような、恐ろしい古いきたないじ
あなぐら
めじめした窖のような所で、私に
会ってくれとおっしゃるんですも
の。あなたが一風変わった方だと
は私も承知しています。あなたの
1689
いつものことですから。けれども
結婚したばかりの者には、少し気
を休ませてやるものですわ。あと
でまたすぐに変わったこともでき
るではありませんか。あなたはあ
のオンム・アルメ街のひどい家が
いいとおっしゃいますの。私はも
ういやでたまりません。いったい
私に何を怒っていらっしゃいます
の。私心配でなりませんわ。あ
1690
あ!﹂
そして急にまじめになって、彼
女はジャン・ヴァルジャンをじっ
と見つめ、こう言い添えた。
﹁あなたは、私が幸福であるのを
おもしろく思っていらっしゃらな
いんですか。﹂
無邪気も時には自ら知らないで
深くつき込むことがある。右の疑
問は、コゼットにとってはごく単
1691
純なものだったが、ジャン・ヴァ
ルジャンにとっては深くつき込ん
だものだった。コゼットはちょっ
とひっかくつもりだったが、実は
深い傷を相手に与えた。
ジャン・ヴァルジャンは顔色を
変えた。彼はしばらく返事もせず
にじっとしていたが、次に自ら自
分に話しかけるような何とも言え
ない調子でつぶやいた。
1692
﹁その幸福は私の生涯の目的であっ
た。今神は私が去るべきを示して
下さる。コゼット、お前は幸福だ。
私の日は終わったのだ。﹂
・ ・
﹁ああお前と呼んで下すったの
ね!﹂とコゼットは叫んだ。
そして彼女は彼の首に飛びつい
た。
ジャン・ヴァルジャンは我を忘
ぼうぜん
れて、彼女を惘然と自分の胸に抱
1693
きしめた。彼はほとんど彼女をま
た取り戻したような心地になった。
﹁ありがとう、お父様。﹂とコゼッ
トは言った。
その感情の誘惑はジャン・ヴァ
ルジャンにとって痛烈なものとな
り始めた。彼は静かにコゼットの
腕から身を退け、そして帽子を取
り上げた。
﹁どうなさるの。﹂とコゼットは
1694
言った。
ジャン・ヴァルジャンは答えた。
﹁奥さん、お別れします。皆様が
待っていられましょうから。﹂
とびら しきい
そして扉の閾の上で彼は言い添
えた。
﹁私はあなたにお前と言いました。
しかしもうこれからそんなことは
しないと御主人に申し上げて下さ
い。ごめん下さい。﹂
1695
ジャン・ヴァルジャンはコゼッ
トをあとにして出て行った。コゼッ
なぞ
トはその謎のような別れの言葉に
ぼうぜん
茫然としてしまった。
二 更に数歩の退却
翌日、同じ時刻に、ジャン・ヴァ
ルジャンはやってきた。
コゼットはもう何にも尋ねもせ
1696
ず、不思議がりもせず、寒いとも
言わず、客間のことも口に出さな
かった。彼女はお父様ともまたは
ジャンさんとも言わなかった。そ
して自分はあなたと言われるまま
にしておいた。奥さんと言われる
ままにしておいた。ただ喜びの情
が少し減じてるのみだった。もし
悲しみが彼女にも可能であるとす
れば、彼女はいくらか悲しんでい
1697
た。
愛せられる男は、好き勝手なこ
とを語って、何にも説明せず、し
かもそれで愛せられている女を満
足させるものであるが、おそらく
コゼットもマリユスとそういう談
話をかわしたのであろう。恋人ら
の好奇心は、自分らの愛より以外
に遠くわたるものではない。
下の室は多少取り片づけられた。
1698
あきびん
バスクは空罎を取り除け、ニコレッ
く も
トは蜘蛛の巣を払った。
その後毎日同じ時刻に、ジャン・
ヴァルジャンはやってきた。彼は
マリユスの言葉を文字どおりに解
釈して日々こざるを得なかったの
である。マリユスはジャン・ヴァ
ルジャンがやって来る時刻には、
いつも外出するようにしていた。
一家の人々は、フォーシュルヴァ
1699
ン氏の一風変わったやり方になれ
てきた。それにはトゥーサンの助
・ ・ ・ ・ ・
けもよほどあった。﹁旦那様はい
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
つもあんなでございました﹂と彼
女は繰り返し言った。祖父も、
﹁あの人は変わり者だ﹂と断言し
た。そしてすべてはきまった。そ
の上九十歳にもなれば、もう交際
などということはできなくて、た
だいっしょに並ぶというだけであ
1700
る。そして新来の者は皆一つのわ
ずらいとなってくる。もう他人を
入れる余地はない。日常の習慣が
すっかりでき上がっている。ジル
ノルマン老人には、フォーシュル
ヴァン氏とかトランシュルヴァン
氏とかいう﹁そんな人﹂はこない
方がよかったのである。彼は言い
添えた。﹁ああいう変わり者は何
をするかわかったものではない。
1701
ずいぶん奇抜なことをやる。と言っ
てその理由は何もない。カナプル
侯爵はもっとひどかった。りっぱ
な邸宅を買い入れて、自分はその
物置きに住んでいた。ああいう人
うわべ
たちは表面だけ変なことをしてみ
たがるものだ。﹂
せいさん
だれもその凄惨な裏面には気づ
く者はなかった。第一どうしてそ
んなことが推察し得られたろう?
1702
印度にはそういう沼がいくらも
ある。異様な不思議な水がたたえ
ていて、風もないのに波を立て、
静穏であるべきなのが荒れている。
人はただその理由もない混乱の表
みず
面だけをながめる。そして底に水
へび
蛇がのたうっていることを気づか
ない。
多くの人もそういう秘密な怪物
を持っている、心中にいだいてい
1703
か
りゅう
る苦悩を、身を噛む竜を、内心の
やみ
闇の中に住む絶望を。かかる人も
普通の者と同じようにして暮らし
ている。彼のうちに無数の歯を持っ
てる恐ろしい苦悶が寄生し、みじ
めなる彼のうちに生活し、彼の生
命を奪いつつあることは、だれか
らも知られない。その男が一つの
しんえん
深淵であることは、だれからも知
ふち
られない。その淵の水は停滞して
1704
いるが、きわめて深い。時々、理
由のわからぬ波が表面に現われて
くる。不思議なうねりができ、次
に消えうせ、次にまた現われる。
あわ
底から泡が立ちのぼってきては、
消えてゆく。何でもないことのよ
うであるが、実は恐ろしいことで
ある。それは人に知られぬ獣の吐
く息である。
ある種の妙な習慣、たとえば、
1705
他の人が帰る頃にやってくるとか、
他の人が前に出てる間うしろに隠
れてるとか、壁色のマントをつけ
るとでも言い得るような態度をあ
らゆる場合に取るとか、寂しい道
を選ぶとか、人のいない街路を好
むとか、少しも会話の仲間入りを
しないとか、人込みやにぎわいを
避けるとか、のんきそうにして貧
乏な暮らしをするとか、金がある
1706
かぎ
ろう
のにいつも鍵をポケットに入れ蝋
そく
燭を門番の所に預けておくとか、
くぐりもん
潜門から出入りするとか、裏の階
段から上ってゆくとか、すべてそ
ういう何でもなさそうな特殊の癖、
表面に現われたる波紋や泡やとら
しわ
え難い皺は、しばしば恐るべき底
から発してくることがある。
かくて数週間過ぎ去っていった。
新しい生活はしだいにコゼットを
1707
とらえていった。結婚のために生
じた交際、訪問、家政、遊楽、そ
れらの大事件が起こってきた。コ
ゼットの楽しみは費用のかかるも
のではなかった。それはただマリ
ユスといっしょにいるということ
だけだった。彼と共に出かけ、彼
と共に家にいる、それが彼女の一
番大事な仕事だった。互いに腕を
組み合わし、白昼街路を公然と、
1708
人通りの多い中をただふたりで歩
くこと、これは彼らにとって常に
新しい喜びだった。コゼットが気
を痛めたことはただ一つきりなかっ
た。すなわち、年取ったふたりの
独身女は融和し難いけれど、祖父
は達者であり、マリユスは時々何
かの弁論に出廷し、ジルノルマン
お ば
伯母は新家庭のそばに差し控えた
日々を送りつつ満足していた。ジャ
1709
ン・ヴァルジャンも毎日訪れてき
た。
お前という呼び方は消えうせて
しまい、あなたとか奥さんとかジャ
ンさんとかいうことになって、彼
はコゼットに対してまったく別人
のようになった。彼女の心を自分
から離そうとした彼の注意は、う
まく成功した。彼女はますます快
活になり、ますますやさしみが減
1710
じてきた。それでもなお彼女はよ
く彼を愛してい、彼もそのことを
感じていた。ある日彼女は突然彼
に向かって言った。﹁あなたは私
のお父様でしたが、今はそうでな
おじさま
くなり、あなたは私の伯父様でし
たが、今はそうでなくなり、あな
たはフォーシュルヴァン様でした
が、今はジャン様となられたので
すね。するとあなたは、いったい
1711
どういう方なんでしょう。私そん
なこといやですわ。もしあなたが
ごくいい方だということを知らな
かったら、私はあなたをこわがる
かも知れません。﹂
彼はなおオンム・アルメ街に住
んでいた。以前コゼットが住んで
いた街区を去るに忍びなかったの
である。
初めのうち彼は、数分間しかコ
1712
ゼットのそばにいないで、すぐ帰っ
ていった。
ところがしだいに、彼は長居を
するようになってきた。あたかも
日が長くなるのに乗じた形だった。
彼は早くきては遅く帰っていった。
ある日、コゼットはふと﹁お父
様﹂と言ってしまった。すると喜
びのひらめきが、ジャン・ヴァル
いんうつ
ジャンの陰鬱な老年の顔に輝いた。
1713
彼は彼女をとらえた。﹁ジャンと
言って下さい。﹂彼女は笑い出し
ながら答えた。﹁ああそうでした
わね、ジャンさん。﹂﹁それでよ
ろしいです、﹂と彼は言った。そ
して彼は顔をそむけて、彼女に見
えないように目をぬぐった。
三 プリューメ街の庭
の思い出
1714
それが最後であった。その最後
のひらめき以来、光はまったく消
えうせてしまった。もはや親しみ
もなく、抱擁をもって迎えられる
こともなく、お父様! という深
いやさしみの言葉もなくなった。
彼は自ら命じ自ら行なって、自分
しりぞ
のあらゆる幸福を相次いで卻けて
しまった。一日にしてコゼットを
すべて失った後、次に再び彼女を
1715
少しずつ失うという、悲惨な目に
彼は出会った。
あなぐら
目もついには窖の明るみになれ
てくるものである。結局コゼット
の姿を毎日見るというだけで彼に
は充分だった。彼の全生命はその
時間に集中されていた。彼は彼女
のそばにすわり、黙って彼女をな
がめ、あるいはまた、昔のこと、
彼女の子供の折りのこと、修道院
1716
にいた頃のこと、当時の小さなお
友だちのこと、などを彼女に話し
た。
ある日の午後︱︱それは四月の
はじめであって、既に暖かくなっ
てるがまださわやかであり、日の
光はきわめてうららかで、マリユ
スとコゼットとの窓のほとりの庭
さんざし
は春の目ざめの気に満ち、山※は
芽ぐみ、丁子は古壁の上に宝石を
1717
ばらいろ
飾り、薔薇色の金魚草は石の割れ
目に花を開き、草の間にはひな菊
きんぽうげ
や金鳳花がかわいく咲きそめ、年
ちょう
内の白い蝶は始めて飛び出し、永
遠の婚礼の楽手たる春風は、古い
れいめい
詩人らが一陽来復と呼んだ黎明の
大交響曲の最初の譜を樹木の間に
奏していた︱︱そのある日の午後、
マリユスはコゼットに言った。
﹁プリューメ街の庭にまた行って
1718
みようといつか話したね。今すぐ
に行こう。恩を忘れてはいけな
つばめ
い。﹂そしてふたりは、二羽の燕
のように春に向かって舞い上がっ
あけぼの
た。プリューメ街の庭は曙のよう
な気を彼らに与えた。愛の春とも
言うべき何物かを彼らは過去に持っ
ていた。プリューメ街の家はまだ
借受期限内で、コゼットのものに
なっていた。ふたりはその庭に行
1719
き、その家に行った。そして昔に
返って、我を忘れてしまった。そ
の夕方いつもの時刻に、ジャン・
ヴァルジャンはフィーユ・デュ・
カルヴェール街にやってきた。バ
だんなさ
スクは彼に言った。﹁奥様は旦那
ま
様と御いっしょにお出かけになり
まして、まだお帰りになっていま
せん。﹂彼は黙って腰をおろし、
一時間ばかり待った。コゼットは
1720
帰ってこなかった。彼はうなだれ
て帰っていった。
コゼットは﹁自分たちの庭﹂を
散歩したことに気を奪われ、﹁過
去のうちに一日を過ごした﹂こと
を非常に喜んで、翌日もそのこと
ばかり言っていた。ジャン・ヴァ
ルジャンに会わなかったことなん
かは念頭になかった。
﹁どうしてあそこまで行きまし
1721
た?﹂とジャン・ヴァルジャンは
彼女に尋ねた。
﹁歩いて。﹂
﹁そして帰りには?﹂
つじばしゃ
﹁辻馬車で。﹂
しばらく前からジャン・ヴァル
ジャンは、若夫婦がごくつつまし
い生活をしてるのに気づいていた。
そのために彼は心をわずらわされ
た。マリユスの倹約は厳重で、ジャ
1722
ン・ヴァルジャンに向かって彼が
言った言葉は絶対的な意味を持っ
ていた。彼は思い切って尋ねてみ
た。
﹁なぜあなたは自分の馬車を備え
ないのですか。小ぎれいな箱馬車
なら月に五百フランもあればいい
でしょう。あなた方は金持ちでは
ありませんか。﹂
﹁私にはわかりません。﹂とコゼッ
1723
トは答えた。
﹁トゥーサンについてもそうでしょ
う。﹂とジャン・ヴァルジャンは
言った。﹁いなくなったままで、
代わりも雇ってないのは、なぜで
すか。﹂
﹁ニコレットだけで充分ですか
ら。﹂
﹁しかしあなたには小間使いがひ
とりいるでしょう。﹂
1724
﹁マリユスがいてくれますもの。﹂
﹁あなた方は自分の家を持ち、自
分の召し使いを持ち、馬車を一つ
備え、芝居の席も取っておいてい
いはずです。あなた方には何でも
できます。なぜ金持ちのようにし
ないのですか。金を使えばそれだ
け幸福も増すわけです。﹂
コゼットは答えなかった。
ジャン・ヴァルジャンの訪問の
1725
時間は決して短くはならなかった。
否かえって長くなった。心がすべっ
てゆく時には、人は坂の途中で足
を止めることはできない。
ジャン・ヴァルジャンは訪問の
時間を長引かし、時のたつのを忘
れさせようと思う時には、いつも
マリユスのことをほめた。マリユ
スは美しく気高く勇気があり才が
あり雄弁であり親切であるとした。
1726
コゼットは更にマリユスをほめた。
ジャン・ヴァルジャンは何度も繰
り返した。そして言葉の尽きるこ
とはなかった。マリユスという一
語は無尽蔵な言葉だった。その四
字の中には幾巻もの書籍が含まっ
ていた。そういうふうにして、ジャ
ン・ヴァルジャンは長く留まるこ
とができた。コゼットをながめそ
のそばですべてを忘れることは、
1727
彼にとってはいかに楽しいことで
あったろう。それは自分の傷口を
結わえることだった。バスクが二
度もきて、﹁食事の用意ができた
ことを奥様に申し上げてこいと、
おおだんなさま
大旦那様が仰せられました、﹂と
告げるようなことも、幾度かあっ
た。
そういう日ジャン・ヴァルジャ
ンは、深く思いに沈みながら戻っ
1728
ていった。
マリユスの頭に浮かんだあの脱
殻のたとえには、何か真実な点が
含まっていたであろうか。ジャン・
しつ
ヴァルジャンは果たして一つの脱
ちょう
殻であって、自分から出た蝶を執
よう
拗に訪れて来る身であったろうか。
ある日、彼はいつもより長座を
した。するとその翌日は暖炉に火
がはいっていなかった。﹁おや、
1729
火がない、﹂と彼は考えた。そし
て自らその説明を下した。﹁なに
当然のことだ。もう四月だ。寒さ
は済んでしまったのだ。﹂
﹁まあ、寒いこと!﹂とコゼット
ははいってきながら叫んだ。
﹁寒くはありません。﹂とジャン・
ヴァルジャンは言った。
た
﹁では、バスクに火を焚くなとおっ
しゃったのはあなたですか。﹂
1730
﹁ええ。もうすぐ五月です。﹂
﹁でも六月までは火を焚くもので
へや
す。こんな低い室では一年中火が
いります。﹂
﹁私はもう火はむだだと思ったの
です。﹂
﹁それもあなたの一風変わったと
ころですわ。﹂とコゼットは言っ
た。
翌日はまた火がはいっていた。
1731
ひじか
い す
しかし二つの肱掛け椅子は、室の
とびら
端の扉の近くに並んでいた。﹁ど
ういうわけだろう?﹂とジャン・
ヴァルジャンは考えた。
彼はその肱掛け椅子を取りにゆ
き、いつものとおり暖炉のそばに
並べた。
それでも再び火が焚かれたので
彼は元気を得た。彼はいつもより
長く話した。帰りかけて立ち上がっ
1732
た時、コゼットは彼に言った。
きのう
﹁主人は昨日変なことを私に言い
ました。﹂
﹁どういうことですか。﹂
﹁こうなんです。コゼット、僕た
ちには三万フランの年金がはいっ
てくる、二万七千はお前の方から、
じ い
三千はお祖父さんから下さるので、
というんです。それで三万ですわ
と私が答えますと、お前には三千
1733
フランで暮らしてゆく勇気がある
かってききます。私は、ええあな
たといっしょなら一文なしでも、
と答えました。それから私は、な
ぜそんなことをおっしゃるの、と
尋ねてみますと、ただ聞いてみた
のだ、と答えたのですよ。﹂
ジャン・ヴァルジャンは一言も
発し得なかった。コゼットはたぶ
ん彼から何かの説明を待っていた
1734
ちんうつ
のであろう。しかし彼は沈鬱な無
言のまま彼女の言葉に耳を傾けた。
彼はオンム・アルメ街に戻っていっ
た。彼は深く考え込んでいたので、
入り口をまちがえて、自分の家に
はいらず、隣の家にはいり込んだ。
そしてほとんど三階まで上っていっ
てからようやく、まちがったこと
に気づいて、またおりていった。
彼の精神は種々の推測に苦しめ
1735
られた。マリユスがあの六十万フ
ランの出所について疑いをいだき、
何か不正な手段で得られたもので
はないかと恐れてるのは、明らか
だった。おそらく彼は、その金が
ジャン・ヴァルジャンから出たも
のであることを発見したのかも知
れなかったし、その怪しい財産に
不安の念をいだき、それを自分の
手に取ることを好まず、コゼット
1736
とふたりでうしろ暗い金持ちとな
るよりむしろ貧しい暮らしをしよ
うと思ってるのかも知れなかった。
ばくぜん
その上漠然とジャン・ヴァルジャ
ンは、自分が排斥されてるのを感
じ始めた。
へや
せんりつ
ひじ
翌日、例の下の室にはいってゆ
い す
くと彼は一種の戦慄を感じた。肱
か
掛け椅子は二つともなくなってい
た。普通の椅子さえ一つもなかっ
1737
た。
﹁まあ、椅子がない!﹂とコゼッ
トははいってきて叫んだ。﹁椅子
はどこにあるんでしょう?﹂
﹁もうありません。﹂とジャン・
ヴァルジャンは答えた。
﹁あんまりですわ!﹂
ジャン・ヴァルジャンはつぶや
いた。
﹁持ってゆくように私がバスクに
1738
言いました。﹂
﹁なぜです。﹂
﹁今日はちょっとの間しかいない
つもりですから。﹂
﹁長くいないからと言って、立っ
たままでいる理由にはなりませ
ん。﹂
﹁何でも客間に肱掛け椅子がいる
とかバスクが言っていたようで
す。﹂
1739
﹁なぜでしょう。﹂
﹁たしか今晩お客があるのでしょ
う。﹂
﹁いえだれもきはしません。﹂
ジャン・ヴァルジャンはそれ以
上何とも言うことができなかった。
コゼットは肩をそびやかした。
﹁椅子を持ってゆかせるなんて!
こないだは火を消さしたりして、
ほんとにあなたは変な方ですわ。﹂
1740
﹁さようなら。﹂とジャン・ヴァ
ルジャンはつぶやいた。
彼は﹁さようなら、コゼット﹂
とは言わなかった。しかし﹁さよ
うなら、奥さん﹂と言う力もなかっ
た。
彼は気力もぬけはてて出て行っ
た。
こんどは彼もよく了解した。
翌日彼はもうこなかった。コゼッ
1741
トは晩になってようやくそれに気
づいた。
﹁まあ、﹂と彼女は言った、﹁ジャ
ンさんは今日いらっしゃらなかっ
た。﹂
彼女は軽い悲しみを覚えたが、
くち
すぐにマリユスの脣づけにまぎら
されて、ほとんど自ら気にも止め
なかった。
その翌日も彼はこなかった。
1742
コゼットは別にそれを気にもせ
ず、いつものとおりその晩を過ご
し、その夜を眠り、目をさました
時ようやくそのことを頭に浮かべ
た。彼女はそれほど幸福だったの
である。彼女はその朝すぐにジャ
ン氏のもとへニコレットをやって、
病気ではないか、また昨日はなぜ
こなかったかと尋ねさした。ニコ
レットはジャン氏の答えをもたら
1743
してきた。少しも病気ではない。
ただ忙しかった。すぐにまた参る
だろう、できるだけ早く。それに
またちょっと旅をしようとしてい
る。奥さんは自分がいつも時々旅
する習慣になってるのを覚えてい
られるはずである。決して心配さ
れないように。自分のことは考え
られないように。
ニコレットはジャン氏の家へ行っ
1744
て、奥様の言葉をそのまま伝えた
のだった。﹁昨日ジャン様はなぜ
おいでにならなかったか﹂を尋ね
に奥様からよこされたのだと。
﹁私が参らないのはもう二日にな
ります、﹂とジャン・ヴァルジャ
ンは静かに答えた。
しかしその注意はニコレットの
気に止まらなかった。彼女はその
ことについては一言もコゼットに
1745
復命しなかった。
けんいんりょく
四 牽引力と消滅
一八三三年の晩春から初夏へか
けた数カ月の間、マレーのまばら
な通行人や店頭にいる商人や門口
にぼんやりしてる人などは、さっ
ぱりした黒服をまとってるひとり
の老人を見かけた。老人は毎日日
1746
暮れの頃同じ時刻に、オンム・ア
ルメ街からサント・クロア・ド・
ラ・ブルトンヌリー街の方へ出て
きて、ブラン・マントー教会堂の
前を通り、キュルテュール・サン
ト・カトリーヌ街へはいり、エシャ
ルプ街まできて左に曲がり、そし
てサン・ルイ街へはいるのだった。
そこまで行くと、彼は足をゆる
め、頭を前方に差し出し、何にも
1747
見ず何にも聞かず、目を常に同じ
一点にじっととらえていた。その
一点は、彼にとっては星が輝いて
るのかと思われたが、実はフィー
かど
ユ・デュ・カルヴェール街の角に
ほかならなかった。その街路に近
づくに従って、彼の目はますます
あけぼの
輝いてきた。内心の曙のように一
ひとみ
種の喜悦の情がその眸に光ってい
た。そして魅せられ感動されてる
1748
くちびる
ような様子をし、脣はかすかに震
え動き、あたかも目に見えない何
者かに話しかけてるがようで、ぼ
んやり微笑を浮かべて、できるだ
けゆっくり足を運んだ。向こうに
行きつくことを願いながら、それ
に近寄る瞬間を恐れてるとでもい
うようだった。彼を引きつけるら
しいその街路からもはや家の四、
五軒しかへだたらない所まで行く
1749
と、彼の歩調は非常にゆるやかに
なって、時とするともう歩いてる
のでないとさえ思われるほどだっ
はり
た。その震える頭とじっと定めた
ひとみ
瞳とは、極を求める磁石の針を思
わせた。かくていくら到着を長引
かしても、ついには向こうへ着か
なければならなかった。彼はフィー
ユ・デュ・カルヴェール街に達し
た。すると、そこに立ち止まり、
1750
かど
身を震わし、最後の人家の角から、
ひそ
一種沈痛な臆病さで頭を差し出し、
まなざし
その街路をのぞき込んだ。その悲
う
愴な眼差の中には、不可能事から
めまい
来る眩暈と閉ざされたる楽園とに
似た何かがあった。それから一滴
まぶた
の涙が、徐々に眼瞼のすみにたまっ
てきて、下に落ちるほど大きくな
ほお
り、ついに頬をすべり落ち、ある
いは時とすると口もとに止まった。
1751
にが
老人はその苦い味を感じた。彼は
そのまましばらく石のようになっ
てたたずんだ。それから、同じ道
を同じ歩調で戻っていった。その
角から遠ざかるに従って、目の光
は消えていった。
そのうちしだいに、老人はフィー
ユ・デュ・カルヴェール街の角ま
で行かないようになった。彼はよ
くサン・ルイ街の中ほどに立ち止
1752
まった、あるいは少し遠くに、あ
るいは少し近くに。ある日などは、
キュルテュール・サント・カトリー
ヌ街の角に止まって、遠くから
フィーユ・デュ・カルヴェール街
をながめた。それから彼は何かを
拒むがように、黙って頭を左右に
振り、そして引き返していった。
やがて彼は、もうサン・ルイ街
までも行かなくなった。パベ街ま
1753
でしか行かないで、頭を振って戻っ
ていった。次にはトロア・パヴィ
ヨン街より先へは行かなくなった。
その次にはもうブラン・マントー
教会堂から先へ出なくなった。ちょ
ば ね
うど、もう撥条を巻かれなくなっ
せば
た振り子が、しだいに振動を狭め
てついに止まってしまおうとして
るのによく似ていた。
毎日、彼は同じ時刻に家をいで、
1754
同じ道筋をたどったが、向こうま
で行きつくことができなかった。
そしておそらく自分でも気づかな
いで、行く距離を絶えず縮めてい
た。彼の顔にはただ一つの観念が
浮かんでいた、すなわち、何の役
ひとみ
に立とう? と。眸の光は消えう
まぶた
せて、もう外に輝かなかった。涙
か
もまた涸れて、もう眼瞼のすみに
たまらなかった。その思い沈んだ
1755
目はかわいていた。彼の頭はいつ
も前方に差し出されていた。時々
あご
その頤が震え動いていた。やせた
首筋のしわは見るも痛ましいほど
だった。時としては、天気の悪い
あまがさ
時など、腕の下に雨傘を抱えてい
たが、それを開いてることはなかっ
かみ
た。その辺の上さんたちは言った、
﹁あの人はおばかさんですよ。﹂
子供たちは笑いながらそのあとに
1756
ついていった。
1757
やみ
第九編 極度の闇、極度の
あけぼの
曙
一 不幸者をあわれみ
ゆる
幸福者を恕すべし
幸福であるのは恐るべきことで
ある。いかに人はそれに満足し、
いかにそれをもって足れりとして
1758
いることか! 人生の誤れる目的
たる幸福を所有して、真の目的た
る義務を、いかに人は忘れている
ことか!
けれどもあえて言うが、マリユ
スを非難するのは不当であろう。
マリユスは前に説明したとおり、
結婚前にもフォーシュルヴァン氏
ただ
に向かって問い糺すことをせず、
結婚後にもジャン・ヴァルジャン
1759
に向かって問い糺すことを恐れた。
彼は心ならずも約束するに至った
ことを後悔した。望みなきあの男
にそれだけの譲歩をなしたのは誤
りだったと、彼は幾度も自ら言っ
た。そして今は、しだいにジャン・
ヴァルジャンを家から遠ざけ、で
きるだけ彼をコゼットの頭から消
してしまおうと、ただそれだけを
はかっていた。コゼットとジャン・
1760
ヴァルジャンとの間にいつも多少
自分をはさんで、彼女がもう彼の
ことを気づかず彼のことを頭に浮
かべないようにと、願っていた。
しょく
それは消し去ること以上で、蝕し
去ることであった。
マリユスは必要であり正当であ
ると判断したことを行なってるに
過ぎなかった。彼は苛酷なことも
せずしかも弱々しい情も動かさな
1761
いでジャン・ヴァルジャンを排斥
し去ろうとしていたが、それには、
彼の考えによれば、読者が既に見
てきたとおりの重大な理由があり、
また次に述べる別の理由もあった。
彼は自ら弁論することになったあ
る訴訟事件において、偶然にも昔
ラフィット家に雇われていた男と
出会い、何も別に尋ねたわけでは
ないが、不思議な話を聞かされた。
1762
もとより彼は秘密を厳守すると約
束した手前もあり、ジャン・ヴァ
ルジャンの危険な地位をも考えて
やって、その話を深く探ることは
できなかった。ただ彼はその時、
果たすべき重大な義務があること
を感じた。それはあの六十万フラ
ンを返却するということで、彼は
その相手をできるだけひそかにさ
がし求めた。そしてその間金に手
1763
をつけることを避けた。
コゼットに至っては、それらの
秘密を少しも知らなかった。しか
し彼女を非難するのもまたあまり
苛酷であろう。
一種の強い磁力がマリユスから
彼女へ流れていて、そのために彼
女は、本能的にまたほとんど機械
的に、マリユスの欲するままになっ
ていた。﹁ジャン氏﹂のことにつ
1764
いても、彼女はマリユスの意志に
おっと
感応して、それに従っていた。夫
ばくぜん
は彼女に何も言う必要はなかった。
おっと
彼女は夫の暗黙の意向から漠然た
るしかも明らかな圧力を感じて、
それに盲従した。彼女の服従はこ
こではただ、マリユスが忘れてる
ことは思い出すまいというのにあっ
た。そのためには何ら努力の要は
なかった。彼女は自らその理由を
1765
知らなかったし、また彼女にとが
むべきことでもないが、彼女の魂
おう
はまったく夫の魂となり了せて、
おお
マリユスの考えの中で影に蔽われ
てるものは皆、彼女の考えの中で
も暗くなるのであった。
けれどもそれはあまり強く言え
ることではない。ジャン・ヴァル
ジャンに関することでは、その忘
却と消滅とはただ表面的のものに
1766
過ぎなかった。彼女は忘れやすい
というよりもむしろうっかりして
いた。心の底では、長く父と呼ん
できたその男をごく愛していた。
おっと
しかし夫の方をなおいっそう愛し
ていた。そのために彼女の心は、
多少平衡を失って一方に傾いたの
である。
時々、コゼットはジャン・ヴァ
ルジャンのことを言い出して怪し
1767
むこともあった。するとマリユス
は彼女をなだめた。﹁留守なんだ
ろう。旅に出かけるということだっ
たじゃないか。﹂それでコゼット
は考えた。﹁そうだ。あの人はい
つもこんなふうにいなくなること
があった。それにしてもこう長引
くことはなかったが。﹂二、三度
彼女はニコレットをオンム・アル
メ街にやって、ジャン氏が旅から
1768
帰られたかと尋ねさした。ジャン・
ヴァルジャンはまだ帰らないと答
えさした。
コゼットはそれ以上尋ねなかっ
た。この世でなくてならないもの
は、ただマリユスばかりだったか
ら。
なお言っておくが、マリユスと
コゼットの方でもまた不在になっ
た。彼らはヴェルノンへ行った。
1769
マリユスはコゼットを父の墓へ連
れて行った。
マリユスはコゼットをしだいに
ジャン・ヴァルジャンからのがれ
さした。コゼットはされるままに
なっていた。
それにまた、子供の忘恩などと
ある場合にはあまりきびしく言わ
れてることも、実は人が考えるほ
ど常にとがむべきことではない。
1770
それは自分自身の忘恩である。他
の所で言っておいたように、自然
は﹁前方を見て﹂いる。自然は生
きてるものを、来る者と去る者と
やみ
に分かっている。去る者は闇の方
へ向き、来る者は光明の方へ向い
かいり
ている。ここにおいてか乖離が生
じてきて、老いたる者にとっては
宿命的なものとなり、若い者にとっ
ては無意識的なものとなる。その
1771
かいり
乖離は初めは感じ難いほどである
が、木の枝が分かれるようにしだ
いに大きくなる。小枝はなお幹に
ついたまま遠ざかってゆく。それ
は小枝の罪ではない。青春は喜び
のある所へ、にぎわいの方へ、強
い光の方へ、愛の方へ、進んでゆ
しゅうえん
く。老衰は終焉の方へ進んでゆく。
両者は互いに姿を見失いはしない
が、もはや抱擁はしなくなる。若
1772
き者は人生の冷ややかさを感じ、
老いたる者は墳墓の冷ややかさを
感ずる。そのあわれなる子供らを
とがめてはいけない。
二 油尽きたるランプ
の最後のひらめき
ある日、ジャン・ヴァルジャン
は階段をおりてゆき、街路に二、
1773
三歩ふみ出して、ある標石の上に
腰をおろした。それは、六月五日
から六日へかけた晩、ガヴローシュ
がやってきた時、彼が考えふけり
ながら腰掛けていたのと、同じ石
であった。彼はそこにしばらくじっ
う え
としていたが、やがてまた階上へ
上っていった。それは振り子の最
後の振動だった。翌日、彼はもう
へや
室から出なかった。その翌日には、
1774
もう寝床から出なかった。
ばれいしょ
門番の女は、キャベツや馬鈴薯
に少しの豚肉をまぜて、彼の粗末
な食物をこしらえてやっていたが、
その陶器皿の中を見て叫んだ。
きのう
﹁まああなたは、昨日から何も召
し上がらないんですね。﹂
﹁いや食べたよ。﹂とジャン・ヴァ
ルジャンは答えた。
﹁お皿はまだいっぱいですよ。﹂
1775
から
﹁水差しを見てごらん。空になっ
てるから。﹂
﹁それは、ただ水を飲んだという
だけで、なにも食べたことにはな
りません。﹂
﹁でも、﹂とジャン・ヴァルジャ
ンは言った、﹁水だけしかほしく
なかったのだとしたら?﹂
のど
﹁それは喉がかわいたというもん
です。いっしょに何にも食べなけ
1776
れば、熱ですよ。﹂
あした
﹁食べるよ。明日は。﹂
﹁それともいつかは、でしょう。
なぜ今日召し上がらないんです。
明日は食べよう、なんていうこと
がありますか。私がこしらえてあ
げたのに手をつけないでおくなん
て! この煮物はほんとにおいし
かったんですのに!﹂
ジャン・ヴァルジャンは婆さん
1777
の手を取った。
﹁きっと食べるよ。﹂と彼は親切
な声で言った。
﹁あなたはわからずやです。﹂と
門番の女は答えた。
ジャン・ヴァルジャンはその婆
さんよりほかにはほとんどだれと
も顔を合わせなかった。パリーの
うちにはだれも通らない街路があ
り、だれも訪れてこない家がある。
1778
彼はそういう街路の一つに住み、
そういう家の一つにはいっていた。
まだ外に出かけた頃、彼はある
鋳物屋の店で、五、六スー出して
小さな銅の十字架像を買い、それ
くぎ
を寝台の正面の釘にかけて置いた。
そういう首つり台はいつ見ても快
いものである。
一週間過ぎたが、その間ジャン・
へや
ヴァルジャンは室の中さえ一歩も
1779
歩かなかった。彼はいつも寝たま
まだった。門番の女は亭主に言っ
じい
た。﹁上のお爺さんは、もう起き
もしなければ、食べもしないんだ
よ。長くはもつまい。何かひどく
心配なことがあるらしい。私の推
察じゃ、きっと娘が悪い所へかた
づいたんだよ。﹂
おっと
亭主は夫としての威厳を含んだ
調子でそれに答えて言った。
1780
﹁もし金があれば、医者にかかる
さ。金がなければ、医者にかから
ないさ。医者にかからなければ、
死ぬばかりさ。﹂
﹁医者にかかったら?﹂
﹁やはり死ぬだろうよ。﹂と亭主
は言った。
しきいし
女房は自ら自分の舗石と言って
る所にはえかかってる草を、古ナ
か
イフで掻き取りはじめたが、そう
1781
して草を取りながらつぶやいた。
じい
﹁かわいそうに。きれいな爺さん
ひよっこ
なのに。雛鶏のようにまっ白だ
が。﹂
彼女は街路の向こう端に、近所
の医者がひとり通りかかるのを見
た。そして自分ひとりできめて、
その医者にきてもらうことにした。
﹁三階でございますよ。﹂と彼女
は医者に言った。﹁かまわずには
1782
いって下さい。お爺さんはもう寝
かぎ
床から動けないので、鍵はいつも
とびら
扉についています。﹂
医者はジャン・ヴァルジャンに
会い、彼に話をしかけた。
医者がおりてくると、門番の女
は彼に呼びかけた。
﹁どうでございましょう?﹂
﹁病人はだいぶ悪いようだ。﹂
﹁どこが悪いんでございましょう
1783
か。﹂
﹁どこと言って悪い所もないが、
全体がよくない。見たところどう
も大事な人でも失ったように思わ
れる。そんなことで死ぬ場合もあ
るものだ。﹂
﹁あの人はあなたに何と言いまし
たか。﹂
﹁病気ではないと言っていた。﹂
﹁またあなたにきていただけます
1784
でしょうか。﹂
﹁よろしい。﹂と医者は答えた。
﹁だが私よりもほかの人にきても
らわなければなるまい。﹂
三 今は一本のペンも
重し
ある晩ジャン・ヴァルジャンは、
ひじ
辛うじて肱で身を起こした。自ら
1785
手首を取ってみると、脈が感ぜら
れなかった。呼吸は短くて時々止
まった。彼は今まで知らなかった
ほどひどく弱ってるのに気づいた。
すると、何か最期の懸念に駆られ
たのであろう、彼は努力をして、
そこにすわり、服をつけた。自分
の古い労働服を着た。もう外にも
出かけないので、またその服を取
り出し、それを好んでつけたのだっ
1786
た。服をつけながら何度も休まな
そで
ければならなかった。上衣の袖に
手を通すだけでも、額から汗が流
れた。
ひとりになってから彼は、控え
室の方に寝台を移していた。寂し
い広間にはできるだけいたくなかっ
たからである。
かばん
彼は例の鞄を開いてコゼットの
古い衣裳を取り出した。
1787
彼はそれを寝床の上にひろげた。
しょくだい
司教の二つの燭台は元のとおり
暖炉の上にのっていた。彼は引き
ろうそく
出しから二つの蝋燭を取って、そ
しょくだい
れを燭台に立てた。それから、夏
のこととてまだ充分明るかったが、
ろうそく
その蝋燭に火をともした。死人の
へや
いる室の中にそんなふうに昼間か
ら蝋燭がともされてるのは、時々
見られることである。
1788
一つの道具から他の道具へと行
く一歩一歩に、彼は疲れきって腰
をおろさなければならなかった。
それは力を費やしてはまた回復す
るという普通の疲労ではなかった。
ある限りの運動の残りだった。二
度とはやれない最後の努力のうち
にしたたり落ちてゆく、消耗し尽
した生命であった。
い す
彼が身を落とした椅子の一つは、
1789
ちょうど鏡の前になっていた。そ
の鏡こそは、彼にとっては宿命的
なものであり、マリユスにとって
は天意的なものであって、すなわ
ち彼がコゼットの逆の文字を吸い
取り紙の上に読み得たその鏡だっ
た。彼は鏡の中に自分の顔をのぞ
いたが、自分とは思えないほどだっ
た。八十歳にもなるかと思われた。
マリユスの結婚前には、ようやく
1790
五十歳になるかならないくらいに
思えたが、この一年の間に三十ほ
しわ
ども年を取ってしまっていた。今
しるし
額にあるものは、もはや老年の皺
あと
ではなくて、死の神秘な標だった。
つめ
無慈悲な爪の痕がそこに感ぜられ
ほお
た。両の頬はこけていた。顔の皮
膚は、既に土をかぶったかと思わ
れるような色をしていた。口の両
すみは、古人がよく墓の上に刻ん
1791
だ多くの面に見るように、下にた
れ下がっていた。彼は非難するよ
くう
うな様子で空をながめた。だれか
をとがめずにはいられない悲壮な
偉人のひとりかと思われた。
か
彼はもはや悲哀の流れも涸れつ
ひはい
くしたという状態に、疲憊の最後
の一段にあった。悲しみも言わば
凝結してしまっていた。人の魂に
ついても、絶望の凝塊とでも言う
1792
べきものがある。
い す
夜になった。彼は非常な努力を
ひじか
して、テーブルと古い肱掛け椅子
とを暖炉のそばに引き寄せ、テー
ブルの上にペンとインキと紙とを
のせた。
それがすんで、彼は気を失った。
のど
意識を恢復すると、喉がかわいて
いた。水差しを持ち上げることが
できないので、それをようやく口
1793
の方へ傾けて、一口飲んだ。
それから彼は寝床の方を振り向
き、立っておれないのでやはりす
わったまま、小さな黒い長衣とそ
の他の大事な品々とをながめた。
そういう観照は、数分間と思っ
てるうちにはや幾時間にもなるも
のである。突然彼は身震いをし、
さむけ
ろうそく
寒気に襲わるるのを感じた。彼は
しょくだい
司教の燭台にともってる蝋燭に照
1794
ひじ
らされたテーブルに肱をかけて、
ペンを取り上げた。
ペンもインキも長く使わないま
まだったので、ペンの先は曲がり、
インキはかわいていた。彼は立ち
あがって数滴の水をインキの中に
注がなければならなかった。それ
だけのことをするにも二、三回休
んで腰をおろした。それにまたペ
ンは背の方でしか字が書けなかっ
1795
ふ
た。彼はときどき額を拭いた。
彼の手は震えていた。彼はゆっ
くりと次のような数行を認めた。
コゼット、私はお前を祝福
する。私はここにちょっと説
おっと
明しておきたい。お前の夫が、
私に去るべきものであること
1796
を教えてくれたのは、至当な
ことである。けれども、彼が
信じていることのうちには少
し誤りがある。しかしそれも
彼が悪いのではない。彼はりっ
ぱな人である。私が死んだ後
も、常に彼をよく愛しなさい。
ポンメルシー君、私の愛児を
常に愛して下さい。コゼット、
私はここに書き残しておく。
1797
これは私がお前に言いたいと
思ってることである。私にま
だ記憶の力が残っていたら、
数字も出てくるであろうが、
よく聞きなさい。あの金はまっ
たくお前のものである。その
わけはこうである。白飾玉は
ノールウェーからき、黒飾玉
はイギリスからき、黒ガラス
玉はドイツから来る。飾り玉
1798
とうと
の方が軽くて貴くて価も高い。
まが
その擬い玉はドイツでできる
ろう
が、フランスでもできる。二
かなしき
寸四方の小さな鉄碪と鑞を溶
かすアルコールランプとがあ
ればよい。その鑞は、以前は
樹脂と油煙とで作られていて、
一斤四フランもしていた。と
うるし
ころが私は漆とテレビン油と
で作ることを考え出した。価
1799
はわずかに三十スーで、しか
もずっと品がよい。留め金は
紫のガラスでできるのだが、
右の鑞でそのガラスを黒い鉄
の小さな輪縁につける。ガラ
スは鉄の玉には紫でなければ
きん
いけないし、金の玉には黒で
なければいけない。スペイン
にその需要が多い。それは飾
り玉の国で⋮⋮
1800
そこで彼は書くのをやめ、ペン
は指から落ち、時々胸の底からこ
み上げてくる絶望的なすすり泣き
がまた襲ってき、あわれな彼は両
手で頭を押さえ、そして思いに沈
んだ。
﹁ああ、万事終わった。﹂と彼は
心の中で叫んだ︵神にのみ聞こえ
る痛むべき叫びである︶。﹁私は
もう彼女に会うこともあるまい。
1801
それは一つのほほえみだったが、
もう私の上を通りすぎてしまった。
彼女を再び見ることもなく、私は
やみよ
このまま闇夜のうちにはいってゆ
くのか。おお、一分でも、一秒で
も、あの声をきき、あの長衣にさ
わり、あの顔を、あの天使のよう
な顔をながめ、そして死ねたら!
死ぬのは何でもない。ただ恐ろ
しいのは、彼女に会わないで死ぬ
1802
ことだ。彼女はほほえんでくれる
だろう、私に言葉をかけてくれる
だろう。そうしたとてだれかに災
いをおよぼすだろうか。いやいや、
もう済んでしまった、永久に。私
はこのとおりただひとりである。
ああ、私はもう彼女に会えないだ
ろう。﹂
とびら
その時だれか扉をたたく者があっ
た。
1803
四 物を白くするのみ
すみつぼ
なる墨壺
ちょうどその時、なおよく言え
ばその同じ夕方、マリユスが食卓
を離れ、訴訟記録を調べる用があっ
て、自分の事務室に退いた時、バ
スクが一通の手紙を持ってきて言っ
た。﹁この手紙の本人が控え室に
きております。﹂
1804
コゼットは祖父の腕を取って、
庭を一回りしていた。
手紙にも人間と同じく、気味の
悪いものがある。粗末な紙、荒い
しわ
皺、一目見ただけでも不快の気を
起こさせるものがある。バスクが
持ってきた手紙はそういう種類の
ものだった。
マリユスはそれを手に取った。
たばこ
煙草のにおいがしていた。およそ
1805
においほど記憶を呼び起こさせる
ものはない。マリユスはその煙草
・ ・
のにおいに覚えがあった。彼は表
・ ・ ・ ・ ・
をながめた。﹁御邸宅にて、ポン
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
メルシー男爵閣下。﹂煙草のにお
いに覚えがあるために、彼は手跡
にも覚えがあることがわかった。
驚きの情にも電光があると言って
も不当ではない。マリユスはそう
いう電光の一つに照らされたよう
1806
だった。
記憶の神秘な助手であるにおい
は、彼のうちに一世界をよみがえ
らした。紙といい、たたみ方とい
い、インキの青白い色といい、ま
た見覚えのある手跡といい、こと
に煙草のにおいといい、すべてが
ろう
同じだった。ジョンドレットの陋
おく
屋が彼の目の前に現われてきた。
偶然の不思議なる悪戯よ! か
1807
くて、彼があれほどさがしていた
そうせき
二つの踪跡のうちの一つ、最近更
に多くの努力をしたがついにわか
らずもう永久に見いだせないと思っ
そうせき
ひら
ていた踪跡は、向こうから彼の方
へやってきたのである。
むさぼ
彼は貪るように手紙を披いて読
み下した。
男爵閣下
1808
もし天にして小生に才能を
与えたまいしならんには、小
生は学士院︵科学院︶会員テ
そうら
ナル男爵となり得候いしもの
を、ついにしからずして終わ
そうろう
り候。小生はただその名前の
みを保有し居候が、この一事
によって閣下の御好意に浴す
るを得ば幸甚に御座候。小生
に賜わる恩恵は報いらるるべ
1809
き所これ有り候。と申すは、
小生はある個人に関する秘密
を握りおり、その個人は閣下
に関係ある男に候。小生はた
だ閣下の御ためを計るの光栄
を希望する者にて、おぼしめ
しこれ有り候わばその秘密を
御伝え申すべく候。男爵夫人
閣下は素性高き方に候えば、
小生はただ閣下の貴き家庭よ
1810
り何ら権利なきその男を追い
払い得る、きわめて簡単なる
方法を御知らせ申すべく候。
高徳の聖殿も長く罪悪と居を
共にする時は、ついには汚る
るものに御座候。
小生は控え室にて、閣下
の御さし図を相待ち居候。敬
具。
1811
・ ・ ・
手紙にはテナルと署名してあっ
た。
その署名は必ずしも偽りではな
かった。ただ少し縮めただけのも
のだった。
その上、その冗文と文字使いと
は事実を明らかに語っていた。出
めいりょう
所は充分明瞭だった。疑問をはさ
むの余地はなかった。
マリユスは深く心を動かされた。
1812
きょうがい
そして驚駭の後に喜びの念をいだ
いた。今はもはや、捜索している
もうひとりの男を、自分を救って
くれた男を、見いだすのみであっ
て、それができればもう他に望み
はなくなるわけだった。
彼は仕事机の引き出しを開き、
中からいくばくかの紙幣を取り出
し、それをポケットに入れ、机を
ベ ル
また閉ざし、そして呼鈴を鳴らし
1813
とびら
た。バスクが扉を少し開いた。
﹁ここに通してくれ。﹂とマリユ
スは言った。
バスクは案内してきた。
﹁テナル様でございます。﹂
ひとりの男がはいってきた。
マリユスは新たな驚きを覚えた。
はいってきたのはまったく見知ら
ぬ男だった。
その男は、と言ってももう老人
1814
あご
だが、大きな鼻を持ち、頤を首飾
おお
めがね
りの中につき込み、目には緑色の
こはくぎぬ
琥珀絹で縁覆いした緑色の眼鏡を
かけ、髪は額の上に平らになでつ
ま ゆ
けられて眉毛の所まで下がり、イ
ギリスの上流社会の御者がつけて
かつら
る鬘のようだった。その髪は半ば
白くなっていた。頭から足先まで
黒ずくめで、その黒服はすり切れ
てはいるが小ぎれいだった。一ふ
1815
さの飾り玉が内隠しから出ていて、
時計がはいってることを示してい
た。手には古い帽子を持っていた。
前かがみに歩いていて背中が曲がっ
てるために、そのお時儀はいっそ
う丁寧らしく見えた。
一目見ても不思議なことには、
その上衣はよくボタンがかけられ
てるのにだぶだぶしていて、彼の
ために仕立てられたものではなさ
1816
そうだった。
ここにちょっと余事を述べてお
く必要がある。
当時パリーには、ボートレイイ
ぞうへいしょう
街の造兵廠の近くの古い怪しい小
れいり
屋に、ひとりの怜悧なユダヤ人が
住んでいて、不良の徒を良民に変
装してやるのを仕事としていた。
長い時間を要しなかったので、悪
者らにとっては、至って便利だっ
1817
た。日に三十スー出せば、一日か
二日の約束で、見てるまに服装を
変えてくれて、できるだけうまく
あらゆる種類の良民に仕立ててく
れた。衣裳を貸してくれるその男
・ ・ ・ ・ ・
は、取り替え人と呼ばれていた。
それはパリーの悪者らがつけた名
前で、別の名前は知られていなかっ
た。彼はかなりそろった衣服室を
持っていた。人々を変装してやる
1818
衣服は相当な品だった。彼は特殊
な才能を持ち、種々の方法を心得
くぎ
しわ
ていた。店の釘にはそれぞれ、社
す
会のあらゆる階級の擦れ切れた皺
だらけの衣裳がかかっていた。こ
ちらに役人の服があり、あちらに
司祭の服があり、一方に銀行家の
服があり、片すみに退職軍人の服
があり、他のすみには文士の服が
あり、向こうには政治家の服があ
1819
る、という具合になっていた。そ
の男はパリーで演ぜられる大きな
どろぼうしばい
泥坊芝居の衣裳方だった。その小
屋は詐偽窃盗の出入りする楽屋だっ
た。ぼろをまとってるひとりの悪
漢が衣服室にやってき、三十スー
出し、その日演じようとする役目
に従って適当な服装を選み、そし
て再び階段をおりてゆく時には、
まったく相当な人間に変わってい
1820
た。翌日になると、その衣服は正
直に返却された。盗賊らをすっか
り信用してる取り替え人は、決し
て品物を盗まれることがなかった。
ただその衣服には一つ不便な点が
あった。すなわち﹁うまく合わな
い﹂ということだった。着る人の
身体に合わして作られたものでな
かったから、甲の者には小さすぎ、
乙の者には大きすぎるという具合
1821
に、だれにもきっちり合わなかっ
た。普通の者より小さいか大きい
かが常である悪者らは、取り替え
人の衣服にははなはだ具合が悪かっ
た。またあまりふとっていてもあ
まりやせていてもいけなかった。
取り替え人は普通の人間をしか頭
に入れていなかった。ふとっても
いずやせてもいず、背が高くも低
くもない、始めてぶっつかった奴
1822
の身体に合わして、標準をきめて
いた。そのために着換えをするこ
とが困難な場合もしばしば起こっ
て、顧客らはできるだけの手段を
尽してその困難を切りぬけようと
していた。並みはずれの体格を持っ
てる者には、気の毒なわけだった。
たとえば、政治家の服装はすっか
り黒ずくめで、従って適宜なもの
であったが、ピットにはあまり広
1823
すぎ、カステルシカラにはあまり
・ ・ ・
狭すぎた。この政治家の服は、取
り替え人の目録の中には次のよう
に指定されていた。それをここに
書き写してみよう。﹁黒ラシャの
上衣、黒の厚ラシャのズボン、絹
くつ
のチョッキ、靴、およびシャツ。﹂
・ ・ ・
欄外に、前大使としてあって、注
がついていた。その注をも写して
みよう。﹁別の箱にあり、程よき
1824
かつら
巻き髪の鬘、緑色の眼鏡、時計の
飾り玉、および、綿にくるみたる
長さ一寸の小さな羽軸二本。﹂そ
れだけで前大使たる政治家ができ
上がるのだった。その服装は言わ
ば衰弱しきっていた。縫い目は白
ひじ
ばんでおり、一方の肱にはボタン
穴くらいの破れ目ができかかって
いた。その上、上衣の胸にボタン
が一つ取れていた。しかしそれは
1825
何でもないことだった。政治家の
手はいつも上衣の中に差し込まれ
て胸を押さえてるものであるから、
ボタンが一つ足りないのを隠す役
目をもするわけだった。
もしマリユスが、パリーのそう
いう隠密な制度に通じていたなら
ば、今バスクが案内してきた客の
背に、取り替え人の所から借りて
きた政治家の上衣を、すぐに見て
1826
取り得たはずである。
マリユスは予期していたのと違っ
た男がはいってくるのを見て失望
し、失望の念はやがて新来の客に
けんお
対する嫌悪の情となった。そして
男が低く頭を下げてる間、彼はそ
の頭から足先までじろじろながめ
て、きっぱりした調子で尋ねた。
こ
﹁何の用ですか。﹂
わに
男は鰐の媚び笑いとでも言える
1827
ように、歯をむき出して愛相笑い
をしながら答えた。
﹁閣下には方々でお目にかかる光
栄を得ましたように覚えておりま
す。ことに数年前、バグラシオン
やしき
大公夫人のお邸や、上院議員ダン
ブレー子爵のお客間などで、お目
にかかったように存じておりま
す。﹂
まったく初対面の人にもどこか
1828
で前に会ったような様子をするの
は、卑劣な男の巧みな慣用手段で
ある。
マリユスは男の話に注意してい
た。しかしいくらその声の調子や
身振りに目をつけても、失望は大
きくなるばかりだった。鼻にかかっ
た声であって、予期していた鋭い
こわね
かわいた声音とはまったく異なっ
ていた。彼はまったく推定に迷わ
1829
された。
﹁僕は、﹂と彼は言った、﹁バグ
ラシオン夫人もダンブレー氏も知
りません。まだどちらの家にも足
をふみ入れたことはかつてありま
せん。﹂
その答えは無愛想だった。それ
いんぎん
でもなお男は慇懃に言い続けた。
﹁ではお目にかかりましたのは、
シャトーブリアン氏のお宅でした
1830
でしょう。私はシャトーブリアン
氏をよく存じております。なかな
か愛想のよいお方です。どうだテ
ナル、いっしょに一杯やろうか、
などと時々申されます。﹂
マリユスの顔はますます険しく
なった。
﹁僕はまだシャトーブリアン氏の
宅に招かれたことはありません。
つまらないことはぬきにしましょ
1831
う。結局どういう用ですか。﹂
男はいっそうきびしくなったそ
の声の前に、いっそう低く頭を下
げた。
﹁閣下、まあどうかお聞き下さい。
アメリカのパナマに近い地方にジョ
ヤという村がございます。村と申
しましても、家は一軒きりござい
ません。堅い煉瓦作りの四階建て
になっている大きな四角な家であ
1832
りまして、その四角の各辺が五百
尺もあり、各階は下の階より十二
尺ほど引っ込んで、それだけがぐ
るりと平屋根になっています。中
央が中庭で、食料や武器が納めら
れています。窓はなくてみな銃眼
はしご
になり、戸はなくてみな梯子になっ
ています。すなわち地面から二階
の平屋根へ上れる梯子、次は二階
から三階へ、三階から四階へとなっ
1833
とびら
ていまして、また中庭におりられ
へや
る梯子もあります。室には扉がな
くてみな揚げ戸になり、階段がな
くてみな梯子になっています。晩
になると、揚げ戸をしめ、梯子を
引き上げ、トロンブロン銃やカラ
ビン銃を銃眼に備えます。内へは
いることは到底できません。昼間
ようさい
は住家で、夜は要塞で、住民は八
百人というのがその村のありさま
1834
でございます。なぜそんなに用心
をするかと申せば、ごく危険な地
方だからであります。食人人種が
たくさんおります。ではなぜそん
な所へ行くかと言いますれば、実
に素敵な土地でありまして、黄金
が出るからであります。﹂
﹁結局どういうことになるんです
か。﹂と失望から性急に変わって
マリユスは話をさえぎった。
1835
﹁こういうことでございます、閣
下。私はもう疲れはてた古い外交
官であります。古い文明のために
力を使い果たしてしまいました。
それで一つ野蛮な仕事をやってみ
ようと思っているのでございま
す。﹂
﹁だから?﹂
いなかおんな
﹁閣下、利己心は世界の大法であ
ひようかせ
ります。日傭稼ぎの貧乏な田舎女
1836
は、駅馬車が通れば振り返って見
ますが、自分の畑の仕事をしてる
地主の女は、振り向きもいたしま
ほ
せん。貧乏人の犬は金持ちに吠え
かかり、金持ちの犬は貧乏人に吠
えかかります。みな自分のためば
かりです。利益、それが人間の目
的であります。金は磁石でありま
す。﹂
﹁だから? 結局何ですか。﹂
1837
﹁私はジョヤに行って住みたいと
思っております。家族は三人で、
私の妻に娘、それもごく美しい娘
でございます。旅は長くて、金も
よほどかかります。私は金が少し
いるのでございます。﹂
﹁それが何で僕に関係があるんで
すか。﹂とマリユスは尋ねた。
男は首飾りから首を差し出した。
はげたか
禿鷹のよくやる身振りである。そ
1838
して彼はいっそう笑顔を深めて答
えた。
﹁閣下は私の手紙を御覧になりま
せんでしたでしょうか。﹂
それはほとんどそのとおりであっ
た。実際、手紙の内容にマリユス
はよく気を止めなかった。彼は手
紙を読んだというよりむしろその
手跡を見たのだった。何が書いて
あったかはほとんど覚えていなかっ
1839
た。けれどもちょっと前から新し
い糸口が現われてきた。彼は﹁私
の妻に娘﹂という一事に注意をひ
かれた。そして鋭い目を男の上に
据えていた。予審判事といえども
それにおよぶまいと思われるほど、
じっと目を注いでいた。ほとんど
待ち伏せをしてるようなありさま
だった。それでも彼はただこう答
えた。
1840
﹁要点を言ってもらいましょう。﹂
男は二つの内隠しに両手をつき
込み、背筋をまっすぐにせずただ
頭だけをあげて、こんどはこちら
から緑色の眼鏡越しにマリユスの
様子をうかがった。
﹁よろしゅうございます、閣下。
要点を申し上げましょう。私は一
つ買っていただきたい秘密を手に
しております。﹂
1841
﹁秘密!﹂
﹁秘密でございます。﹂
﹁僕に関しての?﹂
﹁はい少しばかり。﹂
﹁その秘密とはどういうことで
す?﹂
マリユスは相手の言うことに耳
を傾けながら、ますます注意深く
その様子を観察していた。
﹁私はまず報酬を願わないでお話
1842
しいたしましょう。﹂と男は言っ
た。﹁私がおもしろい人物である
事もおわかりでございましょう。﹂
﹁お話しなさい。﹂
やしき
﹁閣下、あなたはお邸に盗賊と殺
人犯とをおいれになっておりま
す。﹂
りつぜん
マリユスは慄然とした。
﹁僕の宅に? いや決して。﹂と
彼は言った。
1843
ひじ
ちり
男は平然として、肱で帽子の塵
を払い、言い進んだ。
﹁人殺しでかつ盗賊であります。
よくお聞き下さい、閣下。私が今
申し上げますのは、古い時期おく
れの干からびた事実ではありませ
ん。法律に対しては時効のために
消され、神に対しては悔悟のため
に消されたような、そういう事実
ではありません。最近の事実、現
1844
在の事実、今にまだ法廷から知ら
れていない事実、それを申してる
のであります。続けてお話しいた
しますが、その男がうまくあなた
の信用を得、名前を変えて御家庭
にはいり込んでおります。その本
名をお知らせ申しましょう。しか
もただでお知らせいたしましょ
う。﹂
﹁聞きましょう。﹂
1845
﹁ジャン・ヴァルジャンという名
でございます。﹂
﹁それは知っています。﹂
﹁なお私は報酬も願わないで、彼
がどういう人物だかを申し上げま
しょう。﹂
﹁お言いなさい。﹂
﹁元は徒刑囚だった身の上です。﹂
﹁それは知っています。﹂
﹁私が申し上げましたからおわか
1846
りになりましたのでしょう。﹂
﹁いや。前から知っていたので
す。﹂
・ ・
マリユスの冷然たる調子、それ
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
は知っていますという二度の返事、
相手に二の句をつがせないような
簡明さ、それらは男の内心を多少
げっこう
激昂さした。彼は憤激した目つき
をちらとマリユスに投げつけた。
そのまなざしはすぐに隠れて、一
1847
瞬の間にすぎなかったが、一度見
たら忘れられないようなものだっ
た。マリユスはそれを見のがさな
かった。ある種の炎はある種の魂
からしか発しない。思想の風窓で
ひとみ
ある眸は、そのために焼かれてし
めがね
まう。眼鏡もそれを隠すことはで
きない。地獄にガラスをかぶせた
ようなものである。
男はほほえみながら言った。
1848
﹁私は何も男爵閣下のお言葉に逆
らうつもりではございません。が
とにかく、私がよく秘密を握って
いるということは認めていただき
たいのでございます。これからお
知らせ申し上げますことは、ただ
私ひとりしか承知していないこと
であります。それは男爵夫人閣下
の財産に関することでございます。
非常な秘密でありまして、金に代
1849
えたいつもりでいます。でまず最
初閣下にお買い上げを願いたいの
です。お安くいたしましょう。二
万フランに。﹂
﹁その秘密というのも、他の秘密
と同様に私は知っています。﹂と
マリユスは言った。
男はその価を少しく下げる必要
を感じた。
﹁閣下、一万フラン下されば申し
1850
上げましょう。﹂
﹁繰り返して言うが、君は僕に何
も教えるものはないはずです。君
が話そうという事柄を僕は皆知っ
ています。﹂
男の目には新しいひらめきが浮
かんだ。彼は声を高めた。
﹁それでも私は今日の食を得なけ
ればなりません。まったくそれは
非常な秘密です。閣下、お話しい
1851
たしましょう。お話しいたしましょ
う。二十フラン恵んで下さい。﹂
マリユスは彼をじっと見つめた。
﹁僕も君の非常な秘密を知ってい
ます。ジャン・ヴァルジャンの名
前を知ってると同様に、君の名前
も知っています。﹂
﹁私の名前を?﹂
﹁そうです。﹂
﹁それはわけもないことでしょう、
1852
閣下。私はそれを手紙に書いて差
し上げましたし、また自分で申し
上げました、テナルと。﹂
﹁ディエ。﹂
﹁へえ!﹂
﹁テナルディエ。﹂
﹁それはだれのことでございます
か。﹂
やまあらし
危険になると、豪猪は毛を逆立
かぶとむし
て、甲虫は死んだまねをし、昔の
1853
はじ
近衛兵は方陣を作るが、この男は
笑い出した。
そで
それから彼は上衣の袖を指で弾
いてほこりを払った。
マリユスは続けて言った。
﹁君はまたそのほか、労働者ジョ
ンドレット、俳優ファバントゥー、
詩人ジャンフロー、スペイン人ド
ン・アルヴァレス、およびバリザー
ルの家内とも言う。﹂
1854
﹁何の家内で?﹂
﹁なお君は、モンフェルメイュで
飲食店をやっていた。﹂
﹁飲食店? いえ、どうしまし
て。﹂
﹁そして君の本名はテナルディエ
というのだ。﹂
﹁さようなことはありません。﹂
﹁そして君は悪党だ。そら。﹂
マリユスはポケットから一枚の
1855
紙幣を取り出して、相手の顔に投
げつけた。
﹁ありがとうございます。ごめん
下さい。五百フラン! 男爵閣
下!﹂
ろうばい
男は狼狽して、お時儀をし、紙
幣をつかみ、それを調べた。
ぼうぜん
﹁五百フラン!﹂と彼は茫然とし
て繰り返した。そして半ば口の中
しろもの
でつぶやいた、﹁いい代物だ!﹂
1856
それから突然彼は叫んだ。
びんしょう
﹁これでいいとしよう。楽にしま
しょう。﹂
さる
そして猿のような敏捷さで、髪
めがね
をうしろになで上げ、眼鏡をはず
し、二本の羽軸を鼻から引き出し
かみ
てしまい込んだ。その羽軸は上に
述べておいたもので、また本書の
他の所でも読者が既に見てきたも
のである。かくて彼は、あたかも
1857
帽子でも脱ぐようなふうに仮面を
はいでしまった。
その目は輝き出した。所々でこ
しわ
ぼこして上の方に醜い皺の寄って
くちばし
る変な額が出てきた。鼻は嘴のよ
どう
うにとがった。肉食獣のような獰
もうこうかい
猛狡獪な顔つきが現われた。
﹁男爵の申されるとおりです。﹂
と彼は全く鼻声がなくなった明ら
かな声で言った。﹁私はテナルディ
1858
エです。﹂
そして彼は曲がっていた背をまっ
すぐにした。
まさしくその男はテナルディエ
だったので以後そう呼ぶが、テナ
ルディエは非常に驚かされた。も
し惑乱し得るとしたら、惑乱する
ところだった。彼は向こうを驚か
すつもりできて、かえって反対に
驚かされた。その屈辱は五百フラ
1859
ンで償われた。そして結局彼はそ
れを受け取ってしまった。しかし
ぼうぜん
それでもやはり惘然とさせられた
には違いなかった。
彼はそのポンメルシー男爵とは
初対面だった。そして彼が仮装し
ていたにかかわらず、ポンメルシー
男爵は彼を見破り、しかもその奥
底までも見て取った。その上男爵
は、ただテナルディエのことをよ
1860
く知ってるのみでなく、またジャ
ン・ヴァルジャンのこともよく知っ
てるらしかった。かく冷然として
しかも寛厚なるまだ青二才にすぎ
ないこの青年は、そもそもいかな
る人物だろうか、人の名前を知っ
ており、その名前をみな知ってお
り、しかも財布の口を開いてくれ、
裁判官のように悪人をいじめつけ、
しかも欺かれた愚人のように金を
1861
出してくれるとは?
読者の記憶するとおり、テナル
ディエはかつてマリユスの隣の室
に住んでいたけれども、彼を見た
ことは一度もなかった。そういう
ことは、パリーでは別に珍しくは
ない。彼は以前に自分の娘たちか
ら、マリユスというごく貧しい青
年が、同じ家に住んでるとぼんや
り聞かされた。そしてその顔も知
1862
らないで、読者が知るとおりの手
紙を彼に書いた。そのマリユスと
このポンメルシー男爵とを結びつ
けることは、彼の頭の中ではとう
ていできなかった。
ポンメルシーという名前につい
ては、読者の記憶するとおり、彼
はワーテルローの戦場で、ただそ
の終わりの三字︵訳者注 メルシ
とはまたありがとうという意味で
1863
ある︶と解釈しただけであって、
ただ一つの感謝の言葉としてあま
り注意も払わなかったのは、無理
ならぬことである。
ところで彼は、娘のアゼルマを
使って、二月十六日の婚礼の跡を
せんさく
探らせ、また自分でも種々穿鑿し
て、ついに多くのことを知るに至
り、自分は暗黒の底にいながら、
秘密の糸口を数多つかみ得た。そ
1864
こうきょ
してある日大溝渠の中で出会った
男がいかなる人物であったかを、
こうち
狡智によって発見した、あるいは
少なくとも帰納的に察知し得た。
その名前までも容易に推察した。
また、ポンメルシー男爵夫人はコ
ゼットであることをも知っていた。
そしてこの方面では、慎重に差し
控えた方がいいと思った。コゼッ
トは何者であるか? それは彼に
1865
もよくわからなかった。私生児で
ばくぜん
あることは漠然とわかっていた。
がファンティーヌの話にはどうも
怪しいふしがあるように思われた。
それを話して何の役に立とう、そ
の口止め料をもらうためにか? 否彼は、それよりも更によい売り
物を持っていた、あるいは持って
ると思っていた。それに、何らの
・
証拠もなくただ推察だけで、﹁あ
1866
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
なたの夫人は私生児です﹂とポン
メルシー男爵に告げたところで、
おっと
それはただ夫の激怒を買うに過ぎ
なかったろう。
テナルディエの考えでは、マリ
ユスとの会話はまだ始まったとも
言えないものであった。もとより
彼は、一旦退却し、戦略を改め、
陣を撤し、方向を変えなければな
らなかった。けれども、大事な点
1867
はまだ先方に知られていないし、
ポケットには五百フランせしめて
いた。その上、いざとなれば言う
べきことも持っていたので、深い
知識といい武器とをそなえてるポ
ンメルシー男爵に対してもなお、
自分の方に強味があると感じてい
た。テナルディエのような者にとっ
ては、一々の会話が皆戦闘である。
さて今始めんとする戦闘において
1868
は、彼の地位はどういうものであっ
たか? 彼は相手がいかなる人物
であるかを知らなかった、しかし
問題がいかなるものであるかを知っ
ていた。彼はすみやかに、自分の
・
武力を心の中で調べてみて、﹁私
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
はテナルディエです﹂と言った後、
先方の様子を待ってみた。
マリユスは考えに沈んでいた。
つかま
彼はついにテナルディエを捕えた
1869
のである。あれほど見つけ出した
いと思っていた男が、今目の前に
いるのだった。彼はポンメルシー
大佐の要求を果たすことができる
のだった。あの英雄がこの悪漢に
多少なりとも恩を受けていること、
墓の底から父が彼マリユスに向かっ
て振り出した手形は今にまだ支払
われていないこと、それに彼は屈
辱を感じていた。そしてまた、テ
1870
ナルディエに対して複雑な精神状
態の中にありながら彼は、大佐が
かかる悪漢に救われた不幸につい
て、返報してやる所がなければな
らないように考えられた。しかし
それはとにかく、彼は満足であっ
いや
た。今や、かかる賤しい債権者か
ら大佐の影を解き放してやる時が
ろうごく
きたのだった。負債の牢獄から父
の記憶を引きぬいてしまう時がき
1871
たのだった。
そういう義務のほかに、彼には
も一つなすべきことがあった。も
しできるならばコゼットの財産の
出所を明らかにすることだった。
今ちょうどその機会がきたように
思われた。テナルディエはおそら
く何か知ってるに違いなかった。
この男を底まで探りつくしたら何
かの役に立つかも知れなかった。
1872
で彼はまずそれから始めた。
しろもの
テナルディエはその﹁いい代物﹂
を内隠しにしまい込んで、ほとん
こ
ど媚びるようにおとなしくマリユ
スをながめていた。
マリユスは沈黙を破った。
﹁テナルディエ、僕は君の名前を
言ってやった。そして今また、君
のいわゆる秘密、君が僕に知らせ
ようと思ってきたものを、僕から
1873
言ってもらいたいのか? 僕もい
ろいろ知ってることがある。君よ
りもくわしく知ってるかも知れな
い。ジャン・ヴァルジャンは、君
が言うとおり、人殺しで盗人だ。
マドレーヌ氏という富有な工場主
を破滅さしてその金を盗んだから、
盗人である。警官ジャヴェルを殺
害したから、人殺しである。﹂
﹁何だかよくわかりかねますが、
1874
男爵。﹂とテナルディエは言った。
﹁ではよくわからしてあげよう。
聞きなさい。一八二二年ごろ、パ・
ド・カレー郡に、ひとりの男がい
た。彼は以前少しく法律に問われ
たことのある者だったが、マドレー
ヌ氏という名前で身を立て名誉を
回復していた。まったく一個の正
しい人間となっていた。そしてあ
る工業で、黒ガラス玉の製造で、
1875
全市を繁昌さした。自分の財産も
できたが、それは第二の問題で、
言わば偶然にできたのである。そ
れから彼は貧しい人たちの養い親
となった。病院を建て学校を開き、
病人を見舞い、娘には嫁入じたく
やもめ
をこしらえてやり、寡婦には暮ら
しを助けてやり、孤児は引き取っ
て育ててやった。ほとんどその地
方の守り神だった。彼は勲章を辞
1876
退したが、ついに市長に推された。
ところがひとりの放免囚徒が、そ
の人の旧悪の秘密を知っていて、
その人を告発し捕縛させ、その捕
縛に乗じてパリーにやってき、偽
署をしてラフィット銀行から︱︱
この事実はその銀行の出納係から
直接に聞いたことだ︱︱マドレー
ヌ氏のものである五十万以上の金
額を引き出してしまった。そのマ
1877
ドレーヌ氏の金を奪った囚人とい
うのが、すなわちジャン・ヴァル
ジャンである。またも一つの事実
についても、僕は何も君から聞く
必要はない。ジャン・ヴァルジャ
ンは警官ジャヴェルを殺した。ピ
ストルで殺した。かく言う僕がそ
の場にいたのだ。﹂
いちべつ
テナルディエは厳然たる一瞥を
マリユスに投げた。あたかも一度
1878
打ち負けた者が再び勝利に手をつ
け、失っていた地歩を一瞬間のう
ちに取り戻したかのようだった。
しかしまたすぐに例の微笑が現わ
れた。上位の者に対しては、下位
の者はただ気兼ねした勝利をしか
持ち得ないものである。テナルディ
エはただこれだけマリユスに言っ
た。
﹁男爵は、何だか筋道が違ってい
1879
ますようですが。﹂
そう言いながら彼は、時計の飾
り玉を意味ありげにひねくってそ
れに力を添えた。
﹁なに!﹂とマリユスは言った、
﹁君はそれに抗弁するのか。それ
は実際の事実だ。﹂
うわごと
﹁いえ、譫言みたいなものです。
男爵も打ち明けて言われましたか
ら、私の方でも打ち明けて申しま
1880
しょう。何よりもまず真実と正義
とが第一です。私は不正な罪を被っ
てる者を見るのを好みません。男
爵、ジャン・ヴァルジャンはマド
レーヌ氏のものを盗んではいませ
ん。ジャン・ヴァルジャンはジャ
ヴェルを殺してはいません。﹂
﹁何だと! それはどうしてだ?﹂
﹁二つの理由からです。﹂
﹁どういう理由だ? 言ってみな
1881
さい。﹂
﹁第一はこうです。彼はマドレー
ヌ氏のものを盗んだというわけに
はなりません、ジャン・ヴァルジャ
ン自身がマドレーヌ氏であるから
には。﹂
﹁何を言うんだ。﹂
﹁そして第二はこうです。彼はジャ
ヴェルを殺したはずはありません、
ジャヴェルを殺したのはジャヴェ
1882
ル自身であるからには。﹂
﹁と言うと?﹂
﹁ジャヴェルは自殺したのです。﹂
﹁証拠があるか、証拠が!﹂とマ
リユスは我を忘れて叫んだ。
テナルディエはあたかも古詩の
句格めいた調子で言った。
﹁警官⋮⋮ジャヴェルは⋮⋮ポン・
トー・シャンジュの橋の⋮⋮小船
の下に⋮⋮おぼれて⋮⋮いまし
1883
た。﹂
﹁それを証明してみなさい!﹂
わき
テナルディエは腋のポケットか
ら、大きな灰色の紙包みを取り出
した。種々の大きさにたたんだ紙
が中にはいっているらしく見えた。
﹁私は記録を持っています。﹂と
彼は落ち着いて答えた。
そしてまた言い添えた。
﹁男爵、私はあなたのために、こ
1884
のジャン・ヴァルジャンのことを
すっかり探り出そうと思いました。
私はジャン・ヴァルジャンとマド
レーヌとは同一人であると申しま
したし、ジャヴェルを殺したのは
ジャヴェル自身にほかならないと
申しましたが、そう申すにはもと
より証拠があってのことです。し
かも手で書いた証拠ではありませ
ん。書いたものは疑うこともでき、
1885
またどうにでもなるものです。け
れども私が持ってるのは、印刷し
た証拠物であります。﹂
そう言いながらテナルディエは、
あ
黄ばみがかって色が褪せてしかも
たばこ
強い煙草のにおいがする二枚の新
聞紙を、包みの中から引き出した。
そのうちの一枚は、折り目が破れ
て四角な紙片に切れており、も一
枚のよりずっと古いものらしかっ
1886
た。
﹁二つの事実と二つの証拠です。﹂
とテナルディエは言った。そして
彼はひろげた二枚の新聞紙をマリ
ユスに差し出した。
その二枚の新聞は、読者の知っ
てるものである。古い方のは、一
八二三年七月二十五日のドラポー・
ブラン紙の一枚であって、その記
事は本書の第二部第二編第一章で
1887
読者が見たとおり、マドレーヌ氏
とジャン・ヴァルジャンとが同一
人である事を証明するものだった。
もう一枚は、一八三二年六月十五
日の機関紙であって、ジャヴェル
の自殺を証明し、なおジャヴェル
が自ら警視総監に語った口頭の報
告が添えてあった。その報告によ
れば、ジャヴェルはシャンヴルリー
ぼうさい
街の防寨で捕虜になったが、ひと
1888
りの暴徒がピストルをもって彼を
手中のものにしながら、彼の頭を
ぬ
射貫かないで空に向けて発射し、
その寛大なはからいのために一命
を助かったというのだった。
マリユスは読んだ。その中には
明らかな事実があり、確かな日付
けがあり、疑うべからざる証拠が
あった。その二枚の新聞紙は、テ
ナルディエが自説を支持するため
1889
にことさら印刷さしたものではな
かった。機関紙に掲げられた記事
おおやけ
は、警視庁から公に発表したもの
だった。マリユスも疑う余地を見
いださなかった。銀行の出納係が
伝えた話はまちがっていて、彼自
身も誤解をしていたのだった。ジャ
ン・ヴァルジャンはにわかに偉大
なものとなって、雲の中から現わ
れてきた。マリユスは喜びの叫び
1890
を自らおさえることができなかっ
た。
﹁それでは、あのあわれむべき男
は、驚くべきりっぱな人物だった
のか! あの財産はまったく彼自
身のものだったのか! 一地方全
体の守護神たるマドレーヌであり、
ジャヴェルの救い主たるジャン・
ヴァルジャンであるとは! 実に
英雄だ、聖者だ!﹂
1891
﹁いえあの男は、聖者でも英雄で
もありません。﹂とテナルディエ
は言った。﹁人殺しで盗賊です。﹂
そして彼は自らある権威を感じ
始めたような調子で付け加えた。
﹁落ち着いてお話しましょう。﹂
盗賊、人殺し、もはや消え去っ
たと信じていたらそれらの言葉が
再び現われて落ちかかってきたの
で、マリユスは氷の雨に打たれる
1892
ような思いがした。
﹁それでもやはり!﹂と彼は言っ
た。
﹁そうですとも。﹂とテナルディ
エは言った。﹁ジャン・ヴァルジャ
ンはマドレーヌのものを盗みはし
ませんでしたが、やはり盗賊です。
ジャヴェルを殺しはしませんが、
やはり人殺しです。﹂
﹁君はあの、﹂とマリユスは言っ
1893
た、﹁四十年前の盗みを言うのだ
ろう。あれならば、その新聞にも
あるとおり、悔悟と克己と徳操と
あがな
の生涯で贖われている。﹂
﹁男爵、私は殺害と窃盗と申すの
です。しかも繰り返して言います
が、現在の事実です。あなたにこ
れからお知らせいたしますことは、
まったくだれも知らないことであ
ります。まだ世間に発表されてい
1894
ないことであります。そしてたぶ
んあなたは、ジャン・ヴァルジャ
ンから巧みに男爵夫人へ贈られた
財産の出所も、それでおわかりに
なりますでしょう。私は特に巧み
にと申しますが、実際そういう種
類の寄贈によって、名誉ある家に
もぐり込み、その安楽にあずかり、
同時にまた、自分の罪悪を隠し、
盗んだものをおもしろく使い、名
1895
前を包み、家庭の人となるのです
から、まあまずいやり方ではあり
ません。﹂
﹁そう言うなら、僕にも言うべき
ことがある。﹂とマリユスは口を
入れた。﹁だがまあ続けて話して
みなさい。﹂
﹁男爵、私はあなたにすべてを包
まず申しましょう。報酬の方は、
あなたの寛大なおぼしめしにお任
1896
こがね
せいたします。その秘密は黄金の
山を積んでもよろしいものです。
こう申しますと、なぜジャン・ヴァ
ルジャンの方へ行かないのかと言
われるかも知れませんが、それは
ごく簡単な理由からであります。
彼がすっかり金を出してしまった
ことを、しかもあなたのために出
してしまったことを、私は存じて
うま
おります。そのやり方は実に巧い
1897
ものだと思います。ところで彼は
もう一文も持ってはいませんので、
から
ただ私に空っぽの手を開いて見せ
るほかはありますまい。それに私
は、ジョヤまで行くのに少し金が
いりますので、何も持たない彼の
所よりも、何でも持っておいでに
なるあなたの方へ参ったのであり
ます。ああ少し疲れましたから、
い す
どうか椅子にすわることを許して
1898
下さい。﹂
マリユスは腰をおろし、彼にも
すわるように身振りをした。
い
テナルディエはボタン締めの椅
す
子に腰をおろし、二枚の新聞紙を
取り、それを包み紙の中にまたた
たみ込みながら、ドラポー・ブラ
つめ
ン紙を爪ではじいてつぶやいた、
﹁こいつ、手に入れるのにずいぶ
ん骨を折らせやがった。﹂それか
1899
ひざ
ら彼は膝を重ね、椅子の背により
かかった。自分の語ろうとする事
に対して安心しきってる者が取る
態度である。そしていよいよ、落
ち着き払い一語一語力を入れて、
本題にとりかかった。
﹁男爵、今からおおよそ一年ばか
り前、一八三二年六月六日、あの
暴動のありました日、パリーの大
下水道の中に、アンヴァリード橋
1900
とイエナ橋との間のセーヌ川への
出口の所に、ひとりの男がいまし
た。﹂
マリユスはにわかに自分の椅子
を、テナルディエの椅子に近寄せ
た。テナルディエはその動作に目
を注いで、相手の心をとらえ一語
一語に相手の胸のとどろきを感ず
る弁士のように、おもむろに続け
ていった。
1901
﹁その男は、政治とは別なある理
由のために身を隠さなければなら
ないので、下水道を住居として、
かぎ
そこへはいる鍵を持っていました。
重ねて申しますが、それは六月六
日でした。晩の八時ごろだったで
しょう。その男は、下水道の中に
物音を聞いて、非常に驚き、身を
潜めて待ち受けました。物音とい
くらやみ
うのは人の足音で、何者かが暗闇
1902
の中を歩いて、彼の方へやってき
ました。不思議なことに、彼以外
にもひとり下水道の中にいたので
てつごうし
す。下水道の出口の鉄格子は遠く
ありませんでした。それからもれ
て来るわずかな光で、彼は新らし
くきた男が何者であるかを見て取
り、また背中に何かかついでるの
を知りました。その男は背をかが
めて歩いていました。それは前徒
1903
にな
刑囚で、肩に担ってるのは一つの
死体でした。でまあ言わば、殺害
の現行犯です。窃盗の方はそれか
ら自然にわかることです。人はた
だで他人を殺すものではありませ
ん。その囚徒は死体を川に投げ込
むつもりだったのです。なお一つ
てつ
注意までに申しますと、出口の鉄
ごうし
格子の所までたどりつく前に、下
水道の中を遠くからやってきたそ
1904
どろあな
の囚徒は、恐ろしい泥濘孔に必ず
出会ったはずで、そこに死体をほ
うり込んで来ることもできたわけ
あ す
です。しかし、明日にも下水人夫
がその泥濘孔を掃除に来れば、殺
された男を見つけ出すかも知れま
せん。殺した方ではそんなことを
いやがったのです。そしてむしろ
泥濘孔を、荷をかついだまま通り
ぬけて来ることにきめたのです。
1905
どれほど大変な努力をしたかは察
しられます。それくらい危険なこ
とはまたとあるものではありませ
ん。よく死なずに通りぬけてこら
れたのが不思議なほどです。﹂
い す
マリユスの椅子は更に近寄った。
テナルディエはそれに乗じて長く
息をついて、言い続けた。
﹁閣下、下水道は広い練兵場とは
違います。隠れる物は何もなく、
1906
身を置く所さえないくらいです。
そこにふたりの男がいれば、互い
に顔を合わさないわけにはゆきま
せん。そのふたりも出会いました。
そこに住んでいる男とそこを通り
ぬけようとしてる男とは、互いに
困ったとは思いながらも、あいさ
つをかわさないわけにはゆきませ
んでした。通りぬけようとしてる
男は、そこに住んでる男に言いま
1907
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
・ ・ ・ ・
した。﹃お前には俺の背中のもの
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
が何だかわかるだろう。俺は出な
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
けりゃならねえ。お前は鍵を持っ
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
てるようだから、それを俺に貸し
・ ・ ・
てくれ。﹄ところで、その囚徒は
やつ
恐ろしく強い奴でした。拒むわけ
かぎ
にはゆきません。けれども鍵を持っ
てる男は、ただ時間を延ばすため
にいろんなことをしゃべりました。
彼はその死んだ男をよく見ました
1908
な り
が、ただ年が若く、りっぱな服装
をして金持ちらしく、また血のた
めに顔の形もわからなくなってる
というほかは、何にもよくわかり
ませんでした。それで、しゃべっ
てるうちに彼は、人殺しの男に気
づかれないように、そっとうしろ
から、殺された男の上衣の端を裂
き取りました。言うまでもなく証
拠品としてです。それによって事
1909
件を探索し犯罪者にその犯罪の証
拠品をつきつけてやるためです。
彼はその証拠品をポケットにしま
いました。それから彼は、鉄格子
を開き、相手の男をその背中の厄
介物と共に外へ送り出し、鉄格子
をまた閉ざし、そして逃げてしま
いました。事件にそれ以上関係し
たくないと思い、ことに殺害者が
その被害者を川に投げ込む時その
1910
近くにいたくないと思ったからで
した。で、これまでお話し申せば
もう充分おわかりでしょう。死体
をかついでいたのはジャン・ヴァ
かぎ
ルジャンです。鍵を持っていたの
は、現にかく申し上げてる私です。
き れ
そして上衣の布片は⋮⋮。﹂
そしてテナルディエは、一面に
黒ずんだ汚点のついてる引き裂け
た黒ラシャの一片を、ポケットか
1911
ら取り出し、両手の親指と人差し
指とでつまんでひろげながら、そ
れを目の所まで上げて、物語の結
末とした。
マリユスは色を変えて立ち上が
り、ほとんど息もつけないで黒ラ
シャの一片を見つめ、一言も発せ
ず、その布片から目を離しもせず、
さが
壁の方へ退ってゆき、うしろに差
し出した右手で壁の上をなでなが
1912
ら、暖炉のそばの戸棚の錠前につ
いていた一本の鍵をさがした。そ
とだな
してその鍵を探りあて、戸棚を開
き、なおテナルディエがひろげて
ひとみ
る布片から驚きの眸を離さず、後
ろ向きのまま戸棚の中に腕を差し
伸ばした。
その間テナルディエは言い続け
ていた。
﹁男爵、その殺された青年は、ジャ
1913
わな
ン・ヴァルジャンの罠にかかった
どこかの金持ちで、大金を所持し
ていたものだと思える理由が、い
くらもあります。﹂
﹁その青年は僕だ、その上衣はこ
ゆか
れだ!﹂とマリユスは叫んだ。そ
そ
して血に染んだ古い黒の上衣を床
の上に投げ出した。
彼はテナルディエの手から布片
を引ったくり、上衣の上に身をか
1914
がめ、裂き取られた一片を裂けて
すそ
る据の所へあててみた。裂け目は
きっかり合って、その布片のため
に上衣は完全なものとなった。
ぼうぜん
テナルディエは茫然とした。
﹁こいつはやられたかな、﹂と彼
は考えた。
マリユスは身を震わし、絶望し、
また驚喜して、すっくとつっ立っ
た。
1915
彼はポケットの中を探り、恐ろ
しい様子でテナルディエの方へ進
み寄り、五百フランと千フランと
こぶし
の紙幣をいっぱい握りつめた拳を
差し出し、彼の顔につきつけた。
うそ
﹁君は恥知らずだ! 君は嘘つき
で、中傷家で、悪党だ! 君はあ
の人に罪を着せるためにやってき
て、かえってあの人を公明なもの
にした。あの人を破滅させようと
1916
して、かえってあの人をりっぱな
者にした。そして君こそ盗賊だ。
君こそ人殺しだ。おいテナルディ
エ・ジョンドレット、君がオピタ
あばらや
ル大通りの破家にいた所を、僕は
見て知っている。君を徒刑場へ送
るだけの材料を、いやそれよりもっ
と以上の所へ送るだけの材料を、
僕は握っている。さあ、悪者の君
に、千フランだけ恵んでやる。﹂
1917
そして彼は一枚の千フラン紙幣
をテナルディエへ投げつけた。
﹁おいジョンドレット・テナルディ
エ、卑劣きわまる悪漢、これは君
にいい見せしめだ、秘密を売り歩
くらやみ
やつ
き、内密なことを商売にし、暗闇
あさ
の中を漁り回る、みじめな奴! この五百フランもくれてやる。拾っ
たらここを出ていっちまえ! そ
れもワーテルローのお陰だ。﹂
1918
﹁ワーテルロー!﹂とテナルディ
エは五百フランを千フランと共に
ポケットにしまいながらつぶやい
た。
﹁そうだ、人殺しめが! 君はそ
こで⋮⋮大佐の命を救った。﹂
﹁将軍ので。﹂とテナルディエは
頭を上げながら言った。
﹁大佐だ!﹂とマリユスは憤然と
して言った。﹁将軍なら一文もや
1919
りはしない。それから君は、また
悪事をしにここへきた。君は既に
ある限りの罪悪を犯している。ど
こへなりと行くがいい、姿を消し
てしまうがいい。ただ楽に暮らす
ようにと、それだけ僕は希望して
おく。さあ、ここにまだ三千フラ
あした
ンある。それを持ってゆけ。明日
からでもアメリカへ行くがいい、
娘といっしょに。君の妻はもう死
1920
うそ
んでいる、けしからん嘘つきめが!
出発の時には僕が見届けてやる、
そしてその時二万フランは恵んで
やる。どこへなりと行ってくたばっ
てしまえ!﹂
﹁男爵閣下、﹂とテナルディエは
足下まで頭を下げながら答えた、
﹁御恩は長く忘れません。﹂
そしてテナルディエは何にもわ
けがわからず、黄金の袋で打ちの
1921
めされ、頭の上に紙幣をまき散ら
す雷電に打たれ、ただあっけに取
られたまま狂喜して、そこを出て
行った。
彼はまったく雷に打たれたと同
じだったが、しかしまた満足でも
あった。もしその雷に対して避雷
針を持っていたならば、かえって
不満な結果となってたであろう。
ここにすぐ、この男のことを片
1922
づけておこう。今述べてる事件か
ら二日の後、彼はマリユスの世話
によって、名前を変え、娘のアゼ
ルマを連れ、ニューヨークで受け
取れる二万フランの手形を持ち、
アメリカへ向かって出発した。一
度踏みはずしたテナルディエのみ
じめな徳性は、もはや矯正すべか
らざるものになっていた。彼はア
メリカへ行っても、ヨーロッパに
1923
いる時と同様だった。悪人が手を
触るる時には、善行も往々にして
腐敗し、それから更に悪事が出て
くるようになる。マリユスからも
らった金で、テナルディエは奴隷
売買を始めた。
テナルディエが出てゆくや否や、
マリユスは庭に走っていった。コ
ゼットはまだ散歩していた。
﹁コゼット! コゼット!﹂と彼
1924
は叫んだ。﹁おいで、早くおいで!
つじばし
すぐに行くのだ。バスク、辻馬
ゃ
車を一つ呼んでこい。コゼット、
おいで。ああ、僕の命を救ってく
れたのはあの人だった。一刻も遅
らしてはいけない。すぐ肩掛けを
つけるんだ。﹂
コゼットは彼が気でも狂ったの
かと思ったが、その言葉どおりに
した。
1925
彼は息もつけないで、胸に手を
どうき
あてて動悸を押ししずめようとし
おおまた
ていた。彼は大胯に歩き回った。
コゼットを抱いて言った。
﹁ああ、コゼット、僕は実にあわ
れむべき人間だ!﹂
マリユスは熱狂していた。彼は
ジャン・ヴァルジャンのうちに、
高いほの暗い言い知れぬ姿を認め
始めた。非凡な徳操の姿が彼に現
1926
われてきた。最高にしてしかもや
さしい徳であり、広大なるために
かえって謙譲なる徳であった。徒
刑囚の姿はキリストの姿と変わっ
げんわく
た。マリユスはその異変に眩惑し
た。彼は自分の今ながめているも
のがただ偉大であるというほか、
何にもはっきりとわからなかった。
間もなく一台の辻馬車が門前に
やってきた。
1927
マリユスはそれにコゼットを乗
せ、次に自分も飛び乗った。
﹁御者、﹂と彼は言った、﹁オン
ム・アルメ街七番地だ。﹂
馬車は出かけた。
﹁まあうれしいこと!﹂とコゼッ
トは言った、﹁オンム・アルメ街
なのね。私は今まで言い出しかね
ていましたのよ。私たちはジャン
さんに会いに行くんですわね。﹂
1928
とう
﹁お前のお父さんだ、コゼット、
今こそお前のお父さんだ。コゼッ
ト、僕にはもうすっかりのみ込め
た。お前はガヴローシュに持たし
てやった僕の手紙を受け取らなかっ
たと言ったね。きっとあの人の手
に落ちたに違いない。それで僕を
ぼうさい
救いに防寨へきて下すったのだ。
そして、天使となるのがあの人の
務めでもあるように、ついでに他
1929
の人たちをも救われたのだ。ジャ
ヴェルをも救われた。僕をお前に
しんえん
与えるために、あの深淵の中から
僕を引き出して下すった。僕を背
中にかついで、あの恐ろしい下水
道を通られた。ああ僕は実に恐ろ
しい恩知らずだ。コゼット、あの
人はお前の守り神だった後、僕の
守り神になられた。まあ考えても
どろあな
ごらん、恐ろしい泥濘孔があった
1930
のだ、必ずおぼれてしまうような
所が、泥の中におぼれてしまうよ
うな所が、コゼット、それをあの
人は僕をつれて渡られた。僕は気
を失っていた。何にも見えず、何
にも聞こえず、自分がどんなこと
になってるか知ることができなかっ
たのだ。僕たちはあの人を連れ戻
し、否でも応でも家に引き取り、
もう決して離すことではない。あ
1931
あ家にいて下さればいいが、すぐ
会えればいいが! 僕はこれから
一生あの人を敬い通そう。そうだ、
そうしなければいけない、そうだ
ろう、コゼット。ガヴローシュが
僕の手紙を渡したのは、あの人へ
だったに違いない。それですっか
りわかる。お前にもわかったろ
う。﹂
ひとこと
コゼットには一言もわからなかっ
1932
た。
﹁おっしゃる通りですわ。﹂と彼
女は言った。
はせ
馬車はそのうちにも駛っていた。
五 背後に昼を有する
夜
とびら
扉をたたく音を聞いてジャン・
ヴァルジャンは振り向いた。
1933
﹁おはいり。﹂と彼は弱々しく言っ
た。
扉は開かれた。コゼットとマリ
ユスとが現われた。
コゼットは室の中に飛び込んで
きた。
かまち
マリユスは扉の框によりかかっ
しきい
て、閾の上にたたずんだ。
こん
﹁コゼット!﹂とジャン・ヴァル
そうはく
ジャンは言った。そして蒼白な昏
1934
めい
せいさん
迷した凄惨な様子で、目には無限
の喜びを浮かべ、震える両腕を開
い す
いて、椅子の上に身を起こした。
コゼットは激しい感動に息もふ
さがって、ジャン・ヴァルジャン
の胸に身を投げた。
﹁お父様!﹂と彼女は言った。
ジャン・ヴァルジャンは心転倒
して、ようやくにつぶやいた。
﹁コゼット! 彼女! あなた、
1935
奥さん! お前だったか! あ
あ!﹂
そしてコゼットの腕に抱きしめ
られて、彼は叫んだ。
﹁お前だったか! きてくれたか!
では私を許してくれるんだね。﹂
マリユスは涙を落とすまいとし
まぶた
て眼瞼を下げながら、一歩進み出
て、泣き声をおさえようとしてび
くちびる
くびく震えてる脣の間からつぶや
1936
いた。
﹁お父さん!﹂
﹁おおあなたも、あなたは私を許
して下さるのですね!﹂とジャン・
ヴァルジャンは言った。
マリユスは一言も発し得なかっ
た。ジャン・ヴァルジャンは言い
添えた。﹁ありがとう。﹂
コゼットは肩掛けをぬぎ捨て、
帽子を寝台の上に投げやった。
1937
﹁邪魔だわ。﹂と彼女は言った。
ひざ
そして老人の膝の上にすわりな
がら、得も言えぬやさしい手つき
で彼の白髪を払いのけ、その額に
くち
脣づけをした。
ぼうぜん
ジャン・ヴァルジャンは惘然と
して、されるままになっていた。
ばくぜん
コゼットはただ漠然としか事情
を了解していなかったが、あたか
もマリユスの負い目を払ってやり
1938
たいと思ってるかのように、いっ
そう親愛の度を強めていた。
ジャン・ヴァルジャンは口ごも
りながら言った。
﹁人間というものは実に愚かなも
のです。私はもう彼女に会えない
と思っていました。考えてもごら
んなさい、ポンメルシーさん、ちょ
うどあなたがはいってこられる時、
私はこう自分で言っていました。
1939
万事終わった、そこに彼女の小さ
な長衣がある、私はみじめな男だ、
もうコゼットにも会えないのだ、
と私はそんなことを、あなたが階
段を上ってこられる時言っていま
した。実に私はばかではありませ
んか。それほど人間はばかなもの
です。しかしそれは神を頭に置い
ていないからです。神はこう言わ
れます。お前は人から見捨てられ
1940
るだろうと思うのか、ばかな、い
や決して、そんなことになるもの
ではないと。ところで、天使をひ
とり必要とするあわれな老人がい
るとします。すると天使がやって
きます。コゼットにまた会います。
かわいいコゼットにまた会います。
ああ、私は実に不幸でした。﹂
彼はそれからちょっと口がきけ
なかった。がまた言い続けた。
1941
﹁私は実際、ごく時々でもコゼッ
トに会いたかったのです。人の心
か
は噛みしめるべき骨を一つほしが
るものです。けれどもまた、自分
はよけいな者だと私は感じていま
した。あの人たちにはお前はいら
ない、お前は自分の片すみに引っ
込んでいるがよい、人はいつでも
同じようにしてることはできない
ものだ、そう私は自分で自分に言
1942
いきかせました。ああしかし、あ
りがたいことには、私はまた彼女
に会った! ねえコゼット、お前
おっと
の夫は実にりっぱだ。ああお前は
えり
ちょうど、刺繍したきれいな襟を
つけているね。私はその模様が好
きだ。夫から選んでもらったのだ
ろうね。それからお前にはカシミ
ヤがよく似合うから是非買ってご
らん。ああポンメルシーさん、私
1943
に彼女をお前と呼ばして下さい。
わずかの間ですから。﹂
コゼットは言い出した。
﹁あんなに私共を見限ってしまう
なんて、何という意地悪でしょう。
いったいどこへいらしたの、何で
こう長く行っていらしたの? 昔
は、旅はいつも三、四日だけだっ
たではありませんか。私はニコレッ
トをやりましたが、いつもきまっ
1944
てお留守だという答えきりだった
んですもの。いつからお戻りになっ
ていましたの。なぜお知らせなさ
いませんでしたの。ほんとに様子
も大変お変わりになっていますよ。
まあ、悪いお父様ね! 御病気だっ
たのでしょう、そして私どもにお
知らせなさらなかったのでしょう。
マリユス、この手にさわってみて
ごらんなさい、冷たいこと!﹂
1945
﹁こうしてあなたもきて下すった
のですね、ポンメルシーさん、あ
なたは私を許して下さるのです
ね!﹂とジャン・ヴァルジャンは
繰り返した。
ジャン・ヴァルジャンが二度言っ
たその言葉に、マリユスの心にいっ
ぱいたまっていたものが出口を得
て、彼は急に言い出した。
かた
﹁コゼット、聞いたか、この方は
1946
いつもこうだ、いつも僕に許しを
求めなさる。しかも僕にどんなこ
とをして下すったか、お前は知っ
てるか、コゼット。この方は僕の
命を救って下すった。いやそれ以
上をして下すった。お前を僕に与
えて下すった。そして、僕を救っ
て下すった後、お前を僕に与えて
下すった後、コゼット、自分をど
うされたか? 自分の身を犠牲に
1947
されたのだ。実にりっぱな方だ。
しかも、その恩知らずの僕に、忘
れっぽい僕に、無慈悲な僕に、罪
人の僕に、ありがとうと言われる。
コゼット、僕は一生涯この方の足
下にひざまずいても、なお足りな
ぼうさい
いのだ。あの防寨、下水道、熱火
の中、汚水の中、それを通ってこ
られたのだ、僕のために、お前の
ために、コゼット! あの死ぬば
1948
かりの所を通って僕を運んできて
下すった。僕を死から助け出し、
しかも御自分は甘んじて生命を危
険にさらされた。あらゆる勇気、
あらゆる徳、あらゆる勇壮、あら
ゆる高潔、それらをすべて持って
いられる。コゼット、この方こそ
実に天使だ!﹂
﹁ま、まあ!﹂とジャン・ヴァル
ジャンは低く言った。﹁なぜそん
1949
なことを言われるのです。﹂
﹁だがあなたこそ、﹂とマリユス
は崇敬の念のこもった奮激をもっ
て叫んだ。﹁なぜそれを言われな
かったのです? あなたも悪い。
人の命を助けておいて、それを隠
すなんて! その上になお、自分
の素性を語るという口実の下に、
ひぼう
自分自身を誹謗なすった。実にひ
どいことです。﹂
1950
﹁私は真実を申したのです。﹂と
ジャン・ヴァルジャンは答えた。
﹁いや、﹂とマリユスは言った、
﹁真実はすべてでなければいけま
せん。あなたはすべてを申されな
かった。あなたはマドレーヌ氏で
あったのに、なぜそれを言われま
せんでした。あなたはジャヴェル
を救ったのに、なぜそれを言われ
ませんでした。私はあなたに命の
1951
恩になってるのに、なぜそれを言
われませんでした。﹂
﹁なぜといって、私もあなたと同
じように考えたからです。あなた
の考えはもっともだと思いました。
私は去らなければいけなかったの
です。もしあの下水道のことを知
られたら、私をそばに引き止めら
れたに違いありません。それで私
は黙っていなければなりませんで
1952
した。もしそれを私が話したら、
まったく困ることになったでしょ
う。﹂
﹁何が困るのです、だれが困るの
です!﹂とマリユスは言った。
﹁あなたはここにこのままおられ
るつもりですか。私どもはあなた
をお連れします。ああ、偶然ああ
いうことを知った時のことを考え
ると! 是非とも私どもはあなた
1953
を連れてゆきます。あなたは私ど
もの一部です。あなたは彼女の父
で、また私の父です。もう一日も
このひどい家で過ごされてはいけ
あした
ません。明日もここにいるなどと
考えられてはいけません。﹂
﹁明日は、﹂とジャン・ヴァルジャ
ンは言った。﹁私はもうここにい
ますまい、しかしあなたの家にも
いますまい。﹂
1954
﹁それはどういうことです?﹂と
マリユスは答え返した。﹁ああそ
うですか、いやもう旅もお許しし
ません。もう私どものそばを離れ
られてはいけません。あなたは私
どものものです。決してあなたを
離しません。﹂
﹁こんどこそは是非そうします。﹂
とコゼットも言い添えた。﹁下に
馬車も待たしてあります。私あな
1955
たを連れてゆきます。やむを得な
ければ力ずくでもかついでゆきま
す。﹂
そして笑いながら彼女は、老人
を両腕に持ち上げるような身振り
をした。
へや
﹁あなたのお室は、まだ私どもの
家にそのままになっています。﹂
と彼女は言い進んだ。﹁この頃は
まあどんなに庭がきれいになった
1956
つつじ
でしょう! 躑躅が大変みごとに
なりました。道には川砂を敷きま
すみれいろ
したし、菫色の小さな貝殻も交じっ
いちご
ています。私の苺も食べていただ
きましょう。私がそれに水をやっ
ていますのよ。そしてもう、奥さ
んというのもやめ、ジャンさんと
いうのもやめ、私どもは共和政治
・ ・
になり、みんなお前と言うことに
しましょう、ねえ、マリユス。番
1957
付けが変わったのよ。それからお
父様、私はほんとに悲しいことが
こまどり
ありましたの。壁の穴の中に駒鳥
が一匹巣をこしらえていましたが、
ねこ
それを恐ろしい猫が食べてしまい
ました。巣の窓から頭を差し出し
ていつも私を見てくれた、ほんと
にかわいい小さな駒鳥でしたのに!
私泣きましたわ。猫を殺してや
りたいほどでしたの。でもこれか
1958
らは、もうだれも泣かないことに
しましょう。みんな笑うんですわ、
みんな幸福になるんですわ。あな
たは私どもの所へいらっしゃいま
じ い
すでしょうね。お祖父様もどんな
に御満足なさるでしょう。庭に畑
を差し上げますから、何かお作り
なさいましよ。あなたの苺が私の
苺の相手になれるかどうか、競争
をしてみましょう。それからまた、
1959
私は何でもあなたのお望みどおり
にいたしましょう。そしてまた、
あなたも私の言うことを聞いて下
さいますのよ。﹂
ジャン・ヴァルジャンはそれを
よく聞かないでただぼんやり耳に
していた。その言葉の意味よりむ
しろその声の音楽を聞いていた。
魂の沈痛な真珠である大きな涙の
一滴が、しだいに彼の目の中に宿っ
1960
てきた。彼はつぶやいた。
﹁彼女がきてくれたことは、神が
親切であらるる証拠だ。﹂
﹁お父様!﹂とコゼットは言った。
ジャン・ヴァルジャンは続けて
言った。
﹁いっしょに住むのは楽しいこと
に違いない。木には小鳥がいっぱ
いいる。私はコゼットと共に散歩
する。毎日あいさつをかわし、庭
1961
で呼び合う、いきいきした人たち
の仲間にはいる、それは快いこと
だろう。朝から互いに顔を合わせ
る。めいめい庭の片すみを耕す、
いちご
彼女はその苺を私に食べさせ、私
ば ら
は自分の薔薇を彼女につんでやる。
楽しいことだろう。ただ⋮⋮。﹂
彼は言葉をとぎらして、静かに
言った。
﹁残念なことだ。﹂
1962
涙は落ちずに、元へ戻ってしまっ
た。ジャン・ヴァルジャンは涙を
流す代わりにほほえんだ。
コゼットは老人の両手を自分の
両手に取った。
﹁まあ!﹂と彼女は言った、﹁お
手が前よりいっそう冷たくなって
います。御病気ですか。どこかお
苦しくって?﹂
﹁私? いや、﹂とジャン・ヴァ
1963
ルジャンは答えた、﹁私は病気で
はない。ただ⋮⋮。﹂
彼は言いやめた。
﹁ただ、何ですの?﹂
﹁私はもうじきに死ぬ。﹂
コゼットとマリユスとは震え上
がった。
﹁死ぬ!﹂とマリユスは叫んだ。
﹁ええ、しかしそれは何でもあり
ません。﹂とジャン・ヴァルジャ
1964
ンは言った。
彼は息をつき、ほほえみ、そし
てまた言った。
﹁コゼット、お前は私に話をして
いたね。続けておくれ。もっと話
こまどり
しておくれ。お前のかわいい駒鳥
が死んだと、それから、さあお前
の声を私に聞かしておくれ!﹂
マリユスは石のようになって、
老人をながめていた。
1965
コゼットは張り裂けるような声
を上げた。
﹁お父様、私のお父様! あなた
は生きておいでになります。ずっ
と生きられます、私が生かしてあ
げます、ねえお父様!﹂
ジャン・ヴァルジャンはかわい
くてたまらないような様子で彼女
の方へ頭を上げた。
﹁そう、私を死なないようにして
1966
おくれ。あるいはお前の言うとお
りになるかも知れない。お前たち
がきた時私は死にかかっていた。
ところがお前たちがきたのでその
ままになっている。何だか生き返っ
たような気もする。﹂
﹁あなたにはまだ充分力もあり元
気もあります。﹂とマリユスは叫
んだ。﹁そんなふうで死ぬものだ
と思っていられるのですか。いろ
1967
いろ心配もあられましたでしょう
が、これからもうなくなります。
ひざ
お許しを願うのは私の方です、膝
をついてお願いします! お生き
になれます、私どもといっしょに、
そして長く、お生きになれます。
あなたにまたきていただきます。
私たちふたりが、あなたの幸福と
いう一つの考えしかもう持ってい
ない私たちふたりが、ここについ
1968
ております。﹂
﹁おわかりでしょう、﹂とコゼッ
トは涙にまみれながら言った、
﹁お死にはなさらないとマリユス
も言っています。﹂
ジャン・ヴァルジャンはほほえ
み続けていた。
﹁あなたが私をまた引き取って下
すっても、ポンメルシーさん、そ
れで私はこれまでと変わった者に
1969
なるでしょうか。いや、神はあな
たや私と同じように考えられて、
決してその意見を変えられはしま
い
せん。私が逝ってしまうのはため
になることです。死はよい処置で
す。神は、私どもがどうなればよ
いかを私どもよりよく知っていら
れます。あなたが幸福であられる
こと、ポンメルシー氏がコゼット
めと
を得ること、青春は朝を娶ること、
1970
あなた方ふたりのまわりにはライ
うぐいす
ラックの花や鶯がいること、あな
た方の生活は日の輝いた芝生のよ
うであること、天の喜びがあなた
方の魂を満たすこと、そして今、
もう何の役にも立たない私は、死
んでゆくこと、すべてそれらは正
しいことに違いありません。まあ
よく考えてみて下さい、今はもう
何にもなすべきことはありません。
1971
私は万事終わったのだとはっきり
感じています、一時間前に、私は
一時気を失いました。そしてまた
昨晩、私はそこにある水差しの水
をみな飲みました。コゼット、お
おっと
前の夫は実にいい方だ、お前は私
といっしょにいるよりはずっと仕
合わせだ。﹂
扉の音がした。はいってきたの
は医者だった。
1972
﹁お目にかかって、またすぐお別
れです、先生。﹂とジャン・ヴァ
ルジャンは言った、﹁これは私の
子供たちです。﹂
マリユスは医者に近寄った。彼
はただ、﹁先生?⋮⋮﹂と一言言
いかけた。その調子には充分な問
いが含まっていた。
いちべつ
医者は意味深い一瞥でその問い
に答えた。
1973
﹁万事が望みどおりにならないか
らといって、﹂とジャン・ヴァル
ジャンは言った、﹁それで神を恨
んではいけない。﹂
おさ
沈黙が落ちてきた。皆の胸は圧
えつけられていた。
ジャン・ヴァルジャンはコゼッ
トの方を向いた。彼は永久に失う
まいとするように彼女をながめ始
めた。彼は既に深い影の底に沈ん
1974
ではいたが、なおコゼットをなが
こうこつ
めて恍惚たることができた。彼女
のやさしい顔の反映が彼の蒼白な
おもて
面を照らしていた。墳墓にもその
歓喜の情があり得る。
み
医者は彼の脈を診た。
﹁ああ御病人に必要なのはあなた
方でした。﹂と彼はコゼットとマ
リユスとをながめながらつぶやい
た。
1975
そして彼はマリユスの耳元に身
をかがめてごく低く言い添えた。
﹁もう手おくれです。﹂
ジャン・ヴァルジャンはなおほ
とんどコゼットをながめることを
やめないで、心朗らかな様子をし
てマリユスと医者とをじろりと見
た。そして彼の口から聞き分け難
い次の言葉がもれた。
﹁死ぬのは何でもないことだ。生
1976
きられないのは恐ろしいことだ。﹂
突然彼は立ち上がった。かくに
わかに力が戻ってくるのは、時に
くもん
よると臨終の苦悶の徴候である。
彼はしっかりした足取りで壁の所
まで歩いてゆき、彼を助けようと
したマリユスと医者とを払いのけ、
壁にかかってる小さな銅の十字架
像をはずし、また戻ってきて、健
全な者のように自由な動作で腰を
1977
おろした。そして十字架像をテー
ブルの上に置きながら、高い声で
言った。
﹁実に偉大な殉教者だ。﹂
それから、彼の胸は落ちくぼみ、
頭は震え動き、あたかも死に酔わ
りょうひざ
されたかのようになって、両膝の
上に置かれた両手はズボンの布に
つめ
爪を立てはじめた。
コゼットは彼の肩をささえ、す
1978
すり泣きながら、彼に何か言おう
とつとめたが、それもできなかっ
た。ただ、涙の交じった痛ましい
だえき
唾液とともに出て来る単語のうち
に、次のような言葉がようやく聞
き取られた。﹁お父様! 私たち
のもとを離れて下さいますな。せっ
かくお目に掛かったままお別れに
なるなどということが、あるもの
でございましょうか。﹂
1979
くもん
う よ
臨終の苦悶は紆余曲折すると言
い得る。あるいは行き、あるいは
きたり、あるいは墳墓の方へ進み、
あるいは生命の方へ戻ってくる。
死んでゆくことのうちには暗中模
索の動作がある。
ジャン・ヴァルジャンはその半
ば失神の状態の後、再び気を取り
直し、あたかも暗黒の影を払い落
とそうとするように額を振り立て、
1980
ひだ
ほとんどまったく正気に返った。
そで
彼はコゼットの袖の一襞を取り、
くちびる
それに脣をあてた。
﹁回復してきました、先生、回復
してきました!﹂とマリユスは叫
んだ。
﹁あなた方はふたりともいい人
だ。﹂とジャン・ヴァルジャンは
言った。﹁今私の心を苦しめてる
事は何であるか、言ってみましょ
1981
う。私の心を苦しめる事は、ポン
メルシーさん、あなたがあの金に
手をつけようとされないことです。
あの金は、まさしくあなたの奥さ
んのものです。そのわけを今ふた
りに言ってきかしてあげます。私
があなた方に会ったのを喜ぶのも、
一つはそのためです。黒い飾り玉
はイギリスからき、白い飾り玉は
ノールウェーからきます。それら
1982
うで
のことは皆この紙に書いてありま
ろう
すから、それをお読みなさい。腕
わ
環には、鑞付けにしたブリキの自
在環の代わりに、はめ込んだブリ
キの自在環をつけることを発明し
ました。その方がきれいで、品も
よく、価も安いのです。それでど
もう
れくらい金が儲けられるかわかる
でしょう。コゼットの財産はまっ
たく彼女のものです。私がこんな
1983
細かな事を話すのも、あなたの心
を安めようと思うからです。﹂
門番の女は、階段を上がってき、
少し開いてる扉の間から中をのぞ
き込んでいた。医者はそこを去る
あつ
ように知らせたが、その心の篤い
婆さんは、立ち去る前に臨終の人
に向かってこう言わないではおら
れなかった。
﹁牧師様をお呼びしましょうか。﹂
1984
﹁牧師様はひとりおられる。﹂ジャ
ン・ヴァルジャンは答えた。
そして彼は指で、頭の上の一点
を指し示すようなふうをした。お
そらく彼の目には、そこに何者か
の姿を見ていたのであろう。
実際ミリエル司教がその臨終に
立ち会っていられたかも知れない。
コゼットは静かに彼の腰の下に
枕をさし入れた。
1985
ジャン・ヴァルジャンはまた言っ
た。
﹁ポンメルシーさん、どうか気使
わないで下さい。あの六十万フラ
ンはまさしくコゼットのものです。
もしあなたがあれを使われなけれ
ば、私の生涯はむだになってしま
うでしょう。私どもはそのガラス
玉製造に成功したのでした。ベル
リン玉と言われてるのと対抗しま
1986
した。ドイツの黒玉も到底かない
はしません。ごくよくできた玉の
千二百もはいってる大包みが、わ
ずかに三フランしかしないので
す。﹂
大事な人がまさに死なんとする
時には、人はその人にしがみつい
て引き止めようとする目つきで、
それを見つめるものである。ふた
りとも、心痛の余り黙然として、
1987
死に対して何と言うべきかを知ら
ず、絶望し身を震わしながら、コ
ゼットの方はマリユスに手を取ら
れ、ふたりで彼の前にじっと立っ
ていた。
刻々にジャン・ヴァルジャンは
弱っていった。彼はしだいに沈ん
でいって、暗黒な地平に近づきつ
かんけつてき
つあった。呼吸は間歇的になり、
ざんぜん
わずかな残喘にも途切らされた。
1988
もはや前腕の位置を変えるのも容
易でなくなり、両足はまったく動
かなくなり、そして手足のみじめ
ひはい
さと身体の疲憊とが増すとともに、
魂の荘厳さが現われてきて、額の
上にひろがってきた。他界の光は
ひとみ
既にその眸の中に明らかに宿って
いた。
そうはく
彼の顔は蒼白になり、同時にま
たほほえんでいた。もはやそこに
1989
は生命の影はなくて、他のものが
あった。呼吸は微弱になり、目は
大きくなっていた。それは翼が感
しがい
ぜらるる死骸であった。
彼はそばに来るようにコゼット
に合い図をし、次にマリユスに合
い図をした。明らかに臨終の最後
の瞬間だった。そして彼は、遠く
から来るかと思われるような声で、
ふたりと彼との間には既に壁がで
1990
きてるかと思われるようなかすか
な声で、ふたりに話しかけた。
﹁近くにおいで、ふたりとも近く
においで。私はお前たちふたりを
深く愛する。ああ、こうして死ぬ
のは結構なことだ。コゼット、お
前もまた私を愛してくれるね。私
としより
は、お前がいつもお前の老人に愛
情を持っていてくれたことを、よ
く知っていた。私の腰の下にこの
1991
くく
ふとん
括り蒲団を入れてくれるとは、何
というやさしいことだろう。お前
は私の死を、少しは泣いてくれる
だろうね。あまり泣いてはいけな
い。私はお前がほんとに悲しむこ
とを望まない。お前たちふたりは
たくさん楽しまなければいけない。
それから私は、あの締金のない金
もう
環で何よりもよく儲かったことを、
言い忘れていた。十二ダース入り
1992
の大包みが十フランでできるのに、
六十フランにも売れた。まったく
よい商売だった。だから、ポンメ
ルシーさん、あの六十万フランも
驚く程のことではありません。正
直な金です。安心して金持ちになっ
てよろしいのです。馬車も備え、
さじき
時々は芝居の桟敷も買い、コゼッ
トは美しい夜会服も買うがいいし、
それから友人たちにごちそうもし、
1993
楽しく暮らすがいい。私はさっき
コゼットに手紙を書いておいた。
どこかにあるはずだ。それから私
しょくだい
は、暖炉の上にある二つの燭台を、
コゼットにあげる。銀であるが、
きん
私にとっては、金でできてると言っ
てもいいし、金剛石でできてると
きよ
いってもいい品である。立てられ
ろうそく
た蝋燭を聖い大蝋燭に変える力の
ある燭台だ。私にあれを下すった
1994
人が、果たして私のことを天から
満足の目で見て下さるかどうかは、
私にもわからない。ただ私は自分
でできるだけのことはした。お前
たちはふたりとも、私が貧しい者
であるということを忘れないで、
どこかの片すみに私を葬って、た
だその場所を示すだけの石を上に
立てて下さい。それが私の遺言で
ある。石には名前を刻んではいけ
1995
ない。もしコゼットが時々きてく
れるなら、私は大変喜ぶだろう。
あなたもきて下さい、ポンメルシー
さん。私は今白状しなければなり
ませんが、私はいつもあなたを愛
したというわけではなかった。そ
れは許して下さい。けれど今は、
彼女とあなたとは、私にとってた
だひとりの者です。私はあなたに
深く感謝しています。私はあなた
1996
がコゼットを幸福にして下さるこ
とをはっきり感じています。ああ、
ほお
ポンメルシーさん、彼女の美しい
ばらいろ
薔薇色の頬は私の喜びでした。少
しでも色が悪いと、私は悲しかっ
とだな
たものです。それから、戸棚の中
に五百フランの紙幣が一枚はいっ
ています。私はそれに手をつけな
いでいます。それは貧しい人たち
にやるためのものです。コゼット、
1997
その寝台の上にお前の小さな長衣
があるでしょう。お前はあれを覚
えていますか。まだあの時から十
年にしかならない。時のたつのは
実に早いものだ。私たちはごく幸
福だった。がもうすべて済んでし
まった。ふたりとも泣くにはおよ
ばない。私はごく遠くへ行くので
はない。向こうからお前たちの方
を見ていよう。お前たちは夜になっ
1998
てただながめさえすればよい、私
がほほえんでいるのがわかるだろ
う。コゼット、お前はモンフェル
メイュを覚えていますか。お前は
こわ
森の中にいて、大変恐がっていた。
みずおけ
私が水桶の柄を持ってやった時の
ことを、まだ覚えていますか。私
さわ
がお前の小さな手に触ったのは、
それが始めてだった。ほんとに冷
たい手だった。ああ、その頃、そ
1999
の手はまっかだったが、今では大
変白くなっている。それから大き
な人形、あれも覚えていますか。
お前はあれにカトリーヌという名
前をつけていた。あれを修道院に
持っていかなかったことを、お前
は残念がっていたものだ。お前は
わらくず
幾度私を笑わしたことだろう。雨
みぞ
が降ると、溝の中に藁屑を浮かべ
て、それが流れてゆくのを見てい
2000
はごいた
た。ある時私は、柳編みの羽子板
は
と、黄や青や緑の羽毛のついた羽
ね
子とを、お前に買ってやったこと
がある。お前はもう忘れているで
しょう。お前はごく小さい時はほ
んとにいたずらだった。いろんな
わるさをしていた。自分の耳に桜
ん坊を入れてしまったこともある。
しかしそれはみな過去のことだ。
人形を抱いて通った森、歩き回っ
2001
た木立ちの中、身を隠した修道院、
いろんな遊びごと、他愛もない大
笑い、それらはみな影にすぎなく
なっている。私はそういうものが
みな自分のものだと思っていた。
しかし私のばかげた考えだった。
またあのテナルディエ一家の者は、
みな悪者だった。しかしそれは許
してやらなければいけない。コゼッ
ト、今ちょうどお前の母親の名前
2002
を言ってきかせる時がきた。お前
の母親は、ファンティーヌという
名前である。その名前をよく覚え
ておきなさい、ファンティーヌだ。
それを口にするたびごとにひざま
ずかなくてはいけない。あの人は
非常に難儀をした。お前を大変か
わいがっていた。お前が幸福な目
にあったのと、ちょうど同じくら
い不幸な目に会った。それが神の
2003
配剤である。神は天にあって、わ
れわれ皆の者を見られ、大きな星
しわざ
の間にあって自分の仕業を知って
い
いられる。私はもう逝ってしまう。
ふたりとも、常によく愛し合いな
さい。世の中には、愛し合うとい
うことよりほかにはほとんど何も
ない。そして時々は、ここで死ん
だあわれな老人の事を考えて下さ
い。おおコゼットや、この頃お前
2004
に会わなかったといっても、それ
は私の罪ではない。そのために私
はどんなに苦しんだろう。私はよ
かど
くお前が住んでいる街路の角まで
出かけて行った。私が通るのを見
た人たちは、きっと変に思ったに
違いない。私は気ちがいのように
なっていた。ある時などは帽子も
かぶらないで出かけて行ったもの
だ。おお私のふたり、私はもうこ
2005
れで目もはっきり見えない。まだ
言いたいこともたくさんあるが、
もうそれはどうでもよい。ただ私
のことを少し考えておくれ。お前
たちは祝福された人たちだ。私は
もう自分で自分がよくわからない。
光が見える。もっと近くにおいで。
私は楽しく死ねる。お前たちのか
わいい頭をかして、その上にこの
手を置かして下さい。﹂
2006
コゼットとマリユスとは、そこ
にひざまずき、我を忘れ、涙にむ
せび、ジャン・ヴァルジャンの両
手に各々すがりついた。そのおご
そかな手はもはや動かなかった。
彼はあおむけに倒れた。二つの
しょくだい
燭台から来る光が彼を照らしてい
た。その白い顔は天の方をながめ、
その両手はコゼットとマリユスと
くち
の脣づけのままになっていた。彼
2007
は死んでいた。
夜は星もなく、深い暗さだった。
必ずやその影の中には、ある広大
なる天使が、魂を待ちながら翼を
ひろげて立っていたであろう。
六 草は隠し雨は消し
去る
ペール・ラシェーズの墓地の、
2008
共同埋葬所のほとり、その墳墓の
都のりっぱな一郭から遠く離れ、
永遠の面前に死の醜い様式をひろ
げて見せている種々工夫を凝らさ
れた石碑の、立ち並んでる所から
ひるがお
遠く離れ、寂しい片すみの、古い
そば
かやくさ
こけ
壁の傍、旋花のからんだ一本の大
いちい
きな水松の下、茅草や苔のはえて
いる中に、一基の石がある。その
石もまた、他の石と同じく、長い
2009
かび
ふん
年月の傷害や苔や黴や鳥の糞など
を免れてはいない。水のために緑
となり、空気のために黒くなって
いる。近くには小道もなく、草が
高く茂っていてすぐに足をぬらす
ので、その方へ踏み込んでみよう
とする人もない。少し日がさす時
とかげ
には、蜥蜴がやってくる。あたり
えんばく
には、野生の燕麦がそよいでいる。
ほおじろ
春には、木の間に頬白がさえずる。
2010
その石には何らの加工も施して
ない。ただ墓石に用うるというこ
とだけを考えて切られたものであ
り、ただ人をひとりおおうだけの
長さと幅とにしようということだ
けを注意されたものである。
何らの名前も見られない。
ただ、既にもう幾年か前に、だ
れかが四行の句を鉛筆で書きつけ
ていたが、それも雨やほこりに打
2011
たれてしだいに読めなくなり、今
日ではおそらく消えてしまったで
あろう。その句は次のとおりであっ
た。
彼は眠る。数奇なる運命
にも生きし彼、
おの
己が天使を失いし時に死
したり。
さあそれもみな自然の数
2012
ぞ、
昼去りて夜の来るがごと
くに。
︱︱終わり︱︱
2013
底本:﹁レ・ミゼラブル︵四︶﹂
岩波文庫、岩波書店
なんちょう
1987︵昭和62︶年5
オレンジ
月18日改版第1刷発行
オレンヂ
※﹁橙花と橙花﹂、﹁挺︵何挺︶
だいしょくだい おおしょく
ば ね
と梃︵一梃︶﹂、﹁大燭台と大燭
だい
台﹂、﹁イブとイヴ﹂、﹁撥条と
ば ね
発条﹂の混在は底本通りにしまし
た。
※誤植の確認に﹁レ・ミゼラブル
2014
︵六︶﹂岩波文庫、岩波書店19
60︵昭和35︶年8月30日第
12刷、﹁レ・ミゼラブル︵七︶﹂
岩波文庫、岩波書店1961︵昭
和36︶年12月10日第13刷
を用いました。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年2月17日作成
青空文庫作成ファイル:
2015
このファイルは、インターネット
の図書館、青空文庫︵http:
//www.aozora.gr.
jp/︶で作られました。入力、
校正、制作にあたったのは、ボラ
ンティアの皆さんです。
2016