オペラの風景(30)天国と地獄(地獄のオルフェ)

オペラの風景(30)天国と地獄(地獄のオルフェ)
本文
ナタリーデセイ
彼が並べられるのはワーグナーである、とニーチェは言っている。オッフェンバック
の目的はオペラ・セリアの偉大な作曲家たちによって貴族趣味的に扱われた同じ主題
を、皮肉をこめて取り上げることであった。ニーチェは。ワーグナーの得意なオペラ
の主題でもオペレッタの主題になりうることを指摘することによって、オッフェンバ
ックの目的を見抜いたのである。ニーチェが、多かれ少なかれ明白に、オッフェンバ
ックをワーグナーと対をなす作曲家としてとらえるとき、われわれはかれに賛同せる
にはいられない。どちらの作曲家も、独自の方法でロマン派の根本的疑問に答えてい
るのである。
(ダヴィッド・リッサン)
「天国と地獄」はオッフェンバックのオペレッタ《地獄のオルフェ》の浅草オペラ名。
ギリシャ神話「オルフェオとエウリディーチェ」のパロディです。日本ではオペラフ
ィナーレのカンカン踊りが小学校の運動会特に徒競争で使われているから有名です。
このギリシャ神話は大変多くの作曲家の題材に選ばれました。中でも有名なのは 160
7年のモンテヴェルディのもの、1762 年のグルックのもの、そして 1858 年のオッフ
ェンバックのものです。ロマン派のオッフェンバックがこの神話をどう扱ったか、前
回の話はケルト神話を扱ったワーグナーの「トリスタン」でしたが、今回は、格調高
いギリシャ神話です。同じ時期、家庭破綻を繰り返すワーグナーがケルト神話から超
真面目な「トリスタンとイゾルデ」を作り、良い家庭人で人気作曲家だったオッフェ
ンバックはギリシャ神話からパロディ化した「地獄のオルフェ」を作ったのです。
ワーグナーと比べられるオッフェンバック(リッサン著)
観衆に共通知識がなければ、現状への共通の不満がなければパロディはできません。
神話は条件が備わっています。
150 年たった今、作曲当時とは社会情勢が全く違いますから、当時受けた諷刺も通じ
ないことが多く、それに我々のギリシャ神話への知識が曖昧です。2 重のハンデなの
に、この曲は大正期に浅草オペラとして輸入され、今も受けるのはどうしてか。題材
に普遍性があり、しかも音楽が優れて特異なせいでしょう。そこに私は興味をもちま
した。
筋ですが、竪琴の名人オルフェの新妻エウリディケが羊飼いに追われて、草むらに逃
げ込み、毒蛇にかまれて死んだ。彼は妻を慕う余り、地獄へいく。三途の川を竪琴の
音色で川守りを魅惑して渡り、閻魔女王も同じ手口で魅惑して閻魔大王に再度地球に
戻す許可をえたが、大王がつけた条件《「地上」にでるまで妻の顔を見ぬ》を妻への憧
れで果たせず、永遠の別れとなる。これが骨格です。
ギリシャ神話も作者が何人かいますが、私の読んだのはブルフィンチ作です。
モンテルヴェルディの「オルフェウス」はほぼこれと合っていますが、グルックでは
帰路の経緯が違い、妻が顔をみてくれぬ夫に愛の薄さを感じ、夫婦喧嘩になりそうに
なって振り向いてしまう、ことになっています。
ところがオッフェンバックになると、パロデイですから、全く裏返しの表現。最初か
ら夫は妻の死を喜ぶ心境です。
「世論」という役の女人に死んだ妻を見捨てる愚かさを
夫は諌められ、彼女の付き添いで先ず天国で大神ジュピターにあい、地獄にいる妻に
会いに行く許可をもらいます。地獄の妻は夫と別れたのを喜んでいます。妻の死には
わけがあり、羊飼いに憧れていた妻の気持ちを利用し、地獄の王ピュロスが妻を罠に
かけて殺したのでした。ピュロスがこの噂を否定するので、ジュピターは真偽の検証
に神々と地獄へおりる。ジュピターは持ち前の浮気心を発揮し、ハエに変身、囲われ
ていたエウレディケをといい仲になる。この
ところが妻エウレディケの死そのものに陰謀があった。妻が元来羊飼いに憧れていた
から、地獄の王ピュロスが羊飼いに変身し、妻エウレディケを草むらに追い込み、蛇
に咬ませる。死んだエウレディケと地獄で楽しもうという陰謀でした。
ジュピテルはピュロス陰謀の風評を聞いて、自分の悪行を棚に上げて、ピュロスを天
国オリンポスに呼び寄せ、不届きを責め、自分が地獄へ監督に行くと宣告。退屈して
いたオリンポスの住民は皆地獄の方が事件が多いからということで、ジュピターに同
行する。
ジュピターは美人エウレディケに関心があるから、一足早く地獄につき、ハエに変身
して彼女にいちゃつく。エウレディケも退屈しきっていたので、正体がバレタあとで
もハエの要求に応じ、天国へ来ないかとの誘いに応じる。そこへ天国の住人が到着、
全員でのハチャメチャな舞踏会となる。オルフェウスも女人「世間」とともに到着。
こんどは「世論」の矛先はジュピテルに向けられ、彼も「世論」の前にはなす術がな
く、エウレディケをオルフェウスに返す約束をし、但し地上に出るまで「後ろを振り
向かないこと」と指示、ただちに二人は地上へ向う。オルフェウスが振り向かないか
ら、ジュピターは雷を打上げる。驚いて振り向いた隙に、エウレディケは地獄にもど
る。結局エウレディケはオルフェウスのものでも、ジュピターのものでも、ピュロス
のものでもなくなり、彼女は酒の神バッカスの巫女になる。
後は全員参加の地獄でのハチャメチャのパーテイ。日本で有名な「天国と地獄」のメ
ロデイが賑やかに響き渡り、こうしてオルフェウスは地獄での騒ぎに(原題「地獄の
オルフェ」)巻き込まれ幕。
オッフェンバックの晩年
この話はギリシャ神話をバロディにするため、若干手を加えていますが、大筋は変わ
りません。どこにパロディとなる諷刺があるか?説明するのは野暮ですが、時代背景
もありますから、私なりにやってみます。
根本にナポレオンの 3 世治下の第 2 帝政下。当時は革命のあとの反動と新興ブルジョ
アジー登場という混合体制。他のどの時代より、風俗の乱れと偽善的道徳の矛盾にさ
らされていた社会があった。劇中のジュピターはナポレオン 3 世を暗示する。世論が
何もしらないか、知っても知らぬ振りをしていれがよいが、登場人物の女人「世論」
はなかなかに辛辣。
スタートは倦怠が生まれた夫婦にすりかえている。原話ではエウレディケに羊飼いア
リステが恋をしていたのが、本パロデイではエウレデイケもアリステに恋をしている。
神話でアリステは知の神アポロンの息子であるが、ここでは普通に市民。エウレディ
ケは気持ちを表明するため花輪を彼の家の戸口にかける。女性は謙虚の鏡であったの
が、自ら気持ちを表すなんて、当時はご法度で舞台は諷刺。神話ではオルフエウスと
エウレディケは仲のいい夫婦の典型で尊敬の対象。神話と反対の状況を設定して、尊
敬を揶揄し非神話化している。
本来はアリステの追いかけに困って、エウレディケは草のなかに逃げ込み毒蛇にかま
れたのに、二人の密会を邪魔するオルフェオの罠は逆の設定。オルフェウスも離婚し
たいと思っているが第ニ帝政下の善良な市民として世論が恐ろしい。エウレディケの
相手を虐めることで、我慢。罠を仕掛けたのを妻にしらせたのは世論を恐れての行動
であるのを暗示する。
妻の相手はアリステとオルフェフェウスは思っていたが、実はアリステに変装した地
獄の王プリュトンだった。巧みな仕組みで、彼女を罠にかけ殺し、地獄にくるよう仕
向けた。
妻を殺してしまったが、オルフォイスは結果として自由になった。しかし予期せぬ女
人「世論」の登場。《それじゃすまされませんよ。「世論」こそ最高の強者」という諷
刺である。彼は愛してもいない妻を迎えに地獄へ行くことになる。
。
「最後の遍歴騎士》
(1957 年作)
第2幕は天国であるオリンポス国。これは神話にはない。天使はそれぞれ雲に乗って、
平和で退屈な日々を過ごしている。朝帰りの神様もいる。ひとりダイアナが悲しそう。
ジュピターの娘でオリュンポス国のシンボルであった純潔な娘が地上でアクテオンと
密会しているのが知られ、体裁が悪いとジュピターは彼を鹿に変えてしまって、今夜
はダイアナが振られたからだ。神の世界も世間体優先の諷刺である。神話ではアクテ
オンがダイアナの水浴びを見たので彼女が彼を鹿に変えたのだが。
そこへ《人間の妻を騙して殺し、プリュトンが妾にした》という噂が流れ、ジュピタ
ーの妻ジュノンが夫の仕業と怒る。人間を欺くのはジュピターのよくやるところ。彼
の支配下にあるオリンポス国に不穏な空気がただよう。ジュピターが真相究明のため
派遣したメルキュオールが帰ってくる。彼は軽薄なロンドにのって登場。サウタレロ
のリズムで軽薄な報告をし、犯人は神の一員地獄を司るピリュトンと報告。彼はプリ
ュトン呼び寄せて弁明をきく。プリュトンは言いがかり、と無実を訴える。ジュピタ
ーは護摩化されず、訓戒をたれる。そこへジュピターに反抗的な神々の「ジュピター
体制反対」の叫び、彼らは神酒ネクタールや霊薬アンプロシアのみの味気ない日々に
不満を訴える。一方プリュトンは下界の葡萄酒やサラミをジュピターに勧める。反抗
する神々は、
《道徳をとくだけで自らは偽善》のジュピターを追及する。
おりしもオルフェが女人「世論」を連れて登場、
「世論」の前では神々も内輪もめを隠
さねばならない。神々は整然とならんで、オルフェの発言に耳を傾ける。彼はエウレ
ディケの返還を訴え、恰好をつけるジュピターは返還を命令。命令の実行を確認する
ため、地獄にジュピターと彼の神々がおりる。随行の希望者はあとをたたない。天国
の平凡な生活に飽きて、地獄の変化に憧れたからだ。ここの諷刺は大成功。価値体系
の逆転である。
地獄は天国は魅力的で、罪は道徳より楽しいことがクローズ・アップされる。
これはとんでもなきことでもない。当時はブルジョア階級が椿姫のような下層娼婦と
交わって品位をおとしていたのと似ている第 3 幕は地獄。舞台は地獄の王プリュトン
の閨房。彼は天国へ呼び出されて留守にされたエウレディケは退屈で死にそうで、オ
ルフェオが恋しくさえなる。召使ジョン・スティックしかいない。イギリスではやっ
た召使を使う流行を揶揄しているそうで、彼がエウレディケに気があり、しつっこく
絡むところに、プリュトンが帰宅、すぐ彼女を隠せと指示。一足遅れて、ジュピター
が到着。おマセな実子、キューピットが隠れている女を引っ張りだすにはキスの音が
いいと面白おかしく、挑発する。錠前を壊すのはジュピターの権限。彼は蠅に変身し、
密室に忍び込む。エウレディケは美しい蠅に魅了される。やがて正体がばれるが、一
緒に天国へ行くのを了解する。この幕は諷刺は少ない。しかしキューピットの歌やエ
ウレディケとジュピーターのやりとり、召使の誘惑などコメデイーの面白さはたっぷ
り味わえる。
第4幕は地獄での神々の乱痴気騒ぎ。音楽上にさまざまな工夫があり、神々は地獄の
快楽に酔う姿が舞台一杯に広がる。筋は前述の《振り向かないで》という条件の話だ
け、結局はエウレディケは誰のものにもならず、恋の火遊びをしただけで、当時のブ
ルジョア階級の女性を象徴している。ただ、終幕のカンカンは誰でも知っているくら
い、世界に知れ渡ったのは皮肉で、もともとパリの下町で1830年ころ出現した、
上流階級には相応しくない、好色で、淫らなダンスである。それがオッフェンバック
のおかげで、世紀末には裕福な旅行者相手のガイドブックにも採用され、高級娯楽の
ひとつになり、第一次大戦後には浅草オペラに入り込み、第二次世界大戦中には何と
小学校の運動会で使われ、今も盛ん。歴史の皮肉さを感じさせる。
DVD(私が見たもの)
エウレディケ:ナタリー・デセイ、オルフェウス:ヤン・ブロン、アリステ=プリュ
トン:ジャン=ポール・プシュクール、ジュピテター:ロラン・ナウリ、 マルク・ミ
ンコフスキー指揮リヨン国立歌劇場オケ、演出ペリ(97)
実際はデセイとナウリ夫妻の熱演
デセイ、ナウリのコンビ(実際の夫婦)で大変良くできている。ミンコフスキーの指
揮も秀逸。会話が多いオペレッタだから、字幕つきヴィデオでないと、我々の手に負
えないが、これは十分に楽しめる。1 幕は背景がなく、草むらを手動で動かす、シン
プルな装置が夫婦仲のいい加減さを示し、2 幕は雲の上の神様たちで、平穏で退屈な
情景、3 幕は鉄骨の地下牢のような地獄、ここで繰り広げられるデセイとナウリ夫婦
のセクシーでコミカルな動作は日本人にはどうかと思わせるほど、終幕はパリの安キ
ャバレーを思わせる雰囲気で神様がドタバタのカンカン踊りをみせる。これらオペレ
ッタの筋に必要なダンスとは別にバレーリーナらしき男女が曲芸的な踊りで入り込む。
何より見なければ実感がわかないが、これら全体が統一的に動き、芸術性を感じる。
だらけない。劇の流れによどみがなく、快適である。軽い芸術ではなく、高度な技能
をみせてくれます。
ほぼ同じスタッフ(世論がエヴァ・ポドル、キューピットがパトリシア・プテイボンに
変わっている)でのCDは面白いがやはり、わかり難い。
ジャック・オッフェンバックは 1819 年(自称は 21 年)ドイツのケルンに生まれ、父
はユダヤ人です。13 歳のときパリに出 10 年もの間自作のオペラを上演してもらおう
と、オペラ・コミック座の扉を叩くが徒労に終わる。そこでブッフ・パリジャン座を創
設、7 年たってみとめられる。その間 50 くらいのオペレッタを上演した。
ブッフマリジャンでの最初の作品は
「お入り下さい、紳士淑女さま」
「二人の盲人」(1855
年)など。
「天国と地獄」が現れるのは 32 番目(初演は 1958 年)改定は 79 番目(1874
年)
。前回とりあげた「ホフマン物語」
(オペラの風景())は 97 番目(1881 年)の
作品である。「天国と地獄」のあとにも「美しいエレーヌ」「ジェローるシュタイン女
大公」
「パリの生活」「ラ・ペリコール」などワーグナーの作品に匹敵する傑作を書い
ています。本稿で取り上げる機会があるでしょうか?(何せ日本語の資料が少ない。
「オッフェンバックとモルニ伯爵」は貴重な映像の一つ)