分 日 科 会 本 文 1 学 現代日本の女性作家が描く家族と母性 ――山田詠美・よしもとばなな・江國香織が描く 「近代家族」の終焉と新しい“親密性” 佐 伯 順 子 (同 志 社 大 学 ) 1.は じ め に ( 問 題 設 定 ) 近 年 の 日 本 文 学 研 究 の 特 徴 と し て 、女 性 研 究 者 の 台 頭 に よ る 女 性 の 視 点 か ら の文学の読み直し、ことにジェンダー論、女性学的視点からの問題提起があげ られる。女性研究者たちは、従来の男性研究者とは異なる視点、論点を学会に 提供し、新たな議論を展開しているが、こうした成果は、樋口一葉研究にみら れるように、特に対象が女性作家である場合、顕著に認められるように思われ る ( 1 )。 本稿では、こうした日本文学研究の動向をふまえ、現代日本を代表する女性 作家三人をとりあげ、ジェンダー論、特に家族論、女性論の観点から分析を試 みたい。 「 家 族 」と い う 要 素 に 注 目 し た の は 、本 報 告 が 、タ イ 国 で 初 め て の 日 本 語による日本研究の学会という場で行われたことから、タイと日本の女性の間 で共有できる問題をとりあげたいという意図による。また、作家、作品研究と いう従来の日本文学の方法論にとらわれず、人文科学と社会科学の議論を融合 して、社会学的な視点から文学テキストをとらえなおす、という意図もある。 それは、私自身が現在、社会学部に所属しており、人文・社会科学を統合する 研 究 を め ざ し て い る と い う こ と も あ る が 、ジ ェ ン ダ ー 論 、女 性 学 の 観 点 か ら「 家 族」についての先進的な議論が展開しているのが、社会学の領域であるという 現状も反映している。ジェンダー論、女性論それ自体、様々な学問分野を横断 し、国境をも越える共通の問題意識なのである。 71 「家族」研究については、近年、アジア諸国の家族の比較研究の機運も高ま っており、女性研究者のグループによって、共同研究「アジア諸社会における ジェンダーの比較研究――日本・韓国・中国・タイ・シンガポールを対象に」 と い う フ ィ ー ル ド ・ ワ ー ク も 行 わ れ て い る ( 2 )。 こ う し た 、 ア ジ ア の 家 族 、 あ るいは女性の社会的位置を比較するという問題意識を、文学研究にもとりいれ ることで、社会学、文学を横断する比較文化的なジェンダー研究の端緒をひら くことが、本稿の目標である。その第一歩として本稿ではまず、日本の現代女 性作家の描く家族像、女性像の特徴を明らかにしたい。 分 析 対 象 と し て は 、山 田 詠 美( 1959~ )、吉 本 ば な な( 1964~ )、江 國 香 織( 1964 ~)の三人の女性作家をとりあげる。この三人をとりあげる理由は、読者の支 持、作品の評価という点で、現代日本の女性作家を代表する存在であるといえ る こ と ( 3 )、 ま た 、 彼 女 ら の 描 く 家 族 像 、 女 性 像 が 、 男 性 作 家 の 描 く も の と は 明らかに異なる特徴を有していることによる。現在の家族社会学における「家 族 」の「 理 論 的 基 準 」と し て は 、 「夫婦および親子関係にある者を中心とする比 較 的 少 数 の 近 親 者 が 、感 情 的 に 緊 密 に 融 合 す る 共 産 的 共 同 」で あ り 、 「構成上か らいうならば、家族は夫婦関係にある特定の異性ならびに血縁的にもっとも接 近 し て い る 親 子 を 主 た る 成 員 と す る 少 数 近 親 者 の 集 団 で あ る 」( 戸 田 貞 三 )、 ま た 、「 家 族 と い う の は 、 夫 婦 結 合 を 中 核 と し て そ の 直 接 親 族 を 結 ぶ 小 結 合 」( 喜 田 野 清 一 ) と い う 定 義 が あ げ ら れ て い る ( 比 較 家 族 史 学 会 1996: 130)。 い ず れも、 「 夫 婦 」と 、そ の 間 に 生 ま れ た 子 供 を 中 核 と し て 構 成 さ れ る 集 団 と い う 点 で 一 致 し て お り 、 こ う し た 、 夫 婦 を 核 と し て 形 成 さ れ る 家 族 を 、「 夫 婦 家 族 制 」 conjugal family system と も 呼 ぶ ( 社 団 法 人 日 本 精 神 保 健 福 祉 士 協 会 ほ か 2004: 455)。 こ れ ら の 学 問 的 定 義 は 、“ 母 ・ 父 ・ そ の 子 供 ” と い う 、 一 般 市 民 の「家族」に対する日常的イメージとも合致しているといえよう。しかし、こ う し た 現 代 人 の 一 種 の“ 常 識 ”と し て の「 家 族 」像 は 決 し て 普 遍 的 な も の で は な く、社会学や女性学が明らかにしてきたように、近代化、産業化の過程におい て新たに誕生したものであった。 「 近 代 家 族 」は 近 代 市 民 社 会 と「 同 時 生 成 」さ 72 れたものであり、その特徴としては、 (1)家 内 領 域 と 公 共 領 域 の 分 離 (2)家 族 成 員 相 互 の 強 い 情 緒 的 絆 (3)子 ど も 中 心 主 義 (4)男 は 公 共 領 域 ・ 女 は 家 内 領 域 と い う 性 別 分 業 (5)家 族 の 集 団 性 の 強 化 (6)社 交 の 衰 退 (7)非 親 族 の 排 除 (8)核 家 族 の 8 点 が あ げ ら れ て い る( 落 合 1989:18)。近 代 化 の 過 程 に お い て 世 界 の 様 々 な文化圏に誕生したこの「近代家族」は、父親を中心とした家父長制的な性格 が強く、上記の諸特徴からみられるように、女性は私的領域=家事、育児=母 親役割、男性は公的領域=仕事=父親役割を担うという、女性と男性の役割が 非 対 称 的 な 、性 別 役 割 分 業 が 基 盤 と な っ て い る 。ま た 、 「血縁的に最も接近して いる親子」 ( 前 掲 戸 田 の 定 義 )が 成 員 の 中 核 と な っ て い る た め 、血 縁 の 無 い 人 間 関係は「家族」から疎外されるという状況ももたらすことになる。離婚した家 族に対する偏見や差別、血縁のない親子関係に対する子供や親の感情的な欠落 感もまた、こうした、近代家族における“血縁至上主義”ともいうべき価値観 の産物といえる。だが、現代の女性作家たちは、これら「近代家族」の諸特徴 や 、そ こ に 付 随 す る 価 値 観 を 否 定 、あ る い は 相 対 化 し 、新 た な「 家 族 」像 を 提 示 しようとしているようにみえる。その実例を、三人の女性作家の作品にみてゆ きたい。 2 .山 田 詠 美 『 ジ ェ シ ー の 背 骨 』( 1986 年 ) が 描 く 家 族 と 母 性 山 田 詠 美『 ジ ェ シ ー の 背 骨 』 ( 初 出『 文 藝 』1986 年 夏 季 号 、単 行 本 1986 年 、 河 出 書 房 新 社 、河 出 文 庫 、1987 年 )は 、ア フ リ カ 系 ア メ リ カ 人 の リ ッ ク と 結 婚 した日本人女性のココが、リックの前妻との息子ジェシーとの関係に困難を感 73 じながらも、最後は彼と和解し、平和な共同生活を営もうとする物語である。 リックとジェシーという血縁のある親子関係に、血縁の無い「家族」として新 た に 加 わ っ た コ コ の 心 理 的 、現 実 的 葛 藤 を 主 題 と す る こ の 物 語 は 、離 婚 後 の「 家 族」形成がかかえる問題点を、ココという女性登場人物の視点、ひいては女性 作家である山田詠美の立場から、するどく抉り出した作品といえるだろう。 リックのパートナーとなったココは、リックと同居することになるが、そこ にはリックの前妻との息子である十一歳のジェシーもいる。最初のうち、ココ とジェシーは、突然同居人となったお互いを、なかなか受け入れることができ ない。ジェシーはココに激しく反抗し、ココを悩ませる。 彼女はどうしてもジェシーと仲良くなれなかった。彼の方から甘えて来る事 は 決 し て な か っ た 。… 彼 は 永 久 に 父 親 以 外 を 寄 せ つ け な い よ う に 思 え た 。 ( 35 - 6)( 4 ) 血縁のある父親のみに親しみ、生みの母親ではないココになかなかうちとけ ないジェシーの姿は、父親の離婚後の十一才の少年の反応としては無理もない も の か も し れ な い 。コ コ も そ ん な ジ ェ シ ー に ど の よ う に 接 し て よ い か わ か ら ず 、 ジェシーは作品の冒頭部分で「 、数ヶ月に亙ってココを悩ませることになる十一 歳の悪魔」 ( 5)と 表 現 さ れ て い る 。 「リックと日常生活を分け合うということ、 そ れ は 、す な わ ち 、あ の 子 供 の 生 活 を も 背 負 い 込 む と い う こ と だ っ た の だ 」 ( 48) と、ココは茫然とする。再婚家庭における妻は、血縁のない子供に対して「母 親」役割を同時に引き受けることが期待されるのが、常識的感覚であるが、男 女の愛情に「母性」が常に付随しているものではないという事実を、ココは読 者につきつける。ココは、リックには愛情を感じていたが、その息子であるジ ェシーを同時に無条件に愛することはできなかったのである。ココのとまどい は、女性は自然に母性を備えているべき、という近代の“母性神話”への異議 申し立てといってよい。 「私は母親になるつもりなんて、これっぽっちもないのよ。私はあの子がリ ッ ク の 子 供 だ か ら 、 食 わ せ て や っ て る だ け な の よ ! ! 」( 48) 74 ジ ェ シ ー の た め に し ぶ し ぶ 料 理 を 作 り つ つ も 、コ コ は 、ジ ェ シ ー に 対 す る「 母 親 役 割 」を 激 し く 拒 絶 し よ う と す る 。そ れ は 、 「 家 族 」と い う 集 団 に お い て 、妻 が つ ね に 家 事 、 育 児 を 引 き 受 け 、「 母 性 」 を 発 揮 す る こ と が 当 然 で あ る と す る 、 「近代家族」の前提に対する痛烈な疑問といえよう。好きな男性と結婚したか らといって、即座にその男性の子供に対する「母性」が生じるわけではなく、 育児という役割を受容するのも難しい。 「…皆、言ってるわよ。ココが、何故、あんな子持ちの男とくっついて、ハ ウ ス キ ー パ ー み た い な 真 似 を し 始 め た の か っ て ? … 」( 49) 再婚したココの生活を評するココの知人の言葉は、 “ 母 の 愛 情 ”と い う 名 の も とに美化される家事や育児が、 「 ハ ウ ス キ ー パ ー 」と 同 等 の 行 為 、つ ま り は 無 機 質な労働にすぎないという事実を、冷徹に暴露している。 彼女は自分が一生子供をまないであろう事を予感した。彼女はその事をとて も恐ろしい事のように感じた。愛し合い、子供を作って、もし、その男と憎 み合ったらどうすればよいのだろうか。愛しあったという証拠が残ってしま う で は な い か 。( 75- 6) 子供の存在を“愛の結晶”として肯定するのではなく、むしろ男女の愛情の 変化という観点から出産を慎重に回避しようとするココの姿勢は、出産や「母 性」を女性のアイデンティティとする母性至上主義の女性観に異議を唱えるも のである。一人の女性、いや、人間として愛情に忠実に生きることと、母性は 必ずしも一致しないという認識を、ココは表明している。 で は 、実 際 に 出 産 し た 女 性 は ど う で あ ろ う か 。出 産 を 経 験 す れ ば 必 ず 、 「母性」 は芽生えるものなのだろうか。ココにおける「母性」の拒絶は、ココに出産の 経験がなく、ジェシーとの間に血縁もないから当然である、という見方もでき る か も し れ な い 。で は 、血 縁 の あ る 親 子 関 係 で あ れ ば 、 「 母 性 」は 自 然 に 育 つ も の な の だ ろ う か 。こ の 作 品 で は 、出 産 経 験 や 血 縁 と 、 「 母 性 」を 安 易 に 結 び 付 け る発想にも、疑問が提示されている。 「…こいつの母親に言ったら、ヒステリー起こしてね。二百ドル払わないん 75 なら面倒は見られないなんて、いいやがる。そんな金ぐらい大したことない けどね。報酬がなきゃ自分のガキも育てられない女に、預ける気はないね。 … 」( 35) ジェシーの産みの母親は、リックと離婚するにあたり、ジェシーの養育と引 き 換 え の「 報 酬 」を 要 求 す る 。血 縁 の 母 親 で あ っ て も 、 「 母 性 愛 」の み を 拠 り 所 と し て 育 児 を 引 き 受 け る と は 限 ら な い 。ジ ェ シ ー の 生 母 自 身 も 、子 供 の 養 育 を 、 「 報 酬 」を 必 要 と す る 賃 金 労 働 の ひ と つ と し て ド ラ イ に と ら え て い る の で あ る 。 こ の ジ ェ シ ー の 生 母 の 態 度 は 、 家 事 、 育 児 を 「 ア ン ペ イ ド ワ ー ク 」( 5 ) と し て 位置づける社会体制自体への抵抗と見ることもできよう。 出産と同時に母性も「自然に」芽生えるはず、という近代的母親像は、ジェ シーの母親の態度によって見事に覆されている。そんな母親に対して、血縁の 子供であるジェシーも、親密な愛情を抱くことが困難になってゆく。再婚家庭 を訪ね、 「 大 袈 裟 に ジ ェ シ ー を 抱 き し め 、私 の ベ イ ビ ー 、と 大 声 を 出 し た 」(120) 実母に対し、ジェシーはぎこちない態度しかとることができない。 ジェシーはといえば、不思議そうな顔をしながらも、おそるおそる母親の肩 に手を回していた。その親子の様子は他人のココから見ても、明らかに不自 然 だ っ た 。( 121) 血 縁 の 親 子 で あ っ て も 、必 ず し も「 自 然 」な 愛 情 が 芽 生 え る わ け で は な い と 、 実母に対するジェシーのとまどいは伝えている。ジェシーの成績が下がったこ と を 激 し く せ め 、自 分 が ジ ェ シ ー を ひ き と る と 申 し 出 る 実 母 に 対 し 、 「 今 は 、こ こ に い る 」( 130) と 、 と り あ え ず コ コ と と も に 暮 ら す こ と を 選 ぶ ジ ェ シ ー は 、 血縁のみが同居家族を結びつける絆にはなり得ないことに気づいているのであ る。すでに別の男性と再婚している実母自身、本気でジェシーを引き取る気は 無 く 、「 か わ い そ う な 子 ! 」 と 「 取 り 乱 し た 振 り 」( 131) を す る 。 産 み の 母 で ありながらも、気まぐれにジェシーの様子を見に来るのみで、本気でジェシー を育てる意思がなく、また、ジェシーの心を理解してもいない母親を目の当た りにし、ココは、血縁の母親であるからといって「母性」が無条件に備わって 76 いるわけではない、と確信する。 この女は何も知らないのだ。…どんなに自分の子供が賢いのか。そして、そ の賢さは何によって生み出されたものであるのか。この女は何も知らない。 子供を生むなんて、少しも大した事じゃない。大切なのは育てる事だ。子供 の心を読み取る事なのだ。この女は何も知らない。彼女は動物なら育てられ る だ ろ う 。け れ ど 、人 間 の 子 供 は 育 て ら れ な い 。こ の 女 は 母 親 に は な れ な い 。 ( 131- 132) 実母に対するココの批判的まなざしは、出産=母性という安易な発想を打ち 砕いている。母性中心の家族像には、出産すれば必ず母性は発揮されるという 前提があるが、出産と母性は必ずしもイコールではない。バダンデールは『母 性 と い う 神 話 』に お い て 、女 性 の 属 性 と み な さ れ る「 母 性 愛 」は 生 得 的 な も の 、 生 来( inne)の も の で は な く 、文 化 的 、社 会 的 に「 付 加 さ れ た も の 」 ( l ’amour en plus ) で あ る と 論 じ た が ( Badinter 1980)、 バ ダ ン デ ー ル が 提 起 し た 議 論 を 、 山 田 詠 美 は 文 学 テ キ ス ト と い う 形 で 提 示 し て い る と い え る ( 6 )。 リックはジェシーを完全に受け入れている。そして、ジェシーは母親に未だ に思いを寄せている。血のつながりとはそんなに断ち切れない強いものなの だ ろ う か 。( 76) ココが勝利を自覚するのはリックに抱かれている時だけだった。性的な関係 をリックと持つ事の出来ないジェシーに対して自尊心を感じると同時に、彼 女 は 血 の 関 係 を 持 っ て い る 彼 に 苦 し い く ら い に 嫉 妬 し た 。( 117) と、血縁家族の絆の強さにコンプレックスを抱いていたココではあったが、実 母以上に自分がココを理解しているという事実を確認した後、 「 母 親 」と し て で はなく、大切な共同生活者の一人として、ジェシーに接する自信を得てゆく。 そんなココの心境の変化に応じるように、ジェシーもまた、違和感を抱いてい た コ コ に 、 少 し ず つ 心 を 開 い て ゆ く 。「 僕 は コ コ な ん て 嫌 い な ん だ ! 」「 僕 は マ ム が 好 き な ん だ 。マ ム が 好 き な ん だ よ お ! ! 」( 153)と 激 し く 嗚 咽 す る ジ ェ シ ー を 見 て 、い っ た ん は 自 分 が 身 を ひ き 、家 を 出 よ う と し た コ コ で あ っ た が 、 「ジ 77 ェシー。私、ここを出て行く。…言っておくけど、私、本当にあんたの事好き に な ろ う と し て た の よ 」( 156) と コ コ が 素 直 に な っ た そ の 直 後 、「 僕 は コ コ が 好 き な ん だ よ お 。 彼 女 が 僕 を 好 き な ら 僕 だ っ て コ コ が 好 き な ん だ よ お 」( 158) とジェシーもまた、前言を翻してココへの情愛を表現する。 このジェシーの叫びが激しい嘔吐と嗚咽とともに発せられた事実は、子供に とって血縁の母親への執着がいかに強いものであるかを同時に表現している。 血縁という「近代家族」の絆を相対化することは、その社会のなかに生きてい る当事者、特に子供の側にとって、相当な心理的苦痛を伴うことも否定できな い。とはいえ、この叫びは同時に、血縁家族を乗り超えて新たな絆を獲得しよ うとする可能性への飛躍でもあった。 「私、あんたの母親にはなりたくない」 「 解 っ て る よ 。僕 の マ ム は ち ゃ ん と い る も の 。君 は ダ デ ィ の 恋 人 だ ろ 」 ( 172) ジェシーは最終的に、 “ 新 し い マ ム ”で は な く 、生 活 を 共 に す る 大 人 の 一 人 と して、ココを受け入れようと心を整理する。 ココは複雑な気持だった。彼女が自分の母親にはなり得ないのを悟ったジェ シ ー は 、彼 女 を 自 分 と 父 親 の 側 に い る 淑 女 と し て 扱 お う と し て い る の で あ る 。 …ココは涙ぐみそうだった。…彼女が望んだのは、ボランティアのようにジ ェシーの面倒を見て、それに感謝されることでも、母親のように彼から慕わ れることでもなかった。ただ、一人の女として扱われる事だけだったのだ。 ( 172- 74) 作品は、 「 母 親 役 割 」と い う 枠 組 み に と ら わ れ ず と も 、生 活 を 共 有 す る 人 間 同 志として、ココとジェシーとの間に新たな絆が結ばれることを予見して閉じら れる。ココはジェシーにとって、通常は“義母”という立場になるが、そもそ も“義理の母親”あるいは“義理”という日本語の表現そのものが、無理やり 女性を母親という役割にあてはめようとする強制や不自然さをはらむものであ り、むしろ「母親」あるいは「親子」という図式から解き放たれたほうが、再 婚家族は新しい絆を形成できるのではないかというメッセージを、作品は発し 78 ているように見える。作品末尾の明るい兆しは、血縁親子を中核とした「近代 家 族 」を 超 え た 、新 し い 家 族 の 絆 の 可 能 性 を 提 示 し て い る 。 「 母 性 」を 条 件 と し ない共同生活者としての人間どうしの絆――それこそが、山田詠美が提示した 新 し い 「 家 族 」 の 可 能 性 で あ る ( 7 )。 3 .吉 本 ば な な ( 現 よ し も と ば な な )『 キ ッ チ ン 』( 1987 年 ) が 描 く 新たなコミュニティ 同 じ く 1980 年 代 に 、吉 本 ば な な が 描 い た ベ ス ト・セ ラ ー『 キ ッ チ ン 』に も 、 風変わりな「家族」像が描かれている。主人公の桜井みかげは「両親がそろっ て若死に」 ( 8 )し 、中 学 校 へ あ が る こ ろ に 祖 父 が 亡 く な り 、さ ら に 大 学 生 に な ってから祖母も亡くなった。すると突然、祖母のいきつけの花屋でアルバイト をしていたという田辺雄一が祖母の葬式の手伝いに来て、みかげに、田辺家に 下宿するよう提案する。突然の話に驚きつつも、みかげは雄一の家に身を寄せ ることに決め、やがて二人の間には親密な感情が生まれていく。 家族という、確かにあったものが年月のなかでひとりひとり減っていって、 自 分 が ひ と り こ こ に い る の だ と 、ふ と 思 い 出 す と 目 の 前 に あ る も の が す べ て 、 う そ に 見 え て く る 。( 8 ) 作品の始まり近くに描かれる、血縁の家族を次々と喪ったみかげのとまどい は 、人 間 の 世 界 認 識 が「 家 族 」と い う 環 境 を 自 明 の も の と し て 成 り 立 っ て お り 、 それでいて、その「家族」の自明性がいかにもろいものであるかを同時に表現 している。また、みかげは、 世の中に、この私に近い血の者はいないし、どこに行ってなにをするのも可 能 だ な ん て と て も 豪 快 だ っ た 。( 16) と、血縁家族の喪失に、孤独感とともに一種の開放感を味わってもいる。家 族 と い う 社 会 の 構 成 単 位 に 守 ら れ る 立 場 を 失 い 、「 天 涯 孤 独 」( 15) で あ る こ と を 自 覚 し た み か げ は 、「 面 白 さ と 淋 し さ 」( 16) を 同 時 に 実 感 す る 。 物 語 の 出 発 点において女性主人公が徹底的に血縁家族を奪われるという設定は、血縁家族 79 を日常生活の基盤とみなす社会に、一石を投じるものといえるだろう。 血縁家族を喪失したみかげに、それに変わる人間関係を与えた人々こそ、田 辺雄一とその親であった。祖母の死まで、交際はもちろん、面識さえなかった 雄 一 の 家 で 、み か げ は 予 想 外 の 安 心 感 を 味 わ う 。 「うちには無駄なスペースが結 構 あ る か ら 。 … だ か ら 、 使 っ て も ら お う と 」 (16)と 、 住 居 の 提 供 を 申 し 出 た 雄 一に従い、田辺家ですごすことを決めたみかげは、 孤独がなかった。私は待っていたのかもしれない。今までのことも、これ からのこともしばらくだけの間、忘れられる寝床だけを待ち望んでいたのか もしれない。となりに人がいては淋しさが増すからいけない。でも、台所が あり、植物がいて、同じ屋根の下には人がいて、静かで……ベストだった。 ここは、ベストだ。 安 心 し て 私 は 眠 っ た 。( 24- 25) と、初めて眠る田辺家を、自分にとっての「ベスト」の場所と感じる。ここ で重要なのは、 「 と な り に 人 が い て は 淋 し さ が 増 す か ら い け な い 」と 、密 着 し た 人間関係が必ずしも理想とされていない点である。孤独は無いが、だからとい って、密着した他者がいるわけではない。田辺家の人々は同居人ではあるが、 恋人でも血縁家族でもないゆえに、精神的距離がある。従来の親子、夫婦とは 違うこうした適度な距離感こそが、みかげに安心感を与えていることが注目さ れる。親子、夫婦、血縁といった密接な愛情関係に支えられていない他人との 同居が、かえって心地よい――それは、従来の「家族」の基盤とは異質であり つつ、それに替わる安息の地となる人間集団の可能性を示している。 雄一の「家族」自体、常識的な家族像とはかなり異質な特徴をみせている。 雄一の「母親」の「えり子さん」は、もとは男性であり、妻(=雄一の母親) の死後、仕事を辞めて「女になることに決めた」のである。 母が死んじゃった後、えり子さんは仕事を辞めて、まだ小さなぼくを抱えて なにをしようか考えて、女になることに決めたんだって。もう、誰も好きに なりそうにないからってさ。…半端なことが嫌いだから、顔からなにからも 80 うみんな手術しちゃってさ、残りの金でその筋の店をひとつ持ってさ、ぼく を育ててくれたんだ。女手ひとつでって言うの? こ れ も 。」( 21- 22) 性 別 適 合 手 術 ( 8 ) に よ っ て 女 性 に な っ た 父 親 は 、「 そ の 筋 の 店 」( バ ー か キ ャ バ レ ー な ど お そ ら く 水 商 売 の 店 ) を 持 ち 、「 女 手 ひ と つ 」 で 雄 一 を 育 て て き た 。 母親と見える人が実はもと父親であった――この奇抜な設定は、父親、母親、 その血縁の子供、という“常識的”な家族の構成単位を見事に裏切っている。 性別越境者である「母親」を登場させることで、吉本ばななは、従来“常識” とみなされてきた固定的な「家族」像を打破し、様々な「家族」のあり方を示 したかったのであろう。生物学的には男性であったが、母親となって育児をす る「えり子さん」――その姿は、生物学的な性別や、社会的な性別(ジェンダ ー)にとらわれない家族像の可能性を示している。 みかげと雄一が、同居するまで恋人どうしではなかったという点も重要であ る。若い男女が同棲を始める場合、通常は恋愛関係が前提とされるはずだが、 全く交際していなかった男女が、相手の親も含めていきなり同居し始めるとい う展開は、かなり唐突なものである。しかし、恋人でも親戚でもない、いわゆ る“あかの他人”どうしが、すんなりうちとけあい、血縁の家族や親戚以上に 親 密 な 感 覚 で 同 居 で き る ― ― こ の 設 定 は 、人 間 が 調 和 的 な 共 同 生 活 を す る に は 、 エロス的な愛情や血縁は、必要条件ではない、というメッセージとしてよみと れ る 。現 代 の 家 族 社 会 学 で は 、 「家族に属しているといないとにかかわらず個人 をエゴとする社会的ネットワークを描き出し、その交差圏として家族が見出せ る と き は そ れ を 家 族 と 呼 ぶ と い う 方 向 に 方 法 的 徹 底 を 推 し 進 め る べ き 」( 落 合 2000:125)と 指 摘 さ れ て お り 、 「 家 族 」を 社 会 関 係 の 基 本 的 構 成 単 位 と す る よ りも、むしろより広い社会的ネットワークのひとつとしてとらえようとする動 き が あ る 。 従 来 の 「 家 族 」 で は な く 、 む し ろ 「家 族 」に と ら わ れ な い 新 た な コ ミ ュニティ像を模索してゆくという、現代の社会学で提示されている方向性が、 文学作品においては、血縁にも恋愛にもよらない『キッチン』の集団生活とい う形で提示されているといえるだろう。 81 『 ジ ェ シ ー の 背 骨 』で 示 さ れ て い た「 家 族 」像 で は 、母 子 関 係 を 軸 と す る 血 縁 の家族は相対化されており、また、家事、育児といった女性の“母親役割”に も疑問が提示されていた。ただし、夫婦間のエロス的な愛情は、ココとジェシ ーという、同居する男女を結ぶ極めて重要な要素として描かれていた。だが、 より世代が若い吉本ばななの『キッチン』では、人間同士が調和的な集団生活 を営むためには、エロス的な愛情さえも必要条件ではないという、従来の家族 像をより超越した形での「家族」像が提示されている。 みかげと雄一は、最終的に ね え 雄 一 、 私 、 雄 一 を 失 い た く な い 。( 139) と愛情を確認することになるが、異性間のエロス的愛は、二人の同居の前提 条件にはなっていなかったのである。同居する男女の絆において、ヘテロの愛 情、なかんずく性愛を重視した山田詠美に対し、吉本ばななは、性愛が存在し ないまま実質的な家族生活を始める若い男女を通じて、従来のカップル像を相 対化し、多様な家族像、より正確には、多様なコミュニティ、社会的ネットワ ークの創造の可能性を模索しているといえるだろう。 4 .江 國 香 織 『 き ら き ら ひ か る 』( 1992 年 ) が 描 く “ 親 密 性 ” と 同 性 愛 た だ し 、『 キ ッ チ ン 』 に お け る 男 女 関 係 は 、 出 発 点 で は 従 来 の 「 家 族 」 像 の ” 常識“を打破しているものの、料理をするのは常に女性であるみかげであり、 保 守 的 な 男 女 の 性 別 役 割 分 業 を 強 化 し 、再 確 認 し て い る 面 が あ る( 佐 伯 2007)。 ま た 、 「え り 子 さ ん 」が わ ざ わ ざ 性 別 適 合 手 術 を 受 け て い る こ と も 、 育 児 の た め に”母親化“する必要があるという、ジェンダー・ステレオタイプを踏襲して い る 面 が あ る ( 9 )。 こ れ ら の 限 界 を 、 よ り 根 本 的 な 形 で 超 越 し よ う と す る 試 み が 、吉 本 ば な な と ち ょ う ど 同 い 年 で あ る 江 國 香 織 の『 き ら き ら ひ か る 』で あ る 。 主 人 公 の 夫 婦 は 、ア ル コ ー ル 依 存 症 の 笑 子( し ょ う こ )と 医 師 の 睦 月( む つ き )。 この夫婦の特徴は、いわゆる男女の性別役割分業が完全に相対化されている点 である。 82 「 お は よ う 。 目 玉 焼 き 、 食 べ る ? 」( 11) 睦月は朝、笑子よりも早く起きて笑子のために朝食を用意し、食器洗いもし て く れ る 。 ま た 、「 日 曜 日 に 掃 除 を す る の は 睦 月 の 趣 味 」 で 、「 笑 子 は 昼 寝 で も し て お い て 」( 18) と 、 妻 に 決 し て 家 事 を 強 要 す る こ と は な い 。 掃 除 も 皿 洗 い も料理も、妻以上に率先してこなしてくれる夫の睦月は、翻訳家としての仕事 を も つ 笑 子 に と っ て は 実 に 暮 ら し や す い パ ー ト ナ ー と い え る 。睦 月 が 笑 子 に「 要 求 し た 唯 一 の 家 事 」( 10) は 、 シ ー ツ に ア イ ロ ン を か け る こ と 。 妻の仕事たの夫の仕事だの、そんなのナンセンスだから気にするのはやめよ う 、 と か 、 掃 除 だ っ て 料 理 だ っ て 上 手 な ほ う が や れ ば い い の だ 、 と か 。( 18) と、家事、育児は妻の当然の仕事とする保守的な性別役割分業に全くこだわ らない睦月は、ジェンダー・フリーな夫婦像を実践している主人公である。こ の作品が若い女性読者に好評であることは、日本の若い女性、特に働く女性た ちが、睦月のような夫を理想としていることを示唆している。 現実の日本社会における男女の役割分業の状況をみてみると、総理府広報室 『 男 女 共 同 参 画 社 会 に 関 す る 世 論 調 査 』 (1997 年 )『 婦 人 に 関 す る 意 識 調 査 』 (1972 年 )、 厚 生 省 『 厚 生 白 書 』 1998 年 に よ れ ば 、「 夫 は 外 で 働 き 、 妻 は 家 庭 を 守 る べ き で あ る 」と い う 意 識 に つ い て の 賛 否 は 、 『 き ら き ら ひ か る 』が 出 さ れ た 1992 年 の 段 階 で 、 賛 成 が 、 女 性 55.6% ( 賛 成 19.8% 、 ど ち ら か と い え ば 賛 成 35.8% を 合 算 )、 男 性 で 65.7% ( 賛 成 26.9% 、 ど ち ら か と い え ば 賛 成 38.8% を 合 算 )( 犬 伏 ほ か 2000: 42) と な っ て お り 、 ま だ 、 過 半 数 の 男 女 、 特 に 男 性 が 性別役割分業を支持している。だが、この調査は世代別になっていないので、 年配の世代が性別役割分業をより支持している可能性がある。実際、総務庁青 少 年 対 策 本 部 編『 世 界 の 青 年 と の 比 較 か ら み た 日 本 の 青 年 ― ― 第 6 回 青 年 意 識 調査報告書』 ( 1999 年 )に よ る と 、 「 男 は 外 で 働 き 女 は 家 庭 を 守 る べ き だ 」に 反 対 す る 若 者 は 、5 年 ご と の 調 査 の た び に 着 実 に 増 え 、こ こ 20 年 間 で 約 2 倍 に な っ た と 指 摘 さ れ て い る ( 井 上 ・ 江 原 2005: 140)。 男 女 の 役 割 観 に つ い て は 国 際比較もなされており、タイ、フィリピンでは賛成が6割前後と多く、イギリ 83 ス、フランス、スウェーデンといった欧州では反対が 9 割前後に達している。 一 方 、 日 本 で は 、 分 業 賛 成 は 男 子 に 多 い も の の 、 統 計 上 、 反 対 派 は 1999 年 の 時点で 6 割に達している。 ( 井 上 ・ 江 原 2005: 141、図 1 )( 1 0 ) こ れ ら 社 会 調 査 の結果をふまえれば、日本社会においては、依然として保守的な分業意識は見 ら れ る も の の 、若 い 世 代 は 分 業 を 否 定 す る 意 識 が 強 く 、 『 き ら き ら ひ か る 』は こ うした世相を背景として、若い女性の理想的な夫婦像を描いたとみることがで きる。 実は、睦月は同性愛者であったが、笑子はそれを承知で睦月と見合い結婚す る。当然、結婚後の二人の間に性的な関係はない。ところが、笑子がそれでも 睦月との生活に満足しており、彼との結婚生活を続けたいと願うのは、睦月の ジ ェ ン ダ ー ・フ リ ー な ラ イ フ ス タ イ ル に 理 由 が あ る と 思 わ れ る 。 性 愛 が 夫 婦 関 係 の 核 に な っ て い な い 点 も 、重 要 な 特 徴 で あ る 。 『 キ ッ チ ン 』で も、男女の性愛は同居の前提となっていなかったが、この作品ではさらに、結 婚後の性愛さえもが否定されている。だが、性愛はなくとも、笑子と睦月との 間には、人間としての愛情が確かに存在している。睦月は「僕の妻はたしかに 少 し 変 わ っ て い る 」( 30) と 認 め な が ら も 、「 ふ り む い て 、 お 帰 り な さ い 、 と 言 う と き の 笑 子 の 顔 が 、 僕 は 心 の 底 か ら 好 き だ 。」( 同 前 ) と 、 笑 子 の 笑 顔 に 癒 し をみいだしており、精神的に不安になったときに睦月に抱きかかえられた笑子 は 「 私 は も う 、 睦 月 な し で は 暮 せ な い 」( 180) と 、 夫 と の 強 い 絆 を 意 識 す る 。 「僕はすべての思考がとまり、腕の中でこんなにも無防備な、笑子のやわらか い 身 体 を じ っ と 抱 い て い た 」( 196) と 、 性 愛 で は な い と し て も 、 あ た た か な ス キンシップと信頼感が、二人の間には存在しているのである。 性愛が核となっている家族の場合、その性愛が惰性化し、夫婦関係の亀裂を もたらす可能性は否定できない。だが、最初から性愛が排除されている『きら きらひかる』では、性愛の惰性化は自ずと回避され、性愛を前提としない男女 の親密な関係が提示される。このほうがむしろ、永続的で安定的な関係性が築 けるのではないか、と作品は問いかけているようだ。 84 作者はさらに、男女一対の夫婦という枠組みさえも打破してゆく。笑子は、 睦 月 の 恋 人( 男 性 )で あ る 紺 に 接 近 し 、三 人 で 仲 良 く 暮 ら し て ゆ き た い と 望 む 。 同性愛者の夫と、夫の恋人と三人で暮らそうとする女性―― かなり“常識は ずれ”な設定ではあるが、この作品が前述のように、女性読者に人気を博して いるのは、従来にない夫婦像や家族像が、日本の現代女性にある種の解放感を もたらしているからであろう。 「無事に帰った紺くんと、私たち三人の一周年に」 笑子が言い、 「やっと独立した夫婦二人に」 と紺は言った。…不安定で、いきあたりばったりで、いつすとんと破綻する かわからない生活。お互いの愛情だけで成り立っている生活。…あしたもあ さ っ て も そ の 次 も 、 僕 た ち は こ う や っ て 暮 し て い く の だ 。( 200- 201) 作品の終幕で、笑子と睦月の三人は、互いの愛情を確認しあい、シャンパン で乾杯する。異性愛を前提とする夫婦愛を相対化し、同性愛をも包み込みなが ら 、家 族 的 な 絆 を 確 認 す る 三 人 の 男 女 。そ こ に は 明 ら か に 、従 来 の「 家 族 」像 を 相 対 化 す る 新 た な 人 間 の 絆 の 可 能 性 が 示 さ れ て い る 。性 愛 の な い 男 女 の 間 に も 、 同 性 愛 者 と 女 性 と の 間 に も 、家 族 同 様 、い や 、 “ 常 識 的 ”な「 家 族 」以 上 の 親 密 な関係が成立する――この斬新な発想が、若い日本女性の多くを共感させたこ の作品の人気の秘密にほかならない。 江 國 香 織 が 表 現 し た こ う し た“ 特 異 な ” 「 家 族 」像 は 、家 父 長 制 の 直 系 制 家 族 で あ っ た 従 来 の「 家 族 」で は な く 、当 事 者 ど う し の「 任 意 的 な 選 好 に よ っ て 形 成 さ れ る 多 様 な 家 族 形 態 」( 野 々 山 2007: 14) の ひ と つ を 示 し て お り 、 家 族 社 会 学 で 提 示 さ れ た「 合 意 家 族 制 」conjugal family system( 野 々 山 2007)に 近 い 。 「 家 族 新 時 代 」の「 合 意 制 家 族 」に お け る 夫 婦 関 係 の 特 徴 と し て 、 「夫婦一心同 体 的 な 情 緒 関 係 の パ タ ー ン で は な く 、「 夫 婦 独 立 的 な 情 緒 関 係 の パ タ ー ン 」」 が あり、 「 そ れ は 夫 婦 が そ れ ぞ れ に 独 立 し た 個 人 と し て 互 い に 認 識 さ れ て い て 、そ れぞれが夫婦関係以外にも異性の友人をはじめ、独立した世界を有しているこ 85 と を 認 め 合 い 、か つ 保 障 し あ っ て い る 関 係 パ タ ー ン で あ る 」 ( 2007:228)と さ れているが、 『 き ら き ら ひ か る 』の 笑 子 と 睦 月 の 関 係 は 、そ れ ぞ れ が 独 自 の ラ イ フ ・ス タ イ ル を 維 持 し 、 パ ー ト ナ ー の 友 人 関 係 も 尊 重 し て い る 点 で 、「 合 意 制 家 族」における夫婦関係の特徴をみせている。従来の日本における保守的な夫婦 観では、 “亭主関白” “夫唱婦随” “ 内 助 の 功 ”と い う 表 現 が 示 す よ う に 、夫 の 社 会活動を妻が支え、 「 夫 婦 一 心 同 体 」と な っ て 家 庭 経 営 を し て ゆ く と い う 特 徴 が みられた。だが、笑子と睦月の間にはそうした密着した「一心同体」意識は希 薄 で あ り 、「 夫 婦 独 立 的 」 で あ り な が ら も 情 緒 を 共 有 す る 関 係 が 認 め ら れ る 。 夫である睦月の同性の恋人を、妻である笑子が許容している点は、一見、夫 の愛人を許容する忍従的な妻、という古風な妻像の復活にも見えてしまう。だ が、睦月が同性愛者であるという点が、異性愛至上主義の家族像とは異なる革 新 性 を み せ て い る 。ア メ リ カ の 人 類 学 者 ウ ェ ス ト ン は 、ゲ イ 、レ ズ ビ ア ン の 人 々 に よ る 多 様 な 「 家 族 的 つ な が り 」 を さ す family of choice「 選 び と る 家 族 」 と いう概念を提示しており、こうした人間関係は、男女二元論のジェンダー秩序 に基づく「ジェンダー家族に拠らない新たな生の基盤」の「可能性」をみせて い る と 、社 会 学 で は 論 じ ら れ て い る( 牟 田 2006:219)。 「 家 族 と は 無 縁 」の 人 々 と い う ス テ レ オ タ イ プ な ゲ イ 、 レ ズ ビ ア ン 像 で は な く 、「 現 在 共 住 し て い る か 、 性 的 な つ な が り を も っ て い る か ど う か に か か わ ら ず 、「 家 族 」 family の ゆ る や かな境界のなかで、子どもの世話や日常的な買い物…引越しの手伝い、休暇や 休 日・祭 日 を 一 緒 に 過 ご す 、と い っ た 日 常 的 な 交 渉 が 実 践 」さ れ る「 ゲ イ ・フ ァ ミリーの豊かな親密さのつながり」 ( 牟 田 2006:232- 3)と は 、江 國 香 織 が『 き らきらひかる』で提示している、笑子、睦月、紺の関係に、実態としてかなり 近 い と い え よ う 。 睦 月 の 出 勤 後 の 家 に 笑 子 を 訪 れ 、「 お は よ う 」「 気 持 ち の い い 日 だ ね え 」( 138) と 、 朝 か ら う ち と け て ジ ュ ー ス を の み 、 一 緒 に 睦 月 の 職 場 に 遊びに行く笑子と紺の関係は、同性の友人どうしのようでもあり、家族のよう で も あ る 。笑 子 と く つ ろ い で い る と き の 紺 は 、 「 休 日 の 朝 、妻 の い る 風 景 」 ( 139) と、自分と笑子を夫婦になぞらえて、満足そうに笑ったりする。睦月をはさん 86 だ笑子と紺の関係は、愛情のライバルとして敵対しても不思議はないが、笑子 はむしろ紺に親近感を覚え、 「睦月がもし紺くんと別れたら…そしたら私も睦月 と 別 れ る わ 」( 163- 184)と 言 い 放 つ 。そ し て 、紺 が 一 時 姿 を 消 し た と き 、「 紺 くんが帰ってきたら、みんなでピクニックに行ったり旅行に行ったりしましょ う ね 」( 197) と 、 三 人 で 余 暇 を す ご す こ と を 楽 し み に 待 ち 望 む 。 こ う し た 、異 性 愛 や 性 愛 を こ え た 人 間 ど う し の 親 し み の 情 は 、も は や「 家 族 」 という用語では表現しきれないものであり、ギデンズのいう「純粋な関係性」 pure relationship、 あ る い は 「 親 密 性 」 intimacy と い う 用 語 で 表 現 す る ほ う がより適切であろう。ギデンズは『親密性の変容』において、女性と男性が一 対一で結びつく夫婦関係の基盤となっているロマンティック・ラブの理念が、 女 性 を「 家 庭 」に 閉 じ 込 め 、男 性 に よ る 女 性 の 性 的 な 従 属 を 許 し て き た と 論 じ 、 い ま や 女 性 た ち は 、「 性 的 に も 感 情 的 に も 対 等 な 関 係 が 実 現 で き る 可 能 性 」、 つ ま り は 、 pure relationship( Giddens 1992:2) を 求 め て い る と 論 じ て い る 。 こ の「純粋な関係性」への志向は「婚姻と一夫一婦婚を伝統的な異性愛というか た ち で く く る こ と に 異 議 を 唱 え て い る 」( Giddens 218)点 で 、同 性 愛 者 の 解 放 と も 結 び つ い て い て お り 、ま さ に 、 『 き ら き ら ひ か る 』が 提 示 し て い る 新 た な 人 間関係と一致する結果となっている。ヘテロな夫婦の愛情を至上とする従来の セ ク シ ュ ア リ テ ィ に 基 づ く 家 族 で は な く 、plastic sexuality(Giddens1992: 2)、 柔 軟 な セ ク シ ュ ア リ テ ィ 、訳 書 で は「 自 由 に 塑 型 で き る セ ク シ ュ ア リ テ ィ 」)と いう概念で、女性の抑圧感と同性愛者への偏見をともに払拭しようとするギデ ンズの議論は、同性愛と異性愛の境界を越えた新しい人間関係を表現する『き らきらひかる』に、その具体例の一つを見ることができる。ギデンズの著書と 江國香織の作品は同時期に出版されており、相互に直接的な影響関係があった とは考えにくいが、にもかかわらず、両者が示す人間関係が実質的に一致して いるのは、 「 近 代 家 族 」と ロ マ ン テ ィ ッ ク・ラ ブ の 相 対 化 の 動 き が 、英 語 圏 に お い て も 日 本 に お い て も 、ほ ぼ 同 時 に 生 じ た こ と の 証 し で は な か ろ う か 。 「柔軟な セクシュアリティ」と「純粋な関係性」からなる世界では、一夫一婦婚は、自 87 己投入と信頼という脈絡のなかで「書き改めていく」必要がある、とギデンズ は述べているが、江國香織の試みは、文学における一夫一婦婚の“書き直し” にほかならない。 「純粋な関係性」に基づく集団においては、親子関係が中核になる必然性が な い た め に 、『 き ら き ら ひ か る 』 の 笑 子 も 、 自 分 の ア イ デ ン テ ィ テ ィ や 、 睦 月 、 紺との絆の源を、出産や母性には求めていない。子供は夫婦の“愛の結晶”で あ る と い う 子 供 観 、“ 子 は 鎹 ” と い う 家 族 観 は 、「 家 族 新 時 代 」 に は も は や 通 用 しないのである。古い世代の親たちに出産を促されたとき、笑子は、睦月の精 子と紺の精子をあらかじめ試験管でまぜて受精し、 「 み ん な の 子 供 に な る 」よ う にできないか、と産婦人科医に相談する。ゲイのカップルと女性という組み合 わせによって子供をつくるという発想は、近年の日本映画にもみられるもので あ り ( 1 1 )、 従 来 と は 違 う 形 で の 出 産 と 子 供 へ の 愛 、 と い う 可 能 性 ま で も が 、 近 年の日本のメディアのなかでは模索されている。 6.おわりに 現 代 日 本 の 女 性 作 家 た ち が 、 こ の よ う に 共 通 し て 、“ 常 識 的 ” な 家 族 像 を 覆 す新たな「家族」像、より正確には、新しい社会ネットワーク、あるいは「親 密性」のありようを描いているのは、女性=私的領域、男性=公的領域、とい う 男 女 の 性 別 役 割 分 業 を 前 提 と し た「 近 代 家 族 」が 、女 性 を 家 庭 内 に と じ こ め 、 家事、育児という限定的な役割を一方的に女性に課してきたことへの異議申し 立てであると考えられる。女性たちは、従来の限定的な役割を超えた、新たな 異性との結びつき、人間どうしの新しい共同生活のあり方を求めているのだ。 と は い え 、 こ れ ら の 事 例 は 、「 文 学 」 と い う 領 域 で 表 現 さ れ て い る も の で あ り 、 日本の現実社会における女性と男性の関係性をそのまま反映しているものでは ない。日本の社会調査によると、夫婦共働きの世帯における家事関連時間(週 平 均 )は 、1996 年 の 時 点 で も 、妻 と 夫 の 間 に 実 に 約 4 時 間 の 開 き が あ り 、睦 月 の よ う に 率 先 し て 家 事 を す る 夫 が 現 実 に 多 く い る と は 考 え に く い ( 1 2 )。 ま た 、 88 他人どうしがいきなり仲良く暮らしたり、ゲイのカップルと女性が協力したり する設定は、小説ならではのファンタジーという面も否めない。だが、少なく とも、従来の家族像を相対化する主張が女性の側からなされていることは、欧 米の家族論との連動をみせている点でも注目すべき現象であり、タイをはじめ とするアジア諸国の女性作家の文学においても、同様の動きがみられるのかど うかは、女性史、家族史を国際的な観点から研究する意味でも、極めて重要な 課題である。今後とも、国際的、学際的な研究交流が望まれるところである。 【注】 (1)江種満子・漆田和代編『女が読む日本近代文学 フェミニズム批評の試み』 ( 新 曜 社 、1992 年 )中 山 和 子 、江 種 満 子 編『 ジ ェ ン ダ ー で 読 む『 或 る 女 』』 (翰 林 書 房 、1997 年 )、『 一 葉 以 後 の 女 性 表 現 : 文 体( ス タ イ ル )・ メ デ ィ ア ・ ジ ェ ン ダ ー 』( 翰 林 書 房 、 2003 年 ) な ど 、 特 に 90 年 代 以 降 、 女 性 研 究 者 に よ る 、 フェミニズム、ジェンダーの観点からの文学研究の方向性が台頭している。 ( 2 )フ ィ ー ル ド ・ ワ ー ク は 2001 年 か ら の 三 年 間 行 わ れ 、成 果 も 刊 行 予 定 で あ る が ( 落 合 ・ 上 野 2006: 9)、 エ ッ セ イ 的 な 報 告 と し て 、『 21 世 紀 ア ジ ア 家 族 』 ( 落 合 ・ 上 野 2006) が す で に 刊 行 さ れ て い る 。 ( 3 )ほ か に 、現 在 活 躍 し て い る 日 本 の 女 性 作 家 、あ る い は 評 価 の 高 い 作 家 と し て は 、 笙 野 頼 子 ( 1956~ )、 川 上 弘 美 ( 1958~ )、 松 浦 理 英 子 ( 1958~ ) ら が あ げ ら れ る が 、今 回 は 、タ イ 語 に も 翻 訳 さ れ て お り 、国 際 的 な 関 心 も 高 い と 思 わ れる作家をとりあげる。 ( 4 )以 下 、テ キ ス ト の 引 用 は 引 用 頁 数 を 算 用 数 字 で( )内 に 記 す 。… は 省 略 、… … は 原 作 の マ マ ( 以 下 同 )。 ( 5 )「 フ ォ ー マ ル な 労 働 市 場 の 外 部 で 行 な わ れ 、 国 の 就 業 や 所 得 統 計 に 反 映 さ れ な い か 、 過 小 に し か 評 価 さ れ て い な い 活 動 」( 井 上 ほ か 2002:15)。 ( 6 )バ ダ ン デ ー ル は 、文 学 テ キ ス ト も 用 い 、十 八 世 紀 前 半 ま で の ヨ ー ロ ッ パ 文 学 に お け る 子 ど も に 対 す る 徹 底 的 な 無 関 心 が 、母 性 愛 が 後 天 的 な も の で あ る こ と 89 の 証 左 の ひ と つ で あ る と 指 摘 し て い る ( バ ダ ン デ ー ル 1998:100- 101)。 ( 7 )か つ て つ き あ っ て い た グ レ ゴ リ ー が 遊 び に き た と き 、ジ ェ シ ー は 他 人 で あ る グレゴリーに意外なほどうちとけ、楽しく会話しながらTVゲームに興じる。 そ の 光 景 を 見 た 際 の 、「 ゲ ー ム に 夢 中 に な る 男 二 人 と 椅 子 に 腰 か け て 微 笑 ん で い る 一 人 の 女 。コ コ は 、自 分 の 姿 を 客 観 的 に 見 て お か し く な っ た 。何 も 知 ら な い 人 々 に は 幸 福 な 家 族 に 見 え る 」( 79 ) と い う コ コ の 感 慨 は 、「 家 族 」 と い う 枠組みがいかに流動的なものかを語っている。 ( 8 ) Sex Reassignment Surgery の 日 本 語 訳 。 従 来 は 、「 性 転 換 手 術 」「 性 別 再 判 定手術」とも表現された。 ( 9 ) た だ し 、「 え り 子 さ ん 」 の 手 術 は 、 亡 き 妻 へ の 同 化 願 望 と 見 る こ と も で き る し 、ト ラ ン ス・ジ ェ ン ダ ー で あ る こ と を 読 者 に 強 く 意 識 さ せ る こ と で 、性 の 相 対化を印象づける効果はある。 ( 1 0 )タ イ と 日 本 の 役 割 分 業 意 識 の 比 較 で は 、一 見 、タ イ の ほ う が 保 守 的 に み え る が 、タ イ の 場 合 、所 属 す る 社 会 層 に よ っ て 家 事 の 外 注 化 な ど 多 様 な 意 識 や 方 法 が み ら れ る の で 、よ り 詳 細 な 調 査 が 必 要 で あ ろ う 。な お 、東 ア ジ ア の 家 族 に つ い て の 比 較 研 究 と し て は 、 瀬 知 山 1996 が あ る 。 ( 1 1 )『 ハ ッ シ ュ 』( 橋 口 亮 輔 監 督 、 2001 年 ) は 、「 21 世 紀 的 、 子 作 り 宣 言 」 と いうキャッチ・フレーズで、ゲイの男性二人と女性との関係を描く。 ( 1 2 )総 務 庁 の『 社 会 生 活 基 本 調 査 』 ( 1996 年 )に よ る と 、共 働 き 世 帯( 夫 婦 と 子 供 の い る 世 帯 ) に お け る 家 事 関 連 の 時 間 ( 一 週 間 平 均 ) は 、 夫 20 分 、 妻 4 時 間 33 分 ( 犬 伏 ほ か 2000: 39) で あ り 、 女 性 が 家 事 と 仕 事 の 両 方 を 負 担 す る 「 新 性 別 役 割 分 業 」( 同 前 42) の 問 題 が 生 じ て い る 。 【参考文献】 <一次文献> ( 日 本 文 学 研 究 に お い て は 、原 則 と し て テ キ ス ト の 引 用 は 全 集 版 を 利 用 す る が 、本 稿 で は 、ま だ 全 集 が 出 て い な い 比 較 的 若 い 作 家 で あ る こ と 、ま た 、社 会 現 象 と し て 90 の文学を研究するという観点から、普及版である文庫版に依拠する) 山 田 詠 美 『 ジ ェ シ ー の 背 骨 』( 角 川 文 庫 版 、 1993 年 ) 吉 本 ば な な ( 現 よ し も と ば な な )『 キ ッ チ ン 』( 角 川 文 庫 版 、 1998 年 ) 江 國 香 織 『 き ら き ら ひ か る 』( 新 潮 文 庫 版 、 1994 年 ) <二次文献> 犬 伏 由 子 ・ 椋 野 美 智 子 ・ 村 木 厚 子 編 『 女 性 学 キ ー ナ ン バ ー 』 2000 年 井 上 輝 子・上 野 千 鶴 子・江 原 由 美 子・大 沢 真 理・加 納 実 紀 代 編『 岩 波 女性学事典』 岩 波 書 店 、 2002 年 井 上 輝 子・江 原 由 美 子 編『 女 性 の デ ー タ ブ ッ ク 第 4 版 、性・か ら だ か ら 政 治 参 加 ま で 』 有 斐 閣 、 2005 年 落 合 恵 美 子 『 近 代 家 族 と フ ェ ミ ニ ズ ム 』 勁 草 書 房 、 1989 年 『 近 代 家 族 の 曲 が り 角 』 角 川 書 店 、 2000 年 落 合 恵 美 子 ・ 上 野 加 代 子 編 著 『 21 世 紀 ア ジ ア 家 族 』 明 石 書 店 、 2006 年 佐 伯 順 子 「 文 学 に み る 恋 の 食 卓 ― ― 料 理 を 作 る の は 誰 ? 」『 vesta』 第 68 号 、 味 の 素 食 の 文 化 セ ン タ ー 、 2007 年 11 月 社 団 法 人 日 本 精 神 保 健 福 祉 士 協 会・日 本 精 神 保 健 福 祉 学 会『 精 神 保 健 福 祉 用 語 辞 典 』 中 央 法 規 出 版 、 2004 年 瀬 地 山 角 『 東 ア ジ ア の 家 父 長 制 ― ― ジ ェ ン ダ ー の 比 較 社 会 学 』 勁 草 書 房 、 1996 年 野 々 山 久 也『 現 代 家 族 の パ ラ ダ イ ム 革 新 直 系 制 家 族・夫 婦 制 家 族 か ら 合 意 制 家 族 へ 』 東 京 大 学 出 版 会 、 2007 年 比 較 家 族 史 学 会 『 事 典 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