ジョン・R.サール 社会的現実の構成 John R. Searle The Construction of Social Reality 1995 目次 謝辞 序文 第1章 社会的現実の基本的構成要素 第2章 制度的事実を創出する ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 6 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 29 第3章 言語と社会的現実 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 49 第4章 制度的事実の一般理論 第1部:反復、相互作用、論理構造 ・・・・・ 64 第5章 制度的事実の一般理論 第2部:創造、維持、階層 ・・・・・・・・・・・ 91 第6章 バックグラウンド能力と社会現象の説明 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 102 第7章 実在する世界は存在するか? 第1部:実在論に対する攻撃 ・・・・・ 118 第8章 実在する世界は存在するか? 第2部:外的世界の実在論の証拠はありうる か ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 139 第9章 真理と対応 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 156 第9章への付録:スリングショット議論 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 174 結論 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 179 文末注 人名索引 主題索引 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 180 謝辞 これらの考えの最初のバージョンは1992年スタンフォード大学でのイマニュエル・カン ト講義として公開された。それに続くバージョンはジョンズ・ホプキンス大学のタルハイ マ―講義、プリンストン大学のヘンペル講義、パリのコレージュ・ド・フランスでの一連の 講義でおおやけにされた。私はまたバークレー校のセミナーやオーストリアのグラツ大 学でこの資料を公開した。何人かの私の同僚は草稿の一部を読み、有用な批評をして くれた。ケント・バック、マーチン・ジョーンズ、リサ・ロイド、ブライアン・マクラフリン、ステ ファン・ニール、ニール・スメルサ―に特に感謝する。 今言及した一連の講義や大学の講座に加え、私はまたアメリカやヨーロッパのいく つかの大学でいくつかを試す機会を持った。私たちはしばしば現代の知的生活がどれ ほどひどいか耳にしたが、私は自分自身の経験から現代の最も大きな喜びのひとつは 誰でもほとんど世界のどこにでも出かけ、英語で聴衆に、分析哲学に賛同する、知的 で、役に立ち洗練された聴衆に講義できることだと言わなければならなかった。私は学 生、友人、同僚、そしてすべての見知らぬ人々から得た便宜の大きさを誇張することは できない。私は単に私は全員を覚えているわけではないので、有用なコメントをくれた すべての人々に本当に感謝に絶えない。私が覚えている中で、私は特にピエール・ブル デュー、ハーマン・カペラン、ヒューバート・ドレイファス、ロバート・ハルニシュ、メリーナ・ アイザック、ソウル・クリプキ、フランコイス・レカナティ、デイビド・ソーサ、チャールズ・ス ピノザに大変感謝している。 この本を書く中で異例の寛大さについて、私はアン・ゲッティ、ゴードン・ゲッティ、ド ルー・ハインツに感謝する。感謝はまた私がコンピュータへ容赦ない打撃でそれは寛大 に保存してくれたミッドナイトサガとローゼンカバリエアのすべての乗客リストによるも のである。 初期の基本的アイデアの定式化から索引の最終的準備まで研究のすべての段階 で貢献してくれた私の研究助手ジェニファー・フディンに特に感謝する。いつもどおり 私は最も大きなものを私の妻、ダグマー・サールに負う。この本を彼女に捧げる。 序文 私たちは正確にひとつの世界に生きている。2つでも、3つでも17個でもなく。私たちが 現在知るかぎり、その世界の根本的な特徴は、物理学、科学その他自然科学によって 記述されるものである。だが物理学的ないし化学的な方法では明らかではない現象の 存在は難問を引き起こす。たとえばどのように物理的世界の一部として意識状態や有 意味な発話行為はありえるのか?私にとって最も興味深い多くの哲学的問題はどのよ うに世界の様々な部分が互いに関係するか ― どのようにそれはすべてひとつにまとま るか? ― を扱わなければならない。そして哲学における私の仕事はこれらの問題を解 決してきた。発話行為はその問に答えようとする試みの一部である。私たちはどのよう に発語の物理学から、話し手や書き手が遂行する有意味な発話を手に入れるのか?私 が進めてきた心の理論は大部分、次の問いに答えようとする試みである。どのように精 神的実在、意識の世界、志向性、その他の精神現象は物理学的な力の場の粒子にか ら完全に構成される世界に適合するのか?この本は研究を社会的現実に拡張す る。*訳注どのように、力の場における物理学的な力の場の粒子にから完全に構成される 世界、その粒子の一部が私たち自身のような意識的野獣である様々なシステムに組織 される世界において、お金、財産、結婚、政府、選挙、フットボールゲーム、カクテルパー ティ、法廷の客観的世界は存在することができるのか? このような問いは社会科学の基礎の問題として考えられるものに関係するため、そ れは様々な社会科学、とくに19世紀末から20世紀初頭の社会科学の偉大な創始者た ちによってすでに解決済みだと考えるかもしれない。私たちは多くを偉大な哲学者ー社 会学者 ― 特にウェーバー、ジンメル、デュルケム ― に負っているが、私が彼らの著作 で得たものから言って、彼らは私の難問に答える立場にはいなかったように私にはおも える。なぜなら彼らは必要なツールを持たなかったからである。すなわち彼らの過ちでは なく、彼らは発話行為、遂行的行為、志向性、集合的志向性、規則に従う行為などの適 切な理論を持たなかったのである。この本は私や他の人が他の関連する問題を研究す る中、発展させた資源を使って一連の伝統的問題に答えようとする試みである。 この本の構成についての言葉。主な議論は最初の半分、第1章から第5章までであ る。これらの章で私は社会的現実と社会制度の存在論の一般理論を発展させる試み *訳注 “reality”は哲学では「実在」であり、「外的実在」については慣習に従うが、この本で解 明されるものとしての“social reality”は「社会的現実」とする。日本語で「社会的実在」という 表現は一般的ではない。そうすると、著者が望まない仕方でそういうものがあるかようなボキャ ブラリーを日本語に加えることになる。詳しくは本文を見よ。 である。主要な問いは、どのように客観的な社会的現実を私たちは構成するか、であ る。私はかなり繰り返しがあることに許しを請いたいが、問題の本質から私は自分が正 しく進んでいることを確かめるため、繰り返し同じところに立ち戻らざるを得なかった。第 6章で、当の行為者が通常無意識に従うという困惑する事実に与えられる、人間の諸 制度の構成的規則の説明的な力を示そうと試みる。そのため、私たちが世界を扱うこと を可能にする無意識的、非表象的能力の「バックグラウンド」の概念を私は説明する必 要がある。この本の初期の原稿で、私たちの考えや話しから独立した実在世界が存在 するという考えである実在論を擁護するため、また真理の対応説、すなわち私たちの真 なる陳述が、陳述から独立して存在する実在世界において物がどのようにあるかによっ て通常真とされるという考えを擁護するため、最初の章をあてた。私は実在論と真理の 対応理論は、少しも科学に言及しなくても、正気の哲学者ならだれでも本質的に前提 するものであると考える。そしてそう考える私のいくつかの理由を明確にしたいと思う。 だが、通常大きな哲学的問題で通常真であるように、かなり短い導入部としてもともと 意図したものがそれ自体生命をもつにいたった。第1章が3章ににまで増えた時点で、 私はこの部分をすべて本の最後に回し、主要な議論のバランスの悪さをそのままにす ることを決めた。第7章と第8章は実在論の議論であり、第 9 章は真理の対応の概念の ひとつのバージョンの擁護である。 第1章 社会的現実の基本的構成要素 社会的現実の形而上学的重荷 この本は長年私を悩ませてきた問題についてのものである。すなわち、「人間の同意 によってのみ事実である、実在する世界、世界の客観的事実のかなりの部分がある。あ る意味で、私たちが存在すると信じるという理由によってのみ存在するモノ*訳注 が存在 する。私は今、お金、財産、政府、結婚のようなことを考えているのである」。だが、あなた や私の好み、評価、道徳的態度の問題ではないという意味でそれらが「客観的」事実 であるとみなす多くの事実がある。私は今、自分がアメリカ合衆国市民であること、ポ ケットの紙片が 5 ドル札だということ、私の末娘が 12 月 14 日に結婚したこと、私が バークレーにちょっとした財産を持っていること、ニューヨーク・ジャイアイツが 1991 年 スーパーボールで優勝したことなどを考えている。それらは、人間の意見から独立した エベレスト山の頂上が雪や氷で覆われていること、水素原子がひとつの電子を持って いることと対照的である。数年前私は非制度的ないし「ナマの」(brute)事実と対照す るものとして人間の合意に依存する事実の一部に「制度的事実」と洗礼名を与えた。1 「なぜならこれらの問いはその存在に人間の制度を必要とするからである」。たとえば、 この一片の紙が5ドル札であるためお金についての人間の制度がなければならない。 ナマの事実はその存在に人間の制度を何ら必要としない。もちろんナマの事実を「陳述 する」ためには、私たちは言語制度を必要とする。しかし「陳述される事実」はその「陳 述」から区別されなければならない。 私を困らせる問いとは、制度的事実はどのように可能なのか?そして正確にそのよう な事実の構造とはどのようなものか?である。だが研究を続けている間に、いくつかの 奇妙なことが起きた。私がその意見を尊敬しているわずかな人も含め、ナマの事実など 存在せず、人間の心に依存した事実だけしかないと、すべての実在は人間が何らかの 形で生んだものであると論じたのである。さらに何人かは、事実と対応することによっ て、私たちの陳述を真とする、また陳述が真である世界における事実があるという私た *訳注 「モノ」は「object」であり、サールは同じモノが、本来的と観察者相関的で存在論的地位が異 なるとする。伝統的哲学では一般的に「object」は存在論的に物、物体であるか、認識論的に対象、 客体である。サールは別に「物」として「thing」も使用するが object ととの区別はゆるい。このため原 則として「モノ」とするが、日常的な意味で物質的なモノ、例えばイス、の場合は「物」、二元論的に意 識などに対して存在する「モノ」の場合は「対象」とする場合もある。 ちの常識的考えに反論した。だからどのように社会的に構成された実在は可能か、とい う私のオリジナルの問いに答える試みの後に、その問いが依拠する区別もまた私は擁 護したいと思う。「私は全体的に私たちから独立している実在があるという考えを擁護 したい」(第7章、第8章)。さらに私の研究方法は私たちの陳述を真とする、またそれが 真である場合対応する事実の構造を検証することであるため、私は真理の対応説(の ひとつのバージョン)をまた擁護するつもりである(第9章)。そのため、最後の3つの章 は、実在、表象、知識、真理についての一般的前提を擁護することに関するものである。 この本の主要な議論(第1章~第6章)で答えようとする問いの一部は、どのように人 間の合意によって部分的に存在する客観的現実はありえるのか?である。たとえば、単 に私たちが何かがお金であると信じるだけでそれがお金であるなら、私のポケットの紙 片がお金であるという完全に客観的事実はどのようにありえるのか?、またそのような 事実を構築する際の言語の役割とは何か? その問題の複雑を感じてもらうため、私は日常的な社会関係の形而上学を検討する ことから始めたい。つぎのような単純な光景を考えてほしい。私はパリのカフェに行き、 テーブルのイスに座る。ウェイターが来て、私はフランス語の一文を発語する。“Un demi, Munich, à pression, s'il vous plaît.”(グラス半分、ミュンヘン・ビール、お願 いします)。ウェイターはビールを運んできて、私はそれを飲む。私はテーブルに代金を 置き、帰る。無邪気な光景だが、その形而上学的複雑さは本当に愕然とするものであ り、その複雑さはカントがそのような物について頭を悩ましたなら、息するのを忘れさせ ただろう。私たちは物理学や化学の言語しか使えないなら、その記述の特徴を捉えるこ とができないことに注意してほしい。「レストラン」「ウェイター」「フランス語の文」「お 金」そして「イス」や「テーブル」でさえ、たとえレストラン、ウェイター、フランス語の文、お 金、イス、テーブルがすべて物理的現象であったとしても、適切に定義する物理学的ー 化学的記述はない。さらに記述された光景は巨大な不可視の存在論をもつことに注意 してほしい。ウェイターは、私にくれたビールを実際には所有していたのではなく、彼は レストランを所有するオーナーに雇用されているのである。レストランは飲み物すべて の価格のリストを提示する必要がある。そしてたとえリストを見なくても、私はリストの値 段しか払う必要はない。レストランのオーナーはそれを経営する許可をフランス政府か ら許可されている。そのように、彼は私が全然知らない非常にたくさんの規則や規制を 守っている。私は正しいパスポートをもってフランスに合法的に入国したアメリカ市民な のでそもそもそこにいる資格がある。 さらに私の記述が可能な限り自然であることを意図しているが、ボキャブラリーは自 動的に規範的な評価基準を招いていることに注意してほしい。ウェイターは有能か否 か、誠実が否か、丁寧か否かでありえる。ビールは酸味があるか、味気ないか、風味が あるか、ぬるいか、ただ美味しいかでありえる。レストランはイス、テーブル、お金、フラン ス語の言い回しについて、優雅か、汚いか、上品か、下品か、時代遅れかでありえる。 レストランを出たあと、講義を聞きに行ったり、パーティーに出たりするなら、私が背負 う形而上学的重荷のサイズはどんどん大きくなる。そして人は時折、どのようにそれに 耐えられるか考えるのである。* 社会的現実の不可視の構造 「私たちがその重荷を担えるひとつの理由は、社会的現実の複雑な構造が、いわば、 重さがなく、不可視だということである」。子どもは単に社会的現実を当然のこととする 文化の中で育つ。私たちは自動車、バスタブ、家、お金、レストラン、学校などを、その存 在論の特別な性質を反省することなく、それらが特別な存在論をもっていることに気づ かず、知覚し、使用する。それらは石や水や木のように私たちには自然に見える。実際 なんであれ、ほとんどの場合、社会的に定義された機能との関係で私たちの周囲を見 るのではなく、その機能的役割をはがして単なる自然現象として対象を見ることは困難 である。だから子どもたちは動く自動車、ドル紙幣、水のたまったバスタブを見ることを 学ぶ。そしてそれは子どもたちがそれらを直線軌道にある金属の塊、緑色や灰色のシミ の付いたセルロース繊維、水の入ったホウロウの器と見ることができるのは、抽象の力 によってだけである。 「この複雑な存在論は単純に見える。単純な存在論は難しいように見える。これは社 会的現実が私たちの目的のために私たちによって生み出されるためであり、その目的 自体として私たちに容易に理解可能に見えるからである」。自動車は運転するためのも のだ。ドル紙幣は稼いで支払うため、貯蓄するためのものだ。バスタブは風呂にはいる ためのものだ。だがいったん機能がないなら、問いに対する答えはない。なんのため? 私たちの関心、目的、目標を参照することなくその本来的性質との関連で物を特定す るより困難な課題が私たちに残される。 社会的現実の構造の不可視性はまた分析家に問題を生む。私たちは内的な「現象 学的」視点からそれがどのようにみえるか単純に記述できない。なぜならお金、財産、結 婚、法律家、バスタブは複雑な構造をもつように見えないからである。あるいは外的行 * カントはこのようなものについて考えるのに煩わされてなかった。なぜなら彼の時代の哲学者 たちは知識に取り憑かれていたからである。そのずっと後わずかな栄光の期間、彼らは言語にとり つかれた。今、この哲学者は人間の文化のある種の一般的構造的特徴にとりつかれている。 動主義者の視点からそれを描くこともできない。なぜならお金、財産などを扱う人々の 明白な行動の記述はその行動を可能にする基礎的構造を失うからである。あるいはま た現代的認知科学や言語学が行うような無意識の計算規則の集合として記述するこ ともできない。なぜなら意識に原則的にアクセス不可能である規則に無意識に従うこと を仮定するのと矛盾するからである。そして加えて、計算は私たちが説明しようとしてい る観察者相関的、機能的現象である。2 内的現象学的視点も外的行動主義的視点も適切でないなら、その場合社会的現実 の「構造」を記述するために、何が正しい立場、正しい方法論なのか?この章と次の章 でまず最初に、私は社会的存在論の裸の何らかの基本的特徴を提示するための一人 称の志向的ボキャブラリーを使おうと思う。後に、第6章で、私はすべてではなく一部、ど のように志向的装置が能力、資質、性質、傾向など、以前「バックグラウンド」と呼んだも のと関連して説明することができ、それによって最終的に排除することができるかを示 したい。 根本的存在論 私たちの研究が存在論的な、すなわち、どのように社会的現実が存在するかについ てであるので、どのように社会的現実が私たちの存在論全般に適合するか、すなわち どのように社会的事実の存在が、存在する他の物に関係するかを理解する必要があ る。私たちが答えようとしている問いを課すことができるようにするため、「実際にどのよ うに世界はあるのか」について、いくつかの実質的な前提条件を設けなければならな い。私たちは社会的現実がどのようにより大きな存在論に適合するかについて語るつ もりだ。しかしそうするため、私たちはいくつかのより大きな存在論の特徴を記述しなけ ればならないだろう。 私たちにとって、真理、すなわち私たちの形而上学のほとんどは、物理学(他の自然 科学を含む)に由来する。実在の現代自然科学の概念の多くの特徴はなお論争中で あり、問題をはらんでいる。たとえば、人は宇宙の起源についてのビッグバン理論が決 して十分な事実ではないと考えることができる。だが実在の私たちの概念のふたつの 特徴は、誰の手に入るものではない。それらは、20世紀末と21世紀初頭の市民として の私たちにとっていわばオプションではない。物質の原子論と生物学の進化論のふた つの理論を認めることは私たちの世紀において教育を受けた人間の条件である。 このふたつの理論に由来する実在の図式は大雑把に言えば、次のとおりである。世 界は、完全に正確ではないが、完全に、粒子として記述するのが便利であることがわか る実体からなる。このような粒子は力の場に存在し、様々なシステムに組織される。シス テムの境界は、因果関係によって決まる。システムの例には、山、天体、H2O 分子、川、 水晶、赤ちゃんがある。これらのシステムの一部は生命システムである。地球上で、生 命システムは多くの炭素系分子を含み、水素、窒素、酸素と結びつく。生命システムの 諸タイプは自然淘汰を通じて進化し、その一部はある種の細胞構造に進化し、意識を 引き起こし持続する能力をもつ神経システムに進化した。意識は、もちろん、人間の脳 や他の多くのタイプの動物の脳のように、なんらかの高次の神経システムの特徴をも ち、精神的であるが、生物学的であり、それゆえ物理的である。 意識とともに志向性が現れる。志向性とはそれ自体に世界におけるモノや事態を表 象する心の能力である。* 意識のすべてが志向的ではなく、すべての志向性が意識的 ではない。たとえば何も表象しない方向を持たない不安のような意識の形式がある。そ してたとえ私がそれについて考えていないときでさえ、ビル・クリントンは大統領である という私の信念のような無意識的な志向性の多くの形式がある。しかし、所与の時点 で志向状態があることと、その時その場で意識的であることのあいだに必然的なつな がりはないが、それにもかかわらず、無意識的であるすべての志向状態が少なくとも意 識にアクセス可能であるという点で両者には重要な必然的つながりがある。それは意 識できるという種類のものである。無意識的志向状態は原則的に意識にアクセス可能 でなければならない。 「その場合、私たちの存在論の要点はこうである。私たちは力の場の物理学的粒子 から完全になる世界に生きている。これらの一部はシステムに組織される。これらのシ ステムの一部は生命システムであり、これら生命システムの一部は、意識を進化させ た。意識とともに志向性が現れる。それ自体に世界におけるモノや事態を表象する有機 体の能力である。ついで問いはこうである。どのようにその存在論内で社会的事実の 存在を説明するか?」 * 私はそれによって何か「についての」あるいは何か「を向いた」表象の特徴を意味するテクニカ ル・タームとして「志向性」(intentionality)を用いる。信念や欲求はこの意味で志向的である。な ぜなら信念や欲求をもつためには、 私たちはしかじががそのケースであると信じ、しかじかがその ケースであることを欲求しなければならないからである。たとえば映画に行く問いとすることは他の 中 で 、 志 向 性 の 単 に ひ と つ の 種 類 で あ る 。 志 向 性 に つ い て の 完 全 な 説 明 は J . R . Searle , Intentionality : An Essay in the Philosophy of Mind(Camridge: Cambride University Press, 983)を見よ。 客観性と私たちの現代的世界観 私たちの世界観の多くは、客観性の概念と、客観的なものと主観的なものの間の対 立に依存している。よく知られているとおり、その区別は程度問題であるが、「客観的」 と「主観的」の両方がいくつかの異なる意味をもっていることはあまり言及されない。私 たちの現在の議論にとってふたつの意味は重大である。客観‐主観の区別の「認識論 的」意味と「存在論的」意味である。「認識論的に言って、“客観的”と“主観的”は第一 義的に判断の述語である」。私たちはしばしば、真か偽が“客観的に”解決できない場 合、判断が“主観的”であると言う。なぜなら、真か偽は単に事実の問題ではなく、判断 の作り手や聞き手のある態度、感じ、視点に依存しているからである。そのような判断の ひとつの例は、「レンブラントはルーベンスより良い画家だ」であろう。この“主観的”の 意味で、主観的判断は、「レンブラントは1632年アムステルダムに住んでいた」というよ うな客観的判断と対比される。そのような客観的判断にとって、真か偽とする世界にお ける事実は、それについての誰かの態度や感じから独立している。この認識論的意味 で、私たちは「客観的判断」だけではなく「客観的事実」について語ることができる。客 観的に真である判断に対応して、客観的事実がある。それは認識論的に客観的と認識 論的に主観的の対照が程度問題であることはこれらの例から明らかだろう。 客観‐主観の区別の認識論的意味に加えて、また関連する「存在論的」意味がある。 存在論的意味では、“客観的”と“主観的”は実体の述語であり、実体のタイプである。 そしてそれは存在の様式に帰属する。存在論的意味で、痛みは主観的実体である。な ぜならその存在の様式は、主体によって感じられることに依存するからである。だが痛 みに対してたとえば山は存在論的に客観的である。なぜならその存在の様式はどんな 知覚者や精神状態とも独立に存在するからである。 私たちが、存在論的に客観的である実体に空いての認識論的に主観的な陳述をす ることができ、同様に存在論的に主観的である事実についての認識論的に客観的陳 述をすることができるという事実を考えるなら明らかにその区別の間の区別の私たち は理解することができる。たとえば、「エベレスト山はホイットニー山より美しい」という 陳述は存在論的に客観的な実体についてだが、それについて主観的判断をしている。 他方、「私は今腰が痛い」という陳述は、いかなる立場、態度、観察者の意見にも依存 しないという実際の事実の存在によって真である認識論的に客観的事実を報告する。 だが現象自体、実際の痛みは主観的な存在の様式をもっている。 世界の本来的特徴と観察者相関的特徴の区別 私たちの歴史的な知的伝統において、心と身体、文化と自然の間に大きな区別をし てきた。「根本的存在論」の節で、心は単に脳の高次の一群の特徴であり、同時に“精 神的”でありかつ“身体的”である一群の特徴という見解を支持し、心身関係の伝統的 二元論的概念を私は暗黙に放棄した。どのように“文化”が“自然”から構成されるか を示すと解釈されるように、私たちは「精神的」を使用するつもりである。第一段階は、 今言及したよりもっと根本的な区別を導入することである。これは私たちから独立して 存在する世界の特徴と、その存在について私たちに依存する特徴との間の区別であ る。 私たちの根本的存在論を特徴付けるものとして私が記述する世界の特徴、すなわち 山や分子は、その私たちの表象から独立して存在する。しかし世界の特徴をさらに記述 し始めると、自然に「本来的」(intrisic)と呼ぶことができる特徴と「観察者、使用者な どの志向性に相関的に(relative)」存在する特徴の間に区別があることを発見する。 たとえばある質量を持ち、ある化学的組成をもつということは私の目前の物の本来的 特徴である。それは一部はセルロース繊維から構成される細胞である木、また一部は それ自体金属合金分子から構成される金属からなる。これらの特徴は全て本来的であ る。だがまさに同じ物をネジ回しと言うのもまた真である。私がそれをネジ回しと呼ぶと き、私は観察者ないし使用者相関的である物の特徴を記述しているのである。ただ 人々がネジ回しとして使う(あるいはネジ回しの目的に使う、あるいはそれとみなす)か ら、それはネジ回しである。世界の観察者‐相関的特徴の存在は実在になにか新しい 物質的物を付け加えるのではなく、問題の特徴が観察者や使用者に存在する実在に 認識論的に客観的な「特徴」を加えることができるのである。たとえば、ネジ回しである この物の認識論的に客観的な特徴であるが、その特徴は観察者や使用者に相関的に のみ存在する。だからその特徴は存在論的に主観的である。“観察者や使用者”によっ て、私は制作会社、デザイナー、所有者、購入者、販売者そして物へのその志向性がネ ジ回しとみなすような人なら誰でも含むと言っている。 その問題は重要だが例は簡単なのでこの点もう少し論じたい。 1. 私の目前の物理的モノのまさに存在は、私たちがそれに対して取ることができ るいかなる態度にも依存しない。 2. それ観察者や使用者のいかなる態度にも依存しないという意味で本来的であ る多くの特徴をもつ。たとえばそれは質量と化学的組成をもつ。 3. それは行為者の志向性に相関的にのみ存在する他の特徴を持つ。たとえばそ れはネジ回しである。一般的用語をつけるため、そのような特徴を“観察者相関 的”(observer relative)と呼ぶ。観察者‐相関的特徴は存在論的に主観的で ある。 4. このような存在論的に主観的特徴の一部は認識論に客観的である。たとえば ネジ回しであることは単なる私の意見や評価ではない。ネジ回しであるというこ とは客観的に確認可能な事実の問題である。 5. ネジ回しであるという特徴は観察者相関的であるが、何かがネジ回しであると 考える(ネジ回しとして扱う、ネジ回しとして使う…)ことの特徴は考える者(扱う 者、使う者…)にとって本来的である。ネジ回しであることは観察者相関的であ るが、世界のそのような観察者相関的特徴を生み出すことを可能にする観察者 の特徴は、観察者の本来的特徴である。私はこの点をさらに手短に説明しよう。 ある特徴が本来的か観察者相関的かはつねに直ちに明白ではない。色がよい例で ある。17世紀物理学の発展する前、人々は色を世界の本来的特徴だと考えていた。そ の後、多くの人はそれを観察者に相関的にのみ存在する特性だと考えるようになった。 表面に反射した光が異なって分散することが本来的であり、視覚システムへの光の衝 撃によって引き起こされる主観的色の経験を持つことが人々にとって本来的なのであ る。だがさらに世界におけるモノに対する色の特性の帰属はさらに観察者相関的であ る。なぜなら光の衝撃によってき引き起こされるものとして、観察者の経験に相関的に ありえるからである。私はここでその色の問題を解決しようとは思わないが、ある特徴が 本来的か、観察者相関的かどうかの事実はつねに明かであるわけではないということ に注意を促したい。 この区別のための大雑把なよい方法は、自問することである。もし人間や他の種の 意識のある動物がいない場合、それらの特徴は存在することができるか?観察者相関 的な特徴は観察者に対して相関的に存在する。本来的な特徴は観察者にかまうことは なく、観察者から独立して存在する。ひとつの条件を直ちにこのテストに付け加えなけ ればならない。そしてすなわち、観察したり、使用する行為はそれ自体本来的であると いうことは上記の5で始まる。だから大雑把に言って、何かが意識的行為者がネジ回し とみなす事実に相関的にのみネジ回しである。だが意識的行為者がその態度をもつと いう事実は、それ自体意識的行使者の本来的特徴である。意識的、無意識的両方の 精神状態はそれ自体世界の本来的特徴であるため、世界の本来的特徴を発見する方 法は、それからすべての精神状態を差し引くことであるというのは厳密に言って正しく ない。私たちは次の通りこの例外を説明するためその区別の説明を再定式化する必要 がある。「実在の本来的特徴は、実在の本来的でもある精神状態を除いて、すべての精 神状態から独立して存在するものである」。 神の視点から、世界の外部から、世界のすべての特徴は、私たちの文化にいる人々 が、しかじかのモノをネジ回しとみなすような本来的に相関的な特徴を含めて、本来的 であろう。神はネジ回しや自動車、バスタブなどを見ることができないかもしれない。な ぜなら本来的に言って、そのようなものはないからである。むしろ神は私たちがあるモノ をネジ回し、自動車、バスタブと「扱っている」のを見るだろう。だが私たちの視点から、 神ではなく、活動する行為者としての私たちを含む世界にいる存在者の視点から、私た ちが取る態度や立場から完全に独立して存在する世界に私たちがその特徴を帰属さ せる真であるような陳述と、私たちの関心、態度、立場、目的などに相関的にのみ存在 する特徴を帰属させるような陳述とを区別する必要がある。 次のペアのそれぞれにおいて、最初のもの a はモノについて「本来的」事実を述べ、 第二のものbは、全く同じものについての「観察者‐相関的」事実を述べる。 1a. 本来的:そのモノは石である。 1b. 観察者相関的:そのモノは文鎮である 2a. 本来的:月は潮の満引きを引き起こす 2b. 観察者相関的:今夜の月は美しい 3a. 本来的:地震はしばしば大陸プレートが重なる所で起こる 3b. 観察者相関的:地震は不動産価値を落とす 私はこの区別が全く明らかであることを望む。なぜならそれは、社会的現実一般が、 この区別に照らしてのみ理解し得るようになるからである。観察者‐相関的特徴は、つね に問題のモノの使用者、観察者などの本来的精神現象によって常に生み出される。そ のような精神現象は、すべての現象と同じく、存在論的主観的であり、観察者‐相関的 特徴はその存在論的主観性を継承する。だが、この存在論的主観性は、観察者‐相関 的特徴について、認識論的に客観的であることを妨げない、1b と 3b において観察者 相関的陳述は認識論的に客観的であり、2b においてはそれは主観的であることに注 意してほしい。これらの点は3つすべての区別、つまり本来的なものと観察者相関的な ものの間の区別、存在論的客観性と存在論的主観性の間の区別、認識論的客観性と 主観性の間の区別が、相互に関係する仕方を説明する。 どんな観察者相関的特徴 F についても、「F であるように見えること」は論理的に「F であること」に先立つということは私がこれまで示した区別の説明の論理的帰結であ る。なぜなら ― 適切に理解するなら ― F であるように見えることは、F であることの必 要条件であるからである。もし私たちがこの点を理解するなら、私たちは社会的に創出 された現実の存在論を理解する道をうまく進んでいるのである。 機能の割り当て この章における、私の主な目的は、私たちの総体的な科学的存在論内で社会的現 実を説明するため必要な装置を組み立てることである。これは正確に三つの要素を必 要とする。機能の割り当て、集合的志向性、そして構成的規則である(後に第6章で性 的的構造の因果的機能を説明するため、第4の要素、人間がその環境に対処するため もつ能力のバックグラウンドを導入する)。これらの概念を説明するにあたって、私は否 応なくある種の解釈学的循環に陥る。私は制度的事実を説明するため制度的事実を 用いなければならない。私は規則を説明するため規則を用いなければならない。言語を 説明するため言語を用いなければならない。だがその問題は説明的であって、論理的 ではない。理論の説明において、私は説明される現象の読者の理解を当てにする。だ が実際の説明においては、循環はない。 私が必要とする最初の理論装置の部品は、「機能の割り当て(課すこと)」 (assinment / inposition of function)*訳注 と呼ぼうと思う。これを説明するため、私 は人間や一部の他の動物が、自然に生じるモノや、特に割り当てられた機能を遂行す るため作れたモノの両方のモノに、機能を課さなければない驚くべき能力に言及するこ とから始める。 世界の生命のない部分についての私たちの普通の経験に関する限り、私たちは分 子の集合以下の物質的モノ「として」物を経験することはない。そうではなく私たちはイ スやテーブル、家や自動車、講堂、絵、通り、庭などのひとつの世界を経験する。さて私 が今用いたすべての言葉は、これらの記述の下の現象に内的であるが、“物質的モノ” (material objct)の記述の下での実体には内的ではない評価の基準を伴う。川や 木々のような自然の現象でさえ、機能が割り当てられうる。それゆえ、どのような機能を 私たちが割り当てるか選択するに応じて、またどれくらい上手く、それら機能に貢献する かに応じて、良いか悪いか評価される。これは私が「機能の割り当て-あるいは課すこ *訳注 「imposition」は「賦課」とした場合がある。 と」と呼んでいる志向性の特徴である。一部の人工物の場合、私たちは機能を果たす ようモノを作る。イス、バスタブ、そしてコンピュータはその明白な例である。川や木々の ような多くの自然に生じたモノの場合、あらかじめ存在するモノに機能 ― 美的、実践的 など ― を割り当てる。「その川は泳ぐのに良い」とか「そのタイプの木は材木に使える」 と言う。 この点を理解するのに重要なことは、どの現象の物理学にも決して本来的ではない が、意識的観察者ないし使用者によって外的に割り当てられる。「機能は、ようするに決 して本来的ではなく、常に観察者相関的である」。 私たちはあたかも自然に本来的であるかのような機能を語るとき、特に生物学的に、 経験によってこの事実を見失う。だが意識的である自然の部分を除けば、自然は機能 について何も知らない。たとえば心臓が血液を送り出し、身体中の血管に行き渡らせる ことは自然に対し本来的である。血液の移動は有機体の生存に対処しなければならな い他の全因果的プロセスに関係するということもまた、自然の本来的事実である。だ が、「心臓は血液を送り出す」と言うのに加えて、「心臓の“機能”は血液を送り出すこと である」と言うとき、私たちはこれらの本来的事実以上のことを何かしているのである。 私たちがもつ価値体系に相関的にこれら事実を位置づけているのである。私たちがこ れらの価値をもつことは私たちにとっては本来的だが、私たちから独立した自然に対す るこれらの価値の属性は観察者相関的である。心臓の機能を発見した時のように、自 然に機能を「発見」する場合でさえ、発見はその因果的プロセスの目的論の割り当てを 伴う因果的プロセスの発見にある。これは、自然の単なるナマの事実には適切ではな い成功と失敗の全ボキャブラリーがこの場合適切であるという事実によって示される。 そのため、私たちは「機能不全」とか「心臓病」とか良い心臓とか悪い心臓とかについ て語ることができる。もし石に機能を割り当てないなら、良い石とか悪い石とかについて 語ることができない。たとえば、武器や文鎮や「発見された芸術作品」(objet d'art trouvé)*訳注 として石を使うなら、これらの機能的記述の下でその適切さを評価するこ とができる。 この点は正確に理解されなければならない。私たちは事実、自然に機能を「発見す る」。だが自然の機能の「発見」は(目的、目的論その他機能を含む)価値の事前の「割 り当て」の範囲内でのみ起こりえる。そのため、有機体にとって、生存し再生産する価値 があることや、種にとって継続する存在に価値があることを既に受け入れるなら、私たち は心臓の機能が、血液を送り出すことであり、前庭性眼反射(vestibular ocular reflex)の機能が網膜像(retinal image)を安定させることであるなどを「発見」できる *訳注 訳注;マルセル・デュシャンが先駆であるレディメイド芸術の一種。 のである。そのような自然の機能を発見する時、因果関係を超えて発見される自然の 事実はない。「機能」のボキャブラリーが「原因」のボキャブラリーに加えるものの一部 は(目的や目的論を含む)一連の価値である。心臓の機能が血液を送り出すことを発 見できるのは、生命や生存が価値であるという生物学を当然のこととしているためであ る。世界の最も重要な価値が、ボコボコ音を立てることで神を称えることだと考えるな ら、その場合心臓の機能はボコボコ音を立てることであり、音を立てる心臓は良い心臓 ということになるだろう。何にもまして死や絶滅に価値を見出すなら、その場合癌の機能 は死を早めることだと言うだろう。老化の機能は、死を早めることであり、自然選択の機 能は絶滅となるだろう。これらすべての機能的割り当てにおいて、なんら新たな本来的 事実は伴わない。「本来的な自然に関する限り、因果的事実を超えた機能的事実はな い。さらなる機能の割り当ては観察者相関的である」。 ダーウィンの偉大な業績のひとつは種の起源の説明から目的論を取り除いたことで あった。ダーウィン主義の説明において、進化は盲目の、ナマの、自然の力によって起き る。生物学的種の起源や生存に対してなんであれ本来的目的はない。有機体の生存 に相関的に、生物学的プロセスの「機能」を任意に定義できるが、そのようなどんな機 能の割り当ても自然における本体的目的論の発見の問題であるという考え、それゆえ その機能は本来的であるという考えはつねにムーアの開かれた問いの議論に従う。機 能について何が機能的であり、そう定義されるのか?「機能」は、機能について何ら本 来的に機能的でない、原因以外の何ものでもない場合である、因果に関連して定義さ れるか、機能が観察者相関的である場合である、私たちがもつ一連の価値 ― 生命、生 存、再生産、健康 ― の促進に関連して定義されるかである。 私は多くの生物学者や生物学の哲学者は同意しないことはわかっている。過去数 十年にわたり、機能と機能的説明に関する大量の文献が出された。その多くは、ラ リー・ライトの論文3に影響を受けている。それは次のように機能を定義する。 X の機能は Z であるということは以下を意味する 1. X は、Z を行うため、存在する X is there because it does Z. 2. Z は X が存在することの帰結(結果)である。 Z is a consequence(or result) of X's being there. もしこのような分析が正しいなら、機能の観察者相対性を無視している。直感的にそ の考えは「機能」を因果関係との関連で定義することである。X が F を引き起こす場合 にのみ、X は機能 F を遂行するのであり、少なくとも X の存在についての説明の一部 は、それが F を引き起こすことである、そのため、たとえば、心臓は血液を送り出す機能 を持つ。なぜなら心臓は血液を送り出し、かつ進化の歴史における心臓の存在の説明 はそれが実際に血液を送り出すことだからである。これは機能が本来的である場合の 「機能」の自然主義的定義を与えるようにみえる。ルース・ミリカンは機能の概念の通常 の用法を分析しようとしているのではなく、「再生産」と因果関係との関連で定義される 新たなテクニカルな表現を導入しようとしていると主張するが、「適切な機能」の自らの 概念において、もっと複雑だが、類似の考えをもっている。* そう解釈するなら、誰も反 対できないだろう。あなたは好きなようにどんな新しいテクニカル・タームでも導入でき る。しかしそのような定義が少なくとも三つの理由で機能の通常の概念のある本質的 特徴を捉えることができないことを強調するのは重要だ。第一に、ミリカンのケースで は、それは「再生産」に関する特定の因果的歴史理論に依存する機能の定義をする。 実際私は自分の心臓が血液を送り出す機能をしていると信じ、またどのように「再生 産」が心臓の進化の因果的歴史的説明をあたえるかについてダーウィンの説明を信じ ている。だがそのような再生産の説明がなくても、ダーウィン主義であれなんであれ、私 の心臓が血液を送り出すため機能する限り、真になる。彼女の定義において、心臓が血 液を送り出す(適切な)機能を持つという主張のまさにその意味はどのように心臓が再 生産されるかについての因果的歴史的説明に関連してのみ説明されうるだけである。 そしてそれは私たちの通常の機能の概念に関する限り正しいということはありえない。 第二に私たちの通常の概念の本質的特徴を捉えるものとしてそのような定義を理解す るなら、その分析に対する反例がある。ミリカンと同様、ラリー・ライトの説明と装置にお いて、風邪の(適切であるにせよないにせよ)機能は風邪の細菌を拡散することである と言わなければならない。風邪は実際風邪の細菌を拡散し、風邪の細菌を拡散しな かったなら、風邪は存在しないことになるだろう。しかし私たちの通常の概念において、 風邪は機能を持たないか、仮に持つなら、それは確実に細菌を拡散することではない。 第三に機能の機能の規範的要素が説明されないままである。ミリカンのような分析は、 * R. G. Millikan, Laguage, Thought, and Other Biological Categories: New Foundations for Realism(Cambridge, Mass.: MIT Press, 1984)。R. G. Millikan, "In Defense of Proper Functions" in The Philosophy of Science 56(1989), 288-302.で、彼 女は書く:「適切な機能」の定義は再帰的である。大雑把に言えば、「適切な機能」として機能 F をも つ部分(item)A にとって、つぎのふたつの条件の内、ひとつをもつことが必要である(かつほぼ十分 である)。(1)再生産された部分をもつ“ため”(due)、なんらかの事前の部分あるいは諸部分の再 生産として(コピーとしてあるいはコピーのコピーとして、ひとつ例を挙げるなら)生成された部分 A は、実際に過去において機能 F を遂行し、かつ部分 A はこの機能ため(因果的に歴史的理由のた め)存在する。(2)所与の状況のもと、適切な機能をもつ何らかの事前の仕組み(device)の産物と して部分 A は生成され、それはその状況のもとで、A のような部分を生産すること“によって” (means)遂行される機能 F を通常引き起こす。条件(2)のもとに置かれる諸部分は「派生的な適 正な機能」をもち、諸機能は、それを生産した装置の機能から由来する。(p288) 機能を持つ何らか実体が、実際には機能を実行しないと言う事実を説明することがで きるが、なお規範的要素を置き去りにしている。なぜ私は心不全や、心臓病や、良かっ たり悪かったりする心臓にについて語るのか?普通のジレンマが明らかになる。心臓が 血液を送り出したり、風邪が最近を拡散したりすることを同じバスケットに入れる場合 の、ナマの、盲目的因果関係について語っているか、このタイプの定義が観察者相関 的な特徴を置き去りにする場合の機能に関する現実的に機能的な何かがあると考え るかのいずれかである。 機能が原因とは異なり観察者相関的である、別のおそらく決定的な手がかりは機能 的属性は、因果的属性とは異なり、内包的(intensional-with-an-s)*訳注 だということ である。機能の文脈において相互参照的な用語の代用は、真理値の保持を保証するこ とができない。そのため「X することは Y すること同じである」ことをともなう場合、「A の 機能は X することである」は「A の機能は Y すること」を含意しない。たとえば、オール の機能はこぐことであり、こぐことは固定された支点に相関的に水に圧力を加えること であるというのは瑣末に真だが、オールの機能が固定された支点に相関的に水に圧 力を加えることだというのは真ではない。 要するに私たち社会的事実を生み出す意識的行為者の能力を議論するに際して注 意すべき第一の特徴は、モノや他の現象への機能の割り当てである。機能は決して本 来的ではない。それは使用者や観察者の関心に相関的に割り当てられる。 私は「X の機能は Y することである」という文の形式を論理的に必然的かつ十分な 条件に分析しようとはしなかった。だが私はある中心的な条件に注意を促している。 1.X の機能は Y することである場合はいつでも、X と Y は、「目的、目標、価値一般」 によって一部は定義される「システム」の部分である。これがなぜ警官や教授に機能が あり ― その機能が、たとえば神に仕えることである何らかのより大きなシステムの一部 として人間を考えるのでないなら ― 人間自体に機能はない理由である。 2.X の機能が Y する場合はいつでも、X は Y を「引き起こすと仮定される」、あるい は Y を帰結すると仮定される。この機能における規範的要素は、実際に X の結果とし て起こるものへの因果関係にのみ還元されえない。なぜなら、常にあるいはほとんどの 場合、X が Y を起こすことができない場合でさえ、X が Y する機能をもつからである。そ のため、安全弁の機能は爆発を防ぐことであり、これは実際、爆発を防止できないほど 悪い作りであるバルブについてさえ、真である。それは「機能不全」なのである。 *訳注 指示の失敗。一般的な例。ソクラテスはクサンチッペの夫であり、プラトンの教師であることか ら、「クサンチッペの夫はプラトンの教師である」という命題だけからソクラテスは導かれない(指示が 失われる)。 これまで検討してきた事例は、「行為者的」(agentive)と「非行為者的」 (nonagentive)機能の間のさらなる区別を示唆する。時には、機能の割り当ては、実 践的か、美食的か、美学的か、教育的か、なんであるかにかかわらず、私たちの今現在 の目的に応えなければならない。「この石は文鎮だ」、「この物体はネジ回しだ」、「これ はイスだ」と言う時、これらの三つの機能的概念は、私たちが物に与えた「用法」、すな わち、私たちが発見するのではなく、自然に発生するのではない、意識的行為者の実 践的関心に相関的に割り当てられた機能を記し付けるのである。これらすべての関心 すべてが、普通の意味で「実践的」なのではない。なぜならそのような機能はまた、「そ れは醜い絵だ」と言う時にも割り当てられるからである。これらすべては行為者が意図 的にモノに与えた用法の例なので、私はそれを「行為者的機能」(agentive functions)と呼びたい。4 私たちが行為者的機能を割り当てるモノの一部は、文鎮と して使う石のように自然に生じる。一部は、イスやネジ回しや油絵のようにこれらの機能 を特に遂行するよう作られた人工物である。ひとつの行為者的機能を遂行するため作 られたモノは、たとえば「このハンマーは私の文鎮だ」と言うことによって別の機能を遂 行するのに用いられうる。心臓の場合と同じく、機能は因果関係に加えて、モノに本来 的なのではないが、心臓に機能を帰属させることとは対照的に、これらの場合、機能 は、これらのモノに「私たちが意図的に与える用法」に帰属する。 いくつかの機能は特定の目的を遂行するモノに課されるのではなく、問題となる現 象の理論的説明の一部として自然に生じるモノやプロセス割りあげてられる。そのため 私たちはどのように有機体が生き、生存するかを説明する場合、「心臓は血液を送り出 す機能をする」と言う。生存や再生産を価値とする目的論に相関的に、私たちは人間の 行為者の実践的関心や活動から独立した自然に発生するそのような機能を発見でき るのである。だからこれらの機能を「非行為者的機能」と呼ぶことにしよう。 そのふたつに明確な区分線はない。そして時には、行為者的機能は、たとえば、「人 工心臓」を作る場合のように、非行為者的機能を置き換えることができる。非行為者的 機能が私の側の何ら努力なしに機能的に活動し続けるにもかかわらず、行為者的機能 は、使用者の側でその維持のため継続的な志向性を必要とするのは、決して常にでは ないが、一般的に真である。そのため、バスタブ、コイン、ネジ回しは、バスタブ、コイン、 ネジ回しとして機能するため私たちの側で継続的使用を必要とするが、心臓や肝臓 は、誰もそれに注意を払わない時でさえ、心臓や肝臓として機能し続ける。さらに行為 者的機能のため何かのモノを実際使う人は、そのモノに機能を実際に課した行使者で ないことがありえ、その物がその機能を持つことに気づかないことさえありえる。そのた めたいていの自動車のドライバーはおそらく駆動軸が、変速機から車軸へ駆動力を伝 えるためであることに気づいていないが、それはすべての行為者的機能に同じである。 もう一つ区別がある。行為者的機能内で、私たちは特殊なクラスを区別する必要が ある。時にはモノに割り当てられた行為者的機能は、何か他のものを表す(stanfd for)、あるいは表象する(represent)ものである。そのため私はフットボールの図式を 描く時、何らかの丸印に、クウォーターバック、ランニングバック、オフェンシブラインマン などの代わりをさせる。この場合、紙の上の記号に割り当てられた行為者的機能は表 現ないし代表のそれである。だが“表象する”とか“表す”というのは単に志向性の別 名であるため、この場合私たちは本来的に志向的でないモノや事態に志向性を意図的 に課したのである。機能を課すこのタイプの結果には英語で名前がある。それは“意 味”(meaning)ないし“象徴”(symbolism)と呼ばれる。紙の上の印は、たとえばネジ 回しが意味を持たない仕方で今や意味を持つ。なぜなら、紙の上の印は今やモノや事 態から独立してそれを表す、ないし表象するからである。もっとも有名な種類の意味は もちろん言語にある。言語を用いることで、私たちは印や音に特殊な機能、すなわち表 現の機能を課す。 私は前に自然の現象に機能を課す能力は驚くべき能力だと言ったが、等しくおどろ くべきなのは機能が全く無意識的に課され、一端課された機能はしばしば ― いわば ― 不可視であるという事実である。だからたとえばお金は「われわれは今これらの物に 新たなる機能を課す」と誰も考えもしないのに単純に発展した。そしていったんお金が 発展したなら、課された機能の論理構造について考えることなく、お金を売買に使える のである。しかし行為者的機能のすべてのケースについて、誰かがその物が何のため かが理解可能でなければ、機能は決して割り当てられることはできなかっただろう。少 なくとも、交換システムへの参加者の一部は、お金はものを買うためのものであり、ネジ 回しはネジを回すためであるなどを、意識的、無意識的に理解しなければならない。人 間の意図から完全に切り離されている機能を割り当てるなら、それは非行為者的機能 のカテゴリーに入るだろう。そのため、誰かが、お金の意図された行為者的機能は交換 の媒体であり、価値の貯蓄として働くが、お金はまた社会における権力関係のシステム を維持する、隠された、秘密の、意図されない機能として働くというと考えてみてほし い。第一の主張は、行為者的帰納の志向性についての主張である。第二の主張は、非 行為者的機能についての主張である。これを理解するためには、単に世界のどんな事 がそれぞれの主張を真とするかを自問してほしい。第一の主張は行為者がモノをお金 として使用する志向性によって真となる。行為者はそれを売買や貯蓄「の目的のため」 使う。第二の主張は、心臓が血液を送り出すため機能をするという主張のように、一群 の意図されざる因果関係があり、たとえ話者によって共有される目的論ではなくても、 これらが何らかの目的論に資する場合、その限りにおいて真であるだろう。一部の社会 科学者は明らかな機能と隠れた機能の間の区別について語る。この区別が私が行っ てきた区別と平行なら、その場合明らかな機能は行為者的機能であり、隠れた機能は 非行為者的機能である。 これらの点を要約するなら、私たちは機能の割り当ての三つの別のカテゴリーを発 見した。第一は非行為者的機能である。たとえば、心臓の機能は血液を送り出すことで ある。一般に、これら非行為者的機能は自然に発生する。第二は行為者的機能であ る。例えはネジ回しの機能はネジを入れたり、外したりすることである。第三は、割り当て られた機能が志向性のそれである、行為者的機能内の特殊な下位クラスである。たと えば「雪は白い」と言う文の機能は、雪が白いという事態を、真か偽に表現することで ある。5 単に用語法を維持するために、次の定義を採用したい。 1. すべての機能は観察者相関的であるため、私はすべての機能を「割り当てられ る」あるいは同義に「課される」と言いたい。 2. 割り当てられた機能のカテゴリー内で、一部は、行為者が実体に与える使用法 の問題、すなわちバスタブの機能は風呂にはいることであるため、「行為者的」 である。 3. 割り当てられた機能のカテゴリー内で、一部は、私たちが目的を割り当てた自然 に発生する因果的プロセス、すなわち心臓の機能はは血液を送り出すことであ るため、非行為者的である。 4. 行為者的機能のカテゴリー内には、その行為者的機能が「象徴し、表象し、表 し」、あるいは ― 一般に ― 何かあるいは他のものを「意味する」ことである実 体の特殊なカテゴリーが存在する。 集合的志向性 動物の多くの種、特に私たち人間は、集合的志向性(collective Intentionality)の ための能力をもっている。これによって私は、それらが協働的行動を行うことだけでな く、それらが信念、欲求、意図のような志向状態を共有することを意味している。単一の 志向性に加えて、集合的志向性がある。明白な例は、「私たちが」何かをするこのと一 部として、「私が」何かをする場合である。だから私がフットボールでオフェンシブ・ライ ンマンならば、私はディフェンシブ・エンドをブロックできるが、私は「私たちの」パスプレ イの実行の一部としてのみブロックをするだろう。私がオーケストラのバイオリン奏者な ら、交響曲の「私たちの」合奏の中の「私の」パートを演奏する。 ほとんどの人間の争いの形態でさえ、集合的志向性を必要とする。ふたりがプロボク シングで戦うためには、高度な集合的志向性が必要である。彼らは互いに打とうと試み る試合をするため協力しなければならない。この面でプロボクシングは誰かを単に通り で殴るのとは異なる。通りで誰かの背後に忍び寄り、襲う男は集合的行動を行っている のではない。だがふたりのプロボクサーは、法廷で係争する訴訟当事者と同じように、 またカクテル・パーティーで議論を応酬する教授陣のふたりのメンバーとさえ同じよう に、その中で対立する敵対行動が起こりえる高度の集合的行動を行うのである。集合 的志向性の理解は社会的事実の理解に本質的である。 単数の志向性と集合的志向性の間の関係、たとえば「私は意図する」と「私たちは 意図する」と記述される事実の間の関係とは何か?この問いに答えるため私が見てき たほとんどの取り組みは、「私たち志向性」(We intentionality)と「私志向性」(I intentionality)プラス何か、通常、相互信頼(mutual belief)に還元しようとする試み る。その考えは、私たちが一緒に何かをしようと意図する場合、それはあなたもそれをし ようと意図することを信頼し、私がそれをしようと意図すということである。そして私もそ れをしようと意図することを信頼し、あなたはそれをしようと意図する。そしてそれぞれ は他方がこれらの信頼を持ち、これらの信頼についてこれらの信頼を持ち、これらの信 頼についてのこれらの信頼についてのこれらの信頼を持ち…などと、潜在的に無限の 信頼において信じる。「私は、私が…と信じることをあなたが信じことを私が信じることを あなたが信じると私は信じる」などなど。私の見解では、個人の志向性に集合的志向性 を還元しようというこれらの取り組みはすべて失敗する。集合的志向性は、何か他のも のに還元されない、あるいはそのため排除できない生物学的に原初的な現象である。 見てきた通り「私たち志向性」を「私志向性」に還元しようとするすべての試みは反証さ れる。6 なぜ集合的志向性が個人的志向性に還元できないかには深い理由がある。私が信 じることをあなたが信じることを…信じる問題、そしてあなたが信じることを私が信じる ことをあなたが…信じる問題は「集合性」(colectivity)の意味には合計しても達しな いということである。「私意識」(I Consciousness)の集合は信頼を補っても、「私たち 意識」(We Consciousness)には合計しても達しない。集合的志向性の重大な要素 は一緒に何かをする(欲求する、信じるなど)の意味であり、個々の人のがもつ個人的 志向性は、彼らが共有する集合的志向性「から由来する」。そのため、フットボールの試 合の例にもどるなら、私は事実ディフェンシブ・エンドをブロックする単一の意図をもつ が、私は私たちのパスプレイを実行する集合的意図の一部としてのみ、その意図を持 つのである。 私たちはいわば、偶然ふたりの行動が同じであると気づくことになる場合と、本物の 協働的行動がある場合を対比するならこの違いはまったくはっきりと理解できる。一方 でオーケストラで演奏するふたりのバイオリン奏者と、他方で、私が自分のパートを演 奏している時、隣の部屋の誰かがそのパートを練習しており、偶然、私たちが同調した 仕方で同じ楽譜を演奏しているのを発見することの間には大きな違いがある。 なぜ集合的志向性は個人的志向性に還元されなければならないと非常に多くの哲 学者たちが確信しているのか?なぜ、原初的現象として集合的志向性を認めたいくな いのか?私はその理由は彼らが説得力があるように思える議論を受け入れていると考 えるが、誤謬である。その議論はすべての志向性は人間の個人の頭の中に存在するた め、志向性の形式はその頭を持つ個人にのみ参照し得るということである。だから精神 生活の原初的形式として集合的志向性を認めるものはだれでもヘーゲルの世界精神 とか、集合的意識とか何か同じような信じがいものが存在するという考えに陥らなけれ ばならないように見えたのである。方法論的個人主義の必要条件は、私たちに集合的 志向性を個人的志向性に還元するよう強いるように見える。要するに私たちは一方で 還元主義か、他方で個人の心を超えて浮かぶ超精神か選択しなければならないと思え たのである。私は反対に、その議論は誤謬を含んでおり、そのジレンマは偽であると主 張したい。すべての私の精神生活は私の脳内にあり、あなたの精神生活はあなたの脳 内にあり、他のすべての人についても同じであるのはまことに真である。だがそれからす べての私の精神性格が私を参照する単数名詞句の形式で表現されなければならない ということは帰結しない。私の集合的志向性がとり得る形式は、単に「私たちは意図す る」「私たちはしかじかをしている」のなどのようにでしかない。そのような場合において、 私たちが意図する一部として私は意図する。個々の頭の中に存在する志向性は「私は 意図する」形式をもつ。7 「私たちは意図する」の伝統的絵はこのように見える: 図1.1 私が提案している代替案はこのように見える: 図1.2 条件により、私は今後「社会的事実」(social fact)と言う表現を集合的志向性を伴 ういかなる事実を参照するため用いる。だからたとえば、ふたりが散歩に一緒に行くと いう事実は、社会的事実である。社会的事実のひとつの特殊な下位クラスが、人間の 制度を伴う事実、制度的事実である。だからたとえば、この紙片が20ドル紙幣であると いう事実はひとつの制度的事実である。私は制度的事実について非常に多くを語るつ もりである。 構成的規則および、ナマの事実と制度的事実の間の区別 言語の哲学に関する私の著作において 8、私は一方でナマの物理学や生物学の問 題である世界の特徴と、他方で文化や社会の問題である世界の特徴の間の関係に関 する問題に対する解答を始めると示唆した。世界に存在する唯一の種類の事実がある ということを含意することなく、私たちは、太陽が地球から約 1 億五千万キロあるという 事実のような「ナマの事実」(brute fact)と、クリントンは大統領であるという事実のよ うな「制度的」事実(institutional fact)を区別する必要がある。ナマの事実はどんな 人間の制度から独立して存在する。制度的事実は人間の制度なしには存在しない。ナ マの事実は、私たちがその事実を「述べる」(state)ための制度的言語を必要とするが、 ナマの事実「自体」は言語やいかなる他の制度からも全く独立して存在する。そのため 太陽が地球から 1 億 5 千万キロあるという「陳述」(statement)は、言語の制度や、 メートルで距離を測る制度を必要とするが、「陳述された事実」(the fact stated)、地 球と太陽のある距離があると言う事実は、いかなる制度からも独立して存在する。他方 制度的事実はまさにその存在に特殊な人間の制度を必要とする。言語はひとつのその ような制度である。事実それはそのような制度の全集合である。 これらの「制度」(institution)とはなにか?この問題に答えるため、もうひとつの区 別、私が「規制的」(regulative)規則と「構成的」(constitutitive)規則と呼ぶ区別を 導入する。9 一部の規則は予め存在する活動を規制する。たとえば、「道路の右を運転 する」*訳注という規則は、運転を規制する。しかし一部の規則は単に規制するだけでな く、またある活動のまさに可能性を創出する。そのためチェスの規則は予め存在する活 動を規制するのではない。ボード中に木片を置く多くの人がおり、彼らがいつも互いに 押しのけ合い、交通渋滞を生むためその活動を規制しなければならないと言うのは真 ではない。そうではなくチェスの規則はチェスをするまさにその可能性を創出する。そ の規則はチェスをすることがその規則と一致して行為することによって一部構成される という意味でチェスについて「構成的」である。その規則の少なくとも大部分に従わな いなら、あなたはチェスをすることできない。規則はその体系において生じ、個々の規則 あるいは時には集合的に規則の体系は特徴的に次のような形式を持つ 「X を Y とみなす」あるいは「X を文脈 C で Y とみなす」 "X counts as Y" or "X counts as Y in context C." そのため、しかじかをチェックメイトとみなす、しかじかの動きを、正しいポーンのつみ 方とみなすなど。 私がした主張は、制度的事実は構成的規則の体系内部にのみ存在するということ であった。諸規則の体系は、このタイプの事実の可能性を生む。そしてチェスで勝った という事実、あるいはクリントンは大統領であると言う事実のような制度的事実の特定 の事例は、特定の規則、たとえばチェックメイトに関する規則、あるいは選挙や宣誓の *訳注 アメリカの場合。 に関する規則によって創出される。私が「規則」(rule)について議論しているのであり 「慣習」(convention)について議論しているのではないことを強調するのはおそらく 重要である。私がキングをチェック・メイトすることでゲームにかつのはチェスの規則で ある。キングがポーンより大きいのはチェスの「慣習」である。「慣習」は恣意性を含意 するが一般に構成的基礎はそのような意味で恣意的ではない。 文脈「X を C で Y とみなす」は内包的(intensional-with-an-s)である。それは共通 の外延をもつ表現の代用可能性(substitutability)、「salva variate」(save-truth)を 満たさない指示の曖昧さである。* そのため、その陳述は: 1. 印刷局で発行されたドル紙幣(X)を、アメリカ合衆国で(C)、お金(Y)とみなす かつ 2. お金は諸悪の根源である は 3. 印刷局で発行されたドル紙幣をアメリカ合衆国で諸悪の根源とみなす を含意しない いつものとおり、指示の曖昧さは重大な点である。この場合、制度的事実における精 神的要素があるということは手がかりを与える。言葉の明確な記述の内包性 (intensionality-with-an-s)は表現された現象が志向的(intentional-with-a-t)であ る手がかりである。引き続く章で見る通り、これに多くものがかかっている。 様々な社会的理論家が規制的規則と構成的規則の区別に関する私の説明を攻撃 してきた 10 だが、私は可能な限り私の説明は正しいと考える。その問題は、現在の私 たちの目的にとってまだ十分ではない。私たちはまだ規則と制度のより全体的な説明 * 内包性(intensionality-with-an-s)は志向性(intentionality-with-a-t)と混同してはらな い 。 志 向 性 ( intentionality ) は 世 界 の モ ノ や 事 態 に 向 け ら れ る 心 の 特 性 で あ る 。 内 包 性 (intensionality)は外延性(extensionality)に関するあるテストに失敗する文や他の表象の特性 である。これらのもっとも有名なもののひとつは、ライプニッツの法則である。ふたつの表現が、同じ モノを指示する場合、それらは文の真理値を変えずにそれぞれの文を代用できる。このテストに失 敗する文は、代用可能性(substitutability)に関して内包的(intensional)と言われる。この種の 内包性を言うのに使われる別の表現は「指示の曖昧さ」( referential opacity)である。志向 (intentional-with-an-t)状態についての典型的な文は、内包的(intensional-with-an-s)文であ る。なぜならそのような文において、モノが指示される仕方が、文の真理値に影響するからである。こ の問題に関する広範な議論については、Searle, Intentionality, An Essay in the Philosophy of Mind を見よ。 が必要である。そして私たちは多くの疑問に答える必要がある。すべての社会的事実 は制度的事実なのか?たとえば戦争やカクテルパーティの構成的規則はあるのか?何 が何かをとにかく「構成的規則」にするのか?何よりも困難なのは、私たち自身のような 意識的生物学的野獣の根本的存在論と社会的事実や人間の制度の装置の間をどの ようにつなげるのかである。 私は後に、構成的基礎の形式やどのようにそれが制度的事実の存在論に関係する かについてもっと言わなけれない。この章での私の目的は、断片を集めることであり、現 在私が必要とする三つをもっている。割り当てに先立って、その機能を持たない実体へ の機能の割り当て、集合的志向性、構成的規則と規制的規則の区別である。これを もって、次に制度的現実(institutional reality)の構成に向かうことができる。 第2章 制度的事実を創出する この章で、私は社会的事実の基本的構成と単純な社会的事実の形式から制度的 事実の発展の論理構造を記述する。そうするため、私は行為者的機能、集合的志向 性、構成的規則の概念装置を使用する。私はまた社会的現実のいくつかの不可解な 特徴を説明しようと思う。 社会的現実のいくつかの明らかな特徴 はじめに、私たちが説明を望む社会的現実の明らかな特徴の一部を特定しよう。私 は哲学的研究は素朴に始めるべきだと考えるため(進め方や結論は別問題である)、 たとえば私がアメリカ市民だという事実のような制度的事実の特徴や、ふたりの男がエ ンジンをかけようと一緒に自動車を押すというような制度的構造を必要としない社会的 事実の特徴を含む、社会的現実の素朴で、直感的な特徴であるようなものを単純に6 つリストする。 1.多くの社会的概念の自己参照性 社会的事実を示す概念は特別な種類の自己参照性をもつようにみえる。予備的な記 述として、たとえば、「お金」の概念を私のポケットの中の物に適用するためには、それ は人々がお金であると考える種類のものでなければならない。誰もがそれがお金である と考えるのをやめたら、それはお金としての機能を停止し、最終的にお金であることをや める。論理的に言えば、「あるタイプの物質xはお金である」という陳述は、「xはお金と して使用されるか、xはお金とみなされるか、xはお金と考えられる…等」の形式の無限 の非排他的選言を含意する。だが、それはお金の概念、まさに言葉「お金」の定義が自 己参照的である。なぜならあるタイプの物が定義を満たさなければならないため、それ がお金の概念に分類されなければならないためには、その定義を充足するものである と考え、それとして用い、それとみなす等されなければならない。これらの種類の事実に ついて、あなたが人々すべてを常にばかにできないというのは、ほぼ論理的真であるよ うにみえる。誰もが常にこの種の物をはお金であると考えるなら、そしてそれをお金とし て使い、お金として扱うなら、その場合それはお金である。誰もまったくこの種の物がお 金であると考えないなら、その場合それはお金ではない。そしてお金について言えるこ とは選挙、私有財産、戦争、投票、約束、結婚、売り買い、行政官庁などについて同じで ある。 正確にこの点を述べるためには、一方で制度や一般的実践と、他方で特定の事例を 区別する必要がある。すなわち、タイプとトークンを区別する必要がある。一枚のドル紙 幣が印刷機から床の隙間に落ち、全くお金として使われず、お金と考えられもしないか もしれないとしても、なおそれはお金である。このような場合、たとえ誰もお金であると考 えなかったとしても、それについて考えなかったとしても、そう使わなかったとしても、あ る特定のトークンの事例はお金であるだろう。同様に、たとえ誰も、それが偽札だと知ら なかったり、偽札でさえないとしても、偽ドル札は流通していたかもしれない。そのような 場合その特定のトークンを用いる者は誰でも、たとえ実際にはお金でないとしてもそれ はお金であると考えただろう。特定のトークンについて、人々が体系的に誤る可能性は ある。だがそのタイプの物に関する限り、そのタイプがお金のタイプであるという信念 は、私たちが完全に明確にする必要のあるあり方で、お金であることについて構成的な のである。 お金のようないくつかの制度的現象について私が言うことはさらに、カクテルパー ティーのような他の制度的現象についてトークン以上のタイプに適用され、それは個々 のトークンにも適用される。話を単純にするため、私は読者がその区別を知っていると 仮定し、私はすべてのケースでその区別をすることなく制度的概念一般の自己参照性 について語りたいと思う。後に私はタイプに適用されるものと、トークンに適用される物 の間の違いについて説明しようと思う。 だがもし問題の物の「タイプ」が、人々がそれがお金であるという理由によってのみお 金であるなら、もし「お金」が、「お金であるとみなされ、お金として使われ、お金であると 信じられる」ことを含意するなら、その場合は哲学者は当惑するだろう。なぜならその主 張は、無限後退ないし悪循環を生むように見えるからである。何かがお金であるという 主張の内容の一部がお金であると信じることであるなら、その場合その信念の内容は 何なのか?何かがお金であるという信念の内容がそれはお金であるという信念を一部 に持つなら、その場合何かがお金であるという信念は、お金であると信じられることの 一部である。そして次いで、何度も何度も、同じ特徴を繰り返すことなくその信念の内 容を説明する方法はない。後に、私はこの無限後退を回避する方法を示すつもりだ。現 時点では、私は「山」や「分子」のような自然の概念と社会的概念を区別する特異な論 理的特徴に注意を換気しているだけである。たとえ誰もそれが山であると信じなくても、 何かが山であることはありえる。誰もそれについて全く何も考えなくても何かが分子で あることはありえる。だが社会的事実については、その現象に対して取る態度が、部分 的にその現象について構成的なのである。たとえば、盛大なカクテルパーティを開催し、 パリにみんなを招待し、そして手から物が落ちて、アウステルリッツの戦い以上の被害率 になるとしても、 ― やはりそれは戦争ではない。それは単なる一つの驚くべきカクテ ル・パーティーでしかない。カクテル・パーティであることの一部は、カクテル・パー ティーであると考えることである。戦争であることの一部は戦争であると考えることであ る。これは社会的事実の特筆すべき事実である。それは物理的事実との間に類似物は ない。 2.制度的事実の創出における遂行的発語の使用 制度的事実のもっとも魅力的な特徴のひとつは、決してすべてではないが、非常に多く が、顕在的な遂行的発語によって創出されうることである。遂行的(performative)は 私が「宣言」(declaration)と呼んだ発話行為のクラスのメンバーである。1 宣言にお いて、発話行為(speech act)の命題内容によって表現される事態がまさに発話行為 の成功した遂行によって実現される。制度的事実は、「会議は休会された」とか「私の 全財産を甥に遺言によって与える」とか「私はあなたを議長に任命する」とか「ここに宣 戦布告する」のような文の遂行的発話で創出することができる。これらの発話は、それ らが表現するまさにその事態を創出する。そしてそれぞれの場合、事態は制度的事実 である。 3.制度的事実に対するナマの事実の論理的優先性 直感的に、ナマの事実なしに制度的事実があるようにはおもえない。たとえば、単にほと んどどんな種類の物質もお金でありえるが、お金は何らかの物質的形式や他の形式で 存在しなければならない。お金は金属片、紙片、貝殻、帳簿の記入でありえる。実際、過 去200年の間に私たちのお金のほとんどは、私たちが気づきさえしない革命的な物理 的変容を遂げた。今日大半のお金は、コンピュータのディスク上の磁気跡の形式で存 在する。お金として「機能する」限り、形は何でも問題ではないが、お金は何らかの物理 的形式あるは他の形式をとらなければならない。 お金に真であることはチェス、選挙、大学についても真である。これらすべては、様々 な形をとることができるが、それぞれにとって何らかの物理的実現がなければならな い。これは社会的事実一般や特に制度的事実が階層的に構造化されていると私が考 えていることが真であることを示唆する。しばしばナマの事実は、物理学的モノとしてで はなく、人の口から出る音として、あるいは紙の上の印として-あるいは頭の中の考え として示されるだろう。 4.制度的事実間の体系的関係 制度的事実は孤立して存在はできず、他の諸事実との一群の体系的関係をもっての み存在できる。そのためたとえば、社会における誰でも、お金をもつことができるために は、その社会はお金のため、商品やサービスの交換システムをもたなければならない。 だが交換システムを持つためには財産や財産の所有のシステムをもたなければならな い。同様に社会に結婚がなければらないなら、何らかの形の契約関係がなければなら ない。だが契約関係がありえるなら、約束や義務のようなものを理解する必要がある。 さらに、制度的事実の相互関係の論理的概念的必要条件とは全く別に、どんな現実 の生活状況でも人は組み合わされた制度的現実の集合の中に自らがいるのを見出す ということがわかる。第1章で記述したレストランの光景はこれを説明する。その光景の どの事例でも、一方は(少なくとも)市民であり、お金を所持し、客であり、お金を払う。他 方は、財産、レストラン、ウェイター、紙幣を扱う。 もちろん、ゲームは、制度的事実が特徴的に行う仕方で他の私たちの生活と関連の ない活動の形式であるように設計されているため、ゲームはこの一般原則に対する反 例であるようにみえるかもしれない。今日の戦争、革命、売り買いが明日のため、そして 無限の未来へ向けて、正確に結果をもつよう意図されている仕方では、今日の哲学部 のソフトボール・ゲームが明日のためどんな結果をもつ必要はない。* それにもかかわ らず、ゲームの場合でさえ、制度的事実の他の形式との体系的依存性がある。たとえ ばピッチャー、キャッチャー、バッターのポジションと行動、あるいは不行動はこれらの 権利や責任の理解なしに理解可能ではない。だがこれらの概念は、次いで、権利や責 任の一般的概念なしに理解可能ではない。 * プロスポーツがそのような結果を持つ程度にしたがって、それらは単なるゲームであることをや め、それ以上のもの、すなわちビッグ・ビジネスになる。 5.社会的モノに対する社会的行為の、産物に対する過程の優位 自然科学が研究するモノとの類比で、独立して存在する実体として「社会的モノ」 (social object)を考えたくなる誘惑がある。政府、ドル紙幣、契約が、DNA 分子、大陸 プレート、惑星がモノないし実体であると言う意味でモノないし実体であると考えたくな る誘惑がある。しかし社会的モノの場合、名詞句の文法は、そのような場合、過程 (process)は産物(product)に先立つ、という事実を私たちが認識するのを妨げる。 社会的モノは常に、私たちが説明する必要があるという意味で、社会的行為(social act)によって構成される。そしてある意味で、「そのモノは単に活動の継続的可能性で ある」。たとえば、20ドル札は何かのために支払うことの持続的な可能性である。 6.多くの制度的事実の言語的要素 特徴1と2に関連して、言語や、何らかの多かれ少なかれ言語的な表象システムをもつ 存在者だけがほとんどの、おそらくすべての制度的事実を創出できるというさらなる明 白な特徴がある。なぜなら「言語的要素は部分的に事実について構成的であるように 見えるからである。 たとえばある種の蟻のコロニーが奴隷を持ち、ミツバチが女王をもつと理解するのは ありふれている。私はそのような言い方は、特にいわゆる「社会的昆虫」に関する場合、 無害なメタファーだが、字義通り、奴隷を持ち、字義通り女王をもつ共同体にとって、そ の参加者たちは何かを女王や奴隷と表現するのに必要な装置をもたなければならない だろうということを心に留めておくことは重要である。行動が身体的運動だけで構成さ れる仕方でただ行動することは、共同体が女王や奴隷をもつには十分ではない。それ に加えて、共同体のメンバーの側で、ある一群の態度や信念などがなければならない だろう。そしてこれは言語のような表象システムを必要とするようにみえる。言語は私た ち自身にこれらの事実を表象するためだけに本質的なのではないようにみえる。そうで はなく私たちが説明しなければならない仕方で、問題の言語的形式は事実について部 分的に構成的である。だが「正確に制度的事実の構成における言語の役割とは何 か?」これは簡単な問いではない。そして次章をそれに答えるために費やすだろう。 集合的志向性から、制度的事実へ:お金の例 社会的事実のもっとも単純な形式は集合的行動の単純な形式を伴う。前に言った 通り、私は集合的行動の能力は生物学的に先天的であり、集合的志向性の形式は排 除できる、あるいは何か他のものに還元できるものではないと考える。たとえば、自然 公園で一緒に移動したり、一緒に狩りをしたりする動物にとって文化的装置も、文化的 慣習も、言語もない。ハイエナが孤立したライオンを殺すため群れで移動する時、たと えハイエナの行動が非常に熟練して協調しており、ハイエナがライオンにだけ責任があ るのではなく互いに責任があるとしてもどんな言語的、文化的装置は必要はない。協 働的行動の淘汰的有利は明らかであると、私は確信している。排他的でない適応性は 共通の種と協働することによって、増大する。 集合的な動物の行動を志向性の一般理論に同化することの唯一の扱いにくい特徴 は、ライオンを攻撃するハイエナの例のようなどんな複雑な行動の形式においても、そ れぞれの動物の集合的行動への個別の貢献が集合的志向性とは異なる志向内容を もつという事実に由来する。人間の場合、たとえば私たちがパスプレイを実行しており、 私の役割がディフェンシブ・エンドをブロックすることなら、その場合私の個人的志向性 は「私はディフェンシブ・エンドをブロックしている」である。だが、たとえ私がパスプレイ の実行の役割としてのみディフェンシブ・エンドをブロックしているとしても、それは集 合的志向性「私たちはパスプレイを実行している」とは異なる内容を持つ。個人的志向 性の内容は、その場合、たとえ個人の志向性が集合的志向性の部分であっても、集合 的志向性の内容とは異なるかもしれない。タンゴは一人では踊れず、パスプレイは二 人では実行できない。2 社会的、制度的現実の階層的分類学を発展させるひとつの段 階として、私は既に集合的志向性を含むいかなる事実も社会的事実であると明記し た。そのため、たとえば、ハイエナがライオンを狩ることも、議会が法律を採択すること も、ともに社会的事実の例である。制度的事実は社会的事実の特殊な下位クラスであ ることになる。議会が法律を採択することは制度的事実であるが、ハイエナがライオン を狩ることはそうではない。 次の段階は集合的種類の行為者的機能の導入である。集合的志向性と物理的モノ への行為者的機能の意図的な割り当てを含む装置があるなら、ふたつを結びつけるこ とは大きな段階ではない。どのようにひとりの人があるものをイスやテコとして使うと決 めることができるかを理解するのが簡単なら、その場合、たったひとりでやるより、私は どのようにふたり以上の人が一緒に全員が座ることができるベンチとしてあるものを 使ったり、何人かで操作するためあるものをテコとして使うと決定することができるかを 理解するのは難しくないと思う。集合的志向性は個人的志向性と同じようにたやすく 行為者的機能を生成できる。 次の段階は、もっと難しい。なぜならそれは、モノへの機能の割り当てが、ベンチとし て使われられる丸木やテコとして使われる棒の場合のようにモノの本来的特徴による だけでは遂行できないモノへ機能を集合的に課すことを必要とすることだからである。 この次のケースのタイプでは、機能はそれ自体人間の協働の問題としてのみ遂行され る。この段階、集合的合意や受け入れによって機能が遂行できる集合的に機能を課す ことは、制度的事実の創出の重大な要素であることを少し詳しく見てみよう。 たとえば、そのテリトリーの回りに最初に壁を築く原始的な部族を考えてほしい。壁は 全く物理学によって課された機能の事例である。壁は侵入者を締め出し、部族のメン バーだけを入れるのに十分大きいと考えよう。しかし壁は次第に物理的障害であること から、象徴的障害に発展すると考えてほしい。壁が次第に崩れ、残った物が、石のひと つの列だけになると想像してほしい。だが住民と隣人は彼らの行動に影響をおよぼすよ うな仕方で、テリトリーの境界をなすものとしてその石の列を「認識」し続けると想像して ほしい。たとえば住民は特別な条件下でのみその境界を横切り、外部の者は住民が同 意した場合にだけテリトリーに入ることができる。今や石の列は、全くの物理学によるの ではなく、集合的志向性によって遂行される機能を持つ。高い壁や堀とは異なり、壁の 残骸は単にその物理的性質のために人々を締め出すことはできない。非常に原始的な 意味で、その結果は象徴的である。なぜなら物理的モノの集合がいまやそれ自体をこ えた何かを指示する機能、すなわちテリトリーの制限、を志向する。石の列は、物理的障 害と同じ「機能」を遂行するが、それは物理的性質によってではなく、それは集合的に 新たな「地位」(status)、境界のマーカー(marker)の地位を与えられたためそうす る。* 私はこの段階をもっとも自然で無垢な発展と見たいが、それは重大な含意をもつ。 動物は、自然現象に機能を課すことができる。たとえば手が届かないバナナを取る道 具として棒を使う霊長類を考えてほしい。3 そして一部の霊長類は、ある世代から次の 世代へ伝えられる行為者的機能の伝統を発展させさえすることがある。そのためもっと も有名なニホンザルの「イモ」は芋から砂を落とすのに水を使い、やがて塩水は砂を落 とし、かつ芋を美味しくするという両方をするのに用いられる。「イモ」に感謝を捧げつ つ、「今では、海水でのイモ洗いは子ザルがイモを食うことといっしょに、その母親から 習う、ひとつの伝統となって定着している」とクマーは書く。4 人類学の教科書はお決ま りのごとく、人間の道具を使う能力に所見を述べる。だが、他の生活形式との真にラ ディカルな分岐点は、人間が集合的志向性を通じて、機能が、単に物理学や化学によ * この議論の以前のバージョンでは私は、そのテリトリーに制限を記す動物の集団の動物行動 学の例を用いた。そのようなケースで、原始的部族の例のように、障害は壁や堀のようなまったくの 物理的障害ではなく何らかの意味で象徴的である。しかし私は動物行動学者が動物にそれほど多 くの集合的志向性を帰属させることを正当と思うか定かでないため、同じ指摘をするため私は部族 の事例で代用した。私たちが次章で言語の役割を議論する時、私たちは言語的なものと前言語的 なものとの間が重要であることを見るだろう。 るだけ達成することができず、ある「機能」が割り当てられる新たな「地位」の特殊な認 識、受け入れ、承認の形式で継続的協働を必要とする現象に機能を課す時生じる。こ れは人間の文化のすべての制度的形式の始点であり、それはつねに後に見る通り、X を C において Y とみなすという構造を持たなければならない。 私たちの目的は、物理学、化学、生物学の基礎的存在論に社会的現実を同化させ ることである。これを行うため、私は分子や山から、ネジ回しやテコや美しい夕日へ、そ の後、議会、お金、国民国家まで至る継続的な線を示す必要がある。物理学から社会に 繋がる橋における中心的な隔たりは、集合的志向性であり、社会的現実の創出におけ るその橋における決定的移行は課すことなしにはその機能を遂行できない実体に機能 を集合的に意図的に課すことである。ベンチに一緒に座ることや素手で戦うことのよう な単純な社会的事実からお金や、財産や、結婚のような制度的事実へ向かわせるラ ディカルな移行は ― テコや、ベンチ、自動車とは異なり ― 物理的構造によるだけでは 機能を遂行できない機能を実体に集合的に課すことである。あるケースでは、たとえば 紙幣の場合、これはその構造が付随的にのみ機能に関係するためである。他のケース では、たとえば免許を持ったドライバーの場合、それは「権限を与えられる」ことがな かったなら、人々に運転の機能を遂行することを私たちは認めないからである。 機能を集合的に課すことから制度的事実の創出への移行における鍵となる要素は、 機能が加えられる集合的に承認された「地位」(status)を課すことである。これは行為 者的機能の特別なカテゴリーであるため、私たちはこれを「地位機能」(status function)と名づけたい。境界のケースで、私たちは偶然因果的に機能する物理的モ ノ、壁が象徴的モノ、境界のマーカーに発展するのを想像した。境界は壁が果たしたの と同じ仕方で、機能することを意図されているが、それがこの機能を遂行する手段は、 機能が加えられる特別な地位を持つものとして石を集合的に承認することである。極 端なケースにおいて、地位機能は物理的地位は機能の遂行に恣意的に関係付けられ る実体に付け加えられるかもしれない。説明として、お金と特に紙幣の発展のケースを 検討したい。標準的な教科書のお金の説明は、三つに分類される。すなわち金のような 「商品貨幣」(commodity money)は価値があるものとみなされ、それゆえお金とみな される。なぜなら商品それ自体が価値があるとみなされるからである。「契約貨幣」 (contract money)は金のような価値ある商品の持ち主に支払う約束をするため価値 があるとみなされる紙片からなる。そして「法定不換紙幣」(fiat money)は政府や中央 銀行のような一部の政府機関によってお金として価値があると宣言された紙片からな る。しかしこれまで、これら三つの間の関係とは何か、あるいは三つすべてについてのど んな事実がそれらがお金であることを真とするかさえ明らかではない。商品経済の場 合、物は価値があるため、交換媒体である。法定不換紙幣の場合、物は、交換媒体であ るため、価値がある。 これら三つの間の論理的関係は中世ヨーロッパにおける紙幣の発展の標準的説明 によって説明することができる。私はこの説明は真だと仮定するが、私たちの現在の目 的にはあまり十分ではない。私は歴史的正確さに依存しないある論理的関係を説明す るためにだけその説明を使うつもりである。それはこうである。金や銀のような商品貨幣 の使用は事実上物々交換の一形式である。なぜなら貨幣が取る形式はそれ自体価値 があるものとみなされるからである。そのため問題の物は単に、通常既にそれに何かの 機能が課されるであるその物理的性質のため貨幣の機能を遂行する。そのため金貨 はコインであるからではなく、金で作られているため、価値がある。そしてコインに付けら れた価値は正確にそれに含まれる金に付けられた価値と等しい。私たちはその種の物 を所有したいため、金という物に「価値」の機能を課す。価値の機能はすでに金に課さ れていたため、価値の機能の上位に貨幣の機能を課すのはたやすい。そしてそれがそ の物理的性質のため人々がすでに金が価値があるとみなしたため、交換媒体としてそ れを進んで受け入れるという単に空想的な言い方なのである。私たちはかくして、人々 がそのような物をもつことや、使うことに自体に関心がなくとも、物々交換の目的のため に物が所有される交換システムを持つのである。ところで旧ソビエト連邦が崩壊した時 類似の状況が存在した。1990年と1991年、モスクワで、マルボロのタバコのパックはあ る種の通貨の地位を獲得した。人々はたとえたばこを吸わなくても、マルボロでの支払 いを受け入れただろう。紙とタバコの組み合わせは、単語「シガレット」と名付けられ、す でに行為者的機能を持ち、そしてその機能の上位で、「交換媒体」と名づけられた行為 者的機能を課されたのである。 中世ヨーロッパについて語られたストーリーは、銀行家が金を受け取り、それを蓄え、 金と引き換えに、銀行家は金の預金者に、紙の証明書を交付したということである。証 明書はその後金自体と全く同じように、交換の媒体として用いられたのである。証明書 は金のある種の代わりである。それは価値のあるものとして完全な信用を持った。なぜ ならどんな時でも、それは金と交換できたからである。商品貨幣はかくして契約貨幣に 取って代わった。 私たちがもつ金より多くの証明書を単に発行することによって貨幣の供給を増大さ せることができると誰かが思いついたとき、天才の一撃が起きた。証明書が機能し続け る限り、集合的に受け入れられ続ける、集合的に課された機能を持ち続けられる限り、 証明書は証明書が言うとおり、金と同じ価値である。天才の次の一撃は、誰かが私たち が金を忘れることができ、単に証明書をもつことができると誰かが思いついたとき ― そして人々がこれを思いつくのに長い時間かかったのだが ― 起きた。古い連邦準備券 には、ドル紙幣を財務省に持って行き、「ドル」と等価なものを「預金者に支払う」と書い てある。だが20ドル連邦準備券を財務省に持って行ったら正確に何をくれると思うか? 別の20ドル連邦準備券である!5 構成規則:X を C で Y とみなす 制度的事実の創出に対する構成的規則関係を探求するなら、貨幣の発展で何が起 こっているかもっとよく理解できると私は考える。私は構成的基礎の形式は「X を C で Y とみなす」(X counts as Y in C)であると言った。だが私がこの言い回しを使ってい る通り、それは X 項によって示されるモノのまったく物理的特徴以上の何かを Y 項が 示す制度的事実と制度的なモノの集合を決定するだけである。6 さらに、「をとみなす」 (count as)という言い回しは、地位やそれにともなう特徴が物理的モノに割り当てで きるまったくのナマの物理的機能を超える集合的志向性によって機能が付け加えられ る、地位(status)を課すことの特徴を示している。だからたとえば、私がこの公式を使っ ているとおり、それは「ある人が座るように設計され、使われる物をイスとみなす」という 構成的規則の陳述なのではない。なぜなら X 項を充足することは既に、言葉「イス」の 定義から、Y 項を充足するのに十分だからである。「規則」はラベル以外の何ものも付 け加えない、だからそれは構成的規則ではない。さらに「ある形の物をイスとみなす」と いうことは構成的規則の表明ではない。なぜなら割り当てられた機能はいかなる人間 の合意から独立して割り当てられえるからである。ある種の形を持っていれば、私たち はそれを誰がなんと考えようと関係なく、それをイスとして使うことができる。だが、しか じかの紙片を貨幣とみなすというとき、私たちは純粋に構成的規則をもつのである。な ぜなら X 項を充足する「しかじかの紙片」はそれ自体貨幣であるのに十分ではない か、X 項はその物を人間の合意なしに貨幣として機能するのに十分である因果的特徴 も特定しないからである。だから構成的規則の適用は次の特徴を導入する。Y 項は物 が X 項を充足するためだけ既に持っていない新たな「地位」を割り当てなければならな い。そして X 項によって参照され、その地位にともなう機能についての物にその地位を 課す事の両方に集合的合意、あるいは少なくとも、受け入れがなければならない。さら に、X 項によって特定される物理的特徴は Y 項によって特定される割り当てられる機 能の遂行を保証するのはそれ自体では不十分であるため、新たな地位とそれに付随 する機能は集合的合意や受け入れによって構成することができる種類の物でなけれ ばならない。また X 項によって特定される物理的特徴は割り当てられた機能の遂行で 成功することを保証するのに不十分であるため、割り当てられた機能の確実性の「持 続的な」集合的受け入れないし承認がなければならない。さもなければ、機能は遂行に 成功することができない。たとえば私たちが「この物はお金である」という最初に割り当 てに合意するのは十分ではない。私たちはそれをお金を受け入れ続けなければならな いか、さもなければそれは価値がなくなる。 ナマの事実から制度的事実を創出することにおいて魔法、手品のトリック、奇術の要 素があるという私たちの感覚は、私たちが単に物 X を物 Y とみなす構造における X と Y の関係の非物理的、非因果的性格に由来する。私たちのもっとも強力な形而上学的 気分において、私たちは「だが X は実在的に(really)Y なのか」と問いたくなる。たとえ ばこれらの紙片は実在的に「お金」なのか?この土地の一区画は実在的に誰かの「私 有財産」なのか?ある儀式におけるある雑音を出すことが実在的に「結婚する」ことな のか?口から雑音を出すことは実在的に「陳述」ないし「約束」をすることですらあるの か?たしかに要点を突き詰めるなら、これらは何ら実在的事実(real facts)ではない。 行為者的機能が物理的特徴のために完全に遂行される場合私たちはこの奇妙な感 覚には襲われない。そのため私たちはこれが実在的にネジ回しかどうか、これ実在的 に自動車であるかどうかについていかなる形而上学的疑いも持たない。なぜなら問題 の物のまったくの物理的特徴がそれらをネジ回しや自動車として機能することを可能 にするからである。 この点で、私はそれによって制度的現実が実際に現実の人間社会で働く構造を記 述しようと思う。この段階は私の議論に重大なので、ゆっくりと、アメリカ合衆国紙幣を 例にとって、進みたい。そして私はその例のある特徴を一般化できることを望むため、そ のもっとも顕著な性格をリストするつもりである。ある種の紙片がアメリカ合衆国内に流 通している。これらの紙片は X 項を充足することを構成するある種の条件を満たす。紙 片は特定の物質的材料をもたなければならず、ある種のパターン(5ドルとか10ドルと かなど)と合わなくてはならない。それはまたアメリカ合衆国財務省監督下にある印刷 局によって発行されなければならない。これらの条件(X 項)を充足するものは何でも、 お金、すなわちアメリカ合衆国紙幣(Y 項)とみされる。だがこれらの紙片を Y 項「お金」 と記述することは、X 項の特徴について略記したラベルを貼る以上のことを行う。それ は新たな地位を記述する。その地位、すなわちお金はそれに加えられた機能の集合、す なわち、交換媒体、価値の保存などをもつ。構成的規則によって、その紙は「私的公的 すべての債務に対する法貨」(“legal tender for all debts public and private”)*訳注 とみなされる。そして Y 項によってこの地位機能を課すことは集合的に *訳注 アメリカ連邦紙幣に実際に印刷されているフレーズ 承認され、受け入れられなければならない。さもなければその機能は遂行されない。 この例のもっとも顕著な一般的特徴のいくつかは次のとおりである。 第一、集合的志向性は、問題の現象の本来的物理的特徴のためだけでは遂行できな い新たな地位をその現象に割り当てる。この割当は、新たな事実、制度的事実、人間の 合意によって生まれる事実を創出する。 第二、新たな地位機能の割り当ての「形式」は公式「X を C で Y とみなす」によって表 現できる。この公式は新たな制度的事実を創出する形式を理解するための強力なツー ルを私たちに与える。なぜなら、集合的志向性の形式は Y 項によって特定される地位 やその機能を、X 項によって示される何らかの現象に課すことであるからである。「をと みなす」という言い回しは、この公式で重大である。なぜなら問題の機能は X の要素の 物理的特徴のためだけでは遂行されえないため、それが遂行される私たちの合意、な いし受け入れを必要とするからである。そのため、私たちは Y 項で特定される地位と機 能をもつものとして、X 項によって示されるモノをみなすことに同意する。そのため Y 項 によって割り当てることができるその種の機能と地位は、機能の遂行が単に集合的な 合意や受け入れによって保証することができる要素を含む機能をもつ可能性によって 厳しく制限される。これは、おそらく、制度的事実のもっとも神秘的な特徴であり、後に それについて多くのことを語るつもりである。 第三、制度的事実の創出のプロセスは、それがこの形式にしたがって起こることに参加 者が意識的であることなく進行しえる。発展は参加者が「私はこれを金と交換できる」 「これは価値がある」あるいは単に「これはお金である」でとさえ考えるようなものであり える。それらは正確に彼らが行っていることであったとしても、「私たちは集合的にその 純粋に物理的特徴のため価値があるとみなさない何かに価値を集合的に課す」と考え る必要はない。このプロセスの意識に対する関係についてはふたつの点がある。第一 に、あきらかに、ほとんどの制度にとって、私たちはその制度を当然のこととする文化の 中で単に育つ。私たちはその存在論に意識的に気づく必要はない。だが第二に、この 点でより重要だが、まさに制度の発展において、参加者はモノに機能を課す集合的志 向性の形式に意識的に気づく必要はない。意識的に物を買い、売り、交換するなどする 途上で、人々は単に制度的事実を発展させるかもしれない。さらに、極端な場合には 人々は真でさえないかもしれない何らかの関連する理論のためだけで機能を課すこと を受け入れるかもしれない。それは「金の裏付けがある」場合に限りお金であると信じる かもしれないし、あるいは神によって聖別される場合に限り結婚であると信じるかもし れないし、王権は神授だからというだけで、しかじかは王であると信じるかもしれない。 アメリカ合衆国の歴史を通じて、文字通り非常に多くのアメリカ人は憲法は神の啓発さ れたと考えてきた。人々が X を地位機能 Y をもつものと認め続ける限り、制度的事実は 創出され、維持される。人々はそれに加えて、そう認めていることを認めなければなら ず、彼らが行っていることについての、またなぜそうするのかについてのすべての種類 の他の誤った信念を抱くかもしれない。 第四、公式にしたがって地位機能を課すことが一般的政策の問題となる場合、その公 式は規範的地位を獲得する。それは構成的「規則」になる。これは一般的規則が、(そう でないのに、モノがあたかも X 項を充足する日のようにみえるよう設計されている)贋 金や(多すぎる貨幣が発行されたため X 項を充足するモノがもはや Y 項によって特定 される機能をもはや遂行できない)ハイパーインフレのように規則なしには存在しえな い弊害の可能性を生むという事実によって示される。弊害のこのような形式の可能性 は制度的事実に特徴的である。そのためたとえば、弁護士が資格をもたなければならな いという事実は資格を持たない者が、そう偽ることができる可能性を生み、そのため彼 らは弁護士であることを偽る可能性を生む。別の説明は中世の騎士制度の衰退によっ て提供される。最初、騎士は多くの人を従え、たくさんの馬を所有する有能な戦士であ ることが必要とされた。衰退が始まると、騎士になるため、騎士となる基準(X 項)を満た さない多くの人々が、なんであれ王に騎士(Y 項)にするよう求めた。彼らはテストにパ スしなかったが、彼らはたとえば、彼らが良い家柄の出身だから、必要条件はこの場合 撤回されるべきだと主張した。さらに騎士の地位を正しく獲得した多くの人々は騎士の 機能を実行できなくなった。かれらは多くの馬も得られず、ある種の愛も得られず、彼ら は騎士の任務を実行するのに必要な物理的条件もなくなった。 お金の場合、文化は X の側面か Y の側面を強調する点で変わる。アメリカ合衆国 貨幣は明示的に Y の側面にある。「この券は私的公的すべての債務に対する法貨で ある」というが、贋金については何も言わない。他方、フランス貨幣は、特に贋金の違法 性とそれに対する罰について X 側面について長い陳述を含む。* イタリア貨幣は同じ X 側面を指摘するが、もっと簡潔である。「法律は、贋金製作者と売人を罰する」(La legge punisce i fabbricatore e gli spacciatori di biglietti falsi)。 *刑法139条は、法律によって許可された紙幣の偽造者を永続的に投獄することで処罰する。これ らの偽造や偽札の使用、フランスに密輸をした者も同じ刑で処罰される。 (L’article 139 du code pénal punit de la réclusion criminelle a perpétuité ceux qui auront contrefait ou falsifié les billets de banque autorisés par la loi, ainsi ce que ceux qui auront fait usage de ces billets contrefaits ou falsifié, ceux qui les auront introduits en France seront punis de la même peine.) 第五、少なくともこのケースで、規則(rule)と慣習(convention)の関係は合理的に明 確である。モノが交換の媒体として機能できるということは慣習の問題ではなく規則の 問題である。だが「どのモノ」がこの機能を遂行するかは慣習の問題である。類比的に チェスの場合、キングの力は慣習の問題ではなく、規則の問題である。だがその力を課 すためのどんな形かは慣習の問題である。これらのケースで X 項によって置かれる条 件は、Y 項によって特定される機能に偶発的にのみ関係する。X 項の選択は多かれ少 なかれ恣意的である。そしてどんなタイプの物が使われるか、すなわちお金やチェスの キングとして使われるかについての結果的な手段は、慣習の問題である。後の例で見 るようにしばしば X 項の適用に必要な特徴は、Y 項の遂行に本質的である。そのため たとえば、資格ある外科医であることが生じる場合、外科手術を遂行する(Y 項)認可 は、なんらかの医学的基準(X 項)を満たすことに基づかなければならない。それにもか かわらず、これらのケースでさえ、X 項にまだ現前しない、Y 項によって印付けられる付 加物がある。問題の人物はその地位、すなわち外科医の資格を現在もっている。 X 項の特徴が Y 項によって示される機能を保証するのに不十分であるという主張に 対し明らかな反例があるようにみえるかもしれない。たとえば大統領や知事が自身や大 火事を「大災害」であると宣言する場合、確かに自身や火事についてのナマの事実は その物理的特徴によって大災害としてそれらを資格付けるのに十分であると言うかもし れない。地震やホロコーストについて慣習的なものはなにもない。だが、これらのケース をよく見れば、それらはその要点を説明しさえする。宣言された大災害の機能は、地元 の犠牲者が財政支援や減税措置のようなものの資格を与えることである。火事や地震 自体がそのナマの物理的特徴や結果によってはお金を生成しない。 単純な要点は、刑法について指摘できる。刑法の全趣旨は、規制的であって、構成 的でない。趣旨はたとえば殺人のような、ある種の先行して存在する行動の形式を禁じ ることである。だが規制を働かせるためには、制裁が必要であり、それは法を侵害した 人に新たな地位を課すことを必要とする。そのためある状況のもとで(C 項)、他人を殺 害し(X 項)、それを行うことについて有罪であると判明した人は、「評決された殺人者」 (Y 項そしてそれゆえ制度的事実)の地位を今度は割り当てられ、それに伴い、新たな 地位が適切な罰を生む。そのため規制的な「汝殺すなかれ」は、適切に構成的なもの、 「ある状況のもと、殺すことは、殺人とみなされ、殺人は死刑や投獄によって罰しうる犯 罪とみなされる」を生成するのである。 多くのケースで、Y 項によって特定される機能を遂行するのに必要な特徴をもつこと を仮定されるため、X 項は正確に選ばれる。そのため、たとえば「弁護士」「医師」「大統 領」「大聖堂」などの表現はそれぞれ、実体に課された機能を地位の名前である。それ ぞれ法学校や医学校の卒業者、ある種の選挙の勝者、大きな教会サービスを収容す る能力があり、管轄区の主教の席として機能する大きな建物である ― 正確になぜな ら、それらは「弁護士」「医師」「大統領」「大聖堂」の地位のラベルによって含意される Y 機能を遂行できると仮定されているからである。だがこれらのケースでさえ、何かが Y 項によって追加される。X 項によって特定される特徴はそれ自体、Y 項によって特定さ れる付加的地位や機能を保証するのに十分ではない。弁護士とネジ回しの間の違い は、ネジ回しは単にその機能を遂行することを可能にするまったくの物理的構造をもつ だけだが、弁護士になるため法学校の卒業者にとってしたものにとって付加的承認や 資格は弁護士の地位を授与するため必要とされる。その地位の所有に関する集合的 合意は、地位を持つことについて構成的であり、地位を持つことは、その地位に割当て られる機能を遂行することに本質的である。 諸ケースの中で興味深いクラスは、問題の実体が、因果的に行為者的機能とお互 いに関係する地位機能の両方を持つ。たとえば、メキシコとアメリカ合衆国の間の国境 の一部における実際のフェンスを考えてほしい。それは国境を横切る物理的障害とし て因果的に機能すると仮定されている。だが、それはまた、国境を記すもの、承認されな いなら人が横切ると考えられない何かを考えられる。このケースでさえ、たとえ両者が 完全に客観的な同じものであったとしても、地位機能は物理的機能に対する付加物で ある。 その要点は、Y 項はまだ、X 項によって示される実体は既にもっているのではない何 らかの新たな地位を割り当てなければならず、この新たな地位は人間の合意、受け入 れ、集合的志向性の他の形式がそれを創出するのに必要かつ十分であるようなもので なければならない。今、それは仕事をするのに十分な装置ではないとあなたは考えるか もしれないが、実際には詳しく見るようにそのメカニズムは社会的現実の生成における 強力なエンジンなのである。 第六、最後にこれらの地位機能を課すことと言語の間には特別な関係がある。ラベル 「お金」のように、表現 Y の一部であるラベルは、創出される事実について今部分的に 構成である。それは奇妙に聞こえるかもしれないが、お金の創出において、「お金」のよ うな言語的に表現される概念は、今や私たちが創出したまさにその事実の一部なので ある。私はこの特徴を次章で探求したい。 なぜ自己参照性は循環に陥らないか 説明に必要とされる社会的現実の6つの明らかな特徴の私のリストにおいて、第一 のものは、もし定義の部分が「お金と考えること、みなすこと、信じること」であるなら、 「お金」をどのように定義できるかについて難問であった。これは言葉を定義するいかな る試みにおいても、あるいはお金の概念を説明するためにさえ、循環ないし、無限後退 につながらないのか?と私は問うた。だがそのパラドクスの解決はまったく単純である。 言葉「お金」は実践すなわち、所有、売買、稼ぐこと、サービスために支払うこと、債務を 支払うことなどの実践のすべてのネットワークのひとつの結び目を示す。そのモノがそ れら実践のその役割を持つものとみなされる限り、私たちはお金の定義における言葉 「お金」を実際には必要としない。そのため循環や無限後退はない。言葉「お金」はこれ らすべての実践の言語的分節のための代入項として機能する。何かがお金だと信じる ためには、人は実際には言葉「お金」を必要としない。問題の実体が交換、価値の保 存、債務の支払、与えられたサービスへの支払いの媒体であると人が考えれば十分で ある。そしてお金で言えることは、結婚、財産そして、約束すること、陳述すること、命令 することなどのような発話行為のような他の制度的概念にも言える。要するにある態度 の集合がある概念の心理条件のについて部分的に構成的であるという事実や、そのよ うな態度がまさにその概念(すなわち何かがお金であると考えること、その人たちが結 婚していると考えること)を使うことによって通常要約されるという事実は、その概念を 表現する言葉が循環や、無限後退なしに定義できないといいう結果にはならない。 私たちは「お金」を定義するため「お金」の概念を必要とせず、そのため私たちは当 面の循環を回避するが、その概念を説明するため、「売ること」「買うこと」「所有するこ と」のような他の制度的概念を必要とし、そのため他の制度的概念を含めることによっ て循環を拡張することによってのみ悪循環を回避した。私たちは概念「お金」を非制度 的概念に還元しようとは試みていない。 私はタイプに適用されるものとしての概念の自己参照性と、トークンに適用されるも のとしての概念の自己参照性の違いがあると言った。お金に関する場合、特定のトーク ンはたとえ誰もそれをお金と考えなくてもお金でありえるが、カクテルパーティーに関す る場合、特定のイベントをカクテルパーティーであると誰も考えないなら、それはカクテ ルパーティーではない。私はこの点でカクテルパーティーをお金と異なるものとして扱 う理由は成文化を扱わなければないと考える。一般的に問題の制度がお金に関する法 のような「公式の」形式で成分化されているなら、その場合問題の自己参照性はタイプ の特徴である。それが非公式で、成文化されていないなら、その場合自己言及性はそ れぞれのトークンに適用される。成文化はあるトークンがタイプの事例であるためもた なければならない特徴を特定する。このためあるトークンはたとえそれについて考えなく てもその特徴を持つことができるが、そのタイプはこの自己参照的方法でなお定義さ れている。 私たちが議論している自己参照性は、行為者的機能の性格の当面の帰結である。 それは制度的事実に特異なものではない。だからたとえば何かがイスであるためにそ れはイスとして機能しなければならない。このためそれはイスと考えられるか用いられ るかしなければならない。イスはお金や財産が抽象的ないし象徴的である仕方で、抽 象的ないし象徴的ではない。行為者的機能の概念に関する場合、記述を充足すること の一部はその記述を充足すると考えられることである。これは次に述べる理由のため 循環にも無限後退にもつながらない。私は現象が埋め込まれた実践の集合との関連 で記述を具体化できる。イスは座るため、お金はものを買うため、道具は様々な仕方で モノを操作するためにある。* 制度的事実の創出における遂行的発話の使用 私たちが説明する必要がある第二の明らかな特徴は、すべてではないが、多くの制 度的事実の創出における遂行的発話の役割に関係する。その説明は構成的規則の構 造によって与えられる。「一般に X 項が発話行為である場合、構成的規則はその発話 行為を Y 項によって記述される自体を創出する遂行的宣言として機能できるようにす る」。あることを言うことが契約すること、会議を休会することとみなされるのであるか ら、あなたはそれを遂行しているということによってその行為を遂行できる。あなたが議 長なら、その場合適切な状況で「会議を休会する」ということは会議が休会されること を真にする。適切な状況で「私はあなたを議長に任命する」ということは、あなたが議長 であることを真にする。間違った人や間違った状況で同じ言葉を言ってもそのような効 果はない。構成的規則はその機能を発話行為に課すことができるため、その場合適切 な状況でその発話行為を遂行するだけで、その機能を課すことを構成することができ、 そのため新たな制度的事実を構成する。 イスラム諸国では男は三つの小石を投げながら三回「私はあなたと離婚する」という だけで妻と別れることができると言われる。これは明らかに他の国では存在しない「離 婚する」という動詞の遂行的使用である。その意味が使用であると考える人は「離婚」 * ランダムハウス・ディクショナリーで、「道具」(tool)に与えられた定義のひとつは、「道具として 使うことができなにか」である。定義によれば、それは何も言っていないように見えるが、見た目通り 何も言っていないのではない。あなたは「ネジ回し」を「ネジ回しとして使うことができる何か」とは定 義できない。なぜならたとえばコインのように絶対にネジ回しではない多くのものをネジ回しとして 使えるからである。だが「ネジ回し」とは異なり、「道具」は行為者的機能の非常に大きなクラスを示 すため、道具として使えるものはなんでも、大雑把に言って道具なのである。 という言葉が他の人々とは異なる意味をイスラム教徒にもつと結論しなければならな い。起きたことは、あらなたな地位機能が既存の文の形式に課されたということである。 「私はあなたと離婚する」という文の形式は、新たな機能が付け加えられても、その意 味を変えるのではない。そうではなくそれは単にこの場合、新たな制度的事実、すなわ ち、夫が適切な投げる仕草を伴って「私はあなたと離婚する」と三回言うことを彼の妻と 離婚することとみなすという規則に従う新たな構成的規則によって特定の離婚を、創 出するのに使われるのである。そのため遂行的発話は新たな制度的事実、離婚を創出 する。 遂行動詞をもたなくても、20ドル紙幣に関する陳述さえ宣言である。それは「この券 は私的公的すべての債務に対する法貨である」と言う。だがその発話は経験的主張で はない。それはたとえば財務省に「あなたはそれが法貨であるとどのように知るのか?」 とか「その証拠は何か?」とか尋ねるべきものではないだろう。財務省がそれは法貨だ と言うとき、それが法貨であると「宣言」しているのであり、それが既に法貨であるという 経験的事実を告知しているのではない。 宣言によって、制度的事実を創出する可能性はすべての制度的事実にあるわけで はない。たとえばあなたは、タッチダウンすると言うことによってだけではタッチダウンで きない。 この点を要約するなら、遂行的発話は制度的事実の創出において特別な役割を演 じる。なぜなら「X を Y とみなす」という公式の Y 項によって示される地位機能は、しば しば、常にではないがそれが課されると宣言することによってだけで課される。これは X 項が発話行為自体である場合特に真である。 制度的事実に対するナマの事実の論理的優先 私たちが説明する必要がある第三の明らかな特徴は、制度的事実に対するナマの 事実の優越性に関係する。ふたつの特徴とともに、これは構成的規則の構造によって 説明される。制度的事実の構造は「X を文脈 C で Y とみなす」の形式の階層的構造で ある。その階層はその存在が人間の合意の問題ではない現象の底に達しなければな らない。これは単に何かに課された地位機能がある場合、それが課される何かがなけ ればならないという別の言い方である。それがもうひとつの地位機能に課されるなら、 最終的に人はそれ自体いかなる地位機能の形式でもない何かの岩盤に達する。だか らたとえば、前に言ったとおり、すべての種類のものはお金でありえるが、私たちの地位 機能の制度的形式に私たちが課すことができる ― たとえそれが紙片やコンピュータ ディスクのピコピコであっても、なにか物質的実現、何らかのナマの事実がなければな らない。そのためナマの事実なしに制度的事実はない。 この議論は第7章と第8章で私が提示する実在論の議論を先取りする。一部の反実 在論が主張してきたように、すべての事実が制度的事実であるというのは、制度的事 実の構造分析が論理的にナマの事実に依存すことを明らかにするため、ナマの事実は ないということは真ではありえない。すべての事実が制度的であると考えることは、制 度的事実の説明において、無限後退や循環を生むだろう。一部の事実が制度的である ためには、ナマである何らかの他の事実がなければならない。これは制度的事実の論 理構造の帰結である。 体系的関係とモノに対する行為の優越 私たちの第四の問題は、なぜつねに制度的事実の間にある種の体系的関係がある か?であった。だから第五の問題は、なぜ制度的行為は制度的モノに先立つようにみえ るのかであった。 なぜ私が記述しようと試みたタイプの様々な種類の社会的事実の間に体系的関係 があるかのもっとも明白な理由は、問題の事実が正確にその目的のため設計されてい るということである。政府は、すべての種類の方法で私たちの生活に影響力をもつよう 設計されている。お金はすべての種類の相互行為において価値の単位を提供するよう 設計されている。私たちの他の生活から孤立するよう明らかに設計されているゲームで さえ、それにもかかわらず、前に言ったとおり、あらゆる種類の他の社会的事実がある場 合に限り、理解可能である ― 権利、義務、責任などの ― 装置を使う。 社会的なモノに対する社会的行為の明らかな優越についての説明は、「モノ」は行 為者的機能を果たすよう本当に設計されており、さもなければ、私たちはそれにほとん ど関心がないということである。政府、お金、大学のような社会的「モノ」と考えるもの は、実際には「活動」のパターンのための単なる代入項である。私は行為者的機能と集 合的志向性の全作動は進行中の活動とさらに進行する活動の可能性の創出の問題 であることが明らかであることを望む。 無意識的に、私たちは、この議論の全体を通じて、制度的「モノ」より、制度的「事実」 について語ることによってこの点を認めてきた。制度的現実に関与するような物質的モ ノ、たとえば紙片は他のものと同じモノであるがこれらのモノに関する地位機能を課す ことは、制度的モノ、すなわち20ドル紙幣であるモノの記述のレベルを創出する。そのモ ノに差異はない。そうではなく付属する機能を持つ新たな地位が古いモノに割り当てら れてきた(あるいは新しいものが単独に新しい地位機能を果たす目的のため作られて きた)。だがその機能は実際の相互行為においてだけ示される。それゆえ私たちの関心 はモノにではなく、機能が示されるプロセスや出来事にあるのである産物に対するプロ セスの優越はまもた、何人かの社会理論家がしてきたように、なぜ制度が継続される使 用によって古くならないかを説明する。自動車やシャツは私たちが使うに従い古くなる が、継続的使用は結婚、財産、大学のような制度を更新し、強化する。私が与えた説明 はこの事実を説明する。機能は物理的性質によるだけでは、その機能を遂行しない現 象を課されるが、その使用者の持続的集合的志向性との関連で、制度の各々の使用 は、その制度への使用者のコミットを改めて表現する。個別のドル紙幣は古くなる。だが 紙幣の制度は持続的使用によって強化される。 私たちが説明する必要がある第六のそして最後の特徴は、制度的現実における言 語の役割と次章を捧げるトピックに関係する。 第3章 言語と社会的現実 この章の第一の目的は、言語は本質的に制度的現実について構成的であるという、 私の主張を説明し、正当化することである。私はこの主張を一般的用語でしたが、今度 は私がそれによって言いたいことを完全に明らかにし、それについての議論を提示した い。章末で、私は制度的事実における言語の他のいくつかの機能に言及する。 私は前の章で、何らかの言語の形式なしにお金、結婚、政府、財産のような制度的構 造をもつのは不可能のようにみえると言った。なぜなら私がまだ説明していない、いくつ かの奇妙な意味で、言葉や他の象徴が、部分的にその事実について構成的であるから である。だが私たちが社会的事実一般が言語を必要としないことを省みるとき、これは 混乱しているようにみえるだろう。前言語的動物はすべての種類の協働的行動をもつ ことができ、人間の幼児は明らかにいかなる言葉なしに、まったく複雑な方法で社会的 に相互行為をする能力をもっている。さらに、私たちが制度的現実は言語を必要とする というなら、言語自体についてはどうなのか?制度的事実が言語を必要とし、言語がそ れ自体制度なら、言語は言語を必要としなければならないようにみえる。そして私たち は無限後退か循環に陥る。 私の主張については弱いバージョンと、強いバージョンがある。弱いバージョンは制 度的事実をもつためにはすべて、社会は少なくとも言語の原初的形式をもたなければ ならず、この意味で言語の制度は論理的に他の制度に先立つというものである。この 主張では、言語はすべての他のものが言語を前提するが、言語は他を前提にしないと いう意味で基本的社会制度である。あなたはお金や結婚なしに言語をもつことができ る。強い主張は、それぞれの制度は、まさに制度内でその事実の言語的要素を必要と するというものであり、私は強い主張について議論するつもりである。強い主張は弱い 主張を含意する。 言語ー依存的思考と言語ー依存的事実 私が提示しようとする問題と議論を説明するため、手短に言うなら、確実な要素を明 確にし、区別する必要がある。私はどんな言語の特徴がこの問題に関与するか明らか にすることを必要とする。私はここで「言語」を定義するつもりはない。無限に生成する 能力、表現を示す発語内的力の提示、量化子、論理的連結子をのような ― 完全な自 然言語に本質的である多くの特徴は、この議論には関与しない。制度的事実の構成に 本質的な言語の特徴は、慣習によって、それ自体を超えて、何かを「意味する」「表現す る」「象徴化する」言葉のような象徴表現の存在である。だから私が言語は制度的事実 について構成的であるというとき、私は制度的事実がフランス語、ドイツ語、英語のよう な完全な自然言語を必要とするとは言っていない。言語は制度的時事について部分 的に構成的であるという私の主張は、制度的事実は本質的にこの「象徴的」意味でな んらかの象徴的要素をもつという主張に達する。すなわち「公共的に理解可能な方法 で」何かを「意味する」、あるいはそれ自体を超えて何かを表現し、象徴化する言葉、象 徴、あるいは他の「慣習的」表現がある。私はそれがこの点で非常に曖昧で一般的に 聞こえることを望む。なぜならこれまで私が主張したい言語の特徴が制度的現実にお いて構成的役割をもつことを特定することだけしか意図していないからである。 私がここでその概念を使っている言語は、本質的に象徴する実体をもつ。そして前言 語的志向状態とは反対に、言語では、そのような志向的能力は実体に本来的ではな く、人間の本来的な志向性によってなされるか、それに由来する。そのため、「私は空腹 だ」という文は、言語の一部である。なぜならそれは慣習によって表象的、ないし象徴的 能力をもつからである。しかし空腹の実際の感覚は言語の一部ではない。なぜならそ れは本来的にその充足条件を表象するからである。あなたは空腹を感じるのに言語も いかなる他の種類の慣習*訳注も必要としない。 私たちは最初にエベレスト山の頂上は雪と氷で覆われいる、という事実のような「言 語ー独立的事実」(language-independent facts)と、「エベレスト山の頂上は雪と氷 で覆われている」は日本語の文である、という事実のような「言語ー依存的事実」 (language-dependent facts)の区別が必要である。境界的な事例があるのは疑い ないものの、原則は十分明確である - ある事実は、まさにその事実が、その存在に言 語的要素を必要としないなら言語独立的である。すべての言語を取り除いても、エベレ スト山はなおその頂上付近に雪と氷がある。すべての言語を取り除けば、「エベレスト山 の頂上は雪と氷で覆われている」は日本語の文であるという事実もあなたは取り除い たのである。 私たちが必要とする第二の区別は「言語ー依存的思考」(language-dependent thoughts)と「言語ー独立的思考」(language-independent thoughts)の違いであ *訳注 「convention」は一貫してこれまで「慣習」とした。一部の哲学者は、ひとつの真理論である真 理の規約説(conventionalism)の視点からそれを評価するかもしれない。例えばタルスキの意味 論的真理論でサールの「T 文」に相当するもの)を「Convention T」とするが、その場合は規約 T と 訳さざるをえない。だがこれまで見たとおり、「convention」は規則(rule)対立する程度に「約束」で はないため「規約主義的」ではない。そして空腹は、根源的規約主義に反し、「convention」ではな い。言語は規則でない程度に「convention」の一部である。この用語法は理論全体に関わる。 る。一部の思考は、動物がまさにその思考を考えるため言葉や他の何らかの言語表現 をもたないなら、まさにその思考をもちえないだろうという意味で言語依存的であるが、 一部の思考は動物が言葉や他の何らかの言語表現なしにその思考をもつことができ るという意味で言語独立的である。言語依存的思考の明白なケースは、「エベレスト山 は頂上が雪と氷で覆われている」は日本語の文であるという思考である。言語をもたな い生物は、その思考を考えることはできないだろう。言語ー独立的思考の最も明白な ケースは、非制度的、原初的、生物学的な気性や認知がどんな言語表現も必要としな いということである。たとえば動物は空腹やのどの渇きの意識的感覚をもつことがで き、これらのそれぞれは欲求の形式である。空腹は食べる、のどの渇きは飲む欲求であ り、欲求は完全な志向内容をもつ思考状態である。現代的的ジャーゴンで言うならそれ らは「命題的態度」(propositional attitudes)である。さらに、動物はこれらの概念に 由来する前言語的知覚と前言語的信念をもつことができる。私の犬は木を駆け上がる 猫を見て匂いをかぎ、猫が木の上にいるという信念を形成する。彼は猫が隣の庭に 走っていったのを見て匂いを嗅いだ時、その信念を修正し、新たな信念を形成すること さえできる。前言語的思考の他のケースは、恐れや怒りのような感情である。私たちは 動物が前言語的思考をもつことができという事実と、一部の思考が言語依存的であり 前言語的存在にもつことができないという両方の事実に驚きを覚えなければなるまい。 これらの区別を念頭において、私たちが検証しようとしているテーゼを言い換える。 私は表面上、言語依存的であるようにみえない一部の事実 - たとえばお金や財産に ついての事実 - は実際には言語依存的であると論じた。だが日本語の文とは異なり、 お金や財産は言葉でもなく、あるいは言葉から作られるのでもないため、どのようにそ れらは言語依存的であることができるのか? 二つの条件が満たされることが、「事実」が言語依存的であるのに十分条件である。 第一に、思考のような精神的表象は一部、事実について構成的でなければならない。そ して第二に、問題の表象は言語依存的でなければならない。これらの条件の第一のも のが制度的事実によって満たされることが、構成的規則の構造からただちに帰結す る。Y 項によって特定される地位機能は、それが承認され、受け入れられ、認識され、さ もなければ信じられる場合に限り、満たされるという事実から、問題の制度的事実は、 それが存在しているとおり表象される場合に限り存在することができる。私の手の紙片 が20ドル紙幣であるとか、トムが家を所有しているのが真であるためには、何が真でな ければならないと自問してほしい。そうすればあなたはこれらの事実について一部構成 的であるものとして精神的表象がなければならないことを理解するだろう。これらの事 実は人々がある種の信念や他の精神的態度をもつ場合に限り存在できる。これは人々 がそれをお金と信じる場合限り、あるタイプの物がお金であり、人々がそれを財産と信じ る場合に限り、何かが財産であると私が言ったとき、前に推し進めてきたことである。す べての制度的事実は、この意味で、たとえ一般に認識論的に客観的であっても存在論 的に主観的である。 だが、第二の条件についてはどうだろうか?問題の表象は言語依存的でなければな らないのか?第一の条件の充足はそれ自体第二条件の充足を必然的には伴わない。 ある事実は構成的特徴として精神状態をもつことができるが、なお言語的ではない。た とえば私たちが任意に少なくとも一匹の犬が欲しがる骨を意味する「ドッグボーン」と 言う言葉を作ったと考えてほしい。その場合しかじかはドッグボーンだという事実は、一 部の犬の精神状態によって構成される。だが犬は欲求を表現するためにどんな言語も なしに欲求できるためそのような精神状態について必然的に言語的なものはなにもな い。 たとえばドッグボーンとお金の違いはいったい何のか?なぜ何かがお金であるという 信念は、ドッグボーンに対する欲求がしない仕方で、まさにその存在のため言語を必要 とするのか?「これはお金だ」と考えるために、正確に何が私に起きなければならないの か?私たちは第2章で、私が「お金」という言葉は必要なく、そのためその言葉はその定 義自体に現れる必要はないとことを見た。だが、なぜ私はなおその思考を考えるためな んらかの言葉ないし言葉のような要素をもつ必要があるのだろうか?これは瑣末な問 題ではない。それへの答えは、Y 項によって示される地位-機能をもつものとして何ら かの X を私たちがみなすとき、X から Y への移行の性質からのみ引き出すことができ るのである。要するに、答えは地位機能の性質の理解に由来しなくてはならない。少し 先取りして、私が提示するつもりの答えは、X から Y への移行は、たとえ明らかに言語 と関わりが何もない場合でも、それ自体言語的移行だということである。 なぜどんな思考も言語依存的なのか? 制度的事実は言語依存的であるという私たちの元々のテーゼは、制度的事実につ いて構成的な思考は言語依存的であるというテーゼに要約される。だが、なぜ?論点 はなにか?なぜ言語的要素自体についての思考ではない「何らかの」思考は言語依存 的であるのか問うことから始めよう。様々な異なるケースがある。 第一に、一部の思考は、シンボルをもつことなく、それを考えるのは「経験的に不可 能」なほどの複雑さをもつ。たとえば数学的思考は体系的なシンボルを必要とする。そ れは極端に難しく、おそらく次のような単純な算術的思考のようなものでさえ考えるの は前言語的動物には不可能であろう。 371 + 248 = 619 だが、これらは経験的な困難さの例である。私たちの性質のあり方のため、抽象的思 考は言葉やシンボルを必要とする。私は言語なしにそのような思考を考える「論理的」 不可能性は見いだせない。進化の過程がシンボルを使わずに複雑な算術的関係を考 えることができる生物を産む可能性を想像するのは難しくない。 思考の言語表現は、それがそのとおりの思考であることに本質的であるため、別の 種類のケースが、「論理的必然性」の問題として言語に関与する。たとえば、「今日は 10 月 26 日火曜だ」という思考を考えてほしい。そのような思考は日本語や他の言語 でまったく限定された言葉の集合ないし同義語を必要とする。なぜなら思考の内容は 同一の日や月についての特定の言葉の体系に関してある日を位置づけるからである。 それが私の犬がなぜ「今日は 10 月 26 日火曜である」と考えることができない理由で ある。 関連するボキャブラリーをもっている私たちは「今日 10 月 26 日」をフランス語に翻 訳できるが、マヤ人のような別の根本的に異なる歴にはできない。彼ら自身の体系を使 うマヤ人は私たちが「火曜 10 月 26 日」と呼ぶ実際の日と特定できただろうが、彼らの 思考を「火曜 10 月26日」に翻訳しない。同じ指示対象が異なる意味内容を持つ。 思考は言語に依存する。なぜなら対応する事実が言語に依存するからである。ある 言葉のシステムに相関的な位置を占めるという事実を除いて10月26日火曜であるこ とについてどんな事実もない。「だが」と人は言うかもしれない。「同じことは正確にたと えば犬や猫についても真である。何かは正確に、言語体系に相関的にのみ“犬”や “猫”と呼ばれる。何かは動物や物一般を特定する体系に相関的にのみ犬である」とい うかもしれない。ここには重大な違いがある。すなわち、あるモノが、「言葉“犬”がそれ について真であるため」もつ特徴、「すなわちそれが犬であるための特徴は、言語から 独立して存在する」。そしてひとが言語から独立したそれらの特徴について考えること ができる程度に、人は言語から独立したその考えを持つことができる。だた今日は10月 26日火曜であるための特徴は、言葉の体系から独立しては存在することはできない。 なぜなら10月26日火曜であることは言葉の体系に相関的問題だからである。言葉の 体系が何らないなら、たとえ誰か考えたり、言ったりするものに関係なくその日として存 在するとしてもそのような事実は存在しない。要するにこの思考は、その思考の内容の 一部がこの日は言葉に相関的にのみ存在する充足条件をもつこであるため言語依存 的なのである。 今日が10月26日火曜であると言う事実は制度的事実ではない。なぜならその日は 制度的にそのようなものとして特定されるが、そのラベルによってどんな新たな地位機 能も実行されないからである。今度は制度的事実を検討しよう。私がこれは20ドル紙 幣だという思考、これは私の財産だという思考は概念的必然性の問題として言語を必 要とすると主張している。私はそのような思考は本質的に言語依存的である今日の日 付についての思考に似ていると主張しているのである。 ゲームと制度的現実 この主張を議論するため、私はゲームに関するいくつかのかなり単純な事実を検討 することからはじめたい。なぜなら、それは私が指摘したい点を説明するからである。 フットボールのようなゲームで取られるポイントのケースを考えてほしい。「タッチダウン を6ポイントとみなす」と私たちは言う。さて、それは言語的象徴なしにもつことができる 思考ではない。だが繰り返すがなぜなのか?要点は、ポイントを表象し、数えるための 言語的体系に相関的にのみ存在するため、それゆえ私たちがそのような体系のための 必要な言語装置をもっている場合に限りポイントについて考えることができるというこ とである。だたそれは問いをさらに押し返す。なぜポイントは言語的体系のようなものに 対して相関的にのみ存在できるのか?単純化すれば、答えは、ポイントを表現するため の象徴的表現を取り去るなら、他に何も残らないと言うことである。ポイントを表現し数 えるために単に体系は存在する。それは、ポイントが単に言葉だという印象を与えるな らミスリーディングである。それは正しくない。その言葉はいくつかの結果をもつ。人々は ポイントが単なる言葉のため試みるのではないようなやり方で、必死になって懸命にポ イントを得ようと試みる。なぜならポイントは勝負を決定し、そのためポイントは、恍惚か ら絶望まで及ぶ感情の理由だからである。単なる言葉はそのような深い感情の焦点に はなりえないようにおもえる。だが6ポイントを得た結果に対し、言葉や他の象徴から独 立した思考はない。ポイントは、たとえば1個の石が1ポイントである、石を山に集めるこ とによってポイントをカウントする以上の何か象徴的な手段によって表現されるかもし れない。だが、その場合石は、他の何かと同じ程度に言語的象徴であるだろう。石は言 語的象徴の3つの本質的特徴をもつだろう。それらはそれ自体を超えた何かを「象徴 化」し、「慣習」によってそう行い、それらは「公的」(public)である。 ポイントの前言語的認識やポイントについての前言語的信念はない。なぜなら関与 する象徴的表現なしに認識すべき、あるいはそれについての信念をもつべきものはな にもないからである。動物は木を駆け上がる音を猫を見ることができたり、前言語的に 食べ物を欲したりするような仕方で前言語的にポイントを見ることはできない。 だがなぜ動物は母親の乳を飲む前言語的欲求をもって生まれるように、ただフット ボールのゲームでポイントを獲得する前言語的欲求をもって生まれないのか?その答 えはポイントを表象し、数える社会的に受け入れられたシステムから独立して、ポイント を獲得する欲求は内容を持たないということである。ポイントを数えるためのすべての 象徴体系を取り除けば、あなたはポイントについてのすべての可能な信念、欲求、そし て思考一般を失う。後に、私はフットボールのゲームについて真であることはお金、財 産、そして他の制度的現象について真であると論じるつもりである。 これらの事実を理解する際の私たちの困難は、どのように言語に働くかについて私 たちがもつあるモデルに一部由来する。そのモデルは多くのケースについて働き、それ ゆえ私たちはそれがすべてのケースで働かなければならないと考える。そのモデルはこ うである。すなわち言葉や他の表現があり、これらは意味(sense or meaning)をもち、 この意味のため、それらは指示対象(referent)をもつ。たとえば、「宵の明星」という表 現がある。それは意味を持つ。その意味のため、私たちがその表現を考える、あるいは 発話するとき、私たちは言語ー独立的なモノ、宵の明星を指示し、それについて考える。 このモデルについて、あなたが言葉なしに意味を考えることができるなら、その場合あな たは言葉なしに指示対象について考えることができる。あなたがしなければならないす べては、表現から意味を切り離し、ただ意味だけを考えることである。そして私たちはそ の表現を他の言語に翻訳できるため、私たちは「つねに」意味を切り離すことができる ようにおもえる。そしてこの翻訳可能性は今は英語、次はドイツ語等に付属させること ができる分離可能な、思考可能な意味があることを証明するようにおもえる。そのモデ ルは必然的に言語依存的である思考のような物はないという印象を私たちに与える。 なぜならそれはどんな言語におけるどんな表現も他の言語に翻訳することができ、そし てこれは思考可能な意味はつねに話したり書いたりできる表現からつねに切り離し得 ることを含意するようにみえる。 その他の制限がなんであれ、このモデルは制度的事実には役に立たない。ゲームで ポイントを獲得するケースでは、私たちは明らかになぜそれが役に立たないかを理解す ることができる。たとえ「男」「ライン」「ボール」などのための言葉をもたない場合でさ え、私たちは男がボールをもってラインを横切るのを見ることができ、そのため私たちが 「ボールをもってラインを横切る男」という言葉で報告するだろう思考を言葉なしに考え ることができる。だが、私たちはそれに加えて、男が6ポイントを獲得するということを理 解できない。なぜなら、付け加えて見るものがないからである。表現「6ポイント」は、表 現「男」「ボール」「ライン」「宵の明星」が言語ー独立的なモノを指示する仕方では、なん らかの言語ー独立的なモノを指示しない。惑星、男、ボール、ラインがそこにあるという仕 方では、ポイントは「そこに」ない。 読者がこれまでの私の直感を共有してくれることを私は期待する。なぜなら私は今 それを基礎づける一般原則を述べたいと思うからである。最低の次元で、制度的事実 を創出する移行における X から Y へのシフトは、ナマのレベルから制度のレベルへの 移行である。繰り返し繰り返し強調してきたとおり、そのシフトはそれが存在するとおり 表象される場合に限り存在する。だが人が要素 X に加えて認識できる、さもなければ 注意を払える前言語的に存在するものはないため、前言語的に要素 Y を表象する方 法はなく、要素 X に加えて、欲求や気性のターゲットであるべき前言語的なものはなに もない。言語なしに、私たちはボールをもちながら白線を横切る男を見たり、言語なし私 たちは男がボールをもって、白線を横切ることを欲することができる。だが私たちは、言 語なしに男が6ポイントを獲得するのを見たり、その男が6ポイントを獲得するのを欲す る事はできない。なぜならポイントは言葉あるいは他の種類の印から独立して、考える ことができる、あるいは存在できる何かではないからである。そしてゲームにおけるポイ ントについて真であることは、お金、政府、私有財産などに、これから見るとおり、真であ る。 この例から得る教訓は、今や、制度的事実一般に拡張できる。地位-機能のまさにそ の設計は、それら両方が一部思考によって構成され、思考の前言語的形式がそれを行 うのに不適切であるようなものである。その理由は、それらは集合的合意によってのみ 存在し、前言語的な自然現象はないため、合意の内容を公式化する前言語的方法が ありえないということである。Y 項は X 項の物理的特徴に追加的である地位を創出す る。その地位は人々がそれが存在すると信じる場合に限り存在し、人々が理由として受 け入れる場合に限り、理由は機能する。そのため行為者は新たな地位を表象する何ら かの方法をもたなければならない。行為者は X 項の前言語的なナマの特徴との関連 ではそれを行うことができない。行為者は、ボールをもった男の動きについてだけの思 考から地位「タッチダウン、6ポイント」を得られないように、ドル紙幣の色や形について だけの思考から、地位「お金」を得ることができない。新たな地位は慣習によってのみ存 在するため、地位を表象する何らかの慣習的な方法がなければならない。さもなければ その体系は働かないだろう。「だがなぜ X 項自体は新しい地位を表象する慣習的方法 ではありえないのか?」その答えは、そうありえるかもしれないが、「しかし X 項に対して その役割を割り当てることは正確に、それに象徴化する、または言語的な地位を割当て る」ことである。 地位-機能はその言語依存性に関して因果的行為者的機能とは異なることに注意 してほしい。人は言葉や他の言語的表現形態なしにこれはネジ回しだと考えることは できる。なぜなら人はこの物は、他の物の中で、ネジ回しとして使われると単に考えるこ とができるからである。言葉はまったく、ネジ回しとしてあるモノを扱い、使うのに論理的 に必然的ではない。なぜならそう機能するその能力はそのナマの物理的構造の問題だ からである。だが地位-機能の場合は、機能 Y を決定するのにそれ自体で十分な X 要 素の構造的特徴がない。物理的に X と Y が正確に同じ物である。唯一の違いは、私た ちは X 要素に地位を課したということである。そしてこの新たな地位は「印」を必要とす る。なぜなら経験的に言ってその他になにもないからである。 要約すれば、制度的事実の創出における X から Y へのシフトの Y のレベルはその 表象とは別に存在することはないため、私たちはそれを表象する何らかの方法を必要 とするのである。だがそれを表象する自然の前言語的方法はない。なぜなら要素 Y は 表象の手段を提供する X 要素に加えて自然の前言語的特徴をもたないからである。だ から私たちは X から地位 Y へのシフトを遂行するため言葉や他の象徴的手段をもたな ければならない。 私はこれらの点が制度的現象の義務論的(deontic)地位に注意をうながすことで より明確にできると考える。自然公園を走る動物たちは、みな必要とする意識や集合的 志向性をもつことができる。彼らはヒエラルヒーや雄のボスすらもつことができる。かれ らは狩りで協力し、食料を分けあい、つがいの絆すらもつ。だが、かれらは結婚、財産、 お金はもてない。なぜできないのか?これらはすべて、権力、権利、義務、責任などの制 度的形式を創出し、あなたや私や他の誰かが別のやり方でしがちなことことから独立し た行為のための理由を創出することが、そのような現象に特徴的であるためである。私 の犬にドル紙幣を追い、それを私に返したら、食べ物をかわりに渡すよう訓練すると仮 定してほしい。彼はなお食べ物を買っているのではなく、彼にとってドル紙幣はお金で はない。なぜそうではないのか?彼は関連する義務論的現象を自らに表象できないか らである。彼は「これをあいつにやれば、あいつはおれに飯をくれる」と思うことができる かもしれない。だがたとえば、今おれは物を「買う権利」をもっており、誰か他のやつがこ れをもてば、そいつもまたものを買う権利を持つだろうと彼は考えることができない。 さらに、そのような義務論的現象はより原始的で単純な何かに還元可能ではない。 私たちは、それらを、行動する性向や、何かをしないことの否定的帰結を恐れることに 分析することも、排除することもできない。有名だが、ヒュームや多くの他の哲学者はそ のような排除をしようとしてきたが、成功しなかった。 私はこの章で制度的事実一般は言語が事実について構成的であるため、言語を必 要とすると論じてきた。だが問いを繰り返そう。Y 項が集合的志向性によって新たな地 位を課すが、問題の志向性が言語依存的でない場合、私たちの公式、X を Y とみな す、を充足する純粋な事実、言語依存的でない制度的事実はありえるのか?さて、純粋 に象徴的な障害、石の列に崩れる物理的障害、すなわち壁の例についてはどうか?そ れは言語抜きの制度的事実ではないのか?これはその部族が石の列をどのようにみ なすかに依存する。事実問題として、彼らが列を横切るため片付けないが、単に習慣か らそれを横切るのを避けるだけなら、それはそのような性向のための言語は必要ない。 たとえば前言語的動物はある境界を横切らないように訓練できる。また多くの動物の 種は、素晴らしいほど様々に、テリトリーの境界を作る自然な方法をもっている。ブルー ムが書くように、「テリトリーの境界はクリーナーフィッシュや他のリーフフィッシュの場 合のように視覚的であったり、多くの鳥の場合のように聴覚的であったり、多くの哺乳 類の場合のように臭覚的であったり、電気魚の場合のように電気的であったりする」1 私たちが想像した部族は単に性向の問題として境界を横切る気がないなら、それは私 たちの意味で制度的事実ではない。彼らはある仕方で行動する性向をもっているだけ であり、その行動はちょうど動物がそのテリトリーを制限する場合と同じである。そのよ うな印にはなんら義務論的なものはない。動物は単にしかじかの仕方で行動するだけ であり、「行動」はこの場合、単に特定の仕方でその体を動かすことしか意味しない。 だがその部族のメンバーたちが石の列が権利と義務を生むことを、彼らが線を横切 るのを「禁じられている」ことを、彼らがそれを横切るのを「認められていない」とことを認 識している考えるなら、その場合私たちは象徴化をもつのである。その場合石の列は今 度はそれ自体を超えた何かを象徴する。すなわち石の列は言葉のように機能する。私 は制度的か非制度的か、あるいは言語的か前言語的かのいずれかに明確な分割線 があるとは思わないが、私たちがその現象が純粋に制度的事実であり、習慣的行動の 単なる条件づけられた形式ではないと考える程度に応じて、私たちはその現象を構成 的なものとして言語について考えなければならない。なぜなら、モノ X に機能 Y を課す 移行は象徴する移行だからである。 言語は言語を必要とするか? しかしこれまでの説明は私たちを困らせるようにみえる。私は制度的事実は言語を 必要とすると言ってきた。なぜなら言語は事実について構成的だからである。だが言語 的事実もまた制度的事実である。だからあたかも言語が言語を必要とするようにみえ る。これは無限後退ないしは別の種類の循環につながらないのか?私たちは最初の循 環 - 「お金」のような制度的概念を定義することがその定義においてまさにその概念 を必要とするようにみえる明らかな循環 - の告発から、他の制度的概念を含めて循環 を拡張することによって逃れた。この循環の告発からどのように逃れるのか。 不満足に聞こえるかもしれないが、この問いに対する短い答えは、言語は、既に言語 だから、言語を必要としないということだ。次にそれが何を意味するか説明させてほし い。制度的事実のために言語的印があるという必要条件は、X 要素が今地位 Y を持 つという事実を印付けるために制度の参加者に何らかの慣習的方法があるという必要 条件である。機能 Y に物理学を与えるものは、X 要素の物理学には、なにもないため、 地位が集合的合意によるだけのため、地位が物理的特性でない義務論的特性を与え るため、その地位は印なしに存在しえない。そのような印は今度は部分的に地位につい て構成的である。ボールをもった男がタッチダウンを獲得した事実、タッチダウンを6ポ イントとカウントするという事実を印付ける何らかの方法が必要である。それを明らかに するモノはその状況の物理学にはなにもない。そしてこれは認識論的ではなく、存在論 的である。同様に私と土地の間にはそれを私の財産とするどんな物理的関係もない。 この紙片の化学的組成にはそれを20ドル紙幣とするものはなにもない。だから私たち はこれら制度的事実を印付けるための何らかの象徴的表現がなければならない。だが 今度は、象徴表現自体についてはどうなのか?どのようにそれは象徴的なものとして印 付けられるべきなのか?紙片の物理的構造にはそれを5ドル紙幣にするものは何もな く、土地の物理的構造にはそれを私の財産とするものは何もないというのが真なら、確 かにその通り、その場合私の口から出る音の音響学にも、私が紙の上につけた印の物 理学にも、それを言葉や他の象徴にするものはなにもないのは真である。 私たちの難問の解決は言語は正確に制度的事実の自己同一化する(selfidentifying)カテゴリーであるよう設計されていると考えることである。子どもは自分 自身や他の人の口から出る音が、何かの代わりをするか意味をし、表現するものとして 扱うことを学ぶ文化の中で育つ。そしてこれが、言語は既に言語であるため、言語が言 語であるために言語を必要としないといった時私が意図していたものであるが、これは 単に私たちの問題を後退させるだけではないのか?なぜすべての制度的事実はこの 言語の自己同一化する性格をもつことができないのか?なぜ子どもは単にこれをしか じかの私有財産、この物理的モノをお金とみなすためだけに育つことができないのか? 答えは子どもはできるということだ。だが正確に子どもが行う範囲で、子どもはモノをそ れ自体を超えた何かとして扱っているのである。子どもはそれを少なくとも部分的に本 性において言語的なものとして扱っているのである。 ナマの事実から制度的地位への移行は、それ自体言語的移行である。なぜなら X 項は今やそれ自体を超えて何かを象徴化するからである。だが、象徴的移行は思考を 必要とする。X 項から地位 Y への移行を構成する思考を考えるため、思考の伝達手段 がなければならない。あなたは考えるため何かをもたなければならない。X 項の物理的 特徴は思考内容にとって不十分であるが、慣習的に使用し、その内容の担いとして考 ることができるものならどんなものでも、その思考を考えるため用いることができる。考 えるのに使える最良のモノは言葉である。なぜならそれは言葉がそのためであるものの 一部だからである。実際、思考可能であることは、何かが言葉であるひとつの条件であ る。だが、厳密に言えばどんな慣習的印でもかまわない。言葉で考えるのは簡単だが、 人や山などで考えるのは難しい。なぜならそれらは非常に多くの無関係な特徴をもち、 非常に扱いにくい。だから私たちは実際の言葉を使うか、思考の伝達手段として言葉 に似た印を用いることができる。言葉を使って、私は「それは私の財産だ」「彼は議長 だ」とか言う。だが「財産」や「議長」のような言葉は、「宵の明星」が宵の明星を表す仕 方では前言語的モノを表さない。時には私たちは要素 X それ自体にラベルないし象徴 をつける。ラベルはたとえば「この券は私的公的すべての債務に対する法貨である」と 言う。だがその表現は今度は少なくとも一部は宣言である。すなわちそれは存在するも のとしてそれを表象することによって制度的地位を創出する。それはなにか前言語的 自然現象を表象するのではない。 私たちがお金としてコインを、境界として石の列を使うことができるように、慣習によっ てモノ X 自体を地位 Y をもつものとして扱うことができる。だがそうすることは、すでに 言語的地位を割り当てることである。なぜならそのモノは今やそれ自体を超えた何らか の慣習的公的象徴であるからである。すなわちそれらは物理学を超えて義務論的地位 を象徴する。そして、X 項がこの自己同一化する方法であると私が考えられるすべての ケースは本質的に言葉の特徴をもつ。タイプートークンの区別が適用でき、要素 X が容 易に承認可能であり、それが思考可能であり、そして私たちは慣習によって地位 Y を象 徴するものとしてそれを見る。 前文字社会の時代から現在まで、言葉ではないが、言葉のように機能する多くの慣 習的印(conventional marker)があった。いくつかの例を上げよう。中世の重罪人は そうであることを示すため右の手の平に焼き印を押された。これが法廷で宣誓する間 右手を上げなければならない理由である。だから誰でも私たちが重罪人でないことを見 ることができる。僧はそうである事実を印すため頭頂部を剃った。王は王冠を着け、夫 婦は指輪をし、牛は焼き印をされ、多くの人はその地位の印として制服を着る。 この章の全体の議論は、おかしな結果を生む。私はそれに完全に納得しているわけ ではないが、それはこうである。X から Y への移行はすでに自然に言語的である。なぜ ならいったん機能が要素 X に課されるならそれは何か他のもの、機能 Y を今度は象徴 するからである。この移行は存在するものとしてそれが集合的に表象される場合に限 り、存在しえる。集合的表象は、公的で慣習的である。そしてそれは何らかの伝達手段 を必要とする。要素 X の特徴をよく見たり、想像することだけでは、その作業は起こらな い。だから私たちは「お金」「財産」などの言葉を必要とするか、今検討したもののような 言語のような象徴を必要とする。あるいは限定的なケースでは、私は要素 X 自体を機 能 Y の「慣習的な表象」として扱う。私たちがそれを行うことができる範囲で、それらは 言葉ないし象徴自体、あるいは機能 Y の担い手と X から Y への移行の表象の両方で あるのに十分な言葉のようなものでなければならない。 その説明はまた次の結論をもつ。本来的にその意味をもたないモノに意味や象徴的 機能を付与する能力は言語だけでなく、すべての制度的現実の前提である。象徴する 前制度的能力はすべての人間の制度の創出の可能性の条件である。ある文脈で、「ね こがねころんでいる」*訳注と言う音を発語することは、猫が寝ころんでいるという陳述と みなされ、ある文脈でボールをもってラインを横切ることはタッチダウンを獲得すること とみなされる。両方とも、公式にしたがう制度的事実の創出のケースである。両者の違 いは、発話行為の創出がさらなる表象的能力をもつ何かの創出であるが、その意味 で、ゲームで獲得されるポイントはそれ自体を超えた何かを表現しないということであ る。陳述は真か偽でありえるが、タッチダウンはその仕方で意味論的特性をもたない。 通常「表す」関係は表す象徴から独立して存在する何らかのモノの存在を必要とす るが、最低のレベルでの制度的現実のケースで、構成的規則にしたがってあるモノに意 味を付け加える実践はまさにその潜在的な指示対象(referent)のカテゴリーを創出す る。象徴は猫や犬や宵の明星を創出しない。それは公共的にアクセス可能な方法で、 猫、犬、宵の明星を指示する可能性だけしか創出しない。だが象徴化はお金、財産、 ゲームで獲得されるポイント、官公庁の存在論的カテゴリーを、言葉や発話行為のカテ ゴリーと同様、創出する。いったんカテゴリーが創出されたなら、私たちは宵の明星など についてもつ同じ意味/指示をもつことができる。そのため私たちは「宵の明星」を指 示するのに成功したり失敗したりするのと同じ仕方で「第4クオーターのエンドで獲得 したタッチダウン」や「アメリカ合衆国大統領」を指示できたり、指示に失敗したりする が、その違いは、タッチダウンや大統領のカテゴリーの創出はすでに私たちが地位-機 能を X 項に付け加えるのにしたがう構造によって達成されているということである。な *訳注 原文は“The cat is on the mat.”明らかにダジャレであるため、「ねこがねころんでいる」と いうダジャレに変えた。この陳述文は第9章で盛んに使われる。 ぜなら、それらの特徴の存在は地位-機能の付与によって創出されるからである。 その意味として音「ネコ」を表すものが、ドル紙幣として機能する紙片を表すものであ ると考えてみてほしい。しかし音「ネコ」は、紙片がもたない「指示」機能をもっている。た とえば発語する話者が猫を指示する文で起こりえる。紙片、たとえドル紙幣と解釈され る紙片でさえ、そのような仕方で指示するのに用いられない。だがドル紙幣として紙片 を使う実践はその実践なしには存在しえない実体のクラスを創出する。それは実体の クラス、ドル紙幣を創出する。その実践が存在するためには、人々は「この紙片はドル紙 幣である」という思考を考えることが可能でなければならない。そしてそれはたとえ問題 の象徴がだけがモノ時代であったとしても言葉や他の象徴なしに考えることができな い思考である。 制度的事実における言語の他の機能 この議論はたいへん抽象的であり、言語的であるにせよ他の仕方にせよ、制度的現 実の創出の可能性の条件に集中してきた。だが、フランスやドイツ語のような実際の自 然言語や、社会制度の実際の複雑さを考えるなら、私たちはなぜ制度的事実は言語を 必要とするか他のいくつかの理由を理解できる。 第一、言語は認識論的に必要不可欠である 私は制度的事実の構造において、私たちはその物理的性質によるだけでは遂行しな い地位機能 Y を X 項に課すと言った。だが、次に、どの実体がそれに課されたこの地 位機能をもつと、私たちはいかに見分けるべきなのか?すべてではないが - 多くの因 果的行為者的機能にとって、どれがモノがイス、テーブル、ハンマー、ネジ回しであるか 区別するのは合理的に容易い。なぜならあなたは物理的構造から機能を読み取ること ができるからである。だがお金、夫、大学教授、私的に所有された不動産となると、あな たはその物理学から機能ないし地位を読み取ることはできない。あなたはラベルを必 要とする。たとえば紙片がお金であることを「認識」できるためには、私たちは機能につ いて新たに創出された事実を表象するなんらかの言語的あるいは象徴的方法をもたな ければならない。何かがお金であるという事実の認識は言語的にないし象徴的に表象 されることを必要とする。私は次章で、「地位表示子」(status indicator)と私が呼ぶ 物を議論するとき、この特徴についてさらに語らなければならないだろう。 第二、生得的に社会的である、問題の事実は、コミュニケート可能でなければな らない システムが機能すべきなら、たとえ肉眼で見えないとしても、その場合新たに創出され た事実はある人から他の人にコミュニケート可能でなければならない。あなたはあなた が結婚しているとか、議長であるとか、もしシステムが機能しているなら会議は休会さ れると人々に語ることができなければならない。制度的事実の単純なケースでさえ、こ のコミュニケート可能性は公共的になコミュニケーションの手段、言語を必要とする。 第三、現実の生活で、問題の現象は極端に複雑であり、そのような完全な情報 の表象は言語を必要とする もっとも明らかに単純な売り買いの行為でさえ、この本の初めのカフェでのビールの注 文の事例で見たように、大きな複雑さをもっている。事実の構造が表象される範囲での み存在するため、複雑な事実はその存在に複雑な表象のシステムを必要とする。そし てそのような複雑な表象のシステムは言語である。 第四、問題の事実は、制度の参加者の衝動や性向の持続から独立して時間を 通して存続する この継続する存在は参加者のより原初的な前言語的心理学的状態から独立した事実 の表象手段を必要とする。そしてそのような表象は言語的である。 いくつかの日付にとっての名前は、地位-機能に対するラベルである。たとえば「クリ スマス」とか「感謝祭」とか。そのようなラベルは言葉のシステムに相関的な日を特定す る以上のことを行う。それらはまた機能を付与する地位を割り当てる。 第4章 制度的事実の一般理論 第1部 繰り返し、相互作用、論理構造 分析を一般化する これまで他の種類ではなくお金の例を使いながら、制度的現実における言語の特別 な役割を強調して、制度的事実の予備的説明を行ってきた。私はお金だけではなく、た とえば、結婚、財産、雇用、発砲、戦争、革命、カクテルパーティー、政府、会議、組合、議 会、企業、法律、レストラン、休暇、法律家、教授、医師、中世の騎士、税金などの構造を 記述する説明をするため集めたツールを使うつもりである。説明を一般化するため私は 前章の素材に少なくとも二つの洞察を加える必要がある。 第一、構造「X を C で Y とみなす」は繰り返すことができる。 私たちは、すでに地位-機能を課した実体に地位機能を課すことができる。そのような ケースでは、より高いレベルの X 項は以前のレベルに由来する Y 項でありえる。たとえ ば X 項としてのアメリカ市民だけが Y としての大統領になれるが、アメリカ市民である ことはより前のレベルに由来する地位-機能 Y をもつことである。そして以前課された 地位-機能を必要とする文脈を C 項が決定する地位-機能を課すことができる。その ような場合より高いレベルの C 項は以前のレベルのに由来する Y 項でありえる。たとえ ば結婚式は文脈 C として法定立会人の出席を必要とする、だた法定立会人であること は予め Y 地位-機能を獲得することである。*訳注 さらに私たちは、以前に課された地位 -機能が表象するものである実体に地位-機能を課すことができる。すなわち私たちは 発話行為に地位-機能を課すことができる。たとえば、X としてある種の約束を契約 Y とみなすが、約束であることはすでにより低いレベルでの地位-機能 Y をもつというこ とである。このような繰り返しが複雑な社会の論理的構造を提供するというのは誇張で はない。 *訳注 欧米の公式の結婚式は、法令に従い司祭かそれに代わる役職のものが立ち会う。 第二、持続して働くそのような繰り返しの連鎖システムがありえる。 繰り返される地位-機能の構造は、その場限りで存在するだけではない。それが遂行 する機能は、それが拡張された期間を通じて継続的に互いに相互作用する必要があ る。たとえば、私は単にお金をもつのではない。そうではなく、たとえば、私は「アメリカ合 衆国市民としてまたカリフォルニア州の長期の住民及び被雇用者として州及び連邦 税を支払うため小切手を書く」ことによって私が“支出する”私の“銀行口座”に“お金” をもっている。今の文の“”で囲んだ表現は制度的概念を表している。そして報告された 事実はすべて持続的に作動する構成的規則のシステムを前提している。 さらに分析を発展させるため、お金について語ったものに類似した、結婚や財産につ いてのストーリーを語ろう。そのような制度は一緒に住んだり、物理的に所有したりする ことに関わるまったくの物理的かつ制度的事実において生じる。そしてそれぞれ財産は これを私は手に入れた、それは私のものであるという考えから始まり、結婚は人々が単 に互いに生活し、一夫一婦制の結婚の場合、性的に互いに独占することから始まる。な ぜ私はこれらの取り決めで満足しないのか?なぜそれを物理的にコントロールするとい う意味でこれを所有するというのは充分でないかのか、そしてなぜ私たちは単に一緒 に住むというのでは十分ではないのか?さて一部の人たち、そしておそらく一部の単純 な社会にとってはそれで十分である。だが私たちの多くは、もし集合的に権利、義務、責 務、権力をナマの物理的所有や同居に加えない - そして最終的にそれに代わる - シ ステムがあるなら私たちはもっと幸せだと思う。あるものについては、この義務論的装 置を付け加えるなら、期待のより安定したシステムをもつことができる。別のものについ ては、その取り決めを維持するためナマの物理的な力に頼る必要はない。第三のもの については、私たちは元々の物理的仕組みがなくともその取り決めを維持できる。たと えば人々はたとえ何年も同居していなかったとしても結婚は維持でき、たとえ財産が非 常に離れたところにあっても人々は財産を所有できる。 長所短所がなんであれ、論理的により原始的な取り決めは、集合的に承認された地 位-機能をもつ制度的構造に発展した。お金の場合とちょうど同じように、私たちは集 合的に課すことがなければ、その機能を遂行することができないものに、集合的志向性 によって、新たな地位-機能を課した。しかしこれらのケースのひとつの特別な特徴は、 しばしばその機能は、顕在的な発話行為を遂行する仕方で課されることである。そのよ うなケースでは発話行為自体が地位-機能に地位-機能を課す事例であり、それは新 たな地位-機能を創出するが、古い地位-機能を変更するのに用いられる。そのため、 たとえば結婚式は一連の発話行為からなるが、その文脈で、新しい制度的事実、結婚 を創出する。結婚の存在は、当人たちに、用語「夫」と「妻」によって印付けられる地位- 機能を課す。そうするために、発話行為は、既に地位-機能である発話される言葉の字 義通りの意味を超えた地位-機能をもたなければならない。 結婚の場合についてもっと詳しくこの点を探求しよう。より原始的な生物学的現象か ら制度的事実を漸進的に創出することに関する次の段階は、単に機能の遂行に物理 的に関係しない実体だけでなく、既に課された機能をもつ実体、特に発話行為に、地位 -機能を課すことに関係する。そしてこれらの発話行為は、発話行為でない実体、たと えば人に新たな地位-機能を課すために用いられる。そのためこれらのケースでは、公 式「X を C で Y とみなす」における X 要素はすでに発話行為でありえる。たとえば人々 が結婚式で遂行する種類の発話行為を考えてほしい。法定立会人の目前で(C 項) で、しかじかの発話行為(X 項)を遂行することを、今度は、結婚すること(Y 項)とみな す。異なる文脈で、たとえばベッドの中で、まさに同じ言葉を言うことは、結婚することを 構成しないだろう。Y 項は今度はその発話行為に新たな地位を割り当てる。結婚式で なされる約束は、新たな制度的事実、結婚を創出する。なぜならその文脈で、その約束 をすることは結婚することとみなされるからである。さらに「法定立会人」の全概念は、 いくつかの以前の機能の割り当ての結果である文脈 C を特定する。立会人の全概念 は、X を C で Y とみなす構造に従ってある人に課された制度的地位の概念である。そ のようなケースで法定立会人は結婚式における C 項であるが、彼ないし彼女が法定立 会人であることは以前の地位-機能の割り当てにおいて Y 項であることの結果であ る。 結婚が多くの制度について典型的だと考えるのが正しいなら、その場合多くの制度 的事実の創出の階層構造があることが、その説明から帰結する。そのため、結婚の例 を通じて、ある雑音を発すことが英語の文とみなされ、ある状況である種の英語の文を 発語することは、約束をすることとみなされ、ある状況で約束をすることは、契約に入る ことととみなされ、ある種の契約に入ることは、結婚することとみなされる。結婚式は、一 群の発話行為に特別な機能を課すことによって新たな制度的事実、結婚を創出する。 だが結婚の創出は関与する個人に新たな地位、それゆえ新たな機能を課す。彼らは今 度は「夫」と「妻」になる。そして彼らが夫婦であるという事実は、結婚自体と同じく、制 度的事実である。 私はパターンが出現することがこの例から明確であることを期待する。問うべき重大 な問題は、正確に課された地位-機能となにか?である。言語やお金の場合、答えは、 相対的に簡単である。言語にとって、地位は音や印に課される。そして言語の機能は莫 大だが、第一の機能は様々な発話行為の様式で言葉を表象することである。1 お金に とって、地位は通常金属や紙に課されてきた。そして機能は交換媒体、価値の保存など として働くことである。結婚の場合、状況はもう少し複雑である。地位は最初に、結婚式 を構成する一群の発話行為に課されるが、その発話行為は新たな制度的事実、結婚を 創出するため機能する。だが、結婚自体は関与する人々に新たな地位-機能、特定の 権利と義務を伴う夫婦である地位-機能を課す。さて、通常人々、建物、自動車などに 発話行為自体が機能を課す発話行為の遂行による制度的事実の創出、このパターン は、多くの社会制度に特徴的である。財産、市民権、自動車免許、大聖堂、宣戦布告、 議会の開会は全てこのパターンを示す。極めて簡単にいえば、パターンは、こうである。 私たちは、また別の制度的事実である、あるタイプの発話行為を遂行するそれ自体制 度的事実ある文のような既存の地位-機能をともなうモノを使うことによって、結婚のよ うな新たな制度的事実を創出する。 この教訓を財産の例に適用しよう。普通、私たちは制度とその制度のトークンの実 例、あるいはその制度の実施の区別、一般構造「X を C で Y とみなす」とその構造の 特定の実例の区別をする必要がある。私が前に言ったとおり、財産はまったくの物理的 所有から始まる。多くの法律体系において、だが特にイギリスのコモンロー(慣習法)や それに影響を受けた法体系において、不動産(real property)と動産(personal property)には大きな違いがある。多くの国では国王は自身の土地を所有できた。不 動産と動産のいくつかの大きな違いの中で特に私たちの研究にとって興味深いもの は、所有は通常動産より不動産にとってまったく異なって現れる。私はシャツを着たり、 自動車を運転したりコンピュータを操作したりできるが私の家や土地にの場合、私の所 有の維持は地位の表示子を必要とする。フランス語の「meuble」(家具)と 「immeuble」(建物)の違いはこれを正確に明らかにする。可動な財産はまたしばしば ― たとえば自動車登録証や牛の血統書など ― 地位表示子をもつ。これらのケースに おける地位表示子は、宝石屋、油絵のように財産が非常に価値があるため、あるいは 自動車や牛が簡単に同定することができ、移動し得るため、また銃の場合のように可 能な傷害の責任をもつため、あるいは自動車の場合のようにこれらの組み合わせがあ るためのような偶然の理由ためにある。どのケースでも文書なしに複雑な不動産の所 有体系がどのようにありえるか理解するのは難しい。 土地を含む物質的モノのナマの物質的所有の最上位に、私たちは財産の売買、遺 言での譲渡、部分譲渡、抵当設定などの構造を構築する。使用される特徴的な表現 は、権利証書(deed)、売買証書(bill of sale)、登録証明書(registration paper)、 遺言書(will)など ― 発話行為であり、これらが通常「法律文書」(legal instrument) と呼ばれるのは偶然ではない。すべては発話行為に課された地位-機能のケースであ る。そしてもちろん元の発話行為は既に課された地位機能のケースである。だからたと えば売買証書は単にたとえば私の自動車をあなたに売ったという事実を記録する。そ れは断言的発話行為だが、今度はそれを、新たな登録証明書の発行を待っている自 動車に対するあなたの権利と「みなす」ことができる。 いったん社会が所有の制度をもったなら、私が何かを誰かに譲渡する場合のように 発話行為によって、あるいは私が財産をお金と交換する場合のように、他の種類の行 為を伴う発話行為によって、新たな財産の権利が普通創出される。私が自分の時計を 息子にあげると考えてほしい。私はこれを「それをお前のものだ」「お前はそれを持て る」と言って、あるいはもっとうやうやしく遂行的に「ここに私はあなたに私の時計を与え る」と言って、これをすることができる。私は今度は、これらの発話行為における新たな 地位-機能、所有権を移転するそれを課した。次に時計に新たな地位-機能、私の息 子に属することのそれ、彼の財産であることのそれを課す。 制度的構造は、財産のケースにおけるナマの物質的所有、あるいは結婚のケースに おけるナマの物理的近接が、たとえ財産が遠くにあっても人々が財産を所有し、たとえ 互いにいっしょに生活していなくても人々が結婚している、承認された一群の関係に置 き換えることを可能にすると私は言った。この注目すべき知的偉業を達成するため、私 が「地位表示子」と呼んできたものを私たちはもたなければならない。証明書類が、お 金に換金できる場合、価値の地位表示子であるのとちょうど同じように、私たちは法的 に認められた結婚や財産権の承認されたシステムをもつ。そして私たちはたとえば、結 婚証明書、結婚指輪、権利証書の形で地位表示子をもつ。私が家や妻から遠く離れて も、制度的構造は、私が所有者や夫のままであることを、必要なら、地位表示子を使うこ とで他の者にその地位を表示することを可能にする。そのような場合、制度的事実は まったくの物理的所有や近接のかわりをし、表示子は制度的事実を明示する。 お金、結婚、財産より複雑なレベルで、政府は、地位の階層を作るほとんどの霊長類 の社会集団の傾向、他のものからリーダーシップを集める傾向、そして一部の場合に は、一部の動物が他のものに行使できるまったくのナマの物理的暴力に起源がある。 私はこのリストが政府の基礎のすべてのストーリーを構成すると示唆はしないが、これ らの霊長類の生物学の要素が社会契約のような伝統的に議論されてきた多くの特徴 として政治哲学を理解するのに本質的なものであるように私にはおもえる。 その場合設立された精巧な構造 - 市民権、権利、責任、政治権力、官庁、選挙、弾 劾、そして知事を選び、役所から知事を取り除く他の方法、そして残りのすべて - は、そ の後、より原初的関係の最上位に集合的に地位を課すことによって制度的構造として 発展する。 地位-機能のため選択された事柄における、自由から必然性へ、任意性から理由へ 移行するスケールがある。自由と任意性のひとつの極端に、お金がある。すべての種類 の物質が、お金として機能することができ、モノは、お金の機能を遂行するため、持続 性、取り扱えること、偽物が作れないこと、認識可能であること、おそらく他のわずかな ものの一定の最低限の条件を満たす必要があるだけである。必然性と理由の他の極 端には、フランス政府によってセーブルのパビヨン・ド・ブルトイユに保管されているメー トル原器のようなものがある。そのケースの本性によって、この地位-機能が課される 種類の物は非常に制限されている。単に古いモノだけではなく、古いメートル原器でさ え、この機能を果たすことができる。中間的な範囲において、結婚式で行われる約束や 男が中世騎士にになる前に合格しなければならないテストのような条件 X がある。それ らは、紙がお金の機能に任意の関係しかもたない程度には、結婚や騎士の新たな地位 に関して任意ではない。だた同時にそれらはいずれも必然性の問題ではない。ひとは 結婚したり、騎士になるすべての種類の完全に受け入れらた方法を想像し、構築するこ とすらできる。そして X 項によって特定される条件と Y 項によって特定される機能の間 のこの緩さのため、諸文化は同じ、あるいは類似の機能の遂行について必要とする資 格に違いがある。たとえばほとんどのアメリカの州では「事務弁護士」(attorney)は法 学位をもち、州法曹団の試験に合格し、宣誓することを必要とする。他方イギリスでは、 学位は必要とされないが、法学院で一定期間、事務弁護士(solicitor)に修行するか、 資格に向けて法学院で食事をするようなことが必要とされる。どのようにこれらふたつ の条件の集合が、その占有者が同じ機能、法律相談の機能を果たすことを可能にする と考えられるかはまったく明らかではない。それにもかかわらず、それぞれ信任を与えら れた行為者が明かに彼らが行うと考える。 地位-機能を構成要素 X と Y に課すことの分岐点は、私たちの研究にいくつかの 重要な結果をもつ。第一に地位表現は、ひとつは組成(X 項)に関する、ひとつは課され る行為者機能(Y 項)に関連する二つの定義を認める。そのため、通貨はその起源と構 造に関連して定義される。ある印刷局によって発行されるある種の紙幣(X 項)はアメリ カ合衆国通貨である。だが通貨はまた、アメリカ合衆国通貨の表面に書かれるとおり 「私的公的すべての債務に対する法貨である」(Y 項)として定義され、実際にそうであ りえる。タッチダウンはそのプレイが進行中にボールをもった男がゴールラインのプレー ンを破る時であり(X 項)、そしてタッチダウンは6ポイントである(Y 項)。 成文化 純粋な制度的事実の存在のためのテストは、私たちが顕在的に規則を成文化でき るかどうかである。財産、結婚、お金のような多くの制度的事実のケースでは、これらは 実際、顕在的法律に成文化されてきた。友人関係、日付、カクテルパーティーのような 他のものは、そのように成文化されていないが、そうできたかもしれない。人々が、自ら 関与するある一群の関係が友人関係/日付/カクテルパーティーの場合にあると考 えるなら、その場合それぞれのそのような地位の所有はその関係は実際その地位をも ち、その地位の所有はそれとともにある機能を実行するという信念によって構成され る。これは、友人関係/日付/カクテルパーティーにある種の正当な期待を関与する 人々がもつという事実により示される。その期待を、人々がそれが友人関係/日付/カ クテルパーティーであると考えないものについての同一の一群の取り決めにはもたな い。そのような制度パターンは何かが本当にカクテルパーティーかどうか、ティーパー ティーにすぎないかが大きな問題となるなら、成文化されうるだろう。友人関係の権利 と義務が突然なんらかの法的ないし道徳的問題になったら、その場合、もちろん顕在化 は代償を伴うが、私たちはこれらの非公式的な制度が、顕在的に成文化されるようにな ると、想像することができる。それは、その実践が非公式的形式でもつ柔軟性、自発性、 非公式性を私たちから奪う。 これらの例から、漸進的変異があり、制度的事実一般における社会的事実と制度的 事実の特別な下位クラスの間にははっきりとした境界がないことは明確だろう。私の社 会で、「誰かと散歩に行く」は社会的事実を示すが、制度的事実は示してはいない。な ぜなら、そのラベルは新たな地位-機能を割り当てないためである。それは単に志向性 とその表明にラベルを付けるだけである。しかしその特徴的な制度的変異は、集合的 地位とそれに対応する機能を課すことによる高次の種類の現象としての、ひとつの現 象の受け入れ、承認などを構成する集合的志向性のその形式の変異である。その機能 はつねにその機能をもたないなら、その地位でありえないという意味で、その地位につ ねに内的に関係づけられる。基準はつねにこうである。ラベルの割り当ては、たとえば、 機能が集合的に受け入れられる限り遂行できる権利や責任の形式で、何らかの新たな 機能の割り当てをもつ機能を実行するか?この基準によって「夫」「リーダー」「教師」は すべて地位-機能を示すが、「飲む」「まぬけ」「知性的」「有名人」はそうではない。繰り 返せば、はっきりとした線引がないのは明らかである。 この説明のすばらしい例は戦争である。戦争はつねに集合的志向性の形式である。 このため、人々がそれを戦争と考える場合に限りそれは戦争である。だが通常の戦争で はまったくの出来事は、参加者になんらかの責任や権利をケースと考えられるある法 的、ないし擬似法的地位を持つものとみなされる。そしてそのようなケースでは、戦争は 単なる社会的事実以上のものである。それは制度的事実である。さらに結婚とともに制 度的地位が課されると考えられる仕方がある。そのため朝鮮における戦争のケースで は、当時のアメリカ政府は、「朝鮮戦争」と呼ばれないよう大変懸念した(それは「朝鮮 紛争」と呼ばれた)。なぜなら宣戦布告のための憲法の条項と一致するよう宣戦布告 がされなかったため、戦争の法的定義を充足しなかったからである。彼らには選択肢が あった。それが「戦争」なら、それは憲法違反である。だからそれは「戦争」ではない。そ れは地位機能がまったく異なる「国連警察活動」であった。現象が地位-機能を課すた めの X 項を充足しなかったため、Y 項「戦争」は適用されなかった。ベトナム戦争の時 代になって、この種の誤魔化しは放棄された。そしてたとえ法的状況が朝鮮のケースで された以上に宣戦布告されたものでなかったとしてもまったくの物理的、意図的事実 が、用語「戦争」の適用を正当と認めた。 「戦争」はそのため大規模な社会的事実のタイプと制度的事実のタイプの名前の間 で動揺する。その区別のテストは、用語「戦争」が既存の一群の関係にラベルを貼るた めに用いられるか、あるいは「戦争」と認められる地位に由来するさらなる結果を含意 するかどうかである。これはどのように戦争が存在するようになったかに関係する。社会 的事実として戦争はどのように起ころうと存在できるが、アメリカ合衆国憲法の下、戦 争は私が「宣言」と読んだ発話行為のタイプ、議会の決議によって創出される場合に 限り、制度的事実としての戦争は存在する。おそらく、ベトナム戦争と湾岸戦争のあと、 私たちはコモンローの結婚のような、コモンローの戦争の制度を発展させている。 分析で問われるいくつかの問題 この章で私たちはすべての中でもっとも困難な問いのひとつを解決する。制度的事 実の創出の論理的構造はなにか?その問いに関連して、どんな種類の事実が、単に地 位 Y をもつものとして X をみなす集合的合意によって創出することができるか?という 問いがある。そして制度的事実の可能性と限界とはなにか?全システムは、集合的に 受け入れることによってのみ働くため、私たちがそれに対処できるほど十分ではないこ とは、アプリオリのように思える。またあたかも全システムがいつでも崩壊する可能性が あるため、それはすべて非常に脆弱であるようにみえる。しかし社会の制度的構造は正 確にこの形式をもつため、私たちは可能性と限界を見出す必要がある。 組織された社会の論理構造を記述しようとするため、何が関与しているかを説明す るため、なにか問題となっているかについて少なくとも一部を明らかにするため、この点 で立ち止まるのがよいかもしれない。どのように「組織された社会」は「論理構造」をも つことができるのか?結局、社会は命題の集合や理論ではないなら、論理構造につい てのこの話はいったい何なのか?私の説明では、社会的制度的現実は構成的要素と して精神的表象だけではなく、言語的表象でさえある、表象を含む。これらがまさに論 理構造をもつ。私はその論理構造のもっとも根本的なものを明らかにしようと思う。 そして何が問題なのか?財産や国家のような制度的構造自体は武装した警察や国 家の軍事力によって維持され、受け入れは必要な場合強制されると考える誘惑があ る。だが、アメリカ合衆国やいくつかの他の民主主義社会では、反対である。国家の武 力は、構成的規則システムの受け入れに依存している。反対より多くにである。これは1 992年ロサンゼルスのテレビで広く報道された暴動の時明らかであった。略奪者たちは 金目の物をもって商店から歩き出たが、その間警官は彼らを銃で狙っており、立ち止ま るよう命じた。略奪者たちは単に警官を無視し、それ以上何も起こらなかった。「なぜこ んなことをするのか」とあるリポーターが尋ねた。「タダだから」と盗人は答えた。何百万 人の人々がこれを見た。政府の警察権力は、非常に少数にしか使用可能ではなく、そ の場合でさえ、ほとんど誰か他のものが地位-機能システムを受け入れているという仮 定される。いったん法律違反者がわずかに留まらくなれば、警察は警察署に退去する か、ロサンゼルスで行われたように、あたかも法を執行しているかのような行為の儀礼 的ショーを催す。あるいは、まったくしばしば遵法者を逮捕する。暴動や略奪の同じ期 間、バークレーでは、店を守るため武装したため店主が逮捕され、警察に妨害されずに 略奪者たちが近所の店を強盗している間にこの逮捕は起こった。多くの民主者的社会 では、いったん法律違反者が大規模になれば、警察権力はほとんどショーのためにあ る。 私たちの現在の議論についての論点は、私たちは受け入れのシステムは、信頼でき る武力のシステムに支えられると考えられないということである。あることについて武力 のシステムはそれ自体受け入れのシステムである。たとえば警察や軍は地位-機能の システムである。だが私たちの現在の目的にとってより重要なことは、武力のシステム は、他の地位-機能のシステムを前提にするということである。私たちはリバイアサンが 純粋な危機において私たちを助けに現れると考えることはできない。反対に私たちはつ ねに自然状態にあるのであるが、自然状態とは正確に少なくともほとんどつねに、構成 的規則のシステムを実際に人々が受け入れることなのである。 もっと劇的な例は脅威の年1989年のソビエト帝国の崩壊によって示される。1989 年以前時代ソビエト帝国の諸国を訪問した誰もが、全ての事態が恐怖のシステムに よってのみ維持されているのを見ることができた。ほとんどの人々は、地位-機能のシ ステムがたいして社会的に望ましいものではない、道徳的に受け入れられていたことを 知らない。だが、全システムがソビエト軍の武力によって支えられた警察権力の精巧な 装置によって維持されていたため誰もそれについてどうにかすることができることがあ るようにはみえなかった。チェコスロバキアの1968年のブラハの春のような改革の努力 も地元の秘密警察の協力でソビエト軍によって弾圧された。チェコスロバキアでは、10 人にひとりが、他の9人のスパイし、秘密政治警察への不満のどんな兆候も通報するよ うにされた。ドイツ民主共和国(東ドイツ)の警察捜査システムは夫が妻を互いに通報 を強いられるほとまでより徹底的で無慈悲でさえあった。誰も ― ソビエト・システムに ついての専門家も、外交官も、ジャーナリストも、旅行者も ― 数年で全システムが突然 崩壊することを1980年代半ば予測できなかった。地位-機能のシステムがもはや受け 入れられなくなった時、それは崩壊した。ソビエトの介入の恐れはもはや信じられず、地 元の警察や軍はもはやシステムを維持するのを試みようとは思わなかった。ドイツ民主 共和国では、軍は命令されても反対者に発砲するのを拒否した。 私は制度的事実の継続的承認に対して、なんらかの単一の動機があるとは考えな い。そのような承認に何らかの合理的な基礎がなければならないとか、参加者がゲーム 理論的有利性や、より高次の無関心曲線やその類のものに従うというようなことを考え る誘惑がある程度ある。だが制度的構造の顕著な特徴は、人々がそうすることに明らか に有利でない場合でさえその多くが承認を続け協力するということである。制度はおお むね習慣(habit)によって維持される場合は、それはまた通貨に信頼を失ったり、政府 を政府として認めるのをやめた場合のようにまったく突然崩壊しうるのである。 もっとも根本的な利害は階級的利害であると考えるマルクスは、すべての歴史は階 級闘争の歴史であると言った。だが驚くのは、歴史はほとんど階級闘争とは関わりがな いことである。20世紀の大変動は、たとえば階級的連帯より国民的忠誠心のほうが強 固であり、全階級の仲間の国民は、情熱と熱意をもって全階級の敵の国民を虐殺した のである。国際的階級的連帯はほとんど何の価値もなかった。そしてこれらの大変動 のほとんどにおいて、たとえ他のすべての制度的変化が起こっても、階級的違いを維持 する構成規則のシステムは維持された。そして階級構造を維持する制度が破壊された ところでは ― とえば第一次大戦のロシア、第二次大戦後の中国 ― では、階級構造の 破壊は、かれらの敵の戦争目的にはなかった。ドイツ帝国はロシアのボルシェビキ国家 をつくろうしはしなかったし、毛沢東主義は大東亜共栄圏の目的ではなかった。私が説 明しようとしている要点は、動機、自己利害、制度構造、制度変化の間には何ら単純な 一連の関係はないということである。 おそらく地位機能のもっとも素晴らしい形式は、「人間」の諸権利の創出にある。西 欧啓蒙主義以前、権利の概念は、何らかの制度的構造 ― 財産権、結婚権、初夜権な ど ― の範囲内で適用された。だがその観念は人が単に人間であることだけである地 位-機能をもつことができること、X 項が「人間」でありかつ、Y 項は「不可侵の権利の 所有者」であることを集合的に受け入れるように次第になった。この移行の集合的受け 入れが神聖な権威の観念に援助を受けたのは偶然ではない。「彼らはその創造主に よって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」(アメリ カ独立宣言)。人権の概念は宗教的信仰の衰退を生き延び、国際化されるまでになっ た。人権に関するヘルシンキ宣言は、政治権力の程度こそ違え、独裁体制に反対して しばしば訴えられている。後に動物権の認知に関する運動にさえなった。人間の権利も 動物の権利も共に集合的志向性を通じて地位-機能を課すことの事例である。 一般に、この章の残りで見るように、地位-機能は力の問題である。制度的事実の構 造は、否定的/肯定的、条件的/範疇的、集合的/個人的な力を含む、力の関係の 構造である。啓蒙以来の私たちの知的伝統において、権力の全観念はあるタイプの自 由主義的な感覚を非常に敏感にする。あるタイプの知識階級は、権力がまったく存在し ないことを望む(あるいは権力が存在しなければならないなら、かれらは彼らがお気に 入りの抑圧された少数者がより多くそれをもち、他のものがより少なくもつことを望む)。 制度的事実に研究に由来するひとつの教訓はこうである。私たちが文明で価値あると 思うすべては、集合的に課される地位-機能を通して、制度的力の関係の基準と維持 を必要とする。これらは、正義、自由、権威のような伝統的価値に言及することなく、公 正さ、効率性、柔軟性、創造性を創出し、保持するため継続的な監視と調整を必要とす る。だが制度的力の関係は、偏在し、本質的である。制度的力 - 大規模で広範で通常 不可視のもの - は私たちの社会的生活の隅々に浸透し、そのようなものとして、自由 主義的な価値を脅かすのではなくその存在の前提条件なのである。 地位-機能を課すことのいくつかのタイプ 制度的現実の論理構造の研究のため、私は最初に問いたい。存在すると信じられる ためだけで地位-機能が存在する場合、地位-機能を創出することによって、どんな種 類の新たな事実、新たな力、新たな因果構造を、人々は創出できるのか? 物理的機能が関係する場合、唯一の制限はまったくの物理的可能性によって与えら れる。テクノロジーの歴史はどのように蓄積された知識や組織された欲求が技術的可 能性を利用してきたかの歴史である。だが、それが制度的事実に関する場合、テクノロ ジーの改良はその可能性を変えない。私たちは単に何かを電荷とみなすと決めること によってだけで電荷を課すことはできないが、何を大統領になるとみなすかを決めるこ とによって、そしてその場合、私たちが決めた条件を満たす人を大統領とするだけで、大 統領の職務を課すことができる。「X を C で Y とみなす」の形式の文の内包性 (intensionality-with-an-s)は、その現象の志向性(intentionality-with-a-t)に対す る手がかりである。X 項も Y 項も全陳述の真理値の喪失も変化もなく表現を与えるこ とで代用を許容するため、私たちは「とみなす」という言い回しが志向性の形式を特定 すると考える良い理由をもつことになる。この公式の使用による制度的事実創出の可 能性は、ただ実体が特徴をもつと集合的に合意することによってだけで実体に新たな 特徴を課す可能性によって制限される。私たちの問いは今度はこうである。何が機能を 制度的に課すことの形式と制限なのか? 一見して制度的事実はその多様性においてまったく途方もないようにみえる。制度 的事によって私たちは約束をし、タッチダウンを獲得し、テニュア(大学終身在職権)の 地位を手に入れ、大統領になり、会議を休会し、ドル紙幣を支払い、被雇用者を解雇で きる。だが主題のこの莫大な多様性の中で、制度的事実の一般的形式的特性は、実 際には非常にわずかしかない。 制度的事実の創出は、地位とそれとともにその地位-機能をまだもっていない何ら かの実体における機能を課すことの問題であるため、一般に地位-機能の創出は新た な「力」を与えることの問題である。X 項に何らかの新たな力を与えないなら、Y 項目に よって示される地位-機能を課すことにたいした点はないだろう。そして(すべてではな く)ほとんどの制度的地位の創出は正確に X 項に力を与えることであるか、力の創出 における否定や条件付けのよう何らかの真理機能の操作を遂行することである。もっと も単純なケースでは、Y 項は X 項が X の構造によってだけではもたない力を示す。X 項が人の場合、その人はまだ持っていない力を獲得する。X 項がモノの場合、そのモノ のユーザーは X の構造によってだけではできないことをそれでできる。そのため、お金、 パスポート、運転免許、言語の文は、担い手ないし使用者は、物を買い、国々を旅行し、 合法的に自動車を運転し、文を発語することによって発話することのような、さもなけれ ばできないことをすることを可能にする。これらのケースでは、Y 項目の受け入れには、 権威、許可、授権のような力の創出のいくつかの形式が含まれる。これから見るように、 他のケースには否定や条件のようなこれらの力に関するいくつかのブール関数を含ま れる。 そのため、どれくらい多くの制度的タイプがありえるかという問いは、どんな力の種 類が単に集合的合理によってだけ私たちは創出できるかという問いに大半要約され る。まったくの物理的力は集合的合意によって変化しない。私たちは集合的合意によっ て体重や腕相撲の力を加えることができない。だが、私たちは集合的合意によって、 人々の富を増すことができ、それに私たちの生死にかかわる権限すら与える。その答え の一般的形式はこうでなければならない。すなわち、私たちはこのメカニズムを使って すべてを、そして力の集合的承認ないし受け入れがそれをもつことについて「構成的」 である力の形式で創出することができる。これがメカニズム公式の構造であるなら、そ の場合ふたつの難問となる特徴が自動的に説明される。第一にそのメカニズムは主題 となる問題に制限を課さないため、妻から戦争まで、カクテル・パーティーから議会ま で、莫大な制度的現実の多様性は、切れ目のない難問にみえる。第二にそのように記 述されたメカニズムは、参加者が何が実際起きているか気づくことを必要としない。彼 らはその男が単に聖別されたため王であると考えるかもしれないが、彼の権威を承認 し続ける限り、彼らが抱いている信念がたとえ偽であっても、彼は王の地位機能を持 つ。 すべての制度的事実が力を含むという主張に対して興味深い例外のクラスがある。 一部の制度的事実はさらなる機能をもなたい純粋な地位機能をもつ。これらはその地 位が名誉的なケースである。あなたがメダルを授与されたり、名誉学位を授与されたり、 教室で一番人気のある人に投票したり、ミス・アルメダ郡になったりするなら、一般に、こ れらの名誉と関連するどんな権利も力もない。そのためあなたの悪い行動が非難され たり、上司に叱責されたり、教室の投票で最低の人気だったりするなら、これらはすべて 不名誉なのである。否定的にせよ、肯定的にせよそれ以上の力は適用する必要はな い。 私たちの問いはこうである。すなわち、公式「X を C で Y とみなす」において、どれくら い多くの「Y」のタイプがあるか?制度的事実は集合的志向性によって構築されため、 制度的事実を創出することの可能性における厳しい制限のため、私たちはこの問いに 答えられなければならない。そのため、素朴に制度的現実のいくつかの形式的特徴をリ ストすることから始めよう。 地位 Y はいくつかの異なる存在論的現象のカテゴリーに課すことができる。すなわ ち、人(たとえば、議長、妻、僧侶、教授)、モノ(たとえば、文、5ドル紙幣、出生証明書、運 転免許)、出来事(選挙、結婚式、カクテル・パーティー、戦争、タッチダウン)。人、モノ、 出来事は体系的関係において相互作用する(たとえば、政府、結婚、企業、大学、軍、教 会)。しばしば地位 Y は人やそのグループの既存の全制度的関係の集合によって彼ら に課される。そのため人の集合は、市と州を構成するか、男と女は既婚者を構成するこ とができる。だがそのような構成は正しいサイズの人の集まりがあることだけでなく、集 合のメンバー間の関係による。 その場合新たな地位-機能が課されるモノ、出来事、人の特徴とはなにか?私が最 初に示唆したいのは、集団を含む人のカテゴリーは、モノや出来事に地位-機能を課す ことが人への関係でのみ働くという意味で根本的である。それは行為者的機能の一般 的特徴であるため、これは驚くことではない。問題になるものはモノとしての5ドル紙幣 ではなく、5ドル紙幣の「所有者」が、さもなければもたないある力をもつのである。まさ にそのため、問題となるのはモノとしてのネジ回しではなく、ネジ回しの所有者が、さも なければもたない力をもつのである。これは私が考えていものが実際、地位-機能を課 すことにおける集合的志向性の内容が通常、なんらかの単数ないし複数の人間主体 が、なんらかの肯定的ないし否定的な、条件的ないしカテゴリー的力をもつケースなの である。これは、たとえばジョーンズは大統領であるように、直接地位が行為者に課さ れるケースであり、たとえばこれは5ドル紙幣であるように、間接的に地位がモノに課さ れるケースであるだろう。 注意すべきもう一つの形式的特徴は、内的、外的視点の間の通常の区別が制度的 事実に適用されるということである。この本で、私たちは内的視点に第一に関心をも つ。なぜなら、制度が存在できるのはまったく、参加者の内的視点からのみであるから である。制度の外部の人類学者は、たとえば、クワキートル(Kwakiutl)の参加者がまっ たく気づかない機能を遂行するものとして、ポトラッチ(potlatch)を見ることができるか もしれないが、祝祭全体は集合的志向性と参加者が地位-機能を課すことによっての み最初にポトラッチである。そしてこれは意識的であろうと無意識的であろうと、内的一 人称の視点からのみ存在しえるのである。 たとえ内的視点内でさえ、なされるべきなんらかの形式の区別がある。ミクロ・レベル で、個人は交換媒体と価値の保存としてお金をみなし、結婚を集合的生涯の男女の パートナー間の約束とみなす。だがマクロレベルでは、個々のケースで割り当てられる 地位が同じでも、内的視点からでさえ、計画者や組織者は異なる機能を持つものとして 制度をみなす。司教は、結婚の機能を、神を称え、社会的安定を生むものとみなす。また 中央銀行は、経済をコントロールする方法として貨幣の供給をみなす。重要な点は、内 的ミクロレベルは存在論的に基本的である。司教も、連邦準備委員会も、人類学者もま た、制度的事実の構造を構成する志向性の基本的形式を持つお金や結婚のまさに現 場における最低レベルの参加者なしに、彼らの視点をもつことができる方法はないので ある。さらにミクロレベルの参加者は基本的な存在論と関係のないことを遂行するよう、 制度的実体に望むすべての種類の他の機能を持つことができるかもしれない。そのた め多くの人はお金を政治権力や名声のため欲しがり、彼らにとってそれはお金の基礎 的機能なのである。ヨーロッパの支配的王朝の中で、結婚は王朝の政治権力の道具で あった(羅:Alii bella gerunt, tu felix Austria nube、英:Happy Austraia, other nation wage wars, you marry、「戦いは他のものに任せよ、汝幸いなるオーストリア よ、結婚せよ」)。そして結婚は、他の地味なもの中でそのような秘められた機能を遂行 してきた。要点は、これらはすべて生活の場面において、いわば公式に従って地位-機 能を課す日常の集合的志向性の基礎的存在論がある限り働くということである。 もし私たちがこれらの点を念頭に制度的事実を見るなら、地位-機能はある広範な 諸カテゴリーに落ち着くように私には見える。これらを分類することにおける最初の試み として - 私たちは後に改善しなければならないが - 私は暫定的に4つの広いカテゴ リーに分類する。象徴的、義務論的、名誉的、手続き的と私は呼ぶ。 1.象徴的力:意味の創出 象徴的力(Symbolic Powers)をもつことの要点は、ひとつないしより多くの可能な発 語様式において現実を表象することを私たちに可能にする。そのようなケースでは、私 たちは、本来的に志向的でない実体に志向性を課す。そしてこれをすることはあらゆる 形式で言語と意味を創出することである。あるタイプの物理的構造に志向性を課すこ とは形式的構造 - 「構文論」 - と意味内容 - 「意味論」の両方を決定する。そのた めたとえば、音韻的/記号的タイプ「Il pleut」は英語の文とみなされ、「Ea regnet」は ドイツ語の文とみなされる。物質的な音や記号に、私たちは一般に地位すなわち語、 文、構文を課す。そして異なる構文的対象において、私たちはこれらのケースで同じ意 味論的内容をもつ。それらは「雨が降る」を意味する。象徴化は制度的事実を課すこと の他の形式に本質的である。第3章で説明しようとした理由で、私たちは言葉や象徴な しに権利、義務などを課すことができない。 2.義務論的力:権利と義務の創出 義務論的力をもつことの要点は、人々の関係を規制することである。このカテゴリーに おいて、私たちは権利、責任、義務、責務、特権、資格、罰、権威、許可、その他義務論的 現象を課す。一般に地位 Y が力を与える(否定する)という以前の示唆に関して、その 明白な仮説はそのような地位-機能のふたつの広いカテゴリーがある。第一のものは 行為者が、さもなければすることができない何かをする力、資格、権威、権利、許可、免 許を与えられる場合である。そして第二のものは、行為者がさもなければしなければな らない - あるいは同じことだが、さもなければすることができた何かをするのを妨げら れらる - 何かをすることを要求され、義務付けられ、義理に縛られ、罰せられ、命じられ る、さもなければ強制される場合である。大雑把に言って、二つの主要なカテゴリーは、 肯定的および否定的力のそれである。ラベルを貼るなら、すべての義務論的地位-機 能は「慣習的力」(conventional power)の問題と言いたい。その用語法は、たとえも ちろん両者が分かちがたいとしても、ナマの物理的力から慣習的力を区別することを可 能とする。なぜならしばしば慣習的力を与える重要な点は、ナマの物理的力の使用を 承認することだからである。警察権力は明白な例である。 お金、政府、大学のような社会的なモノでなく、そのようなモノの中で活動する行為者 を分析することを第一のターゲットとするなら、その場合制度的現実のカテゴリーの大 分水嶺は、地位の割り当てが Y 項で特定される場合結果として、行為者が「できる」も のと「しなければならない」もの、行為者がするのを「可能にする」ものと「要求される」も のの間にある。これがそのいくつかの例である。 ジョンは銀行に1000ドルもつ。 トムはアメリカ合衆国市民である。 クリントンは大統領である。 サリーは弁護士である。 サムはレストランのオーナーである。 これらそれぞれは権利と責任を割り当てる。第一の例はジョンにそのお金で物を買った り、人を雇ったりする権利を割り当て、そのお金で稼いだ利益に税金を支払う義務を割 り当てる。第二の例はトムに他の多くの中で選挙で投票する権利を割り当て、他の多く の中で、社会保障番号を受ける義務を割り当てる。第三の例はクリントンに立法に拒否 権を割り当て、議会に一般教書演説をする責任などを割り当てる。また権利と責任を割 り当てる制度的事実はまた様々な方法で破壊ないし排除されることにも注意してほし い。 アンはお金をすべてなくした。 ルーブルにおけるイワンの富はインフレで無価値になった。 ニクソンは大統領を辞任した。 クーリッジの期限は切れた サムは離婚した。 サリーの夫は死んだ 3.名誉:それ自身のための地位 名誉(および不名誉)の重要な点は、それ以上の結果のためではなく、それ自身のため 価値付けられた(価値を剥奪された)地位をもつことである。例はゲームにおける勝負、 公的な名誉や不名誉の制度的に容認された形式である。いくつかの例はこうである。 マークは西部スキー大会で優勝した。 マッカートニーは合衆国上院で非難された。 ビルはコレージュ・ド・フランスでメダルを授与された。 地位-機能のこれら3つのカテゴリーのタイプに加えて、私たちは義務論的力と名誉 の条件ないし手続き的特徴を特定する必要がある。 4.力と名誉にいたる手続き的段階 制度内で、私たちは権利と責任ないし名誉と不名誉のいずれかに至る手続き的段階 を割り当てることができる。いくつかの例はこうである。 ビルはレーガンに投票した。 クリントンは民主党大統領候補に指名された 異議は裁判官に認められた。 投票の場合、人は投票する権利をもつが、その実際の投票は、それ自体何ら新しい 権利も責任も創出しない。投票の蓄積された集合が必要な多数をもつ、そのため新た な権利と責任をもつ勝者を決める。6票を獲得するのはフットボールで6ポイントを獲得 するのに似ているが、6ドルを手に入れるのには似ていない。6票と6ポイントは勝利へ にいたる手続き的段階だが、あなたはそれ以外何もできない。再び、ある大統領に指名 されるとき、人は候補として新たな権利と責任を獲得するが、候補が獲得したすべての 票は大統領に至る段階にあることと考えられる。 ――――――― ひとつの同じ制度的事実がこれまでの4つすべての特徴をもつことができる。そのため 民主党候補者になることは、指名された人に、ある権利と責任を指名を与え、それは大 きな名誉であり、大統領に至る手続き的段階であり、そしてすべてのものは第3章で説 明した通り、言葉や他の種類の象徴なしには存在しえない。 私はこれらの点をどのようにゲームのケースに適用するか示すことによって説明した い。ゲームはこの分析についてとくに役立つ対象である。なぜならゲームはより大きな 社会現象のミコロコスモスを提供するからである。ウィトゲンシュタインは、「ゲーム」と いう言葉には何ら本質はないと論じた。だがやはり - 野球、フットボール、テニスなど の ― 競争型のスポーツのような範例的なゲームにはある共通の特徴がある。それぞ れの場合、ゲームは勝とうと試みる目的を創出する何らかの障害に勝つ一連の試みか らなる。ゲームの両サイドは障害に勝とうとし、相手が障害に勝つのを妨げる。ゲームの 規則は、何が障害であるか、障害に勝つため何ができるか、また何をしなければならな いか、何をしてはならないかを決める。そのため、野球では、規則はバッターがボールを スイングすることを認めるが、スイングすることを要求しない。しかしスリー・ストライクを 取られたら、彼はバッター・ボックスを去らなければならず、誰か他のひとがバッターとな る。ゲームのほとんどの規則は権利と義務(特徴2)でなければならないが、全体の目的 は勝利(特徴3)であり多くの中間的段階は手続き的である(特徴4)。たとえば、権利と 義務のいくつかは条件的である。そのためもしバッターがスリー・ボール、ワン・ストライ クなら、それはここではどんな権利も義務もさらには与えない。ツー・ストライクをさらに 取られたら、彼はアウトであり、さらにボールを得たら、一塁ベースに行く。そのような条 件的権利と義務は制度的構造に典型的である。たとえばアメリカの大学は非常に長い 年月の勤務の後、あなたはテニュア(大学終身在職権)の地位を検討される資格があ る。 慣習的力の論理構造 前節の仮の分類に提起した問題をさらに探求するため、私はここで制度的事実の志 向的構造を確かめたいと思う。私の目的は、公式「X を C で Y とみなす」における X か ら Y へ移行する場合、地位-機能 Y の内容の一般的形式を述べようと試みることであ る。内容 Y は集合的受け入れによって要素 X に課されるため、これら集合的受け入れ (承認、信念など)に対する何らかの内容がなければならない。そして私はいろいろな ケースの大きなクラスについて、その内容が主体は何らかのタイプの行為あるいは行 為のプロセスに関係する慣習的力の様式をもつと私は示唆するつもりである。さらに、 集合的受け入れによってどんな種類の力を創出することができかには厳しい制限があ るため、非常に少数の形式で Y 項の内容の一般的形式を述べることができなければな らない。力は何かをする、あるいはつねに誰かが何かをさせる力でなければならないた め、力の地位-機能の命題内容はつねにおおむねこうである。 (S does A) (S が A をする)*訳注 この場合、「S」は個人や集団を指示する表現に置き換えられ、「A」は、我慢や断念 のような否定的な場合も含む、行為や活動の名前によって置き換えられる。 この考え方に続いて、私たちは X 項に課される集合的志向性のこの基礎的構造を 考える。X は C で Y とみなすは We accept(S has power(S does A)). S が A をする、力を S がもつことを、私たちは受け入れる。 形式的に言えば、人はこの構造で多くの活動を遂行する。そしてこれらの活動は、私 がしたいくつかの区別で例示される。以前言及したとおり、慣習には肯定的および否定 的の区別、「授権」(enablement)と「要件(要求)」(requirement)の区別がある。ま た「創出」(creation)と「破壊」(distruction)の区別もある。この例には、結婚と離婚、 任免と罷免の区別がある。さらに手続き的(procedural)と結果的(terminal)がある。 この例は一定の得票をすることと、選挙に勝つことである。そして勝利は選挙プロセス *訳注 以下の命題形式では構文形式が重要なため、先に英文で構文を明示し、訳を付す。 の結果である。また制度的事実の最初の創出とその後の維持の区別もある。私はこの 区別は次章で議論するつもりである。 つぎのように表現できる授権と要件のふたつの基本的様式を探求することで、これ らの形式的活動を研究することを始めよう。 We accept(S is enabled (S does A)). S が A を行うことを、S が授権されることを、私たちは受け入れる。 We accept(S is required (S does A)). S が A を行うことを、S が要求されることを、私たちは受け入れる。 権限付与・授権(enablement)のケースでは、私たちは集合的に何らかの個人や集 団に力を与える。要件・要求(requirement)のケースでは私たちは集合的に何らかの 個人や集団に力を要求する。 私が追求している仮説に関して、私たちがこれらすべての要素をひとつにするなら、 典型的に授権する慣習的力の基本的な形式、すなわち「X、この紙片を Y、5ドル紙幣と みなす」はおおむね次のとおりである。 We accept(S, the bearer of x, is enabled (S buys with X up to the value of five dollars)). S が5ドルの価値に相当する X で買うことを、X の所有者 S が授権されるのを、私たちは受 け入れる。 そして否定的慣習的力、すなわち要求のケースでは、たとえば「X,この紙片を Y、違 法駐車切符とみなす」、すなわち集合的志向性の基本的形式は、おおむね次のとおり である。 We accept (S, the person to whom X is issued, is required (S pays a fine within a specified period). S が一定期間に罰金を払うことを、X を発行された人 S が要求されることを、私たちは受け 入れる。 これまで私たちはたとえば、すでに5ドル紙幣や駐車券をもっている進行中の制度的 事実の形式を記述してきた。だが、これらの慣習的力は、それ自体創出されたり、破壊 されたりする。創出や破壊は、たとえば結婚と離婚のように、慣習的力の実行でありえ る。あるいはたとえば集団が次第に、公式の選挙や任命なく、リーダーとして誰かを受け 入れるようになるように、単純に成長するかもしれない。その行為が慣習的力の顕在的 な創出や破壊のひとつであるケースでは、それは通常それ自体、他の慣習的力、そう 創出するか破壊する力の実行である。自動車部局のような慣習的力ー創出組織が申 込者 S に運転免許を発行すると考えてほしい。集合的志向性の形式はなにか?私たち はそもそもシステム全体が働く周囲の社会の志向性から、組織の志向性を区別する必 要がある。周囲の社会の視点から、制度的力の創出の形式は We accept (The agency creates (S is enabled (S drives a car))). S が自動車を運転することを、S が授与されることを、当局が創出することを、私たちは受け 入れる。 慣習的力が破壊されるとき、否定は、集合的受け入れに働き、その受け入れの内容 に働くようには私には思えない。そのためたとえば S1 と S2 の結婚は解消されるが、そ の結果はこうである We no longer accept (S1 and S2 are married to each other). S1 と S2 が互いに結婚していることを、私たちはもはや受け入れない。 人は否定を加えた原始関数に関してすべての慣習的力を定義することが可能でな ければならないと考える誘惑がある。論理の他の文やで持った精巧がこの誘惑を励ま す。そのため様相論理では □(p)iff~◇(~p)*訳注 (It is necessaryily the case that p if and only if it is not possibly the case that not p) p でないことが可能的に真でない場合その場合に限り、pであることは必然的に真である また量化子論理では ∀x(fx)iff~∃x(~fx) (For every objeïct x, x has feature iff and only if there is no object x such that x does not have f) 対象 x が特徴 f もたない x がない場合その場合に限り、すべてのxについて、xは特徴fをも つ そして義務論のあるシステムでさえ *訳注 条件文(iff、if and only if、「の場合、その場合に限り」、必要十分条件)、様相論理(□: 必然、◇:可能、量化子論理(~:否定、∀:すべて、∃:ある)、義務論理(O:義務、P:許可) O(p)iff~P(~p) (It is obligatory that p if and only if it is not permissible that not p.) pでないことが許容されない場合その場合に限り、pであることは義務である そして「制度的」論理における携行する構造はないのか?なぜ次ではないのか? S is enabled (S does A) iff ~S is required (~S does A) (S is enabled to perform act A if and only if it is not the case that S is required not to perform act A.) S が行為 A をしないことを要求されない場合にその場合に限り、S は行為 A を遂行するこ とができる 一見して、並行関係は働かないようにみえる。なぜなら、何かをしない要求の欠如*訳注 はそれをする制度的授権をそれ自体では構成しないからである。古典的義務論におい て何かをしない義務の不在はそれをする許可と等価である。だが慣習的力にはそのよ うな明白に等価なものはない。なぜなら私はしないことを要求されない(すなわち、禁じ られていない)多くのものがあるかである。だが私はそれを志向的に権威付けられてい たり、授権されてはこなった。たとえば私がたとえ行わないことを要求されてきたことが 真でないとしても、起床し、部屋をうろつき、鼻をかみ、頭を掻くことを、志向的に授権さ れてはこなかった。 しかし、これらの問題について十分深く考えるなら、並行関係は完全に保たれている ことを理解できるだろう。その問題は範囲のそれである。慣習的力は、なんらかの創出 の行為かプロセスがある場合に限り存在する。だから、私たちは集合的力の創出操作 子の範囲内として制度的授権と要件の両方を考えなくてはならない。この二重条件を 理解する方法は、力の創出操作子の範囲内としてそれぞれの句を理解し、そのため様 相、義務、量化子論理にとって交換可能な法則間の並行関係が、制度的論理でも完全 に働くことを理解することである。そのため S is enabled (S does A) iff ~S is required (~S does A). S が A をし「ない」ことを、S が要求され「ない」場合その場合に限り、S が A をすることを、S は可能とされる。 が本当に意味することは We make it the case by collective acceptance that (S is enabled (S *訳注 意訳すれば「禁止されない」 does A)) iff we make it the case by collective acceptance that (~S is required (~S is required (~S does A)). S が A をし「ない」ことを、S が要求され「ない」のを、私たちが集合的な受け入れによって真 とする場合その場合に限り、S が A をすることを、S が授与されることを、私たちは集合的受 け入れによって真とする。 いくつかの例はその要点を説明する。大統領の力の中で、大統領が議会立法に拒 否する権限をもつことを真とする場合、大統領の権限の中で、そのような立法を拒否し ないことを要求されないことを、要件としないことを真とする。同様に、私が運転免許、 運転する許可を発行される場合、私は私は運転をしないことを要件とされないような地 位を獲得する。 この点で慣習的力の本質に関する、潜在的な重要な問題がある。慣習的力は何ら かの行為あるいは創出のプロセスがある場合に存在する。だから否定によって明記さ れた慣習的力の単なる欠如は、何らかの他の種類の慣習的力の欠如と等価ではなく、 公式に従って創出されるものとして理解するなら、ある力とその否定と関係で慣習的 力の両方の様式を私たちはなお定義することができる。ふたつの慣習的力の基本的様 式は、行為者に許可を課すものであり、行為者に要件を課すものであり、これらはお互 いとその否定との関係で規定することができる。 さらに、私たちは前もって存在した慣習的力を取り除くことに関連して力の破壊を定 義できる。たとえば雇用者が解雇される場合、裁判所が離婚を認める場合、それぞれ のケースで、前もって存在した慣習的力がその受入れを削除することによって破壊され ている。そのため「君はクビだ」は慣習的力の削除と等価である。 We remove the power (you are employed). あなたが雇用されている、力を私たちは削除する。 そしてそれは次と等価である We no longer accept (S has the rights and obligations (S acts as an employee)). S が雇用者として行為する、権利と義務を S がもつことを、私たちはもう受け入れない。 受け入れの内容の否定ではなく、むしろ集合的受け入れの否定としての慣習的力 の破壊の論理的構造に関する基本的議論は、それが慣習的力は通常そのような維持 を必要とする方法では、地位-機能の継続的維持を必要としないということである。そ のため結婚は離婚が行わない仕方で継続的維持を必要とする。 今度、制度的現実の論理的構造のこの議論に照らして、象徴的、義務論的、名誉 的、手続き的などの、私たちがした制度的事実の予備的分類はどこに置き去りにして いるのか?私はそれの分類が、うまく根拠付けられた分類としてして表現できないこと を示すと考える。なぜなら、大雑把に言えば、すべては義務論的であることになるからで ある。まず最初に手続き的なケースを検討してほしい。私が提示したすべての例は、繰 り返される義務論的及び名誉的地位-機能における段階のケースである。そのためた とえば、投票用紙に×印を付けることは、ある候補に投票することみなされ、票の多数を 得ることは、選挙で勝つこととみなされる。ボールにスイングし、逃すことはストライクと みなされ、スリーストライクを得ることはストライクアウトとみなされる。これらのケース で、手続き的地位-機能は条件的義務論的機能であり、条件を遡れば、その結果は制 度的現実の繰り返される階層における上昇である。そのため、たとえばワンストライクを 取られることは、条件的義務論的地位である。その力はツーストライクを取られたら、ア ウトであるということである。しかしあなたはさらにツーストライクを取られたらその場合、 新たな義務論的地位である、あなたはアウトである場合、そしてそのためあなたは制度 的事実の階層をに上昇する。しかし手続き的地位-機能が、条件的義務論的かつ名誉 的地位-機能に還元されるなら、また地位-機能の階層の繰り返しに関連して説明す ることができるなら、別の手続き的地位-機能クラスはない。 さて名誉的ケースについてはどうなのか?それは義務論的ケースの制限されたケー スとして考えるのが最善である。それ自体のため、付属する力のためでない、価値があ る地位は、地位-機能の制限されたケースである。名誉的ケースはある意味で、義務論 的ケースの退化のケースである、なぜなら通常地位-機能にともなう権利と義務は地 位がそれ自身のためにだけに価値をもったり、価値を下げたりする点に縮減したためで ある。問題は、名誉的ケースは本当に義務論的かは、ゼロが数か、あるいは空のクラス が本当にクラスかである。その問題は、事実問題についてではなく、決定に関する問題 であり、私はもっとも有効な決定は、名誉的なケースを別のカテゴリーとは扱わないと 示唆しているのである。 象徴的なケースもまた潜在的に義務論的の特別のケースである。なぜなら文の慣習 的意味の創出は、話し手がその文で発話行為を遂行する際に、力を創出する。そのた め結局私たちは4つの独立したカテゴリーをもたない。だがそれがすべてが義務論的 地位-機能であるなら、その場合用語「義務論的」はもはや適切ではない。なぜならそ れはもはや維持できない対照関係を表現するため設けられたからである。結論は論理 構造の視点から、私たちは象徴的、義務論的、名誉的、手続き的のカテゴリーは維持で きない。私たちは慣習的力を単に創出し、破壊した。これらの力の一部は象徴的であ り、一部は純粋に名誉的であり、一部は否定的であり、一部は条件的である。さらに一 部は集合的であり、一部は個人的であり、一部はナマの現象における地面に課され、 他はすでに慣習的力を持った資格に課される。主題の問題に関する限り、私たちは言 語的なケースのふたつの広範なカテゴリーを残している。ひとつは狭義に実際の文や 発話行為との関連で構成されるもの、ひとつはお金、財産、結婚、その他制度的現実の すべてを含む非言語的なものである。 結論 私たちの制度的現実の論理構造に関する議論は、次の仮説を指示する。私はそれ が真かどうか、また確実にそれを示したかどうかもわからないが、さらに探求し、これま で私たちが考慮しきたきたデータを説明する価値はある。 制度的現実が創出され構成される基本的論理的操作が確かにある。 We collectively accept, acknowledge, recognize, go along with etc., that (S has power(S does A)). S が A をする、力を S がもつことを、私たちは集合的に受け入れる、承認する、認める、従う など。 私たちはこの公式を次の通り略して書く We accept (S has power(S does A)). S が A をする、力を S がもつことを、私たちは受け入れる。 これを「基本構造」と呼ぼう。地位-機能の他のケースはブール代数の操作が基本 構造に遂行されるケース、その構造がそのような繰り返される構造のシステムの一部と して現れるケース、あるいは構造によって割りてられた「力」が純粋に名誉的なケースで ある。そのためたとえば、私が税金を支払う要求は基本構造の否定との関連で規定さ れる。 We accept (S is required (S pays taxes)) iff We accept (~S has pwer (~S pays taxes)). S が税金を支払わない、力を S がもたないことを、私たちが受けいる場合その場合に限り、S が税金を支払うことを、S が要求されることを、私たちは受け入れる。 野球でバッターがワンストライクを取られることは条件付けと基本構造の繰り返しの 問題である。 We accept (S has one strike) iff We accept (if S has two more strikes S is out). S がさらにツーストライク取られるなら、S はアウトであることを、私たちが受け入れる場合そ の場合に限り、S がワンストイラクを取られことを、私たちは受け入れる。 そして条件的地位-機能の前提を充足することは自動的に繰り返される地位-機 能のより高次のレベルへ構造を上る。そこでは慣習的地位が表現される。 We accept (S is out) iff We accept (S is required (S leaves the field)). [訳] S がバッターボックスを去ることを S が要求されるのを私たちが受け入れる場合そ の場合に限り、S がアウトであるのを私たちは受け入れる。 そして条件部分(iff~)は基本構造の否定に還元される。 We accept (~S has power (~S leaves the field)). S がバッターボックスを去ら「ない」、力を S がもた「ない」ことを、私たちは受け入れる。 基本的論理構造を可視化するため私はたいへん過剰に単純化している。バッター ボックスを離れなければならないだけ以外にも野球にはアウトであることに関連する多 くの特徴がある、たとえば、スリーアウトはチーム全体のアウトである、だが私が理解して もらおうとしている観念は、結局これらすべての特徴は慣習的力との関連で具体化し、 慣習的力は基本構造に関してバリエーションがあり、その繰り返しである。私は公式 X を Y とみなすにおける地位-機能 Y の志向内容の論理的特徴についての私たちの研 究が制度的現実の主要部分の莫大な複雑さが、かなり単純な骨格的構造を持つこと を示すことを始めた。私たちが扱わなければならない原初的装置を考えれば、これは驚 くことではない。だが、私がこれらの問題のそこに到達したと考えていると言う印象を与 えることを望まない。たとえ私がこれまでのところ正しいとしても、この議論は始まりに過 ぎない。 私はもともと当時のガイ・フォークス・デー*訳注の暴動に参加したオックスフォードの 学部学生1年のとき、これに気づくようになった。プロクター(学生鑑)やブルドッグ(オッ クスフォード大学警察)は、さほど危険ではない、実際の参加者に立ち向かうのではな く、受動的見物人である私を理解してくれたものだ。 *訳注 11月5日、17世紀の火災陰謀事件に由来する祭り ゲームに関するウィトゲンシュタインへのこの解答は私が発明したのではない。私は 誰かそれを考え、どこで私がそれを聞いたかわからないが、それは口承の一部となっ た。 そしてこれらの概念は第2章で説明を試みた方法で具現化するため、すなわち循環 は排除せず、それを拡大することによって具体化するため、志向内容の説明における 「買う」とか「5ドルの価値」のような制度的概念の使用の明白な循環に懸念は無用で あることを思い出したほしい。 第5章 制度的事実の一般理論 第2部: 創出、維持、階層 制度的事実の創出と維持 第4章で、私たちは制度的事実の論理構造を探求した。この構造の説明を手に入れ て、今や制度的事実の創出、維持、同一化の一般理論を述べるのに十分な素材をもっ ている。一般理論の陳述において私は前の章の素材を拡張するため、その一部を要約 するつもりである。この説明において、私たちは4つの要素を区別する必要がある。制度 的事実の創出におけるその使用、それらの継続的存在、それらの表示である。 第一に、社会的事実とナマの事実から制度的事実の創出を許可する「制度」があ る。そのような制度は、公式「X を文脈 C で Y とみなす」をもつ構成規則(実践 prctice;手続き procefure)に存在する。この公式について神秘はなにもない。そして 私はそれを物心的に盲信するのは望まない。要点は、集合的志向性が何らかの現象に 特別な地位を課すということである。そしてその課すという構造を表現するための公式 を私は必要とする。Y 項は X 項で示される現象に新たな地位を課し、新たな地位は X 項で示される本来的に物理的な特徴によってだけでは、遂行することができない機能 をそれで実行する。その機能は遂行されるため地位を必要とし、地位は対応する機能 をともなう地位の継続的受け入れを含む集合的志向性を必要とする。通常関連する機 能は、地位を示す表現に暗黙に定義されている。そのためたとえば「お金」によって記 述される地位は、すでに他の物の中で交換媒体である機能を含意している。時には問 題の機能がその地位表現によって非常に一般的にしか特定されないか、含意されない 単一の特定の機能ではなく、機能の全範囲が含意されるかもしれない。そのためたと えば、夫や市民であることの地位は、それとともに全範囲の機能と関連付けられ、異な る社会は夫や市民の権利と義務において根本的に異なることがあるだろう。これらの ケースさえ、特定の制度的地位を持つものとして、評価のカテゴリーが、さもなければ不 適切な地位の記述の下、適切な事実によって示されるものとして、モノの記述がもたら す機能的な含意をもつ。夫や市民であることはすでに「よい」または「悪い」夫ないし市 民であることの可能性をもっている。 機能の概念を使うことで、もちろん私は社会学的研究における何らかの種類の「機 能分析」や「機能的説明」をすることを意図していないのを指摘しておく価値はおそらく あるだろう。私が議論している機能は、対応する地位と内的に関係する。そのため一般 にその地位の陳述は、瑣末に対応する機能を含意する。何かがお金であるということ は、定義により他のものの中で、それがお金として交換媒体などとして機能することを 含意する。 制度内で、私たちは3つの要素を区別する必要がある。制度的事実の最初の「創 出」、その継続的「存在」、地位表示子の形式でのその公式の(通常言語的な)「表 現」。 通常、進行中の制度的事実を創出する出来事は財産を売ること、選挙、結婚式、宣 戦布告、議会の開会、法の採決、憲法の採択などである。これらはしばしば、つねにで はないが、顕在的な遂行的宣言、たとえば「私は議会の開会を宣言する」「ここに宣戦 布告する」「私はあなた方を夫婦と宣言する」などを含む。進行中の制度的事実存在は 「これは私の妻です」「議会は開会中です」「私はその財産を所有しています」「私は オックスフォード大学の卒業生です」のような文で記述される。制度的事実の公式の言 語的表現の典型的な例は、婚姻証明書、不動産証明書、大学卒業証書、公式の制服、 メダル、運転免許である。 これらを順にそれぞれ検討しよう。 制度的事実の創出 制度的事実の創出のもっとも単純なケースは制度的構造がすでにある低次の行為を 高次の制度的現象とみなすことを保証する場合である。明白な例はゲームや発話行 為である。ある木片の特定の動きをすることは、チェスのゲームでナイトをビショップ5 に動かすこととみなされる。特定の文脈で、それはまたあなたのキングを詰むこととみな されるかもしれない。適切な環境で、意図的に「私はあなたと会いに来ると約束する」と 言うことは、あなたに会いに来ることを約束することとみなされる。プレイが続行中ボー ルをもってゴールラインを横切ることは、タッチダウンを獲得することとみなされる。そし てその他多くのケースがある。複雑なケースはあるタイプの制度的事実が、その遂行が それ自体制度的事実である行為によって創出されることを必要とする。そのため、新た な財産権の創出は、通常たとえば売買の行為や贈与の行為を必要とする。これらすべ てのケースで、新たな地位-機能は、すでに地位-機能が課された現象に課される。制 度的事実の創出このタイプの特別なケースは、顕在的な遂行的発話の使用である。そ のようなケースで、新たな地位-機能は地位-機能を課す機能である発話行為に課さ れる。そのため、議会の議長が「ここに議会の開会を宣言する」と言うとき、新たな地位 -機能が、議会が開会中であることを真とする地位-機能である発話行為に課される。 しかし結果として、人々の実際の集会は今度それに、地位-機能、開会中の議会である それを課す。そしてそれ自体法律を採択する能力をもつ。原則的に、課された地位-機 能に地位-機能課す、このタイプの繰り返しに上限があるようにはおもえない。そのた め、選挙における投票者の選択の個々の表明は、選挙での投票とみなされる。そのよう な一連の発話行為は、当局によって資格づけられた場合、選挙とみなされる。十分な数 の投票を得ることは勝利とみなされる。勝利と宣誓をすることは市長になることとみな される、ひとつの一般原則はこうである。新たな制度的地位が大きな重要性ともつ程度 に従って、私たちはそれが厳格な規則にしたがって遂行される顕在的な発話行為に よって創出されること必要とする傾向が強くなるということである。そしてこれらの発話 行為はそれ自体制度的事実である。そのため「宣言」されたため、戦争は行われ、結婚 したため、私たちは夫婦であり、クリントンは選出され、宣誓したため大統領である。通 常その創出に発話行為を必要とする制度的事実はまた、長期間にわたり持続している ため、発話行為なしに、存在するようになる。そのためそう規定するため「事実婚」は結 婚式なしに存在するようになるかもしれないし、財産権は販売したり、譲渡することなく 「不法占拠」によって移転するかもしれない。 制度的事実の継続的存在 制度的事実の継続的存在を理解する秘密は、単に直接関与する諸個人や関与するコ ミュニティの十分なメンバーがそのような事実の存在を承認し、受け入れ続けなければ ならないということだけである。地位はその集合的受け入れによって構成されるため、 機能は、遂行されるため、その地位を必要とするため、地位の継続的受け入れがあるこ とはそれが機能することに本質的である。たとえば、社会のメンバーのすべて、あるいは 大半が、革命や他の大変動で財産権を承認することを拒否すれば、財産権はその社 会で存在することをやめる。 私がこの本を書いている時代のもっとも魅力的な ― そして恐ろしい ― 特徴のひと つは、世界中の大規模な制度構造の受け入れと着実な侵食である。民族的部族主義 (ethnic tribalism)のため、国民的(national)統一の破壊が、ボスニア、カナダ、旧 チェコスロバキア、トルコ、そして多くのアメリカの大学のような様々な場所で起こった。 一部のアフリカ諸国では、どこで軍が終わり、どこで軍の結成が始まり、あるいは誰が 「軍指導者」で、誰が「ウォーロード」(地方武装集団指導者)なのか判別する方法はな い。ロシアにおいて不安定は ― たとえば国家、軍、秘密警察、組織犯罪などについて ― 今自信をもって言ったかもしれないどんなことも、これを読んでいるときには時代遅 れになっていそうだということである。これらすべてのケースにおける誘惑は、結局ナマ の事実が、制度的事実につねに優越するということが、最も多くの武力をもつものにす べて依存していると考えることである。だがそれは現実には真ではない。銃は他の者た ちと協力して、そして非公式であっても、承認された権限と指揮の布陣に組織されて、 行使する準備をしていなければ効果はない。そしてそのすべては集合的志向性と制度 的事実を必要とする。 今世紀の最大の幻想のひとつは、「政治権力は銃口から生まれる」ということであ る。実際には政治権力は組織、すなわち体系的な地位-機能の体系的な配置から生ま れる。そしてそのような組織で、銃を持つ不運な人はもっとも権力がなく、もっとも危険 にされされる者でありがちである。現実の権力は、デスクにすわり口から雑音を出した り、書類に印をつける人に帰属する。そのような人は通常、最大の場合ですら儀礼用の ピストルや式服の剣以外の武器はもたない。制度は受け入れにもとづいて存続するた め、多くのケースにおいて、承認を確保し、受け入れを維持するため、威信や名誉の精 巧な仕組みが実施される。第二次大戦中と戦後のフランスに関わるシャルル・ド・ゴー ルの振る舞いは、これらの点の継続的説明となるものであった。フランスの名誉と威信 を継続的に主張することによって、大戦間独立フランス政府が継続して存在するふりを することによって、そして他の国家指導者たちが彼を等しい立場であることを認めるよう 継続的に主張することによって、ド・ゴールはなんとかフランス国民国家を再生し維持し た。そしてその点は完全に一般的である。制度がその力によって得られる以上の参加 者を必要とする場合、同意が本質的である場合、公式「X を C で Y とみなす」を単に受 け入れる以上の何かが起きていることをほのめかすような方法で大量の虚飾、式典、 華やかさが使われる。軍、裁判所、程度は低いが大学などは、式典、徽章、法服、名誉、 階級そして音楽さえ、組織の継続的受け入れを励ますために用いる。監獄はこれらの 装置をあまり必要としない。なぜならナマの暴力をもっているからである。 制度が存在しない状況に制度的事実を創出するひとつの方法は、あたかも存在した かのように行為することである。古典的な例は1776年の独立宣言である。それによって イギリス直轄植民地における国王の人民の集団が遂行的発話行為によって独立を創 出したという、公式「X を C で Y とみなす」の制度的構造は存在しない。建国者たちは あたかもフィラデルフィアの会議が、ある宣言的発話行為 X を遂行することによって、 独立の制度的事実 Y を創出する文脈 C であるかのように行為した。彼らはこれをやっ てのけた。つまり彼らは、地元のコミュニティの支持とヨークタウンでコーンウォーリス卿 の降伏を勝ち取った軍のため制度的事実を創出し受け入れを維持した。 公式「X を Y とみなす」はその現象の創出にも継続する存在にも両方に適用される。 なぜならその構成的規則は事実を創出する仕掛けであり、一般に事実の存在は既に 創出された、まだ破壊されていないことによって構成されるからである。そのため儀式を 行うことは、「結婚したこと」とみなされ、結婚したこと、その後死んでおらず、離婚してい ないこと、あるいは結婚が破棄されたなかったことは、「結婚していること」とみなされ る。「私は議会の開会を宣言する」と言うことは、「議会を開くこと」とみなされ、議会が 開かれ、その後閉会されないことは「議会は開会している」とみなされる。 地位表示子 制度的事実は人間の合意によってのみ存在するため、多くのケースで、それは公式の 表現、私が前に地位表示子(status indicator)と呼んだものが必要である。なぜなら 制度的事実の存在は、その状況のナマの物理的事実から一般に読み取ることができ ないからである。戦争は、ナマの事実 ― 大規模に人々がナマの殺し合うこと ― が通常 公式の表示子を不必要とするという明白な理由のため例外である。お金は追加の文 書を必要としない。なぜならそれ自体が文書だからである。それは「1ドル」とか「1ポン ド」などであると紙幣上で言う。無文字社会でさえ、コインはそれ自体たやすく認識可 能であり、そのため形や大きさのような特徴がそのモノがコインであるという慣習的事 実を記し付ける。株や証券はクレジットカードや小切手同様またそれ自身語る。同じよう に、発話行為はその言語がわかる者にとって自己同一的である。 複雑な社会で、ありふれた表示子はパスポートや運転免許である。それらは外国で の出入国の法的な資格ないし運転の法的な資格があるものとして、その持ち主の地位 を指示する。地位表示子のためもっとももっともありふれた表現は手書きされた署名で ある。文書に署名することは、新たな制度的事実を創出することができるが、手書きさ れた署名の継続的存在は、他が等しいなら、事実の継続的存在を指示する。文書上の 署名は、実演的なもの(the live performative)が地位表示子としてその役割を演じ ず、それゆえ演じられない仕方で存続する。地位表示子の機能はつねに「認識論的」で ある。すでに構成されたものを「同定する」言語の役割から、私が第3章で記述した制 度的事実を構成する言語の役割を、たとえ同じ言葉ないし同じ象徴が両方の役割を果 たしえるとしても、私たちは区別する必要がある。私が地位表示子について語るとき、こ の後者の役割を記述しているのである。 一部の地位表示子は顕在的に言語的である必要はない。すなわち実際の言葉であ る必要はない。もっとも明白な例は結婚指輪と制服である。だが両方ともそれにもかか わらず言語のようである仕方で象徴的である。そして結婚指輪や制服を身につけること は、あるタイプの発話行為を遂行する。そのような表示子は認識論的機能しか果たさな いのではなく、他の機能 ― 表現的、儀式的、美的、そしてもっとも重要なものとして、構 成的機能を果たす。もちろん制服は警察官を構成しないがその地位-機能を象徴す る。そしてその象徴化は何らかの形式で地位機能の存在に本質的である。この本を通 じて、私は制度的事実における言語は現実について、記述的なだけでなく、構成的であ ることを強調しようとしてきた。 事実の階層:ナマの事実から制度的事実へ 私が与えてきた説明には潜在的な階層的分類があり、今度はそれを顕在的にした いと思う。最高裁判所の決定や共産主義の崩壊の世界は、惑星の配列の世界や量子 力学における波動関数の崩壊の世界と同じ世界である。この本の目的のひとつはそれ がどのようにそうであるか、どのように制度的世界は「物理的世界」の一部であるかを 示すことである。階層的分類は単一の物理的実在内部における社会的、制度的、精神 的現実の場所を示すことである。しかしそのような分類を構築することは単純な作業で はない。なぜならいくつかの異なる交錯する区別が認められなければならないからであ る。若干の躊躇をもって、私は図5.1で異なるタイプの事実の階層的関係の単純化した バージョンを提示する。ナマの事実と制度的事実の元々の区別はここでは克服され、 次のさらなる区別の集合内に吸収されなければならない。 図5.1(特定のタイプの)事実の階層的分類 事実 ナマの事実 (エベレスト山に 雪がある) 精神的事実 (私は痛い) 志向的 (私は水が飲みたい) 非志向的 (私は痛い) 集合的=社会的事実 (ハイエナが ライオンを狩る) 単数 (私は水が 飲みたい) 機能の割り当て (心臓が血液を 送り出す) 非行為者的機能 (心臓が血液を 送り出す) その他 (ハイエナが ライオンを狩る) 行為者的機能 (これはネジ回しだ) 因果的行為者的機能 (これはネジ回しだ) 言語的 (これはお金だ) 因果的行為者的機能 (これはお金だ) 非言語的 (これはネジ回しだ) 第一レベル、多くの異なる種類の事実の中で、エベレスト山頂は雪と氷で覆われて いるというような非精神的なナマの事実と、私は痛いとか私は水を飲みたいというよう な事実のようなすべての種類の精神的事実を区別する。私は古いデカルト主義の用語 を好まない。なぜなら精神的と物理的の対立を含意するように見えるからである。だが デカルトの形而上学を忘れることができるなら、これを「非精神的なナマの物理的事 実」と「精神的事実」と呼ぼう。私はこれらのカテゴリーがすべての種類の事実を組み つくすと含意しようとは思わない。たとえば数学的事実があるなら、それはこの分類に は含まれない。 第ニレベル、精神的事実のクラス内で、今水を飲みたいというような志向的事実と、 私は今痛いというような非志向的事実を区別する。 第三レベル、志向的事実のクラス内で、私は水を飲みたいという事実のような、単数 的志向的事実とそれらのハイエナたちがライオンを攻撃しているというような集合的志 向的事実を区別する。定義により、私は集合的志向的事実のすべての唯一のケースは 社会的事実であるため、表現「社会的事実」を使用するつもりである。制度的事実はそ の場合社会的事実の特別なクラスであり、私たちの問題はこの下位クラスを定義する 特徴を正確に特定することであった。 二項対立の一部は単数にも同様に適用されるが、今後私はほとんど社会的事実に 取り組むつもりだ。たとえばモノに機能を課すことは単数的にも集合的にもありえる。 第四レベル、志向的に個人的と集合的の両方で、たとえば「これはネジ回しだ」と伝 えられるような「機能を割り当てる志向性のそれらの形式」と、たとえば「私は水を飲み たい」と伝えられるような「他のすべて」を区別する。機能の割り当ては「機能的事実」を 創出する。 これはネジ回しだという事実が、たとえ認識論的に客観的でも、存在論的に主観的 である精神的事実のカテゴリーに入ると言うのは奇妙に聞こえることはわかる。だがこ れはすべての機能的属性の観察者相関的性格から帰結する。さらにすべての機能の 割り当ては最終的にナマの事実になされるため、この分類のは私たちの第一レベルの ナマの物理的事実の存在に差し戻される。場合によっては、機能は他の機能に課すこ とができる。だが最終的にそのような階層はナマの事実の底に達しなければならない。 (図5.1を見よ。) 一般的に、割り当てられた機能の階層はナマの「物理的」現象の底に達する。だが、 精神的現象の底に達することができない理由は原則的にない。たとえば、私はある精 神状態の発生をあるタイプの狂気とみなすと決めることができるかもしれない。そのよ うなケースで、X を Y とみなすが、表現 X は精神現象を指示する。 第五レベル、機能的事実のクラス内で、たとえば心臓の機能は血液を送り出すこと だというような「非行為者的機能的事実」と、たとえばハンマーの機能は釘を打つ事だ というような「行為者的機能的事実」を区別する。課された機能は人工物だけでなく自 然現象にも割り当てられる。「その石はよい文鎮だ」と「それは美しい日没だ」の両方共 自然現象に機能を課すこと記録し、評価する。 さらに人が日没のような自然現象に行為者的機能を「課す」ことができるのとちょう ど同じように、人は人工物に非行為者的機能を「発見」できる。たとえばあなたが明らか なものと隠れたものの区別を受け入れ、隠れた機能は意図されないと考えるなら、その 場合は制度の隠れた機能の発見は、人工物の非行為者的機能の発見である。そのた めたとえばお金の意図されざる隠れた機能は抑圧システムを維持することだと考える なら、その場合あなたはお金の行為者的地位-機能のなかに非行為者的機能を発見 したと主張するだろう。 第六レベル、行為者的機能のカテゴリー内で、私は「因果関係や他の現象の ナマの特徴によってのみ遂行される機能と集合的受け入れの方法によってのみ 遂行される機能」を区別する。行為者的機能の制度的事実への発展における重 要な要素は、その物理的性質が機能の遂行を保証するには不十分である現象 に機能を集合的に課す場合、またそれゆえ機能が集合的受け入れないし承認 の問題としてだけ遂行できる場合に生じる。これらの「地位-機能」は、行為者的 機能の下位カテゴリーを構成する。既存の地位機能のクラスは制度的事実のク ラスと同一である。 本来的な物理的構造によって遂行される行為者的機能の例は、「それはバスタブ だ」とか「これはネジ回しだ」と示される。地位-機能(=制度的事実)の例は「それは2 0ドル紙幣だ」とか「彼は弁護士だ」と示される。 第七レベル、地位-機能のカテゴリー内で、制度的事実を分類する多くの方法があ る。これらはある種類を他の種類から区別する交錯する基準である。私はそれらすべて を図示することはできないが、そのうちの一部はこうである: a) 私たちは主題によって制度的事実を区別できる。私たちは言語的、経済的、政治 的、宗教的などの制度的事実を区別できる。私たちの目的にとってもっとも重要な主題 の区別は、言語的と非言語的との区別、文“Es regmet”は「雨が降る」を意味すると いう事実と、ビル・クリントンはアメリカ合衆国大統領選挙で選ばれたという事実の区 別である。 b) 私たちは時間的地位によって制度的事実を区別できる。私たちは制度的事実の最 初の創出(たとえばクリントンは1993年大統領になった)、その継続的維持(たとえば、 クリントンは1993年大統領であった、議会は開会中であるなど)、そしてその任期満 了、衰退、あっという間の崩壊によるその最終的停止(たとえばビザンチン帝国は145 3年崩壊した)を区別できる。 c) 私たちは論理的操作によって制度的事実を区別できる。第4章で、私はその基本構 造が次の構造に従って課された力のひとつであることを示唆した。 We accept (S has power (S does A)). S が A をする、力を S が持つことを、私たちは受け入れる。 このような基本構造は、たとえば「サリーは20ドルをもっている」あるいは「ジョーンズ は私たちのリーダーだ」によって示される。だが基本構造において遂行される否定や条 件付けのような論理的操作がある。たとえば制度的事実の内容における力の否定は 「サリーは私に20ドル借りている」であり受け入れの否定は「ジョーンズはリーダーでは なくなった」であるだろう。 第八レベル、いったん言語的、非言語的制度的機能の両方をもつなら、私たちは機 能の最上位に機能を繰り返すことができる。あるレベルの Y 項はたとえ最高のレベル であっても次のレベルの X 項ないし C 項であることができる。そのため X 1としてのし かじかの発語は文脈 C で約束 Y1 とみなされる。しかしある状況 C2 の下で、まさに約 束 Y1=X2 は法的に拘束された契約 Y2 とみなされる。X3 としての特定の行為はその 不履行 Y3 とみなされうる。不履行 Y3=C 4の文脈において、X4 として一連の法的措 置は、成功した訴訟とみなされ、このため不履行の救済ないしそれに対する補償の機 能をもつかもしれない。そのような繰り返しが最高レベルの制度的事実を創出する。 制度的事実と能力のバックグラウンド 私はときどきあたかも機能を集合的に課すことがつねに熟考された行為や行為の 集合の問題であるかのように語ってきた。だが、立法が採択されとか、協会がゲームの 規則を変更するなどの特別のケースをのぞいて、制度的事実の創出は、通常自然の進 化の問題である。そして低次の現象に機能 ― 地位であろうと他のタイプの機能であろ うと ― 顕在的に意識的に課す必要はない。私がお金について語ったストーリーがこの 点を説明する。お金は私たちが気づかない仕方で漸進的に発展した。ある晴れた日、 私たちが全員で紙片をお金とみなすと決めたというのは真ではない。そうではなく、集 合的志向性が取る形式が、私たちが交換の媒体として約束手形を受け入れ始め、集 合的にそれを受け入れ続けたということである。一部のケースは顕在的志向性が関与 しているが、それは私にはたったひとつのタイプにしかみえない。あるモノに機能を課す ひとつの方法は、単にそのモノをその機能を遂行するため使いはじめることである。あ る機能をもつ実体の「使用」の前提は、しばしば単に当然のこととみなされているバック グラウンド現象の形式にある。さらに機能が志向的に課す集合的行為に割り当てられ ているケースでさえ、問題の実体の引き続く使用はもともと課した志向性をもつことを 必要としない。ある人やおそらくある人々の集団が道具、たとえばネジ回しやハンマーを 発明すると言える。そのようなケースで、彼らは集合的な志向性によってある機能を課 した様々な仕掛けを創出する。だが続く世代は単にネジ回しやハンマーをもつ文化で育 つだけである。彼らは決して集合的志向性を課すことについて考えはしない。彼らはそ れらをある役に立つ道具のタイプであることを単に当然のこととするのである。いったん 集合的志向的行為において顕在的に機能を課されたものは今度はバックグラウンドの 一部と仮定される。第6章で、私たちはバックグラウンドとその社会現象の因果的説明 への関係を探求するだろう。機能は、つねにナマの現象に最終的に割り当てられる。こ のため「機能の割り当て」から「ナマの物理的事実」への道がある。 第6章 バックグランド能力と社会現象の説明 構成的規則と因果関係 人間の制度の構造は構成的規則の構造だと私は言った。また制度に参加している 人々は通常その規則に意識的でないとも言った。しばしば彼らは制度の性質に誤った 信念を持ちさえする。また制度を創出したまさにその人たちさえ、その構造に気づいて いないこともある。これらの条件の下、このような規則は、制度に参加している人々の実 際の行動に、いったいどんな因果的役割を演じることができるのか?制度に参加してい る人々が規則を意識しておらず、意識的にせよ無意識的にせよ、それに従おうとしてい るようにみえないなら、また実際制度の進化を創出し、参加しているまさにその人たち が、規則の体系に完全に無知かもしれないなら、その場合その規則はどんな因果的役 割を演じることができるのか? その規則は一般に成文化されておらず、言語学者、議員、法律家が多くの規則を成 文化する自然言語や財産のようなケースでさえ、私たちはほとんど、これらの成文化を 意識していない。そして私たちが意識している場合でも、成文化は自己解釈的ではな い。私たちは成文化された規則の解釈法や適用法を知らなければならない。 この問いに対する標準的解答は、認知科学や言語学の文献で与えられている。私 はこの章の中でこの解答を拒否するつもりである。標準的解答はこうである。もちろん 私たちはこれらの規則に従っているが、私たちは「無意識に」そうしている、というので ある。事実、多くのケースで、規則は意識「できる」種類の規則でさえない。たとえばチョ ムスキーは、その普遍文法の説明で、子どもは既に先天的に普遍文法の規則を所有 するためにのみ、特定の自然言語の文法を学習できると言う。そしてその規則は非常 に深く無意識であるため、子どもが規則の働きを意識することは決してない。1 この手 法は、認知科学で非常にありふれている。フォーダーは、どんな言語でもそれを理解す るためには、私たちは皆、思考の言語を知らなければならないと言う。2 そしてこの言語 は非常に深く無意識的なため、私たちはその働きに決して意識的になることができな い。私はこのような説明にたいへん不満である。フロイト以来、私たちは自分が言おうと していることを正確に説明することを犠牲にすることなく、無意識的精神についてもっと もらしく語るのに役立ち、便利であることを知った。無意識的精神状態の図式は、意識 がないだけの意識状態のようであるということだ。しかし正確にそれが言おうとしていこ とは何なのか?私はその問題に対する満足できる解答を見たことがない ― 確実に チョムスキーやフォルダーにはない。そしてフロイトにさえない。大雑把に言えば、私は 認知科学における無意識への訴えのほとんどにおいて、私たちが本当に何について 語っているのかはっきりした観念を私たちはもっていないのである。3 しかしこの章で私は第一に私たちの現在の説明モデルの限界と別の形式の説明を 提案すること関わる。その規則を知らず、意識的にか無意識的にか、その規則に従って いないケースにおいて、私たちが言語、財産、お金、結婚などのような規則構造にどのよ うに関係するかを説明するため、私は別の場所で「バックグラウンド」(Background/ 背景能力)と呼んだ概念に訴えなければならない。4 この章は二部からなる。第一部 で、私はバックグラウンドとそれがどのように働くかについていくつかの一般的な見解を 述べる。第二部で私は第一部で述べた原則を制度的現実に適用する。 バックグラウンドとはなにか、それはどう働くか 心の哲学と言語の哲学における諸問題についての私の著作で、私はバックグラウン ドのテーゼと呼んだものについて論じてきた。志向状態はそれ自体は志向的現象をも たない一群のバックグラウンド能力がある場合にのみ機能する。そのため、たとえば信 念、欲求、諸規則は、それ自体は志向的現象をもたない一群の能力がある場合にのみ ― 信念のについて真理条件、欲求に関する実現条件など ― 充足条件が決まる。私は そのため、機能の志向状態を可能にする一群の非志向的な、あるいは前志向的的能 力として「バックグラウンド」の概念を定義してきた。しかしその定義において、4つの異 なる概念がある。「能力」(capacities)、「可能にする」(enabling)、「志向状態」 (intentional states)、「機能」(function)である。 「能力」によって、私は、できること(ability)、性向(disposition)、傾向 (tendency)、「因果的構造一般」を意味している。バックグラウンドについて語るとき、 私たちは神経生理学的因果関係の特定のカテゴリーについて語っていと理解するの が重要だ。私たちは神経生理学的レベルでこれらの構造がどのように機能しているか わからないため、それをかなり高次で記述せざるをえない。それについて何もいかがわ しい点はない。たとえば私は英語が話せると言うとき、私は自分の脳の因果的能力に ついて語っている。しかし、能力、たとえば、神経生理学的実現の詳細を知らなくとも 「英語を話せること」を同定するのに何ら反対もない。 「可能にすること」は因果的概念であることを意味する。私たちは可能性の論理的条 件について話しているのではなく、ある種の志向的現象の産出で因果的に機能する神 経生理学的構造について話しているのである。 「志向状態」:志向性が多くの論争の的であることは知っているが、この議論のため には問題の余地はないと考える。特に、すべての志向状態が実際にか、潜在的にか意 識であるということを示す私の議論が確実な根拠があると考える。5 そのため私は議 論を志向性の意識的形式に限定する。 最後に「機能」:私たちはバックグラウンドの様々なタイプの働きがあることを手短に 見る。私は様々な可能にすることについての一般的見出しの下にこれらの説明を試み る。 バックグラウンドのテーゼのもっとも単純な議論は、どんな文の字義通りの意味も、そ れ自体、文の意味論的内容の一部ではない能力、性向、ノウハウなどのバックグランド に対してのみ、その真理条件や他の充足条件文の意味論的内容を決定することがで きるということである。少しでも文について考えるならば、あなたはこれを理解できるが、 しかし、もっとも明白なのは単純な動詞「切る」「開ける」「成長する」を含む文である。た とえば「サリーがケーキを切る」とか「ビルが草を切る」とか「洋服屋が布を切る」のよう な文の言葉「切る」の実例を考えてほしい。あるいは「アメリカ経済が成長する」とか「私 の息子が成長する」とか「草が成長する」のような文の動詞「成長する」を考えてほし い。これらの文それぞれの標準的な字義通りの発語で、それぞれの動詞は同じ意味を もつ。語彙的曖昧さも関連する隠喩的な用法もない。だがそれぞれのケースで、同じ動 詞が一般に異なる真理条件、ないし充足条件を決定する。なぜなら、切ること、成長す ることとみなされるものはその文脈で変化するからである。「草を切ろ!」と言う文を考え るなら、あなたは「ケーキを切ろ!」とは違ってこれは解釈されるのがわかる。誰かが私に ケーキを切れと言い、私が芝刈り機をもって走ったなら、誰かが私に草を切ろといって、 私がナイフで切るなら、私がやれと言われたことをしなかったという非常に日常的な意 味がある。しかし、それらの文の字義通りの意味には、それらの誤った解釈を妨げるの もは何もない。どのケースでも、たとえ字義的意味が同じでも動詞は異なって理解され る。なぜならそれぞれのケースで、解釈はバックグランドの能力に依存するからである。 私はバックグラウンドを支持する議論をここでは広げようとは思わないが、その現象 が幅広い訴求力があることを協調したい。「彼女は彼に彼女の鍵をあげた。そして彼は ドアを開けた」(She gave him her key and he opened the door.)というような言 語学の語用論でよく議論される文例を検討してほしい。話者がその文を発語する時、 彼が「その鍵で」(with key)ドアを開けると実際言った(あるいは単に含意した)かどう か、彼が実際に彼女が「まず」(first)彼に鍵をあげた「あと」(then)彼がドアを開けたの かどうかについて多くの議論がある。しかしこの文の字義的意味によって言われること に一定の語用論上の過小決定(underdetermination/決定不全)があることは一 般に合意されている。6 私はその文の字義通りの意味によって言われることの「根本 的な」過小決定があると言いたいのである。「彼女は彼に鍵をあげた。そして彼はドアを 開けた」と言う文の字義通りの意味に次のような解釈を妨げるものはなにもない。彼は 彼女の鍵でドアをぶん殴ることによって、彼女の鍵でドアを開けた。その鍵の重さは200 ポンドあり、斧のような形をしていたのである。あるいは彼はドアと鍵を両方飲み込み、 腸の蠕動収縮によって鍵穴に鍵をさした、など。 このあるいは他の文の字義通りの解釈をなお除いて、とどまるところを知らないバカ バカしい例を作り出すことはあなたの想像力におまかせする。そしてその要点は、それ ら解釈を妨げる唯一のものは、意味論的内容ではなく、単にあなたが世界がどのように 働くかについてのある種の知識をもっており、あなたは世界を扱うための一定の能力を もっており、その能力はその文の字義的意味の一部として含まれず、含まれえないとい う事実だということである。 バックグラウンドのテーゼは意味論的内容から志向内容に一般に拡張することがで きる。どんな志向的状態も、志向内容の一部ではない、その内容の一部として含まれえ ない一群ののバックグラウンドの能力や性向、傾向に対してのみ、機能する、すなわち 充足条件を決定する。 バックグラウンドの私の議論は、現代哲学の他の議論に関連している。私はウィトゲ ンシュタインの後期の著作の多くは、私がバックグラウンドと呼ぶものについてだと考 える。私がウィトゲンシュタインを正確に理解しているなら、ピエール・ブルデューの「ハ ビトゥス」(habitus/習性)に関する重要な著作は、私がバックグラウンドと呼ぶ同じ種 類の現象についてである。哲学の歴史において、ヒュームは、人間の知性を説明する 際、バックグラウンドの中心性を認めた最初の哲学者であったと思う。そしてニーチェは 知性のラディカルな恣意性に魅せられた哲学者であった。ニーチェは、懸念をもちつ つ、バックグラウンドが現にあるとおりである必要がないことを見た。 どのようにバックグラウンドは働くのか?どのようにバックグラウンド能力が、それ以上 志向内容として構成されず、することもできないが、にもかかわらず、志向内容が機能 するための必要な前提条件を形成するかについての感じてもらいたい。そのためひと つの方法はいくつかのタイプのバックグラウンドの機能をリストすることである。 第一、既に議論したように、バックグラウンドは言語的解釈が生じることを可能に する。 どんな文の意味も根本的にその真理条件を十分決定しないと私は主張した。なぜなら 文の字義通りの意味はなんらかのバックグランド能力がある場合にのみ一群の真理条 件を決定するからである。その例で、言葉は共通の意味論的内容をもっていることに注 意してほしい。言葉「切る」は私があげた例で共通の意味を保持しているが、まったくの 意味論的レベルでは文を解釈しない。解釈は私たちのバックグラウンド能力のレベルに 上がる。私たちはすぐに努力せずステレオタイプとして適切なやり方でこれらの文を解 釈する。 第二、バックグラウンドは知覚的解釈がおきることを可能にする 意味論に真なことは知覚にも真である。なんらかのバックグラウンドの熟練があるなら、 私たちは物をある特定の種類の物として見ることができる。上に対して、左を見るとアヒ ル、右を見るとウサギのいずれかとして見えるウィトゲンシュタインの絵の例を思い出し てほしい。7 私たちはアヒルにもウサギにもその絵を見ることができる。なぜなら私たち は、一群のバックグラウンドの熟練を、ナマの知覚的な刺激に適用するからである。この ケースでは私たちはその能力を特定のカテゴリーに適用する。そしてこのケースで真で あることは知覚一般に真である。私はこれをイスとして、これをテーブルとして、それを グラスとして見る、実際通常の知覚のケースは知覚者が知覚されたモノをなんらかの 親しみのあるカテゴリーに吸収する「として知覚する」のケースだろう。このふたつの知 覚の機能、すなわち言語的解釈を容易にすることにおけるバックグラウンドの役割と知 覚の解釈を容易にする役割は意識一般に拡張される。 第三、バックグラウンドは意識を構成する 私たちの意識経験が「親しみの様相」と呼べるかもしれないものとともに私たちに生じ ることは私たちの意識について興味深い事実である。たとえ私が、メキシコやアフリカ のジャングルみたいな見ず知らずの土地にいるとしても、家や人々の服装が、欧米とは 違っていてさえ、それは家として私に馴染みがあるし、人々として私に馴染みがある。こ れは布だ。それは空だ。これは土だ。すべての病理的でない意識の形式は親しみの様 相のもとで経験される。なぜならすべての志向性は様相的であり、すべての意識的志 向性は様相的であり、知覚することの可能性、すなわち様相のオリジナルの経験の可 能性は、人がその様相のもとで経験する一群のカテゴリーとの親しみを必要とする。 私たちはこの第三のバックグラウンドの特徴を最初のふたつの特徴、すなわち、バッ クグラウンドが意味論的解釈や知覚的解釈に本質的であるという特徴を拡張すること によって見出される。私は「解釈」という言葉を使うのが好きではない。なぜならそれは 明確に真理ではない何かを示唆するからだ。この言葉の使用は何を理解し、何を知覚 するのであれ解釈行為があることを示唆するが、そんなことを言うつもりはない。私はな んら解釈「行為」なしに普通にただモノを見るのであり、文を理解すると言いたい。解釈 行為を生むことは非常に特別な知的パフォーマンスである。ウィトゲンシュタインととも に 8、私は実際に意識的で熟慮された解釈行為を遂行する、すなわちある表現を別の 表現の代わりにするケースに関して「解釈」という言葉を反転したいのかもしれない。そ れに注意を払いつつ、私は発語の理解と通常の意識状態の経験はバックグラウンド能 力を必要すると言いたい。 まったくの知的努力が私たちのバックグラウンドと絶縁するために行われることに注 意してほしい。シュールレアリストの画家はこれを試みたが、シュールレアリズムの絵画 でさえ、頭の三つある女性はなお女性であり、溶ける時計はなお時計であり、それらす べてのおかしいオブジェはなお地平線に対する、空や前景をともなうオブジェである。 私はせっかちにこの危険な領域に入ったことを謝る。私は制度的事実の因果的説明 の主要な問題に可能な限り速く、戻ろうと思う。そして現在の要点はその議論のため必 要なツールを発展させることである。 これはバックグランドの次の印に繋がる。 第四、経験の時間的に延長された持続は物語的ないしドラマ的形をもって生じ る。それらは私が「ドラマ的」カテゴリーと呼ぶしかないものの下で生じる。 私たちの特定の経験が様相的なもの、様相的な形として私たちに生じるため、経験の 持続には物語的な型がある。バックグラウンドはこれまで検討してきた事例におけるよ うに、エピソード的妥当性だけでなく、また一連の成功した出来事に関する動的妥当性 を呼べるものがある。明らかにこの事例は、知覚的言語的カテゴリーを長い出来事の継 続に拡張する場合である、私は家、自動車、人々として物を知覚するだけでなく、私の環 境において人々や物を私が扱うのを可能にする期待のなんらかのシナリオをもつ。そし てそれは、たとえば、どのように家、自動、人々が相互作用するか、私がレストランに入っ たときどのようにものごとが進行するか、私がスーパーマケットで買い物をするとき何が 起きるかなどについての、一群のカテゴリーを含む。もっと壮大に、人生のより大きなカ テゴリー、たとえば人々は恋に落ちるとか、結婚をするとか、家族を育てるとか、大学に 行くとか、学位を取得するとかのようなカテゴリーについて一連の期待をもつ。ラ・ロ シュフーコーはどこかで愛について本を読まないなら、ほとんど誰も恋に落ちないと言 う。そして今日、私たちはテレビや映画でそれを見ないならと付け加えなければならな い。テレビ、映画、読書から得るものは、もちろん一群の信念や欲求の一部である。しか し現在の要点は、信念や欲求はそれ自体信念や欲求ではない能力のバックグラウンド に対して充足条件を決まるだけである。だからバックグラウンドの別の発現は、出来事 の連続やその連続が物語の形をとる構造に広がるドラマ的カテゴリーと私が呼ぶもの にある。 第五、私たちはそれぞれ、一群の動機的な性向をもち、それは私たちの経験の 構造を条件付ける。 あなたがペルシャ絨毯とかスポーツカーとか高級ワインに取り憑かれていると仮定して ほしい。その場合、あなたは雲の形とかアリゾナ・サボテンに取り憑かれた人とは違った しかたで、パリやニューヨークの街路を経験するだろう。そこでは高級ワインやペルシャ 絨毯のコレクターには多くの機会があるが、アリゾナ・サボテンについてはさほどではな い。もちろんペルシャ絨毯のコレクターはペルシャ絨毯について意識的信念や欲求をま さにもつ。たとえば、私はハマダン製よりカザフ製の方が高いと信じ、骨董絨毯は今とて も高いと信じる。私はチチ(Chi-Chi)が好きだ。これらや他の信念や欲求は私の経験 を組み立てるのに役立つ。だが現在の議論にとって重要なのは、そのような特定の信 念や欲求に加えて、その信念や欲求に意味を与えるものが一群の動機的性向である。 第六、バックグランドはある種の準備性を容易にする どんな所与の点でも、私は他のものでなく、特定のものに準備ができている。大都市 で、私は騒音に準備ができている。私はエンジン音や多くの人の視線や、店や、交通手 段に準備ができている。私がスキーのスロープにいるとき、私は潜在的に飛び出しくる 他のスキーヤーに準備ができている。だが私は講義をしているとき、講義室にスキー ヤーが飛び込んでくることには全然準備ができていない。私はスキーヤーが突然部屋 に入ってきたり、象が単に部屋に歩いてきたら絶対驚くだろう。だが私は講義室でいつ も聞いている騒音や反応には完全に準備できている。私のバックグラウンド能力は私 の経験の性質を構成する一群の準備性(readiness)*訳注 を決定する。私がスキーを するとき、リフトで私の目の前に割り込みそうな人とか、スキーの腕試しをする人のよう な、魅力的な異性のメンバーのような、カッコいいあるいはカッコわるいスキーウエアを 着ている人とか、スキースロープで出くわした昔からのスキーの友だちというような、潜 在的な危険の原因として他のスキーヤーに私は用意ができている。講義では、私は人 が手を挙げるとか、無限後退の議論や文法の誤りで私を非難する人に用意ができてい るが、逆は用意はできていない。レッド・ドッグ・リッジの頂上の深い雪の中で、私がたく さんの人が大学の机に座り、手を上げて、「あなたの議論のひとつには無限後退があり ます」のようなことを私に言うなら、私はそれにびっくりするだろう。そのようなことは起こ りえるがそのバックグラウンドは私に準備をさせる種類のものでは絶対ない。多くのコメ ディはこのような不条理にもとづいている。 第七、バックグラウンドは私がある種の行動をする性向をあたえる 私は他でもない特定の種類のジョークで笑う性向があり、私はべつではなく特定の声 の大きさで話す性向があり、私は話をするとき、他でもない特定の距離に立つ性向が ある。私はこれらすべてを、バックグラウンドの発現と呼んでいる。 これらが私のバックグラウンド能力が志向性の実際の生起の形式でそれ自体発現 する七つ方法である。私はしばらくの間、これらはバックグラウンドが発現するすべての 方法だと仮定するが、少なくともそれらは私がこれまで述べようとしてきたバックグラウ ン理論に合理的に自信を感じているものである。 バックグラウンドの因果関係 次に私の主要な話題に向かう。たとえ私たちが意識的にせよ、無意識的にせよ規則 *訳注 心理学用語では単に「レディネス」と使用される。 に従わないとしても、私たちが制度を扱う際に、制度の規則が役割を演じるということ はどのように可能なのか?もちろん、ある場合には私たちは規則に実際に従っている。 私はあなたに新しいカードゲームを教え、あなたはその規則を覚え、そのゲームの規則 に従うことができる。だが多くの制度ではとくにその制度内で活動のエキスパートに なったあとには、私はただ何をすべきか知っているだけだ。私は、その規則を参照するこ となく、何が適切なふるまいかを知っている。 私を悩ませているふたつのものの例をあげたい。熟練したプロ野球選手を検討した い。ボールを打ったあと、一塁に走る。そこで私たちは「なぜ彼はそうするのか?」と尋ね るなら、私たちは「彼は打ち。一塁をうばい、進塁を得たいためそうすることを望む。そし て彼はチームが勝つことができるため進塁することを望む」のだということができる。だ が、この説明において、野球のプレイの規則はどんな役割をするのか?私たちはまた彼 は野球の規則に従うことを望むと言いたいのか?それは少し奇妙におもえる。それは初 心者にはより適切である。議論の余地がないなら、野球の規則は専門家に関係ない。 専門家ははるかに詳しいため野球の規則について困らないのだ。もうひとつの例を検 討してほしい。女性がスーパーマーケットに買い物リストを持っていく。そのリストは一 群の欲求の顕在的な陳述である。ショッピングの間、その女性はお金と商品を扱う。商 品への欲求に加えて、彼女が買い物をするとか、お金の構成的規則に従う欲求をもっ ているとか、彼女が無意識にお金の構成的規則に従っていると言うことを望むのか? 私はそれらの主張はバカバカしいと思う。そしてそのバカバカしさは私が提案しようと いう問いに私を導く。 最近の社会科学の歴史を見るなら、大雑把に言ってふたつの因果関係が受け入れ らているのがわかる。ひとつは、選好表や内面化された規則のような、多かれ少なかれ よく定義された一群の志向状態に関する一群の合理的手続きで、行為者が意識的、 無意識的に活動している精神的な原因である。その種類の志向的説明は、たとえば私 たちが行動において合理的意思決定をする場合、適切である多くのケースがある。これ はたとえば、支出の均衡や経済成長率を改善しようとする経済政策の意思決定を行お うとする国の指導者の場合ぶ起きる。それは合理的意思決定の場合のケースであり、 合理的意思決定の原則のような何かが適用されるようにみえる。しかしそのモデルは 非常に不自然である多くのケースがある。私が仕事のため運転してたり、私がレストラ ンに座り、メニューを見て、何を食べるか決めようとすることを考えてみてほしい。そのよ うなケースでは予め存在する、一群の秩序だった選好性があり、より高い無関心曲線 に関して私自身得ようと試みる一群の計算を遂行しているというのはバカバカしいよう にみえる。 事実、合理性の意思決定理論のモデルを実際詳しく見るなら、あなたはそれがまっ たく満足できるものではないことを知るだろう。ひとつの例はこうである。あなたがふた つのものの価値を評価する場合、他に対してあるものに賭けるなんらかの賭け率がなけ ればならないというのがベイズ決定理論の結論である。そのためあなたが10セントを評 価し、かつあなたの生命を評価するなら、10セントにたいしてあなたの生命に賭けるな んらかの賭け率がなければならない。さてあなたがたに言わなければならない。私が自 分の命を10セントに対して賭けるという賭け率など間違いなく存在しない。あるいは私 の息子の命を10セントに対して賭けるという賭け率など間違いなく存在しない。私は何 人かの著名な意思決定理論家にこれを指摘したことがある。ふつう小一時間議論した あと、彼らは言うのである。「君は単に非合理なだけだ」と。私はそうは思わない。私は合 理性にともなう問題をもつ彼らこそ非合理なのだと考える。ここで議論をさらに展開す るつもりはないが、私は過度に精密に表現された顕在的志向内容をめぐる、一群の はっきり定義された活動としての合理性の概念は不適切であると示唆したい。 社会科学でありふれた因果関係の別の形式は、志向内容に訴えず、ナマの物理的 因果関係に訴える。アメリカでは、行動主義がこのタイプの説明のもっとも顕著なバー ジョンであった。私は行動主義は死んだと思っているが、それを復活させようとする、い くつかのあらたな試みがある。 その場合、私たちはどのようにバックグラウンドの因果関係を考えるべきなのか?こ れらひとつは志向的因果関係と、ひとつはビリヤードボール因果関係を採用するふた つの行動の因果関係の一般モデルがあると考えるなら、どちらがバックグラウンドを記 述するため適切なモデルなのか?私は不適切だと最終的に論じるだろう。私はどのよう に私たちが制度に関係することを可能にするかを説明するための異なるモデルが必要 とする。 認知科学の最近の科学に馴染んでいる読者たちは、ある密接に関連する問題を認 めるだろう。私の問題は、どのように制度に対処することに関してバックグラウンドの役 割をどのように性格づけるかである。数十年議論されてきた問題は、規則ー「記述的」 (rule-discribed)行動と、規則ー「統制的」(rule-governed)行動の区別の仕方に関 係する。私たちは、言語の規則、たとえば構文規則をどのように考えるべきなのか?ひと つの見方では、私たちはただ規則は、現象の理論的記述の役割以外、いかなる現実性 もないと言う。だから規則は、言語学者が、現象を特徴づけるために用いる仕掛けでは あるが、それはただ行動を記述するだけであり、行動を引き起こす際に、いかなる役割 も実際には演じない。さらに冒険的な見方は行動はただ規則ー記述的なだけではなく、 規則ー統制的ないしは規則ー誘導的(rule-guided)であると言う。そしてこのケースで は行動を決定する際の因果的役割を実際に演じるものとして規則の意味論的内容を 私たちは考えるべきである。そのためたとえば行為者が英語の文を産出する場合、その 基礎の無意識的内面化は実際特定の構文論的構造を産出するため実際因果的に働 いている。そして成熟した大人が発話行為を遂行する場合、どんな言語でも、約束や命 令をする時、私たちは行動の産出において無意識的に機能するものとして発話行為の 規則を考えるべきなのである。 さて、それらのいずれが、バックグラウンを考える正しい方法なのか?私はどちらにも 満足できない。私がそう考える問題点はこうである。バックグランドを志向性的に考える 場合、私たちはバックグラウンドのテーゼを放棄してしまう。私は最初に、これまで志向 性が生じるのを見出す場合に限り、そのテーゼに到達した。志向性は自己解釈的でな はない。だが他方、私たちは規則が、行動においてなんら因果的役割演じないというな ら、その場合、私たちはバックグラウンドはこれこそ人が行っているものであり、人はそ の仕方でただ行動すると言わなければならない。たとえば、人は他の種類ではなくこの 種類の文を産出する。彼は単に彼がするしかたで行為するだけであり、話はそれで終 わりである。ウィトゲンシュタインはしばしば後者の仕方で語る。彼はただ行為の基礎 づけのない仕方だけがあると言う。9 私たちは単にそれをする場合その点に至る。私た ちは他の仕方でなくこの仕方で話す。私たちはそれでなく、これを受け入れる。だがウィ トゲンシュタインのアプローチは非常に不満足である。なぜならそれは規則の構造の 役割が何であるか私たちに語らないからである。私たちはお金、財産、構文、発話行為 のような制度は構成的規則の体系であると言いたい。そして私たちは人間の行動の因 果的説明におけるその規則の構造の役割を知りたい。私は歩くのと同じように自然に 話し、お金で物を買うが、話やお金は歩くことがもつようにはみえない規則構造をもって いるようにおもえる。 現代の知的生活において密接に関連する問題が生じる別の仕方は認知科学にお けるふたつの競合するパラダイムの間の現在の議論にある。ひとつは、コンピュータが プログラムの線形的ステップの集合をもつ、フォン・ノイマンの連続的情報処理の伝統 のパラダイムである。もうひとつは、有意味なインプットと有意味なアウトプットがあるが その間には、記号処理のステップがない並行分散処理ないしニューラルネット・モデリ ングのより最近の発達である。それはノード間の様々な結びつきの強化をともなうただ の一群のノードと、ひとつのノードから別のノードへの信号の経路と、最終的にコネク ションの強化における変化が、原則的にその中に規則ないし論理的原則のないイン プットとアウトプットの正しい適合を与える。バックグラウンドについてこれらすべての話 は、コネクショニストの認知モデルに確かに近く、親和的であると言うかもしれない。そ れは正しいと私は思う。だがなおコネクショニズムに反対する人々が提起した挑戦が残 されている。すなわちシステムが組成的ないし他の論理的特性を発現する構造化され たアウトプットを産出することを可能にする内的構造の特徴とは何か? ここに私たちのパラドクスが存在する。私たちは行動の複雑さや感覚を説明しようと するとともに、自発性、創造性、独創性を説明する因果的説明を求めている。しかし私 たちは因果的説明のふたつのパラダイムしかもたず、いずれも社会構造に対する諸個 人の人間関係に適切であるようにみえない。ひとつは規則、原理、選好にしたがった合 理的意思決定のパラダイムであり、もうひとつはナマの物理的因果関係であり、それゆ え非志向的であり非合理的である。コネクショニズムだろうと行動主義だろうと、このタ イプの因果関係は合理的構造をもたない。 バックグラウンドの構造と社会制度の構造の間の因果関係を理解する鍵は、実際に 規則についての何らかの信念、欲求、表象を含むことなく、バックグラウンドが諸制度の 構成的規則の特定の形式に因果的に敏感に反応できる*訳注ことを理解することであ る。これを理解するため単純な例から始めよう。野球選手が野球の仕方を学ぶと仮定 する。最初に、彼は一群の規則、原理、戦略を実際学ばなければならない。しかし彼が いったん熟練したら、彼の行動は非常に流暢に、非常に調子よく、状況の要求に非常に 敏感に反応できるようになる。そのようなケースで、彼は規則をより熟練して適用しては いないようにみえる。そうではなく彼は、適切さが実際に野球の規則、戦略、原理の構 造によって決定される、適切に反応すべき一群の性向や熟練を獲得したのである。私 がこれから説明しようという基本的なアイディアは、志向性によって実際に構成される ことなく、特定の志向性の構造に敏感に反応できる一群の能力を発展させ、進化させ ることができるということである。人はいわば機能的に規則体系と等価な熟練や能力 を、実際にその規則の表象ないし内面化をもつことなく、発展させるのである。 野球よりもう少し複雑なケースを検討する。お金を検討する。私はお金のいくつかの 構成規則を記述しようと試みた。それらの規則はどのように実際の行動で機能するの か?お金の使用者はその規則を知らない。そして一般的に私は意識的にも無意識的に もそれら規則を適用していないと私は論じている。そうではなく、お金の使用者は、それ ら規則の特定の内容への敏感に反応できる一群の性向を発展させてきたのである。そ のため彼らはお金を交換媒体として使う能力をもたなければならない。そして彼らは、た とえ専門家の助けなしに違いを見分けられないとしても、贋金と本物のお金の違いに 敏感に反応できなければならない。彼らの行動は貨幣が印刷された紙であるためでは なく、それが交換媒体として機能するため、価値があるという事実に敏感に反応できな *訳注 「敏感に反応できる」は sensitive(敏感な)をテクニカルタームとして冗長に訳したもの。 ければならない。そして、この種の能力、このタイプのノウハウ、深く染み込んだそれは、 それによって、事実物理的構造によってその機能を持つのではなく、集合的合意ないし 受け入れを通じてのみ獲得される実体に機能を課す一群の構成的規則の反映であ る。 バックグラウンドの機能的構造とバックグラウンド能力が関係する社会的現象の制 度的構造には平行関係がある。その厳密な並行関係は私たちにお金に対処し、社会に 対処し、言語を話すことが出来る人は、無意識的に規則に従っているという幻想を与え る。ここで私は議論する。もちろん規則があり、しばしば意識的に無意識的にそれに従う が。 1.諸規則は自己解釈的ではない かつ 2.諸規則は排他的ではない かつ 3.事実、多くの状況で、私たちはただ何をすべきか知っており、私たちはただそ の状況にどう対処するか知っている。私たちは意識的にも無意識的にも諸規則 を適用しない。 私たちは意識的にか無意識的にか、立ち止まらずに考える。「ああ!お金は公式”X を C で Y とみなす”の規則に従って集合的志向性を通じて機能を課すことのケースで、そ れは集合的合意を必要とするんだ」。そうではない。私たちは特定の制度構造に反応 するスキルを発展させるのである。 私たちはいくつかの比喩的説明の戦略を検討するならこの点をもっとよく理解でき る。私たちが言ってきたことと、進化論的生物学におけるある問題の間には明らかなア ナロジーがある。哲学的視点から、ダーウィン主義進化論的生物学に関する驚くべきこ とは、単に種の起源の生物学的説明から目的論を排除しただけでなく、それは新たな 種類の説明、説明装置の順序を反転させる説明の形式を私たちに与えることである。 だからダーウィン以前の生物学では、私がたたとえば「魚は水中で生存するためにその 形をもつ」と言っただろう。進化論的生物学では、私たちは意図的ないし目的論的説明 を反転する。その場合私たちは説明のふたつのレベルを変える。第一は因果レベルで ある。その遺伝的構造のため、環境に対応して遺伝型が表現型を産出するためもつ形 を魚がもつという。第二は「機能的レベル」である。その形をもつ魚がそうではない魚よ り生存しやすいと言う。そのため私たちは生存の構造を反転した。元の構造は、魚は生 存するためこの形をもつであった。今度はそれを反転した。魚はなんであれこの形を もっているが、この形を持つ魚はそうでない魚より生存しやすい。私たちが反転させた ことに注意してほしい。生存はなお説明の一部として機能しているが、今度は通時的に 説明に導入される。それは多くの世代の期間を超えて機能する。そしてその因果的役 割は反転される。なぜなら目的論は排除され、生存は追求される目的ではなく、単に生 じた結果でしかない。そしてそれが起きる場合生存ー生産メカニズムの再生産を可能に する。 類似の反転は社会現象に対応する人間のバックグラウンド能力に適用できる。人は 制度の規則に従っているため、彼が行う仕方で振る舞うと言う代わりに、こう言うべき である。第一に(因果的レベルで)、人はその仕方で行動する性向を持たせる構造をも つため、彼が行う仕方で行動し、第二に(機能的レベルで)、彼は制度の規則に一致す る仕方であるため、その仕方で行動する性向をもつようになる。 言い換えれば、彼は制度の規則を知り、規則に一致するようそれに従う必要はない。 そうではなく、彼は単にある仕方で行動する性向が単にあるだけだが、彼は無意識的 な性向と能力を制度の規則的構造に敏感に反応する仕方で獲得してきたのである。 具体的なケースにこれを結びつければ、経験を積んだ野球選手は、野球の規則に従う ことを望むため一塁に走るというべきでなく、彼は規則が、規則が一塁に走ることを要 求し、ボールを打ったら一塁に走るという一群のバックグラウンドの習性(habit)、熟練 (skill)、性向(disposition)を彼は獲得するというべきなのである。 私が提起している一組の説明を解説する思考実験を書きたい。子どもがただ野球を しながら育った部族がいると仮定する。子どもたちは決して書かれた規則を見たことが ないが、正しいことや間違ったことをするたびほめられたり叱られたりする。たとえばス リーストライクを取られ、「もう1球打たせてくれない?」と言うと、彼は「だめだ、お前は 座って、誰かと代わらなければない」と言われる。私たちは子どもたちがただ野球をする ことに熟練するようになると仮定できる。さてまた外国人の文化人類学者がその部族 の文化を記述すると仮定しよう。良い人類学者は人々の行動を記述することだけで野 球の規則を、そして彼らが野球の状況で規範的とみなすものを理解できるかもしれな い。だがそれはこの社会のメンバーが意識的、無意識的にその規則に従っているとい うことは、人類学者的記述の規則の正確さから当然の帰結として生じるのではない。そ れにもかかわらずその規則は彼らの行動の説明に重大な役割を演じる。なぜならば彼 らは彼らがもつ性向を獲得したからであり、正確にそれは野球の規則だからである。 今のはお伽話の例だが、現実の生活でも、私たちは構文の規則や発話行為の規則 に関して非常に類似した状況にいる。私のような発話理論家である誰かだけが、発話 行為の規則の成文化に思い悩む。子どもが成長するとき、彼がたとえば約束をしたら、 それを守らなければならず、それを破ったら、ひどく叱られることを知る。子どもはその制 度に対応することを可能にする特定のノウハウを獲得する。そして私には野球や約束に ついて真なことは、同様に構文についても真であるようにみえる。その場合、社会的現 実に対応することを学ぶ際、私たちは制度的構造や、特に複雑な規則構造に対して、そ の制度の規則の表象をどんな場合も必然的にもつことなく、どんな場合敏感に反応で きる一群の認知的能力を獲得すると提案しているのである。 要約すれば、私たちは人間の制度の極端に複雑な規則に支配された構造を認識す ることができるのであり、また私たちの行動が、無意識に規則に従っているため規則の 構造に適合すると仮定するのは多くのケースで、単なる誤りであり、おそらくこの議論 の中で提示してきた証拠によっては支持されないと私は提起したい。そうではなく、私 たちは規則構造に敏感に反応する一群の性向を発展させるのである。 「君は“あたかも”私たちが規則に従っていると本当に言わないのか。しかし、その場 合もし何ら本物の志向性がないなら、“あたかも”志向性は何も説明しない。あたかも 志向性は現実には存在しないため何ら因果的力をもたない。あたかも志向性はダニエ ル・デネットの“志向的立場”10 や正確に君が攻撃してきた種類の行動主義であるす べてのそれのように単に空虚なだけである」と拒否するかもしれない。 いや、それは私が言っていることとは違う。そうではなく、私は関与する因果関係の 複雑さを理解するなら、規則に無意識に従うためでも、その行動があたかも規則に構造 化されているかのように偶然見える未分化のメカニズムによって引き起こされているた めでもなく、その「メカニズムが正確に規則に敏感に反応するよう進化した」ため、制度 の中で熟練した仕方で行動しているひとはしばしば、あたかも規則に従っているように 行動するのをあなたは見ることができる。そのメカニズムは行動を説明し、そのメカニズ ムは規則の体系によって説明されるが、メカニズムはそれ自体規則の体系である必要 はないのである。私はある種の社会的行動の説明における、もうひとつのレベル、通時 的なレベルの付加物を手短に主張しているのである。 さて、ひとつの最後の反対がある。誰かが「なぜ君はこれらの規則を一体もつんだ? なぜ君はただ何かの行動主義をもたないのか?これらのことはただ起こり、人々はただ これらの物事をもつ」と言うかもしれない。答えは人間の制度が関わる場合、私たちは 社会的に創出された規範的構成要素を受け入れているということだ。私は、野球の球 が投げられるとそれを食べる人にはなにか間違いあること、何かをする約束をしたあと、 それをする理由を認めない人には何か間違いがあること、非文法的な文をわめきまわ る人にはなにか間違いがあることを私たちは認める。そしてこれらすべてのケースは歩 いているとき転ぶ人に何か間違いがある仕方とは異なる仕方の何か間違いを含んで いる。すなわち、制度的構造における社会的に創出される規範的構成要素がある。そし てこれは制度的構造が規則の構造である事実によってのみ説明される。そして私たち が制度を記述する際に特定する実際の規則は、体系が規範的であるそれらの面を決 定する。それは正確に約束をすることを、約束の制度内である特定の行動が受け入れ 可能であり、他の特定の種類は不履行であるのを認める義務を負うこととみなすという ことである。だから因果的に機能する構成的規則が事実存在するのであり、私たちは 実際に私たちの分析の中でそれらの規則を発見するのである。しかしそれは、人が規 則を学んで暗記し、意識的無意識的にそれに従う場合に限り、社会で機能できるとい うことは帰結しない。あるいはそれは人が規則を「規則」として「内面化した」場合に限 り社会で機能できるということを帰結しない。要点は、私たちは社会に慣れている(at home)人、社会の社会的制度に慣れている(chez lui)人が、社会の規則を習得した から慣れているのではなく、その人が社会で彼を慣れさせる一群の能力を発展させた ということである。社会で慣れた人は海の魚、眼孔の中の目玉のように居心地が良い のである。そして私たちはこれら三つのケースにおける規則との関連で、完全に行動を 説明しなければならない。 第7章 実在世界は存在するか 第1部:実在論への攻撃 これまで私は、説明を試みたという意味で、人間の合意ないし受け入れに依存して いる事実の本性と構造を分析しようとしてきた。分析全体は私たちに依存する事実と 私たちから独立して存在する事実の間の区別、一方で社会的、制度的事実と他方でナ マの事実の間の区別と元々特徴づけた区別を前提にしている。今度は、分析し残した 区別を擁護する番、私たちから完全に独立した実在があるという考えを擁護する番で ある。さらにこの本を通じて、私は一般に私たちの陳述が事実に対応する場合、真であ り、今度はこの前提を擁護する番である。人間の表象から独立した実在の存在を否定 し、真の陳述は事実に対応することを否定することの両方がありふれた、現代哲学シー ンによってこのような擁護はさらに迫られている。この章と次の章は、実在論(realism) に関するものである。最後の章は、真理の対応説(the correspondence theory of truth)に関するものである。これらの問題の議論全体は、少なくとも別の本を必要とす るだろう。しかし、この本の目的にとっては、少なくとも現代の常識的科学的な世界観を 背景にしたある特定の前提を手短に明らかにする必要がある。なぜならこの本の残り はその世界観について語るのではなく、これらの前提に依存するからである。これら最 後の三章は、いわば哲学的ゴミ掃除の取り組みである。 私たちの現代的世界観のいくつかの前提 何が賭けられているか理解するため、私たちの世界観の前提のいくつかを、理解す ることができるよう明るみに出す必要がある。私たちの世界観の形式的な特徴は第1章 で説明しようとした客観性(objectivity)と主観性(subjectivity)の区別である。曖昧 さや周辺的なケースの普通の問題 ― 深刻ではない問題 ― に加えて、この区別は認 識論的(epistemic)意味と存在論的(ontological)意味の間で体系的に曖昧であ る。認識論的客観性/主観性と、存在論的客観性/主観性の区別に照らして、私たち は次の世界観の構造的特徴を同定できる。 1.世界(言いかえれば、実在ないし宇宙)は私たちのその表象から独立して存在す る。この主張を「外的実在論」(external realism)と呼ぶ。私は後にその公式を洗練さ せたい。 2.人間は自らにとってある世界の特徴にアクセスし、それを表象する相互につながっ た様々な方法をもっている。これらには、知覚、思考、言語、信念、欲求、そして絵、地図、 表などがある。一般的用語を使うため、私はこれらを集合的に「表象」 (representations)と呼ぶ。そう定義された表象の特徴は、それらはすべて、信念や知 覚のような「本来的」(intrisic)志向性と地図や文のような「派生的」(derived)志向 性の両方の志向性をもつということである。 3.信念や陳述のような、これらの表象のいくつかは、どのように物が実在においてあ るかについてであり、それを表象すると主張する。成功ないし失敗するにしたがい、それ らはそれぞれ真ないし偽と言われる。それらは実在における事実に表象が対応する場 合、その場合に限り真である。これが真理の対応説(のひとつのバージョン)である。 4. 一般的にボキャブラリーや概念枠組みのような表象の体系は人間の創造物で あり、その程度にしたがって恣意的である。同じ実在の表象に関して、どれだけ多くでも 表象の異なる体系をもつことが可能である。このテーゼは「概念相対性」(conceptual relativity)と呼ばれる。ふたたび後に私はその公式を洗練さたいと思う。 5.実在の真なる表象をえるための実際の人間の努力はあらゆる種類の要因 ― 文 化的、経済的、心理学的など ― に影響される。完全に認識論的な客観性は、困難か場 合によっては不可能である。なぜなら、実際の研究は、あらゆる種類の人格的要因に動 機づけられ、ある特定の文化的歴史的文脈内にある視点につねに由来するからであ る。 6.知識をもつことは、ある特定の種類の理由や証拠を与えることができる真の表象 をもつことにある。知識はそのため、定義により、認識論的な意味で客観的である。なぜ なら知識の基準は恣意的ではなく、個人的感情を交えないものであるからである。 知識は主題によって自然に分類されえるが、「科学」とか「科学的知識」と呼ばれる 特別な主題があるわけではない。ただ知識があるだけであり、「科学」は物理学や化学 のように知識が体系的になった領域に適用するひとつの名前である。 客観的/主観的区別の認識論的ないし存在論的な区別に照らして、私たちはこう 言える。命題1(外的実在論)は存在論的に客観的な実在があるという主張にたいへん 近い。ふたつの主張は正確に等価ではない。なぜなら、表象から独立して実在がある (外的実在論)は心から完全に独立して実在がある(存在論的に客観的)と言う主張と 正確に等価ではない。この区別の理由は、痛みのような心的状態は存在論的に主観 的であるが、それは表象ではないということである。それらは表象独立的だが、心的独 立ではない。存在論的客観性は、外的実在論を含意する。なぜなら心的独立は表象独 立を含意するからである。だた逆は真ではない。たとえばパリは心的独立であることな く、表象独立でありえる。命題2は、存在論的主観性が、認識論的に主観的だろうと客 観的だろうと、存在論的に主観的だろうと客観的だろうと、私たちがアクセスするすべ ての実在へ、私たちにアクセスさせることを含意する。命題5は認識論的客観性はしば しば得難いと言う。そして命題6は、私たちが本物の知識をもつなら、私たちは「定義に より」認識論的に客観的であると言う。 私は読者がこれら6つの命題が、あまりに明白で、なぜ私がそんな陳腐なもので読者 に退屈な思いをさせるのかといぶかしく思うことを期待するが、私はそれらを取り巻く 大量の混乱を報告しなければならない。命題1と命題3、実在論と対応説はそれぞれ、 しばしば相互に混同される。さらに悪いことに、それらはしばしば反駁されたと考えらて ている。一部の哲学者は命題4、概念相対性が実在論にとって問題を産むと考える。一 部の哲学者は概念相対論は実在論を反駁すると考える。多くの哲学者は命題3、対応 説は独立に反駁されたと考えてきた。一部の文学理論家は命題6で述べられる客観的 知識のまさに可能性にとって問題をはらむと考え、おそらく命題1で表現された実在論 を反駁するとさえ考える。 だからすることが何もないのを恐れるが、スピードを落とし、これらの問題の一部をギ アをローにして、入念に調べる。問うことから始めよう。 実在論とはなにか? 予備的定式化として、実在論を世界が、それについての私たちの表象から独立して 存在するという主張と私は定義する。これは私たちが存在しなかったなら、どんな表象 ― 陳述、信念、知覚、思考など ― も存在しないなら、世界のほとんどは影響を受けな かいままだったであろうという帰結をもつ。私たちの表象によって構成されるか影響を 受ける世界の一角を除いて、世界はなお存在し、正確に今あるのと同じであったであろ う。私たちが全員死亡し、私たちとともにすべての表象が失われる場合、世界のほとん どの特徴は完全に影響を受けないままであるだろうということが帰結する。それらは以 前と正確に同じまま続く。たとえば私が自分や他の人々が表象するヒマラヤ山脈にある 「エベレスト山」のような山があると考えよう。エベレスト山は私や誰か他の者がそれや 他の物をどのよう表象するか、あるいは表象するかどうかとは独立して存在する。さら に、エベレスト山の多くの特徴、たとえば「エベレスト山の頂上は雪と氷で覆われてい る」というような陳述する場合、表象する種類の特徴がある。それは誰もどんな仕方で も表象しなくとも、まったく影響を受けないままであり、これらの、あるいは他の表象が失 われることによって影響を受けないだろう。人は多くの言語ー依存的特徴、事実、事態な どがあると言ってこの点を指摘するかもしれない。しかし私は「表象」との関連でさらに 一般的にその点を指摘した。なぜなら私は単に言語だけでなく、また思考、知覚、信念 からも世界は独立して存在すると注意したいからである。肝心な点は、たいてい、実在 はいかなる形式の志向性にも依存しないということである。 哲学史において、「実在論」(realism)は幅広い様々な意味で用いられてきた。中世 の意味では、実在論は普遍が現実に存在するという学説である。今どき若者は「様相 実在論」、「倫理的実在論」、「志向的実在論」、「数学的実在論」などの話を聞く。この 議論の目的のために、私は「外的実在論」と「実在論」(短縮して ER)は前のパラグラ フで素描した見解を示すと規定している。問題の主張は、実在が私たちの表象体系の 外部に存在する、表象体系に外的に存在することを肯定するという事実を際立たせる ため「外的」(external)というメタファーを使う。 実在論に賛成または反対する議論を検証する前に、私たちはそれとしばしば同じと 考えられる他の主張からそれを区別する必要がある。第一の混乱は、実在論は真理の 対応説と同じか、少なくとも含意すると考えることである。だが実在論は真理論ではな い。そしてそれはどんな真理論も含意しない。厳密に言って、実在論はどんな真理論と も矛盾しない。なぜならそれは存在論の理論であり、「真」についての意味の理論では ないからである。それはまったく意味論的理論ではない。そのため外的実在論を肯定 し、対応説を否定することは可能である。1 標準的な解釈に関して、真である場合、陳 述が対応する実在があることを含意するため、対応説が実在論を含意する。だが実在 論は、「真理」が陳述と実在の間の対応関係の名前であることを含意しないため、実在 論はそれ自体対応説を含意しない。 別の誤解は実在論について何か認識論があると考えることである。そのためたとえ ば、ヒラリー・パトナムはこう書く。2 実在論の全内容は神の視点(もっとましに言えばどこでもない視点)の思考に とって意味をなすという主張にある。 だがそれは通常解釈される実在論の内容ではない。反対に「視点」の全観念はすで に認識論的であり、外的実在論は認識論的ではない。いかなる種類の実在の「視点」 もまったく不可能であると考えることは、実在論と矛盾しないだろう。事実、ある解釈に 関し、カントの物自体説はいかなる「視点」にもアクセス不可能である実在の概念であ る。私は17世紀以来もっともありふれた反実在論は認識論であったが ― ある種の物、 「私たちが知りうるものはすべて私たち自身のセンスデータである」 ― 攻撃されている テーゼ、実在論は、まったく認識論的テーゼを主張するようなものではまったくない。私 は実在論に反対する認識論的議論について後でさらに多く言うべきことがある。 第三の、やはりありふれた誤りは、実在論は、実在自体がどのように実在を記述すべ きか決定しなければならないという、実在を記述するひとつの最良のボキャブラリーで あるという理論を主張していると考えることだ。だが、繰り返すが、上述した通り外的実 在論にそんな含意はない。世界の私たちの表象から独立して世界は存在するという主 張は、それを記述する特権的なボキャブラリーをもつことを含意しない。それは様々に異 なり、そして通訳不能なボキャブラリーが私たちの様々に異なる目的に対する実在の異 なる側面を記述するために構成することができる概念相対性(命題4)のテーゼを主張 する外的実在論と矛盾しない。 これらの点を要約すれば、私がこの言葉を使っている通りの実在論は、真理論では ない。それは知識の理論ではない。そして言語の理論ではない。単純に分類するなら、 実在論は「存在論的」理論であると言えるかもしれない。それは私たちの表象から完全 に独立した実在が存在するという言うのである。 哲学的伝統において、私が暴き取り除く必要がある実在論の概念において広くゆき わたった曖昧さがさらにある。通常、これらの問題を議論する哲学者たちは、あたかも彼 らが世界が実際どのようにあるかに関心があるかのようにそれらの問題を扱う。彼らは いわば、実在論と観念論の間の問題は時空における物の存在についてのものだとか、 対象にについてのものだとか考える。これは非常に根深い誤りである。適切に理解する なら、実在論は世界がどのように実際あるかについてのテーゼではない。私たちはどの ようにすべての詳細において世界があるかについて完全に誤りえるが、実在論はなお 真でありえる。「実在論は物がすべての人間の表象から論理的に独立しているというあ り方があるという主張である。実在論は物がどのようにあるかについては語らないが、 物があるあり方があるとだけ言う」。そしてこのふたつの文における「物」(thing)は物質 的対象(material object)あるいは単に対象(object)を意味しない。それは“It's raining”の“it”のようであり、指示的表現ではない。 その問題が、論争者たちが実際に議論していると考えいたことなら、それが物質につ いての主題であり、また時空における物質的対象についての特定の主張に関わりがな いと私が主張するのは僭越にみえるだろう。だが私はその問題が、そのような特殊な主 張についてのものではありえないということが明確なことを望む。実在論は、たとえばエ ベレスト山の存在を主張する理論ではありえない。なぜならエベレスト山が存在しな かったとしても、実在論は無傷のままであるからである。そしてエベレスト山について真 であることは一般に物質的対象について真である。だが物質的対象が存在しないと か、時空が存在しないとしたらどうだろう?さて、ある意味ではそれは既に起きてしまっ たことである。なぜなら、それ自体は物質的対象ではないが質量/エネルギーの点とし て考えるのが最善である「粒子」の集合として、今日、物質的対象を考えるからである。 そして絶対空間と時間は、座標系に対する関係の集合に変貌した。これは実在論と矛 盾しないだけではない。そうではなく、後に論じるとおり、それはすべて実在論を前提し ている。それは物のあり方を表象する仕方から独立して物がある仕方があることを前提 しているのである。 だが、いくつか SF 的思考実験を続けよう。物理的実在が、最後の意識的行為者の 最後の死を持って、すべての物理的実在が、ある種の「反ビングバン」で吹き飛ばされ るというような仕方で、因果的に意識に依存しているということになると仮定してほし い。それはなお外的実在論と矛盾しないだろうか?矛盾しないだろう。なぜなら意識に おける物質の仮定された依存はどんな他のものと同じように因果的に依存しているか らである。実在論が、実在は意識や他の形式の表象から独立して存在するとき、なんら 因果的主張はなされないか、含意されない。そうではなくその主張は、実在は、何ら論 理的に独立性がない表象によって「論理的に構成される」ことはないという主張なので ある。 「だが存在する存在した唯一の物が、物質的でない意識の状態であることになると 考えてほしい。たしかにそれは実在論と矛盾し、観念論(idealism)や少なくとの反実 在論の一部の他のバージョンの擁護である」。 いいや、必ずしもそうではない。実在論は世界が、他でもない、ある特定の仕方でな ければければならなかったとは言わなない。そうではなく世界の表象から独立して世界 があったという仕方があると言うのである。表象はひとつのものであり、表象される実在 は別のものであり、たとえ唯一の実際の実在が精神状態であることになったとしても、 これは真である。実在論と反実在論の違いを理解するひとつの仕方は、こうである。実 在論的見方では、意識状態だけが存在するなら、船や靴や封蝋が存在しないという主 張は、他のものと同じく外的実在についての主張である。それはそれらが存在するとい う主張と同じく実在論を前提している。反実在論者の主張では、そのような物が存在す るなら、それは必然的に私たちの表象によって構成されており、それらは表象から独立 して存在することはありえないのである。たとえば、バークリーによれば、船や靴や封蝋 は意識状態の集合でなければならない。反実在論者にとって、心ー独立的実在があるこ とは不可能なのである。実在論者にとって、たとえ実際物質的対象がなくても、なお表 象ー独立的実在はある。というのも物質的対象の非存在は、その表象ー独立的実在の ひとつの特徴だからである。世界は実在論と矛盾なく、違うものでありえたが、実際世 界は時空の物質的現象をもつことになったのである。 (別の定式化:実在論者にとって単に、表象以上のモノがあるということが「ありえ た」というだけではなく、実際そのように「なった」ということである。反実在論者にとっ て、表象ー独立的なモノがあるということはありえなかったのである)。 奇妙にも、実在論者は最近哲学や他の学問領域の両方から攻撃を受けてきた。マイ ケル・ダメット、ネルソン・グッドマン、トーマス・クーン、ポール・ファイヤーアーベント、ヒ ラリー・パトナム、リチャード・ローティ、ジャック・デリダ、ウンベルト・マトゥラーナ、フラン チェスコ・バレーラ、テリー・ウィノグラードらは、私たちの表象から完全に独立して実在 があるという私たちの実在の素朴な仮定に挑戦するようしばしば解釈されている(つね にそうだとは思わないが)。一部の科学者は現代物理学は実在論と矛盾すると主張さ えしてきた。そのため J.R.ホイーラーはこう書く。 宇宙は私たちから独立して「外部に」存在するのではない。私たちは起こってい るようにみえるをことを起こすことに不可避に巻き込まれている。私たちは観察 者であるだけでなく、現在や未来と同様に過去を作ることにおける参加者であ る。3 実在論へのこれらすべての攻撃についてはいくつかの心もとない点がある。第一の ものは独立した実在が存在するという常識的考えに反する議論はしばしば曖昧で不 明瞭だということである。ときにはまったくはっきり述べられない議論が提示されさえす る。第二は、代わりとなる見解、実在論に反対すると提示されると考えられる見解はし ばしば等しく曖昧ではっきり述べられない。分析哲学者の中でさえ、実在論の最近の 多くの議論は過去数十年にわたって生じた一般的なゆるさの現れである。主張されて いる命題は正確に何なのか?それが否定していることは正確に何なのか?そして主張 していることと否定していることの両方についての議論は正確に何なのか?これらの問 題についてのほとんどの議論における問いへの答えについては虚しさしかない。私はさ らにこの一般的な不注意は偶然ではないと考える。「私たち」の都合がいいと考えるよ うに、未来の変化を意のままに変えられると前提として、なんらかの形で、現実自体では なく、社会的に構成された世界を「私たち」が作ると考える私たちの権力への意志を満 足させるものである。等しく ― 盲目の、理解不能の、無関心の、私たちの関心によって まったく影響を受けない ― ナマの事実から独立した実在がなければならないことに攻 撃的であるようにおもえる。そしてこれらすべては脱構築が知的に受け入れ可能である とか、エキサイティングだとかさえみえるような、「ポスト構造主義」の反実在論者の バージョンを生む一般的知的雰囲気の一部なのである。だがいったんあなただその開 かれた、裸の、仮面を取った形で反実在論の主張や議論を述べるなら、それはかなり馬 鹿げてみえる。その結果がその曖昧さとこれらの議論の多くの(すべてではないが)曖 昧主義でさえあるのである。 そのため私はひとつの問題をもつ。私は実在論に加えられる攻撃に対して実在論を 擁護すると言ったが、率直に言って答えるに値するいかなる強力な攻撃も見つけるの が難しかったのである。マトゥラーナはオートポエティック・システムとしての神経システ ムがそれ自体の実在を構成するという考えを支持して、「客観的実在」の考えを拒否す る。4 その議論は、オートポエティック・システムによって構成された「合意領域」におけ る実在の社会的構成を通じて以外、私たちは実在の概念も、実在に対するアクセスも もたないため、生物システムから独立して存在する実在はないということのようにおも える。この見解に対して私はこう言いたい。実在についての私たちの知識/概念/絵 が人間の相互作用における人間の脳にょって構成されるという事実から、私たちが知 識/概念/絵をもつ「実在」が、人間の相互作用における人間によって構成されるとい うことは帰結しない。私たちの外的世界の知識の集合的神経生物学的因果的説明か ら外的世界の非存在を推論するのは、ただの誤謬推論、発生論的誤謬である。 ウィノグラードは、同一の文、「冷蔵庫に水がある」はバックグラウンドの関心のある集 合に相関的に偽の陳述をするためにも、別の関心に相関的に真の陳述をするためにも 用いることができると指摘する。5 これから彼は実在は私たちの表象から独立して存 在しないと結論する。マトゥラーナと同様に、繰り返すが、その結論は帰結しない。実在 の私たちの表象の関心ー相対性は表象される実在それ自体が関心ー相関的であること 示さない。いくつかの「ポストモダニスト」の文学理論はすべての知識は社会的に構成 されており、すべての恣意性となんらかの社会構造の権力への意志を前提にしている ため、それゆえ実在論はとにかく脅かされていると論じてきた。ジョージ・レヴァインは 「反実在論は、文学的反実在論でさえ無媒介な知識の不可能性の意味に依存してい る」と書く。6 私が言える限りで、デリダは議論をしていないのである。彼は単にテキスト の外部はない(Il n'y a pas de “hors texte”)と宣言するだけである。そしてどんな場 合でも、私のいくつかの反対に対するその後の論争的な反論において、彼はあからさま にすべて振り出しに戻る。彼は「テキスト」の外部はないというあからさまに見世物的な 宣言によって、彼が意味しているすべては、すべてはなんらかの「文脈」の中に存在して いるという取るに足らない意見か何かなのである!7 その場合、ばかばかしいとしかみ えない結論についての薄弱な、あるいは実在さえしない議論の長たらしい言葉の羅列 に直面した人は何かすべきことがあるのだろうか? 次の私の戦略は、私が外的実在論に反対するもっとも強力な議論と考える物を取り 上げ、それに応えるということである。私が反実在論に説得されたとしよう。何が特に私 を説得したのだろうか?あるいはそれがあまりにもって回ったようにみえるなら、人間性 の運命が、私が反実在論の他の誰かを説得することにあると仮定するなら、どんな議 論を私は使うのだろうか?私は三つの議論を検討する。「概念相対主義」に由来する議 論、「検証主義」議論、私が「物自体」(Ding an sich)議論と呼ぶものである。 実在論に反対する概念相対性に由来する議論 概念相対性の議論は、上述の命題4、概念相対性は、命題1、外的実在論を反駁す るということである。 概念相対性の考えは、古く、そして私は正しい考えだと思う。どんな分類体系も、対 象の個別化も、世界を記述するどんなカテゴリーの集合も、実際どんな表象体系も、慣 習的であリ、その程度に応じて恣意的である。世界は私たちが分ける仕方で分かれて いる。そして私たちが世界を分割する現在の方法が正しいものだと考える傾向がある なら、あるいは避け難いなら、私たちはつねに別の分類体系を想像することができる。こ れを自分で図示するには、チョークで、あなたの本を横切ってテーブルまで線を引き、さ ら本の背後を回ってもとの線につながるように線を引き、線で区切られた本とテーブル の表面の一部をなす新たな対象に名前をつける。この対象を「クラーグ」(klurg)と呼 ぶ。私たちは自分の言語でこの概念の使用法をもたない。だが、水中で活動する聖な る処女たちだけが線を引くことができ、それらの消滅が死の罰に値するという偉大な宗 教的意義をクラーグがもつ文化を想像するのはたやすい。だが「クラーグ」が以前聞い たことがない真理条件をもつ新しい概念なら、どれだけ多くの新しい概念を作ることが できるかには限界がない。世界のいかなる真なる記述もつねになんらかのボキャブラ リー内、なんらかの概念体系内でなされるため、概念相対性はいかなる記述もつねに、 私たちが多かれ少なかれ世界を記述するために恣意的に選択した、なんらかの概念体 系に相関的になされるという帰結を持つ。 そのように特徴づけると、概念相対性は、完全に実に平凡な真であるようにおもえる。 しかし何人かの哲学者たちは、それは外的実在論と矛盾し、結果的に私たちが概念相 対主義を受け入れた場合、実在論を否定することを余儀なくされると考えたのである。 だがこの主張が本当に真なら、私たちは矛盾がまったく明白であるために正確に十分 なふたつのテーゼを述べることができなければならない。 外的実在論 ER は次の主張とする: ER1:実在はその表象から独立して存在する。 概念相対主義(CR:Conseptual Relativeism)は次の主張だとする: CR1:実在のすべての表象は多かれ少なかれ概念の恣意的に選択された集合 に相関的に作られる。 そう述べるなら、これらふたつの主張は矛盾の「見かけ」をもつことさえない。第一の テーゼは、単に記述されるべきものが外部に何かあると言うだけである。第二のテーゼ は私たちはそれを記述するための概念やボキャブラリーの集合を選択しなければなら ないと言うだけである。だからなぜ人は第二のテーゼが第一のテーゼの否定を必然的 にともなうと考えるのか?答えは、もし私たちが概念相対主義を受け入れ、実在論と結 合するなら、私たちは矛盾するようにおもえるのである。 パトナムによる次の例を検討しよう。8 図 7.1 で示すような世界のなんらかの部分が あると想像してほしい。 図 7.1 このミニワールドには何個モノがあるか?さて、カルナップの数学体系によれば(およ び常識によれば)、3個ある。しかしレスニエウスキと他のポーランドの数学者によれば、 この世界には次のように数えて 7 個ある。 1=A 2=B 3=C 4=A+B 5=A+C 6=B+C 7=A+B+C その場合、この空想の世界には何個モノがあるか?3個か7個か?この問いに絶対的 な答えはない。私たちができる唯一の答えは、概念枠組みの恣意的選択に相関的なの である。同一の文、すなわち「正確に 3 個その世界にはモノがある」はある枠組みでは 真であり、他の枠組みでは偽である。議論の核心は、仮定的に独立して存在する実在 の矛盾した記述を認めるため、外的実在論は矛盾にいたるということである。 グッドマンにおいて議論が生じる形式は、他でもない特定の境界を描くことによって 私たちは独自の方法で実在を作る、あるいはグッドマンの好む言い方では、私たちは 「世界を制作する」ということである。たとえば、グッドマンはこう言う。 さて私たちはこのように他でもない特定の星を選び、まとめることによって星座 を作るように、他でもない特定の境界を描くことによって、星々を作るのである。 空が星座か他のものに区別されるべきかどうか命ずるものはなにもないように、 私たちは、それが大熊座、シリウス、食物、燃料またはステレオ装置であると発 見するものを作らなければならない。9 グッドマンは実在論を拒否し、私たちが作る「世界」に記述される事実に相対化する ことによって矛盾を巧みに逃れる。パトナムは心ー独立的実在があると考える代わりに 私たちは、「心と世界が共同で心と世界を作り上げる」というべきだと言う。10 だが、このように考えられた矛盾は本当に問題なのか?ミニワールドの例について、 説得された概念相対論者である実在論者は、モノを数えることが第一の分類体系で設 定されるため、実在的に3個のモノがあり、基準が第二で設定されるため、実在的に7個 のモノがある言うだろう。そしてこの答えは外的実在論を修正したり、放棄するのではな く、単にモノを数える基準がふたつの違う方法で設定されたことを指摘することによっ て見かけの矛盾を取り除く。そのため同一の文、すなわち「世界に正確に3個のモノが ある」は、今度はふたつのまったく異なる独立した、ひとつは真の、もうひとつは偽の陳 述を作るために使用できる。だが実在世界はそれを私たちがどのようにそれを記述しよ うと構わないし、それに私たちが与える様々な異なる記述の下で同じままである。 文献で与えられる概念相対論の例のいくつかは、私が与えたものより難解で複雑で あるが、それらが採用する原理は同じであり、私は複雑さで何かが得られるとは理解で きない。それらはみな、異なる概念体系が、同じ「実在」の異なる、明らかに矛盾した記 述を生むことを示すよう作られている。私が理解できるかぎり、外的実在論と矛盾する どんなものもない。矛盾の見かけは幻想であり、これらの主張の自然な解釈に関して、 もっとも素朴な実在論のバージョンを受け入れ、どんな概念相対主義のバージョンを受 け入れても、矛盾はない。 このように実在論と概念相対主義の関係を考えてほしい。世界の一角、たとえばヒマ ラヤ山脈を取り上げ、それをどんな人間の存在にも先立つ存在すると考えてほしい。さ て人間たちが現れて、様々な異なる方法で、その事実を表象すると想像してほしい。彼 らは異なるボキャブラリーをもち、異なる地図を制作するシステムをもち、同じ山をひと つの山、ふたつの山などと数える異なる方法をもつ。ついで最終的に人間がすっかり存 在しなくなると想像してほしい。さてヒマラヤ山脈の存在とこれら栄枯盛衰の中におけ るヒマラヤ山脈についてのすべての事実に何が起こるのか?絶対に何もない。事実や モノなどの異なる記述が生じ消えるが、事実やモノなどは何の影響も受けないままであ る(これを疑える人は本当にいるのか?)。 代替的な概念枠組みが同じ現実の異なる記述を認めるという事実、すべての概念 枠組みの外部に実在の記述はないと言う事実は、実在論の真理とどんな関係もない。 だが、異なる概念枠組みに相関的である矛盾した記述の、グッドマンが提起した可 能性についてはどうなのか?事例を注意深く見る代わりの方法ないので、どのように外 的実在論が代替的なボキャブラリーを扱うか事例を検討しよう。重さ、すなわち地球の 表面の質量の重力的引力に関する場合、私が完全な素朴外的実在論者であると仮定 しよう。私の体重は誰がなんと言おうと160だと思う。だが待て!私の体重はポンドでは 160だがキログラムではたった73しかない。だから私の体重は本当はどれくらいなの か?160か73か?私は両方の答えが正しいことが明らかなことを望む。矛盾の見かけは 見かけでしかない。なぜなら、私の体重がポンドで160だと言う主張は、私の体重がキ ログラムで73だという主張と一致するからである。外的実在論は、異なる概念枠組みに 相関的である同じ実在の無限の数の真なる記述を認める。「哲学における私の目的は なにか?偽りのナンセンスを明白なナンセンスに変えることを君に教えることだ」11 概 念相対主義が反実在論を含意するというのは偽りのナンセンスである。私の体重が同 時に160(ポンド)でありかつ73(キログラム)でありえないと言うのは明白なナンセンス である。 さらに、概念相対性が実在論に反対する議論として使われるなら、それは実在論を 前提にするようにおもえる。なぜならそれは異なるボキャブラリーによって、異なる方法 で切り分け、あるいは分割できる言語ー依存的な実在を前提するからである。代替的算 術の例を考えてほしい。パトナムはミニワールドを記述するひとつの方法は3個のもの があると言うことであり、別の方法は7個のものがあると言うことだと指摘した。しかし、 まさにこの主張が記述の適用に先立って記述される何かがあることを前提にしている のである。さもなければ、私たちはその例を理解することができる方法さえない。そして グッドマンが「私たちは他でもない、特定の境界を描くことによって星を作る」と書くと き、私たちが境界を描くことができる何かを前提することなく、その主張を理解する方法 はない。私たちが境界を描くことができる領域がすでにあるのではないなら、いかなる 境界を描く可能性もない。 これらの議論を外的実在論に反対するものとみなそうとするなら、私たちは大量の使 用ー言及の誤謬(use-mention fallacy)を犯す。言語的カテゴリーの集合に相関的に のみ、「記述」することができるということから、「記述される事実/モノ/事態/など」 がカテゴリーの集合に相関的にのみ「存在する」ことは帰結しない。概念相対主義は、 適切に理解されるなら、どのように私たちの言葉の適用を決めるかの説明である。言葉 「猫」「キログラム」「渓谷」(あるいは「クラーグ」)の正しい適用とみなされるものは、私 たちの決定次第であり、その程度にしたがって恣意的である。「だが、いったん恣意的 定義により私たちのボキャブラリーの中でそのような言葉の意味を決めたなら、世界の 表象ー依存的諸特徴がその定義を充足するかどうかは、もはやなんらかの種類の相対 主義ないし恣意性の問題ではない。なぜなら定義を充足するか失敗するかは、その定 義や他のどんな定義からも独立しているからである」。私たちは恣意的にしかじかの仕 方で言葉「猫」を定義する。そしてしかじかの定義に相関的にのみ、私たちは「それは猫 だ」と言うことができる。だがいったん私たちが定義をし、いったん定義の体系に相関的 な概念を適用するなら、何かが私たちの定義を充足するかしないかは、もはや恣意的 でも相関的でもない。私たちが、私たちのやり方で言葉「猫」を使うことは、私たち次第 である。その使用から独立して存在するモノがあるということはただの(絶対的、本来 的、心ー独立的)事実の問題である。グッドマンとは反対に、私たちは「世界」を作らな い。私たちは実際の世界に適合するか、適合に失敗するかを「記述」する。だがこれは すべて、私たちの概念体系から独立して存在する実在があることを含意する。そのよう な実在なしに、概念を適用するものはなにもない。 外的実在論と矛盾する概念相対主義のバージョンを手に入れるためには、私たちは 同じ陳述(同じ文ではなく同じ陳述)がある概念体系における世界についてではありえ るが他の概念体系では世界について偽でありえることを含意するバージョンをもたなけ ればならないだろう。私はおよそバカバカしくないような例も見たことがない。私たちが なんらかの実在の領域を表象する異なるモデル、いわばアリストテレス物理学とニュー トン物理学や、地球の表面のメルカトール図法と標準的な地球儀がある考えてほしい。 さてメルカトール図法においてグリーンランドはブラジルより大きいが、地球儀ではグ リーンランドはブラジルとほぼ同じである。だから私たちは同じ実在の共に真であるふ たつのモデルをもっているのではなく、事実互いに矛盾するモデルをもっているのでは ないか?答えはノーだ。メルカトール図法は、ブラジルとグリーンランドの相対的大きさ について単に不正確なだけである。特定のあるモデル、すなわちアリストテレス物理学 やメルカトール図法は、世界のある特定の特徴について誤りか、歪めていることはよく 知られたことである。 世界についてのすべての真なる陳述は互いに矛盾せず肯定できる。実際にそれらが 互いに矛盾せず肯定できないなら、まったく真ではありえない。もちろん私たちは曖昧 さ、不確定性、家族的類似性、開かれたテキスト性、文脈依存性、理論の非整合性、両 義性、理論構成に関与する理想化、代替的解釈、証拠による理論の決定不全、など爾 余のすべてに常に直面する。だがこれらは、私たちの表象体系の諸特徴であるが、これ ら体系の一部が表象するのに、多かれ少なかれ、使うことができる表象ー独立的な実在 の特徴ではないのである。しばしば同じ文が、ひとつの概念的枠組み内では真を主張 するのに用いられ、別の概念枠組みでは偽を主張するのに用いらることがありえる。だ がこれはこれまで繰り返し見てきたとおり、本当の矛盾を示すのではない。 検証主義者の議論 20世紀哲学は言語と意味に取り憑かれてきた。それは、誰かが言語や意味を離れて は何も存在しないという考えを示すことが、おそらく避けがたいというのが理由である。 20世紀前半は経験と知識に取り憑かれており、それに呼応して哲学者たちは経験と知 識から独立して実在は存在しないという考えを示した。17世紀以来、西欧哲学史にお いて、ほとんどの反実在論のありふれた議論は認識論的理由に由来してきた。 実在論に反対する検証主義者の議論の背後にある基本的哲学的動機は、最初に 懐疑論が可能になる見かけと実在の間、裂け目を取り除くことによって懐疑論の可能 性を排除しようとすることだったと私は思う。実在が経験でない何かであるなら、私たち の経験がなんらかの形で実在について構成的なら、その場合実在に対する経験を決し て取り除くことができないと言う懐疑論の形式には答えられない。 これはカントの超越論的観念論がバークリーでみるよりも洗練された観念論の変種 である哲学における頑迷な主張である。そして同じ主張が、他の人が表現の使用によっ て意味したものを本当に理解したことを疑いえることについて、私的に残るものはない ため、「公共的」用語で、あるいは「行動主義的に」さえ意味を分析する様々な努力の形 で20世紀後半まで生き残ったのである。 しかしたとえ私がこの診断について正しいとしても、実際の議論に答えるものではな い。だから私は実在論に反対するもっとも強力な検証主義理論と私が考えるものをこ こで提示したい。それはこんな感じだ。 あなたが本当に何を知っているか自問してほしい。私は「本当に」(really)知っ ていると言っている。さて、あなたは椅子に座り、目の前に机があり、コンピュー タ・スクリーンを見ていると本当に知っていると言うかもしれない。だがそれにつ いて考えるなら、本当に知っているものは、あなたがある経験をもっているという ことだと理解するだろう。だからあなたが椅子や机やコンピュータ・スクリーンに ついてそれらの主張をするとき、あなたはあなたの経験について語っているか、 あなたが本当は知らない何かについて語っているかのいずれかである。さらに あなたが経験以上の何かについて語ろうとするなら、あなたは自分が知りえな い何かについて語っていることになるのである。あなたがどのように世界につい て知るかを尋ねるなら、答えはこうでなければならない。あなたの経験によって。 だがその場合あなたはジレンマに直面する。あなたが知っているという主張は、 あなたの経験内容を単に報告しているか、その内容を超えたものを主張してい るのか?前者ならその場合、あなたの経験内容以外知られるものはない。後者 ならあなたは検証できない主張をしているのだ。なぜならすべての検証は経験 にあり、かつあなたは、仮定により経験するものを超えた主張しているのである。 たとえば、私が今、目の前に机があると知っていると主張する。そのような主張は何を 意味するのか。さて、私が直接的な知識を持つすべてのものは、触覚的、視覚的経験で ある。そして私 ― あるいは他の誰か ― が直接的な知識を持ちえたすべてのものは、そ のような経験以上のものである。だから私の元の主張はどうなるのか?実際かつ可能 な経験(20世紀のジャーゴンでは「センスデータ」と呼ばれ、17世紀のジャーゴンでは 「観念」とか「印象」と呼ばれた)があるという主張になるか、あるいはもし何かそれ以上 が主張されるなら、その場合いかなる研究にも完全に知りえない、アクセスできない何 かについての主張がなければならないことになるかのいずれかである。そのような主張 は経験的に空虚である。結論は明白である。経験は実在について構成的である。 この議論は何人もの著者たちの中で起こり、結論は様々なボキャブラリーで述べら れてきた。対象は観念の集まりである(バークリー)。対象は感覚の恒久的可能性であ る(ミル)。経験的陳述は、センスデータについての陳述に残余なく翻訳することができ る(20世紀の現象論)。バークリーは「もし物質が存在したなら、私たちはそれを決して 知りえないだろう。存在しないならすべては同じままである」と言って、この議論をほぼ 要約する。 その議論にはふたつの要素があるように私にはみえる。第一のものは、私たちが知 覚するものはすべて、自分自身の経験である。それゆえ経験を超えた実在があると仮 定するなら、それは不可知であり、最終的に理解不可能である。第二のものは、第一の ものの拡張である。それは実在世界についての主張にため私たちがもつ唯一の基礎は 私たちの経験であると言う。それゆえ実在世界についての主張が経験内容を越えるな ら、仮定により、私たちは何ら認識論的基礎をもたない何かを前提にしている。 私は両方の要素とも誤りであると思う。ひとつずつ検討しよう。人が意識的に何かを 知覚する場合いつでも人はある特定の経験をもつというのは実際真である。たとえば すべての知覚に対して、対応する視覚経験がある。発話の形式的様式において、「私は 机を見る」と報告することは、「私はある特定の種類の視覚経験をもっている」を含意す る。だが、視覚経験が視覚的知覚の本質的構成要素であるという事実から、視覚経験 が知覚される経験であることは帰結しない。要するに人が実在世界を知覚するその知 覚器官を用いる場合いつでも実在する世界に直接アクセスしないということは帰結し ない。そのため、たとえば今すぐ私は目の前の机を見る。そのようなケースで、私は単に 机を知覚する。そうすることで、私は知覚経験をもつが、知覚経験は知覚対象でもなく、 あるいは机がそこにあると私が結論する基礎の証拠でもない。私はここに机があると いう「証拠」の基礎に基づいて「結論する」のではない。そうではなく私は単純にそれを 見るのである。だから議論の第一の要素、すなわち、知覚経験で私たちがアクセスする ものはすべて知覚自体の内容であるというのは誤りである。12 私は第二要素もまた誤りだと思う。議論のため、私の前に机があるという私の現在の 種のための認識論的基礎が私の現在の感覚経験の存在であり、そこに机があると言 う主張 ― 常識的に素朴実在論の仕方で理解するなら ― 私の経験についての陳述 の単なる要約以上のことを述べるということを認めてほしい。何が帰結するか?机がそ こにあると言う主張は、不可知な何か、なんらかの可能な証拠あるいは他の認識論的 基礎を超えた何かを述べているのか?私の知識にとっての認識論的基礎が私の現在 の経験であるという事実から、私が知ることができるすべては、私の経験であるという ことは帰結しない。反対に、私が例を記述した仕方は、正確に私の経験は、それ自体経 験ではない何かへのアクセスを私にさせるケースである。一般に経験的主張がそうす る認識論的基礎を越えるということは哲学でおなじみの点である。たとえば、科学的仮 説が利用可能な証拠単なる要約であるなら、それを行うことに利点はほとんどないだろ う。 しかしこの点で反実在論者たちの擁護者は次のように言うことを望むだろう。 反実在論者に対するこれらの答えを提示する際、あなたは暗黙のうちにあなた が実在世界における心ー独立的なモノを本当に知覚していることを前提してい たが、それは正確にあなたが前提する資格がないものである。議論の全体の要 点は、あなたは正確にこれらの経験を持つことができ、かついかなる机もそこに ないということである。だがそれが真なら、その場合そこに机があるというあなた の「結論」のための「証拠」を提供するものとして経験を考えるかどうかは重要 ではない。要点は机がそこにあるというあなたの自身のためにあなたがもつ唯 一の基礎は、これらのセンスデータの現前であり、机がセンスデータ以上の何 かであると考えるならそれは、あなたは正確にこれらの経験を持つことができる ため、その自信を正当化するには十分ではなく、完全に誤りであるということで ある。外的実在の仮定は、本質的に不可知であり、究極的に理解不可能な何か の仮定である。 これに対する答えは何か?この議論で、私は一般的懐疑論に答えようとはしていな い。それはこの本の範囲を超える一群の問いだからだ。だからこの議論のため、私がこ れら経験的内容を正確にもっており、完全な幻覚をもっているかもしれないと認めてほ しい。私は伝統的認識論の恐怖にすっかり服従しているかもしれない。私は水槽の脳 であり、悪魔に欺かれており、夢を見ているのかもしれないなど。だが目前に机があると 言う私の主張は単に私にその主張をさせる経験の要約であるということは帰結しな い。すなわちたとえ懐疑論が正しくても、そして私が系統的に誤っていても、「私が誤っ ているものは実在世界の諸特徴である」。そのような諸特徴について系統的に誤って いる可能性は、私のそれについての主張が単なる私の感覚的経験についての陳述の 要約であることは示さない。 これらは古代の戦場である。そしてその風景は認識論の戦争によってひどく荒廃し ているが、私は哲学的領土の基本的な論理的地理学は単純で容易に認識できる。反 実在論を支持する検証主義者の議論は次のとおりである。 1. 私たちが知覚においてアクセスするすべては私たち自身の経験内容である。 2. 外的世界について主張するため私たちがもつことができる唯一の認識論的基 礎は私たちの知覚経験である。 それゆえ、 3. 私たちが有意味に語ることができる唯一の実在は、知覚経験の実在だけであ る。 私は陳述1が偽だと論じてきた。私たちは通常、世界のモノや事態を知覚する。さらに 私は陳述2は真だが、陳述3を含意しないと議論してきた。経験的主張がその証拠に基 づく、あるいは認識論的な基礎の要約として理解される程度にのみ有意味であると考 えるのは誤りである。最終的に、私は根本的な誤りの可能性、懐疑論が提起する可能 性は関係ないと主張した。たとえ、私たちが伝統的懐疑論風に、系統的に誤っていると しても、陳述3は帰結しない。反対に、懐疑論が正しいなら、私たちが誤っている当のも のは実在する世界である。 私は反実在論を支持する検証主義者の議論の他のバージョンがあることは知って いるが、このバージョンは17世紀からまさに論理実証主義に至る経験主義者の伝統で もっとも普及しているものだったと思う。私はまた一般にこのすべての伝統的認識論に おいて、特殊にデカルト主義の懐疑論に答えようとする試みは、すべての哲学的企て全 体にとって中心的であることもわかっている。私はこれらは誤りだとみなす。認識論は 重要性をもっているが、確実に哲学的企ての中心ではない。なぜ私が議論してきた種 類の認識論的検討が反実在論を支持する確実な議論を決して提供しえないかは、こ れらの検討を述べるためでさえ、私たちは実在論を前提にしなければならないからであ る。私は次の章でこの点にもどるつもりだ。 物自体の議論 言及する価値のある外的実在論に反対するもう一つの議論、物自体に関する議 論、Ding an sich の議論がある。 現代哲学でこの議論の顕在的なバージョンを見出すのは難しいが、それは口承伝 統で議論に上り続けている。概念的相対論に由来する議論と検証に由来する議論の 組み合わせと考えるのが最善である。それはこうである。 知覚、思考、研究などにおける世界を扱う際、私たちはつねになんらかの概念枠 組み内から働きかける。私たちのいわゆる「経験」でさえ決して直接に「実在」か ら生じるものではないが、私たちの概念を通じて、最終的に他の経験を指示でき る。私たちが表象が実際に本当に適切かどうか見るため、私たちの表象や表象 されるといわれる実在の間の関係を調べることができる神の視点もない。私た ちが側面からそれらの関係を見ることができる方法もない。そうではなく、私たち は私たちの表象 ― 私たちの信念、経験、発語など ― の内部に常にいる。なぜ なら私たちは直接的に実在を精査するため私たちの表象群の外部に出られな いからであり、私たちが表象と実在の間の関係を調べることができる非表象的 な立場はないからであり、そして物自体に対して表象を計測することによって、 その適切さを評価する可能性すらないため、超越的実在について語ることは まったくもって単なるナンセンスでなければならない。私たちが本当に手に入れ ることができる、アクセスできるすべての実在は、私たちの表象の体系に内的で ある実在である。体系内で、実在論、内的実在論の可能性があるが、体系外部 の実在の観念は私たちの知識だけでなく、言語や思考の理解を超えている Ding an sich、物自体(thing in itself)のカントの概念のように空虚である。 外的実在論が私たちに提供するものは思考不能な、記述不可能な、アクセス不 可能な、知りえない、語ることができない、究極的に無意味な何かである。そのよ うな実在論の本当の問題はそれが偽であることではなく、それが究極的に理解 不可能であるということである。 この議論を私たちはどうしたらいいのか?繰り返し、一群の前提と結論をもつ顕在的 な議論としてそれを述べようと試みるなら、どのように結論が帰結すると考えるかを理 解するのは難しい。 条件:どんな認識状態も一群の認知状態の一部として、認識体系内部で生起する。 この前提から次が帰結すると考えられる: 「結論1:すべての認識状態と、認識状態とそれを認識するのに用いられる実在の間の 関係を調べる体系の外部にであることは不可能である」。 そしてこれから今度は次が帰結すると考えられる: 「結論2:どんな認識も認識から独立して存在する実在から生じるものでは決してありえ ない。」 適切に理解すれば、結論1は実際前提から帰結しないようにおもえる。一方で、すべて の表象は一群の表象内部で、なんらかの表象体系内で生じる。このため一群の表象的 状態と、表象体系の間の関係のいかなる表象も、他方で、表象される実在もまたなんら かの表象体系内で生じる。だがそれがなんなのだ?どんな認識も、すべての認識から独 立して存在する実在から直接生じないということは、すべての認識が認識体系内にあ るという事実から帰結しない。結論2はただ帰結しない。実際そう帰結すると考えること は、古臭い観念論が犯した誤りと同じ形式の誤りであるようにみえる。 問題の診断 私はここで、実在論を攻撃し、実在論に反論するそのような薄弱な議論を進めること が、技術的に有能な哲学者たちの間でさえ、なぜ流行するかについて部分的な診断を 提供したい。 西欧哲学における最後の主張のひとつは、なんらかの仕方で真理と実在が一致す べきだと考えることである。なんらかの仕方で、普通私たちが考えるように、真理と実在 のようなものが本当にあるなら、その場合真理は実在の正確な鏡を提供しなければな らないだろう。実在自体の本性は真なる陳述の正確な構造を提供しなければならない だろう。この立場の古典的陳述はウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』13 にある が、私はその観念はプラトンと同じように古いと思う。哲学者が実在の構造と心のある 表象の構造の間の正確な同型性を達成するのに絶望するとき、誘惑はなんらかのしか たで、真理と実在の私たちの素朴な概念は信頼できなくなったと考えることだった。だ が彼らは信頼できなかったのではない。信頼できなかったものは真理と実在の間の関 係のある特定の誤解である。 なぜ真理と実在が多くの哲学者が素朴な外的実在論者がその偶然の一致を犯して いると考える仕方で偶然に一致することがありえないかについて単純だが、深い理由 がある。その理由はこうである。すべての表象、そしてなおさら有力な理由を持つすべて の真なる表象は、つねに他でもない、ある特定の様相の下にある。すべての表象の様相 的正確は、つねにある特定の概念枠組み内に、またある特定の視点に由来する。だか らたとえば水として私の目の前にある物を記述するなら、実在の同じ断片はあたかも H2O としてそれを記述される。だがもちろん、H2O と表象する場合よりも、水と表象す るなら、同じ物を異なる様相の下で表象している。厳密に言って、どんなものでも表象で きる、無限に多くの異なる視点、異なる様相、異なる概念体系がある。それが正しいな ら、確かにそうなら、その場合非常に多くの伝統的哲学者が切望したようにみえる真理 と実在の偶然の一致を手に入れるのは不可能であろう。すべての表象は、様相的形態 をもつ。それは他でもない特定の様相の下その対象を表象する。要するに、私たちが実 在を表象することはある視点からのみであるが、存在論的に客観的実在は視点をもた ない。 さらに人間の脳と人間の相互作用自体についても問題がある。それらもまた人間の 相互作用によって構成されていると考えられるのが? 何が間違いか?パトナムのケースで、テキストの詳細な読解は、彼が「形而上学的実 在論」というラベルの下で少なくともふたつの論理的に独立したテーゼをひとまとめに 扱っていることを示唆する。 第一:実在はその私たちの表象から独立して存在する。 第二:実在の記述に対して、ひとつ、ただひとつの正しい概念枠組みがある。 第一は私が外的実在論(ER)と呼んできたものである。第二を「特権的概念枠組 み」(PCS:Privilieged Conceptual Scheme)と呼ぼう。パトナムは正確に概念相対 主義(CR)が PCS を反駁すると考える。そしてあなたはある連言を反駁することによっ て連言をつねに反駁できるので、もし形而上学的実在論が ER と PCS の連言である なら、その場合形而上学的実在論は反駁された。だが唯一つを反駁することによって 両方の連元を反駁するのではない。だから PCS が偽であることは、ER を手付かずに する。パトナムの著作は彼が PCS を反駁することによって ER を反駁したと考えている 印象をあたえる。ER を支持する単調な主張が、彼の読者にとって救いとなる場合でも、 おそらく彼は「反駁」が ER に及ぶとは考えていないのである。だが彼はそのような主 張はしていない。反対に彼は「内的実在論」と呼ぶ見解を支持する。私は私が擁護して きた外的実在論とパトナムもまた拒否すると主張する完全な反実在論との中間にある 「内的実在論」に一貫した立場があるとは思わない。 第8章 実在世界は存在するか 第2部:外的実在論の証拠はありえるか? 理解可能性のバックグラウンド条件としての実在論 私は実在論に反対する特定の標準的議論が妥当でないと言った。では実在論に賛 成する所与の議論にはどんなものがあるのか?世界についての私たちの表象から独立 して世界が存在することを示すための議論を要求することについてなんらかの難問が ある。私はカントがそのような証拠はないことがスキャンダルであると考えたこと、ムー アがただ両手を上げて証拠を示すことができると考えたことも知っている。だが人は、カ ントがその要求を提起した仕方では何もその要求を充足し得ないし、それを充足する ムーアの試みはとにかく「的が外れている」と感じる。だが同時に人はカントの要求を満 たさなければならないと感じる程度に、ムーアは確かに正しかったと感じる。彼は確かに 両手があり、両手があったなら、その場合外的世界は存在する。正しい?何がどうした んだ?私たちは外的実在論を証明する私たちの主張と、どんな証拠でも巧みに論点を 避けるという私たちの感覚の両方を説明する必要がある。 外的実在論の証拠に対する要求は、まさに挑戦の提起がどういうわけか挑戦される ものを前提してしているという合理性の証拠 ― 「合理性についてあなたの議論は何 か」 ― についての1960年代、人がよく耳にした要求に少し似ている。「議論」や「証拠」 を提供するどんな試みも、すでに合理性の基準を前提にしている。なぜならその基準の 適用が何かが議論ないし証拠であることについて構成的であるからである。一言で言 えば、議論はすでに合理性を前提にしているため、あなたは議論によって合理性を証明 できない。枠組み内から枠組みを正当化する要求は、つねに意味を欠くが、とにかく私 たちに責任があるようにみえるそのような多くの一般的枠組みはある。そのため、特定 の議論が、合理性と妥当性の基準内で妥当ない合理的であることを証明することはで きるが、合理性が合理的である、ないし妥当性が妥当とであることをその基準内で証 明することはできない。同様に言葉の所与のつながりが、文法的か非文法的な英語の 文であることを立証できるが、言語としての英語が文法的か非文法的か立証すること はできない。なぜなら英語は文法的に英語の基準を設定するからである。なんらかの種 類の「議論」によって外的実在論を立証しようとする努力は、これらの努力のひとつに 類比的だろう。それはあたかも表象が表象することを立証しようとするようなものであ る。あれこれの主張がどのように物が本当に「外的世界」にあるかに対応するか、対応 するのに失敗するか示すことはできるが、そのような仕方で、外的世界があるという主 張が、どのように物が外的世界にあるかに対応することを示すことはできない。なぜな ら外的世界に対応するか対応に失敗するかというどんな問いも、すでにその主張が対 応するか、対応に失敗する外的世界の存在をすでに前提にしているからである。外的 実在論は、そのためテーゼでも仮説でもなく、ある特定の種類のテーゼや仮説をもつ条 件なのである。 外的実在論を支持する標準的な現代的議論に注目するならこの議論全体が何か 間違っていると理解できる。実在論についてのある標準的議論、おそらく標準的議論 は、科学における収斂が実在論のある種の経験的証拠を提供するということである。そ の考えは異なる時と場所で活動する様々な科学的研究者が同じ結論、類似の結論に 至るため、彼らがそうする最善の説明は、独立して存在する実在が彼らを同じ仮説や 理論に収斂させることを引き起こすということである。この議論の難点は、収斂ないし 収斂の失敗のような現象がある可能性を理解する際、私たちはすでに実在論を前提し ているということである。そのような仕方で科学研究が収斂するかどうかという問いを 私たちが立てるためにでさえ、私たちは研究に従事する研究者から独立して存在する 実在を前提しなければならない。これらの研究が収斂するか、収斂に失敗する。すなわ ち収斂の議論全体は実在論を前提にしている。なぜならそれは陳述「科学は収斂す る」は、真であろうと偽であろうと、あるいは他のなんらかのその陳述から独立した実在 に関するものだからである。この点を指摘する別の方法がある。科学が収斂に失敗する 領域、例えば社会心理学において、私たちが失敗を認めることは正確に、科学が収斂 する領域の認識と同じほど実在論のため「証拠」を提供する。すなわち、収斂、非収斂 のいずれにせよ何かを認める際、私たちはすでに実在論を当然のこととしているため、 科学は(実在論のための)「証拠」をまったく提供しないのである。 収斂の議論が、外的実在論のための一般的議論としてではなく、科学理論が仮定 する観察不可能な実体の存在に関するひとつの議論としてしばしば提示されているこ とを私は知っている。だが、その場合ひとつのジレンマに直面する。他方、収斂議論があ れこれのタイプの観測不可能な実体、たとえば電子の存在を立証するなら、その場合 収斂の概念は証拠、検証、真理の通常の概念に何も付け加えない。電子を仮定する原 子論が私の実験室でもあなたの実験室でも確証されるなら、その場合それは理論が 真であるさらなる証拠であり、理論が電子が存在することを必然的にともなうなら、その 場合私たちは電子が存在する良い証拠をもつ。収斂の概念はこのストーリーに何も付 け加えない。そして観測不可能な実体の異なるタイプについて多くのそのようなストー リーがありえるという事実はなお、科学的確証や反証のケースのリスト以上の何も与え ない。だが他方、収斂の議論が科学研究の社会学についての本物のメタ理論、すなわ ちセカンド・オーダーの経験的事実の問題として、異なる場所と時間で働く科学者たち が、ある実験室から別の実験室へと合意する結果として、収斂する結果を生み出す傾 向があり、そしてこの収斂が実在論に関する証拠を裏付けているという趣旨の理論で あるなら、その場合私がすでに表明した反論を前提にしているのである。そのため私た ちは収斂の問題を、実在論を前提しなければならないと考えさえできるのである。 私がさらに問いたいこの点を探求するため、ムーアの証拠の何が間違いなのか? ムーアは両手、紙、靴、ソックスなどふたつ以上の物の存在を証明することによって、 「私の外部の物」の存在を証明し、事実上「外的世界」の存在を証明したと考えた。な ぜなら、彼が言うとおり、「空間で出会うことである何らかの物があることが直ちに帰結 するだろう」からである。* この見解で、彼の前提と結論の間の関係は、直接必然的に ともなう関係である。私が両手をもつという命題は外的世界が存在する命題を必然的 にともなう。外的世界の存在は、少なくともひとつの手の存在がその命題の真理条件 であるのと同じ仕方で、ふたつの手をもつという命題の真理条件である。「ふたつの手 をもつなら、その場合直ちに空間で出会う物がある」ということが帰結する。そして彼は 実際に表現することによって「前提」を立証する。彼は単純に特定のジェスチャーをし て、それによって彼の両手の存在を「証明する」。だがこれには何かうさんくさいものが ある。たとえばバークリーは、ムーアが両手をもっていることに同意しただろうけれど、主 張された立証に挑戦しただろう。だからあたかもムーアは「論点を巧みに避けている」よ うにみえる。その立証の何が正確に問題なのか? 私はムーアの証明には少なくともふたつの困った特徴があると示唆する。第一 は、ER は他の何かのような真理条件であるという仮定である。第二は実在論が「空 間」における外的「対象」についての理論であるという仮定に関係する。これらの主張 に対して私がしたい主張はこうである。第一に、そのふたつには明確な分割線はない が、私たちは真理条件と理解可能性に関する条件について一般的な区別をする必要 がある。真理条件の範例的ケースのようではない、言語表現(discourse)の理解可能 性に関する、実際、志向性一般の機能に関する条件がある。発言の通常の理解におい て、私たちはこれらの条件を当然のことする。そしてそれを当然のこととしない限り、私 たちが行う方法で発語を理解することも、ある充足の条件をもつ志向状態を持つことさ えできないだろう。以前の著作で、私はこれらの条件を、一方で信念のネットワークや他 の志向状態と他方でバックグラウンド能力などに分けた。私はここでしている主張は ER は、バックグラウンドの当然視される部分として機能するということである。私たち が ER を当然のこととしないなら、私たちは自分が通常行う発語を理解できない。私た ちはこれまで関わってきた種類の発言や考えにさらに関わるため ER を当然のこととし なければならない。ER の前提は考えや言語の大きな塊にとってそれゆえ「必要な」前 提である。私たちはたとえば数世紀前地球は平らだという前提を諦めたように、それを 諦めることができる。 そして私たムーアにしたい第二の回答は、そう解釈された ER は経験的テーゼでは なく、特定の種類のテーゼをもつ上での理解可能性の条件であり、その場合、私たちは 「空間」に「対象」があるという理論には何ら特別な関連がないと理解できる。第 7 章の 初めで言った通り、たとえ「対象」や「空間」の私たちの概念が根本的に改訂されなけ れなければならないということになっても、実際、原子論や相対性理論によってき改訂 されてきたように、やはり、ER はそのままである。注意深く述べれば、外的実在論はど のように物があるかについてのすべての表象から独立している物があるあり方があると いうテーゼである。 私たちの表象から独立した実在があるというテーゼは物がどのように実際あるかと は同じではなく、「可能性の空間」と同じである。ウィトゲンシュタインの例のスタイルを 使うなら、私たちはそれをこの様に考えることができる。私がこう言ったと思って欲しい。 「私の財布にはお金がない」。さてその発語はお金の存在を論理的に含意しない。あな たは次の式から: ~(∃x)(money x & in my wallet x) ~(∃x)(お金x&私の財布xに) (xがお金であり、かつxが私の財布にあるのようないくつかのxがあるということは真で はない) 次の式を推論できない: (∃x)(money x) (∃x)(お金x) (xがお金であるようないくつかのxがある) だがやはり、もともとの発語はそれが行う種類の意味を成すかぎり、お金の存在の前 提に対して、私たちは私たちが行う仕方でそれを理解するだけである。それはお金をも つ可能性の空間に対してその意味をもつ。その意味で外的実在論 ER は陳述の非常 に多くの可能性の空間を分節する。 外的実在論を支持する「超越論的」議論 このような示唆 ― ER はバックグラウンドの前提であり、経験的理論ではなく、例え ば空間におけるモノについてのなんらかの特定の内容をもたない純粋に形式的なもの である ― が正しいなら、ER を支持し得る唯一の議論はカントのその用語の多くの意 味のひとつにおける「超越論的/先験的(transcendenta)」議論であるだろう。私たち はある特定の条件を保持し、その条件の前提を示そうと思う。 しかしこれを行うために、私たちはその見解が、私たちが反対しているものだというこ とを正確にしなければならない。反実在論は単一の教説ではなく、様々なバージョンで 生じる。ここでの議論のためにはふたつがもっとも重要な主張である。第一のものはす べての実在は意識状態からなるという主張であり、第二のものは実在は社会的に構成 されているという主張である。それは私たちが「実在世界」と考えるものが、ただの人々 の集団によって構築された物の集まりにすぎないというものだ。レッテルを貼るために、 第一の主張を「現象論的観念論」と呼び、第二の主張を「社会構成主義」と呼ぼう。 現象論的観念論に反対する単純な超越論的議論がある。私は超越論的議論はある 特定の条件を手に入れることを仮定し、その場合その条件の前提を示そうとする議論 だと言った。しかしこの場合、「条件」は私たちの実践に対応するものでなければなら ず、「前提」は一人称の視点から私たちがその実践に携わる際、前提にしなければなら ないものでなければならない。その条件は私たちが、公共的言語である特定の種類の 発語をすることによって互いにコミュニケートを実際試みることであり、その前提とは外 的実在論である。これをもう少し正確に明確に説明するため、私たちがしている仮定 は、発語を理解する普通の仕方があり、公共の言語で発話遂行する際、発話者は通 常、標準的理解の達成を試みるのである。私たちが示そうとしている点は、(さらに特定 するため)大きなクラスに関して、これらの発語の標準的理解に関する理解可能性の 条件は、物が人間の表象から独立しているということである。結論は「私たちがこの種 の発語を標準的に理解することを達成するためコミュニケートを試みる時、私たちは外 的実在論を前提しなければならない」ということである。 私たちが、外在的実在論の真理を証明しようとしているのではないことに注意してほ しい。私は ER に論点を巧みに回避するのではない(non-question-begging)議論が ありえるとは考えていない。だが私たちはある特定の種類の話をしている時、外的実在 論を前提していることを示すことができる。 議論を発展させるため、私は「標準的理解」の概念を説明する必要がある。ほとんど の発話行為にとって、常識ないし標準的理解がある。しばしば、これは脱引用によって 与えられる。たとえば「私は手が二本ある」という発語の標準的理解は、話者が手を二 本もつという主張であるこということである。だがなんであれ脱引用があろうとなかろう と標準的理解を記述するさらなる方法がつねになければならない。そのためたとえば 「私は二本手がある」ことについての標準的理解において手とは何かについての可能 な記述がなければならない。 標準的理解を記述の先を追うなら、あなたはすぐ、少なくとも普通解釈されるようなも のではない、真理条件ではない条件に達するだろう。これを理解するため、どんな種類 の物を、私たちがムーアの主張を理解する時、自動的に当然のこととしているかを自問 して欲しい。第6章でみた通り、私たちが文の意味論的内容で顕在的ではないが、私た ちが自動的に当然のこととしているバックグラウンドの多くの特徴がある。たとえば私た ちはムーアの手が彼の身体の残りの部分へのある特定の関係でつながっていることを 当然のことする。私たちはもし次のようなアナロジーでそれを理解するならまったく異 なって文を理解するだろう。すなわち「私はふたつのダイヤモンドのネックレスをもってお り、両方ともスイスの銀行の保管庫に入れてある。そして私は両手をもっており、同じ銀 行の保管庫に入れている」。 だたその文においてそれはムーアの両手が銀行の保管庫にはなく、彼の身体につな がっているとさえ言っていないか、含意していないのではないか?これが私たちが単に 当然のこととしている物のひとつである。私たちがムーアのような単純な発語さえ理解 するためしなければならない、そのようなバックグラウンドやネットワークの前提の数は 限定されていない。そのため、たとえば、ムーアが両手をもち、彼の身体にまったくつな がっていないが、左耳から生えていると仮定して欲しい。あるいはもしかしたら彼の手 は腕に付いているのだが彼の身体が砂粒の大きさに縮んだり、彼の両手が大西洋程 の大きさに大きくなったと仮定して欲しい。再び、もし人々に手があるとしたら、それが中 断したフラッシュライトの出入りだと仮定して欲しい。バックグラウンドにおけるこのよう な頭のおかしい変容にともなって、私たちは現在私たちがそれを理解しているのとは まったく異なった仕方で文を理解するだろう。要点は、私たちの標準的理解において、 私たちは大量のことを当然のこととしているが、私たちの標準的な理解におけるこれら の条件の多くは、少なからず歪みなく、発語に関する真理条件を考えることができない ということである。これらは発語の真理条件を「決定する」(fix)のに役立つ種類の条件 である。それらはそれ自体その真理条件の一部ではない。 私が今実証したい主張は、外的実在論は発語の非常に大きなクラスの標準的理解 に関するバックグラウンドの前提であるということである。だがそれが広範であり、本質 的である両方だということは他のバックグラウンドの前提とは異なる。それは非常に大 きな発語のクラスに適用されるという意味で広範的である。私たちがそれなしにはこれ らの発語をの標準的理解を維持できないと言う意味でそれは本質的である。それが広 範的であることを理解するためには、次のような広い範囲のまったく異なる種類の発語 に適用されることに注意して欲しい: エベレスト山の頂上付近は雪と氷で覆われている。 私の犬にはノミがいる。 水素原子はどれもひとつの電子をもっている。 それが「本質的」であることを示すためには、「公的」言語の文として問題の文がいか なる有能な話し手と聞き手によって「同じ」仕方で理解されることを仮定されていること を思い出す必要がある。標準的理解は話し手と聞き手のによる理解の同一性を必要と し、そしてこれらのケースにおける理解の同一性は、指示表現の発語が、「公的に」アク セス可能な実在を、存在論的に客観的である実在を指示すると主張することを必要と する。あなたと私はともに上述の発語 ― エベレスト山、私の犬、水素原子 ― を同じ仕 方で理解できる。なぜならば、私たちはその発語は公的にアクセス可能な実在につい てであることを当然のこととしている。そしてこの点はたとえ特定の指示が私たちが指 示しようとこころみる実体の非存在のため失敗するとしても保持される。たとえエベレス ト山や水素原子が決して存在しなかったとしても、また私が犬を飼っていないとしても、 やはり私たちは外的実在の存在に関するそれらの標準的な理解可能性に依存するも のとして、発話をなお理解する。私たちはほとんど「たとえエベレスト山がなく、水素原子 がなく、サールの犬がなくても、エベレスト山がなく、水素原子がなく、犬がいない“その ような外的実在がなおあるだろう”」と言いたくなる。だがそれは言い方が間違ってい る。なぜなら、それはあたかもここでの発語が大文字の E と R をもつ「外的実在」 (External Reality)と呼ぶ何か特別な実体への秘密の指示をもっているかのようにす るからである。*訳注そしてそれは正確に私が言いたいことではない。そうではなく、私た ちが言わなくてはならないことはこうである:公的言語は、多くの(すべてではない)公 的言語の発語が、存在論的に客観的である現象を指示すると主張すると言う意味で、 公的世界を前提にしておりそれらはこれらの現象に云々の特徴を帰属させる。今度は これらの真理条件 ― これら現象の存在とこれらの特徴をもつこと ― をもつものとして *訳注 常識だが、世界にひとつしかない名詞に「the」を付したり、大文字にする。このため「固有 の、ただひとつの」の意味を持つ。例えば、the sun、the universe、God、the god、Derrida。 これらの発語を理解しなければならないために、私たちは世界が私たちの表象から独 立しているというあるあり方をがあるということを当然のこととしなければならない。だが その必要条件は正確に外的実在論の必要条件である。そして現在の議論にとってこ の点についての帰結は、公的言語におけるコミュニケーションをする努力は私たちが公 的世界を前提にするということを必要とするということである。そして問題の「公的」の 意味は公的実在がその実在の「表象」から独立して存在することを必要とする。 要点は、発語の理解において、私たちがエベレスト山や水素原子や犬のような特定 の指示対象の存在を前提しなければならないということでは「ない」。そうではなく理解 可能性の条件はたとえそれらが全然存在しないことになったとしてもなお保持される。 エベレスト山の存在は陳述の真理条件のひとつではあるが、世界についての私たちの 表象から独立した世界に物があると言う仕方の存在は、真理条件ではなく、そのような 陳述が持つ理解可能性の形式の条件なのである。 要点は認識論的ではない。それは理解可能性の条件についてであって、知識の条 件ではない。ならならその点は私たちの陳述が知られているか、知られていないかどう か、またそれらが真か偽か、そしてたとえ指示されていると主張されている対象が存在 するかどうかに適用されるからである。要点は単に私たちが検討してきた種類の発語を 私たちが理解するとき、私たちは公的にアクセス可能な実在を前提するものとしてそれ を理解するのである。 同じ結論に至る別の仕方がある。どんな真理要求も物がその主張内容に関係する 仕方があるということを前提する。そしてこの点は次のような数学的陳述についても同 じように維持される。 2 + 2 = 4 次のような個人的経験についての陳述についても同様である。 私は痛い 山や犬や電子についての陳述についても同様である。これら後者の種類の陳述につ いて特別なものは、それらは公的にアクセス可能な現象、これらの例で、公的にアクセ ス可能な物理的対象を支持すると主張しているということである。だたこのようなケー スについて私たちは物が私たちの表象から独立しているというだけでなく、「物が公的 にアクセス可能である、すなわち存在論的に客観的である領域がある仕方がある」こと を前提している。しかし心ー独立的実在の前提はすでに表象ー独立的実在を前提を含 んでおり、その前提はただ外的実在論を前提にしている。そのように解釈された ER は 純粋に形式的な制約である。それはどのように物があるかを語るのではなく、私たちの 表象から独立してものがある仕方があることだけを語る。これまでの議論は次のような 一連の段階に要約することができる: 1. 公的言語における発語の標準的理解はその発語がその言語の能力のある話 し手と聞き手によって「同じ仕方で」理解可能であることを必要とする。 2. 発語の大規模なクラスは話し手、聞き手そして彼らの表象の外部に存在する、 それらから独立した、そして場合によってはすべての表象から独立した現象を指 示すると主張する。 3. 1と2の特徴は私たちが表象から独立して存在する真理条件をもつものとしてこ れらの文の多くの発語を理解することを必要とする。単に認識論的に客観的で はなく、存在論的に客観的である「公的現象」を指示すると主張することによっ て、私たちは陳述の真や偽は、世界がどのようにあるか、私たちがそれをどのよ うに表象するかから独立して決定される。 4. しかしその前提は、私たちの表象から独立して物がある仕方であるという主張 に達する。そしてその主張はまったくの外的実在論(のひとつのバージョン)で ある。 この点を理解する最後のひとつの方法は ― そしておそらくもっとも単純な方法は ― 腕力を使うことである。バックグラウンドの条件を否定する顕在的な陳述を、発話行 為それ自体に挿入して何が起きるかを見る。たとえばどのようにそれが標準的な真理 条件の否定と対照されるか見てみよう。 もし私がこう言うなら: エベレスト山の頂上付近は雪と氷で覆われており、かつエベレスト山に雪がない 私が言ったことは自己矛盾的である。なぜなら第一文節は第二文節を否定するから である。 だがもし私がこう言うなら: エベレスト山の頂上付近は雪と氷で覆われており、かつ外的実在は決して存在 しなかった 私が言ったことは文字通りなぞなぞである。標準的な仕方でどのようにそれを理解 すべきか私たちにはわからない。なぜなら第二文節は第一文節と単に矛盾はしない が、第一文節の標準的理解で当然のこととされている条件を否定するからである。 バークリーや他の観念論者はこの点のような何かを大いに認めていた。バークリーは 彼の説明が、人がそれ自身の観念のみ指示するなら他の人とのコミュニケーションに どのように成功するかについての問いに問題があることを理解していた。バークリーの 答えは、神がコミュニケーションの成功を保証しているということだった。バークリーも私 同意すると信じるが、これは私の意味における標準的理解について真ではない。私が 「雪は白い」と言うとき、あるいは「私の犬にはノミがいる」と言うとき、私は標準的に神 頼みして理解しているのではない。なぜなら無神論者さえ公的言語でコミュニケートし ようと試みることができるからである。バークリーは外的実在論を放棄する代償が標準 的理解を放棄することであると理解していたし、彼はその代償を払うつもりであった。実 在論に対する現在の挑戦の一部に対するひとつの反論は、そのような代償を払うこと なく外的実在論を放棄したいということである。実在論を放棄する代償は標準的理解 を放棄することである。誰かが標準的理解をは放棄することを望むなら、その人はどん な種類の理解が可能か説明する義務を私たちに負う。 ナマの実在と社会的に構成された現実の区別 私の議論はまだ完全には終わっていない。これまでの議論は、もし妥当なら、社会構 成主義に対するものでなく、現象論的観念論に対する答えである。これまで示してきた ことは発語の非常に大きなケースについて、「それぞれの」個別の発語はその理解可 能性にとって公的にアクセス可能な実在が必要であるということである。私はさらに表 象独立的なものとしてその実在をさらに特徴づけた。だがなお曖昧さが残る。お金や結 婚の話は公的にアクセス可能な実在の話である。そしてそのような現象はこの20ドル 札あるいはこのサムとサリーの結婚があなたや私のその表象から独立して存在すると 言う意味で「表象独立的」である。結局お金についての陳述は充足されたり、されな かったりする発話行為から独立した事実があるという条件を満たす。「あなたは私に5ド ル借りがある」は、「エベレスト山の頂上付近は雪と氷で覆われている」と同じほど独立 して存在する実在を前提にしている。だが結婚やお金は、山や原子とは異なり、「すべて の」表象から独立して存在するのではなく、この区別は説明で明らかにされる必要があ る。これまで議論はたとえばお金が社会的に構成されているような仕方ですべての実 在が社会的に構成されていることを認めるよう解釈できたかもしれない。たとえお金の 存在が社会的に構成されていたとしてお金についての事実は認識論的に客観的であ り、それゆえその程度に従って、存在論的に主観的である。 議論を完成するため、私たちは実在にそれ自体を超えて指示する発話行為のクラス 内で、その標準的理解が「すべての」表象から独立した実在を必要とする下位クラスが あることを示す必要がある。それを示すもっとも単純な方法は、社会的に構成された現 実は、すべての社会的構成物から独立した実在を前提していることを示すことである。 なぜなら何かが、構成される構成のためになければならないからである。たとえばお金、 財産、言語を構成するためには、たとえば金属、紙、土地、音、印などのかけらのナマの 材料(raw material)がなければならない。そして次いで、私たちがすべての表象から 独立したナマの物理的現象の底に達するまで構成される、よりナマの材料すら前提し ないナマの材料は社会的に構成されえない。社会的に構成された現実の存在論的主 観性はそれが構成される存在論的な客観的実在を必要とする。前の節の「超越論的 議論」― 公的言語は公的世界を前提する ― のため、私たちはこの節で「超越論的議 論」 ― 社会的に構成された現実は非社会的に構成された実在を前提にする ― を付 け加える。 議論のこの段階までに、要点が明白であることを期待する。ある意味、この本の主な 目的のひとつは、それをはっきり説明することだった。社会的に構成された現実の創出 の論理的形式は、構造 X を C で Y とみなすの繰り返しからなるため、その繰り返しは、 それ自体制度的な構成物ではない要素 X で底に達さなければならない。さもなけれ ば、あなたは無限後退するか循環するだろう。あなたがナマの事実なしに制度的事実を 持つことができないということは、この本の主な議論の論理的帰結である。 実在論の議論を結論するため、私はまた、ナマの物理的事実についての陳述の私た ちの標準的理解についての条件と、制度的事実についてのそれとの間に正反対の関 係があることを示したい。「すべての」表象を超えた実在をその理解可能性のため前提 する発話行為のクラスがあることを示すため、腕力をもう一回使い、その条件の否定に ついての反事実的仮定を表象それ自体に課す帰結を観察しよう。例えば次の主張を 検討してほしい: 1.エベレスト山の頂上付近は雪と氷で覆われている とその否定: 2.エベレスト山の頂上付近は雪と氷で覆わているというのは偽である 1と2によって例示される種類の発話行為は、私が説明を試みてきた意味で、「存在 論的に客観的」であり、それゆえ「表象ー独立的」である事実を陳述することを主張して いると私は論じるつもりである。この点でそれらは例えば次の主張とは異なる: 3.あなたは私に5ドル借りがある とその否定: 4.あなたが私に 5 ドル狩りがあるのは偽である 私たちは反事実的仮定法をその主張に課すなら違いが理解できる。 A.表象が決して存在しない以外、私たちの世界のようである世界において、エベレスト 山の頂上付近は雪と氷で覆われている そして: B.表象が決して存在しない以外、私たちの世界のようである世界においてエベレスト 山の頂上付近は雪と氷で覆われているのは偽である A と B において私たちの標準的な、素朴な直感的理解に関して、事前の仮定は、そ の帰結の否定がこのタイプの陳述の地位に影響しないという事実によって示される通 り全陳述の私たちの理解に影響しないことに注意してほしい。A と B の両方の真偽は 間にエベレスト山の頂上付近の雪と氷の現前ないし不在に依存しており、エベレスト山 の頂上付近の雪と氷の現前は人間の存在や他の種類の表象には決して依存しない。 だがこれらのケースを次と対照せよ: C.表象が決して存在しないこと以外、私たちの世界と同じような世界において、あなた は私に5ドル借りがある そして D.表象が決して存在しないこと以外、私たちの世界と同じようで世界において、あなた が私に5ドル借りがあるというのは偽である 一方 A と B の間と、他方 C と D の間には重大な違いがある。私たちの標準的理解 において、A と B は反事実的仮定によって影響を受けない。私たちの理解は同じであ り、その真理はエベレスト山の頂上の雪と氷の存在にまったく依存している。だが C は そのまま、なぞなぞであり、「エベレスト山に雪がありかつ外的世界は決して存在しな い」というのが自己否定的であるのと同じ仕方で自己否定的でさえある。というのも数 多が私からお金を借りることの可能性の条件は、特定の人間的規則、実践、制度の存 在だからである。そしてこれは D を得るため C の帰結を否定するなら、少しでもその結 果を理解し得るなら、私たちは瑣末な真理としてそれを理解しなければならないだろう という事実によって示される。だれも表象のない世界で誰かに何かを借りることができ るということは決してない。誰も一切何かを言ったり考えたりしない世界であなたが私 にお金を借りると言うことは、野球が決して存在しない世界で、ワールドシリーズの3回 にセンターにシングルヒットを打ったというようなものである。 要約すれば、私がしている主張はこうである:どんな陳述も表象であり、それゆえ陳 述として理解されることは表象として理解されなければならない。陳述1、2、3、4は全て この特徴をもつ。だが一方で陳述1と2と他方で陳述3と4の間には違いがある。1と2は 世界の心ー独立的特徴を表象すると主張しており、それゆえそれらの標準的理解可能 性の条件の一部として世界における表象の存在を必要としない。あなたはこれ1、2、3、 4が表象の非存在の反事実的仮定を表現する文に埋め込まれる A、B、C、D の文の標 準的理解を検討することによって理解できる。私たちの標準的な理解において1と2の 真理の価値は影響を受けない。3と4の真理の価値は、決定的に影響を受ける。仮定に おいて3は自己否定的、ほとんど自己矛盾的になる。4はもし少しでも理解可能なら、瑣 末に真である。そのため私たちの標準的理解においてお金についての陳述は標準的 理解可能性のその条件の一部として表象の存在を必要とする。山についての陳述は 全くそのような必要条件から自由である。 その場合、結論は外的実在論の前提と、標準的理解における人間的表象の存在の 前提の間には対照的関係があるということである。お金と山の両方についての話の標 準的理解は外的実在論を必要とするが、お金の話の標準的理解は、山の標準的理解 が前提しない仕方で、表象の存在を前提する。お金は社会的に構成されており、山は 社会的に構成されたものとは理解されない。 前述の議論の強さと限界 ちょうど第7章の目的が、ある特定の議論がその前提に反しては働かないことを示す ことであったのと同じように、この章のこの目的は、私たちの日常言語的実践が外的実 在論を前提していることを示すことだった。次に私はこの節で「超越論的議論」によって 何が証明され何が証明されないか言おうと思う。 1.私は外的実在論が真であることは示さなかった。私はそれは公的言語の非常に 大き部分の使用によって前提されていることを示そうとした。私が例示した種類の発話 行為で標準的方法で他人と自らコミュニケートしようとするなら、あなたは外的実在論 の立場に立つ。私は実在世界があるとは示さなかったが、あなたが私や他の誰かと話 をする時あなたがその存在を受け入れることだけを示した。 2.ひとつの代替案はつねに独我論、私の精神的状態が存在する唯一の物だという 見解である。私は独我論を反駁しなかった。すなわち私は私に関して独我論を反駁しな かった。ひとつ覚えておいてほしい。あなたの独我論は即座に私によって反駁される。 私の独我論は ― あなたが存在すると仮定することによって ― 即座にあなたによって 反駁される。 3.私は私たちがみな実在論の信念をもっているとか、その信念を受け入れるとか示 さなかった。反対に実在論はバックグラウンドの一部である。バックグラウンドを理解す る鍵のひとつはこうである:人が、すくなくとも命題に関して、何らかの信念、考え、仮 定、仮説ないし前提的態度をもつことなしに命題の真理に関与できない。「何かを当然 のこととする」は心理学的状態を名指す必要はない。前理論的に、私たちは外的実在 論を当然のこととし、その理由のためそれは信念である必要はなく、信念をもつことに 先立つのである。 4.その議論について何も認識論はない。私は、私たちの主張について「真理を知る」 ために、実在論を前提しなければならない。私の議論は完全に知識やあるいは真理に ついての問いから完全に独立している。私の議論において、真が「実在する」世界につ いての大いに必要とされるものとして表現するのと同じく、偽は表現する。繰り返せば、 その主張は「理解可能性」の条件についてであって、「知識」の条件についてではな い。14 5.議論は標準的理解がある発語にのみ適用される。有名なことに量子力学や集合 論的パラドクスには標準的理解は存在しない。量子力学の解釈をめぐる闘争は少なく とも部分的にはこれらの主張の標準的理解を提供しようという試みである。世界につ いてのすべての命題が標準的理解をもつのではない。 6.標準的理解について自己保証的なものは何もない。時には私たちは新たな発見 のために標準的理解を改訂するのを余儀なくされる。これは色について陳述のケース で起こった。前理論的に私たちは物の固有の特徴と考えるが、物理学は色に関する限 り、唯一のモノの固有な特徴は、様々な波長の光を異なって反射したり、吸収したりする ということである。これらの光/物質の相互作用は私たちが色と解釈する経験を生み 出す私たちの神経システムに発見された。このような場合、私たちはひとつの標準的理 解を別のものに置き換える。しかし標準的理解の置き換え(そしておそらく正しい)が以 前の(おそらく誤りである)標準的理解がしていたのと同じ ER を前提にしていることに 注意していほしい。この点を大変慎重に指摘するなら、そのように色が外的世界の一 部ではないという発見は外的世界の存在の私たちの前提を脅かさなかった。なぜなら 私たちは色の主観的幻覚の代わりとなる説明をあたえるためなお外的世界を信頼する ためである。類似の見解はたとえば固体性についてもなされうる。科学史に訴えること で ER を反駁する見込みは、失敗するよう運命づけられているようにみえる。なぜならそ の歴史は、明らかに存在論的に客観的な現象が、本当に主観的にみえる誤った標準的 理解を、本当は客観的だと仮定された現象に関連して与えられた説明に置き換えるこ とのひとつだからである。 7.私の議論が正しいなら実在する世界の存在を証明する要求に直面する際、私たち の困惑と既存の証拠の不適切さの説明に向かって前進しなければならない。私はそれ はこうだと思う。いったん私たちが、対話者に話し始めるなら、私たちは外在する世界の 存在をすでに前提にしてきた。そして私たちの証明の試みがすでに前提していることを 証明しようとしていることに困惑させられるのである。 私は次の問いに答えてこの章を結論する:それがどうして問題なのか?それに何の 意味があるのか?結局、ウィトゲンシュタインがどこかで言そうだが、まさに非常に多く の闘争で叫ばれたのと同じく、実在論と反実在論、観念論と唯物論の間のこれらの大 きな議論を解釈することは可能である。反実在論者はそれにもかかわらず、あたかも外 的世界のモノであると信じるかのように、自動車を修理するために修理工場に運転した り、歯を磨く。だったら実在論者とか反実在論者とか言うかどうかに何の意味があるの か? 私は実際、哲学的理論は私たちの生活すべての側面に大きな意味があると考える。 私が観察するところ、実在論の拒否、存在論的客観性の拒否は、現代の知的生活にお ける認識論的客観性、合理性、真理、知性への攻撃の本質的構成要素である。真理、 認識論的客観性、合理性の伝統的概念を傷つけようと試みる様々な言語、文学、教育 でさえ、外的実在論に反対する議論に非常に大きく頼っているということは偶然ではな い。非合理主義と戦う第一段階 ― 単なる段階でなく第一段階 ― は外的実在論に反 対する議論の反駁であり、広大な発言領域の前提とした外的実在論の擁護である。 * 重要な一節はこうである:すなわち、私が一枚の紙と人の手の両方が存在 することを証明できるなら、私は今「私たちの外部に物」があることを証明したこ とになるだろう。私が靴とソックスの両方があることを証明できるなら、私は今 「私たちの外部の物」があることを証明したことになるだろう、など。そして同様に 私が二枚の紙あるいは両手、ふたつの靴、ふたつのソックスなどが存在すると 証明できるなら、私はそれを証明できたことになるだろう。その場合、そのような 数千万の物があり、いつでも、そのうちどれかひとつを証明できるなら、私は、私 たちの外部の物の存在を証明できたことになるだろう。私はこれらの物のいず れも証明できないのか? カントが、私たちの外部の唯一の可能な証明があること、すなわち彼が与え た証明があることから、それぞれが完全に厳密な証明である、非常に多くの異 なる証明を与えることができ、また他私は別の多くの時点で別の多くの異なる 証明を与える立場にいたように私にはおもえる。たとえば、私は今ふたつの人間 の手があることを証明できる。どのように?私の手を上げ、右手で何かのジェス チャーをしながら「これはひとつの手がある」と言い、左手で何かのジェスチャー をしながら「そしてこれはもうひとつの手がある」と付け加える。そしてこうするこ とで私が事実上、外的物の存在を証明したなら、あなたは私が他の多くのこと で、今それをすることができることを理解できるだろう。これ以上、例を増やす必 要はない。 原文: That is to say, if I can prove that there exist now both a sheet of paper and a human hand, I shall have proved that there are now 'things outside of us'; if I can prove that there exist now both a shoe and sock, I shall have proved that there are now 'things outside of us', etc.; and similarly I shall have proved it, if I can prove that there exist now two sheets of paper, or two human hands, or two shoes, or two socks, etc. Obviously, then, there are thousands of different things such that, if, at any time, I can prove any one of them, I shall have proved the existence of things outside of us. Cannot I prove any of these things? It seems to me that, so far from its being true, as Kant declares to be his opinion, that there is only one possible proof of the existence of things outside of us, namely the one which he has given, I can now give a large number of different proofs, each of which is a perfectly rigorous proof; and that at many other times I have been in a position to give many others. I can prove now, for instance, that two human hands exist. How? By holding up my two hands, and saying, as I make a certain gesture with the right hand, 'Here is one hand', and adding, as I make a certain gesture with the left, 'and here is another'. And if, by doing this, I have proved ipso facto the existence of external things, you will all see that I can also do it now in numbers of other ways: there is no need to multiply examples. G. E. Moore, Philosophical Papers, “Proof of an External World”(London: George Allen & Unwin, 1959), pp145-146. *訳注;ムーアの両手による外的な世界の証明の一部である。 第9章 真理と対応 社会的現実の性質への探求は、それによって社会的現実についての私たちの陳述 が真となるような事実の地位を研究することで進んだ。哲学的ゴミ掃除の最後の問題 として、その手続きを正当化するため、私はこの章で真理が事実の対応の問題である という考えを擁護しようと思う。以前の章で私はこれが5ドル紙幣であるとか、私がアメ リカ市民であるという事実のような事実の性質と構造について問いを立てた。事実の 存在に反対する、あるいは真の陳述と事実の間の対応に反対する懐疑的議論が本当 に妥当なら、その場合私の企てのこの側面は、すくなくとも作りなおす必要がある。私の 社会的現実の概念は、真理の対応説を論理的に必要としない ― 対応説を拒否して も、なお私の分析を受け入れることはできる ― 、だが実際私が抱く全体の図式は、外 的実在論によって対応説を通じて社会的現実の構造へ進む。そして私はここでその図 式を詳しく説明しようと思う。 真理、事実、対応の完全な分析は、ここで提供するより多くの紙幅を要すると私は思 う。だが私は一般的分析を提供のではなく、より限られた目的をもっている。私の目的 は社会的事実の研究のための方法論的ツールとして対応説(のひとつのバージョン) を正当化することである。しかしそれをすることすら、私はある条件を持って真理論と呼 ばれうるものを提供しなければならないだろう。そしてこれは私がいくつかの対抗する 理論に回答することを必要とする。 この章は三つの章からなる。第一に、私は事実に対応するものとして真理の直感的 な考えを提示する。第二に、私はストローソンや他の者が行ったこの理論に対する一群 の反対を再検討する。第三に、私は真理、事実、対応、そしてストローソンのスタイルの 反対に応えるため使う脱引用についての一般的説明を提示する。最後にこの章の付 録で、私は対応説に反対する「スリングショット議論」(slingshot argument)に答え る。 対応としての真理の直感的な考え 一般に、陳述は、陳述から独立して存在する世界で物がどのようにあるかを記述す る試みである。1 陳述は、世界における物が本当に陳述が言う仕方であるかどうかに 依存して、真か偽である。ようするに真理とはある種の言語的表象の正確性の問題で ある。だからたとえば、水素原子はひとつの電子をもつ、地球は太陽から9千3百万マイ ル離れている、私の犬は今キッチンにいるという陳述は、それぞれ水素原子、太陽系、 家犬の用事における物が本当に陳述が言うとおりの仕方であるかどうかないかに依存 して真か偽である。そう解釈された真理は程度の余地がある。例えば、太陽についての 陳述は、「だいたい真」である。 いくつかのバージョンで、この考えは真理の対応説(correspondence theory of truth)と呼ばれる。それは「真」(true)の説明として、次のようにしばしば提示される。 「陳述はそれが事実と対応する場合、その場合に限り真である」。 A statement is true if and only if it corresponds to the facts. だがこれが「真」の説明であると考えられるなら、私たちは「対応する」(一致する)や 「事実」が何を意味するかについてもう少し語る必要がある。私はこれらの概念の理解 を始める最善の方法は、対応説に「反対する」とみなされるとしばしば考えられる考え から始めることだと思う。その考えはこうである:どんな真の説明も次の条件を満たさな ければならないと言われる。 どんな文sについても、 sはpである場合、その場合に限り真である s is true if and only if p “s”には、文であることを明示するもの、たとえば引用符によって「雪は白い」を挿入 し、“p”には文それ自体を挿入する。そのためその公式を置き換えた例は次のとおりと なる。 「雪は白い」は雪が白い場合、その場合に限り真である “Snow is white” is true if and only if snow is white この真の基準は場合によって、「脱引用」(disquotation)と呼ばれる。2 なぜなら、 左辺で引用された文が右辺で引用符の脱落として現れるからである。置き換えた例は 「T 文」(T sentence)と呼ばれる。脱引用の基準は「私はお腹が空いている」というよ うな指標的文(indexical sentences)*訳注に対応するためには修正が必要である。ま た厳密さを求める人は、文、陳述、命題の間の注意深い区別 ― 上述のような脱引用 基準では明らかではない区別 ― をすることを望むだろう。さらに、メタ言語 *訳注 indexicals、代名詞や時を示す語。I, here, today など、文の使用者や場合により同じ語 の指示が変わる (metalanguage)には含まれない対象言語(object language)の文に、*訳注メタ言語 に帰属する真理を可能とするため脱引用を修正する必要がある。例えば、 「Schnee ist weiß」は雪が白い場合、その場合に限りドイツ語で真である “Schnee ist weiß” is true in German iff snow is white だが、これらすべての問題に対応するため修正することは可能である。「私はお腹が 空いている」のような指標的文について、例えば次のように言うことができる 話者 S が時点 t に言った「私はお腹が空いている」は S が t にお腹が空いてい る場合その場合に限り真である “I am hungry” said by a speaker S at time t is true iff S is hungry at t メタ言語が対象言語を含まないケースについて、右辺の文が左辺で引用される文と 同じ命題の翻訳でなければならないと言える。そして文、陳述、命題の区別は、脱引用 の基準の枠組み内で維持することができる。だからこの議論のため、私は指標的を無 視するつもりであり、また議論の本質的でない場合はそれら区別を無視する。 私たちの例で、左辺に引用される文「雪は白い」はそれによって示される文を特定 し、右辺はその文が真である場合、充足されなければならない条件を特定する。文が真 である場合「それによって」文が真であること、あるいは ― 同じことになるが ― 「文を 真にする」ことを特定する。そしてそれは単にまさに同じ文を単に繰り返すことによって これを行う。これは脱引用を瑣末に見せる。だが私たちの現在の目的にとって、少なくと も脱引用の基準には重要な考えがある。第一に文は、文の外部で表現される条件を充 足することによって真とされる。第二に、非常に多くケースで、私たちはただ文を繰り返 すことによって文を真とする条件を特定できる。 文が真である場合、文を真とするすべてのそれら条件、それによって文が真となる T 文の右辺で特定されるすべてのそれら真理条件(truth maker)*訳注を名指す名詞な いし名詞句を私たちは必要とする。「事実」という言葉は ― 「状態」や「事態」と同様 ― 真理条件を名指す一般的用語として発展し、「対応する」は文が諸事実によって真とな るすべての様々な仕方を名指す単なる一般的用語である。「自然な解釈において、“事 実”と“対応”の概念の適切な理解を伴う真理の脱引用基準は、真理の対応説を含意 *訳注 対象言語(object language)は、文法や数学の定義など、ある言語体系についての規則を記 述する言語であるメタ言語(metalanguage)の対象となる言語。定訳はない。メタ言語とそれによっ て定義される対象言語の関係は、母国語と外国語の関係に修正されることができるというのが本文 の趣旨。 *訳注 truth maker または truthmaker に定訳はない。「真とするもの」、「真理条件」である。 truth bearer または truthbearer(「真の担い手」)の対語。T 文では左辺(後件)が truth bearer、右辺 (iff...)、したがって必要十分条件が truth maker である。 する。なぜなら T 文の左辺で引用された文が真である場合、それが右辺で述べられた 事実と対応しなければならないからである」。 私が言ったとおり、対応説が脱引用基準に潜在的に含まれているなら、私たちはそ の含意を詳しく説明できなければならない。私は様々な段階についてより詳しく後に論 じるつもりだが、予備的な定式化において、それは次のとおりである。 1.脱引用を仮定する: どんな s についても、s は p である場合、その場合に限り真である For any s, s is true iff p. 2.上記の“s”と“p”に適切な置換えをするならば、T 文の右辺は左辺で特定される文 が真である場合その場合に限り、充足される条件を特定する。 3.充足される場合その条件に一般的な名前を私たちは必要とする。他の中で、その名 前は“事実”である。 4.文が、真の場合それを真とする仕方で、事実に関係する様々な仕方に名前を付ける 動詞を必要とする。そして他の中で、その動詞は「対応する」である。 5.これらの理解に伴って脱引用基準から、対応説のひとつのバージョンを私たちは得 る いかなるsについても、sが p である事実に対応する場合、その場合に限り、sは 真である。 For any s, s is true iff s corresponds to the fact that p. 対応説が他の意味論的概念を使うことなしに、“真”を定義する試みではないことを 私は直ちに明確にしなければならない。この説明を非意味論的用語で“真”の「定義」 として理解しようとするなら、それは循環となるだろう。なぜなら“事実”や“対応する” のような意味論的含意のある概念を用いるからである。 私はこれまで言ってきたすべてが明白に聞こえることを期待する。なぜなら私はそれ が本当に明白だと考えるからである。しかしこれらの点がお決まりのように否定される ことをあなたたちに語らなければならない。そして多くの哲学者たちは脱引用を何か対 応説に対して悪影響を及ぼすものだと考える。このすべてには深い哲学的問題があ る。なぜなら後に説明する理由のため、私たちはこれらすべての点を誤解する深い哲学 的主張があるからである。私はこれらの問題に後で戻るつもりだ。 ストローソンの対応説への反対 40年以上前、真理と事実についてのオースチンとストローソンの間の有名な議論が あった。3 一般にストローソンが議論で勝ったものと受け入れられている。ストローソン の反対の多くは、オースチンの対応説のバージョンの特定の細部に対するものだった が、彼はまた対応説の他のバージョンにも適用可能な一般的な反対を提示した。そし て彼はこう結論した。「対応説に必要なのは清めではなく、お払い箱である」。4 彼の主 張は真の陳述は事実に対応するものではないと言うのは間違いだということではな く、対応説は私たちに“真”という言葉の使用や、事実の性質の誤った図式を与えると いうことである。それが私たちに与える図式は、事実はある種の複合的な物や出来事、 あるいは物の集合であり、“真理”は陳述とこれら非言語的実体の間の特別な対応関 係を名指すということである。彼は言う。「その欠点は、‘陳述と事実の対応’を“ある種 の関係;出来事、物、あるいは物の集合の間の関係”と誤って表象することである」。5 私はストローソンの説明の多くの特徴に同意する。事実、長年、私はそれは対応説に 対する決定的な反対を提示していると確信していた。続けて、私はそれを要約し、同じ 精神でいくつかの追加の考察を加えてそれを強化しようと思う。にもかかわらず、私は 次節でストローソンの議論が、強化しても、対応説をお払い箱にする必要は示さないと 論じるつもりである。 対応説によって自然に示唆される特定の図式はある。そしてその図式はストローソン が誤りだと論じる。その図式は私たちが対応説を主張するとき、一方で陳述、たとえば 「猫が寝ころんでいる」をもち、他方で、猫が寝ころんでいるという複合的な物あるいは 物の集合、事実を私たちはもつ。真理を確かめるため、私たちはその場合陳述と事実が 一致するかどうかを見るため、比較する。この概念において事実は複合的な物ないし出 来事であり、一致は陳述の諸要素と事実の諸要素の適合ないし写像関係である。 歴史的に、真理の対応説が意味の写像理論(the picture theoty of meaning)、 文が事実の慣習化された写像(conventionalized pictures of facts)であるため、 文が意味するものをもつという理論とともに進んだのは偶然ではない。この概念の古 典的説明は、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』6にある。この対応説の概念は悪 名高い問題である。猫と寝ころぶという複合体とその関係として猫が寝ころんでいると いう事実を考えるのがたとえもっともらしいとしても、猫が寝ころんでいないという事実 についてはどうか?あるいは頭が三つある猫はいないという事実についてはどうか?あ るいは猫が寝ころんでいたなら、犬はキッチンにいただろうという事実についてはどう か?ラッセルは若きウィトゲンシュタインに手紙を書いた:「否定的事実はあるのか い?」。ウィトゲンシュタインは返事を書いた。「もちろん、ない!」。 この対応説によって発生した図式、事実が複合的なものや出来事であり、真理が陳 述とその事実の諸要素のある種の適合ないし同形性からなるという図式は馬鹿げて いる。いったん陳述と事実を同定したなら、私たちは、それらを比較する以上にすること がない。なぜなら事実を同定する唯一の方法は真の陳述をすることだからである。いっ たん私たちが問い「どの事実?」に答えたなら、私たちは既に真理を確立した。なぜな ら、ストローソンによれば、ふたつの独立した実体、真なる陳述、事実はないからである。 そうではなく「事実は陳述が(真の場合)述べるものである。事実は陳述についてのも のではない」7 事実は、言語から独立した世界にあるものではない。そうではなく「陳 述」や「真」自体のような言葉と同じく「事実」という言葉は、それに組み込まれている、 あるタイプの言葉 ― 世界に関係する談話をもっている。要するに事実は言語を超えた 物ではなく、事実はすでにそれに組み込まれた陳述と真理概念をもっている。なぜなら ある事実を特定するためには、私たちは真の陳述を述べなければならないからであ る。8 フレーゲは事実は単に真なる命題であると考えた。9 そして真なる陳述ないし真なる 命題と事実の間の内的論理的つながりは、確かにその考えを魅力的にする。結局、勝 ちと勝利の間の内的論理的つながりは、ふたつの頃なるタイプの出来事があるのでは 「ない」ことを示す。類比的に言えば、真の陳述と事実の内的論理的つながりは、ふたつ の異なるタイプの現象、真なる陳述と事実があるのではないことを示す。だがそうでは なく、事実が単に陳述であるため、人が真なることを述べるときはいつでも、人はひとつ の事実を述べるのか?だがこれは誤りである。そしてストローソンはそうなるのは回避す る。彼は言う。「“事実”と“真なる陳述”を同一視するのは間違いだろう ― オースチン 氏の理由のためではないがというのもこれらの表現は私たちの言語の中で異なる役 割をもつからである」10 ストローソンはその議論を発展させないが、どんなケースでも 事実が単に真なる陳述ということが正しくはありえない。なぜなら、たとえば事実は、真 なる陳述がしない仕方で因果的に機能する。たとえば「ナポレオンが左脇腹への危険 に気づかなかった事実が彼の敗北を引き起こした」11 は意味があるが、「ナポレオンが 左わき腹への危険に気づかななったという真なる陳述が彼の敗北を引き起こした」は まったく意味を成さないか、なにか完全に異なる何かを意味している。 だがストローソンは事実と真なる陳述の間の内的関係があり、その関係はふたつの 独立した実体の間の本物の関係ではありえないということを主張した。私たちの本物 の関係的陳述のモデルは次のようなものであろう シアトルはポートランドの北にある。 Seattle is north of Portland. このような関係を手に入れるかどうか見出すため、第一にシアトルを特定し、その後 ポートランドを特定し、そして本当に前者が後者の北にあるという関係を表しているか どうかを見る。だが私たちは陳述と事実の主張された対応関係で、それをすることがで きない。なぜなら事実を特定するため、私たちはつねに対応する真なる陳述を述べなけ ればならないからである。事実の真なる陳述に対する「関係」は、それらの対応する動 詞の内的対格(目的格)である名詞によって指示される典型的な実体である仕方で内 的である: 猫が寝ころんでいるという陳述は、猫が寝ころんでいるという事実に対応する The statement that the cat is on the mat corresponds to the fact that the cat is on the mat. は次のように例示される本物の関係モデルに基づいて理解されるべきはない: シアトルはポートランドの北にある Seartrle is north of Portland. だけでなく、次のような擬似内的対格のモデルに基づいて理解されるべきではない: サムは勝利を勝ち取った Sam won a victory あるいは サリーは打撃を打った Sally struck a blow 文法的に、「事実」は「勝利」(victory)が「勝つ」(win)の内的対格であり「打撃」 (blow)が「打つ」(strike)の内的対格であるように「真に述べる」(state truly)の内的 対格である。これらのケースのいずれも、文の主語と直接目的語によって指示される擬 似実体によって名指される実体との間に本物の関係はない。 さらに、対応説が正しいなら、その場合猫が寝ころんでいる事実と猫が寝ころんでい る陳述を示したあと、陳述が真であると立証するためには、私たちは猫が寝ているとい う事実と猫が寝ている陳述を特定したあと、陳述が真であることを立証するため、私た ちはなお、陳述が本当に事実に対応することを見るため、陳述と事実をなお比較しなけ ればならないだろう。だがその考えは馬鹿げている。いったん私たちが事実を特定した ら、私たちは真なる陳述を特定したでのである。要約すれば、ストローソンは「真なる陳 述は事実に一致する」という陳述が偽であると結論するのではなく、このトートロジーに よって生じた哲学理論が偽であると結論するのである。特にこの哲学理論は、事実は 非言語的実体であり、真理は言語的なものと非言語的なもの間の対応の関係を名指 すという偽の主張をする。 次の節で私は事実と真なる陳述の間の内的つながりを指摘する点でストローソンは 正しいが、事実がどんな意味でも言語的実体であることをこれが示さず、あるいは真な る陳述と事実の間の対応関係がないことをこれが示さないことを議論しようと思う。 真理、事実、脱引用と対応 私は現代の文献の奇妙の特徴を印すことから始めたい。ごくわずかの人しか、「真」 や「偽」がある種の「成功」や「失敗」を記述する用語と等価であることに関心を示さな い。それは私が言葉から(心から)世界への適合方向と呼ぶものを達成する際、陳述 (および信念)の成功あるいは失敗を評価するのに用いられる。多くの文献を読んでも、 その技術的な洗練さにもかかわらず、あなたは「だからなんなんだ?」「それが結果のす べてなら、なぜ私たちは真理なんかに構わなくてはならないのか?」という問いだけを残 される。標準的説明はなぜ真理が私たちにそんな問題なのかを説明しない、私は少な くとも部分的に、なぜそうなのかを説明する説明を提供したい。 第 1 節で、私はどのように真理の脱引用基準の自然な結果として解釈し得るかを示 すことによって、真理の対応説を短く素描した。対応説において陳述pがある事実に一 致する場合、その場合に限り陳述pは真である。脱引用理論において、陳述pを作るの に用いられるいかなる文sについても、sはpである場合、その場合に限り真である。私は これらふたつの真理の基準は本当は同じであると示唆した。なぜなら T 文の左辺で引 用される文が真である場合、それは右辺で述べられる事実に一致するため真であるか らである。 だが、すべての哲学者がそれについて私に同意するわけではない。多くの哲学者に とって、これらふたつの真理の基準はつねに同じ結果を与えるようみえない。脱引用は あたかも「真」という言葉が本当は元の陳述に何も付け加えないようにみえる。それは 「猫が寝ころんでいるというのは真である」と言うことは、単に「猫が寝ころんでいる」と いう単にもうひとつの言い方であるようにみえる。だから「真」という言葉は冗長である ようにおもえる。この理由のため、脱引用基準は「真理の冗長性理論」、「真」という言 葉は冗長なだけで、特に何も記述しないという理論を生んだ。冗長性の議論に印象を もった何人かの哲学者たちは、「真」は「まったく」冗長なのではないと指摘した。なぜな ら私たちはなお、たとえば「真の条件からのみ、真の結論が妥当に得られる」のように言 うために脱引用の無限の集合を述べる簡略記法としてそれを必要とするからである。だ が、彼らはそれにもかかわらず真理の「デフレーション」ないし「ミニマリスト」理論、「真」 が指示される特性ないし関係は本当はないという理論に固執する。真の概念の完全 な内容は脱引用によって与えられる。12 第一の基準、対応の基準はあたかも、ふたつ の独立した実体 ― 陳述と事実 ― の間の本物の関係があり、「真の」はこの関係を記 述するかのようにみせる。脱引用は冗長性理論あるいは少なくともデフレーション理論 を含意するようにみえ、冗長性理論もデフレーション理論も標準的に対応説と矛盾する と考えられる。そして私たちは対応説に対する非常に深刻な反対があることをストロー ソンの見解の議論で見てきた。 だから対応説の擁護者はふたつの問いが残される:第一に、脱引用基準と矛盾しな い対応説の代わりの概念を作ることができるか?「代わりの概念」によって、世界に非 言語的事実があり、陳述がそれら事実に特定の関係、私たちが様々に事実に適合す る、合う、述べる、あるいは対応すると記述する関係にあるため、陳述が真である概念の ことを私は言っている。そして第二に、対応説に対するストローソンの反対に答えること ができるだろうか? それらの問いに答えるため、私は「真」と「事実」という表現の日常的用法について、 またどのようにして、それらがその現在の意味を発展させることができたかについて、い くつか一般的な観察をしようと思う。この点での私の研究は、私たちがこれらの言葉で 行う言語ゲームにウィトゲンシュタイン・スタイルの企てをすることであり、その目的はそ の言語ゲームの私たちの誤解を発生させる誤った図式を取り除くことである。次のいく つかのパラグラフはどのようにそれらの用法が発展することができたかについてのいく つかの語源学的な推察を伴う言葉の用法について観察と意図されている。 「真」(true)は「信頼」(trust)や「信用」(trustworthy)と同じ語源に由来する。そし てこれらすべては、一般に正直(uprightness)や信頼性(reliability)を示唆する「木」 (tree)を意味する印欧語族の語根“deru”に由来する。真の陳述だけでなく、真の友 (本当の友)、真の感情(偽りではない誠実な感情)、真相続人(正しいあるいは正統な 相続人)、真北, 本当のマス(true trout/eastern brook trout は本当のマスではな い。それはカワマスである)、よく切れるナイフ(knives that cut true)、子分(true belivers)などがある。 これらの「真」の様々な意味は家族的類似性を示す。真理が信用や信頼と何か一般 的つながりがあるなら、私たちは問う必要がある:どんな条件の下で、私たちは信用や 信頼性を見出すのか?明らかに、それがすると主張することをする場合に、すなわち物 がどのようにあるかを正確に述べるときで場合に、それが物がそういう風であると言う 場合、それは物が本当にそういう風である場合、その場合に限り信頼できる。これが私 たちが真理についての脱引用基準を得る仕方である。脱引用基準は真理が正確さ、信 頼性、信用を含意する私たちの直感と矛盾しない真理の一般的基準を私たちに与え る。アリストテレスは、真理を語ることが何がそれであることかを言うこと、何がそれでな いことを言わないことであると言った時、この概念を明確に表現していた。要するに、陳 述に適用される「真理」は、信用を含意する評価に関連しており、脱引用は信用の基準 を私たちに与える。 さて、「事実」に戻ろう。私たちは「すること」あるいは「作る」を意味するラテン語の動 詞「facere」の中性過去接尾辞である「factum」に由来する言葉であることをはっきり と知っている。このため、三つの言語を混ぜることで「fuctum」が「されたもの」、あるい は「既成事実」(fait accompli)と言うことができる。だがこれまでのところ、これは「真 の陳述」となんら明らかなつながりがない。陳述に適用するものとして信用の特徴につ いて、一般的用語「真」を必要とするちょうど同じようにように、私たちはそれによって信 頼できるものについて、陳述を信用に値するものに関する一般的用語を必要とする。猫 が寝ころんでいるということが真の場合、それによって真である何か、それを真とする何 かがなければらない。脱引用基準は「それぞれのケースについて」その何かが何である かを語るだけである。猫が寝ころんでいるということを真とする何かは、単に猫が寝ころ んでいることである。どんな真なる陳述についても同様である。草が緑であることを真と するものは、草が緑であることであるなど。「だが私たちはなおそれらすべての何かに関 する一般的用語を必要とする。というのも草が緑であるということを真にするものは、雪 が白いこと、2+2=4とすることそして残りすべてであるである。“事実”はこの必要性を 満たすように発展した」。英語における「事実」は、それによって真の陳述が真であるこ とを(ところでかなり最近)意味するようになった。これがなぜストローソンが、事実を特 定するため、「どの事実?」という問いに答えるため、私たちが真なる陳述を述べなけれ ばならないと考えるのが正しい理由である。それらの本質を特定すれば、事実は述べら れるだけで、名指されえない。 だが、それは事実はなんらかの本質的に言語的であること、事実が陳述の概念が何 らかの形で組み込まれているということは帰結しない。反対に、私が与えた説明におい て、事実は正確に言語的でないのでなければならない(もちろん言語的事実の小さだ が重要なクラスを除いて)。なぜなら、「事実」の概念をもつことの全ての点は、もし真な ら、陳述の外部にあるが、それを真とする、あるいはそれによってそれが真であるその概 念をもたなければならないからである。この説明において、事実は複合的な物でも、言 語的実体でもなく、それは「条件」、特にそれは陳述によって表現される真理条件を充 足する世界における条件である。「条件」という言葉は普通の過程ー所産(processproduct)の曖昧さをもつ。このケースで曖昧さは「必要とするもの」(requirement)と 「必要とされるもの」(thing required)の間にある。陳述は必要とするものとしての真 理条件を決定し、充足されるなら、必要とされるものとしての世界における何かがある だろう。13 たとえば、猫が寝ころんでいるという陳述は、必要条件としての真理条件を 表現する。陳述が真なら、必要条件を満たす世界における条件があり、その条件は猫が 寝ころんでいるという事実である。この説明において、私たちは私たちは「事実」の分厚 い形而上学的概念をもつことも、もつ必要もない。陳述を真とするのに十分な何かが事 実である。そのため頭が三つある猫がいないということは、猫が寝ころんでいるという 事実と同じほど事実である。多くの丸いものからなる第7章で記述したミニワールドを検 討して欲しい。猫がいないというのはミニワールドで事実か?もちろん。これはミニワー ルドはその中に猫がいないという条件を充足すると言う単に別の仕方である。 この理由のため、事実と真なる陳述の間の定義的つながりのため、対応説と脱引用 基準との間の矛盾はありえないだろう。「事実」はそれによって陳述が真であるそれとし て単に定義され、脱引用は陳述を単に繰り返すことによってそれぞれの陳述を真とす るものの「形式」を与える。だが陳述が真の場合、その繰り返しは事実を述べることと まったく同じである。脱引用基準は「猫が寝ころんでいる」と言う陳述が猫が寝ころんで いる場合、その場合に限り真であるということ私たちに語る。対応基準は「猫が寝ころ んでいる」と言う陳述はそれがある事実と対応している場合、その場合に限り真である ことを私たちに語る。だがどの事実を?対応し得る唯一の事実は、真なら、猫が寝ころん でいるという事実である。だがそれは正確に脱引用基準によって与えられる結果であ る。なぜならそれは T 文の右辺で述べられる事実だからである。「猫が寝ころんでいる」 は猫が寝ころんでいる場合、その場合に限り真である。そしてこれはまたなぜ猫が寝こ ろんでいることが真であることを知るため、私たちがしなければならないすべてが、猫が 寝ころんでいることを立証することである。私たちは猫が寝ころんでいるという陳述が、 猫が寝ころんでいるという事実に対応することを「さらに加えて」立証する必要はない。 なぜなら私たちは猫が寝ころんでいるということを立証したとき対応を既に立証したか らである。 これらの「真」と「事実」についての点を念頭に、「対応」に注意を向けよう。あるとすれ ば真なる陳述が事実に「対応する」のはどんな意味でか?事実が命題的に特定されな ければならないが、たとえその事実がなお言語的実体でないことを認めたとしても、や はり、対応の概念には何らかの意味がある。その理由に対するストローソンの反対に私 たちはどのように答えるのか? 私たちは言葉から世界への適合方向をもつ表象に関して適合を達成することにおい て成功と失敗を評価するための一般的用語を必要とし、それらの言葉は他の中でより 重要ではないが「真」と「偽」である。私たちはまた T 文の左辺で特定される文が真で ある場合、右辺で特定されるすべても何かを名付けることについての一般的用語を必 要とする。その言葉は「事実」である。しかし文法的に私たちは陳述と、陳述が真である 場合の事実の間の関係を記述するための動詞を今度必要とする。 陳述が事実「をなんとか」する場合、その場合に限り、陳述は真である。 Statements are true if and only if they “blank” the facts*訳注 私たちは「をなんとか」(blank)にひとつの言葉を必要とする。そしてそれは陳述が事 実「をなんとか」することができるすべての様々な種類の方法について許容するのに十 分空虚で、十分曖昧でなければならない。英語ではそのような動詞は多くある。「に適 合する」(fit)、「に合う」(match)、「を記述する」(describe)、「に対応する/一致す る」(correspond to)の4つがある。陳述を真とすることができる世界の様々なすべて の特徴に関する一般的用語を必要とするように、私たちは真なる陳述が世界で物がど のようにあるかを正確に表象することができる方法を名付けるための一般的用語を必 要とする。そして「事実に一致する」は、ちょうどそのような一般的特徴付けである。「事 実に一致する」はちょうど陳述がどのように物があるかを正確に表象することができる *訳注 原文には引用符“”はない。日本語化するため「なんとかする」という語句をあてた。 様々な方法の単なる簡略記法である。そしてその多様性は陳述の多様性、あるいは もっと厳密に言えば断言的発話行為の多様性と同じである。さらに私たちは陳述が 「近似的に」真、あるいは「おおよそ」真でありえる事実も許容する必要がある。例えば 地球は太陽から9千3百万マイルだという陳述は近似的にのみ真である。そのような ケースで陳述は事実に「近似的に」適合する、あるいは一致するだけである。 だから対応説と脱引用の両方とも真であり、ふたつは矛盾しない。対応説は瑣末に 真であるが、私たちは事実は何らかの複合的な種類の物質的対象でなければならず、 「対応」は陳述と事実である複合的実体都の間の類似性、あるいは同形性の非常に一 般的な関係を名指さなければならないと考えるため、それは私たちをミスリードする。 私はストローソンが、対応説が誤った図式を発生させると考えたのは正しいと考え る。しかし、誤った図式は適切に理解された対応説の論理的帰結ではない。その図式 はむしろ私たちが関連する表現の実際の用法を見るのに失敗する場合、言葉と文の表 面的文法によってどのようにミスリードされるかについての古典的な例であり、それは ウィトゲンシュタインのスタイルの治療を必要とする。私たちは「事実」が名詞だから、名 詞はモノを名指すから、事実は複合的な種類のモノでなければならないと考える。私た ちは対応は何らかの種類の同形性を意味しなければならないと考え、その場合私たち は否定的事実、仮説的事実などについて難問に陥る。だが、いったん関係する言葉の 論理を理解するなら、事実は複合的モノではなく、真なる陳述の構文的構造と事実の 構造の間に必然的な同形性はないと理解する。さらに私たちは否定的、仮説的などに ついて何ら問題がないことを理解する。猫が寝ころんでないという真なる陳述は猫が 寝ころんでいないという事実と対応する。他に何か?そして否定的陳述に真であること は残りのすべてについて真である。猫が寝ころんでいたなら、犬はキッチンにいなけれ ばならなかったということが真の場合、猫が寝ころんでいる場合、犬はキッチンに行か なければならなかっただろうということが事実でなければならない。すべての真なる陳 述について、対応する事実がある、なぜならそれはどのようにこれらの言葉が定義され るかだからである。 この議論全体で念頭に置くべき最も難しいことは、私たちがわずかなトートロジーと その論理的含意を扱っているのだということである。脱引用と対応説は瑣末であるが トートロジー的に真である。このためどんな見かけ上の矛盾も、それらを誤解する私たち の主張に由来するに違いない。言葉の実際の用法を適切に理解しないために、対応説 が誤った図式を発生するのとちょうど同じように、同じ理由で、脱引用は誤った図式を 発生する。脱引用によって発生された誤った図式は、真理の特性は一切ないということ である。「雪は白い」は、雪が白い場合、その場合に限り真である。「草は緑である」のは 草が緑である場合、その場合に限り真である。すべての指示的文について同様である。 この見解について、共通の真理の特性はなく、すべてのこれらのケースに共通の何も のもない。それによって両方が真である「雪は白い」と「草は緑だ」の両方に共通するも のは何もない。 私は、これがどのよに広く反直感的結果であるかに注意を払うよう求めたい。ある純 粋な構文的な制約がその適用に課されること以外何を意味するかについて、なんであ れ言うことができないような数詞、たとえば「2」や、形式的な評価用語、たとえば「良い」 のような他の種類の形式的用語のについて語ることを、ほとんどの哲学者たちは考え なかっただろう。だが多くの哲学者は真理の冗長性やデフレーションの概念を採用する ことに同意する。彼らは脱引用を充足すること以外すべての真なる陳述に共通するも のはなんであれ何もないと主張する。「真」の用法が脱引用を充足しなければならない という単なる最小の同意を除いて、真理の概念になんら合意はない。「s」に特定の文を 代入し、「p」に「まさにその文、あるいは何らかのその翻訳」を代入する場合、sはpであ る場合、その場合に限り真であるという条件を充足しなければならない。 なぜだれがこのような反直感的考えを採用したのだろうか?冗長性の幻想は、脱引 用基準が、引用符と「真」という言葉の存在を除いて左辺が右辺にように見えるという 事実に完全に由来する。だから「“雪は白い”は真である」ということは、「雪が白い」と いうことを長くしただけの仕方であるようにみえる。一方はなんら意味論的内容の変化 のない他方の単なる構文的変形にである。だがその結論は帰結しない。私たちは命令 への適合の達成に成果と失敗を記述することのための言葉を必要とするのとちょうど 同じく、私たちは陳述への適合に成功と失敗を記述する言葉を必要とする。陳述につ いての言葉は「真」と「偽」である。命令についての言葉は「従う」と「従わない」である。 陳述は命令がそれ自身の服従の条件を決定しなければならないように、陳述はそれ自 身の真理条件を決定しなければならない。だが命名例の服従条件を述べるために命令 を繰り返し述べないにもかかわらず、陳述の真理条件を述べるためには、陳述を単に繰 り返す必要がある。この非対称性は、真理条件の「陳述」は陳述であるが命令への服 従条件の陳述は、命令ではない、それもまた陳述である、という事実に由来する。それ はまた陳述である。だから冗長性の幻想は陳述についての真理条件を述べることは他 の種類の発話行為の充足条件を述べることとは異なるという事実から発生する。私は この考えを次節でさらに探求する。 言語をデザインする これら同じ点を指摘する別の方法は、次の思考実験を伴う。あなたが既にもっている のはない存在に言語をデザインしたと仮定して欲しい。何をあなたは挿入するだろう か?私は、あなたが文を構成するための構文、量化子と論理的接続詞のための表現、 「犬」「猫」「赤」「青」などについての言葉をもつと言っている。あなたはどんな一般的構 造的特徴を挿入しただろうか?さて、手始めに、あなたは、陳述、質問、命令、約束のよう な様々な標準的な種類の発話行為を遂行するための装置を挿入する必要があるだろ う。これをするため、あなたは命題内容と発話行為の発語内的力の間の区別をする必 要があるだろう。すなわちあなたは「部屋を去れ」と命令、「あなたは部屋を去りますか」 と質問、「あなたは部屋を去るだろう」と予見の間の区別をすることができる必要があ る。これらは三つの異なる発語内的力をもつ三つの異なる発話行為であるが、すべては 同じ命題内容を含む。それは「あなたが部屋を去るだろう」である。 異なる発語内的力は異なる仕方で、異なる適合方向を持った、現実世界に対する命 題内容に関係付けるため、あなたはその命題と現実世界の適合を達成するのに成功 ないし失敗をするための異なる言葉を必要とする。そのためあなたは命令が「服従」な いし「不服従」される事実を印す言葉を必要とするだろう。命令は命令された人がする よう命じられたものをする場合従われる。なぜならその人はそれをするよう命じられたか らである。命令は世界から言葉への適合方向をもつ。なぜなら命令の趣旨の大きな部 分は、言葉に適合するよう世界を変えようと試みることだからである。どのように約束は 約束をした人がすると約束したためすると約束することをする場合「守られる」ないし 「果たされる」。約束はまた世界から言葉への適合方向をもつ。なぜなら約束の趣旨の 大きな部分は、世界に適合するよう世界を変えようと試みることだからである。 命令や約束が命題内容と現実の間の適合を達成したり、達成に失敗したりするのと ちょうど同じように、陳述もそうする。だが陳述は異なる適合方向をもつ。なぜなら陳述 の目的は、現実を命題内容に適合させるのではなく、その命題内容を独立して存在す る現実に適合させることだからである。陳述が適合に精巧ないし失敗する程度にした がって、私たちは陳述が「真」あるいは「偽」であると言う。そして私たちがデザインでき るどんな言語もこれらの形式の成功や失敗を印す言葉を必要とするだろう。それは真 理と虚偽のための言葉を必要とするだろう。 だが適合を達成する際の発話行為の成功の基準は、一方で、言葉から世界への適 合方向をもつ陳述について、他方で、世界から言葉への適合方向をもつ約束や命令に ついて異なって述べられるだろう。あなたが部屋を去るだろうという陳述の充足条件は 単に、陳述の再陳述であり、見てきたとおりこの結果は真理の脱引用基準である。どん な陳述についても、適合を達成する際の充足ないし成功の条件を述べるため、あなた は陳述を再陳述する必要があるだけである。だが、「部屋を去れ」という命令の従属条 件の陳述は、部屋を去れ!という形式で脱引用的に述べることができない。なぜなら、 命令の充足条件の陳述は命令それ自体とは異なる適合方向を持つからである。命令 の服従条件を述べるためには、あなたは次のような陳述をしなければならない。たとえ ば、 時点tに話し手 S が聞き手 H によってなされる命令 O、「部屋を去れ!」は H が O のため部屋を去る場合、その場合に限り従われる。 The order O, “Lieve the room!” made by a speaker S to a hearer H at a time t is obeyed iff H leaves the room at t because of O. このため、あたかも「真」は「従われる」や「守られる」が冗長でない仕方である程度 冗長であるようにみえる。だがこれは幻想である。「真」と「偽」はちょうど「従われる」や 「従わない」が命令に適切な仕方で適合を達成する際、成功を評価するのと同じよう に、陳述に適切な様式で適合を達成する際、成功を評価するのに重要な用語である。 さらに、あなたは何が適合方向の他の側面、世界の側面に関するかについて印をつ けてる用語を必要とするだろう。命令や約束のケースではこれは容易である。あなたは 命令への服従、約束の順守などを構成する様々な「行為」についての言葉を必要とす る。行為は存在すべき命令も約束も必要としないが、命令や約束は従われる、守られる 行為を必要とする。だが陳述の他の側面に関して「行為」についての言葉は十分では なく、「モノ」や「出来事」についての言葉でさえ十分ではないだろう。なぜ十分でないの か?適合の達成の際の成功についての脱引用基準は、言葉から世界への適合の世界 の側での条件が、すべての命題を表現するのに適切な構文論的形式を用いることに よって特定されることを必要とする。要するに、あなたは「事実」についての言葉を必要 とする。あなたはそれによってあるいはそのために陳述が真である陳述に相関する非 言語的なものについての言葉を必要とする。そしてそれは陳述に適合するよう適切に 構文的に完成していなければならない。それらは「…という事実」(the fact that...)の ような形式でなければならない。その場合、「という」に先立つもの(that に続くもの/ what follows “that”)は単に陳述の命題内容の表現である。事実は存在するため陳 述を必要としないが、陳述は真であるため事実を必要とする。 だから今あなたが発明した言語で、「真」「陳述」「事実」についてのの言葉をもった。 それらの間の関係を記述する一般的動詞、陳述のすべての特定の形式や、真なる陳 述が事実に関係する様々な仕方に中立な動詞をもつのは素晴らしいことだろう。一般 的で空虚なものについて、英語で見つけることができるようなこのための動詞は「対応 する」(一致する)である。だからこれと等価な言葉を持つことは有用だろう。そしてその 場合はあなたは次と等価な何かを言うことによってこれらの概念の間の定義的関係を 述べることができる 陳述はそれが事実に対応する場合、その場合に限り真である。 Statements are true if and only if they correspond to the facts. 私はこの思考実験が、多くの複雑さを手付かずのままにしたが、私たちの「真」「陳 述」「事実」という言葉の使用とともに私たちが実際置かれる状況を記述すると考える。 要約と結論 私は今この議論の様々な道筋をまとめて描こうと思う。私は以前の章の方法論的特 徴のいくつかを説明する仕方でこれまでに議論を要約したい。 1.「真」は陳述を主張するための形容詞である(陳述が心から世界へあるいは言葉 から世界への適合方向をもつ、たとえば、信念と同様に)。陳述はそれが信用できる (trustworthy)場合、すなわち存在するものとして物を表象する仕方がある仕方であ る場合、真であると主張される。 2.確実性(reliability)の基準は脱引用によって与えられる。これはあたかも「真」が 冗長であるように見せるが、そうではない。私たちは言葉から世界への適合方向を達成 するの際、成功を主張するためのメタ言語的な述語を必要とする。そしてその用語が 「真」である。 3.「真の」陳述への割り当ては、恣意的ではない。一般に陳述は、陳述の一部でない 世界における条件によって真である。陳述は陳述から独立した世界にどのように物が あるかによって真となる。私たちはこの「世界にどのように物があるか」(how-thingsare-in-the-world)を名指す一般的用語を必要とし、「事実」(fact)そのような用語の ひとつである。他は、状態(situation)や「事態」(state of affairs)である。 4.陳述はそれ自身の真理条件を決定するため、用語「事実」がそれによって陳述が 真であるものを指示するため、事実を特定する標準的な方法は、それを述べることに よって陳述を特定する方法と同じものである。この特定は節全体を必要とする。このた め陳述と事実の両方は、命題的に「…という事実」と「…という陳述」のように特定され るが、事実はそれに関して本質的に非言語的である。 5.事実の同一性が対応する陳述によって、また対応する陳述が真であることにっよ て特定される物と同じである事実の特定の性質に依存しているため、「pである事実」と いう文脈が、pと論理的に等価な文の代入の下で指示の同一性を保持しなければなら ないと考えるのは誤りである。この点のさらなる議論についてはこの章の付録を見よ。 6.共通指示(coreferring)表現の代入についてはどうか。ある場合は、共通指示表 現の代入は事実の同一性を保持できる、トゥッリウスがキケロと同一である場合、直感 的にトゥッリウスは雄弁家であると言う事実は、キケロが雄弁家であるという事実とまさ に同じである。なぜか?正確に世界の同じ事態はそれぞれの文を真にし、そして「事実」 は陳述を真にするものとして定義される。 だが一般に、共通指示する限定的な記述の代入は、同じ事実への指示を生まない。 直感的にトゥッリウスが雄弁家だという事実は、カティリナを弾劾した男は雄弁家だと いう事実とは異なる。たとえトゥッリウスがカテリナを弾劾した男であってもである。なぜ か?後者の事実はその存在について誰かがカティリナを弾劾したことを必要とするが 前者の事実の存在はそのような必要条件をもたないからである。*訳注 7.事実は真なる陳述と同じではない。これを示すいくつかの方法がある。ふたつをあ げる。第一に、真なる陳述が因果的に機能するということが意味をなさない仕方で、事 実が因果的に機能するということは意味をなす。第二に、事実の陳述にへの関係は、事 実は異なる陳述で述べられうるため、一対多である。例えは同じ事実が「キケロは雄弁 家だった」と「トゥッリウスは雄弁家だった」と述べられる。 8.脱引用があるどんな場合も、また事実を記述するあるいは特定する代わりの方法 がある。そのため「サリーはサムの妹である」という真なる陳述はサリーがサムの妹であ るという事実に対応するが、さらに、たとえばサリーは女性であり、サリーとサムは同じ 両親をもつと言われるものがある。多くの哲学的論争は事実の構造についでであり、一 般にこれらの問題は脱引用の範囲を超えている。たとえば色や他の第二性質について の論争はこのモノが赤いというような主張に対応する事実の性質についてである。そし てそのような事実の分析は脱引用以上のものを必要とする。 9.哲学において、ひとつの(ひとつだけの)方法が私たちの陳述を真とする事実の構 造を分析する。以前の章で、私は社会的制度的事実の構造を扱うそれを試みた。 *訳注 トゥッリウスはとキケロは、マルクス・トゥッリウス・キケロののこと。原著では Tully だが、ラテン 名は Tullius。キケロはルキウス・セルギウス・カティリナ一派の反乱未遂事件に対しカティリナ追放 を含む『カティリナ弾劾演説』を行った。カティリナは原著では Catiine だがラテン語名は Catilina である。 第9章への付録:スリングショット議論 もし妥当なら、対応説にとって破壊的である、真理の対応説に反対するもうひとつの 議論がある。それはクワインが様相論理に反対するため用いた、もともとフレーゲに帰 される技術的に聞こえる議論であり、最近対応説に反対するドナルド・デイヴィドソンに よってリバイバルした。それは「スリングショット議論」と呼ばれるようになった(おそらく 議論の小さなダビデが、様相論理や対応説のように巨大なゴリアテを殺害すのに用い ることができるからである*訳注)。それは14回息をする間に普通述べられるが、その弱 点を探索するつもりなら、スピードを落とし、ギアをローにして進む必要がある。14 議論の要点は、真なる陳述が事実に対応するなら、それはどんな全ての事実にも対 応することを示すことである。このため対応の概念は完全に空虚である。陳述が対応す る場合、すべての陳述は同じものに対応する。議論は次の段階で述べることができる (各段階についての私のコメントは丸括弧内に挿入した)。 第1段階 仮定:雪は白いという陳述は雪は白いという事実に対応する この陳述は対応説の代わりの例であり、議論の目的は陳述をバカバカしさに還元す ることで理論に反駁することである。 第2段階 仮定:第1段階のような内容において、文と単数の語の発生は(a)すべての 文は単数の語を共通指示の代入の下で真理を保持する、かつ(b)それは論理的に等 価な文の代入の下で真理を保持する (これについていっさい議論は提示されいない。それは表面上もっともらしくない。私は 後にこれについて語るつもりである。) 第3段階 仮定:文(a)「雪は白い」は論理的に文(b)「(x はディオゲネスと同一であ *訳注 旧約聖書「サムエル記」に登場する、ペリシテ人の巨人兵士ゴリアテをダビデ(デイヴィド) が投石機(スリングショット/米:Y 形の枝の上部にゴムをつけたパチンコ)で倒した逸話に由来 する る)ような固有のxは、(xはディオゲネスと同一でありかつ雪は白い)ような固有のxと 同一である」。 (「論理的に等価」は専門用語である。ふたつの文は、すべてのモデルで同じ真理値を もつ場合、その場合に限り等価である。この定義において、それによって(a)かつ(b)が 論理的に等価である限定的な記述に関する意味論がある。) 第4段階 仮定:文「草は緑である」は論理的に文「(xはディオゲネスと同一である)よ うな固有のxは(xはディオゲネスと同一でありかつ草は緑である)ような固有のx”と同 一である。 (これは仮定3と同じである。同じ理由が適用される) 第5段階 仮定:表現「(xはディオゲネスと同一でありかつ雪は白い)ような固有の x」 は表現「(xはディオゲネスと同一でありかつ草は緑である)ような固有のx」と同じ対象 を指示する これらが仮定されるなら、第1段階から次が得られる 第6段階 雪は白いうという陳述は、(xはディオゲネスと同一である)ような固有のx が、(xはディオゲネスと同一でありかつ雪は白い)ような固有の x と同一であるという 事実と対応する。 (これは論理的に等価な文の代入を認める第2段階bで述べられた原理とふたつの文 が論理的に等価である第3段階において述べられた仮定に由来する。) そして第5段階で述べられた共通指示とともに第2段階 a で述べられた共通指示の 表現の代入の原理によって第6段階から、私たちは次を得る 第7段階 雪は白いという陳述は(xがディオゲネスと同一である)ような固有のxが(x がディオゲネスと同一でありかつ草は緑である)ような固有のxと同一であると言う事 実と対応する。 だが、ここで私たちは戻って、第4段階で述べられた論理的等価なものを代入し、ふた たび第2段階 b で述べられた原理を採用して、私たちは次を得る 第8段階 雪は白いという陳述は、草は緑であるという事実と対応する。 だが、この結果はどんなふたつの真なる陳述についても第一のものは第二のものに よって述べられた事実に対応することを示すだろう。どんなふたつの真なる陳述も、「雪 は白い」と「草は緑である」が、どんな真なる陳述もいかなるまたすべての事実に対応 することを示すよう当てはめることができる。そのため、対応の概念は空虚であり、対応 説は反駁された。 この議論を私たちはどうすべきか?私はそれはもっともらしいし、このような議論が示 すほとんどは、その前提の誤りである。15 この場合、議論が示しえる大半は仮定2bの 誤りであり、論理的に等価な文は第一段階のような文脈における代入された salva veriate(真理値を変えない交換可能性)でありえるように私にはおもえる。まったくこの 例とは別に、2bは反直感的帰結をもつ。たとえば2bによれば、(雪は白い)という陳述 が(雪が白い)という事実に対応するというという事実から、(雪は白い)という陳述が (雪は白いかつ2+2=4)という事実に対応することが帰結する!スリングショット議論に おいて、雪は白いという陳述がディオゲネスに関するどんな事実にも対応せず、ディオ ゲネスと彼の同一性は雪が白いという事実に関する場合まったく無関係であるため、 第1が第6を得ると言うのは誤りである。要するに、 1.雪は白いという陳述は雪は白いという事実に対応する という真なる陳述から、 6.雪は白いという陳述は(xがディオゲネスと同一である)ような固有のxが(x がディオゲネスと同一でありかつ雪は白い)ような固有のxと同一である事実に 対応する。 を妥当に得ることができない。 だが誰かが反対するかもしれない。これは論点先取り(the begging question)で はないのか?結局、正確に問題点は、望ましからざる論理的帰結をもつかどうかであ る。だから私たちは即座に主張された帰結を単に拒否できない。この反対に対する答え は第9章で、私が与えた真理と対応の説明とともに、事実の説明によって与えられてい る。彼らの偉大なる一般性にもかかわらず、これらはつまらない日常用語でありその日 常的使用はその使用をあてにするどんな哲学的説明においても尊重されなければなら ない。この議論に関連する「事実」の全概念は「陳述を真とするあるいはそれによって 真である」何かの概念であると論じてきた。それについて私が正しい場合、第1段階の ような文の文脈に関する仮定第2段階bのようないかなる論理的制約の集合も、「真」 や「対応」の直感的特徴と同様「事実」の意味のこれらの特徴を尊重しなければならな い。私たちの日常的な直感の概念に関しては雪は白いという陳述についての真理条 件は雪は白いという事実である。ディオゲネス(あるいは2+2=4という事実)はたとえ なんであれ雪は白いという陳述を真とすることを扱う何ものもないのは明白である。要 するに「事実」「真理」「対応」の直感的概念を尊重しなければならないということが真 理と対応のどんな説明においても適切性の条件である。スリングショット議論は正確に それをするのに失敗している。なぜなら日常的直感的概念に反する原理第2段階bを受 け入れているからである。 論点先取りの容疑は tu quoque(君もまた)に従う。それは第2段階bが適用可能で あると仮定することについて何ら議論が与えられないなら、その場合第2段階bのような 原理に従うことを仮定することは対応性に反対する論点を先取りしている。なぜ私たち は論理的に等価な文の真理を維持する代入を第1段階の文が許容することを、そのよ うな代入が直ちに反直感的結果を与える場合、仮定しなければならないのか?私たち の直感を真がするどんな原理もその正当化に大量の正当化を必要とするだろうし、そ してこのケースの場合反直感的結果について一切正当化は提供されていない。 この点を指摘する別の方法は「事実の同一性」は論理的に等価な文の代入可能性 の基では保持されないことを単に印すだけである。そして 「a という陳述はbという事実に対応する」 “The statement that a corresponds to the fact that b” という形式の文は、次の場合にのみ、「cという事実」(the fact that c)という形式の名 詞句を「に対応する」(corresponds to)の右辺に真理を保持する代入を許す bという事実はcという事実と同一である。 The fact that b is identical with the fact that c. だが、直感的に、その条件はディオゲネスの例によって保持されない。直感的に、雪 は白いという事実は、(xはディオゲネスと同一である)ような固有のxが(xがディオゲ ネスと同一でありかつ雪は白い)ような固有の x と同一であるという事実と「同じ事実 ではない」。そして私たちが私たちの直感に何らかの疑いを持つなら、第6段階の明らか なに反直感的な性質をそれから取り除くのに十分でなければならない。第1段階が真で あり、第6段階が偽であるため、推論は妥当でないという事実が帰結する。真なる前提 から、真なる結論は妥当に得られる。 その問題が「X は Y に対応する」の明らかな非存在性を伴わないことを指摘するの は重要である。その文脈は、「X」と「Y」についての表現を与えることの代入可能性につ いて完全に外延的である。問題は「bという事実」という表現の非存在性に伴う。その表 現は論理的に等価な文の代入のもとで指示の同一性を保持しない。だがなぜそうでな ければならないのか?なぜ雪についての事実は、ディオゲネスや他の誰かについての 事実と同一、それとまさに同じ事実で、なければならないのか?雪が白いという事実に 関する場合、ディオゲネスはそれに対応するべき何ものもない。直感的に、ふたつの事 実が本当に同じであるという考えは問題外であるようにみえる。 私はスリングショット議論は対応説を反駁しないと結論する。 結論 この本で私が論じてきたことの基本的な趣旨にいたるひとつの方法は、こうである。 私の見解では、私たちが生物学と文化の間で行いやすい伝統的な対立は、心と身体 の間の伝統的な対立と同じように見当違いである。精神状態が私たちの神経システム の高次の特徴であり、そして結果的に精神的と身体的の間の対立がないのとちょうど 同じように、精神的なものは、単にニューロンのそれより高次のレベルの記述における 脳の一群の物理的特徴に過ぎない。だから文化と生物学の間には対立はない。文化 は生物学が取る形式である。なぜならもし対立があるなら、生物学がつねに勝つだろう からである。異なる文化は基礎的な生物学的構造が示されえる異なる形式である。だ がそれが正しい場合、生物学の存在論から文化や制度的形式を含む存在論へいたる 連続的ストーリーが多かれ少なかれなければならない。根本的な断絶はあってはなら ない。私が議論してきたテーゼは根本的な断絶はないということである。生物学と文化 をつなぐ用語は、驚くことではないが、意識と志向性である。文化に特別なものは集合 的志向性の表明と、特に現象のまったくの物理的性質によってだけでは機能が遂行さ れえない現象への機能の集合的割り当てである。5ドル紙幣から大聖堂まで、そして フットボールの試合から国民国家まで、私たちは常に基礎的な物理的実在の物理的 性質を事実が超えた新たな社会的事実継続的に出会っている。 しかし、セロトニンやノルアドレナリンのような神経伝達物質からプルーストはバル ザックより良い小説家だと信じるような精神状態まで連続性があるが、精神状態は意 識的か潜在的的にそうである他の物理現象から区別される。少なくとも原則的に、意 識にアクセス可能ではない場合、精神状態はない。同様に、ハイエナを攻撃するライオ ンと憲法判決をする最高裁判所まで集合的行動の連続性はあるが、制度的構造は特 別な特徴、すなわち、象徴をもっている。何かがそれ自体を超えた何かを象徴する ― あ るいは意味するないし表現する ― 生物学的能力は言語だけでなく、他のすべての制 度的現実を同様に基礎付ける基本的能力である。言語はそれ自体制度的構造であ る。なぜなら言語はその機能に自然な関係を持たないナマの物理的実体に特別な種 類の機能を課すことに関与するからである。特定の種類の音や印を言葉や文と「みな す」。そしてある種の発語を発話行為と「みなす」。行為者的機能はひとつのあるいは他 の可能な発話行為の様式で、世界におけるモノや事態を「表象する」機能である。これ を行うことができる行為者は、集合的に他のすべての制度的構造の基本的前提条件 をもつ。お金、財産、結婚、政府、大学などはすべて象徴する能力が本質的に関与する 人間の合意の形式によって存在する。 文末注 第1章 社会的現実の基本的構成要素 1.J.R. Searle, “What Is a Speach Act,” in Blax, Max ed. Philosophy in America(Ithaca, N.Y.: Cornell University Press, London: Allen N. Unwin, 1965); and J.R. Searle, Speach Acts, Anessay in the Philosophy of Language, (New York: Cambrigde University Press, 1969)(邦訳:ジョン・R. サール , 坂本百大訳, 土屋俊訳『言語行為:言語哲学への試論』、勁草書房、1986) この意味での「ナマの事実」は G.E.M. Anscombe, “On Brute Facts,” Analysys 18, no. 3 (1958).による。 2. 最後のふたつの主張、すなわち深い無意識的規則に従うという概念は矛盾であ ると、計算は観察者ー相関的(observer-relative)である、に関する議論については John R. Searle, The Rediscovery of Mind ( Cambridge, Mass., London: MIT Press, 1992), それぞれ chaps. 7 and 9,(邦訳、ジョン・R. サール , 宮原勇訳『ディ スカバー・マインド!―哲学の挑戦』 筑摩書房、2008) 。 3.L.Wright, “Functions” in The Philosophical Review 82, no. 2 (April 1973), 137-68. P. Achinstein “Functional Explanation” in The Nature of Explanation (New York: Oxford University Press 1983), pp. 263-90. 4. 区別を記述すためのこれらの用語の使用はもともと Jennifer Hudin によって私 に示唆された。 5. 意味に関与する志向性をこの種の賦課の説明については、Searle, Intentionality, An Essay in the Philosophy of Mind, especially chap.6.(邦 訳:ジョン・R. サール、坂本 百大訳『志向性―心の哲学』、誠信書房、1997). 6. 私はこれらの一部を次で論じた。John R. Searle, “Collective Intentions and Actions,” in Intentions in Communication, P. Cohen, J. Morganm and M. E. Pollackm eds. Cambridge, Mass.: Blandford Books, MIT Press, 1990). 7. 私は私の見解が非論争的であったり、非挑戦的であることを示唆するのを望まな い。集合的志向性についての他のいくつかの強力な概念がある。特に次を見よ。M. Gilbert, On Social Facts (London: Routledge, 1989); M. Bratman, “Shared Cooperative Activity,” Philosophical Review 101, no.2 (1992), 327-41; and R. Tuomela and K. Miller, “We-intentions,” Philosophical Studies 53 (1988), 367-89. 8. Searle, Speech Acts. 9. 関連する区別は次によって導入された。J. Rawls, “Two Concepts of Rules,” Philosophical Review 64 (1955). 10. たとえば、Anthony Giddens, The Constitution of Society: Outline of the Theory of Structuration (Berkeley: University of California Press, 1984), pp.19ff. (邦訳:アンソニー ギデンズ、門田 健一訳、『社会の構成』、勁草書 房、2015) 第2節 制度的事実を創出する 1. John R. Searle, Expression and Meaning: Studies in the Theory of Speech Acts (Cambridge and New York; Cambridge University Press, 1979), chap.1. (邦訳:ジョン・R. サール、山田 友幸訳『表現と意味―言語行為論研 究』、誠信書房、2006) 2. 私は次で集合的志向性の個人的要素と集合的要素を関係の説明を試み る。John R. Searle, “Collective Intentions and Actions” in Intentions and Actions,” in Intentions in Communication, P. Cohen, J. Morgan, and E. Pollack, eds. (Camblidge, Mass: Bladford Books, MIT Press, 1990). 3. The Classic text is W. Koehler, The Mentality of Apes, 2nd ed. (London: Kegan Paul, Trench and Truber, 1927). より最近には、E. O. Wilson は「道具の使用は、ほとんど他の脊椎動物の集団以上 に大きくはない程度に、より高等な霊長類の種の間で自発的に起きる。しかしチンパン ジーは非常に豊かで洗練されたレパートリーをもっているため種は質的に他のすべて の動物の上に立ち、人に向けて規模を増している」と書く。Sociobiology: The New Synthesis (Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1975), p. 73.(邦 訳:エドワード・O. ウィルソン、坂上昭一他訳、『社会生物学 1-4』、思索社、1983、新 版新思索社、1999)。 4. Werner Kummer, Primate Societies(Chicago: Aldine, 1971), p.118. (邦 訳:H.クマー、水原洋城訳、『霊長類の社会:猿の集団生活と生態的適応 1-4』、社会 思想社(教養文庫)、1978)、p150-153. 訳注: 訳文は邦訳、p153 より。「イモ」は京都大学霊長類研究所が幸島(宮崎県 串間市)の野生ニホンサル研究のため海岸の砂浜を餌場にした際、最初にイモ洗いを 行った 2 歳のメスの名。クマーは河合雅雄の1955年の論文を参照した。河合雅雄『ニ ホンザルの生態』河出書房新社、1964参照のこと。 5. ところで、この状況はまだイギリス通貨に存在する。イギリス20ポンド紙幣で、「私 は持ち主に要求に応じて合計20ポンドを支払うことを約束する」。それはイギリス銀行 出納課長によって署名されている。 6. 私は、「X 項」「Y 項」「C 項」(それぞれ“X term”、“Y term”、“C term”)という 表現をこれら三つの変項である実際の「実体」を参照するか、私たちが表現「X」「Y」 「C」に代入する言語表現を参照するかに無関心に使用する。私は使用ー言及(usemention)の混同の危険があることを自覚しているが、その文脈は私が表現を参照し ているか、表現によって参照される実体を参照しているかを明らかにすると思う。混乱 がある場合には、私は例えば「表現 X」と「要素 X」の区別を使って区別を明示するつも りである。最初のものは表現、第二のものは実際の実体を参照する。 第3章 言語と社会的現実 1. Donald M. Broom, The Biology of Behavior: Mechanisms, Functions and Applocations(Cambridge: Cambridge University Press, 1981), p.196 第4章 制度的事実の一般理論 第1部 繰り返し、相互作用、論理構造 1. 例えばさらなる議論は次を見よ。John R. Searle, Speach Acts: An Essay in the Philosophy of Language (Camblidge University Press, 1969)(邦訳既 出), and John R. Searle, Expression and Meaning: Studies in the Theory of Speach Acts(Cambridge: Cambridge University Press, 1979)(邦訳既出). 第6章 バックグランド能力と社会現象の説明 1. N. Chomsky, Reflections on Language (New York: Phaneon, 1975). 2. J. A. Fodor, The Language of Thought (New York: Crowell, 1975). 3. さらなる議論は次を見よ。John R. Searle, The Rediscovery of the Mind, (cambrdge, Mass.: MIT Press, Cambridge MA and London, 1992), chap. 7. 4. John R. Searle, Intentionality: An Essay in the Philosophy of Mind(New York: Cambridge University Press, 1983), and op. cit. supra.(邦 訳既出) 5. Searle, The Rediscovery of the Mind, chap.7. 6. その例はもともと次によると私は思う。Robyn Carston, “Inplicature, Explicature and Truth-Theoretic Semantics,” in S. Davis, ed., Pragmatics: A Reader (Oxford: Oxford University Press, 1991), pp.33-51. 7. Litwig Witgenstein, Philosofical Investigations (Oxford: Basil Blackwell, 1953), part ii, sec.xi.(邦訳:L.ヴィトゲンシュタイン、丘沢静也訳『哲学 探究』、岩波書店、2013) 8. Ibid., part I, para. 201. 9. Ibid., Part I para. 324ff and passim. 10. Daniel Dennett, The Intentional Stance (Cambridge, Mass.: MIT Press, 1987).(邦訳:ダニエル・C. デネット、若島正訳、『「志向姿勢」の哲学:人は人 の行動を読めるのか?』、白揚社、1996)。 第7章 実在世界は存在するか 第1部:実在論への攻撃 1. 対応説を拒否する実在論の哲学者の一例はピーター・ストローソンである。次を 見よ。Peter Strawson, “Truth” Proceedings of the Aristotelian Society, supplementary volume 24 (1950). 2. H. Putnam, Realism with a Human Face (Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1990), p.23. 3. 次より引用。N. Goodman, Of Mind and Other Matters (Cambridge, Mass.: Harverd University Press, 1990), p.36. 4. H. R. Maturana, F. J. Varela, Autopoiesis and Cognitionm The Realization of Living (dordrecht: D. Reidel. 1980).(邦訳:ウンベルト・マトゥラー ナ、フランシスコ・バレーラ、河本英夫訳『オートポイエーシス — 生命システムとは何 か』国文社、1991) 5. Terry Winograd, “Three Responses to Situation Theory,” Center for the Study of Language and Information, Report No. CSLI-87106, 1987, and Terry Winograd and Fernando Flores, Understanding Conputers and Cognition (Norewood, N.J.: Ablex, 1986), chap. 5.(邦訳:テリー・ウィノグラー ド、フェルナンド・フローレス, 平賀譲訳『コンピュータと認知を理解する:人工知能の限 界と新しい設計理念』、 産業図書、1989) 6. G. Levine, “Looking for the Real: Epistemonogy in Science and Culture,” in G. Levine, ed/, Realism and Representation: Essays on the Problem of Realism in Relation to Science, Literature and Culture, (Madison: University of Wisconsin Press, 1993), p. 13. 7. J. Derrida, Limited Inc.(Evanston, Ill: Northwestern University Oress, 1988), p.136. 8. Putnam , Realism with a Human Face, p96ff. H. Putnam, The Many Faces of Realism (LaSalle, ILL,: Open Court, 1987), p18ff. 9. N. Goodman, Of Mind and Other Matters, p.36. 10. Putnam, Reason, Truth and History (Cambridge: Cambridge University Press, 1981), p.xi.(邦訳:H.パトナム、野本和幸訳、『理性・真理・歴史 内在的実在論の展開』、法政大学出版局、1994)。そのフレーズは、The Many Faces of Realism, p1/で繰り返される。 11. Lutwig Witggenstein, Philosophical Investigations, (Oxford: Basil Vlackwell, 1953), part. 1, para. 464(訳は著者による英訳を邦訳)(邦訳既出) 12. 議論が短くて申し訳なく思う。私はこれらと同じ問題を Intentionality (『志向 性』)第2章で非常に詳しく論じた。センスデータに反対する最良の議論は次を見よ。J. L. Austin, Sense and Senssibilia (New York: Oxford University Press, 1962).(邦訳:J.L.オースティン、丹治信春訳、『知覚の言語―センスとセンシビリア』 勁草書房、1984) 13. Lutwig Wittgenstein, Tractatus Logico-Philosophicus (London: Routledge and KeganPaul, 1922).(邦訳:L. ウィトゲンシュタイン、野矢茂樹訳、 『論理哲学論考』岩波書店、2003) 14. 実在論を攻撃するパトナムは「真理は根本的に非認識論的であると考えられ る」という考えとしてそれを描いた。Putmam, Meaning and Moral Science, London: Routledfe & Kegan Paul, 1978,p. 125.(邦訳:H.パトナム、藤川吉美訳 『科学的認識の構造 -意味と精神科学』、晃洋書房、1984) だが、実在論は、実在が 根本的に非認識論的であるという主張である。そしてそれが「真理」の概念は根本的 に非認識論的であることになる場合、私たちは単にそうであったものとは別の概念を手 に入れなければならない。というのも私たちは私たちの鎮守と根本的に非認識論的な 実在世界都の間の対応を記述する否認し論的擁護を必要とするからである。 第9章 真理と対応 1. 私は「一般に」と言わなければならない。なぜならたとえばある陳述は自己言及的 だからである。例えば「この文は日本語である」(原文:This sentense is in English.)。 2. それはタルスキの規約 T(Convention T)に関連するが同じではない。Alfred Tarski, “Der Wharheisbegriff in den formalisierten Sprachen,” Strudia Philosophica (1935) 261-405; translated as “Concept of Truth in Formalized Languages” in Alfred Tarski, Logic, Semantics, Mathematics (Oxford: Clarendon Press, 1956). 3. J. L. Austin, “Truth,” and P. F. Strawson, “Truth,” Proceedings of the Aristotelian Society 34 (1950). Reprinted in Pitcher, ed., Truth (Englewood Cliffs: N.J.: Prentice Hall, 1964. 4. Strawson, in Pitcher, Truth, p. 32. 5. Ibid., p. 40, “”は原文。 6. Lutwig Wittgenstein, Tructatus Logico-Philosophicus (London: Routledge and Kegan Paul, 1922)。(邦訳既出) 7. Strawson, in Pithcer, Truth, p. 38. 8. op. cit., p.41. 9. 「事実とはなにか?事実は真である思想である」。Gottlob Frege, “The Thought,” in P. F. Strawson, ed., Philosophical Logic (Oxford: Oxford University Press, 1967), p. 38. 10. Strawson, in Pitcher, Truth, p.38. 11. このような陳述は疑いなく事実に参照しない仕方で言い替えられるが、それは 要点を外している。ここで要点は、陳述に因果的力を帰属させない仕方でそれは意味 をなすということである。 12. これらの見解の例は次を見よ。F. P. Ramsey, “Facts and Propositions,” Proceedings of the Aristotelian Society supp. vol. 7 (1927)、および W.V.O. Quine, Pursuit of Truth, rev. ed. (Cambridge, Mass.,: Harverd University Press, 1992).(邦訳:W.V.O. クワイン、伊藤春樹他訳、『真理を追って』、 産業図 書、1999) 13. この議論についてより詳しくは次を見よ。J. R. Searle, Intentionality (Cambridge and New York: Cambridge University Press, 1983), p.13.(邦訳 既出) 14. 次がデイヴィドソンが述べた、すべての議論である: The principles are these: if a statement corresponds to the fact described by an expression of the form 'the fact that p', then it crresponds to the fact described by 'the fact that q' provided either (1) the sentences that replace 'p' and 'q' are logically equivalent, or (2) 'p' differs from 'q' only in that a singular term has been replaced by a coextensive singular term. Th confirming argument is This Let V abbreviate some true sentence. Then surely the statement that s correnponds to the fact that s. But we may substitute for for the second V the logically equivalent '(the x such that x is identical with Diogenes and s) is identical with (the x such that x identical with Diogenes).' Appying the principle that we may substitute coextensive singular terms, we can substitute 't' for 's' in the last quoted sentense, provided 't' is true. Finallym reversing the first step we conclude that the statement that s corresponds to the fact that t, where 's' and 't' are any true sentences. Donald Davidson, Inquireies into Truth and Interpretation (Oxford:Clarendon Press, 1984), p. 42. (邦訳:ドナルド・デイヴィドソン、 野本和幸他訳、『真理と解釈 』、勁草書 房、1991) 15. スリングショット議論の批判は多くある。私は私の考え最も近いもののひとつは 次であると考える。J. Barwise and J. Perry, Situations and Attitudes (Cambridge, )Mass,:MIT Press, 1983). 人名索引 アチンスタイン, P. (Achinstein, P.), 180n3 アリストテレス(Aristotle), 165 アンスコム, G. E. M. (Anscombe, G. E. M.), 180n1 ウィトゲンシュタイン, L. (Wittgenstein, L.), 81, 90, 105-107, 112, 137, 142, 153, 161, 164, 168, 184n13, 185n6 ウィノグラード, T. (Winograd, T.), 124, 125, 183n5 ウィルソン, E. O. (Wilson, E. O.), 181 オースチン, J. L. (Austin, J. L.), 160-161, 184n12, 185n4 カント, I. (Kant, I.), 3, 87, 122, 131, 136, 139, 154 カーストン, R. (Carston, R.), 183n6 ギデンス, A. (Giddens, A.), 181no10 ギルバート, M. (Gilbert, M.), 180no7 グッドマン, N. (Goodman, N.), 124, 128-130, 183, 184n9 クマー, W. (Kummer, W.), 35, 181-182n4 クワイン, W. V. O. (Quine, W. V. O.), 174, 186n12 クーン, T. (Kuhn, T.), 124 ケーラー, W. (Koehler, W.), 181n3 サール, J. R. (Serale, J. R.), 10n, 27n, 180n1, 180n2, 180n5, 180n6, 181n8, 181n1, 181n2, 182n1, 182n3, 182n4, 183n5, 186n13 ストローソン, P. (Strawson, P.), 156, 160-164, 166-168, 183n1, 185n3, 185n4, 185n7, 185n9, 185n10 ダメット, M. (Dummett, M.), 124 タルスキ, A. (Tarski, A.), 185n2 ダーウィン, C. (Darwin, C.), 17-18 チョムスキー, N (Chomsky, N.), 102-103, 182n1@ デイヴィドソン, D. (Davidson, D.), 174, 186n14174, 186 デネット, D. (Dennett, D.), 116, 183n10116, 183n10 デリダ, J. (Derrida, J.), 124-125, 184n7124-125, 184n7 トゥオメラ, R. (Tuomela, R..), 180n7 ニーチェ, F. (Nietzsche, F.), 105 パトナム, H. (Putnam, H.), 121, 124, 127-130, 138-138, 183n2, 184n8, 10, 14121, 124, 127-130, 138, 183n2, 184n2,10,14 バレーラ, F. J. (Varela, F. J.), 183n4183 バーウィズ, J. (Barwise, J.), 186186 バークリー, G. (Berkeley, G.), 124, 131-132, 141, 147 ピッチャー, G. (Pitcher, G.), 185 ヒューム, D. (Hume, D.), 57, 105 ファイヤアーベント, P. (Feyerabent, P.), 124 フォーダ―, J. (Foder, J.), 182n5 フディン, J. (Hudin, J.), 180 ブラトマン, M. (Bratman, M.), 180n7 プラトン (Plato), 137 ブルデュー, P. (Bourdieu, P.), 3, 105 ブルーム, D (Broom, D.), 58, 182n1 フレーゲ, G. (Frege, G.), 161, 174, 185n9 フロイト, S. (Freud, S.), 102-103 フローレス, F. (Flores, F.), 183n5 ペリー, J. (Perry, J.), 186 ホイーラー, J. R. (Wheeler, J. R.), 124 マラトゥーナ, H. (Maturana, H.), 124, 125, 183n4 ミラー, K. (Miller, K.), 180 ミリカン, R. G. (Millikan, R. G.), 18 ミル, J. S. (Mill, J. S.), 133133 ムーア. G. E. (Moore, G. E.), 139-144, 155n5 ライト, L. (Wright, L.), 17, 18, 180n3 ラッセル, B. (Russell, B.), 161 レヴィーン, G. (Levine, G.), 184 レスニエウスキ, S. (Lesniewski, S.), 127 ローティ, R. (Rorty, R.), 124 ロールズ, J. (Rawls, J.), 181n9 主題索引 因果関係 causation 因果関係と可能にすること causation and enabling, 104 因果関係と規則 causation and rules, 102 因果関係とバックグラウンド causation and background, 111, 113 - 117 外的実在論 External realism, 118 - 138 バックグラウンドと可能性の空間 External realism and space of possibilities, 142 - 143 バックグラウンドと標準的理解 External realism and normal understanding, 144 - 145 バックグラウンに関する超越論的議論 Transcendental argument for External realism, 143 - 149 バックグラウンドの前提としての外的実在論 External realismas background presupposition, 142 概念相対性 concenptual relativety, 119 慣習的力 conventional power, 79 慣習的力と授権―要件の区別 conventional and enablement-requirement distinction82 - 85 慣習的力とその論理構造 conventional and logical structure of, 82 - 88 慣習的力と手続き的-結果的区別 conventional and procedural-terminal distinction, 82 規則 rules 規制的規則 regulative, 42 規制的規則/構成的規則の区別 regulative/ constitutive distinction, 26 - 27 規則と慣習 and convention, 42 規則とバックグラウンド and background, 114 - 117 構成的規則 constitutive, 38 - 42, 148 - 150 機能 function, 15 - 37 明らかな機能と隠れた機能 manifest and latent function, 22, 99 観察者相関的としての機能 function as observer-relative, 17 - 19 機能と意味 function and meaning, 21 機能と原因 function and causes, 17 - 19 機能と発話行為 function and speech acts, 65 - 66, 68 機能の集合的賦課 collective imposition of function. 35 - 36 機能と割当の形式 function and form of assignment, 40 機能の賦課 imposition of function, 15 - 22 機能の賦課 function and iteration, 64 - 65 行為者的機能/非行為者的機能 agentive/nonagentive, function 20 - 22 地位-機能 status-function , 35 - 37, 41, 74 - 77 客観性 objectivity, 11 存在論的客観性 ontological objectivity, 11 - 15 認識論的客観性 epistemic objectivity , 11 - 15 客観的 objective, 11 客観的事実 facts, 11 客観的の存在論的意味 ontological sense of objective, 11 客観的の認識論的意味 epistemic sense of objective, 11, 13 客観的判断 objective judgments, 11 客観的-主観的の区別 objective-subjective distinction, 11 検証主義者の議論 verificationist arguments, 131 - 135 言語と社会的現実 language and social reality, 49 - 63 行動 behavior 規則記述的行動 /規則統制的行動の区別 rule-described behavior/rule-governed behavior distinction, 111 思考 thoughts 言語依存的思考 language-dependent thoughts, 49 - 54 言語独立的思考 language-independent thoughts, 50 - 52 志向性 intentionality, 10 集合的志向性 collective intentionality, 22 - 24, 33 - 35, 40 単数/集合的志向性の区別 singular intentionality/ collective intentionality distinction, 23 - 25 無意識的志向性 unconscious intentionality, 10 自己参照性 self-referentiality, 29 - 31, 43 - 44 自己参照性とタイプ/トークン self-referentiality and type/ token, 44 事実 facts, 156 - 178 観察者相関的事実 observer-relative facts, 14 客観的事実 objective facts, 11 言語依存的事実 language-dependent facts, 49 - 50 言語独立的事実 language-independent facts, 49 - 50 事実と言語、第3章 facts and language, Chapter 3, 49 - 63 事実の言語的構成要素 linguistic component of facts, 33 事実の分類 taxonomy of facts, 96 社会的事実 social facts, 25 制度的事実 institutional facts, 6, 25, 29 - 47, 64 - 90, 91 - 101 ナマの事実 brute facts, 6, 25, 31 - 32, 46 - 47, 96, 180n 非制度的事実 non institutional facts, 6 本来的事実 intrinsic facts, 14 実在(現実) reality 制度的実在とゲーム institutional reality and games, 54 - 55 ナマの実在と社会的に構成された現実の区別 brute reality and socially constructed reality distinction, 148 - 149 実在論 realism, 118 - 138, 139 - 153 外的実在論 external realism, 119, 121, 139 実在論と収斂の議論 realism and the convergence argument, 140 - 141 実在論と表象からの論理的独立 realism and logical independence of representation, 123 存在論的理論としての実在論 realism as an ontological theory, 122 内的実在論 internal realism, 136 主観性 subjectivity 存在論的主観性 ontological subjectivity, 11-14 認識論的主観性 epistemic subjectivity, 11 主観的 subjective, 11 主観的判断 subjective judgments, 11 主観性の存在論的意味 ontological sense of subjective, 11 主観的の認識論的意味 epistemic sense of subjective, 11 真理 truth, 156 - 178 真理と脱引用 truth and disquotation, 157 - 160, 164 - 169 真理の収斂理論 redundancy theory of truth, 164 真理の対応説 correspondence theory of truth, 156 - 163, 167 - 169 スリングショット議論 slingshot argument, 174 - 178, 186n14 制度的事実 institutional facts, 25 社会て事実のクラスとしての制度的事実 institutional facts as class of social facts, 34 制度的事実と言語 institutional facts and language, 62 - 63 制度的事実と能力のバックグラウンド institutional facts and the background of capacities, 100 - 101 制度的事実と論理構造 institutional facts and logical structure, 72 制度的事実の維持 maintenance of institutional facts, 93 - 95 制度的事実の創出 creation of institutional facts, 92 成文化 codification, 44, 70 - 71 宣言 declarations, 31, 46 遂行的 performatives, 31 遂行的と制度的事実 and institutional facts, 45 - 46 タイプ/トークンの区別 type-token distinction, 30 - 30 タイプ/トークンと成文化 and codification, 44, 60 地位 status, 38, 39 名誉的地位 honorific status, 76 地位機能 status functions, 36-38, 40, 99 象徴的地位機能 symbolic status functions, 78 地位機能と義務論的力 status functions and deontic power, 78-79 地位機能と力 status functions and power, 75 - 89 地位機能と手続き的段階 and procedural stages, 81 地位機能と名誉 status functions and honor, 80 - 81 地位機能の人権 status functions and human rights, 74 地位表示子 status indicators, 68, 95 - 96 特徴 feature 観察者相関的特徴 observer-relative feature, 12 - 14 存在論的に主観的な特徴 ontologically subjective feature, 12, 14 特徴と機能 feature and functions, 16 特徴と地位-機能 feature and status-functions, 77 認識論的に客観的な特徴 epistemically objective feature, 12 本来的特徴 intrinsic feature, 12 - 14 内包性 intensionality, 27, 75 内包性と機能の帰属 intensionality and function attributions, 27 バックグラウンド background, 100 - 117 バックグラウンドと因果関係 background and causation, 109 - 117 バックグラウンドと外的実在論 background and external realism, 142 バックグラウンドと傾向性 background and disposition, 108 - 109 バックグラウンドと合理性 background and rationality, 111 バックグラウンドと言語的実践 background and linguistic practice, 104 - 105 バックグラウンドと親しみの様相 background and aspect of familiarity, 106 バックグラウンドと説明的発明 background and explanatory invention, 114 バックグラウンドと知覚 background and perception, 106 バックグラウンドとドラマ的カテゴリー background and dramatic category, 107 - 108 反実在論 antirealism, 143 現象論的観念論としての反実在論 antirealism as phomenalist idealism, 143 構成主義としての反実在論 antirealism as constructionism, 143 表象 representation, 118 - 120 ムーアの証明 Moore’s proof, 141 - 142 物自体の議論 Ding an Sich argument, 135 - 137 理由 reasons, 56
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