胎児期からの親子の愛着形成

母子保 情報
第54号(2006年11月)
子どもの心を育む
胎児期からの親子の愛着形成
九州大学病院精神科神経科講師
キーワード
吉
田 敬
子
妊娠、周産期、メンタルヘルス、ボンディング障害、愛着形成
は、望ましい育児への支援となり、母子間の愛着
はじめに
形成のために重要な要となる。
妊娠中および出産後は、メンタルヘルスに障害
本稿では、親子の愛着形成の問題を周産期の精
をきたすリスクが高い時期であることは、多くの
神医学の知見からまとめたい。まず、愛着の問題
研究報告から周知の事実となった。特に産後うつ
について、その用語の定義を明らかにした上で、
病は、うつ病の母親自身の問題にとどまらない。
精神医学的な障害と愛着の関連について概説す
わが子への愛情に実感が持てず、出産したことへ
る。それから、多くの研究報告がすでになされて
の後悔や子どもへの怒りが生じるなど、母子間の
いる出産後の母親のメンタルヘルスと子どもとの
愛着形成を損なう。またこれらのことが育児機能
情緒的な絆の障害についてエビデンスを紹介す
にも障害を及ぼすことから、産後うつ病の早期発
る。さらに、妊婦のストレスやメンタルヘルスの
見と育児支援のシステムがわが国でも試みられて
障害と胎児およびその後の子どもの情緒や行動や
きたことは、以前に本誌にまとめたとおりである
認知の発達との関連について、現在明らかになっ
(吉田;2005a) 。また精神科既往歴や治療歴が
てきている知見をまとめる。最後に胎児期からの
あること、妊娠中や出産後早期に人生上のつらい
親子の愛着形成について、筆者たちがどのように
出来事(ライフイベント)を経験したこと、そし
臨床場面で取り組んでいるかについて紹介した
て、夫や家族や身近な人などに自 の心の内を打
い。
ち明けることができず情緒的なサポートを得られ
1.周産期にみられる愛着について
ないことなどは、産後うつ病の発症のリスクであ
ることも説明した。
1)愛着とボンディングの用語
しかし、いま述べたリスクは、産後うつ病の発
幼い子どもが養育者のもとに身の安全を求めて
症の有無に関わらず、わが子に対する情緒的絆を
近づく行動は、生き びていく上で必要である。
損ない、母子間ひいては親子の愛着形成を歪め、
子どもは本能的に行動しており、これを愛着(ア
育児の障害をきたす共通のリスクともなる。これ
タッチメント)行動というが、それは一人歩きが
らは、出産後ではなく、望まない妊娠など、わが
始まる前の乳児期からみられる。
子を身ごもった時にすでに問題は始まっている。
子どもの時に受けた養育のあり様が、母親にな
さらに、その女性の実母や両親との関係が歪んで
った時に、自 の子どもをいかに養育するかに関
いたなら、家族の絆や親子間の愛情を知らないで
わる。つまり、母親と子どもという二世代間の研
育てられており、愛着の世代間伝達の問題にな
究を通してみると、母親が自 自身の幼少時期に
る。これらのことを えると、次世代を担う子ど
親との間で培われた〝内的ワーキングモデル"
もの養育者となる妊婦の精神面への留意とケア
が、自 の子どもの安定した愛着と有意に関連し
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て い る こ と が わ か っ て き た(Fonagy et al,
像を膨らませる。この時からすでにお腹の中のわ
1994) 。内的ワーキングモデルとは、Bowlbyに
が子と情緒的な 流を始めている。
より提唱された概念で、世代間伝達の理解を深め
同時にボンディングの発達の過程には赤ちゃん
るために重要である。母親との安定した相互の
が重要な役割を担っている。子宮内にいる時から
流により、子どもは、母親が常に安定して愛着を
すでに、胎児は鋭敏な聴覚能力を備えており、生
求める対象であること、その愛着行動の働きかけ
後6∼12週以降には人の話し声を弁別して好んで
に母親がどのように反応するかについての確信を
反応する。新生児は生後1∼2日で人の顔を見て
形成していく。その作業モデルが内的ワーキング
模倣を始める。また生後6週間までに出現する乳
モデルであり、その形成を通して、自 が愛着行
児の笑いや母親への視線は、母親のわが子へのい
動の対象にどのようなかたちで受け入れられる
としさや特別な絆で結ばれている実感を強いもの
か、また受け入れられるに値するかについて認識
にする。出産後3∼4週の間は育児の疲労感が強
していく。母親が、子どもの愛着行動に応じて情
くわが子との一体感を常に抱いているわけではな
緒的に受け入れると、子どもは自信のある自己像
いが、産後3か月頃までにわが子に抱く感情は着
を形成する。逆に母親が子どもからの愛着行動を
実に膨らみ、わが子から離れる時に心理的な痛み
無視したり、疎ましく感じて逆に腹をたてたり拒
を感じるようにさえなる。この感情の出現の時期
絶すると、母親から保護される価値のない、自信
は母親によって異なる。それが遅れる母親もいる
のない自己像を作っていく。
が、母子間に精神医学的な疾患や問題がなければ、
母親自身は、わが身によって守られ安心して抱
母子間の愛着の形成は障害されない。
かれている子どもの充足感を肌で感じながら、子
2.出産後の母親のメンタルヘルスと
どもへの気持ちがやさしく満たされたものにな
愛着形成
る。またそれを楽しみ、ますます子どもをいとお
しく思い、子どもに気持ちが向いて接近し、守っ
1)母親の精神疾患とその関連要因が養育に与え
てあげたくなる。このような母親のわが子に対す
る影響:イギリスの研究から
る情緒的な絆をボンディングという。逆に子ども
出産後の母親のメンタルヘルスについては、前
に対してこのような気持ちや状態になれず、育児
述したように産後うつ病研究がいち早く進められ
機能を損なう状態になった場合を、ボンディング
てきたが、中でもロンドン大学の精神医学研究
障害とする。そして、母子双方からの心理的な
所、周産期精神医学部門の Kumar らは、子ども
流の形成をここでは母子間の愛着形成と定義し、
への情緒的な絆や子どもの発達の予後まで長期的
これが障害されることを愛着形成の障害とする。
な研究を行った。その内容を「出産後の母親の精
愛着形成の障害とボンディング障害は、母子や家
神障害が乳幼児へ及ぼす影響」として包括的に概
族、周囲との対人関係に様々な影響を及ぼし、周
論しているので(M arks et al, 2002) 、わが国
産期はその要の時期である。
にも関連する部 を中心にまとめる。
(1)産褥期にみられる精神疾患
2)妊産婦のボンディングに影響する要因と母子
間の愛着形成
産褥期に生じる精神障害は、子どもの出産が原
因となっていることもあるし、そうでないことも
母親がボンディングを築いていく過程は妊娠中
ある。また子どもの 生によってその障害が増悪
から始まる。母親は胎動により、子どもとのつな
することもあればそうでないこともある。産後う
がりを確信し、情緒的な反応が触発され、まだ見
つ病の抑うつ症状は、妊娠中から、または妊娠以
ぬわが子へ話しかけ、お腹をさする。また超音波
前からでも始まっていることもある。産褥期に発
で胎児の画像を見て、生まれてくる子について想
症するいくつかの疾患は、例えば不安障害のよう
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に、それ以前に発症していた障害の再発の可能性
さらに、乳幼児が周産期にメンタルヘルスの障
もあるし、または強迫性障害のように以前の障害
害をきたした母親とその家族に養育された場合、
の症状が重症度を増したことに関連することもあ
その後どのような転帰になるかは、その子どもが
る。そして中には、統合失調症のように増悪や寛
持って生まれた素質にもよる。好ましくない養育
解をみずに長期にわたる慢性の疾患である場合も
環境に曝されても、その予後は、その子どもの生
ある。いずれにしてもこれらの障害が、母親のわ
得的な心身の脆弱性によって異なるし、逆に、乳
が子への養育に影響を与えるのでケアや治療が必
幼児の気質もまた両親のメンタルヘルスや行動に
要である。
影響を与える。
幻覚や精神病的な えにとらわれていると、感
(2)産後うつ病と養育スタイル
情が鈍くなり、焦燥感が増し、子どもの感情や身
産後うつ病の発症率は、10数%と高く(Cox
体的なニーズに、次第に応えなくなる。養育者の
et al, 1993) 、子どもに与える影響については、
育児障害のあり様は、それが統合失調感情障害
その母親と子どもとの社会的な 流および情緒的
か、双極性障害(躁うつ病)か、うつ病の重症型
な関わりあいが、どのくらい、またどのように、
かによって様々である。しかし、そのような場合
そして乳幼児の発達のどの時期に障害されていた
は、母子 離により母親の病気に子どもが曝され
かによって異なる(Murray et al, 1996) 。最初
ることが制限されるため、子どもに不利な結果が
の数か月間は、うつ病の母親から育てられている
出ないとの示唆もある。母親の代わりに
親や祖
乳児は、うつ病でない母親から育てられている乳
母によってなされるケアが安定して、その子のた
児に比べて、社会的な関わりや物との関わりが上
めになされているものであれば、それはむしろ重
手くいかない。そしてネガティブな感情を多く示
篤に精神が障害されている母親によるケアよりも
し、活動レベルも低く、心拍数の上昇や、コーチ
好ましい。しかしながら、母親からたびたび 離
ゾールレベルの上昇に示されるように生理学的な
され見も知らない養 母に預けられると、子ども
反応が大きい(Field et al, 1992) 。またこれら
の愛着に重大な影響を及ぼし、その後の子ども時
の乳児たちは、感情や行動の調節が上手くいかな
代や成人以降にも重篤な影響を及ぼす。そのため、
い。しばしば落ち着きなく、すぐ刺激に反応した
子どもに対して途切れることないケアを行う上
り、泣き出すとなだめようがないような状態を示
で、
し、これらは母親のうつ病にもとづいて変化す
親や拡大家族の役割は決定的に大事であ
る。
る。その後の子どもの愛着についても、Murray
しかしながら、母親の精神疾患がその子どもの
は産後うつ病の母親から育てられた子どもは、そ
情緒や行動、発達にどの程度影響するかは、母親
うでない子どもに比べて、生後18か月時に母親に
の精神疾患の診断によるものではなく、疾患の重
対して安定したアタッチメントを形成することが
症度や妊娠中や出産後の臨床経過や、子どもの発
少ないこと、対象恒常性の課題の達成が悪く、ま
達のどの時期に母親の精神疾患に曝されたかな
た軽度な行動上の問題が多いことを示している。
ど、様々な機序が働いている。子どもへの影響
さらに同じ産後うつ病の疾患でも、母親の行動
は、その母親の精神疾患自体よりも、むしろその
はもちろんその母親によって異なっているし、そ
母親の養育のあり方の問題による間接的な結果で
の結果その子どもの経験も様々である。あるうつ
あるかもしれない。さらに、夫やパートナーは時
病の母親は、子どもと一緒にいても関わりを持た
として母親の出産後の精神疾患に影響を及ぼし、
ずに子どもから離れているし、別の母親は子ども
間接的に、子どもの愛着形成や発達に影響を与え
との関わりの中で侵略的で敵意を向ける。このこ
ることも十
とは、後に述べる筆者らの研究から、わが国の母
に
え ら れ る(Bifulco et al,
2002) 。
親にもあてはまる。また産後うつ病の母親でも、
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周囲のサポートやケアがあれば、正常範囲の関わ
障害の関連を検討した。そして、母性感情の障害
り行動と情緒的な絆を子どもに示していくことは
(ボンディング障害)の主な要因として以下の二
十 に可能である。
つを えた。第1の要因は他人事のような、無関
子どもの情緒の状態も母親の相互 流のスタイ
心な、離脱した感覚、愛情の欠如などである。
ルに応じて変わってくる。子どもに関わらない母
〝自
の子どもではないみたい"、〝誰か他の人の
親の子どもは、ほとんどの時間をむずがったり泣
赤ちゃんみたい" といったかたちで表現される。
いたりして過ごし、一方侵襲的に子どもに関わり
もう一つの要因は、怒り、憎しみ、敵意などの感
すぎる母親の子どもは、めったに泣かずに母親を
情である。この二つのテーマは重なり合い、両方
見たり関わることを避けたりする。子どもに正常
の感情があると、潜在的ないし顕在的なかたちで
範囲の応答が可能なうつ病の母親の子どもは、対
の〝傷つけたい" とか、
〝突然死や虐待などで子
照群の子どもと似ている。これらの結果は母親の
どもが消えていなくなってほしい" という望みに
診断の内容に加えて、母親の子どもとの情緒 流
変じたりする。これらは実際の虐待やネグレクト
のスタイルも 慮に入れなければいけないことも
の予測因子ともなる。
強調している。そしてこれらの母親が示す情緒
現在筆者らは Kumar らのグループにより改変
流のスタイルは、経済的な不安など社会的に不利
された10項目のボンディング尺度を、赤ちゃんへ
な状況と関連しているので、これら母親をとりま
の気持ち質問票として 用し、産後うつ病の母親
く養育の環境要因も 慮に入れて適切なケアを行
の子どもへの気持ちの評価や虐待防止を含めた育
うことが、母子間の愛着形成の上で重要である。
児支援に
用している(鈴宮ら、2003 、山下
ら、2004 )。
2)産後うつ病と子どもとの情緒的な絆:筆者た
(2)ボンディング障害の臨床的意義と山下の研究
ちの産後うつ病研究から
対象と方法:対象は、九州大学病院周産母子セ
(1)母親の子どもへの情緒的な絆とその障害の評
ンターにて出産し、出産後産科病棟にて研究への
価尺度(ボンディング尺度)
参加に同意の得られた88人の母親である。これら
母親の側の子どもとの間の愛着形成の障害を評
の母親に本人の精神科診断面接と上記のボンディ
価 す る た め に、筆 者 の 研 究 グ ル ー プ の 山 下
ング障害の質問票を施行した。診断面接は、感情
(2003)は、Kumar が作成した(未発表)9項目
病および精神
裂 病 の た め の 面 接 基 準(the
からなる母親の子どもに対する気持ちや態度の障
Schedule for Affective Disorders and Schizo-
害(ボンディング障害)を自己記入により評価す
phrenia;以 下 SADS)に 準 拠 し、 Research
るボンディング質問票を(表
の項目参照)産褥
Diagnostic Criteria (RDC)に基づき診断を確
期の母親に用いた。各項目は母親自身の子どもへ
定した(Spitzer et al, 1979) 。調査の時期は、
の肯定的ないし否定的な感情を表す形容詞からな
産後5日目と3か月目にボンディング質問票を母
り、全く否定的でないを0点、極めて否定的を3
親が記入、精神科診断面接は産後3週目と3か月
点とする0∼3点までの4件法で、高得点ほど否
目に電話にて行った。
定的感情が高いことを示している。表 の数値は、
結果:産後うつ病の発症率は88人中15人(17%)
各項目2もしくは3点の高得点であった母親の人
であった(Yamashita et al, 2000) 。ボンディ
数を示している。
ング質問票の結果を、産後うつ病群と非うつ病群
Kumar ら(1980)は、母性感情の獲得につい
とで比較すると、産後5日目、3か月目のいずれ
ての調査に基づき開発した9項目の簡 なボンデ
においてもうつ病の母親においてボンディング質
ィング質問票を用いて、周産期において最も頻度
問票の 得点が高く、すなわち産後うつ病の母親
の高い精神障害である産後うつ病とボンディング
の乳児に対する否定的感情がより強い結果となっ
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た。また、産後3か月目のボンディング質問票の
なり、産後うつ病の母親における虐待のリスクの
結果を、各項目ごとに産後うつ病群と非うつ病群
高さを示唆しているのかもしれない。このような
とで比較したところ、項目4:自 のものと感じ
母親は、乳児を傷つけるのではないかという え
る、項目7:守ってあげたい以外の全ての項目
から、赤ちゃんと二人でいることの恐れや、赤ち
で、産後うつ病の母親において否定的感情をもつ
ゃんのケアをできないという訴えもみられる。た
比率が有意に高い結果となった。その中でも、項
だし、うつ病の母親は、
「子どもを傷つけるので
目8:楽しさを感じられない、項目9:赤ちゃん
はないか」という強迫観念ないし不安であること
に対して攻撃的になるなどの項目において、産後
も多いので、一概に虐待やネグレクトに必ずしも
うつ病群の母親は、有意に否定的な感情をもつ比
直結するわけではないが、母親の気持ちを受け入
率が高かった(表
れ情緒的なサポートと育児のモニターを行うこと
)
。
は重要である。
一方、Brockington(2001) の
表 .産後うつ病の母親のボンディング質問票
からみた特徴:各項目の比較
項
目
非うつ病群
(n = )
愛おしい
がっかりしている
何も感じない
自 の物だと感じる
腹が立つ
嫌悪している
守ってあげたい
楽しい
攻撃的になる
うつ病群
(n = )
えでは赤ちゃ
んを傷つけるかもしれないという えは、重度の
統計学的
比較検討
愛着形成の障害に含まれる。上記の Kumar らも
p<
p<
p<
ておりその中でも頻度の高いのは産後うつ病であ
重度の愛着形成の障害は何らかの精神障害を伴っ
ることを示しているが、母親の児への否定的感情
ns
に対しては、周産期というクリティカルな時期に
p<
p<
おいて精神障害をまず 慮することを強調してい
ns
る。産後うつ病の母親の中に赤ちゃんを傷つける
p<
p<
かもしれないという えが生じやすいことは、虐
待のリスクないし赤ちゃんと二人になることの回
否定的感情を報告した女性の人数
( ∼ の各項目で少なくとも 点以上の否定的感情があると
答えた者)
避というかたちで母子相互作用ひいては児の発達
に影響を与える可能性がある。このことも含め産
後うつ病における愛着形成の障害は看過できない
まとめと 察:日本においても、産後うつ病は
問題であり、産後うつ病のスクリーニングと併せ
欧米と比較して決してまれではなく、また母親の
て愛着形成の障害についてのスクリーニングを行
子どもへの否定的感情と明らかに関連があり、
う必要性もまた示している(吉田ら、2005b) 。
Kumar の尺度を
用して関連をみた Taylor ら
3.妊婦のメンタルヘルスと愛着の形成
(2005) の結果と同様であった。また質問紙の項
目の中でも攻撃性、愛しているという感情や子ど
1)妊婦のストレスや不安が子どもに与える長期
もと共にいる楽しさの喪失、子どもを世話してが
的影響
っかりしているといった項目で有意に高い傾向が
母子間の愛着形成について、これまでは主に養
みられたことから、愛しているという感情や楽し
育者である産後の母親のメンタルヘルスの障害
さの喪失は、うつ病の中核症状である楽しみや興
が、乳幼児への気持ちや育児態度に影響を及ぼす
味の喪失が乳児との関わりの場面で反映されたも
かについて述べてきた。しかし、同時に養育され
のとして理解できる。
る側の乳幼児の気質や心身の発育や発達も母親の
特筆すべき点は乳児に対して攻撃的感情をもつ
感情や養育態度に影響を及ぼすことも述べた。そ
と解答した母親の割合が高かったことである。こ
して、これらがあいまって愛着の形成は進んでい
れは、虐待の発端ともなりうる訴えの項目とも重
く。
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母子間の愛着形成が子どもの発達に及ぼす影響
様々に影響を与えるということも指摘されてい
を える時に、私たちは今こそ子宮内環境から
る。
えることを始めなければならない。私たちは、母
これらのことは、妊娠中に生じるストレスに留
体外からの催奇形性物質があり、また妊娠の最初
意し、妊婦へのメンタルヘルスのケアを行うこと
の数か月が脳の発達にとっては、影響を受け易い
がとりもなおさず胎児の
時期であるという
えに慣らされてきていた。し
し、養育されやすい子どもとして出生し、育って
かし今では、母親の妊娠中のストレスそのもの
いくことを意味しているのである。そして母子双
が、その子どもの発達に長期的な影響を与えるこ
方の視点から愛着の形成がうまくいくことにつな
とが明らかになってきた。Glover ら(2004) は、
がる。
全な発育と発達を促
これらの影響についての理論として、胎児期のプ
私たちの臨床では、妊婦の様々なストレスに遭
ログラム仮説を紹介している。これは、子宮内の
遇するが、彼女たちの胎児についての気持ちに留
環境が胎児の発達を変える可能性があるというこ
意することは重要なことである。例えば、望まな
とであり、特定の臨界期においては子宮内環境が
い妊娠が生じ、児へのサポートがない場合はライ
児の表現型に恒久的な影響を与えるということで
フイベントとなりうる(吉田・山下、2003a) 。
ある。彼女らは、妊娠中のストレスが、胎児の発
妊娠を継続しなければならなくなった妊婦のスト
達や出生後の子どもの身体的奇形、情緒、行動、
レスと胎児への拒否はその後の愛着形成に直接関
認知に及ぼす影響について、以下の機序で説明し
連する。そこで筆者らは、よりよい母子関係と家
ている。すなわち、妊婦のストレスそのものによ
族への支援をとおして、次に述べるような妊娠中
りコーチゾールが上昇し、それが胎児への直接的
からのメンタルケアの取り組みを病院で始めてい
な毒性を持つ臍帯血中のコーチゾール濃度の上昇
る。
につながる。またストレスにより子宮および胎児
への血流循環量も減少することとあいまって、子
2)九州大学病院母子メンタルヘルスクリニック
どもたちに微妙で長期にわたる影響が生じるとい
の試み
うことである。
「母子メンタルヘルスクリニック」は、平成14
また子どもにみられる実際の影響として以下に
年1月に九州大学病院精神科神経科に開設され
まとめている。①在胎週数に比して胎内発育遅
た。精神障害発症のハイリスク要因を持ち合わせ
となり低体重で出生したり、早期産となる。②胎
ている妊婦に対し、産科と精神科の合同チーム
児の器官形成と神経学的発達にも直接の影響があ
が、妊娠中から、母子の愛着形成が最初にみられ
る。これまでは母体外の物質や環境により えら
る産後7か月頃まで一貫した継続サポートを提供
れていた先天奇形についても、妊娠中のストレス
する(吉田ら、2003b) 。
との関連が高い。重度のライフイベントとして評
目的は、妊娠中から妊産婦のストレスや不安を
価されるような妊娠初期の強いストレスが、口蓋
軽減し、早期育児期の母親の精神障害発症を予防
裂などの先天奇形のリスクを増加させ、大きな臓
すること。胎児への影響を把握しながら、適切な
器の発達ほど妊娠初期のストレスに影響されてい
薬物療法を行うこと。生まれてくる子どもの や
る。③生後の最初の数か月では、妊婦の不安が高
かな発育、発達を助け、母子関係の良好な成り立
いほど、その子どもは泣くことが多く、また気難
ちを支えることである。
しい気質であったとの関連も指摘されている。④
受診の流れは、産科外来受診者全員へ母子メン
妊娠中のストレスや不安は、子どもの脳の発達や
タルヘルスクリニックのシステムを紹介し、受診
形態構造を変える原因となり、それらは子どもの
予約を取る。特に以下の条件を満たす対象者、①
多動や不注意など行動の問題や利き手の
現在、精神科・心療内科・心理士などによる治療
化など
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を受けている妊婦、②過去に精神科・心療内科・
に焦点をあて、特に妊娠中からの取り組みの重要
心理士などによる治療歴がある妊婦、③精神科受
性と、筆者たちの臨床の実際について述べた。産
診を勧めたいと思われる訴えや症状がある妊婦を
後の母親と家族全体の育児機能の想定まで含めて
中心にケアに当たっている。この中にはうつ病の
えていくこと、特に子どもの 親の役割も含め
みでなく、統合失調症や拒食症、虐待から軽度の
て家族のメンタルヘルスをライフサイクルの視点
育児不安まで様々な妊産婦が含まれる。妊娠中か
からとらえていくことが必要であろう。
ら母子をみることで、出産後早期からの子どもの
経過をみていくことにもなる。これらの母子と家
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を与えてくれる。そして、それは、 常とみなさ
れている様々な母子と家族のウェルビィーイング
にも貢献するものとなろう。
特に産科スタッフと連携している背景には、妊
産婦はメンタルヘルスに支障をきたしても精神科
医師の治療を求めることはほとんどなく、妊産婦
ともっとも身近に接する医療スタッフが産科であ
ることが関係している(Appleby et al,1989) 。
サービスの流れは、産科外来で、担当者(助産
師)が該当する対象者に当クリニックの精神科サ
ービスについての案内を行う。産科主治医が精神
科スタッフへの紹介状を書き、毎週開かれている
両科スタッフ合同の連絡会議で、該当する妊婦の
紹介をする。妊娠30週から36週頃に予約制で精神
科外来を受診し、評価や治療を受ける。
出産後は、早期に精神科スタッフが、周産母子
病棟へ訪室し、産後5日目にエジンバラ産後うつ
病質問票と赤ちゃんへの気持ち質問票を施行す
る。退院後は、地域の保 所に育児支援を依頼す
ることもある。産後1か月の産科での
診の際
に、助産師が面接し、質問票を施行する。産後4
か月の時点で、精神科から産後うつ病質問票など
の質問票を郵送して回収する。最後に、産後7か
月の時点では、精神科医師、心理士による面接を
行い、母子相互作用や育児サポートの評価と、乳
児の発達検査、および質問票を施行して、包括的
な育児に対するアドバイスや治療を行う。
今後の動向と取り組みに向けて
本稿では、妊産婦のメンタルヘルスと愛着形成
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母子保
情報
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