関東学院大学文学部 紀要 第102号(2004) 「現代児童文学」とリアリズムファンタジー ―『まぼろしの子どもたち』 (ルーシー・ボストン)から始めて ― 谷 本 誠 剛 要 旨: 第二次大戦後のイギリス児童文学は「現代児童文学」の始まりの時期とされ る。この時期のファンタジーに特徴的なのは、現実主義的なリアリズムの要素 の強さである。そのことはこの時代をリードしたルーシー・ボストンの『まぼ ろしの子どもたち』に典型的に示される。タイムファンタジーとしての作品は、 過去の人物が現世において感知される不思議を描いているが、同時にそれが主 人公たちの心中のヴィジョンにすぎないのではないかということを終始問題に している。さらに作品の文体も、児童文学的な語り口を持ちながらも、小説的 リアリズムになっているといえる。そもそもタイムファンタジーと云うジャン ル自身、歴史というリアリズムと、異なる時代が交流するというファンタジー の手法が重なり合ったものである。リアリズムの要素のきわめて強いこの期の 作品が大人読者を獲得したのも当然であり、その作風は魔法の不思議などを当 然の前提とする物語的なそれまでの児童文学とはっきり異なるものであった。 現代のファンタジー文学のありようを認識するためにも、現代児童文学の出発 の時期を振り返っておきたいと思う。 キーワード: 児童文学、リアリズム、ファンタジー、小説的文体、ルーシー・ボストン イギリスの「現代児童文学」は、第二次大戦後の50年代に始まり、60年 代に黄金時代を迎える。この時期にイギリスの児童文学は質量ともに画期 的に増大した。チャールズ・デイッケンズも、この時代に生まれていたら 児童文学作家になっていただろうといわれた。この時代をリードした作家 の一人が、ルーシー・ボストンである。ボストンは、タイムファンタジー に区分されるファンタジーを書いた。ただそのファンタジーは、基本にお いてリアリズムに基づいていた。 ― ― 195 「現代児童文学」とリアリズムファンタジー 作家としての私のやりかたは、見かけの現象の世界を探り、その認識の 範囲を想像力でどれだけ広げられるかをじっくりと観察することである。 見かけの現実が外枠を区切られた、見かけどおりのものにとどまるなんて ことはあり得ない。ちなみに、私はまずファンタジーを書こうとすること から始めて、次にそのファンタジー世界を架けておく架け釘を探すタイプ の作家ではない。My approach has always been to explore reality as it appears, and from within to see how far imagination can properly expand it. Reality, after all, has no outside edge. I never start with a fantasy and look for a peg to hang it on.(1) ボストンのこの言葉は、彼女のファンタジーのありようをよく示してい る。ボストンの作品世界はあくまで現実世界であり、終始そこから出るこ とはない。現実世界を深く感覚し、その先に見えてくる想像の世界を描く こと、彼女の作品はおのずと日常を超えたファンタジーに入っていくので ある。それだけでなく、想像力によっていったんはファンタジーの世界に 入ったと見えるものも、常にそのファンタジー世界が見えること自体への 懐疑を失うことはない。ボストンのファンタジーをリアリズムファンタジ ーと呼ぶ由縁である。 ボストンのとったリアリズムの手法は、実はそれからの現代児童文学の ファンタジーがたどったひとつの方向を示すものであった。まずフィリッ パ・ピアスなどで知られるタイムファンタジーはボストン以降一つの時代 を画するものとなるが、このジャンルは基本的にボストンの切り開いたリ アリズムの手法に従っている。現実から出発し過去に向かうタイムファン タジーは、その向かった先の過去は実在したものであるから、歴史小説に 似たものになる。タイムファンタジーは、その意味で歴史のリアリズムに 基礎をおき、それがおのずとファンタジーにもなるという類のリアリズム ファンタジーなのである。さらに、タイムファンタジーが歴史に近いと考 えると、同時代の歴史児童文学者サトクリフなども類似したジャンルの作 家ととらえることができなくもない。サトクリフの想像力豊かな歴史小説 にあるのも、深く感覚された歴史の真実性というべきものである。 後に見るように、ボストンのリアリズムは、文体や精神において近代小 説のリアリズムに近いものがある。現代児童文学は、全体に小説的なリア リティで大人の読者をも巻き込むものになったのが大きな特徴である。そ ― ― 196 関東学院大学文学部 紀要 第102号(2004) のことは、ボストン以下のリアリズムファンタジーにも当てはまっている。 また、ボストン以下のタイムファンタジーはもっぱら女流の作家の活躍し た分野であり、ローマン・ブリテンの時代に舞台をとったサトクリフの歴 史小説あたりまでふくめて、現代児童文学のリアリズムファンタジーは、 多くはフェミナインファンタジー(女流のファンタジー)であったという ことも可能である。ただこの時期のリアリズムファンタジーの方法は、単 に女性作家にとどまるものではなかった。アラン・ガーナー(例えば『ブ リジンガメンの宝石』)や、ウイリアム・メイン(例えば『闇の戦い』)な ど、「現代児童文学」の代表的なファンタジーにも当てはまるからである。 それだけボストンの切り開いたリアリズムファンタジーの手法は時代の児 童文学のその後のありようを典型的に示すものであったのである。ここに あげた作家が、大人の読者の鑑賞にも十分耐える小説的なリアリティを持 っていることでも変わりはなかった。 1. 『まぼろしの子どもたち』 (The Children of Green Knowe, 1954)とリアリ ズムの手法 グリーン・ノウという古い館があった。400年前にこの屋敷でペストのた めに母親と三人の子どもが死に、おばあさんだけが生き残った。 「ただ、み んなが死んだといえば、とても悲しくきこえるけど、たいしてちがいはな かった。まもなく、おばあさんには、みんながこの家にいるのがわかった。 」 つまり死者は霊となって、生き残ったものと交わり始めた。こうして一つ の屋敷の一つのゴーストストーリーとしての物語がはじまった。 (作品の語 り部であるオールドノウ夫人の言葉によればこういうことになる。 ) それから長い年月を経たいま、この屋敷にはやはり老女がひとりで住ん でいる。他ならぬ『まぼろしの子どもたち』の語り部の老女オールドノウ 夫人である。そこへビルマからイギリスの学校に送られてきている 7 才の 少年トーリーが休暇に訪ねてくる。 「お帰りなさい」という言葉で迎えられ たトーリーには、おばあさんが400年前に亡くなった子どもたちといまも交 わっているかのようであったのが不思議であった。また、案内された部屋 には、揺り木馬や人形の家、木箱などがあり、いづれも400年前になくなっ た子どもたちの持ち物であることがわかる。やがておばあさんに暗示され たかのように、少年も過去の子ども達の気配を感じ、笑い声を聞き、その ― ― 197 「現代児童文学」とリアリズムファンタジー 姿を見るまでになる。それまでにはおばあさんから亡くなった子どもたち にかかわる物語を聞き、また彼らの遺品を見つけ出しておばあさんのとこ ろへもっていったりすることが彼らとの絆を強めるということがあった。 トーリーを暗示の世界へ誘ったおばあさん自身も、そういう遺品に接して 彼らの現世における存在を信じる気持ちを強めているようであった。 トーリーの曽祖母にあたるオールドノウ夫人は、一種のシャーマンであ ったといえるかもしれない。彼女に憑依しているのが、遠い遠い昔この屋 敷にすんでいた老女である。クリスマスツリーの風習はまだなく、ナイフ やフォークさえなかったという時代である。老女は突然家族と死に別れる が、ほどなく霊となったかれらとの交流をはじめた。大昔の住民である彼 らの語り部であるオールドノウ夫人は、いま昔の老女の霊を引き継ぐシャ ーマンであり(そうでなければどうして彼女がこれだけ彼らのことを知り 得よう) 、この語り部に誘われるようにしてトーリーは幻の子どもたちと交 流を始めるのである。中年をすぎた女性が突然霊に取り付かれて霊媒とし て言葉を伝えるということがある。多くの場合不幸な境涯にあることが多 いが、オールドノウ夫人の場合はどうであったのか。あるいは孤独であっ た少女期にすでに幻の存在と心を通わすことができ、老年になって再びそ の交わりを取り戻したのかもしれない。オールドノウといういわくありげ な名前を持つこの人物は、謎に満ちている。 このシャーマンたる夫人に誘われて、トーリーは長い年月をへだてて、 ある特定の過去の子どもたちと交わりを持ったのであった。その時にいま 滞在している古い館や、屋敷に残る子供たちの遺品がいわば出会いの仲立 ちとなるということもあった。ただし、少年の幻の存在との親密な交わり は、作品に見るかぎりそれ自体あくまで心の中のヴィジョンの域にとどま るのものであったということが可能である。始めて少年が過去の子ども達 の姿をまざまざと見たのは、雪の日のイチイの木の下のテントのようにな っているところである。 なかにはいると、枝がハリやたる木のように張って、高いテントのよう なかたちのへやになり、雪の壁をすかして、明るいオパール色の光りがさ しこんでいた。そのまん中に、幹にもたれて、トービーとアレグサンダー がいた。リネットは、二人の足もとのイチイの枯れ葉のじゅうたんの上に、 すわっていた。フルートをふいているのは、もちろんアレクサンザーだっ ― ― 198 関東学院大学文学部 紀要 第102号(2004) た。かれがフルートをふいているあいだに、赤い子リスがそのからだをか けあがったりかけおりたりして、ポケットの木の実を探していた。 トービーは、鹿にえさをやっていた。それはからだに美しいまだらがあ り、耳が黒く、胸が白い、生きた鹿だった。鹿は子羊のように尾をふりな がら、トービーの手からえさをもらって食べていた。リネットは、せい高 のっぽの野ウサギをたたせ、音楽にあわせ、ダンスをさせて、遊んでいた。 ウサギが長い耳を立てて立つと、ひざをついているリネットより背が高く なった。リネットの小犬も、負けていられないというようすで、ウサギよ りも元気に、あと足で立っておどった。 Inside was a high, tent-shaped room with branches through the snow walls. In the center, leaning against the pole of the tree, were Toby and Alexander, with Linnet sitting on the dry yew-needle carpet at their feet. It was Alexander of course who was playing, while a red squirrel ran up and down him, searching in his pockets for nuts. Toby was feeding the deer, the real deer, the beautiful dappled deer with black ears and a white breast. It wagged its tail like a lamb as it ate from his hand. Linnet was playing with the lanky hare, making it stand up and dance to the music. With its long ears raised it was taller than she as she knelt. Her little dog danced on its hind legs more vigorously than the hare to attract her atttention.(Puffin Books, p. 88、訳文は亀井俊介訳、評論社、昭和47年による) こうしてイチイの木の下にいろんな動物たちにかこまれて大昔の子ども たちがおり、彼らはそっと入り込んできたトーリーの方をむいて笑いかけ てもきた。しかし、それもしばらくであった。クジャクがけたたましい音 で鳴くと、 「ぼくたち、ひきあげた方がいいと思うよ」という言葉とともに、 彼らは「スライドをぬいた幻灯のように消えてしまった」のである。 トーリーと過去の子どもたちとの不思議な出会いは、この場合いかにも 鮮やかなものであり、強い真実性の印象を持っている。その一方でそれが 瞬時に消える心の中のヴィジョンにすぎないかもしれないこともここでは 明らかにされている。 幻影とも見えるものはあっというまに消えてしまったのであったが、そ の後「あなたはあの三人に会ったのね?」と鋭く見抜いた夫人は、しかし 「それは鹿のせいよ。 」としかいわない。そういわれたトーリーは、 「雪の綿 ― ― 199 「現代児童文学」とリアリズムファンタジー 毛ぶとんから鹿の足の木がつきだしていた」ことにあとできづいたことを 思い出す。ただし、そのことはおばあさんにはいわなかった。自分でも「鹿 の足の形」をした木が、その幻想を誘ったことが分かったからであろう。 他にもアレクザンダーの吹く笛の音がつぐみの鳴き声と同じであることに も気づいていたのであった。 編中もっとも印象的なシーンである少年がクリスマスの教会で過去の子 ども達の合唱を聴くところも、同じである。はじめ殺風景な田舎の教会に トーリーはがっかりして、やがて寝入ってしまったのであった。目が覚め たところで、幻の子どもたちの合唱の場をまざまざと体験するのだが、こ れにも留保がある。おばあさんがクリスマスの礼拝のあいだはずっと寝て いたのねとトーリーに話しかけているからである。こうして作品に描かれ たことは本当にファンタジーとして体験されたものであったのか、それと も過去の子どもの存在を信じるふりをしているおばあさんの演じるゲーム (ごっこ遊び)にのっただけにすぎなかったのか判然としない。そしてその ことにこそこの作品の特徴がある。 現実界の人間が過去の存在を目撃し、言葉も交わすというのは幻想のフ ァンタジーである。作品ではその超自然的な感覚がリアルに描かれている。 同時にそれが実は心のヴィジョンに過ぎないかもしれないことも一方では っきりと示している。作品は幻想的な気分に満ちており、夢の世界の出来 事や、鏡に写った世界、あるいは望遠鏡を逆さにのぞきこんだ世界のイメ ージなどが頻出する。しかし、これらのものは、結局は幻想は人間が作り 出したものであることを示すためのものである。少年が過去の子どもたち の存在を実感するのが、もっぱら夢からさめたあとや、夢のなかであり、 現実には日本製のネズミの木彫りの人形にすぎないものがチューチュー鳴 きながら動きだすのもトーリーが眠りに入ってからである。幻想的な夜と 日常的な昼間の交錯するさまや、同じ一日でも何の気配も感じられない日 と濃密に過去の存在の感じられる日をくっきりと区別する作品は、老女と 少年がともに過ごす屋敷の日々をリアリステイックに描いていくが、そう いうリアリズムのなかで、少年の体験した不思議な世界が所詮心のヴィジ ョンの域を出ないかもしれないことも示していくのである。 物語の登場人物がリアリティを持つことについて、エイダン・チェンバ ーズは、大昔屋敷に住んでいた幻の子どもたちは、オールドノウ夫人の彼 らにまつわる話のなかでは確固たるリアリティを持っているという。それ ― ― 200 関東学院大学文学部 紀要 第102号(2004) は作品に描かれることで読者にとってオールドノウ夫人やトーリーが実在 の人物になるのと同じである(2)。ただしオールドノウ夫人やトーリーたち が濃厚にその気配を感じる幻の子どもたちの現世におけるリアリティは、 本来生と死を隔てた者たちの交流である以上、現実には保障しがたいもの である。それでも古い屋敷の秘めている記憶にうながされるようにして、 トーリーたちは過去に生きた人間が今存在していると感じ続けたのであっ た。そしてその種の感覚こそファンタジーの名で呼ばれるものである。一 面において心の真実であるそのファンタジーは、現実にはファンタジーの 必然として、気配としてとどまらざるをえないものである。作品はその事 実を離れることがない。いいかえると、あくまで現実との関わりの中から、 心の幻想世界に近づこうとしているのである。 おそらく世にいうファンタジー作品は二種類に分かれるのであろう。幻 想的なできごとを神話的事実としてあらかじめ認知し、それらの存在を前 提に物語を展開するものがある。そこでは魔法やこの世ならぬ生き物が物 語のなかで厳然として存在している。先のボストンのエッセイでいえば、 「まずファンタジーを書こうとすることから始めて、次にそのファンタジー 世界をつなぎとめる架け釘を探す」というタイプの作家の作り出すファン タジーがこれにあたる。いま一つは、幻想のファンタジーに関わりながら も、現実的な立場から常にその客観性を疑い、現実とファンタジーのせめ ぎあうさまそのものを現実の側にたって理詰めに描き出そうとするもので ある。ここにある作品はもちろん後者であり、その姿勢を保つことでは本 来シャーマンであるはずの老婦人自身においても変わらないのである。ト ーリーには「彼女が他の子どもがいるふりをする遊びを自分としてくれて いるのか、自分と同じように信じているのか」分からなかったのであった。 オールドノウ夫人自身がある意味で自分の抱く幻想を疑い、その真実性を 確かめようとする人間であったからである。実際トーリーの到着を待って いたかのように、 「あなたが何を見るか、待ってみましょう」という夫人に は、トーリーを実験台に用いるといえるところがある。 (“Oh, yes, things happen in it(the castle) . “What sort of things?” “Wait and see! I’ m waiting too, to see what happens now that you are here. Something will, I’ m sure.”) 話をもとにもどすと、このリアリズムファンタジーは、先のボストンの ― ― 201 「現代児童文学」とリアリズムファンタジー 言葉どおりに、トーリーが屋敷内のさまざまなものに出会い、感覚し、そ れで遊び、はては想像的にそのもののイメージを広げていくさまをきわめ て感覚的に描いている。もちろんそれには暗示にみちた夫人の促しがあっ た。雪の日になって、暖炉に煙突の雪が落ちてくると、 「妖精のマッチを擦 るような音」をたてるのを少年は感じ、吹雪が窓に吹きつける音は、 「手袋 をはめた手で窓を打ち付ける」ように感覚される。やがて眠りについたト ーリーは、明くる朝おばあさんの許可をもらって、まばゆい雪景色のなか に出ていく。そして雪の中をあるいてイチイの木の下にきたとき、ついに 三人の過去の子どもたちにであったのである。ただ、それはあっというま に消えてしまっただけでなく、オールドノウ夫人も「それは鹿のせいよ。」 としかいわなかった。そういわれたトーリーは、 「雪の綿毛ぶとんから鹿の 足の木がつきだしていた」ことにあとできづいたことを思い出す。自分で も「鹿の足の形」をした木が、その幻想を誘ったことが分かったのである。 このようにオールドノウ夫人はトーリーの幻想体験を受け入れながらも 結果的にそれを肯うことがなく、逆に幻想を生む現実的な理由をそれとな くあげていく。作品はどこまでも現実感覚に基づくリアリズムファンタジ ーなのである。一方、それでいて、トーリーの幻想体験は、チェンバーズ がいうように、オールドノウ夫人が身近にいるときにのみ起こっている。 このことをどう考えるべきか。チェンバーズは、実はここに読者が読みと るべき作品の「空白部」(a tell-tale gap)があるという(3)。この場合の「空 白部」とは、物語こそが自分や自分のいる世界に意味をもたらすものであ り、命を付与するものであることを認識することであるという。幻のこど もたちは、夫人が彼らについて語る時に実在そのものとなった。このこと は、まず物語ることが人物に生命をもたらすことを意味している。同様に、 トーリーの不思議体験という物語自体も、夫人と一緒にいるときにのみ可 能であった。語り手である夫人の影響のなかでこそ物語は命を持つことが できたのである。こうして作者が意図して作りだしている「空白」の中に 読み取れるのは、物語こそが世界存在に意味と生命を与えるという物語の 本質に関わることだというのである。 ただここのところは、もう少し意味を広げて、物語を語り聞くという行 為そのものの意味を示しているということも可能であろう。オールドノウ 夫人が少年に「何か起こるか待ってみましょう」ということで始まった作 品世界は、ここで夫人がそれまで自分が密かに生きてきた物語世界の聞き ― ― 202 関東学院大学文学部 紀要 第102号(2004) 手を得たことを意味する。その聞き手は語り手の語る物語に関連のある事 物を見つけだしてきて、物語の成立そのものに貢献する聞き手でもあった。 そしてこの語り手と聞き手が一体となった時にのみ、物語は成立し息づき 始めるということを、このいわゆる「空白部」は示しているのではないか。 読者論のなかでチェンバーズが繰り返し力説するように、物語はひとりだ けでは成立しない。語り手と聞き手、作者と読者の双方を必要とするので あり、語り手もまた聞き手を得たときにはじめて本来の語り手としての機 能を持ち始めるのである。ここはこのように考えておきたい。そしてそう いうことの認識へとおのずと子ども読者を誘い込むものが作品にはあると いうチェンバーズの解釈に同意したい。 なお、このリアリズムファンタジーにあっては、幻想界の出来事がすべ て現実界に根拠を持っている。家族と死に別れた老女の幻想はいまオール ドノウ夫人に受け継がれているが、その幻想にはもちろん歴史的根拠があ り、この家族を描いた絵も残されている。聖クリストファーの石像が動き 出し、呪いをうけたグリーンノアの木が恐怖の姿で現れるという幻想の出 来事も、それぞれおばあさんの語る物語が現実化し発展したものであるが、 もちろんその両者はともにこの屋敷の庭に実在している。作品は洪水にお おわれたグリーンノウの地をトーリーが訪れることから始まった。水のな かに立つ城のような館は箱舟を思わせるものであったが、この屋敷にいろ んな動物の形に木を刈り込んだトピアリーが存在し、なかにはノアをかた どったものもあったのである。ただこの木はジプシーの女の呪いを吹き込 まれたという伝説を持っており、それが嵐の夜に動きだして、雷に焼かれ るということになったのである。そしてそのことをまさに目撃するものと して庭師のボギス老人がいる。このあたりの話はいかにも現実性を帯びる のだが、しかしこれとてもボギスの見たヴィジョンではなかったという保 証はない。リアリズムファンタジーはどこまでも虚と実のあわいにとどま るのである。 さらに、ヒワやツグミを始めとしてさまざまな生き物が作品に登場し、 トーリーやおばあさんと交わるのも、現実の屋敷のありようであった。ノ アの箱船をキーモチーフにする『まぼろしの子どもたち』の終わり方も、 リアリズムファンタジーにふさわしい現実的なものである。クリスマスイ ヴに幻の子どもたちをまざまと目撃した少年はクリスマスに訪ねてきた親 戚の子どもと終日取っ組み合って遊んですごす。孤独な少年には幻の存在 ― ― 203 「現代児童文学」とリアリズムファンタジー との交わりをへて、いま生身でぶつかりあう仲間ができたのである。さら にこれまでからっぽの馬小屋に繰り返し馬のまぼろしを見てきた少年は、 新しく馬を買ってもらえることになる。オールドノウ夫人が父親に頼んで くれたからである。こうして作品は孤独だった少年のたくましい現実への 旅立ちで終わる。ファンタジー期の後に現実期がまっているように、ある いは人間には幻想の時と現実の時の双方が必要だといわんばかりに、現実 的で健康な結末が待っているのである。優れた作品といえよう。 2 .『まぼろしの子どもたち』の文体にみるリアリズムの手法 リアリズムファンタジーは、原則として小説的なナラティヴで語られる。 「ひとりの少年」 (a little boy)を登場させ、それを「彼」 (He)で受けて、こ の人物のありようを語っていく作品の出だしは、昔話の語り口に似ている。 分かりやすい物語の始まり方である。しかし、これも実際の小説の語り口 の一つであることでは変わらない。作品は主人公の少年が目でとらえ肌で 感じた雨の日の情景から始まり、ついでこの情景に刺激された少年の空想 へ向かっている。そのあたりの描写は、車中に乗り合わせた二人の女性の 描写もふくめて、いかにも小説的にリアルである。具体的に見てみよう。 A little boy was sitting in the corner of a railway carriage looking out at the rain, which was splashing against the windows and bloching downward in an ugly, dirty way. He was alone as usual. There were two women opposite him, a fat one and an thin one, and they talked without stopping, smacking their lips in between sentences and seeming to enjyoy what they said as much as if it were something to eat. They were knitting all the time, and whenever the train stopped the click-clack of their needles was loud and clear like two clocks. It was stopping train−more stop than go−and it had been crawling along through flat flooded country for a long time. Everywhere there was water−not sea or rivers or lakes, but just senseless flood water with the rain splashing into it. Sometimes the railway lines were covered by it, and then the train-noise was quite different, softer than a boat. “I wish it was the Flood” , thought the boy, and that I was going to the Ark. That would be fun! Like the circus. Perhaps Noah had a whip and made all the animals go round and round for excercise. What a noise there would be, ― ― 204 関東学院大学文学部 紀要 第102号(2004) with the lions roaring, elephants trumpeting, pigs squealing, donkeys barying, horses whinnying, bulls bellowing, and cocks and hens always thinking they were going to be trodden on but unable to fly up on to the roof where all the other birds were singing, screaming, twittering, squawking and cooing. What must it have sounded like, coming along on the tide? And did Mrs. Noah just knit, knit and take no notice?” The two women opposite him were getting ready for the next station. They packed up their knitting and collected their parcels and then sat staring at the little boy. He had a thin face and very large eyes; he looked patient and rather sad. They seemed to notice him for the first time.(Puffin Books, pp1−2) この作品の冒頭部を引いて、エイダン・チェンバーズは、ここにある文 章が具体的で動きのある描写になっていること、日常的なアングロサクソ ン語を用いた文の語彙のレファレンスも子どもの理解の範囲内を超えない ことをいう。ここにはまた、大人が子どもに向かってお話をする伝統的な ストーリーテリングのスタイルがあることをいい、これがまさに優れた児 童文学の文体になっていることをいう。チェンバーズの指摘そのものは正 しい。客観的な叙述のスタイルをとりながらも、もっぱら主人公の少年の 視点で世界を見ている作品は、よく子どもの読者を誘因する児童文学らし い文体になっている。 その上で、作者のボストンが「大人向けに書くときにも、子ども向けに 書くときにも、区別はしない」としていることにチェンバーズが疑義を呈 することには実は異論がある。確かに、作者が大人向けに書くときと子ど もに向かって書くときには、チェンバーズが指摘しているように、明らか に文体の違いがある。しかし、 「大人向けに書くときにも、子ども向けに書 くときにも、区別はしない」という作者の意識は、この際真実と受け止め るべきものではないか。そして実はそのことこそがこの作品をして「現代 児童文学」の一つの特質であるリアリズムファンタジーにしているのでは ないか。 第二次大戦後の児童文学は、ボストンの『まぼろしの子どもたち』をま さに出発点にして、現実感覚に即した小説的リアリズムに向かった。それ はイギリス児童文学においてまったく新しい方法であり、それ以前のエリ ― ― 205 「現代児童文学」とリアリズムファンタジー ナー・ファージョンやパメラ・トラバース、あるいはヒュー・ロフテイン グ、A . A . ミルンなどとは歴然と異なるものだった。主には第一次大戦と第 二次大戦間の作家である彼らは基本的に物語的な世界を作ることに終始し ていたといってよい。また、ボストンから始まる第二次大戦後の作家の作 品は、二十世紀全体を現代と考えれば、その始まりの時期に大きな存在感 を示したイーデス・ネズビットらの作品とも異なっていた。ネズビットの ファンタジーは、魔法の絨毯や不死鳥のカーペット、あるいは砂の妖精の 魔法の力といった本来の非現実の存在を前提にして、実はそれらに翻弄さ れる子どもたちのリアルな姿を描いたのであった。ネズビットの子どもた ちは生き生きとしたリアルな子どもたちである。語り手に子供自身を設定 したことも作品世界のリアルさを増している。しかし、話は魔力あるもの を前提とする物語的な世界に終始した。考えればそれが「現代児童文学」 の始まるまでのいわゆる児童文学の世界であったのである。ファージョン やトラヴァースなどがなお生きている日本は、まだその種の児童文学観の なかにあるといってもよいのかもしれない。 そこへいくと、ルーシー・ボストンは新しい作家であった。引用部分に しても、子どもの文学らしい特徴もさりながら、なによりも客観的な場面 描写であることを特徴としている。少年の視点を内包しながら雨の日のロ ーカル・トレインを客観的に描いていくものは小説的リアリズムそのもの であり、少年のたたづまいと心の想像を描いたあと車内の二人の女性の視 点に転じて、少年の外見を描き出すという展開も小説的である。ここはな によりもまず、文体の小説的リアリズムを見るべきところなのである。ボ ストンが「大人向けに書くときにも、子ども向けに書くときにも、区別は しない」というとき、彼女が意味していたのはまさにこういう創作の姿勢 であったのではないか。彼女はいわゆる「おとぎ話的」な児童文学を書こ うとはしなかったのであり、なによりもそのことは文体に現れているので ある。 それでは、ボストンをして大人の小説と変わらない小説的なリアリズム の児童文学を書かせたのが何であったのか。第二次大戦後にはまず戦争を テーマにする大量のリアリズムの児童文学が先行したという。戦争の与え た影響は大きかったのである。そのなかで生まれたファンタジーもまた、 小説的なリアリズムを支えとするものになったということかもしれない。 ともかくこの頃にイギリス児童文学において大きなパラダイムの変化が起 ― ― 206 関東学院大学文学部 紀要 第102号(2004) こり、その流れは後戻りできないものとして時代を支配したのである。 実はルーシー・ボストンのリアリズムファンタジーとは別に現代児童文 学の出発期には大きな影響力をもった作家に C . S . ルイスがいる。「ナルニ ア国年代記」は、ボストンとはおのずと異なる作品であった。ルイスの作品 は子どもたちを架空の不思議な世界へ誘うことがネズビットに似ていると される。魔法の絨毯や砂の妖精などの不思議な事物や生き物がいるネズビ ットの世界は、北欧やギリシアの神話などを自在に取り込んで物語世界を 合成していったルイスに似ているのである。ネズビットやルイスは、ボスト ンの言葉にならえば、 「ファンタジー世界を思いつき、次にそれを架ける架 け釘を探す」というタイプの作家であったというべきかもしれない(4)。現 実から出発し、現実界がおのずとファンタジーに変容するさまを見届けな がら、なおそれへの懐疑を失わず、現実認識の視点から離れないリアリズ ムファンタジーとはおのずと異なっていたのである。 それでもこのルイスにもまたリアリズムファンタジーの要素はあり、現 実界から異界へ、さらに現実界へという往還をリアルに描いたこともその 一つである。ファンタジーとして非現実を扱う物語世界は、そのファンタ ジー世界の描かれかた自体は実にリアルであった。そのことではネズビッ トも変わらなかった。加えて、ルイスには論理的かつ倫理的に追求した究 極の人間認識のリアリズムがあったともいえる。その「精神のリアリズム」 とでもいうべきものを反映する物語世界は、一面でネズビットに類似しつ つ、ネズビットにはないものを持っていた。深い倫理観を根底に持つルイ スもまた、「子どものためにだけ書かれた児童文学は悪い児童文学である」 とした作家であった。その意味でもルイスは大人読者の読みにたえる「現 代児童文学」の作家であったのである。 なお、50年代に作品を書き、60年代にアメリカで大ブレークしたトール キンは、これまで述べた作家とは異質な作家である。古英語の物語詩など と類似するトールキンの作品世界は、本来パブリックな場に開かれた語り の文学であり、いわゆる小説的リアリズムによる作品ではなく、また個と しての人間に関わる小説的視点もあまり持っていない。出来事の多くが登 場人物のセリフによって伝えられ、歌をはさみ、詩をはさむ物語は語りの 文学として音声的イメージにも溢れている。また、人物が後に周辺の者に 語るなかで同じ場面が結果的に繰り返され、それが重なって重層的な物語 世界を作り出すということもあり、世界の成り行きが登場人物の運命と一 ― ― 207 「現代児童文学」とリアリズムファンタジー 体になっているこの作品では、人物は個であるよりもより多くタイプとし てとらえられる。その物語世界の豊穣さは、例えばきわめてロゴス的なル イスに対して、トールキンの世界がより深い無意識に発するものであり、 より多く混沌のイメージに満ちていることも関わっている。いくつもの意 味で神話的なトールキンは、認識的な近代小説とは決定的に異なるのであ る。 このトールキンが二十世紀の60年代以降のもう一つのファンタジーの方 向をを決定づけるのである。ただし、ここではトールキンにはこれ以上ふ れない。トールキンもまた、そのファンタジー世界の描出においては、小 説的リアリズムとは異なるとはいえ、それ自体リアルな存在感のある世界 を描き出したことはいわねばならない。 付記すると、ここで上げた作家についていうと、C . S . ルイスは1950年か ら「ナルニア国物語」のシリーズを始めており、ルーシー・ボストンの『ま ぼろしの子どもたち』の出た1954年には、ローズマリー・サトクリフの『第 九軍団の鷲』が出ており、この前後からサトクリフの代表作が出始める。 同じ年には J . R . R . トールキンの『指輪物語』も出始めている。ただしトー ルキンがブレークするのは60年代のアメリカにおいてである。フィリッパ・ ピアスの『トムは真夜中の庭で』は1958年であるが、この頃はウイリアム・ メインやアラン・ガーナーが代表的な作品を書き始める頃である。 注 ( 1 ) 引用は the Children’ s Book Centre での著者の講演としてチェンバーズが紹 介しているもの。このなかで著者は子どもの本と大人向けの本を区別するこ とはないともいっているという。 “The Reader in the Books” , The Signal Approach to Children’ s Books, Ketrel Books, 1980. p. 274 なお引用に続く部分には大人にはこの「見かけの現実の広がりを探る」 (explore reality as it appears)楽しみを思い出してほしいといい、続けて子 どもたちには‘To use and trust their senses for themselves at first hand--their ears, eyes and noses, their fingers and the soles of their feet, their skins and their breathing, their muscular joy and rhythms and heartbeats, their instinctive loves and pity and their awe of the unknown.’と、自分たちの感覚を最大 限に発揮してほしいと力をこめて語っており、そこからこそ想像力が生まれ ると力説している。(This, not the telly, is the primary materials of thought. It ― ― 208 関東学院大学文学部 紀要 第102号(2004) is from direct sense stimulus that imagination is born...’ ,“The Reader in the Book” , p. 274)ボストンに子ども読者に期待するものが多いことを思わせる ところである。子ども読者こそはボストンが晩年にいたって見いだした真の 読者であった。六十歳を過ぎてから文筆を始めたボストンは、最後は児童文 学者として活躍するのである。 なお、関連していうと、フィリッパ・ピアスがボストンの邸宅を訪ねた時 のことを書いており、その時ボストンは幼いピアスの娘に庭にある小屋の中 には最近まで幽霊がいてドアを引っ掻いていたのだが、ドアを開けて外に出 してあげたのでもういないと語ったという。自分の体験にかかわるこの種の 不思議なことは、ボストンにとって子どもにこそ語るべきものとしてあった のであろう。そのエピソードも含めてピアスは、 「ボストン家の庭では自然な こと、超自然なこと、架空のことのなんでもが起こり、それにボストンは少 しも驚かない」と記している( ‘unsurprised at whatever natural, supernatural or fictional, might happen in her garden’ , Diana Boston: Lucy Boston Remembered, Old know Books, 1994. pp120−121) ( 2 ) オールドノウ夫人が寝物語としてトーリーに語る幻の子どもたちに関わる 四つの話は、いわゆる「話中話」として作品のなかにはめこまれており、そ のことがまず作品に変化とリズムをもたらしている。ついで現世で存在する かどうかはともかく、この話のなかでは子どもたちは厳然として実在してい る。語られることによって人物やその世界は存在するようになるからであり、 その意味で物語はまさに人物と世界に命を与えるのである。 同時に、言語学的にいうと、ここでは話は「叙述法」 (indicative mood)に よって語られているということもある。叙述法は事柄を事実として語る様式 である。その意味で「仮定法」 (subjunctive mood)や「命令法」 (imperative mood)とは異なっている。ファンタジーは基本的に「仮定法」に根ざす形式 といえるだろう。「もしそういうことがあり得たら」という想定(pretend) のもとに展開するのがファンタジーである。ただし、そのファンタジー世界 も、いったん始まると叙述法による記述となり、ファンタジー自体のリアリ ティをもたらすものとなる。 物語のなかで人物がリアリティを持つのは、物語が通常過去形で語られる こととも関わる。過去時制という距離を設定することによって、人物や出来 事はそれ自体客体化される。さらに作中の人物の意識にあがる人物も客体化 されて、意味作用を受け取るべきモノ(対象)となる。通例過去に始まり現 在に向かって進行する物語は、そのこと自体にリアリティの拠り所を持って いるのである。 ともあれ物語とは人物や世界を創りだし、生命を与えるものであり、本来 フィクションであるものは、叙述法を取ることによって、さらには過去時制 ― ― 209 「現代児童文学」とリアリズムファンタジー で語られることにもよって、読者の心の中で実在するようになるのである。 なお、ある文学事典はリアリズム(写実主義)を「あるべき世界よりも現に ある世界を描くことに関わり、新しく発明するよりは現実にあるものを描写 する傾向の作品」(works concerned with representing the world as it is rather than as it ought to be, with description rather than invention.)と定義している。 現にある世界を叙述法で描写していく作品ということである。 ボストンの作品では、現にある世界は心の幻想の生み出すファンタジーの 世界と関わり合うことになる。そしてそのこと自体は児童文学ではもっとも 普通のことである。ただその時に、現にある世界に常に軸足をおくのが彼女 の作品や、ここでいうリアリズムファンタジーの特徴である。 ( 3 ) 作品には書かれていることがらから読者がおのずと類推して埋めていく直 接書かれてはいないことがあり、このように読者が作品の読みとりに参加す ることで「読書」は完成するというのがイーザーなどの『読者論』である。 チェンバーズは、例として有名なモーリス・センダックの『かいじゅうたち のいるところ』を取り上げ、作品は一見何ら渋滞することなくなめらかに読 めるものになっているが、実は作中でのマックスの冒険は夢の中のことであ り、怪獣もまたマックスの創りだしたものだということが読者が読みとるべ き事実として「空白」の形で提示されているという。また、大人読者はその ことの意味に到達しやすいが、子どもの場合はなかなか容易ではないだろう ともいう。「作品の空白」についてチェンバーズがあげている例である。 ( 4 ) もちろんルイスなどの視点から見れば、ファンタジーは彼の場合映 像の形でまず心に浮かんだものであり、そのイメージをつなげること で作品は生まれたということになる。後にふれるトールキンの場合も 同じである。トールキンにいわせれば、ファンタジーとは本来心に感 じているものではあるが、言葉では表しにくいものである。 (Faerie cannot be caught in a net of words; for it is one of its qualities to be indescribable, thouhg not imperceptible.)この言葉はトールキンのファン タジー観をよく示している。作品は決してあらかじめ想定されたファ ンタジーをそれにふさわしい媒体と結びつけるというものではなかっ たのである。ボストンのいうもう一つの種類のファンタジーとするも のは、結果的にルイスにもトールキンにもあてはまらないものであっ た。最後にこのことをいっておきたい。 ― ― 210
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