ワーズワス兄妹の1803年のスコットランド旅行

ワーズワス兄妹の1803年のスコットランド旅行
―アーガイル・アンド・ビュート以降の二人旅―
安藤 潔(Kiyoshi Ando)
要約:
前稿に引き続き、1803 年のワーズワス兄妹のスコットランド旅行のうち、
コールリッジと別れたあとの二人旅をハイランドに追っていく。兄妹はトゥ
ロサックス地区を後にし、アーガイル・アンド・ビュートを巡回し、アロチャー
からインヴェラレイ、キルチャーン城、ダルマリー、テイニュイルト、アピ
ン経由グレンコー、テイ湖に至るが、このあとドロシーの旅行記著作は様々
な理由で中断し、生前出版されなかった原因のひとつにもなる。
暫く後に彼女は著作を再開し、ひき続きハイランド中部、兄妹の旅した中
で最も東北の地域となるケンモアからブレア・アソール、ダンケルドの旅程
を描いている。さらにこの先の目的地を考えた彼らはトゥロサックス再訪を
決意する。こうして二人はダンケルド、バーナムからキャランダーを経由し、
二週前に歓待されたカトリン湖畔のボートマン一家に再会し、この地の未踏
の場所も含めて存分に踏破し、キャランダーからスターリングに向かった。
この論文でも、前稿と同様にワーズワスの妹ドロシーの『旅行記』を主体
に、それぞれの地が現代どのようになっているかを検証しつつ彼らの足跡を
辿る。
キーワード:
① ワーズワス兄妹 ② 1803 年のスコットランド旅行
③ ハイランズ ④ The Wordsworths
⑤ Their Tour of Scotland in 1803 ⑥ The Highlands
― 115 ―
安藤作成 2015/11/1
Ⅰ アロチャーからインヴェラレイ、キルチャーン城、ダルマリー
1803 年 8 月 29 日月曜、ワーズワス兄妹はスコットランド、ロッ
ホ・ローモンド西岸からアーガイルに入った、ロッホ・ロング(Loch
Long*)湖畔のアロチャー(Arrochar*)の先でコールリッジと別れた後、
アルドガータン(Ardgartan*)を経てグレン・クロウ(Glen Croe*)
に入り、右手にコブラー峰(The Cobbler*)を見ながら進んだ。それ
までの陰鬱な状況も午後になると雨は上がり、厚かった雲も途切れ、
夕方になると晴れてきた。雰囲気は好転し兄妹は楽しげな気分になっ
た。この周辺は、アロチャー・アルプスとも呼ばれ、ビューポイント
のレスト・アンド・ビー・サンクフル(Rest and Be Thankful*)峠か
ら先はケアンドウ(Cairndow)に至り、これも海湖のロッホ・ファ
イン(Loch Fyne*)を迂回してインヴェラレイ(Inverary,現代綴り
Inveraray*)方面に向かう。この近辺では 2009 年に戦闘機訓練中の墜
落事故があり、新聞紙面やネット上ニュースサイトを賑わしたことが
― 116 ―
あるという。 1 レスト・アンド・ビー・サンクフルの名称は、ドロシー
も言及しているように 1750 年に軍用道路が完成された後の記念碑の
銘に由来する。ハイランド地方の道路の多くがジャコバイトの反乱の
頃から後に軍用道路として整備されたことがわかる。この先兄妹はグ
レン・キングラス(Glen Kinglas)をケアンドウの宿に向かう。
彼女らが泊まった宿の名は記されていないが、Cairndow Stagecoach Inn 2 といい現存の三ツ星インで、ホームページに様々な文人の
宿泊歴を誇っている。1803 年のワーズワス兄妹のほか、1818 年にはジョ
ン・キーツが、そしてドロシーが 1803 年から 19 年後の 1822 年に再訪
している。更に 1875 年にはヴィクトリア女王が宿泊し、これ以外に
も多くの人々が記録を残している。この先兄妹が宿泊した宿が現存す
るケースが他にも何度かあり、施設によってはそういった事実をウェ
ブサイト上で誇示している。
安藤作成 2015/11/1
― 117 ―
Rest and Be Thankful:A83 道路で
最高の海抜 803 フィートある峠で、
Glen Croe と Glen Kinglas の境とも
なる。向かいの丘の中腹が現代の道
路、下の方のうねった道が旧道と見
られる。
海湖ロッホ・ファイン(Loch Fyne)
、
Cairndow から北西の対岸を臨む。
ともに 2014 年 8 月 22 日
安藤撮影
8 月 30 日火曜日:ドロシーの記録には 7 時に起床し近くで獲れた
ニシン(herring)の朝食を楽しんだが、 9 時まで出発できなかった
とある。使用人たちが起きてこなかったために朝食が遅れたというの
である。このような、当時のスコットランドの宿の従業員の怠惰さ、
あるいは呑気さはよくあり、この先も彼女の不満の一つとなり、この
先は朝食を摂らずに出発したいとまで述べている。なお、現代も多く
の公的施設が 10 時開業である。
兄妹の次の目的地はインヴェラレイだったが、馬車の彼らは当時出
ていたケアンドウからのフェリーは用いず、ファイン海湖岸を迂回し
て 3 マイルほど現代の A83 に当たる軍用道路を進んだ。この間の海
湖やあたりの風景を彼女は詳しく描写しているが、フェリーの着く北
岸からさらに 4 マイルほど行くとインヴェラレイの町が見えてきた。
なお、Inveraray は Inverness 等と同じく、Inver-Aray が語源で、
「アレ
イ川河口」を意味するようである。この日の彼女らの移動距離はわず
か 7 マイル余りと短いが、アーガイル公の居城のあるこのインヴェ
ラレイを見て廻る意図だったとみられる。インヴェラレイは古来王室
の勅許を得たアーガイル地区の伝統的な町(Royal Burgh)でアーガ
イル公古来の本拠地であった。18 世紀の終わりに町の再建が行われ、
公爵城も当時の第 5 代公爵により再建されていた。当時は主要部 2
階建て、四隅の塔と中央部が 3 階建てであったが、1877 年の火災の
― 118 ―
後修復されて現在の姿になったといい、最近人気ドラマのロケ地にも
用いられた(Downton Abbey, Christmas 2012 episode)
。3
ファイン湖北岸をクラカン(Clachan*)方面から西南に進んで行く
と、先ず前方対岸の岬、湖水のすぐそばに白い建物の列をなすイン
ヴェラレイの町が見えてくるのは今日自動車でアクセスしても同様で
ある。これ自体が見事な光景だが、町に近付いてからの景色も美しく、
湾を迂回して町の手前でインヴェラレイ城につながるアレイ川に架か
る橋インヴェラレイ・ブリッジを渡る。川を船が通れるように 18 世
紀以来の橋は高くなっているが、道は細く信号で交互交通になってい
る。町の取りつきの道を右手に曲ると城へのアクセス道路に入る。
このあたりの様子は 200 年前と同じようである。アクセス道路の隣に
A819 との T 字路があるが、こちらに入らずに岸に沿って左手に曲が
ると A82 道路の右手に The Argyll Hotel(The Inveraray Inn)があり、
1755 年開業でここが兄妹の泊まった宿のようである。2015 年夏現在
ウェブサイトがオーバーホール中のようで HP にはワーズワス兄妹の
ことは何も見つけられない。
インヴェラレイ Inveraray の町から
インヴェラレイ城への水路アレイ川
に架かるインヴェラレイ・ブリッジ。
インヴェラレイの埠頭からロッホ・
ファイン北部を臨む。
ともに 2014 年 8 月 22 日
安藤撮影
宿でワーズワス兄妹は丁寧に迎えられるが、ドロシーはウェイター
や豪華過ぎる大きな部屋が趣味には合わないものの、この宿は近隣と
は調和していたと述べている。現代ではホテルも他に数か所増え、岬
の角の埠頭からは Kintyre 方面に行く船が出ているようで、さらにそ
の先の道を岸なりに右に曲がっていくとドロシーも指摘しているイン
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ヴェラレイ・ジェイルがあり、現代では歴史的博物館になっている。
二人は夕食前に公爵の広大な遊興地(pleasure-grounds)を散歩し
てその美しさに満足した。しかし当時城内を観覧するには氏名を提出
して、公爵が入場時間を指定するしきたりだった。入場料を払って観
覧する現代のようなシステムはまだなかったようである。ドロシーは、
めぼしい絵画もなく、建物自体が当世風ではあるが建築から半世紀も
たっていないことを理由に、内部を観覧する価値はないと判断してい
る。現代のインヴェラレイ城は 19 世紀末以降に修復されたので一層
現代的ではあるが、歴代の公爵やその家族の肖像も陳列され、現役の
公爵城として内部観覧は興味深い。ディナーの後、ドロシーは長く寒
い夏の北国の夕方を暖炉の前でゆっくりと過ごしたが、その後この日
二度目の散策に出かけた。町の中は決して美しくない所もあり幻滅も
するが、間もなく彼らは公爵城の敷地内に入る。建物の中には入らな
かったようだが、ドロシーの旅行記には城からの美しい眺めが描かれ
ている。
現代のインヴェラレイ城正面:1803
年当時は主要部二階建て、四隅の円
錐屋根はなかった。
1803 年当時の当主
John Campbell, the 5th Duke of Argyll
の肖像:インヴェラレイ城内にて。
ともに 2014 年 8 月 22 日
安藤撮影
8 月 31 日水曜日、兄妹は再度宿の召使たちの怠慢ぶりに不平を感
じつつ、 9 時過ぎになってようやく出発、インヴェラレイ城の裏手
から抜けて、先の長い一日の旅程を始めた。彼らは現代の A819 をオ
ウ湖(Loch Awe*)湖頭にある湖上の廃墟キルチャーン城(Kilchurn
Castle*)さらにダルマリー(Dalmally*)を目指した。プレジャー・
― 120 ―
グラウンドが終わるあたりで彼らは道を逸れて滝を見に行ったとある
が、隠れた観光名所のようで、滝好きの彼らは見逃さなかったようで
ある。この先彼らはスコットランドの典型的な谷間、当時は未整備の、
道なき道を行く。ドロシーはこのような隠棲の地、小さな谷にスペン
サーが『妖精の女王』に描いたそれを連想し、何気なく教養の高さを
示している。さらに先に進むとオウ湖が見えてきて、坂を下る様子に
彼女は湖水地方ニューランズからバターミアの風景を連想し、湖水地
方と異なるのは「素朴な荘厳さ」としている。オウ湖はスコットラン
ド第 3 の大きさの淡水湖で、長さは北東のダルマリー近くの湖頭か
ら南西インヴァーリーヴァ(Inverliever*)さらにトラン(Torran*)
に至る 40 キロ余りにわたり最長である。午後に時間の余裕があった
兄妹はオウ湖の湖島に渡ろうとしたが、湖水が増水し岸辺まで近寄れ
ず、またボートが別の場所に行っていたため諦めざるを得なかった。
更に丘を登って行くと素晴らしい景色が広がり、湖の最後の岬の半
ばに城の廃墟があり、背景には山々のくぼみが見られた。現代でもこ
のキルチャーン城が見えてくるときの感動は他では得られない。その
たたずまいは古色蒼然としていてスコットランドを代表する風景とも
いえるが、残念ながら現代では背景の山腹に送電線が張り巡らされ、
手前の湖岸には時に派手な色のテントを張りキャンプをする人がいる。
ワーズワスが見たなら正に目障り(eyesore)と言うだろう。オウ湖
の南岸からは、城跡は見える限り島の足元全てを占めて、湖水の中か
ら立ち上るようだが、湖頭近くの北東岸からは岬のようになっている。
現代では A85 道路からアクセスでき、道路と城跡の間に鉄道が走って
いるが、景色を損なうような作りではない。
キルチャーン城はクラン・キャンベルの一派、プリダルベイン伯(the
Earls of Breadalbane)となったグレン・オーキー(Glen Orchy)に
おけるキャンベル家の古来の本拠地で、15 世紀中ごろに初代グレノー
キー公サー・コリン・キャンベル(Sir Colin Campbell, 1 st Lord of
Glenorchy)により、当初 5 層の塔として作られ、16・17 世紀に増築
されたが、18 世紀に放棄され廃墟となったという。 4
ドロシーはブリダルベイン公が十字軍に出かけている間に夫人が建
築したと述べている。当初は湖島の城だったが、19 世紀に水量が減
り岬となったといい、北からアクセスする限りは陸続きの部分も現在
なお湿地帯で降雨時などはかなりぬかるむようである。現在では完全
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に廃城で、人が住める状態ではないが、案内の掲示等が完備され観光
の廃墟となっている。しかし論者が訪問した時は入場料を徴収する様
子もなく、管理者さえいなかった。オウ湖南岸 A819 から見た廃城の
佇まいは絶景だが、古城の中から見たオウ湖の景色も素晴らしい。ワー
ズワスはこの廃城訪問の感動に ‘Address to Kilchern Castle’(“Child
of loud-throated War”)の詩を作った。
キルチャーン城:
北側アクセス路より。
キルチャーン城内より
オウ湖を臨む。
ともに 2014 年 8 月 22 日
安藤撮影
Ⅱ ダルマリーからテイニュイルト、アピン経由グレンコーに至る
1803 年 9 月 1 日、木曜日:ダルマリー(Dulmally*)の宿に宿泊
した翌朝、兄妹は朝 6 時に朝食を摂りこの日は遅れることなく思い
通りに出発できた。彼らはダルマリーからグレンコー(Glen Coe,
Glencoe*)に行く予定であったが、偶然知り合った紳士から、経路は
東にティンドゥラム(Tyndrum*)経由で、現代の A85 から A82 に入
る道を行くのではなく、西に進んでロッホ・オウの排出側の方からロッ
ホ・エティーヴ(Loch Etive*)に行き、そこからグレンコーに向かっ
た方が道も良く心地良いと聞いた。これは A85 からエティーヴ湖を越
えて A828 に入る遠回りだが、いくつか古城もあり、海湖やリニ湾の
海辺も経由する。その手前でも、ロッホ・オウの景色に関心のあった
二人は迷わずこの助言を受け入れるのだが、二度ほど海湖つまり入り
江を渡る必要があり、馬車を使っていた彼らはトラブルも経験するこ
ととなる。
― 122 ―
ドロシーはダルマリーの村の中の様子を細かく説明しているが、現
代では鉄道駅があるものの人けが少なく、当時より人口が減り建物も
少なくなったかと感じる。現代の A85 からはキルチャーン城跡はほと
んど見られないが、ドロシーの時代にはロッホ・オウの北西岸からも
見えたが山陰の平坦地、轟く細流とともに見ると、反対側から見た時
ほど壮大ではなかったとしている。湖は見えなくなったがオウ川が続
き、エティーヴ海湖に至るとテイニュイルト(Taynuilt*)の町に入る。
この間の様子もドロシーは事細かに記しているが、何気なく気づいた
石炭船は、現在 Bonawe Historic Iron Furnace となっている施設に関
連したものであったかと思われる。 5
テイニュイルトの宿に着くと、ドロシーは寒さと頭痛にもめげ
ず、兄とともにオウ川の河口からフェリーでビューノウ(ボノウ、
Bunawe,Bonawe*)に行く。Bonawe という地名はテイニュイルト北
隣の鉄鋼炉にも、エティーヴ海湖の北側にも見られるが、当時の河口
の状況などは現代と異なっていたようで詳細は分からない。ビューノ
ウが「ウィリアムがホークスヘッドで 10 年間寄宿した老女の町」だ
というのは、アン・タイスンに縁がある地ということである。ボノウ
(Bonawe)は、観光案内には地名として Bonawe Iron Furness と Loch
Etive Cruise の中にくらいしか出ていない。しかしこの地区も景色の
大層いいところのようで、ウェブ上で “Bunawe” の名を冠した古い風
景画に行き当たる。ワーズワス兄妹が雨模様の中、フェリーを使って
までしてビューノウ(ボノウ)界隈を見て廻った目的は、『序曲』に
ゆ か り
もその人となりが描かれた、アン・タイスンの所縁の地を見ることと、
エティーヴ湖をよく知るフェリーマンらから、グレンコーへの道の情
報を得ることだったようである。彼らはエティーヴ湖の湖頭から北上
すればグレンコーまで 1 時間との情報を得るが、激しい雨の気候と
潮流が不利で、このルートは諦めることとなった。
9 月 2 日金曜日、ワーズワス兄妹は朝 7 時ころテイニュイルトの
宿を出立した。この日はエティーヴ海湖を 8 マイルほど下った所で、
フェリーで北岸に渡る予定だった。ダルマリーで会った紳士からこの
ルートも紳士の領地が多く、整備されていて美しい風景が多く見るべ
き個所が多いと聞いていた二人は、グレンコーへ遠回りながらそれな
りの期待をもって進んで行った。 6 マイルほど旅を続けると、美し
い景色が現れ大胆に突き出た岬に古い城があったとしているが、これ
― 123 ―
はダンスタッフネジ城(Dunstaffnage Castle*)のことのようである。
二人はこの城跡には立ち寄らなかったようだが、その先の海の彼方に
マル島を遠望した。20 世紀に入ったころ、コネル・ブリッジ(Connel
Bridge*)が作られ汽車が渡るようになったが、現在は道路橋で信号
による一車線の交互交通が行われている。橋の北岸にはオーバン空港
があり、離島への小型機の便が出ている。なお、コネルから橋を渡ら
ずに A85 を南西に進めばオーバン(Oban*)に至る。よく知られた、フェ
リー・ターミナルの町で、向かいのマル島やスカイ島始めスコットラ
ンド西北諸島に船で行く拠点だが、観光の町として開けたのは 19 世
紀末のようで、ワーズワス兄妹は関心もなかったと見られる。
1803 年の彼らはダンスタッフネジ城跡を遠望したあたりからフェリー
で馬車と馬もろとも北岸に向かった。しかし馬はボートに乗る前に怯
え、苛立ち、興奮したのに係員が強引に追立てたので、老馬は乗船中
ずっと暴れ、無事に対岸に着けるか危ぶまれた。無事に対岸に着き上
陸する時も係員は馬に怒号を浴びせ、鞭打ち、強引に上陸させたので
これが馬にとって水を怯える原因となってしまう。この先もう 1,
2度
フェリーで水路を渡る予定があり、次の時は馬を泳がせた方がいいと
いう意見もあった。 エティーヴ海湖を北に渡った後の海岸端の景色も美しく、オシアン
詩でよく歌われている丘に至るあたりの様子をドロシーは事細かに描
写している。ほどなく彼らはロッホ・クレラン(Loch Creran*)とい
う大きく不規則な形の海湖に出た。ドロシーは記述していないが、現
代のルートでは海湖の南側沿いに A828 をバーカルディン(Barcaldine*)
からサウス・クリーガン(South Creagan*)をへてダラチュリッシュ
(Dallachulish*)の手前に橋があり、クレラン海湖をクリーガン(Creagan*)に渡ることになる。兄妹は再度ここでフェリーを使ったが、今
度は怯える馬を船には載せず、泳がせることにした。この方法は当
時も通常のことではなく、フェリー・ハウスの人々はこれが泳がされ
る最初の馬と語っていた。馬は怯え、ボートの下でもがいているよう
だったが、間もなくうまく泳ぎ始め 6 ~ 10 分(sic)ほどして対岸に
無事上陸した。哀れな馬は鼻孔を広げ、人が彼を温めようと引き回
している間目を大きく見開いていた。彼らはこの後アピン(Appin*)
を経てリニ湾(Loch Linnhe*)の岸を北上し、ポートナクロイッシュ
(Portnacroish*)へと進んで行く。ドロシーは午餐の後にあたりの景
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色を愛でているが、ここで「すぐ眼下の、岸辺から数ヤードの島には
古い砦のようなものがあり、アピンの谷は湾岸の方に開け耕作された
畑やコテージが見られた。
」
(Recollections 1784,160)とあるのはストー
カー城(Castle Stalker*)のことで、すでに通過したダンスタッフネ
ジ城ともに現代では観光名所の見所だが、彼女は名称を知らなかった
ようである。
ダンスタッフネジ城はスコットランドで最古の城塞の一つで、13
世紀初頭にマクダグラス一族の要塞として海湖エティーヴの河口、ロー
ン湾を見晴らす岬に作られ、1309 年にはロバート・ザ・ブルースが
獲得し、暫く王族のものとなり、1460 年代にはアーガイル伯キャン
ベル一族に明け渡された。その後は 1745- 6 年のジャコバイトの反乱
まで王族とキャンベル一族の抗争の場であったが、1746 年にはボニー・
プリンス・チャーリーのスカイ島への脱出を助けたフローラ・マクド
ナルドが一時的に幽閉された。 6
リニ湾につながる小島の上に建てら
れているストーカー城。
Ardmucknish bay を見下ろすダンス
タッフネジ城。
ともに 2014 年 8 月 23 日
安藤撮影
一方海の中の島に建っているのが特徴のストーカー城はマクドゥガ
ル一族がローン(Lorn)の領主だった頃フォータリス(要塞)があっ
た場所に 1320 年頃建築されたと考えられている。1388 年頃にローン
はストーカー城とともにスチュアート家のものとなり、ストーカー城
が現在に近い形になったのは 1446 年に庶子を持ったサー・ジョン・
スチュアートの建築によると思われている。このスチュアート家はク
ランの抗争を経てアピンの首領となるが、スコットランドの王家とつ
― 125 ―
ながりがあり、1473 年生まれのジェームズ 4 世も何度か狩猟時の滞
在にこの砦を用いたという。名誉革命に伴い 1689 年にアピンのスチュ
アート家がこの城を取り戻したが、ダンケルドの戦いで敗北し、キャ
ンベル家に戻った後、1745 年のジャコバイトの蜂起に際してはイン
ヴェラレイとフォート・ウィリアムの間の補給地として兵士と物資を
供給したが、1746 年のカロデンの戦い以降はジャコバイト側が降伏し、
政府の軍が用いることとなった。20 世紀に入ってからこの城はキャ
ンベル一族のスチュアート家が買い戻し、1960 年代に至り Stewart
Allward 氏により再建、保存が図られているという。 7
ドロシーや詩人ワーズワスがこのような歴史を知っていたのか知ら
なかったのか、彼女の旅行記にはストーカー城の名さえ記されていな
い。ポートナクロイッシュで午餐を摂った後、彼らはさらに進み、日
没となり宵の甘美な時間、月明かりのもと旅を続ける。途中で会った
牛追いの男性から、この日の目的地バラチューリッシュ(Ballachulish*)
はまだ 4 マイルと聞き、彼らがいた谷の名前が Strath of Duror だと
知る。デュラー(Duror*)という地名は現在 A828 沿いアピンとサウス・
バラチューリッシュのほぼ中間点に見られる。谷の終わりで二人は海
湖の大きな湾ロッホ・リーヴン(Loch Leven*)に出る。月明かりのもと、
後半マイルくらいで宿かという所で橋が壊れていて渡れなかった。二
人が途方に暮れている所で数人の男性が来て浅い川を渡ることを伝え、
ドロシーは兄より先に徒歩で宿に入る。兄の到着が遅いのを心配して
いると、怯えた馬の制御が困難で人々の助けを借りてくびきを外し馬
車と別々に引いて川を渡ったということだった。このすべてを助けて
くれたハイランドの人々の親切心に二人は感謝をした。
9 月 3 日土曜日、ワーズワス兄妹は早朝にバラチューリッシュの
宿を出発してグレンコーに向かった。天気も良くなり、道路も上々、
フェリーを用いなければならない水路ももうなく、壮大な山々の間を
のんびり行くのだという思いに気分を良くしていた。すると些細なこ
とで突然馬が暴れだし、押さえがきかなくなって暴走し、兄妹の手に
負えなくなったところ一人の男性が手伝って事態を収めた。何とか馬
をなだめることはできたが、馬車や馬具が傷んだので、ちょうど近く
にあった村の鍛冶屋で修理してもらうことになった。こうしてドロシー
はまたハイランドの庶民との出会いを経験する。
ドロシーは鍛冶屋の家に入り女主人に快く迎えられる。彼女はいつ
― 126 ―
ものように事細かに家の様子を描いている。子供が 3 人ほどいて、
女主人は家が汚いことを詫びつつ彼女と話をした。建物はハイランド
風ではなく、英国のコテージ風の外観で、スレート葺きの屋根の材料
は近くの石切り場で生産されたものであった。こうして彼女は家や室
内の様子を事細かに描写し、さらに話した内容についても記している。
隣人の女性も話に加わり、彼女がロウランドのレッドヒル出身と分かり、
ドロシーたちが二週間前にそこに行ったことを話すと彼女は目に涙を
浮かべた。彼女たちと延々と話をしていると、鍛冶屋が朝食に戻って
きて急いで仕事に帰ったが、その間も彼女らは話を続けた。当時この
あたりは近所同士でも名字で呼び合うのが湖水地方と同じ習慣であっ
た。石切場の監督夫妻がドロシーの住んだことのある場所と同じ出身
地だった。ドロシーは石切場の監督夫妻の所にも案内され、歓待を受
ける。石切り場にも行き、昨夜助けてくれた人々にも再会した。こう
してトラブルがもとでハイランドの人々と親しい交流を経験した兄妹
は、修理した馬車を鍛冶屋とともに 1 マイルほど試運転したが、グ
レンコーへの道のりが険しいからと馬と御者を雇うこととなった。
グレンコーの山並み。
グレンコーの観光施設。
ともに 2014 年 8 月 23 日
安藤撮影
グレンコーはアーガイル地区北部、フォート・ウィリアムを含むロカー
バー(ロハーバー:Lochaber 英語とスコットランド語の発音の違い)
地区に近い Leven 海湖南岸の、スコットランドに多い火山性の起源に
なる岩山が連なる間の谷合で、山岳の風光明媚な点ではケアンゴーム
ズ(Cairngorms*)と並ぶ峡谷地区と言えよう。ハイランドの奥地の
この地はイングランド人によるスコットランド人虐殺の歴史が現代に
― 127 ―
至り、いまだに生々しく伝えられている。 8 このグレンコーの虐殺事
件とは、名誉革命に端を発し、追放されたジェームズ二世を支持す
るスコットランドのジャコバイトの反乱初期とその鎮圧に纏わる事
件である。表の歴史からはあまり知られていないが、スコットラン
ドにとっては後のカロデンの戦いまで尾を引く怨念の出来事であっ
たと言えよう。
小雨に烟るグレンコーの山並み。
2014 年 8 月 23 日
同、論者撮影。
ワーズワス兄妹は、馬車で何気なく通過した白い瀟洒なレアード(大
地主)の邸宅が、実はグレンコーの虐殺事件が始まった場所と知る。
しかし二人は淡々と旅を続け、ドロシーは淡々とあたりの美しい光景
を描写し、
「白い家」の快よさそうな佇まいを描写している。ドロシー
はハイランドの御者とともに新たな馬をつけた馬車に、ウィリアムは
ケジックから連れてきた馬に乗って進んだ。御者はこの地方に非常に
詳しく、不完全な英語で彼女に多くを語ったが、彼女はノートを全く
とっていなかったことを悔やんでいる。確かにこの詳細な記録があれ
ば、当時のハイランドの詳細な情報を得られただろうにと思いやられ
る。グレンコーを進んで行くとドロシーはパターデイルやアルズウォー
ターの湖頭を連想する。
The impression was,as we advanced up to the head of this first
reach,as if the glen were nothing,its loneliness and retirement as if
it made up no part of my feeling: the mountains were all in all. That
which fronted us I have forgotten its name was exceedingly lofty,the
surface stony,nay,the whole mountain was one mass of stone,wrinkled and puckered up together. (Recollections 1874,173.)
― 128 ―
この最初の到達点の頭まで来た時の印象としては、谷間が何ものでも
なかったかのように、その寂しさも隠棲の様子も私の感覚のどの部分
も構成しなかったような気がした。山々がまさに全てだった。私たち
の前に立ちはだかったのは、その名は忘れたが、非常に高く、表面は
石質というより山全体が一つの石の塊のようで、皺が寄り、襞を形成
していた。
現代とあまり変わらない風景だろうが、木々はほとんどなく、草原
には羊が草を食み、干し草も作られている。当時は暫く前まで行われ
ていた耕作の面影も残っていて、御者によると以前この地区にも住民
が多くいて、主に小麦の栽培をしていたという。これはまさにドロシー
らが訪問した 50 年ほど前に始まったハイランド・クリアランス、エ
ンクロージャーのスコットランド版ともいうべき社会現象により小作
人の農業が打ち捨てられた結果の景色ということのようである。この
ような社会現象の認識は、まだあまりなかったのかもしれないが、ド
ロシーはあたりの山々の描写をしてミルトンのセイタンに言及し ‘His
stature reached the sky’(Paradise Lost IV,985)を引用するに至る。
こうしてグレンコーをかなり奥まで進んだ兄妹はこの日の宿泊地
Kings House に到着する。この施設も現存し、現在は Kings House
Hotel という名称で、17 世紀以来の建物が使われていて、スコットラ
ンドで最古の宿と自称している。 9 しかしワーズワス兄妹が宿泊した
当時はジャコバイト反乱鎮圧のイングランド軍が兵舎として用いた名
残が強く、
「遠くには立派に見えたが ・・・・・ 近くに来ると内部の貧し
さや惨めさがあらかじめ警告された。
」地面は痩せ、牛も放し飼い、
馬糞を肥料にしたポテトの矮小な栽培しかなかった。戸口に入り数分
待つとエルス語を話す中年女性が出てきて二階に案内されたが、彼女
は「牛追い、運送屋、馬乗り、旅行者」など多くの客全てに対応し、
夕食も供する、この施設唯一の女性であった。
現代のこのホテルのウェブサイトに、ドロシーの記述の次の部分が
引用されている。10
Never did I see such a miserable,such a wretched place,long rooms
with ranges of beds,no other furniture except benches,or perhaps
one or two crazy chairs,the floors far dirtier than an ordinary house
could be if it were never washed. . . . With length of time the fire was
kindled,and,after another hour's waiting,supper came,a shoulder
― 129 ―
of mutton so hard that it was impossible to chew the little flesh that
might be scraped off the bones . . . .(Recollections 1874,176- 7 .)
ここほど惨めでひどい場所を見たことはなかった。ベッドが並べられ
た長い部屋があり、ベンチか、ひどい椅子一つか二つのほかに全く家
具がなく、床は洗ったことが全然ないように普通の家よりはるかに汚
く、・・・・・ 長い時間が経ち、火が入り、もう一時間待って、夕食が来た。
マトンの肩だったが固くて骨から外したらしい小さな肉を噛むことは
できず ・・・・・
さらにシーツが濡れたままで乾かすのに二時間かかり、暖炉の燃料
の泥炭(peats)も十分乾いていなかった。ドロシーはこの宿と切り
盛りする女を “Ferdinand Count Fathom” や “Gil Bias” などの小説に
配された場面と連想する。前者は The Adventures of Ferdinand Count
Fathom のことで、Tobias Smollett が 1753 年に発表した最初の小説で
ある。Gil Blas はフランスの小説家・劇作家のアラン・ルネ・レサー
ジュ(Alain-René Lesage)が 1715 ~ 35 年に出版したピカレスク(悪漢)
小説で、この種の小説がスペイン、フランス、英国へと影響があった
ことは文学史上よく知られている。ドロシーのこの何気ない一言も、
彼女の広範な読書量を示すものである。
一方、現代のこの宿 Kings House Hotel はドロシーの厳しい批判を
敢て自らのウェブサイトに明記し、 1 世紀後には状況が改善された
ことをアレグザンダー・ウィルキー(Alexander Wilkie:1850-1928;
スコットランド、ダンディー選挙区に初選出の労働党国会議員の一人)
が 1903 年に書いた記録をその直後に示すことで証明している。「キン
グズ・ハウス・インに到着して心から歓迎された。茶がふるまわれ、
服や靴を乾燥してくれた。翌朝は一回り散歩の後に朝食を摂った。何
を食したかというと、グレープフルーツだ。キングズ・ハウスでグレー
プフルーツとは。これができたので私はグレープフルーツを、そして
ポリッジとクリーム、魚を食した。全てがウエスト・エンドのシティー・
ホテルと同じだった。確かにサービスもよく、値段も手ごろだったの
11 で、食欲が恥ずかしくなる程食べてしまった。
」
おそらく 20 世紀の
初めにはまだ珍しかった果物が、この隔絶のグレンコーの地でロンド
ンの都心並みに供されたことへの驚きを示す言葉だろう。
― 130 ―
安藤作成 2015/10/30
このあとドロシーはグレンコーの印象を総括する。兄ともども、彼
女は山々の壮大さには甚くうたれたが、失望もした。Pinion が指摘す
るように二人はウィリアムが「シンプロン・パス」で描いたような「恐
怖のイメージ(“image of terror”,Prel.,1805,VI,621-40)」までも得
るには至らなかった。12
Ⅲ グレンコーからテイ湖へ ―ドロシーの著作中断―
1803 年 9 月 4 日の朝、ドロシーと兄ウィリアムはグレンコーのキ
ングズ ・ ハウスで朝 6 時に起きる。彼らは良く眠れたとしているが、
後にこの 4 日前にコールリッジが同じホテルに泊まり、ひどい一夜
を明かしたことを知る。兄妹は早く起きたにもかかわらず馬の世話が
良くできていない等の理由で出発は遅れ、さらに悪いことに彼女は忘
れ物までしてしまう。時間のない彼女らは先に進むが、この時辿った
道はほぼ現在の A82 と思われる。彼女の示唆する Black Mount という
地名は、現代の地図では Loch Ba*,Lochan na h-Achlaise* 一帯に、さ
らにその南の Loch Tulla* 北西岸に見られるが、地形や当時の道の所
在から同じ場所を意味するかどうか不明である。荒涼たる風景の中を
― 131 ―
進んでいった彼らは Inveroran という村で数軒の建物を見て、またそ
の一つのコテージのパブで朝食を摂る見込みに喜ぶ。Inveroran はホ
テルの名称に残っているが、現代の地図では Bridge of Orchy* となっ
ているようである。あたりの森は、嘗ては谷の端まで広がっていたよ
うに見えるが、今ではかなり縮小され、見るからに湖の境をなすに留まっ
ている。これが「今では平和で穏健そうに見えるこの谷を見舞った嵐
を物語るようだ。
( “to tell us of the storms that visit the valley which
looked now so sober and peaceful.”: Recollections,1874,182.)」と述
べているのはグレンコーの虐殺からジャコバイトの波乱が終結し、ハ
イランド・クリアランスも進んだ当時の状況を示唆しているのかもし
れない。彼らはパブに温かく迎えられるが、ここの朝食はひどく、大
麦ケーキは黴臭く、バターは食べられたものでなく、小麦パンは固く
て噛めず、わずか 4 個しかない卵も石のように固く茹でられていた。
しかし旅人は多く、中にエジプトから戻りフォート・ウィリアムに帰
る途中の人がいたというのは、ナポレオンとのナイルの戦いを戦った
兵士かもしれない。ドロシーは他と同様、ここでもこのパブの内外の
様子を事細かに記録している。
こうして兄妹は Inveroran からティンドラム(Tyndrum*)に向かう。
現代のティンドラムは A82 道路を南に下っていくと A85 が西から合流
する地点の少し東にあり、鉄道駅はアッパー・ティンドラムとティン
ドラム・ロウアーがあり、この南東のクリアンラリッチ(Crianlarich*)
がフォート・ウィリアムとオーバンへの分岐点である。13 兄妹はティ
ンドラムに午後 2 時頃到着したが、木々も少なく寒々とした場所と
の印象を得た。彼らはコールリッジが自分たちと別れた日にここに
寄り、エディンバラではなく、フォート・ウィリアムに向かう前に
食事をしたことを知る。すれ違うことはなかったが、兄妹はコール
リッジと逆方向に進んでいたのである。こうして二人は 5 時頃にティ
ンドラムを発ち、ロッホ・ドックハート(またはドチャート:Loch
Dochart*)を経て同名の川沿いに東へ進み、夕刻の 8 時と 9 時の間
にクリアンラリッチとキリンのほぼ中間点の、この日の宿に到着した。
辺りの風景や静けさ、宿の立地に彼女は喜んだが、夕食は悪く、翌朝
の不当な料金、召使の悪い態度を批判し、その下に N.B. として「こ
の日の朝旅行者たちはこの宿のことを高く評価していた。(186)
」と
付記してある。さらにRecollections 1874 年版編者はこの宿に一言「Suie」
― 132 ―
という脚注をつけているが、これは兄妹の宿泊した宿が、18 世紀に
ハンティング・ロッジとして始まった Suie Lodge Hotel(Crianlarich,
Stirlingshire)のことだという意味のようである。14
9 月 5 日月曜、朝 6 時に二人はミルク一杯を飲んで宿を出発、 8
マイル先のテイ湖畔(Loch Tay*)にあるキリン(Killin*)を目指したと、
ドロシーは記している。ドックハート川を常に左にする道のりはドロ
シーに北イングランドを連想させたが、景色はあまり興味深くはなかっ
た。キリンまで残り 1,
2 マイルになると耕作地も見えて景色がよくなり、
テイ湖が見えてくるとドックハート川が流れ込んでいた。橋を三つ渡
りクラン・マクナブの埋葬地のある島を見て宿に至った。このあたり
を描写する彼女の次の文には詩的才能を感じさせる。
It has a singular appearance,and the place is altogether uncommon
and romantic — a remnant of ancient grandeur: extreme natural wildness — the sound of roaring water,and withal,the ordinary half-village,half-town bustle of an every-day place.(Recollections 1874,187.)
この場所は不思議な外見で、古代の壮大さの名残と言えようか、独特
でロマンチックである。この上なく自然な原生が残っている。轟く川
の水音、その上に半分村、半分町の日常的喧騒がある。
テイ湖西端の湖頭にあるキリンはスコットランドでも有数の美しい
環境にある村で、現代ではホテルも沢山あるので、彼らが泊った宿が
Killin Hotel か否かわからない。ドロシーが指摘するホテルの近くに
あるチャペルも、1876 年に建築の St Fillan's Episcopal Church,Killin
と関連があるかどうか確認できない。
翌朝の朝食後、彼女はこの流れ(the Lochay)の上流を歩いてみた
が平凡な小川となり、谷も狭いことを知る。馬の摂食も良くないので
しばらく待った後、彼らは 11 時頃に出発してテイ湖の南岸をケンモ
アまでの 14 マイルを進んで行った。キリンを出たあたりは村の喜ば
しい眺めが見え、豊かな緑の野、麦畑と森、そしてテイの谷の二つの
砂州、ドックハート川の谷、そしてもう一方の水が満ちた川の谷、そ
の眺めは山々で終わっていて非常に美しかったとしてある。対岸は住
民が少なく、耕作も盛んではないようだとしているが、現代では北岸
の方が開けていて道路も A827 がメイン・ルートで、南岸は National
Cycle Route 7 とあり自転車優先、一般の自動車は不都合で、大型車
の通行には適さない。当時は麦畑の収穫が喜ばしかったとしているが、
― 133 ―
現代は畑の様子はなく、森以外には羊の放牧地が多い。現代の南岸に
はところどころ民家が散在するが、ファームや B&B の瀟洒なコテー
ジが多く、Firbush Point Field Centre という、エディンバラ大学の水
上スポーツ施設や、南東端に近い岸に The Scottish Crannog Centre
がある。これは古代の湖上建築クラノッグを再現した有名な施設であ
る。15
兄妹はケンモアの町にあと 1 マイルという所で道路を外れて 4 分
の 1 マイルほど登って閉ざされた農園に案内される。これは Acharn
とその近くの滝のことのようで、ウェブサイトもあるが、16 現代で
はクラノッグ・センターの方が見所であろう。
ここでドロシーの旅行記著作の中断とその経緯について述べておき
たい。1874 年版、およびセリンコート版(1941)Recollections にもこ
の後著者ドロシーのメモランダムが挿入してあり、149 ページまでは
1803 年までに書いたこと、第 2 部の残りをいつ終えたか覚えていな
いが、1804 年の 2 月 2 日に再開したことを記している。また第 3 部
は 1805 年 4 月に始められ 5 月 31 日に終えたと書いている。これに加
え、1874 年版編者註が、この間彼女の愛する弟ワーズワス船長
(三男ジョ
ン、1772-1805)が 1805 年 2 月 5 日に「アバーギャヴェニー号」の難
破により溺死したことを説明している。よく知られているように、こ
の弟の死はワーズワス一家にとって幼い頃の両親の死以来の家庭悲劇
で、特に親しくしていて、何れ三人一緒にグラスミアで住もうと思っ
ていた兄のウィリアムと姉のドロシーにとっては耐え難く悲痛な出来
事であった。
弟の死の後、 4 月 11 日に至りドロシーはこの旅行記著作を再開す
る決心をし、その思いをメモランダムに残している。
April 11th,1805. I am setting about a task which,however free and
happy the state of my mind,I could not have performed well at this
distance of time; but now,I do not know that I shall be able to go on
with it at all. I will strive,however,to do the best I can,setting before
myself a different object from that hitherto aimed at,which was,to
omit no incident,however trifling,and to describe the country so minutely that you should,where the objects were the most interesting,
feel as if you had been with us. I shall now only attempt to give you
an idea of those scenes which pleased us most,dropping the incidents
― 134 ―
of the ordinary days,of which many have slipped from my memory,
and others which remain it would be difficult,and often painful to me,
to endeavour to draw out and disentangle from other thoughts. I the
less regret my inability to do more,because,in describing a great
part of what we saw from the time we left Kenmore,my work would
be little more than a repetition of what I have said before,or,where
it was not so,a longer time was necessary to enable us to bear away
what was most interesting than we could afford to give. (Recollections
1874,191.)
1805 年 4 月 11 日。私は、たとえ気持ちがいかに自由で幸福であった
としても、これほど時間が経ってしまっては、あまりうまくできそう
にない課題に取り掛かろうとしている。今から先、うまく続けること
ができるか全くわからない。しかし最善を尽くす努力はするつもりだが、
これまで狙ってきた、いかなる出来事でも、たとえ些細なことでも省
かないで、地方を詳細に描いて、対象が最も興味深い所で、読み手が
あたかも私たちと一緒にいたかのように感じるように書く、というこ
ととは異なる目的を掲げることとする。私はこの先最も嬉しかった場
面の様子だけを伝えたいと思う。平凡な日常の出来事は、多くが私の
記憶から去ってしまっており、また記憶に残っていても嬉しかったこ
と以外の思いの中から引っぱり出したり、記憶を解きほぐすことが困
難だったり、時には苦痛だったりすることは省きたい。これ以上のこ
とができないのは少なからず残念だが、ケンモアを出立した後私たち
が目にしたほとんどを描くことは、それまでの繰り返しとさほど変わ
らないし、そうでない場合には、最も興味深かったことを示すには私
たちが可能な以上の時間が必要となるであろうから。
1803 年のスコットランド旅行から帰宅したドロシーは勇んで旅行
記を書き始めたが、翌年には兄の第二子ドーラが生まれ、家族の切り
盛りが一層大変になった。またコールリッジはマルタから帰英しても
ケジックの家族には足が遠のき、ワーズワスの許にしばしば逗留して
いたが体調も悪く、彼の世話もドロシーたちが見なければならなかっ
た。おそらく彼女は暇を見ては第 2 部の終わり、テイ川河畔ケンモ
アに到着するあたりまで書いたが、その後弟ジョンの訃報に接したの
であろう。彼の死後彼女が気を取り成して再び旅行記を書き始めるの
に、 2 か月以上かかった。弟の死については無言だが、あの旅の喜
ばしい気分を家族や友人、知人と分かち合おうという当初の意図には、
家庭悲劇の影が差すこととなった。
確かに第 3 部の冒頭、1803 年 9 月 5 日月曜日のケンモア到着の
記述はそっけない。
「日没後にケンモアに到着した。(“We arrived at
Kenmore after sunset.” Recollections 1874,193.)」しかしながら、そ
― 135 ―
の先も辛抱強く書き続けられ、こうして第 3 部は 1 か月で書き終え
られた。おそらく完成後も彼女自身、およびほかの人々により写しが
書かれ、追加補正され、原稿の状態のまま友人、知人の間で回覧され
たのだろう。読んだ人々はその内容の興味深さに出版を勧め、ウィリ
アムもその見込みを 1822 年の手紙で表明している。しかし彼女自身
健康を失うなど様々な事情が重なり、結局彼女の没後 20 年近く経る
まで出版は実現されなかった。
Ⅳ ケンモアからブレア・アソール、ダンケルド
ドロシーの旅行記には、再開の第 3 部はケンモアの宿到着の後、
9 月 6 日、 火 曜 日、 朝 食 前 に ブ リ ダ ル ベ イ ン 公(Lord Breadelbane)の領地を散歩したことから記されている。ケンモアの宿につい
ての詳細は書かれておらず、現存しているかもわからない。ブリダ
ルベイン公とは年代から見ると、John Campbell, 1 st Marquess of
Breadalbane(1762-1834)のことのようである。17 彼女は高台からの
眺めがいいこと、河岸には高い木々が影をなしていることを述べてい
るが、散歩道の作りの趣味が良くないとの批判をしている。このあた
りのドロシーの美意識が注目されるが、彼女はあまりに人工的に手入
れされた造園を好まなかったようである。フランス風の幾何学庭園よ
り、18 世紀イギリスに普及していた風景庭園を好んだということか
と思われる。ブリダルベイン公の邸宅は Taymouth Castle18 といい、
ケンモアの村の北東、テイ川南岸の A827 との間にある。この地には
16 世紀の半ばから Balloch Castle があり、18 世紀から庭園ともどもブ
リダルベインのキャンベル家によって改装されるさ中にあり、ドロシー
らが訪問の当時、古い建物がまだ残っていた。彼女は新しい建物と庭
園をインヴェラリーのアーガイル公の邸宅と似ていると述べている。
こうしてワーズワス兄妹は朝食後ケンモアを出発、テイ川の谷に沿っ
て途中モネスの滝(Falls of Moness)に立ち寄り、カバノキ(birks
< birchs)の森の中にあるアバーフェルディ(Aberfeldy*)
、ウィー
ム(Weem*)の村を経て、ロジレイト(Logierait*)という村で食事
をしたとある。ロジレイトは現代の地図ではタメル川河畔、この地区
の主要道 A 9 の近くにあり、南にダンケルド、バーナムからパースに
至り、北はピトロクリー(Pitlochry*)からブレア ・ アソール(Blair
― 136 ―
Atholl*)に至る。A 9 は北にケアンゴームズの外縁を経てインヴァネ
スにまで至る。コールリッジは 9 月 7 日にインヴァネスを出て 10 日
にケンモアを経てこのあたりを通過し、11 日にパースに至っているが、
ほんの数日の差で、兄妹と偶然再会するということはなかった。
ロジレイトの西でテイ川は東向きから南南東向きに方向を変え、南
でタメル川(Tammel*)が合流している。A827 が A 9 と合流する地
点でもある。彼らが食事をしたところで案内された、昔のスコットラ
ンドのある王族の館跡については現代全く情報がない。この後橋のな
かった当時の彼らはタメル川を渡し船で渡り、より山深そうなタメル
川上流に向かった。この先には当時から現代に至り有名な公爵城のあ
るブレア・アソールがある。彼らはタメル川とガリー川(Garry*)の
合流点にあるファスカリー(Fascally)まで行くが、行き暮れて馬も
疲れていたので、キリークランキー峠(Killicrankie Pass*)の手前半
マイルほどの所で宿を探すことにした。しかし他の旅人に教えられた
パブで宿泊を断られた彼らは暗い中キリークランキー峠を越え、よう
やく 10 時過ぎに宿泊施設を何とか見つけた。酔客が多く騒々しい中、
彼女はよく眠れたと記している。
翌 9 月 7 日水曜日の朝、早起きした兄妹はアソール公爵の庭園
とブレア城を 3 時間にわたり見物した。現代ではブレア城とその内
部が観光名所だが、当時は城内の公開はなく、公爵領の庭園とプレ
ジャー・グラウンドが見所であったとみられる。二人は庭師に案内さ
れ、たくさんの流れや滝、丘、山、谷、広い野原、川を見たが、当時
古い森も農場も殆どなく、装飾過剰の所もあり、全体的に優雅さに欠
けると記されている。彼らは庭番から、スコットランドにカラマツを
導入したのはアソール公だと聞く。しかしウィリアムの『湖水地方案
内』(1810-25)にもみられるが、兄妹は人工林より自然林を好んだ。
彼らは特にカラマツやモミの木など、同一種の人工的な森を嫌ったよ
うである。彼らは、ロバート・バーンズがこの城を訪問したときに座っ
たと言われる同じ木陰に座り嬉しく思ったが、白いノロ(whitewash)
が塗られて現代化された城の外観を批判する。20 ~ 21 世紀の現代に
見れば、ヨーロッパの城や大邸宅によくある白亜の豪邸で、青空との
対比が美しいと思われるが、18 ~ 19 世紀には過度に派手で趣味が悪
いと思われたようである。
― 137 ―
The castle has been modernized,which has spoiled its appearance. It
is a large irregular pile,not handsome,but I think may have been picturesque,and even noble,before it was docked of its battlements and
whitewashed.(Recollections 1874,200.)
城は現代化され、それが外観を損なっている。それは大きな不規則な
堆積で、美しくないが、胸壁を取られ白いノロが塗られる前はピクチャ
レスクだったかもしれない、そして高貴でさえあったかもしれないと思っ
た。
ブレア城。
2014 年 8 月 25 日
安藤撮影
ブレア・エステートへの門:この奥に
駐車場と城への案内所がある。
(同左)
ドロシーが庭番から聞いたという記録では、アソール公自身が文芸
や芸術、学問というよりは狩猟を主とするスポーツを好むタイプの貴
族であったと思われる。現代の目からはそれなりに美しくよく整備さ
れた城とその所領と思われるが、ウィリアムがやはり『湖水地方案内』
で指摘しているように、輝くような白い壁は景観を損なうとして嫌っ
たようである。これに対して彼らは鄙びた石造りの廃墟を大いに好ん
だ。ドロシーが「ブレアで私が見たもっとも興味深いものはチャペル
で」と述べているのは Old Blair の嘗ての教区教会 St Bride's Kirk の
ことのようで現代でも屋根の抜けた教会の廃墟とカークヤードが残っ
ている。ダンディーの墓というのは、John Graham of Claverhouse,
‘Bonnie Dundee’(d 1689)のそれで、この廃墟の通路の下の納骨堂に
あるという。彼は名誉革命後のイングランドとジャコバイトの争いの
中、キリークランキーの戦いで流れ弾に当り亡くなり、近くのこの St
Bride's Kirk に葬られたという。1825 年に至り、サー・ウォルター・
スコットが彼を讃えて “Bonnie Dundee” という詩を作り曲もつけられ
歌にもなったという。19
― 138 ―
ブレア・アソールは兄妹が計画していた予定のコースの最北東端だっ
た。これで二人は希望通りハイランドを一巡したのだが、まだ去り難
ゆ か り
くこの地方でもめぼしい場所を探し、バーンズ詩の所縁のブルアの滝
(The Falls of Bruar)
、ロッホ・ラノッホ(Loch Rannoch)の名が挙
がった。前者はブレア城から西に 5 キロ余り、後者はタメル川上流、
タメル湖から十数キロ西にあった。
ブルアの滝はケアンゴームズを水源とするブルア・ウォーター(川)を、
ガリー川との合流点から 1 キロほどさかのぼった所にある。1700 年
代から観光客に注目され、1787 年にロバート・バーンズが訪問して
そのピクチャレスクな美を讃えたが、木々が少ないことが欠点で、
それを訴えた詩 “The Humble Petition of Bruar Water to the Noble
Duke of Atholl” を作った。この詩は一帯の領主第四代アソール公ジョ
ン・マレイ(John Murray)に植林を訴えて宛てられたもので、公爵
は 1796 年にバーンズが亡くなった後、この地区の森の整備に取り掛かっ
たという。ワーズワス兄妹は、この滝に左程感動しなかったようだ
が、今日 A 9 から B8079 の西端に入ると The House of Bruar by Blair
Atholl があり、Blair Antiques と The House of Bruar がある。この施
設は主にスコットランド風の現代服を販売する場所のようだが、この
あたりからブルアの滝まで散歩道が整備されているようで全長 1.5 マ
イル、アッパー・ブリッジまで標高差 400 フィートの道のりは素晴ら
しい散策だという。20
彼らはガリー川を渡り、道なき道を通り高原を越え、谷間が見えて
きたあたりで案内人と別れてロッホ・ナノッホに向かったが、道があ
まりに悪く、またそこからキリークランキー峠近くのタメル川がガリー
川に合流する近くのファスカリーに 8 マイルと知り、前の晩に断ら
れた同じパブで宿泊を頼むこととした。こうして彼らはタメル湖の北
岸を経由して、タメル川とガリー川が合流する少し上流でガリー川の
橋を渡り、くだんのパブに着くが、この宵も頑として宿泊を断られて
しまう。彼らは前夜宿泊したブレアの宿まで 5 マイル戻ろうか、あ
るいは通過してきたタメル湖畔の村のパブに行こうかと迷い後者を選
んだが、夜も更けてきたので通りかかる家ごとに訪ね歩くうちに、一
人の貧しそうな女性のコテージに泊めてもらうこととなる。
ドロシーは再び貧しいハイランダーの家に世話になった様子を描い
ている。彼女は紳士の邸宅の門でメッセージや手紙を受け取る仕事を
― 139 ―
家賃なしの代わりに請け負っていた。しかし彼女はその紳士が傲慢で
尊敬できないことなどを語った。この翌朝、兄妹は出発間際にこの紳
士がやってきて、二人を泊めたことを口汚く罵るのを目撃した。しか
し女はこの主人をほとんど無視する様子であった。彼女は紳士の恩情
にあふれた母親に長らく仕えていたのであった。この女性はワーズワ
ス兄妹に別れを惜しみ、再度こちらへ来るときは是非訪れるようにと
さえ申し出ていた。
これに先立ち 9 月 8 日木曜朝、兄妹は朝食前にキリークランキー
峠まで行き、景色を賞味した。この峠が軍事上の歴史で有名なことは
誰でも知っているとドロシーが述べているのは、すでに示唆した名
誉革命時にダンディー公が戦死したキリークランキーの戦いである。
この時の経験をもとに、ワーズワスはこの年 10 月に入りソネット、
“In the Pass of Killicrankie”(‘Six thousand Veterans practised in War's
game’)を創作する。スコットランドの長い歴史には、どの観光地に
も歴史的な謂れがあるように感じるが、このキリークランキーはガリー
川河畔が特に美しい風景で、秋の紅葉の見事さは多くの写真から想像
できる。
キリークランキーの近くで泊めてもらった民家を辞した兄妹は、
この日テイ川を南下し、17 マイルほど南のダンケルド(Dunkeld*)
に午後 3 時頃至る。ダンケルドはパースの北 15 マイル、テイ川が北
から東に迂回し、また南に曲がる北岸に位置している。現代では A 9
道路から A923 に入りリトル・ダンケルドから北にテイ川を渡り、ダ
ンケルドに入ると左手に大聖堂がある。ダンケルド・カセドラルは
1803 年当時と同じく、現代でも半分が廃墟、東半分が現役の教会と
して使われている。このような状況はスコットランドでよくあるよう
だが、廃墟を廃墟の状況に留めるのも保全が大変なようである。しか
し兄妹はこの状況をあまり好まなかった。
兄妹がダンケルドにやってきた目的は大聖堂というよりは、アソー
ル公のプレジャー・グラウンド、庭園、森、そこを流れる滝とその眺
望のための工夫等を見ることだったようである。兄妹はディナーの後
公爵の庭師を呼びにやり、庭園を散歩してブランの滝まで案内しても
らった。ブラン(Bran)川はテイ川に南岸から注ぎ込む渓流で、現代
は River Braan と綴り、滝のあるあたりを “The Hermitage” と呼んで
― 140 ―
ダンケルド・カセドラル:現代でも
写真手前東半分は現役の教会、西半
分が保全廃墟。
ダンケルド・カセドラル敷地よりテイ
川とダンケルド橋を臨む。
ともに 2014 年 8 月 25 日
安藤撮影
いるようである。彼らはフェリーでテイ川を渡りブラン川の傍を進ん
で行ったようであるが、Google Map 上から “The Hermitage” にアク
セスでき、このあたりの写真が掲載されていて、その中でも数多い滝
がハイライトのようである。当時テイ川の南岸一帯もアソール公のプ
レジャー・グラウンドだったようで、ドロシーが滝を見る前に「小さ
な建物の部屋に案内された ・・・・・」とあるのがこの Dunkeld Hermitage のことのようだが、現代ではスコットランドのナショナル・トラ
ストが運営していてウェブサイトもある。21
サイトにはオシアンの人物画があり、またオシアン・ホールには鏡
を使った美術作品(“The mirrored Artwork”)があると指摘してあり、
ドロシーの記述と関連があるかと思われる。トラストのサイトには、
この “Hermitage” 一帯が 18 世紀のスコットランドでは最も重要なピ
クチャレスク・ランスケイプのひとつだったとしている。またこの魅
力的な森の散歩道は、みごとにも巨大なダグラス・ファー(モミの木)
の林立する中、ブラック・リン滝に面した驚くべき偽ゴシック様式
(amazing folly)のオシアン・ホールに至ると記してある。おそらく
兄妹もこの施設に案内されたのだろう。ワーズワスは後に “EFFUSION
IN THE PLEASURE- GROUND ON THE BANKS OF THE BRAN,
NEAR DUNKELD” という 130 行弱の詩を創作する。
“The Hermitage” のサイトによるとこのホールは 2007 年に刷新され、
オリジナル・デザインの目的であった鏡のアートワークの衝撃的イルー
ジョン、驚異を再生したという。このブラン川沿いの散歩道一帯はブ
― 141 ―
ラック・リン滝を中心に原生林の自然に満ちているがダグラス・ファー
から作られたカナダ原住民のトーテン・ポールもあるという。このス
コットランドとは関係のない最後の光景をもし見たならばワーズワス
は嘆いたことだろう。トラストのサイトには、過去の有名な訪問者と
して筆頭にワーズワス、次いでヴィクトリア女王、さらにメンデルス
ゾーンやターナーの名も挙げてある。
この後兄妹はブラン川を離れ、アソール公の森を南東方向に進みバー
ナムに至る。現代ではダンケルド/バーナムの鉄道駅があるバーナム
はリトル・ダンケルドの東にあるが、
『マクベス』でよく知られた地
名ながら、もはや兄妹の時代にすでに森はなく、町になっているとし
てある。現代ではバーナムの駅と A 9 道路の北側に Birnam Arts and
Conference Centre があり、これに隣接して Beatrix Potter Exhibition
and Garden があるが、施設としては矮小である。ポター一家が毎夏湖
水地方に行くようになる前にはスコットランドに行っていたのだが、
実はその本拠地がこのダンケルド一帯で、バーナムの町とはテイ川
をはさんだ北岸の Eastwood House がその滞在地だったようである。22 ダンケルドの町の中央から約 1 マイル東にあるヴィクトリア朝時代の
ヴィラ、イーストウッド・ハウスは現在ではセルフ・ケイタリングの
アコモデーションだが、元来アソール公の子弟のガヴァネスをしてい
た女性の住居だった。1851 年~ 1874 年まではアソール公の弟 James
Murray が住んでいた。彼の死後この建物は 1930 年代までアソール公
により貸し別荘として貸し出されていた。1893 年の夏のホリデーに借
りたのがベアトリクスの父親ルパート・ポターで、当時彼女は 27 歳、
このスコットランド滞在時に当時熱中していたキノコの写生をし、ま
た後にピーター・ラビットとなる絵手紙をここから送った。20 世紀に
入ってから第 8 代アソール公がこのイーストウッドに住むようになり、
貸し出しは終わったようでポター一家はスコットランドに代わり湖水
地方を毎年の避暑地としたようである。政治家としてならしたアソー
ル公夫妻はロイド・ジョージやスタンリー・ボールドウィンをこのイー
ストウッドでもてなしたという。公爵夫妻が亡くなった後 20 世紀半ば
からイーストウッドは Pitlochry Estates の一部になったそうである。
以上全て Eastwood House のサイトにある情報による。
翌 9 月 9 日、金曜の朝、ワーズワス兄妹は再び公爵の庭番に案内
され領地と邸宅を見て回る。この日はテイ川の北側のようである。テ
― 142 ―
イ川北岸にあったアソール公のサマー・レジデンスは現代では 4 つ
星のヒルトン・ダンケルド・ハウス・ホテルになっている。領地への
入口はダンケルド橋を越えて A923 を北に 350 メートルほど進むと道
路の左にある。1803 年当時には庭園内にリンゴやナシの果樹があり、
兄妹は自由に果実を与えられたという。ドロシーによれば、邸宅はこ
じんまりとした紳士の家で緑の芝生の中白い壁がコントラストをなし
ていたようだ。現代ではカントリー・ハウスとして宿泊その他の活動
に供されており、ホテルのサイトにはウィリアムとドロシー・ワーズ
ワスが 1803 年と 1814 年に、その他ベアトリクス・ポター、ラファエ
ル前派の画家ジョン・エヴェレット・ミレイが訪問したこと、ミレイ
はダンケルドの風景を水彩画に残していること、ポターのキノコの絵
がパース博物館にあることなどが記されている。さらに 1842 年 9 月
6 日にヴィクトリア女王が随員とともにダンケルドを訪問し、あた
りの印象を記録していることも付記している。また、ダンケルドはか
つてピクト人の王国の首都だったこともあり当時はカレドン(Caledon)
と呼ばれていたことも記している。
Ⅴ ダンケルドからキャランダー経由再びトゥロサックスへ
ワーズワス兄妹はダンケルドも見納め、決めかねていた先の旅程、
直接パースとエディンバラに行くか、迂回して再度トゥロサックスを
訪れるかの選択肢のうち、後の計画に決めた。そして朝食後クリーフ
(Crieff*)に向かい、そこで一泊して次の夜はキャランダー(Callander*)に行くことにした。彼らは先ずフェリーでテイ川を渡り、現代の
A822 沿道を Braan 川に沿って進んで行った。振り返るとダンケルド
の町が丘の下に、耕作地に囲まれて綺麗に見えたが、修道院の良い遠
景は見えなかったとしている。この先、ガイドの庭番によると、スコッ
トランドで最も人の多い谷という、Amulree の谷を通過する。これは
A822,オールド・ミリタリー・ロードが Braan 川を渡る橋の北側の町
の名に残っている。こうして兄妹はアマルリー(Amulree*)
、ニュー
トン(Newton*)
、モンジー(Monzie*)
、クリーフと進んでいくが、
この間の景色は素晴らしく、ドロシーは細かに記録している。このあ
たりにオシアンが眠るという伝説を聞き、ウィリアムは “GLEN-ALMAIN; OR,THE NARROW GLEN” を創作し、ドロシーは全文を引用
― 143 ―
している。
翌 9 月 10 日土曜日、兄妹はクリーフの宿を朝早く朝食抜きで発ち、
ロッホ・アーン(Loch Erne*)方面に向かう。クリーフの町は A85 沿
い、パースの西、ロッホ・アーンとの中間点にある。ドロシーはスコッ
トランドで最も有名な谷の一つ、ストラス・アーン(Strath Erne)
を通過することになると書いている。Strathearn はクリーフの A85 を
越えた南側の町と推定される。現在この地名は地図上には残っていな
いが、施設名にこの地名が残存している。なお、Strath とはスコット
こくしょう
ランド語で川が流れている谷床平野を意味する。彼らは朝食をひどく
汚い小さなパブリック・ハウスでとったあと丘を登り、内務大臣も務
めたメルビル卿ヘンリー・ダンダスの領地を見ながら西に進み、ロッ
ホ・アーンの湖畔を進んだ。湖のあたりは兄妹が数日前に通過したテ
イ湖畔から 10 キロ余り南になり、現代では A85 がロッホアーンヘッ
ド(Lochearnhead*)から北に迂回している。兄妹はロッホ・アーン
の湖頭で食事をして、そこから南に下り、現代の A84 あたりの道に
入り Strath Eyer という谷に入ったとしているのは、現代のストラサ
(Strathyre*)のことかと思われる。次に彼らは蛇行を意味するロッホ・
ラブネイグ(Loch Lubnaig*)に至り、さらにほとんど暗くなる頃に
この日の目的地キャランダーに到着した。
ワーズワス兄妹はロッホ・アーンから南下してキャランダーに到着
したが、現代ではこの町がロッホ・ローモンド・トゥロサックス国立
公園の東南からの入口にあり、スターリングからさらにグラスゴウや
エディンバラにも車なら 1 時間ほどで、それぞれの都市のベッドタ
ウンになりつつあるようだ。町の北にハイランド・バウンダリー断層
があり、その一部が岩場となっているのでドロシーが「キャランダー
にあと数マイルになり、壮大な地域に入ってきた」と述べているのは
このキャランダー・クラッグズのことを言っていると思われる。示唆
されているレニー・パスは現代の A84 道路が Leny Road と呼ばれるあ
たりかと思われるが、今では家が目立っている。
第 5 週に入った翌 9 月 11 日、日曜日、兄妹はキャランダーからトゥ
ロサックス地区を周遊する。アクレイ湖まで馬車で行き、そこから先
徒歩を予定した彼らは馬と馬車をキャランダーに戻すための少年を一
人同行していた。彼らはカトリン湖、アクレイ湖の下流になるヴェナ
チャー湖(Loch Vennachar*)を先ず通過する。彼らが再び訪れよう
― 144 ―
と思い立ったほどの美しさを示すのはアクレイ湖からカトリン湖の
トゥロサックス地区だが、ヴェナチャー湖の北には 879m のベンレディ
Benledi23 が、 そ の 他 に も Ben Lomond,Ben Lui,Beinn Challuim,
Ben More,Ben Vorlich など、1000m 前後の高さだが急峻な山々が周
辺に聳え、丘の間を縫うように点在する湖群を頭上から閉じ込めるよ
うな風情がある。現代の道路では、キャランダーから A84 を Auld Toll
HouseからA821に入り、Samson’s Stoneのある丘の麓を西に進むとヴェ
ナチャー湖の北岸に出る。こうして、コールリッジが歩いたカトリン
湖の道をたどるために、すでに述べた家々まで兄妹は馬車で進んだ。
二週間前と同じ場所でも時間帯その他の条件により印象が非常に異な
ることにドロシーは言及している。現代の道は A821 がアクレイ湖の
北西で湖に沿って南に曲がり、A821 のままながら Duke’s Pass と呼ば
れていて、アバーフォイル(Aberfoyle*)の先で A81 につながっている。
アクレイ湖北東の分岐点から、カトリン湖の東端のフェリー乗り場ま
では車で行けるが、駐車場から先のカトリン湖北岸の道は現在も一般
車両の通行はできないようである。コールリッジが歩いた道は現在貸
自転車等で走行できるようである。24
ワーズワス兄妹も、二度目のカトリン湖は道ともいえない道を歩い
て進んだが、
「この夕刻時ほど楽しく旅したことはない。」と述べてい
る。湖は完全に穏やかで、空気は華美で柔和だった。二週間前は雨模
様だったので陰鬱な印象だったが、今回は好天だったようである。
太陽は沈んだがフェリーマンの小屋まで四分の一マイル、道は穏やか
な湖岸、兄妹は日曜の夕方の散歩と思しい二人の小奇麗な服装の女性
に会う。その一人が親しげで優しい口調で、“What! you are stepping
westward?” と語りかける。兄妹はこの辺鄙な場所でこの素朴な言葉
をかけられ、表現できない感動を覚える。西の空には、まだ沈んで間
もない太陽の光が残っていた。この時に言わずと知れたあのワーズワ
スの有名なスコットランド詩のインスピレーションが形成されたので
ある。詩自体は二人がグラスミアに帰ったずっと後に書かれるが、ド
ロシーはここでその全文を引用している。
こうしてワーズワス兄妹は宵もふけて二週間前に世話になったカト
リン湖畔のボートマンの小屋に至り、初めての時に劣らぬ歓迎を受け
て、同じように幸せな気分で宿泊した。
1803 年 9 月 12 日月曜日、ボートマンの小屋で心地よく目覚めたド
― 145 ―
ロシーは窓から丘の上で太陽が輝いているのを見て歓喜する。この日
彼らは二週前と同じカトリン湖岸を再度散策した後、ロッホ・ローモ
ンドを横切り、湖をグレンファロック(Glenfalloch*:Loch Lomond
より少し北の地名)まで行き、湖頭からグレンガイル(Glengyle*)
まで山々を越え、谷を下りマクファーレン家の邸宅傍を通過しフェ
リー・ハウスに戻り、もう一泊する予定だった。前回の一往復に加え
3 度目となるルートでは、住民が畑で働いている様子が見られた。
現代では押しなべて英国全土でも牧草地や耕作地で人を見かけること
はめったになく、隔世の感がある。
兄妹はロッホ・ローモンドを横切るときに再度インヴァースネイド
のフェリー・ハウスに立ち寄る。 “To a Highland Girl” の娘たちには
会えなかったが、この家の「善良な女」に再度誠実に持て成され、
二週前にここを出立した 2 日後にコールリッジが忘れた時計を取り
に来たことを聞いた。彼は 29 日に兄妹と別れた後、ロッホ・ローモ
ンドを再度渡りインヴァースネイドのフェリー・ハウスに来たことと
なる。書簡等によると、彼はこの後 8 月 30 日 Garabal、 8 月 31 日に
Inveroonan を通過しているがこれらの地名は現代の地図では出てこな
い。この後 9 月 1 日には兄妹が 2 日後の 3 日に泊ったキングズ・ハ
ウス・インに泊っているから、おそらく現代の A82 に沿ってグレンコー
に向かったと思われる。なおコールリッジはこのホテルで出会ったド
ラモンド博士という人物の助言に従い、インヴァネスまで行く決心を
する。トマス・グレイも亡くなる前年に湖水地方の旅をしているが、
当時は病気、特に弛緩性の痛風などの病気には歩くことが治療となる
と思われていたのである。フェリーマンとその妻と接触し、彼らはそ
の貧しさに同情するが致し方ないことを知る。
彼らはグレンファロックに 9 マイルの所でボートを降り、ロッ
ホ・ローモンド湖岸を北に向かう。この辺りで “To barren heath,
bleak moor,and quaking fen,
” で始まるワーズワスのスコットラン
ド詩 “SUGGESTED BY A BEAUTIFUL RUIN UPON ONE OF THE
ISLANDS OF LOCH LOMOND,A PLACE CHOSEN FOR THE RETREAT OF A SOLITARY INDIVIDUAIL,FROM WHOM THIS HABITATION ACQUIRED THE NAME OF ‘THE BROWNIE'S CELL’” のイ
ンスピレーションを得たようだが、The Brownie’s Cell という場所も
不明である。なお、Brownie とはスコットランドと北イングランドで
― 146 ―
信じられていた妖精あるいはゴブリンのようなものである。
ワーズワス兄妹はグレンファロックに午後 1 時から 2 時ころに到
着したとしている。Glenfalloch という地名は現代の地図などの情報
では、村や集落の名としては見当たらないが、ロッホ・ローモンド北
端湖頭から流れの上手がファロック川(River Fallock)で、A82 沿い
の Inverarnan から Crianlarich あたりの谷をグレン・ファロック(Glen
Fallock)というようである。An Caisteal と Beinn Dubhchraig の山の
間にあり、近くにはグラスゴウ郊外からフォート・ウィリアムに至る
95 マイルの歩行者道路 West Highland Way があるという。ドロシーも
「ここは村ではなく、 4 マイルほどの長さの谷で数軒の小屋が点在す
るだけで、中央部は大変緑が濃く、平坦で木々が生い茂っている。ずっ
と上の方では谷が非常に狭い二つに分かれ、大地主の家がある。敢え
て言うが美しい場所だ。
(It is no village ; there being only scattered
huts in the glen,which may be four miles long,. . . : the middle of
it is very green,and level,and tufted with trees. Higher up,where
the glen parts into two very narrow ones,is the house of the laird; I
daresay a pretty place. Recollections 1874,226)」と述べている。この
あたりからは特に背後にベン・ローモンドの眺めが美しく、湖西のラ
スあたりから見たのとはまた異なった風情だとしている。ボートマン
はこの景色ゆえに兄妹をここへ案内したのだろう。彼らは川を渡り反
対側の急峻な山に登った。残念ながら案内のハイランダーは、「ここ
は私が 20 年前に来た時とは大層変わってしまった。
」と兄妹に語った。
かつてはこの山頂近くにもひと家族の夏の住まいがあり、谷間の冬の
住まいと住み分け夏の間は山の上でヤギを飼育していた。建物は今や
石の堆積しかなかったというが、これもハイランド・クリアランスの
結果かもしれない。
この後彼らはカトリン湖近くのグレンガイルまで下っていき、マク
ファーレン氏の地所を通過した。この谷間にはこの家が唯一の建物で、
彼らが訪問して在宅を尋ねたが、メイド以外はすべて不在であった。
彼らはまた、ロブ・ロイの墓があると教えられた墓地を訪れるが、一
般的に信じられているロブ・ロイの墓はロッホ・ヴォイルの下手側の端、
バルクイダ(Balquhidder*)の the Kirkton of Balquhidder に今も現存
する。グレンガイルの人々は兄妹にグレンガイルの地の情報を伝え、
ワーズワス自身もそれを真に受けてスコットランド・ポエムズの一つ「ロ
― 147 ―
ブ・ロイの墓」を創作した。最近の情報では、毎年何千人もの旅行者
を引き付けるバルクイダの墓の方が信憑性に欠け、マクグレゴール一
族のプロパガンダになるものだとし、マクラレン一族は DNA 鑑定の
必要もほのめかしているともいう。25 ドロシーはここで 29 スタンザ
にわたる “ROB ROY'S GRAVE”(“A famous Man is Robin Hood,
”)全
体を引用している。
この日 9 月 12 日もだいぶ遅い夕刻時になりボートの準備ができ、
兄妹は再度カトリン湖上を遊覧する。星が現れ始め、それでいて西に
はまだ日の明かりが残り湖は完璧に静かであった。湖岸の道からは見
えない高い丘の岸壁や湾入した岸部の光景が夢にも見ない新しい地を
見るかのようだったと、ドロシーは記している。夕刻時だっただけに、
岩やその湖上に写った姿が一つの塊を成し、どちらの表面も等しく明
瞭で、彼らのボートの動きが乱す水面だけが揺れていた。空には雲も
なく、彼ら以外に動くものもなく、丘からの渓流もかすかな音をたて
るだけであった。この宵の短い湖上遊覧にドロシーは類まれな喜ばし
い経験をしたと語っている。こうしてトゥロサックスを再訪し、期待
通りの体験をして彼らは夏のホリデーに満足して熟睡した。
翌 9 月 13 日火曜日も良い天気で、ドロシーは朝食前にあたりを散
歩して戻ると、隣人の老婆が暖炉の傍に座っていた。彼女は若い頃の
話をし、守備隊に駐屯していたイングランド人の兵士と結婚し、子供
をたくさん儲けたがすべて亡くなるかあるいは外国に行ったことを語っ
た。彼女は生まれ故郷に戻り、ここ何年か住んでいるが、隣人に親切
にされているのでどこよりも快適に生活しているという。何気ないこ
のエピソードにもこのトゥロサックスの地の、自然美だけではなく住
民の心温かい雰囲気を伝えるものがある。
朝食後兄妹は女主人に最後の別れをして、彼女の夫に伴われて再び
キャランダーに向かい徒歩で出発した。彼はロッホ・ヴォイルの生ま
れで湖の湖頭を通りかかったとき、近くに自分の家族 MacGregor 一
族の埋葬地があると語った。MacGregor は長くこの地区を所有して
いたクランで、ボートマンもこの家系に属し、少なからず祖先の誇り
を述べたのである。この埋葬地はいわゆるロブ・ロイの墓がある所で
はないかと思われるが、これについての詳細は語られていない。
兄妹はロッホ・ヴォイルまでボートマンに案内され、ここで彼と別
れたようだが、その理由はカトリン湖畔から数マイル北東のヴォイル
― 148 ―
湖湖頭までがほとんど道なき道だったからのようである。現代の地
図にも道らしきものは見られない。一方バルクイダから 2 マイル前
後東に現代の A84 道路があり、兄妹はおそらくこの道に沿って Strath
Eyer(Strathyer*)と Loch Lubnaig を経由しキャランダーに至ったと
思われる。ドロシーは兄が Thomas Wilkinson の Tour in Scotland の美
しい文に触発されたと語っているが、このカトリン湖からヴォイル湖
周辺の畑で働く人に、スコットランド詩の中でも特に有名な秀作、“The
Solitary Reaper” のインスピレーションを得たと思われる。この素朴
な一作こそがワーズワスのスコットランド詩の最高作と言えよう。
Behold her single in the field,
Yon solitary Highland Lass,
Reaping and singing by herself;
Stop here,or gently pass.
Alone she cuts and binds the grain,
And sings a melancholy strain.
Oh! listen,for the Vale profound
Is overflowing with the sound.
No nightingale did ever chaunt
So sweetly to reposing bands
Of travellers in some shady haunt
Among Arabian Sands;
No sweeter voice was ever heard
In spring-time from the cuckoo-bird
Breaking the silence of the seas
Among the farthest Hebrides.
Will no one tell me what she sings ?
Perhaps the plaintive numbers flow
For old unhappy far-off things,
And battles long ago;
Or is it some more humble lay
Familiar matter of to-day
Some natural sorrow,loss,or pain
That has been,and may be again?
Whate'er the theme,the Maiden sung
As if her song could have no ending;
I saw her singing at her work,
And o'er the sickle bending;
I listen'd till I had my fill,
And as I mounted up the hill
The music in my heart I bore
Long after it was heard no more.
― 149 ―
ドロシーが “The Solitary Reaper” の後に言及している Glen Finlas
とは現代の Glen Finglas のことかと思われる。ヴォイル湖の南、アク
レイ湖の北東二キロほどの所にグレン・フィングラス貯水池があり、ヴォ
イル湖との間がかつての王室の森 Glen Finlasだったかと思われる。ヴォ
イル湖の先では谷は広くなり、人もよく見かけ、牧草地には牛の放牧
が見られた。こうして彼らは数日前と同じ、Loch Erneからキャランダー
へのルート、再び Strath Eyer(Strathyre*)の入り口となる所を横切っ
た。 4 時と 5 時の間、キャランダーにはまだ 10 マイルほど、ずっと
徒歩の彼らは疲れ切り、ラブネイグ湖(Loch Lubnaig*)のかなり手
前のパブに躊躇いつつも宿泊することにした。スコットランドの道端
のパブリック・ハウスの不潔さには辟易していた彼女らも過労には勝
てず、女主人の様子がよかったので小屋同然の家ながらこの夜を託す
ことにしたのである。彼女はゲーリック語が母語だが英語も流暢な女
主人で、ドロシーは彼女ともいろいろ話し込んだ。
翌 9 月 14 日水曜日、兄妹は早起きして朝食前に出発。 8 時過ぎに
キャランダーに到着し、朝食を摂って後に、この日は18マイル先のスター
リングまで行く予定であった。キャランダーを南に下ると山はなくな
り、人口も多い地域に入って行った。キャランダーとスターリングの
間にはドゥーン(Doune)の町があり、その少し先でラブネイグ湖と
ヴェナチャー湖(Loch Venachar)の両方の川下となるテイス川(River
Teith)の橋を渡った。ドロシーたちは訪れなかったが、
「川の上流に
・・・・ 廃墟の城がある。
」と記しているのは 14 世紀以来の Doune Castle
のことのようで現代でも観光地として保存されている。26
こうして彼らはハイランドの旅を終えスターリングに入った。
以下エディンバラを通過してサー・ウォルター・スコットと出会う
経緯を次稿にて扱いたい。
― 150 ―
註:
1 2009 年の戦闘機事故については BBC News:
‌http://news.bbc.co.uk/ 2 /hi/uk_news/scotland/glasgow_and_west/8130528.stm
ダウンロード 2015 年 8 月 15 日。
2 The history of Cairndow Stagecoach Inn の情報:SOME INTERESTING
QUOTES:http://www.cairndowinn.com/the-inn.php
3 Inveraray Castle の情報:
http://www.inveraray-castle.com/clan-campbell-introduction.html
4 Kilchern Castle の情報:
‌h ttp://www.historic-scotland.gov.uk/pr oper tyr esults/pr oper tydetail.htm?PropID=PL_167
5 Bonawe Historic Iron Furnace の情報:
‌h ttp://www.historic-scotland.gov.uk/proper tyresults/proper tyover view.htm?PropID=pl_036&PropName=Bonawe%20Historic%20Iron%20Furnace
6 Dunstaffnage Castle の情報:
http://www.historic-scotland.gov.uk/propertyabout?PropID=PL_111
7 Castle Stalker の情報:
‌http://www.castlestalker.com/wp/about/
http://www.castlestalkerview.co.uk/index.php#about
8 グレンコーの虐殺の情報:
‌http://www.educationscotland.gov.uk/scotlandshistory/unioncrownsparliaments/massacreofglencoe/ 9 Kings House Hotel の情報:http://www.kingshousehotel.co.uk/ 10 引用元は Recollections 1874, ウェブ上掲載については:
http://www.kingshousehotel.co.uk/about-us/ 2015/10/17 確認。
11 Alexander Wilkie の原文出典:
http://www.kingshousehotel.co.uk/about-us/ 掲載確認 2015/10/16、論者訳。
12 F. B. Pinion,A Wordsworth Chronology,Houndmills,UK &c: Macmillan,1988,53.
13 ‌Google Map には「タインドラム」とカタカナ書きしてあるが、英語の地名発音の様々
なウェブサイトで調べる限り、
「ティンドラム」という表記のほうがいいようである。
14 Suie Lodge Hotel の情報:http://www.suielodge.co.uk/
15 The Scottish Crannog Centre のサイト:
http://www.crannog.co.uk/docs/crannog_centre/scc_centre.html 16 Archan Lodges の情報:http://www.acharnlodges.co.uk/ 17 ウィキペディア英語版に記述がある :
https://en.wikipedia.org/wiki/John_Campbell,_ 1 st_Marquess_of_Breadalbane 18 Taymouth Castle については:
https://en.wikipedia.org/wiki/Taymouth_Castle 19 Old Blair & St Bride’s Kirk については:
https://en.wikipedia.org/wiki/Old_Blair Dundee についてはウィキペディア英語版に記事がある:
https://en.wikipedia.org/wiki/John_Graham,_ 1 st_Viscount_Dundee
“Bonnie Dundee” の演奏を聴くこともできる:
https://www.youtube.com/watch?v=EnOIrH-82Qc ― 151 ―
https://en.wikipedia.org/wiki/Bonnie_Dundee
20 Falls of Bruar については:
http://www.undiscoveredscotland.co.uk/blairatholl/fallsofbruar/index.html および;
http://www.walkhighlands.co.uk/perthshire/falls-of-bruar.shtml 21 Dunkeld Hermitage については:
http://www.nts.org.uk/Property/Hermitage/
22 イーストウッド・ハウスのサイト:http://eastwoodhousedunkeld.com/
23 Ben Ledi の情報:https://en.wikipedia.org/wiki/Ben_Ledi
24 Katrinewheelz の情報: http://www.katrinewheelz.co.uk/
25 “The grave mistake over Rob Roy’s burial place”Express,2009 年 6 月 1 日 .
‌http://www.express.co.uk/news/uk/104687/The-grave-mistake-over-Rob-Roy-s-burialplace ダウンロード:2015 年 10 月 12 日。
26 Doune Castle の情報 :
http://www.visitscotland.com/info/see-do/doune-castle-p254201
参考文献は『関東学院大学人文学会紀要第 133 号(2015 年)』掲載の拙著「ワーズワス兄
妹とコールリッジのスコットランド旅行」及び『イギリス・ロマン派とフランス革命』
(桐
原書店、2003)参照。
― 152 ―