文人政治家の悲劇と栄光 - 東京成徳大学・東京成徳短期大学

文人政治家の悲劇と栄光
− Edmund Burke −
中 川 誠*
Ⅰ
(1)
「Hazlitt ほどの文章を書ける者はいない」
と言って激賞した R.L.Stevenson は、おそらく Hazlitt
の散文に固有の、簡潔で格調高い詩的雄弁のことを言っていたのであろう。その Hazlitt が、
「Burke
は偉大であった。彼の力強い精神がいかなる性質のものであるかを知るためには、彼の演説と文章を
(2)
と言った時、Hazlitt は Burke
全部読まなければならない。彼の演説は彼の文章と同じものである」
の中に、Hazlitt が愛した古典の文人たちに充満する力強い気高い精神と共に、
「言文一致」を体現す
ると同時に、
「文は人を表す」雄渾な散文の一典型を見たのであろう。
Dr. Johnson と彼の Club の会員たちが、いち早く着目した Burke の文才は、時を下って Hazlitt を
筆頭に De Quincey、Macaulay、Arnold、Leslie Stephen 等の散文名家を含めて、ロマン派の詩人
Coleridge をさえ感動させた。中でも Arnold が Burke の手紙と演説と政治論文を自ら編集して−−
Matthew Arnold ed. Letters, Speeches and Tracts on Irish Affairs by Edmund Burke, London, Macmillan,
1881−
−その序文に「イギリス国民とイギリス散文から Addison を失っても私は惜しいとは思わない。
しかし Swift と Burke を失うとしたら、それはイギリス人と英詩から Shakespeare と Milton を失う
(3)
とまで書いているのは注目に値する。
のと同じ損失である」
Burke が生涯にわたって崇拝した人物に Cicero がいる。この古代ローマの雄弁家に対する Burke
の惚れこみようは尋常ではなく、その風貌、物腰まで真似ようとした。Cicero が説いた修辞法を実践
することが Burke の夢であった。語法・抑揚、そしてその効果のすべてを彼は Cicero に学んだ。
Cicero一人に限らずローマの雄弁家・文人たちがこぞって重んじた修辞学は厳密な意味での「言文一
致」・「文は人」・「人は文」である。イギリス人の中には、その会話や対談を速記したものを見る
と、そのまま一流の名文となるような雄弁家が今も少なくないが、これも古典の修辞法を基に栄えた
18世紀イギリス弁論術の英語国民特有の伝統と関係があるのかもしれない。Burke が生前は会話と演
説の名手として知られ、死後は模範的な英語文章家として重んじられるようになった背景には、古典
を愛した教師たちの指導と、高校・大学で彼が選んだ修辞学と演劇に加えて、将来は文人として立と
*
Makoto NAKAGAWA 英語・英米文化学科(Department of English Language and English and American
Culture)
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東京成徳大学研究紀要 第 5 号(1998)
うという彼の執念があった。
言葉と文章によって自分の identity を示すという意識は、必ずしも Burke 一人だけのものではなく、
18世紀のイギリス知識人によく見られる一般風潮の一つでもあった。Juvenal, Horace, Virgil を朗読し、
その模倣詩を書き、それが持つ力強い響きを自分の英語に取り入れ、心の修養とする風潮が、奇しく
も英語完成期とイギリス国力充実期、そして海外発展の時期と一致していた。「言葉は人」・「人は
言葉」というが、少なくともイギリスのように世界の最強国となって他国に大きな影響を与えた国・
民族・言語の不分離の関係は特にイギリスにおいて顕著である。古代ローマの場合は言うまでもなく、
七つの海を支配するにいたったイギリス国民と英語独特の力強さと、それを母国語とすることに誇り
を抱く国民の共通意識を考えると、「言葉は人」・「人は言葉」という表現の持つ意味の重要性を再
認識させられる。
同時代きっての英語の達人と謳われた Johnson もまた、古典詩によって自分の人間と英語を鍛え、
充実させた。模倣詩の金字塔となった彼の London(1738)と Vanity of Human Wishes(1749)をも
って、古典詩模倣の時代も終わりを告げる。古典によって育まれた知識人たちが一堂に会して弁舌を
競い合った club 全盛時代もまた、18世紀の終わりと共に幕を閉じる。 Johnson’s Club の運命も同様
であった。その時代を生きた最大の雄弁家が Burke である。
Ⅱ
貴族院議員の秘書をしていた従弟 Richard の推挙を得たという偶然から Burke が下院に選出されて
政治家として一歩を踏み出したからには、彼は議会で発言しなければならなかった。一度も発言せず
に議員職を全うしたことで、かえって名を残したというような風変わりな議員もいたイギリス国会で
頭角をあらわすためには、まず何をおいても雄弁でなければならなかった。Burke はこれに賭けた。
37歳で議会入りした時の彼は、既にこの才能がはち切れんばかりに蓄えられていた。Burke 研究に今
も障害を残す彼の空白の20代、いや、むしろ30代半ば頃までの20年近い浪々の間に Burke は Hints for
the Essay on the Drama(死語出版), Vindication of Natural Society(1756), The Philosophical Inquiry
into the Origin of our Ideas on the Sublime and the Beautiful(1757)を書き上げていた。後の二つは28
歳前後の頃出版され、早くもイギリス国内だけでなくヨーロッパ大陸、アメリカ大陸にまで名を知ら
れるようになっていた。彼の本を読む者の誰もが著者を哲学者か文学者であると思っていた。国内で
最初に出版されたのは Vindication であった。これは freethinking の立場から雄弁な論陣を張った高名
な貴族 Bolingbroke を攻撃することを目的として書かれたから当然ながら、Burke の文体には、ここ
に早くも論証的・批判的・攻撃的論調が表われ、これが生涯にわたって彼の特徴となってゆく。
Bolingbroke 特有の戦闘的論法を20代の Burke が意識的に使って逆襲しているうちに、この戦闘的
ということが Burke 自身の文章と後年の国会議員時代の演説に一貫することになるというのも興味深
い。出版年度は Vindication とほとんど変わらないから、文体が似ているのは当然のことかもしれな
いが、実際には20歳になる前から書き始めていた Inquiry 冒頭の部分にも、このような挑戦的兆しを
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文人政治家の悲劇と栄光
見て取ることができる。
“they (i.e.my materials) are not armed at all points for battle, but dressed to visit those who are
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willing to give a peaceful entrance to truth.”
「論争を提起するつもりは毛頭ない。真理を心静かに迎え入れることを喜びとする人たちに、ご
高覧仰ぎたいと思う次第である。
」
「論争を提起するつもりはない」と言いながら、実は読者を、自分に向かって反論を企てる相手、
自分が説き伏せるべき相手とみなしている気配がある。“armed”や“battle”という戦闘そのものを
意味する用語で書き出すだけでも文字どおり戦闘的であるが、“dressed to visit”も穏やかではない。
“armed for battle”の対句として使われているところを見ると、これはつつましい衣裳を着て読者諸賢
に近づこうというよりは、むしろ、これまた完全防備の体制で相手にのぞむという戦闘的装束をまと
った姿を連想させる。挑戦であることに変わりはない。
このような論調は一般に若年層にしばしば見られることではあるが、これが Burke には生涯一貫す
るということは、ただごとではない。それも格調高いということが、挑戦的な文体を持つ他の似通っ
た人たちの例を断然切り放している。政治家としての彼の将来の運命にも、これは明暗こもごも、深
く関わってくる。
議論によって相手を攻撃し打ち負かすためには相手の反撃を許さぬ実証性・具体性が、まず必要と
なる。この実証的であること、具体的であること、要するに空理空論に陥らぬ論述を Burke は何より
も重視した。このことが政治家・政治思想家としての Burke に並み並みならぬ重みを加えたことは言
うまでもない。
I cannot stand forward, and give praise or blame to anything which relates to human actions and
human concerns on a simple view of the object, as it stands stripped of every relation, in all the
nakedness and solitude of metaphysical abstraction. Circrumstances (which with some gentlemen
pass for nothing) give in reality to every political principle its distinguishing color and discriminating
effects. The circumstances are what render every civil and political scheme beneficial or noxious to
mankind.(5)
「どのような問題にせよ人間の行為と判断にかかわる物事を、他との関連を離れて一面だけから
見て、抽象的な議論をするような手合いには私はまともに相手にする気にはなれない。具体的な
事柄の特質を考え、その一つ一つを的確に処理するためには、それが置かれた状況をよく見るこ
とが第一に必要である。議員諸公の中にはこれを無用と考える人たちもいるが、これなくして正
しい政治を行なうことはできない。人間の所業と政治の良し悪しは、具体的な情況の判断からな
されるべきものである。
」
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上述した Burke 一流の発想に関連して Hazlitt が挙げている Lord Egmont −
−Burke の先輩議員
(6)
John Perceval, Lord Earl, 1711-70 −−が下院で行なった演説(1753.5.22)
は重要である。これはユダ
ヤ人の大量流入と、それが惹き起こした迫害に悩まされた18世紀イギリスの大問題であったが、下院
はユダヤ人帰化法案を可決した。その根拠は自由平等の人道主義的原理と、資本主義体制の進むイギ
リスの労働力供給という国家的目的にあった。これに対して Egmont が下院に赴いて反対演説をした
「具体的な情況に則して物事を考えよ」という Egmont の演説の骨子は、
時のことである。Hazlitt は、
そのまま Burke の思想、乃至は信念に通ずる、と述べている。以下、Egmont の演説(大意):
「これほど乱暴なやり方で、無制限かつ無遠慮に一般的原理に従うのは非常識であり狂気の沙汰
というほかない。一つ私に言わせていただきたい。議員諸公が私の発言内容を真剣に考え、いつ
までも記憶にとどめて下さるよう私は切にお願いしたい。自分の寛容さと理解力をかくも得意気
に自慢する者は−
−筆者注:ユダヤ人帰化法案賛成者のこと−
−実はわが国きっての偏見の犠牲者
である。そもそも、狭い心とは何か? それはただ一つの狭い見方によってあらゆる問題を見よ
うとする心である。そのような心をもってしては、いかなる事柄をも、それが置かれた状況、あ
るいはさまざまな事情に照らして考えることはできない。これらの背景あってこその事柄であり、
両者は断じて切り離すことはできないものである。それらは常に結びついている。帰化を許すこ
とは人口増加であって、人口増加は即ち国力増強であるという一般論だけによって帰化問題を考
える頭とは一体どういう性質のものなのか? 私が言う心狭い人たちはそれを全く考えようとも
しない。彼らがわが国に加え入れようとしている人々の運命はどうなるのか? 今のようなわが
国の治安状況で、一体どうすれば彼らは働き口を得て自分たちの生活を維持できるというのか?
彼らの宗教、思想あるいは習慣が、わが国の宗教と政治にどのような影響を与えることになるの
か? 彼らを受け入れることは、わが国の平和と秩序安寧にいかなる役割を果たすというのか?
寛容を自負する大層ご立派な才人諸公は、空理空論の左右両極端をいたずらに這いずり回るだけ
の、この世で最も憐れ、かつ軽蔑すべき人間たちではないだろうか。
」
Egmont の演説もなかなかの雄弁であるが、18世紀のイギリス国会はこのような雄弁家が輩出した
時代である。格調高い雄弁がもてはやされた時代がイギリス議会政治が確立した時代と期を一にした
ということは、言論の自由と政治的自由の関連性を物語ることにもなるだろう。言論の自由なくして
思想の自由は成り立たない。英語の発達・充実・普及、そしてそれを母国語とする民族の誇りが、や
がて訪れるイギリスの「思想の自由」実現の前触れであり、必要条件でもあった。言語に限ってみた
場合でも、英語の完成と普及は、イギリス人が言葉に磨きをかけ、言葉によって人を説き、それも自
由闊達に物が言える精神風土あってはじめて実現したのである。
磨き上げられた言論を競い合う国会が迎え入れた Burke の強みの一つは、歴史に対する彼の造詣
が深く、形而上の問題にせよ時事問題にせよ、歴史的な知識を背景に語る彼の博識にあった。それが
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文人政治家の悲劇と栄光
辛辣な論調で噴出するとあっては名だたる論客たちも彼には歯が立たず、またたくまに議会屈指の雄
弁家として認められるに到ったことは前述のとおりである。後年、匿名の毒舌評論を雄渾な文体で書
き続けて知識人を湧かせた Junius −
− John Cannon の手で今世紀最良の決定版が出て間もない。The
Letters of Junius, Oxford, Clarendon, 1978−−とは Burke のことであろうという風評が立てられたのも
無理はない。これは本人が否定しているし、他に嫌疑をかけられた論客たちも一様に口を閉ざしたま
ま他界してしまった。今となっては誰が本当の作者であるかわからぬという書簡体時評である。
Burke の Vindication と The Phiolsophical Inquiry は同時代人に広く読まれただけではなく、下って
はロマン派の詩人たち、そして海峡を渡ってドイツ、フランスの思想家たちにも読まれ、中でも
Lessing, Diderot に影響を与えたといわれている。書き出しからして読む者に反駁の余地を与えない
ような実証的で迫力に満ちた論調は、話術と文章にとりわけ深い関心を持ち合わせていた当時第一級
の知識人・文人の集まる Johnson’s Club でも話題となり、Burke という青年が並々ならぬ才能の持ち
主であることがすぐにわかった。反論を常に予想しながら、それを粉砕するに足る十分な知識と論法
を用意することを心がけた Burke は、その道の達人 Johnson にとって最強のライバルとなってゆく。
しかし Johnson 以下、Club の会員たちは一人残らず、Burke の才能は文学に限らず、もっと広い、
もっと現実的な世界で抜群の威力を発揮する性質のものだということを見抜いた最初の人たちであっ
た。Burke と会ってひと言ふた言、言葉を交わしただけで、その雄弁と、実際的・論理的な思考が並
み大抵のものではないことがわかったのである。
Johnson とは対象的な簡潔明快な文体で鳴る Boswell がその Life of Johnson(1791)で、Burke の
ことになると急に話の腰を折って切り上げてしまうのは解せないことであるが、それでも Boswell は
Burke に言及せざるをえなかったほど、Club の中で Burke はひときわ目立つ存在になっていた。Life
で Burke を Boswell は“an eminent public character”とか“an eminent friend of ours”というような
呼び方をして、
“Mr. Burke”と書くことを最小限に抑えているのは他の登場人物に言及する場合と明
らかに異なる。Burke を語る時の Boswell がしばしば公平を欠くことに気づいた Johnson は、それを
Boswell にたしなめたりするが、遂にこの一点では Boswell は Johnson の注意を守らなかった。法律
−と
家として政治的野心も強かった Boswell には、国会議員として Club に登場した若い Burke は−
−まぶしすぎる存
いってもその時 Burke は37歳、Boswell は26歳で Burke よりひと回り若かったが−
在であったのだろう。 Burke より20歳上の Johnson さえ、 Burke にだけは一目も二目も置いた。
Boswell は Burke の良い面はなるべく言わずに無視・黙殺するように努め、Johnson については彼が
Burke を羨み、恐れる気持ちをあからさまに口にするところを Boswell は遠慮なく丹念に記録してい
るのも読者の興味を引く。Johnson 自身、法律と政治の分野で論文をいくつも書いてこの道には並々
ならぬ関心を持っていたにもかかわらず、気質的にはこのような実際的な世界で出世はおぼつかない
ことをよく知っていた。他のメンバーたちもそれを認めていたので、その Johnson が自分には欠けて
いるその面の能力をあり余るほど備えた Burke と出会って、内心穏やかならぬものがあったのはわか
る。Johnson の性格にはひどく負け嫌いなところがあった。だが Burke に対する羨望をもっぱら
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Johnson ひとりに押しつけた Boswell の伝記作者としての態度には少々、問題があるだろう。とはい
え、Johnson と Boswell の、当代随一の雄弁家 Burke を相手にした時の屈折した心根をよそに、自分
の書いた Life が、むしろ一段と颯爽たる Burke の風貌を彷彿させることになったのは、Boswell 自身
、そ
にとっては予期せざる効果であったとも言えるだろう。Johnson 臨終の日が近づいた12月(1784)
こに居合わせなかった Boswell が友人たちに Johnson 最後の様子を問い合わせていた頃、Johnson の
親しい友人Bennet Langton(1737-1801)が、Burke と Johnson の別れを Boswell に伝えるくだりは、
おそらく Langton はもっと多くのことを語ったと思われるが、Boswell の抑制した筆によって、かえ
って一層、感動的である。
「Mr. Langton が私に伝えた話であるが、彼が Johnson を見舞いに行くと Mr. Burke が友人四、
五人と一緒に来ていた。Mr. Burke は Johnson に言った。《こんなに大勢押しかけてはご迷惑で
しょうね。》すると Johnson が答えて言うには、《いいや、そんなことはないよ。君たちの来る
のが私に苦痛となるようだったら、私ももうおしまいだよ。》Mr. Burke は震える声で、感極ま
ったような顔で言った。《先生、本当にお世話になりました。》そう言って直ちに彼は部屋を出
(7)
ていった。これが二人の偉人の今生の別れであった。
」
おそらく Burke は涙が溢れ出て、急いで立ち去ったのであろう。Boswell は Langton がその時言っ
たことのすべてを私たちに伝えたとは思えない。しかし、Burke を常々 Mr. Burke と呼んで尊敬して
いた Langton から二人の別れを聞かされた時、Boswell は Mr. Burke の威厳に満ちた風貌の中に、
Johnson との別れを悲しむ Burke の心を深く感じとったのであろう。 Langton の言葉どおりに
Boswell が“ Mr. Burke ”、“Mr. Burke ”と繰り返しながら淡々たる筆致で書き記したこの部分は、
Johnson に対する Burke の尊敬と情愛と共に、淋しげな Johnson をよく伝えて読者の心を打つ。Life
の中でもこれは圧巻の一つである。Johnson の偉大さ、やさしさに魅せられた Boswell は確かに
Johnson の最良の伝記作者であった。そこに登場する者たちが皆そろって第一級の人物であったこと
が Life の最大の魅力となっている。その中でも Johnson と Boswell 二人が口を合わせたかのように
恐れ、尊敬し、時には敬遠した Burke が、Life の数少ない彼の登場場面で読者にひときわ強い印象を
与えるのはなぜだろうか。おそらく Club のメンバーたち一同が彼から受けていた“ an eminent
person”、“an extraordinary character”という印象は、たとえ誰が抑えつけようと、現われ出ずにはい
なかったほど、Burke が傑出した人物であったということであろう。Burke が Johnson に別れを告げ
た日、Johnson 75歳、Burke は55歳、友人の俳優 Garrick に連れられて Burke が Club に入会してか
ら20年の歳月が流れていた。Burke と Johnson がはじめて出会ったのは Burke が国会議員になる直前、
The Literary Club 誕生(1764)の頃である。
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文人政治家の悲劇と栄光
Ⅲ
Club の才人たちを相手にする時は言うまでもなく、一歩でも家の外へ出れば弁説の修業だと心得
ていた Burke が、国会に入るやいなや、弁説によって自分の政治生命を賭けたのは自然なことであろ
う。37歳になるまで政治や実業とは無縁であった Ireland 出身の Burke が下院入りして一年も経たぬ
うちに、イギリス国会屈指の雄弁家として認められるようになったのは、議員の演説に聞き耳を立て、
その下馬評を盛んに行ない、それが直ちに新聞に乗って弁説好きのイギリス人たちが議員の品定めを
楽しんだという18世紀の House of Commons の歴史の中でも異例のことである。
だが、いかに弁説巧みとはいえ、それが直ちに政治家としての成功に結びつくとは限らない。むし
ろ Burke は政治家に必要とされる第一の資質に恵まれていたとは言い難い。その資質とは、高邁な理
想を掲げて祖国 Irelandと、自分が国会議員として立つ大英帝国の利益のために粉骨砕身しようと決
意していた理想主義者 Burke から見れば、自分には困難な仕事ではあるが、協力者・支持者を大勢作
る能力のことである。Burke が多分に恵まれていた政治家的資質はそれとは別であって、国会で立身
出世するための必要条件とは異なる、むしろ政治思想家としてのものであった。
「政治思想家として」
、ということが Burke の場合、重要な意味を持っている。後年、20世紀に入
って労働党を組織し、その副委員長を努めたロンドン大学政治学教授 Harold J. Laski のことが想起さ
れる。この人は、Burke が果たした思想的役割とは違った方向を目指したにせよ、尖鋭な理想主義
者・政治思想家であったという一点で、Burke に通ずるところがある。Laski もまた、著書によって
世界を動かすほどの影響力を持った20世紀の文人政治家という顕著な例として記憶に値する。ただ、
その文章が際立って難解なのは、Laski の本業が学者であったことと関係があるのだろうか。Burke
が祖国 Ireland 問題−
− Irish Affairs という呼び名で代表される−
−、対植民地、そしてフランス革命
という大英帝国の命運を賭けた大事件に取り組んだ一方、現代の政治思想家 Laski はナチ・ドイツ、
ソ連共産主義、そしてアメリカ合衆国と大英帝国解放という、きわめて20世紀的な命題に取り組んで、
その行動の評価を文筆によって後世に託したという生き方は、取り組んだ問題は異なるにせよ、二人
とも、国内よりは国外に、それも世界的な規模で数多くの支持者を得て今日に到っている。だが Laski
再評価と本当の意味での復活は、21世紀のことであろう。
Burke の場合も確かに sympathisers はいた。しかし人間関係の中で彼は自分の family、または同族
縁者をことのほか大切にする分−
−これは Irish 一般に通ずる。Laski も家族を大切にしたことでよく
知られている。−− 職場の同僚たちとの縁は二の次、という傾向があった。政界で勢力を伸ばすため
になくてはならぬ sympathisers を積極的に求めようともせず、ひとりわが道をゆくという彼の性格を
知る者たちは、自然に彼から離れて行った。収入も自分の肉親縁者のために投資することが多く、豪
華な邸宅を買ったり、盛んに家具で飾ったり、という散財癖がとまらず、借金することを繰り返した。
もっとも、家を飾るということはイギリス人の特質(Englishness)の中に入るものであるから、Irish
の Burke が、England への精神的帰化を意識していたことの一つの表われなのかもしれない。一般に
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Irish English(アイルランド系イギリス人)の思考と行動には、生粋の English よりも一段と「英国
的」なものがあるようだが−
−これは Irish に限らない。帰化したイギリス人の多くについて言われる
ことである。−
− 政治家としての Burke は祖国 Ireland に尽くしたのと劣らず、誰にもまさって愛国
的な English の一人として「英国」の国益を重んじた。さもなければ彼の Reflections on the French
Revolution(1790)は書かれなかったであろう。ちなみに、この書簡体の論文は初出時には Reflections
on the Revolution in France であった。「フランス革命」という固有名詞が定着したのは後代のことで
あったと思われる。当時は、「フランスに起きている革命」というような受け取り方がイギリス人の
間では普通のものだったのであろう。自由平等の原理からフランス革命を喜び迎える者が少なくなか
った Whig 党内で、同じ党員としての Burke がこれに真向から反対したことについては、彼によほど
の覚悟があったに違いない。この革命を彼が終始一貫、攻撃したのは、第一には自由・平等・博愛の
名のもとに行なわれた悪虐非道に対する彼の憎悪である。実行を伴わない理想や美辞麗句ほど彼が嫌
ったものはなかったからである。そもそも人間性の中に信頼できる美辞麗句があるのだろうか? 彼
の言行がしばしば攻撃的、挑戦的と見られるのは彼の人間観に深く根ざしている。それは人間本性を
悪とみなして風刺することを好んだ古典の人間観と、そのような古典に心酔した人々−−ルネサンス
期の文人・思想家、ひいては古典模倣の最盛期の詩人・文人たち−−に通ずる人間観である。その古
(Ecclesiastes)を枕頭の
典的人間観を集大成したモンテーニュを師表として、Juvenal や『伝道の書』
書とした Burke が、人間の美辞麗句を信用するはずもあるまい。美しい理想を高く掲げたフランス革
命に熱狂したイギリス人たちは、革命が自分たちの予想を裏切る様相を呈し始めたのを見て不安にな
り、やがて革命の落とし子 Napoleon が出現するに到ってはじめて、対岸の火どころか、祖国の国家
的危機を実感するようになる。ナポレオン戦争当時のイギリス首相を勤めた小 Pitt などもその一典型
である。彼などは、遂には失望・幻滅・不安・焦燥から、フランス帝国を憎悪しながら文字どおり憤
死してしまう。そのような国家的危機を最も早く予言したイギリス人の一人として Burke が反革命に
徹したのは、革命と共に消滅しようとしている騎士道精神とその時代を惜しむ、次のような彼の
nostalgia のせいばかりでもあるまい。(The age of chivalry is gone...and the glory of Eunope is
(8)
extinguished forever.「騎士道の時代は終わった。それと共にヨーロッパの栄光も永久に消滅した。」)
上の一文は Burke が若かった頃、Versailles 宮殿で Marie Antoinette を垣間見た時に受けた強烈な
印象が忘れられず、天使のような王妃を処刑したフランス革命を許せなかった心境を書き綴った部分
である。これは高揚した名文であるが、それはともかく、Marie Antoinette を白い雲に乗った白鳥の
ように賛美してその優雅な姿を謳ったイギリス外交官・政治家たちの報道の影響もあって−
− Hazlitt
はフランス革命の熱烈な支持者であったが、伝え聞いた Antoinette の美貌と典雅な動作に対する憧憬
は彼の心から生涯、消えることがなかった。−− イギリスの反革命分子たちが、革命を騎士道に対
する反逆と見て激昂した時代風潮を伝える Burke の象徴的な文章として名高い。Marie Antoinette の
中に、Burke も含めて彼らはヨーロッパ伝来の騎士道と長年の王侯貴族制度が培った結晶を見て、そ
れを賛美したのである。Burke が具体的な知識を背景に持たない議論や論述を忌み嫌っていたことに
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文人政治家の悲劇と栄光
ついては前述したが、フランス革命のことになると彼の伝統賛美の傾向が往々にして強調される場合
がある。なぜフランス革命が激しい暴力革命になったのか? なぜフランス人はイギリス人の誇る、
そして Burke 自身も大いに誇りとする Magna Charta (1251)、 Petition of Right (1628)、 the
Declaration of Right(1689)という無血革命を持つことができなかったのか? この問いについての
Burke の知識は生来の彼の実証的性向にそぐわぬものがあるが、特に Antoinette 個人の人間性の欠陥
についての考察と反省が欠けている。とはいえ、革命を必要以上に激化させた原因の一つとして
Antoinette 自身の性格と言動が大きく働いていた、というのは後世の見方であって、18世紀半ば過ぎ
のイギリス本国から見た時は、海峡を距てた隣国の内情は通信途絶した大動乱の最中に見えなくなっ
ていたとしても無理はあるまい。騎士道に憧れ、それを重んじた Burke のようなイギリス人にとって
は、騎士道の華と謳われたフランス王国の美しい王妃を葬り去る革命という狂気が許せなかったので
ある。
Burke を知るためにもっと大切なことは、フランスに起きた革命が、人類がいまだかって経験しな
かったような、ヨーロッパの人と社会、そしてヨーロッパに限らず全世界のそれを根底から覆す、全
く新しい出来事だという認識が Burke にあったということである。下の文章がその認識を語っている。
It looks to me as if I were in a great crisis, not of the affairs of France alone, but of all Europe,
perhaps of more than Europe. All circumstarces taken together, the French Revolution is the most
astonishing that has hitherto happened in the world.(9)
「フランスだけに限ったことではない。全ヨーロッパ、いや全世界に及ぶ一大危機であると言わ
ねばならない。すべての情況を考慮すると、このフランス革命こそ、今まで世界に起きた最も驚
愕すべきことである。
」
この認識が Whig 党員だけでなく、同時代の多くのイギリス人に甚だしく欠けていた。ロマン派の
詩人・文人たち、Wordsworth, Coleridge, Lamb, Hazlitt 等、いずれも同様である。Burke にとっては
Antoinette 個人の人格や Louis XVI のそれなど問題ではなかった。Burke から見れば、彼ら暴力革命
の犠牲者たちは、彼が他の何よりも恐れ、嫌悪した未知の暗黒世界を目指してひた走る激流にのみこ
まれた哀れな生贄であったからこそ、彼らと精神的 identity を共有する Burke 自身の不安と焦燥と怒
りを代弁する彼らを、彼はひときわ強く惜しんだのである。
人間 Burke の identity は、政治を自分の天職と心得た(これは後述する)政治家 Burke と切り離
すことができない。対岸の動乱はいつなんどき英本土に及ぶかわかったものではない。フランス革命
の原理は自由・平等・博愛、特に前二者であった。美しい理念は理想主義者 Burke の尊ぶものではあ
るが、現実の人間社会、特に政治的現実社会で可能な自由・平等とは果していかなるものなのか?
万人おしなべての自由・平等はそこでは不可能であって、望ましいことでもない、というのが彼の信
念であった。過激な衣をまとった抽象的な原理を導入して人心を惑わせ秩序を乱すものを彼は最も恐
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東京成徳大学研究紀要 第 5 号(1998)
(10)
れた。
“Good order is the foundation of all good things.”
(
「整然たる秩序は、すべての善事の基礎で
ある。」)が彼の政治哲学の基礎でもあった。自由・平等の原理に燃えていたアメリカ人 Thomas
Paine に The Rights of Man(1791-2)執筆の動機を与えた Burke の Reflections は今も賛否両論を惹き
起こす種となっているが、その政治思想だけを見て Burke を判断することは十分ではあるまい。
Burke は政治家でもあったのだ。彼のその特徴を表わす文章を幾つか下に挙げてみよう。
I love a manly, moral, regulated liberty.(11)
「男らしい、道徳性と秩序を持った自由を私は愛する。
」
Liberty, when men act in bodies, is power.(12)
「自由は、集団が実行する時、権力となる。
」
●
●
Those who attempt to level never equalize.(13)
「差別撤廃は決して平等化ではない。
」
Those who quit their proper character to assume what does not belong to them are, for the greater
part, ignorant both of the character they leave and of the character they assume. Wholly unaquainted
with the world, in which they are as fond of meddling, and inexperienced in all its affairs, on which
they pronounce so much confidence, they have nothing of politics but the passions they excite.(14)
「自分に属さない物を自分の物だと仮想して自分を捨てる者は、自分が捨てる物の特性だけでは
なく、新しく手に入れようとする物の特性についても理解していない。彼らは自分の世間的無
知・無神経を棚に挙げて確信をもって理念を宣言してやまない。彼らは自分が人の心にかき起こ
す情熱のことを政治だと思い込んでいる。
」
Better to be despised by too anxious apprehensions than ruined by too confident a security.(15)
「安全を確信して自滅するよりも、心配過剰で軽蔑された方がよい。
」
Ⅳ
Reflections は国内外で広く読まれ、大きな反響を呼んだ。しかし院内での Burke の勢力を拡張する
ことには一向に役立たなかった。彼が国会を去る時(1794)も、遠い先のことではなかった。しかし
彼は書き続けた。利害関係がしのぎをけずる同僚間で意見の調整を計ったり妥協を試みたりすること
は所詮、彼には向かなかった。院内で彼を最も尊敬し、良い理解者でもあった、もう一人の国会史に
名を残す雄弁家 Charles James Fox(16)は Burke より20年も年下の有力な政治家であったから、これを
10
文人政治家の悲劇と栄光
大事にすればよいところを、Burke の方から袖にしてしまった。妥協を許さず、ひとりわが道を行く
Burke との別れに涙しながら Fox もまた彼から離れて行った。理想が高く、一方では辛辣な人間観の
「正義を愛するあまり、人間を愛することを
持ち主の Burke は、古代の風刺詩人 Martialis が言った、
忘れる」の弊に陥っていたのかもしれない。いかにも Burke らしい明快な文章で一貫する Reflections
にしても、彼を知る者から見れば、それが雄弁であればあるほど一層、Burke らしい攻撃性・非妥協
性の弾劾調を再び見せつけられて著者に反発したくなったのであろう。攻撃を得意とした彼には、そ
れこそ Englishness(イギリス的)の中の最も肝心なものと言える affection にだけは精神的帰化を果
たすことができなかったのかもしれない。affection とは、現代の J. B. Priestly によれば(cf. The
Englishness. 1973; The English Humour, 1976)、passion, enthusiasm, burning love とも違うイギリス人
特有の思いやり、やさしさ、のことである。
Johnson と Boswell も18世紀の古典尊崇と模倣の影響を受けてのことであろう、Burke に通ずる辛
辣な人間観を持っていたが、この二人は人間に興味を持ち、人間を愛することを忘れなかったという
意味で、同じ時代に生きた文人同士とはいえ Burke とは本質的に異なる文学者であったのかもしれな
い。辛辣といえば Burke に負けない辛辣さで人を攻撃して大きな効果を挙げていたのは、Fox と並ん
で Burke の最大のライバルであった Lord Chatham であろう。この人の弁説は雷のように House of
Commons を震撼させ、万人を恐れさせたという。人を恐れさせることによって圧倒的な勢力を持っ
た一例である。彼は院内外、いや、国外、遠くアメリカ大陸にまで絶大な権勢を振るった。
Burke は人も知る家族思いで、忠実な弟たちに対する面倒見のよさは尋常のものではなかった。そ
の反面、他人に対しては人を寄せつけないような厳しさがあった。人間についての好き嫌いが激しく、
自分に合わぬ者や敵対する者を許さなかったのである。そのようなことに敏感な同僚議員たちが彼に
心を許さなかったとしても不思議ではない。抜群の雄弁家と有能な政治家であったにもかかわらず、
彼を閣僚に推す者はなく、要職にもつけぬまま終わった。しかし彼は政治家になったことを悔やみは
しなかった。むしろ、人も驚くほど勤勉な政治家として任を全うした。文人として立つことを夢見た
彼が、非文学的な政治の世界に埋没したかのように精励するのを見て同情する者もいたが、事実は逆
で、議員になった瞬間から死ぬまで、彼は政治を天職と心得て、それに向かって全精魂を傾けた。彼
の膨大な分量の手紙と政治論文と演説の中に、一人の文学者・哲学者が場違いの所に身を置いて苦悩
するというような、私たちが想像しかねない気配など微塵もない。そこに見い出されるのは、一人の
勤勉な政治家と卓越した政治思想家の軌跡であって、その著作は、ただ器用に書かれたという、政治
家に珍しくない砂を噛むような美辞麗句などとは縁遠い、文章道を極めた者にしか書けない堂々たる
散文である。それに加えて、ロマン派の詩人たちにも負けない豊かな詩想を備えて、政治という散文
的世界の真っ只中に精励する理想主義的な文人政治家の情熱を、私たちは見る。
Hazlitt は Burke の気高い古典尊崇の精神と正義感と雄渾な文章を神のごとく崇拝した一方では、
自分の嫌いな保守的政治思想を喧伝する Burke を許し難い政敵とみなしていた。そのような Hazlitt
の Burke 論であるから、時によっては読む者も用心してかかる必要があるが、前に言っていた、
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東京成徳大学研究紀要 第 5 号(1998)
「Burke を知るためには、その演説と文章の一つ二つを取り上げるだけでは駄目だ。その全部を読ま
ねばならぬ」というくだりは、政治思想家として自分のすべてを後世に向けて文筆に託した Burke の
悲願と才能をよく知る者にしてはじめて可能な寸言であろう。たしかに Burke の文章の総体は、緊迫
する英植民地紛争に加えてフランス革命という最大の試練を迎えた18世紀イギリスに指導的役割を果
たした人間の思想と行動を語って、これほど雄弁なものはない。この時代を知るための必読の文献
History of England in the 18th Century, 8vols. 1878-90 を書いた William Edward Lecky(1838-1903)や、
その遺沢を継ぐ G.M. Trevelyan(1876-1962)のHistory of England(1944)の名文も、Burke のよう
な言文一致の雄弁家を生んだ18世紀イギリスの遺産あってはじめて可能となったのであろう。Hazlitt
が Burke に惹かれたのも、何よりもまず、その文体であった。
「完璧な散文、最も力強く、まばゆいばかりに大胆な散文は Burke によって書かれた。これほど
詩に近く、しかも厳として散文の領域を守った例を私は他に知らない。ダイヤモンドのような堅
固さと輝きがそこにある。文体は飛ぶように軽く、不敵な感じさえ漂わせながら、決して主題を
見失うことはない。主題をがっしりと掴んでそれを絶え間なく醗酵させる。彼のペンを導いたの
は真であって美ではない。道楽ではなく力である。すべての良い散文がそうであるように、
Burke の文章からは、彼が書く物事の感触が伝わってくる。事実に徹しながら、しかも想像の極
致ともいうべき美が彼のページに躍動する。彼の目的は主題を人に最も強く印象づけること、た
だこれ一つであった。彼の力強い精神がそこに自ずと美を生み出している。華美な文体は一般に
気取りと陳腐との合成物であるが、Burke の文体は野生の迫力と、真に彼独自のものとが結合し
(17)
て成ったものである。その特質は限りなく多様である。
」
Burke の文章を語って、これほど見事なものは他にない。何を論じようと、それに関する具体的な
知識を持つこと、そしてそれが置かれた情況をよく知ることを鉄則として、これを武器として自分の
雄弁の基礎としたからこそ、Burke の弁説は Club はもちろん、国会の中でも瞬く間に頭角を表わし
たのである。その才能は両刃の剣であって、凡人にはしばしば、まぶしすぎた。その人物と才能と弁
説が断然際立っていることは誰の目にも明らかであるが、だからこそ人に敬遠され、時によっては疎
んじられる原因にもなった。これと同じことが Burke を取り巻く国会で起きたとしても不思議はある
まい。
文人として立つことを夢見ながら30代の半ば頃までアルバイトのような文筆稼業をしたり、有力者
の秘書をしたりしていた Burke が政界入りした時、彼は政治家として自分にできる役割を考えなけれ
ばならなかった。政治家としての自分の限界も知っていたであろう。最大の限界は彼が理想主義者で
あったことと関係がある。Juvenal を筆頭とする古典詩人たちの辛辣な人間観に育まれた彼にとって
現世は妥協しにくい所であった。だが、これに妥協し迎合することこそ政治の眼目なのである。政治
家になくてはならない支持者を得る道も妥協の中にしかなかった。弁説には彼は自信があったが、
12
文人政治家の悲劇と栄光
Chatham や Fox のように議会を煽動したり説得したりする根気の要る芸当は彼には向かなかった。
相手の非を弾劾し、攻撃し、理想を説くことには巧みでも、Burke の場合、それは俗世間の一員とし
てではなく、常に大衆よりも一段高い所に立って下す一方的な説教に近かった。そのような限界を知
った彼に可能な役割は、Chatham や Fox の例にならうことではなく、彼らとは全く別のところにあ
るはずであった。Hazlitt がいみじくも言っている。
「Fox は理を説く人であった。Lord Chatham は演説家であった。Burke は理を説く詩人であった。
Burke が、大衆の願望や人間の本能的感情という世俗的なものと肌が合わなかったのはそのため
である。しかし国会では、この俗界の願望と感情を代弁する者こそ最も大きな影響力を持つので
(18)
ある。
」
彼は文筆をもって自分の政治活動を補うことを考えた。国会での演説には全力投球で行くが、演説
の効果はほとんどその場限りのものである上に、それを実際政治に生かすのはまた別のことであって、
これは Burke の得意とするところではなかった。しかしながら、直ちに実際政治に生かすことはでき
ないとしても、文筆を取ることによって次の世代、あるいは将来に生かすことは期待してもよいであ
ろう。その時には現時点での対立し合う人間関係も利害も、そして同時代人でなければわからないよ
うな錯綜した事情も過去のものとなって、あとに残るのは普遍的な原理だけとなろう。これだけが普
遍性を持つことになる。これを、文学でいえば最高の表現形式である詩に匹敵する文字に替えて、現
実の中から自分の手で書き伝えることである。ここに、将来に望みを託した政治思想家 Burke の誕生
がある。他の議員たちが国会のロビー政治と外交に狂弄する間、彼は懸命にペンを走らせた。
イギリス国会史に残る18世紀の雄弁政治家たち、中でも Chatham や Fox などの演説は当人の日記
と手紙と同僚仲間が伝えた記録によって垣間見ることができるだけで、それとは逆に、その演説原稿
を完全に近い形で残した Burke のような例は極めて珍しい。彼が政治思想家として後世に重要な地位
を占めるにいたったのは、ひとえに彼の文才のたまものである。没後長く読まれた標準版、Bohn’s
British Classics, 8vols(London, 1854-89)の刊行後100年余りを経て出始めた書簡集 Correspondence,
10 vols(Cambridge, 1958-70)が完結し、最近に到って今世紀の決定版全集 Writings and Speeches
(Oxford, 1981- )が刊行中である。彼の手紙と演説と論文の膨大な文集が Thomas W. Copeland をは
じめ、Paul Langford, P.J. Marshall, T.O. Mcloughlin など、政治思想・歴史学の碩学たちの手によって、
望みうる限り最良の形で陽の目を見ることになったということは、文句なしに Burke の偉大さを物語
ることになるだろう。Chatham や Fox にまさる雄弁家でありながら、彼らが享受した権勢を経験す
ることなく28年の議員生活を閉じて隠棲地 Beaconsfield に68年の生涯を終えた Burke は、そのライ
バルたちをはるかに凌ぐ長く深い影響力を、その文筆によって持つことに成功したのである。
「Burke
は偉大である。彼を知るためには彼が書いたもの全部を読まねばならぬ」と言った Hazlitt は、Burke
の文章の中に汲めども尽きぬ知識と思想の宝庫を見ていたのであろう。Johnson は Burke のことを、
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東京成徳大学研究紀要 第 5 号(1998)
「彼はどんな話題にも万能だ。彼はそれを的確に表現する。彼が雄弁なのは、彼の心が一杯に満ちて
いるからだ」と言っていた。その Burke が書いた文章を他の誰よりも高く評価した Hazlitt は、20世
「どんなに
紀、そしておそらく21世紀の Burke 復活の最大の功労者であったと言えるかもしれない。
偉大な人物も、その思想も行為も、彼の強さやさしさもろともに、死がすべてを消し去る。記念碑も
豪華な建造物も、やがては滅ぶ物体にすぎない。文字に刻まれた言葉だけが、人類の続く限り永遠に
(19)
と書いたのも Hazlitt である。
生き続ける、ただ一つのものだ」
後記:
Burke は London 北郊の小さな田園都市 Beaconsfield の Parish Church に葬られていると聞いて筆
者はそこを訪づれたことがあった。墓地のどこにも彼の墓はなく、教会の中の通路の右側のガラス窓
下に Burke の肖像画が一枚かかっているだけであった。
牧師館の扉を叩いて案内を乞うと、年老いた牧師が出てきて、
「確かに Burke はここに眠っていま
す。肖像画をごらんになりましたか? あれが目印だと聞いています」と言って、筆者が先程出てき
たばかりの教会内部に二人で入って行った。秋の陽が傾いて薄暗くなった院内には私たちの他に誰も
いなかった。
Burke の肖像画が向いている方角の会衆席の椅子の下にもぐって牧師はじゅうたんを一枚一枚持ち
上げていたが、「ありました、ありました。ここです」と叫んで私を呼んだ。見ると、一つの椅子の
下の木の床に“Edmund Burke”と刻まれた小さな銅板が打ちつけられていた。普段はじゅうたんが
敷きつめられているから、誰の目にもとまらずに、椅子に腰かける人たちがそれを踏んでいたのだろ
う。教会へ来る道中、通行人やパブの人たちに Burke のことを尋ねてみても、それが誰のことなのか
を知る者は一人もいなかった。牧師も Burke の墓の在所を自分の目で見たのはこれがはじめてだと言
っていた。筆者は、Burke が愛した Beaconsfield の教会に彼が本当に眠っていると思うことにして、
その場を立ち去った。というのは、敵を持った人たちの中には、墓をあばかれることを恐れて埋葬地
を後で移すということが珍しくなかったからである。Burke 自身、フランス革命の過激分子の報復を
常 に 予 期 し て い た 。 Bacon も ま た 、 墓 所 不 明 の 一 人 で あ る 。 Bacon の 場 合 は 彼 の 終 焉 の 地
Verulamium の St Michael’s Church へ行けば、彼の座像が堂内の墓所を見おろす所に建てられていて、
それを詣でにくる人たちが時々いるが、本当はどこに眠っているのか誰にもわからないといわれてい
る。一説には London の彼の宿所跡に埋められたともいうが、確かではない。大勢の政敵に恨まれた
Bacon とは違って、Shakespeare を恨んだ人がいるとも思えないが、この大詩人の墓石にも、「わが墓
をあばく者に呪いあれ」と刻まれていることはよく知られている。
Burke の豪勢な Beaconsfield 邸は火事で消失してしまったが、その近くにフランス王党派の亡命子
弟のための学校を創設して、その子どもたちと遊びながら、一人息子の死から受けた衝撃を慰めてい
たという晩年の Burke のことを思うと、やはり Beaconsfield こそ、彼の永眠の地に似つかわしいと
いう気がする。1797年 7 月15日、大勢の貴族と国会議員たちが盛大な Burke 葬を行なったのも
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文人政治家の悲劇と栄光
Beaconsfield でのことであった。
〈注〉
盧
Cited, David Bromwich, Hazlitt, the Mind of a Critic (O.U.P. 1983) , p.3.
cf. P.P.Howe (ed.), The Complete Works of William Hazlitt, 21vols. (Dent and Sons, London and Toronto,
1930-34), VII. 31-32, 303-305, 以下 Hazlitt と略記。
蘯 Matthew Arnold (ed.), Letters, Speeches and Tracts on Irish Affairs (London, Macmillan, 1881), Preface v-vi.
盻 James T. Boulton (ed.), A Philosophical Enquiry into the Origin of our Ideas of the Sublime and Beautiful
(Routledge and Kegan Paul, London 1958), p.54.
眈 French Laurence and William King (ed.), The Works of Edmund Burke, 12vols. (John C.Nimmo, London,
1887), III. 240. 以下 Burke.
眇 これについて Hazlitt が論評したものを見ると、彼は Egmont の演説を、「抽象的な公理や形而上の命題
を政治に持ち込む傾向に対する最初の弾劾」
(‘The Eloquence of the British Senate’, Hazlitt, I. note to p.165)
と評している。最初の、というのは、フランス革命勃発の時期を頂点として行なわれた Burke の一連の弾
劾演説と、Reflections on the French Revolution に特に顕著な、観念的ヒューマニズムと功利主義に対する
盪
批判の先駆をなしたという意味であろう。結局、ユダヤ人帰化法案は両院を通過したが評判が悪く、翌
1754年に廃止された。下院に再上程されたのは1833年以降のことである。しかしそのたびに貴族院
(House of Lords)の頑強な抵抗に会って葬り去られた。修正案の形で両院を通過したのは1860年のことで
あった。イギリスの国内情勢がユダヤ人を受け入れるまでには長い年月を要したのである。1753年に制定
公布されたユダヤ人帰化法が僅か一年で廃止されたということは、その法律はもちろん、法案支持者たち
の未熟さと見識の無さ、そして何にもまして状況判断の甘さを物語っている。反対した者たちは全面的に
正しかったと言うのも早すぎる。なぜならそこには根強い人種的偏見も働いていたからである。 Lord
Egmont は、その笑い顔を見た者は一人もいないと言われたほどの謹厳な紳士であった上に、貴族意識が
極めて強い人であったから、もしかしたらユダヤ人に対する差別意識も強かったのかもしれない。現にそ
れを物語るような彼自身の発言もあったと伝えられている。
(cf. National Biography の Egmont の項)。そ
れは多かれ少なかれ誰にもある限界と言うべきであろうが、別の問題に属することである。法案や法律の
良し悪しと、法制化の時期という問題は、いかなる意味であれ、一面的な見方によって判断されてはなら
ないのである。Egmont の演説の骨子、「いかなる事柄であろうと、それが置かれた状況と諸事情に照らし
て判断しなければならない。背景あっての事柄であって、両者は断じて切り離すことはできない」という
発想が重要である。誇り高いイギリス貴族の倣岸とさえ受けとめられる演説口調の中に、相手の非を追及
する時の率直で迫力のある大胆な語法にBurke は注目し、国会議員としての自分のために、これを他山の
石としたのであろう。この演説の骨子と、それに通ずる Burke の語法と文体を高く評価した文人 Hazlitt
自身を語って興味深い。(この項は<18世紀イギリス国会の雄弁家たち>『東京成徳大学研究紀要』No.2−
1995.3.15 −に基づいている。
)
眄
眩
眤
眞
眥
眦
眛
眷
眸
睇
G.B. Hill (ed.), Boswell’s Life of Johnson (Oxford, Clarendon, 1934), vol. IV. 407.
Burke, III. 331.
ibid. 410.
ibid. 558.
ibid. 240.
ibid. 242.
ibid. 295.
ibid. 246.
ibid. 243.
cf.「18世紀イギリス国会の雄弁家たち」『東京成徳大学研究紀要』No.2. Lord Chatham についても、こ
れを参照されたい。
睚
Hazlitt, VIII. 50.
ibid., II. 297-300.
睫 ibid., VIII. 107.
睨
15