神の似姿 一一ツェレム(�elem)/ドヮムート(d<mût)とelKφν/伊0'ω(JlÇ;-- 柊 暁 生 はじめに ここで考察するのは, キリスト教の人間理解の中心となっている創 世記の「神の似 姿」の問題である. ただ, この大きな課題を 全面的に展開するのは当然、無理である1) それゆえ, 限られた紙面の中で, マソラ・テクスト(=MT)のへプライ語と. 70人 訳聖書(=L XX) のギ リシア語の「神の似姿」に関する語の意味と用法を探究し, そ れぞれを比較考量し, 主として言語 学的な観点からの研究に焦点を絞って論述したい と忠弘 考察の起点となるのは「われわれのかたちに(ツェレム, εIKCÍJν). われわれ にかたどって(ドゥム- r. ó poiωσ勾 ) 人を造りJ(創1 : 26) とL、う箇所である. (1) (1) ヘブライ語ツェレム(事elem)とドゥムート(d<mot) ツェレム(ey elem) 創 世記1 章 26節で使われているへプライ語男性名詞のツェレム(号 elem.像) は, アッカド語 ey almu (像) との関係が考えられ, 動 詞 ey lm(切る ) に由来 す る と 言わ れている幻. 近代の聖書学が明らかにした よ う にへ 聖書の「神の似姿J の思想 的背 景には古代オリエントの王の観念があり, この単語の重要性は大きい. アレグサ ンドリアの フィロンは, ツェレム(ey elem) はツェル(号 el.影 ) と関係す ると考え, 出エジプト記に登場する聖所の細工職人ベザレルの名前を「神の影に於い て」の意味であるとする引. 神の影とは神の言葉であり, 神は ε iων の原型( πap&. òet rμα) であると言って, 創 世記1 章 26節を引用する. 現在ではw. H.Sc hmid t な どを除いてこの説は支持されていないが, 詩編39: 7(38: 7). 73: 20(72: 20) の ツェレムを影と訳す翻訳一一口語訳聖書などーーもある. さて, へブライ語 ツェレムは旧約聖書の中で1 7回使われている引. 倉IJ 世記u者- 9 118 中世思想研究40号 章( 5 回)の祭司資料(=P) の原初史の中では「神の似姿」の意味 で 用 い ら れ て い るが , その他(1 2回 ) では「像」として , あるいは神像, あるいは偶像を表現し, 形 象の意味でも使用されている6) この語の一番古い用例はサムエル記上 6章 5.11 節の「腫れ物の 像J. rねずみ の 像」と訳されているもので , 神々の戦いの神話の痕跡をとどめる話の中にあらわれる. 像の持つ魔術的な意味合いを表現するものであるが , ここには像に対する否定的な見 方はない. ツェレムが 偶像の意味で否定的に見られるのは 5 回ほどであって , 全体か らすれば多くはない7) 創 世記1 章- 9章の中でツェレムが 5 回神の似姿の意味で肯 定的に使われているのは祭司資料の神 学にもと づくことである. ところで , 旧約聖書の神の似姿が何を意味するかについては古来 , 論議されて来た. ただ近 年の古代メソポタミアやエジプトの研究成果などから考えれば ,宣IJ 世記の人間 が神の似姿であるというのは , 古代オ リエントの玉が神の子として , 地上における神 の似姿 , 神の代理者としての役割を果たすという考えに基本的に共通するものである. エ ジプト , あるいはメソポタミ アの王は神の地上の代理者として民を統治 してゆくが , 彼らは自分の像を造り, それを自分の支配領域に立て , これでもって自分がこの地域 の支配者であるということを示そうとした. 王の立像があるのは王の権威 , 威力が及 ぶ範囲である町. 聖書に於いては王ではなく, 人聞が神の似姿と言われているが , それが基本的に意 味することは , 地上の生き物を統べ 治めていくという責務である. 人間にまかせられ た地上の動物を責任を持って正しく治め( r ãdâ ).従わせる(kãb as)ことが神に似た 者として造られた人間の第一義的な任務である. ( 2 ) ドヲムート( d' mû t) ドゥムー トは「似ている」を意味する動詞ダマー( dãmâ 1 ) か ら派生した抽象名 詞であるへ それゆえ , この女性名詞の基本概 念は「似ているこ と」で あ って. r類 似J. r相似」を意味する10) 高Ij詞的には r-のように」と使われ , 同根の名詞ディム ヨーン(dim'yõn.詩1 7 : 1 2) も やはり似ていることをあらわし , 名詞ドゥミ(d'mÎ. イザ 38 : 1 0) は 半分 , 等分を意味する. この語はアラム語からの借用語と言われ , 他の古代近 東諸語との関係が見られない. 比較的新しい単語であって , ドゥムートの用例は主として捕囚期 , 捕囚期以後に限ら れる. 119 神の似姿 旧約聖書の中でドヮムートは 25回用いられている川. そ のうち半分以上(16回 ) はエゼ キエル書である. 特に 1章(10回 ), 10章( 4回 )が多く, 1章のエゼ キエル の召命のヴィジョンの中では, 外 見にあらわれる姿 , 形をあらわすものとして頻繁に 出て来る. エゼ 23: 15 にはí�これらはみな官吏のような姿 (マルエー )で, その生れた国 カルデ ヤのパピロン人に似ていた (ドゥムート )J とあるが, こ の 箇所は前節のí� すなわち 朱で描いたカルデ ヤびとの像(ツェレム )J の続きで, ツェ レ ム と ドゥムー トが対になって出て来ている. これは創世記 1章� 5章の祭司資料に酷似する. この語の一番古い用法はお そらく列 王記下16 : 10íその詳しい図面(d'mût ) とひ な型(t ab' nît ) とを作って祭司 ウリ ヤに送った」という箇所 で あ ろ う . これは祭壇 の設計に関係するもので, ドpムートと タブニットが類義語として並列的に記されて いる12) このドヮムートは, おそらく具体的な祭壇を測量して実写したコピーとでも 言うべきもので, あらたに祭壇を 造るための設計図と考えられる. ド世ムートの意味は, 基本的には何物かをもとにして, それに等しい似たものをあ らわすということである. ここには少し抽象的なニュアンスがあるが, 外 見的に対応 する関係が認め られる. 創1 : 26と 5 : 3で, ド世ムートはツェレムと対になってあ らわれる. 創1 : 26では神と人との関係で, 創5 : 3では父と子の関係で言われてい る. 人は神に似たものとして 造られ, 子は父に似たものとして生まれると記されてい る. 主体は神であり. 父であり, その相似性, 類似性を持つ者として , 人があり . 子 があるということである. ところで, この神と人, 父と子の関係は順序は異なるがツェレムとドヮムートとい う 二つの語で言い表されている. この 二語の並列が何を意味するのか, 次にそれを考 えてみたい. (3) ツェレム(号elem )とドゥムート (d'm ût ) 人聞が神の似姿として, あるいは神の姿に従って創造されたということが1 3ヘ何故 ツェレムとドヮムートの 二語でもって言い表されているのか, 現代の研究者はへブラ イ語の両語の持つ意味の差異から検討している14) その結果, まず第ーに言えること はツェレムが神の似姿をあらわす基本的な単語であって, ドヮムートはその補足的な 単語であるということである. ラ テン語に於いて一般的に Ima go Dei と 言 わ れ, Im ago et Similitudo Dei とは言われていない15) また 普通, 日本語に於いても「神 120 中世思想研究40号 の似姿」とし、ぅ単純な言い方をし, 新約聖書ギ リシア語に於いても “ b 旬。ゅ ματz ttKÓVOS"(ローマ 1 : 23)と εhφν と 6μoíωμαとの複合は一度あるが, óp. oíωσ 1<;と 並列的に言われることはない. ツェレムとドゥムートは創世記 1章� 9章の中で , あるいは並列され, あるいは置 換され, 蟻柄の形式でしっかりと組み合わされた様相を呈してあらわれる. 1 : 26 前置詞 b'+ツェレム+1 per s. pl. 前置詞 k'+ドクムート+1 per s. pl. 1 : 27 前置詞 b'+ツェレム+3 per s. sg. 1 : 27 前置詞 b'十ツェレム+神 5 : 1 前置詞 b'+ドヮムート+神 5 : 3 前置調 b'+ドすムート+3 per s. sg. 及び 前置詞k'+ツェレム+3 per s . sg. 9: 6 前置詞 b'+ツェレム+神 ツェレムは 5回, ドゥムートは 3回の割合であり, í神のツェレム」が 2回, í神の ドゥムート」が 1回である. そのあらわれ方も祭司資料の主要な箇所でツェレムがド ウムートに対して優勢的な位置にあり, 前置詞は常に b' が先行 し , k' は後続して いる. 創5 : 1 �3は人間( アダム ) の系図の 書の最初で, 神と人('ä däm), 及びア ダ ム ( 宣伝m )とセトの関係でドゥムートが先行している. こ れ は人間に焦点を合わ せているからであって附, 創1 : 26は神に主眼があって人間の 創造が言われているの でツェレムが先行しており, 両者は丁度とキアスム ( X字型 )の様式で表現されてい る17 ) 1 : 26 神と人== b'+ツェレム+1 per s. pl. 5 : 3 k'+ドクムート十1 per s . pl. 父と子== b'+ドヲムート+3 per s. sg. k'+ツェレム十3 per s. sg. 以上の言語学的な統計や分析よりしても , ツェレムの方がドpムートより優勢であ ることがわかる. これはツェレムの方が主要な語であって , ドヮムートを付加するこ とによって, ツェレムがさらに詳しく説明され . 厳密に規定されていると言える. た だ創世記 1章� 9章の中でこの二語の区別は意 味論的にはさ ほど大きくはなく, 両者 は類義語であって凶}, 神と人の類似性をこの二語であらわ そうとしたものと考えられ る. LXXにあっても事態は同じで , ツェレムの訳語 εK ( W νの方が, ドヮムートの訳 語 óp. oíωσ勾 よりも 多く用いられており, 意味論的にも ε i凶νの方が重要である. 1 21 神の似姿 (11) ツェレム(終lem)とドゥムート(d<mot)のLXX訳結 (1) ツェレム (�elem) の LXXギリシア語訳 (i)へプライ語ツェレムは LXXで四つのギリシア語に訳されている. ε'" φνが主 で 11回19) , Ó por制 μ a(サム上 6 : 5), !'Úlr o� ( アモ5 : 26)が そ れ ぞ れ 1回ずつ, ûòωÀ oν(民33: 52, 代下23: 17)が 2回である. 旧約聖書で へ プ ラ イ 語ツェレム が 17回あらわれるのに対し, その LXXギ リ シ ア語の訳語が全部合 わ せ て 15回と いうのは . 創世記 1章 27節 , サム上 6 : 5でツェレムの翻訳が省略され て い る から である. e!òωÀ oν(民 33: 52, 代下 23 : 17)は , ε1δ o�(< εlòω) に由来する単語で似像, 心像, 形象, 影像, 幻影などの意味で , LXXでは 15 語にわたるへプライ語の訳語と して頻繁に出て来る. ツェレムの訳語としては二度だけしか使われていないが. これ はへプライ謡には偶像をあらわす語業が 豊富であるのに対し, ギリシア誘にはそれに 対応する単語がほとんどないということをあらわしていると言える. しかし, このギリシア語はその 後, キリスト教世界の中で「偶像」の代表的な語集 となる. おそらくそれは 十戒(出20: 4 , 申5 : 8 )の中にある偶像禁止の言葉に由 来するからであると考えられる. この中で「刻んだ像J (ベセル, pe sel)の訳語とし てûòωÀ oνが使われている. ó poíωμ a(サム上 6 : 5 )は LXXで , へブライ語ドヲムート(d<mût , 17回), タ プニット (t ab< nit , 8回), ト世ムナー(t< m ûnâ, 7回) その他の訳語として用いられ ている. 申命記 4 : 12�25のシナイ山における神のモーセに 対 する顕現 の 記述の中 で, ó porωμ aは タフ'ニット(像)の訳語として 5回, ト クム ナー(形)の訳語とし て 5回使われている. この箇所だけで旬。ω μ aが合計 1 0回繰り 返されるのである. この語もやはり偶像をあらわすのにへブライ語より 包括的な単語であるということが 出来る. τÚ7r O宮 (アモ 5 :26)は LXXで4凶 出て来るが. 出25: 40では タブニットの訳 語として「型」の意味で使われている. r そしてあなたが山で‘示された型(t ab< nît) に従い, 注 意してこれを 造らなければならないJ( 出 25 : 40). この箇所は祭司伝承 に 属し, T. Mettinger は創世記 1章 26�27節の「神の似姿」の解釈を「 幕屋の建設」 との比較でこころみてい る20) アモス 5 : 26の MT と LXXには テクス ト の異同が 122 中世思想研究40号 見 られるが, 偶像の意味のツェレムを LXXは.Ú1r O 官 と訳している. この ,;rú o宮は やはり偶像の意味で , 敬皮の )模範」で , 3 '7カ3 : 30では r (手紙の)文面J. 4マカ 6 : 19では r (不 ,Ú1r O宮に偶像の意味があるのは LXXで は ア モ ス 5 : 26だけで ある. (ii)ところで, εi/Cφνは LXXに於いてへブライ語のツェ レ ム (号elem)以 外 に三 つのへプライ語, 一つの アラム語の訳語としてあらわれる. へブライ語では, 創5 : 1のドヮムート ( d'mût, 像), イザヤ40 : 19. 20のペセル ( pe sel, 偶像). 申4 : 16, 代下33: 7 . エゼ 8 : 5 のセメル (符mel, 像, 偶像), アラム語で はダニ エル書 2 章�3章のツレム (ヂlem , 像)である. ドゥムート ( d'm ût)は後述するとして , 他 の単語を簡単に見てみると , ベセル ( pe sel)は主として偶像の意味で使わ れ る こ と が多く, rあなたは自分のために, 刻んだ像 (ベセル)を 造ってはならなし、 �どんな 形 (トヲムナー)をも 造っては な ら な し、J (出 20 : 4, 申5 : 8 )という十戒の中に 典型的にあらわれている21) ここで ベセルはトpムナーと対になっているが. このペ セルはセメルと並行的に 申4 : 16, 代下33 : 7で使われている. セメルは MT で 5 回出て来るが, その意味はすべて偶像をあらわし 上述の 3回はêilcwν と訳 される が, 他には σ 吋勾 (エゼ 8 : 3 )と r),V. 1r ó,; (代下33 : 15)と訳 さ れ る. ダ ニ エル 書の アラム語ツレム (�'lem)はほぼ機械的にすべてêi /Cwνと訳されている. (ììì)以上はへブライ語の訳語としてのêi/Cφνであるが, さらにへブライ語の対応 がない, LXXのみに見い出されるöI/Cφνが知恵の 書に 8回 , シラ 書に 1回ある. 知 恵の 書ではそのうち 5 回が偶像の意味で用いられており, すべて被造物 礼拝を述べる 13章から 15章にかけて集中している. 残る三箇所中 . 17 : 20はエジプト脱出に際し ての第九の災いに関係する r (閣の)かたどり」であり 7 ・ 26は 知恵、に関係 して, それが r (神の善の)姿」であると言われて いる. r 知恵は永遠の光の反映 (å1r aúr a' (Jf1 a), 神の1動きを映す曇りのない鏡 (la o.poν 1r ), 神の善の姿 (εJκφν)であるJ22) そして. 2 : 23は創1 : 26 - 27 の「神の似姿」と関係 する. r神は人間を不滅なも , p aíq)として創造し, 御自分の本性の似姿 (ëIκφν)と し て 造られた」 の (付 å<p8 a ただ, 創1 : 26 - 27では言われていない不死性が, 知恵 2 : 23では特に付け加えられ ている. もちろん創世記 3章の堕罪の前の状態を考えれば, 考えられないこともない わけであるが, 創世記 1章の人間創造の本来の意図は , 神が 造られた動物を人聞が治 めてゆくということであって . 祭司資料の「神の似安」は直接に死の問題とは関わら 12 3 神の似姿 ない. 間接的に関わるとすれば創9 : 6であるが, そこで言われているのは血を流す ことの 禁止であって , 直接的に死が意味されているわけではない. 死の問題はヤーヴ ィ ストの創2 : 17, 3 : 3 , 4で「死ぬ, 死ななL、」の可能 性の問題と し ての発言が あり, 3 : 19 では「土に帰る」という表現で神による死の告 知 があ り , 3 : 2 2で は 「永久に生きるかも 知れなし、J という楽園追放以前の人間の状態が述べられている. また, “ε;'cóva !'れ ioiac;iOlÓ句,oc;" ï御自分の本性の似姿」に関しては, まず第一 に本文批判の問題がある. iOlÓ句 ,0官(本性 ) と読むのか áiolÓT7jTO C;(永遠) と読むの かということである. Rahlf s 版では áiolÓT7jTO C;であるが, Zi egler 版では iOlÓ均四宮 で . 多くは後者を取る23) ここでも iOlÓ句,O C;と 読むが, 創1 : 26等と違 い, 前置 / ') を 持 ち. Kat'&" は な い. MT が「神の似姿」を語る時は 常 に 前置詞 (b 'k 詞 “ それらの箇所の LXXも . 必ずしも同一の訳ではな いが常に前置詞 ( ca,á/iJ.i) を つ けて翻訳するのとは違う. 旧約聖書の「神の似姿」が前置詞を取らないのは LXXの この箇所だけである. MT の「神の似姿」の 考 え に , 人間の不死性は直接には関連 づけ られていないが, 知恵 2 : 23でのEah nνは, あ る 意味で魂との関係で見られて おり, 人間の本性には不死性があり, それは神に基づくということである制. 次にシラ 書(Ecc l esi astic u s, (集会の 書J) で あ るが, , 17: 3は 問。 Éau,òJ.i iJ.i・ éOUl1êJ.i aù,oùc;il1Xùν 附,Ka-r' Ellíó凶 αùro û È7roE守 σε ν 白占,0Úc;ï主は . 御自分と同じ ような力を彼らに帯びさせ , 御自分に似せて彼 らを 造 られた」という文言で 3節は 前半と後半が並行文である. シラ 17 : 1 � 5は人間の創造が主題で あ っ て . 創1 : 26, 27 の祭司資料と創2 : 7 , 3 : 19の ヤーヴィ ストを合 成して記述している. ただ , 人聞が創造されたのは, 地上の生き物を治めることであるという祭司資料の考えの方が強調されている. それ は 3節をはさんでの前後関係 , すなわち 2節の「地上のものを治める権能 (ieoul1ia)J と 4節の「獣や鳥を支配させられた ( /Ca,ac叩白川)J によって明白である. ca,a/CυPlêÚω は, 創1 : 28でカバシュ(kãb as) ï従わせる」 の 訳語として使われ ており. ca,á+ cúp lO c;からなる複合動詞である25) LXXの童IJ 9 : 1では MT には ない問問削p ε l 仰が挿入されているが, これは創1 : 2 8 との テクストの調整による ものであると推測される. , シラ 17 : 3は問。 ÉaυTÒν+ iσXÚν とKa!" Íê "óνa aù,oûとの並行から力 (iI1XúC;) と像(εK Í I.ÍJν) と の 関連が読み取 れ る. ま た . 2節の権能 (ieo υσ ia) と 3節 a の 力 124 中世思想研究40号 (iqxh)は類義語としてあり, 3節 b の像(tÙφν)と4節の治め る(KaT'á+.tυp。 目 ω) の関係は像(eiKWν) が主(KÚplO,,) であるということをあらわすと同時に Karáと いう接頭語で , 3節の前置詞四rá と強く結び 付ている . (2) ドゥムート( d'mû t) の LXXギリシア語訳 へ フe ライ語ドpムートは LXXでは五つのギリシア語があてられている. 第一が創 5 : 1のEIKWνである. εCKCÍJνは前述したように , 基本的にはツェレ ムの訳語であ る. 創5 : 1で“ド世ムート 1 : 27 の “ツェレム エロヒム" のドヮムート を eiKφν と 訳 したのは, 創 エロヒムム" の “ツェレム" をEtKφν と訳しているのに調和 させたと考えら れ る. LXXでは創1 : 27 と 5 : 1の構文が前者は ròν&�OpωπO�, 後者は τωAðaμ という違いがあるだけ で あ る26) MTでの相違はもっと顕著であ るだけに, LXXの翻訳の意図的な構図 ,整合化が見受けられる. 創1 : 27 i1ro;守σεν6 Oeò宮 ròνdνOpωπoν Kar'EIKó νa 0εoû i1ro;守σεν aùróν. 愈115 : 1 i1ro;守σω6 Oeò" ròνAðaμ 次に創5 : 3の éð臼(ûðta) がある. Kar'EtKÓνa Oeoû itro!守σe ν aùróν. ア ダ ムとセトの父子関係で, 父が子を 自分のド世ムート(iðia) として , ツェレム(ε éKφν)として生ん だ と言ってい る箇所である. これは創1 : 26で神と人との関係に於いて,神が人を自分のツェ レム(εlK Ó C ν) として , ドゥムート(6μ 0;ωσ,,,) として 造ったと言っているのに対 応する. LXXでへブライ語の二つの前置詞(b'とk')は, 創1 : 26でも 創5 : 3でも , どちらでも同じく Kar&と訳されている. また前述したように , MTで ツzレムとドpムートは創1 : 26と創5 : 3では順序が入れ替わってい るが, LXXは基本的にはそれに従い な がら も , ドゥムートを創1 : 26では6f10;ωσ'S, 創5 : 3では éðia と訳す. 創1 : 26 Kar' εIKÓνaザμεr tpaν Kae KaO' 6f10;ωσtν 創5 : 3 Kaì Ka'!'占T守ν εlKÓνa αùroû Kar占T守νéðiaν aù,o û LXXで ;ð臼(ε;ðia)は 6回あらわれるが27) ヘブライ語の訳と し て あ る の は . 創5 : 3 (ドヲムート )の他にはダニ(Th) 1 : 13( 2回 ), 15 で, これはへプライ 語マル エー(mar" e h) r外観, 相貌」を訳したものである制. へ ブ ラ イ語の訳では ない 2マカ 3 : 16では大祭司の「姿 J . エレミヤの手紙 62で は 偶像批判との関係で さま 「様」の意味であらわれる. 以上の用例から考えられることは, 創5 : 3で éðiaが 佼われているのは , お そらくこの語の「外観 . 相貌」という古い意味での用法であり, 125 神の似姿 εJ凶ν でもなく dμ o íωσ1<;: でもないのは, 特に父と子の類似を言おうとするためであ って, 神と人との相似ではなし、からであると考えられる叫. 第三にイザ 1 3 : 4のみで訳されている印010宮がある. r聞け , 多くの民の よ う な ( Op OIO<;:) 騒ぎ声が 山々に聞える J. LXXでこの語は多くのへブライ語の訳語として 頻出するが , 新 約でも 多く用いられている. その中でも「神の似姿」との関係であら われるのは lヨハネ3 : 2である. r彼が現れる時, わたし た ちは. 自分たちが彼に 似るもの ( 如0(0' aù,φ)となることを 知っている. そのまことの御姿 ( "a8 φ<;: ia,ω) を見るからであるJ. 第四にðp oíωμαがある . 先に述べたようにðp o íωμ aは 号 e l em の訳語として玉上 6 : 5で 2回用いられているが , ドpムート( d'm 白t)の訳語と しては 6μ o íωμ a が 一番多く使われており , それもエゼキエル書が ほとんどである. 旬。tω ραがドpムー トの訳語として出て来るのは他に王下16: 10, 代下4 : 3 , イザ40 : 18 であ るが. イザ40 : 18 のみ 偶像の意味で使われている. ðμ o íωμ a が タブニット ( tab 'nît) r像」 やトゥムナー ( t'mû nâ) r形」 の訳語としてある場合は「偶像」の意味であるのと大 きな違いがある. 第五にdμ o íωσ1<;:がある . このギリシア語は LXXの中で, へ フー ライ語ドpムート ( 6回), あるいは タプニット( 1回), トクニット( to k 'nît, 1回)の訳語と し て 使 われている . タプニットの訳語としてエゼ 8 : 10では偶像の意味で, トクニ ットの 訳語として同 28 : 12では印章との関係での相似性が言われている . ド p ムートの訳 語として, エゼ 1 : 10, 10 : 22ではr ( 顔の )形」が類似しているとい う意味で , 詩 57 (58) : 5, ダニ (LXX) 7 : 5 , 10 : 16では何ものかと比較しての類似をあらわ し, r�のような」の意味を持つ. ところで, 創1 : 26はどうかと言うと, これはエ ゼ 1 : 10, 10 : 22が「人の 顔の 形」との類似, ダニ 10 : 16 が「人の子の姿」との類似をいうのに似 てい る. 創1 : 26で人間が神のd凶νにしたがって, ðμ oíωσ1<;:にしたがって創造されるというのは, ðp o íωσ1<;: がここで単なる類似一一この語の本来持つ意味ーーではなく, やはり形と の関係 ( e háJν)に於いて似ているということが示唆されていると考えられる. ( 3) ε("φνとðp o íωσ1<;: εháJνと 6μ o íωσ 1<;:は創1 : 26に於いてのみ並列的にあら わ れ る. LXXでd凶ν は約40回使われているのに対し, 作oíωσ r宮はより少ない 8回であ る . εh仰は主と 126 中世思想研究40号 してへプライ語ツェレムの訳語であり . Ó μ O{ ωσt 宮 は主として ド ゥムートの訳語であ る. ただドゥムートは前述したように , 創5 : 1では ε;,uÍJ ν と訳 さ れ , 創5 : 3で はiiUo:と訳される. ε ha.ÍJ νはeOllca (<ε ì'/C ω,似ている )に. Ó μo{ ωσE宮は旬o,ó ω(< 6 μ OWれ似せる ) に由来する. どちらも意味論的には似通っており ,類義語として把握 される. ただε J凶νはそこから具体的な像(imago) などの意味を持つようになるの であるが , 。 μ 0' ωσE宮 は類似(similitudo) の意味を持つにとどまり. J. Schneider の言うように , e llUÍJ ν の方が その原型を想定するのに対し. óμoíωσE宮 は単なる類似 を表現するということである30) LXX の訳者は人聞が 神 の 似姿で あ る と言う時. Ó f10íωσ勾 よりは stKφν の方に重きを置いていると言ってさしっかえないであろう . それはへプライ語ツェレムとドヮムートの関係に酷似している. おわりに 以上. 我々は旧約聖書の「神の似姿Jの問題を. MT のへプ ラ イ語及び LXX の ギリシア語に焦点をあてて概観してきた LXXに関しては. そ のギリシア語訳がへ プライ語の意味を正確に伝えているかどうかの問題があるが . この 両語に限って言え ば元来の意味をそこなうことなく. 調和を保って翻訳され , 旧約から新約へのよき橋 渡しを形成したものとなっており, ツェ レムの持つ意味を ε /C ' Wν はいさ さかも減じ ていないと考えられる. 勿論, へブライ語とギリシア語の持つ微妙なニュアンスの相 違は否 むことは出来ないが , ツェレ ムは !?Im(切る ) を語根と し , εt/C Wν はlo,/Co: (似ている ) を語根とし その由来は異なりつつも, 共に「像」の意味を持つに至り , ほとんど同じ意味合いで使われていると言っ てさしっかえないであ ろう. この両語は 聖書の人間観. ["神の似姿」の主要な鍵語 と なって , 後 世に大きな影響を 及ぼす こ と となる. また , ドヮムートと 6μoí ωσ'Sは, ともに語根が「似ている」という同じ意 味であり共通する. それゆえ. LXXはある意味で容易にへブラ イ語が元来表現しよ うとしていたことを伝えたということができるであろう. 神の似姿に限って言えば, 我々は D. Frainkin とともに LXX はへブライ語のテダストに何も 新しい解釈を 提示しないと考える31) ツェレムは近隣の古代オリエン ト 世界の影響を受け ながら , 聖書独自の神 学に基づいて その人間観を大きく転換したのであるが , εéJ,ÓJ ν は聖書的 伝統とギリシア思想 一一 特にプラト ン との対話の中で大きく成長し発展を遂げ , ーー それはキリスト論に於いて完成を見 , キリスト教の 教父達に受け継が れ て ゆ く. ["キ 神の似姿 127 リストは見えない神のかたち(ôilcφν) である J (コロ 1 : 15). 註 1) 多くの参考文献があるが, 聖書学の研究史の観点から概観した, G. A. J onsson, The Image 01 God Research 一一 -一一 Genesis 1:26-28 in a Century 01 Old Testament (CB OTS26 1988) が簡便 である. 2) H. Wildb erger, “号 aél aem, Abbild九THAT II, 556. AHw 1078f. BDB. 853, HAL. 963. へプライ語ツェレムは*�lm 1 (切る ) との関係をHAL は明示する. ウ ガリト, フzニキア, アラム , アラブ諸語との関連もある. 3) J. H ehn, .‘Z um Termi nu s {Bi Id Gott es}ヘFS E. Sachau (Berli n 1915) を もって鳴矢とする. 4) “ÉJJ q",宇Oεoû" Legum Alleg01匂e, III. 96. へブライ語の b' z al 'el を b'(に 於いて ) + � el(影 )十 'el(神 ) と解釈する. ただ, フィロン はへプライ語 を直接に は 知らなかったと言われている. ブィロン の UlClá と εCICφν の関係に ついては S. Schul , z “σICI&" TDNT. vol. 7, 396. 参照. (2x ), 11;王下 11:18;エ 5) 創 1:26, 27(2x). 5:3. 9:6;民 33:52;サム上 6: 5 ゼ7:20; 16:17; 23:1 4; アモ 5:26; 詩 39:7, 73:20;代下 23:17. アラム語ツ レム(ジl em) はダニエル書 2:31�35;3:1�19 に 17回. 6) ツェレムの基本的意味を「像」と捉えるのが適切で -あると考える. そこ から似 像, 偶像, 塑像, 肖像, 立像, 影像, 画像などと訳 され得る. 中国語訳『聖 経』 は 「形像」とする. ドイツ語では BiId が基本となって , AbbiId, Eb enbild, Nachbi Id, UrbiId, VorbiId などの訳 語が考えられる. ヴル ガタ訳 では通常 imago と訳 され る. 7) 民 33:52.玉下11:18.エゼ 7:20. 16:17. 代下23:17. 偶像としてではないが 否定的な意味で使われてい るのはエゼ 23:14. 詩 39:7. 73:20(新共同訳 は偶像と 訳 す ). 8) ダニエル 3:1�7参照. 9) この動詞の強調形(pi el ) は「比べる」を意味する. イザヤ 40:18 ではこ の動 詞と名詞ドヮムートが共に あらわれる. 倉Ij世記 5:3 では前置詞 k'+ ツェレムであ るが , 詩 58:5.ダニエル 10:16 では k' +ドゥムート ;前置詞 b' を と る の は 創 5:1, 3 のみで前置詞 k' をとるのは倉IJ 1:26;詩 58:5;夕、ニエル 10:16 である. 10) ヴル ガタ訳 では通常 (19回 ) similitudo と訳 される. 中国語訳『聖 経』 は「様 式」と訳 す. 11 ) 創 1: 26, 5: 1, 3, イザ 13: 4, 40:18, エゼ 1:5(2回), 10,13,16,22,26(3回 ), 28;8:2,10:1,10,21 ,22,23:15, 王下16:10, 代下 4:3, 詩 58:5, ダニ 10:16. 12) Ó f10í ωμ a/月υ8 f1 Ó宮(L XX). ex empl ar/ similitudo( Vulg at a). 12 8 中世思想研究40号 13) へプライ語前置詞 b '/k (ギリシア語前置詞 ' KaTá)の解釈によって , 人聞を「神 の似姿として J (aIs u z m Bild Go ttes) と理解するか, í神の姿に従って J(nach dem Bilde Go ttes) と理解するかという問題については 別 に考察する. 14) C. Westerman n,Genesis(BK 1/1 2 1976) 201-203, G.vo n Rad,上 掲書 37. PE ・ . Dion 上 掲書 387等. 15 ) 但し, Dictionnaire de la Bible, Suρρlément (=DBSuρ)の項目の見出しは “ Ressembl ance e t image de Dieu" . fasc. 5 5(Par is 1981) 365 -414. Diction naire Sρirituelle の 項目 の 見出 し は “Image e t r essembl a nce ". ILVIII-ILI X (Par is 1970) 1401-1425. 16) へプライ語のヨdãm は LXXが翻訳するように, 創 5 :1 では普通名詞として 神との関係で「人J, 創 5 :3 では 閤有名詞として子のセトとの関係で「アダム」の 意味を持たせていると考えられるが , Bib le de ]ér usal em の訳等 を除い て , ヴル ガタ訳 , ルター訳 , N RS V, TOB 等は創 5 :1 も「 アダム」と訳す. この問題につ いては, 拙稿í'adam の翻訳 J W聖書におけ る人物像.1(Lithon 1995 ) 39-6 8頁参 照. 17) 創世記 1章一9章のImago Dei の祭司伝承に於ける文 学的構造連関に関して は. 別 に日本聖書学研究所(1998年3月9日) での筆者の口答発表がある. 18) 創5 :1 のへプライ語ドヮムート を . LXXはツェレムの通常の訳語である tÍKφ ν をもって訳し(ヴル ガタ訳では imago), イザヤ 40:18 のへブライ語ドゥムート を ヴル ヵ・タ訳はツェレムの通常の訳語である imago をもって訳すことなどからも 考えられる. 19) 創1:26,2 7,5 :3,9:6;サム上 6 :11;王下11:18;エゼ7:20,16 :17,23 :14;詩 3 8(39):7, 72(73) 20. 20) T.N. D. Me ttinger ,“Abb iId oder Urb iId ?ヘZAW 86(1974) 406f.倉IJ 1:26 -2 7 も出 25 :40 も動詞「 造るJ(アサ ー . ・asâ)( +直接補語 )+前置詞 b' の文章構成 である. 21) ベセノレ(peseI) は動詞「切る, 切り出 す J(パサノレ , pãsaI) に由来し, I日約聖 書の中で 31回用いられている. 22) プラトンの影響, フィロンの思想との関係については c.Lar cher , Le livre de la Sagesse ou la Sagesse de Salomon, vo]. 2( Par is 1984) 5 02-505参照. 23) 類 字混同. íðtó句TO<; とするのは ヴァティカン , シナ イ, アレクサン ドリ アの諸 ë ,ó句TO<;とするのは タティ 写本. アレクサンドリアのクレメンスもこれによる. áö アヌス等. 企ö ë ,ó<;であれば, 上 述 の 知恵 7:26 と 4�カ 10:15 にあ る が , aïð,ó 切TO<;は他に見当たらない. 24) C. Lar cher,上 掲書 269. 25 ) 但し, アクィラ, シ品ン マコ ス, テオドテイオンの諸訳は ú;roTáσσ ω で , より 神の似姿 129 へブライ語に近い動詞に訳されてい る. 創 1: 26, 2 8 のラダー(rãd â)í治める」 は LXXでは ápXω と訳されてい る. 26) 上述したように , これは M T でどちらも 'ãdãm であり, 1: 27 には前置詞 + 冠詞があり, 5: 1 には前置詞も冠詞も 省略されているという違いはあ るが, LXX には両者ともに前置詞がなく,冠詞がある. 27) 創 5: 3, エレミヤの手紙63, ダニ( Th) 1: 13(2回 ), 15. 2 マカ3: 16. 28) 語根 はラアー( rã 'â)í見る」で . ギリシア語ôÍösa(éösa)の語根 がやはり「見 るJ (ε'íöoν)であるのに共通する. 29) M.Ale xandre はドヮムー トに関して , 創 5: 1 がEtÆφν と訳されるのに対し, 創 5: 3 が 俗的 と訳されるのは , 外観のより具体的なニュ アンスを言うためであ ろうと言う. M. Ale xandre , Le commencement du livre Genèse I-V( Pa ris 1988) 177. 30) J. S chne ide r, 上 掲書 190. 31) D. Fr ak i in , " Re ssambl an ce e t image de D ieu. A l a Sep tan te ヘDBSup. fas c. 55( Par is 1981) 405.
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