December 法然上人鎖仰会

浄土第65,島第 12号 (毎月 l 回 l 日発行 (平成 11 年 12 月 l 日発行昭和 1 0年 5 月初日第 3 橿郵便物認可
j・
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1
2
法然上 人 鎖仰 会
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国際電話は α)41 、市外電話は αコ88 でテレコムしよう。
。
。
。
寺に歴史あり
人々に信仰あり
日本の、心の故郷を紀行する
千葉・ 行 徳
。
徳願寺第三十二世申野亨願住臓とか
ほる夫人 下は徳願寺本堂
本尊の阿部陀如来は徳川家康ガ
、
l千葉行徳!
二代将軍秀忠の正室
?芝願寺
、
崇源院殿 〉のだめ C遷座した立像
達子 (
左ガ本堂、 右は聖書殿。 涜内 lこ庭も
多 く、 手入れガ行き届いている
-
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11
徳願寺開山不残上人木像
l ,.j曙,.ー-守ーi.:__<_ J
・ ~ 予
ei ,
園
・・・・・. 1
. ・
穏やかな口調で白
緒を語る中野住蛾
長い塀の内に並ぶ天
lこも届きそうな首位
野鳥保護を目的とし
だ市川野鳥セ ンター
撮影 ・ '7カオ力邦彦
lfBiI司
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1999/12 月号目次
モンゴノVの少年院等 を訪 ねて
“
古宇田亮)1頂
••••••••••••
寺防己行千葉・行徳「徳願寺 J .
.
.
.
.
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.
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.
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.
.
.
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.
.
.
.
.
.
.
.
.
.
.
コラム仏教歳時記
一
ー
… ・…・
連載小説法然上人をめぐる人々(八)
•• ••••••• •••• •••••••••••••••••• ••• ••••••
御法語に 聞く
列伝第 2 回小西有祐先生
••
第 2 回つば庭 日 記 ••••••••••••••••.
J フォーラム
ー・
浄土誌上句会
-ー…
ぃ・・・
・・・
表紙題字=浄土門主
・
…
中村康隆貌下
表紙燭影= 三 iillr))大
アートディレクション= 近繰卜 l珂.0 11
協力= 迦陵頻伽合
7
ー・・一…
…
…・…
2
5
袖山鍛輝 34
…......................・ H ・ 坪井俊映 3 8
いい・…ー
…
… 近藤唖々砂 4 2
…
…
... . ・・…ー
・・…
8
剛 16
・,.....................“ H・H ・... 石丸晶子 26
ー…・・‘・・・・・
・ぃ
編集後記 ・
・…
真山
…
ー…
ー一……・・ . 47
選者=増田河郎子 50
・…
………・ . 54
モンゴルの
少年院等を
訪ねて
古宇田亮順
8
て
ね
幼
半年前噴、 NHKTV
。
よりモンゴル社会の変動が激しく、街にストリートチルドレン(孤
放牧を業とする遊牧民の多いモンゴルで何故?
と
一寸疑問をもった
。
TV
では、
児)が増え、北国独特の寒さを防ぐため、 マンホール住いをする少年達の様子が放映され
た
連崩壊後、社会主義から離れ、急激な資本主義経済導入による都市化の流れの中で失業率
。
。
ゴビ砂漠、馬と大草原等々興味つきないそのモンゴル
っ たという
この 一年余りでも首相が 三 回も交代する程苦闘しているこの国で、人々の生活形態も
も高く、親から見放されてしまう子供達が多く、困惑するモンゴルの現状が伝えられてい
た
大幅に変らざるを得なくなってしま
蒙古斑、ジンギスカン、旭鷲山、
った
。
「街道をゆくLで知られた司馬遼太郎が、
二十五年前に初めてモンゴ
の
の赤十字社から、中学英語教師の友人を通じて是非来蒙して、恵まれない立場の子供達に
パネルシアターを見せて欲しいとの依頼があ
夏期休暇中のため、特に養護施設、障 害 児 学 校の児童、 それから少年院(刑務所)
筆 や文房具などを持参して若い教育関係者十名
年達などに日本の楽しい歌や物語りなどパネルで演じて貰えれば、関係の教師達とも良い
。
関西空港を飛び立って、北京を過ぎ、広いゴビ砂漠を越えて四時間余りで、首都ウラン
パートルに到着した
伺
ー-血-- -~
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ーモーー-
.
.
幽匝邑
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隅 教育交流ができるからと強く要望され、鉛
舛 程で八月下旬出発し。
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ン
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裡zzτ二二一一三二二-ご三
曾国.~
ソ
少
二時過ぎには着いてしまうという便利さである
。
本年は小測首相も来
ルを旅した時は、 シベリヤ経由で三日位かけてやっとの思いで到着したというのに、今は
朝日本を発って午後
。
ゃぎ、ら
られたということで、急激に親しみ深ささえ感ずる程の国になっていた 日本の四倍もあ
る広大な固ながら、人口は僅か 二百五十万人で、馬なら九百万頭、他に牛、羊、
。
くだ、トナカイ等数知れず生息する地で、夏でも朝晩は冷えこむ日も多く、湿気も少ない
土地なので、暑い夏の日本からの旅行者にとっては恵まれたところである
戦争記念塔(ザイサントルゴイ) の裏手の小高い丘に、高い塀に固まれた少年院(少年
。
刑務所) はあった 。軍 人管理による一寸ものものしい入口を通って、広々とした庭を過ぎ
た二階の集会室に案内された
1
卜八才までの異国の少年相手となると
一寸不安もあった
。
日本からのボランティアグループとはいえ、平素は小学校や養護施設の教職関係者ばか
りなので、年令の高い十四才
少しでも緊張をやわらげようと、前日、施設児童を前に行なったプログラムを基に研究練
習を重ねて、雰囲気を明るくして臨んだ。幸いな事に、前日の公演で共感してくれた国立
。
およその内容は左記の通りで行った。
人形劇場の支配人氏も応援にかけつけて、 モンゴル語の童謡や歌遊びの時には積極的に合
唱指導してくれた
10
モンゴルの少年院等を訪ねて
赤十字本社にて
障害児学校で
少年代表者会議
11
モンゴル童謡と遊び(マ
l
ム
l
ナシ)
モンゴル風絵画作品「花」(喜名昌吉作)
、
、
l ドの演
。
l
ホ
1
の白い馬)
1
アイアイ)
ニ、造形クイズ)
カレーライス、
、
モンゴル語の協力
ーディオンの伴 奏やキ
奏を 加え、難解な解説には、仲間や赤十 字社の人の英語
やはり今回新しく作っていった「ス
l
ホ
1
。
特に今回のために
の白い馬」は自国の民話なのでという希
う豪華な親善公演が実現し、 アイアイ等易しい歌は室中に大合唱が響いた
。
その興奮のま
望から、 モンゴル人が原語で語り、日本人が操作し、 モンゴル人による演奏も加わるとい
した
観客参加のクイズや遊びは、若い仲間が早速マスターしたモンゴル語に手話も入れて進行
モンゴル人にも親しまれているという沖縄の「花」の歌をモンゴル風に新しく作り上げ、
で、珍しさと判りやすさが受けて、最後まで皆真剣に集中してくれた
があった 。幸 いな事にパネルシアターの場合は基本的には絵(貼り絵)と音楽が中心なの
ーボ
以上で約 一時間の実演であったが、これに日本から持参したアコ
七、日蒙語混合歌遊び(幸せなら手を叩こう)
六、日本の童謡(小さな世界、 おもちゃのチャチャチャ、
五、物語り(ス
四、観客参加クイズと遊び(野菜の名前、欲しいものナ
三、日本の童話(しゃぽん玉とばせ、 コブタ)
一
I2
まに続けられた、最後の「幸せなら」
。
の手遊びは現地の人はモンゴル語で、自分達は日本
語ながら動作は全く同じという共通性で会場は湧いた
。
最後には、少年達
以上で終わりですと告げると、所長さんからすかさず、「特にコプタの歌が楽しく歌えた
。
そして
一日も早く、彼ら
「 郷を憶う」という静かな歌を聞かせてくれたが、中には涙な
故
ので是非覚えたいから」とせがまれ、何度も何度も大声で歌い続けた
から御礼の歌という事で
がらに歌う少年も多く、自分達も心に深く感ずるものがあった
。
。
日本から
「軍人である私としては今まで日本人には、こだわり
しかし今日のこの感激でわだかまりがすっかり消えました
絵を 差 し出しながら所長さんは
そしてここの少年が描いた白馬の絵ですがと、丁寧に描かれた画用紙をおみやげに頂い
。
。
。
の
が幸 せになって欲しいと願わずにはいられなかった
た
をもち続けていた
。
その馬の頭の形をも
ン等の戦いの記憶は消えず、日本について複雑な感情をもっていたので、今日のこの出会
は
て来て貰って本当に有難う」と強く手を握ってくれた。半世紀以上も前.
といえ、ノモンハ
ね
坊
いですっかり払拭されたと告白され、民間交流の必要性を痛感した
「白い馬L はモンゴルでは「優しい心」を意味するそうだが、
どかな優しさが感じられた
つモンゴル楽器、馬頭琴で演奏するモンゴル民謡も日本民謡と良く似たところが多く、
お
等
院
年
少
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の
ン
ゴ
モ
ゲル(家)
I
3
な
。
他にも国立人形劇場での施設児童招待会(二回)、赤十字本社、少年代表者交流会議、障
害児療育学校(第二十九校)等での講義、 公演は、自分達にとっても良い勉強になった
また赤十字担当課長とは個人的にも親しくなり、その御宅にも招待され、暗い階段を上つ
た三階のアパートにお邪魔させて貰った。親戚の子供も混えて、 パネルシアタ ーの他に日
本舞踊も披露した家庭的な交流会も忘れ難いものとなった。
一度は殆ど崩壊状態にあったが、近年少しずつ寺院の復
モンゴルの仏教といえばチベット仏教の影響により大きな力をもっていたが、六十年前
のソ連支配による政治弾圧から、
日曜日には参詣者で賑わってい
興も始まり、特に中心のガンダン寺の二十六メートルに及ぶ巨大な観音様も四年前に復興
され、 モンゴル仏教徒の信仰のよりどころが取り戻され、
を送っているだけに、 やたら物欲の多い自分の生き方を考えさせられた
{西光寺住職・パネルシ
。
アター創案者
するので「物は多く持たない方が幸せで、財産をもちすぎる人は不幸だ」という少欲生活
都会から離れた草原で暮らす牧畜の人達は、ゲルというテントによる移住生活を基本と
た
草
原
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4
今月 の謝~
LOTUS
f也の中に五直筆あ q
大企ロ阜申告
青色には青えあ q
黄色には黄71:..
赤色赤丸
そして白 色には白えあ q て
微妙'~i:草な q
~利弟よ
4盈楽園土には
かくの如くの
功4患荘厳が成主主される
蓮華
この不可忠議
たとえ 七 W~\.功t車水なくとも
小き な花田に
咲く
美しく øjt いて
、、る
浄土と 蓮
仏教伝来以来日本人の心には、蓮の花は極
楽への来迎花になりました。 特に、浄土教
と蓮の係りは大変深〈、浄土三部経の一つ、
無量寿経に「衆生は蓬花の 中 に、自然に化
生して、蜘践して座す」と、阿勃事官経には
極楽浄土の様子を「七宝て党り輝く蓮池に、
五色の大輪の花蓮が膏賞赤自の光を放って
いる」とあり、人々は来世極楽浄土に導か
れることを願 いました。 平安貴族は浄土教
の思想 を具体化した浄土庭園を創り池に蓮
三浦功大
1942年
を植ました。 現在お寺の多くに花蓮が見ら
れないのは淋しいです。 浄土宗のお寺の皆
様、境内で花蓮をたくさん育てて下 8 い。
宮鳳県豊米町生。竃 lこ関する総合髄「置の笛 J を包年発行・寅任.集〈現在 3 雪までに至る〉していることをは
じめ、展覧会、開演会、その他イベント怠ど構力的な活動を通じ、置を細としだ多くの文化人の結集を実現させ、注目を
蝿めている.:lõld:写真撮、曹・にr.
JAZZI
n.
JAPAN1963-1974~(西国.店〉、 rl・の文聾史~(ガど創房〉忍どガある.
千葉・行徳
一肉願寺
写兵 /タカオカ邦彦
真山剛
え/
寺院紀行
。
。
この連載も五年目を迎えることになる
これもひとえに編集部のお蔭である、深謝
もうすぐ西暦二千年
。
。
よ
一抱えの資料が用意さ
さて、今回の取材はこの連載を毎号楽しみに読んでいただいてい
く続いている
。
。
ッ トなどなど
』 新人物往来社
取材の前後には資料収集のために地元の図 書 館に通う私
る寺院で、適された応接間にはすでに風呂敷
れていた
にとっては宝の山である
』 市 川 市教育委員会
』 市 川 新聞社
『
市 川 / 市民読本
/ 地 図に刻まれた歴史と景観
『 徳物語
行
市 川 市浦安市
』 暁印 書 館
ンフレ
『
『 葉県史跡と伝説
千
『 葉県妖怪奇異史談
千
』同
そして各種雑誌と新聞切り抜き、寺院紹介 パ
目の前に並べられたこうした資料を見て、今回もまた良いお寺に
来させていただけた、と編集部に 心 の中で御礼を 言 いつつ、同時に
。
住職の 心配りに頭が下がり、どういった方なのか大いに興味が湧い
長身を折り曲げるように頭を下げながら、「ょうこそ、いらっしゃ
ていた
。
。
インタビュアーとしては最低だ
いました L と入って来られたのは、徳願寺第三十 二世中野亨順住職
である
聞きたい事はすぐ聞いてしまう
。
通動客で巳ぎわう朝の地下鉄東西線
行徳駅
、
I
7
が、聞きたいことは我慢できない性分は抑えられない
。
これこそ欲
小中高と
昭和 二十 一年に福島県耶
。
。
望の赴くままで、坊さんには不向きな性格だが、お坊さんになるわ
。
けではなく、お坊さんが読むものを 書 くのだから許されるだろう
さてさて、住職は会津の出身であった
麻郡山都町という山林の小さな沖土宗のお寺に生まれた
大学から東京に出てきて、東京のお寺にお世話になっ
その縁で浅草のお寺、といってもこれも決して大きくない寺に
。
地元の学校に通い、バレーボールでは県大会やインターハイで活躍
。
したという
た
。
入り、そして昭和五十五年からこちらのお寺も預かることになった
とい、っ
。
この
一見瓢々としたその風貌で、苦労のかけらも見せないが、色々な
苦労をしてこられたのはその優しい心遣いにあらわれている
。
夏に会津のお寺を取材して知ったのだが、会津のお寺は浄土宗の中
でも経済的に大変な地域なのである
。
その住職がこの徳願寺でまさに八面六管の活躍をしている 昭和
。
同じ年に会館新築
。
平成 三年には 書 院と庫裡
五十五年に住職となってから八年後の昭和六十三年、まず名鐘とい
われた鐘を復興する
。
さらに
二千年に入って早々には、山門の改修を
。
が同時に完成し、さらに本堂の改修も終えている翌年の晋山 ・落
慶式のあと、平成九年には袴腰のついた鐘楼を改修し、その聞に庭
園も整備している
かつての受過密だった江戸川。多く
の物資ガこの川で運ばれて来た
1
8
寺院紀行
しようか、というのである。
手の行き届いている境内と整備されている数々の伽藍。一体どう
。
住職は寺の象徴
してこれだけの大事業を次々とこなせるのだろう 。一 般的にこうし
た経済的な話しは質問しても聞けないことが多い
であり、あまりこうした世俗的なことは避けることが多いからだ
しかし、中野住職は何のわだかまりもなく、淡々と話してくれた。
。
。
境内を
要はバブル期にマンション用地として売却した五百坪の収入をバ
ブル崩壊後に使っているからだという。実にわかりやすい
。
売ることに反対していた一部の関係者も、住職が境内伽藍を整備す
る度に納得してきたという
。
。
住職も運の良さを認
幸か不幸か、自分も含めてお金には縁のない知人ばかりなので、
こうした話が夢物語のように聞こえてしまう
めてはいるが、無欲だからこその今日なのだろう
資料から大分話しが逸れてしまった。資料に戻ろう。
そう、これだけ資料があるということは徳願寺が古利、名刺であ
。
るという証なのだが、その資料に共通するものがいくつもあるが、
その中で代表格は、やはり宮本武蔵である
。
また参道脇には武蔵の供養塔があり、武蔵の描いた八方にらみ
徳願寺の表玄関には両手を伸ばした位、宮本武蔵の本が並べてあ
る
の達磨の絵や書も残っている。
今年の十夜法要で初めて公開された
円山町掌の浬鍵図
I
9
というのも実はこの徳願寺は武蔵ゆかりの寺として有名で、多く
の研究者や武蔵ファンがやってくるのである。中には供養塔の近く
で剣をふるう猛者、というよりは武蔵と同じ求道者であろうか、そ
みようでん
うした輩もいるという。
また、少し離れた妙典には、武蔵の供養の尊本
と して身代り観音
。
がある 。藤原観音堂に安置される市の指定文化財で、腰をひねった
そしてもう一つやはりこれも資料に共通する話題の代表格だが、
木像仏は、 三 十 三年に一度開帳される秘 仏である
,当
.
室。仇V舟添加およeソ
ee
円山応挙の幽霊絵である。応挙は狩野派の絵を学び、それに中国の
写生技術と西洋の遠近法を研究して円山派という派を確立した江戸
時代中期の画家だ 。そ してこの応挙こそ幽 霊から足を消 した人物と
言われているのである。
l
写真を見ていただくのが一番早いが、本当に恐ろしい行相
先の武蔵の達磨絵と一緒に応挙の幽 霊絵も見 せてもらった 。巻頭
のカラ
である 。この幽霊絵一年に一回お 十夜に 一般公開される。本堂の裏
堂に掛け、光はろうそく一本というから、その恐ろしさたるや絵と
わかっていても筆舌に尽くし難いだろう。また今年の十夜では応挙
の浬繋図も初公開された。
この他に徳願寺の名物は、永代橋水難横死者養
供塔、 北条政 子ゆ
かりの本尊阿弥陀如来、運慶作といわれる閤魔大王像、先に述べた
20
τ'f~完紀行
裏堂には位牌ガ整然
と杷ってある。
上段は徳川家の位牌
2I
。
。
鐘楼堂と話題には事欠かない
そして何より目を引くのが境内左手から奥の扉にそって並ぶ十数
天まで届こうかという松はずらり立ち並ぶ寺院の
本の老松である
。
中から徳願 寺をひときわ目立たせている。不思議なもので何かそこ
だけ タ イ ム ス リ ッ プ し た 感 さ え 漂 わ せ て い る
徳願寺はもとは普光庵と呼ばれた草庵で、関東十八位林に数えら
れる埼玉県鴻巣の勝願寺の末寺であった。それが慶長十五(一六一
。
O )年に徳川家康の帰依により新しく堂宇が建立されることとなっ
た。徳願寺の徳は徳川家の徳の字と、本寺である勝願寺の願の字を
とって命名されたのである。開山上人は聡蓮社円昔不残上人である
本尊阿弥陀如来は北条政子が霊夢をみて仏師運慶に彫らせた立像
で政子の念持仏といわれる。はじめ鎌倉にあったものを家康が二代
将軍秀忠の正室で、念仏信者として有名だった崇源院殿(浅井長政
の三女)のために江戸城に遷座させたもので、崇源院殿逝去後にこ
。
の徳願寺に安置されたものである
こうした関係もあり家康、秀忠、そして崇源院殿の実子である家
。
光と、徳川時代の基盤を築いた 三代の将軍から特別な計らいをもら
っている
さて、なぜ徳願寺が徳川家の手厚い比護を受けたのか、それは行
。
徳の歴史を縮くと自ずと見えてくる
本堂内障の脇に杷られている閤魔さま
22
fF院紀行
いくつかある地名伝説だが、その中で有力なのは修験道の行徳上
。
人にちなむ説だ。その行徳は現在の江戸川の河口のデルタ地帯であ
り、この地形を活かした塩田で全国に名を馳せていたのである
北条氏の時代から多くの寺
古い地図を見ると多くの寺が立ち並ぶ行徳街道が
。
。
。
塩といえば赤穂をはじめ瀬戸内海の塩が有名だが、行徳の塩は質
でいえば少々瀬戸内より落ちたものの、北条氏が関東を制定してい
。
たころから生産されていて、それが天領となり徳川家直轄の産業と
なって大いに栄えた
。
。
江戸から目と品の先である行徳はこ
敵に塩をおくる、という 言 葉があるように当時の塩は貴重で、家
康は塩は国の宝と大事にした
うした塩の生産地として大正の大津波がくるまで盛んであった
そして行徳はこの塩のおかげで水運の要所として大いに開けた
。
また、成田詣での通り道でもあり、多くの参拝者がここ行徳の地を
通ったのである
右に折れると成田街道となる
その成田街道に面して徳願寺がある
院がこの行徳に建立されているが、徳願寺は中でも多くの参拝客を
。
集め、永代橋水難横死者供養塔は成田講の心ある人々によって建立
されたものである
このように水運で聞けた町、同じ千葉の流山や埼玉の川越なども
そうだが、そうした川沿いの町は鉄道の敷設に反対することからそ
飽戚の努祭に利用されている会館
2
3
。
の隆盛の幕を閉じる事が多い 行徳も総武本線の乗り入れに反対、
。
総武本線は市 川を通ることとなり、以来昔の面影を史跡として残す
。
そして来年には妙典に新しく駅が
徳願寺からすぐの所だ
。
はいえ営団地下鉄東西線の敷設で現在は東京への便利な通勤地
だけの町となってしまった
と
。
として多くの人々が住んでいる
できる事となる
。
吉 川 英治の『宮本武蔵』で武蔵が伊織と二人で自然と戦いながら
。
その地名は今も残っているが、その妙典に駅
。
変われば変わるものである
。
住職は物静かにこう言った
。
での最後の不援な質問、これからの住職としての心
住職の話で締め括ろう
。
武者修行をした妙典
、
ができるのである
さて
ー
の答えである
インタビュ
、
。
。
。
もちろんだか
(ルポラ
イ
タ
ー
)
できることから少しづっ、無
。幸 い伽藍も整備でき、
そうしたことを忘れないこと
「私は会津出身の上に浅草の寺の住職だったのが、縁あってここ
構えは
の住職になっただけ
。
らといって何もしないわけではありません
墓 地 も拡張できる準備ができました
。
理なくやっていくつもりです」
敵を知り己を知れば百戦危うからず 武蔵ゆかりの寺の住職に、
この言葉がぴったりである
徳願寺の歴代上人墓
2
4
==目
「巳
さらに婦人病に霊験があるとい
彦名命を医薬航海の神として、
山県加太町の淡島神社の祭神少
なく、これだけすればいいとい
ません
り、すっきりしていいかもしれ
意高田つや女
むつかしきことは云ふまじ年用
。
今年ばかりはどうなるか
。
落ち着いたものです しかし
岡本勝
厨の灯ひとつ吊り足し年用意
。
俳句では仰々しい年用意は少
。
い針にお休みをとってもらい、
う感じのものが多いようです
いつもお世話になっている縫
折れた針を供養し、そして裁縫
うことで起-』った女性の信仰が
。
こんな風だとかえってさっぱ
玉置石松子
二人前の豆煮て了る年用意
。
絡んだ少し深刻な様相です
今年は例の二 000 年問題も
さて、暮れてくると年用意
。
の上達を祈願する行事、これを
。
。
います
針供養と結びついたといわれて
針供養といいます
十二月八日と二月八日のどち
うところもあります
らかか、あるいはその両方に行
それぞれの女のさだめ針供養
田辺ひで女
東京浅草の観音様境内にも淡
浄土宗法衣専門
P53のまちがいさがしの解答① カゴの中のイモ② ?ンポポ ③バケツ
の水位③ たきぎの数⑤女の子のマフラー⑤ ネズミの耳①階段
25
十二月
古島陰ゑ洛
会社
島社がありますが、元来、和歌
古き伝統技
三代におたる償頼
有限
時
歳
教
イム
石丸園田子
法然よ人を
めぐる人々
式子内親王の生涯(第二部)
第一回残された人々
2
6
法f長上人をめぐる人々
寿永 三年(一一八四)二月十
。
三 日の昼すぎ、
阿波介と弥太の 二人が、吉水の草庵にかけこ
んでくるや、ぬれ縁の前で、
「ほ、ほ、法然さま 」
「ほ、法然さま」
と口々に奥にむかつて叫んだ
阿波介は、その無知無学のおろかさを時に
一向専
人々に笑われながらも、一途に法然に帰依し、
。
法然に仕えてその台所を手伝っている
修の念仏者
弥太は、その阿波介が心をゆるした親友で、
。
やはり法然に帰依し、野菜などを草庵の台所
に売りにくる男である
二人とも、しわが深くきざまれて日焼けし
。
。
二人とも何をふる
た顔を蒼白にし、阿波介などは膝をふるわせ
ながら立っている
「おお、いかがいたした
えておられる」
奥のうす暗がりのなかからぬれ縁に姿をあ
らわした法然の姿をみると、阿波介と弥太は
。
そのうしろ影には、
二人とも、へなへな、とその場に膝をついて
?レ宇品つれ九
。
。
って奥の聞から出てきた法蓮房
一度訊ねた
いかがいたした」
「
法然はもう
法然にしたが
。
。
く、首が 」
信空が、ひっそりと控えている
「
く
、く、首が
「
ご、ご
阿波介の口がふるえた
ら ぬかたを指さ
一門の、へ、平家の、平家の 」
尻もちをついた弥太は、あ
して声をふるわせ、それ以上、ことばがつづ
カなし
「・・・:」
。
無言のまま、法然は樹々のすきまをとおし
阿波介と弥太を驚博させている平家の首と
てみ渡せる草庵の彼方に視線をむけた
。
いうのは、一ノ谷の合戦で破れた平家の人々
の首に違いなかった
2
7
都からさほど離れていない播磨の国一ノ谷
。
ちかぢか京に送られるという報らせも
、
で、源平総力をあげての最初の決戦がおこな
われたのは、数日前の二月七日
平家敗 北 の報は、翌八日の朝には法然のも
、
とにももたらされ、討死した平家の人々の首
が
第をきかされていたのである
。
たいらのしげひら
基親の妹は、法皇に仕える女房であった
彼女は一ノ谷で生け捕られた平重衡の妻の一
。
。
人でもあり、基親は妹と重衡の明日を案じて、
法然のもとを訪ねたのである
彼は法然に、義経たちは討死した 一門の首
やり
を獄門にかけるだけでは満足せず、その首を
。
十日の早朝には、吉水の庵室にまで届いてい
と語っていた
槍に突き刺して都大路をひきまわす許しを、
法皇に強要している
。
た
京都とその周辺が争乱の渦中におかれてい
るこの日ごろ、今日と明日のわが命を 何 とか
後白河法 皇
と
一ノ谷で戦勝し
。
る武士数十の首を
。
蒼白の顔いろのまま、阿波介のあとを弥太
士たちが、ね、ねり歩いております」
「や、槍に突き刺して、都大路を、源氏の武
あえぐようにして阿波介がいった
L
「ご、ご、ご一門と、ご、ご、ご一門に連な
訊ねた
「平家 の方々の首がどうしたのか 」
、
町びとや武士、僧侶たち
水を訪れることは以前にくらべて少なくなっ
、
。
彼らによって法然にもたらされる情
、
て都に凱旋した義経たちとの、やりとりの次
然は、彼から
夜にも、公家の一人平基親の来訪をうけた法
たいらのもとらか
実は阿波介と弥太がかけこんできた前日の
報は早かった
はおり
う公家や女房たち
やがて法然は、視線を彼方にむけたまま、
ー
たとはいえ、それでも草庵を訪れて教えを乞
無事につなぐことだけに追われる人々が、吉
-
2
8
f去然 卜. 人をめく' る人 々
がつづけた
。
いくらか落着きをとり 戻 した 二人の話によ
ると、一門の人々の首をみようと、うわさを
。
聞いて見物にきた人々で、首が渡されるとい
う大路という大路は黒山の人だかり
あったのだった
法然さま 」
「
。
と弥太はぬれ縁の法然を見あげながら、
。
されど見物衆や源氏のお侍た
「何しろ、わしらはご 一門の方々のお顔何ぞ
見知りませぬ
さつまのかみ
ちがののしり合うているのをきいております
と、薩摩守とか、但馬守とかいうお名が耳に
厳寒の折ならいざしらず、桜のつぼみが大
きくふくらみはじめたこの日ごろであれば、
「
おらなんだかの
」
そんだ、思い出したわい
「
いうておりました
れ、見物人がい
AM」
。
。
新中納 言 の御嫡
きんだら
まだ若い公達とかで、ほ
。
わしも思い出したわい
っときどよめいたではねえ
「そうであったのう
と阿波介にいった
。
そうじゃ、たしか備中の守とかいうお名も
弥太はそういうと、さらにつづけて、
子 とか、無官大夫とか
「
阿波介が弥太をふり返りながらいった
」
おお、それに淡路守とかいうこともいうて
」
入りました
。
。
首の痛みも早く、異臭と、凱旋に酔う源氏の
武士や群集のざわめきのなかでの首の行進は
。
さながら地獄絵巻をみている恐ろしさであっ
たという
二人は、異臭のなかの人だかりに、何ごと
った
かと近づいていって、その異様な行進にであ
ったのであ
何ということ
「
」
思わず、手の念珠を握りしめた法然はそう
低くつぶやくと、
法然には、 一つ気がかりなことが
」
「で、討死にされたご 一門には、 どんな方々
。
がおられたか
と訊ねた
。
2
9
いづれも若々しい御首でのう
しは哀れで泣きましたぞい」
。
。
法然さま、わ
阿波介は、今にも泣きだしそうに 顔 をゆが
めた
たいらのたd
にのり
。
今、弥太がいった薩摩守というのは、清盛
の末弟平忠度四十一歳
そして但馬守というのは、清盛の弟平経盛
つねまさ
あつもり
。
の嫡子経正、あの青葉の笛のエピソードで名
高い敦盛十六歳の兄である
しゅんぜい
平家物語によると、平家の敗北を予想した
。
彼は自分の討死の後、今、俊
忠度は、都落ちにさいして歌の師藤原俊成を
訪ねたという
。
時代は源氏を恐れねばならぬ世に移ってい
た
そこで俊成が、「詠み人しらず 」、として千
。
。
彼が都落ちにさいして、仁和 寺 の先代御
一方、敦盛の兄経正は、琵琶の名手であっ
昔ながらの山ざくらかな
さざなみや志賀の都は荒れにしを
ある
載集のなかに加えたのが、忠度の次の 一首で
た
せいざん
室党性法親王から下賜された琵琶の名器
「青山」を、戦場のちりになしてしまうこと
はできない、と現御室の守党法親ヱに返しに
成のもとで撰進がおこなわれている勅撰和歌
集に、 一肯でも入集すればうれしいと、自詠
いったエピソードが、哀れ深く平家物 語 につ
完成したの
。
の和歌をしるした一巻の巻物を、俊成に託し
たえられている
。
さいごは、いずれも法然の心を鋭くえぐらず
討死した平 家 の人々の前とそのいたましい
ー
ー
後白河法 皇 によって、千載集と名づけられ
た。
。
たのがこのときの勅撰集である
。
は文治四年(一一八八) すでに平家 一門の姿
は世になかった
一
30
法然上人をめくやる人々
にはおかなかった
。
だが、その公達の一人として、弥太が「備
中守」の名をあげたとき、法然の心にはまた
。
この日から丁度十日前の、 一一
月 三 日のこと
特別の痔きが走ったのである
だ
一月二十日、大津の粟津の松原で木曽義仲
を討死させた源氏の大軍が、 二 月になるとと
もに、次は平家と戦うべく、一ノ谷方面に向
お身内を亡くされたか」
、
涙を
法然のいたわりにあふれる優しいまなざし
きのす付きよよしこ
とことばに、やっと自分をとり戻して
ぬぐった女性は、
。
十四歳の春から、小松殿に女房とし
「私は岩清水八幡の宮司紀祐清の娘美子と申
します
て仕えてまいりました」
と名のった。
、
都落ちの日まで
、
ここに小松殿とは、清盛の嫡子平重盛の邸
、
のことで、重盛の死後は
これもりゆきもりもろもり
かっていくと、都はしばし真空状態におちい
。
「お仕えいたしますうちに、亡くなりました
紀美子と名のったその女性はつづけて、
きのよしこ
な屋敷内に住んでいた
師盛ら、重盛の子息たちが広大
維盛、行盛
いちめがさまぶか
った。
そんな 二 月 三 日、市女笠を目深にかぶり、
中年の侍を伴にしたひとりの若い女性が、法
。
内大臣重盛さまの末子師盛さまと愛しあうよ
然の草庵を訪ねてきたのである
心に悩みごとがあり、お上人さまのみ教え
の母となっております」
この合戦でどなたか
。
昨年冬といえば、御 一門の方々が都落
ちされたあとのこと。お話を伺うだに、御苦
ろう
「おお、それは大へんな御苦労がありました
うになり、昨年冬、争乱のただなかで、一子
だが、
に浴して救われたいといい、人払いを願って
。
法然と対座したその女性は、しばらくのあい
だただ泣くばかり
。
「どうなされた。お泣きになるだけではお心
の悩みがわかりませぬ
31
労のほどが思われます」
」
。
法然の優しいことばとまなざしに、美 子の
で、その赤児はお元気か
。
目からはふたたび涙があふれでた
「ーー
やがて法然は優しく訊ねた
「はい」
と応えた 美 子の涙にぬれた目に、かすかな光
がよぎって、
。
けれども師盛さまは、智丸の誕生
「乳もよく吸い、元気な赤児で、智丸と名付
けました
すらごぞんじありません」
美子のいうところによると、源平の合戦が
東国や北陸各地でくり広がっていた昨年春、
つわりがはじまった美子の身を案じた師盛は、
一門の人々とともに北陸の合戦におもむく前、
。
近いうちの再会をかたく約束して、彼女を、
。
もし、
岩清水八幡の父のもとに帰したのだという
「それが幸いであったと父は申します
智丸が師盛さまのお子であることを人の知る
智丸の父が師盛さまである
。
ところとなれば、この先、どんなことが起こ
るかもしれぬと
ことは、わたくしの父と母、そして乳母のほ
か、誰も知りません」
ったかもしれ
「
おお、それは父上のいわれるとおり、赤児
にとって何より幸せなことであ
保元の乱以来、この日にいたるまでの 三十
ませぬ」
。
年におよぶ内乱の世を、しかとみつめてきた
法然はいった
この合戦に平家が勝利したならば、 美 子と
ともに暮らせるであろう
。
名のるその女性もその赤児も、末永く師盛と
。
だが、今の勢いをみると、源氏の勢いは強
く、予断をゆるさない
そしてもし平家が破れることになれば、平
||。
家嫡流の血をひくその赤児はただではすまさ
れまい
法然がそんなことを考えていると、 美 子は、
「 上人さまのもとに伺います前、小松殿に
お
32
法然 t人 をめぐ る人 々
立ち寄りましたところ、御一門の方々はその
お邸に火を放って都落ちしたと聞いておりま
と声をふるわせ、
したとおり、小松殿のあとは焼野の原」
「 曽殿を討った源氏は西に向かい、世間の
木
。
師盛さまのことを思えばいっ
うわさでは今日、明日にも源平の合戦がなさ
れるとのこと
ときも心落 着 かず、今朝、日の出前に父の家
(つづく)
を出、お上人さまのもとに参上させていただ
。
いたのでございます」
とい って泣き伏した
石丸晶子(いしまるあきこ)
東京生まれ、東京大学大学院人文科
。
一九九一年、 「
式子内親王伝 l面
。
学研究科修了 現在東京経済大学教
授
影びとは法然」 で第一回紫式部文学
「
お手紙から見る法然さ
(人文書院)
。
法然の手紙 」
賞を受賞 著書は他に、「
。
現
(浄土宗出版室『
)代語訳晴蛤日
ま』
記 』 (朝日新聞社)など多数
33
御法師に聴く
たとえ
ただいつ
信 じるといっても、
。
詞】
名号をきくというとも、信ぜずば聞かざるが如し。たとえ
信ずと一五うとも、唱えずば信ぜざるが如し。只つねに念仏
すべしと。【常に仰せられける御
。
阿弥陀さまのお名号を聞くとしても、念仏往生信
を じなけ
れば聞かないのと同じことです
。
お念仏を称えなければ
信 じていないも同然です
もお念仏を称えなさい
いざという時の備えは?
制怯和二日í1<
い、
この間
トルコ、台湾と大地震が相次いだ一九九九年ですつが
も私の住む長野市で震度四の地震がありました。この地域は断層が
。
多く今回の地震も比較的浅いところが震源で、しかも我が家からさ
ほど遠くないところでの発生とか。震度 の割には強い揺れでした
。
。
もういいだろうと、
ちょうど三時のお茶にしようとお湯を沸かしていた最中で、妻が
す?に火を止め揺れがおさまるのを待ちました
。
しう
たことか
妻が再びお湯を沸かそうとするのですが、はて、ど
ガスがまったくつかないのです
じつは数年前ガスの配管工事があり、そのさいガスメーターにガ
。
さらに
震度五 以上の揺れを感知した場
ス漏れの探知機を備え付け、ガス漏れがあれば自動的にガスを止め
る仕組みにしていたのです
。
合にも自動的にガスを遮断し、その聞にガス漏れがないか探知する
という代物になっていました
そういえば工事の際、そうした説明を聞いたような気もするので
すが、「それほど大きな地震などそう滅多にあるものではない」と思
35
っていたのか、それとも「その時はその時」と無 責 任を決め込んで
。
いたのか、 妻が取扱説明書を探し出してくるまでは、どうしてガス
が止ま ったのか、まるで想像がつかなか ったのです
きて取扱書を子に私は再びガスが通るよう、メーターを前に復旧
。
の手順を踏んでみましたが、どうしても元通りにならない 何度試
いうサインが出る のです。
してみても、どこかで 、万ス漏れがあると
手に負えずガス会社
屋外のガスメーターの前、辺りは暗くなる、
に連絡してもまだ誰も来ない、ガスは通るのか、夕飯は作れるのだ
。
ろうか、風呂は大丈夫か、それよりももう寒い、ガスストーブは使
えないし灯油もまだ買ってないし:;:
やがて技師が到着しなんとか復旧しましたが、どうやらガスが止
、
。
まった 当 初、やみくもに 万スレンジをいじくりまわしたために感知
器が誤作動を繰り返したのではないか、ということでした
ふだんからガスメーターの取扱書を読んでいる人などそうはいな
書 を読んで 注意をすればすんなり復
いでしょうが、最初によく取扱
36
餌怯前二聴く
旧したのかもしれません。ガスというライアラインのことだけに、
地震でガスが自動的に止まるということだけは、ふだんからよく心
得ておくべきと肝に命じる次第でした。
ところで来世の安穏、極楽往生を願うとあれば、ふだんからお念
仏を称えるよう心がけなければなりませ。
ん念仏往生の教えを聞き
ながら、来世のことはまたその時に何とかなるさと考えているなら、
せっかくの教えが耳に残らない。あるいは耳に残ったとしても実際
に念仏を称えなければ、結局は来世などどうでもいいと思っている
のと同じことだから、往生なE叶うはずもありません。
いつ地震のためにガスが止まっても、その時きちんと復旧ができ
るようにつねに注怠を心がけ、またいつこの命を終えようとも決し
て来世の行方を見失わないようにつねに念仏を称える。いずれにし
ても、い、ざという時に対するつねの心がけが肝要なのです。
(浄土宗総合研究所
研究員
袖山猿錫)
きあ、もうすぐ例の二 000 年です。 い、ざという時の心がけは大
丈夫でしょうか。
37
雑誌
『 土
浄
両主
』 を支えた人々
存面
祐筆
先長
念体読本
『
』執筆者たちのえ跡
坪井俊映
山中明寺法王
生
仏教ルネッサンス再び。珠五の一冊
サ、露
列伝
先生は悌教大学の初代学長という歴史に残
る要職につかれた方でありますが、しかしそ
。
の時代は悌教大学の存立が問われる苦難のと
きでした
先生が昭和二十一年八月に悌教大学の前身
悌教専門 学校の校長に就任されたときは、敗
社会は戦敗による荒廃
ん
それには相当な経費がいります。
。
それで、これを宗内の卒業生同窓および諸
。
しかし
先生はこの困
。
しかし時代は敗戦によって、経済面に
寺院に呼びかけて、後援を願うことになりま
した
。
おいて困窮をきわめていたときです
坐していることはできません
難の中にあって、白から進んで諸方の同窓寺
。
戦まもないときです
い
院へ足を運んで慕金に努力をされました
。
その甲斐あって、昭和 二十四年 二 月ようや
した
心として大学昇格のための慕財に努力をしま
ったようです。学校の教職員学生も先生を中
。
によって混迷をきわめ、これに併せて浄土宗
ろいろ 言葉 にすることのできない御心労があ
。
教団もまた内紛によって混乱していたときで
した
先生が校長に就任された翌年、すなわち昭
和 二十 二年には学制改革によって、浄土宗の
僧侶を専門に教育する機関である僻教専門学
く願いが達成されて、新制の併教大学として
。
校の存続が許されなくなり、新制度による大
認可され、初代学長になられました
一月、愛知県稲沢市片原
一色の樫木忠八氏の四男として生誕され、九
先生は明治十九年
学に昇格せねばならなくなりました。これに
は学内の諸般の機構拡充は云うまでもなく、
あたらしく諸種の設備をしなければなりませ
-小両存祐先生
39
『 土
-雑踏 浄
』を支えた人々
。
長じて
歳のとき大阪天王寺区餌差 町最勝寺小西存
祥師の弟子となって出家されました
浄土宗大学専門部に学び、つづいて研究科に
学席を移して専心に勉学に励まれました
らぎ
。
教 室 における先生の 講 義は大
。
先生が仏障なる雅号を名乗られているのは、
先生の専攻の天台学が天台大師智顕の教 学 で
あり、智顕が住せられた故地が仏臨であると
学成りて大正七年宗教大学教授となり、同
明治
席を置いて、天台学を専攻されました
ころより、この名をとられたもののようです
なられましたが、さらに深く天台教学を極め
十年には併教専門 学校教授に転任されて、仏
。
四十 一年師僧の遷化によって最勝寺の住職と
るために内地留学生として、 二 ヶ年間叡山に
。
教学、浄土学を講じて宗侶の養成につとめら
れました
学制改革によって最後の悌教専門学校校長、
って、苦難の多い
初代例教大学学長になられましたが、在職五
。
年の聞は大学創設期でもあ
時代でした
しかし先生の温厚にして無欲なお人柄と 学
。
問に対する熱意は多くの人を引きつけるもの
がありました
変わかりやすく、流暢な弁舌には引かれるも
40
れ、養生につとめられましたが、昭和三十年
されています
。
いて」等、浄土学に関する多くの論文を著わ
『 戒講話』等あり、その他に 鎮
「 西国師につ
授
。
す 著書として 『
宗派気質 』『一枚起請文講話 』
天蓮社在昔性阿仏臨存祐大和尚と論号しま
。
のがあり、 ことに「お酒」が少々入っている
。
十歳です
五月十五日、尊い生涯を閉じられました。七
。
ときの名調子の講義には時間のたつのを忘れ
るほどであったと伝えられています
先生は大学における講義だけでなく、専修
道場(知恩院山内)その他寺院において聞か
・
浄土教を平易に説いて理解
れている居士林大姉林等にも出講されて、在
家の方々に仏教
- 申し込み・問い合わせ ・
につとめられました
A日次 世冶岨 }
井川定向車
矢吹俊郎
梅原慎険
校浦
一
中野持兆
法然上人鏑仰会
昭和二十五年、病気のために学長職を辞さ
11'野聖F 藤村局
道周回道町ihft 匡
稲小{主江島笹
垣阿藤藤野本
衣材i 犬英祥 i争
III 存 iÍ' 激 fíi 戒
れ初U
出K
ii昭和十一年
がる完全復刻『浄土』
執筆者一党
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【農民の誕生】
42
つぽ庭日記
分の知らないところでいろいろなことがどん
どん進行していて、もう何も止められない。
春、庭の隅に出しておいたスチール本棚の
バラバラを持ち上げると、その下に大きなガ
そんなある日、俳句の先輩のヒトシさんか
花
その中に花種をまき、せっせと
。
らず
。
飯田蛇務
連作もでき合土
。
コマツナなら三月中句にま
短期間で収穫できる野菜から始めるよ
、
うすすめている
いても五月には収穫できる
これだ!
。
小学生の私が縁側にう
作りさえしであれば放ったらかしでいいらし
。
その晩、夢を見た
い
。
とりあえず畑に
こりが白分の伐った木につぶされて死ぬなど
東京でぼんやり座っていても、木
0
まなことび腸ながれありほととぎす
らこんな句が届いた。
マ蛙が住みついていた。そういえば草ぬきを
した覚えがないのに雑草の山がこんもりでき
ていたのは、蛙が寝床作りをしたに違いなか
った。粗大ゴミに出すには冬を待つよりない。
。
ナカガワ老人の畑の一部をレンガで囲い花
坦を作った
水やりをしているとかわいい双葉が出た
が咲く!春に浮かれて息子とふたり踊りな
。
というすごい句は作れない
その双葉が立派な
がら家中を歩きまわった
何か植えて、にわか出民になることにした。
。
ぺンペン草やヘビイチゴになったのは、それ
。
どの本も円をそろえて、初心者は手間がかか
図書館で野菜作りのありったけを借りた
ート
あきらめて雑草花壇の取り壊しにかかる
レンガはそっと元に戻した
向
から間もなくのことだった。パンジーもスイ
。
ピーもサクラソウもどこへ行ってしまっ
たものやら、待てども何も山なかった
。
失敗をしたくなければ、何も始めないこと
だ
とレンガの下は、もやし状になったヘビイチ
。
ゴの茎が這い、その聞に何かの幼虫がまるく
眠っていた
43
••
••••
•••
しろ姿で立って何かをじっと見ている
。
った
。
。
それ
僧正遍昭
そういえば、祖母が裏庭に菜園を
は月の光にぼんやりと揺れるサトイモの葉っ
ぽだった
作っていたことがあ
蓮葉のにごりにしまぬ心もて
などかは露を玉とあざむく
。
入
蓮もサトイモも葉っぱは似たようなものだ
それが露をころがしているのを想像すると、
もうコマツナなどただの草っ葉に思えた
。
」 とあり、桜の頃
連作障 害 も出やす
。
。
憂
っ
金子光晴の
五年は休んだ方がよい、
最悪の条件だ
1
。
門書を聞くと「サトイモは丈も葉も大きく繁
るので狭い菜園には不向き
書 いてある
一度作ったら四
に植えても収穫は十 一月
く、
とも
「どくろ杯」の書 き出しを思い出した
みすみすろくな結果にはならないとわか
『
ていても強行しなければな ら ないなりゆきも
あり、またなんの足しにもならないことに
。
4
4
身をやっすのが生甲斐である人生にもときに
は遭遇する 。』
。
畑にじかに植えず、苗
サトイモは八百屋で 「一
番高いの」を六個
買 いタネイモとした
させていると気分が高まってくる
。
床に植え、ビニールをかけて暖かい所へ移動
半月後、
畑は雑草や石ころを取り除き、掘り起こし、
。
っと畑に植え込んだ
。
そして、本葉が 三枚ほどに
石灰をまいて土壌の酸性度を矯正し、サトイ
モを待つばかり
なった頃、ょうや
次の朝早く畑に出ると、デザートスプーン
。
隣の小学校の、葉の出はじめた桜
ほどの小さな芽がそれぞれに朝露を溜めて輝
いていた
-
。
z
t 衣 2
I I
小鬼の角のような芽が出て、そのうち待ちに
。
具店
三八 f弗 主
が 一斉に花風 雪 を降らせ、その花びらが畑に
-
四
郡
町
五回と 土
U-λ
十円玉ほどの大きさだ
京八
極
っぱが出た
三三,.平
一一
った葉
八
も舞い踊り、サトイモを祝福した
O
西
待
。
区
I I 、ー主
が確かにサトイモの葉の形をしている
.右.1i.
E主 京|
七
千年の歴史に
HH
開 ft ~何V 市­
o0
七
育まれた巧みの技
悌具は当店に
45
日V
五五
者F
京仏培一
.
京吾号
都 大
μ凶
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定価: 2.0凹円(税込)
送料 1 冊
180 円
E冊
210 円
FORUM
の広場
友
A、
一滴の海欲しければ港の名ばかり出てくるわが弔辞かな
首なしの向日葵のほか華はなし友の遺影の向こうの荒野
短
歌
蓮門小子
8
4
目も耳も潰れてしまえ君の死と刺し違えたきわが葬儀式
木魚の口より洩れし真昼さえいつしか果ててなお阿弥陀経
数珠こそは我が血の暗犠てのひらを銃のかたもに握らぜている
花野を分け入れば我等かとつの産声となる
山越えの宙のあなたの名を呼べり命外れてゆくばかとりぞ
此処よりは鬼籍
4
9
-柚味噌
こ
。
。
。
底の
柚子味噌を皮に詰めて焼く
。
げたのに焦点を当てたのがみそである 原
茶事にも則いられるが、柄によくAnう
-柚釜である
ゆずみその器の柚子の少し事
げ
。
3工
河合冨美枝
信子
章
句は「柚子の器の」で、 これでよいのだが、
し
目
読者にわかりやすくしてみた
本座敷に彰多
日
種
口
〈佳作v病悲えしムハ崎に渉る柚味噌かな
柚味 噌や
桜島旅の終わっの柚味噌かな
山
〈選
特〉
。
なも
衣を顕に摘いているのだろう その心底には
のだが、比せられる僧衣も、それに敗けぬ弊
子も相 当
-芭蕉に冠してある「破」の様
僧衣めく寺院の隅の波芭蕉
-破芭蕉
〈
特選〉
浄土誌上句会
山崎遣迎子
金谷友江
5
0
川
子
。
厳しい修行に励む憎の理想の姿が、何となく
潜んでいるのかもしれない
〈佳作〉破芭蕉死者の髭また仲びている
破芭蕉収に仮設の使所あり
破れ芭蕉 小 えじゃれ未る雨の・中
い頃の様子も よく知られる
。
。
下駄を
何とかと秋の空という、空行きの変わりゃす
。
品緒を指しているから、衣露ではなかろう
つつかけると、鼻緒が少し温っている。特に
- 虫の tH
に誘われて庭に 出してみる
今井
浦田
しげ子
薗田
庭下駄の白井緒のしめり虫の閤
〈特
v選
白HM
可
〈佳作v夜半おき妻の介護や虫の声
砂風呂や顔一吹きぬける秋の風
別れ故を・打ちて襖を汚しけつ
達
田
J潤
彊
明
代
ち
手口
ゑ
益田
者
1j 選
都子
J
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藤
衛
谷
上
野
大
村
落葉
自由題
寒鳩
季題
お浄第
編集部選
参加作品
知土十
ら誌ニ
せ上回
柚味噌
椅味噌の土鍋忠しき夜寒かな
中島一子
。
・
瀬 川浩子
河合富美枝
山崎 遣 迎 子
太田仁
大場清
武田 繭
中島一子
大村和代
弁村善也
石原新
山口信子
太田仁
5
2
手から手へ柚子味噌 の香 の波きるる
…破荷量・
山本美代子 …降 qしきる雨の斜めに波芭蕉
手作れJの柚子味噌持たせっ下宿の娘
一階高草寺領てあっし荻芭蕉
柚子味噌同はえず仏前へ供養する上野明達
“
…破れ芭蕉日ごとに従せて軒のえ
中島一子
夜半おき会の介護や玄の声
金谷友江
増田信子
懐石の一品となっ柚子味噌かな 大場清
…生くるとは諭すが如く波芭蕉
柚子味噌の速き記憶とつながりて 太田仁
…疾風や甲万八方 破芭蕉
放芭蒸や晴れて上布となっにけり
色づ号、し柚子もぎ柚子味噌つくら金
ん谷
か友江
河合富美枝 …波芭蕉犬と老人ばかり朝
柿味噌して豚わいえに坊泊り
尼寺の危ささげ来る柿味噌かな
河合富美枝 …芭日笹川の歯夜の具て破れ傘に
Aきぬ破れ芭蒸
石原新
柏味噌の由来ながなが電話鳴る
…水平の諮っベ U、
谷しげ子
…楚々として和服通リぬ成れ芭蕉
・ 噌を品部
q 上ぐ項にえ帰る
柚子 味
亡き母の好みし柿味噌のタ併とる
。
…自由題
時八万去
q卒業に降る女時雨
大村和代
訪れて柚子味噌香るタ鈎吟
柚子味噌や子を絶えつつ席に座す 井村善也
締切 ・+ニ月二十日
え す向く水面に雲のゆききかな
絶えだえのちちろ鳴き止みひとつ漏
いおわさねど好みし芋がゆ手向くなっ 山本美代子
上野明達
浄土 二月号
発表 ・ 『
』
南風 』主 宰)
選者・増田河郎子 (『
- いずれの題とも数の制限 は ありません
。
. 特選各|名 ・佳存各 3 名
可)と、住所氏
葉室田に俳句(何句でも
・ 名を必ずお書き下
潮騒の同噂でえる分校金木犀
品別のひとつの竿が上がりけっ 北川弘子
総司
浦田ちゑ
灼のへつ秋雨たまる古き椅
標高のしるし隠して山は多
明照会館内
4 1 7 14
さい
浄土
「
』 誌 上 句会係
宛先
月刊
ml oo-一T
東京都港区芝公園
,
応募方法
。
朝露にえを濡らして白川の御前
に透ける寝釈泡かな
初時雨汰縞-Y
秋の浜老いが独 q て必洗・
7
秋風の通る押の写兵及
山崎 遣 迎子
河合富美枝
浜 口佳春
井村善也
谷しげ子
中村よみ子
句
.
..
::
の
7ばする
「冬はやっぱり焼きイモだね」
答2
えページにあります
5
3
まちがいVAが
Vし
す まちがいは 7 ヶ所あります。
編集後記
人去りて寺に残りし秋の声
今年ももう残りわずかとなり、何か
きご披露された
。
三帰依文般若 心経
ている。この「生活局峯」をご紹介しご
問弘警願生活信条の四つからでき
した。そして私たちは千九百年代の終
例年とは違う切迫した雰囲気が流れ出
供養の気持ちとする。
み仏の教えにしたがい正しい道を
えりみて感謝のうちに励みます
み仏の光をあおぎ常にわが身をか
えつつ強く明るく生きぬきます
み仏の誓いを信じ尊い御名をとな
「生活信条」
わりに、また大きな星を失ってしまっ
た。中世冗陣士のご逝去である。
四年聾削、本誌のインタビューをさ
せて頂いたことが鮮明によみがえる。
、
(本誌九十六年一月、二月号に掲載)
学生時代夢中で先生の選集を読み
またある一冊の本から卒論を決めたこ
み仏の恵みを喜び互いにうやまい
編集チ ーフ
編集スタッフ
編集顧問
斎藤見道
長谷川岱潤
村田洋 一
佐山折口郎
問川彰道
大室了附
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ききわけで誠のみのりをひろめます
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となどその学思は計り知れない。
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『日課経』が、東方研究会葬のとたすけあい社会のためにつくします
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