苫小牧駒澤大学紀要 第 14 号 児玉作左衛門のアイヌ頭骨発掘(1) ……………………………… 植 木 哲 也 ………… 1 ̶̶ 背景と概要 ̶̶ 「ジャパニーズ・オンリー」批判、人種差別を考える(英文) ……………………………………………………… ロバート・カール・オルソン ………… 29 近代日本に於る参審の伝統 ̶̶ 裁判員制度を契機として ̶̶ ……… 石 田 清 史 ………… 45 日本における「リンガ・フランカ」としての英語が出現した歴史的背景(英文) …………………………………………………… セス ユージン・セルバンテス ………… 77 インタビュー活動を用いた「日本事情」科目の実践 ……………… 野 田 孝 子 ………… 103 <翻訳>どうしてシマウマは黒いシマシマなの? ………………… 加 藤 登喜男 ………… 113 苫 小 牧 駒 澤 大 学 2005年11月 BULLETIN OF TOMAKOMAI KOMAZAWA UNIVERSITY Vol.14 Notes on the Excavations of Ainu Skulls by Kodama Sakuzaemon(1): Background and Outline ……………………………………………………………………… UEKI Tetsuya ………… 1 Not Only Japanese: Considering racism. ……………………………………………………………… Robert Carl OLSON ………… 29 Upon tradition of the participatory court in modern Japan: focus on the institution of civil associate judge, …………………………………………………………………… ISHIDA Kiyoshi ………… 45 The Historical Context Surrounding the Emergence of English as a Lingua-Franca in Japan ……………………………………………………… Seth Eugene CERVANTES ………… 77 Implementation of Interviews on the Subject;Nihon-Jijo(Aspect of Japan) …………………………………………………………………… NODA Takako ………… 103 [Translation and Original Text]How Zebra Got Their Black Stripes? ……………………………………………………………………… KATO Tokio ………… 113 TOMAKOMAI KOMAZAWA UNIVERSITY November 2005 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 苫小牧駒澤大学紀要第14号(2005年11月30日発行) Bulletin of Tomakomai Komazawa University Vol. 14, 30 November 2005 児玉作左衛門のアイヌ頭骨発掘(1) ―背景と概要― Notes on the Excavations of Ainu Skulls by Kodama Sakuzaemon (1) : Background and Outline 植 木 哲 也 UEKI Tetsuya キーワード:日本学術振興会 民族衛生学会 人類学 優生学 墓地 Abstract Kodama Sakuzaemon collected lots of skulls and goods from Ainu graves in Hokkaido, Sakhalin and the Kuril Islands. Although his excavations have been criticized by Ainu people, they still hold a decent position in the academic field. The opposite attitudes toward them disclose the social power activated behind the authority of academic knowledge. The first part of this paper tries to provide the background and the outline of Kodama’s excavations. The craniological studies resulted from them and their socio-political problems will be treated in the next part which will appear in the following volume(s). 1 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 1.はじめに 1982年北海道大学医学部は、北海道ウタリ協会の問い合わせに対して、1004 体のアイヌ人骨が同学部に保管されていることを発表し、人骨を可能なかぎり 返還し、 不可能なものは学内に「納骨堂」を建設して保存することを約束した。 「納骨堂」は1984年夏に完成し、 それ以来ウタリ協会によるイチャルパ(供養祭) が毎年行われている。しかし、同協会に先立って人骨の保管状況を問い合わせ た海馬沢博に、北大は「学術研究」を理由に回答を拒んでいた(深尾1983)。 またウタリ協会の要請に対しても、最初は同じ理由で返還に難色を示した。返 還も納骨堂も、アイヌ側の再三の訴えと譲歩の上の出来事だったのである。こ のとき北大がその理由として持ち出した「学術研究」とは、児玉作左衛門によ るアイヌ頭骨の発掘に端を発する研究に他ならない。 児玉によるアイヌ人骨発掘は、これまでも非人道的研究の典型としてしばし ば言及されてきた。たとえば1985年にチカップ美恵子が更科源蔵らを相手に起 こした「アイヌ肖像権裁判」で、原告側は児玉を、「アイヌの墳墓を盗掘して その遺骨や副葬品を持ち出し、あるいは種々の詐言を弄してアイヌの家庭から 貴重な文化遺産を簒奪した張本人として、社会的に強く非難されている者」の 一人と規定し、さらに 「 北海道大学医学部教授という地位を利用し、昭和初期 から三十年代半ばまでの間に、実に千体以上もの人骨を採集した。同人は、畏 れるアイヌを自らの権威をもって威嚇し、墓を掘らせ、特に頭蓋骨だけを集め ていたのである」と批判した(現代企画室1988、23、65)。 しかし、それにもかかわらず、少なくとも「学術研究」の脈絡では、アイヌ 研究者としての児玉の位置づけや評価が大きく変化したようには見えない。た とえば、2000年9月9日から10月9日まで名古屋市立博物館は、「馬場・児玉 コレクションにみる北の民アイヌの世界」と題する特別展を開催し、「児玉コ レクション」を「国内最大規模のアイヌコレクション」と紹介した。また市立 函館博物館のホームページは、次のような解説を掲載している。 「函館出身の元北海道大学名誉教授児玉作左衛門氏は、第二次世界大戦前 後緊急を要するアイヌ民族学研究の中で、アイヌ民族資料の海外流出など の資料散逸を恐れ、私財を投じ約四十年におよぶアイヌ民族資料の収集・ 調査・研究に奔走しました。/収集された資料は、単に一研究者による収 集資料にとどまることなくわが国におけるアイヌ民族学研究の基本をなす 貴重な資料として、いつの頃からか「児玉コレクション」と呼ばれるよう になりました」1。 1 http://www.museum.hakodate.hokkaido.jp/ (2005 年8月 22 日ダウンロード) 。 3 植木哲也 児玉作左衛門のアイヌ頭骨発掘(1) 人骨は「貴重な」 「民族資料」の背後に隠され、 「学術研究」という壁が外部か らの批判をさえぎり、 「発掘」の浸食を防いでいる。 知に備わる力は、一方で自然を解明し人類に奉仕する力といえるが、同時に 人を脅かす権力や暴力ともなりうる。 「研究」や「学問」や「真理」は、時と して社会の規範を超え、これを抑えこむほどの力を発揮してきた。児玉らの墓 地発掘は、民族差別の問題としてだけでなく、知の権力作用という観点からも、 重要なテーマを提起しているのである。 ところが、あくまで管見の範囲ではあるが、この発掘の実態は依然として断 片的にしか語られていないように思われる。実際、 研究史を扱った文献でさえ、 アイヌ墓地発掘にはほとんど触れていない2。以下では、今後の検討のための 予備作業として、児玉の人骨発掘全体の素描を試みる。未見の資料も数多く残 され、経過報告ないし個人的備忘録の域を出るものではないが、最初に発掘の 背景と概要をまとめ、次号以下で研究内容や力学的問題などを検討する。 2.墓地発掘の背景 2−1 アイヌ墓地「発掘」の系譜 アイヌ墓地の 「 発掘 」 は児玉にはじまるものではない。欧米で人類学的研究 が生まれ、比較解剖学的視点でアイヌ頭骨の研究が開始されるとほぼ同時に、 研究者によるアイヌ墓地の「発掘」がはじまった3。 日本で、アイヌ墳墓からの人骨の「発掘」が最初に問題とされたのは、慶應 元年(1865年)の道南の森と落部の事件である4。箱館の英国領事館員2名と 博物学者1名が、森村から4体、落部村から13体のアイヌ人骨を密かに持ち出 した。落部の発掘は村人に発見され、アイヌの訴えで箱館奉行が英国領事と交 渉し、持ち出した3名は最終的に犯罪者として処罰された。英国領事は解任さ れ、骨は返還された。アイヌへ慰謝料も支払われることになり、これをもとに 2 たとえば、藤本(1983)も児玉のアイヌ墓地発掘については、 注(同 181)で児玉(1936) に言及しただけで、本文では何も触れていない。 3 児玉によれば、アイヌ頭骨の研究は、1867 年に英国人ジョージ・バスク G.Busk が北 海道アイヌの頭骨1つを計測したのが最初である。続いて 1870 年にデイビス J.B.Davis が4個の北海道アイヌ頭骨を計測した。それ以後、欧米の研究者たちが、数多くのアイ ヌ頭骨毛計測を行なっている(児玉 1939、2-8、伊藤 1971b など) 。 4 この事件については、国立公文書館の内閣文庫に記録が残っている(外務省記 1866) 。 これらにもとづいて、かつて阿部正己が『人類学会雑誌』に事件の概要を報告し(阿部 1918<1983>)、近年小井田武(1987)が資料を分りやすく整理した。また大塚武松(1967、 第 12 章)は英国側資料を用いて英国側の対応を検討している。事件の簡単な解説は数多 くの文献に見られる。 4 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 13人の墓碑が建立された5。 一方、森の4体はロンドンへ持ち去られ、英国側は箱館奉行の再三の要請に あいまいな返答を繰り返していたが、ようやく慶應3年4月になって返還され た。しかし、返還された骨の真偽については疑問が多く、盗掘された骨はロン ドンにそのまま残されたと考えられている6。 アイヌの頭骨を必要としたのは、人類学者や博物学者たちだった。領事館員 はその要請を受けて、アイヌの骨を持ち出した。しかし、いずれにせよこの事 件では、墓地発掘は最初から犯罪とされ、 「研究」が持ち出されることも、ま してそれを理由に免罪されることもなかった。 その後、明治維新を経て、東京大学(後に帝国大学)を中心とする学術研究 体制が確立されるとともに、E. モースらお雇い外国人教師によって日本に近 代的学術研究がもたらされた。1884年には坪井正五郎を中心に東京人類学会が 設立され、考古学や人類学の研究が本格化する。その中で日本人の起源をめぐ る論争が起こり、坪井らによってコロポックル説が唱えられると、アイヌへの 人類学的関心が高まっていく。 同会の会員の一人だった帝国大学医科大学解剖学教授の小金井良精は、1888 年と1889年の夏、 「アイヌ人種取調の為に」北海道を旅行した。「成るべく多数 の頭骨、骨格を蒐集する」ために行なわれたこの旅行中に、彼は160余りのア イヌ頭骨を収集する7。しかし、小金井は犯罪者として咎められるどころか、 先々で和人たちから歓待されただけでなく、この発掘によって集めた頭骨の計 測にもとづく数多くの論文を発表し、日本を代表する解剖学者・人類学者とし ての地位を確立していく。 小金井らによって始められた頭蓋測定学は、大正時代になると統計的手法の 導入とともに、発掘人骨の計測による論文を大量に生むようになる。その中心 は、京都帝国大学医学部の清野謙次だった(松村1934)。清野は各地の貝塚の 発掘を積極的に推し進めただけでなく、1924年夏樺太でアイヌの墓を発掘し、 5 小井田(1987、272)。しかし、『落部村郷土史』には、アイヌは御会所の庭に土下座し て話を聞かされただけで、誰も慰謝料をもらわなかったという話が記載されているとい う(小井田 1987、276)。 6 森の骨はいったんロンドンに運ばれ、博物学者デイヴィスの手に渡っている。箱館領 事だったワイスは、帰国後これを取り戻し日本に送ったとしているが、疑問が多い(大 塚 1967、386-7)。 7 1888 年には坪井正五郎が一所だった。この発掘旅行については、小金井良精(1935) や、小金井の日記にもとづいた星(2004a、2004b)に詳しい。1889 年は妻喜美子が同行 した。旅行の様子は喜美子が詳しく記しているが、発掘は触れられていない(小金井喜 美子 1897)。 5 植木哲也 児玉作左衛門のアイヌ頭骨発掘(1) 50体以上のアイヌ人骨を持ち帰り、日本原人説を唱えた8。 児玉作左衛門の発掘はこうした研究の延長線上に位置している。児玉自身、 論文の中で欧米の研究者とともに小金井と清野の研究を取り上げ、その説を検 討・批判している。しかし、小金井や清野の発掘は、犯罪とはされなかったも ののあくまでアイヌの眼を盗んで行なわれ、また大学から資金提供を受けたと 思われるものの研究者個人の学問的関心の範囲を大きく超えるものではなかっ た。これに対して児玉の発掘は、設立されたばかりの日本学術振興会の研究調 査活動の一環として、日本民族衛生学会関係者たちと連携をたもち、北海道帝 国大学解剖学教室を動員し、アイヌ自身の「協力」を取り付けた組織的研究と して行なわれた。アイヌ墓地の「発掘」は、最初は犯罪として処罰されたが、 学術研究体制の確立とともに、 大規模な組織的活動へと変遷していくのである。 2−2 日本学術振興会の発足 児玉の発掘が行われた1930年代は、国家による科学的研究の動員が始まった 時代である。第1次世界大戦以来、国家総動員態勢の必要が説かれるようにな り、1927年に内閣資源局が設置され、科学研究の拡充に向けた取り組みが始ま っていた。その流れの中で、学術振興に関する具体的計画を確立する必要性が 学界関係者からも唱えられるようになる(広重1979、202-11)。 1930年代になると、日本が「各方面にて非常な難関に遭遇し世界の産業的経 済的競争」が激烈になるとともに、 「此の難関を確実に打開し又此の競争に有 意を確保すべき根本的対策は学術研究の振興を措いて他に」ない、という声が 科学界に高まった9。1931年1月帝国学士院院長の桜井錠二、同委員の古市公 威、小野塚喜平次を中心にして、学術研究推進機関の実現をめざす運動が起こ り、同年3月には学術振興に関する建議が貴族院・衆議院両議会に提出された。 これらは満場一致で可決され、7月には具体案が政府に提出される。「学界の 運動は国防界並産業界の権威より絶大の熱誠を以て迎え」られ、「学界国防界 8 発掘の様子は、清野(1943、215-61)に詳しい。清野について若干補足しておくと、 中国で細菌戦の研究を行なった 731 部隊が京都帝国大学医学部へ研究者の派遣を求めた 際、医学部長の戸田正三らとともにこれに積極的に協力し、関係者に部隊への参加を勧 めた人物である(常石 1994、220f)。清野は京大医学部で病理学研究に従事するとともに、 考古学にも深くかかわり、この「裏芸」が嵩じて、京都の寺院から多数の古文書や経典 を持ち出し、1938 年6月 30 日京都府警察太秦署に逮捕された。最終的に大阪控訴院の 第2審で懲役2年執行猶予5年の刑が確定し、1941 年に京大を辞職。戦後は厚生科学研 究所長や東京医科大教授を務めた(渋谷 1987)。 9 日本学術振興会(1935)。引用に際しては、原文カタカナをひらがなに、また漢字の字 体を現代風に改めた。他の文献についても同様の処理をした場合がある。 6 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 及産業界が協力同心速に学術の振興を図り以て国防の充実産業の開発を期すべ しとの意見の完全なる一致を見るに」至ったという。翌1932年9月に文部大臣 が学界、産業界、国防界などの代表と協議し、同年12月財団法人日本学術振興 会が設立された。 「学振」は当初、学術の振興を通じた「国防の充実」「産業の 開 発 」 を 目 指 し て い た の で あ る( 日 本 学 術 振 興 会1935、1-2、 広 重1965、 147f) 。 同会の総裁には秩父宮雍仁親王が、初代会長には内閣総理大臣で海軍大将の 斉藤実が就任した。組織は理事会、評議会、幹事、総務部、学術部から構成さ れ、25名の理事は主に政府官界、経済界、軍部、学界の関係者が参加し、大学 からは東京、大阪、東北、京都の各帝国大学および早稲田、慶應義塾の総長が 名をつらねていた(同2-3、6-7) 。 資金は、天皇からの下賜金、政府補助金、寄付金にもとづき、すでに1932年 8月に基金補助として150万円の「下賜」が申し渡されていたが、1934年1月 の時点までに下賜金90万円、政府からの補助金70万円が振興会に支払われた。 寄付金は、産業界を中心に1934年3月31日現在で180万6611円の申し込みがあ り、42万6111円が収入済みとされている。最も多額の寄付を申し出たのは、三 菱合資会社の岩崎小彌太と三井合名会社の三井高公で、ともに50万円、つづい て住友合資会社(住友吉左衛門) 、南満州鉄道株式会社(林博太郎)の25万円 だった(同65以下) 。当初振興会は、基本金2000万円をめざしたが、予期した ほど寄付が集まらず、実際はその10分の1ほどだったという(広重1979、 205-6) 。 学術推進事業を実際に取扱ったのは学術部で、部長1名(長岡半太郎東北帝 大総長) 、常任主任1名が置かれたほか、研究助成の審査機関として、専門分 野別に以下の12の常置委員会が設置された。 第一常置委員会 法律 政治学 第二常置委員会 哲学 史学 文学 第三常置委員会 経済学 商業学 第四常置委員会 数学 物理学 天文学 地球物理学 第五常置委員会 純正化学 応用化学 薬学 農芸化学 化学工業 第六常置委員会 地質学 地理学 海洋学 第七常置委員会 動物学 植物学 人類学 第八常置委員会 医学 衛生学 第九常置委員会 応用物理学 機械工業 船舶工業 航空機工業 採鉱 学 冶金学 第十常置委員会 応用電気学 電気工業 7 植木哲也 児玉作左衛門のアイヌ頭骨発掘(1) 第十一常置委員会 土木学 建築学 第十二常置委員会 農学 林学 獣医学 水産学 また各常置委員会には、 「特別委員会及各種の小委員会を設置して現下の重要 問題に対し本会自ら総合的研究を為す」こととされた。 学術振興会の研究助成は、1) 外部からの申請を診査し援助を与えるものと、 2)学術振興会自身が研究調査を行なうものに別れていた。研究助成は1933年 度から開始され、外部研究への助成として、前期141件の申請に対して25万 5833円50銭、後期164件に対して25万6740円35銭の補助が決定された(同、 10、14)10。さらに、 「学術部の提案に依り審議の結果本会の研究調査事項」と して、10の研究テーマが採択され、それに応じて小委員会が設置された。その 中の一つが、第八小委員会の「 「アイヌ」の医学的民族生物学的調査研究」で あり、児玉らの発掘はこの調査研究の一部として行なわれたものである。これ ら10件の各小委員会番号と、研究調査事項、委員長名、所属常置委員会番号は 以下のようになる(同56) 。 第一 秘密を確保する無線通信の研究 渋澤元治 第十 第二 金属材料常数の調査研究及蒐集 小野鑑正 弟九 第三 流行性脳炎の研究 稲田龍吉 第八 第四 電気鎔接に関する総合的調査研究 松縄信太 第十 第五 金属木材等の腐蝕防止方法等に関する調査並研究 平賀 譲 第九 第六 米穀根本政策に関する理論及実際的研究 河田嗣郎 第三 第七 「トラコーマ」に関する研究 長与又郎 第八 第八 「アイヌ」の医学的民族生物学的調査研究 永井 潜 第八 第九 明治以降立法史料の蒐集編纂 加藤正治 第一 第十 宇宙線の研究 岡田武松 第四 第八小委員会を含めて医学・衛生学の第八常置委員会の研究が3つのほか、 第九、第十常置委員会がそれぞれ2つずつと、時代背景を反映した応用的研究 が多く、題名から推測する限り、純粋科学的研究は第十小委員会の宇宙線の研 究だけである。いずれにせよ、国家的事業として設立された学術振興会による 「現下の重要問題」の1つとして、児玉らの研究は行なわれた。当時の学術研 10 アイヌ関連の研究としては、第二常置委員会の補助金として、東京府立第七中学校教 諭の久保寺逸彦による三つの研究テーマ(「「アイヌ」叙事詩演奏の「レコード」の吹込」 、 「「アイヌ」風俗の十六密映画撮影」、「「叙事詩神謡聖伝の本分並訳注」出版」 )に対して 補助金が支給されている。 8 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 究態勢の中で、アイヌ研究が重要な地位を占めていたことがわかる11。 第八小委員会は、東京帝国大学医学部教授の永井潜が委員長を務め、以下の 7つの部門から構成されていた。カッコ内は担当者と所属機関である。 解剖学部(北大教授・山崎春雄、児玉作左衛門12) 生理学部(東大教授・永井 潜) 民族生物学部(金大教授・古屋芳雄) 衛生学部(北大教授・井上善十郎) 病理学部(北大教授・今 裕) 内科学部(北大教授・有馬英二) 精神病学部(北大教授・内村祐之) ここに見られるように、担当者の大半を北海道帝国大学の関係者が占めている ことから、この調査は日本学術振興会とともに、同大医学部が重要な担い手で あったことが理解される(日本民族衛生学会1934) 。 2−3 永井潜と日本民族衛生学会 さらにもう一つ、重要な組織がここに関わっていた。北大以外から調査に参 加した二人のうち、委員長の永井潜は日本民族衛生学会の発足以来の理事長で あり、古屋芳雄も同会の理事の一人だった。1933年12月発行の『民族衛生』第 3巻第2号にも、 「アイヌ人の民族生物学的研究の開始」が報告されている。 それによれば、1932年夏古屋は北海道を旅行し「アイヌ部落の戸口調査」を行 なったが、この調査が継続事業となり、永井、古屋らが北大の専門家と連携し て調査団を組織し、 「絶滅に頻せるアイヌ民族の体質、衰亡の原因、混血問題 等の重要事項を調査研究し、世界の学界へ発表せん」こととなったという。こ の調査に対して「今回学術振興会より研究費の補助が決定」されたと述べられ、 学術振興会の理事林春雄とともに永井が冬の北海道へ出かける旨が報じられて いる(日本民族衛生学会1933b) 。学術振興会による調査研究は、同時に民族 衛生学会の事業の継続拡大という側面を合わせもっていた。 11 1926 年東京で「第三回汎太平洋学術会議」が開催され、内外から 1000 名以上の科学 者が参加し、空前の規模となった。「人類学及び人種学」分科会が設けられ、 「アイヌ民族、 その起源と他民族との関係」が中心テーマとして取り上げられ、アイヌへの国際的関心 の高さを印象づけた。坂野(2003)は、このことが、「世界の学界へ」研究成果を発表さ せようとする日本学術振興会の理念に合致し、アイヌ研究費の補助につながったとして いる。 12 『民族衛生』第3巻第6号の雑報では、児玉は助教授となっているが、他の資料では 1929 年から教授である。 9 植木哲也 児玉作左衛門のアイヌ頭骨発掘(1) 1859年にダーウィンが『種の起源』で自然選択説を説き、フランシス・ゴル トンが1883年に「優生学」を提唱すると、進化論や優生思想は、「生存競争と 自然淘汰」 「優勝劣敗・適者生存」の公式のもとに、社会ダーウィニズムとし て日本に流入した13。永井潜は第一次大戦ころから優生思想の啓蒙に積極的に 努めた人物である。彼は、 『婦人公論』など一般向け雑誌を通じて優生思想の 啓蒙活動を行う一方、遺伝的に優れた子孫を残すことが国家の興亡に密接な関 係を持つとして、優生学的政策の必要性を政府に対して積極的に提言していた (藤野1998、52-60) 。 こうした流れを受けて、国際的優生学会に加盟可能な専門性を備えた学会と して、東京帝国大学医学部の生理学教室教授だった永井を理事長に、医学者や 遺伝学者からなる「日本民族衛生学会」が、1930年11月30日に設立された。優 生学的問題は個人的幸福の問題ではなく、民族全体の重要時であるという観点 から、 「民族衛生」の語が「優生学」に代って用いられた(藤野1998、80、 110、115) 。 同会の目的は学術研究だけでなく、優生政策実施に向けた民衆の啓発や世論 喚起にもあった。学会事務局は東京帝大生理学教室に置かれたが、断種法案の 作成、講演会、 「結婚衛生展覧会」 、 「優生結婚相談所」などを通じた優生思想 の普及活動や、優生学的視点からの結婚指導などが、学会の事業として実施さ れた(藤野1998、142-4) 。1935年9月には、当所の「学会」から「財団法人日 本民族衛生協会」に改組している。 日本学術振興会の調査研究が民族衛生学会の主導で実施されたということ は、そこで実行されたアイヌ研究もまた優生学的思想の支配下にあったことを 意味する(藤野1998、216-59)14。 2−4 第一回調査 学術振興会第八小委員会のアイヌ調査団は、1934年7月11日から29日にかけ 13 明治以来の研究者たちが、アイヌを「滅びゆく民族」と規定し、民族差別を助長した ことにも、進化論の影響が明白に見てとれる(Siddle1996、モーリス = 鈴木 2000 など) 。 14 アイヌ調査団の一員に名を連ねた古屋芳雄も、断種法推進論者の一人であり、ナチス のユダヤ人排斥について、「国際道徳の立場から彼是といふべきことではない」とし、ユ ダヤ人の「個人主義的自由主義的な本質は非常に恐ろしいもの」だから、 「こんな人種を 排除するのは、已むを得ないことだ」と主張していたという(藤野 1998、302-3) 。また 同会設立に先立つ 1928 年5月、民族の素質が低下し劣悪化するという危惧から、国民の 注意を喚起するために日本赤十字社が開催した「民族衛生展覧会」で、 氏原佐蔵が講演し、 淘汰され衰退していく「劣性民族」の事例として、アイヌ民族や、 「褐色、黒色民族」が 挙げられたという(藤野 1998、140-2)。 10 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 て、約40名の調査員を動員し、北海道沙流郡平取村で第一回調査を行なった。 『民族衛生』は、この模様を「堂々たる学術的エキスペヂションの観を呈した」 と報告している。調査団は各小学校で多数のアイヌ児童を調査したほか、778 名(男子295名、女子483名)の「土人来訪者」の診療を行い、対照として、同 一地方に住む和人についても各種の調査が行なわれた。 一方、解剖学部はこれに先立つ1934年5月から、八雲町ユーラップ浜で「土 人墓地を発掘」し、 「人骨格の完全なるもの計一三一体を蒐集」し、計測を開 始した。これが、児玉作左衛門らによる大規模なアイヌ墓地発掘のはじまりで ある。 『民族衛生』は、調査から得られた興味深い事実として、アイヌの頭部測定 の結果は和人より変化範囲が狭く人種的純粋度が高いこと、トラホームを筆頭 に97.3%が眼病患者で失明に近い者もいること、顎骨が発達し歯牙が健全で虫 歯が稀なこと、結核感染度は意外にも比較的低くツベルクリン陽性反応は12.3 %にすぎないこと、黴毒の血清反応陽性者は高く39.5%にのぼること、を挙げ た上で、今回のアイヌ調査を「活きた材料による優生学的研究」と規定し、 「吾 等文化民族の将来の発展進化の上に大きな波紋」を与えるだろう、と記してい る(日本民族衛生学会1934) 。 3 アイヌ墓地の発掘調査 3−1 児玉作左衛門 児玉作左衛門は1895年秋田県に生れ、父の開業にともない5歳の時から函館 で育ち、弥生小学校、函館中学校を卒業している。児玉の父は眼科医で、トラ ホームの専門家であるとともに、熱心なクリスチャンで、骨董品を蒐集し、児 玉によくアイヌの話をしたという。その後、児玉は第二高等学校を経て、東北 帝国大学医学部に進学し、解剖学教室で布施現之助から脳について、また長谷 部言人から頭蓋について教えを受けた。1920年夏、長谷部とともに熊本の轟貝 塚で石器時代人骨の発掘を行なったのが、児玉のはじめての発掘である。卒業 後、同学部助手、助教授を務めた後、チューリッヒのモナコフ von Monakow のもとで3年間学び、1928年に中枢神経系に関する一連の解剖学的研究で博士 号を取得した。1929年に平光吾一の転出にともない、その後任として北海道帝 国大学医学部に教授として赴任し、解剖学第二講座を担当した。 北大への赴任に際して、児玉は長谷部や海外の研究者たちからアイヌ研究に 従事することを期待され、自身も「こどもの頃から親しみをおぼえていたアイ ヌの研究ができるというので非常に喜んだ」 。しかし、北大にアイヌの骨はわ ずかしかなく、石器時代の骨については皆無である事実を知り、前途に「多少 11 植木哲也 児玉作左衛門のアイヌ頭骨発掘(1) 15 悲観的の気分」になったという(児玉1969、146) 。 その後児玉は、北大がアイヌ人骨蒐集に消極的だった理由を次のように推測 している。アイヌたちは、和人により侮辱、圧迫、酷使され、さらに騙され欺 かれてきた。だから憎悪と反感を懐いている。そのために北大の研究者たちは アイヌを刺激しないよう、細心の注意を払い、アイヌ骨格の蒐集に積極的でな かったのだ。その上で児玉は、清野謙次による樺太での発掘と慶應元年の落部 の盗掘事件を挙げ、 「現行の墓地の発掘は、たとえ目的が学術研究であっても、 人道上の問題となることは明白である」として、はげしく非難している(同148) 。 北大に赴任すると同時に、児玉は積極的にアイヌ人骨の蒐集を開始した。発 掘の必要性を児玉は次のように説明する。アイヌ民族は古くから研究者の注目 を浴び、風俗、習慣、言語など民族学的観点と、体質を研究する人類学的観点 から研究がなされてきた。しかし、 「近年北海道及び樺太の開拓が進展すると 共に、和人との混血が広く行はれ、純粋なアイヌは次第にその数を減じ、また その固有の風俗習慣も漸くその影を没せんとしている。そこで吾々の携はって いる体質人類学方面に於ける目下の急務は、出来る丈広く純粋なアイヌに就て 計測記載して置く事である」 。そのためには、当然「その骨格の蒐集に努力し なければなら」ない。そして、こうして「遠い往昔の石時代のものから近代に 至る迄の多数の骨格を蒐集して比較研究し得れば、 実にアイヌ研究のみならず、 わが日本民族の体質研究に非常に大なる貢献となるものである」(児玉1936、 1-2) 。ここには、 「その影を没せん」としているアイヌの研究は緊急を要する、 という論点と、アイヌの研究は最終的に日本民族の研究である、という論点と の二つが明確に見てとれる。いずれも明治以来、アイヌ学者たちによって繰返 し用いられてきた論法である。 児玉はその後1943年から医学部長、1948年から北方文化研究室主任を務め、 1959年に北海道大学医学部を定年退官。1970年12月26日午前1時20分、心筋梗 塞で死亡した(伊藤1971a) 。 3−2 発掘のあらまし 児玉は晩年にアイヌ研究を一冊にまとめ、北大医学部から英文で刊行した。 その中で自分の研究を三つの時期に区分している(Kodama1970, preface)。 第一期 1930 ∼ 40年 アイヌ研究の最初の段階で、児玉にとって「満足すべき成果」を得られた 15 当時北大にあったアイヌ人骨の個体数については、7、8体(児玉 1953、 38) 、 12、 3体(児 玉 1969)、15 体(Kodama1970、preface)と、児玉の記述は一定していない。 12 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 時代。 「いわゆる典型的アイヌ so-called typical Ainu」に直接聞くことが できただけでなく、民族誌的資料を容易に手に入れることも、習慣や慣習 を調べることもできた。 第二期 1941 ∼ 50年 第二次世界大戦のためにアイヌ研究を中断せざるを得なかった時期。戦後、 児玉と面識のあったアイヌの大半が死亡し、伝統的な衣服や習慣や住居が 急 速 に 失 わ れ た が、 一 部 の ア イ ヌ 集 落 で は、 な お「 比 較 的 純 粋 な comparatively pure」習慣や風習が見られたという。 第三期 1951-70年 アイヌの生活は伝統的儀式を除いてほぼ和人化され、展示用を除いて伝統 的家屋はなくなった。伝統的織物や彫り物も観光用だけになり、生活は完 全に近代化されたが、なお「いわゆるアイヌ的顔だち so-called typical Ainu features」を若干観察することができた。 日本学術振興会第八小委員会による発掘は、児玉のいう第一期に、1934年か ら1938年にかけて集中的に行なわれた。最初の大規模な発掘地は、北海道南部 の八雲町ユーラップである。この発掘については、 児玉自身が1936年の論文「八 雲遊楽部に於けるアイヌ墳墓遺跡の発掘について」 (『北海道帝国大学医学部解 剖学教室研究報告』第1号)で詳しく報告している。その後1938年までに、同 じ道南の落部、長万部、森、十勝の浦幌、さらに当時日本領だった樺太栄浜、 北千島シュムシュ島などで大規模な発掘が行われた。これらについても、発掘 の様子は児玉自身の1939年の論文 「アイヌの頭蓋骨に於ける人為的損傷の研究」 (『北方文化研究報告』第1号)から窺うことができる。これら以外にも、児玉 は各地で小規模な発掘や人骨蒐集を行なっている。 その後、児玉は1941年に網走のモヨロ貝塚の発掘を行なったほか、戦後にな ると貝塚の発掘と石器時代人骨の蒐集を積極的に推し進める。アイヌ頭骨の蒐 集も続けられ、児玉自身の発掘ではないが、1955年と1956年には北大医学部第 二解剖学教室によって、日高地方静内町でアイヌ墓地の大規模な発掘が行われ た。 3−3 八雲ユーラップでの発掘 3−3−1 発掘地の概要 先に述べたように、学術振興会解剖学部によるアイヌ墓地の「発掘」は、 1934年5月に八雲町ユーラップ浜で開始された。八雲町はもともとアイヌの集 落があるだけだったが、明治11年に尾州藩主徳川慶勝が移住し、内陸部に農場 を開いた。当時、戸数約2,500、人口15,000で、道南における中心的都市のひと 13 植木哲也 児玉作左衛門のアイヌ頭骨発掘(1) つとなっており、すでに和人化が進んでアイヌは戸数18戸、人口は84人を数え るにすぎなかった。 アイヌの墓地は当初ユーラップ川河口付近のユーラップ浜にあったが、明治 になって別の場所に移動したため、当時アイヌで最長老(84歳)だったアルバ シ(八重ハル)も、そこに埋葬された記憶はないと語ったという。児玉は発掘 した墓地を、しばしば墓地「遺跡」と呼んでいる。 この墓地の中央を貫く通称 「 浜道路 」 を境に、児玉は北側を「北墓地」、南 側を「南墓地」と名づけた。北墓地はユーラップ川支流のトイタウシナイ川西 の藪で、当時は町有地になっていた。またこの墓地のさらに西側に八雲町の協 同墓地があり、当時すでにアイヌの墓地もこちらに移動していた。南墓地はユ ーラップ・コタンの西側で、トイタウシナイ川との間にあり、アイヌの椎久年 蔵が私有する放牧地となっていた。椎久もアルバシも墓の存在は知らなかった が、アルバシは幼い頃、両親から入って遊ぶことを禁じられていた場所だと述 べている。 この場所が選ばれたきっかけは、前年1933年夏の大雨で、八重棟仁太郎宅裏 でトイタウシナイ川の川岸が崩れ、そこから人間の頭骨その他が現われたこと にあった。その骨はすぐに埋め直され葬られたが、その年の秋に北海道帝国大 学農学部教授の犬飼哲夫が熊の研究のために八雲を訪れ、椎久年蔵からこの話 を聞いた。その後、農学部助手の名取武光が附近を試掘した。学術振興会の研 究を担当することになったばかりの児玉は、 「この報知を非常な期待を以て迎 えた」という。 児玉によれば、ユーラップ・コタンのアイヌ墓地は全部砂地のため、骨格の 保存が良好だった。北海道の土壌は一般に酸性度が強く、骨質の腐敗が甚だし く、「使用に耐へない」ものが多いのに対して、ユーラップでは、棺を用いて いないにもかかわらず、 「甚だ有益なる研究資料となった」という(以上、児 玉1936、4-13) 。 3−3−2 発掘の様子 「発掘」は1934年5月中旬から7月半ばすぎまで約2ヶ月に渡って行なわれ た(以下は主に児玉1936、13-20による) 。しかし、札幌での講義や実習の合間 をぬって、5回に分けて行なわれ、実質的な八雲滞在期間は1ヶ月ほどだった。 第1次発掘:5月中旬、八雲中学松木教諭の案内で現地を視察。椎久年蔵を訪 問し、発掘の「快諾」を得たという。翌日八重棟宅裏の藪(南墓地北部)を伐 採し周囲を試掘したところ、1、2体の人骨を発見し、発掘の見込みを確認し て、児玉は一次札幌に帰った。再び北大医学部解剖学教室の講師伊藤昌一、農 14 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 学部助手名取武光とともに発掘を再開し、最終的に14体を発掘。「最初崖崩れ の時に出たものを合して」総数20体と述べているから、大雨で出土し埋め戻さ れた人骨を、再び掘り出したことがわかる。 「発掘」に際しては八雲中の生徒たちが手伝った。またアイヌ「部落の人々 が多数見物に来て非常に邪魔になった」と児玉は述べている。特にアルバシ、 タマツル、フルチャリの三人は、 「静かにねむっているものを妨げるのは好ま しくない」と「不平」を言い、現場へ現われて、煙草、米、菓子などを供え、 供養を始めた。結局、 「部落の人々と相談して」供養をすることになり、町長 の内田に計り、 当時の新しいアイヌ墓地の中央に、 「八雲遊楽部ウタリー之霊位」 と記した墓標を立て、 5月23日にアイヌ関係者20数名とイチャルパを行なった。 この供養によって、それまで疑惑の念をいだいていた人々も好意を寄せるよう になった、と児玉は記している。骨は大学に保存し、研究資料とし、「惹いて は人種学上のアイヌの地位、並に吾が大和民族の祖先との関係の解決に資せん とするものである」ことを聞いて、アイヌたちは大いに安心し、中には大学で の保管を願い出る者もあったという。 しかし、一方で椎久の息子椎久堅市は、1982年10月10日の北海道新聞に、児 玉は「発掘後は慰霊碑を建てる、と約束したのに、木の墓標を立てただけ。そ れもすぐに朽ちてしまい、父やおじが戦後何度も催促した」という談話を載せ ている。また同じ記事で、老女のアルバシが戦争中になくなると、埋葬直前の その遺骨を北大は持ち去り、その息子が亡くなったときも持ち去ったと、椎久 堅市は語っている。 第2次発掘: 「町役場の許可を得て」北墓地を発掘。八雲中の生徒が手伝い、 多数の遺骨を発見したが、すべては発掘できず後日に回している。最終日に、 山越と八雲の中間にある奥津内のアイヌ集落痕を視察し、アイヌ墓地らしきも ので遺骨の存在を確認したほか、その翌日には長万部南部のワイル・コタンの 墳墓「遺跡」を視察している。 第3次発掘: 「椎久氏の申出により」 、放牧場(南墓地)を調べる。講師の伊藤 昌一、助手の松田清二、それに椎久年蔵ほか数名が手伝った。最初はなかなか 骨を発見できなかったが、しだいに多数の骨が発見されるようになり、児玉は 「誠に夢の様な気持であった」 。結局、最終的に63体の埋葬を確認した。多数の 骨がでたことにアルバシらは驚き、発掘に異議を申し立てる者はいなかったと いう。むしろ「厚い供養を受けて大学に永久に保管せられ、学界のために貢献 する事に対して、 心からの感謝の念を表はして呉れた」という。第3次発掘は、 6月中旬から約1週間の予定で行なわれ、途中医学部教授の井上善十郎が視察 に来て、発掘を手伝っている。 15 植木哲也 児玉作左衛門のアイヌ頭骨発掘(1) 第4次発掘:6月下旬、椎久の牧場の残り部分から63体を発掘。南墓地がほぼ 完了する。 「終りに近い日」に北大医学部の山崎春雄が手伝いに来た。学術振 興会第八小委員会解剖学部の担当者は山崎と児玉の連名だが、現場での実際の 発掘は児玉中心に行なわれたことがわかる。 この発掘の際に、徳川牧場の大嶋という人物に頼んで、発掘現場の測量地図 を作成している。また発掘の合間に森と落部を視察し、森では市街地中央部に 土地を持つ幾良鉄太郎というアイヌ老人に発掘の相談をするが、「即座に拒否」 された。落部では、慶應の盗掘事件の際にたてられたアイヌ13名の石碑が市街 地にあることを聞き、写真を撮影するとともに、その下を探したが、遺骨は確 認できなかった。石碑が移動されたため、当時の埋葬箇所はわからないが、 「い づれにしてもそれを捜索する事は甚だ興味ある事と思った」と、児玉は記して いる。 第5次発掘:伊藤昌一とともに、7月中旬に行なわれた。第2次発掘の際あと 回しにした北墓地南部で、23体を発掘した。北墓地全体で48体なったという。 「今迄掘った所を全部、地均しをして跡をきれいにして、最後の供養を済せて、 ユウラップの地に別れを告げた」 。 3−3−3 発掘数と副葬品 最終的に児玉らは、八雲で133のアイヌの墓を掘った。掘り出された遺骨の 内訳は、男59、女58、性別不明1、小児13、墓だけで遺骨のない不在葬が2で ある。男女の別は副葬品によって確認したという。また歯牙の状態から、遺骨 を年齢別に以下のように区別している。 小児(乳歯のみを持つ、6歳以下) 若年(乳歯と永久歯を持つ、6歳から15歳) 成年(永久歯のみを持つ、青年、熟年、初老を含む) 老年(歯牙の大部分が脱落し、歯槽が摩滅しているもの) これらの骨の一覧表が児玉(1936)の24頁に掲載されている。また、埋葬状態、 埋葬姿勢などについて、事例を挙げて詳しく説明されている。 児玉らは、副葬品を男女の判別に用いただけでなく、その発掘も行なった。 八雲ユーラップで発掘した副葬品を、児玉は以下のように記している。 「刀 剣 31本 タシロ 32本 マレップ 48個 銛 32個 マキリ 100本(男57・女43) 16 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 煙管 48本 完全なるもの36(男15・女21) 耳輪 53個(男16・女37)耳輪を所持せる骨格は38体で男15・女33 である 鍋 38個 鎌 58個 鉈 43本 飾玉 606個(男2体で10個・女36体で95個) 燧石 97個(男52・女45) 燧金 52個(男28・女24) 漆器破片 43体(男27・女16)に於て漆器破片を認めた。 其他のもの:骨器、雑魚針、弓、矢、矢筒、船釘、貝殻、稀に金製飾糸、 鋏、鑢、外人の金属製釦等。 」 さらに、刀剣やマキリなど約13点を並べた写真も掲載されている(児玉1936、 29-30) 。発掘に際して児玉らが墓から持ち出した副葬品の行方は、現在も明確 にされていない(Bogdanowicz2003) 。 3−4 落部での発掘 落部村(現在は八雲町の一部)での発掘は、1935年9月に行われた。当時、 落部のアイヌ墓地は市街地南方の共同墓地内に移されていたが、市街地中心部 の関口旅館裏の畑と木村金作所有の魚粕干場内にアイヌ遺体が埋葬されている という話を、安政2年生まれの木無キナから聞き、発掘を行なった。慶應元年 の盗掘のために英国領事館員たちが宿泊した床六の家が、当時の関口旅館だと されている(児玉1969、149) 。落部では103体の骨格を発掘し、その内82体が 成人(男40、女42)だった(児玉1939、27) 。その内、77の頭骨が児玉の研究 に利用された(Kodama1970、163など) 。 発掘は、9月3日に許可を取り、9月4日から解剖学教室助教授の伊藤昌一、 助手の榊原徳太郎、渡辺左武郎とともに行なわれた。魚粕干場の一隅に慶應元 年の事件の石碑があり、最初はその下を掘るが、骨格は発見されなかった。附 近を掘ると、頭骨のない骨格が次々と出てきたという。発掘4日目の9月7日 の午後3時になって、 二つの箱に収められていたと思われる骨格が発見される。 箱は腐ってなくなっていたが、一方には頭骨が、もう一方には他の骨が、箱の 形のまま詰まっていた。石碑からは10メートル以上離れていたが、調べると13 体分の頭骨があったため、児玉らは慶應元年に盗掘され埋め戻された骨である と推測した(児玉1939、29-30) 。この発見を渡辺左武郎は「愉快極まりなし」 と日記に記し、 「数々の発掘のうちでも、 労苦の報いられた憶い出の発掘である」 17 植木哲也 児玉作左衛門のアイヌ頭骨発掘(1) と回想している(渡辺1971) 。 石碑は、東流寺で法要の後、遺骨とともに北大へ送られ、新たに「旧土人之 墓」と刻んだ石碑が共同墓地に建てられた。その後、北大から返却され、八雲 郷土資料館に保管された(八雲町史編さん委員会1984、93)。現在は八雲町の 共同墓地に置かれている。 3−5 森での発掘 同じく1935年に行われた。 「発掘個所は幾良氏の住宅内の庭」にあると児玉 は述べているから、前年に断られた幾良鉄太郎の土地と思われるが、その後ど のような経緯で発掘を許されたかは明らかでない。幾良の記憶では明治初年こ ろまでアイヌ墓地だったという。 この場所から少し離れたところで、児玉らは「頭蓋及び四肢骨の一部が一ヶ 所に纏めて埋葬してあったもの」を発見し、慶應元年に森から盗まれロンドン から送り返された4体であろうと推測している。 1939年の論文で、森の発掘骨格総数は57体とされ、大人42、小児15で、「前 者のうち二例は頭蓋骨を欠いて」いたとしているが、一方で、得られた頭骨42 ともされていて、数字が合わない。なお森では、他の発掘地で見られた頭骨の 「人為的損傷」がまったく見られなかった(児玉1939、44)。 3−6 長万部での発掘 児玉(1939)は発掘年を記していないが、八雲の次に記されている点や地理 的関係から考えて、落部や森と同じ1935年に発掘が行なわれたと思われる。場 所は、長万部市街から東北2km ほどのボクサタナイ川東南側と、西南7km のワイル川河口付近の2ヶ所の「墓地遺跡」である。前者の一部は2、30年前 まで埋葬が行なわれていた場所であり、付近はもともと大規模な墓で、発掘さ れた遺骨は大体において明治初年前後のものだと児玉は述べている。ここから は20体が出土した。ワイル川河口付近からは不在葬1を含み11体分を発掘(骨 数は10)した。合計で墓31、遺骨30、頭骨数は29だった(児玉1939、23-4)。 3−7 十勝浦幌での発掘 これも発掘時期の記載がないが、1939年3月発表の論文で、落部の次に記載 されていることから、おそらく1935年ころの発掘と思われる。場所は、浦幌駅 西方約12km、十勝川東岸の浦幌村愛牛。雑木林の中の無縁墓地で、明治維新 以降のものと児玉は推察している。発掘総数62、内成人48で、頭骨数も48であ る(児玉1939、34-5) 。 18 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 この発掘のきっかけについて、児玉は次のような話をしている。1934年のユ ーラップの発掘が新聞に報道されると、道庁の刑事課から呼び出しを受け、次 席刑事から事情を聴取された。このことに立腹した児玉は刑事課長のところへ 出かけ、今後北海道の各地で行われる工事などでアイヌの骨が出たときは刑事 課から知らせるよう、協力の約束を取り付けた。その後刑事課の協力で400体 以上の骨が集まったとされ、 「十勝アイヌの集団発掘」もこの方法によったと 児玉は述べている。浦幌での発掘のことと思われる(児玉1969、148)。 3−8 樺太栄浜での発掘 1936年6月5日『樺太日日新聞』に、日本学術振興会第八小委員会の昭和11 年(1936)年度事業として樺太を訪問する研究者の陣容が掲載され、その中に 児玉の名がある。約30名が7月13日来島し、約11日間に各地に宿泊し、診療及 び調査にあたる予定だとされている。 研究事項と担当者氏名 生理学的研究 永井潜(東大教授) 民族衛生学的研究 古屋芳雄(金大教授) 体質人類学的研究 山崎春雄 児玉作左衛門(北大教授) 寄生虫学的研究 今 裕 (同) 衛生学的研究 井上善十郎(同) 内科学的研究 有馬英二(同) 眼科学的研究 越智卓見(同) 精神病学的研究 内村祐之(東大教授) 皮膚科学的研究 高橋信吉(長大教授) この記事からは、学術振興会の調査団にあらたに眼科学と皮膚科学の2部門が 追加され、7部門から9部門に拡大されたことが見てとれる。 また同紙1936年7月14日には、 「樺太土人研究の東大医学部長一行 十三日 の連絡で来島」の記事と写真があるが、どちらにも児玉の名前はない。省略さ れたのか、あるいは別の便で到着したのだろうか。いずれにせよ、樺太での発 掘はこの時期行なわれたと思われる(北海道大学古河講堂人骨問題調査委員会 2004、326、328-31) 。 発掘場所は、樺太東海岸の栄浜と隣接の内淵および魯禮(ロレイ)である。 栄浜では市街東端の遠藤漁場附近から8体、 内淵では内淵川の河口近くで18体、 魯禮で8体の34体を掘り出した。内淵ではこの他に小児の遺骸を12体掘り出し ている。 ところで、魯禮は1924年に清野謙次が発掘を行なった場所である。清野は、 19 植木哲也 児玉作左衛門のアイヌ頭骨発掘(1) アイヌの目の前で骨格を集めるわけにはいかないという理由で、内淵や白濱の ようなアイヌ居住地を避け、すでに居住者のいなくなった魯禮を選んだ(清野 1943、218) 。ところが、児玉は内淵でも発掘を行なった。先にも述べたように、 八雲ではアイヌ注視の中で発掘を行なっている。小金井や清野のように、アイ ヌの眼を避けようとする気遣いはまったくなかった。それだけでなく、清野の 発掘の 「 不道徳性 」 を強く批判してさえいる(児玉1953、39)。自分は批判さ れないと児玉に思わせたものこそ、研究の権力化の所産と言えるだろう。 なお、樺太には数回にわたって出かけたという記述がある(伊藤1971a、 143)ので、この前後にも発掘が行なわれたと推測される。 3−9 北千島での発掘 北千島シュムシュ(占守)島別飛(ベツトブ)での発掘は、1937年と38年の 夏に行われた。発掘に参加した渡辺左武郎によれば、「当時の解剖学教室にと っては画期的な大事業であった」 。1937年の北大解剖学教室北千島調査隊は児 玉を隊長とし、助教授の伊藤昌一ほか全体で6名が参加し、7月日露漁業の北 征丸に便乗し小樽港を出航した。宗谷海峡からオホーツク海を通り、中部千島 で太平洋に出た後、濃い霧に悩まされ、途中のポロモシリ(幌莚、パラモシル) 島で座礁しかけながら、シュムシュ島に到着した。翌1938年の発掘は伊藤を隊 長とし、助手の渡辺と西堀という学生の3名で行なっており、児玉は発掘隊に 加わっていない(渡辺1971a、1971b) 。 児玉らが発掘を行なったシュムシュ島は、1884年に日本政府による強制移住 の行なわれた島である。1875年に締結され樺太千島交換条約によって、千島列 島は日本の領土となったが、この地域はもともとロシアの影響が強く、千島に 居住するアイヌはロシア語を話し、ロシア正教会の信者となっていたため、彼 らがロシア側につくことを恐れた日本政府は、1884年シュムシュ島の住民97人 を強制的にシコタン島に移住させた。その後に無人で残された墓を、児玉らは 発掘したことになる。 児玉の説明によれば、アイヌが去って50年たち、昭和になって蟹缶詰工場が 建てられ始め、 「遺跡」の多い別飛地区でも工事が始まろうとしていた。工場 主任からの通知により、北海道庁と協議の上、 「遺跡」の一部を工事前に発掘 する計画が立てられたという(児玉1969) 。 発掘骨数は、児玉(1939)では、 「墳墓遺跡」から16(男5、女8、不明3)、 その附近などから頭骨12とされているが、渡辺(1971)や Kodama(1970)で は22と記されている。シュムシュ島の頭骨には森と同様に損傷がまったく見ら れなかった。銅製の十字架、首飾り、陶器などの副葬品が出土したことも児玉 20 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 は報告している(児玉1939、45) 。 3−10 戦後のアイヌ墓地発掘 八雲ユーラップからシュムシュ島までが、 「第一期」の発掘である。その後、 戦争によって中断したが、戦後に再びアイヌ墓地の大規模な発掘は復活する。 1955年と56年には、静内で大規模な発掘が行われている。 静内駅から300メートルほどは、明治初期から昭和初期にかけてアイヌ墓地 があったが、都市計画事業により墓地の改葬が行なわれた。その際に、北大医 学部第二解剖学教室とケパウの会によって共同で発掘が行われ、170体が発掘 された(静内町史編さん委員会1996、24) 。児玉自身は発掘頭骨数を132体と報 告している(Kodama1970、163) 。 発掘の中心となったのは、解剖学教室助教授の松野正彦だった。児玉自身は 日高地方で35体の人骨を蒐集しているが、これらは日高各地の複数の地域から 集められたもので、静内での発掘によるものではないとされる(Kodama1970、 164) 。児玉が静内の発掘にどこまでかかわったかは不明である。 その他にも、1965年8月21日から4日間、北大医学部は江別市対雁で樺太ア イヌの墓地を発掘している。周知のように対雁は、1875年の樺太千島交換条約 の際に、樺太アイヌが強制的に移住させられた土地である(樺太アイヌ史研究 会1992) 。この時、児玉はすでに北大を定年退官していた。 3−11 その他の発掘 以上が、大規模に行なわれた発掘であるが、これ以外に北見の常呂や網走で も「 集 団 発 掘 」 が 行 な わ れ( 伊 藤1971b、244) 、36個 の 頭 骨 が 発 掘 さ れ た (Kodama1970、163) 。浦幌の発掘からそう遅くない時期と思われるが、児玉 (1939)では触れられていない。また渡辺(1971a、4)も第一期の発掘の中に 数えていない。詳細は不明である。 これらの発掘のほか、小規模な発掘は道内各地で行なわれ、1984年の時点で 北大医学部に保管されていたアイヌ人骨の発掘地は、道内48市町村67地区(不 明1を含む) 、千島5地区、樺太20地区に及ぶ(北海道ウタリ協会1990、 566) 。 児玉はアイヌ墓地のほか、貝塚人骨の発掘も積極的に行なった。1941年には 米村喜男衛、伊藤昌一と3人で、モヨロ貝塚を発掘し、200体ほどの人骨を発 掘している。モヨロ貝塚は網走市内にあり、昭和12年(1937年)に文部省の指 定を受け、発掘は許されなかったが、1941年に海軍の工事のため半分がつぶさ れることになり、児玉ら3名だけが学術調査の名目で立ち入りを許されたとい 21 植木哲也 児玉作左衛門のアイヌ頭骨発掘(1) う(伊藤1971a) 戦後も石器時代貝塚からの人骨発掘を積極的に進め、礼文島船泊、温根湯遺 跡、豊富遺跡など各地で発掘に関わっている。 4 発掘人骨数 4−1 北大保管アイヌ人骨数(1982年) 表1 1982年北海道ウ タリ協会の要請 で、北海道大学医 学部は保管されて いるアイヌ人骨数 を発表した。同協 会の機関誌『先駆 者の集い』第37号 (1984 年 10 月 15 日 発行 ) に は、 「北 海道大学医学部保 管のアイヌ人骨発 掘内訳」が掲載さ れている(北海道 ウタリ協会1990、 566) 。それによれ 市町村名 地 区 数 八 雲 3 静 内 1 森 2 浦 幌 2 北 見 1 長万部 2 千 歳 2 帯 広 1 浦 河 3 その他 ①頭骨数 241 161 85 63 40 34 27 19 19 133 ②不在葬等 25 5 2 0 0 4 0 0 0 1 ①+② 266 166 87 63 40 38 27 19 19 134 北海道 67 822 37 859 千 島 5 51 0 51 樺 太 20 91 3 94 合 計 92 964 40 1,004 ば、北海道内で発 掘されたアイヌ頭骨は822、不在葬37、計859、千島では頭骨51、不在葬0、計 51、樺太で頭骨91、不在葬3、計94、全体では、頭骨数964、不在葬40、総計 1004となる。ウタリ協会の資料から、発掘数の多い市町村を中心に数字を挙げ ておく (表1) 。 これは、公表の時点で同学部に保管されていた人骨の数と思われる。その大 半に児玉がかかわっていたと推測されるが、すべてではない。静内など、他の 解剖学教室関係者の発掘分も含まれているだろう。また1980年代の市町村区分 に従って集計しているため、落部の数字は八雲に算入されている。以下では、 児玉が直接かかわった大規模な発掘で蒐集された人骨数について、整理してお くことにする。ただし、児玉自身の記述に若干の曖昧さや数値のバラつきがあ り、判然としない部分もある。 22 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 4−2 1939年までの発掘数 表2 まず、前記1939年 の論文から各地の発 掘数を拾うと表2の ようになる。発掘し た「墓数」 、不在葬 などを差し引いた 「人骨数」 、研究に主 に利用された「頭骨 八雲 落部 森 長万部 浦幌 樺太栄浜 北千島シュムシュ島 その他 合計 墓 数 133 31 人骨数 131 103 57 29 62 46 28 (500 以上) 頭骨数 118 77 42 29 48 34 28 116 492 数」を挙げておく。 頭骨数が少ない主な理由は、小児の頭骨が研究対象から除外され、算入されて いないためと思われる。 八雲では不在葬が2、長万部では不在葬1、火葬が1あったため、墓の数と 人骨の数が異なる。その他の地域では、発掘した墓の数と人骨数は同じと考え てよいだろう。落部では、小児を除いた成人人骨は82だが、その中には頭骨や 一部の骨のないものがあったため、 研究に利用された頭骨数は77になっている。 森でも総骨格数57のうち2例が頭骨を欠いていたと児玉は記しているが(1939、 44)、渡辺左武郎の数字16と照らし合わせると、57とは別に2例が頭骨を欠き、 総数59とも解釈できる。 また同じ論文で児玉は、北大解剖学教室でそれまでに蒐集したアイヌ骨格が 500を越え、その大多数は自分によるものだと述べている。それらのうちから 研究に使用可能なもの492個を選び出し損傷を調べたとされるが、この数字は 上記の発掘地以外の頭骨116を含んでいる。 4−3 1970年の数字 児玉が晩年に刊行した Ainu; Historical and Anthropological Studies (Kodama1970) の163頁にも、発掘頭骨の一覧表が掲載されている。大規模な発掘について数字 に大きな違いはないが、その後の各地での発掘が加えられている。それをほぼ そのまま邦訳すると表3になる。発掘地の掲載順は上記の表に合わせて変更した。 16 助手として児玉の発掘を手伝った渡辺左武郎(1971a、4)は、第一期の発掘数として、 八雲 131、落部 103、森 59、浦幌 62、樺太栄浜 46、北千島シュムシュ 22 という数字を 挙げている。長万部は記載されていない。児玉の数字と比較すると、 渡辺のいう「発掘数」 とは「発掘人骨数」と理解できるが、森は2例多く、シュムシュ島は児玉(1939)では ではなく、次の Kodama(1970)の数字に一致する。 23 植木哲也 児玉作左衛門のアイヌ頭骨発掘(1) 表3 アイヌ集落 北海道 八雲 落部 森 長万部 十勝浦幌 北見常呂(網走を含む) サハリン 栄浜魯禮(内淵を含む) 他の集落 クリル諸島 シュムシュ島 ポロモシリ島 地方 渡 島 渡 島 渡 島 渡 島 十 勝 網 走 発掘頭骨数 男、女 118(59, 58) 不明1 77(35, 33) 42(20, 22) 29(17, 12) 48(21, 27) 36(24, 12) 計測頭骨数 男、 女 89(45, 44) 68(30, 38) 37(20, 17) 29(17, 12) 43(17, 26) 36(24, 12) 埋葬年 1800-1870 1830-1879 1870 頃 1870 頃 1870-1910 1870 頃 東海岸 東海岸 34(17, 17) 14( 8, 6) 48(25, 23) 1890-1910 22(10, 12) 3( 3, 0) 30*(16, 14) 1870 以前 (*内5は東京大学所属) ここでは、北見常呂、樺太の栄浜以外の集落、北千島ポロモシリ島があらた に加わっている。シュムシュ島は1939年より少なく、渡辺の数字と一致する。 児玉は、この時点で北大に保管されているアイヌ頭骨が1000を越えると述べて いる17。 児玉は日高での発掘にも触れている。児玉自身によるものと、静内で行われ た発掘を上記と同様にまとめておく(表4) 。 表4 アイヌ集落 地方 発掘頭骨数 男、女 日高各地(児玉による) 日高 35(22, 13) ? 静内(松野正彦による) 日高 132(80, 52) ? 17 計測頭骨数 男、女 埋葬年 大半 1870-1910 一部 1920-1930 同じ Ainu の 206 頁と 207 頁でも、児玉は大量発掘地の頭骨数を記載しているが、そこ では森 48、シュムシュ島別飛 28 とされている。また児玉は八雲や落部など大量発掘地 の合計を 508 としているが、個々の発掘地の数字を合計すると 514 となる。森か別飛の 一方が間違いとすれば数字は一致する。森を間違いとするのが順当だろうが、その場合 もシュムシュ島に関しては 28 と 22 と2つの数字が残る。 24 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 文献1* 阿部正己1918<1983>: 「箱館駐在英国領事館員アイヌ墳墓発掘事件の顛末(一)―(六)」 『人類学会雑誌』第33巻第5、6、8、9、10、12号、< 河野本道選『アイヌ史 資料集;第二期出版第四阿部正己文庫編(一)ノ二;アイヌ関係著作集』、北海 道出版企画センター、1983、19-82> 伊藤昌一1971a: 「故児玉作左衛門先生(1895 ∼ 1970)」 『解剖学雑誌』第46巻第2号、 143-4 伊藤昌一1971b:「アイヌ頭蓋の研究史」『北海道医学雑誌』第46巻第4号、239-46 大塚武松1967:『幕末外交史の研究 新訂増補版』、宝文館 外務省記1866:『慶應二年丙寅箱館森村并落部村於テ英国人土人之骸骨ヲ掘取候一 件』、国立公文書館内閣文庫蔵 樺太アイヌ史研究会(編)1992:『対雁の碑;樺太アイヌ強制移住の歴史』、北海道 出版企画センター 清野謙次1943:『増補版日本原人の研究』、荻原星文館 現代企画室(編)1988:『アイヌ肖像権裁判・全記録』、現代企画室 小井田武1987:『アイヌ墳墓盗掘事件』、みやま書房 小金井喜美子1897:「島めぐり」、森林太郎『かげ草』、春陽堂、543-74 小金井良精1935: 「アイヌの人類学的調査の思ひ出;四十八年前の思ひ出」 『ドルメン』 第4巻第7号(通巻40号)、岡書院、54-65 児玉作左衛門1936:「八雲遊楽部に於けるアイヌ墳墓遺跡の発掘について」 『北海道 帝国大学医学部解剖学教室研究報告』第1号、1-41 児玉作左衛門1939: 「アイヌの頭蓋骨に於ける人為的損傷の研究」 『北方文化研究報告』 第1号、1-91 児玉作左衛門1953:「色丹アイヌとパニヒダの想い出」 『北大季刊』第4号、北大季 刊刊行会、38-42 児玉作左衛門1969:「緊急を要したアイヌ研究;私のあゆんだ道」『からだの科学』 第26号、日本評論社、146-52 坂野 徹2003:「われらが内なる「他者」;アイヌ同化政策と人類学研究(Ⅱ)」『生 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His subsequent fight against the local and national systems of law and beliefs is forcing all members of the Japanese community to ponder various questions. These include: To what extent does racism permeate Japan? What is the role of Japan’s citizenry and government in combating racism? 29 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 Why this paper? I am an Assistant Professor of International Communication for a small university in northern Japan, so why am I writing a paper that will likely delve into psychology, sociology and other non-language acquisition subjects? There are two reasons. The first is to take a panoramic view of my adopted homeland and attempt to contribute something to a social revolution that is decades in the making ---a collision between the inevitable massive increase in non-Japanese who will call this small island home as Japan’s native population grows smaller and grayer and the equally massive social resistance to people and ideas not purely Japanese. The second is because this topic is the Holy Grail of my career choice, my Golden Fleece: am I contributing to world peace through education----the stated objective of Tomakomai Komazawa University---or am I an academic mercenary who is only helping one group become proficient in the language of an adversary so that adversary can be overcome? My objective is to find answers to both. Conclusion This paper will break from the tradition of argument leading to a destination; I instead will tell you where I have arrived and then proceed to explain the journey that led me there. After reading, researching and pondering Aldwinckle’s book, Japanese Only, I have come to the following conclusions. 1.)Legislation, both federal and local, will not grant Mr. Arudou the inclusion he his seeking. 2.)The act of discriminating is imbedded in our species, most likely for self-preservation purposes. 3.)The eradication of racism is far more likely to be achieved by countless acts of individuals than by any action taken by federal and local governments. 31 Robert Carl OLSON Not Only Japanese: Considering racism. A Personal Note About Arudou Debito Before beginning my argument, I want to state that I have great respect for Mr. Arudou for numerous reasons. Mr. Arudou has committed himself to life in Japan without exception. Mr. Arudou’s taking citizenship implies that his financial and social contributions to Japan will surpass those of the majority of expatriates who are temporary visitors. Mr. Arudou has also invested in the lives of foreigners who live in Japan both legally and socially. His website is a goldmine of information and he swiftly responds to inquiries. If you have any questions about life in Japan ranging from taking citizenship to securing a video rental card; I suggest you visit him in cyberspace. Mr. Arudou also has a refreshingly honest approach to his views on social issues. He neither tries to make friends or smash his critics; he simply states what he believes and shows what he can prove, repeats what others have said and then let’s others make their own assessments. He freely publishes criticism of him that others would most likely edit or delete. There are leaders in Washington who could learn from Mr. Arudou. I do not agree with everything that Mr. Arudou writes, but I was happily surprised to see that“spin”is conspicuous by its absence. I believe that Mr. Arudou was the victim of racial discrimination and I feel for him because I have also been turned away from a bathhouse in Otaru and can empathize. The World As We Are A sage once said,“We do not see the world as it is but rather as we are.” I subscribe to this theory for the simple reason that examples abound. Case in point; U.S. conservatives and Neo-cons see liberation while liberals and Neo-liberals see imperialism and wanton destruction in the same event---the Iraq War. Therefore, to understand why I see the racism as I do, you must first understand who I am. Here is where I stand on various social issues. The role of government. I stand before you as an advocate of minimal government interference in the lives of its citizens. I believe that the role of 32 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 government is to provide the basic infrastructure needed to maintain society. Beyond that, it has no place interfering in the lives of its citizens. I am a social liberal. I support individual rights and choice. I support gay marriage and the rights for homosexuals to adopt children. I am pro-choice (i.e. I support the right of women to choose to have an abortion). I support the legalization of marijuana. I support the separation of church and state. The only caveat I add to these statements is that the rights of one must not be granted at the expense of another’s. I am a fiscal conservative. I generally do not support welfare and have doubts as to the feasibility of the other social insurances such as social security and unemployment. I believe that with“the right”comes“the responsibility”and that the many of society’s ills are exacerbated by government intervention. Japan as it is Japan, in comparison to my native United States, is an ancient country with a culture that dates back thousands of years. Japan is also a remarkably closed society; less than two percent of the population is comprised of nonnative Japanese. This has contributed to a monolithic culture and mindset that can be described through the phrase,“ware ware nihongin”(we Japanese). Japan was thrust into the international arena through a number of events, the largest possibly being World War II, which culminated in the atomic bombing of Hiroshima and Nagasaki and saw a significant portion of the northern-most providence of Hokkaido occupied by Russia. Japan’s strong economic showing in the 1980’s increased both its international presence in and pressure from the international community. Despite Japan’s economic reliance on the international community---a reliance that Japan acknowledges---there is a strong current of resistance to all things foreign. Japan is routinely one of the lowest countries in terms of refugee acceptance and while the amount of overseas aid is considerable, Japan has been reluctant to involve itself in most international conflicts with the current Iraqi War being a notable exception. Japan requires foreign 33 Robert Carl OLSON Not Only Japanese: Considering racism. residents to have a hoshonin(a Japanese person who can financially and/or socially“guarantee”a transaction such as applying for an apartment)for an array of social functions. Foreigners are reputed to be targets of the police and are often blamed for a variety of social and economic ills even when information suggests otherwise. The United Nations even sent a special envoy this year to probe racism in Japan. But despite all of this, it is too simplistic to state that Japan is a“racist” society, for if this were true, we must ask a number of questions. Some are as follows. Why do so many people come to Japan to work and live? Why are so many of the signs in Japan are in languages other than Japanese? Why do so many Japanese study foreign languages? Why do so many international marriages occur in Japan? In considering this cultural balance and struggle and its relation to the Otaru Bathhouse case, I now wish to discuss my reasoning for the three conclusions I mentioned earlier, specifically why legislation is not the most effective manner of dealing with Mr. Arudou’s grievance against the Otaru bathhouse. The Problems with Claiming Racism To say that racism is a social ill and should be eradicated is a profound understatement. But before we can begin the eradication process we must examine what racism truly is, why it happens and how is the best method of removing it. My pondering of these points in connection with the Otaru Bathhouse case has led me to these problems. Discrimination is part of humanity To discriminate means to distinguish or differentiate between two or more of something; to choose something over another on the basis of some form of advantage. I make this point because I believe that it is important to remember that the word“discriminate”is not inherently evil. Now, let’s take a look at some of the ways various societies discriminate. Bathrooms are segregated by sex and handicaps/physical challenges. 34 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 Train cars are sometimes segregated by sex(in response to women being molested). Speed limits are slower in areas with high numbers of elder citizens or children. Churches sometimes refuse citizens on the ground of different faiths. Insurance rates are automatically higher for younger drivers. Alcohol, tobacco and driving privileges and restrictions are decided by age. My purpose in listing these decisions is not to complain, for these measures and others like them are common sense responses to social issues and I support them. Rather, my purpose is to show how society does discriminate even when there are unpleasant consequences for a certain group---a fair or festival where women had to suffer in a line for the restroom that stretched as far as the eye could see while the men’s restroom was practically empty is one obvious example. In regards to business, companies both large and small have target customers profiles, ideal patrons who make their businesses profitable. Any company competent in marketing will be able to give you the age, median income, race, and other forms of information if asked for the profile of their general customers. Businesses direct their efforts to these people at the possible expense of others and this sometimes means refusing service to certain patrons. I can recall numerous signs at restaurants that read“No Shirt, No Shoes, No Service.” People with tattoos are bared from entering Japanese bathhouses as such body art suggests a link to organized crime. Some restaurants have a dress code. Some private colleges have certain academic and social requirements. Again, the point I wish to make is that society, both collectively and individually, does discriminate on various levels. Discriminate, you might say, is in our DNA. Racism lacks a consistent definition necessary for legislation. The point I wish to make in this section is that there is a significant difference between state-sanctioned racism and individual discrimination. A 35 Robert Carl OLSON Not Only Japanese: Considering racism. dictionary I have defines racism as believing that some races are superior to others and then treating people summarily. I understand the words but walk through the next exercise I use with my students to understand why I have trouble with this definition. Please write “ agree” or “ disagree” to each statement. Most Japanese men work a great amount of overtime. Most Japanese men expect their wives or mothers to do housework and raise the children The statement, “ You should not marry a Japanese man because he will probably work a great deal of overtime and expect you to do the housework and raise the children” is a racist statement. Every student who has done this exercise has answered the first two statements with“agree.” The response to the third statement is split. People who write“disagree”generally defend their decision by saying that the first two statements are true and therefore not a racial slur but a realistic view of a cultural situation. Those who write“agree”do so for two reasons: 1.)Because of the anguish the statement may inflict on Japanese men, and 2.)Because there are some women who might actually be happy with a total control of a household resulting from an absent husband! So what was the defining factor in deciding that this statement was racist? It was the individual’s perspective and whether or not he or she felt offended and I believe that such criteria is not adequate for legislation. Laws are necessary; they set standards for behavior and maintain social stability but the government cannot regulate feelings or emotions. Hitler’s Germany, America’s slavery and segregation and South Africa’s apartheid are cases of government sanctioned racism while the marriage example mentioned earlier is an example of personal choice. The difference is profound. In the former, the government is promoting racism through the use of its legislative and economic powers. This is the racism that government can and must abolish. In the latter, however, the government has no control over the individual’s choice and neither ability nor responsibility to compensate either party should the desire for compensation arise. 36 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 Now let’s consider this from a legislative and enforcement perspective. Passing laws against murder is relatively easy because“murder”is relatively easy to define: there is a dead body, a weapon and a person who used it or some variation of this sequence. Now, let’s take a word I find totally repugnant: nigger. It is common knowledge that should a Caucasian use this word to address an AfricanAmerican, the consequences would be understandably severe. However, this word is often used---and sometimes as a sign of unity--- between AfricanAmericans. So when is this word appropriate and when is it not? In my opinion, the answer is never. And can we legislate something that is sometimes acceptable and sometimes not depending on individual perspective? Let’s return to murder; race, religion and other social factors have no bearing on this crime. If a Caucasian murders a Hispanic, it is murder and the same is true should the circumstances be reversed. Law and justice are blind to other circumstances(save for extreme cases such as self-defense). It would be ludicrous to say it is acceptable for one group to murder another while not acceptable for another, not to mention a possible recipe for anarchy. In regards to the Otaru Bathhouse case, Mr. Arudou was refused entry on the basis that he is a foreigner and previous foreigners had caused disturbances that resulted in the bathhouse losing customers and subsequently money. This is a form of discrimination, to be sure. But does it warrant government intervention that would have forced the bathhouse to open its doors to all patrons? Before we can answer this, we must examine rights as guaranteed and protected by the government. The taking from one to give to another. The point I wish to make in this section is that the transferring of civil rights from one to alleviate the misfortunes of another is self-defeating as such policies are likely to foster dependency and increase resentment. When I was a high school student, I visited California and found myself in a store that sold Nazi memorabilia. I was shocked and offended by the depictions of Jewish people as garbage, African-Americans as stupid and lazy and Asians as conniving. After my revulsion overcame my curiosity I 37 Robert Carl OLSON Not Only Japanese: Considering racism. left the store for some fresh air and never returned. Do I like such establishments? No. Have I ever purchased anything from one? No. Do I believe the government should shut down such establishments? No. Why? Because in the United States we generally hold the freedom of speech in high esteem and this includes speech we find offensive or not to our liking. If I attempt and succeed at banning one stores expression because it opposes my beliefs, then I have forwarded my personal rights at the expense of another’s and this is a certain course for social unrest. One of the prices of freedom is tolerance and I believe this extends to private businesses as well social issues. Let’s return to the Otaru Bathhouse. The Otaru bathhouse is a private business. To the best of my knowledge, it is run without government subsidy, which means if customers do not patronize it, the business will lose money and ultimately go out of business. Therefore, the owner has to do whatever is necessary to keep customers coming into the door. One of the reasons for the store owner baring foreigners is the claim that previous foreigners have used the facility improperly. More specifically, there were charges urination and defecation in the baths. Some have claimed that these charges were exaggerated or even false. My response is that to a business owner, perception is reality; if customers believe that your baths are being used as toilets then nuance or degrees or even the truth don’t matter. If you need an American example, check out Wendy’s Hamburger Restaurant webpage and see how much they lost when a woman planted a human finger in a bowl of chili in order to file a claim and extort money. The claim was false; the losses, both financial and social, were real. If the government ignores the storekeeper’s arguments and forces him to open his doors to all patrons in order to accommodate Mr. Arudou, then the rights of one have been forwarded at the expense of another. The key point is government subsidy; public investment must precede public intervention. In my adopted hometown of Tomakomai, there is an impressive public gym that is maintained with citizen taxes. If I were denied entry, would I protest? Yes. Why? Because I paid for part of the damn thing, that’s why! 38 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 Ignorance and Assumption of National Immunity The main point I want to make in this section is that foreigners and the countries they reside often assume that each knows the other’s customs and set and enforce standards accordingly. A personal experience for the purpose of illustration: Many years ago I was a serious runner but the only time that I found convenient was late at night. Now I try to avoid absolutes but in the fifteen years I have lived in Japan, I have never seen anyone jogging after 10:00pm. My running schedule could safely be called unique. The police sure thought so because after I began my late-night running, I was often waved over by an officer who asked to see my alien registration card or other such documentation. When I didn’t have these things on my person, I was quizzed on where I live and other such information. This went on for a month or two until they grew accustomed to seeing me and I them. There were no problems but rather a cultural exchange that resulted in the following understanding: Jogging in the late-night hours is unique, at least in Tomakomai. Japanese police often pre-empt a potential crime by intervening before a crime has been committed. Foreigners are expected to carry some ID on their person at all reasonable times. United States citizens will run late at night and are not inherently dangerous. The exchanges with the police were never hostile. They legally asked for information and I provided it. When they ascertained I was not a danger, they sent me on my way. After a while, the officers started waving when they passed me during their patrols and I waved back. I have often heard stories of foreigners who refuse to show their IDs or refuse to speak Japanese. Their reasons are they feel they are being treated differently or these practices are not done in their countries. My opinion on this matter will offend many radical liberals; we are different and we are not in our home country. We are in a different country with its own set of social and legal laws and we have a reasonable responsibility to adapt. We must remember that the privilege of inclusion requires the willingness of assimilation. I offer the same answer to Muslims who wish to practice 39 Robert Carl OLSON Not Only Japanese: Considering racism. Shariah law in the United States or other people who wish to receive the benefits of a host country while deluding themselves that they have“cultural immunity”from its laws. This also extends to Japan as well as to foreigners who live here. In addition to the xenophobia and other less than honorable actions exhibited by Otaru bathhouse owner, this person exhibited a considerable lack of foresight. A simple sign at the entrance or a spoken explanation of Japanese bathhouse customs could possibly have steered everyone clear of the cultural donnybrook this incident has become. The bathhouses owner says that this was impossible because neither he nor anyone on his staff speaks or writes Russian. Well, this is nonsense. First, Otaru and Russia do so much business that there must be someone who speaks Russian and second, the signs stating“Only Japanese”are written in Russian. For all of Japan’s “internationalization”and their“Yokoso, Japan(Welcome to Japan)!” campaign, Japan lags far behind other countries who sustain most of their economy through exports. Japan can and must make more effort to help foreigners assimilate. What Japan lacks is not resources, but the will to find and use them. Reverse Psychology and Dubious Connections The point I wish to make in this section is that when people are denied something, they often desire it that much more and, in doing so, cause imbalances in other areas of their lives. This can become an ugly downward spiral and was clearly the case in the Otaru bathhouse dilemma. When I am teaching young children, I often introduce new material by telling my students that it is too hard for them and they probably won’t understand so we shouldn’t do it today. Their response, as you might have already guessed, is to protest and demand that they be given a chance. This, of course, is known as reverse psychology; when we are told that we can’t have something, we suddenly decide that“the something”we can’t have is the key to our happiness. In the Otaru bathhouse case, Mr. Arudou is denied entry into a privately owned bathhouse. Understandably he feels a concoction of negative emotions and as time goes by, these feelings increase both in number and intensity. The denial of entering the bathhouse led to a feeling of having 40 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 been banned from an integral part of Japanese life, which is connected to the death of his closest supporter’s son and regret for focusing so much time and energy on the bathhouse trial rather than the son’s disease and this is connected to the falling out with a social activist named Tony Lazlo and on and on and on. And all of this misery can be traced to the single act of xenophobia by one silly bathhouse owner. But can it really? There is no doubt that Mr. Arudou was discriminated against. But I would challenge his claim that public baths are an essential part of Japanese daily life---maybe twenty or thirty years ago when the majority of Japanese did not have bathing resources in their houses but not today. I talked to the owner of one of the public baths I attend he said that attendance is down and decreases yearly. Is this a Tomakomai-only phenomenon? No, it’s pretty much across the country according to him. As for the death of the son of Mr. Arudou’s supporter, my heart goes out to the family. But we cannot blame other people for our choices; when my father was diagnosed with the cancer the eventually took his life, I left Japan in the middle of the semester to see him. My father trumped my professional responsibilities and I would make the same decision in put in the same situation. The bathhouse owner in Otaru is guilty of racial discrimination to be sure, but all other dilemmas and sadness directly or otherwise related to this case cannot be laid at his feet. How do we stop racial discrimination? The simple answer to this question is through the committing of a thousand acts of kindness by each individual. When a person commits an act of kindness to another person, an image is created. If that image is reinforced enough times, it will at the very least squelch negative stereotypes that lead to discrimination. So when a person stares at you, don’t make an obscene gesture. Rather, say your name and say“hajimemashite” (nice to meet you). When the police ask to see your ID, show it to them. If you think you are being treated unfairly or targeted, take down badge numbers for future 41 Robert Carl OLSON Not Only Japanese: Considering racism. use. But don’t make your situation worse by refusing to speak or becoming verbally or physically abusive. Remember, the police are people, too. If you’re turned away from an establishment, leave and go to another that will be more than happy to accept your patronage(i.e. money). Tell your friends about how you were treated and let word spread from mouth-to-mouth. Meanwhile, you can get on with enjoying your life---do you think there is really only one bathhouse in Otaru! Finally, remember the Golden Rule; treat others the way you would like to be treated and good things will happen. In closing. Again, I believe in the power of the individual over the power of government. The breathtakingly fast pace of Internationalization in the 20th and 21st Centuries have overtaken our ability to relate with the inevitable blending of people and cultures. Government and ensuing legislation will play an essential role in setting and resetting boundaries but it is individuals who must make the peace that is needed for prosperity. To Mr. Arudou, again I salute your many accomplishments in Japan and your contribution to all people foreign and domestic. You have truly improved life her for many and I am saddened by your refused entry into the bathhouse. At the end of this ordeal(the appeals, etc. are still in progress), I hope all involved and all watching will have a better understanding of the fact that people are people. And regardless of race, age or nationality and there are good and bad in all nations and we must learn to live with each other, not because of some lofty idealistic goal, but rather because our survival as a species depends on it. References and Sources Arudou, Debito. Japanese Only. Akashi Shoten, Inc. October, 2004. 42 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 From The Japan Times Metro Info Outreach targets Foreigners. March 11th, 2005. Here Comes the Fear. March 25th, 2005. U.K. Visitor’s Blood Donations Banned. April 2nd, 2005. Whale Eaters Dig in Despite Foreign Outcry. June 7th, 2005. Racist Moniker Undeserved. June 30th, 2005. Koreans Facing Eviction Draw U.N. Visit. July 7th, 2005. British Tolerance Under Scrutiny In Wake of London Attacks. July 15th, 2005. Localization Still Trumps Globalization. July 24th, 2005. Rude Emphasis on Skin Color. July 25th, 2005. Bad boys, Bad Boys. August 10th, 2005. London Bomb Suspects Please not Guilty. August 11th, 2005. No Excuse to Tar Immigrants. August 11th, 2005. Feelings Between Neighbors. August 12th, 2005. Unapologetic Cartoonist Draws It The Way He Sees It. August 14th, 2005. War’s End Brought Cash to Hokkaido. August 15th, 2005. Dreaded Symbols that Speak Volumes and Shouldn’t be Silenced. March 23rd, 2005. From The Observer Like Other Faiths, Islam is Religion of Peace That Can Also Breed Acts of Terrorism. July 24th, 2005. Britain’s Muslims Immigrants Must Integrate. August 14th, 2005. (ロバート カール オルソン・本学助教授) 43 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 苫小牧駒澤大学紀要第14号(2005年11月30日発行) Bulletin of Tomakomai Komazawa University Vol. 14, 30 November 2005 近代日本に於る参審の伝統 ― 裁判員制度を契機として ― Upon tradition of the participatory court in modern Japan; focus on the institution of civil associate judge, 石 田 清 史 ISHIDA Kiyoshi キーワード:陪審 参審 検察審査会 軍法会議 査問会 海難審判 国税不服審判 裁判員 要旨 司法制度改革の中で裁判員制度の発足が決まり、国民の司法参加が声高に論ぜら れている。裁判員制度は要するに参審制であるが、世上、我国は陪審制なら大正年 間に採用し、昭和に入って実施した経験があるものの、参審制は史上初めての体験 であるかの如く語られている。しかし、これは史実に反する。陪審は戦前、僅か15 年間細々と行われたに過ぎないが、参審は明治以来行われて来たし、今も或程度行 われている。我国近代法史上、参審は陪審より古く長い伝統があり、定着していた。 一般の裁判ではなかったにせよ、判例その他、膨大な蓄積があるのである。司法制 度改革、就中裁判員制度の開始に臨み、この歴史的に培われた経験と、先人の叡智 に学ぶべき点は多い。 45 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 Ⅰ 初めに Ⅱ 陪審と参審 Ⅲ 我国に於る沿革 1.陪審 イ.法廷陪審 ロ.起訴陪審(検察審査会) 2.参審 イ.陸海軍軍法会議 ロ.査問会 ハ.海難審判 ニ.国税不服審判 Ⅳ 終りに Ⅰ 初めに 現在進行中の司法制度改革は、 明治の西洋近代法制導入以来有数の大変革で、 終戦後の大改革と並ぶ歴史的改革となりそうな様相である。その全体構造の中 で、裁判員制度の開始が、司法試験改革 ─ 法科大学院設置と並ぶ二本柱にな っている。そうして昨平成16年5月、国民の司法参加を謳う「裁判員の参加す る刑事裁判に関する法律」が成立し、公布された結果、平成21年5月までに裁 判員制度が発足することとなった。国民から無作為に選ばれた裁判員が重大事 件の刑事裁判で職業裁判官と一緒に裁判をする普通参審制である。 しかしながら、この裁判員制度に付ては、十分な検討が加えられ、国民的合 意が形成されているとは言い難い。一般国民にとっては唐突に降って涌いた話 であり、専門家も深く研究、議論する時間的余裕が無かったように思われる。 考察の質も問題であろう。凡そ学問は時間的及び空間的比較であり、この経と 緯があって初めて、研究は成果を見るのである。現在世に行われている「専門 家」の説は、ややもすれば空間的比較ばかりで、時間的比較が無い。米国の話 ばかりして、自国の経験を語らない。明らかに片手落ちである。これから参審 制を大々的に採用しようとする国が、自国の参審の伝統、蓄積に全く関心を払 わず、甚しきはその存在すら知らないというのは正常なありようではないであ ろう。 このような研究態度は ─ 研究者のみならず司法部、立法部も含めて ─ 、 我国に歴史的経験の蓄積として陪審に乏しく、参審に至っては全く無い、とい 47 石田清史 近代日本に於る参審の伝統 ― 裁判員制度を契機として ― う神話に幻惑されているからではないかと想像する。だが、これは史実に反す る。 法律専門家が存在しなかった、或は力を持たなかった江戸時代以前は必然的 に非法律専門家が裁判を担う傾向が顕著であったから、実は「国民の司法参加」 は高度に貫徹されていたのである。勿論、当時は西洋近代法導入以前であって 単純な比較に適さないし、また江戸以前に遠く遡る通史的研究となると大作業 でもある。 よって本稿に於ては明治の近代法制導入以降に絞ってこれを論ずるが、参審 は明治以来採用され、長期にわたり安定的に機能していたし、現在でもある程 度行われている。かつては司法機関たる軍法会議に於て。現在は準司法機関た る海難審判等に於て。そうしてそれらは大正デモクラシーの中で成立し、昭和 戦前から戦中にかけて15年間施行された陪審と異り、失敗とは看做されていな い。参審は定着し、陪審は挫折した。その異同の因って来る所以を明らかにす ることは、司法制度改革、とりわけ裁判員制度を実施するに際し、有益な教訓 をもたらす筈である。 法律家の中に時に海難審判に触れる人はあっても、軍法会議その他を論う人 は先ず無いところを見ると、知らないのであろう。筆者は刑事法学出身の法制 史家として、我参審の事跡を世に知らしめたいと希み、非力も顧ず筆を執った 次第である。 Ⅱ 陪審と参審 所謂司法、就中裁判への国民参加、民主的コントロールのために、国民自ら が裁判を担う制度として陪審が存在し、一部外国に於て行われていることは、 汎く知られている。また必ずしも一般の知るところとなってはいないが、参審 と呼ばれる類似の制度も存在する。何れも西洋近代法制に伴う system で、司 法官僚でも法曹でも学究でもない、非法律家たる公衆から選ばれた者が、裁判 の少くとも重要な一部に携わる裁判形式である。それらはどのような制度なの であろうか。 陪審 jury とは、一般国民から選ばれた陪審員が、裁判官としてではなくあ くまでも陪審員として裁判の主要部分を決定する訴訟制度である。陪審は更に 大陪審と小陪審に分たれる。大陪審は起訴陪審とも呼ばれ、起訴すべきか否か を決するものである。小陪審は法廷陪審とも呼ばれ、起訴すなわち裁判開始後 に関与し、有罪か無罪か、或は犯罪事実の有無を決する。 これに対し参審 Schoffengericht とは、職業裁判官と共に、一般国民から選 48 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 ばれた参審員 ─ 我が新制度に言う裁判員 ─ が裁判官となって裁判所を構成 し、訴訟の一部に限定せず全般を決する訴訟制度である。参審員は、素人なが ら裁判官として職業裁判官ともに狭義の裁判所の一員となる。典型的陪審のよ うに全くの一般公衆から参審員を選ぶ普通参審と、何らかの分野の専門家を任 ずる専門参審とがある。後者の場合は素人とは言ってもそれはあくまで法律に 関しての話であって、それぞれが各分野のエキスパートである。普通参審は職 業裁判官に支配される可能性があるが、専門参審は法律専門家対他分野の専門 家の構造となり、職業裁判官の独擅場とはなり難い。 陪審は英国発祥の制度なので英米法の訴訟手続に良く馴染み、英米法圏では 広く採用されている。但し、陪審制採用国も全ての裁判を陪審に付する訳では ない。刑事に限ったり、重罪事件に限ったりしている。したがって裁判制度の 中で実際に陪審裁判が行われる比率は低く、民事裁判では制度的に縮小、廃止 傾向にあるし、刑事裁判でも陪審事件は英国で2%、米国で10%程度と言う。 陪審員に予断や偏見を与えぬ為、厳重な報道管制が布かれるし、陪審員を務め ることを嫌忌する国民も多い。必ずしも盛行している訳ではないのである。 欧州大陸でも独仏を筆頭に一旦は試みられたが失敗に帰し、大陸法の訴訟手 続に合せた参審制が取って代った。北欧のように陪審と参審を併用する例も無 いではないが、 通常は何れか一方を採る択一関係である。極く大雑把に言えば、 陪審は英米法系、参審は大陸法系、という結付きがある。勿論、何れをも採ら ず職業裁判官だけで裁く、我国と同じ制度も広く行われているが、先進国の中 では何れか一方を採用する例が多い。斯く両者は密接な関係にあるので、以下、 順序として陪審にも触れる。 Ⅲ 我国に於る沿革 1.陪審 イ.法廷陪審 周知の如く、かつて我国には陪審が存在した。明治33年花井卓蔵、江木衷ら 高名な在野法曹を中心に陪審法制定運動が始まり、大正デモクラシーの風潮の 中、普通選挙と並ぶ二大国民運動の目標として原敬、高橋是清、加藤友三郎と 三代の内閣にわたって幾度も挫折を繰返しながら審議され、枢密院の議を経て 大正12年、漸く陪審法が制定、公布された1。 この陪審法は刑事裁判に限定し、且つ「死刑又ハ無期ノ懲役若ハ禁錮ニ該ル 事件ハ之ヲ陪審ノ評議ニ付ス」2る法定陪審の他、 「長期三年ヲ超ユル有期ノ懲 49 石田清史 近代日本に於る参審の伝統 ― 裁判員制度を契機として ― 役又ハ禁錮ニ該ル事件ニシテ地方裁判所ノ管轄ニ属スルモノニ付被告人ノ請求 アリタルトキハ之ヲ陪審ノ評議ニ付ス」3る請求陪審があった。 数の上では請求陪審が圧倒的多数となるから、主として被告人の希望した場 合に「帝国臣民タル男子ニシテ三十歳以上タル」 「引続キ二年以上同一市町村 内ニ住居スル」 「引続キ二年以上直接国税三円以上ヲ納ムル」「読ミ書キヲ為シ 得ル」 「十二人」の陪審員を以て陪審を構成し、4.5 互選による陪審長の下「事 実ノ有無」を評議し、過半数決で評決し、答申を行うものであった。 鳴物入りで発足した陪審制ではあったが、陪審による裁判を希望する被告人 が少く、15年間施行して僅か484件しか行われなかった。司法省が当初予想し た数字は年間2300件、全国に陪審法廷と陪審員宿舎を建て、判検事書記官300 人を増員し、満を持して待ったにもかかわらず、である。結局陪審制導入は政 治上の要求であって、司法上の要求ではなかった。法曹にも被告にも歓迎され ない「国民運動」だったのである。時の経過とともに陪審裁判はいよいよ漸減 して行き、遂に連年1乃至数件にまで落込み、制度運用の停止に至ったのであ る。直接の原因は総力戦の要求すなわち決戦体制整備の必要、銃後の争訟を不 道徳、利敵行為視する戦時下の風潮といった戦時特有の事情であったが、遠因 が国民に好まれぬ制度であったことは間違い無い。元々仮死状態に陥っていた のである。 何故好まれぬかというと、陪審制では事実認定は一度切りとなって再び争え ないこと6、陪審員の旅費、日当等陪審費用を被告人が支弁せねばならなかっ たこと7、そして何よりも、素人に決められては堪らない、という国民の意識 であった。職業裁判官への信頼が浸透していたということも出来よう。国家訴 追主義、起訴独占主義、起訴便宜主義を採用し、大陪審の必要を認めないこと も国家や検察官への信頼の現れであろうから、総じて司法官僚への信任という ことが出来ようか。戦前の国家は重厚で、官公吏教員は汚職も少く、一般に尊 敬されていた。 陪審裁判事件の内訳を見よう。総数484、有罪378、無罪81、公訴棄却1。無 罪率実に16.7%である。通常の刑事裁判に於る無罪率が同時代で僅々 1.3%∼ 3.7%に過ぎなかったことと照し、非常に特徴的と言える。我国は昔も今も有 罪率が非常に高く、今日でも無罪率は列国に比べ著しく低い。僅か1%以下に 止まり、外国人の目には衝撃的数字であると言われる。 但しこれが直ちに誤判であるかの如く非難する向きには賛同し難い。我国の 製造業で品質管理が徹底し歩留りが良いこと等を思い合せれば、日本文化の一 表出であり、 緻密な捜査の成果であると言えないことも無い。精密司法とラフ・ ジャスティスの違いと言っても良い。しばしば問題となる長期裁判も、緻密な 50 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 考証の所為であるという一面はあるであろう。 とまれ、陪審は停止された。陪審法は昭和3年施行、昭和18年停止であるか ら、大方の誤解に反し、廃止でなく停止であり、現在も法律そのものは存続し ている。短いので全文を掲げよう。 陪審法ノ停止ニ関スル法律 施行昭和18年4月1日法律第88号 改正昭和21年勅令第161号 陪審法ハ其ノ施行ヲ停止ス 附則 本法ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス 本法ハ本法施行前陪審手続ニ依ル公判期日ノ定リタル事件ニ関シテハ之ヲ適 用セズ本法施行前其ノ裁判ノ確定シタル事件ニ関スル陪審法第四章又ハ第五章 ノ規定ノ適用ニ付亦同ジ 陪審法ハ今次ノ戦争8終了後再施行スルモノトシ其ノ期日ハ各条ニ付勅令ヲ 以テ之ヲ定ム 前項ニ規定スルモノノ外陪審法ノ再施行ニ付必要ナル事項ハ勅令ヲ以テ之ヲ 定ム 附則は「陪審法ハ大東亜戦争終了後再施行スルモノトシ其ノ期日ハ各条ニ付 勅令ヲ以テ之ヲ定ム」と明記しているから、 法律の廃止ではなく一時的「停止」 であることは疑問の余地が無い。 陪審は不人気であったが、停止当時に於てすら必ずしも大失敗とまでは思わ れておらず、 「大東亜戦争終了後再施行スル」のであるから、戦時中のみ停止 する趣旨であり、戦後、新刑訴施行時か、遅くも独立後には復活するのが筋で あった。故に裁判所法3条3項は「刑事について、別に法律で陪審の制度を定 めることを妨げない」と規定しているが、現在に至るまで実現していない。終 戦直後、連合国軍総司令部も政府も議会も陪審復活に積極的であったが、司法 当局の反対が強かったと伝えられる。歴史的経緯はともあれ、明文規定に反し、 半世紀以上を経てなお再施行されない現状は、理論上違法の疑いがあり、少く とも立法の怠慢ではあろう。これを以て実質上の廃止と見る向きが生じたのは 或程度当然である。 なお昭和47年に本土へ復帰する以前の沖縄は、 戦後長く米軍の占領下にあり、 法圏としては米国に属したから、此処でも四半世紀以上にわたって英米法系の 51 石田清史 近代日本に於る参審の伝統 ― 裁判員制度を契機として ― 陪審が実施されていた。つまり沖縄では本土より29年遅れて陪審制度が消滅し た。したがって他地域には数少くなった陪審裁判の経験者が沖縄には多く存命 していて、陪審論議に関し時に体験に根差した意見を開陳している。 ロ.起訴陪審(検察審査会) 以上は主に小陪審すなわち法廷陪審に付て述べたものであるが、大陪審すな わち起訴陪審に付ても付言せねばならない。典型的起訴陪審は刑事訴訟手続の 冒頭、起訴か不起訴かを決するのであるが、昭和23年に発足した現行検察審査 会制度は、検察官が為した不起訴処分に対し不起訴不当の勧告を為すものであ るから、分類上は起訴陪審と呼び得る。 「公訴権の実行に関し民意を反映せしめてその適正を図るため」9という制度 の趣旨からして既に起訴陪審の思想である。一回限りで確定し、高等検察審査 会とでも呼ぶべき上級機関が無いことも、上訴を許さない陪審を思わせる。控 え目に言っても明らかに起訴陪審を意識した制度であり、起訴陪審そのもので なくとも、起訴陪審類似の制度ではあろう。その決定が検察官を拘束しない勧 告的なものに止まることも、諸外国の立法例に徴すれば、陪審制には珍しくな い。我法廷陪審もまたそのようなものであった。10 全ての事件が検察審査会の 議を経るのでなく、一部の事件にのみ関与するに止まるという点に於て起訴陪 審と呼び難いようでもあるが、起訴陪審の一種と呼んでも必ずしも誤りではな いであろう。 検察審査会は衆議院議員選挙の選挙権を有する者の中から籤で選定した11人 の検察審査員を以て組織し、検察審査員にはかつての陪審員の流れをくむ広汎 な失格、欠格、除斥、辞職事由が定められている。任期は6箇月である。検察 審査会は独立してその職権を行う。主に不起訴処分の当否を審査し、殊に関係 者の申立がある時は必ず審査を行わなければならないし、自ら知り得た資料に 基き職権審査を行うこともできる。更に検察事務の改善に関する建議又は勧告 も行う。11 米国の大陪審と我が検察審査会は酷似しており、篠倉教授は何れも職権が独 立し、裁判所に設置された、勧告機関で、審査は秘密裡に行われ、議決は全員 一致制でなく多数決、職権により捜査(米国起訴陪審)または審査(日本検察 審査会)できる等の類似点から、 「アメリカの大陪審を『骨抜き』して作られ た制度であるとしか考えられない」と断ぜられる12。検察審査会法が占領下、 連合国軍総司令部の意向を受けて制定された経緯からも説得力ある指摘である が、法制史的に見れば考証の余地も残り、またどの程度の関係を認め得るかと いう量的段階に付ても考えねばならない。制度史の流れに立って見れば、現行 52 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 検察審査会制度に於て検察審査会の答申が検察官を拘束しないのは陪審法の流 れを汲むものである。こうした点に於ても、大正以来の陪審の伝統や経験は今 日に活かされている、と言えるかも知れない。 検察審査会の議決には三種類ある。第一は検察の処分を容認する不起訴相当 である。例えば平成15年、東京第一検察審査会の田中真紀子前外相秘書給与疑 惑事件。これは既に為された処分の追認であるから、そのまま一件落着する。 第二は再捜査を求める「不起訴不当」である。例えば平成8年、東京第一検 察審査会の薬害エイズ事件元厚生省局長事件。本件は議決を受け再捜査したも のの、再び不起訴処分となった。単に再捜査を求めるに留り、必ずしも起訴を 強いるものではないのである。故に御巣鷹山の日航ジャンボ機墜落事故も、金 丸信自民党副総裁の五億円闇献金事件も、 名古屋空港の中華航空機墜落事故も、 豊浜トンネルの崩落事故も、北海道庁の不正経理事件も、世に知られた歴史的 大事件が軒並、検察審査会の不起訴不当議決後、再捜査こそしたものの結局皆、 不起訴に終ってしまった。 第三は「起訴相当」 。例えば平成14年、札幌検察審査会のエフアンドオー詐 欺事件。これは翌年起訴を実現しているが、起訴相当の議決自体が少い上に、 この議決を受けて現実に起訴にするのは僅々3割程度とされる。警察が検察に 事件を送致する送検事件のうち、起訴に至るのは5%程度でしかないことと比 較すれば、3割という比率を必ずしも低いと言切れないかも知れないが、ここ に注目し、 検察審査会の議決に法的拘束力がないことを問題視する向きもある。 不起訴に終りがちな交通事故等の被害者、遺族にも同種の不満は多い。 検察官が不起訴にするにもそれなりの理由はある。嫌疑不十分、甚しきは冤 罪の場合、 「あなたに対する〇〇法違反被疑事件については、罪を犯さなかっ たと認めるに足りる十分な事由があるので、〇年〇月〇日から〇月〇日まで〇 日間の抑留又は拘禁に対する補償として、〇年〇月〇日あなたに金〇円を交付 する旨の裁定をしましたので通知します。‥中略‥官報や新聞紙への補償公示 の申し立をすることができますから、公示を希望される場合には、当検察庁の 係官に申し出てください。 」13という文面で、事実上の謝罪に近い通知が地検の 検事から来る。罪責軽微を理由とする起訴猶予もある。 起訴法定主義を排し、起訴便宜主義を採ったのは、検察官を信頼し、その自 由な裁量に委ねたのであるから、事件に一番詳しいであろう担当検事、警察官 が柔軟に判断することを直ちに非難はできない。だが、その不起訴決定の背後 にしばしば見え隠れするのは検察庁や警察の人手不足である。充分な人員を投 入し、時間をかけて捜査すれば事件が発展するかも知れないが、現状にそんな 余裕は無い、難しい事件、手間暇のかかる事案、軽微な事犯は、本来見逃した 53 石田清史 近代日本に於る参審の伝統 ― 裁判員制度を契機として ― くはないけれど、立件を見送らざるを得ない、ということである。これも限ら れた捜査力を最大限有効に運用したいということであり、一概に否定できない ものがある。 2.参審 我国には陪審の経験のみ有って、 参審の経験は無いかの如き誤解が存するが、 現実には明治初年以来陸軍軍法会議、海軍軍法会議が大規模かつ長期にわたっ て行われ、豊富な経験を積み、十分なノウハウが蓄積されている。また現行の 海難審判制度も、狭義の裁判そのものでないが準司法機関として参審制を採用 している。以下に概観して見よう。 イ.陸海軍軍法会議 a.軍法会議の定義 ここに軍法会議とは軍法会議法に則り軍刑法を適用する刑事特別裁判所、す なわち狭義の軍法会議であって、もう一つの軍事裁判、所謂軍律会議等を含ま ない。軍律会議については後述する。 軍紀風紀を維持振作すべく軍関係者の綱紀違反や犯罪を一般の司法制度とは 別系統の法秩序に置く軍事司法制度は世界的に広く存在し、殆どの国が軍独自 の刑法、刑事訴訟法等を特別法として制定し、一般の刑事事件と異る取扱いを している。したがって、陪審や参審は民事刑事を問わず行われ得る制度である が、軍法会議は性質上、刑事裁判に限られたものである。軍事刑事特別裁判所 といってよい14。 凡そ兵権は軍令、軍政、軍事司法に三分される。軍令とは両統帥部長が輔弼 する作戦用兵権、所謂兵馬の権で、統帥大権に属する。軍政とは内閣の一員た る軍部大臣による広義の兵站、軍備すなわち予算、装備、教育、人事といった 軍事行政権で、行政大権に属する。軍事司法とは軍の規律維持のための刑事特 別裁判及びその裁判所で、司法大権に属する。 軍事司法権は、一般刑法とは別の陸軍刑法、海軍刑法によって軍関係者の犯 罪を軍独自の観点から裁くものである。したがって組織としての軍法会議はこ れを司る司法機関であり、軍人、軍属等の特別刑法事犯に対する刑事裁判を取 扱う特別裁判所である。戒厳令、占領等で軍政 ─ ここに言う軍政とは先の軍 政と異り軍による一般統治の義である ─ 下に置かれる場合には軍人、軍属以 外の民間人等もその対象となる。 順序として実体法に付ても触れて置こう。軍法会議は軍の秩序維持を目的と し、広く軍人等の犯罪を管轄する。したがって陸軍刑法・海軍刑法事犯のみに 54 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 限らず管掌するが、陸、海軍刑法事犯が主となる。刑法という一般法に対し、 陸軍刑法、海軍刑法は特別法たる性格を持つ。我国では明治5年に陸海軍統一 刑法典たる海陸軍刑律 ─ 誤植にあらず。黒船ショック以来、海軍を重視する 気分が続いていたのである ─ が公布され、明治14年の布告で陸軍刑法、海軍 刑法に分ち、明治41年全面改正、昭和22年迄存続した。 陸軍刑法、海軍刑法の定める犯罪は叛乱、擅権、辱職、抗命、暴行脅迫及び 殺傷、侮辱、逃亡、軍用物損壊、掠奪及び強姦、俘虜取扱、違令の11章、80余 箇条ある。軍に特有の犯罪類型もあれば15、一般刑法と共通の類型をより重く 罰するものもある16。刑種は死刑、懲役、禁錮で、自由刑は無期と有期がある。 死刑の執行方法は銃殺である。 この他、軍刑法に該当しない軽度の非違や不起訴処分になった者に対しては 行政罰たる懲罰を科した。陸軍の場合、現役将校に対しては重謹慎、軽謹慎、 譴責、礼遇停止。下士官兵に対しては免官、重営倉、軽営倉、譴責、降等など が陸軍懲罰令17によって科された。海軍に於ては准士官以上に対する謹慎、下 士官兵に科する拘禁、禁足の3種類が海軍懲罰令18に定められている。文官懲 戒令19と並ぶ武官等に対する懲戒法規であり、或は特別法と見ることも可能で ある。なお文官懲戒令の定める罰は免官、減俸、譴責の3種類である。 b.沿革 近代日本に於る軍法会議の沿革を訪ねれば、明治2年8月兵部省内に設けら れた糺問司が嚆矢であろう。次いで明治5年3月兵部省糺問司に軍法会議仮会 議を置いたが20、直後の明治5年4月9日太政官布告により陸軍裁判所が設置 された。兵部省が陸軍省と海軍省に分れたのに伴い、糾問司自体が廃されたの である21。明治初年は制度の改編が頻りであったので、こうしたことは何ら珍 しくない。明治6年4月、高名な陸軍少将桐野利秋が熊本鎮台司令長官から草 創期の陸軍裁判所に長官として着任している。 ここでは「参座」制度が採用され、その詳細は明治5年陸軍省達にも記され ていないが、陪審若くは参審と推測される。何となれば当時の用語法で参座と は、座に参ずる、の意で、一般用語では参加、列席を意味し、法令用語では陪 席を意味したからである。又ほぼ同時代の明治8年以降設置された臨時裁判 所 ─ 海難審判の原型 ─ は陪審を揚言して陪審若くは参審を採用したものの 如くである22。明治9年発足の海員審問制度にも参審或は参座と称する制度が 存し、陪席審問官を意味した。若しも上記仮説が正しいとすれば、我国の陪審 なり参審なりは陸軍に始り、一般司法へ拡大した可能性があるが、この考証は 後日に譲らねばならない。 55 石田清史 近代日本に於る参審の伝統 ― 裁判員制度を契機として ― 陪審にせよ、参審にせよ、近代法制整備作業に取掛かったばかりの日本には 難しい制度であったろうが、古法には例が豊富にある。そもそも律令の昔はさ ておき、江戸時代以前、職業法律家、職業裁判官はいなかったのであるから、 明治を迎えた時点で、裁判官は一人残らず素人であったと言っても過言ではな い。23その意味では抵抗が少く、また司法省の系統でも専門の法曹が足らず、 司法卿が手元の検事を派遣して各地の裁判、裁判官を監督させていたぐらいだ から、当時数少かったフランス法系の法律専門家を煩すこと比較的浅く、しか も江戸以前からの固有法たる素人裁判の伝統に近い陪審、参審制度はかえって 都合が良かったかも知れない。 この頃、海軍は紙の上では兎も角、実態は自前の軍法会議を持たず、陸軍に 委ねていたようである。建軍初期には軍令上、 海軍が陸軍参謀本部に属したり、 軍政上、陸海軍が分離せず共に兵部省を成していたり、人事上、樺山資紀が一 夜にして陸軍少将から海軍少将に転じたりしたくらいであるから、軍事司法上、 この程度のことは不思議でない。警察権行使に付ても帝国海軍は消滅に至るま で専門の警察を持たず、陸軍の憲兵に委ねていた。衛兵やその一種たる巡羅は あったが、これらは当番、兼職の類であって専任ではない。衛兵は大佐級の指 揮する艦船、部隊 ─ それが海軍の基本単位であった ─ 毎に置かれるが、そ の頂点に立つ衛兵司令からして大艦でも精々士官室士官の若手大尉級が月番交 代で勤めたに過ぎない。彼等の本務は主砲分隊長や戦闘機分隊長であった。開 戦後はしばしば士官中最下級の新任少尉にまでおろされている。臨時或は簡易 の取締はともかく、本格的警察業務は陸軍の憲兵隊に依存する。故に建制上も 憲兵は陸海両大臣の指揮を受けるのである。 陸軍の軍制は法律同様、初めフランス式で、後ドイツ式に改まったから、軍 法会議という呼称もフランス語のコンセイユ・ド・ゲール conseil de guerre の訳語である。陸軍裁判所も明治15年に廃止され、東京初め全軍一律に軍法会 議が置かれ、草創期の混沌を脱して漸く統一的制度が整備された。 明治16年には陸軍治罪法が制定される。周知の如く治罪法とは刑事訴訟法で あり、且つ軍法会議法も軍法会議の為の特別刑事訴訟法であるから、陸軍治罪 法とは陸軍軍法会議法の義である。明治21年には大日本帝国憲法発布に伴い大 改正されたが、基本的枠組は維持された24。海軍軍法会議法の前身たる海軍治 罪法も1年遅れで制定、改正された25。 大正時代を迎えると、大正デモクラシーの風潮や所謂刑法の新思潮から、軍 人軍属もまた陛下の赤子なり、軍法会議といえども裁判を公開し、弁護人を付 し、上訴の道を開くべし、と学界や法曹界から望まれた。国民軍制下にあって 国民は軍に一体感、親近感を抱き、実際、村の道は郷土部隊の兵営へと繋がっ 56 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 ていたから、この主張は上下の支持を得、大正10年に原敬内閣のもとで改正陸 軍軍法会議法、海軍軍法会議法が成立、これが終戦後まで存続して行くことと なる。 以上の経緯は特に初期に於て法制史的に興味深いが、本稿の目的とは些か乖 離があるので、今は割愛する。以下安定期、或は完成期に入った軍法会議に付 て述べることとする。 c.軍紀の実態 前提として先ず軍紀事情を述べる。刑罰に処せられた者の数は、支那事変が 勃発した昭和12年に521名、開戦の年・昭和16年に3304名、通年戦時であった 最後の年・昭和19年に5586名であった。数字の増加は主に戦時動員による兵力 増加、すなわち絶対数の増加に連動するものである。分母が増えたから分子も 増えたのであって、必ずしもそのまま比率の上昇を意味しないが、上昇傾向に はあった。根こそぎ動員による素質の低下、戦局の重大化による状況の逼迫等 の要因があったと考えられる。因みに昭和19年の対総兵力犯罪率は0.136%で あり、 これは列国に比して非常に小さい。罪種としては逃亡が最も多いものの、 判例を仔細に検討すれば単に兵営内で隠れたとか、外出や入院の後、帰営に遅 れたといった類の単純な事案を少からず含み、質的に見ても列強より深刻でな い。以上の事情を反映し、我軍は兵種構成上、憲兵の比率が著しく低く、した がって軍法会議受理件数も少い。さらに言えば、軍人が娑婆と呼ぶ一般社会の 犯罪、刑事司法の事情がそのまま軍隊にも現れていたと認め得る。戦時の軍隊 は一般公衆たる男子国民が汎く動員され、大挙入営するのであるから、一般社 会の事情が軍隊に持込まれるのは当然である。だが国内的比較に於ては、陪審 が15年間に484件でしかなかったのに対し、桁違いの規模である。 d.軍法会議の建制 軍法会議の制度であるが、常設と特設に大別される。陸軍の常設軍法会議は 高等軍法会議(上告審) 、と師団軍法会議(一審)であり、特設軍法会議は軍 軍法会議、独立師団軍法会議、独立混成旅団軍法会議、兵站軍法会議、合囲 地 ─ 戒厳令施行地域の意 ─ 軍法会議、臨時軍法会議である。海軍の常設軍 法会議は高等軍法会議(上告審) 、東京軍法会議、鎮守府軍法会議、要港部軍 法会議(以上一審)であり、特設軍法会議は艦隊軍法会議、合囲地軍法会議、 臨時軍法会議である。常設軍法会議は上訴の道が開け、弁護人を選任し、公判 で弁論できるのに対し、特設軍法会議はそれが許されない。両者のよって来る 所以は、要するに平時と戦時、非常時の違いである。 57 石田清史 近代日本に於る参審の伝統 ― 裁判員制度を契機として ― 軍法会議は軍隊指揮官を長官とし、一般の陸海軍将校中から臨時に選任され る判士と、陸海軍法務官によって構成される。長官は捜査を指揮するが、裁判 には関与しない。法務官は法曹資格を有する職業法律家で、永く文官たる軍属 であったが、戦争中に武官たる法務将校に改まった。26 戦後の陸海空三自衛隊は防衛長官のもと自衛隊として統一組織をなしている が、戦前の陸海軍は相互に独立した組織であり両統帥部長、両大臣以下、別個 独立の制度を成していた。それが陸海空統合、協同の必要性が相対的に小さか った戦前の、世界的趨勢だったのである。故に軍法会議も、それを支える法制 も別々であった。紙幅の制約もあり陸海を重複して述べるのは煩雑なので、以 下、主に海軍軍法会議を例に論ずることとしよう。海軍に国境無しと言われ、 普遍性が高いからである。 e.海軍軍法会議 軍法会議というと226事件の記憶から非公開、弁護人無し、一審限りの恐ろ しい御白洲という印象があるが、あれは極めて特殊な例外であって、一般の軍 法会議はそのようなものではない。軍法会議は司法大権の発動であり、軍事大 権の発動ではない。軍刑法も軍法会議法も、軍が作るのではなく、帝国議会が 定立する普通の法律なのである。故に憲法秩序の下にあり、司法の独立は保障 されていた27。 そもそも「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務ヲ有」28し「均シク 文武官ニ任ゼラレ」29るが、 「日本臣民ハ法律ニ依ルニ非ズシテ逮捕監禁審問処 罰ヲ受クルコトナ」30く、 「裁判官ノ裁判ヲ受クルノ権ヲ奪ハルルコトナ」31く、 こうした大日本帝国憲法第2章権利章典の「条規ハ陸海軍ノ法令又ハ紀律ニ抵 触セサルモノニ限リ軍人ニ準行ス」32るのであるから、裁判を受ける権利は、 その手続の適正と共に確保されていた。 故に原則として裁判は公開され33、軽罪を除き必要的弁護で34、弁護人も2 人まで付けることができた35。上訴の他36、再審37の道も開かれていた。判決に は理由を付さねばならず38、これは今次の裁判員制度にまで継承されている。 一般の刑法が犯人のマグナカルタであったように、軍刑法もまた其の適用を擬 せられる軍民のマグナカルタであった。一般の刑事訴訟法が適正手続を保証し たように、軍法会議法もまた適正手続を保証したのである。 このことは軍法会議の裁きを受ける権利を持たない者と比べると一目瞭然で ある。被告人は刑罰のより軽い一般の裁判所で裁かれる方を望むかも知れない が、軍律会議や即決で処罰されるよりは遥かに有利な立場にある。 軍法会議の宣告刑が一般の裁判所の判決より重いにしても、それは元々実体 58 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 法たる軍刑法の法定刑が重いことに由来し、必ずしも手続法、裁判法たる軍法 会議法や、軍法会議の所為とばかりは言えないであろう。戦後、軍法会議の廃 止に伴い地方裁判所等が後継裁判所となって軍刑法違反事件の裁判を継続した が、それによって刑罰が軽くなったという報告は、寡聞にして聞かない。 f.海軍軍法会議(裁判所)の構成 海軍軍法会議は原則として5人で構成し39、裁判官は判士と法務官の混成で ある40。一審は1人、二審は2人の法務官を含む。したがって軍事専門家対法 律専門家の比率は4対1ないし3対2である。41 判士は全く普通の軍人である。武官も官吏の一種だから軍事官僚として最小 限の法学は学んでいるが、所謂法律家では全然なく、法律にも裁判にも素人で ある。ただ職業軍人として軍事には玄人であり、海軍士官として海事に通じて いる。軍事専門家として軍事裁判に列なるのである。したがって軍法会議は、 参審制の中でも専門参審に分類される。 法律家ではないにしても別な分野の専門家である判士たちは、両分野の交錯 する位置で起きた事件の審理に関し、専門家たるの自負と識見を以て臨んだの で、法律専門家に必ずしも支配されなかった。その上、軍事専門家たる判士と、 法律専門家たる法務官の構成比は審級によって異るものの、常に判士が多数で あり、多くの場合圧倒的である。 「裁判ハ過半数ノ意見ニ依ル」42ので、判士側 の意見が優勢となり易い。加之裁判長たる判士長も最先任の将校が務めるので41、 主導権は法律専門家より寧ろ軍事専門家が掌握する構造であった。 g.海軍軍法会議の実態 高須大佐の場合 その実態を知る手掛りとして、有名な軍法会議である515事件の裁判長・高 須四郎大佐を例にとると、海軍兵学校35期、海軍大学校17期卒業の兵科将校で、 専門は砲術。専門性からも海軍の主流であるが、英国在勤の長い国際派として 知られた。日本海軍は英国海軍に範をとり、また英国海軍は当時世界一と目さ れたので、 英国勤務は海軍将校のエリートコースであった。軽巡洋艦「五十鈴」 艦長を経て再びロンドンへ赴任、駐英武官を勤めていた所を、恐らく政治的に 難しい裁判故に、外国勤務で政治的色の着いていない者を選んだのであろう、 裁判長の含みで帰朝を命ぜられ、軍令部出仕、海軍省出仕という形で軍法会議 上席判士に任ぜられた。これは自動的に裁判長となる40。裁判終結と同時に海 軍少将に進級、第三艦隊参謀長へ転出し、その後も軍令部三部(情報)長、各 戦隊司令官、海軍大学校長、各艦隊司令長官、軍事参議官等、軍令系の要職を 歴任、昭和19年に海軍大将で戦病死している。つまり、出世コースに乗ってい 59 石田清史 近代日本に於る参審の伝統 ― 裁判員制度を契機として ― るとはいえ、法務畑に関係の無い、全く普通の海軍兵科将校である。軍民を問 わず、士官、高級船員は艦船上で司法警察職員たること、国際法関連の要務が 多いことから、一般人よりは法律に接する機会が多いとは言え、刑事裁判に関 してはどう見ても非専門家でしかない。そうして素人ながら、裁判長拝命と同 時に膨大な書籍や訴訟書類を読んで奮闘し、自らのリーダーシップの下に判決 を下している。 軍法会議は専門参審の性格が濃厚であるが、この場合は普通参審に接近した と思われる。そもそも515事件は226事件と異り、海軍将校らの個人的決起であ って、部隊を動かしていない。暗殺、テロ事件であって、クーデターと呼ぶ程 のものではない。軍事的性格は稀薄なのである。火砲の暴発や艦艇の衝突とい った如何にも海軍らしい事件なら砲術や操艦の知識が活かされようが、革命や 反乱、クーデター、暗殺といった公安事件に付て、「鉄砲屋」の高須大佐に格 別の知見が有る訳ではない。精々その鎮圧や警備に付て知るところが無いでも ないという程度に過ぎない。普通参審は素人参審であるから、司法官僚の前に は簡単に論破されてしまいがちである。それがそこそこに指導力を発揮できた のは、星の数すなわち階級が物を言う軍隊社会、裁判長たる職位を与える軍法 会議制度と、 「本チャン」優位の海軍部内の気風、軍人に備わった積極敢為の 職業的性格等からであろう。 515事件の判決は昭和8年11月9日であった。検察官の求刑が死刑3人を筆 頭に当然ながら重いものであったのに対し、 「憂国ノ至情ヲ諒トス」る宣告刑 は最高でも懲役15年でしかなかったが、検察側が控訴しなかったのでそのまま 確定した。2日前に大審院が控訴棄却、確定した浜口雄幸首相暗殺犯人が死刑 であったのに比べると、如何にも軽い感があった。通常の裁判所で裁かれた同 じ515事件の民間人参加者に比べても尚軽く、これが後に226事件を誘発したと する非難もある。被告人に同情する当時の圧倒的世論からは「花も実もある温 情判決」と称賛されたが識者は不満を蔵し、以後高須大佐は一部から革新将校 の同調者の如く見られる。 だが、七十余年を隔てた今日から見れば、高須大佐は政治的に無色か、或は 逆に反革新将校であった。政治的動きを繰返す陸軍に対しても批判的で、第二 遣支艦隊司令長官時代は、はっきり陸軍の突出を抑制する側に廻り、仏印進駐 に際しては中央の統制に反し上陸強行を逸る陸軍部隊を「敵前」の洋上に放り 出して海軍部隊だけを撤収させた仏印ハイフォン沖陸軍置去り事件を起す。つ まり断固たる国際協調派であり、後の用語に言う文民統制の信奉者であった。 大将まで累進するぐらいだから、海軍軍人としても優秀だった。そのような高 須大佐が何故、軽きに過ぎるような判決を出したのだろう。 60 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 筆者はこれを素人参審の限界と見る。軍法会議は合議裁判であり、且つ多数 決であるから、裁判長高須大佐一人の責任ではないかも知れないが、要するに 専門参審員として臨めば的確な判断ができる人でも、事件の性質上、専門知識 を持合さず事実上素人参審員化してしまった為、澎湃たる世論に流された、或 は染まったのではないか。当時の新聞論調は被告人擁護一色であり、減刑嘆願 書は山と積まれたのである。陪審や普通参審が世論の影響を受け易いことは良 く知られている。だから欧米では、被告人に対し世論が激昂した場合は、公平 を期し難いのでかえって無罪にするという。 515事件や226事件といった、有名ではあるが政治的、例外的事件よりも、兵 営や戦地にありがちな多数、一般の事例を参照すべきであるが、膨大に過ぎる ので後日に譲る。 h.軍律会議 軍法会議の性格を明らかにするため、軍律会議(又は軍律法廷。以下軍律会 議と呼ぶ)に付言する。この言葉は耳慣れないが、東京裁判もまた軍律会議で あった。極東国際軍事裁判と称して軍法会議と呼ばないのはこの為である。軍 事裁判=軍法会議とする誤解が蔓延しているが、 軍律会議も又軍事裁判である。 軍律会議は戦時に特設される臨時の機関で、統帥大権に基き、自軍の利益のた めに設けられる。よって犯人のマグナカルタ的機能は乏しい。軍律と軍律会議 は名こそ違え、内外に存在する。近代日本に於る嚆矢は日清戦争の際「占領地 人民処分令」に基き設置した軍事法院であった。日露戦争時も陸軍第四軍に審 判委員会が設けられた。支那事変に際しては陸軍が軍律会議、海軍が軍罰処分 会議を置いた。米軍にも Military Commission 軍事委員会、英軍にも Military Court under Martial Law が存する。 軍法会議が主として自国民に対する裁判であるのに対し、軍律会議は逆に外 国人を裁く。敵国軍人や敵性住民も戦時国際法を遵守する限り国際法の保護を 受けるが、戦争法規を犯して敵対行為を働く者は単なる戦時重罪犯、戦時刑法 犯であるから国際法の保護を受けない。敵国軍人や占領地域住民の違法な敵対 行為は戦時反逆罪として軍の処分に委ねられ、軍法会議にかけることなく、軍 が自ら定立した刑罰法規で処断し得る。これが軍律であり、軍律会議である。 国際慣習法上認められて来たものであるが、1907年のハーグ陸戦法規第3款が 「敵国ノ領土ニ於ケル軍ノ権力」として第42条以下を以て占領地に於る軍律、 軍律会議を認めたと解されている。国内法的には大日本帝国憲法第11条の「天 皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と規定される統帥大権に根拠を求めた。軍律や軍律会議 は作戦用兵上の必要に基き、軍が自ら定立するからである。つまり軍事行動で 61 石田清史 近代日本に於る参審の伝統 ― 裁判員制度を契機として ― あり、戦争行為なのである。軍刑法や軍法会議法などに対する下位法であるか ら当然、上位法に劣後し、法律の制約を受ける。 少し長いが、当時の文献から引用しよう。 「軍律は軍令若くは軍事刑法とはその性質を異にする。軍令は陸海空軍の統 帥に関し勅定を経たる規程で、公示を要するものは特定の方式を履みたる上官 報にて公示する(明治四十年九月軍令第一号、第一条及第三条)。軍事刑法即 ち陸軍刑法、海軍刑法、陸海軍軍法会議法等は、憲法上の手続を経て制定公布 する国家の法律で、本国及び占領地を通じ専ら軍人軍属(及び特定の場合に於 る軍人軍属以外の者)に限りて之を適用し、その裁判機関は法律を以て構成せ られたる軍法会議(Court martial)である。然るに軍律は憲法上に謂ふ法律 ではなく、 占領司令官が己の便宜と欲する所に従つて制定布告する軍の命令で、 その裁判機関は軍法会議でなくして、占領軍司令官に於て任意に構成せしむる 軍事法廷である(英語では多く之を Military Court under Martial Law と称す る)。占領軍司令官は前述の如く能ふ限り占領地の現行法令を尊重すべきを本 體とするが、已むを得ずと認めたる場合には之を顧慮することなく、軍の安全 及び秩序の維持のため必要と認むる別種の命令を軍律として制定布告するを妨 げない。勿論その制定事項は無制限ではなく、交戦法規の禁止する特定条項は 守らねばならぬ。例へば軍律に於て占領地人民を強制して自国の軍又はその防 御手段に付情報を我方に供与せしむることを命じたり、我方に対し忠誠の誓を 為さしめたりすることは許されない。たゞ斯かる禁止事項に触れざる限りに於 ては、その内容は一に占領軍司令官の裁量に属する。これが軍律なるものゝ大 體の性質である」43 i.小括 軍法会議に対しては否定的風潮もあり、 時として暗いイメージで語られるが、 イメージだけならそもそも裁判はみな暗く捉えられている。その制度や運用を 具に観察すれば、当時列国の軍法会議に比して劣後するような内容ではない。 我軍法会議は司法警察職員たる憲兵他や、法曹資格ある法務官といった専門家 によって捜査され、参審制の合議裁判で多数決によって裁判され、弁護人も付 き、各段階で高度な専門家が参加し、上告、再審の道も開け、適正手続、公正 な裁判へ向けた努力がなされていた。健軍以来七十余年の蓄積は膨大であり、 参審に限っても貴重な経験が蓄えられていたのである。 筆者は若き日に団藤重光教授の教科書で軍法会議の判例が引用されているの を読み、軍法会議が刑事裁判そのものであり、参審が巧く機能していたことに 気付き、爾来、些かの注意を払って来たものであるが、参審が再び採用されん 62 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 とする今日にしてなお、貴重な経験が忘れられて殆ど顧みられぬことを遺憾に 思う。歴史に盲目であって何の進歩が期待出来ようか。 軍法会議法は昭和22年に廃止され、軍法会議自体もやがて消滅した。後継裁 判所は概ね各地の地方裁判所であった。新憲法の第76条第2項により特別裁判 所の設置が禁ぜられたので、自衛隊の創設後の今日も、我国に軍法会議は存在 しない。諸外国には汎く設けられているし、最高裁判所を頂点とする司法組織 の体系に組込み、上訴の道を開くなら、軍法会議の設置は可能と考えるのが普 通の憲法解釈である。家庭裁判所が違憲で無いように。 しかし政府は自衛隊を軍隊でないと言っている手前、軍法会議も設置する意 思を持たない。そもそも旧軍と異り軍刑法自体が存在しない。僅かに自衛隊法 に隊員の服務規律や、違反に対する罰則が散見されるが、軽きは1年以下の懲 役または3万円以下の罰金、重きも7年以下の懲役または禁錮に止まり、刑罰 といっても懲罰に近い軽微な罰則である。裁判は全て通常の裁判所が行う。 ロ.査問会 海軍は海難等の事故に際し、海軍軍法会議の他に査問会を置いた。これは海 難等に際し一般の裁判の他に海難審判所を置く現行制度と同一である。米軍の 現行査問会が仮に軍法会議の予審として機能しているとしても44、日本海軍の 査問会は予審ではない。予審機関は別に設けられていた45。 海軍は「坐礁、衝突、火災、墜落、破壊其ノ他ノ損害又ハ危険ヲ生ジタル トキ其ノ原因ヲ明瞭ナラシムル為査問会ヲ組織シ之カ調査ヲ為サシ」めるが「既 ニ原因ノ明瞭ナルモノハ」除外するから46、あくまでも原因調査を目的とする 臨時の機関であることが明瞭である。そして原因調査の為に設ける機関は査問 会であるべく、査問会に換て調査委員会を置くことはすべきでないと海軍部内 に広く通牒(以下、訓令と呼ぶ)している。以下に全文を挙げる。 査問会規則ニ関スル件 大正5年9月27日 官房第2900号 海軍次官ヨリ各長官宛 坐礁、衝突、火災其ノ他ノ損害又ハ危険ヲ生ジタル場合ニ於テ其ノ原因ヲ明瞭 ナラシムル為往々調査委員等ヲ命シ之ヲ調査セシムル向モ有之候ヘ共右ノ如キ 場合ニ於テハ査問会規則第二条ニ依リ直ニ査問会ヲ設ケ之ヲ調査セシムルヲ相 当ナリト思料候 右依命通牒ス 責任追及より原因究明、将来の事故の防止を主眼とする査問会の目的、性格 63 石田清史 近代日本に於る参審の伝統 ― 裁判員制度を契機として ― は、以下の訓令によりさらに一層明白である。 査問会ニ関スル件 大正7年9月13日 官房第3184号 海軍次官ヨリ各長官宛 査問会ハ坐礁衝突火災其ノ他危険若ハ損害アルニ際シ其ノ原因明瞭ナラサル場 合ニ於テ之ヲ調査探求シ以テ同種原因ニ因リ再三同種ノ危険若ハ損害ヲ生セサ ラシムル為メ其ノ資料ヲ獲ルヲ以テ主タル目的トスル調査機関ニシテ責任者ノ 有無及責任ノ程度等ヲ討究スルハ付随ノ目的タルニ過キス従テ調査手続モ裁判 審問手続ノ如ク一定ノ形式ヲ要セス只管簡易迅速ヲ旨トシ機宜ニ応シ専ラ事実 ノ真相ヲ発見スルニ適当ナル手段方法ニ依ルヘキモノトス若シ査問会ニ於テ関 係者ノ陳述聴取ニ際シ裁判審問手続ニ類似スルノ形式及方法ヲ以テスルトキハ 関係者ハ恰モ被告人トシテ訊問糾弾ヲ受クルカ如キ感想ヲ抱クニ至リ自然其ノ 知ル所ヲ盡サス事実ノ真相発見ノ障害トナルノ虞アルノミナラス一般ニ査問会 ノ性質ヲ誤解スルノ因トモ相成ルヘク候条査問会組織ニ当リ誤解ナキ様御示達 相成度 右申進ス 海軍軍法会議が責任を問う刑事裁判なら、査問会は原因究明、将来の事故防 止を主目的とする原因調査機関であり、後の海難審判だったのである。 査問会はなるべく査問事件に付き責任者たる疑ある者より上席者たる将校、 将校相当官たる委員を以て構成し、 法務官1名が加わる。将校相当官とは兵科、 機関科以外の士官で、ここでは特に造船科、造機科、造兵科、水路科等の技術 系軍人を指す。機関将校は既にエンジニアであるが、更に各専門分野のスペシ ャリストを専門委員に迎えた点で、専門参審的色合いはいっそう濃厚である。 委員長は佐官以上で且つ必ず査問事件に付き責任者たる疑ある者より上席者た る将校が就任する。階級に関係無く多数決で決議し、調査終了と同時に査定書 を作り、事実と因果関係を明らかにし、判断の理由を示し、証拠を添えて提出 する47。 査問会の実態を海軍、海難史上に名高い友鶴事件に見よう。これは日本海軍 の誇る新鋭「千鳥」型水雷艇の3番艦「友鶴」が、就役後僅か2週間の昭和9 年3月12日、荒天で転覆し、艇長岩瀬奥市大尉以下百人が殉職した事件である。 同型は実質上小型駆逐艦であり、ロンドン海軍軍縮条約下、兵力の劣勢を補う 期待の制限外艦種であり、しかも転覆原因たるトップヘヴィー、復原力の不足 は日本海軍全艦艇に及び兼ねないとあって、文字通り海国日本を震撼させた大 事件であった。野村吉三郎大将を委員長とする査問会に於て「復原力ノ限界ハ 64 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 技術的ニコレヲ求メ得ス」とする福田烈造船中佐等の強硬な意見が通り、過大 な兵装を要求した軍令部も、設計主任の造船官も責任を問われなかった。同中 佐は後日、艦政本部第四部基本計画主任藤本喜久雄造船少将を軍法会議に起訴 することにも反対して法務官と激しく応酬し、遂に不起訴処分をもたらしてい る。責任者たる疑ある者より階級が下であったにもかかわらず光彩を放ってい るところを見ると、専門参審類似の合議体として科学的原因探求に徹していた らしいことが窺われる。 以上、往年の我査問会は明文規定を比較しても米軍現行制度と殆ど差異が無 い。我査問会規則が大正4年の制定であり、更に明治34年達166号査問規則に 遡り得ることを思えば、1世紀余を経てなお遅れをとらぬその先進性は瞠目す べきものがある。 査問会は世に全く忘れ去られているが、次に揚げる現行の参審制度・海難審 判の原型と考えられるので、特に取上げた次第である。 ハ.海難審判 海難審判庁は準司法機関であって純然たる司法機関、裁判機関ではなく、行 政機関である。国土交通大臣の所轄に属し、国土交通省の外局である48。した がって海難審判もまた狭義の裁判でなく、行政処分たる行政審判である。故に 刑事 裁 判 そ の も のである軍法会議とは些か異る が、 前 審 と し て 事 件 の 審 判 ─ 最広義には裁判と呼んでも良いであろう ─ を行い、不服があれば裁判 所に上訴することが可能であるから49、裁判所、裁判に類似した構造ではある。 海難審判法第11条に「審判官(高等海難審判庁長官及び海難審判庁審判官を いう。以下同じ)は、独立してその職権を行う」と定められ、審判の独立が保 障されている。一審は全国7箇所、1支部の地方海難審判庁であり、上級裁判 所として東京に高等海難審判庁がある。 なお不服なら高等裁判所へ上訴できる。 審判の構造は狭義の裁判の引写しに近く、裁判官、検察官、弁護人、被告人 に当たるのがそれぞれ審判官、理事官、補佐人、受審人である。海難審判理事 所は海難審判庁に置くので、これは旧検事局か。警察は海上保安官。起訴、裁 判、判決は審判申立、審判、採決である。切が無いので止めるが、まさに司法 に準じた機関であり、機能である。 審判官、理事官の任命資格は海難審判法施行令第3条に列挙されているが、 要するに一級海技士たる本船の船長、機関長、或は理事官、副理事官、補佐人、 海上保安官、海難審判庁事務官、船舶検査官、海技試験官、海技大学校・航海 訓練所教官等を一定年数勤めた者等である。簡易裁判所判事任命資格者も挙げ られているが、海難審判庁に照会したところ、現任者にはいないという。副理 65 石田清史 近代日本に於る参審の伝統 ― 裁判員制度を契機として ― 事官もこれをやや緩和にした程度の任用資格である。補佐人の基礎資格たる海 事補佐人、言わば弁護人に対する弁護士のような地位も略同じであるが、50こ ちらは弁護士有資格者が現に存在する由である51。 海難審判が裁判と異るのは、目的が処罰より原因の究明にあることで、これ は海軍の査問会の流れを汲むものであるが、併せて海難事故の責任者に行政処 分を下すから、この限りで刑事裁判に類似する。処分の最も重きは「免許取消 し」で、受審人等が一級海技士以下の船舶操縦免許保持者であればそれを取消 す。次いで「業務の停止」 。1カ月以上3年未満の間で免許を停止する。最も 軽きは「戒告」で、叱責し注意を促すに止める。他に、行政処分ではないが、 免許を持たぬ者、或いは法人に対して改善を求める「勧告」を行い、事故の状 況や原因、求められる改善点を官報に掲載する。 肝心なのはこの海難審判が参審制を採用していることである。海難審判法第 14条を全文引こう。 1項 各海難審判庁に政令の定める員数の参審員を置き、その職務に必要な学 識経験を有する者の中から、各海難審判庁の長が、これを命ずる。 2項 参審員は、原因の探究が特に困難な事件の審判に参加する。 3項 審判に参加する参審員の審判手続上の職務及び権限は、審判長以外の審 判官と同一とする。 明快に専門参審を採用している52。したがって参審員の選任も一般公衆から の機械的任用でなく、学識経験者からの任命である。海事は航海術にせよ、船 舶の構造にせよ、爆発にせよ、レーダーにせよ、何れも専門家の世界であって、 しかも複数の専門分野にわたることが少くない。高等海難審判庁は5人、地方 海難審判庁は3人の審判官によって審判廷を構成するが、参審の場合は2人の 参審員を加え、それぞれ7人、5人となる。参審員は各審判庁が予め非常勤で 委嘱してあり、海難事件の性質により各専門家に割振る。多くは工学系で、爆 発事故等では化学系の参審員も活躍する。 但し、全ての海難審判に参審員が列する訳ではなく「原因の探求が特に困難 な事件の審判に参加する」だけであること、審判長が審判官であること等は軍 法会議と異る。軍法会議は参審員(判士)に軸足を置いた制度であったが、海 難審判は職業裁判官(審判官)に軸足を置いている。軍に在っては法律家より 軍人が主流であったとはいえ、旧軍の方が積極的であったということは注目に 値する。 「裁決には、理由を附さなければならない」53が、これは軍法会議や査問会の 66 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 流れを汲む規定と考えられる。 海難審判は明治9年以来の古い歴史を有するが、 往時は海員の懲戒を目的とする刑事裁判的性格で、処罰より原因究明を目的と するようになったのは海軍の査問会からである。現行法は昭和22年11月19日制 定法律第135号で、この時に参審制を採用し、併せて原因究明を目的としたの であるから、丁度陸海軍軍法会議法、査問会規則の廃止と入替りである。 世界的に参審、陪審制下にあっては理由を告げない、上訴しても覆審等を許 さない制度が広く行われ、今次裁判員制度の立法過程に於ても、この点が問題 となった経緯がある。海難審判が①海難事故等に際し、②原因究明を主とし、 処罰を従とすること、③参審制で、④判断の理由を示すこと、⑤行政機関によ る前審で、別に刑事裁判が控えていること等々、一々海軍の査問会と同じであ る。総じて海難審判は海軍査問会の延長線上に在るといっても言い過ぎではな いであろう。 同じ参審でも、軍法会議は世界中で行われているとはいえ我が国では半世紀 以前に消滅した歴史的遺制であるが、この海難審判は現行法に則り今日も盛ん に活動している制度である。よって一般の裁判に広く参審を採用するのであれ ば、十分研究して置く価値がある。 ニ.国税不服審判 現行法制上、明確に参審制を採用しているのは海難審判だけである。だが参 審とは言えないまでも、当該専門分野の学識経験者を審判官等に迎え、専門参 審に類似した制度を採る準司法機関は少からず存在する。労働委員会に於て裁 判官役を勤める公益委員や、自治体のオンブズマン等も外部から大学教授や法 曹を任命することが多いが、準司法機関や行政審判の類は数も多いので、比較 的規模が大きく一般に馴染のある国税不服審判を例に引こう。 国税不服審判所は国税に関する法律に基く処分に係る審査請求に付て裁決を 行い納税者の権利の救済を図る、国税庁の附属機関で、本部のほか全国に12の 支部、7の支所を置く単一の組織である。海難審判所と同じく準司法機関であ って裁判所そのものではない。海難審判所と異り、上級審判機関を持たないの で、審判に不服なら直ちに裁判所へ訴え出ることになる。南教授に拠れば「厳 密には行政審判とはいえないが、現行の行政不服審判制を可能な限り司法型化 した制度であり、納税者の権利救済に多大の実績を上げている」54由である。 実際、租税事件は複雑で細い法規や徴税関係の特殊な事実認定、例えば課税要 件事実 ─ 刑事裁判なら犯罪構成事実に相当する ─ が多く絡むので、いきな り裁判所へ持込むより国税不服審判の方が適切に判断できるとする意見が強 い。 67 石田清史 近代日本に於る参審の伝統 ― 裁判員制度を契機として ― 海難審判のように明確に参審制を採用しているものではないが、参審と同じ 精神を以て部外者を審判官に迎え、審判正しきを期し、以て国民の利益を守ら んとするものである。職業として審判官に就任する点に於て参審とは異るが、 目指すところは同一である。 これは沿革に由来する。国税不服審判所の歴史は遠く明治に遡るが、直接の 母体は占領下、シャウプ勧告により設けられた協議団である。これは市民委員 会制度と比較検討の上、選択されたもので協議官に民間人を採用し、その合議 で審査する等の大綱が国会で定められ、昭和25年に創設された。当初、協議官 は600。内、民間人は400余人であった。民間人を含む合議体で審査するという のは参審の思想である。創設が米占領下、米人によってであることも、これを 想起させる事情である。昭和45年に至って租税訴訟の増加や推計課税事件への 対策から国税不服審判所に改編され、協議官に代て審判官、副審判官を置き、 前者は税務署長級、後者は副署長級とし、広く部外者を任用することを謳った。 平成15年7月10日以降の定数は審判官178、副審判官87である。副審判官の職 務も審判官と大差無い。東京の副審判官は事務も執るが、大阪では執らない。 国税審判官の任用資格は ①弁護士、税理士、公認会計士、大学の教授若くは助教授、裁判官または検察 官の職歴を有し且つ国税に関する学識経験を有する者 ②一定水準以上の職位にあった国税関係国家公務員 ③その他国税庁長官が前二号と同等以上と認める者 である55。制度発足時の趣旨は①の大量任用にあったと思われるが、運用実態 は逆転し②が多数である。彼等は指定官職者に任用された後数年を経て副審判 官となり、更には審判官へと進む。事実認定に優れ、多く訟務や審査の経験者 であるが、法学部出身者が少い為もあってリーガルマインドには欠けるようで ある56。事実の争いが多く、法令解釈の問題は本部へ送るのでそれでも勤まる と言う。これでは国税審判制度の根幹が揺ぎかねないが、①からの任用も或程 度は為され57、トップ以下要所に判検事を配し、東京国税不服審判所は所長が 検事で他に判、検事各1名を配する。大阪は所長が判事で同じく判検事各1名 を配員する。判検事は多くが法規審査部配属となる。その数は平成17年11月現 在17人である。但しこのグループの多くは裁判所や検察庁といった他官庁から の出向で、学界や民間からの任用は少い。稀に迎えても3年程で退職とする運 用である。殊に税理士からの任用はほとんど無いが、時々部内で検討はしてい るようである。 審査請求人は弁護人に相当する補佐人を立てることができる。補佐人の資格 は特に制限されていないが、代理権は無い。その為か実際には代理人として弁 68 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 護士や税理士を立てることが多い。 審判は裁判長に相当する「担当審判官」1人と、陪席裁判官に相当する「参 加審判官」 2人以上の合議で為される。担当審判官は参加審判官とともに調査、 審理する。合議にはオブザーバーとして部長審判官58が参加するので合議体は 4人以上で構成される。合議の末、部長審判官を除き単純過半数で議決する。 この過程には国税不服審判所長はもとより、国税庁長官と雖も干渉できない。 いわば審判の独立であるが、担当審判官からこの議決の報告を受けた後、法規 審査部や次席審判官の判断を経て国税不服審判所長が自らの名で採決する。議 決は理論上採決権者を完全には拘束しないものの「棄却」「一部取消」「取消」 の結論は事実上少からず拘束する。とは言え、法規審査部等からの返戻事件も 無いではない。所長から差戻されることすら稀ではなく、審判廷はこれに従わ ざるを得ない。議決までは干渉を受けないが、その後裁決に至るまでは部内で 揉まれるのである。採決には理由を付さねばならない。 国税不服審判に付ては他に論点もあろうが、本稿は参審を主題とするので立 入らない。 Ⅳ 終りに 以上に見て来た通り、我国には司法機関、準司法機関等に於て豊富な参審の 経験を有する。軍法会議にせよ、査問会、海難審判にせよ、はたまた国税不服 審判他の行政審判等にせよ、長期間継続し、一定の成功を収めたと見られる参 審制は、何れも法律以外の各分野の専門家の能力に期待するものであって、必 ずしも国民の司法参加を目指したものではなかった。むしろ直截にそれを期し た陪審制は国民の支持を得られず、実務法曹の支持すら得られず無残な失敗に 終ったのである。 (必要的)法廷陪審と(任意的)請求陪審を合せて年に1件 乃至数件しか行われないということでは、如何に糊塗しても陪審に国民の支持 が有ったとは言い難い。これは現在も同様である。起訴陪審系の現行検察審査 会にしても検察審査員の欠席が多く流会続きの現状であり、あらゆる世論調査 は国民が裁判員になりたがっていないことを示している。昔も今も国民は司法 参加の意欲に乏しいようである。 ということは我国近代史上に於て参審制が成功し、定着したのは、それが司 法の民主化より特殊分野の高級専門家に期待する制度だったからではないか。 参審といっても普通参審でなく、専門参審だったのである。民事裁判の中でも 医療訴訟や土木建築、知的財産、金融為替等の高度経済、海事や航空事件等は 専門参審に馴染み易く、参審なり陪審なりを導入するなら特定分野の専門参審 69 石田清史 近代日本に於る参審の伝統 ― 裁判員制度を契機として ― から試みる途が堅実であるかも知れない。最高裁が「一部の限られた事件に参 審制度を導入する」ことを提言したのも、こうした観点から理解できる。 附言 本稿は我国に於る参審の歴史的経験を辿る法制史的分析から、更に進んで裁 判員制度を初めとする今次司法制度改革に言及し立法政策をも論じたかった が、竜頭蛇尾に終ってしまった。また時間と能力の不足から精査を尽せず、典 拠全きを期し得なかった。本テーマに就ては引続き研究する心算であり、遺漏 の些かは次稿で補いたい。 70 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 注 1 大正12年(4月18日)法律第50号 2 陪審法第2条 3 陪審法第3条 4 陪審法第12条及び29条 5 禁治産者、準禁治産者、破産者、聾、唖、盲者、前科者等の失格事由が陪 審法第13条に、国務大臣以下一定の文武官、在野法曹、宗教家、医師、学 生等の欠格事由が陪審法第14条に、被害者、その関係者、証人、鑑定人、 捜査裁判担当官憲等の除斥事由が陪審法第15条に、60歳以上の高齢者、在 職の官公吏教員、会期中の議員等の任意的陪審員職務辞退事由が陪審法第 16条に定められている。 6 陪審法第101条「陪審ノ答申ヲ採択シテ事実ノ判断ヲ為シタル事件ノ判決 ニ対シテハ控訴ヲ為スコトヲ得ス」 7 陪審法第106-107条 8 昭和21年の改正で「大東亜戦争」から「今次ノ戦争」と改まった。 9 検察審査会法第1条。昭和23年(7月12日)法律第147号。 10 陪審法第95条「裁判所陪審ノ答申ヲ不当ト認ムルトキハ訴訟ノ如何ナル程 度ニ在ルヲ問ハス決定ヲ以テ事件ヲ更ニ他ノ陪審ノ評議ニ付スルコトヲ 得」 11 検察審査会法第2-14条 12 篠倉満「大陪審制度採用の提案」 『熊本法学』第83号所収。 13 これは札幌地方検察庁の運用規定に拠る様式第5号補償通知書で、全国一 律の被疑者補償規定に基く。 14 軍法会議が刑事裁判そのものであることは一般に認められているが、最近 では検事総長の平成13年諮問第36号に対する内閣府情報公開審査会平成13 年11月12日答申「軍法会議に係る訴訟記録の表題等を記したリスト・目録 等の不開示決定(不存在等)に関する件」が明快に断じている。 「ア.軍法会議の実質的意義 軍法会議とは、大日本帝国憲法60条の規定を受け、陸軍軍法会議法及び 海軍軍法会議法に基づいて設置された特別裁判所であり、軍人等の一定の 刑事事件に関し裁判を行うものであって、大日本帝国憲法の下では、一種 の司法機関と位置付けられていた。また、実体法として、陸軍刑法、海軍 刑法が定められ、反乱罪、上官殺害罪、軍用物損壊罪、戦地強姦罪等の犯 罪が定められ、これらに対し、死刑、無期懲役・禁錮、有期懲役・禁錮の 71 石田清史 近代日本に於る参審の伝統 ― 裁判員制度を契機として ― 刑罰が定められていた。そして、軍法会議においては、裁判官、検察官、 弁護人が関与し、捜査、公訴、証人尋問、被告人尋問、鑑定、検証、捜索・ 押収、高等軍法会議への上告、再審等の手続が定められていた。このよう に、軍法会議は軍隊の持つ特殊性から、軍人等の一定の刑事事件について は、一般の裁判所でなく、特別の管轄を有する裁判所に於て取扱うことと されていたものであり、その裁判は刑事訴訟そのものである。軍法会議の 記録は、このような軍法会議の裁判書や公判調書など裁判記録そのもので あり、現行の刑事裁判における裁判記録と全く同様のものである。 イ.法体系における軍法会議の位置付け ‥‥したがって刑事法体系において、軍法会議は、現行の刑事訴訟と連 続性を持ったものとして位置付けられている。 」 15 例えば海軍刑法第75条の後発航期罪。 「艦船ノ乗員故ナク其ノ艦船発航ノ 期ニ後レタルトキハ」死刑も有り得る。 16 例えば海軍刑法第71-72条の侮辱罪。重きは「5年以下ノ懲役又ハ禁錮」 17 明治44年軍令陸第4号 18 明治41年(9月28日)勅令第239号 19 明治32年(3月28日)勅令第63号 20 同月の陸軍省達に「現今軍法会議之方法御詮議中ニ付追而確定候マデノ内 糾問司ニ於テ仮会議ヲ設ケ」とある。 21 明治5年7月の陸軍省達に「陸軍裁判所ニ於テ軍法会議致候節」とある。 22 海難審判庁HPは以下の如く記す。 「参座とは、当初臨時裁判所において 裁判の公正を期するために欧米の陪審員制度を採用しようと試みたのであ るが、当時は未だ民度が低く、裁判に参加させることができないので 、 官 吏の中から選出して裁判に参加させ、これを参座と称したものである。海員 審問においてもこれにならい参座の名称を使用したのであるが、海員審問の 場合は陪審でなく陪席である」http://www.mlit.go.jp/maia/08monoshiri/ maiahist/seido.htm 23 名判官と今に称えられる板倉伊賀守も大岡越前守も普通の武士、役人であ って、司法官でも法律家でもない。所司代なり町奉行なりの職務の一部に 裁判を含んだというに過ぎない。そもそも武家法制は不文法主義であり、 裁判もまた道理や慣習に依存し、法学自体ほぼ存在しなかったのである。 裁判所の下僚や、法律事務所の前身たる公事宿等、専従者が全くいなかっ た訳ではないが、専門性は薄く、それだけに法と常識との乖離は小さかっ た。 24 明治16年太政官布告第24号。改正明治21年法律第2号。 72 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 25 明治17年太政官布告第8号。改正明治22年法律第5号。 26 陸海軍で 「将校」の語義が異るので、海軍では法務士官である。海軍では昭和17 年4月、海軍省法務局長が法務中将に任ぜられたのを筆頭に、一斉に転官した。 27 海軍軍法会議法第46条「軍法会議ハ審判ヲ為スニ付他ノ干渉ヲ受クルコト ナシ」 28 大日本帝国憲法第20条 29 大日本帝国憲法第19条 30 大日本帝国憲法第23条 31 大日本帝国憲法第24条 32 大日本帝国憲法第32条 33 海軍軍法会議法第373条「弁論ハ此ヲ公開ス」 34 海軍軍法会議法第369条「死刑又ハ無期若ハ短期一年以上ノ懲役若ハ禁錮 ニ該ル事件ニ付テハ弁護人ナクシテ開廷スルコトヲ得ズ」 35 海軍軍法会議法第87条第1項「被告人ハ公訴ノ提起アリタル後何時ニテモ 弁護人ヲ選任スルコトヲ得」 第88条「弁護人ハ左ニ記載シタル者ヨリ之ヲ選任スヘシ 一 海軍ノ将校又ハ将校相当官 二 海軍高等文官又ハ同試補 三 海軍大臣ノ指定シタル弁護士」 第90条「弁護人ノ数ハ被告人一人ニ付二人ヲ超ユルコトヲ得ズ」 職業法律家とは別に海軍諸学校の同期生等が特別弁護人になることが多か った。これも専門参審故であろう。海や戦の専門家として判士に列する海 軍士官に対応すべく、弁護側も海軍士官を要したのである。 36 海軍軍法会議法第420-474条 37 海軍軍法会議法第475-499条 38 海軍軍法会議法第101・103条 39 海軍軍法会議法第47条第1項「審判ハ裁判官五人ヲ以テ構成シタル会議ニ 於テ之ヲ為ス」 40 海軍軍法会議法第47条第2項「裁判官ハ判士及法務官ヲ以テ之ヲ充テ上席 判士ヲ裁判長トス 上席判士ハ将校タル判士タルコトヲ要ス」 41 海軍軍法会議法第49条「東京軍法会議、鎮守府軍法会議、警備府軍法会議 及特設軍法会議ニ於テハ判士四人及法務官一人ヲ以テ裁判官トス」。同52 条「高等軍法会議ニ於テハ判士三人及法務官二人ヲ以テ裁判官トス」 42 海軍軍法会議法第98条 43 信夫淳平『上海戦と国際法』410頁 73 石田清史 近代日本に於る参審の伝統 ― 裁判員制度を契機として ― 44 在日米大使館ホームページ http://japan.usembassy.gov/j/p/tpj-j087.html その訳文に拠れば「軍人予審裁判所(以下査問委員会)は、3人以上の士 官と同委員会のために指名された法律顧問から構成される、事実解明のた めの軍事行政機関である。査問委員会は、通常の意味での裁判所ではない が、事件・事故に関する審理・審問することに責任を持つ正式な調査機関 である。査問委員会は、召集権者の指示に応じて、事件・事故に関する意 見を述べ、勧告を行う」とある。だが、これは法学の素要有る人の訳では なかろう。原文以下の通り。 Court of Inquiry Pacific Fleet Information Paper An Outline of Key Points to Help Explain the Proceedings (Feb. 17. 2001) A court of inquiry is an administrative fact-sinding body that consists of three or more officers and has an appointed legal advisor for the court. It is not a court in the normal sense of the term, but is a formal board of investigation charged with examining and inquiring into an incident and, when directed by the convening authority, making opinions and recommendations about the incident. Testimony is given under oath and all open proceedings, except the arguments of counsel, are recorded verbatim. The board possesses the power to order military witnesses and subpoena civilian witnesses to testify at the hearing. 以下、石田試訳 査問会 米太平洋艦隊広報 審理手続概要 (2001年2月17日) 査問会は3名以上の士官及び任命された法律顧問から構成される事実調査 のための行政審判機関である。 査問会は通常の意味に於る裁判所ではなく、事故等に関し審理し、召集権 者の諮問に応じ勧告を行うことを任務とする公式機関である。 証言は宣誓の下で行い、公開される審理手続は当事者の弁護人の弁論を除 き一語一句正確に記録される。 査問会は審理に於て軍民を問わず証言を命じ、 74 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 且つ召喚する権限を有する。 45 海軍軍法会議法第61-64条 46 査問会規則第2条。大正4年7月2日達第93号。 47 査問会規則第4-5・14-16条 48 海難審判法第8条「国家行政組織法(昭和和二十三年法律第百二十号)第3 条第2項の規定に基づいて、国土交通大臣の所轄の下に、海難審判庁を置く」 (原文ママ) 49 日本国憲法第76条 50 海難審判法施行規則第12-13条 51 筆者は中央大学法学部の出身であるが、所属研究室の先輩に鳥羽商船出身 で世界の海を巡った人がいて、海難審判官を目標に勉学に励み、司法試験 に合格した。とりあえず弁護士を開業し、海事補佐人業務を行うと語って いた。 52 海難審判庁の前掲HPは、昭和22年制定の海難審判法を旧法 ─ 海員懲戒 法 ─ と比較して以下の如く述べる。 「8参審員制度を新設したこと 。 原因の探究が特に困難な事件の審判については 、 学識経験者の中から任 命された参審員を参加させて審判を行わせることにした 。 これによって 審判を民主化するとともに 、 審判官の知識を補足するものとなった。参 審員の職責は陪席の審判官と同じく、 その職務の遂行も独立して行われる。 これは旧法では認められなかった制度である」 53 海難審判法第42条 54 南博方等『行政審判法』ぎょうせい はしがき 55 国税通則法施行令第31条 56 国税庁HP http://www.nta.go.jp/category/kenkyu/singi/2556_1/02.htm 57 筆者の親しい某法学博士も或日突然 ─ の感があった ─ 招かれ、就任し ている。 58 東京国税不服審判所の場合、部が四つある。部長審判官はその部の長であ る。 (いしだ きよし・本学講師) 75 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 苫小牧駒澤大学紀要第14号(2005年11月30日発行) Bulletin of Tomakomai Komazawa University Vol. 14, 30 November 2005 The Historical Context Surrounding the Emergence of English as a Lingua-Franca in Japan 日本における「リンガ・フランカ」としての英語が出現した歴史的背景 Seth Eugene CERVANTES セス ユージン・セルバンテス Key words:lingua-franca, historical context, seclusion laws, Neo-Confucianism, foreign incursions. ABSTRACT In this article, I discuss some historical trends and ideas behind the emergence of English as Japan’s lingua-franca during the dying years of the Tokugawa bakufu. I specifically focus my attention on the historical context of the time. To get a better appreciation, I focus my attention on some of the first contacts Japan had with the West. Second, I discuss, although briefly, the role Japan’s other two historical lingua-franca played in shaping Japan’s identity and serving as a source of scientific, technological, and cultural inspiration. Third, I argue that the role of Neo-Confucianism, in both Tokugawa and Meiji societies, encouraged and limited the spread of foreign language study. Finally I create a chronology of foreign incursions in Japanese waters by Western powers. Here we see English speaking Americans taking a lead role in trying to open Japan. When all these historical factors are considered, it paints a particular picture of how English emerged and why many in Japan continue to have mixed feeling about foreign language study. 77 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 INTRODUCTION The emergence of English as the world’s first truly“global language”is not without controversy. Some scholars question the motives behind the supposed altruistic role of English.1 For these scholars, the historic legacy of imperialism continues to linger and cannot be ignored. They argue that the historical context of imperialism was the soil from which English emerged. Yet, there are many others who celebrate its role as a global language.2 Indeed, the spread of English is a mixed bag, including empowering and disempowering elements that pull on the hearts and minds of all people who find themselves in a class studying English. The Japanese people are no exception. The narrative of English in Japan cannot be told unless the historical context of the time is more fully understood. To do this, I include contemporary accounts of events in Japan from both major(Fukuzawa Yukichi)and minor(Ranald MacDonald)figures of the day. The Emergence of English in Japan as a Lingua-Franca Currently, the English language serves no official institutional function in Japan̶that is, the laws, the government, and the educational services are done entirely in Japanese. English, unlike Chinese and Dutch̶Japan’s other two historical lingua-franca̶was brought to Japan mostly by the threat of force and the need to modernize as a reaction to such threats. Out of the need for political survival, and quite possibly out of a secret desire to exact revenge, the Tokugawa bakufu ordered a small number of Japanese Dutch interpreters and scholars to study English. English did not emerge as a lingua-franca all at once, but emerged gradually in a period clouded by the uncertainty of a Tokugawa bakufu on its last legs. This article attempts to highlight some of the important historical events and ideas of the Tokugawa era behind the emergence of English as a lingua-franca. First I provide some historical background. This, I believe, is necessary in order to understand how the West’s“discovery”of Japan and their initial encounters with Japan in the late 16th and early 17th centuries 1 A. Suresh Canagarajah, Resisting Linguistic Imperialism in English Teaching(Oxford: Oxford, 1999), 57-77 2 David Crystal, English as a Global Language(Cambridge: Cambridge Press, 2003), 1-28 79 Seth Eugene CERVANTES The Historical Context Surrounding the Emergence of English as a Lingua-Franca in Japan shaped how the West would eventual construct an unbalanced and often unflattering image of Japan. Second, I discuss the emergence of Chinese and Dutch as lingua-franca. Both languages, especially the former, were important sources of inspiration and innovation. Their contributions to Japanese society are briefly discussed. Third, I reflect on the historical role“Neo-Confucianism” played in the maintenance of the status quo̶that is, the continued existence and vitality of the Tokugawa bakufu and later, although in a slightly different form, the Meiji government. Nothing remains the same and all things eventually must change̶either from the outside or inside. In Japan’s case it was a little of both. Reactions against“Neo-Confucian”orthodoxy were clearly visible just prior to the collapse of the Tokugawa bakufu. Yet,“NeoConfucian”ideas could never be totally displaced or forgotten. The Meiji era was a time of great change, but also considered a time of“renovation,”or a renewal or modernization of the past. In a way, “Neo-Confucianism”would also have to be renovated and modernized. Even Western-leaning thinkers like Fukuzawa Yukichi, who often derided Chinese learning,3 could not totally divorce themselves from their“Neo-Confucian” background.4 As long as the study of English served its role as a conduit of Western learning̶albeit minimal̶it had a place in Japanese society. If English went beyond its appointed role, it was discouraged, sometimes violently. This was plainly visible when a number of Japanese and foreign residents were murdered in the streets by Japanese extremists for showing a little too much enthusiasm for the West. 5 The fear of the“shadow of assassination”became so intense one well-known Japanese scholar of“foreign culture”had a secret trapdoor built in his house to evade“ruffians”who might want to cut him down.6 Such incidents are not uncommon in history. 3 For a good example of this, see Fukuzawa Yukichi, The Autobiographer of Yukichi Fukuzawa(New York; Columbia University Press, 1966), 91-92 4 Helen M. Hopper, Fukuzawa Yukichi; From Samurai to Capitalist(New York: Pearson Longman, 2005), 107. 5 Sam Patch biographer F. Calvin Parker, in his book The Japanese Sam Patch: Saga of a Servant(Notre Dame, IN: Cross Culture, 2001), recounts the murder of one Dan Ketch(also known by his Japanese name Iwakichi), a former Japanese castaway. According to Parker, he was probably murdered for“playing up his Western identity.” 113-118. 6 Fukuzawa, 225-238. 80 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 In modern day Iraq, Iraqi baseball players are threatened for playing and spreading an American sport.7 And finally, I build a chronology showing how Western imperial powers constantly treaded on Japan’s seclusion laws by brazenly intruding in Japanese waters. Some had benign reasons for their intrusions̶like returning Japanese castaways or just visiting Japan out of curiosity̶while many were working under the assumption that it was their“Manifest 8 Destiny” to do so. This was especially so with the ever westward expanding U.S. It is no small coincidence that many of the intruders in Japanese waters were Americans, and it would be the American Commodore Mathew C. Perry who finally convinced Japan to do away with its isolationist policies. From the first American ship to land on Japanese soil in 1791 to Perry’s second visit to Japan in 1854, English would gradually displace Dutch as Japan’s new lingua-franca. SOME HISTORICAL BACKGROUND Europe Discovers Japan The so-called“enigma of Japan”has fascinated the West ever since the famous traveler Marco Polo first described the fabled island of“Zipangu”to a European audience following his supposed twenty-year sojourn across Asia in the late 13th century.9 Polo describes Zipangu as an island of“considerable size,”“situated about fifteen-hundred miles from the mainland”in the “eastern ocean.”He tells his readers that her inhabitants are of“fair complexion” while possessing “civilized” manners. Their kingdom is “independent of every foreign power”and ruled over by a king that has“gold in the greatest abundance.”The king’s wealth was in such abundance, Polo tells his readers, that the roof of his palace was“covered in gold platting.” Polo also reported that the inhabitants of Zipangu have a taste for the flesh of their enemies. These were the descriptions that later Europeans would have to work with as they tried to plot their way to Zipangu and the 7 Ken Simple,“Baseball in Iraq: As Pastimes GO, It’s Anything But,”New York Times, 7 September 2005. 8 Hopper, 23-25. 9 The Travels of Marco Polo(Hertfordshire: Wordsworth Classics of World Literature, 1997), pp.207-210. 81 Seth Eugene CERVANTES The Historical Context Surrounding the Emergence of English as a Lingua-Franca in Japan fabulous wealth that awaited them. Such images would later inspire Christopher Columbus of Genoa to sail west in search of Polo’s Zipangu. Japan would continue to invoke images of riches that inspired generations of Europeans to be the first to set foot on her soil. His description was a bit on the far end, but to an eager audience ready to believe, the Japan of fiction proved to be very alluring. Beyond Polo’s fantastic accounts, not much was known about Japan, her people, and customs. It was not until she was visited by a flamboyant Portuguese fidalgo(a Portuguese nobleman)named Fernão Mendes Pinto in 1544 that the West would get a more realistic image of Japan.10 He would later go on to write a popular book about his adventures in Japan. In his book, Peregrination, he writes about his observations of what life was like in Japan at the time. The Portuguese harquebuses(primitive matchlock muskets)were of particular interest to the rulers of the time. So great was their interest that the Japanese took to producing their own indigenous version with much success. By the end of the 16th century, Japan was producing guns of equal or better quality than what could be found in the countries of their origin.11 Despite this, the production of guns was eventually phased out do to cultural considerations following Tokugawa Ieyasu’s victory at Sekigahara in 1600. Following his victory, Ieyasu established a rigid and set vertical hierarchy based mostly on“Neo-Confucianism,”with the samurai warrior class on top. Neo-Confucianism stressed the importance of filial piety and obedience to one’s superiors, providing and reinforcing the nascent Tokugawa bakufu’s legitimacy and continued existence.12 This is discussed in a little more detail in the next section. After its initial acceptance and profusion, the gun, being a foreign invention, had to give way to conservative elements fearful of the encroachment of things foreign. The Tokugawa bakufu felt it would be cultural suicide to allow peasants the right to bear guns̶especially those in the survice of the reticent tozama 10 Giles Milton, Samurai William: The Englishman Who Opened Japan(New York: Penguin, 2002), 9-19. 11 Jared Diamond, Guns, Germs, and Steel: The Fate of Human Societies(New York: Norton, 1997), 256-258. 12 H. Byron Earhart, Japanese Religion: Unity and Diversity(Belmont, CA: Wadsworth, 1982), 137-143. 82 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 daimyo̶that could possibly neutralize any martial skill and bravery the samurai warrior class may have over those they ruled. Foreign languages, which were probably viewed along the same lines as the gun, had to be limited or totally abandon for the sake of the status quo. During this period, there would be a concreted effort on the part of Western powers to be the first to establish diplomatic and economic ties with the reclusive nation of Japan. It was one of history’s first truly“Great Games”that involved such Western powers as Russia, France, Britain, and a United States imbued with“Manifest Destiny.”It was also during this time that Japan witnessed the disastrous outcome of the first Opium War of 1839-1842.13 With the fate of the Chinese weighing heavily on their minds, a floundering Tokugawa bakufu had to confront the reality that Japan’s centuries-old seclusion laws would have to come to an end. Prior to Japan opening its country to foreign trade in 1854, the feeling among many of the political elite of the Tokugawa bakufu was that they saw no reason to open Japan to the rest of the world. They knew that trade would benefit the West but they weren’t quite convinced that it would benefit them. They also knew that if they stood their ground against the West, a disastrous war would ensue with almost no hope of victory. Unsure of what to do next, the shogun, the military head of the Tokugawa bokufu, took the unusual step of assembling the country’s daimyo and sought their advice on how best to deal with the Perry ultimatum14̶“Open your country or face open conflict.”A few hardliners, like Shimizu Nariakira, the daimyo of Satsuma, advised the shogun not to give into foreign demands because it would be interpreted by other Western powers as a sign of weakness. He advised that the Tokugawa bakufu employ delay tactics to buy more time to shore up the country’s national defense. The battle cry“joi”or“expel the barbarians”could be heard emanating from the many daimyo supporting Shimizu’s hard-line stance.15 13 The Opium War of 1839-1842, according to historian W. Scott Morton,“was the least defensible war Britain has ever fought”because it was waged mostly to protect the opium trade. See W. Scott Morton, China: Its History and Culture(New York: McGrawHill, 1995), 148-159. 14 Hopper, 26-27. 15 Donald Keene, Emperor of Japan: Meiji and his World, 1852-1912,(New York: Columbia Press, 2002), 15-19. 83 Seth Eugene CERVANTES The Historical Context Surrounding the Emergence of English as a Lingua-Franca in Japan The Threat of Christianity Since the disastrous and bloody conclusion of the Shimabara Rebellion (1637-1638), where the symbols of Christianity were invoked in response to a heavy tax burden,16 the ruling shogun of the time, Tokugawa Iemistu(r. 1623-1651), issued an blanket ban on Christianity. It was widely believed that the Jesuits were a major part of the conspiracy, if not the main source of inspiration. In the process to cleanse Japan of Christianity, draconian measures, including public mass executions, were implemented to ensure the eradication of the Christian faith. In July 1640, the crew of a Portuguese ship, on a diplomatic mission to convince the Japanese to reconsider its seclusion policy, found out the hard way when it entered the waters of Nagasaki Bay. The crew and passengers, numbering about seventy, were sentenced to death by beheading. Before this sentence could be carried out, however, the Japanese offered to spare their lives if only they would renounce their Christian faith,17 most likely by trampling on a cross or some other sacred image. No one accepted; the sentence was carried out in quick and brutal fashion. A few lucky Portuguese(if you can call them that), thirteen in all, were given a one time pardon to relay the message that Japan was a closed nation. Those seeking to enter Japan did so at the risk of torture and death ̶usually in that order. Foreign books, especially those delving into the realm of Christian thought and traditions, were mostly viewed as subversive. The Jesuits, having fled to the Philippians and surrounding areas, were completely taken aback by the ban and tried to re-enter the country illegally to aid their Christian brethren. What followed were generations of Christian persecution and isolation.18 In 1636, the Tokugawa bafuku ordered that all foreign residents be 16 Many historians point out that the role of Christianity was nominal with the heavy tax burden being the greatest cause of dissatisfaction. From this perspective, conversions are looked at with suspicion. Yet, historians also confirm that Christianity did have a strong influence in the area. Some important daimyo had been won over to the Christian faith. 17 Sansom, 38-39. 18 See Japanese novelist Shusaku Endo, Silence( 沈 黙 ) (New York: Taplinger, 1969, English translation), and The Samurai(Tokyo: Kondasha, 1982). Although these are novels, they do capture the spirit and immediacy of what one historian calls“The Christian Century in Japan.” 84 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 removed from their current place of domicile and sent to Dejima, an artificial island off of Nagasaki Bay. Later, in 1641, the Dutch would be removed from the nearby island of Hirado and permanently located there until the end of the Tokugawa bakufu. The Dutch were virtual prisoners on Dejima; they weren’t allowed off the island or to have family members stay with or visit them. It was a harsh and mostly solitary existence. The Dutch were even forbidden to learn Japanese. Scholars point out that the Dutch, despite the difficulty in realizing any real profits, maintained trade simply because of the status of being the only European country allowed to do trade with the reclusive Japanese.19 By then, despite being given many of the same trading privileges as the Dutch in 1613, the English factory failed miserably following the untimely death of the English born hatamoto William Adams, leaving the Dutch as Japan’s only window to the western world. The English failure to make the factory profitable may have helped the Japanese dodge a bullet as the British would later turn their imperial ambitions on a hapless China in the proceeding century. Some foreigners, like Adams, would garner considerable influence among the Tokugawa political elite.20 Ieyasu was pleased when he found out from Adams̶known as Anjin-san or Mr. Pilot in his adopted country of Japan̶that the whole of Europe was not under the thumb of the Catholic Church. The chief factor at the Dutch factory, Francois Caron, on occasions would instruct Ieyasu on the most recent world affairs. 21 The world geography lessons were of particular interest to Ieyasu. It was a complete shock to him to find out that Japan was just one of many countries̶and a very small one at that! Although its not exactly known how much Ieyasu and the political elite of the time knew about world affairs, especially those relating to Western European powers and their imperial conquests in the New World, Asia, and Africa, it’s a sure bet he knew enough to know that the presence of foreign peoples(including their languages)and ideas on the sacred soil of Japan would endanger the relative peace he had won on the battle fields of Sekigahara in 1600. In the end, Ieyasu was reported to say 19 20 21 Loveday, 53. See Milton(2002). Sansom, pp. 43-45 85 Seth Eugene CERVANTES The Historical Context Surrounding the Emergence of English as a Lingua-Franca in Japan that he“heartily wished that his land had never been visited by any 22 Christian.” JAPAN’ S TWO HISTORICAL LINGUA-FRANCA: CHINESE AND DUTCH Chinese: Japan’ s first Contact with the Chinese language allowed the Japanese to make important cultural and technological innovations. One such innovation was the development of a writing system based on Chinese logograms. Writing systems arose independently in only a few rare instances.23 China was one place where writing may have developed independently some 3,000 years ago. In any case, writing allowed the Japanese to record its history̶further coalescing the idea of a Japanese people̶and more efficiently and accurately administrate a vast government bureaucracy and wage war against reticent bands barbarians and wayward Japanese̶for instance, writing allowed generals to elaborate on the ancient texts of Sun Tzu’s The Art of War and rulers to develop a cultural legacy based on the ancient teachings of Confucius found in the Classics of Filial Piety and the Great Learning. So important was Japan’s contact with China that without it Japan may have been stuck in the Late Stone Age, like their Ainu neighbors to the north.24 As a conduit for cultural and technological innovation, the Chinese language achieved a level of importance that cannot be overstated. Dutch: Japan’ s second Dutch began to emerge as a replacement of Chinese as the foreign language of choice during the reign of Tokugawa Yoshimune(r. 1716-1745), the great-grandson of Tokugawa Ieyasu(r. 1603-1605). Prior to Yoshimune’s ascension to power, there was a strict ban on foreign books. The ban was mostly focused on foreign books written in Chinese. Books written in other languages were mostly considered harmless.25 This was in no small part due to the fact that almost no Japanese spoke European languages. Contact with 22 Francois Caron cited in Sansom, 43. Diamond, 215-238. 24 Leo J. Loveday, Language Contact in Japan: A Sociolinguistic History(Oxford: Oxford, 1996), 27. 25 George Sansom, A History of Japan 1615-1867(Stanford, CA: Stanford, 1963), 168-170. 23 86 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 other European languages came to a complete halt in 1640 following the beheadings of 57 Portuguese diplomats who had tried to convince the Tokugawa bakufu to reconsider its seclusion laws. The ban was in no small part in place to prevent the further spread of Christianity. Even a harmless mention of Christianity in a book was enough to ensure its̶and possibly its owner’s̶destruction.26 Only a few select individuals from aristocratic backgrounds were allowed the opportunity to study Dutch following the shogun’s relaxing of the ban on foreign books. The relaxing of the ban on foreign books did not generally apply to the general public. When a book about Holland was published in 1765, for example, the printer blocks for the book were destroyed and all surviving copies confiscated; all this because it contained illustrations of the Dutch alphabet. 27 This clearly indicated that the Tokugawa bakufu intended to limit the spread of Dutch to people it had some control and influence over. Of those allowed to study Dutch, many specialized in a particular field of research. Areas of study like astronomy and medicine were very popular among the Japanese Dutch scholars̶the former being of particular interest to Yoshimune. Yoshimune’s interest in Western science was piqued when he was told that important discoveries and innovations in the field of astrology found in Chinese texts were mere copies of Western works. Progress, he was told, could only go forward when the Japanese could directly translate Western works into their own language. The Dutch on Dejima Island were not allowed to step foot on Japan28 and were forbidden to learn Japanese. They were there in small numbers and most were not well educated. Yet, there were some top-notch scholars among the Dutch contingent at Dejima. One of these was the German born physician Philip Franz von Siebold(1796-1866). While in Japan, the German Siebold gave lectures to the Japanese on a wide variety of academic subjects. All of his students had to write reports in Dutch.29 26 Ibid. Loveday, 53. 28 Dejima was artificial so not really a part of Japan. 29 Great Contributions By Foreigners to Japan’s Modernization(Japan: World Economic Service, 2000), 165-172. 27 87 Seth Eugene CERVANTES The Historical Context Surrounding the Emergence of English as a Lingua-Franca in Japan Siebold later was forced to leave Japan when it was discovered that he had received a map of Japan from one of his Japanese friends. Although the Dutch language did not provide the Japanese with exact“blueprints”of Western science and know-how, much of what was learned and discovered was the product of the scholarship of Japanese Dutch scholars. The realities on the ground were changing, as the old rigid rules of the early Tokugawa period began to lessen. To be sure, there have been other foreign languages studied in Japan that have played the role of linguafranca̶the most notable being Chinese and Dutch prior to the Meiji Restoration of 1868. The Japanese did commence to studying other Western foreign languages such a French and Russian, but never really to scale or influence of Chinese or Dutch. Most of these attempts were done during the hectic and confusing moribund years of the Tokugawa bakufu. The events of the time paint a particular picture of why foreign languages were pursued with such gusto and caution. Indeed, they give some interesting detail as to why English, which followed Dutch as the foreign language of choice, emerged and has remained a powerful factor in how Japan understands and orientates herself to the rest of the world. Emperor Meiji’s own feelings toward foreign language study, as we will see later, were mixed. Japan’s experience with the outside world, especially with the Western imperial powers, caused much consternation among the political elite of the Tokugawa bakufu. First, as mentioned earlier, there was a deep concern over the spread and influence of Christianity in Japan following the visit of St. Francis Xavier, a devoted Jesuit and co-founder of the Society of Jesus, in 1549.(In fact, some 300,000 Japanese converted to Christianity.30 This number even included a few influential daimyo.)Second, coming at the heels of a long and bloody period of civil war know as the Sengoku-jidai (1534-1615), the peace that had been won needed to be preserved. The Tokugawa bakufu increasingly turned to“Neo-Confucianism”for answers to some of the more pressing problems of the time̶more specifically, the need for a rationale legitimatizing their hold over power. 30 Earhart, 122. 88 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 NEO-CONFUCIANISM AND REACTIONS AGAINST THE“STATUS QUO” Neo-Confucianism derives its source of inspiration mostly from the work of Chinese scholars during the Sung dynasty(960-1279). It was during the Sung dynasty that we begin to see a revival of Confucian studies. Combining both Taoist and Buddhist philosophy, Sung scholars developed a dynamic system of thought that offered a practical view of the secular world. The Tokugawa bakufu created a system of government based in no small part on the writings and teachings of Sung Chinese philosopher Hsu Hsi(1130-1200). The Tokugawa bakufu elaborated on the works of Hsu Hsi while focusing their attention on the formulation of the harmonious bond of the five relationships:(1)ruler and subject,(2)parents and children,(3)husband and wife,(4)elder and younger, and(5)friend and friend. This was the moral philosophy the Tokugawa bakufu employed for that maintenance of the status quo. Instead of the emperor being on top, it was be the shogun. A moral person was one who knew his place in life. Such a person was essentially a modal of one who lived a moral life. However, some Japanese would find the rigid and set nature of Neo-Confucian orthodoxy a little constricting. Reactions against the status quo When concerned with foreign language studies, for instance, Japanese Dutch interpreters and scholars were of a particular and immobile class, and were occasionally put to the sword for thinking outside of the parameters of state orthodoxy. This may account for the odd fact that not much is known about the Japanese Dutch interpreters. Hardly any written evidence of what they felt or thought about their role as interpreters exist. At the time, no one in Japan could escape his or her current position in life. It was set from cradle to grave. Lower-level samurai, even those with immense talent, were bound by strict rules governing what they could wear, who they could marry, what they could study, and what language they could use.31 Talented men like Fukuzawa Yukichi, the great modernizer and interpreter of the West, himself a lower-level samurai, found the rigidity of the Tokugawa bakufu and Neo-Confucianism very constricting. As a child, he dreamed about being 31 Hopper, 6. 89 Seth Eugene CERVANTES The Historical Context Surrounding the Emergence of English as a Lingua-Franca in Japan “the richest man in Japan,”able to“spend all the money [he] want[s] to.” Under the circumstances of the time, realizing this dream was next to impossible. In his autobiography he wrote(most likely dictated): The thing that made me most unhappy in Nakatsu was the restriction of rank and position. Not only on official occasions, but in private intercourse, and even among children, the distinction between high and low were clearly defined. Children of lower samurai families like ours were obliged to use a respectful manner of address in speaking to children of high samurai families, while these children invariably used an arrogant form of address to us. Then what fun was there in playing together? In school I was the best student and no children made light of me there. But once out of the school room, those children would give themselves airs as superiors to me; yet I was sure I was no inferior, not even in physical power. In all this, I could not free myself from discontent though I was still a child… I was determined then to run away from this narrow cooped-up Nakatsu.32 [emphasis mine] The Push and Pull of Modernization It must have been with great anticipation that ten eager students, selected for their academic acumen in English, from an elementary school in Aomori awaited the arrival of the great Emperor Meiji. In his honor, the ten students were to recite famous speeches and compositions all in English. The subjects were varied and Western inspired. The emperor heard these young elementary students deliver speeches on Andrew Jackson, Hannibal, and Cicero. Unable(most likely unwilling)to stay until the end, the emperor, before making his exit, gave each student five yen to purchase a copy of Webster’s Intermediate Dictionary. The whole experience didn’t go down well with the emperor. A strong believer in the values of Confucius virtues, primary of which were Chū(loyalty)and kō(filial piety), he was disappointed that the proper“moral”education, rooted in the sacred 32 Yukichi Fukuzawa, The Autobiography of Yukichi Fukuzawa(New York: Colombia Press, 1966), 18-19. 90 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 traditions of Japan(or more likely the Tokugawa era and NeoConfucianism), were being neglected and in some cases totally disregarded. But at the same moment, the emperor knew all too well of the need for Western learning.33 The Meiji government would spend a considerable amount of money to modernize its country. Talented Japanese were sent through out Europe and the United States for study, while foreign experts were hired to teach at many of Japan’s schools and universities. Japanese would give entire lectures in foreign languages, meetings and debates at universities were also conducted in foreign languages.(Such was the rush to learn foreign languages that one education minister suggested that English replace Japanese as the national language. This official was later assassinated.) Actual communicative competency in English was a necessary evil of the time, but it was an evil nonetheless that would have to be expunged once it outlived its purpose. This would also apply to the foreign teachers and advisors brought over from foreign countries. Japan was changing so quickly, many of Japan’s foreign admirers rushed to Japan to preserve the“old Japan”they felt was being lost in Japan’s rush toward modernization.34 It’s quite possible Emperor Meiji had some of the same mixed feelings about modernization. The modernization of Japan’ s indigenous narratives Each people have a narrative. A narrative tells the story and experiences of a particular people. Even in a country like Japan which is considered homogenous, various indigenous narratives exist. Language is the primary vehicle in which narratives are passed from one generation to the next. To loss one’s narrative and to replace it with an alien one had to be avoided. This is something the Meiji government would struggle with through out its years of breakneck speed renovation and modernization. The need to modernize always had to be tempered by Japan constantly referring to her own particular, indigenous narratives. It should be noted, however, that the 33 Donald Keene, Emperor of Japan: Meiji and his World, 1852-1912,(New York: Columbia Press, 2002), 323-330. 34 Christopher Benfey, The Great Wave: Gilded Age Misfits, Japanese Eccentrics, and the Opening of Japan(New York: Random House, 2003). 91 Seth Eugene CERVANTES The Historical Context Surrounding the Emergence of English as a Lingua-Franca in Japan Japanese people’s narrative̶which were many̶were slowly pushed aside and replaced by state sanctioned narratives of the Meiji government. The old Neo-Confucian narrative was renovated, and then officially sanctioned. Emperor Meiji’s concern over the loss of Japan’s narrative, a narrative carefully managed, was really a concern over a foreign narrative competing for the“hearts and minds”of the Japanese people of the time. Even today, Japanese look a little askance at some of the more recent decisions to emphasize communicative skills over the old tried-and-true grammar-based methods. Even then learning English was feared to make a person less Japanese. FOREIGN INTRUSIONS There is little written about the reign and person of Emperor Kōmei, the father of Emperor Meiji. However, it was during his reign that a number of foreign vessels intruded into Japanese waters. This was a time of great concern for both the young emperor and the current Tokugawa political elite. Beyond sending counselors to the Iwashimizu Shrine“to pray for peace 35 and tranquility with the four seas,” there was not much Kōmei could do. In 1846, Commodore James Biddle of the U.S., under direct orders from Washington to open Japan up to trade, brazenly entered Edo Bay with two warships, the , a one-hundred gun behemoth, and the . Having just concluded a treaty with a thoroughly defeated and humiliated China following the Opium War of 1839-42, the hope was that Commodore Biddle would be able to conclude a treaty in similar fashion.36 The shock and outcome of the Chinese defeat and concessions following the Treaty of Nanking in 1842 sent shockwaves throughout the bakufu government. The Chinese were forced to cede the island of Hong Kong and open the port cities of Canton(Guangzhou), Amoy(Xiamen), Foochow(Fuzhou), Ningpo(Ningbo), and Shanghai. From the vantage point of the Tokugawa political elite, such an unfair outcome would eventually highlight the need to 35 Donald Keene, 7. Frederick L Schodt, Native American in the Land of the Shogun: Ranald MacDonald and the Opening of Japan(Berkeley, CA: Stone Bridge, 2003), 180-183. 36 92 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 play catch up with the West.37 The skill of the indigenous early Japanese gun makers were solely needed now that Western guns were now pointed in Japan’s direction. I’m sure this is something Kōmei most likely had floating around in the back of his mind when he offered the gods of the Iwashimizu Hachiman Shrine prayers in the hope that any foreigner hapless enough to come to Japan would be“blown away”by the same divine wind or kamikaze that had thwarted a Mongol invasion in the 13th century.38 Prior to Commodore Biddle’s mission, there were a number of instances of Western vessels intruding into Japanese waters. The first American vessel to reach Japan was the Lady Washington in 1791. Unfortunately for Japan, she would not be the last. With each intrusion, the Japanese would be forced to realize the importance of English. The following chronology shows how Japan was constantly under siege from Western foreign powers. With this in mind, it is through these episodic contacts that Japan became more concerned with the study of English. 1791: The sloop Lady Washington, captained by John Kendrick, sailed to China in hope of selling his cargo of furs. Because of bad weather, the Lady Washington was forced to make a brief emergency stop in the south of Japan, thus becoming the first American vessel to reach Japan. Before the authorities could detain the ship and crew, the Lady Washington slipped out before any action could be taken against them. 1792: From accounts told to them by rescued Japanese castaways, the Russians began to become ever aware of Japan. With her eastern frontier expanding to the shores of the Sea of Okhotsk, the mere closeness of Japan allowed for some limited trade̶trade that was mostly conducted secretly̶ that is, without any official government sanction̶with the Ainu acting as go-betweens. In one of the first attempts to use Japanese castaways as a cover to establish ties with a closed Japan, a Russian vessel, under the charge of one Adam Laxman, the son of a Finnish-born scientist working in 37 Helen M. Hopper, Fukuzawa Yukichi; From Samurai to Capitalist(New York: Pearson Longman, 2005), 22-23. 38 Keene, 8. 93 Seth Eugene CERVANTES The Historical Context Surrounding the Emergence of English as a Lingua-Franca in Japan the service of the Russian government, set sail to Japan. Eventually, the Russian vessel made its way to Nemuro, which is located on the southern part of Hokkaidō, Japan’s northernmost and least inhibited island. After much confusion between the two parties, the Japanese accepted the castaways and informed the Russians that they would be given a one-timeonly permit to re-enter Japan at Nagasaki Bay. The purpose of the permit was to allow the Russians to repatriate any remaining castaways; the Russian take on the deal, however, was a bit different, for the Russians may have believed the terms of the permit meant that further trade negotiations would ensue at a later date. 1797: The American merchant ship Eliza, transporting goods for the Dutch, visited Japan once a year from 1797-1803.39 The Eliza makes the trip because the Dutch were unable to freely sail out into open waters. Since the British were at war with Napoleon’s French Empire, which the Dutch were apart of, the Eliza, sailing under the U.S. flag, was much less likely to be attacked by the British. 1804: The Nadezdah, a Russian man-o’-war commanded by Nikolai Pertovich Rezanov, intruded into the waters of Nagasaki Bay. Carrying the permit given to Laxman some six years earlier and a letter̶translated in Russian, bad Japanese, and Manchurian40̶from the czar addressed to the emperor, Rezanov and his crew were forced to wait in Nagasaki Bay for six long months. Neither Russia’s costly gifts nor her attempts to make any headway in trade negotiations were accepted. For the Japanese to do so would mean they would have to do likewise, which would most likely be misconstrued by the Russians as an acceptance of trade. The long wait didn’t go over well with Rezanov. During his six-month stay in Nagasaki, Rezanov was able to compile a rough Russian-Japanese dictionary and grammar. In a letter to the czar, Rezanov advised him to“to destroy the settlement at Matsama [sic] , to drive them out of Sakhalin, and spread terror 39 Sansom, 205. Schodt, 263. Schodt notes the Japanese were able to study“[b]roken Russian”from Japanese castaways repatriated by the Russians, but were ordered to study other European languages̶mostly French and English̶from the Dutch on Dejima. 40 94 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 on the shores…the sooner to compel them to open up trade with us.”41 Before his untimely death, Rezanov directed two of subordinates̶without the consent of the czar̶to carry out his plans outlined in his letter to the czar. Later he would do a complete about-face̶maybe because Russia was at war with France, Britain, and Turkey̶and call off his plans for revenge in order to explore the Aleutians. 1806: The Russian Juno and Avoss, under the commands of Nikolai Khvotov and Gavril Davydov, pulled off a daring raid on a number of Japanese posts on Sakhalin. This was followed by another raid on Etorofu and Shana. At Shana, the Japanese were forced to use“bows and arrows and swords and lances”along with a few antiquated matchlock guns and cannons against the more modernized weaponry of the retrofitted Juno and Avoss. After these brutal acts of revenge, a letter was sent to the Tokugawa bakufu informing them that violence was taken in response to Japan’s foolish decision to rebuff Russia’s attempts at opening Japan to trade. 1808: The British man-o’-war Phaeton intruded into the waters of Nagasaki Bay. Sailing under Dutch colors, the Phaeton reaches Nagasaki unmolested. When their ruse was uncovered, there was not much the local officials of Nagasaki could do. This was especially so when the British threatened to destroy any ship, Japanese or not, in the harbor. Following the incident, however brief it was, a number of Japanese officials were put to the sword for their lack of preparedness, while the governor of Nagasaki committed seppuku(ritual suicide)for his role in the whole mess.42 It was at this time, in response to British audacity, that the Tokugawa bakufu ordered a select number of Dutch interpreters to start studying English immediately. Soon, the Japanese Dutch interpreters were receiving English lessons from a Dutch cook.43 In 1814, with the help of the Dutch on Dejima, the Japanese completed their first attempt at a Japanese-English dictionary. This crude, but nevertheless impressive, attempt included some 6,000 vocabulary̶along 41 42 43 Cited in Schodt, 223. Sansom, 204-205. Loveday, 60. 95 Seth Eugene CERVANTES The Historical Context Surrounding the Emergence of English as a Lingua-Franca in Japan with their katakana pronunciations̶entries. The dictionary was entitled Angeria gorin taisei(A compilation of English words).44(“Angeria”being the Dutch word for“English.” ) 1811: Six crew members of the Russian scoop Diana, including Captain Vasilii Mikhailovic Golovnin, on a survey mission of the Kurile Islands, were captured on Etorofu Island. In total, the six captured Russians would spend some two years holed up at Matsumae, a castle town and power center of the Japanese northern frontier. The Japanese, still in a foul mood over Russia’s attacks on its northern frontier posts, were in no mood to play the role of good host to their unwelcome guest. Despite the previous efforts to study Russian, communication between the two parties proved difficult. The crew, minus one who had committed suicide, was eventually allowed to leave when the Japanese agreed to exchange them for Japanese castaways. 1837: The U.S. vessel Morrison, attempting to repatriate Japanese castaways, reached Japan only to be fired upon once in Uraga Bay and again in Kagoshima. The ship was under the charge of a German missionary and two American missionaries. They took offense to their being attacked in the bay. From their vantage point, they were only returning Japanese castaways to their homes and families. To the bakufu, they were simply breaking the law by trampling on Japan’s two and a half centuries old seclusion laws. Stories eventually percolated among eager reading audiences in the U.S. and places like Hawaii over how the Morrison, attempting to return Japanese castaways to their families back in Japan, were thoroughly violated with life threatening force. Stories of the Morrison gave the American public a sense of indignation and colored their image of Japan. 1844: The Manhattan, one of an estimated 300 whaling-vessels plying their trade near the shores of Japan, discovered eleven Japanese castaways after landing on Torishima, a small and uninhibited volcanic island about 300 miles south of Tokyo. The captain, Mercator Cooper, decided to repatriate all of the Japanese castaways in spite of Japan’s well known seclusion laws. 44 Ibid., 284-285. The literal translation is“The Complete Forest of English.” 96 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 Cooper and the crew of the Manhattan eventually come across more shipwrecked Japanese before making their way to Edo Bay. Luckily, Japan had made changes in its policies toward intruding foreign ships prior to their unannounced arrival. No longer were they required to fire on foreign intruders as they did with the Morrison. The ship remained anchored in Edo Bay for four days. The Japanese eventually accepted the Japanese castaways with a warning to never to return again and not pick up any more Japanese castaways for repatriation. The latter would be reconsidered. 1845: Commodore James Biddle of the U.S. sails into Uraga Bay. 1845: The H.M.S. Samarang, a British warship, disembarked at Nagasaki while on a survey mission of the Pacific. Unlike the bellicose Phaeton, the tone of the ship’s captain, Sir Edward Belcher, was non-aggressive. The provisions that Belcher had asked the Japanese for were obtained. The Japanese, following official policy, refused any payments or gifts. Belcher, refusing to speak to the Japanese in Dutch, insisted on using English. Again, communication was almost impossible, which undoubtedly led to further confusion. Yet, Belcher does take note of his Japanese interlocutors’ interest in English. 1846: A French warship visits Japan.45 1846: Claiming that their ship, the Lawrence, had been sunk, seven Americans made their way to the southern Kuriles where they are captured. They are eventually moved to Hakodate to be interrogated. Later, they are moved to Nagasaki. 1848: Fifteen crewmen of the Lagoda, who abandoned their posts, made their way to Japan on three small boats. They were captured, interrogated and, after a few daring attempts at escape, sent to Nagasaki to be imprisoned with the seven crewmen of the Lawrence. Sometime later, Ranald 45 Keene, p. 8. 97 Seth Eugene CERVANTES The Historical Context Surrounding the Emergence of English as a Lingua-Franca in Japan MacDonald,46 pretending to be a castaway, lands on the small island of Rishiri. Like the crew of the Lawrence and Lagoda he is interrogated and moved to Nagasaki. Unlike the others, however, he received much better treatment because of his accommodating and non-threatening demeanor. He is eventually asked to teach English to fourteen Japanese Dutch scholars. One of his students includes the influential and talented Einosuku Moriyama. Moriyama later played an important role as a translator for the Tokugawa bakufu during U.S. Commodore Mathew C. Perry’s arrival into Edo Bay in 1853. Many Americans, including Perry himself, later commented on Moriyama’s competency in their memoirs. 1849: The U.S.S. Preble, a heavily armed man-o’-war, is allowed to pick up the remaining crewmen of the Lawrence and Lagoda after arriving in Nagasaki unannounced. MacDonald is also allowed to leave on the Preble. After a few decades of English study, including the six months when MacDonald was their teacher, the Japanese Dutch interpreters are able to speak“tolerable”English which allows for somewhat̶again, all things considered̶smooth negotiations. News of the Preble’s mission to Japan becomes well known through out the international community. 1853:(July 8)Commodore Mathew C. Perry, accompanied by two battle-ready steam frigates and two sloops, entered the waters of Uraga, wanting to deliver a letter from President Millard Fillmore addressed to the emperor. Unhappy with the slow pace of negotiations, Perry promised to return the following year, and with more firepower. The Tokugawa political elite were in an uproar over this current intrusion and ultimatum:“Open your country willingly or we’ll do it by force.”Many of the daimyo felt certain that Japan would lose if such a conflict with an international power like the U.S. were to ensure. They believed so because they felt that the over two and half centuries of relative peace made the Japanese people, 46 Schodt’s biography, Native American in the Land of the Shogun: Ranald MacDonald and the Opening of Japan, is an excellent source of information covering the life and times of Ranald MacDonald and his adventures in Japan. It’s well sourced, and touches on many topics presented in this article, especially the breach of Japan’s seclusion laws by Western powers. 98 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 particularly the samurai class, soft̶that is, they were not battle ready. War with the Americans would also, it was believed, bring the Russians, who have had their eyes on Japan’s northern territory since the early 19th century, into the war. A small number felt Japan should fight in spite of the odds not being stacked in their favor. Trade depended heavily on the freeflow of cargo by sea. A naval blockade would have been the death knell of Japan’s already troubled commerce. The Tokugawa bakufu, with the reticent tozama lords looking for the opportune moment to facilitate a“regime change” , were forced to choose between a bad and worse choice. 1853:(September 19)Russian Vice Admiral E.V. Putiatin, on board the Pallada, entered Nagasaki Bay hoping to open trade talks and negotiations to settle boarder disputes over the island of Sakhalin with the recently shellshocked Tokugawa bakufu. In contrast to Perry’s brazen intrusion in Uraga Bay, which was in clear violation of Japan’s seclusion laws, Putiatin went to Nagasaki to plead his country’s case using the most respectful language possible. His benign approach to negotiations did win over many of the senior Tokugawa officials, yet a quick response was not forthcoming. The Tokugawa bakufu flatly refused to give him a prompt answer, and instead told him that a suitable answer could take some from 3-5 years to complete. With this, Putiatin informed the Tokugawa bakufu that the northern part of Sakhalin and all of Etorofu belonged to Russia. In an attempt to defuse the downward-spiraling situation, Japan offered to permit Russian vessels to obtain a few necessary provisions(mostly firewood and water)in all places except the areas near and around Edo. Some Tokugawa bakufu advisors wanted to use this time to shore up Japan’s defenses while rebuilding her naval power and acquire modern guns with the aid and training of the Dutch who were more than willing to build and sell weapons of war for profit. Putiatin also wrote a letter to Commodore Perry, whose fleet was docked in Hong Kong, asking if he would accompany him on his trip back to Japan. Perry refused because he had his own plans of returning. On November 4, 1884, a few months after the signing of the Treaty of Kanagawa, Vice Admiral Putiatin returned to Japan on board the Russian warship Diana. The Diana cut a far different image than the“old tub”Pallada Putiatin had captained the year before. Instead of entering Nagasaki Bay, 99 Seth Eugene CERVANTES The Historical Context Surrounding the Emergence of English as a Lingua-Franca in Japan Putiatin opts for Ōsaka Bay where he stayed for two weeks. In a more conciliatory tone, Putiatin informed his Japanese interlocutors that Russia was willing to give up its strong claims over the island of Etorofu in exchange for trading rights. Negotiations came to a halt following a deadly earthquake and tsunami. The Russians seemed to have earned the goodwill of the Tokugawa bakufu by rescuing Japanese victims. A treaty of friendship was signed between the two countries. 1854:(March 31)Commodore Perry returned to Japan as promised, but this time with a much larger and imposing fleet of modern steam powered warships. After some delay, the Tokugawa bakufu ultimately agreed to nominally open the port cities of Shimoda and Hakodate to foreign trade with the U.S. Also, a U.S. consul was allowed to reside in Shimoda. This is eventually followed by other treaties with foreign powers(see the Diana incident). CONCLUSION The historical context of the emergence of English highlights some of the pivotal events and ideas of the time. One important point that sticks out is the fact that English, although a modernizing influence, was never enthusiastically embraced. Part of the reason had to do with Japan’s own inner control mechanisms̶Neo-Confucianism being the most prominent. Neo-Confucianism imbued Japan with a sense of morality. This morality was static. It declared that all had their place in society. Small numbers were permitted to study foreign languages like Dutch and even English. Those who were given such a privilege were always under close watch. Any wrong move on their part could result in their imprisonment and even execution. Later, English would emerge out of necessity. Contact with foreign intruders highlighted this need. The Tokugawa bakufu was helpless to protect its people against foreign aggression. The chronology of forign intrusion makes this point more salient. Necessity aside, those who pursued foreign language study did so with caution. As long as English served the purpose of the state, and didn’t threaten the state, English study was allowed. It is from this historical context that English emerged as the foreign language of choice in Japan, and 100 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 future generation of Japanese English students and teachers continue to feel its ripples. ACKNOWLEDGEMENTS I want to thank my wife for translating some important information vital to the completion of this article. I would also like to thank Asst. Prof. Robert C. Olson of Tomakomai Komazawa University for his encouragement and helpful discussions. (セス ユージン セルバンテス・本学講師) 101 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 苫小牧駒澤大学紀要第14号(2005年11月30日発行) Bulletin of Tomakomai Komazawa University Vol. 14, 30 November 2005 インタビュー活動を用いた「日本事情」科目の実践 Implementation of Interviews on the Subject;Nihon-Jijo 野 田 孝 子 NODA Takako キーワード:日本事情、インタビュー活動、留学生、 コミュニケーション能力、異文化対処 要旨 本稿では、「日本事情」科目において、インタビュー活動を用いた学習の効果を考 察する。 現在、「日本事情」科目では、紹介・解説からインターアクションへの教授法が求 められている。そして、学習者が授業を通し、四技能の習得、向上ならびに異文化 リテラシーの育成ができるよう支援する必要性が唱えられている。インタビュー活 動の考察から導き出した特性により、この活動は「日本事情」の授業として有効的 な学習者支援が可能であることがわかった。 そして、実際行った授業をとおし、インタビュー活動は異文化対処の育成にも役 立つと考える。 103 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 1.はじめに 本稿では、1. 「日本語教員養成において必要とされる教育内容」のガイド ライン、2. 『日本語教員養成における「日本事情」教育のシラバス構築のた めの調査研究』の研究報告書、3. 「総合的な学習の時間」のインタビュー活 動の特性、4. 「日本語」ならびに5. 「日本事情」のインタビュー活動の資料 を手がかりにインタビュー活動が「日本事情」科目において効果的な学習活動 であることを導き出す。 そして、本年4月から3ヶ月間、苫小牧駒澤大学に短期語学研修で来学した 韓国人留学生に対し、このインタビュー活動を用いた授業を行ったので報告す る。加えて、このインタビュー活動の効果を考察していく。なお、学生数は14 名、日本語能力レベルは、日本語能力試験1、2級程度である。 2.日本語教育で求められる「日本事情」科目の姿 この章では、 「日本語教員養成において必要とされる教育内容のガイドライ ン」、ならびに、 『日本語教員養成における「日本事情」教育のシラバス構築の ための調査研究』の研究報告書を手がかりに、日本語教育で求められる「日本 事情」科目について考察していきたい。なお、これら二つの資料を選定した理 由としては、今後、その教育を受けた日本語教師が日本語・日本事情で学習者 に提供する教育方法、教育内容に影響を与えるという理由に加え、現在の日本 語教育に対するニーズとしても受け止めることができるからである。 2000年、文化庁・日本語教員の養成に関する調査研究協力者会議にて、日本 語教師養成の新しい指針である「日本語教育のための教員養成について」が報 告され、 「日本語教員養成において必要とされる教育内容」として1985年に示 されたシラバス(1)に変わり、新たなシラバスが公表された。そして、日本語 教育とは、 「広い意味で、コミュニケーションそのものであり、教授者と学習 者とが固定的関係でなく、相互に学び、教え合う、実際的なコミュニケーショ ン活動」と定義づけられた。また、この定義におけるコミュニケーションは、 新たに示された教育内容(2)の核となった。さらに、日本語教師としての基本 的な資質・能力として、 「言語教育者として必要とされる学習者に対する実践 的なコミュニケーション能力」が求められた。このように、教育内容、教育方 法、また、教師にコミュニケーションが重視されたことは、外国語としての日 本語教育が、言語のための教育からコミュニケーション能力のための教育へと 実質的に移行している証拠であると考える。 105 野田孝子 インタビュー活動を用いた「日本事情」科目の実践 そして、時同じく『日本語教員養成における「日本事情」教育のシラバス構 築のための調査研究』 (2000)が報告された。この論文は、「日本事情」教育の モデル化をめざし、日本語教員養成における「日本事情」教育のありかたを検 討したものである。報告書で佐々木は、教師に対し、日本語習得と異文化リテ ラシー育成の支援能力を求めている。なお、 この異文化リテラシーにおける「リ テラシー」とは、 「日本文化・社会を読み解き行動できる能力」(p.13)という 意味を指す。また、シラバスの作成にあたって「伝統文化に固執しないこと、 日本文化と学習者の母文化といった2分法を避けた具体化を行うこと」 (p.25) を挙げ、更に教授法としては、 「紹介・解説」から「インターアクション」へ の転換が必要であり、学習者が「知識」から「運用」―「‘日本文化’との出 会いで、学習者のこれまでの文化に影響を与え、新しいその人独自の文化を生 み出す」 (p.25)―への展開が可能となる支援の必要を述べている。 授業の具体例として、佐々木は、伝統文化重視のシラバスを採用する場合に も、何故日本文化の粋を学習者に紹介したのか、今後、学習者の生活の中でど のように役立っていくかの筋道をたてる必要性を示している。また、細川は、 「日本事情」を「総合」と名付け、文化はコミュニケーション行為の中で学習 者自らが認識するという視点に立場を置き、教師は、学習者が発見した、学習 者にとっての「日本」を、学生がレポートで表出作業できるよう支援を行う授 業を提唱している。なお、この学習者のレポート作成までの作業を問題発見解 決作業と呼んでいる。 3.インタビュー活動の特性について この章では、 「総合的な学習の時間」におけるインタビュー活動、「日本語」 ならびに「日本事情」の授業からインタビュー活動の特性を纏めていく。 現在、日本の小・中・高等学校での「総合的な学習の時間」において、イン タビュー活動を用いた授業が行われるケースがある。インタビュー活動を通し て期待できる学力とは、1.コミュニケーションの形成づくり、2.話す能力、 3.聞く能力、4.メモする(書く)能力、5.礼儀やお礼の表現方法、6. (インタビュー内容の)発表力である(3)。また、堀(2003)は、「<インタビ ュー>は、言語活動の中でも、レベルの高いものだ。相手の反応を予想しなが ら、聞く力、インタビューの目的のために、話しを最後まで導いていく構成力、 相手から上手く話しを聞き出すための非言語コミュニケーション力など、多く の力が必要とされるのである。 」 (p.21)と述べている。 「総合的な学習の時間」とは、現在、日本の小、中、高等学校で行われてい 106 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 る教育課程の一つである。2002年4月1日から全面実施された新たな教育課程 基準は、自ら学び自ら考える力などの「生きる力」を養うことを基本的なねら いとして改訂された。そして、 「総合的な学習の時間」においては、以下3点 のねらいをもって指導を行うものとされている。1.自ら課題を見付け、自ら 学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育て ること。2.学び方やものの考え方を身に付け、問題の解決や研究活動に主体 的、創造的に取り組む態度を育て、自己の生き方を考えることができるように すること。3.各教科、道徳及び特別活動で身に付けた知識や技能等を相互に 関連付け、学習や生活において生かし、それらが総合的に働くようにすること。 また、総合的な学習の時間の学習活動を行うに当っては、自然体験やボランテ ィア活動などの社会体験、観察・実験、見学や調査、発表や討論、ものづくり や生産活動など体験的な学習、問題解決的な学習を積極的に取り入れることが 配慮されている。殊に総合学習の時間におけるねらいは、先に触れた「日本事 情」教育にも共通する。 なお、社会学によれば(4)インタビュー行為に共通しているのは、会話が相 互行為的な出来事であるということである。インタビューで得られたナラティ ブは当該の状況におけるインタビューの参加者による会話の産物なのであり、 回答者は情報の収納庫というよりはむしろインタビュアーと共同で知識を構築 していく者のこととして捉えられている。したがって、インタビューという空 間においてコミュニケーション活動が行われるということでもある。 また、 「日本事情」科目にインタビュー活動を取り入れている細川(1994,2002) も、インタビュー活動の機能について、聞き取りの訓練、クラス発表での要約 の訓練となり、更にインターアクションによる自己変容と他者との交互関係の 獲得、自分の内側にある「考えていること」を他者に向けて、自らの表現とし て発信し、その表現を他者と共有することにあるとしている。 さらに、日本語科目で行われるインタビューは、会話・スピーチの練習に用 いられ、コントロールされた状況の下で行われる練習から脱し、より自然なコ ミュニケーション場面で行われるコミュニケーション能力の養成を目的として 用いられている。 以上のことから、インタビュー活動を用いた授業展開で、四技能ならびにコ ミュニケーション能力の向上が期待できることがわかるが、これらは、外国人 学生にとっても同様のことがいえると考える。また、インタビュー活動は、 「日 本事情」に求められている役割の一端を担うことができると考える。続いて実 際に「日本事情」で行ったインタビュー活動を報告する。 107 野田孝子 インタビュー活動を用いた「日本事情」科目の実践 4.インタビュー活動を用いた「日本事情」授業 4−1 授業の実際 講義内容は、通常、読解教材(5)を用い、知識の確認ならびに四技能の向上 を目指す。そして、インタビュー活動を授業の一部に取り入れる。なお、イン タビュー活動は以下の手順に基き行った。 A.テーマ探し(インタビューの質問項目) ↓ B.テーマの下調べ(インターネット、本、新聞、雑誌) ↓ C.実際のインタビュー ↓ D−1.インタビューの発表ならびに感想 −2.クラス内での発表用レジュメの作成提出 −3.A∼D−1についての書きこみ式シート提出(筆者が作成) また、実際にホームステイ先、大学生に行ったインタビューの内容は以下の とおりであった。 ①ホームステイ先 ・どうして子どもの前でタバコを吸うのか。 ・出会いの場所と付き合い方。 ・何故日本の料理には甘いものが多いのか。 ・日本の男子学生たちは何故まゆげをととのえるのか。 ・何故高額のゲーム(パチンコ)を楽しむのか。 ・金持ちのテレビ番組が、多いがどのように思うのか。 ・韓国では朝から殺人事件は報道されないが、どのように思うのか。 ・日本人は白人コンプレックスがあるように見えるが、何故か。 ・北海道弁には、どのようなものがあるのか。 ・日本人はどうして野球が好きなのか。 ・日本で小学校の時にどんなスポーツを習うことができるのか。 ・アイヌ民族についてどのように考えるか。 ・韓国のイメージは何か。 ・韓国人に対してどのような考えを持っているのか。 ・韓国のドラマをどのように思うか。 ②大学生に対して 108 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 ・学生生活の満足度について ・日本の若い男性と女性の化粧観と美容観に関するアンケート結果 ・男性の美容についての意識調査 ・健康について ・日本の若者の友達関係について ・アルバイトについて ②のインタビューは、ペアワークとし、アンケート用紙を使用したが、これ には既存のアンケート(6)を参考にした。理由としては、質問の仕方が不安定 であると予想もしない色々な答えが返ってきて、収集がつかなくなること、ま た、留学生(インタビュアー)のバイアスの軽減を考慮したためである。なお、 アンケートの量は、5分以内に質問が収められることとした。 4−2 結果 インタビューの内容について、①ホームステイ先では、後ろから三つの韓国 に関するものを除き、②大学生に対しては、インタビューの内容すべてが来日 して以降の学生たちの経験によるものである。これらは、異文化接触から生じ た感情と捉えることができるが、異文化対処力として、渡辺(2002)は、「感 受性」を中核として、 「状況調整力」 、 「カルチュラル・アウェアネス」、「自己 調整能力」によって、異文化で成功するとした。この「カルチュラル・アウェ アネス」とは、文化的気づきをいい、学生が行ったインタビューの内容を指す と考える。また、 異文化対処の育成法として、 「気づき」→「確認」→「再認識」 を行う作業を例に挙げいているが、インタビュー活動(A∼D)は、この異文 化対処にも役立つのではないかと推測する。また、アンケート作業の一連の流 れを文章化することにより、レポート作成に用いることもできる。 5.まとめ 日本への短期留学生のプログラムについて、丸山(2004)は「非正規生とは いえ、学部生に単位を発行する授業であるので、最終到達目標は長期留学生と 同じように大学生生活を日本語で送ることができる日本語運用力を養成する」 (p.107)ことであるとし、 「日本語教育の授業も大学の講義に主体的に参加で きるような日本語能力の養成を目指す方法を照準」(p.107)としている。長期 留学生と短期留学生の到達目標が同じであれば、 短期留学生のプログラムの「日 本事情」科目についても、現行、日本語教育で目指している「日本事情」の目 標を運用でき、それは来苫した短期留学生の授業にも該当すると考える。 109 野田孝子 インタビュー活動を用いた「日本事情」科目の実践 また、林(2005)は、日本語学習者が「一番ほしいもの」としているのは、 初級から上級者まで日本人あるいは日本語話者との接点であるとのデータを紹 介し、積極的に環境に働きかけようとする学習者の育成が日本語教育における 役割であるとしている。これら、二つの視点も先に加えて、インタビュー活動 を「日本事情」で利用する理由であると考える。 なお、インタビューを通しての感想の中で「日本人と会話する機会ができて うれしかった。 」 、 「実際にインタビューしてみると自分の思い描いていたイメ ージが違っていた。 」 、 「アンケートに協力してくれた学生に感謝している。」と いうものがあった反面、 「 『インタビュー手伝ってもらえませんか。』というと『ま た?』という反応に困った。正直な感想を言っているとは思えない。」との感 想もありこれからの授業の参考としていきたい。 最後に、短期語学研修は、学習者の「一時預かり」という側面があり、留学 生の日本語継続という視点(7)も大切である。そのためには、受け入れ側は、 日本語プログラムに何を期待しているのかを検討し続ける必要があると考え る。 注 (1)1985年に示されたシラバスとは、日本語教育施策の推進に関する調査研究会報告書「日 本語教員の養成等について」における「日本語教員養成のための標準的な教育内容」 のことを指す。新シラバス誕生の原因は、1.大学審議会の答申(1998年)からの 大学改革の影響、2.多様化する日本語学習者に対応した教育内容と日本語教授法 の改善の必要性、3.教育機関の創意工夫による多様な教育課程の編成に対応しき れなくなったことなどによる。 (2)教育内容は、「社会・文化に関わる領域」、「教育に関わる領域」 、 「言語に関わる領域」 の3つの領域からなるが、明確な線引きや優先順位はない。しかし、3つの領域の 根底は「コミュニケーション」となる。 (3)『国語教育事典』(p.18)による。 (4)Marshall ,G [edi](1998)Sociology, Oxford、ならびに Holstein,James、Gubrium,Jaber 著、山田富秋、兼子一、石倉一郎、矢原隆之訳(2004) 『アクティヴ・インタビュー―相互行為としての社会調査』せりか書房を参考とした。 (5)東照ニ、小川邦彦、西蔭浩子著(1995)『中上級用日本語テキスト 日本の社会と経 済を読む』研究社出版を用いた。ただし、記載のデータが古いためインターネット、 図書等から新しいものを紹介した。また、学生の質問に答える形で、以下の文献を 紹介し、読解教材としても用いた。 香山リカ(2004)『ぷちナショナリズム症候群 若者たちのニッポン主義』中央公論社 河合隼雄(2003)『日本文化のゆくえ』岩波書店 姜尚中・森巣博(2003)『ナショナリズムの克服』集英社 北田暁大(2005)『嗤う日本の「ナショナリズム」』NHK ブックス 110 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 小熊英二・上野陽子(2004)『<癒し>のナショナリズム―草の根保守運動の実証研 究』慶応義塾大学出版会 土井健朗(2004)『「甘え」と日本人』朝日出版社 (6)アンケート用紙作成の参考文献として以下2点の文献を紹介した。 総務庁青年対策本部(1999)『世界の青年との比較から見た日本の青年―第6回世界 青年意識調査報告書―』大蔵省印刷局 『教育アンケート調査年鑑2000年度版上』(2000)創育社 (7)近藤他(2004)による。 引用文献 近藤安月子、YANO, Jun、GUO, Nanyan、JOHNSON, Yuki、丸山千歌(2004) 「短期留学プログラム―海外の日本と教育機関との連携」 『小出記念日本語教育研究 会 論文集 12』東京女子大学現代文化学部 佐々木倫子(2000)「日本語教員養成における文化教育シラバス構築の原則」 (p.13-27)『日本語教員養成における「日本事情」教育のシラバス構築のための調査研 究』平成 11 年度∼平成 14 年度科学研究補助金研究成果報告書 林さと子(2005)「『学習環境』からみた日本語教育」『言語』大修館書店6月号 細川英雄(2004)『考えるための日本語 問題を発見・解決する総合活動型日本語教育の すすめ』明石書店 〃 (2000) 「日本事情教育実践研究 文化リテラシ―育成としての日本語教員養成」 (p.45-51)『日本語教員養成における「日本事情」教育のシラバス構築のための調査 研究』平成 11 年度∼平成 14 年度科学研究補助金研究成果報告書 〃 (1994)『日本語教師のための実践「日本事情」入門』大修館書店 堀 裕嗣(2002)『総合学習を支え活かす国語科5 インタビュー・スキルを鍛える授業 づくり』明治図書出版 渡辺文夫(2002) 『異文化と関わる心理学―グローバリゼーションの時代を生きるために―』 サイエンス社 日本国語教育学会編(2001)『国語教育辞典』朝倉書店 文部科学省(2004)『中学校学習指導要領(平成 10 年 12 月)改訂版』 国立印刷局 文部科学省(2004)『中学校学習指導要領(平成 10 年 12 月)解説―総則編―一部補訂』 東京書籍 文化庁・日本語教員の養成に関する調査研究協力者会議(2000 年3月 30 日) 「日本語教育のための教員養成について」 (http://www.bunka.go.jp/5/1/v-1-c.html) 参考文献 菊池省三監(2004) 『国際人をめざせ!コミュニケーションの達人②インタビュー』フレー ベル館 木下是雄(2005)『レポートの組み立て方』筑摩書房 中川一史、高木まさき(2004)『光村の国語 調べて、まとめて、コミュニケーション② 疑問調べ大作戦』光村教育図書 111 野田孝子 インタビュー活動を用いた「日本事情」科目の実践 Holstein,James、Gubrium,Jaber 著、山田富秋、兼子一、石倉一郎、矢原隆之訳(2004) 『アクティヴ・インタビュー―相互行為としての社会調査』せりか書房 Marshall ,G [edi](1998)Sociology, Oxford 三牧陽子(1998)『日本語教授法を理解する本 実践編』バベル・プレス 『教育学用語辞典 第3版』(1997)学文社 (のだ たかこ・元本学非常勤講師) 112 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 苫小牧駒澤大学紀要第14号(2005年11月30日発行) Bulletin of Tomakomai Komazawa University Vol. 14, 30 November 2005 <翻訳>どうしてシマウマは黒いシマシマなの? [Original Text] How Zebra Got Their Black Stripes 訳:加 藤 登喜男 Translator:KATO Tokio Author:Mansor Haji SUKAIMI 原著者:マンソール・ハジ・スカイミ Illustrator:Robert C. OLSON 挿 絵:ロバート・カール・オルソン キーワード:動物寓話、天地創造、シマウマ、原始ライオン ココナッツの木 要旨 シンガポール人の著者マンソール・ハジ・スカイミが孫のために作った物語で、シ マウマのしまがなぜできたかという理由を太古の昔にさかのぼって語っている。こ れはシマウマとココナッツの木の友情の物語であり、自然賛歌でもある。日本語訳 に原文と挿絵を添えて対訳形式にしたので、教材としても使用可能である。 113 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 訳者まえがき 「キリンの首はなぜ長いのだろう」「象の鼻はなぜ長いのだろう」と子どものころ 誰もが考えたことがあるはずです。いまから何万年も前、キリンは馬とよく似てい たそうです。キリンが進化していくうちに首の長いキリンが誕生したということで す。今回のゼブラのお話はキリンの話のように進化論的に考察されたものではなく 信仰深い老人が愛する孫のために神さまの言葉に耳を傾けながら作ったお話です。 そして、これが本当か嘘かは神さまだけが知っているというお話です。シンガポー ル人の作家・国会議員のマンソール・ハジ・スカイミ氏によるオリジナル・テキス トと私の日本語訳に、アメリカ人の本学オルソン助教授の挿絵を添えた3カ国コラ ボレーション作品です。 なお、英語の文中聞き慣れない単語 PRIDUG Lions「プライダックライオン」と 言うのが出てきますが、著者によるとプライダック Pridug は、primitive 原始的で dirty 汚く ugly 醜いという意味を合わせた造語のようです。ここでは原始ライオンと 訳しておきました。 115 加藤登喜男 <翻訳>どうしてシマウマは黒いシマシマなの? どうしてシマウマは黒いシマシマなの? 動物園にヒダヤとヒダヤのおじいちゃんがいました。 ねぇ、おじいちゃん どうしてシマウマは白と黒のシマシマ模様なの それはね神さまからのプレゼントだよ。 どうして知っているの? それは神さまだけが知っているよ。 なぜそうなったんだろうとヒダヤは考えました。 深く考え込んだ様子のヒダヤにアツクは言いました。 そこにはあるお話があるんだよ。 ずっとずっと昔、世界は綺麗で美し く 空気は心地よく安らぎを与えて 木々は年中緑でいつまでも生き生き していました。 川、海、湖は曇りなく透明ですがす がしかったし 動物たちは健康で機敏でした。 石や砂やほこりや山々、丘や泥でさえすべて汚れていませんでした。 世界中のすべてのものはみな、仲が良く 動物たちも木々も山々も川、湖、雲も風さえも優しくお互いに話しかけました。 木々は鳥たち、蜂や蛇を大切な友達として迎え 山々は雲を歓迎し愛情で包み込みました。 川、海、池や湖は魚や蟹、たこ、海蛇やサメたちを生涯の仲間としてお世話し、 すべてのものはみな、互いに優しく、まるでひとつの幸せな家族のようでした。 この夢のような世界の中でも白いシマウマたちが最も美しく、最もフレンドリ ーで皆に優しかったのです。 彼らの美しさはとても魅力的なものでした。 彼らの肌はまじり気なく白く、太陽の光も涼しく甘い香りの光だけを彼らに優 116 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 How Zebras Got Their Black Stripes They were at the zoo, Hidayah and her grandpa. “How did zebras get their black stripes, grandpa?” “He gave them” “How do you know?” “Only He knows” Hidayah pondered.“There must be a reason.” Seeing Hidayah so pensive, Atuk said“Maybe, there was a story behind it.....” Many, many years ago, the world was clean and beautiful. The air was soothing and fragrant. Trees were year-long green and forever fresh. They did not rot. Rivers, seas and lakes were crystal-clear and refreshing. Animals were healthy and agile. Even stones, sand, dust, mountains, hills and mud were all free of dirt. Everything was friendly, too. Animals, trees, mountains, rivers, lakes, clouds and even winds spoke to one another with kindness. Trees greeted the birds, bees and snakes as dear friends. Mountains welcomed the clouds and embraced them with love. Rivers, seas, ponds and lakes looked after the fishes, crabs, octopuses, sea snakes and sharks like life-long companions. All were kind to one another as one happy family. In all these wonders, the white zebras were the most beautiful, the most friendly, and the kindest. Their beauty was stunning. Their skin was pure white. 117 加藤登喜男 <翻訳>どうしてシマウマは黒いシマシマなの? しく降り注ぎました。 彼らの目は整った形をしていて さらに、彼らの足は完璧に仕上げられていて、ひづめはまるでマニキュアをし た爪のように優美でした。 彼らの上品な彫刻のように形作られた体は、彼らの動きを美しくしとやかに見 せました。 早足で駆け出すと、完璧なリズムと 調和で動き、手入れされた爪が大地 を蹴ると、美しい鐘の奏でる音を生 み出しました。 大きい、小さい、痩せているもの、 たくましいもの、たくさんいて皆、 いつまでも若かったのです。 彼らが駆けたり戯れたりすると、その場所はいつも清潔で美しくなり、 動物たちも植物も皆、互いにとても優しくなりました。 彼らはとても愛されていて、木々、山々、石や丘はリズムにあわせて揺れ動き、 白いシマウマを褒め称えました。 朝露はいきおい良く彼らの美しい顔から眠気を拭い取りました。 雨滴たちは互いに競い合い、シマウマたちの体から汚れを洗い流し、輝く鮮や かな白い体を保ちました。 さらに、川や湖の水も、毎日の飲み物としてすすんで流れ込みシマウマの体の 中を綺麗にしてあげました。 すべてのものたちが、白いシマウマをより綺麗に美しくしました。 ああ!その美しさ、シマウマの完成された清潔さは、気候がとても暑くなりは じめてから地球にやってきた獰猛なライオンの最高の食事になってしまったの です。 これらの原始的で汚く醜いライオンは原始(プライダッグ“PRIDUG”)ライ オンと呼ばれ異常な病気にかかりました。 彼らは美しく生まれてきたのですが、 その病気のせいで育っていくうちに体はどんどん汚くなり、その体の汚れは彼 らを日に々に、醜くさせました。 118 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 Even the sun shone kindly on them, sending only cooling and sweet-smelling rays. Their eyes were perfectly shaped. Their legs crafted in perfection were adorned with hoofs that had dainty dentures like manicured nails. Their bodies, finely sculptured, gave them beauty and grace in movement. When trotting or galloping, they floated in perfect harmony and rhythm, creating melodious chimes as their manicured nails hit the ground. There were many of them, big, small, slim, athletic and all forever young. They galloped and frolicked freely knowing that whereever they went they met beautiful animals and plants, and all were friendly and kind to one another. The white zebras were so loved that trees, mountains, rocks and hill swayed in rhythm in praise of them. The morning dew rushed to wipe away the sleep from their beautiful faces. Rain drops competed with one another to wash away any blemish from their bodies to keep the whiteness of their bodies bright and glowing. Even waters from the rivers and lakes rushed to offer themselves as daily drinks to cleanse the insides of their bodies. All these made the white zebras beautiful and clean. Alas! Their beauty, perfection and cleanliness made them the most desired meal of ferocious lions that came to earth, from nowhere, whenever the climate became very hot. Those primitive, dirty and ugly lions, called PRIDUG lions, had a peculiar illness. They were born beautiful but, because of that illness, their bodies got dirtier as they grew, and the dirt in their bodies made them uglier day by day. 119 加藤登喜男 <翻訳>どうしてシマウマは黒いシマシマなの? その体の汚れはまた、彼らの目を異常なほど敏感にしていたので、彼らはなん でも、縞のあるものを見ると意識がもうろうとして弱々しく倒れてしまいまし た。 ただ一つ安全に確かにライオンの病気を治すものは白いシマウマだけでした。 美しく清潔な生き物のお肉は病気の菌を殺して彼らの体の汚れと病気を清潔に しました。 暑い季節になると原始ライオンはたくさん現れて白いシマウマを捕まえてはが つがつと食べました。 動物、植物、山々、水、雲も空気も皆お互いに優しかったように、白いシマウ マは原始ライオンにとても優しかったのです。 シマウマたちはライオンから逃げませんでした。それはシマウマたちの純潔さ でした。 シマウマたちに優しさと友達を思う気持ちがそうさせたのです。 優しさが深い悲しみをもたらすことはとても悲しいことでした。 たくさんのシマウマたちが原始ライオンに冷酷に食べられてしまいました。 山々も動物たちも鳥たちもありも木 もその残酷さに応えるやさしさに涙 を流しました。優しさ以外のものは 彼らの生き方にはありませんでし た。誰も争うことを知らず、まして 他のものたちを傷つけることなど は、知るはずもないことでした。 ココナッツの木は中でも一番悲しみました。ココナツは背が高かったので何で も見渡すことができ、たくさんの悲劇を見ていました。ココナッツの木は白い シマウマの赤ちゃんが原始ライオンに冷酷に食べられてしまうことにとてもシ ョックを受けました。お母さんシマウマが赤ちゃんを助けようとするとお母さ んシマウマもすぐにがつがつと食べられてしまいました。おじいちゃんおばあ ちゃんシマウマが勇気を出してライオンたちのところへ優しさを持ってほしい とお願いしに行っても、またすぐに食べられてしまいました。 120 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 The dirt in their bodies also caused their eyes to be extremely sensitive to any thing that were striped in shape, making them groggy and causing them to faint and fall. The only safe and sure cure for them was white zebras. The meat of white zebras killed the germs, and scrubbed away the dirt in the bodies of PRIDUG lions, curing them of their peculiar disease. Every hot season, PRIDUG lions appeared in hordes to catch and devour white zebras. As all animals, plants, mountains, water, clouds and air had been so used to being friendly to one another, the white zebras were very kind to the PRIDUG lions. They did not run away. It was their innocence, their kindness and their friendliness that made them do that. It was tragic how kindness brought grief. Many died, devoured ruthlessly by the PRIDUG lions. The mountains, animals, birds, ants and the trees cried to see kindness being repaid with cruelty. Nothing could they do for kindness was their way of life. None knew how to fight back. Hurting others was unknown to them. Even if they knew, they did not know how to hurt others. The coconut trees grieved the most. From their tall heights, they could see everything. They saw so many tragedies. They were shocked to see baby white zebras being devoured greedily by PRIDUG lions. Mother white zebras were torn into pieces as they tried to help their babies. Grandparents white zebras bravely came to the PRIDUG lions to plead for kindness but were instantly eaten up. 121 加藤登喜男 <翻訳>どうしてシマウマは黒いシマシマなの? 美しい白いシマウマたちの悲劇を見てココナッツの木たちどうしたらよいかわ からず泣きに泣きました。 突然、ココナッツの木は優しい声で“私たちの幹に駆け上がって”という 声 を聞きました。 “え!私たちの幹に駆け寄るって?”ココナッツの木は聞い たことのないその声に驚きました。 “そう、 言って‘私たちの幹に駆け上って’” その 声 はかりたてました。 “なぜ?”ココナッツの木は聞きました。する と“とにかく言って!今言うの!”その声は言いました。 “白いシマウマさん、私たちの幹に駆け上がって 幹に駆け上って、駆け寄上 って”ココナッツの木は叫びました。 “何!どうして?”白いシマウマたちも混乱して聞きました。シマウマたちは なぜそうするのか理解できず彼らはただ困惑しました。 “幹に近づいて、急いで!ココナッツの木はお願いするように言いました。 “どうやって?”白いシマウマは聞きました。駆け上がれば私たちが守ってあ げられるから、急いで!ココナッツの木は叫びました。 どうしたらよいか何もわからない白いシマウマたちは皆ココナッツの幹に群が りました。 シマウマたちの美しい爪は幹をし っかりとらえて駆け上がるのに十 分鋭くとがっていました。シマウマ たちの釣り合いの取れた身体はみ ごとなバランスを保ちました。 原始ライオンたちはシマウマたちの後を追ってきました。しかし、シマウマた ちが幹に駆け上がると、ライオンたちは次々とめまいを起こして倒れこみ死ん でいくのでした。 なぜ? 122 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 Seeing the tragedies happening to the beautiful white zebras, the coconut trees cried and cried, not knowing what to do. Suddenly they heard a soft Voice:“Say:‘Run up our trunks’” “What! Run up our trunks?”startled to hear the unknown Voice. “Yes. Say:‘Run up our trunks’”the Voice urged again. “Why?”queried the coconut trees. “Just say, and say it NOW!”commanded the Voice. “White zebras: Run up our trunks; Run up our trunks; Run up our trunks”, screamed the coconut trees. “What! Why?”the white zebras asked in puzzlement. The white zebras just could not understand. They were confused. “Come up our trunks, quickly. Come now, fast!”the coconut trees pleaded. “How?”asked the white zebras. “Just run up our trunks. Run up now, now, now! Just run up. NOW. Run up and we will protect all of you. Quickly.”shouted the coconut trees. Not knowing what else to do, all the white zebras rushed up the coconut trunks. Their manicured nails were sharp enough to grip the trunk as they rushed up. Their perfect body symmetry gave them superb balance. The PRIDUG lions chased after them. However, as they climbed the trunks, one by one became dizzy, fainted and fell down to their death. Why? 123 加藤登喜男 <翻訳>どうしてシマウマは黒いシマシマなの? ココナッツの木の幹は、ココナッツの木が育って古い葉が落ちることで幹に葉 の模様がつき、その幹全体はシマシマ模様になっていたのです。ライオンはシ マシマ模様が我慢できなかったので、そのシマ模様はライオンたちを病気にさ せました。ココナッツの幹のシマ模様をどうすることもできなかったライオン たちは次々に意識がもうろうとしてふらついては倒れていきました。死んでし まったものもたくさんいました。 “急いで!急いで!急いで!”山、川、鳥、蜂、蟻、カンガルーもアナコンダ も他の木々たちもみんな原始ライオンたちが倒れて死んでいくのを見ておおい に喜びました。 他の原始ライオンたちはココナッツの木に上った白いシマウマたちを捕まえる ために違ったやり方をしました。あるものたちはココナッツ幹のシマに沿って 体を横たわせて、幹のふさのように見せ、ごまかしました。 そのたくらみは最初のうちは上手く行きましたがそれは少しの間しかできませ んでした。そうやって体を幹のふさふさのようにごまかそうとした原始ライオ ンたちは、しまを目の前で見てしまうことを避けられなかったのでふらついて ぼんやりしてしまいました。しっかりと立つことができなくなってしまい、ね ばねばした汗が体からにじみ出てとても滑りやすくなりました。 たくさんの原始ライオンたちは死んでしまいました。 山も川も動物たちも皆原始ライオンたちが倒れ、死んでいくのを見て大いに喜 びました。 ついに、原始ライオンはどうすることもできないとわかりました。暖かい季節 もじきにすぎてしまいライオンたちはすぐに絶滅してしまうと思いました。 大切な友達である白いシマウマが救われたと、木、山、川、鳥も蜂も蟻も猿も 雲も空気もこの幸運を喜びました。 124 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 Along the whole length of the coconut trunks were striped marks left by old leaves that had fallen off as the coconut-trees grew. The disease of the PRIDUG lions made them intolerable to anything that had striped shapes. They just could not handle the striking striped marks along the whole length of the coconut trunks. One by one, the PRIDUG lions just got groggy, fainted and fell. Many perished. “Yahooo! Yahooo! Yahooo!” The mountains, rivers, birds, bees, ants, kangaroos, anacondas and other trees that were witnessing the exciting chase rejoiced to see the PRIDUG lions falling to their death. Other PRIDUG lions tried other ways of chasing the white zebras up the coconut-trees. Some lay their bodies on the trunk and made themselves to become rugs to cover the striped marks along the trunk. The tricked worked but only for a short distance. Those PRIDUG lions that became rugs could not prevent themselves from seeing the striped marks that were so near their eyes. They became groggy and fainted. They lost their grip. Their dirty bodies oozed out slimy sweat making their bodies very slippery. Many PRIDUG lions fell to their death, and now from greater heights. “Yahooo! Yahooo! Yahooo!”rejoiced the mountains, rivers, and all the animals as they saw the PRIDUG lions falling to their death. At last, the PRIDUG lions realized that they could not do anything and the hot season would go away very soon. And so, as suddenly as they came, they disappeared abruptly. “Yahooo! Yahooo! Yahooo! Our dear friends, our beloved white zebras are saved,”trees, mountains, rivers, birds, bees, ants, monkeys, clouds and the air celebrated their great fortune. 125 加藤登喜男 <翻訳>どうしてシマウマは黒いシマシマなの? “本当に救ってくれてありがとう”白いシマウマたちは美しい目から涙をなが しながらココナッツの木を抱きしめました。 “どういたしまして、あなたたち白いシマウマはこの世界で最も美しく私たち は皆あなたたちが大好きでした。 ”ココナッツの木は白いシマウマたちに愛情 を表すように葉を優しくゆらしながらそう言いました。 “そう、私たちは皆あなたたちが一 番大好きさ、ここにいるみんなが友 達でお互い助け合うんだ” すべて の動物たち、木も山も雲も空気もコ コナッツの木の周りに集まり言いま した。 “みんな大切なんだ” 彼らはそんな幸せを、毎日お祝いし ました。しかし、また暖かい季節がやってきてすべての動物、山も雲も蟻も鳥 も白いシマウマたちをココナッツの木の近くに押しやりました。暖かい季節に なり原始ライオンがやってきたとき、彼らはより不潔で醜く病弱でした。その ためにライオンたちはさらに白いシマウマのお肉を貪欲に欲しがり凶暴になり ました。ライオンたちは白いシマウマを襲いましたがこのときはココナッツの 木によってシマウマたちは守られました。 多くの原始ライオンたちはココナッツの木の縞模様に耐えられず、ふらついて 倒れ、死んでいきました。 長い間、こうした喜ばしい出来事は大切な友情の元に続いて行きました。なか でも白いシマウマとココナッツの木の友情は強い絆で結ばれていきました。原 始ライオンが来るたびにココナッツの木は白いシマウマを守るために立ってい ました。毎年、暑い季節が来るたびに、そうやって友情はかけがえのないもの になっていきました。 ある日、とても暑い季節の一日目でした、太陽がこれまでになく照り付けて地 球上のものはみな渇ききってしまいました。雲でさえ体を冷やすためにどこか 126 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 “Thank you, dear friends, for saving our lives”, the white zebras embraced the coconut trees as tears of gratitude flowed from their beautiful eyes. “It is our pleasure, dearest friend. You are the most beautiful creation there is in this world, and we all love you”said the coconut trees, as they swayed their leaves to show their tender care and love for the white zebras. “Yes, we all love you most dearly, and we are all friends here to look after one another”declared all animals, trees, mountains, clouds and air that came to flock around the coconut trees.“We all love you.” That was the world when beauty and kindness came so spontaneously many, many years ago making the world so clean and beautiful. The happiness was celebrated everyday but when the hot seasons came, all the animals, mountains, clouds, ants and birds shoved the white zebras to be close to the coconut trees. When PRIDUG lions came, they were dirtier, uglier and more sickly. Their greed for the meat of white zebras became stronger and, because of that, they were more ferocious. They chased the white zebras but, this time, the zebras were all saved by the coconut trees. Many PRIDUG lions became groggy, fainted as they could not stand seeing the striped marks on the coconut tree trunks. Many fell to their death. Then they disappeared abruptly and went away hungry. For many years, these joyous events continued as dear friends helped one another, and the most special relationship that grew was between the white zebras and the coconut trees. Every time the PRIDUG lions came, the coconut trees were there to save the white zebras. These happened every hot season and for many, many years the friendship became most endearing. One day, during the first day of the very hot season, the sun was at its hottest mood. Everything on earth became dry. Even the clouds had to go 127 加藤登喜男 <翻訳>どうしてシマウマは黒いシマシマなの? 行かなければならないほどでした。こうして地球はとても暑くなってしまいま した。 この暑さで大きな火事が起こりました。それは急速に大きくなって、風が体を 冷やすために強く吹いたので、さらに火は大きくなり凶暴な大火へと変わって 行きました。 どうなったか? 池も川も湖もみんな干上がってしまい、山はひび割れ、最悪 なことに、たくさんの木が燃えてしまいました。特にココナッツの木は背が高 かったので大火のほこさきになってしまったのです。 その大火が絶頂になったとき突然原始ライオンが現れました。ライオンたちは ココナッツの木が燃え尽きて火がおさまるのを待ちました。 白いシマウマたちはおびえ、大切な友人であるココナッツの木に走りよりまし たが、そこにあるのは燃え尽きたココナッツの木の姿でした。 “ごめんなさい、もう私たちは役に 立ちません。もうあなたたちを守っ てあげられないのです。 ”ココナッ ツの木は地面に弱々しく倒れながら 泣いてそう言いました。 白いシマウマたちは打ちひしがれました。シマウマたちは原始ライオンに囲ま れると恐怖で震えました。 “ははは、もう逃げられないぞ。今度は俺たちが祝 う番だ。 ” おなかを空かせた原始ライオンはうなり声をあげました。“さあ宴だ” すべての木、動物、山、蟻、蛇、雲も風も美しい白いシマウマが原始ライオン たちのなすがままになってしまうのを見て泣きました。泣きに泣きました 突然、ココナッツの木は、あのときと同じ 声 を聞きました。その 声 は ささやきました。 “葉の上を転がってと言いなさい” “え?”ココナッツの木は聞き返しました。 “言うのです‘葉の上を転がって’ ”その 声 はまた聞こえてきました 128 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 somewhere else to cool off. This made the earth very much hotter. Suddenly a huge fire broke out. It grew so fast and, with the wind blowing harder to cool itself, the fire turned into a raging inferno. What happened? The ponds, rivers and lakes dried up. The mountains cracked. Worst, many trees got burnt down, especially the coconut trees, all of which got the full brunt of the big fire because of their height. At the very peak of the burning inferno, the PRIDUG lions appeared suddenly. They waited for the coconut trees to be burnt down, and for the fire to die off. The white zebras were terrified. They all ran towards their dear friends, the coconut trees, only to find that all had been burnt down. “We are so sorry, dear friend. We are of no use to you now. We cannot protect you anymore”cried the coconut trees as they all laid limp on the ground. The white zebras were shattered. They trembled with fear as they saw hordes of PRIDUG lions closing on them.“Hggh, Hggh, Hggh. Now you cannot run anywhere. Now is our turn to celebrate. Hggh, Hggh, Hggh” growled the hungry PRIDUG lions.“Now we all can have a grand feast” All the trees, animals, mountains, ants, snakes, clouds and wind cried to see the beautiful white zebras at the complete mercy of the PRIDUG lions. They cried and cried. Suddenly, the coconut trees heard the same Voice they heard before. The Voice whispered:“Say:‘Roll over our leaves’ ” “What?”asked the coconut trees, startled to hear that Voice again. 129 加藤登喜男 <翻訳>どうしてシマウマは黒いシマシマなの? “‘葉の上を転がるってなに?’ ‘どういう意味?’ ”そう聞きながらココナッツ の木は混乱してしまいました。 “いいから叫ぶのです‘葉の上を転がって’ ‘ただそうしなさい’”その 声 は強く言いました。 最後の力を振り絞り、ココナッツの木たちは白いシマウマに向かって叫びまし た。“私たちの葉の上を転がって、急いで葉の上を転がって” 白いシマウマたちも混乱しているように見えました。“え?葉の上を転がる の?” “そう、そうだよ、葉の上を転がるの” すべての動物たち、木、蜂も蛇も山も雲も風も一緒になって言いました“そう、 焼けた木の葉の上を転がるんだ、そう急いで急いで!” 白いお母さんシマウマは子馬を引っ張ると、焼けて真っ黒になったココナッツ の葉の上に転がしました。 白いお母さんシマウマとその子馬は美しい黒い縞を身にまといました。地面に 残された、焼けたココナッツの葉の縞模様によって独特な模様はシマウマの身 体に写されました。 この不思議な変化をみた白いシマウマたちは皆、焼けた葉を目掛けて集まりそ の上を転がりました。立ち上がると、かつては白く完璧だったその身体は、黒 と白の上品な縞で覆われていました。それを見て他の白いシマウマたちも葉の 上を転がり身体に黒い縞模様を作りました。シマウマたちは白、黒の流れるよ うな波を作り出しました。それはなんと美しい光景だったでしょう! そのころ、原始ライオンはなにが起こっているかまったく知らず、獲物へ向か って一直線に向かって行きました。しかしそこには白いシマウマは全く見当た らず、波打つようにゆらめく白黒の縞だけがライオンたちの視界をとてつもな く苦しめました。 すぐにライオンたちはふらつき倒れていきました。たくさんのライオンが激し い嘔吐で脱水症状となり死んでしまいました。ゆらめく白黒のシマウマたちの 130 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 “Say:‘Roll over our leaves’ ”the Voice was heard again. “What‘roll over our leaves’? What do you mean?”enquired the coconut trees puzzled. “Just shout:‘Roll over our leaves’ ”Just do that”insisted the Voice. Excitedly but not knowing why, all the coconut trees shouted towards the white zebras:“Roll over our leaves. Roll over our leaves. Quick roll over our leaves”. The white zebras look puzzled too:“What! Roll over your leaves?” “Yes, yes, roll over our leaves” All the other animals, trees, bees, snakes, mountains, clouds and winds joined the plea:“Yes, roll over the burnt coconut tree leaves. Yes, quickly, quickly! The mother white zebra which was nursing a young foal just pulled her baby and rolled over the strips of coconut leaves which were already blackened by the fire. Voila! The mother white zebra and her baby became wrapped in beautiful flowing black stripes, uniquely imprinted by the way the burnt strips of coconut leaves were set on the ground. On seeing the magical transformation, all other white zebras rushed to the burnt leaves, rolled over them, and stood up with elegant patterns of black and white stripes on their once perfect white bodies. As more and more of the white zebras rolled over and made for themselves the black-white striped cover, they created waves upon waves of flowing black and white stripes amongst them. What a beautiful sight! In the meantime, the PRIDUG lions, not knowing what was happening, rushed towards to devour their meals. To their horror, they saw no white zebras but waves upon waves of dancing black and white stripes, causing utter distress to their vision. Instantly, they got groggy and fainted. Many vomited and, some so severely that they died because of dehydration. Many just went limp not able to raise 131 加藤登喜男 <翻訳>どうしてシマウマは黒いシマシマなの? もとからはうように後退っていくものを除いては、ライオンたちは頭を上げる こともできなくなり弱っていきました。シマウマたちを追いかけることなどで きなくなりました。 “は!は!は!”山も川も鳥も蜂も蟻も蛇も木も雲もそして風も皆、原始ライ オンたちがふらつき弱っていくのをみてとても喜びました。 もう一度“白いシマウマ”は美しく流れるような黒い縞とともに優雅に立ち上 がり、ココナッツの木たちが再び彼 らを救った姿を目の当たりにした友 人たちのほうを見つめました。 白いシマウマたちは焼け落ちたココ ナツの葉によって原始ライオンたち から逃れ、友人たちと生きている幸 運を分かち合えたことを大変喜びま した。 そしてシマウマたちはココナッツの木を振り返って感謝の気持ちを表しまし た。ココナッツの木がよろめき死にそうになっているのを見てショックを受け、 “どうか死なないで、私たちを残していかないで”大火によって焼けて真っ黒 になってしまったココナッツの木にしがみつきました。“お願い、死なないで、 お願い” “悲しまないで、これが私たちの運命で、私たちが死ぬことであなたたちは救 われたのだから。それは最後の友情の証だよ。 悲しまないで、私たちはみんな君たちが生きていることがとても嬉しいよ“ 死にそうなココナッツの木を悲しみました。 “嫌だ!私たちをおいていかないで”白いシマウマたちは泣きじゃくりました。 “それは大切な友人たちへの永遠の贈り物だよ。可愛がってね、私たちのこと を思い出すのに一番の贈り物なのだから。さようなら” シマウマたちは最愛の友人たちがもう二度と戻ってこなくなってしまうのを見 132 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 their heads, except to crawl backwards away from the dancing waves of black and white stripes. They could not even stand up properly anymore. Certainly, none could run after the zebras. “Yahooo! Yahooo! Yahooo!”The mountains, rivers, birds, bees, ants, snakes, trees, clouds and the winds rejoiced to see the PRIDUG lions getting groggy, fainting and many vomiting to death. The once“white zebras”now stood superbly in their beautiful flows of black and white stripes. They looked to their friends who witnessed how the coconut trees saved them again. They were happy that all their friends shared the fortune of seeing them alive, now saved by the burnt coconut tree leaves from being devoured by the PRIDUG lions. Then they turned around to be with the coconut trees to express their thanks. They were shocked to see the coconut trees limp in near death. “Please don’t die. Please don’t leave us”they held the coconut trees now so blackened and totally burnt by the huge forest fire.“Please don’t die. Please.” “Don’t grieve. This is our fate. Let our death give you life. Let that be our final gesture of love for being the best of friends. Don’t grieve. We are thankful that you are safe,”lamented the dying coconut trees. “Oh no! Please don’t leave us”cried the zebras. “This is our eternal gift to you, my dear friend. Cherish it for this is the best way for you to remember us. Good bye”. All the zebras stayed, sobbingly, as they saw their dear friends depart 133 加藤登喜男 <翻訳>どうしてシマウマは黒いシマシマなの? て、泣きじゃくりました。シマウマたちは立ちつくしたまま、優しく、やわら かい土を集めて焼け焦げた幹と葉の上を覆いました。そしてそこで一晩過ごし ました。夜が明けてシマウマは新しく住むところを探して動き始めました。シ マウマたちはココナッツの焼けた黒い葉がまるで生きているかのように白と黒 の縞を身にまとい、大切な友人を敬うように静かに駆け足をしました。 シマウマたちが、あるココナッツの幹を通り過ぎたとき、最初に子馬と葉の上 に転がったお母さんシマウマは、死にかけたココナッツの木のやわらかい最後 の息を聞きました。 “これを思い出に持って行って” お母さんシマウマはココ ナッツの実をわたされました。 “ありがとう。みんなで可愛がるわ” 川を渡ったとき、お母さんシマウマは掴んでいた手をすべらせ、ココナッツの 実を落としてしまいました。ココナッツの実は素早く流れて行ってしまいまし た。“嫌よ、嫌よ、お願い、大切なお友達のたった一つの思い出なの。お願い 返して、お願い” お母さんシマウマはお願いしました。 “行かせてあげなさい。これが運命なのです。あなたの身体の縞模様が何より の思い出でしょう。それも運命なのです。 ” その 声 はまた聞こえてきまし た。 “なんと素敵なはなしなんだろう!それってほんとう?” “・・う∼ん、神さまだけが知ってるんだよ” “ありがとう、お爺ちゃん” 134 苫小牧駒澤大学紀要 第14号 2005年11月 forever. They stayed just standing, tenderly scrapping soft soil to cover the blackened trunks and leaves. They stayed the whole night. At dawn, they started to move to look for a new place to live. They carried with them the black and white stripes flowing like living black coconut leaves as they trot with quiet respect from their cherished friends. As they passed one coconut tree trunk, the mother zebra, who with her baby was the first to roll over the leaves, heard the soft final gasps of the dying coconut tree:“Take this as a remembrance,”handing the mother zebra a coconut fruit.“Oh dear, in death you are still kind. Yes, thank you. We will cherish it”. As they crossed the river, the mother zebra lost grip of the coconut fruit. It floated swiftly away from her.“Oh no, Oh no. Please, that is our only remembrance of our dearest friends. Please, help me get it back, please,” pleaded the mother zebra. “Let it go. This is destiny. Your stripes are better marks of remembrance. That is also destiny,”the Voice was heard again. “Wow! That's a moving story! Was it true?” “No. Only He knows” “Thank you, grandpa. I love you”. 135 加藤登喜男 <翻訳>どうしてシマウマは黒いシマシマなの? 訳書あとがき 著者について シンガポール国会議員。シンガポール及びマレーシアのクアラランプールを 中心に1984年から人権に取り組む「NURY プログラム」を起こし、現在約50 万世帯の人権問題に取り組む開発教育のスペシャリストとして知られている。 また街の中心を流れるシンガポール川の清浄化に成功し、環境問題においても 活躍している。また、作家としても活動し、彼の代表作「ANA」はマレーシ アの子どもテレビ番組でゴールデンイヤーを受賞した。 翻訳者について 苫小牧駒澤大学国際センター職員の傍ら環境・人権分野の NGO(非政府組織) 活動にかかわってきた。1997年南インドのチェンナイにあるダリット(被差別 民)と呼ばれる地区で NGO 活動に取り組む。1998年京都で開催された地球温 暖化防止会議に NGO(非政府組織)メンバーとして参加する。 今回の翻訳について この作品は著者の書き下ろしであり、本邦初訳である。 私が日本語に翻訳するという条件で許可を得たものである。 私がシンガポールを訪問した際に、彼から多くの作品を紹介された。今回の 「How Zebra Got Their Black Stripes」を最初に翻訳したいと思った理由は聖 書の創世記に書かれている天地創造の物語が思い起こされ、その中でもノアの 箱船のエピソードと重なる点に興味を持ったことである。第2の理由はこれを 関西ダイレクトの絵本にしたいと思ったこと。第3の理由は作品自体が、訳す のにちょうどよい長さだからである。挿絵を書いていただいた本学オルソン助 教授には、この場を借りて感謝申し上げたい。 (かとう ときお・本学国際センター係長) 136 苫 小 牧 駒 澤 大 学 紀 要 第14号 平成17年(2005)年11月25日印刷 平成17年(2005)年11月30日発行 編集発行 苫小牧駒澤大学 〒059-1292 苫小牧市錦岡521番地293 電話0144−61−3111 印 刷 ひまわり印刷株式会社 紀要交換業務は図書館情報センターで行っています ̶̶ お問い合わせは直通電話0144−61−3311 ̶̶
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