第5章 川にかかわる文学・詩歌等 5-1.文学作品に描かれた県東南部の川 (1) 文学作品と県東南部の川 1)万葉集の歌 万葉集に、現在の三郷市地先を詠んだ歌として次の歌がある。 にへ におどりの葛飾早稲を饗すとも かな と 其の愛しきを外に立てめやも 早稲田の地名が残る三郷市は、かつての利根川や渡良瀬川が流過しており、 現在は東に江戸川、西に中川(往年の古利根川)がある。自然堤防や砂丘が流域の 各地に残しているこれらの大河川は、かなりの頻度で氾濫を繰り返し、流域に 水害をもたらした。洪水氾濫は、一方では肥沃な土をを供給する。これらの地 域の稲作は、洪水前に稲刈りを行うとして、早稲の品種を植えたと伝えられ、 地名に残されている。 万葉集の時代、人々が住んで水田開発を行い、すでに和歌の文化が東国に浸 透していた。この万葉集の歌は、川の風景は捉えることが出来ないが、神に収 穫を奉げる儀式から、流域の姿を想像することができる。 2)伊勢物語の東国 伊勢物語に隅田川が記されている。隅田川と呼称される川は 3 箇所あり、埼 玉県に 1 箇所(さいたま市岩槻区)ある。伊勢物語で在原業平が読んだ隅田川 は東京都内のものである。 業平は、埼玉県の入間郡三芳村(三芳の地先は諸説あり)で雁の野を詠んでい る。仁寿元年(851)、さいたま市にある調神社を参拝したともいわれており、そ のときに次の詠んだ。 さしおくもかたみとなれや末の世に 源氏さかえハよし竹となれ さいたま市大久保の神田には、葭竹(よしたけ)弁天という小さな弁天社が祀 られているという。業平は、さいたま市や入間郡に足を運んだことが想像され る。 - 115 - 3)埼玉東南部の川に関る文学作品の作者・作品名 埼玉県内の東南部に限定して、川に関る文学作品等は、表-1のとおりであ る。浦和・大宮・川口・越谷・春日部など東南部を訪れた作家や俳人は多数あ げられる。同表は川との関わりが近いと思われるものを調査し、掲載した。 表―1 系 列 作 埼玉東南部の川に関る文学作品の作者・作品名など 者 和 歌 日 記 在住 来県 〇 作品名・河川に関わる内容の有無など 摘 △「万葉集」3386 文 306 要 在原業平 〇 △「伊勢物語」 文 228 御深草院二条 〇 ○「とはずがたり」入間川など 筑摩書房 小林一茶 ○ ○「寛政三年紀行」戸田の渡り 文 226 〃 大田蜀山人 〇 〇「仁戌紀行」享和二年(1802) 文 225 見聞録 十方庵敬順 〇 〇「廻国雑記」 平凡社 小 中島 敦 〇 △「山月記」 「かめれおん日記」 文 158 〃 〃 野口冨士夫 一色次郎 〇 〇 〇「死んだ川」早川三郎の生涯 〇「下流から下流へ」 文 167 文 168 〃 後藤明生 〇 〇「思い川」松原団地周辺 文 170 〃 〃 〃 〃 〃 豊田三郎 太宰 治 早船ちよ 小泉 譲 佐藤紅緑 ○ 〇 〇 〇 ○「青春」 △「人間失格」小野沢清澄宅で執筆 〇「キューポラのある街」 〇「火の報酬」背景は鋳物工場 〇「ああ玉杯に花うけて」 文 175 文 194 文 212 文 213 文 220 〃 水上 勉 〇 △「フライパンの歌」「冬日の道」 文 257 〃 加藤周一 〇 〇「羊の歌」「ある晴れた日に」 文 249 劇作家 福田恒存 〇 〇「キテイ台風」 文 231 記 録 河田 楨 〇 〇鴨川・鴻沼川 文 220 歌 人 〃 俳 句 西行法師 大西民子 鈴木壮丹 ○ 〇 ○ △古利根川を渡る。 「まぼろしの椅子」「雲の地図」 大島蓼太に師事、遊俳 め 48 文 196 め 271 〃 加藤楸邨 〇 「鶏園」 文 251 〃 長谷川かな女 〇 昭和 5 年 9 月創刊「水明」 文 262 評 論 荒 正人 〇 △「第二の青春」 め 56 詩 宮澤章二 〇 〇「埼玉風物詩集」「空存」 文 197 〃 星野丑蔵 〇 〇野田の鷺山 文 233 〃 神保光太郎 〇 〇「鳥」「雪崩」「冬の太郎」 文 241 〃 宮崎健三 〇 「寒雷」「春燈「北涛」「鬼道」「古典」 文 236 〃 北川冬彦 〇 北川章一改名、「戦争」「氷」 文 256 〃 秋谷 豊 ○ 「地球」「山河」 め 257 〃 三好達治 ○「牛島古藤歌」 文 177 〃 大木 実 「場末の子」「屋根」「路地の井戸」 文 275 〃 紀 行 説 〇 〇 〇 ○ 文:埼玉の文学、め:埼玉の文学めぐり 文 164・ 〇あり、△なし - 116 - (2)県東南部の川に関る記述 1)「とはずがたり」御深作院二条 「とはずかたり」は鎌倉中期に記され、宮廷女流の日記文学の系列に入る。前 半は宮廷生活の男女交流、後半は西行を慕った長途の旅の体験を描いている。 関東に至って現在の荒川を入間川と述べ、川口の地名や善光寺がすでに有名で あったことを記している。 筑摩書房 冨蔵徳次郎訳 P335 師走になりて、河越の入道と申す者の跡なる尼の、武蔵の国に川口といふ所へ 下る。あれより年返らば善光寺へ参るべしといふも、便り嬉しき心地して、罷 りしかば、雪降り積りて、分け行く道も見えぬに、鎌倉より二日に罷り着ぬ。 かやうの物へだたる有様、前には入間川とかや流れたる。向かへには、岩淵 の宿といひて遊女どもの住家あり。 筑摩書房 冨蔵徳次郎訳 P338 さても、隅田川原近きほどにやと思ふも、いと大いなる橋の、清水、祇園の 橋の体なるを渡るに、きたなげなき男二人逢ひたり。 「このわたりに隅田川と川 の侍るなるはいづくぞ」と問へば、 「これなんその川なり。この橋をばすたの橋 と申し侍る。昔の橋なくて、渡船にて人を渡しけるも、煩はしくとて、橋出来 て侍る。隅田川などは、優しき事に申し置きけるにや。賎が言わざには、すた 川の橋とぞ申し侍る。この川の向へをば、昔はみよし野の里と申しけるが、賎 が刈り乾す稲と申す物に実の入らぬ所にて侍りけるを、時の国司、里の名を尋 ね聞きて、「理なりけり」とて、よし田の里と名を改められて後、稲うるはしく 実も入り侍る」など語れば、業平の中将都鳥に言問ひけるも思ひ出でられて、 鳥だに見えねば、 尋ね来しかひこそなけれ隅田川棲みけん鳥の跡だにもなし 2)「廻国雑記」十方庵大浄敬順 作者の十方庵大浄敬順(1762~1832)は宝暦 12 年に生まれ、没年は天保 3 年 といわれている。文化 9 年(1812)、江戸小日向水道端の本法寺で隠居し、江戸 内外の民俗・歴史等を聞き取りしたものを収録したものである。文化 11 年(1814) 初編、文政 12 年(1829)5 編を完成した。 - 117 - 「廻国雑記」二拾五 「遊歴雑記所編 2」東洋文庫 P59 武州羽黒山大権現は、戸田川のわたしを越、左の方弐町にあり、則ち川にそひ、 (略)此地戸田の川側なれば、折として出水の節の用心にや、庵室は本社より も高く作り、宮の左に崖作りにせり、(略) 一 戸田川のわたし場の風色、船待する間、往返に両岸にただすみて暫く川添 の様子を景望するに、一品ありて面白し、(略) 「廻国雑記」 「遊歴雑記所編 2」東洋文庫 P711 稲穂(下総)をたちて行ける道に、いろいろの名所とも侍、いひ捨の発句・ 歌なとあまた侍りしかとも、途中のことなれは、記すにをよハす、あやしの橋 といへるところにて、 川かせの渡る霧まにほのミえてあやしの橋の末そあやうき 岩つき(埼玉郡)といへる所を過るに、富士のねにハ残紅葉色々にみえけれハ、 よミて同行の中へ遺しける、 ふしのねの雪に心をそめてみよ外山の紅葉色深くとも 「同」 P103 又三(ミツ)には、武州岩槻より東北の方凡壱里ばかりに、崎玉郡新方領の内 新方袋村とかやいえる村に横たわる古隅田川と称する小川あり、里人の伝えい ふ、むかしは大河にして、堤と堤の間相へだたる事百四五十間も川幅ありしよ し、旧記に見ゆ、しかるに、いつとなく川添の縁通り皆田となり、今僅に五六 間、又広き処漸く八九間に過ずして、東北に流れ、粕壁の駅の上にいたりて古 利根川に合流す、 3)「壬戌紀行」大田蜀山人 享和 2 年(1802)、大田蜀山人が赴任地の大坂から江戸への帰路を記した旅行 記である。中山道の氷川神社参道から高台橋を渡った地点を次のように記録し ている。 「埼玉の文学」P225 土橋をわたり(堰のごとし)ゆけば、「自是北早川八郎左衛門支配」といえる 榜示あり(御代官なり)左右に檜のなみ木あり、くさぐさの木もまじれり、人家 もまま見ゆ、 - 118 - 4)「下流から下流へ」 一色次郎 昭和 22 年 9 月、関東地方を襲ったカスリーン台風は埼玉平野に大被害を及ぼ した。利根川と荒川の堤防決壊で、埼玉平野の大部分を水没させた。作者の一 色次郎は、洪水氾濫からボートで脱出する男女 6 人の行動を描いた。なお、作 者は本名の大屋典一で、昭和 28 年の「中央公論」夏季増刊号に発表した。 「埼玉の文学めぐり」P57 上野駅から東北本線を一時間ばかり走ったあたりに久喜という町がある。利 根川と元荒川に挟まれた中部関東平野の湿地帯に出来た宿場町である。急行列 車が見捨るほどだから、特に際立った名所名物というようなものを持たない小 駅だったのだが、終戦から二年目の秋に、思いがけない旅客が殺到した。― 大 洪水の時、久喜は決壊地に近い栗橋・幸手へ連絡する最適の地点にあった。 ここから、幸手へむかって、濁流の中を漕ぎ出した一艘のボートがあった。 男女六人が乗っていた。(略)久喜から幸手まで、およそ4キロ、その距離を 濁流に流されてボートは夜をはさんで二日間、漂い続ける。古茎、青毛、上高 野、幸手駅辺りだ。(略) 5)「思い川」後藤明生 松原団地の景観を「日本一つまらない」などと憎悪する主人公が、つくし採り を機に、綾瀬川の魅力に取りつかれてしまう。 6)「雲の地図」大西民子 旧大宮市堀の内 1 丁目に住む。「まぼろしの椅子」、「雲の地図」、「野分の章」 などの作品がある。標記の歌集に、次の芝川を描いたものがある。 「埼玉の文学」P196 橋の上に 立ちて淀みに ふり撒かむ 花びらは湧け わがもろ手より 7)「キューポラのある街」早船ちよ 昭和 34 年、 「キューポラのある街」は雑誌「母の子」に 14 回連載された。小説 の舞台は川口市の鋳物工場地帯である。映画化され、荒川の堤防のほか菖蒲川 も実写されている。 - 119 - 8)「青年」森鴎外 明治 43 年(1910)当時の大宮公園は「青年」の中に、次のように描写している。 落葉の散らばってゐる、幅の広い道に、人の影も見えない。なる程大村の散 歩に来さうな処だと純一は思った。 二人は氷川神社の拝殿近く来た。右側の茶屋から声を掛けられたので、殆ど 反射的に避けて、社の背後に曲がった。落葉の散らばってゐる小道の向うに木 立に囲まれた離れのやうな家が見える。三味線の音はそこからする。四五人の とよめき笑ふ声と女の歌ふ声とが交じって来る。 (略)社の東側の沼の畔に出た。 葦簣を立て繞らして、店をしまってゐる掛茶屋がある。 「好い処ですね」と、純一が言った。 「好からう」と、大村は無邪気に得意らしく言って、腰掛けに掛けた。 大村が紙巻煙草に火を付ける間、純一は沼の上を見わたしてゐる。 9)「写生旅行」 寺田 寅彦 大正 11 年(1922)1 月号の大宮公園に掲載された大宮公園の風景である。寅 彦は絵具箱を持って訪れた大宮公園を次のように記している。 「埼玉の文学めぐり」P273 いつの間にか宮の裏へ抜けると、可也広い草原に高く聳えた松林があって、 其処にさっきの女学生が隊を立てて集まって居た。遠くで見ると草花が咲いて 居るやうで美しかった。 旗亭の一つにはひって昼飯を食った。時候はずれでそして休日でもないせゐ か他にお客は一人もなかった。(略)近頃の新しい画学生の間に重宝がられるセ ザンヌ式の切通し道の赤土の崖もあれば、そのさきには又旧派向きの牛飼小屋 もあった。 10)「青 春」 豊田 三郎 「埼玉の文学めぐり」P18 旧制静岡高校の学生明石は帰省して中川のほとりを歩く。 「彼は武蔵野と葛飾 の境を流れる中川河畔の草原を歩き、そこに長い時間、うずくまっていた。彼 は雲の変化と耐え間ない水の動きとを見つめた。葛飾の青い森が河面に映り、 まれに蜩蝉の声がひびいて来た。」(略) すべてが、佐知子につながる、ここを訪れた友人の重見に、河流をながめなが ら明石は、言う。 「僕はこの河が好きなんだよ。流れをみていると倦きないもの だな。自然の生命がリズムを立てて動いているように見えるんだ」 - 120 - 11)「屋 根」 大木 実 東京生まれで昭和 21 年(1946)に大宮に住む。同 25 年上小町の台地に転居 した。次は現一級河川鴻沼川の風景である。 「埼玉の文学めぐり」P274 雨に濡れ 雨に昏れた家々に燈が点った 家家のうしろを川が流れていた その川の上にも雨は降っていた 川の向こうにも 知らぬ町々は続いていた その町町の燈も煙っていた 12)「死んだ川」 野口 冨士夫 著者は、昭和 20 年 10 月から同 22 年 3 月まで妻の実家(越谷市中町 早川仁 三氏宅)に疎開し、小説『死んだ川』を書いた。歯科医で南画を描く早川三郎(号 「仙舟」滝和亭の弟子)の生涯を著した作品である。 この文中、冬季は川床を露呈すると書かれている。元荒川は、昭和 30 年代初 め葛西用水と用排分離を行った。このため、現在は水深が浅くなるが、川底を 見ることができない。 「死んだ川」より 「埼玉の文学」P166 平野の中をうねってたゆとう緩やかな水路で、冬季は寒々とした平坦な川床 を露呈するが、苗代の始まる季節には下流の堰を停めて満々と水がたたえられ、 川というより、水の通る路という印象ばかりが強まる。 13)「白 鷺」 野口 冨士夫 「白鷺」には元荒川の大沢橋を彷徨する場面が最後にでてくる。 「埼玉の文学」P167 ――彼女は立ち停まった。そして、ちょうどその瞬間点ぜられたむこう岸に ならぶ料亭の燈の、チロチロと川の水に映っては揺れる光を、何か可憐なばか りに美しいと眺め、はっと気がついて、その光を遮ぎるように、一瞬、水面す れすれのところを翔んでゆく、何かもう翼の色までもが灰色に認められる白鷺 - 121 - の姿を見送った。 白鷺―― 天翔る孤独なその鳥の姿にお蝶はいつも自分の運命の転変を思い知らされて きた。一八歳のとき二四も年上の夫と結婚し、つぶさに世故の辛酸をなめ尽く したお蝶にとって、このときの白鷺こそは、桃割れ髪もういういしかった己れ の若き日の幻影であったろうか。 14)「冬の太郎」 神保 光太郎 浦和に在住した詩人の神保光太郎は、埼玉県の風景をうたった詩集を作成し ている。昭和 18 年(1943)に著した第 4 詩集「冬の太郎」の中に、かつて見沼田 圃に生息していた白鷺がうたわれている。1200ha に及ぶ見沼田圃を囲む台地の 東岸に、「野田の鷺山」がある。台地縁辺の斜面林と人家が点在する屋敷林に、 江戸時代から白鷺が群れをなして営巣していた。 「憑くかれた魂の孤独」 昭和 15 年発表第 4 詩集 冬の太郎(昭和 18 年) 「鷺」 「鷺」抜粋 おまへ達を再び母なる土地へ呼ぶのは 草青む豊沃地帯を棄て 月に美はしい山々を越えて おまへ達は 今年も亦 ここ 古びた村落に渡ってきたのか 15)「百萬両秘聞」 三上 於菟吉 三上於菟吉は大衆文学の雄の一人であり、時代小説を才気と絢爛を極めた筆 力で君臨した(秋谷豊「埼玉の文学」)。代表作は「百萬両秘聞」はじめ「雪の丞変 化」、「淀君」などある。 三上は埼玉県の出身で、江戸川に面する宝珠花に近い春日部市木崎地先であ る。当時は渡しと河岸場で賑わっていた。現在は江戸川が西側に拡幅されて当 時の宝珠花村が二分されている。 「百萬両秘聞」は昭和 3 年に出版され、江戸川沿岸の旧宝珠花村(現春日部市西 宝珠花)周辺を舞台に描いている。江戸時代の軍学者、由井正雪画が宝珠花に隠 - 122 - したという百万両の謎をめぐる攻防をのなかに、次の一場面がある。 「舟はスーツ、スーツとすべってゆく。大出しといふ出鼻をまはれば、宝珠花の 船着、干いた喉が、渋茶をかすめ、燗酒位にはありつける」 16)「牛島古藤歌」三好 達治 昭和 36 年、俳人石原八束の案内で藤を観賞する。「牛島古藤歌」に掲載した。 「埼玉の文学」P177 葛飾の野の臥龍梅 龍うせて もも すもも あんずも青き実となりぬ 何をうしじま千とせ藤 はんなりはんなり ゆく春のながき花ふさ 花のいろ揺れもうごかず 古利根の水になく鳥 行々子啼きやまずけり メートルまりの花の丈 匂ひかがよふ遅き日の つもりて遠き昔さへ 何をうしじま千とせ藤 はんなりはんなり 17)「古利根抄」加藤 楸邨(しゅうそん) 昭和 4 年(1929)、春日部中学(現県立粕壁高校)の教師となる。授業やスポー ツにも熱血漢で懇切丁寧な指導を行い、生徒から圧倒的な人気を得ていた。楸 邨は俳句革新に奮闘していた水原秋桜子に師事し真摯な啓発昇進を重ねた。楸 邨は家庭訪問中に打ち明けられた、貧困のため進学を諦めねばならぬ農村の子 弟の切々たる憂悶を鋭く凝視した「古利根抄」を著している。このような厳しい 社会の現実は、埼玉平野を緩やかに流れる古利根川の流域にあることから、古 利根川の名称を用いたのであろうか。 - 123 - 「埼玉の文学」P164 「どこから始まるのか、その源は誰もはっきり知らない。いくつかの細流が あつまって、いつしか人の目につくほどの流れになると、古利根と呼ばれる。 坦々たる 南埼玉と北葛飾の境を流れて、果は東京湾に消えるまで、多くの村や町を過ぎ てゆく。いつもひっそりと流れる。そして沿岸の人々には水涸時の外は忘れら れていながら、実はもっとも人々の生活に深くゆたかに滲透して生きているの である。沿岸の平地は麦畑と水田と桑畑とが、かわるがわる根気よく続いてゆ く」『現代俳句文学全集』 綿の実を摘みゐてうたふこともなし 行きゆきて深雪の利根の船に逢ふ 18)「羊の歌」 加藤 周一 著書『羊の歌』に小学生の頃、熊谷市の父の生家を訪ねたときの記憶を次の ように記している。 「埼玉の文学」p249 「上野から乗った汽車が荒川の鉄橋を越えるときに、私のもうひとつの世界がは じまるのを感じた。車窓には、家並みも、人影も消えて、河原の広い空と河原 との間に、荒川の水が光る」 参考文献 1)埼玉の文学 秋谷 豊編 (株)さきたま出版会 2)埼玉の文学めぐり 関田史郎 富士出版印刷(株) 3)とはずがたり 冨倉徳次郎訳 筑摩書房 4)遊歴雑記初編2 十方庵敬・朝倉治彦 校訂 平凡社 担当調査員 小林寿朗 本稿文責者 小林寿朗 - 124 - 5-2.児玉郡・本庄市の川にかかわるお話 (1)身馴川のカッパと逆桜(本庄市児玉町児玉・小平) 明治のはじめ久米六では比企の小川 方面まで商いを拡げ、絹織物や米、麦 をはじめ、季節には楮の皮を何頭もの 馬に積んで行き、帰りには紙をはじめ として大小豆のような種々の産物を積 んで来ました。 或る年、夏の終る頃江戸の相撲くず れという気のやさしい馬方が早や立ち したかいがあって問屋の荷物の受け渡しもはかどり、帰り道にかかろうとしま した。 其の時、黒い雲があまり早く流れるので、 「児玉の方は雨だんべぇ、ひと雨来 るぞ。」と、馬の背中をたたいて元気づけながら、小雨に打たれながら荒川赤浜 の渡しを越え、稲光りや夕立の音も遠のく道を広木まで来ると、道も畑も分か らないほどの水でした。 「あれぇ、こりゃあ大変なこっちゃ。」と、身馴川の渡り場に急ぎましたが、 真っ黒に濁った水で浅瀬がどこやら見当もつきません。 日の暮れかかった水の流れは気持ちが悪いが、この流れを越さないと児玉へ 帰れないので、馬の荷を締め直し、陣街道裏から風洞の五本松北に出て川に入 り、流れに逆らわないように下って、児玉側へ上がったと思った所は、誰一人、 昼間でも嫌がって近づかない「カッパ石」の側でした。 「畜生、あいにくだなぁ」とつぶやきながら、馬方がひとむち当てた時、馬 が後ろ足をけたてて暴れ出したのです。 馬方は思い当たるところがあったらしく、桑の根っこに手綱をゆわき、 「野郎、 出やがったな、おらを知らねえだか」と、馬の尻に回ってみると、馬の尻毛に しがみついたカッパが、今にも尻穴に頭を突っ込もうとしています。 「野郎待て。」と馬方は、カッパの足をとって引きずりおろし、大格闘になり ました。 このカッパは身馴の川に住みついて百年にもなる、神通力のあったという大 - 125 - 物で、普通の人は裸にされ、男の大切なものをもぎ取って食われたり、馬のは らわたが大好物という恐ろしい怪力カッパだったという話です。 馬はひと声高くいなないて手綱を引きちぎり、重い荷物も忘れたように駆け だしました。 馬方のいない馬を押えた久米六の若い衆は、これはただごとではないと、手 に手に刀を持って渡しに来てみると、薄闇の中でまだ大立ち回りの真っ最中で す。 仲間が応援に来たことを知った馬方は、やっとのことでカッパを組み伏せ、 首をぎゅうぎゅう締めつけたため、悪知恵と怪力のカッパも改心し、 「ぜひ、命 だけは助けてください。 助けていただければ鎌倉街道身馴川の渡しは、よほどの事がない限り、水の 流れを地の下にします。 私はあの峠を越えて甲州猿橋下に住んでいる身内の所に行きますが、峠を通 ったしるしに、桜の枝を逆さに差して行きます。 その桜の木が枯れる頃は、私の命がなくなるころだと思うので、線香の一本 もあげていただきたい」と、涙ながら謝ったので、馬方は命だけは助けてやる ことにしました。 「馬方さん、お仲間の皆さんどうもありがとうございました。 後で皆さまが甲州へ来た時は、猿橋に立ち寄り、橋の上から『身馴のカッパ やあい』と声をかけていただければ、水の流れを一時止めてごらんに入れます。 では…」と馬背峠を越え、約束の桜の枝を差して立ち去りました。 その後、馬背の逆さ桜は大正の初めまで、盛んに咲いていたそうです。 (児玉町郷土研究会編集「児玉の民話と伝説・上巻」より抜粋) (2)九郷に水を(神川町寄島) 九郷用水、九つの郷(さと)で19カ村からなっています。 今の神川町、児玉町、美里町、本庄市の多の用水です。中世以前からあった らしいが、一番はじめに誰が造ったのか、わからないのは残念です。 昭和 29 年に、寄島に神流川筋合口用水取入口が完成しましたが、それ以前の お百姓さんの苦労は大変だった、と聞いております。 - 126 - とりわけ、明治の初期には、神流川に大 洪水が出ると、川瀬が変わって、水路が土 砂、岩石で埋まってしまい、そのつど関係 者は「おてんま」として、川ざらいに出さ れたり、冬の間には取入口の改修に、毎年 のように出なければならなかったようです。 安政の頃、寄島の盾岩をくり抜く計画が たてられました。工事が始まったところ、川下の人たちが水を全部取られてし まうと押し寄せてきて、血の雨の騒ぎとなり、工事中止となったことが伝えら れています。 堀越弥三郎さんは、天保 9 年(1838)、児玉八幡山に生まれて家業の醤油造り をしていましたが、江戸に出て安井息軒という漢学者の教えを受けました。 明治4年、京都から郷里八幡山に帰り、お百姓さんが毎年、水で苦しんでい る九郷用水取入口の改修を思いたち、村の主だった人やお百姓と相談しました。 ところが、「また、安政の二の舞になる。」と、計画には賛成しても、金を出 す話には乗ってくれないばかりか、「堀越の金儲けだ。」と悪口も言われるほど です。 それでも弥三郎さんはあきらめず、川下の取入口の人たちから説き伏せ、水 は分けて引く、金のことは心配させない。工事に出てくれれば賃金を支払うと 条件を付けて協力してもらいことに話をこぎつけたそうです。 明けて 5 年の正月、いよいよ工事にかかり、上組、下組の二手に分けて工事 を競わせたそうです。だが、思うようにははかどらず、堀越の一族は勤労奉仕 で炊き出しに駆り出され、鍛治町の木田のおばあさんの話では、むすび握りで 手の平がやけどのように、真っ赤になってしまったと話されたそうです。 こうした努力が実って、人夫 1,800 余人、経費 990 余万円を使って、明治 5 年 5 月、水の取入口 2m 四方、掘り抜いた岩の厚さ 31m、石垣積み 15m という大 工事が完成したそうです。 関係 19 カ村の人たちも大喜びで、弥三郎さんに任せっぱなしだったことを申 しわけなかった、とお金を集めて費用の足しにしてほしい、と申し入れたとこ ろ、堀越さんは、 「これは神様が私に力をかして下さったから出来たので、私の 力ではない。私の家では、皆さんのためになることなら、どのように財産を使 ってもよいのだと、先祖から言い継がれています。私の先祖が皆さんに差し上 - 127 - げたものですから、いただくことはできません。」と固く断ったそうです。 明治11年、天皇陛下が地方巡幸のおりに、盾岩くり抜きの大事業を庶民の 鑑とほめられ、羽二重絹をご下賜され、今でもこの箱を家宝としていると聞き ました。 (児玉町郷土研究会編集「児玉の民話と伝説・上巻」より抜粋) (3)間瀬湖のはなし(本庄市児玉町小平) 「ちょうど俺が 17 だったよ、若い者も協力 しろとのお達しがあって出て行ったが、一日 中モッコを担がされた。それでばててしまっ てそれきりさ。でも、50 銭貰ったよ。 庚申塚の人は『サン俵』を尻に敷いて、チ ンカンチンカンと発破の穴掘りをしていたか ら一両ぐれえ貰ったんかなあ。 間瀬湖のことじゃ、石木沢の年寄りに聞け ばまだ当時のことを知っている者がいるでし ょう。」と東小平の根岸さんの話から、石木沢 のおくらさん(83 歳)宅を訪ねてみました。 座敷を借り何人かの年寄りに来てもらうよう手配をし、一端帰り、約束の時 間より早かったが、戻ってみると、本泉の木村さん(82 歳)がもう来てくれて いました。 表から入ると、清水さんが裏から入ってきて挨拶もそこそこに、堤防工事の 苦労話になりました。 おくらさんが、 「間瀬の碑にゃ、昭和 3 年に工事が始まったように書いてある そうだが、ありゃ計画で、本当に仕事が始まったのは昭和 5,6 年のことだいね え。その頃たしか、米が一俵 6 円 50 銭だと息子が書いたものを見せたが、ずい ぶん不景気だったんだね。 そうそう昭和 6 年の 6 月 6 日、隣に葬式があった時、大勢の人夫が道路を造 っていたので忘れられないよ」「俺らあその頃、今の家を建てていたが、『なか らの酒』が一升 80 銭だったよ」と木村さん。根岸さんは「わしゃ最初の日から 人夫に出たが給料は一日 60 銭、あの堤防をつくるために掘った石は『トロッコ』 で川向うの田中園のところへ引き上げて山のかげがあんなに平らになったんだ、 - 128 - 夕方人夫が帰った後は、子供があぶねぇ遊びをしたもんだ」嫁さんが「あの堤 防には、レールがうんと入っているから、絶対に崩れないと闇屋のおじさんが 言っていたけど、本当かねぇ」と話したが、清水さんは「鉄の棒はうんと入っ ていたが、レールのことは見てもいないし聞いてもいないね、それでもあの堤 防は『小間割』でミキサーを使って仕上げたんだが、その頃の話しで、決めら れたセメント袋を使いきれば一日の仕事は終わりということで、一回練るのに 一袋ぐれぇ余計にセメントを使ったこともあるというから丈夫だろうとは聞い たいねぇ」ということでした。 昭和の初めは、身馴川や志度川の水が毎年枯れてしまい、難儀をするので間 瀬湖をつくろうと、榛沢村長で県会議員の角田保治さんや対象町村の方々と「西 部灌漑期成同盟」を、そして児玉町長だった谷矢力太郎さんを中心にして、児 玉、榛沢、東児玉、松久、秋平、共和、北泉、本郷の 8 町村を以って「児玉用 水普通水利組合」を設立し、起工式が昭和 5 年 11 月、完成昭和 12 年 3 月、付 設工事の水路は昭和 13 年に完了、碑文によれば『人工の妙と風光の美とを兼ね 恰も天恵仙淵の観を呈し多年の愁眉一朝に開けぬ』とあって『堰堤の長さ 226m、 上部幅員 4m、高さ 153m、水路延長 25km。灌水面積 700 町歩、工費 41 万 8 千円 の大事業を成し遂げた』と書いてあることを説明したところ、木村さんは「わ しゃ人夫というより当時は松沢製材の木出しをやっていた関係で、よく池の人 夫と怒鳴り合いをしたもんだ、いつか池の水がなくなった時、そっくり出てき た土橋は威勢をつけて引き上げないとあがらないので遠くの方から、どけどけ と走り上がる、そしてトンネルをくぐり抜けたもんで、よくいざこざを起こし たなあ。 そうそう、別の話しだが、工事がおしまいになった時、現場事務所の便所を 5,6 人で石河原みてえの急な坂を担ぎあげ、それをまたずりおろしたいねぇ。 あれを担いだ 50 年前の元気がなくなって、しゃばがつまんなくなったよ」 「そ うだったねぇ、あの便所も 50 か、それにしてもあの堰堤づくりに参加した者は 大方亡くなり 50 年たつと時代も大きく変わり、間瀬湖の目的まで変わりそうだ ね」と日没を忘れ回顧の話しはつきなかった。 (児玉町郷土研究会編集「児玉の民話と伝説・下巻」より抜粋) (4)宮内の不動滝(本庄市児玉町宮内) まっぱだかで不動様の裏山に飛び出し、やたら立木に抱きついていた 18,9 の 娘がいたそうだよ。 - 129 - 母親が「おみよ、みっともねえ」と後を追い、 また父親が浴衣と細帯、麻縄を持って「この あま、ふざけやがって、惚れるならまともな 野郎に惚れろ、この恥知らず。今日はふんじ ばって滝壺にほうりこんでくれる。」と飛び出 し、他の病人の付き添いの人も手伝ってやっ とつかまり、滝に打たれ泣き叫ぶ娘の声は滝 音さえ聞こえないほどだった、と親父から聞 いたという米寿をこえたおじいさんは話し始 めてくれました。 「昔は、やんぶし(山伏)や修験坊の修行道場で不動様を拝んだり、滝に打 たれて、えれえ法力を身に付けたということだよ」宮内の滝で気ちがいが直る と言い始めたのは、上州室田の滝で修行した回国の修験者らしいという。 不動堂境内の南側岩谷不動の入口近くに建立されている開基塔に『当寺中興 開山法印尊栄和尚』とあり、その年が宝暦 9 年(1759)7 月 3 日とあることから 不動明王を御本尊とする古い寺だったのでしょう。 また、昔のままらしい入口の庚申塔に、正徳 5 年(1715)や延享の頃の石仏 があるのをみてもお寺だったと考えられます。 確かにおじいさんの教えてくれたように、修験者の修行の場であったことに 間違いはないようで、修験の法力から滝に打たれ、物の怪に悩まされる人や精 神病者を立ち直らせる術が施こされ、その療法が世間に知れ渡っていったので しょう。 修験者がおこなった滝の打たれ方やお堂に集まって療養することについての きまりは、記録にはなかったようですが、あらましのきまりはあったらしいと 聞きましたが、その後に、お堂が村持の関係で修験者不在となったため、初代 は中野大五郎さんという方が村から管理を任され、古い仕来たりを大切にして いたようです。 一人の病人に普通は付添い一人、暴れる病人には二人とし、寝るのは堂内だ が炊事は一切堂外で行い、多い時には 15 人もの病人に付添いまで入れると倍以 上になる者が雑魚寝したようだが、滝の打たれ方や日常のことは管理人があら ましを教え、あとは付添いの方々の話を参考にして 10 時、昼、3 時、夕方と療 養者の付き添い同士が譲り合って滝に打たれることを有効に使い分けていたそ うです。 - 130 - そして二代目の管理人は市川さん、三代目は小池さんとなり、その頃はもう 満州事変から大東亜戦争に移る頃だったそうです。 そして医療法が改正され、精神病患者は病院で治療しなければならなくなり、 200 年も続いた宮内の滝も閉鎖しなければならなかったようです。 おじいさんは「大寒で最も寒かった日、夫の手や体を麻縄で結わき、伐木で 造った枠の中に入れ厚く張った氷を割り入水させ、滝に打たせ、そのそばで二 本目の滝に自分が打たれながら『南無不動明王、夫の病気をなおしたまえ』と 拝んでいたおかみさんを見た時は恐ろしかったよ」と自分の体験を話してくれ ました。 また別の話しとして「あそこに借金なし地蔵様があったんべ、あれなんか昭 和の初めの頃、借金をしすぎた人が滝に打たれ、良く働く以外金儲けの道はな いと悟り、夢中になって働いた甲斐あって、借金全部を返すことができたお礼 に建立されたんだからたいしたもんだよ。まあこの人なんか、病気をなおすよ り修行が半分だから成功したが、精神病の場合、急性のものは滝に打たれれば 必ずなおるものの、遺伝性のものは一端はなおるが、また時がたつと出てしま ったそうだ。 宮内の不動様には、八の巻という宝物があって、村に悪病が入ってきたり、 日照、長雨等の困り事があると、直径が 5cm もある球で作った大きな数珠、そ のまわりに順序よく村人が並び、百万遍お念仏を唱えて八の巻を開くと目がく らむような後光が差し災難が退散したそうだ。 しかし、その大きな数珠も大太鼓も盗まれてしまい、近年のお祭りには村内 の寺から不動様をお借りしてお祭りしているようですよ。 俺らは不動様にゃ、制咜迦童子、矜羯羅童子がついていなければ拝む気にな れねえから、滝の上の岩谷にある不動様を拝んでいるがね」と話しは続きまし た。 病気に勝てず亡くなった人、病院へ行った人、母の付添いに来ていた娘が病 気をなおしに来ていた青年と結ばれたように、嬉しいこと、悲しいことを忘れ たかのように滝の形は変わりませんが、岩谷の不動様を拝んで帰る時、滝壺に 流れ落ちる水音は昔のままなのか、般若心経を唱えているように聞こえました。 (児玉町郷土研究会編集「児玉の民話と伝説・下巻」より抜粋) - 131 - (5)河童(かっぱ)の壺(本庄市傍示堂) むかし、中山道ぞいの傍示堂に、角屋とい う大変繁盛した旅籠屋(宿屋)がありました。 この角屋の先代が利根川べりの山王堂で 釣りをしていたとこのことです。 大雨のあとで、おもしろいように魚がかか りました。先代は、いい気持ちでいると、急 にからだがグラグラっと動いて、あわや川の中に引き込まれそうになりました。 先代は、おどろいてそのあたりを見ると、大きな河童がいたずらっぽい顔を して立っていました。「さては、この河童のしわざだな。」と思った先代は、河 童をとらえるやいなや、力まかせに投げ飛ばしました。 さらに、一撃を加えようとすると、河童は手を合わせて、「お助けください。 もう、決していたずらはしません。おゆるしくださるならば、晩にはきっと、 お礼にめずらしいものをさしあげます。」というのです。 先代は、むかしから、甲羅をへた河童は、助けるとその恩をきるという話を 聞いていましたので、 「よろしい、もうこんないたずらをしないというなら、帰 るがいい。」といって放してやりました。 その晩のことでした。河童は、大きなつぼをかついでたずねてきました。 みると、大判・小判がいっぱい入っていました。 「この金は、いつも全部使わ ないで、少しでも残しておけば、また一晩のうちに、もとのようにいっぱいに なります。」といって、立ち去りました。 先代が河童のことばを守って、そのつぼの金を言われたように使うと、よく 朝は、いつもいっぱいになっていました。それで、先代は大金持ちになりまし た。 ところが、その後、角屋の子どもたちが、河童のことばを知らないで、お金 を全部使ってしまいました。それからは、このつぼにはお金はたまらなくしま ったということです。 (児玉郡・本庄市郷土民話編集委員会「児玉郡・本庄市のむかしばなし」より 抜粋) - 132 - (6)九郷用水とのめりあがり薬師(本庄市北堀) 九郷用水は、神川村寄島で神流川の 水を分けて、児玉郡市のかんがい用水 として大切な役割をしています。 むかし、児玉地方は水不足で田畑の 作物が枯れ、大ききんとなることが多 かったのです。こうした、いたましい 様子になやむ百姓たちを役人が知って、金鑚村二ノ宮にまつってある『金鑚大 明神』におこもりして祈願をしました。 すると、何日かたったある夜、社殿に一匹の竜があらわれて「わたしが金竜 になって神流川の流れを教えますから、そのように水路をつくって、水田を開 いて用水をお引きなさい。」とのお告げがありました。 すると、ふしぎなことに、そのよく日、まだ夜の明けぬ暗いうちに、金色の 大蛇が神流川の水中にあらわれました。 大蛇は、やがて、そこから曲がりくねって進み、ついには高台にのめり上が って止まり、姿を消してしまいました。 この大蛇の進んだあとが九郷用水になったのです。 九郷用水の最終地点の高台が、北堀です。高台は、東福寺境内にあり、そこ に、のめりあがり薬師さまがまつられています。 (児玉郡・本庄市郷土民話編集委員会「児玉郡・本庄市のむかしばなし」より 抜粋) (7)沼和田のぶつぞう(本庄市沼和田) 神流川は烏川と合流して利根川に注いでいます。その神流川が、まだ沼和田 の南を流れていたころの話しです。ある夏の日、ここ何年もないという大嵐に 見舞われました。 ものすごい風が吹き荒れ、大雨が石つぶてのように降って、川は大きな音を 立てて荒れ狂い、濁流が押し寄せてきました。 「水が増えたど。」 「気をつけろー。」 「うわあ、土手が切れたどー。」「石だ、石をもってこい。土だ、俵だ、早く、 早くもってこい。」長い長い夜が明けました。嵐の過ぎた後の晴天です。 村人たちは、茫然と土手にたたずんで、川の水を見つめています。村は、水 - 133 - 難から逃れたものの、川の水は引くこ ともなく、流木を浮かべて、大きな音 を立てています。 「やれやれ、どうにかおさまったか。 まったくこれじゃ百姓をするのも楽で ねえな。」 「いや安心できねえど。まだまだ大嵐がくるかもしれねえ。そんなたびに、 また同じ心配じゃあ。」そんな話をしていると、川の流れの中に目立って大きい 流木が、ぴたりと村人たちの前に止まったのです。 「おや。おい、あれを見ろ。」 「なに、どれどれ。」 「ふしぎだ。あの丸太。 」 「な あんでふしぎなことがあるか、ただの丸太だ。」「いいや、さっきからあそこに 止まったままだ。」「なあに、何かにひっかったんだんべえ。そのうち流れてい くさ。」この時は、そのまま忙しい片付に追われて、村人は立ち去りました。 切れた土手をなおすのに、村人はモッコを担ぎ、鍬をふるって働きました。 10 日も過ぎたでしょうか。 「うーん。どうも気になる。」 「お前もか。」 「あの大雨 の朝からピクリとも動かねえぞ」「うーん。」村人はまたふしぎがって眺めてい ました。 川の水は引けたのに、あの時の丸太はそのままです。 「よし、おれ飛び込んで みる。」 「よせよせ、もの好きな。かぜひくぞ。 」という間に村人は飛び込んでし まいました。 しかし、なかなか浮かんできません。土手の村人は心配して仲間を呼び集め ました。と、その時になってやっと川の中から例の丸太につかまって、村人が 顔を出しました。 「おーい、何もひっかかってはいねえぞ。 」丸太に馬乗りになった村人が川の 中から叫びました。 「なにおー。心配させやがって。早くこっちこい。」すると、 村人は丸太ごとこっちに寄ってきます。 川の中の村人がとんきょうな声をあげて、 「うひゃあ、動いたー。」 「動きだし たあ、やっぱりお前がひっかかってるのを切ったんだろう。」「いいや、何も切 らねえ。」川の中の村人は首をふります。 「えーい、気がもめるわ、おめえなんかどこかへ行っちまえ。」すると、ふし ぎなことに、村人ごと丸太が反対の方へ動き出したのです。 - 134 - 「あんりゃりゃあ、ほんとうだあ、丸太がいうとおりに動いてる。」 「おーい、 こっちへこい。」「どっか行けー。」「こっちへこーい」丸太は土手の村人のいう ままに動きます。 しまいには丸太につかまった村人が、目を回して悲鳴をあげるしまつ。 「あは はは……こりゃおもしろい。子供の水遊びにちょうどいいおもちゃだ。あはは は……。」それから水が引けて安全になった川では、丸太に乗った子どもたちの 楽しげな遊び声が毎日続きました。 ところが、この楽しげな遊びも長くは続きませんでした。村人が心配してい たとおり、大嵐はその後、二度三度と村をおそい、田畑は荒らされ、病人もで て、村人はすっかり働く気力を失い、心がすさんでしまいました。 そんなある日のこと、村の入口の辻に、一人の人がたたずんでいました。頭 には笠をかぶり、手に杖を持ち墨染の衣をつけたお坊さんでした。 二度三度と大嵐にみまわれ、荒れきった村に現れた坊さんは、家々を回り、 角でお経を読みました。 「ふん、お経を読んだら豊年がくるというのかい。」「坊さま、この村ではい くらお経をあげても、銭一文、米一粒にもなりませんぜ。なにしろてめえのこ とでいっぱいだからね。」むこうの通りでは、村人どうしが争う声が聞こえます。 「あっ、このやろう。ぶつかったな。」「なにーっ、そっちがぶつかったんじ ゃねぇか。」「荒れている……田畑だけではない。人の心が荒れて村人の気持ち は、ばらばらじゃ……。」坊さんは手を合わせながら思いました。 「おーい、子どもが川に落ちたぞー。だれかきてくれ。 」坊さんはすぐ、川に 急ぎました。土手の上では村人たちが川をのぞきこみ、口々に「かわいそうに、 どうしようもねえなあー。誰だって命が惜しいんだから、だれか助けてやれよ。」 「おめえ、いけよー」「とんでもねえ、昨日から何も食ってねえのに……。」坊 さんは「だれか、助けるものはおらんのか。泳げるものはおらんのか。」と叫び ました。その間にも子どもは浮きつ沈みつしています。 「よし、わしがいこう。」 「えっ、坊さまが。」いうが早いか坊さんは川に飛び 込みました。 「むちゃだ、このころの水の冷たさじゃ体がまいってしまう。帰っ てきなせえ、坊さまあー。」村人の声も坊さんの耳には聞こえません。 「さあ坊や、助けにきたぞ。わしにつかまれ。」やっと子供をつかまえたもの の坊さんはしだいに体の動きがにぶり、浮かんでは沈み、子どもの悲鳴だけが ひびきます。 - 135 - 「かわいそうに二人ともおしまいだ。」「なんとかならねえかよお。えーっ、 おい。」「どうにもなんねえな。」村人たちはおろおろするばかり。 その時、中の一人が、はっと何か気がついたようにさけび出しました。 「おお い、丸太ー丸太よーっ、こっちへこーい。」「丸太よー、助けてくれ。」しかし、 一人の声では川音に消されてとどきません。 男は皆に、 「おい、いっしょに呼んでくれよ。呼ぶんだ、あの丸太を。」 「よう し、そうだ。」 「よし。」だんだんに人数が増え、しまいには村人全員の声で、 「こ っちへこーい。こっちへこーい。丸太あー。」力強い村人の声が続く中で丸太は、 とうとう坊さんと子どものところに着きました。 「やったあ、やったあ。」子どもをかかえ、丸太にしがみついた坊さんは、息 もたえだえに、「村の衆、ありがとう。丸太よありがとう。 」とさけびました。 この時、大喜びの村人たちから「うおーっ。」という歓声が上がり、手と手を とりあう姿がみられたのです。おぼれた子供を助け、冷たい水から土手に上が った坊さんは、村人がたきつけた火にあたりながら、言いました。 「村の衆、み んなの励ましがどんなに力になったか、心から礼をいいます。」「と、とんでも ねぇ、坊さまこそ……。」自分たちで子供を助けようとはしなかった村人たちは、 顔を赤らめてうつむいてしまいました。 「のう、村の衆、ものは相談じゃが……。」坊さんがいいました。「わしはあ の丸太で仏像をつくったらと思う。わしがこの村に来たのが何かの縁なら、あ の丸太がこの村に流れ着いたのも何かの縁。ましてあの丸太には目に見えぬ何 かの力があるようじゃ。」「のう、村の衆、わしに仏を刻ませてくれぬか。でき た仏様をまつり、ご先祖様を思い、そして、われらの子どもの幸せを祈るのじ ゃ。」 「それから、力をあわせて村をたてなおしなされ。 」村人たちは、坊さんの ことばにうなずきました。 こうして、この沼和田村で仏像づくりがはじまりました。坊さんはのみをに ぎり、村人たちは、お堂をつくるために、遠くまで寄進をつのりに出かけたり、 材木や石を運んだりしました。女たちは、握り飯をつくり、子どもたちが運び ました。やがて、丸太をきざんだ仏像ができあがりました。 お堂も完成し、今日そのお祝いという日、村の辻に旅仕たくをととのえた坊 さんの姿がありました。坊さんは静かに西に向かって立ち去って行きました。 こうして、ふしぎな丸太は旅の坊さんにより仏像に刻まれ、それ以来、村人た ちの手で、子どもやお百姓さんの幸せを守る仏像として、大切にまつられたと いうことです。 - 136 - (児玉郡・本庄市郷土民話編集委員会「児玉郡・本庄市のむかしばなし」より 抜粋) (8)坂東太郎が借金した話(本庄市) 大むかし、坂東太郎という人が、お伊勢 さまのお参りに行ってのことです。 坂東太郎は、京都や大阪も見物したいも のだと思いました。 でも、お金がたりません。「お金がなく てはどうにもなんねえ。何とかしなきゃ あ。」思案のすえ、鴻池という大尽を訪ねることにしました。 「私は旅の者です。上州の坂東太郎という者ですが、ぜひお金を貸していた だきたいのですが。」と、店の人にたのみました。 「何か借金のかたがなけりゃ、貸すわけにはいかんでえ。」 「もっともなこと、 では、私の煙草入れを抵当(借金のかた)に置くから、それでお金を貸してくださ れ。上州の方に出た時に取りに寄ってくだされば、いつ何時でもお返しします から……。」坂東太郎は、五両のお金を借りた証文を書いて、旅を続けることが できました。 何年か後のことです。鴻池の番頭さんが、 「行ったついでに、貸した五両をも らってこいよ。」と主人に言いつかって、上州へやってきました。 番頭さんは、あちこち、たずねまわりました。そしてある日、 「坂東太郎なん ていう人はいませんよ。そのかわり、このすぐ上の方に、坂東太郎という、そ れはそれは大きな岩ならありますがな。」と言う、年取った婆さんに出会いまし た。 「そうですか。それではしかたがない。だが、ただ帰ったのでは主人に話に ならない。とにかく、その岩だけでも見てみよう。」そう思った番頭さんは、お 婆さんに道案内をたのみました。 しばらく行って、山の上から見ますと、はるか下をチョロチョロとせせらぎ が流れておって、それはそれは大きな岩がありました。 よくよく見ますと、岩の上にキラキラと光るものが見えるではありませんか。 - 137 - ふしぎに思った番頭さんが、山を下ってみますと、それはなんと、黄金の小判 だったのです。 しかも、小判五両に利息がつけてあるではありませんか。おどろいた番頭さ んは、借金の証文と煙草入れを大きな岩の上に置いて「まちがいなく、いただ いていきますよ。」と言って、主人のもとへ帰っていきました。 それから後、だれともなしに、利根川のことを『坂東太郎』というようにな ったということです。 (児玉郡・本庄市郷土民話編集委員会「児玉郡・本庄市のむかしばなし」より 抜粋) (9)ようじ魚(上里町忍保) 上里町と群馬県新町を結ぶ橋のすぐわき から、清らかなわきみずが流れ出ています。 これが忍保川のみなもとになっています。 この川を 1,500m ばかり下ると金久保城の 跡があります。むかし、源頼朝が上州に遠 征し、帰りにこの城にたちよった時のこと です。 頼朝は宴会に疲れたので、城のすぐ裏を流れている忍保川の橋の上に出てみ ました。 おりからの夕日に照らされて、忍保川の美しさは、たとえようもないほどの すばらしさでありました。 その景色にみとれて、頼朝は手に持っていたようじを、思わず川の中に落と してしまいました。するとどうしたことでしょう。落としたようじが、たちま ちかわいい小魚のすがたにかわり、すいすい泳ぎだしたではありませんか。 頼朝や家来たちはそのふしぎな魚をみて、 「あっ。」とさけびました。そして、 この魚を『ようじ魚』と名づけました。 それからは、村人たちもこの魚をようじ魚とよぶようになりました。ようじ 魚は、実はムサシトミヨという魚のことだといわれています。 - 138 - 以前はたくさん住んでいたこの魚も、川が汚れるにしたがって年々、すがた をけし、今ではほとんど見られなくなってしまいました。 (児玉郡・本庄市郷土民話編集委員会「児玉郡・本庄市のむかしばなし」より 抜粋) (10)石投げ合戦(上里町五明) 今から 400 年ほど前、天正 10 年 5 月(1582) のことでした。そのころは、武士が勢力争 いをしていました。神流川は上州と武州の 国ざかいになっていました。 この神流川をはさんで、上州の滝川一益 と武州の北条氏邦が争いを始めようとして いました。両軍とも相手の出方を待ってるようでした。村の人々も、合戦が今 日始まるか、明日始まるか、生きた心地がしませんでした。 5 月 2 日、西の空に夕日が沈みかかったときです。「こっちが勝たなければ。 何が何でも勝たなければ。」という両軍の気持ちが、とうとう爆発しました。 手に手に石を持って、神流川に押し出していき、石投げ合戦が始まったので した。 5 月 5 日、日の出を待たずに、ものすごいどなり声やののしる声がひびきわた り、すごい勢いで石投げ合戦が展開されました。 両軍とも、応援をたのみに走っていく者がいます。 足や頭から血を流し、けがをしている者が大勢出ました。それでも、敵の陣 地の中に突っ込んでいく者や、川の中へ逃げ込んで、下流へ流されながら、両 手をさかんに動かし、わめいている男もいます。 上州軍は 2,3 百名が横一列に並び、じりじりと武州軍を押しつめています。 武州軍は五明薬師堂にたむろしていましたが、とうとうくずされて、 「ワアッ。」 と、逃げてしまいました。 反対に、上州軍は、「やったぁ。」と、かん声をあげました。ところがどうで しょう。いったん負けたかのように見えた武州軍でしたが、応援の 500 人が弓 がたに並び、上州軍をつつみこむようにして攻め返してきたのです。 - 139 - 石を縄でしばって、びゅんびゅんうならせながら進んできます。またたく間 に、薬師堂をうばい返してしまいました。このように、負けては勝ち、勝手は 負かされる取り合いが、夜になるまで続きました。それからも、何度となく石 投げ合戦はくり返されました。 やがて、大麦小麦が実り、畑は黄色くなりました。両軍とも、ふたたびおち つかなくなり、活発な動きが始まりました。 上州軍の兵は、麦畑の中を黄色い胴着でかけまわっています。一方武州側で は、青い木の葉を背負って木によじ登り、上州軍の動きをさぐっています。 6 月 15 日、軍配山に滝川氏の旗がたてられました。風にひるがえり、ひらひ らとはためいています。軍幕をはった正面には、小がらで太った一益が、ひお どしのよろいをそばにおき、麻の黄色い下着に真っ赤なじんばおりを着て、ゆ うゆうと床几にに腰かけて、命令をくだしていました。 同じころ、斉藤定邦の陣地では、定邦がのっぽでやせた体に、くさりかたび らのままで、物見兵から敵の様子を聞いていました。 場所になれているので、うまい戦い方を考えているようです。間もなく、寄 居鉢形城から北条氏の騎馬隊 500 騎が来て、金窪城に入りました。 このようにして、神流川合戦では、両軍合わせて 7 万人というものすごい人 数で、6 月 15,16,17 の 3 日 3 晩行われました。 太陽がじりじりと照りつける、ものすごい暑さの中、両軍とも、すさまじい 合戦を展開しました。しかし、勝負はどっちともつかず、両軍にとって苦しい 戦いでした。 どちらが勝ったともなしに、早馬の、「織田信長が殺された。」という知らせ で、引き分けに終わったと伝えられています。 今の勅使河原の地名に、御陣場、陣場、陣場前などの名前が残っており、こ の合戦の名残をとどめています。 (児玉郡・本庄市郷土民話編集委員会「児玉郡・本庄市のむかしばなし」より 抜粋) - 140 - (11)「こだま」の地名の起こり(本庄市児玉町) 小学生からお年寄りまで知りたいと思っていて、 分かりきれない児玉地名の起こりを取り上げてみ ることにいたしました。 はじめに〔地理資料〕という本で説明している 砕銀(細かい砂のような銀)を小玉というところ から、児玉地方には古くから銀や銅を産したと伝 えられる説。 しかし、このように児玉から銅や銀が出ていれば問題はないのですが和銅の 頃(708)、銅を掘った遺跡として伝説に出てくる金鑚の「弁慶かくれ穴」や、 河内の「こうもり穴」のあるところなら考えられますが、児玉の人々は納得し ないと思います。 次に〔埼玉県史〕の中で、児玉は「蚕玉」の(こだま)で、昔、養蚕が盛ん であったことから、この地名が起こったとありますが、たしかに児玉地方は養 蚕が古くから行われていたようです。それでも盛んになったのは江戸中期以後 とされ実際には「競進社」の木村九藏先生が白玉という品種を発表した後のこ とだと思われます。 歴史上では、いま話題になっている雄略天皇が、全国に桑を植えさせたとい う文書が残っているそうですが、児玉地方の文化は鉄剣文字による雄略天皇陵、 うんぬんが究明されても、地名には関係なく実際の開発は高麗の人(韓国人) 1,799 人を武蔵に移し、高麗郡をつくった、持統天皇の霊亀 2 年(716)頃から のことだと思います。 そう考えてくると、その頃にはすでに(コダマ)の地名はあったと思います。 三番目に〔中条氏遠考〕という本には、児玉は遠峰(こだま)からきていて、 音声の遠山にひびく山彦の意味から起こった地名だと説いていますが、これも 無理な話です。 古い児玉は秋平、本泉、金屋の一部とちがって、山のない平らな土地です。 大昔は大きな木もたくさん繁っていたことでしょうが、山彦に関連づけたのは、 明治以降か、昭和 30 年代の合併以後児玉町の地形から想像したのでしょう。地 名はもっと原始的なものだと思います。 次に〔和名称〕という本に、山本信哉先生は、コダマは木の魂、木の霊で、 樹神(木の神さま)を祀ったことから起きている地名で、この樹神は山や森林 - 141 - の仕事にたずさわる人によって尊敬されたものであると、申しております。 この樹神説が正しいと考えている比較言語学という学者の中島利一郎先生は、 この樹神が祀られたとすると、金鑚神社ではないかと言っています。もし、金 鑚神社が児玉から新里へ、そして現在地へ三転したという、口碑の金鑚三転説 が正しいと根拠づけることができれば、考えなおさなければならないでしょう が、金鑚の文字から考えても、樹神にはほど遠いことで、児玉と金鑚の地域が 古い時代から行政上も水系からも流れが違っているので、樹神から起こったと いうことはうなづけないし、平坦地の児玉には山仕事をする人は稀だったと思 います。 五番目に〔日本の地名〕という本では、タマとか、何々タマという地名は、 他の県にもたくさんあって、この(タマ)の意味は池や川、また河の渕の沼と か湿地や水たまりのことだと言っています。この説に従うと、小さな湿地や池、 河の渕の小沼、小さな水たまりをコダマと呼んだことになります。ここで大切 なことは、現在の児玉町のうち、大字児玉はどのあたりから始まっているかを 調べなければなりません。 昭和 38 年だっと思います。下町の久保田堀から 2,500 年も前の、丸木舟が 掘り出されたことがあります。また、この丸木舟を掘り出してくれた伊藤富士 太郎さんのの畑が思池の渕にあって、瓦粘土を取った時、窯跡がはっきりして いた住居跡があったことや、思池の中から磨き上げてある石斧が見つかってい るし、富士太郎さんや船掘りに関係した人たちと児玉は、久保田堀のまわりか ら起きたのではないだろうか、と話し合った一夜を思い出しますが、小さな水 田、小さな水たまりをこだまとすれば正にうってつけのうらづけとなります。 とにかく、現在の美里村の一部が、大沼だったかどうかは別として、今の小 山川が南から東にながれている下町には、久保田堀の水源になっている小字山 王の清水池をはじめ、思池、大池、小字水渕の清水池、今は埋め立てられたが、 瀬戸池などがあげられ、まさにこの日本の地名という本にぴったりです。 生野山の東裾に児玉の旧家、久米六の元屋敷跡があるが、下町大道北の一帯 に、児玉町市街地に移っている旧家の屋敷跡と言われる幾つもの畑があること や、その家々が北国街道や鎌倉街道へ移ったのだとか、雉ヶ岡築城に伴い城下 町をつくるため、強制移転させられたらしいという口癖もゆるがせに出来ない ところで、歴史の流れにつれて時の政治を行う人の考えや、人の心もうつり変 わって町場に移っていき、元の児玉の屋敷跡も農地となり、明治の初めに八幡 山と合併した時、行政区が八つに分けられ下町となったところが、児玉発祥の 地であって、池や川の渕に関係のあるタマから、玉の地名が起きていると思う - 142 - ことは、とりもなおさず、埼玉の地名という本に発表してくださった韮塚先生 の考えが、児玉の地形から考えて正しいと申し上げて差しつかえないと思いま す。 学問上からは、まだまだたくさんの意見も生まれ、これといって決めかねる でしょうが、紀元 321 年、景行天皇が諸国に田部、屯倉を置いて、豊葦原瑞穂 の国として米作国家を古文書に残しているように、日本の歴史は一面、米の政 治だったとも言えることから、その昔、米の出来る田は、国でも農民としても 宝であったろうし、小さな水田でも小タマとし、尊い宝にも通じる言葉の意味 からも、児玉の地名は米作農業国日本の歴史から、第五の説をとってくださっ た韮塚先生のご意見に従いたいと思います。 (児玉町郷土研究会編集「児玉の民話と伝説・上巻」より抜粋) (12)見透し燈籠(上里町勅使河原) 武蔵の国と上野の国との間に神流川が あります。中山道を本庄宿から新町宿に行 く人は、この川をわたらなければなりませ ん。土橋をわたり、水の多い所はわたし舟 に乗りました。 昔の川原は今とちがって、自然に生えた 草木がしげり、川なのか野原なのか、わか らないありさまでした。大水のたびに川すじがかわってしまい、水の流れも、 大きくなったり小さくなったりして、旅人たちはたいへんこまっていました。 文化 12 年(1815)本庄に住む戸谷半兵衛という人が、自分の財産を出して、 神流川をわたる旅人たちが、暗い時も安全に川をこせるよう、常夜燈をたてま した。 高さは 3m もある大きなもので、正面に大窪詩仏という人の筆で、 「常夜燈」 と書かれています。横面には、新町宿の田口秋因という人の歌「燈に背かざり せば 闇路にも迷はせまじ 行くも帰りも」ときざまれています。さらに、児 玉の桑原北林という人の「金毘羅大権現」という字もきざまれました。 この常夜燈のあかりで神流川の両岸を見とおすことができ、旅人たちは大へ ん助かりました。しかし、せっかく作った常夜燈も、7 年後には洪水にあい、こ われてしまいました。 それから 35 年後の安政 4 年 5 月(1857)勅使河原の村人たちの手で修理され、 - 143 - 川のそばの大光寺の境内にたてられました。燈籠の笠などに、大きな破損のあ とが見られ、洪水のすごさを物語っています。 神流川の両岸を見とおすという意味で「見透し燈籠」と呼ばれ、川の灯台の 役目をしていました。もう1基の新町がわにあった燈籠は、明治の中ごろ、高 崎市大八木の諏訪神社にはこばれていきました。 (児玉郡・本庄市郷土民話編集委員会「児玉郡・本庄市のむかしばなし」より 抜粋) (13)河童伝説(上里町長浜) 長幡村のすぐ近くを流れる神流川には、 昔はたくさんの河童がいました。この神流 川は広いうえに深いので、村の子どもや魚 をつかまえに来たおとなでも、おぼれるこ とがよくありました。村人たちは「きっと、 河童のしわざにちがいない。」「そうだ、河 童がひきずりこむのにちがいない。」と、う わさしあって、たいへんおそれていました。河童が、岸に上がって休んでいる のを見たという人もでてきました。 河童に引きこまれたかどうかを見分けるには、おぼれた人やおぼれそうにな っている人の顔を見るとわかりました。 おぼれた人の顔がニッコリわらっていたり、引きこまれそうになっている時 にうれしそうな顔をしていると、かならず河童のしわざだと言われました。 それは、河童が引きこむ時には、かならず人のお尻をくすぐるからだそうで す。 村人たちは、どうにかして、この河童をたいじしようとしました。まず、河 童の出そうなところをえらびました。 そして、左右からその場所にあみをはりめぐらしました。 これでじゅんびができました。人々は、着物のすそをまくって、おしりを川 の水につけて、河童の出てくるのを待ちました。なぜ、こんなことをするので しょう。それは、河童がかならず、しりをねらってくるからです。 - 144 - 「こんなにみごとにそろったしりには、めったにお目にかかれないぞ。 」とば かり集団でおしかけてくるでしょう。こうなればしめたものです。作戦どおり、 河童はくいついてきました。しりをつけている人々は、「きたぞ。」と、にやり としました。 そして、ころあいをみながら、しりをくすぐられたらヒョイと上げてしまう のです。あまりつけすぎると、ほんとうに引きこまれてしまいます。次の人も ヒョイ、その次の人もヒョイ。せっかくのごちそうも、すっかりあてがはずれ た河童は、 「チェッ。」と言いながらすごすごと引きあげようとしました。でも、 その時です。両側にはりめぐらされたあみにかかってしまい、とうとうつかま ってしまいました。いくらもがいても、あとのまつりです。うそかほんとうか 知りませんが、この村では、こうして河童を生けどったということです。 (児玉郡・本庄市郷土民話編集委員会「児玉郡・本庄市のむかしばなし」より 抜粋) (14)久保の狼どん(上里町久保) 今から 240~250 年くらい前のことです。長浜 の久保に清水清左衛門という人がいました。こ の人は羽黒山(山形県)で修業した修験者でした。 山伏の姿をして、家に伝わる2尺1寸(約 70cm)の刀を腰にさして、日本中をまわって修 業したそうです。 ある年の夏、神流川に大水がでました。やがて、水が少なくなったので、清 左衛門は藤岡へ祈とうに行きました。夜になって帰って来ました。神流川へ来 ると、ふしぎなけものの悲鳴が聞こえました。近づいて見ると、大水で流され て死んだ馬を食った狼が、のどにほねをさして苦しんでいました。 かわいそうに思った清左衛門は、狼の口に手を入れて、のどにささっていた ほねを取ってやりました。それを恩に感じたのでしょう。狼は、清左衛門を家 まで送ってきたのだそうです。 その後、清左衛門が夜、神流川を通ると、かならず、その狼は出てきて、後 になり先になって、家まで送ってきたということです。このことを知った村の 人々は、清左衛門のことを「久保の狼どん」といいました。 (児玉郡・本庄市郷土民話編集委員会「児玉郡・本庄市のむかしばなし」より 抜粋) - 145 - (15)デェダラボッチ(上里町久保新田) いつのころかわからないくらいむかしのこ とです。デェダラボッチという大男がおったそ うです。この大男ときたら、あの大きな赤城山 に、いつもこしをおろしていたそうです。 さて、春のある日、デェダラボッチは秩父へ 行こうとして、片足を久保新田のあれ地につい たそうです。そしたら、そのついた足あとは大 きくへこんで、雨などの水がたまり、ついには池ができてしまいました。 このあと、ひしぎなことに、この池には清水がわき出しました。夏になると、 水がどんどんわき出して、たいしたいずみであったそうです。それを「おんだ し」といい、くぼ川の水源なのだということです。 くぼ川のおかげで、下流の土地に田んぼがひらけました。この田んぼは、今 でも下田といっているのです。 (児玉郡・本庄市郷土民話編集委員会「児玉郡・本庄市のむかしばなし」より 抜粋) (16)双子塚とまがの池(美里町広木) 広木の、国道 254 号のすぐ北側に「みか神社」という神社があります。その 北側に、まがの池があり、その池の北西側に〔双子塚〕と呼ばれている塚があ ります。 このまがの池をつくった時の話です。 夏、日照りが続いても、田んぼに引く水に困らないようにと、池をつくるこ とになったのです。ある程度、土手が築かれ、もうじき完成という時になると 大水が出て、せっかく築いた土手がすっかりくずれ去り、またつくり直しをし なければならないということになりました。村人たちは、力を合わせてやり直 しましたがもうじき完成するころに、またまた大水が出て、土手がこわれてし まいました。 こうして、やり直し、つくり直しを繰り返すのですが、何度やっての、築く たびに大水が出て、土手はくずれてしまうのです。村人たちは、お坊さんや祈 祷師をたのんで、お経をあげてもらったりお祈りをしてもらったりしましたが、 そのかいもなく、今度も土手はくずれてしまいました。そのころ、みか神社に - 146 - 仕えていた、徳の高い神主がいました。 ある晩、その神主に、神のお告げがありました。 「どんなに祈祷してもききめはない。ただ、人柱として、生きている人を二 人うめるならば、必ず工事は成功するであろう。」というのでした。 神主は、さっそく、そのことを村人たちに伝えました。ところが、村人たち はそのことを聞いて、みなびっくりしてしまいました。 生きている人を、二人も生きうめにするなんて、とても出来ることではあり ません。 村人たちは、思案にくれてしまいました。村人たちのようすを見て、神主は 心を決めました。神主は、工事をしている場所に大きな穴を二つほってくれる よう、村人にたのみました。村人たちは、しかたなく穴を二つほりました。 穴がほりおわると、神主は、みずからその一つに穴に身を投げてしまったの です。そのことが、神社に仕えていた巫女のところへ伝えられました。 すると今度は、その巫女が穴のところへ走ってきて、神主のあとを追うよう に、もう一つの穴に飛び込んでしまったではありませんか。村人たちは、ただ ただ、びっくりするばかりでした。 そして、みずから人柱となった神主と巫女に感謝し、手を合わせて、二人の 霊に祈るのでした。 やがて、二つの穴はうめられ、そこに土手が築かれました。もう、大雨が降 っても、土手はくずれるようなことはありませんでした。村人たちは、みずか らの命を投げ出して、土手を完成させてくれた二人のために、感謝の心をこめ て、池のすぐそばに二つの塚を結び合わせてつくりました。 そして、その塚の上に、榎の苗を植えて、ねんごろに二人の霊をとむらいま した。 (児玉郡・本庄市郷土民話編集委員会「児玉郡・本庄市のむかしばなし」より 抜粋) 担当調査員 尾崎邦夫、榎本康夫、田中 本稿文責者 尾崎邦夫 - 147 - 護、浅見 優 - 148 -
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