アメリカにおける大衆の政治参加 ――1964年公民権法の成立過程を

アメリカにおける
アメリカにおける大衆
における大衆の
大衆の政治参加
-1964年公民権法
1964年公民権法の
年公民権法の成立過程を
成立過程を中心に
中心に-
東大法学部3年 永田香織
序章
第1章 黒人市民による直接運動
第1節 黒人差別の実態
第2節 非暴力直接運動の概観
第3節 なぜ非暴力か
第4節 非暴力直接運動の成功要因
第2章 権力を持つ白人による人種差別撤廃への働きかけ
第1節 公民権法制定の必要性
第2節 公民権法成立の障壁と基本戦略
第3節 E.M.ダークセン議員の活躍
第3章 公民権運動の国際化
第1節 公民権運動と国際情勢
第2節 公民権運動を支えた国際世論
終章
序章
民主政治と言われてイメージするのは、市民による市民のための政治であり、それが近代的で優れた
政治制度であることは否定できないだろう。市民は主に投票行動を通して議員や大統領を選出すること
で、自らにとって最も望ましい政治を実現することが出来る。投票行動以外にも、利益団体による圧力
や世論の動向などにより、政治に影響を及ぼすことが可能である。しかし、そこには多数派による少数
派の抑圧の問題が必ず現れてくる。少数派が多数派に押されてまったく政治に関わることができずに不
利益を被るとしたら、いくら全体として利益が最大になろうとも、それは真に望ましい民主制とはいえ
ないのではないかと思われる。それでは、資金や団体としての規模が小さいために、議会に議員を送り
込んだり政策決定に影響を与えることが圧倒的に困難な少数派は、どのように自分たちの利益を主張し、
政策を実現させていけばよいのだろうか。投票行動による政治参加だけでは解決できない問題もあるの
ではないか。このような問題意識が本論文をまとめる動機である。
研究対象としては1960年代の黒人による公民権運動に着目した。当時黒人は人口としてはそれな
りの比率を占めていたが、白人による人種隔離はすさまじく、黒人は社会的にも経済的にも過酷な迫害
を受けていた。さらに、憲法でアメリカ国民に保障されたはずの選挙権は事実上剥奪された状態にあっ
たので、黒人が黒人自身の力で差別を撤廃させることはおよそ不可能だと考えられていた。このように
政治参加の前提となる選挙権すら認められず、政治の場から排除されていた黒人であったが、M.L.
キングなどの黒人リーダーに率いられて全国的に非暴力直接運動を展開することを通じて、ついには1
964年の公民権法成立を勝ち取ることに成功した。この歴史的な勝利の背景には何があったのか、な
ぜ公民権運動は成功したのかは非常に興味深い問題である。そして、このことを研究することで、政治
の場では不利な立場にある少数派が、ハンディキャップを乗り越えて政治を動かす方法が見えてくるの
ではないかと思われるのである。
本論文ではまず第1章で、被差別人種である黒人がどのようにして差別撤廃運動を行い、政治家が無
視できないほどの強力な世論を形成し、公民権法の成立までつなげていったのかを見てみたいと思う。
特に、非暴力直接行動に着目し、その効果と成功要因を考えてみることで、政治的弱者が政治に効果的
に訴える方法を探ってみたい。続いて第2章では視点を変えて、主に白人で占められた議会・行政府・
裁判所が公民権法制定に向けどのような働きかけをしたかを調べ、黒人の活動により高められた世論が
公民権法に結実する過程をみていきたい。ここでは特に E.M.ダークセンという1人の共和党上院議
員にスポットを当て、彼が公民権法成立に向けてどのような貢献をしたかを調べることで、なぜ議会で
公民権法案が通過できたかを考えてみたい。最後に第3章では国外に目を向け、公民権運動を後押しし
た国際的な動きについてみてみたい。アメリカでの人種にまつわる諸々の事件は、メディアの発達した
時代の中で世界中に報道され、大変な反響を及ぼした。アメリカの黒人差別はもはやアメリカ1国の問
題ではなく、世界の人種差別撤廃の流れの中で重要な国際問題であると認知されたのである。そうした
海外からの圧力が公民権活動を強力に支援したのは疑いなく、公民権法制定のⅠ要因としてあげること
ができるだろう。以上3章にわけ、アメリカ国内における黒人と白人の活動と、国外の動きを調べるこ
とで、政治的に弱い立場に置かれる集団がそのハンデを乗り越えて影響を及ぼしていく方法を、自分な
りに探っていきたいと思う。
第1章 黒人市民
黒人市民による
市民による直接運動
による直接運動
第1節 黒人差別の
黒人差別の実態
何が黒人たちを直接行動に走らせたかを考えるにあたって、当時のアメリカ国内の人種差別の実態に
ついてみてみよう。アメリカは対外的には「民主主義の体現者」として自由・平等を謳っていながら、
現実には国内の人種差別は黙認され、黒人に対する差別や偏見はすさまじいものであった。特に南部を
見てみると、白人が政治権力や警察・軍隊・マスコミを掌握し、何よりも公正を守らなければならない
裁判所でさえ肌の色によって判決を下していた。他方で黒人は、かつて奴隷であったことや文化を持た
ない人種だとの誤った認識により、劣等な人種であるとみなされて社会的・経済的に冷遇され、教育や
就職、日常での買い物に至るまであらゆる面で差別されていた。もちろん、連邦憲法には黒人に対する
人種差別を禁じる規定が存在する。修正第13条で黒人の奴隷制からの解放を、修正第14条で黒人に
対する公民権の保障を、修正第15条で人種または肌色を理由とした選挙権の剥奪及び制限の禁止を明
示しているのである(1)。しかし、こうした規定は連邦制の厚い壁や人種主義的な裁判所の判決により
実質的に無力化されてしまった。たとえば、いくら憲法で差別を禁止していても、州法で差別を合法化
してしまうと憲法の保障は及ばないし、1896年のプレッシィ事件での連邦最高裁判所の「分離はす
れど平等」判決を法的根拠にして人種差別的な規制を設置することもあった。また、修正第15条で保
障された選挙権にしても、人種や肌色以外の差別方法、具体的には読み書きテストや人頭税などによる
選挙権の制限ならば許されると解釈する地域が多く、実質的に選挙権は剥奪された状態にあった(2)。
アメリカ国民一般に認められて憲法で保障された自己防衛権でさえ、黒人はアメリカ国民でないとの認
識から認められず、黒人は理不尽な差別を黙って耐えるしかなかった。
このように、長期にわたっていわれのない差別に絶望し、抑圧されてきた黒人だったが、民主主義国
であるアメリカが国内では人種差別を放置しているという矛盾が爆発して一部の進歩的な黒人が差別
撤廃へむけて公民権運動の先駆けとなって活動を開始し、また1954年にブラウン判決で分離平等判
決が違憲であると宣言されたことにも刺激されて公民権運動が展開されることとなった。当初はすべて
の力を備えた白人に対して黒人は何も持っておらず、黒人が白人優越制度を克服することは不可能だと
思われた。しかし、黒人は何も持っていないことをむしろ武器として公民権運動を展開していったので
ある。
第2節 非暴力直接運動の
非暴力直接運動の概観
公民権運動を展開する黒人がとった戦略が非暴力直接運動である。これは、請願・座り込み・デモ行
進・ストライキ・ボイコットなど、一連の直接行動による積極的な活動を展開するが、その際に一切の
暴力を禁止するというものである。その徹底振りは完璧で、参加者はヘアピンからネクタイピン・万年
筆まで、およそ武器になりうる一切のものを抜き取り、たとえ自衛のためであっても反撃しないように
備えていた(3)。こうした直接行動は南部の町で起こったバス・ボイコット運動や学生らによるレスト
ランでの座り込みに端を発し、キング牧師らカリスマ性のある指導者に導かれて全米に広まっていった。
そして、1961年のフリーダム・ライド、1962年のミシシッピ大学闘争、1963年のバーミン
グハム闘争など徐々に盛り上がりをみせ、1963年のワシントン大行進でピークを迎えた。
このような非暴力直接運動の狙いは、実は話し合いに他ならない。キング牧師によると、非暴力直接
行動のねらいは“話し合いを絶えず拒んできた地域社会に、どうでも争点と対決せざるをえないような
危機感と緊張感を作りだそうとするもの”であり、“もはや無視できないように争点を劇的に盛り上げ
ようとするもの”なのである(4)。その目的のためには、どんな非暴力運動にも4つの基本的段階を経
ることになる。1)不正が存在するかどうかを判断するための事実集め 2)交渉 3)自己浄化 4)
直接行動 である。まず、その地域での人種隔離の状況、警察による残虐行為、法廷での差別的扱いな
どの記録を収集し、人種不正がその地で行われていることを事実として交渉材料とする。地元経済界な
どと交渉して差別が是正されればよいが、交渉により是正が約束されても裏切られることは多々ある。
そこで、黒人の実態を地域や全国の人々の良心の前に提示する手段として直接行動を準備することにな
る。行動を実行に移す前に、参加者に非暴力についての研修会を開くなどして、本当に非暴力を貫ける
かどうか、留置所の責め苦に耐えられるかを自問自答し、自己浄化に努めたうえで、直接行動を起こす
のである(5)。
このように、非暴力直接運動は決して勢いだけの自然発生的な抵抗ではなく、実は優れて戦略的で、
統率のとれた社会運動であった。ボイコットをするにしても商店主への影響が最も大きくなるイースタ
ーの時期を選んだり、留置所に送られた黒人たちの保釈金のために事前に資金を集めておいたり、大衆
集会を開催して黒人参加者の育成に努めたりなど、入念な準備を経たうえで、時間や場所・人員が綿密
に計算された直接行動を実施するのである。そこには白人が予想した以上に理性的で効率的な黒人の活
動がみられた。そして直接行動により高められた世論を背景に、議会に圧力をかけ、公民権法を制定さ
せることを最終目標にすえて進んでいったのである。
第3節 なぜ非暴力
なぜ非暴力か
非暴力か
非暴力を強力に主張したキング牧師によると、非暴力行動は“強力で正しい武器であり、外傷を与え
ることなく切開し、それを行使する人間の品性を高めることになるものである。正義を求める黒人の叫
びに対する実情に即した解決であり、闘って敗れることなく勝利をものにすることが出来ることを証拠
立てた(6)”、公民権運動の勝利への鍵となる戦略であった。しかし、やはり黒人の中にも非暴力の効
果に懐疑的なものが少なからずいた。彼らは、これまで受けてきた迫害と白人の無慈悲な暴力の経験か
ら、いくら黒人が非暴力を貫いたところで白人の良心に訴えることはできず、かえって白人の破壊衝動
はエスカレートすると考えた。そして、非暴力を掲げて不正に反撃しないことは臆病者の手段であると
みなし、暴力に対しては無抵抗であってはならず、自己防衛のための武装こそ白人たちの暴力を抑止す
る不可欠の策であると主張したのである(7)。では、こうした自己防衛方式により差別に抵抗していこ
うとする活動と、非暴力運動はどちらが正しく有効だったのであろうか。そしてなぜ、公民権団体は非
暴力を選択したのであろうか。
もともとアメリカ社会に昔から深く根ざした考えとは、目には目をの行動原理、すなわち、攻撃を受
ければ自衛のために立ち上がろうというものであった。開拓者精神の伝統を尊重し、不正には暴力で刃
向かっても正義に賭けるというスタイルがアメリカ式であり、自己防衛権は憲法でも保障されたもので
あった。このような自己防衛の思想にのっとって、自己防衛方式での抵抗活動を進めた黒人が、モンロ
ー市の NAACP(全国有色人種向上協会)地方支部長の R.F.ウィリアムズ氏である。モンロー市は
白人暴力の激しい南部の都市であり、ここでの過酷な人種差別に抵抗してウィリアムズ氏は自己防衛を
唱えて活動を行った。では、その結果はどうなったか。確かに、モンロー市の黒人たちは自衛のために
武装することで白人による暴力を抑止できた。しかし、白人は武装した黒人に想像以上に恐怖し、不信
感を募らせていったのである。そこには、根強い白人優越の思想から黒人には自己防衛権は認めないと
いう意識や、何世紀にもわたって黒人を抑圧してきたことに対して黒人が復讐心を抱いているという恐
れがあっただろう。結果として、ウィリアムズ氏は「暴力主義者」「共産主義的人物」などというあら
ゆる悪のレッテルを貼られてキューバへの亡命を余儀なくされたし、世論も黒人に対する悪感情が強く
なってしまった(8)。これと同じことが1960年代後半に起こった〈ブラック・パワー〉運動にもい
える。〈ブラック・パワー〉は、公民権法成立後、なおも残る人種差別に絶望して非暴力を貫ききれな
くなり、自己防衛方式に傾いた活動を展開したものであるが、ここでもやはり、黒人が暴力を行使する
ことを過度に恐れた白人が黒人への恐怖と不信をあらわにし、当時の公民権法成立の波を受けて人種差
別撤廃に好意的だった世論を混乱させ、黒人弾圧に都合のよい口実を提供することで弾圧体制のエスカ
レーションをもたらしたのである。
キング牧師はこのような自己防衛方式を非暴力運動と比較して研究し、自己防衛方式を批判している。
まず、暴力という手段を用いることについての危険について、“防御のための暴力と、攻撃のための暴
力との境界線は非常に細い。暴力の計画が宣言される瞬間には、例え自己防衛のためであっても攻撃へ
の勧誘として解されてしまう(9)”暴力が“白人大多数の恐怖を増大させ、白人は黒人に対して不正を
はたらいてもほとんど恥じなくなってしまう(10)”と、まさにウィリアムズ氏や〈ブラック・パワー〉
が陥った悪循環を指摘している。そして、その効果について非暴力方式と比較して、非暴力運動は最小
限度の人間の犠牲と人命の損失によってなしとげられたのであり、過去十年間の非暴力運動による人的
被害は1965年のワッツ暴動での被害より少ないにもかかわらず、効果としては公民権法制定に代表
される様々な差別撤廃への進歩がみられたが、暴力による抵抗では実際上効果はないことを主張してい
る(11)。さらに問題なのは、暴力を行使しては人々の良心に訴えることができないということだ。い
くらパワーを持っていても、それを良心や道徳に沿って正しく行使しなければ無益であり、反発を招く。
差別を撤廃し、アメリカの人種統合を成功させるためには、その過程で人種間に不信や反発を抱かせて
はならないのである。このように、自己防衛方式はその場限りでは黒人を守ることができるが、長い目
で見れば効果はほとんどなく、むしろ人種統合の妨げとなってしまうのである。このことを先見の明で
見通したキング牧師ら公民権活動家たちが、非暴力の道を選択することになったのである。
第4節 非暴力直接運動の
非暴力直接運動の成功要因
ほとんどの公民権団体が採用した非暴力直接行動は1964年には公民権法制定を勝ち取ったが、そ
の成功の鍵はどこにあったのであろうか。なぜ、ともすると白人の増長を招くと思われた黒人の無抵抗
がこれほど大きな政治的効果を生み出したのであろうか。
まず、最大の要因としてマス・メディアの存在がある。当初から公民権団体は、公民権法を議会で制
定させるためには大衆による圧力が必要であると考えており、そのためには白人世論も味方につける必
要があった(12)。そこで利用されたのがマス・メディアである。公民権団体は直接行動を起こす前に
は必ず各種メディアに通告し、全米に報道してくれるように依頼してから行動に出た。この依頼にはメ
ディアの発達によって応えることが可能となった。たとえばテレビは1951年には全家庭の12%の
みが所有していたのに対し、1963年までには90%の家庭に普及し(13)、さらには新聞や雑誌、
ラジオなども発達し、公民権運動の様子を全米に、そして世界中にも報道したのである。その中で最も
インパクトが大きかったのはやはりテレビの映し出す映像であった。そこでは子供や妊婦、老人も含む
無抵抗な黒人に対し、棍棒や高圧ホース、凶暴な警察犬までけしかけて暴力の限りを尽くす南部白人の
姿が臨場感を持って映し出され、真に暴力的なのは黒人でなく白人であることをむきだしにしたのであ
る。そして、アメリカ国民、特に北米の白人に南部白人による暴力や差別の実態が伝えられることで、
先進支配国としての自負心や暴力に対する強い拒否反応から白人の道徳や良心、同情心を目覚めさせ、
白人も公民権法を要請する世論に巻き込んでいったのである(14)。公民権運動の進展によりメディア
の態度も変化し、運動の初期には黒人の活動は、その動きがなんらかの劇的な暴動に発展しそうだとか、
ある種の怪奇的要素を含んでいる場合にだけ取材の対象とされたものだったが、運動のピークであるワ
シントン行進でははじめて畏敬の念とそれにふさわしい取材を受けたといえる。何百万人もの人々がテ
レビの前に集まってこれを歴史的な出来事として見ており、このとき初めて黒人スポークスマンの思慮
深い演説に聞き入りその知性と誇りを認めることで、それまでの黒人についてのステレオタイプが破壊
されたのであった(15)。
次に、組織力の強い黒人諸団体と、その中心となる人物のカリスマ的なリーダーシップも要因として
あげられる。黒人団体としては、NAACP・学生非暴力調整委員会(SNCC)
・人種平等会議(CORE)
などが代表的だが、それ以外にも数多くの団体が結成された。そしてその強固な組織力によって非暴力
を貫きながら規律にあふれた直接行動を展開することに成功した。黒人団体間の相互協力や人的流動も
頻繁になされ、各団体がその特性を生かして効果的な連携をすることもできた。さらに黒人リーダー、
特にキング牧師が団体を超えて黒人を統合し、公民権運動を主導した。もちろん、公民権運動はキング
牧師が「救世主」として個人的に盛り上げたものではなく、長年にわたって蓄積された黒人の不満と覚
醒の結晶に他ならなかったのであるが、それでもキング牧師以上に運動への参加意欲を高め、リベラル
派の白人の共感を保ちながら黒人の怒りと不満を表明できる人物はいなかったであろう(16)。
また、非暴力運動には参加を広く集結出来る普遍的資質がある。軍隊では、一定の年齢であることが
必要であるし、身体的な障害がある人も入ることが出来ない。対して非暴力運動は、子供からお年寄り
まで、また身体障害者であっても、なんら参加に差別はなく平等に扱われたのである。つまり、参加し
たいと思えば誰でも参加できる余地があり(17)、黒人社会への運動の浸透は容易であった。さらに、
黒人がキリスト教という共通の宗教的基盤を持っていたことも参加を募るのに有利にはたらいた。黒人
は生活のあらゆる面でその地域の黒人教会に指導・支援を受けていたが、その黒人教会を通して参加を
呼びかけたのである。そこではキリスト教思想を徹底し、真に救いが必要なのは偏見による人種差別で
魂が歪められた白人であり彼らを解放できるのは黒人だけであると説くことで、黒人たることの誇りと
差別撤廃への使命感を高揚させて参加を拡大させていった。また、黒人が白人と同じキリスト教を信仰
していることで白人に対してもある種の安心感を与えた。同じ宗教を信仰しているという連帯感や、共
産主義のような危険と思われる思想とは異なるということをアピールできたのである。
以上みたような様々な要因を公民権団体はうまく利用して、全米を巻き込む世論を形成することに成
功した。1963年の調査では、今アメリカが直面する最大の問題は何かという質問に対し、47%の
人が人種問題であると回答するほど世論は高まっていたのである(18)。そして黒人たちは、もはや大
統領や議会が無視できないほど成長した世論を背景に、公民権法を成立させるよう議会へ圧力をかけて
いくことになる。
第2章 権力を
権力を持つ白人による
白人による人種差別撤廃
による人種差別撤廃への
人種差別撤廃への働
への働きかけ
第1節 公民権法制定の
公民権法制定の必要性
黒人差別問題に関しては、戦後になってから権力者である白人からのアプローチも見られるようにな
っていた。その中で最も有効だと思われたのが、連邦裁判所による差別撤廃を勧告する判決である。裁
判所は憲法や法律に基づいて原告の訴えを判断することだけが業務であるため、立法府や行政府と違っ
て社会的支持や白人の反応、社会的・政治的影響を考慮する必要はないうえに、もし原告が敗訴となっ
ても政策課題が世に出る場となるので全く効果がないということはない(19)。よって裁判の公正さが
保証されているのならば、間違いなく人種差別は違憲となる。実際に有名な1954年のブラウン判決
では、それまでの「分離はすれど平等」という判例を変更し、肌色による学校入学拒否は黒人の子供に
劣等感を与えて教育上有害な影響を及ぼすことを理由に違憲であると判じた(20)。このブラウン判決
は Richard B .Russell によると、
“最高裁が政府の行政支部の政治的な腕となりつつある”
(21)と評価
されるほど画期的なもので反響が大きく、黒人のみでなく白人にも人種問題への関心を持たせることに
なった。さらにその後もいくつか公民権運動を擁護する判決が出されたので、黒人が差別撤廃を叫んで
活動する意欲を鼓舞することになった。もちろん判決が出る以前から黒人の抗議活動は時々発生してい
たが、ブラウン判決後は、黒人の間に差別禁止が認められるという期待が広まったので、差別撤廃活動
への参加が増えたのである。
しかしながら、それが日常の差別撤廃に結びつくことはほとんどなかったといっていいかもしれない。
それは判決が出た時点で予想されていたことで、ある南部議員は“最高裁判決に関わらず差別は続くだ
ろう”と発言している。(22)その理由としてはまず、実際のところ訴訟という手段は弱者に不利であ
ったことがあげられる。最も貧困なアメリカ人である黒人は、すべてを有力に兼ね備えている白人と対
決するにあたって、時には何百万ドルもかかる手の込んだ訴訟を起こし、その費用を自分で負担するよ
う要求される(23)ので、それでは黒人が訴訟を提起できる機会は数えるほどしかなかった。また、特
に南部ではブラウン判決が出た後も黒人が勝訴する可能性はまだ低かったので、訴訟を起こす意欲も低
かっただろう。そのうえ、訴訟に持ち込みようやく得た勝訴判決であっても実質的な効力はあまりなか
った。たとえばブラウン判決では「慎重に学校統合をすすめるように」という文言があり、南部諸州は
これを都合よく解釈して結局差別を放置したのである(24)。また、判決の効力も勧告に過ぎず、強制
力はなかったために裁判所の判決はほとんど無視されてしまうことが多かった。
裁判所の判決に加えて公民権運動にとって重要なのが、大統領府の態度である。そもそも歴代大統領
は人種差別をあまり問題視しておらず、何か事件が起こらない限り放置する傾向にあった。大統領によ
る差別撤廃を勧告する行政命令の公布は時々なされたが、たとえばトルーマンが軍隊内部での人種差別
禁止を勧告したものなど、一部にのみ効力を有するものが公布され実効性は乏しかった。公民権運動が
展開し世論が高揚する中で、それに押される形でようやく大統領府からのはたらきかけも大きくなって
いったのである。では、公民権法案が議会に提出されるまでの各大統領の態度をみていこう。
まず、アイゼンハワーは差別撤廃には否定的で、ブラウン判決が出たときはそれを批判し、「分離は
すれど平等」原則を再び採用するように勧告した。また、1957年にアーカンザス州のリトル・ロッ
クの高校で暴動が起きたときは、差別撤廃のためではなく主に公の秩序維持と流血を避けるために軍隊
を送った。さらに1957年と1960年に成立した公民権法は、南部議員との妥協によって骨抜きに
されて実質的な内容はなくなってしまったが、行政府はこれに対し何ら有効な手段をとることができな
かった。このように、アイゼンハワーの姿勢は公民権運動に巻き込まれることを避け、できるだけ何の
行動も起こさないようにするというものであったので、黒人たちは彼に協力を期待することができなか
った(25)。
黒人の期待を一身に受け、公民権法制定に最も積極的だったのがケネディである。ケネディは、獄中
にいたキング牧師の釈放に尽力したことをきっかけに黒人票の約75%を得て大統領に選出され、公約
に掲げた公民権法の実現を強く期待されていた。しかし、 任期の初めの2年間は〈ニュー・フロンティ
ア計画〉に専念しており、そのためには南部議員の協力が不可欠であったので、公民権法はあとまわし
にされてしまった。ケネディは、公民権運動を支援するという姿勢は示していても、それが〈ニュー・
フロンティア計画〉の妨げとなるなら立法化を推進しないつもりだったのである(26)。このように大
統領はおよそ公民権法制定には非協力的で、たとえ協力する姿勢をみせたところで実際の差別が改善さ
れたわけではなかった。公民権法制定に向けて大統領が動き出すには、いっそうの世論の圧力が必要だ
った。
さらに悪いことに、公民権運動の高まりに対する南部諸州の反動化が顕著になった。南部の白人市民
は北部に比べて黒人を差別する意識が根強く、また差別が撤廃されたときに白人の利益が損なわれるこ
とを恐れていた。よって人種差別を肯定し公民権運動に強硬に反対する議員が白人の支持を集めて当選
し、差別法案を次々と可決させたために、人種差別や黒人に対する抑圧・規制はより酷くなった。また、
KKK 団の活動も活発化し、黒人を死に至らしめる残虐な暴力活動を繰り返すようになった。そうした
あまりにも酷い南部の状況はメディアによって全米中に、さらには海外へも報道され、かえって差別撤
廃の世論を強める結果になった。それはそれまで沈黙を守ってきた穏健派の白人でさえ動かさずにはい
られないもので、アトランタの C.L.ウェルトナー議員の発言にはっきり表れている。南部の痛まし
い事件に直面して“誰が沈黙したままでいられようか?私は人民を指導するべき人間が過ちを犯したこ
とと、私たちが暴力的な人々を放置してきたことを知っている。私たちが立ち上がらなければ暴力を鎮
(27)”
圧することは決してできないだろう。
以上のように、1963年までには裁判所及び大統領はその力不足と意欲のなさを露呈し、黒人をは
じめ公民権支持者の憤りと失望は頂点まで高まっていた。また、悪化する差別に対し、一刻も早い実効
性のある政策が必要となった。裁判所や大統領の力ではどうにもならない現状を打破し、これ以上の流
血を避けるためにはもはや連邦議会での立法化を実現するほかに道はなかったのである。そして、19
63年のバーミングハム闘争、ワシントン行進により最高潮に達した世論に押されて、いよいよ公民権
法案が議会に登場するのである。
第2節 公民権法成立の
公民権法成立の障壁と
障壁と基本戦略
第1節で見たように、もはや黒人差別は切迫した状態にあり早急に解決する必要があったが、そのた
めには実効力のある公民権法を成立させるしか道はなかった。そして、1963年のバーミングハム闘
争後、国中の世論圧力が議会及び政府に集まり、ついにケネディが公民権法の原案を議会に提出した。
この案は翌年、南部議員らの抵抗にも関わらずより強力な内容を持つ公民権法として成立することにな
った。この背景には、議会外部の有識者の発言の影響力やキング牧師に代表される黒人団体の努力、苛
酷な南部白人による黒人弾圧への全米の怒りがあったことはもちろんだが、議員や行政府、圧力団体の
優れた議会戦術があったことも見落とせない。では、この法案の成立過程にどのような障壁とそれを打
ち破る戦略があったのかみていこう。
実効性のある公民権法案が1963年まで議会に提出されなかったのには2つの要因がある。1つは
政治的要因で、当時民主党が南部の多くの州で政治的なパワーを取り戻し、民主党議員を議会に送り込
んでいた状況では、南部民主党議員を中核とする保守連合の反対が強く、法案成立の見込みがないと考
えられてきたからである。さらに制度的要因として、上院で議事妨害がなされることが確実視されてお
り、議事妨害を終わらせるための討論終結の議題には出席議員の3分の2の賛成票が必要であったから
である(28)。だからといって、議事妨害を避けて法案への賛成票を確保するために法案を骨抜きにし、
1957年や1960年に成立した公民権法のように実効性に欠ける法律を制定したところで問題の
解決にはならない。南部派に一切妥協せずに、包括的かつ強力な公民権法案を通過させることが必要で
あった。そのための戦略目標は、民主・共和党両党のリベラル派の結束と、保守派議員の転向による賛
成票の確保である。まず、リベラル派の結束を強化し、本会議への出席と賛成票の投票を確実なものと
する。しかしリベラル派だけでは法案を通過させるだけの票数に足りないので、保守連合を崩し、転向
の可能性が無に近い南部議員を除き、特に中西部と西部の共和党議員にターゲットを絞って説得工作を
行って賛成票を投じてもらうのである。この戦略に沿って、主にリベラル派の有力議員と行政府、院外
の圧力団体が協同して議会工作を進めていった。
まず、下院ではケネディの提出した政府原案をもとに、改訂案が検討された。この過程で政府と両党
の有力議員が審議に参加し、両政党の支持する法案へと改良した。もちろん、世論の求める強力な公民
権法案であることはいうまでもない。こうして共和党議員を公民権支持に持ち込む下地ができ、法案成
立への見通しは随分明るくなった。さらに、ここでケネディ大統領の暗殺という衝撃的な事件が起こり、
ケネディが公民権法成立を後押ししてきただけに公民権支持派の勢いはストップしてしまうのではな
いかと危ぶまれたのであるが、幸いにも後任のジョンソンは公民権法案により積極的な姿勢をみせたう
えに、政府や議員もケネディの遺志を継ぐという使命感のもとに結集し協力体制を強化したので、かえ
って公民権支持を高めた。このようにして両党のリベラル派が結束し、有力議員の指導のもと一丸とな
って賛成票を投じていった。上院でも同様に、両党が協調してリベラル派の結集に努め、支持を確かな
ものにしていった。これについては詳しくは次節で論ずる。
中西部や西部の保守系共和党議員の説得工作については、リベラル派議員からの接触はもちろん、院
外の圧力団体の力が大きかった。公民権法成立を切望する団体は黒人団体のほか、労働組合、キリスト
教団体、女性団体、農民組合など様々であり、そうした約80もの団体が〈公民権指導者会議〉を組織
して各議員の説得にあたった。議員の経歴や地元利益を考慮して、指導者会議の中で最も影響力の強い
と思われる各団体が各議員を担当するのである。たとえば、労働組合や女性団体は選挙の際の団体票を
交渉材料に議員にはたらきかけ、農民組合などは地元の議員にはたらきかけていった。各団体は議員が
閉口するほどに人海戦術で常時議員を見張り、本会議への参加と賛成票の投票を要請したので、議員は
着実に公民権支持に転向していった。最終的には下院で79人、上院で14人の議員の転向に成功した
のである(29)。このようにして陣営を切り崩し、法案可決に必要な票数を確保することに成功したの
であった。
以上のようにして公民権支持派は議会多数を確保し、南部議員の数多くの修正案にもかかわらず、強
力で実効的な公民権法を制定することができた。本会議での採決は、下院民主党員256名中賛成15
2・反対96、うち北部議員は賛成141・反対4、南部議員は賛成11・反対92、下院共和党員1
77名中賛成138・反対34、反対のうち12名が南部議員であった(30)。上院では、賛成73・
反対27、反対のうち21名は南部議員であった(31)。
第3節 E.M.ダークセン議員
ダークセン議員の
議員の活躍
先に見たとおり、公民権法が成立するにはリベラルな白人議員の尽力が不可欠であった。この節では
特に法案成立に重要な役割を果たした E.M.ダークセンに焦点を当てて、彼の活躍をみていきたい。
ダークセンはイリノイ州選出の共和党上院議員で、かつてはアイゼンハワーの腹心として差別撤廃には
あまり関心を示さなかったが、公民権法制定時においては、ジョンソンの支援者として議員の中心とな
って法案を成立させた人物である。彼の職業政治家としてのスキルとキャリアには定評があり、当時は
共和党院内総務の地位についていた。ケネディやジョンソンは南部民主党上院議員の協力を絶望視して
いたため、法案提出前から、上院で法案が通過するか否かは共和党とのパイプ役たるダークセンの肩に
かかっていると期待しており(32)、ダークセンは見事にその期待に応えたのである。
上院でも下院と同様、法案への賛成票の確保が問題だったが、最も大きな障害は南部議員を中核とし
た保守連合による議事妨害であった。南部議員が議事妨害に出ることは誰の目にも明らかであり、例え
ばジョンソンは1964年2月初頭の記者会見で、議事妨害が起こることは確実であり、上院で法案を
通過させるにはそれをしっかりと排除しなければならないと答えている。(33)そして実際に、下院か
ら法案が回ってきてすぐに、ジョージア州の R.ラッセル議員率いる南部連合が以後83日にも及ぶ議
事妨害に乗り出し、法案の消滅を図ったのである。議事妨害に対抗するには出席議員の3分の2以上の
賛成により討論終結の動議を可決しなければならないが、特に小さな州の議員は自らの利益を守るため
に議事妨害に反対することをためらう傾向が一般にあり、討論終結のための賛成票を確保することは非
常に困難である(34)。これに対抗する唯一の道は、北部や西部の保守派の共和党議員を転向させるこ
とであった。彼らは法案が成立するとケネディやジョンソンの評価があがることもあって、公民権法案
に反対する立場であったが、彼らを賛成派に引き込もうというのである。それに成功すれば南部議員は
共和党議員との連携がなければ議事妨害を続けることができないので、討論終結に持ち込めることにな
る。(35)よって、保守系共和党議員の転向を基本戦略とし、そのためにダークセンが共和党のとりま
とめに尽力したのである。
それでは、ダークセンの活動を具体的に見ていこう。ダークセンの功績は、民主党も含めた上院議員
のリーダーたちと協調して、保守系共和党員を賛成派に引き込み、共和党が一丸となって賛成票を投じ
るようにまとめあげたことだろう。その手段として最も有名なのが、いわゆるダークセン私案の作成で
ある。保守系上院議員にとって下院案は積極的に承認できないものであり、それを見越したダークセン
は早くから独自の修正法案を作成し、議会に提出する準備を進めていた。この段階では、5月の最初の
2週間で5回も、民主党院内総務マンスフィールド・民主党院内幹事ハンフレイ・共和党院内幹事カッ
チェル他、司法委員会のスタッフなども交えて交渉を重ねており、5月13日までには討論終結に持ち
込むための本質的な妥協案が完成していた。(36)この私案の優れたところは、約70箇所もの修正を
加えていながら、それらはほとんどが比較的重要でないもの、技術的なものや補足説明であり、下院案
の主旨を損なうものではなかったばかりか、かえって行政府の主張に沿った部分さえあった点である。
(37)公民権法支持派はもちろんこれを大歓迎したが、特に、保守派共和党議員を転向させる点におい
ては巧妙な修正であったといえる。ダークセンは公民権法案のターゲットを主に頑迷な南部に定め、北
部や西部には法案が成立しても白人を脅かすようなインパクトがないと議員に思わせたのである。実は、
学校やレストランでの人種隔離や黒人の公民権剥奪は、基本的には南部の問題であった。就職の際の人
種や性別による差別だけが全国的な問題だったのである。よって、ダークセンの修正のポイントは、ま
ず第1に、新しい公民権法は不道徳な南部を改革するものであることを南部以外の議員らに意識させる
こと、第2に、公民権法の6・7条に規定される就職における差別禁止は北部や西部の有権者を侵害し
ないものであることを強調することにあったのであり、(38)それが効果的に働いて保守派共和党員を
転向させることに成功したのである。
それ以外にもダークセンは、秘密裏に他の議員と接触し交渉したり、記者会見や議会でのスピーチで
法案支持を訴えたりした。特に5月19日に、ユーゴーの“時に適った思想はどんな軍隊より強い”と
いう言葉を引用して、公民権の時代がやってきたこと、その流れはとどめることも否定することもでき
ないことを宣言したスピーチ(39)は印象的で、保守系共和党議員が転向を決心する契機にもなった。
このようにしてダークセンは上院で賛成票を確保し、討論終結の動議を可決させて議事妨害を終わらせ
たのである。そして、その勢いに乗って法案も可決され、いよいよ公民権法の成立は確実になった。法
案通過から約1ヵ月後の1964年7月2日、ジョンソン大統領が署名して、ようやく悲願の公民権法
が成立し、黒人たちは大きな政治的勝利を勝ち取ったのである。
以上のように、ダークセンは上院において共和党の票をとりまとめて賛成票を確保し、公民権法案を
通過させた。それは民主党議員には成しえなかったことであろうし、独自の修正案を用意して積極的に
法案通過を助けたこともダークセンの政治家としての力量を示している。公民権法は、いくら世論の圧
力があったとしても、このような優れた政治家の存在なしにはその実現は難しく、実現したとしても成
立はいくらか遅れてしまっていたのではないだろうかと思われるのである。
第3章 公民権運動の
公民権運動の国際化
第1節 公民権運動と
公民権運動と国際情勢
以上に見てきたような国内の動きのみならず、国外の情勢も強大な力となってアメリカの黒人たちを
鼓舞した。第二次世界大戦後、黒人は、アフリカやアジア諸国が植民地支配を断ち切って次々に独立を
達成し、自由を勝ち取るのを見てきた。また、アメリカの黒人は消極的すぎて自分の自由を手に入れる
のに強い手段をとる気がないのだと考えられてきたことも知った。故郷アフリカの地では黒人が独立国
を建てて政治を執り、国際連合へも加盟して世界で発言力を行使しているのに比べ、アメリカ黒人は選
挙権すら認められていない事実を目の当たりにして、なぜ立ち上がらずにいられようか。また、アフリ
カで起こる独立運動や、南アフリカに根強く残っていたアパルトヘイトなどの人種問題が大きな国際問
題となっていた当時、そうした国際問題に関心を持つことは、必然的に国内における人種差別問題への
関心を高めることにつながる。さらに、1957年のガーナ独立に始めるアフリカ諸国の独立は、アメ
リカ黒人たちに未来への希望をもたらした。「約束の地」は手の届くところにあり、公民権闘争に勝利
することを確信させたのである(40)。このようにして、国際的に人権問題が重要な争点になってくる
中で、アメリカにおける公民権運動もいっそうの高まりをみせたのである。
国際的な圧力は黒人を鼓舞する以上に、アメリカの政治権力を動かさずにはいられない。アメリカ黒
人のリーダーたちは1950年代から、アメリカ国内における公民権運動と国外での差別撤廃のつなが
りを重視し、黒人に対しては、アメリカで公民権を獲得することが世界で人種差別を撤廃させることに
つながると説いて運動への参加を呼びかけ、政府及び議会に対しては、国際的には民主主義を高唱して
自由・平等を謳いながら一方で国内の人種差別を放置している現状を批判し、このままでは国際的な信
用を失うことになるだろうと警告してきた。その考えは次第に広まり、たとえば1961年には、白人
ジャーナリストのジェームス・レストンが、“ワシントン政府は、もし黒人のフラストレーションが効
果的に解消されないなら、外交政策でさえも影響をうけるだろうことに気付き始めている”と書いてい
るし(41)、同じ年にアフリカを訪問した3人の上院議員も“アメリカの人種差別がアフリカとアメリ
カのよりよい相互理解にむけての最も重大な障壁であろう”と発言している(42)。実際に、アフリカ
の国々はアメリカ政府の人種問題への取り組みを注意深く見ていた。1962年のミシシッピ大学事件
では、政府が白人の暴走を鎮圧するために軍隊を派遣したことを評価してキューバへ向かうソ連の飛行
機の燃料補給を断った国々があり、また1963年のバーミンガム闘争時には、アフリカ首脳会議がケ
ネディ大統領宛に黒人差別についての抗議文を送ったのである。(43)アメリカ国内の人種差別はもは
や国内問題にとどまらず、アフリカと良好な関係を結ぶためには、何よりもまずアメリカの黒人差別を
撤廃しなければならなかった。特にケネディ大統領にとって、アフリカとの友好関係は戦略上不可欠で
あったようだ。冷戦期の真っ只中にあって、公民権運動は単なる選挙公約ではなく、アフリカが共産圏
になるのを防ぐ意図もあった。とはいっても、彼の構想ではアフリカはヨーロッパや中東ほど重要では
なかったから、最優先課題とまではいかなかったが、それでもアフリカを無視することはできなかった。
なにより、アメリカ人の人種による偏見が、西側諸国に与える悪いイメージのほうが問題であった。そ
れがアメリカの国際的な地位を低下させる汚点であると考えられたのである(44)。このような国際的
な圧力に押されて、アメリカは世界の指導者として国内の人種差別を放置しておくことはできなかった。
第2節 公民権運動を
公民権運動を支えた国外世論
えた国外世論
公民権運動が活発になり、世界のメディアの波に乗るようになると、国外世論が形成され、公民権運
動を支持するようになった。特に衝撃的であったのが、バーミングハム事件のテレビ中継であろう。黒
人たちの身体に噛み付く大きな警察犬や、黒人女性を地面に押し付ける警察官、消防用の高圧ホースで
なぎ倒される黒人の列と、全く対照的に非暴力を貫き甘んじて暴力を受ける黒人たちの姿が、日本をは
じめ世界中に配信された。この映像をみて、なおも人種差別を容認する人はいないだろう。メディアを
通じて、黒人たちの気高い姿と、バーミングハムの保安局長“ブル”・コナーの名に象徴される白人警
官の野蛮性が世界中に伝えられたのである。さらに、ワシントン大行進の圧倒的な迫力は、人々に人種
問題への高い関心と強い賛同をもたらした。こうしてアメリカの人種闘争の実態が伝えられると国際世
論が動き出した。バーミングハム事件では、6週間のデモ期間とその後の何ヶ月間に世界中から精神
的・経済的に大きな支援がなされた。激励文や大小の寄付が黒人組織に寄せられ、国際的な人種差別へ
の非難はアメリカ政治にも影響を与えた。
公民権団体のほうでも、国際世論をうまく利用して運動を進めていった。たとえば、1958年の「接
吻事件」に代表されるように、主に南部での白人の専横により裁判が不正になされ、黒人団体の力では
被告人を助けることができないようなとき、外国のメディアにレポートを掲載してもらい、国際世論を
動かして抗議してもらうのである。(45)国際世論が動けば政府や大統領などに声が届き、人種差別が
根強く、連邦裁判所の判決でさえ無視してしまうような南部でも、国家権力によって黒人を助けること
ができる。公民権団体はこのように、国際世論の影響力を十分に理解し、有効に活用したのである。
終章
公民権運動は決して黒人が単独で進めて成功にこぎつけたわけではない。3章に分けて公民権法の成
立過程を見てきたが、黒人の非暴力運動や、リベラル派白人の協力、世論の圧力、人種差別撤廃にむけ
ての国際的な動きなど、様々な要因が重なって公民権法を生み出したことは明らかで、どの要因も無視
することは出来ない。また、人種問題という争点は善悪がはっきりしていて、明らかに人種差別をする
白人に過ちがあるのであるから、もしこのような大規模な公民権運動がなかったとしても、いずれは解
決される問題であったかもしれない。しかし、すべての発端となったのはやはり黒人が勇敢にも立ち上
がり、白人の苛烈な暴力にも負けずに運動を展開していったことである。その活動が世論を巻き込み、
権力者を動かして、社会的経済的弱者であった黒人が国の法律を作るという巨大な政治的効果を達成し
たといえる。
大衆が政治に参加する方法は、何も選挙や圧力団体による権力者へのはたらきかけに限ったことでは
ない。黒人のように、社会の少数派で不利な立場におかれている人々でも、団結して直接行動などの手
段をとって世論に訴えかけていけば、政治を動かすことは困難ではあるが不可能ではない。では政治を
動かす最も重要なファクターは何かというと、それは世論の支持であり、それが得られれば政治家に影
響を与えることが出来るのだと思う。しかし、直接行動の方法を誤っては逆に世論を敵に回してしまう。
第 1 章で見たとおり、黒人の直接行動は非暴力を貫いたからこそ成功したのであって、いくら自衛のた
めであっても暴力を使用してしまえば、正当な行為であるとしても世論は認めてくれない。思うに、社
会の多数派は政治的利益を享受し、おおよそ現状に満足しているのであり、それを覆すような変革は回
避したいものである。よって、少数派が社会を変革するために多数派の支持をとりつけたいと思ったら、
多数派には変革による不利益はほとんど及ばないことを知らしめ、納得させることが必要だと思われる。
そうした交渉は当然一度では解決せず、何度も継続的に繰り返して徐々に多数派の譲歩を引き出してい
かなければならない。一度でも事を焦って暴力に走ったりすればそこで信頼関係は崩れ、変革にはさら
なる時間が必要になるだろう。例えばクーデターを起こし、少数派が社会を転覆させたところで、その
社会は長くは続かない。本当に社会を変えたいと思ったら、民主制の制度の中で活動していくべきであ
る。そのようにして初めて世論が味方になってくれ、最も迅速に問題が解決されるのではないか。
公民権法成立後も残念なことに人種問題は完全には解決されていない。いまなお黒人団体や他の人種
団体は活動を続け、獲得した選挙権も武器にして政治に参加している。大切なのは、選挙なり直接行動
なりに参加して、声を上げて自分の権利利益を主張し続けることである。弱い立場にいるからといって
悲観して何もしなければ、何も解決しない。政治の場では誰もが自分の利益を主張することが通常で、
他の誰かが自分に代わって政治に参加してくれるということはよほど考えられないのである。だから、
少数派は少数派であるがゆえに、誰よりも声をあげていかなければならない。その声を世論が受け入れ
多数派の協力者を得ることができれば、政治を変える道がみえてくるのではないだろうか。
註1)中島和子『黒人の政治参加と第3世紀アメリカの出発』
(中央大学出版部,1993),p.159
2)同上 p.160
3)Martin Luther King,Jr, 中島和子・古川博巳訳、
『Why We can’t wait?』(みすず書房,1965年),
p.72
4)同上 p.96
5)同上 p.94,95
6)同上 p.22,23
7)中島,前掲書,p.8
8)同上 p.215-219
9)Martin Luther King, Jr,猿谷要訳『Where Do We Go From Here: Chaos or Community?』(明石
書店,1999年)p.59
10)同上 p.64
11)同上 p.61-62
12)Edward Carmine, James Stimson,“From Kennedy to Reagan ”in Theodore Rueter eds.The
Politics of Race(New York:M.E.Sharp,1995)p.237
13)Kevern Verney,Black Civil Right in America(New York:Routledge,2000)p.60
14)中島,前掲書,p.206-207
15)King,『Why We can't wait?』p.157-158
16)Kevern Verney,Black Civil Right in America
p.53-54
17)King,『Why We can't wait?』p.40-41
18)猿谷要『歴史物語アフリカ系アメリカ人』
(朝日選書,2000年)p.219
19)B.R.ルービン『アメリカに学ぶ市民が政治を動かす方法』
(日本評論社,2002年)p.59
20)Judith Haydel,Rathnam Induethy,Henry Sirgo,By the Dawn’s Early Light(New York:
Harcourt Brace Custom Publishing,1996)p.414-418
21)New York Herald-Tribune ,May 13,1954
22)同上
23)King,『Where Do We Go From Here: Chaos or Community?』p.182-183
24)Kevern Verney,Black Civil Right in America,p.46
25)同上 p.46-48
26)同上 p.50,Edward Carmine,James Stimson“From Kennedy to Reagan”p.235-236
27)Newsweek,September 30,1963
28)http://www.lib.niu.edu/ipo/iht319648.html
29)中島,前掲書 p.183
30)Judith,Rathnam,Henry,By the Dawn's Early Light,p.421
31)中島、前掲書 p.175
32)http://www.lib.niu.edu/ipo/iht319648.html
33)Hugh Davis Graham,The Civil Rights Era (New York:Oxford University Press,1990)
p.142
34)http://www.lib.niu.e.du/ipo/iht319648.html
35)Huge Davis Graham,The Civil Rights Era
p.147
36)同上 p.147
37)同上 p.146
38)同上 p.147,148
39)http://www.kansaspress.ku.edu/huleve.html
40)Michael L.Krenn,Black Diplomacy:African Americans and the State Department,1945-1969
(New York:M.E.Sharp,1999)p.115
41)同上 p.116
42)同上 p.136
43)猿谷,前掲書 p.212
44)Michael L.Krenn,Black Diplomacy
p.135
45)中島,前掲書 p.12
参考文献
http://en.wikipedia.org/wiki/Everett_Dirksen
http://en.wikipedia.org/wiki/Civil_Rights_Act_of_1964
http://www.lib.niu.edu/ipo/iht319648.html
http://www.kansaspress.ku.edu/huleve.html
中島和子『黒人の政治参加と第 3 世紀アメリカの出発』中央大学出版部,1993 年
猿谷要『歴史物語アフリカ系アメリカ人』朝日選書,2000 年
B.R.ルービン『アメリカに学ぶ市民が政治を動かす方法』日本評論社,2002 年
斉藤眞編『総合研究アメリカ③民主制と権力』研究社,2002 年
Martin Luther King,Jr.著
中島和子、古川博巳訳『Why We can't wait?』みすず書房,1965 年
Martin Luther King,Jr.著
猿谷要訳『Where Do We Go From Here:Chaos or Community?』明
石書店,1999 年
Kevern Verney“Black Civil Right in America”Poutledge,2000
Theodore Rueter ed.
“The Politics of Race”M.E.Sharpe,1995
Judith Haydel,Rathnam Indurthy,Henry Sirgo“By the Dawn’s Early Light”Harcourt Brace
Custom Publishing,1996
Hugh Davis Graham“The Civil Rights Era”Oxford University Press,1990
Michael L.Krenn“Black Diplomacy”M.E.Sharpe,1999
“Reporting Civil RightsⅠ,Ⅱ”Literary Classics of the United States,2003