大規模水力発電所50周年 - J

[グローバルエッジ]
特別版
大規模水力発電所50周年
田子倉ダム・発電所
御母衣ダム・発電所
佐久間ダム・発電所
奥只見ダム・発電所
Global Edge 2010 特別版 Contents
大規模水力発電所50周年
❖[特集]
水力発電への期待
P4
Global Vision
今、目指すべき水力発電の未来
P12
西澤 潤一 × 北村 雅良
Opinion File
サステナブルな社会をつくる水力発電
P16
鈴木 篁
Opinion File
日本の土木技術の礎となった佐久間ダム その意義と成果
高橋 裕
❖奥只見発電所
P20
Focus on Scene
奥只見、水の恵み。
P22
Global Look
白銀の秘境を訪ねて〜新潟県魚沼市・奥只見〜
青木 奈緖
❖田子倉発電所
P28
J-POWERは1952年の設立以来、
全国で59カ所の水力
P30
大規模水力である、
奥只見発電所・田子倉発電所・御母衣
発電所などが、
近年相次いで運転開始から50周年を迎え
ています。
本冊子は、直近の弊社広報誌で取り上げました、特集
「水力エネルギーへの期待」
および、
奥只見発電所・田子倉
発電所・御母衣発電所のルポルタージュを集め、
大規模
水力発電所50周年を記念して再編集したものです。
Global Look
雪待ちの峠〜福島県・只見町〜
発電所を建設し、電気の供給に取り組んでまいりました。
J-POWERが初期に開発した発電所のうち、日本屈指の
Focus on Scene
水をたたえる只見町。
青木 奈緖
❖御母衣発電所
P38
Focus on Scene
晩秋にただずむ荘川桜。
P40
Global Look
花咲く里の水の恵み〜岐阜県高山市〜
P 4 -19
Golbal Edge 2010年秋号(No.23)より転載
P20 -27
Global Edge 2010年秋号(No.23)より転載
P28 -37
Global Edge 2010年冬号(No.20)より転載
P38 -47
Global Edge 2011年冬号(No.24)より転載
青木 奈緖
表紙・目次写真:前川彰一
満々と水をたたえる奥只見ダム。
低炭素社会 に貢献する
水力エネルギー
今︑
目指すべき
水力発電 の未来
J パワ ー が 会 社 草 創 期 に
米国の後をすぐに
追いかけようとせずに︑
自分なりに
研究の展開を図ったことが
よかったのだと思います
北村
周 年 を 迎え
建設した大規模なダムと発電所が︑
ここ数 年で相次いで
策会社でした︒戦 後の電気が足り
発 促 進 法に基づいてつくられた国
1950〜60年代が中心ですが︑
うした大規模ダムがつくられたのは
発電所を続々と建設したのです︒こ
半 導 体や光ファイバーとい
とが話題になっていたと思います︒
久 間 ダムや奥只見 ダムの建 設のこ
きりとは覚えていませんが︑当時佐
計画を立てた記憶があります︒はっ
一緒に只見川をさかのぼろうという
に地元の東北電力にお願いをして︑
院に入ってきた学 生たちが夏 休み
ね︒第2次世界 大戦 前にはドイツ
合 物の半 導体を使用したものです
西澤
あれと同じようなものでしょうか︒
ラジオの工作キットがありましたが︑
北村
ものを研究したわけです︒
ましたので︑私一人だけが全く違う
万
にも及ぶ大規模な水力
東北大学に入学したのが終
岡県にある天竜川をせき止めた佐
最初の大規模プロジェクトは︑静
活に入っておりました︒
大学を卒 業しましたから︑研 究生
あれは黄鉄鉱や方鉛鉱の化
久 間 ダムの建 設でした︒それから
しょうか︒
でトランジスタというものができた
振り 返って考えますと︑私が成
入して研 究を進め︑終 戦 時にはた
北村
水系只見川にある奥只見ダムや田
ましたでしょうか︒
当 時︑これらの大きなダム
福島県や新潟県を流れる阿賀野川
いへんな成果を上げ︑日本やドイツ
子 倉ダム︑岐 阜県の庄川水系にあ
× Kitamura Masayoshi
私が助 教 授のころに︑大 学
西澤
み ぼ ろ
る御母衣ダムといった大規模ダムを
Nishizawa Jun-ichi
実はお恥 ずかしい話なので
西澤
万〜
30
建設工事のニュースをお聞きになり
年︵昭和 年︶に制定された電源開
量が4億〜6億t︑発 電出 力が
ない︑エネルギーが足りないという
このころ先 生は東北大 学 大 学 院で
北村
でゲルマニウムが研究され︑通信に
Jパワーは元々︑1952
時 代に︑水 力エネルギーを開 発す
研究生活を送っていらしたのですね︒
うと︑すぐに西澤 先 生のお名 前が
利用できそうだということがわかっ
kW
北村
るために︑政 府の資 金を投入して
西澤
出てきます︒先生が半 導体を研究
ていました︒その話が米 国に伝 わ
40
とは大きな差がついていました︒
27
す︒恩 師から︑﹁ 米 国のベル研 究 所
48
私が子どものころに︑鉱石
大きなダムをいくつも建設しました︒
戦の年︵1945年︶で︑ 年には
しようと思われた︑そもそものきっ
も︑他の研究者は2本針をやってい
るダイオードです︒同じ研 究 室で
から始めました︒1本針は︑いわゆ
ほうがいいと考えて︑1本針の研究
ら︑1本針にまで戻って取り組んだ
ランジスタは複雑でわかりにくいか
構造でしたが︑私はこの2本針のト
ニウムの上に針を2本立てたような
た︒当時のトランジスタは︑ゲルマ
で︑あまり 熱 意を示しませんでし
はやりたくないと思っていましたの
りといいますか︑米 国の二番 煎じ
の始 まりです︒ところが若 気の至
そうだ﹂と聞かされたのがそもそも
ておりますので︑本日はとても楽し
ての水力 発 電には大 変 関心を持っ
地球温暖化問題やその解決策とし
西澤 私は全く専門外なのですが︑
伺っていきたいと思います︒
に考えていらっしゃるのか︑お話を
水 力エネルギーに対してどのよう
先生のご専門とは別になりますが︑
発明を実現されてきました︒西澤
研 究を 続けてこられ︑さまざまな
ED︶
︑光ファイバーなどの分野で
家で︑半導体や発光ダイオード︵L
ます︒西澤先生は電子工学の専門
マに対談させていただきたいと思い
ることから︑水力エネルギーをテー
50
り︑米国は豊富な資金と人材を投
次々に建設してまいりました︒貯水
西澤 潤一氏
北村 雅良
かけはどのよう なこと だったので
みにしておりました︒
上智大学特任教授
J-POWER 社長
V i s i o n
G l o b a l
4
5
Global Edge 2010年秋号(No.23)より転載
果 を 上 げることができたのは︑米
国の後をすぐに追いかけようとせ
ずに自分なりに研 究の展開を図っ
たことがよかったのだと思います︒
ダイオードはある方 向には電 気が
非 常にたくさん流れますが︑反対
向 きにはほとんど流れないという
性 質を持った半 導 体です︒その性
質を有効に活かすところから実 験
を始めたわけです︒我々が開 発し
たダイオードが最 初に採用された
のは︑通信 分野ではなく肥 料工場
です︒肥料工場では化学 反応を起
ガラス工場を見学に行った時のこと
です︒ガラスのパイプを何本か束に
して︑周りから火であぶり︑しゅっ
と引っ張ると︑そのまま細くなりま
す︒つまり︑組 成の違 うものを 組
み合わせても︑温めて伸ばすとその
ままの組成で小さくなるということ
を︑その時に学んだわけです︒
グラスファイバーも初めはある構
造を持ったものを太くつくり︑それ
を 細く 伸 ばしていきます︒ですか
ら︑世の中のなにげなく見えること
でも︑頭の中に入れておけば︑さま
閃かなければいけませんが︑前例が
します︒前 例がない時には自 分で
先生の業績の1つに光ファイバーの
ろいろな分野に広がっていきますが︑
北村
が実情です︒
にも徐々に関わっていったというの
り研 究が進んでから︑通信の分野
出すことはありませんでした︒かな
ら︑最初から通信の最先端に躍り
する時に利 用されました︒ですか
す︒そのために交 流を直 流に変 換
方 向に展 開していき︑半 導 体から
西澤
明されたのでしょうか︒
人の幼い妹たちに金太郎飴を買って
父親が東京出張のお土産として︑2
思いつきました︒私が大学生のころ︑
グラスファイバーは金太郎飴から
だったからかもしれません︒
らいたずらっ子 精 神がわりに旺盛
う分野に挑 戦したのは︑私が昔か
西澤
野ではないでしょうか︒
すが︑半導体とは全然違う研究分
繊維を束ねて光信号を通すわけで
ラスファイバー︶というのはガラス
いたと思います︒光ファイバー︵グ
環境はないし︑世の中は全然違って
がなければ︑現在のインターネット
発明があります︒もし光ファイバー
すね︒
通信 号 機にも使われているそうで
の開 発されたLEDが︑最 近は交
北村
制二高時代に︑東北大学理学部の
たのです︒もう1つのヒントは︑旧
スファイバーをつくるヒントになっ
太 郎 飴のつくり方が︑集 束 型グラ
郎の顔になっているのです︒この金
ができますが︑どこを切っても金太
らいで長さが何メートルもあるもの
伸 ばします︒最 後には直 径1㎝く
いなものをつくって︑それを徐々に
西澤
するわけですね︒
北村
常に太いものをつくるのです︒
郎 飴は 最 初 は 直 径
たのです︒ご存じでしょうか︑金太
きて︑そのつくり方を私たちに教え
氷の中に閉じこめられた古い時 代
にしてウイスキーを注ぐと︑氷の中
年ころです︒その氷をオンザロック
西澤
ています︒まずは前例がないかを探
西澤
らでしょうか︒
思うのですが︑先 生の場 合はどち
ない独創で行き着く方法があると
せるという到達の方法と︑どこにも
例を積み上げ︑集大成して完成さ
した︒発明や開発は︑いろいろな先
想して︑新しいものを生み出されま
太 郎 飴やガラス工場の見 聞から発
北村
たくさんあると思います︒
ざまに応用ができることがほかにも
あればそれで補えるからです︒実
光が出るということもわかってきま
西澤
の空気を分析してみようと思われ
こすために直 流の電気を使用しま
は︑光ファイバーの場合は︑その前
した︒しかし︑米 国 人が行った 最
るりとしたものと点々としたものの
たのです︒分析してみると︑氷がつ
その後︑先 生のお仕 事はい
半 導体の研究はさまざまな
太 くつくって︑それを 細 く
最初に巨大なのり巻きみた
それがLEDですね︒先 生
信号機には光源の表面がつ
から泡が出てきます︒山 本 先 生は
そうです︒1957〜58
そのどちらも必要だと考え
になりました︒光ファイバーも︑金
しいタイプのダイオードをおつくり
も︑違うやり 方で研 究し︑全く新
ニウムの利用法をヒントにしながら
先 生はベル研 究 所のゲルマ
に半導体レーザーがあったのです︒
初の研 究では︑周 りを 暗くしない
2種 類がありますが︑点々とした
くられた時 代が新しいほどたくさ
㎝くらいの非
私は1950年代には半 導 体にで
とわからないくらいの非常に暗い光
ほうがLEDです︒電 球 型の消 費
そのとおりですね︒全く 違
きるだけ高い周 波 数を発 信させる
しか発しませんでした︒
金太郎飴のつくり方が︑
集束型グラスファイバーを
つくるヒントに
なったのです
研 究 を 行っていたのです が︑19
使って固体メーサーを実現し︑マイ
私の弟が東北大学で同じ研究をし
かしいと思っていました︒たまたま
使われているかをよく示しています︒
りません︒いかに電 力が効 率 的に
にすれば同じ明るさで
とが判 明し︑先 生は強い危 惧の念
のCO 2濃度は年々高まっているこ
んCO 2が含まれるということがわ
クロ波の増 幅に成 功したという 論
ていましたので︑彼に﹁使用する結
北村
当 時 か ら 山 本 先 生 が そ う おっ
電力が約 Wなのに対して︑LED
文を発 表しました︒私はそれを読
晶の純度が低いのではないか﹂と伝
使用 電力がそんなに違うというお
しゃっていることは聞いておりまし
私はもっと光が出てこなければお
んで︑半 導 体なら連続 増 幅ができ
えたのです︒結 晶の純 度をあ げる
話で思いましたのは︑地球温暖化の
たが︑私が1990年に東北大 学
かりました︒つまり︑地球 大 気 中
ると確信して1957年に﹁半導体
とあっと驚くほど光が出ました︒同
ことです︒西澤先生はずいぶん早く
の総 長に就 任した時に︑他の大 学
Wにもな
メーサー﹂という名称で光増幅を特
じ電力で︑急に300倍ぐらいの光
からこの問題に関心をお持ちだった
× Kitamura Masayoshi
隊に参 加し︑彼らが南
若手研究者が南極探検
後︑先 生の研 究 室から
らっしゃいま し た︒ 戦
射学の世界的権 威がい
義一先 生という 大 気 放
西澤
言したのですが︑引き受け手がいな
﹁ぜひ継続して参加すべきだ﹂と提
そこで東 北大の評 議 会で︑私から
もってのほかだ﹂と批判されました︒
たとたん誰も参 加しなくなるとは
加していたのに︑先生が亡くなられ
いう重大なテーマの共 同 研 究に参
存命中は大気中のCO 2濃度上昇と
東北大学に山本
極の氷 を土産に持って
かったのです︒結局︑言い出した私
門外にもかかわらずデータを集め
が取り組まざるを得なくなり︑専
北村
て数 値 解 析を始めたのです︒その
それは初代の宗
谷の時代ですか︒
ました︒
帰ってきたことがあ り
の先生から﹁東北大学は山本先生が
ランプ方 式とLED方 式で
10
そうですね︒
を抱かれました︒
許出願しました︒当時は﹁レーザー﹂
が出るようになりました︒
Nishizawa Jun-ichi
北村 明るいLEDもそのころに発
2200年ぐらいには︑
大気中のCO 2濃度はかなり
危険な水準になるのではと
私は危惧しています
とも非常に大事ですね︒
ですから︑他の人の論 文を読むこ
イバーの発明につながったのです︒
えたところから︑集束型グラスファ
ザーを使って通信ができないかと考
言っていました︒この 半 導 体レー
という 言 葉 はな く︑﹁ メーサ ー﹂と
55年に米国のメイマンがルビーを
35
6
7
西澤 潤一(にしざわ・じゅんいち)
上智大学特任教授、東北大学名誉教授。1926年、宮城県生まれ。48年
東北大学工学部電気工学科卒業。
62〜90年、
東北大学教授。
90〜96年、
東北大学総長。半導体レーザー、光ファイバー、pinダイオード、SIT、SIT
サイリスタなどの発明を行う。同大学電気通信研究所所長、㈶半導体研
究振興会半導体研究所所長、岩手県立大学学長、首都大学東京学長を
歴任。2009年より現職。日本学士院賞、文化功労者顕彰、ジャック・A・
モートン賞、エジソン賞、文化勲章、勲一等瑞宝章など受章も多数。また、
米国の電気通信学会は功績を記念して、13人目の個人賞としてジュンイ
チ・ニシザワ・メダルを制定した。主な著書に『生み出す力』
(PHP新書、
2010年)
、
『戦略的独創開発』
(工業調査会、2006年)ほか。
70
分析によると︑2200年ぐらいに
は︑大気中のCO 2濃度はかなり危
電した電 気を送る方 法として︑交
直流であれば送電中の損失を低く
源を十分に開発すれば︑水力発電
北村
抑えることができますから︑交流よ
流送電ではなく直流送電を使うこ
包蔵水 力︵ 開 発 可 能な水 力 資 源の
りもはるかに長 距 離の送電ができ
だけで世界中の電力需要をまかな
量︶は︑まだかなりの余力がありま
ます︒大 陸 間にまたがるような長
とができるのではないでしょうか︒
す︒しかし︑
未開発の水力ポテンシャ
距離の送電も可能だろうと考えて
えるという結論にいたりました︒
北村
ルが賦 存するのが︑まだ電 気を必
います︒
険な水 準になるのではと私は危惧
西澤
ら地球温暖化には警 鐘を鳴らして
要としない地域であったり︑あるい
北村
常に高くなるのですか︒
積極的に進めることも重要です︒ま
排出の少ない原子力発電の開発を
はずっと調査を続けてきました︒
ブメントとなりましたが︑その間私
な真実﹄が公開されて本格的なムー
ア元米 国 副 大 統 領の映 画﹃不 都 合
増の話 題は沈 滞の時 代を経て︑ゴ
負しております︒その後︑CO 2急
いくらか喚起することができたと自
る雑 誌にも寄 稿しまして︑世 論も
した︒それから︑一般の方が読まれ
て非常に関心を持って聞いてくれま
懸念していたのですが︑案に相違し
の会 議では激しく非 難されるかと
いうのが私の主張ですから︑産油国
の化石燃料の使用を抑制すべきと
いというのです︒世界中で石油など
れるOPEC総会の場で話してほし
思われますか︒
じますが︑先生はこれについてどう
を及 ぼしてしまうという 問 題が生
の1つですね︒水力と同じくCO
大限 活用しようという考え方もそ
まだ世界に残っている包蔵水力を最
しゃるように︑発想を大きく変えて︑
換が必 要になります︒先 生のおっ
いう︑供給サイドでのエネルギー転
ガスを出さないものに変えていくと
であるエネルギー利用を︑温室効果
ては︑最 大の温 室効 果ガス発 生源
は間違いないと思います︒対策とし
が︑地球温暖化が進行していること
北 村 いろいろな仮 説はあります
て歩いているところです︒
私は今︑この構 想を世界に宣伝し
るには国際的な協力が不可欠です︒
西澤
分析の結果︑人体に危険な
た︑現在世界の発電の主力を担って
西澤
的な調整が難しいでしょうね︒
いる火力 発 電︑とくに石炭火力 発
ることを決めてはいけないと思いま
自 分でもいろいろ調べまし
おっしゃるように全世 界の
くらい高くなるという予 想が出ま
こられたわけですね︒
はヒマラヤやアフリカの奥地のよう
数の国にまたがる場 合が多いです
しています︒
した︒そのことを1989年に雑
西澤
に開発が難しい地域であったりと︑
し︑その場 合 送電先も複 数の国を
北村 地球大気中のCO 2濃度が非
誌にも書いて警 鐘を鳴らしたとこ
た︒水力発電ならCO 2をほとんど
実現には多くの困難もあるかと思
通ることになるでしょうから︑国際
エネルギーの転換と省エネ︑
そのどちらも
実現しなくてはいけない
と考えています
ろ︑大きな反 響があり︑さまざま
発生しないのではないかと考え︑そ
います︒
そうすると︑ずいぶん前か
なところから問い合わせをもらいま
のポテンシャルを素人ながら計算を
西澤
世界的な大河川は流域が複
した︒なんとOPECの総裁からも
してみたところ︑全世 界の水 力 資
電の効率をあげることでCO 2の排
す︒開 発に伴う痛みも出てくるわ
例えばヒマラヤの奥 地で発
電 話があり︑キプロス島で開 催さ
出を抑制したり︑CO 2回収貯留技
けですから︑慎 重に対応する姿 勢
地球温暖化問題を解決す
術の開 発を進め︑将来的には火力
が必要ですね︒
軽率に大規模開発を実施す
2
発 電所をCO 2ゼロエミッション電
ともと農民にあったそうですね︒
ところで︑川の水の利 用 権はも
あるいは︑全く新しい非CO 2系の
北村
源にすることも方法の1つでしょう︒
エネルギーや再生可能エネルギーを
りです︒古代メソポタミアやインダ
北村
西澤 私も同感です︒
いと考えています︒
そのどちらも実現しなくてはいけな
エネにも役に立っています︒
先生の開発されたLEDは︑この省
論もあります︒いわゆる省エネです︒
を変えなければいけない︑という議
だから︑資 源の使い方や 暮らし方
ルギーはいくらあっても足りません︒
界人口は増加していますから︑エネ
スでエネルギーを 使 用 すれ ば︑世
す︒もし︑世界 最 高水準の発電効
効 率が非 常に低いものが多いので
ていますが︑それらの国の発電所は
国を中心に急激な増加が見込まれ
後 もインドや 中 国︑あるいは途 上
の4割は石炭火力が担っており︑今
せん︒例えば︑世 界の発 電 電力 量
していくことも考えなくてはいけま
的な発電の技術を先進国から移転
います︒そうであるならば︑効 率
使用するな﹂というのは難しいと思
く 国の人たちに﹁ 化 石 燃 料 を 全く
北 村 これから経 済が発 展してい
西澤 ほんとうですね︒
味して考えなければいけません︒
非 常に大きなエネルギーを生み出
北村 大規模な水力開発を行えば︑
活用していくべきだと思っています︒
ですから︑水力発電の開発を急ぎ︑
に見れば水力 資 源が十分にあるの
も 考えています︒とにかく世 界 的
ら使 用し温 存していくべきだと私
るまでは︑化石 燃 料を節 約しなが
抜本的に解決する手段が開発され
難しいでしょうね︒ですから問題を
に化石燃料を使用し続けることは
出 量の点からも︑これまでと同 様
西澤 埋蔵量の点からも︑CO 2排
じことを意味しています︒
す︒これはCO 2排出量の抑制と同
炭の量ははるかに少なくてすみま
は水はほとんど消費していないわけ
低差のポテンシャルだけで︑実際に
西澤
戻っていきます︒
ほぼ全量が下流の放水口から川に
で水車と発電器を回転させた水は︑
北村
あとすぐに川に返しているのです︒
が︑発 電 用の水は︑発 電に用いた
しまい戻ってくることはありません
電以外の利用では水は消 費されて
なる性 質があります︒つまり︑発
ほかの水の利用法とは根 本 的に異
西澤
のものでした︒
はエネルギーではなくて農業のため
ス︑あるいは黄河のいずれでも︑水
歴 史 的にはおっしゃるとお
開発しようという動きもあります︒
れている状況はすべて違います︒発
率を誇る当社の石炭火力発電技術
すことができます︒その一方で周囲
です︒
一方で︑今までと同じようなペー
展段階の異なる国が百数十カ国も
を 移 転することができれば︑同じ
の自然環境や地域社会にまで影響
同 時に︑世界の国々の置か
× Kitamura Masayoshi
水力発電で利用するのは高
はい︑上流で取 水し発 電所
発電に水を用いることには︑
あるのですから︑地理的 条 件や歴
量の電 気をつくるのに使 用する石
私はエネルギーの転換と省エネ︑
史の違いなど︑さまざまなことを加
Nishizawa Jun-ichi
8
9
可 欠ですから︑もっと水を総 合 的
すし︑食 料 生産にとっても水は不
も困っている地域もたくさんありま
いずれにせよ世界には飲料水に
す ね︒ 私 た ち が
北村 おっしゃるとおりで
流れ続けるということです︒
地に降り︑川はとうとうと
雲 になり︑また 雨 となって
年前に
に大事に使うことを考えなければ
世界にはまだまだ未利用の
万
つくったダムや水力発電所
は︑設備出力としては
では大規模開発が可能な地点はほ
電所の設 備出 力は
水力発電所である当社の奥只見発
万
に増
万 ︵当初
とんど開 発され尽くしてしまった
を2003 年 に
36
年間の記録を累積してみると︑
全く同じ水 量を使っても︑発 電出
力を上げ︑発電電力量も5%程度
に実施しました︒
こうした一括更新工事による水力
発電所のリニューアルの取り組みも︑
これからの水力開発の新しい形の1
増やせることがわかりました︒
只見川に田子 倉ダムという大き
つではないかと思っています︒これ
200億 以上の電気をつくってき
どの主要 機器を順次最 新のものに
卵という意味で︑当社では﹁コロン
もありませんでした︒コロンブスの
まで︑このような発 想は世 界 的に
なダムがあります︒ここでは現在︑
なところが多く︑1つひとつが生み
ました︒そして現在も発電していま
4基ある水 車・発 電機・変圧器な
出す電気の量も大変小さなものに
更 新する工事を進めており︑これ
ブス計画﹂と名づけて︑他の水力発
すし︑これからもずっと発電し続け
までに3基の工事が完了したとこ
電所にも適用できないか検 討して
なっています︒それでも可能な限り
ろです︒この一括更新工事によって︑
西澤
北村
ころだと思います︒
5%ほど増やすことができました︒
用しながら︑発 電電力量を全体で
思います︒昔の 技 術でつくった 発
西澤
それが水力 発 電のすごいと
くなってしまいますが︑水という資
進 歩しましたので︑例えば水 車の
同 様の取り組みは︑北海道の十勝
いるところです︒
源はずっと地球を循環し続けている
羽根の設計を工夫したり︑発 電機
川水系にある糠 平 発電所でもすで
今までと同じダム︑同じ水 量を使
点で全く違いますね︒水力はまさに
自体の効率が向上することにより︑
います︒世 界 中の人々に︑経 済 価
我々Jパワーグループの仕
励ましたいとも思っています︒
をしてきたのだということを伝えて︑
本の若 者に︑昔 我々はこんなこと
私の気 持ちです︒また︑現 代の日
育をしていきたいというのが︑今の
発 電量を5%程 度上げることは可
電所を現在の技術で再開発すれば︑
それは良い発 想をされたと
循環エネルギーなのです︒蒸発して
いという話が必ずついてきます︒ク
値よりもレベルの高い価値で判断し
年前よりも技術が
能だと思います︒発電量が毎年5%
リ ーンでカーボンフリ ー なエネル
てもらいたいと思いますが︑なかな
また︑
上積みされるのですから決して小
ギーであるというプラスの価値を︑
か難しいことですね︒とにかく根気
ぬか びら
さな数 字ではありません︒検 討す
社 会 全体にきちんと評 価していた
よく世の中にアピールしていくこと
る価値は大いにありますね︒
だければ︑国内の未利用水力資源
北村
事はエネルギーをつくることですか
北村 水力はCO 2を排出しない再
ですね︒手 段は税︑課 徴
策や制度設計に関わる話
は技 術の話ではなくて︑多 分に政
北村 おっしゃるとおりです︒これ
きるのではないかと思います︒
優 先して使うようにすることもで
しょうね︒他の電 源よりも水 力を
すれ ば︑選 択 肢が広がってくるで
リーという価値を付与して再評価
現 在 使用 中の水 力にもカーボンフ
破門を解いたからだというのです︒
レオ・ガリレイに対して謝罪をして
ネ・パウロ2世が1992年にガリ
おっしゃったのは︑ローマ法王ヨハ
智大 学の担当の方が冗談めかして
だいたのかと聞いてみましたら︑上
でした︒なぜ私にお声をかけていた
トリックとは全く 縁がありません
クの学 校ですが︑これまで私はカ
存じのように上智 大 学はカトリッ
学 特 任 教授を拝 命しています︒ご
科学技術の力と結びつくと︑きっと
命感のようなものがあって︑それが
実は私は︑2009年から上智大
生可 能エネルギーとして非 常に優
金︑排 出 量取 引などとい
つまりカトリックは︑宗教もこれか
未 開 発の水 力や︑あるいは
れたものです︒その発 電量を 増や
ろいろあるかと思います
らは自然科学をきちんと認めて一緒
ら︑そのベースには科学技術があり
すために当社も一所懸命チャレンジ
が︑カーボンフリ ーであ
にやっていかなくてはいけないこと
そ︑私たちはいっそう︑地
西澤
教も必要ですし︑同時に最先 端の
意 味があることだと思います︒宗
い教 育を実 現していくのは非 常に
︵2010年9月9日実施︶
ざいました︒
西 澤 こちらこそ︑ありがとう ご
とうございました︒
いきたいと思います︒本日はありが
らのエネルギーづくりに取り組んで
という強い使命感を持って︑これか
ての挑戦に加えて︑人々の役に立つ
力で解 決しようという技 術 者とし
と思います︒新しい問 題を 技 術の
い発明に結びつくことができるのだ
先 生の実現されたようなすばらし
く感じています︒信念︑あるいは使
と大きな理念や理想が大切だと強
加えて︑
経済価値だけではなく︑
もっ
れるのだと確信しています︒それに
のエネルギーを担っていく企業にな
て取り組むことで初めて︑次の時代
技術開発や研究開発に全力を挙げ
ます︒Jパワーグループ全体が常に
しているのですが︑開発コストが高
ることに経済的な価値を
に気づいたのだということを言いた
宗教を中心にして教育してきた
球温暖化の防 止という道
科 学 技 術も大 事だと思っています
大学が︑理工科系も包括した新し
義的な責任を念頭に置か
ので︑両 者 を 両 立させながら︑教
× Kitamura Masayoshi
なくてはいけないと思って
そうであるからこ
を感じています︒
込まれないというジレンマ
付 与しないと︑なかなか
西澤
が重要だと思います︒
西澤
田子倉ダム・発電所(福島県)
の開発も促進されると思うのです︒
化石系資源は消費したらな
力の開発が進められています︒
ることができるのです︒
の
設︶ですが︑運転開始以来これまで
kW
kW
56
有 効に使おうということで中小水
もありますが︑落 差や水量の小さ
包蔵水力は計算上はまだ何千万
万
例えば︑日 本 最 大の一般
います︒
なしに発電を続けてくれて
30
と言われています︒国 内の未 利用
包 蔵 水 力があります︒一方︑日 本
北村
昔の技術でつくった発電所を
規模で︑原子力発電所が
現在の技術で再開発すれば︑100万 クラスであるの
と比較すれば小さなもので
発電量を5%程度
す︒しかし水力発電所は川
上げることは可能だと
の流れがある限り︑燃料も
思います
いけませんね︒
50
56
かったのですね︒
人々の役に立つという
強い使命感を持って︑
これからのエネルギーづくりに
取り組んでいきたい
50
経 済の仕組みの中に組み
Nishizawa Jun-ichi
構成:豊岡 昭彦
写真:斎藤 泉
kW
kWh
10
田子倉発電所では、発電機などの主要機器の更新工事が順次行われている。
11
kW
kW
50
kW
戦後日本を支えた
日本の水力
水力発電はクリーンで再生可能
史と将 来の可 能 性についてお話を
電気の量︶を比べると水力は原子力
程 度でも︑発 電 電 力 量︵ 発 電した
です︒原
です︒水力発
電は世界の電力供給をしっかり支
子力は約2・7兆
す電力量は約3・5兆
しかし世界の水力発電の生み出
因なのかもしれません︒
軽視されがちなのは︑このことが原
のほぼ4分の1です︒日本で水力が
伺った︒
戦後の復興の
基礎を築いたのは水力発電
﹁日 本の水 力 発 電についてお話し
な上︑エネルギー自給率の低い日本
にとって貴重な純国産エネルギーだ︒
する前提として︑まず数 字をあげ
ておきましょう︒日本の水力発電の
通商産業省で戦後の電力再編成や
全国の包蔵水力調査に関わるなど︑
︑その
えている柱 だということがわかり
設 備出 力は約4800万
うち約半分が揚 水発 電ですが︑こ
ます﹂
水力発電とともに人生を歩み︑今
も数々の提言を行っている未来エネ
れは原子力発電所の設備出力とほ
たかむら
年︶当時の電
︑火 力が約400
でした︒発 電電力量でも水力
(64.6%)
年に完 成した佐 久 間 ダムです︒J
と私は思います﹂
を進めた高 碕さんは偉 大であった
水力 発 電用のダムは1950〜
初の本格的機械化施工に挑みまし
するとともに技 術 者も招き︑日本
国のアトキンソン社の機 械を 輸 入
川の仮 締め切り 難工事のため︑米
﹁有名な黒部︵黒四︶ダムを例にあ
したのだと鈴木さんは言う︒
した人々の心意気があってこそ完成
実 現したのではなく︑建 設に従 事
だがこれらのダムは機 械 だけで
70 年 代 にかけて 多 数 建 設 さ れ︑
げてみましょう︒黒四ダムは黒 部
日本の大規模ダムのほとんどはこの
た︒その 結 果︑3 年 という 短い期
Jパワー︵電源開発株式会社︶設
川の奥深い秘境に計画されたので︑
時 期に完 成している︒その最 初が
間でダムを完成させることができま
立の根拠法となった電源開発促進
建設に要する膨大な資材を搬送す
佐久間ダムであった︒
した︒これが国 内の大規 模土木 機
法では︑会社設立の目的を﹁只見川
こう し
るのに北アルプスを貫 通するトン
佐久間ダム▶1956年完成。静岡県天竜川にある、高さ
155.5mの重力式コンクリートダム。最大出力は35万
kW。
﹁ 国 内で高さ100メートルを超
鈴木 篁
その他の河川等に係る大規模な又
械施工の嚆矢となったのですが︑前
は︑﹃ あ ばれ天 竜 ﹄と呼 ばれた天 竜
パワー初代総 裁の高碕達之助さん
わゆる﹃水主火従﹄と呼ばれた時代
力は水力発電が担っていました︒い
が7〜8割を占め︑電力 供 給の主
万
が約600万
源構成を見ると︑設備出力は水力
﹁1945年︵昭和
の大規模ダムの建設が計画された︒
保するべく︑佐 久 間や奥只見など
な電力を潤沢な水資源を用いて確
力しかなかった︒戦 後 復 興に必要
ことのできる国 産 資 源は石炭と水
敗戦後の日本には︑発電に使う
ルギー研究会代表 鈴木 篁 さんに︑
年︶水力と火力の発電電力
火力
1億7,932万kW
(71.93%)
Global Edge 2010年秋号(No.23)より転載
12
2008年
(平成20年)
Tatal 2億7,751万kW
1975年
(昭和50年)
Total 1億1,229万kW
1945年
(昭和20年)
Total 1,038万kW
ぼ同じです︒ただし設 備出力は同
︵昭和
量が逆転したのです﹂
(38.05%)
火力
395万kW
火力
8,077万kW
(61.95%)
水力
643万kW
(17.3%)
(22.14%)
(0.8%)
(0.04%)
(17.3%)
水力
4,795万kW
水力
2,486万kW
その他
230万kW
原子力
4,794万kW
(5.89%)
kWh
ネルを掘削する必要がありました︒
大規模ダム建設に込めた
心意気
20
その他
5万kW
出典:電気事業便覧(平成16年度版)
kWh
水力エネルギー利用のこれまでの歴
でした︒政 府は1952年に電 源
開発促進法を制定して積極的な水
力発電開発をめざし︑また戦 後の
高インフレに対応すべく︑1953
年に資産再評価法を制定すること
で︑必要となる莫大な開発 資 金を
kW
例がない中で︑躊 躇せず本 格 導入
(すずき・たかむら)
えた最初の大規模ダムが︑1956
奥只見ダム▶1960年完成。新潟県と福島県の県境にあ
る、阿賀野川水系の重力式コンクリートダム。高さ157m。
最大出力は56万kW。
確保しました﹂
39
は実 施の困 難な電 源 開 発 ﹂と条 文
Opinion File
に定めていた︒設立当初のJパワー
が︑水力発 電の開 発を念頭に置い
たものであったことが見て取れる︒
﹁佐久間ダムや奥只見ダム︑黒部
ダムなど︑日本を代表する大規 模
ダムが続々と建設され︑復 興と高
度 成 長の礎を築きました︒その礎
の上に立ち高度経済成長を遂げる
なかで︑急拡大を続ける電力需要
に対応すべく重油を使った火力 発
電所が新設され︑ついに1964年
kW
原子力
661万kW
◆年代別発電施設能力構成比
kW
未来エネルギー研究会(FEWS)
代表。1923年、静岡県生まれ。
1940年、
浜松一中
(現浜松北高)
卒業。1944年、旧制第三高等学
校理科甲類卒業。1947年(昭和
22年)
、北海道大学工学部土木
卒業。同年、商工省(後の通商産
業省、経済産業省)電力局水力
課入省。戦後電力再編成(9電力
発足)
、公営電気復活、自家発電、
電源開発株式会社の発足にとも
なう水力地点の策定・選定を手
がけたほか、第4次包蔵水力調
査を実施。その間1962〜1965
年、経済企画庁水資源局水資源
課出向。1972年、通商産業省水
力課長を退官後、㈱新日本技術
コンサルタント海外担当常務、
㈳電力土木技術協会専務理事
兼副会長などを歴任。2008年
より現職。
http://homepage2.nifty.
com/w-hydroplus/
御母衣ダム▶1961年完成。岐阜県、高さ131mのロック
フィルダム。最大出力は21.5万kW。
13
未来エネルギー研究会代表 鈴木 篁さん
サステナブル な社会 をつくる水力発電
││将来 に向けた議論 を始める時
Opinion File
このトンネルの工事 中︑山 脈の中
り︑原 点に返って再 考する必要が
を習 得しました︒しかも水力発 電
るのは3・5兆
で︑包 蔵 水 力の
地熱
水力
きた︒
造を加え︑自 然を資 源に変換して
在の世界の全発電電力量
に用いることができたとしたら︑現
にこの莫大な包蔵水力を全部発電
本︒そのエネルギー 自 給 率は原子
%にも満たな
人口の減少と高齢化が進展する日
狭い国 土と少ない資 源︑そして
﹁ 例えば石 炭はそのままではただ
カバーすることも可 能です︒地球
力発電を含めても
古いダムをまとめてかさ上げし大き
2
31
中年米
5,670
3,780
398
11
67
北 米
6,150
3,120
597
19
51
西 欧
4,360
1,430
455
32
33
3,940
2,190
297
14
56
718
134
92
69
19
合 計
48,224
19,390
2,236
12
40
子力水力および再生可能の自 然エ
可 能エネルギーの旗 手として水 力
会における成 果につながる︒再 生
タを更 新することが︑
年 先の社
ネルギーへと代わると思っています︒
﹁宝﹂だ︒今その量を調査し基礎デー
水 力 資 源は地 球に賦 与された
ら着手するのが﹃着手小局﹄です﹂
水 力 調 査のような手近なところか
旧ソ連
日 本
するために︑水 力 発 電が果たしう
53
を
の石です︒しかし︑石 炭 を 燃 焼し
温暖化の原因であるCO 2の増加を
い︒社 会の変 革 期を迎える日 本が
ています︒この数字︵下表参照︶は
なダムにするなど見直しを図ること
3,140
兆
熱エネルギーに変換することで︑産
抑制する観点からも︑水力発電の
は考えている︒
1980年の古い調査のデータです︒
で︑水 資 源の利用 効 率を高めるこ
10,118
自然を資源に変えること
鈴 木さんは︑昨 今のダムをめぐ
業革命を実現し今日の豊かな社会
﹁化石燃料は消耗資源です︒省資
一部新しい数字もありますが完全に
とができる可 能 性もあります︒ま
アフリカ
億年
源と地球温暖化抑制の両観点から
は信用できません︒もっと精査して
た︑水車や発電機も技術が進み効
億人を経て
26
﹁ダムをどう 考えるかは︑
日本をサステナブルな社会にする
確実な調査結果が必要です︒人類
率が向上していますから︑古い水力
ります︒このような場 合︑例えば
ために︑水力を生かす知恵があっ
が地球環 境の危 機に直面している
発 電所の機器を更 新することで発
%にとどまっ
てしかるべきではないでしょうか︒
今こそ︑日 本および世界の包蔵水
電電力量を増やすことも可能です﹂
%︑日 本で
具体的に申し上げると︑将来を見
力調査を再調査してその実態を明
る役 割は大きいはずだと鈴 木さん
据えて今こそ新たな観点で包蔵水
事だと鈴木さんは語る︒
集めて︑議論を重ねていくことが大
ま ず︑しっかりとしたデータを
新たな包蔵水力調査を行うこと
を考えるべき時だと思います﹂
らかにし︑水力開発促進の諸方 策
年ごと
力調査を見直すべきだと考えてい
ます﹂
〜
で︑どのようなことが可能となるだ
葉があります︒将 来︑地球人口は
日本では過去概ね
に︑技術の進歩や変化する電力事
ろうか︒
億人から約
﹁
﹃構想大局・着手小局﹄という言
情の要 請を踏まえつつ5度の包 蔵
現在の
億人 台に︑日 本の場 合は1・3
10
また︑古い水 力 発 電所には︑建
億人が0・5億人台に落ち着くと
39
る国が多いのです︒それに︑これま
心です︒以前は大きなダムを建 設
をいかにうまく使うかが技 術の核
﹁水力発 電は︑地形つまり高低 差
年︶
水力調 査が行われてきたが︑最 後
に行われた1980年︵昭和
年間行われ
390
発 電の持つ価 値をあらためて真 剣
予 想されています︒その頃の電 力
1,500
こうしたビジョンが﹃構想大局﹄で
することができなかった地点でも︑
オセアニア
設時の事情により水力資源が十分
ていない︒
32
での包蔵水力調 査の結果は︑理論
エネルギー源は︑化 石 燃 料から原
7
に見直す必要がある︒
今の技術を用いれば建設が可能な
396
あり︑そのビジョンを踏まえて包蔵
﹁包蔵水力と既開発の水力の比率
5,340
有 効に活用されていない場 合もあ
Opinion File
上想定される包蔵水力に対し︑世
場合もあります︒
30
16,486
アジア
c/b
b/a
(%) (%)
既開発
(c)
界で
る議論が一面的にすぎるのではない
サステナビリティを支える
水力発電
1 当たりのCO 2排出量
原子力
50
14
水力発電は非化石エネルギーの中でもCO2排出量が最も少なく、太陽光発電の
約4分の1、風力発電の約5分の2、原子力発電の約2分の1程度。
サステナブルな社会をつくる水力発電
前 に 地 球 が 誕 生 して 以 来︑ 猿 人︑
あると思います︒
もクロマニョン人は︑生物としての
は水そのものを 消 費するのではな
原人︑旧人︑新人を経てクロマニョ
にわたりストップし︑ダム自 体の
適応進 化に加えて︑言 語を用いて
く︑水が高いところから低いところ
央で破砕帯にあたり大湧水を生じ
先 行きも危ぶまれるほどでしたが
集団化し自然環境に対抗していく
に流れ落ちる時の位置エネルギー︑
石炭と同 様に︑現代人は水をエ
その難工事のさなか︑当 時の関 西
文化的・社 会的戦 略を持つように
つま り﹃ 落 差 ﹄とい う 地 球 の 形 を
ン人︵現代人︶にまでいたる人類の
電力社長太田 垣士郎さんが現場へ
なりました︒資 源の獲 得もその戦
資源に変換して利用するものです︒
るという重大事態に直面しました︒
来て︑﹃建設資 金のことは心配する
略の1つです︒同 時 代に生存して
使 用すればなくなってしまう化石
ネルギーに変 換して利 用すること
な︒しかし 紙一枚︑鉛 筆一本 も 粗
いたネアンデルタール人は自然から
燃料と異なり︑水力は未来永劫に
生き 様に関 係しています︒そもそ
末にするな﹄と不 安に沈む工事 関
自 立する力をもつことなく︑自 然
使える再 生可 能なエネルギーであ
止水に取り組むあいだ工事は長期
係者の士気をおおいに鼓 舞︑激励
のままで淘汰され絶滅しましたが︑
り︑その潜在力は膨大です︒
征服型資 源戦 略を手にすることで
おお た がき
する演 説をしたといいます︒その
クロマニョン人は言語とともにこの
の心意 気を感じ︑涙がこぼれたそ
今日の繁栄を極めました﹂
現在世界で発電に利用されてい
演 説を聞いた人々は︑太田垣さん
うです︒このような人々の心意 気
%でしかありません︒仮
風力
今 後もサステナブルな発展を維 持
〜
11
100
開 発の優先 度を上げるほうがよい
約
200
を築いたのです︒資 源利用を自 然
現代人は生存のために自然に改
900
かと危惧している︒
も︑黒部ダムの難工事を支えたも
13
38
20
LNG
LNG
太陽光
火力(汽力) 火力(複合)
石油
火力
98
25
発電 石 炭
種類 火 力
376
476
300
123
43
79
0
695
400
設備・運用
kWh 700
発電燃料燃焼
738
800
474
864
500
599
600
943
1,000
単位:g-CO2 /kWh 出典:電力中央研究所報告書
◆各種電源別CO2排出量
単位:10億kWh 出典:W.E.C.(1980年)
kWh
を見ると︑まだまだ開 発 余地のあ
の第5次調査以降︑
90
包蔵水力
(b)
18
のの1つなのです﹂
kWh
のではないでしょうか﹂
19
65
理論包蔵水力
(a)
19
破 壊と決め付けるのは短絡的であ
18
80
◆世界の包蔵水力
40
46
30
55
これまでの調査で判明した世界の包蔵水力は19兆kWh。理論値(48兆
kWh)よりもはるかに小さい。しかも、そのうち現在までに利用されている
のは3.5兆kWh(表中の1980年値では2.2兆kWh)にすぎない。
写真:吉田 敬(鈴木氏の写真)
取材・文:豊岡 昭彦
15
20
30
は︑日 本に唯一豊 富にある国 産 資
源︑水を利用してエネルギーを供給
源開発促進法を制定しました︒資
すべきだと 考え︑1952年に電
本 年はJパワーが大規 模ダムの
源の少ない日 本でも︑雨や 雪はた
電力不足を解消するため
水力エネルギーを活用
先鞭として︑奥只見ダム︵新潟県/
くさん降ります︒これを水力発 電
に用いてエネルギーを生み出し︑工
福島県︶を建設してからちょうど
年目︑佐久間ダム︵静岡県︶を完成
業を興し︑生活 水 準を上げていこ
う︑というのが電 源 開 発 促 進法の
設が︑敗 戦 後 うちひしがれていた
敗戦から復興し高度成長期を迎え
遂げ︑1956年4月には佐 久 間
日本国民の気持ちを奮い立たせた︑
趣旨です︒同時 期に政 府は︑大規
発株式会社︵以下︑Jパワー︶を設
発電所が営業運転を開始した︒発
た時︑電 力エネルギーの供 給に多
ム︒その中でも最 初に建 設された
立しました︒そして同 社がまず手
ということです︒つまり︑日本人に
佐久間ダムの持つ土木 技 術上の意
万 ︑年間発生電力量
電出力は
ず申し上げておきたいと思います﹂
勇気を与えたのです︒そのことをま
所として日本最大級を誇っている︒
日本は戦 争に負け︑国内に残さ
で︑現在でも水力発電
﹁私は佐久間ダムが日本に与えた
れた資 源は石炭と水力しかないと
億
影 響は︑数 字で表すことができな
いう状態︒しかしそれまでにつくら
は約
い︑たいへん大きなものであったと
れた発 電所は規 模の小さいものが
高 橋 裕先生
がけたのが佐久間ダムです﹂
る東京大学名誉教授
府と9電力 会 社の出 資でJパワー
思います︒日本に巨大な水力エネル
多く︑国内の水力資源はまだ十分
出せることは知られていた︒
ば︑莫 大な水 力エネルギーを生み
を利用し︑ダムをつくって発電すれ
からあった︒天 竜川の豊 富な水 量
はかかるという工事を3年でやり
は︑洪水が来る前にすばやく仮 排
地でダム建 設を成 功させるために
水が発生します︒その建設困 難な
時︑梅 雨の時︑雪 解けの時にも洪
ず洪 水が起きたからです︒台風の
れ天竜﹄と言われるように︑毎年必
筆 すべきなのは︑佐 久 間 ダムの建
たことはもちろん重 要ですが︑特
き︑カリフォルニアを中心に土木会
高碕は1952年秋に米国に赴
間建設所長に任命したのです﹂
Jパワーに理 事として招き︑佐 久
海道電力副社長だった永田さんを
と高碕さんは判断していました︒北
土木 技 術 者は永田さんしかいない
地に建設しようという計画は戦 前
一方で︑大 規 模 ダムを 佐 久 間の
(たかはし・ゆたか)
不足が深 刻でした︒私も経 験しま
﹁天竜川が流れる佐久間の渓谷に
水路︵ダム建設中に河川を迂回させ
社やダム現場の大型土木機械を視
高橋 裕
﹁ 戦 争が終わってしばらくは電 力
したが︑夜試験勉強をしていても︑
が設 立され︑そのわずか7カ月 後
ギーをもたらし︑また革 新 的なダ
年︶9月︑政
1時 間ぐらい停 電して5分点 灯す
の1953年4月には佐 久 間 ダム
に活用されていなかった︒
ダムをつくることは大 変 困 難と考
るための水路︶を完成させることが
察︒最 終 的にアトキンソン社から
年
えられていました︒なぜなら﹃あば
鍵となります︒結 局︑佐 久 間 ダム
助と︑佐 久 間 ダム・発 電所工事の
れはJパワー初代 総 裁の高 碕 達之
械の活躍によるところが大きい︒こ
は︑米国から導入した大型土木 機
建設期間を大幅に短縮できたの
削機です︒特にドリルジャンボを用
面を一度に掘削することのできる掘
いうのは︑トンネルを掘る時に全断
械を見たのです︒ドリルジャンボと
ドリルジャンボといった大型土木機
トラック︑ブルドーザー︑それから
手はずも整えた︒
建設所長であった永田 年 が相談し
いた工事の速さには皆驚かされたよ
したから︑この建設のスピードは驚
て決めたアイデアだったという︒
うです︒
すすむ
﹁このような大工事を 任せられる
﹁この時︑日 本 人は初めてダンプ
本に招請し︑直接指 導してもらう
45
異的なものでした﹂
10
人日
土木機械を購入することを決めた︒
年以上かかると言われていま
は3年で完 成しました︒当 時︑あ
J-POWER(電源開発)初代総裁
高碕達之助
東京大学名誉教授。1927年、静
岡県生まれ。50年、東京大学第
二工学部土木工学科卒業。55
年、同大学大学院研究奨学生課
程修了、工学部専任講師就任。
61年、同大学助教授。64年、工
学博士、68〜87年、東京大学教
授。退官後、同大学名誉教授と
芝浦工業大学教授を歴任。河川
審議会委員、国際水資源学会理
事、国連大学上席学術顧問など
国内外の公職を務めた。多数の
著書の中で、
『河川工学』
(90年、
東京大学出版会)が土木学会出
版文化賞(92年)
、
『現代日本土
木史』
(90年、彰国社)が明治村
賞(94年)を受賞。98年には土
木学会の最高賞「土木学会功績
賞」を、2000年のIWRA(国際
水資源学会)総会ではアジア初
のクリスタル・ドロップ賞を受
賞した。
「水」に関する国際的な
権威で、世界水会議理事、国際
水資源学会副会長としても活躍
した。専門は河川工学で、治水・
水資源問題・水不足問題・洪水
問題・水関連の紛争問題など、
幅広く研究を行っている。
佐久間建設所長 永田 年
(写真提供:共同通信社)
は
同時に︑同社から技術者を
それまでの常識からすれば
1952年︵昭和
るような状 態で︑日本 中で電力が
ム建設技 術を導入する契 機となっ
にお話を伺った︒
kW
の工事が開始された︒
佐久間ダムは
日本人に勇気を与えた
kWh 35
れだけの規 模のダムを建 設するに
10
27
Opinion File
経 済 発 展していくには潤 沢なエネ
ルギーが不 可 欠です︒そこで政 府
佐久間ダム建設には、日本で初めてダンプトラックやシャベルカー、
ドリルジャンボ(写真左は削岩機)が使われた。
不足していました︒産業を復興し︑
14
義について︑河川工学の専門家であ
模水力開発の担い手として電源開
してから
年 目にあたる︒日 本が
50
大な貢 献をしたこれらの大規 模ダ
54
16
東京大学名誉教授 高橋 裕さん
17
日本 の土木技術 の礎 となった佐久間ダム
意義 と成果
その
Opinion File
Global Edge 2010年秋号(No.23)より転載
日本の土木技術の礎となった佐久間ダム その意義と成果
工事に携 わる全員が一致 団 結して
こうして導入した初めての機械に︑
しかったのだと私は思います︒また︑
の機 械の輸入を決断したことが正
体が困 難であった時 代に︑これら
どがあり米国から輸入すること自
しいのではありません︒外貨制限な
械化施工の様子を映像として公開
今までにない日本 最初の本格的機
り口に向かって自動で運ばれていく︑
ると︑掘削した土や岩がトンネル入
ルジャンボがトンネルの全断面を削
入ったのも世界初です︒切羽でドリ
ンネル掘削の一番先端︶へカメラが
﹁ ド リル ジャンボが 働 く 切 羽︵ ト
ことも大きな功績だったと語る︒
向き合うことができたのは︑日本の
したのです︒これが何より画期的で
しかし︑大型土木 機 械がすばら
国を復興するのだという使 命 感が
した﹂
建設工事を映画に記録しようと
強かったからでしょうね︒佐久間ダ
ムと発 電 所を一刻も早く 完 成させ
がいのある仕事をしたい﹄と思った
考えたのは︑当 時Jパワーの顧 問
の工事は世紀の大工事だからきちん
人が 人はいます︒土木の世界に進
るために︑技術者も作業員も夜勤
委員長になった佐々木良作だった︒
と記録にとどめておくべきだと考え
であり︑後に参議院 議員︑民社党
﹃我々が日本の電力を起こし︑日本
高碕が米国を視察した際に︑国際
に次ぐ夜勤で猛烈に働いたのです︒
の電力不足を救うのだ﹄という使命
映画『佐久間ダム』のポスター。
感に燃え︑彼らもほんとうにやり
だったという︒
電話で盛んに相 談したのも佐々木
た︒その後の日本の土木の世界で指
膨大なフィルムを使って撮影しまし
たようです︒岩波映画も張り切って︑
れは佐々木さんの炯眼ですね﹂
字には表せない大きな功績です︒こ
む多くの若者を力づけたことも︑数
高 橋 先 生は︑ダムの建設はもち
はり永田さんの発 想と計 画力︑そ
この難工事を成功に導いたのは︑や
動員がありました︒佐々木さんはこ
と第一部だけで300万人もの観客
般の映画館で公開したのです︒なん
型土木機械を用いた日本初の工事
アップさせることにつながった︒大
そ れ が 結 果 的 に工 事 をスピー ド
工学科へ進学して︑このようなやり
ているだけでも︑映画を見て︑﹃土木
めた人もたくさんいます︒私の知っ
映画﹃佐久間ダム﹄を見て進路を決
交 通 手 段の 主 流 は 自 動 車であ り︑
東海道新幹線です︒1950年代︑
た︒例えば︑1964年に開業した
驚かす土木工事を実施していきまし
もなったと︑高橋先生は強調する︒
り︑これが日 本を 復 興させる礎に
がダム建設や土木技術の意義を知
万人もが感動した︒日本中で青 年
記 録 映 画の公開によって︑何 百
けいがん
がいを感じていたのでしょうね﹂
﹁岩波映画と協力して映画﹃佐久間
導的役割を担った人たちの中には︑
ろんだが︑ダム建 設を記 録した映
れと迫力であったと思います﹂
にもかかわらず︑数々の世 界 記 録
鉄道は時代遅れだ︑というのが世界
年︶にかけて一
画﹃佐久間ダム﹄を全国で公開した
永田は前職を辞した時の退職金
を打ち立てることになった要因の1
の趨勢でした︒しかし︑東海道新幹
〜
日本最初の本格的機械化施工で
をすべて使って︑米国からダム関連
つであろう︒
58年︵昭和
あった佐久間ダムの工事は︑同時に
の原 書を大 量に購入し︑かたはし
情熱が打ち立てた
数々の世界記録
土木工事の世界記録を次々に塗り
線は︑高速鉄道の持つ可能性を示し︑
から読破したとも言われていた︒
世界に交通革命をもたらしたのです︒
るのです︒工事中に打設したコンク
ら見ても︑新しい記 録 を 次々つく
けでなく︑世 界のダム建 設 史 上か
ムは日 本 最 初の巨 大ダムであるだ
界記録を樹立しました︒佐久間ダ
コンクリート打設量5180㎥の世
にもかかわらず︑いくら怒鳴られよ
部下は震え上がったそうです︒それ
変に厳しい方で︑雷を落とされると
い人ですが︑こと仕事に関しては大
ていたのです︒永田さんは根は優し
んで︑海 外のダム技 術にも 精 通し
と思いますが︑とにかくたくさん読
長期を支えたインフラはダムだけで
現場に浸透していきました︒高度成
本格的機械化施工が日本中の建設
﹁佐久間ダムの成功を契機として︑
に大きな影響を与えたと指摘する︒
化 施工がその後の日本の土木工事
高橋先生は︑佐久間ダムの機械
す︒その道を開いたのが佐久間ダム
械化施工が日本に導入されたからで
いに着手することができたのは︑機
あれほどの規模の土木事業にいっせ
ンの建 設︒高 度 成 長 期︑短期 間に
地下街や地下鉄︑そしてニュータウ
名をはじめとする高速道路︑他にも
﹁退職 金全部というのは大 げさか
リートの総量も当時の世界一でした︒
うが︑みんな永田さんについていき
また︑日本 道路公団が建設した東
具体的な工事計画は永田さんのも
の建設工事だと︑私は思います﹂
ること︑佐 久 間 ダム建 設が日 本 復
興の契機になるという自覚を持って
難工事に挑んでいることがわかって
いたからです︒永田さんの努力と迫
力は︑
自然と部下にも通じたのです﹂
1956年4月に運転開始した
佐久間発電所。当時として
は驚異的な最大出力35万
kWを誇った。
はありません︒日本は次々と世界を
日本の土木の基礎となった
佐久間ダム
替えていく世紀の大工事でもあった︒
映画﹃佐久間ダム﹄が
青年たちを奮い立たせた
ダム﹄三部作を製作し︑1954〜
20
ました︒永田さんが大変勉強してい
年1月に︑1日あたりの
33
と︑立案・実行されていきました︒
﹁昭和
29
Opinion File
永 田の 情 熱 は 部 下 にも 伝 わ り︑
ワイヤーで吊したコンクリート
バケットで生コンクリートを運
んで打設。1日5,180㎥の世界
記録を樹立した。
18
写真:吉田 敬(高橋氏の写真)
取材・文:豊岡 昭彦
19
31
❖奥只見発電所
photo by 吉田 敬
奥只見、
水の恵み。
奥只見湖
(銀山湖)
は、尾 瀬 沼に源
イン」と呼ばれている区間だ。総延長
・6㎞、合計 のトンネルの工事に
せき止めた人 造 湖 。総 貯 水 容 量は日
するほどの労力がついやされたが、そ
は、ダム等の本 体 部 分の建 設に匹 敵
よいものだった。
日本の秘境と呼ばれた奥只見は現
在、イワナやヤマメなどが泳ぐ天然魚
ワシなどの天 然 記 念 物も 生 息してお
うほどの豪 雪で、古 来この地の住 民
奥 只 見ダム建 設の最 大の問 題もま
り、新 緑の季 節や紅 葉の時 期には多
の宝庫として知られる。近辺にはイヌ
た雪だった。6カ月間も工事がストッ
に降り積もる雪の恵みでもあるのだ。
奥 只 見の豊かな自 然は、厳しい冬
くの観光客でにぎわう。
くられたのが現在「奥只見シルバーラ
魔されないルートを確保するためにつ
イトまでの最短で、なおかつ豪雪に邪
プしては 完 成 が危ぶまれる 。工 事 サ
を苦しめてきた。
6カ月 近くを 外 界から閉ざしてしま
この地方の雪は、晩秋から春までの
本最大級を誇るが、その水の大半は周
を発する只見川を奥只見ダムによって
奥只見ダムの堤から見た銀山湖。米国のミシシッピ
川の外輪船を模した「ファンタジア号」は300人乗り
の大型船だ。
れこそがまさに雪との戦いといっても
19
辺の山々からしみ出す「雪解け水」だ。
22
文:豊岡 昭彦
Global Edge 2010年秋号
(No.23)より転載
れているのだが︑いくら水平と教え
喚起するために︑横の壁面に白いペ
シルバーラインの名は︑江戸時代
られても︑目の錯覚でちっとも平ら
て奥只見シルバーラインを経て奥只
中 期にこのあたりの山から銀が産
に見えない︒車内ではさほど感じら
ンキで水平をあらわすラインが引か
出されたことに由来しているのだが︑
れないが︑一般のトンネルにはない
ダムの建 設工事のため︑昭 和
年
日本最大級の大きさを誇る奥只見
シルバーラインは︑人造湖として
なんの予備 知 識もなくこの道を車
本︒
㎞が
きつい勾配なのだという︒
・6㎞のうち
で走ったら︑きっとびっくりしてし
まう︒全長
トンネルで︑その数合わせて
しかも 普 通のトンネルよりはるか
残っている︒地下水がしみ出し︑ト
したままの岩肌がゴツゴツそのまま
上に雪の影 響も受ける︒既 存の道
越えの国道は曲がりくねった隘路の
れたものなのである︒古くからの峠
月からおよそ2年半かけてつくら
ンネルとトンネルの間から入る外気
より︑新たにトンネルつづきの専用
に暗くて狭く︑内 部へ進むと掘 削
と湿 度の関 係 なのだろうか︑トン
バイパスをつくった方が得策と判断
あい ろ
ネル内にまっ白なもやが立ちこめる︒
されたのだろう︒トンネル内の荒々
関越
自動
車道
ち 向 かったダム建 設の
コースになっている︒一方の基点と
も﹁銀の道﹂と呼ばれてハイキング
線
新幹
上越
熱意と︑その背景にあっ
には︑銀を不法に持ち出した者に
なる山々に囲 まれた標 高750m
にはいられない︒
いし だき
石を抱かせて拷問したといういわれ
の石抱という地名も残る︒最 盛期
これらの道とは別に︑
かつて銀の運 び出しに
の元禄
年︵1697年︶には10
使われていた山 道が今
写真:吉田 敬
Global Edge 2010年秋号(No.23)より転載
縁あって人と土地と
一度旅した場所とは︑たとえてみ
れば心の琴線でつながっているので
はないかと思う︒昨年の晩秋に福島
県只見 町を訪ねてから︑山 奥の豪
雪とそこに暮らす人たちが楽しみに
する春の到来に思いを寄せていた︒
今回はそんな旅のつづきで奥只
見へ︒季節はめぐって夏である︒
奥只見のダム湖は位置的には只
見 町の田子 倉 ダムの上流で︑間に
大鳥ダムを介して只見川でつながっ
ている︒上越新 幹 線の浦佐駅下車
までは只見町のときと同じ行 程だ
が︑奥只 見は車で只 見 町から奥へ
入ったところと思っていると大間違
見へと向かう︒
青木 奈緖
傾斜がきつく︑ドライバーの注意を
しい岩肌を眺めながら︑
奥只見湖
た高度経済成長期の切
開高健記念碑
の盆地は銀山平︒
﹁銀の道﹂の一合目
きびしい自 然 条 件に立
荒沢岳の万年雪は、登山口から徒
歩40分の「日本一容易に行ける
万年雪」として人気。
尾瀬三郎像
荒沢岳万年雪
六日町
銀の道
実な電力不足を思わず
西福寺開山堂
奥只見ダム
浦佐駅
青木 奈緖(あおき・なお)
福島県
国道
シルバーライン
35
2号
線
小出
永林寺
J-POWER
小出電力所
堀之内
29
22
小説家、エッセイスト。東京
都生まれ。学習院大学文学
部大学院修士課程修了後、
ウ
ィーンに留学。
1989〜98年、
ドイツに滞在。帰国後、
『ハリ
ネズミの道』でエッセイスト
としてデビュー。雑誌「婦人
之友」に小説「風はこぶ」を
好評連載中。
23
田子倉湖
越後川口
10
い︒魚沼 市の小出 地区から国 道3
52号線を東へ進み︑そこから別れ
19本のトンネルからなるシルバーライン。
新潟県
目黒邸
12
18
19
22
白銀の秘境を訪ねて
〜新潟県魚沼市・奥只見〜
滅多に人が通らない現在の「銀の道」
。
Global Look
❖奥只見発電所
Global Look
のキャンプ場を抜けて林 道を進め
で調べたらおそらくヨツバヒヨドリ︒
馬の往来が絶えず︑大変なにぎわ
雨は雨であった﹂と記している︒銀
の水は水の味がし︑木は木であり︑
れている︒裏を返せば︑大雪の年は
一容易に行ける万年雪﹂として知ら
分︒標高1100m足らずの﹁日本
ゾアジサイはさらに季 節を逆戻り
ように夏まっ盛りの花がまざり︑エ
わせる花である︒そこにシシウドの
とともに︑季 節を先 駆けて秋を思
作家・開高健はこの地を訪れ︑﹁銀
はなふりぎん
いを見せていたという︒
山 平の石 抱 橋の傍らには︑名うて
6mを超すといわれる豪雪の威力で
させたかのよう︒咲く 花の種 類の
44貫︵約4t︶もの花降銀︵純銀︶
しかし隆盛は長くはつづかず︑銀
の釣り 師でもあった開 高 健の記 念
あり︑標高が低くてもとけずに残っ
アキノキリンソウのような黄色の花
山には事故が重なり︑ついに安政6
碑があり︑刻まれた言葉﹁河は眠ら
ているということになる︒
ば︑登山口から歩くことわずか
年︵1859年︶
︑只見川の川底を
ない﹂は絶えず流れる河を通して悠
青く抜けるような夏空に︑汗だ
山湖畔︵奥只見湖と同じ︑筆者注︶
鉱夫が破り︑300人余りが犠牲
久の自然へと目を向けさせてくれる︒
く 覚 悟︒タオルを 持って山 道を登
か︒視 線をあげた先に白く輝く雪
分ほど歩いただろう
奥只見には銀のイメージがよく似
道の左右に色とりどりの花が咲
渓が見えたときの嬉しさはひとし
しむうちにふと気になることがあっ
見え隠れするようになると︑のぼ
おである︒目ざす 白 銀が行く手に
そうして
といえば奥只見湖の観光客か釣り
あう︒涼やかな白銀︑万年雪である︒
く︒ああ︑きれいだな︑と思って楽
荒沢岳︵1969m︶に積もった雪
た︒野の花の判 別は慣れぬ者には
り始めた︒
やハイキングなど︑秘境とも呼ばれ
奥 只 見 湖 を 囲 む 山 々のひ とつ︑
どもが夢のあとではないけれど︑3
は真夏になっても消え残る︒それ自
という言い伝えに由来するそうだ︒
00年前のシルバーラッシュを思い
う皇妃から贈られた虚空蔵菩薩像
こうして只見の地名の意味も明
りにもぐんとはずみがつく︒道端に
が抱かれている︒ミズバショウの湿
かされて︑奥只見をあとにした︒ふ
むずかしいのだが︑フジバカマに似
原から流れ出る只見川の名は︑つい
たたびシルバーラインを通って国道
体︑標 高の高い山ならめずらしい
には鬼に変じた尾瀬三郎の無 念の
352号へ出れば︑あたりは魚沼の
起こそうにも︑照りつける陽ざしに
思いから﹁岸壁が迫り︑昼なお暗く︑
米どころ︒緑の色 濃い田んぼの稲
清冽な泉が湧き出し︑岩に生えた
を誇っていた平清盛と皇妃をめぐる
争いに敗れ︑はるばる落ちのびた先
に尾瀬沼を発見したのだという︒
銀山平の湖水を見おろす高台に
尾瀬三郎の像を訪ねれば︑その手
には生涯片ときも放さなかったとい
見えるものとては只ただ川ばかり﹂
てやさしい香 りがするのは︑あと
10
ことではないが︑ここは車で銀山平
つわもの
る自然を楽しむ人がほとんど︒ 兵
盛りを迎えている︒
は6月から9月の花がいっぺんに花
多さもさることながら︑奥 只 見で
となって歴史は絶えることとなる︒
銀掘りは過去のものとなっても︑
40
今は緑 深い山 奥で︑見かける人
ヨツバヒヨドリ
(右上)とエゾアジサイ(右下)
。
夏草がむせ返るばかりに繁っている︒
水 苔をひたひたと潤わせ︑清らか
な水が集まり清流が流れる︒
やがて︑あざやかな緑の谷 間に
消 え 残 る 万 年 雪 が 目 前 にひら け︑
夏の雪はきらきらとまぶしいほどに
輝く︒あたりは照りつけられて温
度が上昇した空気と︑雪渓の上を
すべりおりてきた冷気がまじりあい︑
リズミカルに風がうねる︒そうして
たたずんでいる間にも︑雪渓はとけ
て表 面に白い水 蒸 気がゆらゆらと
立ちのぼり︑谷 底には滝が音をた
てて流れ落ちている︒
なんという心地よさだろう︒青
い空に白い雲のもと︑全 身に涼 風
のシャワーをあびて︑荒沢岳の万年
雪には立ち去り 難い思いを残して
下山した︒
ふもとの銀山平には観光客が集
まり︑奥只見湖の遊覧 船の乗 船が
始まっていた︒船はゆったりと湖面
を進み︑深く入り組んだ形をして
いる奥只見 湖の懐の深さを改めて
体感する︒
このダム湖を囲む山々の最 上部
には日本 有 数の湿原︑尾瀬ヶ原を
頂いている︒知名度の高さから名前
のいわれについてはついぞ考えたこ
ともなかったが︑湿原に名を残す尾
瀬三郎は平安時代末期︑当時権勢
湖岸ぎりぎりまで山肌が迫るのは人造湖ならでは。
24
万年雪の最上部。すべりおりてくる冷気が心地よい。
湖側から見た奥只見ダム。堤頂長は480m。
銀山平に立つ尾瀬三郎の像。
25
が幕 府に納められ︑銀の道には人
奥只見を愛した開高健はこの地に滞在して『夏の闇』を書いた。
黒 家があって︑代々魚 沼の庄 屋と
掘される以 前からつづく 豪 農︑目
魚沼市須原には奥只見で銀が採
穂が早くも秋の実りを期待させる︒
い分けられていたであろう大小の座
の生活 空間はもちろん︑細かく 使
部屋は使用人の部屋や土間︑家族
上経っているとは思えない︒邸内の
の堂々とした構えは築200年以
今に保存されており︑茅 葺き屋根
住宅が重要文化財の指定を受けて
政9年︵1797年︶に建てられた
して中 心的 役 割を担ってきた︒寛
たものである︒も と
の風 土ではぐくまれ
の作品も雪深い越後
した名工︑石川 雲 蝶
事な木彫り彫刻を残
江戸時代末期に見
れている︒
した政治家が輩出さ
には多くの功 績を残
mを超える豪 雪の重みを思う︒家
の屋根にずっしりかかるであろう3
こまれた梁を見あげ︑冬に茅 葺き
が快適な邸内で︑太くしっかり組み
室を超える︒土間を吹き抜ける風
間を楽しむことができる︒仏教をモ
麗な色彩彫刻や襖 絵︑透かしの欄
寺 院で︑幾 重にも彫りこまれた壮
寺開山堂や永林寺など越後各地の
うになったかは定かでないが︑西福
れの雲蝶がいつ越後へやってくるよ
に残る万年雪の輝きが真逆の季 節
夏の越後を旅して冬を思う︒心
くり作品と向きあったのだという︒
こめられた寺院に逗留しながらじっ
ているのだとか︒長い冬︑雪に降り
は好きな女人のおもかげが刻まれ
打 好きで︑天 女 像の透かし彫りに
は江戸 雑司ヶ谷 生ま
は人々の生活をまもるだけでなく︑
チーフにした作品からは想像もつか
敷︑そしてお茶 室まで︑合 計で
この目黒 家の精 神を支えてきたの
を結びつけていた︒
ムの天 端︵ 流 れ を せき 止めて
てん ば
なかったが︑雲蝶自身は酒と女に博
時
番上︶から2台のエレベーター
いる 分 厚いコンク リ ー トの一
くの会社が昼休みになる
みが終わる1時にはふたたび
に明らかにがくんと落ち︑休
年︵2003年︶に発電機が
とい
大の水力発電所となっている︒
う︑一般 水 力 としては国 内 最
こうした一日の時 間 帯による
ぐんとはねあがるのだという︒
の 暑 さ が 嘘 の よ う に 涼 し く︑
を乗り継いでおりて行く︒外
万
た電気を送り届けるため︑奥
同様︑奥只見発電所で発電さ
発電機が置かれている空間
と同じ温度なのである︒
奥只見ダムの右岸川床から約
所 内 に 4 基 あ る 発 電 機 は︑
は一年 中︑奥只見 湖 底の水 温
奥只見発電所で発電が開始
待 た ずに︑一部の発 電 がひと
れた電力は︑現在もっぱらピー
36
るのが水力発電なのだ︒
長 くいると寒いくらい︒そこ
足 先に始められ︑1号 機から
昭和 年︵1960年︶のこと︒
高度経済成長期にどんどん
ク時の調整に使われるように
ている︒そこへ行 くには︑ダ
子を当時の映像で確かめたり︑
3号 機まで全基そろっての運
アコンによる消 費電力は︑多
はなく︑埼玉県川 越 市にある
湖水と緑 が織りなすうつくし
増加する電力需要をまかなう
は︑巨 大な地下 都 市かシェル
わっている水 車発電機で目に
東地域制御所から遠隔操作さ
い景色を楽しんでいる︒
ターを連想させる︒実際にま
mもの地下深くに設置され
することができるのは上部の
力 所で行 われている︒こうし
れており︑保守 管理は小出電
なっている︒例 え ば夏 場のエ
ごく一部 分 だ が︑なんという
てつくりだされた電力は東 京
よう︑工事用 車両や作 業員の
動 物たちを脅かすことがない
ワシも生息しており︑希 少な
自然豊かな奥只見にはイヌ
高速回転だろう︒周囲に伝わ
る音や振動とともに︑圧迫感
私たちの暮らしに役立っている︒
電力と東北電力へと送電され︑
所 内を ご案 内いただいてい
を感じさせる力強さである︒
た発電機の運転 が停 止し︑し
ただろうか︒最後まで動いてい
開催している﹁エコ×エネ体験
で訪れた人たちやJパワー が
電力館 があり︑奥只見を観光
ダム湖畔の高台には奥只見
私たちの環 境 保 護への意識を
を 生 み だ す 場 所 が︑ 同 時 に
かっているという︒エネルギー
衣服の色にまで細かく 気をつ
るうちに夕 方5時 近くになっ
んと静まり返った発電所 が印
高めてくれる体験学習の場と
河川維持流量放流を利用した小型発電機(2,700kW)
。
ツア ー﹂の 子 ど も た ち が︑ ダ
ダム内の通路はひんやりと涼しい。
象的に心に残っている︒驚いた
発電機の並ぶフロアは巨大な地下シェルタ
ーのよう。
されたのは︑今から
需要の増減に過不足なく応え
kW
昨秋見学した田子倉ダムと
56
只見発電所ではダムの完成を
基︑設備出力合計
増設され︑現在では発電機4
12
ではなかろうか︒明 治︑大 正時 代
20
年前の
奥只見発電所
15
なっていることを頼もしく思う︒
小出電力所(奥只見発電所)西川和也所長と筆者。後方は奥只見ダム。
ムができるまでの難工事の様
取材=2010年8月2〜3日
目黒家住宅は、1797年に11代五郎助が建てた豪農住宅。
年になってから だっ
1~3号機:1960年12月
4号機:2003年6月
たという︒なお︑その後 平 成
運転開始
26
「越後のミケランジェロ」
と言われる石川雲蝶の彫
刻がある西福寺開山堂。
発電機のタービン。回転するとイヌワシが飛
んでいるように見える。
イヌワシとモモンガのキャラクターがそこかしこに。
27
1~3号機:170m
4号機:164.2m
ことに発電機の運 転は現 地で
現在、常時は使われていない制御室。
50
有効落差
用 は翌
最大使用水量 387㎥/s
た︒少しでも早く必要とされ
ダム堤体高 157m
ため︑発電所の開設は急務だっ
所 在 地 福島県南会津郡檜枝岐村
40
35
1~3号機:120,000kW×3
4号機:200,000kW
計:560,000kW
最大出力
Global Look
◆奥只見発電所の概要
❖田子倉発電所
photo by 吉田 敬
水をたたえる只見町。
努力が印象的な町だ。
豊かな自 然と、それを守る人々の
になるほどの人気路線に変貌する。
の季節には紅葉狩りの観光客で満員
1日3往復しか走っていないが、紅葉
県小出駅と福島県会津若松駅を結ぶ。
線。只見川を何度も渡りながら新潟
建設の資材を運ぶためにつくられた路
川口駅から只見駅間は当初田子倉ダム
只見町を走るJR只見線も、会津
指のダムとして1959年に完成した。
られたが、中でも田子倉ダムは日本屈
で、戦前から多くの水力発電所がつく
の豪雪 地帯にあるため、流量は豊富
がら悠々と流れていく。日本でも有数
発し、周辺の山々の雪解け水を集めな
町を流れる只見川は尾瀬沼に源を
している。
の中心は只見」と、積極的にアピール
に努 力することを誓い、「日 本の自 然
豊かな自然を次世代に引き継ぐため
町では「自然首都・只見」を宣言し、
は国内随一とも言われている。
広がっており、ブナ林の規模、原始性
ヘクタールもの広大な落葉広葉樹林が
には、ブナの天然林を中心とした4万
の町 だ。水量の豊富な只見川の周り
福島県南会津郡只見町はブナと川
静かに水をたたえる初冬の田子倉ダム。
文:豊岡 昭彦
Global Edge 2010年冬号
(No.20)より転載
雪はないが︑丸いトタン屋 根のガ
ただけに︑がらりと変わる眺 望の
見通しのきかない山中を越えて来
窒素酸化物の低減
瀬戸大橋添架
坂出ケーブルヘッド
青木 奈緖
新潟県
発電機
石炭バンカー
蒸気
タービン
乾式排煙
脱硝装置
ボイラー
給炭機
乾式排煙
脱硫装置
電気式
集塵装置
Global Edge 2010年冬号(No.20)より転載
30
復水機
ガイドの山岸国夫さんに山神杉のブナの森まで
ご案内いただいた。
津
軽
海
峡
線
レージは雪国独特のつくりである︒
変 化がドラマチックに目に飛びこ
山々が大きく連なり︑白く霧が
小豆島
縁あって人と土地と
やがて人家がまばらとなり︑信
ごえ
新潟県と福島県を結ぶこの峠が︑
難所である︒日本で有数の豪雪地
古くから六十里越と呼ばれてきた
川が流れている︒急峻な山の斜面
の上に急峻な地形で︑雪崩の多発
囲が少しずつ明るくひらけ︑もう
そこから福島県との県境を目指
かかっている︒眼 下と 表 現 するに
岡山水道横断部
雪待ち の峠
〜福島県・只見町〜
訪ねる先は福島県南会津郡只見
号 もない山 道がつづく︒右へ曲が
思いがけない旅のふりだしに心
町なのだが︑東京から東北新幹線
り︑左へ折 れて︑いつの まにか 車
がはずんだ︒
で郡 山へ向かうのではなくて︑上
からのぞきこむ下に冷たく澄んだ
んできた︒
福
島県へはこんな入り方もあるのだ︒
に立つ木々はほとんど葉を落とし︑
地帯でもある︒徒歩で峠 越えをし
越新幹 線で新潟県の浦佐へ?
まるで見 知らぬ扉の前に立ってい
冬枯れの色に沈んでいた︒
ていたころとはすっかり 様 変わり
なだれ
るよう な 気 がする︒出 発 前 に﹁ 標
山 道にトンネルがあって不思 議
解けまでは通 行 止めになってしま
高の高いところですからね︑防 寒
月から4月下旬の雪
ドが驚くほど多い︒よほど雪深いと
う︒
した今も︑
もらったが︑それさえも﹁寒さなん
ころなのだ︒道は休まずのぼりつづ
はないが︑それ以上にスノーシェッ
かに震えてないで︑この旅の奥 深
け︑うねうねと山の胎 内を抜けて
対 策が必 要ですよ﹂という 忠 告 を
さをじっくり味わってごらん﹂と言
行く︒はるか下から見 あ げていた
すが米どころ新 潟といわれるだけ
まもなく峠にさしかかるのだろう︒
し北東方向へ車で1時間半︒国 道
は驚くほどの底に田子 倉ダムが見
線
新幹
上越
関越
自動
車道
われているように感じた︒
あって︑あたりに刈り入れのすん
こちらのそんな思いをよそに車
稜 線が徐々に近づいてくると︑周
だ田が広がっている︒遠くに山は
はなおも 急カーブを 切って︑ある
新 幹 線 を 降 り た と こ ろ は︑ さ
見えているが︑浦 佐の駅 自 体はご
252号線を走る︒沿道には家や
える︒周囲を山に囲まれ︑暗く蒼
ときぱっと視界がひらけた︒
商店が立ち並び︑畑には大根の葉
い水が岬と入り江の複雑な造形を
タービン建屋
高松市
坂出市
阿波幹線
ボイラー建屋
最新技術を用いたばい
煙処理装置により除去
を行います。
福島県
玉野市
由加山
讃岐変電所
満濃池
煙突監視カメラ
窒素酸化物の除去
ばいじんの除去
硫黄酸化物の除去
二段燃焼方式、低NOxバー
ナーにより窒素酸化物の
発生を抑えます。
鷲羽山
備前市
線
新幹
山陽
岡山後楽園
福島県南会津郡只見町
北本連系設備
新岡山幹線
変
煙突
青函トンネル
佐井ケーブルヘッド
写真:吉田 敬
く平坦な場所にある︒
が青く︑すがれの菊が黄 色やピン
形づくる雄 大な眺めだ︒ここまで
新潟県
線
2号
国道
倉敷市
西播東岡山線
東岡山変電所
六十里越
小出駅
田子倉ダム
四国中央東幹線
北海道
小説家、
エッセイスト。東京都生まれ。
大沼国定公園 学習院大学
文学部大学院修士課程修了後、
ウィーンに留学。
北地域制御所 函館変換所
1989〜98年、
ドイツに滞在。帰国後、
『ハリネズ
古川ケーブルヘッ
ド 「婦人
ミの道』でエッセイストとしてデビュー。
雑誌
函館市を好評連載中。
之友」に小説「風はこぶ」
31
クの花 をつけている︒まだ平 地に
浦佐駅
金毘羅山
青木 奈緖(あおき・なお)
12
浅草岳
福島県
只見駅
只見
線
岡山市
倉敷
Global Look
❖田子倉発電所
Global Look
三石神社の縁結びの岩。小さな穴に糸を通し、結ぶことができれば、縁が結ばれるといわ
れている。
里にも思わ
りにきびしい自 然 条 件ゆえ︑6里
の峠があるという︒どちらもあま
北に行ったところには︑八十 里 越
この六十里越の峠から十 数キロ
ダムを 眺めている︒身のまわりに
わずか3時間ほどで静寂の田子倉
感覚があった︒朝早く東京を発ち︑
場にふさわしいのか戸 惑うような
しんとした中にあって︑私はこの
里 に︑ 8 里 が
さぞやいっぱい都 会の喧噪を引き
が
れるというのが名前の由来である︒
らない理由を抱えた人たちが往き
越すに越されぬ難所を越さねばな
した表現であることは明らかだが︑
に近づくほどの距 離となる︒誇 張
の境 内にある清水は︑お参りする
れている︒そのひとつ︑三 石 神 社
土地で︑町内で銘水十選が選出さ
只見町は清らかな水にめぐまれた
の土地に湧く泉に清めてもらった︒
そ ん な 心 身 の 騒 が し さ を︑ こ
来した思いがこもっている︒ちなみ
人のみそぎの水として常に枯れる
みつ いし
に現在︑八十里越の街道は国 道の
ことがないという︒
もうまもなく雪に閉ざされ︑車
線区間が存在しているのだそうだ︒
然の巨石である︒穿たれた穴に頭
かけのご神 体 となっているのは天
斜 面につづく山 道をのぼれば︑願
や わ ら か な 清 水 を ひ と口 頂 き︑
の 往 き 来 が な く な る とい う 峠 は︑
を入れると頭がよくなる岩︒しみ
信じられぬほど︒ダム湖の水 面も
ぎわっていたという 話が素 直には
もみじの名 所として︑観 光 客でに
た小さな穴に糸を通せれば縁が結
下に祠が奉られている︒岩にあい
きく︑上には木々をなん本ものせ︑
ある縁 結びの岩はとてつもなく大
うが
まるであたりが冬の到来を承知し
出す水を目につければ病が癒える
鏡のように波ひとつなく︑2週 間
ばれると伝えられ︑五円玉を通し
なみだ
てでもいるかのように静まり返って
といわれる泪石︒そしてご神 体で
ほど前まで運 行していたという 遊
たコヨリがいくつも吊るしてあった︒
只見町には名 前のついた立派な巨
いヒノキが大クリには敬 意を 払っ
ものだろうか︒周囲を取り囲む細
て一歩退いているように見えるのが
只見には︑手つかずの自 然の代
ろし た ら 移 動 不 可 能 な 植 物 には︑
ねばならないのは道理だが︑木の
名詞ともいえるブナの原生林もあ
微笑ましい︒
魂を感じさせる巨木には﹁見る﹂と
ちこちに残されている︒翌日︑地
ころながら︑きつい傾斜地をのぼっ
は︑車 道からわ ずか奥へ入ったと
石伏旧若宮八幡神社跡の大クリ
森を目指すこととした︒1時間半
岳のふもとにある山神 杉のブナの
き︑標 高1586メートルの浅 草
おいでの山岸国 夫さんにご案内頂
元でブナの森のガイドをなさって
た先に仰ぎ見る形で対面する︒葉
も山道を歩けば︑ブナの巨木にも
あさ くさ
を 落とした 冬は︑その木の持って
月3日
だったという只見町では︑いつまた
だが︑この冬︑初 雪が
会えるという︒
幹は人でいえば顔のしわのような
いる気がする︒大きくシボのよった
いる性格がより一層あらわになって
いし ぶし
く似あう︒
いうよりは﹁会う﹂という言葉がよ
私たち人間のほうから会いに行か
木が何 本かある︒いったん根 をお
山奥であるという条件も相まって︑
ほこら
覧 船はすでに引きあげられ︑湖畔
春の営業を待っている︒
水が豊富で︑開発の手を逃れた
10
のみやげもの屋も雪 囲いされて来
音がない︒
月の末までは秘 境の
行できない︑いわゆる地図 上の点
扱いでありながら部分的に車が通
里は東京から静岡を越えて浜松
連れているのではないかと思う︒
80
実際には1里を約4キロとすれば︑
60
60
32
只見町指定天然記念物の石伏旧若宮八幡神社の大クリ。
33
11
六十里越の峠から見た田子倉湖。
三石清水は「みそぎの水」として大昔から枯
れたことがないという。
頭を入れて祈ると頭が良くなり、頭の病
気も治るという「一の岩」
。
山の中腹にそびえる山神杉。周辺にブナの巨木が点在している。
Global Look
降り出しても不思議ではないお天
気 だった︒風 はないものの︑雲 が
低くたれこめ︑冷たい雨が降り出
していた︒足 元の悪い山 道で傘は
役に立たず︑身 支 度一式 拝 借して
の出発だ︒
このあたりは主にブナとミズナ
ラの林で︑葉のない季 節に木の見
分けは幹でするしかない︒ブナの
木 肌にはよく 苔がついて︑まだら
に見えることがあるのに対し︑ミ
ズナラは凹凸のある縦縞模様を身
にまとっている︒山岸さんにそんな
違いを教えて頂きながら山道を歩
け ば︑ところどころに散り 残 りの
もみじが︑切ないほどの紅さに染
まって目をひく︒
いきなり︑ぎょっと足がすくん
だ︒足元にあざやかにグリーンの
蛙が1匹︑もう 少しで踏んづけて
しまいそうな 道のまん中でじっと
している︒もう 冬 眠の時 期だろう
に︑モリアオガエルだという︒春か
ら初夏の繁殖期に泡状の卵を見か
けることはよくあるそうだが︑カ
エル自 体を目にするのはめずらし
いのだとか︒
少しずつ標高が高くなり︑雨は
いつのまにか雪に変わった︒ちょう
ツバキの群落となっている︒名前の
架に乗せての敗 走はどんなにつら
も容 易ではなかった︒継 之助を担
どそのあたりから林の下 草がユキ
通り雪深いところに自 生するツバ
に彼らが歩いたのは私たちが歩い
かっただろうと︑そのルートを 地
ブナは濡れて幹に水をしたたら
たブナ林の道とぴったり重なってい
キで︑春︑雪 解け 後に紅い花をつ
せ始め︑ユキツバキには見る見る
た︒ほんのわ ずかではあるが︑私
図でたどってみれ ば︑意 外 なこと
雪が積もって︑照 葉 樹らしくつや
たちも江戸時代の八十里越の古道
ける︒
つやとした 青い葉が白 くつつまれ
を歩いていたのだ︒
最 後は秘 境のローカル線として
里越で締めくくる︒
六十里越に始まった旅を︑八十
る︒冬の林は閑 散 と︑あたり一面
散り敷かれたブナの葉にも雪があ
たって︑かすかな音を立てていた︒
無事下山して︑つづけて河井 継
老を務めた人物である︒慶応4年
河井継之助は幕末に長岡藩の家
車は1日わずか3往復︒川を幾度
とにした︒2両 編 成のひなびた列
からふたたび新 潟 県へともどるこ
近年人気の高い只見線で︑福島県
の戊辰戦争で︑旧幕府軍にも新政
も渡りながら︑水墨画のように雪
之助記念館を訪れた︒
府軍にも属さずに中立を保とうと
を頼りに長 岡を出るのだが︑この
臣は継之助を担架に乗せて会津藩
身も銃弾を受けて重傷を負う︒家
甲斐なく長岡城は陥落︒継之助自
府軍に加わって戦うものの︑善戦の
れている︒次の駅で乗る人は︑きっ
んとした列 車には明るい光があふ
はすっかり 陽が落ちて暗く︑がら
ちも下 車 する駅へやって来た︒外
降りて︑最 後にとり残された私た
やがて乗客がひとり降り︑ふたり
雲にかすんだ山々を縫って走る︒
とき越えたのが八十里越の峠 だっ
と車 内の暖かさにほっとするだろ
するが聞き入れられず︑結局旧幕
たという︒継之助は﹁八十里こしぬ
う︒
段となっている︒
只見 線が六十里越の唯一の交通手
たたび通行できるようになるまで︑
春になって国 道252号 線がふ
け武士の越す峠﹂という句を詠み︑
只見まで落ち延びたが︑傷が悪化
して落命する︒
たっ た 今 し が た 自 分 で 山 道 を
歩いてみて︑往 復3時 間といえど
34
小雨の中、山神杉のブナの森に向けて出発。
会津川口駅から只見線に乗って、新潟側に戻る。
只見線に乗る筆者。
只見駅では、すっかり陽が落ちていた。
35
ブナ林に見入る筆者。
山道のところどころに残るモミジ。
山道で出会ったモリアオガエル。
ユキツバキにも雪が積もってしまった。
只見町が終焉の地であることから河井継之助記念館がつくられた。
継之助は戊辰戦争でガトリング砲を使用したことで有名。
Global Look
仲丸所長に水車・発電機等の主要機器入替工事の説明を受ける筆者。
田子倉発電所概要
420m3/s
最大出力
390,000kW
有効落差
105m
発電機台数
4基
運転開始
1959年5月
とした阿賀野川水系の只見川
田子倉ダムは尾瀬ヶ原を源
所は︑上流の奥只見発電所や
運転が開始された田子倉発電
うな必要性から1959年に
にまかせ︑水力発電は必要と
ほうが効率的な火力や原子力
は常に一定の運 転 をしている
り︑需要のベースとなる発電
をめぐる状況も以前とは異な
田子倉発電所
にあるダムである︒豊かな水
野川水系に建設された多くの
下流の只見発電所など︑阿賀
されてから送電開始までの時
高低差があるため︑地の利を
ダムとともに電力不足の解消
量にめぐまれ︑急峻な地形で
活かした水力発電を行うこと
間が短いという瞬発力を活か
は余程のことがない限り︑電
行っている︒
夏場のピーク時などに発電を
して︑電力の必要な時間帯や
力需要の増加に供給が追いつ
力不足を心配しなくてもいい
見学できるデッキも設けられ
年︒今の私たち
かず︑特に首都圏での電力不
生活を送っている︒水 力 発電
ており︑発電機のカバーには
それから
に役立ってきた︒
足は慢 性 化していた︒このよ
う︒水 力という国 産の︑再 生
地元の小 学1・2年 生のかわ
戦後の高度経済成長期︑電
ができる︒
田子倉発電所では水力発電の
可能なエネルギーを今後も大
いらしい手 形を活かして︑花
年という節目を迎えた今︑
未来を見据えた工事 が進んで
施設の効率アップは重要だ︒
切に使っていくために︑既存の
機器に対し︑小規模の補修の
さらにもう1つ︑この工事
前が書きこまれ︑何十年か経っ
る︒1つひとつの手 形には名
やもみじの図案 が描かれてい
たあとに小さかった自分の手
ある︒新たなダム建設 がむず
かしく なった 今の世にあって
には見 逃してはいけない点 が
電機に取り替えれば最大出力
形を探しに訪れる人があるだ
から
も︑水力発電の技術の継承は
万
万 へと5%
を
今の私たちの豊かな暮らし
ろう︒
kW
40
アップさせることができるとい
は︑過去の先達の先行投資の
ちの子孫へも少なくとも同等︑
とに新しいメンバー が担 当す
できれば今以上の幸せを享受
が 今 を 享 受 す る な ら︑ 私 た
残り3基の運転を続けながら
させてあげたいと願う︒未来
上に成り 立っている︒私 たち
の発電機の交換は8年 がかり
へのあたたかいまな ざし が素
れている︒夏場のフル稼働や︑
れているというお話だった︒
直に心に響いた︒
で︑現 在ほぼ半 ばまで進めら
るよう︑人材育成の配慮もさ
のため発電機の交換は1基ご
つづけていかねばならない︒そ
朽 化も進み︑最 新の水 車・発
50
みを行ってきた︒それゆえに老
ある水車や発電機などの主要
いる︒ここでは
年 間︑4基
50
発電所には一般の人たち が
取材=2009年11月17・18日
50
kW
現在工事中の3号機。
組み込まれる新しい水車。
最大使用水量
田子倉電力所
仲丸郁夫所長
36
田子倉ダムの堤頂から下流を見る。奥に見えるのが只見ダム。
更新された4号機では水車が高速で回転していた。
37
38
只見町内のかわいらしい小学1・2年生の手形でデザインされた4号機。
福島県南会津郡
只見町
下流から見た田子倉ダム。
所在地
❖御母衣発電所
photo by 吉田 敬
しょうかわ
み ぼ ろ
岐阜県高山市 荘 川 町。御母衣湖畔を
走る国道156号沿いに2本の桜の巨木
「荘川桜」がたたずんでいる。樹齢およそ
450年といわれる2本の桜は、
1960
年 月、御母衣ダム建設に伴う水没から
救うために、この高台に移植され、翌年
春には見事な花を咲かせた。
白山連峰およびそれに連なる山々か
しょうがわ
ら流れ出た一色川、御手洗川などの水が
合流した一級河川「庄川」は、水が豊富
なことで知られ、米があまり獲れない飛
騨地方にあっては珍しく、荘川一帯は古
来米づくりが盛んに行われてきた。それ
ゆえ、住民たちの故郷への愛情は非常に
大きかったのだろう。その思いに応える
べく、Jパワー(電源開発株式会社)初
代総裁・高碕達之助が下した決断がこ
の2本の桜を救った。
荘川桜が芽吹いたとされる450年前
といえば、武将たちが活躍した戦国時代
だった。さまざまな時代を生き抜いてき
た2本の桜はもうすぐ、移植成功から
回目の春を迎えようとしている。
50
世紀の大移植から50年を迎えた荘川桜。
文:豊岡 昭彦
晩秋にたたずむ荘川桜。
12
Global Edge 2011年冬号
(No.24)より転載
ぼ
ろ
青木 奈緖
線
本
山
高
JR
道
車
動
自
陸
北
海
東
56号
国道1
が豊 富で︑集 落は米どころとして
山 深い場 所なのだが思いのほかに
0人の説 得にあたったのは︑ダム
水没地域の住民240戸120
写真:吉田 敬
Global Edge 2011年冬号(No.24)より転載
縁あって人と土地と
﹁古きものは︑古きが故に尊い﹂
しょう
このひとことにつくせぬ思いを
かわ
こめた桜の老樹が岐阜県高山市 荘
しょう
川 町にある︒南北に長い岐阜県に
がわ
北から入って︑国道156号を 庄
み
川 沿いにさかのぼる︒やがて見え
てくる大きなダムを御母衣ダムと
いう︒
その 水 面 を 見 はら す 展 望 台 に︑
立派に枝を張った2本の桜がある︒
荘川桜の名で親しまれ︑樹齢は推
定でおよそ450年ともいわれる︒
木の周囲には枝を支える支柱が何
本も立てられ︑根元は踏み荒らさ
れないよう 柵で囲ってある︒ひと
目で行き届いた手入れをされてい
ることが見てとれる︑大 切にまも
られた老桜である︒
2本の桜はもとからこの場 所に
あったわけではない︒
栄えていた︒降ってわいたダム建設
谷がゆるやかで︑残された当 時の
建設を行ったJパワー︵ 電源 開 発
の話は︑地元の人たちに容易に受
写真を見ると平地が広く︑冬期の
株 式 会 社 ︶の初 代 総 裁・高 碕 達之
と呼 ばれていたこのあたりの集 落
降 雪が2mにも達することから水
け入れられるものではなかった︒
年︵1952年︶
︑荘川村
魚帰りの滝
花咲く里 の水 の恵み
〜岐阜県高山市〜
荘川桜について、御母衣電力所 木下冨士春所長から説明を受ける筆者。
40
荘川町のランドマーク・五連水車は最
大のものが直軽13mで、五連水車とし
ては日本一の大きさ。
荘川IC
岐阜県
に大規模なダム建設が予定された︒
昭和
そばの里荘川・五連水車
御手洗川の渓谷
飛騨荘川の里
御母衣湖
荘川桜
国道158号
飛騨清見IC
青木 奈緖(あおき・なお)
高山市
J-POWER
御母衣ダム・発電所
高山陣屋
MIBOROダムサイドパーク
御母衣電力館
小説家、エッセイスト。東京
都生まれ。学習院大学文学
部大学院修士課程修了後、
ウ
ィーンに留学。
1989〜98年、
ドイツに滞在。帰国後、
『ハリ
ネズミの道』でエッセイスト
としてデビュー。雑誌「婦人
之友」に小説「風はこぶ」を
好評連載中。
41
27
白川郷合掌村
Global Look
❖御母衣発電所
Global Look
m上まで持ちあ げた︒こうし
て世界的にもめずらしい古木の移
差
近が雪に閉ざされるまでのひと月
植が行われ︑2本ともにその甲 斐
木が落 葉して眠りについてから付
あまりで行われた︒笹部氏の指導
あって命をつないだ︒
荘川桜は県指定の天然記念物と
のもと︑当 時︑東 海一の植 木 職 人
といわれた丹羽政光氏︵1908〜
して︑今も毎 年4月末から5月に
かけてこぼれんばかりに花をつけ︑
1965年︶が作業にあたった︒幹
トン近くとい
県外からの花見 客も多い︒もの言
の太さ6m︑重量
う巨木を掘り起こして慎重に刈り
わぬ樹木に失われたふるさとを思
企画庁長官を歴任し︑日ソ漁業交
る︒高碕氏は通産大臣や初代経済
助氏︵1885〜1964年︶であ
がこめられていたのだろう︒
がとしてもらいたいという 気 持ち
にせめて村の暮らしをしのぶよす
ヒガンザクラの古 木に出 会う︒自
光 輪 寺というお寺の境 内でアズマ
湖底に沈むこととなる集落を訪れ︑
高 碕 氏 は ダム 建 設の 合 意 後 に
あえるものではなかった︒も う1
れた笹部氏にも老桜の移植は請け
だった︒ところが︑桜 博 士と呼 ば
新太郎氏︵1887〜1978年︶
みの綱が桜 研 究の第一人 者︑笹 部
そうはいっても︑年を経た老木の
然愛好者でもあった高碕氏は桜の
本同じような桜の巨木を光輪寺近
渉で政 府の代表を務めるなど︑誠
移 植を思いつき︑冒 頭にかかげた
くの別のお寺に見つけ︑2本のう
移 植は容易ではなく︑どの専門 家
﹁古きものは︑古きが故に尊い﹂と
ち1本でも 根づかせることができ
実で類まれなリーダーシップの持
いう言 葉を語ったと言われる︒国
たらと︑2本一緒の移植が決まった
へ依 頼しても断られるばかり︒頼
の電力不足を解消するために集落
という︒
ち主だったという︒
の暮らしを犠 牲にせざるを得ない
年︵1960年 ︶
︑
たが︑朝 方から降り出した雨が雲
移 植 は昭 和
う住民の胸の内が託され︑人の寿
切れして明るい陽ざしが降り注ぐ
という苦渋の思いと︑移転後の人々
命をはるかに超えるスケールで歴
と︑洗われたもみじはため息が出
るほどの美しさ︑あでやかさである︒
1枚と︑地面に落ちた色も形も違
あまりに見 事な彩りに1枚︑また
名古屋と金沢を結ぶ国鉄バスで
うもみじを手にとれば︑たちまち
を超える種類の葉が手元で錦を
心を動かされ︑道路脇に桜を植え
競う︒もみじの名所・御手洗川で︑
ほお
そうして集めた葉の中で︑ひと
植えた苗木は2000本にも及ぶ︒
桜の実から二世桜を育て︑生涯で
噌を焼く︒香り高い朴葉味噌は飛
使う時には湯通しして葉の上で味
の朴葉を塩水で洗って乾燥保存し︑
ほお ば
きわ大きいのが朴の葉である︒こ
現 在でも地元の有 志によってその
騨 地方 独特の郷土料理で︑泊まっ
年︵1970年︶からは荘川
遺志が引き継がれ︑国 道156号
た旅館の朝 食にも出されたし︑名
みじはこんなものではないと言われ
遅かった﹂と︑暗にこのあたりのも
地 元の人 には﹁ 1週 間 来るのが
葉を踏めば足元に秋の香りが漂う︒
に散り敷かれたカラマツやカツラの
目で楽しむばかりではなく︑地面
えるような赤 を添える︒もみじは
となる針 葉 樹の緑と︑桜や楓が燃
は黄金色に輝き︑そこへアクセント
ナラや ブナが 多いことから︑秋に
に染まっていた︒このあたりの山は
その桜が︑訪れたころにまっ赤
なった︒
は﹁さくら街道﹂と呼ばれるように
昭和
夢見た︒個人で地道な活動を始め︑
束の間のもみじ狩りを楽しんだ︒
9〜1977 年 ︶が老 木の移 植に
車掌をしていた佐藤良二氏︵192
さらなる後日談がつづく︒
さて︑荘 川 桜のエピソードには
史が生きて語られている︒
35
て太平洋と日本 海をつなぐことを
20
50
こみ︑距 離 にして600m︑高 低
荘川桜は毎年4月下旬から5月上旬にかけて開花、大勢の人が春の訪れを楽しむ。
荘川町は紅葉も美しい山村。右上・魚帰りの滝、右下・荘川の里、左・御手洗渓谷。
※碑文は初代総裁・高碕達之助作、第四代総裁・藤井崇治書。なお、
「みなそこ」は高碕の詠んだ原文では「湖底」であるが、藤井の書では「水底」となっている。
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2本の桜の間にある高碕達之助の歌碑。
「ふるさとは 湖底(み
なそこ)となりつ うつし来しこの老桜 咲けとこしへに」※
飛騨地方の郷土料理、朴葉味噌は香り高い一品。
43
45
40
Global Look
産の飛騨牛とあわせて焼く豪勢な
長い冬に漬物は食卓に欠かせな
くなりましたけどね﹂とことわった
た年配の人は﹁若い人はもう使わな
といえばそうではなく︑話 を 伺っ
客向けの料理になってしまったのか
では︑朴 葉 焼きはすっかり観 光
飯のおかずに気取らない味が実に
ステーキと呼 ばれて︑酒の肴やご
をして卵でとじる︒最 近では漬 物
で炒め︶
︑鰹節などで好みの味つけ
上で温め︵あるいはフライパンで油
てしまった白 菜の切 漬けは朴 葉の
い︒熟成が進んで酸味がきつくなっ
上で︑ご自 身は今も山へ行った帰
おいしい︒
一品は観光客に人気だ︒
りに朴葉を持ち帰り︑ひと冬の間
に忙しく︑収 穫されたばかりの赤
空は充 分 明るいが︑高い山の峰に
温がさがる︒午後まだ早い時間で︑
山里では傾く日が山の端にかか
かぶが水 場にざぶっと 漬けてあっ
は 白い雪 雲 がかかっている︒も う
になん度か︑味 噌を焼いて奥さん
た︒青い茎はぴんと 立って︑鮮 度
まもなく里も雪におおわれる日が
ると︑それまで届いていたあたた
がいいことがひと目でわかる︒木
やってくるのだろう︒雪は長い冬の
と一緒に素朴な味を楽しむという︒
桶の縁には大きな亀の子たわしが
象 徴のようにも感じられるが︑そ
かな陽ざしがさえぎられて急に気
ひとつ︒赤かぶを甘酢や塩で漬 物
れは同時にこの地が豊かな水に恵
里へおりてくれば家々は冬支 度
にすれば︑表面の赤さが全体にほ
まれていることも意味している︒
らの飛騨地方の暮ら
が集められ︑古くか
0年以上前の民家
だという︒
こたえる︑雪 国 独 特のつくりなの
は︑豪雪の重みを屋根全体で持ち
ずに縄でしばって組みあげる屋根
屋 合 掌 造りと呼ば
ばれる水力を使った穀物調整機を
園内の一隅に﹁からうす小屋﹂と呼
そうした歴史ある建物とともに︑
れる茅葺き屋根の家
そなえた小屋が残されていた︒大き
る五連水 車である︒こちらは平 成
年︵2003年︶につくられ︑五
杵 をつくきつい労 働
米などを行 う︒足で
杵 をついて脱 穀や 精
まると︑その 重みで
樋 に 水 がいっぱいた
をいかして荘川町は日本一のそばの
行われ︑清らかな水と冷涼な気候
では石臼を 使ったそば粉づくりが
えるものでも5m前後はある︒ここ
きな 水 車は 直 径
連水 車としては日 本 最 大︒一番 大
mで︑小さく見
を豊富な水力が代行
催されている︒
里を目ざし︑秋にはそば祭りが開
年
われていた︒
まにかこの地を流れる庄川に導か
代 官 所となった屋敷である︒立派
徳川幕府の直轄地となってからは︑
しい歴史 資 料 館なのだが︑屋敷を
れ︑山里の水のめぐみを楽しむ旅
帰りがけ︑高山陣屋を見学した︒
﹁ から う す 小 屋 ﹂と
大規模にしたものが︑
めぐるうちに︑随所にある釘隠し
お祈り申し上げます︒
卯年の初めに︑皆様のご多幸を
匠に出会ったのも︑旅すればこそ︒
こんなかわいらしいうさぎの意
ける吉祥紋となる︒
子だくさんゆえ子孫繁栄の願をか
ら︑火伏せのおまじないにもなり︑
波と組みあわせで描かれることか
こめられていた︒さらにうさぎは
と︑武 家にとっての戒めの意 味が
い耳は人の話 をよく 聞 くように
さぎの意匠で︑真向 兎 という︒長
まっこううさぎ
真正面を向いたかわいらしいう
に目が吸い寄せられた︒
かつての高山城主の下屋敷であり︑
なつくりで︑駆け足の見 学には惜
高山陣屋は、全国で唯一現存する江戸時代の代官所。
へと変わっていた︒
桜の古 木を 訪ねる旅は︑いつの
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同じしくみをもっと
︵1909年︶まで使
屋は実際に明治
した 好 例で︑この小
鹿 威しと同じ原理で
しし おど
な唐臼に穀物を入れ︑
で︑釘 を一本 も 使 わ
や がっ しょう づく
いわゆる寄棟 式 入母
よせ むね しき いり も
しを今に伝えている︒
ると︑園 内には20
﹁ 荘 川の 里 ﹂を 訪 ね
んのり色移りして食欲をそそる︒
木桶に浸された飛騨地方特産の赤かぶ。
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「真向兎」といううさぎの釘隠し。
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荘川の里には、寄棟式入母屋合掌造りの民家やか
らうす小屋が保存され、住民の生活の一端を知る
ことができる。
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﹁そばの里荘川﹂にあ
五連水車では石臼を使ったそば粉づくりが行われ、
「そばの里」荘川をアピールしている。
Global Look
御母衣発電所の概要
岐阜県大野郡
白川村
ダム堤体高
最大出力
21万5,000kW
有効落差
192.1m
最大使用水量
130m3/s
運転開始
1961年1月
きとめている部分をダムの堤
水 をせきとめている︒このせ
しか建設することができない
ムは︑しっかりとした岩 盤に
できない︒そのため重力 式 ダ
洗掘されて堤体を保つことは
設にあたり地質調査をすると︑
と こ ろ が︑ 御 母 衣 ダ ム 建
年
ト 自 体 の 重 さ︵ つ ま り 重 力 ︶
このあたりの地質は弱く︑重
奥只 見 ダムとともに約
ムのひとつである︒それぞれ
る︒少し乱暴なたとえをすれ
で水圧に耐 えるしくみであ
ダムである︒一見 して ダム が
あるのに対し︑御母 衣はロッ
ほか2つのダムが重力式で
さん寄りかからせても大丈夫
おけば︑そこに文庫本をたく
を ブックエンド代わりにして
ば︑広辞苑のようなぶ厚い本
かった︒
い岩盤に到達しないことがわ
大な掘 削を行わなければ硬
力式 ダムをつくるためには膨
れており︑素 人目にもはっき
たまりを地盤にぴったりつけ
問題は︑コンクリートのか
となるのは水を透さない粘土
が︑ロックフィルの堤体で中心
採用されることになったのだ
そこでロックフィル ダムが
り区 別 ができる︒今回は︑こ
なければならないことである︒
というイメージだろうか︒
の ダムの違いについて見てみ
層である︒この粘 土層 が崩れ
ときは︑2台の発電機が轟々
知ることばかり︒お訪ねした
中小の規模 ばかりで︑高さ1
クフィルダムはあったものの︑
御 母 衣 以 前 に 日 本 に ロッ
クフィルダムの利点である︒
とめること ができるの がロッ
い地盤でも安定して水をせき
にならないほど大 きいが︑弱
体の裾野が広く︑体積も比較
う︒重力 式 ダムに比べると堤
ないように押さえこんでしま
量の岩石を積み重ねて︑動か
ら支え︑さらにその外 側に大
もしコンクリートとのすき間
ようと思う︒
は︑今もダム近くで目にする
ないように砂や砂利で両面か
ダムは発電のために大量の
00mを 超 えるロックフィル
ことができる︒
※但し、
ゴールデンウィーク(4/29〜5/5)
夏休み期間(7/21〜8/31)
紅葉期間(10/10〜11/10)
は無休。
12月中旬〜3月中旬までは閉鎖
ダムはこのとき が初めてだっ
とこちらの胸に響く音をたて
て高速回転していた︒御母衣
の最大発電出力は ・5万
見学者も多いという︒
川郷 があるためか︑外国人の
のぼる︒近くに世界遺産の白
おり年間見学者数が数万人に
荘川桜の紹介などが行われて
での記録や︑発電所のしくみ︑
内では御母衣ダムができるま
ク 御母衣電力館﹂がある︒館
﹁MIBOROダムサイドパー
衣 ダムを正面に望む場 所に
岩石で埋めつくされた御母
る︒
で︑関西方面に供給されてい
kW
このような経緯でつくられ
休館日:水曜日
21
た御母衣ダムだが︑周囲の環
電話番号:05769-5-2012
ばれ︑ダムの材料となる粘土
右から、両サイドに送電線が通る地下通路、発電機軸、作業者が地上と行き来するためのインクライン。
に水 が浸入すれば︑どんどん
ゴツゴツとした岩石でおおわ
クフィルという 種 類の異なる
と呼ばれている︒
の頭文字をとって﹁O.T.M.
﹂
地下にある配電盤室。現在は遠方制御されている。
御母衣発電所
体というのだが︑重力式のダ
のである︒
号︑
くることにより︑コンクリ ー
ムはコンクリートで堤 体をつ
御 母 衣 ダ ム は︑︵ 本 誌
前に相前後して完成したJパ
号 で 訪 ね た ︶田 子 倉 ダ ム︑
ワーを代表する水力発電用ダ
20
50
た︒アメリカから技術者 が呼
境をまもり︑落差を有効利用
開館時間:9:00〜16:00
御母衣ダムの全景。湖の総貯水容量はロックフィルダムでは日本で2番目に大きい。
2基の発電機は地下約210mに設置されている。
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と大量の岩石を調達した場所
約210m下に地下発電所 が
するためにダム左岸直下から
ある︒トンネルで地中深くお
りていくと︑発電機 が設置さ
れているのは︑地下シェルター
のような広い空間である︒定
期的な保守点検では︑巨大な
発電機の部品を1つひとつク
レーンでつりあげ解体するた
め︑これだけ がらんとした広
い空間が必要なのだ︒
水力発電所の見学3カ所目
未来的なデザインの﹁御母衣電力
館﹂では︑﹁荘川桜﹂の物語やロックフ
ィルダムのしくみについて映像や資
ができます︒電力館の前庭は飛騨の
料︑アトラクションで詳しく知ること
自然と巨大なロックフィルダムを眺
取材=2010年11月11・12日
望できる公園となっており︑静寂な自
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となっても︑まだまだ初めて
MIBOROダムサイドパーク 御母衣電力館
水圧鉄管の巨大さと轟音に驚く筆者。
然に囲まれた空間でゆっくりと流れ
住所:〒501-5505
岐阜県大野郡白川村大字牧140-1
る時間をお楽しみいただけます︒
●施設情報
131m
所在地
2011年1月発行
発行:電源開発株式会社
〒104-8165 東京都中央区銀座6-15-1
URL: http://www.jpower.co.jp/
TEL.03-3546-2211(代表)
e-mail: [email protected]
編集・発行人:広報室長 大倉 雅哉
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