法然上人鎖仰会 - 法然上人鑽仰会

浄土第79巻 5号 (毎月 1 回 1 日発行) 平成25年 6月 1 日発行昭和 10年5月 20 日第3種郵便物認可
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法然上 人鎖仰 会
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浄土』表紙の人
『
年
佐野芳朗 (さのよしろう )
走馬灯に手を皇室しながら ・..
1 939年愛知県は尾張瀬戸市、瀬戸焼の町に手打うどん
屋の次男として生を受ける。 瀬戸窯業の工芸を専攻、
ノベリティーテ、ザ、イナーに就く o
1962年上京、グラフィックデザインを学ぶ。
傍ら岡本太郎のア ト リ エで「かの子文学碑」ほかモ
ニ ュメン ト 製作に参加。
二科展デザイン賞、 パフォ ーマ ンス として 「 1000円作
品展」活動 等。本邦初の「ボランティ ア」 誌 40数年
間製作。
全日本ろうあ連盟「絵で学ぶ手話」連作。
同時期、正力松太郎氏提唱のー全国青少年教化協議会ー
「おしえの泉」「ぴつばら」等の製作に協力。
愚近は機関誌『浄土』にお招きをお受けております。
淀みの川を流れつ…
合掌
東京・ 九王子
寺 に歴史あり
人々に 信 仰あり
日本の
心の放郷を紀行する
・・・h・・ー・・・‘ーー・
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且
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町本
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楽寺
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八月
王崇 刊弘司 “
京念 一
東照 一
平成25 年4月 6 目、長圃寺第 31 世長谷川次廠住職は大
本山僧上寺御忌日中法要唱導師を勤められた 。 写真は
僧上寺本堂で 、 本尊阿弥陀如来坐像、 法然上人像の前
に立たれているのが長谷川住職。
長園寺
畏園寺本堂の内陣.
御忌の練り行列、畏谷川唱導師
のよに朱色の重量がさされている。
湖上寺本尊阿弥陀如来と法然上人を前に
«し,
して獄徳疏を読み上げる長谷川唱導師。
、
。
。
八王子には数少ない閤魔堂 このお堂の
脇に長園寺の目印となる大杉が一一本立っ
ていたが 古木となり昨年切り倒された
長圃寺関山の讃誉牛秀名が刻まれて
いる石燈。
閤魔堂に記られている閤魔像と十王像。
長園寺歴代住職の墓。
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2013/6 月号
カラーヴラピア寺院紀行
目
次
東京・人王子長岡寺 …写真= タカオカ邦彦
I
法然上人と聖女テレ ーゼ、
--・・・ ・イ ンヲビュー 石丸晶子
…
…・ー・…・…
表紙 ・ 表紙裏= 201 3 『冷 lニJ ,j民紙の人
佐野:YJllll
背表紙裏 = li 'JJ の _RI味探 ;ti;
表紙題字=中村康隆元浄土 |”1 主
アートディレクション= 近藤卜 問 郎
協力= 迦陵頻伽合
今400
・ H ・ M ・-…....・ H・......・H ・- かまちよしろう
編集後記・....・ H ・---..,…・.
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さっちゃんはネ ッ
清鑑
踊=増田河郎子
9
3
…........ ・・・…・・・・・… ・… ・・… 森
誌上句会 . . ..・ H ・...・ H ・-一.....・ H ・....・ H ・-…… ・ …・
dT
渡辺海旭 …・・ - ---・ ・ ・…・…・… ・… 前田和男
江戸 を歩く ・………
マンガ
容子
… ・........ 林田康順
今
3
連載小説
… …
2
12
会いたい人仲代達矢さん上 ・...・ H ・.........・ H ・.....・H ・-…・・ 関
響流ト方
剛
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そしてマザー・テレサ ー …・・
寺院紀行東京・人王子長国寺 ・・ H ・ H ・-….........・ H・.....・ H ・ --真 山
5
1
52
石九晶子 インタビュー護軍
l ゼ、
聞き手.本誌編集チ|フ長谷川
聖女テレ
マエ
石丸晶子インタピュー
マザーテレサと法然上人
長谷川それから、先 生 にお 書 きいただいた、 「私が感じる法然上人 」 というお原稿の中
l
。
・テレサは、インドのカルカ
l
。
「死を待つ人の家」というのをつく
っ
テレサのような存在が、どうしても思い浮
・
ツタで、
ったのですが、どういう意味だ ったのでしょうか
っと社会的運動をする、マザ
に、先生が、「もし現代に法然上人がいらしたらと想像すると、私は
信 仰深い 宗 教家 とい
うよりも、も
マザ
かぶ」 というような文 章 があ
石丸
ツ
。
タというのは、すごく貧しいところです それで、たくさんの病気の人たちが
ておられたのです
カルカ
。
。
受 けて
・テレサは、非常に
信 仰に て身を捧げた方なんです
l
毎日、何十人、何百人と運び込まれてきて、そこで死んでいくわけです
ックの
ックでないとだめだとか、キリスト教の洗礼を
クのシスターで、カトリ
ッ
そういう社会福祉の施設をおつくりにな っていたのですが、マザ
熱心なカトリ
しかしそこにくる人々は、カトリ
く
宗教というものに対して差 別しなか
ったのです
。
ないとだめだとかいうことは 全くなくて、イスラム教徒には、イスラム教の先生 を呼び、
プロテスタントの人にはプロテスタントの牧師さんを呼ぴ、仏教徒にはお坊さまをお呼び
して、 全
。
ただ人として見て、その人が仏教を 信じていれば、その人の心の安らぎのために、仏教
。
のお坊さまを招いて、いろいろ臨終の慰めの言葉 をかけるようにされていたわけです
長谷川それはすごいですね
7
。
石丸それでお 葬式は、 カトリックではなくて、 仏教であげて、極楽浄土に行かれるよう
にお見送りする
。
l
。
・テレサも出席する
。
イスラム教徒の人なら、イスラム教の先生を呼んで、お慰めして、臨終を迎えさせて、
イスラム教のお葬式をあげさせた そこに、マザ
私は、そこに、普遍に至り着いた人の姿を見るのです
ただ、「何教でないとだめだ」とか、「何教でないと救われない」というのではなく「何
ここが重要なところではないでしょうか
。
教でもいいから、私は」と言 っていると、結局は何教にも入らないということになってし
。
ですから、人は何かの文脈の中で、たとえば仏教の文脈、キリスト教の文脈、イスラム
まうと思うのです
・テレサは実践された
。
。
われひと共のというよりマザーや法然上人はわ
教の文脈の中で人生を送り、そこに帰属して自分自身を深め、人々と交わり、われひと共
l
の幸せのために生きていくと思うのです
それを、マザ
l
・テレサと同じようなことをな さったのではないか
。
が身を投げ打って万民の幸せのために生き抜かれたと思います そして、法然上人が今、
。
生きておられたら、やっぱり、マザ
。
浄土宗という、南無阿弥陀仏の宗教を、ご自分の巾に確立して、それをしっかりお持ち
と思うのです
になりながらも、そこで普遍ということに至られていたと思うのです
。
それは、法然上人自身もこうおっしゃっています どなたかが、 「
市上宗でないと教わ
。
れないのでしょうか」という質問をしたことに対して、「自力でも救われた
るだ南無阿
。
弥陀仏を称えれば、行人が百人とも極楽浄土に導いていただける だけど白力の場合は、
8
石丸品子インタビュー
千人のうちの 一人か 二人しか行けない」と
。
このみ教えはテレ
ズのことばでいえば、 一
l
。
歩 一歩円力で難行符行して天国に行くのではなくて、神の腕に抱かれて、つまりエレベー
法然上人は、南無阿弥陀仏の教えを 一生懸命説かれながらも、そこで「自力の人は、地
ターに来って神の国に直行する、ということではないでしょうか
。
獄に行く」とか、「付き合ってはいけない」とか、そういうことはおっしゃっていないのです
自力の人も尊敬して、他の道を行く人として尊敬して、「怖がらないで」と言
い葉
うを、ど
。
こかのお手紙で使っておられるのですが、日力の人にも同じように、むしろ、「そんな困難
な道を、よくまあ行きますね、ご苦労さま」というような気持ちを持っておられたのです
。
。
。
でも、「こっちには、優しい、ありがたい道があるんですよということを教えながら、
長谷川
接しなさい」とおっしゃっています
・
テレサと同じことをなさると
相手を否定せず、さりとて迎合もしない 相手のことを真に尊重する接し方ですね
。
l
。
テレ
l
。
。
ズが亡くなる寸前ですが、周りにいた修道女が、
・テレサと同じだと思います
言っ ています
ズも、マザ
そこに、現代における法然上人のお安を見るのです
・テレサは、カトリックのシスターですが、あらゆる人に、万人平等ということ
。
石丸 ですから、現代に生きておられたら、やはりマザ l
l
思うのです
マザ
l
で対応されていた
テレ
こういうことを
。
。
「あなたは、天国に行って、嬉しいでしょう 今は病気ですごく苦しんでいるけれども、
1
。
ズは、「私は天国に行って、楽をしようとは思いません 天国に行った
天同に行ったら楽になりますよ」といって、慰めたのです
すると、テレ
9
。
ら、ますます私は忙しくなるでしょう助けを必要としているあらゆる人のところに駆け
。
。
今までよりも っと多くの人々の必要に応えられると思うと心が高鳴ります 神
つけて、私は、世界中を巡りながら、手を差し延べながら、これから死後の世界を生きて
いきたい
。
。
一言お
っ しゃ っ てい
様もそれを許してくださるでしょう もっと忙しくなり、私は天国でひと休みするような
。
法然上人も、式子内親王へのお手紙の中で、そのことを
然上人ですね
つもりは全くありません」というように答えたのです
。
長谷川まさに、そこも法
。
。
極楽に行ったあとは、化導といいます ともども手を携えて、 一刻も早くこの世に
石丸ええ
ます
。
戻ってきて、助けを待っている人たちに手を差し延べましょう あなたとは初めてお会い
。
。
したときから、そのことをお約束したことを思い出してください、こういうことをおっし
ゃっているんです
ですから、法然上人は全く同じなんです
時代的な制約があっても、法然上人はそこまで、普遍にまで至り着かれたということは、
その後八百年たちまして、今日、ここにおられたら、法然上人はもっともっと現代に適応
1
。
・テレサと同じように共生きに生き、活動され、当然ノーベル
。
した生き方というか、ご自分をしっかり持ちながらも、浄土宗の僧侶として、万民救済の
ために尽くされて、マザ
。
ざいました 最後にとてもうれしいお 言葉を聞くことができました
平和賞をおもらいになったと思うのです
長谷川ありがとうご
。
(終わり)
でもそれは、今の私たちが法然上人の門下生として、法然上人が目指した生き方、なさろ
うとしたことを、してゆかなければならないということだと思います
10
法然上人鋪仰会 「鶴演会」 のお知らせ
翻ひろさちゃ
「お浄土のはなし j
ひろさちゃ
1936 年大阪生まれ 。 東京大学文学部哲学科卒業、
岡大学院博士課程終了 。 気象大学校教綬を経て、大
正大学客員教授。 宗教思想家 。 仏教、インド思想の
研究、執筆等に幅広く活躍 。 一般の人々に仏教を平
易な言葉で身近なものとして伝えている 。
主な著書に 『 仏教の歴史 j 全市 O巻 『 釈迦 』『 仏陀j
f 因果にこだわるな 』 (春秋社) 『 どの宗教が役に立
っか j 『 仏教とキリスト教』『 仏教と神道I 『宗教練
習問題』『 お念仏とは何か J (新潮社) 『 わがふるさ
と浄土 J (宝蔵館) 『 わたしの南無阿弥陀仏』 (佼成
出版社)など 500冊を超える 。
会場東京芝大本山増上寺慈雲閣 IFホーyレ
口東京都港区芝公園 4-7-35
口地下鉄都営三回線芝公園または御成門下車徒歩3分
他下鉄都営浅草線大門下車徒歩 5分
JR浜総町下車徒歩 10 分
6 月 25 日(火)
午後 1 :30 開場 午後 2:00 開演は 30終3予)
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1,000 円
お問い合せ先
一法然上人鏑仰会一
〒 105・0011
東京都港区芝公園 4-7-4
電話 03・3578・6947
明照会館4階
FAX03・3578・7036
東京・八王子
長国寺
タカオカ邦彦
倒影 /
文 /真山剛
畏園寺山門 。 立派な寺号浴が建っている .
寺院紀行
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ヲどうし
「増七寺の御忌唱導師を勤めるのに、恥ずかしながら度も涙をこ
今振り返ればそれだけ自分の中から色々な想いや感情
ぼしました
。
が溢れ出てきた、ということでしょうね」 平成 二 十五年四月六日、
ふ今えらじ
。
浄土宗大本山増上寺の御忌日中法要唱導師を勤められた東京・八王
恨の話をしてくれた
子の長岡寺第三 卜 一世長谷川次感住職は、 一
。
。
頑なになる、薬の世話になる、感動しなくなる」な
。
以前、加歳の方からこんな話を聞いた 「歳を取ると「三つの K」
が出てくる
。
るほどと思ったが、二年後には打歳を迎えられる長谷川住職は感動、
。
御忌とは、それまで天皇や武人
。
。
住臓 (
八木台下はかつて畏圃
右 )・
御忌後の祝宴でお祝いを述べられる
大本山泊上寺八木季生台下と畏谷川
滋冨をされた思い出冨をされた.
寺の錨餓鬼会で大本山布教師として
fl1Ql1刊
感謝の涙を 三度もこほされたというのだから素晴らしい
。
最初の涙は打ち合わせで総代さんや寺族に励まされた時二
、度目
は唱導師役を支援してもらう、かつての同僚・学友から祝福された
時、そして教書伝達式で最年長者として挨拶をした時だというい
ったい長谷川住職の涙にはどんな想いが込められていたのだろうか
その前に、御忌の説明をしよう
の年忌法要を意味する 言 葉だったが、大永四年( 一五 二四)、後柏原
天皇が法然上 人の忌日法要に使 ってよいという 「大永の御忌鳳詔」を
中でも大本山増上寺の御忌は桜咲く
された法然上人の御徳を讃え、報恩感謝の気持ちを込める忌日法要
発せられ、以来浄土宗で建麻 二年( 一二三ニ) 一月 二十五日に往生
。
1
3
として御忌と呼んできている
四月に移され、大門からの公道をお練り行列する特別なものである
E轟蘇.
.
忠雄毒事司
この御忌は増上寺で 一番大きい法要で、主役となる唱導師を勤め
る寺院の檀信徒の皆さんの理解と応援、近隣寺院の支援、行列と法
要に随喜する有縁寺院の協力、そして寺院 の親戚である法類、寺族
と呼ばれる家族が 一丸となり、さらに事前の習礼(練習)、増上寺
法主から唱導師拝命の 書面を直接戴く教書伝達式、 そして当日、と
一年近く唱導師を支える増上寺の役職者と僧侶が 一体とな って初め
。
。
て御忌が厳修されることになる そして、増上寺御忌唱導師の功績
その大役を勤められた長谷川住職の寺は、照念山月崇院長岡 寺。
はそ の 寺 は も と よ り 、 本 山 の 歴 史 に も 刻 ま れ る
北条氏が築城した八王子城の城下町に関東を代表する檀林寺院、大
。
甲州街道の裏街道だった旧陣馬街道に面し、昨年
善寺を閉山した讃誉牛秀がその隠居寺として天正三年(一五七五)に
閉山した寺院だ
切り倒した境内の大杉が目印だった寺で、近くの諏訪神社とともに
。
が現在地に移った後は元八王子村役場が置かれた寺でもあった
。
地元の中核的寺院である 加えて明治時代には学校が、八王子の町
。
実はこの長園寺に入る前、長谷川住職は増上寺に通っていた 法
式を特別に練習する増上寺式師会、横笛や盤といった雅楽を習う増
。
上寺雅楽会に籍を置いていたからだ ともに普通の僧侶以上の特別
。
。
な修錬を積む会だった 今回の御忌では、当時の式師会の方も含め
て増 上 寺 の 役 職 と し て 唱 導 師 を 支 え て く れ た
おお
孫稚
さ児
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頂頂Z
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唱
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寺院紀行
。
「回りはみんなかつての先輩、同僚、後輩ですから、とても緊張し
た」のも、その「仲間からの祝福に涙した」のも無理はない
。
もちろん長谷川住職の涙の理由はこれだけではない 取材中に訪
れたお檀家さんと優しい笑顔でお話しされていた穏やかな長谷川住
。
生は穏やか、という訳ではない
職だが、その僧侶人
。
昭和四十六年、三 十 一歳の時に大正大学に入学しました その時
「
。
。
長谷川唱導師の臨では、法類を始め
とする僧侶が見守っている。
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は既に浄土宗の僧侶資格もあり、法式や雅楽も学んでいました」とい
住職の 一言で、父
置哩・
う大学の入学式当日が長谷川住職の結婚式の当日でもあったという
こうだ いい ん
昭和十四年、長谷 川住職は高輪に在家の家の次男として生まれる
今もその面影が残っているが、長谷川少年は優しく可愛い顔の子供
。
。
で、遊び場は家の向かいの浄土宗光華院境内でボ 1ル遊びをして
。
みんなそう 言うよ」 少年の中にお坊さんに
いると、光華院の金子貫応住職からよく声をかけられた「僕、か
わいいね」、「うんl
。
。
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なりたいという気持ちが芽生えはじめた
長じて父の会社を手伝っていた長谷川青年にある日、光査院住職
トルを買った青年に道が開ける
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LFgaFP
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。一 年前の昭和四十年、
から寺の運転手にならないかと声がかかる
。
中古ながらピ
。
が創業し、兄が社長となっていた会社を辞め、住職付き運転手の仕
事を選んだ しかし、運転手という仕事は血気盛んな青年には物足
そんな様子を察したのか、運転以外のことも手伝うように
りない
1
5
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、、、、
。
なり、そして僧侶になるかと勧められたのである
「今でもよく党えていますが、僧侶になるかと言 われた時、えっ、
。
長谷 川住職、こうして僧侶の道を歩み出すこととな
った
坊さんになれる、と内心大喜びでした」幼い頃から僧侶と触れ合
っ ていた
二年は我慢しろと 言われ修行に入る 。大学ではなく、僧侶養成の特
三
。
一か月間能り切りとなる最終修行で浄土宗僧侶と
別講座で、年に都合 二か月ぐらい本山に入り、それを二年間、そし
。
。
好きではない勉強、辛い修行を必死の思いでこなしての
て 三年目におよそ
なった
十歳 の 新 人 僧 侶 の 誕 生 だ っ た
も
さらに忠まれたことに、光退院のある城南組寺院には、すでに遷
化されたが法式の大家の津田徳翁上人がいて、長谷青
川年の指導
。
兼ねて 三田法式会が作られた その沖田上人を始め、多くのスペシ
。
。
ャリストがいるこの会で鍛えられたのである 加えて津田上人の引
きで増上寺の式師会、そして雅楽会にも入れてもらえた
こうした思いもよらない好環境に恵まれ、僧侶として 一人前以上
。
になった長谷川住職に養子縁組の話が持ち上がる 相手は八王子長
。
回寺長谷川回明住職の 一人娘定子さん、六歳年下のお譲さんだった
。
。
定子さんを気に入り、さっそく寺を見に行った 長岡寺は田畑と
竹林に閉まれた茅茸きの寺で、かなりガタのきた寺だった
「本堂にはつつかえ棒がしであるし、位牌壇にはなんと裏の孟宗竹
・
たな
こる
と
で
上
岨岨
の
寺
凶
宿
・竃
唱導師を勤めるにあたり溜上寺から
を肩
師う
導い
唱と
動.
めと
拝受する・面。
16
寺院紀行
。
やっていける
が忍び込んでいる。二年前に新築された庫裏も、普請が悪かったせ
。
いか 隙 間 風 と 雨 漏 り が す る 正 直 、 ど う し よ う か な
。
。
「やりがいがあるではないか、新本堂 一
を建てるのも君
。
そんな青年僧を師僧である光華院住職が
かな: : : と 悩 み ま し た 」
後押しする
の仕事だ」という言葉に、長谷 川住職は決心した
こうして、 三 十 一歳の四月十日に結婚式を挙げたのだが、義理の
った
。
「大学の勉強は辛かった」と振り返
今回の唱導師を支えた 一同り以上歳下の同
。
父となる先代から僧侶の資絡があっても高校卒業では駄目だと、大
。
正大学 へ 入 学 す る こ と に な る
る学生生活が始ま
l
」
。
「最初の法式の授業で、長谷川さんが指名され、
『
願我身浄 1」 とお経をあげ始めたら上手いのなんのって
がんがしんじよ
級生が 振 り 返 る
。
しかしそれ
先に述べたが、法式はすでにプロである 。一般学生がまだ不慣れ
な実技や読経、立 ち居振る舞いは既に身についている
。
。
とはいえ、住職になるまでは寺
以外がいけない 楽しくない授業よりアルコール:::と昼休みに近
くで 一杯も珍しくなかったという
からの給料は少なく、有縁の寺の手伝いをした御礼と都立保育園の
る訳ではなかった
。
保母をしていた妻の給料で生活を賄っていたのだから、世沢が山来
しかし、ほとんどの学生が自分より 一回り以上下の若者で、僧侶
の資格を取りに来ている中、すでに資格を持ち法式のプロである長
導師・温和な顔が印象的だ@
祝宴で御礼の撲拶をされる畏谷川唱
17
。
。
辛い毎日にさらに大きな出来事が起きる
谷川住職にとっての大学生活がどんなものだったかは想像に難くな
い
。
。
風邪の熱という診たて違いが手当てを遅らせたらしい
最初に授かった男の子が 一歳 三カ月の時に肺炎で亡くなってしま
ったのだ
他の病院の小児科医からなぜ少しでも早く・・・言
・わ
・れ
・た
とがすでに
。
手遅れ、悔やんでも悔やみきれない息子の死だった そして長谷川
住職以上に先代住職がこれを残念がった 。一 人娘にできた男の子、
つぐよ
。
。
先代住職にしてみれば血の繋がったこの初孫は大切な後継者だった
そして、第 二子の女の子に継代という名を先代住職が付けた 今は
。
隣の寺に嬢いで男の子を 二人儲けている継代さんだが、あなたが寺
を継 ぐ か ら 継 代 な の よ 、 と 育 て ら れ た と い う
きて、気が強かったという先代住職はもともと静岡の浄土宗寺院
の次男で、そのお寺から同じ県内の寺、そして宮城県の寺へと移り、
。
最後に当時は住職が居なかった長岡寺に入る 檀家が 二十数軒の寺
で、東京都の公務員をしながら寺を維持していたものの、どこか他
。
。
に寺は、と探していたという 先代住職はなかなか思い通りになら
。
長男を失った長谷川住職はその辛さで半年間学校を
ない 夢 を 初 孫 に 託 そ う と し て い た の か も し れ な い
話を戻そう
。
あなただけが不幸な訳じゃ
休み、退学を考えた が、大学の先生の「
。
ない、私も空襲で家族を亡くしている 辛抱し、卒業したら」とい
、
銀の畏圃寺本堂・
昭和制四年解体される前の麗ぶき屋
18
寺院紀行
。
葉で踏み留まり、ハ年聞かかったものの無事卒業した
う言
。
。
しかし、他の寺の法務を手伝いながら再建を目指したそ
。
しかし、先代とはなかなかそりが合わない 孟宗竹どころか天井
喝
からムカデまで落ちてくるようになった本堂再建を相談した一
が
される
。
平成七
して、昭和五十五年に新本堂の落慶を迎えることができた
年には先代住職が遷化、そして続いて先代住職夫人が亡くなられた
。
。
その後、妻の定子さん、娘
が、亡くなる直前の「何もしてあげられなくて悪かったわね」の一
言 が今も長谷川住職の心に残っている
の継代さんと 一緒に長田寺の興隆に全力を注いだ
「妻がいなかったら、また多くの方々の支えが無ければ今の私はあ
。
もしいつかあなたに唱導
「
りません 今回の御忌唱導師の話をいただくずっと以前の話ですが、
増上寺で御忌の手伝いをしている頃に、
師の話がきたらお受けしてもいいのよ。一 生懸命頑張っているので
。
。
すから 」 と言 ってくれてね :::」 その奥様は四年前に突然他界さ
れ、残念ながら唱導師の晴れ舞台を見せることができなかった
。
在家から寺に入り、苦労を重ねてきただけに、三度の涙を
長谷川住職の 一代記となったが、こうした僧侶人生で迎えた御忌
唱導師
。
流し、増上寺の法然上人に向かい 「このような私でも宗祖を讃じ、
念仏させていただける嬉しさで目頭が熱くなった」のは無理からぬ
(ルポライター)
ことのようだ
・
今の陣馬街道沿いに建つ畏圃寺の案
内石碑
1
9
樋影/ 9 カオカ邦彦
会 い た い人
仲代達矢がイプセンの『幽霊』オスワル役
「俳優座のナカシロタツヤって人がすごく素
「母さん、僕に太陽をください、太陽を、太
敵よ」とのことだった。私は観てきてまた彼
すらりとした長身で、どこか虚無の匂いが
陽を:::」と、父親の悪い病気の遺伝で廃人
で注目を集めたのは昭和 三十年九月、弱冠 二
漂い、暗く光る大きな眼が特に印象に残って
同然になるオスワルの声色をやってみせたり
女に逢ったときに、その陰欝な幕切れの台詞、
いる。しかし最も特徴的だったのは、ちょっ
した。
十 一歳の新人だった。
と鼻にかかるような、乾いているのに甘さの
中学生のころに兄と 三越劇場で観た武者小路
私はそのころ女子大に入りたてだったが、
ロ」の話になった。
観ていることにまず驚いてくれて、「ナカシ
訪ねてこの話をすると、大昔の『幽霊』から
世田谷の岡本町にある無名塾に仲代さんを
あるその声だった。
ことはあ、ありません」とやっては兄に褒め
実篤の『その妹』の滝沢修を真似て「そんな
この新人は大物になる、とそのとき生意気に
名優、という思いこみを持っていた。きっと
か先輩の安井昌 二さんとか、 二十人くらいで
だけ行け、って言われて、同級の宇津井健と
ーディションがあるから、(背の)大きいの
「僕が俳優座養成所
二年のころ、黒沢組でオ
も思ったものだった。今考えると、仲代達矢
行きました。僕は黒沢明さんの映画は『姿三
られていたので、声色を使いたくなる役者は
の声は滝沢修に似ていないこともない。多分、
四郎』から見始めて『酔いどれ天使』『生き
『幽霊』を是非観るように私にすすめたのは、
る』『白痴』とかまで全部観ていて、そのス
ケールの大きさに憧れていましたから、張り
私の好きな声なのだろう。
通学の電車でよく逢うほかの学科の友人で、
21
昭和39年、俳優座殴立二十周年記念公演「東海
道四谷怪獣」で伊右衛門を役じる仲代さん.
切りましたよ。東宝撮影所にそのとき初めて
行って 一列に並んでたら、黒沢さんが出てき
て、ずいぶんでかい人だなと思って見てたら、
僕のところへ来ました。名前を訊かれて、当
時まだ本名で『仲代元久です』と答えたら、
『え?ナカダイ?それ違うよ』って言う
んです。何が違うのかと思ったら、『君、そ
れじゃ重箱読みだよ、ナカだったらシロかヨ
だよ。ナカシロだろ?』って言 うんですけど、
でも先祖からこれなんですからね。でもそれ
で印象に残ったのか、七人くらい選ばれた中
に入って、通行の浪人役ですが、野盗から村
を守るために、食えない浪人者をお百姓たち
が見つくろって、雇おうというわけですよ」
そのとき監督から大変な目に遭わされた、
主んまげ
という話はいつかテレビで仲代さんが語って
いた。
「
ええ、丁雷も万差すのも初めてで、『歩け』
って言われて歩いたら、『何だその歩き方は。
重い万差してちょこちょこ歩くな』って。今、
22
会いたい人
『幽霊』の舞台を観に来て、すっかり惚れこ
「ある日、ラジオ局にまだ恋人だったころの
テレビの時代劇観てると、そういうのがいっ
女房(宮崎恭子)を迎えに行ってロビーにい
んでしまい、彼を自らの主演映画『火の烏』
れて。これが朝の九時開始。志村喬さんや三
たのを上から月丘さんが見たらしい。共演の
ぱいいますけどね。『俳優座じゃいったい何
船敏郎さん、 三百 人くらいのエキストラを待
金子信雄さんに『あの人、だあれ?』って訊
の恋人役に、と望んだのだった。
たせて、まあいいか、となったのが午後の三
教えてるんだ』とかさんざん満座の中で言 わ
時です。その問、こいつに飯食わせるな、っ
フに裏の道に連れて
いて、それですすめられて『幽霊』を観に来
l
て言われ て助監督のチ
選ばれる新人俳優、ちょっと突っ張ってる。
作品で、月丘さんが新劇女優で僕は相手役に
たんですね。『火の鳥』は伊藤整原作の文芸
。
かれてひたすら歩く稽古ですよ 。今思えばそ
んな小さな役、誰かに替えればいい んですよ
それをしなかったのは、どこか見どころがあ
とだったけど、でもそのときはじつに屈辱的
コチコチになっていたら、『何やってんのよ
したけど、もちろん僕は初めてで、緊張して
海岸とかベッドとかでラブシーンがありま
じゃないですか。よし、将来もし俺が偉くな
う』って、月丘さんにポンとお尻を叩かれま
ったのかもしれない。あとになれば有難いこ
っても、絶対に黒沢組には出るもんか、と心
した
で、別に役者になる気はない、と言 ってまし
『太陽の季節』にちょっとした役で出てるん
の学生だった石原裕次郎さんで、お兄さんの
あのとき控え室で 一緒だったのがまだ慶応
。
に誓ったですよ、馬鹿馬鹿しくもね」
のちに仲代さんは黒沢組の常連スターにな
るのだが、その話はまたあとで。
仲代さんの映画本格デビューは、意外に早
い。当時日活の看板女優だった月丘夢路が
23
。
しかし、初対面でこの人は将来絶対スタ
そのころ毎晩娘を連れてお風呂に通う姿に
その五反田小町が惚れましてね。結婚して僕
た
ーになるだろう、と思いましたね 僕らのよ
と弟と妹が生まれたところで、父が結核で亡
。
うな養成所育ちは芝居が頭でっかちになるけ
くなるんですが、僕は七つ、まだ小学校二年
。
にこれはショックで、はっきりと党えてます
。
ろよ』ってお袋に 言 ったんです 子供ごころ
を眺めて、『こいつは悪くなるから気をつけ
ずっと握り合っていたんですが、つくづく僕
いよいよ亡くなるというときに、僕と手を
てくれて映画館に行ったものでした
きは僕を連れて旅廻りの歌舞伎とか、肩車し
父は京成電鉄に勤めていましたが、元気なと
。
ど、こういう自分そのものを画面にぶつけら
のときです そのころは千葉県の船橋にいて、
」
れる若者のほうが人気スターになるだろう
な、と感じて、その通りになりましたから
その 一方で、日本人離れした彫りの深い容
貌と、知的で、屈折した騎りのある、ちょっ
。
とアラン・ドロンふうの色気のある仲代さん
は、どんどん人気スターになっていった
。
仲代達矢は昭和七年十 二月十 三 日、東京、
目黒に生まれた
ね。どうしてそんなことを 言 ったのか 」
それは仲代さんが 二枚目になる目鼻立ちだ
父親は茨城県の豪農の家に生まれたが、わ
けがあって家を継がず、東京に出て車の運転
ったので、将来女を泣かせるほうの「ワル 」
。
。
この話を伺いながら、私は昔(昭和四十七
うか
へは進むまい、という親ごころではないだろ
の意味と、そう言 っておけば意地でも悪の道
手などさまざまな職に就いたが病弱だった
。
一台買って運転
母親は五反田小町と呼ばれた薬局の看板娘
「
父は家を飛び出して、車を
。
手をしてましたが、結婚して娘が 一人生まれ
たところでその奥さんと死別するんです
24
会いたい人
る清盛の父宗盛が亡くなるときに、清盛役の
ンを思い出していた。十七代目勘三郎が演じ
年)の大河ドラマ『新平家物語』のワンシー
になってからもずっとそう呼び続けられてい
で、俳優座に入ってからも、映画に出るよう
るみたいな僕に打ってつけの紳名だというん
1
ますよ
に、僕をそう呼んでましたから」
平(幹 二朗)なんか 一年後輩の五期のくせ
仲代さんの顔をつくづく眺めて、「お前の目
玉は大きいなあ:::」と肱く。多分これは台
本にはない先代勘 三郎が感じたままのアドリ
いろんなアルバイトをしながら定時制高校
父親の死後、仲代家の生活は大変になった。
「あ
あ、そういう場面、ありましたね 。先代
に通うが、そういう毎日の中でも映画を観る
ブだったろう、と思われる。
勘 三郎さんはその前(昭和四十年)に映画の
一度にしても、年に三百本は
ことだけは欠かさなかった。
観てましたね。 三本立てを 二回繰り返すとか
「
三度の食事を
『四谷怪談』でも、僕の民谷伊右衛門と直助
権兵衛で共演していただいてます。
しかし、そうなんですよ、たしかに親父は
で、金がなくてもプログラムは買うん
して
。
反面教師的な効果をねらってそんなことを 言
ですよ。それを見ると、外国の俳優は大抵大
、
ったんでしょうね。僕は悪くはならず、至極
学の演劇科とか演劇学校に行って勉強してる
l
ということがわかりました。
ッとしてますから」
真面目で、ちょっとモヤ
仲代さんの愛称「モヤ」の由来。
夜学では疲れて寝てばかりいたけど卒業さ
せてくれて、でも学歴がないに等しいし、身
「
うちの母親は江戸っ子でヒとシが言 いにく
って三か月くらいジムに通いました。しかし
くて、僕の本名元久がモトシサになってしま
それが普段はいつもぼんやりして
体だけはでかいからボクサーになろう、と思
。
うので、坊やのやをつけて『もや』と僕を呼
んでいた
2
5
払えず、滞納者のリストが六本木通りの
一番
目立つ俳優座の外壁に貼り出されたりした。
段られるのがいやでやめましてね。
そのころ大井競馬場で、鑑札なしの偽予想
りもしましたよ。そのとき力になってくれた
「それどころか決まりかけた役をおろされた
まして、その競馬場にいる年上の人が、お前、
で三木のり平さんのお母さんがやってた料理
のが僕の腹違いの姉です。そのころ姉は新橋
屋を取締まるアルバイト、というのをやって
われてね。でも僕は非常に内気な性格で、学
屋で仲居をしてました。九百円は私が出して
声がいいから歌手になったらどうだ、って言
芸会にも出なかったし、卒業写真でも 一番後
あげる、と言われて、毎月もらいに行くんで
l
ろで顔は半分かくれてる、みたいな子供でし
ツにスパンコ
すが、弟さん見えたわよ、って呼ばれると姉
l
ルなんか光
たから、紫のス
三年間で卒業となり、仲代さんは選ばれて
が奥から出てきてこっそり金を手渡してくれ
劇団員に残ることになった。このとき「達矢」
らせる歌手はとっても無理、と思ってた。そ
うだ、って。それで考えて、役者の中でも 一
る。まるで新派悲劇の世界ですよ」
番地味なのは『新劇』ってものだ。そのため
の芸名を考えてくれたのがほかならぬこのお
したら今度は、お前、顔がいいから役者はど
には俳優座の養成所へ入ってアカデミックな
姉さん。
l
なった宮崎恭子さんと出会い、たちまちハ
そしてそのころ、仲代さんは生涯の伴侶と
という意味もこめられていたらしいです」
座の生まれなので、的に達する矢のごとく、
「姓名判断にも訊いたらしいけど、僕が射手
演技の勉強をしよう、と映画のプログラムで
得た知識がここで役立つわけなんです」
養成所の試験に合格し、今度は夜のアルバ
イトに変って、パーやキャバレーの給仕とし
て働いたが、それでも月謝九百円がなかなか
26
会 いたい人
トにその愛の矢が 達 してしまう
。
l
。
『
森
ク)という芝居
だけど養成所時代から
一緒に新しい劇団の『新人会』というのを
「
彼女は 二期 生 で、同期の小沢昭 一さんとか
と
作ったんですね
は 生 きている』(マルシャ
『
森は生きている』が昭和四十年五月、大
「
毎晩のように彼女の家で夕飯を食べるよう
抜擢の『幽 霊』がその年の九月だった。
になって、彼女はそろそろ父親に申し込んで
くれ、って 言 うんだけど、そのお父さんて人
は裁判官で厳格な人でしてね、食事をしてて
。
は彼女がわがままな女 王様、 主 役ですよね
::
:お嬢さ
一週間くらい 言 い
もほとんどしゃぺらない
。
『
娘を別にやるわけじゃない』
。
それで新人会にいてもこの芝居の俳優座公演
出せないで、ある晩やっと『実は
。
のときは戻ってきて出演するんです 僕は警
んをいただきたいんですが』と言 ったら、プ
。
備隊の士宮役で、並び大名みたいに後ろにい
彼女は初台で、
んに訊いたら
イッと 二階へ上がっちゃった あとで恭子さ
。
それで帰り道がどちらも京 王 線なので、
た
何度か 一緒になったんです
それでまあ、
って言 ってたそうで、今度は『どうか結婚さ
。
僕はその先の千歳烏山でした
せてください』って 言 ったら、またプイッと
あとで聞いた話だと、
でも結局無言 のうちに
恋仲になって、僕も初台で降りて、彼女の家
しまう
。
。
を機に恭 子さんは思い切りよく女優をやめて
。
式と披露宴は東京、 半蔵門の東僚会館 結婚
二人は知り合ってから 二年後に結婚する
『あいつは余計なこと言わないのがいい』って」
。
。
二階へ行っちゃって
。
。
許してくれました
で夕飯をご馳走になったりするわけですよ」
そのころのお 二人のほほえましい情 景 を、
あった
子さんが嬉し
ずっと前に岸 田今日子さんから聞いたことが
「
大きなモヤの周りを小さな恭
」
そうに見上げながら小 鳥 のように廻ってるの
可愛らしかったわよ
27
昭和33年 、「人閣の侮件」 ロケ中の仲代さん 、隣は奥さまの宮崎恭子さん.
「
男に惚れるようじゃほんとの女優と言
はえ
ない、なんて 言 ってました。その後、演出を
やったり脚本書いたりしてましたけどね。
それにしても、神様というのは公平だなあ
と思いますね。二十歳ごろまではどん底の苦
労続きで、その後は作品にも演出家にも監督
にも女房にも、いい巡り合いがあって、今も
現役でいられるのは、神様がいい配分をして
くれたんだなあ、とつくづく思いますね」
私は仲代さんの舞台は『幽霊』に続いて、
『タルチュフ』『令嬢ジュリ1』『愛と死との
戯れ』『ハムレット』などの翻訳劇を観て、
1
ルで南北の『東海道四谷怪談』の伊右衛
しかし昭和 三十九年十 一月、都市センター
そういうジャンルの舞台俳優、と思っていた。
ホ
門を観たときは衝撃が走った。歌舞伎役者
一代目圃十郎)以
(当時は海老さま時代の十
いろあ〈
外に、こんなゾクゾクさせる色悪を演じられ
。
・ ・・・
る俳優が新劇にいたなんて・・
28
会いたい人
「演出の小沢栄太郎先生が、歌舞伎の台本通
まり、親父の実家は茨城の豪農で、旅廻りの
一座を泊めたりする んですね。そこで僕の祖
僕はそ
り、いじらずに舞台にかけたんです
母に 当 る人といい男の座頭とが不倫の恋に落
。
れまでバタくさい芝居が多かったので、改め
ちて 一時駆け落ちをする
それで生まれたの
て日本語の台詞の美しさに感動したものでし
が父というわけですが、しかし体面を重んじ
。
た。
に納まるんです
。
それからまた弟や妹を生む
んですが、それが少しも父には似ていない
。
僕は初めて脚に白粉塗って出たわけですが、
て秘密裡に事をすませて、祖母はまた元の鞘
あとになって『あなたの伊右衛門はすごかっ
僕の芝居を父の親戚が観に来て楽屋へ来てく
文学座の杉村春子先生が観にいらしてて、
た。うまい、とは 言 わないけど、脚がきれい
れたりしても、誰も父に似てないんで、ヘン
だなあ、と思ってました
だから僕は俳優には向いてないと長年思っ
。
と納得しました 弟(圭吾)もシャンソン歌
てたけど、実は凪が、 DNA があったんだ、
。
だったわよ』って」
でも、どうして普通の家庭で育って、突然
。
でも、どうして?
変異のようにこういう役者が出てきたのだろ
う:::
。
手ですから、やっぱり血なんでしょうね。こ
う
「これね、八十一年間黙ってたことなんだけ
れ、僕と、亡くなるちょっと前の女房と、弟
すると、意を決したように仲代さんが
言
ど、関さんに思い切って
言 っちゃいましょう。
と妹しか知らない話です 」(
つ
つづく)
僕の親父は背も高くていい男で、圃十郎顔し
てるんです 。い わゆる役者顔 。僕 のお袋が八
。
十八歳で亡くなるときに言ったんですが、お
前のお父さんは役者の子なんだよ、って
29
響流+方
。
。
。
。
阿弥陀ほとけは大慈大悲の誓願を起こしたまい、生死の大海に弘誓の船
を浮かべ、罪深き極重の悪人をかの岸へやすやすと渡し給うなり すな
わちこれを他力と申すなり
そのこころを善光寺の御歌にいわく
急げ人御法の舟の出でぬ聞に乗り遅れなば誰か渡さん、と
この世は老少不定と云いながら、もし我れより先に成仏ましまさば、金
。
紫雲に乗じて御迎えに参るべし。(
法然上人 『
御母子往復消息」)
又給
我れ
ゆ漣台を半座あけて待ち
え先立つ者ならば、御臨終の捌には、
たやす
。
。
そ
。
、
阿弥陀さまは大いなる枯渇悲の筈断酬を発して、遂いの世界に念仏往生願という大船を浮かべ
罪深きすべての人々を極楽浄土へと容易くお輸出し下さいますこの働きを他力と申します
の心を善光寺の御歌には 「
念仏往生願という救いの大船に間に合うように励みなさい その大
。
師酬の船に乗り遅れてしまったならば誰がお救い下さるものでしょうか」と詠まれています
、
この世はさ少不定 もし私より先に時君が浄土往生を遂げられたならば、お浄土の金の雄台を
.
半座あけてお待ち下さい 又もし私が先立つことになったならば、母君が御臨終の期には、阿
。
弥陀さまと共に私も繁雲に乗ってお迎えに参りましょう
時空を超えて | 無量寿・無量光の救い |
物流 卜 方
。
毎年お招きいただいている「両国にぎわい祭り回向院会場」で
去る四月 二十七、 二十八の両日、東京両国にある回向院で法話の席を勤めて
参りました
。
の法話ですが、十 一回目を迎える今年は、例年にまして大賑わいでした とい
。
今回の出開帳は、そのテ
l
マを「東日本大震災
うのも、今年は、戦後初となる、信州 善光寺・ 一光 三尊阿弥陀如来像の出開帳
が回向院で行われたからです
復[幸]支[縁]」と掲げ、東日本大震災で亡くなられた多くの方々のご供養
でかいらよ号
。
と被災地の復興を目的とし、その収益は被災地支援に充てられました そう
したことから、 善光寺御本尊のご分身である出開帳仏や 善光寺所蔵の多くの文
。
化財はもちろん、大震災の被災寺院からも貴重な仏像が出品されていました
くだらせいめいおう
『善
光寺縁起」 によれば、 普光 寺 の 一光 三尊の阿弥陀さまは、インド・中国を
経て、朝鮮百済の聖明王から、欽明天皇十三年(五五 二年)、わが国に仏教が
そがのうまこもののベのもりや
。
伝来した際にもたらされた、日本最古の仏像です
。
。
。
その四天 王寺 の西門は日本三鳥
蘇我氏勝利の後、太子が建立された
蘇我氏と縁の深い聖徳太子は、形勢の不利を打開するため、自ら
仏教の受容を巡り、 崇 仏派の蘇我馬 子と廃仏派の物部守屋との間で争いが起
こりました
彫った四天王像に勝利を祈願されました
寺院 が、わが国初の官 寺で ある四天 王寺で す
31
。
居にも数えられる「極楽門」です 鳥居中央の扇額には「釈迦如来転法輪処
当極楽土東門中心(ここは、お釈迦さまがお出ましになり、仏法、とりわけ、
出世の本懐であるお念仏の教えを説き広められた地であって、阿弥陀さまの極
。
楽浄土の東の門に当たっていること記されており、その扇額もすべての人々
の浄土往生の願いを救い摂るという思いを込めて「箕」の形をしています
。
しかし、
蘇我氏と物部氏の争いの際、廃仏派の物部氏によって四天王寺の西に広がる
難波の堀江に 一光 三尊の阿弥陀仏像は打ち捨てられてしまいました
その後、信濃国司の従者であった本田善光公は、目の前に現れたこの阿弥陀仏
。
以来、宗派を問わ
像をお連れし、長野県飯田市を経て、皇極天皇元年(六四 二年)、現在の地に
至り、善光公の名を取って「善光寺」と名付けられました
。
ず、浄土往生を願う数え切れない人々の信仰によって、善光寺は護持され続け
たのです
。
このように善光寺とその 一光 三尊阿弥陀仏像は、わが国への仏教伝
来当初から今に至るまで連綿と続く阿弥陀仏信仰の源流とも言えるのです
。
。
当時の将軍・
この年、江戸には「振袖火事」の名で知られる明
善光寺が開創されてから、およそ千年後の明暦 三年( 一六五七年)に開創さ
れたのが諸宗山田向院です
暦の大火が発生し、 一O万人以上もの方々が亡くなられました
32
'IJ流十方
四代家綱公は、亡くなられた多くの方々を手厚く葬るようにと隅田川の東岸に
万人塚を設け、念仏堂を建立し、宗派を問わず、亡くなられた方々の浄土往生
。
を願い念仏回向を修めさせたのです 以来、回向院は、有縁・無縁に関わらず、
人や動物に関わらず、命あるすべてのものの浄土往生を願う方々によって護持
。
され続けました そうした回向院ですから、江戸中期以降、全国の有名寺社の
。
。
特に安永七年( 一七七八年)の善光寺阿弥陀如来像の御開帳には、六
秘仏・秘像の御開帳が数多く催され、その境内は参詣する人々で大いに賑わい
ました
O 日で 一六 O 三万人もの人々が参詣されたということです
このように、インド・中国・朝鮮・日本と各国を伝来し、仏教の開祖・釈尊
から日本仏教の祖・聖徳太子を経て、数え切れない方々による願往生の篤い信
仰を集め続けてきた善光寺の阿弥陀さまの来歴を繕きつつ、この度巡り合えた
阿向院出開帳での尊き仏縁を省みると、阿弥陀さまの時空を超えて広がる無量
。
寿・無量光の救いの働きに思いを馳せずにはいられませんそして、冒頭の消
息の中で、阿弥陀さまの救いの働きの広大さと善光寺信仰の道歌を紹介しつつ、
。
合掌
(林田康順)
母君に向けて倶会 一処の喜びを懇切に語られている法然上人の優しさに、改め
て親しみを感じると共に、尊崇の念を深くさせられるのです
33
....
連載
一斗...L.
目リ
田
末日
男
金寝
中i
γ、旭
海
月
~を
求
め
て
牽中に月を求めて
家業が傾き寺に出された渡辺芳蔵
。
-R前号までのあらすじ
時は明治の中葉
列強の仏教研究は
東方経営のため
l
ゼルの万国 宗教歴 史学会で研究発表
ドイツへ留学して四年、渡辺海旭は、スイ
スはバ
デンホ
l
フ
。
碩学ロ
H
。
伯と出 会
l
ストラスブルクに
カレルギ
する大役を与えられ、その懇親会でハインリ
l
ッ ヒ・ク
才気倹発ゆえ将来の
。
は十五歳で得度し海旭を名乗る
って大いに啓発をうけた
ったドイツはストラスブクル大学へ留学
。
キを口へ運 ぶと、深くため息をついて、
。
多くの僧侶が伯のボヘミアの 居城に出入りし
哲 人伯爵が 準備中の著作のこと、そのために
ジョッ
海旭は早くも半分ほど飲み干したピ l ルの
お、おそれいった」
「て、哲人伯爵の仏教への造詣の深さには、
来の吃音をいっそう募らせて答えた
戻る と、 寄宿の部屋を同じくする荻原 雲来 に
感想をきかれて、久方ぶりの日本語ゆえか生
宗門幹部として浄土宗学東京支校、岡本校へ進学を許
され、さらに明治二一十年(一九OO )、
廃仏毅釈で打
であ
撃を蒙った仏教再生の輿望を担って当時印度学の拠点
留学
。
1
ハンガ
ゼルの万国宗教歴史学会で研究
。
イマン教綬の薫陶を受ける傍ら、キリスト教改革派、
1
社会主義者らと交わり仏教以外の知見も広める
四年目、スイスはバ
H
カレルギ|伯爵と出会い大いに刺激を受ける
ッヒ・クーデンホ
発表、そこで仏教に造詣が深いオーストリア
H
リー帝国元駐日代理公使ハインリ
フ
。
「渡辺、いつもにまして吃 音
雲来は興味つきない海旭の土産話を聞き終
ていることなどをとつおいつ物語った
えると 言 った
35
がひどいぞ
。
。
どうだ、図 星
こういうときのきみは何かいい
。
さて、それはなんだ 。言っ てみろ 」
たいことが山ほどある 証拠だ
だろう
海旭は深くうなずくと、 「ぉ、おぬしも、
。
ぽ、僕も、ロイマン教授の薫陶のもと原典に
取り組んで四年になるが、ま、まだまだだ
んのだ 」
こ、これではわが日本が遅れると心配でなら
。
雲来はいつもながら海旭の論理の飛躍につ
ただ
いていけずに質した
。
しかし、われらが仏教研究が
「日本がだめになるとは、またなんとも大き
くでたものだ
「ほか
プルク大 学にもたらされたことが機縁だ
」
。
「
そ、それは半分の正解にすぎない」
雲来は少々不満げな 表情をみせた
にどんな理由と目的があるというのか 」
そ、その裏には欧米列強の東方経営に対す
「
る強い国家意志がある」
ほう、貴兄のとても僧侶とは思
。
学 問 一徹の雲 来は目をしばたたかせた 「東
。
方経営?国家意志?つまり植民地進出と
いうことか
えぬ発想には、いつもながら驚かされ」
る
ってはだめだ
徳川の
。
「な、なんの、なんの、そ、そもそも僧侶は
てんかい
寺門に閉じこもってお
を予感させる 言 い振りでつづけた。「こ、故
御世の天海僧正をみよ」海旭は帰国後の活動
人は臥楊の下、他人の軒睡を容れずといった
なぜ日本の命運と関係があるのだ」
逆に海旭は問い返した 。「な、なんで西欧
のわが日本国は自らの仏教研究の臥
ろうお〈
床をすべて欧米人に明け渡して、雷のごとき
H
がとうかんすい
列強では仏教研究がかくも盛んなのか、ゎ、
が、今
。
わかるか 」
雲来は 一瞬眉棋を 寄せて考えてから返した
の片隅で
府をご、つごうとかき、薄ら寒い
屋阻
って西域で貴重
「この問、西欧の探検隊によ
おそるおそる指示が下るのを待 っ ているとい
。
な仏教経典が陸続と発掘されている それが
う、な、なんとも情けないありまさ」
だ
りくぞ〈
英国はケンブリ ッジ 、わがドイツはストラス
36
壷 中 に 月 を求 め て
。
ちといいすぎ
。
のは、なんと弘化二年というから七昔前 露
人はこのように大昔から彼の地のラマ僧を懐
「きみはあいかわず口が悪い
「ゎ、わが故国は今ロシアと干文をまじえん
ではないか」
柔撫循につとめ、漸次彼らを自家薬龍中のも
ととし、ついに家古を今日の状態に化了しお
かんか
とする状況にあるが、彼ら露人の仏教研究か
わが日本では某公爵が新政党をつく
おせた
同情をも
って重要なる仏像仏画の蒐集にこれ
るらしいが、 長らく蒙古に遊んで仏教研究に
。
らすると容易ならざることになる」
。
雲来はまたしても海旭の飛躍についていけ
ず、眉間にしわを寄せた
だいかん
。
』
うぜっ
つとめた露国某公爵のごとき遠大な眼識のあ
。
玄々
一
。
「ご高説おそれいった
。
な
海旭の長広舌を聞き終えて 雲 来は大きくう
22
る大宮人をせめて 一人か 二人はほしいものだ
って、
海旭はかまわず独演をつづけた 「ろ、露
と言
人の蒙古経営は目覚しいものがあるが、こ、
。
これは 一朝 一夕のことではない 」
とつとつと説明をはじめた
なずいて応じた
るほど蒙古に進出するには、武力の前に彼の
すなわち、宗教 言語風俗に関して彼らの根
本研究は、実 に時間をかけ本腰を入れて取り
地の風土風俗の研究が必須である、それには
mw,AAソ
a
。
組まれてきた たとえば海旭と雲 来が生まれ
言っ てから最後にちょっぴり皮肉をつけくわ
その大元となる 宗教研究は欠かせないと」
しかもそれができた
海旭は 雲来 の皮肉など意に介さず先を急い
ったが、ロイマン先
「われら僧侶も学 問のための 学 問に 淫
と
るはるか前に蒙露 字 典や蒙露文法が編まれ、
。
多くの蒙古仏教聖典がカザン大学図書館に収
さらには仏教因果諦である饗
えた
。
蔵されている
してはならぬことはわか
。
生 はなんといわれるか 」
蔵西蔵訳の賢嵐経には独語訳があってわれら
シア
も重宝 しているが、その翻訳は独逸人ではな
ロ
く露国人によるものだ
37
だ
「ロ、ロイマン先生のもとで研錯を積ん
。
l
われらから
「まず宗門
。
印度は
の著書 『
』 に触発されて、英国上
何を我らに教えるか
。
l
ル・ベンド
l
ルが
いまやわが国も識者、財産家、
。
を恥じるばかりだ」
。
l
ラーやベンド
l
ルを
「きみの高説はわかった
いて 雲来に頭をさげた
。
。
「す、すまん 浅慮
。
中途で折るとしばし沈思した と、両手をつ
とたんに海旭は虚をつかれたように弁舌を
の遠国へ送られたのか」
。
めざすべきなのか そのために宗門から異教
が、ではわれらはミュ
の話をさえぎった
雲来はこほんとわざと大きな咳をたて海旭
「学僧」ではなく
僧侶」であれ
優れた 「
を行うべきではないか
あるいは知識層に向かって欧米に学べと啓発
ったように
国を上げて印度研究が取り組まれることにな
ケンブリッジの教授となって獅子肌したため
またセシ
流階級の知識層が仏教経典蒐集の必要性に目
ラ
。
でいながら、こ、これでいいのだろ、っかと思
けげん
。
「に、
覚めたように
。
うことしばしばだ」雲来が怪請な表情をみせ
るのを認めて海旭は説明をくわえた
日本も東方経営に乗り遅れてはならない そ、
。
。
し、しかし、このまま彼ら
そのためにも彼らの優れた仏教研究から学ば
なければならぬ
から学ぶ 一方でいいのだろうか
彼らに鞭捷を与えるようにならないと、わが
。
しかし、われらだけで悩んでどうなるもの
「
東方経営も相変わらず後塵を拝するだけだ」
でもあるまい」と雲来は返した
にも理解を深めてもらわねば」
。
「ぃ、いや宗門だけではだめだ ぶ、仏教界
。
だけでもだめだ。が、学会だけでもだめだ」
というと海旭はまたまた長広舌をふる った
さ っきん
いわく、政治家、実業家、経世家などの実世
l
して大いなる支援をしてもらわねばならぬ
界の人々が仏教研究の必要性と喫緊性を理解
碩学マックス・ミュ
38
査中に月を求めて
。
。
海旭の豹変に 雲来 は
。
「いつものことだが、君の率直さに
酔いのせいではない
驚いた
て言葉 を飲み込んだ
「ま、まことに痛いところをつかれた」海旭
は:・」言
とっ
るが、教義の実践ではわれらには千四百年の
。
長がある」と切り出すとつづけた
。
いささか
いわく、ここ臥州の仏教は大学教室の仏教
だ、専門家や研究家の書斎仏教だ
。
くだけたところで、せいぜいがインテリたち
「自分で口舌をふるい
は口元をひきしめた
が集う社交家や芸術家らのサロン仏教だと
りわけここドイツにおいてはそうだ
。
ながら、ど、どこかで何かが違うと感じてい
たが、冷静なるおぬしの直 言 で目がさめた
アジアの仏教界の僧侶たちが布教にやってき
わが雲来よ、きみは
っている
。
とりわけゲ
。
l
テや
さらにショ
ワグナーなど文学や 音楽が国民に仏教への関
史的特殊性によ
ったのではなく、仏教を紹介する書 物
。
それは、
そ、そうなのだ、われらが目指すのは仏教研
て広ま
「それは学者の
。
究の泰斗になることではない、今を生きてい
によって、つまり 書斎から広まったという歴
。
「国の経論に
仏教研究を生かすことは確かに
けいりん
る人々に仏教を生かすことなのだ」
重要だが」と雲来は言った
われらは学僧ではない、あくまでも
心を高めるのに大いに 貢献した
。
とる道
。
。
するだけではあきたらず、実践してみようと
「しかし、ヨーロ ッパでも仏教を学問・研究
ると、口を開く気配がないのでつづけた
ここで 雲来 は話を終えようと思い海旭を見
人伯爵との出会いで貴兄が体験したとおりだ
これはさきほどの哲
ーペンハウエルの哲学
ぁ、ありがとう
。
僧侶であらねばならぬ」
。
海旭は 雲来 の肩をたたくと、「そ、そのと
おり
。
ここで攻守ところを変え、今度は 雲来 が長
わが生涯の友だ」
広舌をふるう番だった
「
仏教研究では欧米に大いに先んじられてい
39
。
いう動きがょうよう出始めている たとえば
わがドイツでも:・」
ナティロカ
。
と、聞き役にまわ っていた海旭が目を輝か
せて話の先を、つながした
l
欧州初の比丘、
ニャ
。
l
ナティロカという」
「ヨーロッパ初の比丘だ、法名をもっ
言 って 一息い
「ついに出たらしい」と雲来は
れた
ていて、たしかニヤ
。
l
「
世
「パ、パ l リ語で、ニヤ
、ロカは
『
知る人 」、ティは 「三』
。
ナティロカ」という 言 葉を
比丘とは出家してしかるべき戒をうけた僧
のことである
海旭は「ニヤ
は ん寸 49
ナは
反劉すると言った
l
。
まるでわれらが友扱いだ
ま
ったく君ときた
より五か六年下で、バイオリンも弾き作曲も
。
ら気が早いというか:・なんでも、われわれ
する将来を嘱望された音楽家だったようだ
が、仏教に憧れ、一念発起してセイロンへ行
き、修行の末についに比丘になったらしい」
。
「い、いったいおぬしは、その情
心をつのらせ目を
「お、音楽家か」海旭は関
輝かせた
。
「なんでも莱食主義
「実はロイマン先生のもとを尋ねてきた男が
報をどこから仕入れたのだ」
いて」と雲 来は答えた
。
の料理人で文献を求めているとか そのとき、
l
。
「そ、そのニヤ
とやらにも」
l
」と今 一度つ
1
ナティロカの弟子でたしかワッポ
ロイマン先生の指示で応対をまかされたのだ
が、ニヤ
海旭は身を乗り出した
ーとか名乗った」
そして弟子のワッポ
ナティロカすなわち智燈に会ってみたいもの
。
だ
「か、漢名を思
l ナティロカこと智燈か
ぶやいた海旭の心中になにやら予感が奔つ
るとおもむろに口を聞いた
。
界』。っ、つまり、三界(欲界、色界、無色
界)を知る者か」そこで海旭はしばし膜目す
「まだ見ぬのに、
「ニヤ
。
いついたぞ。『
智燈」 はどうだ」
雲来 は 呆 れ 顔 で 応 じ た
4
0
た
。
った
。
また、ドイツに最初の「仏教伝道会」がで
もなか
l
l
きるのは 二年後の 一九 O六年。 さらにニヤ
。
ナテイロカを名 誉会長に戴いて「ドイツパ l
ひょっとするまだあい見ぬ碧眼の比丘とは
深い縁で結ぼれているのではないか、と実
リ協会」が創設されるのはそれらからさらに
。
は予感は的中する それから 三十年後、碧眼
二年後の 一九 O八年
(この項つづく)
このとき海旭がニヤ
の比丘はワッポ ーをともなって来日、帰国し
た海旭が住職をつとめる深川西光寺に寄宿、
ナティロカの存在を知らなくて当然であっ
。
八年にわたって宗教大学などで教鞭をとり
た
。
『
南方 仏教の根本主義」 を出版することにな
4
1
浄土宗法衣専門
古島陰ゑ洛
会社
るのだが、もちろんこのときの海旭は知る由
古き伝統技
三代におたる信頼
有限
を
中山道
御成道から
~
..
森清鑑
中山道巣 鴨
¥
I
,
、
1
且少
鎗送
.散歩図
vu’
-am
-
江戸 を歩 く
渋沢 栄
王子遊山の旅を終え、御成道を駒込に戻ろ
。
。
てしまった
しかし、渋沢はここで勤王の志
。
。
あわやというとき、ふとし
士達と出会い、おおいに啓発され、尊皇捷夷
の行動を起こす
たことから徳川慶喜の家臣、平岡円四郎に出
。
。
これが運命の分かれ目で慶喜が将
そして彼の推挙により慶喜に仕えるこ
会う
。
飛鳥山が途切れると、六石坂 なだらか
な坂を下ると左右に 一里塚が立っている 道
とになる
う
の左右は西ケ原村の畑が拡がっている 明治
軍になると幕臣となり、慶喜の弟、穂川昭武
。
になって飛鳥山に面する南 一帯の畑が渋沢邸
。
。
の随員としてパリ万博に行くことになる 欧
渋沢栄 一は偉大な実業人である
となった
州各国を歴訪し、産業、軍備を見、シ l ボル
。
天保十 一年( 一八四 O)、今の埼玉県深谷市
トの長男から語学を学び、商人の地位を目の
。
日本では大政奉還があり、慶
当たりにする
。
の豪 農 の 家 に 生 ま れ 、 幼 く し て 信 州 、 上 州 ま
算盤を肌身離さず、七歳に
。
で藍を売り歩く
あい
して四書五経や日本外史を学び、 一方で剣術
。
これからは自分の道を行けと諭される そこ
。
応四年、すなわち明治元年、新政府から帰国
この人こそ千
命令 帰るとすぐ静岡に謹慎中の慶喜に面会
。
は神 道 無 念 流 か ら お 玉 が 池 の 千 葉 道 場 で 北 辰
二刀流を千葉栄次郎から学ぶ
で渋沢は真の実業人として歩むことも国のた
。
葉の 小 天 狗 と 呼 ば れ た 千 葉 周 作 の 次 男 に し て
めになると決意を固め、日本初の株式会社実
。
玄武 館 の 後 継 者 当 代 の 名 人 、 達 人 と さ れ る
現に乗り出す しかし、大限重信に説得され、
。
。
これ
まず手始めが日本最初の第
明治六年、退官すると次々と新
一国立銀行を軌道に乗せることである
しい事業を興す
。
剣豪 を 相 手 に 九 割 も の 勝 率 を 誇 っ た 希 代 の 名
ところ
大蔵省入り
れた竹刀であしらわれたといわれる
。
剣士 で 玄 武 館 の 鬼 鉄 こ と 、 山 岡 鉄 舟 が 柄 の 折
が文久 二年( 一八六 二) 三十歳の若さで没し
。
これが第 一銀行、第 一勧
は官 僚 時 代 に そ の 設 立 を 指 導 し て き た こ と も
あり、頭取となる
。
。
。
東京瓦斯、
渋沢はこのほかに数々の地方銀行設立を
業銀 行 と な り 、 現 在 は み ず ほ 銀 行 の 前 身 で あ
る
そしてここからが凄い
る
失敗にこそ終わったが、日本のことを米
。
。
彼の面目躍如たるところである
。
国の通信機関に伝える通信社を企画したのも
彼である
。
現在の渋沢記念館を訪問するとその考え
これが時事通信社や共同通信社の元となっ
た
。
これは希有
そのお
。
方や生き様の息吹を感じることができる 邸
指導する
東京 海 上 火 災 保 険 、 王 子 製 紙 、 田 園 都 市 株 式
宅に隣接する、江戸時代からの貴重な 一里塚
。
。
会社(現東急電鉄・旧目蒲線)、秩父セメン
ト、 帝 国 ホ テ ル 、 秩 父 鉄 道 、 京 阪 電 気 鉄 道 、
かげで御成道(本郷通り)の左右に江戸期そ
な例である
染井の植木屋
左に御殿山の森、右に無量寺を見て、さら
。
の存続運動を起こしたのも彼である
東京 証 券 取 引 所 、 キ リ ン ビ ー ル 、 サ ッ ポ ロ ビ
。
その数五百有余に及ぶ 渋沢
のままの 一里塚が現存している
。
ール、東洋紡績といった新しい産業の旗手企
業を設立する
の偉 い と こ ろ は 「 私 利 を 追 わ ず 、 公 益 を 図 る 」
に徹 し た 人 生 に あ る 幼 き と き 、 論 語 よ り 学
んだ 、 「 道 徳 な く し て 真 の 実 業 な し 」 を 徹 頭
。
に南下すると谷戸川にかかる立会橋 渡ると
。
徹尾 実 践 し た と こ ろ に あ る だ か ら 、 渋 沢 財
駒込村の田畑が拡がる 妙義坂を下ると、ま
。
団を創らなかった このような人だから、教
もなく前方に柳沢の下屋敷、六義国の北角が
。
育に熱意を注いでいる 。一橋大学、二松学舎、
この角を折り返すように西に転
。
て藤堂和泉守の下屋敷 この屋敷は 三万坪以
じると(染井通り)、左一帯は柳沢邸に続い
。
見えてくる
。
勝海
同志 社 大 学 、 日 本 女 子 大 学 、 東 京 女 学 館 と い
った各校の設立や掻輿に携わっている
舟らと女子教育奨励会を設立したのも彼であ
4
4
江戸 を歩 く
。
上あ り 、 さ ら に 四 万 坪 の 抱 え 屋 敷 が 取 り 巻 い
。
。
塀沿いに歩くと染井 右側 一列に植
。
。
ツツジ、菊、朝顔もそ
全国から品種を寄せ集め、交配
中に広まっていった
の例である
して数百に及ぶ花を生み出し、しかもその種
ている
木屋が並んでいる ここが名木「そめいよし
ここで開発された品種が江戸中の
苗を売る
。
の」 を 生 み 出 し た 江 戸 有 数 の 植 木 屋 園 芸 地 帯
大名は及ばず民家の庭に波及していったので
植木屋 一軒 一軒がまるで植物庭園の
。
。
である
。
プロモーションも見事で、江戸の人々
吉宗を始め、歴代の将軍が幾度となく
ある
。
態で 庭 木 、 盆 栽 、 苗 木 、 種 苗 の オ ン パ レ ー ド
遊覧
。
所々に自然の庭石、灯龍を配置 道沿いに生
。
は遊覧がてらこぞって遊びに来るようにした
。
入りやすい木枠の門 武士も町民もこ
たとえばツツジや菊の季節ならここで目の保
。
け垣
養をした方が早いというわけで大勢の人々の
。
江戸時代この
。
ぞって庭内を遊覧 家来を連れた 二人の武士
が苗木を選んでいる姿もある
遊覧場所として提供したのである 染井の植
初の園芸植物図鑑を作った人として名高い
。
よう に 園 芸 村 が 発 展 し た 理 由 は 大 名 が 拝 領 屋
真向かいの藤堂家下屋敷、
。
木屋の中でも江戸 一番の植木屋として名が轟
。
。
敷内 に こ ぞ っ て 庭 園 を 造 営 し た た め に 、 植 木
いていたのが伊藤伊兵衛 この人は日本で最
ム
。
加え
l
や手入れの需要が増えたためでもある
て盆 栽 の プ
。
拝領屋敷を始め、当然柳沢家下屋敷(六義国)染井の園芸地帯を造り上げたのも代々の伊藤
伊兵衛が中心とな
これもここで開発され、江戸
御成道を白山の五叉路に戻って今度は中山
。
っ ている 。一 族の墓は植木
の庭園造りの需要があった
屋群の背後にある染井稲荷、西福寺にある
ここの植木屋は
単に 植 木 を 売 る だ け で な く 、 園 芸 の 技 術 者 、
。
研究 家 で あ り 、 種 苗 の 開 発 に も 従 事 し て い る
。
今日 我 々 が 桜 を 楽 し む と い え ば 代 表 的 な の が
ソメイヨシノ
45
巣
鴨
道沿いに増上寺領が北に連綿として続いてい
。
道を 北 に 歩 こ う 白 山 札 の 辻 の 高 札 ( 幕 府 の
る
。
。
。
。
この時の寺領は都
。
当時の
経営資源は石高表記 増上寺領に隣接する西
村そしてここ豊島郡巣鴨村であった
筑区の池辺村、橘樹郡の師岡村、荏原郡中里
年増上寺に 一千石を授与
家康は芝増上寺を菩提寺とすると 一ム
ハ一O
巣鴨増上寺領
。
巣鴨町下組、中組、上組の増上寺領である
お触れを江戸庶民に伝える)を読んで、大名
の中屋敷を抜けると中山道の右側 一帯に調練
。
場が 広 が る 左 側 は 姫 路 藩 、 酒 井 雅 楽 頭 の 広
。
家康は江戸を守る防御対策
。
大な中屋敷( 二万 一千坪) これを過ぎると
。
旗本、御家人の家宅が密集している 中山道
は北の幹線道路
とし て 武 家 屋 敷 で 固 め た わ け で あ る
。
。
そして巣鴨御駕篭町 将軍の龍を担ぐ人々
側 一帯は巣鴨村の畑が池袋、雑司ヶ谷村まで
。
。
拡がっている 右側は武家屋敷が連綿と続く
。
の住まいが集まっている
再び中組増上寺領に高札が立っている そし
江戸ができる前の
大昔、この辺り 一帯は石神井川や谷瑞川(神
。
田川 に 注 ぐ ) な ど の 河 川 が 織 り な す 、 芦 が 茂
。
てその右側には、 二千四百坪の 一橋慶喜の拝
。
る州や沼地、大池があり鴨が飛来し、巣を作
嘗
領屋敷がある 明治になって数年間、慶喜は
これが地名、「巣鴨」の由来
っていた
。
領を割る形で真性寺
。
。
。
深川の地蔵坊正元の作 旅人はここで旅
。
。
の安全を祈願し、往くのである 正直なもの
m
高さ 二 ・七O m、蓮花台を含めると三 ・四五
蔵 三番の大きな地蔵が門前に鎮座している
街道に面して江戸六地
すると左側、中組増上寺
ここに住まいした
。
。
さてここからは中山
。
。
右手、前田加賀守の抱え屋敷が終
中山道を板橋の宿場へ行く休憩場所とし
ては 現 在 の 池 袋 ま で の 広 い 地 域 を 指 し て い
た
て栄える
。
ここ に 幕 府 の 時 を 告 げ る 「 時 の 鐘 」 が あ っ た
わる と 、 左 手 細 長 く 伝 通 院 領 、 子 育 て 稲 荷
巣鴨町 の 入 り 口 で あ る
・江戸名所図会巣鴨Ji性寺総の下
に中山道長門を入るとをに六地蔵
江戸 を 歩く
。
。
。
細長
これは六地蔵 一番がある東海道品川寺
で現 代 も こ こ か ら 地 蔵 通 り 商 店 街 が 発 展 し て
いる
周辺 の 商 店 街 と 全 く 同 じ で あ る
。
真性寺は真 言宗で奈良長谷寺の末寺
らもたらされたものであり、巣鴨は「園芸の
。
里」として江戸市民に愛された そしてここ
。
から「菊祭り」が生まれる(現在も「すがも
中山道菊まつり」が行われている)巣鴨の
中でも特に菊の展示や販売が盛んであったの
。
がある
。
。
。
。
街道際の大木に葦費張りの
はここの賑わいぶりを克
雪日一
江戸市民にはお 馴染みの「巣鴨の庚
彦大神)
王子道と交差する右 側に庚申塚(猿田
。
戸っ子で大賑わい 上組増上寺領が終わると
その時には瓦版や浮世絵でも宣伝され、江
。
い寺域だが現在よりもずっと広い 中山道に
。
。
が、この上組増上寺領である
。
面した長門を潜ると左手に六地蔵 まっすぐ
進むと本堂 その後方に裏門がある 裏門を
。
出ると巣鴨村の畑が拡がっている
。
真性寺参詣の後、街道に出ると左は巣鴨中
組増 上 寺 領 が 続 く 右 は 御 家 人 の 家 宅 が 密 集
ここに明治になって高岩寺(とげ
申塚」である
。
している
明に描いている
屋根をくくりつけ、下の茶店で休憩する人々
右、御家人屋敷に隣接
上組増上寺領である
旅人の
能や馬に乗る人、荒ぶる力持ちをなだめてい
。
絵の右端
。
して幕府奥医師並、渋江長伯が経営する 一万
。
客を待つ馬子達
る風の人たち 虫取りに行く子供達
。
抜き地蔵)が移転 ここからは街道の両側が
。
荷を運ぶ人
。
三千坪の御薬園がある(中央卸売豊島市場)
ち
。
。
周囲は全て巣鴨村
ここで飲み食い 一休みして中山道を板橋
に庚申塚があり、その脇の王子道を行く人た
。
姿
。
。
渋江は著名な本草学者(植物学者)であり、
ここから中山道の両側が増上寺領になる
薬草 栽 培 に 業 績 を 挙 げ た
。
に向かう大勢の人達の姿
。
巣鴨は菊の栽培で有名であった
の畑である
これは近く
の藤 堂 下 屋 敷 北 側 に 密 集 し て い る 植 木 屋 群 か
・江戸名所図会巣鴨庚申縁の賑わい 。
を上 、 中
山道を板橋へ。右端中央庚申録。その側馬子がいる
とこから入る通が王子道。通報聖がある 。
。
。
。
児
。
か 帰って夕食となると、あとはもう寝るば
かりだろう 家で待つ者もいるのだろうか
「葱」は冬の季語だから季重なりになるのだ
内
が、あまり気にならないようである
桃
を
〈
佳作〉花び-
V 竺つニ払いT家に入る
苑
新
居酒屋の三軒並び日永し
三弦に三代かけし薄軽の春
山
〈霊〉
旬一
上一
小
林
石
原
。
寺である 寺の裏 山にある 崖は、駆け込んだ
駆け込んで三年ばかりも居れば、夫との縁
が切れたという、女性にとっては有りがたい
崖の上縁切り寺のきぷし揺れ
特選
〉
〈
浄一
「朱三二日月」というから、勤めの帰りだろう
冬三日月女が慈を提げて行く
.
縁
.
口
信子
曽間あさ子
山
48
女性を守 っているように思われる
。
。
花がかんざしのように揺れている
佳作〉四月馬鹿恭碗の縁の御飯粒
〈
野良描の居台市ヤ縁の春日ざし
田の縁ら義一リ放水の音立てぬ
。
きぶ しの
増田
善也
佳
春
-自由題
い競
て桜咲きにけり
伊賀 、 甲 賀 、
伊賀と甲賀といえば隣国同士で、忍術で名
。
桜が競い合うよう
の通 った所であ った その忍者同士に競い合
うことがあ っただろうか
。
は何を込めようとしたのだろうか
に咲いているというのだが、「競う」に作者
雅子
真
〈
佳作〉夫逝きて日永どなリし昨日今日
口
田
藤
富永木綿子
3兵
能
子
斉
井
村
佐
中
村
お位牌の三つにひどっ柏餅
人往むピ点リT気村く春の山
4
9
特選
〉
〈
選者=増田河郎子
浄土臆上句会の
お知らせ
伝
通
自由題
霊
三味の音を止めて聴き入る青葉騒 森懐人
誌上句会 〈編集
部選 v
.三
疾く歯に 一日長かり 三鬼の忌
三門に満天星の花宵ともす
春彼岸皿のおはぎの 三 つほど
内藤隼人
斉田仁
笠井亜子
横野東人
結城慎吾
名
-緑
初夏の旅ただ慎かしき有縁の地
仏縁を頂き喪の身御忌修す
山口具円
森懐人
佐藤雅子
早乙女喜栄子
笠井亜子
浅野東人
嘉藤愛
長谷川裕
小林苑を
縁 側に正座しており目借時
晩春や母の名づけし無縁坂
坂下並由美
蛍閲あさ子
山崎遣迎子
早乙女喜栄子
工藤掠
斉田仁
山吹のざわりと麻酔切れかかる近恵
玄関に福助坐る春の家
務椿避けて椿の落ちにけり
山笑、つ頑是なき孫幼稚園
法要に和して背山に嚇れり
こでまりの白き妖精こぼれ落ち
花の雨酔いをさますに惜しき道 森懐人
引導の静かな響き花の雨
飯烏英徳
-自由題
天空の縁まで花の舞い上がる
花後に咲く遠縁にあたる花
佐藤雅子
はらはらと縁のさくら文にあり
賞問あさ子 …春愁に淡き縁どりありにけり
早乙失点口栄子一
帽の縁歩いていたり春の蝿
春附けてとことん乾く縁の下
三越で買うてしまいし金魚かな
三昧と称して雌酒の昼
三娠のあとの青空嚇れり
芝青む 三橋達也の目尻かな
三千世界にぽつりん隣蜜柑
0
道端あらた
3
明照会館内
三枚におろして春の海便り
締切・二O 一三年六月二十日
発表・ 「
浄土」 二o =ニ年九月号
『
選者・壇田河郎子 (
南風」主宰)
応募方法
佳作各
・
41714
・ いずれの題とも数の制限はありません
.特選各1名
。
10011
東京都港区芝公園
たましいの底にぶあり絞薬
薬害に俳句(何句でも可)
と、住所・氏名を、必ずお書き下昨年の楽にくるまれし似餅
山内桃児
さい
春
の
夢
呪
文
の
よ
う
に
プ
レ
ス
リ
ー
鈴木真理子
宛先
オ
ム
ラ
イ
ス
に
似
て
春
の
堕
落
か
な
笠井亜子
長谷川裕
〒前
月刊 「
浄土 」誌上句会係
50
福島民報 ・宮崎日日新聞・新日本海新聞
かまちよしろう先生作新聞四コマ漫画 『ゴンち ゃ ん」が各地方新聞に掲載されています。(
静岡新聞・山梨日日新聞・北日本新聞 ・
神戸新聞 ・岐阜新聞 ・中国新聞・四国新聞)
・
さ鳴で憎う
回刊
編集後記
のろくとも雨を 喜ぶ蝿牛
先日テレ ホ ン相談で受けた電話に、福
岡からの若い女性で、「インターネット
、
だが ひどすぎると思った。インタ
。
ーネ
に「断捨離(だんしやりごがある。や
宮林昭彦 (大本 山光明寺)
(敬称略・五十音順)
ム
う
しよう と よく 言 われる。確かにあっても
事な考え方だ。(長)
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発行
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練式会社
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発行所
〒 一O五。OO 一一
東京都港区芝公 園問 。七・四明照会館内
印刷所
佐藤良純
大室了時
昭和十年五日 三十日第 三極郵便物認可
印刷 平成 二十五年五月 二十日
平成 二十五年 六 月 一 日
ヒ十九巻 六月号頒 価 六百 円
年会費六千 円
村田洋 一
長谷川岱潤
斎藤晃道
佐山哲郎
青木照窓
不思議でない気がする。現代を生きる大
ッ ト の普及は、情報化 社会をとんでもな
いいように思うが、単語としては出てこ
い方向に持って行ってしまっているよう ない。でも禅宗が使う用語に出てきても
ましたひでこさんがヨガの行法哲学の
ムとなった 言葉
な法案を考えていて、公明党なども賛成
「断行 ・捨行・離行から ヒ ン
l
と出ている。私は小さいときから筑豊の
った片付けの生き方術で、いらない情報、
二年くらい前からプ
な気もする
在日韓国の人の多い 地域で暮らしていた
なくてもいい物は断ち、使わない物、必
の話で、今の政府が差別を推進するよう
ため、学校で差 別 を受け続けてきた。不
要のない物は捨 て、物への執着を雌れる
l
をえて作
安でしょうがない」というものだった。
真野飽海 (大本 山 清浄華院)
拙怖之(網代・ 教安寺)
水科善隆 (長野 ・ 寛慶寺)
浄
土
ト
私は人権委員の立場から「それは全くの
というもので、主婦層を中 心 に大プ
、
でたらめで、そんな法案が出るはずがな
ト
となった。最近 でも「私も断捨離始める
ネッ
縮図卓文 (静岡・ 事陽院)
本多義敏 (両国 ・ 回 向 院)
わ」を口にする人が多くなってきた よ
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いし、もし本当だったら 大 問題になっ
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ホームページ
岱
澗
巌谷勝正 (目黒 ・ 祐天寺)
魚尾孝久 (三 島 ・ 願成寺)
大江田博導 (仙 台 ・ 西方寺)
北山大超 (焼津 ・ 光心寺)
加藤亮裁 (五反田 ・ 専修寺)
熊谷靖彦 (佐賀 ・ 本 I@ 寺)
粂原恒久 (川越・ 蓮馨寺)
佐藤孝雄 (鎌倉 ・ 高徳院)
佐藤成順 (品 川・ 願行寺)
佐藤良純 (小石 川・ 光岡寺)
東海林良雲 (塩釜・雲上寺)
須藤隆仙 (函館・称名寺)
高口恭行 (大阪 ・ 一心寺)
田中光成 (町 田 ・ 養述寺)
中島真成 (青 山・梅窓院)
中村康雑 0育水・ 実相寺)
中村瑞寅(仙 台 ・ 感鈍院)
野上智徳 (静岡・ 宝台院)
藤田得三 (鴻巣 ・!勝願寺)
ていますよ 」 と答えた。インタ
飯田実緩 (駒ヶ根 ・ 安楽寺)
な気がする。この「断捨離」仏教用語で
特別 、 維持 、賛助会員 の方 々
でよくある話と 言 ってしまえばそれまで
雑誌 『浄土』
52
泰雲
文と写真
ピッツァ・サルヴァトーレ
衣更えの季節。
1 日中衣 }Jlf の /1'1 し入れに追われ食事の支度も
外食も難しい 。 そんな|時に美 l床しいデリバリーは助かります。
今回はデリパリーの 『 ピッツァ ・ サルヴァトーレ 』 の紹介。
円本にナポリピッツアとイタリアの食文化を車内介したグラン
シェフのサルヴァトーレ ・ クオモが、ナポリピッツアのコンテ
ストで、「l 本初のチャンピオンになった大 1§ 誠氏を迎え「l 金台
にピッツアを主とする店を出しました 。 それが「ナポリピッツ
アの達人」の店として注日され、その後、 |口l じ東京の白金台か
らデリパリーを始めました 。
水牛の乳で作る濃厚なモ ッツァ レラチーズ、 1~1, 1丘薬のハーブ
の食材からなるメニューはクオリテイが高く、他の宅配との速
いが鮮明に I M ます 。
そのサルヴァト ー レのおすすめはシンプルなマルゲリー夕、
カプレーゼ(モッツ 7 レアとトマトのサラダ)、パンチェッタ
など。 サラダ類や前菜も豊富で、本場のピ y ツアに 最も近い宅
配ピザと 言え ます 。 また、季節のメニューのグラタンやリゾ ッ
トは風邪引きのときに助か っています。
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(配達可能エリアを確認してから御注文下さい )
[月 ~金 l
11 ・ 00~ 14
[土 ・ 日・祝1
11 ・ 00~ 23 :
30 17:00 ~ 23 : 00
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〕O ロ OMOH U -A山発行人 / 佐藤良純編集人
/ 大室了時編集チ
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大丸院
来漸寺
群
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大念寺
常桶寺
ヲム経寺 ( 瓜連)
玉
浄国寺
勝願寺
蓮馨寺
神奈川丸明寺
大最寺
ヲム経寺 ( 結城 )
葉
江戸時代に浄土宗僧侶の養
。
。
善導寺
イ寺 通院
《十八檀林》
東 一千 一茨一埼
幡随院
成を目的として選定、創建さ
れた十八の古利や名刺がつい
に一冊の本になりました
関東各地の十八の寺院を取
立寺院となったこか寺を含む
エピソード、さらにお寺巡り
材、その歴史から今に伝わる
や団体参拝に役立つ周辺の見
所や食事処、加えて詳細なア
クセスマップに各寺院の基本
情報も掲載された手元に置い
ておきたい待望の一冊です
また、巻末には江戸時代に十
。
一八檀林参拝の様子を記した摂
一門の 『
檀林巡路記 』 の現代語
訳抄も掲載されています
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フ/ 長谷 川 岱潤
または各檀林寺院、 浄土宗文化局でもお求めいただけます。
(税込)
:800 円
法然上人鎖仰会電話03-3578-694 7F
ax033578-7036
A5 版/ カラー 96 頁
※本誌のお求めは、
発行・関東十八橿林霊場会
大善寺
増上寺
馬
霊山寺
霊巌寺
京
4割田・