初めに テレビの番組に歴史情報番組がある。 NHKの一連の歴史情報番組は、随分昔から、その名前をかえて続いている。 私も、一時、この番組を楽しみにして欠かさず見ていた。 また、民放も、ある歴史上の人物がブームになるや、それに便乗して特集番組を組んだり、またはワイド ショーにも歴史のコーナーを設けているものもある。 ところが、おかしなことに気がついた。 すでに今では否定されている説や、明らかに間違っている説を取り上げている。 例えば、武田の騎馬軍団。鉄砲三段打ち等、また、真田幸村などの間違った名前などである。 そして、それを解説しているのは、歴史の専門家や研究者ではない。 小説家やアマチュアの歴史家、酷い場合には漫画家が登場して持論を滔滔と展開している。 誤解を招いてはいけないので言っておくが、私は小説家や漫画家が歴史を云々してはいけないと言っている わけではない。 彼らは本業を別に持っている。歴史に詳しいといってもあくまでもアマチュアである。ちゃんとした歴史教 育を受けたわけではない。 彼らの歴史の知識は、小説や漫画の資料として集めたものにすぎない。 世には通説、逆説、珍説など雑多な玉石混交の資料が山の様にある。そのどれをとるかで結果は180度変 わったものとなってくる。 所詮、彼らはアマチュア、素人である。 問題は、数冊本を出したぐらいですっかり大家気取りになり、テレビに出演したり、本を出版することであ る。 世間は著名人の彼らの言うことを頭から信用する。 斯くして、世間一般に広まるものは、小説家の脳味噌から絞り出された「・・・史観」なるものなのであ る。 しかし、彼らを非難してもしかたがない。 問題なのは、テレビ側の姿勢である。 視聴率を気にしなくて良いはずのNHKが、なぜ、こういったいい加減なことを放送するのだろう。 それは、一連の大河ドラマにも関係する。 時代、考証もいい加減な歴史大河ドラマを作り、それに関連した番組に、その原作者を登場させて解説させ る。これではまともな歴史情報番組ができるわけがない。 もっとも、最近は国立大学の先生でさえ間違ったことを平気で言うのだから、作家や漫画家だけを責めるわ けにもゆくまい。 映画の間違い 陳腐極まる時代劇 もう35年以上前になる。 ブルース・リーのカンフー映画が大ヒットし、以後、カンフー映画が活劇ドラマの一ジャンルを占めるに至 る。 このブームとも相まって、日本でも空手映画が多く作られた。 ただ、そのなかで留まれば問題なかったのだが、はじめは忍者映画の格闘シーンに取り入れられ、忍者が空 手やカンフーを使うという不思議な映画ができあがる。 そして、次には、戦国合戦シーンや侍の斬り合いシーンにまで回し蹴りや飛び蹴りが多用され、見る人達に 何とも言えない違和感を与えたものだ。 もっとも、所詮B級映画。戦国時代や江戸時代に舞台を借りたカンフー、空手映画と思えば良いのだろう が、どうも一言言いたくなる。 そもそも、飛び蹴り、回し蹴りなどというものは、重い鎧兜を着けた重装備の鎧武者が使える訳がない。鎧 武者を蹴っても殴っても、ダメージを一方敵に受けるのは、やった本人である。 ましてや、刀を持った敵を蹴るということは、敵に無防備な下半身を曝すことになり危険きわまりない。 そしてなによりも、重い甲冑を着けてあれほど激しく動き回れば、たちまち疲労困憊して動けなくなってし まう。結果、たやすく敵に首を渡してしまうことになる。 我が国には、柔術、小具足、甲冑組み討ちというものがある。 そして、柔術の古いものでは、この甲冑組み討ちの技法を残すものもある。 例をあげれば、竹内流、柳生心眼流などである。 竹内流は日本最古の柔術で、我が国の柔術の元祖ともいえる。 柳生心眼流は、独特の拳法、振り拳を使う他、実際に鎧を来て、太刀や短刀を使って敵を倒す技も多くあ り、古武道の演武会などでよく見かけるものである。 これらの技を見ていると、実に合理的に考えられており、無駄な動きは全くない。 そうであるからこそ、いつ終わるとも知れない合戦の長丁場を堪えることができ、最後まで体力を温存でき るのである。 この古くから伝わる古流柔術では、蹴るにしても、回し蹴りや飛びけりは絶対にやらない。 蹴るにしても前蹴りだけで、せいぜい金的蹴りぐらいのものである。 これらの古流は、極めて実践的な技法を数多く残しているが詳しく知る人はほとんど無く、その修行者も極 めて少ない為、殆どの日本人はその存在さえ知る人はすくないのではないだろうか。 これからの時代劇を作る人は、意味不明のカンフーなど、戦国武者に使わせるような馬鹿なことをせず、殺 陣にはこれら古武道の師範に指導を受け、本物の合戦絵巻を再現すべきであろう。 そのような、本格的な時代劇がひとつぐらいあってもよいのではなかろうか。 英雄の虚像 作られた英雄 現在は、ちょっとした歴史ブームかも知れない。 しかし、その実態はどうであろう。 およそ事実とかけ離れた、ありもしない架空の話や、戯作者の荒唐無稽な作り話があたかも史実であるかの ようにテレビや映画で放映され、書籍、雑誌で吹聴されている。 では、何故、このようなことになってしまったのだろう。 NHKで「龍馬伝」をやれば、坂本龍馬をテーマにした本が山のように出版され、テレビでは、いい加減な考 証の龍馬関係の番組が放映される。 その中で、真に坂本龍馬の人間としての実像に迫ったものは皆無である。 その大半が龍馬人気にあやかってひと儲けをたくらみ、龍馬フアンにご機嫌とりの提灯持ちの記事や番組ば かりが現れる。 これでは国民は、歴史の真実など、知ろうにも、何を信じていいかわからない。 小説家は自分の小説を売ることしか考えないし、マスコミはブームにあやかって、その主人公のヒーローの 太鼓持ちの記事しか書かない。 役所は、これを利用して町おこしをたくらむ。 このように、官、民、マスコミをあげて、歴史上の人物をヒーローに祭り上げて、偶像化している為、も し、本当は、そんな偉大な人間でも、天才でも、ヒーローでもなかったことがわかれば、彼らにとってはな はだ具合のわるいことになる。 例えば、坂本龍馬が本当は、英雄でも何でもなく、唯の目端の利く兄ちゃんだったら、たまたま、後世、出 世した人間や有名になった人物の近くにいただけだとしたらどうであろう。 剣術などからっきしダメで、それが故、ピストルを持ちあるいていたとしたら。 柔は子供のころから習っていて、あるていど使えたが、それもとりたてて優れているとは言えなかったとし たら。また、いろは丸事件など、大はったりをかませて紀州藩を恐喝したにすぎないことだったとしたらど うか。 残念ながら、実態はそんなものである。 後世、明治になって、地元に英雄がいないことを残念がった土佐の人間が作り上げた英雄像に、後年、司馬 遼太郎がさらに権威づけをやったために、すっかり日本史上の英雄となってしまった。 その作られた偶像を、多くの大衆が、真実の坂本龍馬だと信じているのである。 この作られた英雄像にすがって、多くの人たちがお金儲けをしているのだから、この英雄像が、大ウソであ るとわかると困る人たちが多いのは当然のことといえよう。 それだからこそ、なかなか本当のことが言えない。 今、坂本龍馬を例にとったが、これは、殆どの日本史の英雄に言えることなのである。 歴史上の人物にあやかり便乗して儲けている人達があまりにも多いので、その人達の損になることはすんな りとは受け入れてもらえない。 これが現実である。 捏造された歴史 歴史の捏造 学校で習ったことは、後、大人になっても鮮明に覚えているものである。 だから、50になっても60になっても、子供のころ習ったことはその後の人生に大きな影響を与える。 特に、小、中学の社会科で習った歴史はよく覚えていて、ときどき歴史番組などを見ているときに、あまり に大きく違うので驚くことがある。 その後の30年、40年で大きく歴史は変わってきている。新しい考古学的発見や、新資料の発見が相次 ぎ、昔、学校で習ったことはかなり修正しなければならない。 ところが、社会に出て働いているとあまり歴史に興味のない人は、子供のころ学校で習ったままが頭に残っ ていて、新しい学説を素直に。受け入れることが困難になっている。 特に、昭和30年代から40年代、勿論、地域差も大きいと思うが、歴史教育の面でもイデオロギーの影響 が強かった。特に近代、現代史にこの傾向が顕著である。 また、それ以前の日本史に於いても、階級闘争史、支配者と被支配民という観点から語られることが多かっ た。 このように、歴史を、二極化して単純化してしまうと、どうしても複雑な政治状況や微妙な問題が見過ごさ れてしまい、その本質を見失う。 戦後昭和世代の殆ど日本人がそういう観点で歴史を見ていたし、当然その人達が読む小説を書く小説家など も同様であった。 司馬遼太郎など、あまりそういう政治的なことを言わない人でも、その思想の片鱗は随所に見受けられるの である。 大東亜戦争後の昭和は、ほとんどの日本人が、左翼とは言わないまでも、いわゆる自虐史観に陥っていた時 代である。日本の伝統文化は貶められ、古臭いものとして打ち捨てられてきた。 そういった時代に、一世を風靡したのが、江上波夫の「騎馬民族征服王朝説」である。 この時代は、殊更、自国の歴史を卑下し、中国や韓国に阿る風潮があった。 このような時代の雰囲気にぴったりあったのが、大陸を起源とする騎馬民族、扶余族の一派が、日本に渡っ て来て大和朝廷を作り、皇室の祖先となったというこの説である。 この扶余族の一派が建国したのが高句麗と百済であるから、朝鮮人が皇室の祖先であるという論法になるの である。 今で考えれば実に荒唐無稽な話なのだが、その当時は大まじめで議論されていた。 これが、歴史学会の中だけで論議されていただけなら問題はなかったのだが、一般にも出版されていた為 に、多くの一般人の頭のなか深く植えつけられることとなってしまった。 このことは、後、民主党政権発足時、小沢一郎氏が韓国へ行って、この様なことを言って、韓国民の歓心を 買おうとした。 このとき、彼の頭の中には、この騎馬民族征服王朝説があったことは間違いのないことであろう。 この様な小沢氏の言動は、ただの外交辞令で済ませられる話ではない。 60年前のアホ学者の筆に任せた与太話が、一国の政治問題にまで悪影響を及ぼす格好の一例といえよう。 この例でもわかるように、真実の歴史というものは、それほど重要なものであり、場合によっては一国の外 交にも大きな影響を及ぼすものなのである。 江上波夫が東京大学教授という肩書を利用して、この様な大ボラを吹かなければ、小沢一郎も、あのような 根も葉もないことを言って国益を損ね、国中のひんしゅくを買うこともなかった筈である。 この様に、歴史学者の責任は重大であり、真実の日本史をしっかり検証して、俗説、珍説、を排し、イデオ ロギーの入り込む余地のない正確なものを後世に残す必要があるのである。 歴史学者の責任 歴史学者について 江上波夫は言うに及ばず、日本史の研究者は、大学の教官や在野の民間の素人学者まで、実に多くの人達が 本を書いている。 記憶に残るところでは、邪馬台国論争など、ついこの間のような気がするがもう40年近くなる。 このテーマについても、実に様々な人達が、いろいろな学説を唱え、百花繚乱、実に賑やかであった。 この問題にしても、専門の歴史学者より、在野のアマチュア史家たちの方が、自由な発想で面白かった。 以来、我が国の様々な歴史上のテーマについて、プロ、アマ入り乱れて、いろんな説が飛び交い、一体どれ が真実に近いのかまるでわからなくなっている。 本来なら、大学の教官の説が正しいと考えるべきなのだろうが、実はそうではない。 先に述べた江上波夫などがその良い例である。 彼は、東大の教授であった。後に名誉教授になっている。文化勲章も受けている。 実は、この男、専門は日本の古代史ではない。匈奴文化や東西交流文化史である。 最も悪かったことは、当時、手塚治虫や松本清張、司馬遼太郎等の文化人、学者などに多くの賛同者がお り、前にも言ったように、小沢一郎も韓国で、この説を吹聴している。 東大の教授であるという信用を利用して、この様な与太話をでっち上げ、日本の古代史学界に、誤った混乱 を招いたことは、決して許されることではない。 日本の最高の学問の府である東大の教授がこれである。 他にも、国立大学の名誉教授で、NHKのお抱え学者もいる。 もはやカビの生えたような古い学説をいまだにテレビなどで解説しているが、この男の思考能力の程度を疑 わざるを得ないようなお粗末な頭をしている。 最近は、多少自説を修正しているのは、自説の誤りを認めざるを得なかったために渋々変更したようである が、基本的な部分は何も変わっていない。 それに反し、在野の歴史家の方が、はるかに理論的に優れた説を発表している。 その代表とも言える人が、鈴木眞哉氏で、この人独特の方法で新しい説を主張している。 藤本正行氏とともに、従来の固定観念を突き崩し、全く新しい観点から、歴史を見直す姿勢には大いに賛同 する。 専門の学者では、藤木久志氏も、戦国期の雑兵、農村の立場から、画期的な著作を著している。 「雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り」は、今までの、戦国の戦争観をガラリと変えるもので、是非、一 読をお勧めする。 真実の歴史を 歴史の英雄、偉人の真実 日本人はよほど歴史が好きらしい。 もっとも、好きと言っても、そのほとんどが真実の歴史を伝えたものではなく、江戸時代では講釈や歌舞 伎、浄瑠璃など、明治以降は、立川文庫や著名小説家の書いた創作を、実際にあったことと思は思わないま でも、大体において全くの創作とは言えないだろうと考える人も少なくない。 また、小説ならずとも、プロ、アマを通じて、実に多くの研究者が、それぞれが自分の研究や考えを本にし て出版していることも、以前書いたとおりである。 特に多いのは、歴史上の、英雄、豪傑、偉人、武将などをテーマにしたものであろう。 しかし、これらの出版物を読んでみると、ほとんどの著者がその人物のフアンか、信奉者である。 勿論、その歴史上の人物に興味を持たなければ、人知を傾けて研究などできるものではない。 本を書くということは、大変な努力と忍耐と根気のいる仕事である。 さまざまな古文書などの資料を調べ、仔細に検討を加え、文章にまとめあげることは、並大抵の作業ではな い。 この気の遠くなるような努力をやり遂げることができるのは、その人物が好きであることが、大きな推進力 となることは間違いのないことであろう。 問題なのは、その人物を敬慕のあまり、贔屓の引き倒しになりがちであるということである。 歴史的事実は一つしかない。それには好き嫌いを超越した客観的な視点がなければならない。これは極めて 大切なことである。 ところが、この基本的なことが守られていない。 まず、資料の選定である。 ところが、その資料となる古文書で信用に足る一級資料は極めて少ない。 江戸時代、様々な歴史上の人物や事件を扱った文書や記録が書かれた。 また、将軍家や各大名家の官製文書、地方に於いては、各村落の物産、歴史、名所などの地誌を大名家に報 告した差し出し帳の類もあり、その数は膨大のものとなる。 このうち、官製図書は別として、一般に流布していた書籍のなかで、本当に信用できるものは極めて少ない のである。 特に、先の戦国時代のものについては、どこまで信用して良いかということよくわからない。 それは、戦国時代に書かれた一次資料が少ないことによる。 例えば、現在、さも良くわかったようにテレビで放送されている織田信長や豊臣秀吉の軍隊の詳細など何一 つ信用に足る資料が発見されていないのである。 織田信長にしても、大田牛一の信長公記が、唯一のある程度信用できる資料といえる。 一方、これを下敷きにした小瀬甫庵の信長記があるが、これは記録というよりはむしろ小説である。 信長記と紛らわしい表題をつけたためよく混同されるが、信長公記を下敷きにしてそれに創作を加え、尾ひ れをつけて話を面白くした。 後世、この創作部分が定説となり、現在の信長像が出来上がったのである。 織田信長は、我が国歴史上、屈指の人気者である。 当然フアンも多く、何を勘違いしたものか、NHKの大河ドラマの俳優を、信長のイメージとダブらせている 女性フアンも多かった。 これらのフアンを満足させる。あるいは自身が熱烈なる信長信奉者である場合、もし、資料として、この信 長公記と信長記の二種の資料を見せられた場合、どちらを選ぶかは自明の理であろう。 信長の功績をより面白く具体的に書いている小瀬甫庵の信長記を選ぶに違いない。 そして、小説に書く場合、さらにこれを骨組みとして、さらに偉大な人物として1を2にも3にも書くだろ う。 そうして、実像とはかけ離れた、神の如き偉大な人物像が出来上がる。 我が国の歴史上の人物は、ほとんどがこの虚像が独り歩きしていて、多くのフアンはこの虚像の部分に心酔 しているのである。 もっとも、これは日本に限らず国の東西を問わず同じことをやっている。 しかし、欧米諸国では、学者がきちんとした本物の歴史を国民の前に示し、けっして我が国のように、専門 の学者までがテレビでいい加減なことを言ったり、作家や漫画家が大きな顔をして、珍説奇説の類や、歴史 雑学とでもいうものをしゃべり散らすことはない。 また、彼らの書いた与太話が書店の売り場で花盛りであるのも、国民大衆に間違った歴史を教えることにな る。 まあ、これは、歴史に何の知識もない愚かなテレビ局の担当者や出版社の編集者の知的レベルが低いことの 何よりの証明なのだが。 では、なぜこうなってしまったのか。 それは、我が国の歴史というものを、国がちゃんと教えてこなかったことが最大の原因である。 普通、学校の歴史教科書で正しい歴史を教えていればこれほどひどい状態にはならなかった筈だ。 ところが、学校の歴史教科書自体が、旧態依然とした唯物史観、階級闘争の歴史として書かれているため、 必ずしも無色透明で真実のみの記述とは言えないのである。 また、最新の学説を素早く採用しているとは言い難い。 これは教育界が、依然として日教組の左翼教育の頸木から逃れることができていないことによる。 そして、何よりも、教科書に書かれている歴史は面白くないのである。 面白くなければ、頭にも残らない。学校を卒業すればみな忘れてしまう。 ところが、本屋を覗けば、面白い本がいっぱいある。 学校で習ったことと違い、こちらは面白い。いろいろなヒーローが、大活躍する。恋愛もあれば、血わき肉 躍る大冒険も、肉弾相撃つ戦闘シーンもある。 こういったことは学校では習わない。 しかし、である。 この面白い部分の殆どは、作家が作り出した創作なのである。だから面白い。面白くしているのだから当然 であろう。 現実はそんなものではない。実際の歴史というものは、そんな小説に描かれるような、神のような叡智を備 えた軍師も、不敗の剣豪も、武田の騎馬隊も、織田信長の鉄砲三千挺の三段撃ちも存在しなかった。 実際の英雄、ヒーロー、剣豪、賢人、佳人といわれている人達は、いずれも決して、神のような叡智、不敗 の剣、絶対的な英雄などではなかった。 いずれも、生身の人間、喜怒哀楽を備え、失敗も負けもする一人の人間であったのである。 今、もっとも求められることは、彼らの人間としての真実の歴史である。 そして、それを好き嫌いは抜きにして、完全に客観的に、厳密に事実だけで構築された本当の日本史の登場 が待たれるのである。 騎馬民族征服王朝説 江上波夫 我が国の歴史は、過去のイデオロギーにより、歪められ、貶められてきた。 では、専門家である学者はどうなのか。 実は、真実を追求すべき学者そのものが社会主義思想に汚染されていて、戦前の歴史を唯物史観で解釈し、 階級闘争の歴史として位置づけていたのである。 戦後、そのような左翼的風潮のなかで、天皇や皇室を貶めることがむしろ歓迎される風潮があった。 そういった風潮のなかで、大ブームを起こしたのが江上波夫の「騎馬民族征服王朝説」である。 当時、東大教授であったので、その社会的信頼性は確固たるものがある。その、東大の教授が書いた新学説 ということで実に多くの人達がこの説を信じこんだ。 今現在でも、政界、財界の要人に多くこの信奉者がいる。 民主党の小沢一郎が韓国でこの説に基づいて、日本の皇室の祖先は朝鮮半島から来たと言って物議を醸した ことは記憶に新しい。 私も若いころ、これを読んだことがある。これが東大教授、大先生が書いたものか。なんじゃいこりゃあ。 奇想天外なおとぎ話ではないか。こんなとんでもない説を信じる奴はよほど馬鹿に違いない。 政治家なぞという輩は、ろくな知性も持たない俗物ばかりだから、自分の政治的主義主張のためには、俗説 珍説の類からも都合の良いところだけをかじり取って利用する。 この説は、まず、天皇家は朝鮮半島からやってきたという結論が先にあり、それにそって論理を組み立てて いる。これは、学問ではない。八切止夫ばりの奇説珍説の類だ。 学者らしく、古事記、日本書紀などの記紀、他の文献資料や当時発掘されていた考古学資料を駆使しての論 理の展開は、如何にも本当らしく見える。 しかし、如何にいってもこの説は古い。その始まりはもう60年以上の前のことだから。 その後、多くの考古学的発見や新学説が相次ぎ、多くの学者による反論によりこの説はほぼ否定されてい る。 江上波夫は一体どういうつもりでこの論文を書いたのだろうか。 ただ、単に戦前の皇国史観への反動だけではない筈だ。 そう思ってWikipedia を見ていると以下の文言が目に止まった。 「この説が言い出されたのは終戦間もない1948年、東京・お茶の水駅近くの喫茶店に江上と岡正雄、八幡一 郎、石田英一郎の学究仲間3氏が集った座談会で披露され、「日本民族=文化の源流と日本国家の形成」と いう特集記事で発表された。かかわりの深かった研究誌『民族学研究』の出版元が経済的に困っているので 売れる論文を書いて助けようと座談会が企画されたという。」 これで疑問が解けた。 この論文の目的は、崇高な真理の探究などではなかったのだ。この新学説でひと儲けを企んだ。それだけの ことである。 それなら、金儲けのために創作した疑似論文に口角泡を飛ばして論争することもなかった筈であるが、予想 以上の反響に、江上自身が引くに引けなくなり、反論に反論を重ねてきたものと思われる。 この例のように、専門家の学者といえども信用はできない。 特に日本最高の大学である東京大学の後に名誉教授にまでなった人物でさえこれである。 分野は違うが、この前大震災の折の地震学者や原発事故のときの専門家と称する学者どものいい加減さを見 てもわかるであろう。 如何に彼らが権力に面ね、単なる御用学者と化して自己の利益のみを図り、真理の探究などに真摯に取り組 んでいない連中がこの学問の世界で重きをなしていることか。 歴史の分野では、国立大学の教授でありながら、NHKの御用学者と化して他の歴史ワイドショーに出演し て、もはや古くなった学説を相も変わらず喋りつづけている人物もいる。 このように、大学教授だからと言って頭から信用してかかるわけにはいかないことは、真実の歴史を求める 人たちにとって一体何を信じて良いかわからないといった困った状況なのである。 イデオロギーと歴史 イデオロギーの介在 これまで私が述べてきたことは、如何に我が国の歴史が歪められ、変形されて伝えられえてきたかという事 であった。 これは、過去の時代の国や政府などの権力により規制され、あるいは誇張され利用されたという面もあった が、そればかりではない。 最も大きく変えたものは、イデオロギーと人間の欲望であろう。 我々日本国民は、大東亜戦争までは皇国史観に基づいた歴史を学ばされたし、戦後はその逆で、社会主義の イデオロギーの強い影響下にあった。 特に、戦後の昭和30年代以降の学校教育の場において、その影響は強かった。 子供の頃にこのような偏った教育受けると、当然のことながら、戦前のものはみな悪であるという固定観念 をその純真な心に植えつけられることになる。 特に江戸時代以前の封建社会は、すべて支配者と被支配者とに大別され、支配者たる武士が一方的に被支配 者である百姓、町人を搾取し抑圧するといった暗黒の時代のように教えられてきた。 それゆえ、この時代の教育を受けた人たちは、どうしてもその先入観が抜けきらず、江戸以前の我が国の歴 史を異常なほど貶めて見がちである。 また、この時代に発表された小説や映画、テレビドラマは、こういった視点から書かれたものや制作された ものが多い。 例えば、黒沢明の「七人の侍」はどうであろう。 これは、戦国時代の百姓が無力で弱い存在であることが大前提となっている。たとえ、山賊に奪略され、危 害加えられ、命を奪われても何も抵抗できない弱い存在として描かれている。 しかし、実際は大いにちがう。 各村々には土豪がおり、その下に組織化された武力を持つ集団がいて、その地方を支配する国人領主や、戦 国大名の下知に従っていたことは、私が以前書いたとおりである。 1991年のソ連崩壊ののち、社会主義の世界的後退から、我が国もやっと社会主義の階級闘争史観から抜 け出すことができ、はじめてイデオロギー抜きで歴史の真実の探求にに向き合うことができるようになった のである。 司馬遼太郎について 司馬遼太郎の罪 いままで述べてきたこと。 それは、日本史の偉人、英雄については、ほとんど、その生身の人間としての実像は、大衆にはわからなく なっているということだ。 「何を言うのか。過去、あれだけ偉人、英雄について散々小説が書かれ、映画やドラマになっているではな いか。」そのように反論される人も多いと思う。 しかし、皆さんお好きな、織田信長や、真田幸村、豊臣秀吉、近くは、坂本龍馬など、ほとんどが小説家の 脳みそから紡ぎ出された創作なのだ。 もちろん、確実にわかっている歴史的事実はある。 それを骨組みとして、おもしろおかしく肉付けをして小説を書き、それがヒットすれば映画やテレビで映像 化され、なおさらそれに尾ひれが付き、事実とはかけ離れた偉人や英雄となる。 つまり、多くの日本人が信じて疑わない宮本武蔵像は、吉川英治の捏ね上げたものであるし、織田信長の英 雄的部分は江戸初期に小瀬甫庵が太田牛一の「信長公記」を脚色した「信長記」がもとになっている。 それを下敷きにして、多くの小説家がそれぞれ色をつけ脚色して今、一般に理解されているような信長像が できあがっているのである。 真田幸村に至っては、そんな名前の人物は存在しなかった(名前が違う)。これは、江戸初期に使われはじ め、明治中期に大流行した立川文庫で日本国中の少年の英雄となった。 戦国時代以前の英雄豪傑は、そのほとんどが江戸時代の歌舞伎や浄瑠璃、戯作や講釈の題材に取り上げら れ、荒唐無稽な物語の主人公として庶民のアイドルとなってゆき、それをもとに、明治以降の講談本や小説 が書かれた。 戦後、国民の大衆文学が大いに花開いたのは良いのだが、この戦後書かれた小説の大半は、それまで形成さ れた英雄像を下敷きにしており、ますますその実像とはかけ離れたものとなってしまった。 戦後の時代小説家、五味康祐、柴田練三郎などは、その最たるものであろう。 しかし、これは小説であれば当然のことである。 私は決して時代小説や時代劇が悪いと言っているのではない。 小説は面白くなければならない。史実を正確になぞっても面白くもなんともない。 大いに創作の羽を広げ大洞を吹きまくって面白い小説を書くことは、彼らの仕事である。 様々な時代小説家が表れて、面白い小説を書く。これには大いに楽しみとすべきことである。 しかし、大切なことは、この大洞、虚像の時代小説とは別に、ちゃんとした、正確な歴史人物像が描かれた ものが存在しなければならない。 そして、この役割は、面白い話をでっち上げる小説家ではなく、地道な研究を積み重ねている歴史学者が担 うべきものである。 決して、小説家がこの領域に踏み込んではならない。 今から40年前、八切止夫という小説家がいた。 この人は、それまでの定説を覆し、多くのとんでも本を書いた。 上杉謙信は女だったとか、織田信長を殺したのは明智光秀ではないなどと、とんでもない説を唱え、八切史 観と称して話題となっていた。 当時、この説は誰からも本気で相手にされず自然に消えていったのだが、最近のテレビの特番などでこの類 の珍説奇説を放映しているのはこの八切史観なるもの系統を引くものであろう。 五味康祐、柴田練三郎、海音寺潮五郎、山岡荘八、司馬遼太郎。時代小説の大御所である。 この内、五味、柴田は、ほとんど史実とは関係ないところで小説を書いている。 これらは、いわゆる純粋娯楽として楽しめばよい。 読者もこれが史実だとは誰も思わない。 ところが、後の三者はいささか趣が違っている。 この三人は、その題材に、いわゆる歴史上の人物や事件を描いている。 海音寺潮五郎は平将門、藤原純友、上杉謙信などや元寇を描き、山岡荘八は徳川家康、柳生但馬守宗矩を、 司馬遼太郎は坂本龍馬をはじめ、歴史上の人物のめぼしいものは片っ端から小説にとりあげている。 この三人は、前の二人とは違い、荒唐無稽なところは少ない。 相当、資料を集め、それを骨組みとして小説を展開している。 海音寺潮五郎は実に面白かった。資料を十分活用しているがどこにもそれと感じさせるような押し付けがま しいところがない。山岡荘八は文献資料ばかりでなく、実地に新陰流の継承者と交流を持ち、そのアドバイ スをもとに春の坂道を書いている。 問題は司馬遼太郎だ。 面白さでは、前二者に劣る。元々が新聞記者上がりということもあって、新聞記事のような硬さがある。資 料の使い方も不徹底で、押しつけがましい。史料の吟味をろくにせず、自分の小説に都合の良いところだけ 摘まみぐいして、それに尾ひれを付け、見てきたような大嘘を書く。 このこと自体は、別に非難するにはあたらない。 私も、これが悪いと言うのではない。 問題なのは、自分が書いた膨大な数の歴史小説を、その書かれた当時の歴史認識や価値観で染め上げている ことであろう。 彼の考えや思想は、当時の日本人に共通するものであった。それゆえに当時の一般大衆の支持を集め、発表 する小説はつぎつぎにベストセラーになっていった。 ある意味、これもやむを得ないところである。 彼の小説の舞台は戦国から幕末、明治の日清、日露戦争までに及ぶ。 当然、使用する史料は膨大な数にのぼる。とてもこれだけの多量の史料に詳細、正確な検討を加えることな ど無理な話である。資料の原書にあたるなど不可能であろう。 勢い人の書いた小説や、珍説、俗説の類を取り入れることになる。小説であるから、正確さや真実よりも面 白さを選ぶ。 そうして、物語としては面白い作品ができあがるが、これはあくまで話としては面白くはあっても事実では ない。 確かに、面白く、魅力のある小説が発表されること自体は大いに歓迎すべきことではある。 問題はその内容である。創作であり小説であるものを、何を勘違いしたものか自分の小説をあたかも歴史的 事実であったかのような論評を加えている。 河井継之助はこうだ、坂本龍馬はああだと勝手な解説をいれる。これが、いわゆる司馬史観というものであ り、後世、政治家や経済界、マスコミ関係者に多くの信奉者を出した。 問題なのは、この部分である。歴史上の人物をその結果から逆算し、推論して物語を組み立ている。 おまけに、終戦後特有の自虐史観で評論を加える。 まるで自分が神様にでもなったつもりなのかと思わせるような断定的な語り口には、正直行って辟易させら れたものだ。 坂の上の雲では、乃木希典をまるで戦術的能力のないボンクラとして描き、児玉源太郎を戦術の天才として もちあげる。 坂本龍馬に至っては何をやらしても天才的能力を持ち、剣術は強く、女は身を挺してこの男に尽す。 先見の明は神のごとく、まるで一人で明治維新を引っ張ってきたように描いている。 おまけに、この日本の存亡の危機に、天がこの時代に遣わした天の使いであるかのような説明を加えている のだ。 そんなことがあるものか。実際はそうではない。剣術の名人どころか、北辰一刀流では初伝さえも受けてい ないのだ。 ただ、唯一、貰った免状は、なぎなたの初伝目録でしかない。正味三年余りの修行期間では、それがせいぜ いといったところであろう。 又、土佐で修行したのは剣術ではなく柔術である。 龍馬が土佐で習った小栗流は、その主体は和術(柔、柔術)であり、剣術は、その基礎的な五本の型を習っ たにすぎない。 このことから、はっきり言えることは、坂本龍馬は剣術はからっきしダメだったということなのである。 それゆえ、護身用に拳銃を持ち歩いた。 人を切らなかったから平和主義者だったなどと惚けたことをいう人間もいるが、これは切らなかったのでは ない。切れなかったのである。ただそれだけのこと。平和主義者でもなんでもない。 小栗流は、柔術を主として、居合、棒、剣などを教養程度に指導したが、薙刀はない。それゆえ、北辰一刀 流では、薙刀を力を入れて習ったと思われる。 では、柔術は強かったのかというと、それなりであったということができよう。 決して弱くはなかったが、そう並外れて強かったわけではない。 当時の武士は、剣術や柔術は当然習うべきものであった。武士の本性は兵士である。戦があれば主人の為に 戦わなければならない。 当然、土佐藩士のほとんどは、剣、柔術は徹底的にやったはずだ。当然、小栗流に於いても、龍馬程度の段 階の免許を受けた門弟は少なくなかったであろう。 だから、それなりなのである。決して、龍馬が柔術の名人であったわけではない。 これが、史料を忠実に読んだ結果である。先入観や贔屓を排し、客観的に素直に読むとこうなる。 これは、私ならずとも、だれがやっても同じであろう。 ところが、司馬遼太郎はこの龍馬の前半の最も大切な部分を端折ってしまった。 龍馬が剣術の名人でなければならない理由があった。そうでなければ千葉定吉の娘、鬼小町と言われたおさ なさんとの恋愛がうまくつながらないし、小説としての面白さが半減する。 剣が強かったが平和主義者であった為に人を切らなかったというのと、剣術は下手っぴいだったというので は小説の価値が違ってくる。 彼の主義主張からすれば龍馬が剣術が得意でなかったという事実は到底受け入れることができなかったと思 われる。 このように、司馬の小説は、創作であり、事実ではない。 本気で史料を読めば、龍馬が剣術はさほど修練を積んでいなかったことと、土佐で学んだ小栗流は、剣術で はなく柔術であったことぐらい容易に察しがついたはずだ。 これからわかるように、司馬遼太郎は歴史学者ではなく、只の小説家にすぎないのだ。 彼の描く歴史人物像は実像ではなく、司馬遼太郎という戯作者の煙草のやにで黄色く染まった脳みそが作り 出した虚像なのである。 それを、あたかも歴史的事実のように主張することや、自分のでっちあげた小説を事実だといって宣伝する ことは決して許されるべきことではない。 歴史的知識のない一般大衆は、いともたやすくこれを信じ込む。最も困ることは、政治家がこの司馬史観な るものに心酔してその信奉者となることである。 この事実ではない人物像を見習って、実際にはやりもしなかったことを手本に政治をやられたのではかなわ ない。 政治家のほとんどは、俗物である。まともな教養など無きに等しい。そういった連中が司馬史観の虜になれ ば一体どういうことになるか。考えるだに鳥肌がたつ。 最悪であることは、この司馬遼太郎以降の小説家が、何を勘違いしたものか歴史意外の分野でも大きな影響 力を持ち始めたことであろう。 小渕恵三内閣のとき、ある小説家を経済企画長長官にに任命し、ろくな成果も挙げられなかったことは、 苦々しい記憶として心の隅に残っている。 これなど、小渕敬三という俗物総理が、小説家をその実力以上に買いかぶった結果である。 司馬以降、作家の学者気取りは続く。NHKの歴史番組では、もはや古くなったような説を解説している者 もいるし、トンチンカンなことを言う奴もいる。 これは民放でも同じで、最近は、小説家だけではなく、漫画家まで、偉そうに解説し、本まで出してしまっ た。 誤解してもらっては困るのだが、漫画家が歴史を語って悪いといっているのではない。 ちゃんと調べて正しい事を言うのなら問題はない。正式に、歴史の勉強や古文書について学んでのことなら 納得もできよう。 しかし、そうではない。今まで形成された歴史雑学とでも称すべき俗説の類を取り上げて、さも専門の学者 気取りで得々としゃべる。 これなど、司馬遼太郎の学者気どりの悪影響にひとつといえよう。 テレビの歴史ドラマ テレビの罪 現在のマスコミのお粗末さは目に余るものがある。 一体、どんな人間が記事を書き、番組を制作しているのだろう。 特にテレビは酷い。 まともな番組はほとんどないといってよい。 最近、民放でよく歴史ものを放映しているが、実にいい加減なものだ。 おまけにコメンテーターたるや、ろくなやつがいない。 歴史番組はただ面白ければ良いといったものではないはずだ。 ちゃんと専門の学者に監修を依頼して,荒唐無稽な話や俗説の類を入れるべきではないことは,言うまでもな いことであろう。 まあ、このことは、今迄さんざん言ってきたことだからこれ以上は言うまい。あまりしつこいと我ながら厭 になるからだ。 ただ、民放なら、視聴率を取るためにはある程度はやむを得ないところはある。 しかし、公共放送のNHKとなると話は違う。歴史番組を制作する場合はもっと厳密な時代考証を行う必要 がある。特に大河ドラマは細心の注意を払わなければならない。 先年の龍馬伝。あれはひどかった。史実を完全に無視している。 岩崎弥太郎の扱いの悪さはどうだろう。三菱の人たちが怒るのも無理はない。わざとらしい土佐弁も耳に付 き不愉快極まりない。主演のイケメンの歌手の臭い芝居にも辟易させられる。 龍馬や、武市瑞山の武術の真相は、この後詳しく説明する。 もっとも、この二人の事は、間違ったことが定説となり固定化されているので、私がここで「それは違う」 と大声を張り上げてもどうにもなるものではないであろうが。 そして今年の「江〜姫たちの戦国〜」。 これなど、現代劇をそのまま戦国時代の衣装や鎧を着せて演じているようなものだ。 時代状況も内容もまるで違う。 こんなお粗末なものを高い制作費をかけて作るなよと言いたい。視聴者を馬鹿にしているのか。我々の視聴 料をこんなことにつかうな。もう受信料は払わんぞ。そう言いたい。 公共放送であるNHKがこれではいけない。民間放送と視聴率を競うために敢えて俗悪番組を作っているの か。 国民から受信料を貰っているからには、当然、真に国民のためになる番組造りを心がけなければならない。 特に報道番組は真実のみを伝えなければならないし、歴史教養番組は制作時最新の学説を紹介すべきであ る。 その為には、御用学者の手垢にまみれて古くなった学説や、単なる戯作者でしかない小説家の、歴史雑学や 俗説を採用すべきではない。 歴史には様々な分野がある。 その分野の専門の学者の学説を取り上げるべきで、それを一般の視聴者に分かりやすく説明するのが放送局 の使命ではなかろうか。 NHKの大河ドラマ NHKの大河ドラマ 一昨年の「龍馬伝」から始まって、昨年の「江〜姫たちの戦国〜」、そして今年の「平清盛」。一体何とい う番組を作っているのか。 こんなものを見せられる為に高い視聴料を払っているのではない。 実に愚劣極まる番組だ。 歴史の常識も知識も持ち合わせていないど素人が寄って造ったようなつまらない番組だ。物語の展開も表現 も全く面白くもなんともない。そして何よりも内容が空っぽだ。 時代背景も時代考証も無茶苦茶だ。時代考証を担当したお偉い先生方はいったい何をしているのか。 名前だけ貸してお金だけを受け取っているのではあるまいな。 もっとも、NHKのご機嫌とりに終始して古臭い持論を展開するしか能の無い国立大学の先生など、はなから 正確な時代考証など期待していなかったが。 「龍馬伝」はひどかった。 とても見るに堪えない。 いくら創作とはいえ、あの岩崎弥太郎の扱いはなんだ。三菱の関係者が怒るのも無理はない。 三菱の創始者の岩崎に乞食のような格好をさせて泥の中をのたうちまわらせている。 また、岩崎は長崎にゆくまでは龍馬とは面識が無かったはずだ。こういう事実に反することを勝手にねつ造 するべきではない。 歴史に知識のない一般の視聴者は、このような大ウソをたやすく信じ込む。 このように、我が国の財閥の創始者を貶めて何が嬉しいのか。 そこには、NHK独特の左翼思想、階級闘争史観が透けて見える。 上士が下士をいたぶるシーンからは特に強くそれが感じられた。 それも実に汚らしい描写である。 これでもかという程に虐待され、奴隷のような扱いを受ける下士に対比して、高慢で血も涙も無い上士とい う対比は、過去、昭和の時代に使い古された左翼の階級闘争劇の再現といえよう。 また、中身のないのを主役で補うつもりか、へたくそで臭い演技しかできない、イケメン歌手を起用してい る。 この男の気取った演技とわざとらしい土佐弁には辟易させられたものだ。 最初は、家族が見ているのでつられて見ていたが、あまりに馬鹿馬鹿しいので見るのをやめてしまった。 次の年の「江〜姫たちの戦国〜」。これは、一体何なのだ。 視聴者を馬鹿にするにも程がある。これほど空っぽなドラマは見たことがない。 安土桃山時代の衣装を着た現代劇だ。 ヒロインが、太閤秀吉にむかって「さるさる」と連呼し、朝鮮征伐を止めろという。 こんなバカな話があるものか。大体、信長が秀吉を「さる」と呼んだ事実はない。 時代考証の先生よ、それで良かったのか。 内容のくだらなさ、まるで少女まんがのようだ。いや、それ以下だろう。 莫大な制作費を使って、こんなものを作るな。 今年は「平清盛」だという。 前の二作がお粗末極まるものだったので、今度は少しはましかなと思っていたらなお悪い。 時代考証の東大の先生。すこしおかしいのではないか。自分の個人的な学説を、この国民全部が見るドラマ に入れるなよ。 その影響を考えろ。学者馬鹿もここに極まれりだ。 なにを指しているのかというと、劇中で役者に天皇家のことを、「王家」といわせていることだ。 平安の当時、そんな言葉はなかった筈だ。この人物は、自分の国の皇室を王家と呼ばせて自分の学説を宣伝 しているつもりらしいが、これは我が皇室に対する最大の侮辱である。 天皇を王と言い張るのは、韓国人である。ということは、この学者先生、韓国か朝鮮の帰化人か、そうでな ければ反日左翼であろう。 東大には、先に書いた、「騎馬民族征服王朝説」を唱えた江上波夫がいた。 彼は、この学説により我が皇室の権威を大きく損ない、後の政治家にまで誤った歴史認識を植えつけ、後の 世にまで大きな負の影響を与えた、いわば国賊学者である。 東大には、まだ、この反日左翼的思想に基づいた学派がまだ幅をきかせているということなのか。 学問にイデオロギーを持ちこむことは、絶対にやってはいけないことは前にも書いたとおりである。 東大の先生だから正しいとは絶対に言えない。 時代考証をやるなら、自分の学説ばかり吹聴せず、ちゃんとした考証をやるべきだ。 まず、あの服装はなんだ。武家の棟梁たる平氏が、あんな乞喰のような汚い服装をするわけがなかろう。 汚い格好をすればリアリズムだと思い込んでいるこのデレクターもよほどの馬鹿ものである。 法皇の前に出るのにあのような汚い格好で許されるわけがない。 物語の設定そのものがありえない大ウソなのである。 また、武士を上級貴族の飼い犬のように役者に言わせているが、こんなバカな話があるものか。 平氏は源氏ととも反乱の鎮圧や盗賊の征伐にあたる軍事貴族である。 当然、御所の警備も担当したが、上級貴族の飼い犬でもなければ、ドラマのような不当な扱いを受けていた わけではない。 元をたどれば、源氏も平氏も、天皇家から出た皇族の末裔である。 臣に下ったといえ、ドラマのような飼い犬のような扱いをうける筈がなかろう。 また、白河院の描写が酷い。まるで鬼ではないか。国の頂点にたつお方が、あのような言動をなさるはずが ない。 こうして見てくると、この大河ドラマのテーマが見えてくる。 それは、徹底して我が皇室を侮辱し貶めるものであり、龍馬伝にも共通した、支配者と被支配者との階級闘 争史観に貫かれている反日左翼自虐史劇であるということなのである。 国民に我が皇室に嫌悪感を抱かせ、我が国の歴史を貶めることを目的に作られたことが透けて見えてくる。 国民のお金で製作され、放映されているNHKの大河ドラマが、この様に皇室や、我が国の中世史を汚く汚 すものであっては絶対にならない。 早急に全スタッフを入れ替え、脚本も書きなおし、もう少しまともなドラマに作り直すべきである。 NHKの無責任さ 前にも書いた月性記念館でのことである。 月性が刀を片手に剣舞を舞っている絵があった。それを見た友が言うには、最近「古武術」についてNHKで やっていたが、あのK氏とは何者だと聞く。 確か以前にちびと痩せの糞生意気な漫才コンビの番組で、かのK氏がいろいろと変わった技(一般の人から 見て)を披露していた。 この人物は、著名な学者やスポーツ選手、芸能人などと交流を持ち、それにより世間を信用させ、ついに数 年前には、NHK教育テレビでシリーズとして紹介された。 その後も度々NHKにも登場し、本も数冊出している。 NHK教育の信頼性は絶大である。ほとんどの視聴者がこれですっかり信用してしまった。 その為、古武術と言えば、このK氏のパフォーマンスのことと勘違いしている人が多いのは驚くばかりであ る。我が友人もそう信じ込んでいる様子であった。 そもそも古武術とは、普通、古武道とも呼ばれるが、この二つは同じものである。 K氏があえて区別する為に古武術と称しているが、かえって混乱を招いている。 もともと、この名前は柔道、剣道などの現代武道と区別するために使われているが、通常、私達は古流と呼 び、〜流剣術、〜流柔術などという。 それらの各種様々な古流の武術の流派を総称して古武道あるいは古武術というのである。 厳密な意味での定義はないが、古武道或いは古武術は、戦国から幕末までに創始された長い歴史と伝統を持 つものを言う。 そして、これらの各種古流流派は、日本古武道振興会或いは日本古武道協会に所属している。 ちゃんとした正当な流派であるならば、当然、このうち一つ或いは両方に所属している筈である。 逆にいえば、この二つの団体に所属していなければ、古武道、或いは古武術として認知されていることには ならないのである では、このK氏はどうであろう。 実は、この人物、この世界では全く相手にされていないのである。 経歴を見てみると、最初は合気道をやり、次に手裏剣、そして鹿島神流に入門して三年後に自分の道場を もっている。 このうち、古流と呼べるのは根岸流の手裏剣と鹿島神流だが、多く見積もっても三年ぐらいの修業期間で は、初心者に毛の生えた程度でろくな修行も修めていないであろう。 実際、見てみると、派手なパフォーマンスばかり目立っていて、とても古武術と呼べる代物ではない。 長い伝統も歴史もなく、鹿島神流からぱくった技をもとに彼自身が工夫したけれん技でしかない。 世間知らずの学者や野球選手、芸能人相手に派手なパフォーマンスではったりを噛ませているだけである。 しかしながら細かい事を言えばきりがない。説明しても多くの人達には理解できないだろうし、いちいちK 氏をこきおろすつもりもない。 彼が実際にはどれほどの実力であるかとか、強いか弱いかということには全く関心がない。 大体、彼のいうなんば歩きや、間合いもくそもない各種の技法。体の使い方。これらは古流には一切存在し ないものなのである。 ただ、彼が数年修行した鹿島神流からぱくって自分流に焼きなおしたようにみえるものはあるが、これとて 鹿島神流と言えるほどのものではない。ただのパフォーマンスになり下がっている。 このように、K氏がいくら古武術と言い張っても、彼の広めているものは、断じて古武術ではない。 彼の編み出した唯のパフォーマンスである。 NHKが、このような人物を担ぎ出したために、古武術に対する一般の人達の認識が全く誤ったものとなって しまった。この誤解を解くために、あえてここに声を大にして言いたい。 K氏の古武術は、断じて古武術ではない。 言いたいことはこのことに尽きるのである。 NHKスペシャル「発見!幻の巨大軍船」について。 少し前になるが、NHKスペシャル「発見!幻の巨大軍船」という番組が放映された。 司会は、キャスターの松平定知、ゲストはタレントの優木まおみ、作家の半藤一利である。 長崎県鷹島沖合に沈んでいる元の軍船を調べた結果を、様々な角度から説明している。 個々のテーマについては、それぞれの専門家が説明しているが、問題は司会者とゲストの問答である。 タレントの優木まおみはともかく、問題は、半藤一利と司会の松平のいい加減な言動である。 折角、個々のテーマについては専門家の正確な検証があるにも関わらず、それを総括する司会者とゲストの 話でそれが台無しになってしまい、視聴者に大ウソの誤った知識を植えつけることとなってしまった。 個々の各専門家の説明は、多くの一般の視聴者にとって、あまり記憶に残らない。 一般視聴者にとっては、専門家の説明はわかりにくいものであるからだ。 むしろ、専門家の説明をわかりやすく説明するのが司会者やゲストの役割であり、視聴者は、この司会者や ゲストの説明を強い印象をもって記憶している。 ところが、この司会者とゲストが間違ったことを言っていれば、折角の専門家の説明もあまり意味のないも のとなってしまう。 この松平という司会者は、2000年から2009年のおよそ9年に渡って「その時、歴史が動いた」とい う歴史番組を担当していた。 そのせいか、歴史について変な自信をもっているようだ。 大体、この「その時、歴史が動いた」という番組自体、実にいい加減なもので、真実の歴史とは程遠く、お 世辞にも公共放送であるNHKが莫大な予算を投じて作るに見合った価値のあるものとはいえない。 この点は、優れた歴番組を多く製作しているイギリスのBBC放送とはまるで逆である。 このようないい加減な歴史番組を担当してきた自信の故か、まるで歴史の専門家にでもなったような思いあ がった言動が鼻についてならなかった。 しかも、その全てが単なるそのときの思いつきである。 一見して温厚そうな外見には似合わず、そうとう自我意識の強い人間であろう。 又、ゲストの選定にも問題がある。 半藤一利という小説家は、主に近現代史に題材をとった小説を書いている。 しかし、この元寇のような中世の知識や船に関する知識はほとんど持ち合わせていない。 元の軍船をテーマとしたこの度のスペシャル番組には、これほど不適切な人物はいないであろう。 船や十三世紀当時の歴史について全くの素人であることは、この番組を見ているうちにわかってきた。 ろくに知識も無いくせに、得々と何の裏付けもないいい加減な説をしゃべり散らす。 折角のスペシャル番組を高い製作費を費やして作りながら、この内容はなんであろう。 我々の視聴料の無駄遣いではないのか。 少なくとも、番組の内容はわかっているのだからちゃんと調べて十分に理解したうえでコメントするべきで あろう。 まず、冒頭でこの沈没船のタイトルである「発見!幻の巨大軍船」という文字に引っかかった。 果たして、この船が巨大軍船であろうか。 推定全長27m、100人以上運ぶことができるという。 同時代の外洋交易船は、新安船は34m、泉州船は25m。これが普通であった。決して巨大とは呼べな い。 現代の船で言えば100トン未満である。むしろ外洋を航行するには船として最低これくらいの大きさは必 要であろう。 つまり、外洋を航海する船としては決して大きくはない。 それを、司会者、ゲスト、こぞって巨大だと言う。半藤氏など、「あんなにでかい船・・・」などと言って いる。 この席には船に詳しい人物はいない。半藤などという、船にも日本の中世史にもど素人を、何故引っ張り出 してきたのか。 この時代より500年近く前に遣唐使が乗った船でさえ長さ30m、幅7〜9m、排水量約300トン、載 貨重量150トンで、この元寇の船より大きいのである。 古代ギリシャの三段櫂船(トライレム)は長さが36m、幅6mあったという。 少し時代は下るが、15世紀の大航海時代のキャラック船は、全長30m〜60m、排水量200トン〜1 500トンであった。 つまり外洋の荒波を押し渡るには最低30mの船長は必要であったということである。 その意味では、この沈没船が特別大きいということにはならず、到底巨大軍船とよべるものではない。 なお、後世、江戸時代の1000石積みの弁才船は、全長29m、幅7.5m、積載重量150トン。内航 船でさえこの程度の大きさはあった。 つまり、船の知識が少しでもあれば、この程度の船を巨大軍船などと言うことはなかった筈である。 このように、ずぶの素人の半藤氏を引っ張り出すくらいなら、この番組に登場する神戸商船大学名誉教授の 松木哲氏を呼んできたならば、まだまだ興味深い話が聞けたのではないかと思われる。 NHKが蒙古の軍船が小さいと思いこんでいた原因は、蒙古襲来絵詞という絵巻物に、彼らの軍船が小さく 描かれていたということのようだ。 しかし、これは、NHKの番組制作者や司会者が、如何にこの方面の知識が欠けているかの何よりの証拠で ある。 この蒙古襲来絵詞という絵巻物は、肥後国の御家人、竹崎季長が自らの戦功を記録したものである。 したがって主人公である竹崎季長や関係人物を大きく描き、それ以外のものを小さく描く。 これは常識であろう。 こんな事さえ知らないのかと思うと、ただただ呆れるばかりである。 番組中に提示された混一彊理歴代国都之図についても同様である。 この図は、李氏朝鮮時代1402年に作られたもので、中国で作られた二種の図をもとに、これに朝鮮と日 本を加えて作成された。 この図は竜谷大学所蔵の図と、近年発見された島原市の本光寺所蔵のものがある。 オリジナルは竜谷大学の図で、本光寺の図は江戸時代の日本で複写されたものといわれている。 この二つの図、日本の位置と大きさが大きく違う。 原図の竜谷大学所蔵図では、日本は90度回転して東西ではなく南北に伸びているし、その位置は今の台湾 より東にあり、しかもずいぶんと小さい。 反対に、朝鮮半島が実際の数倍大きく描かれていることは、作成したのが李氏朝鮮の官吏達であることを考 えれば納得がいく。 ところが、もうひとつの本光寺所蔵図では、日本は正しい位置に直され、大きさも大きくなっていて、不自 然さは全くない。 これは江戸時代に図を複写する際に、正しい位置と大きさに修正したと思われる。 このスペシャル番組で使用したのは、日本の位置と大きさが正しく記載されていることから本光寺所蔵のも のであろう。 しかし、モンゴルをテーマにするなら、江戸時代に修正された本光寺の図を使うのは間違いではないか。当 然ここは元の図である竜谷大学所蔵の図を使うべきである。 もし、竜谷大学所蔵の図を使ったならば、多くの視聴者は、日本の位置と大きさが違っていることに気が付 くはずだ。 当然、司会者とゲストの間でこの間違いは指摘されるであろうし、この地図が正確だなどという訳はない。 そこで、日本の位置と大きさが正しく修正されている本光寺の図を引っ張り出してきたというわけであろ う。 多くの視聴者は、日本の位置と大きささえ違っていなければ、他の国のことなどどう描かれていようがあま り注意を払わない。 ほとんどの視聴者は、現代の中国や朝鮮半島の地理さえ正確には知らない。ましてや700年も前の地図を 見せられて、理解出来るわけがない。 この図を見て半藤氏は、「正確ですね。よくこの時代にこんなものが描けたものだ」と誉めそやしている。 それはそうであろう。我々のよく知っている日本の大きさや形は、江戸時代に直されているのだから。 それに、中国からの2枚の地図を基に、李氏朝鮮時代に自国の地図を描き加えているので朝鮮や中国が詳し いのは当り前である。 しかし、この図の何所を見て正確などという言葉が出てくるのだろうか。 資料のあった中国朝鮮を除くと、他は殆どでたらめであり、また、余りにも朝鮮半島が大きすぎる。 大体、何故、唐突にこの地図が出てきたのか訳がわからない。 確かに元の時代の事が描かれている地図としては貴重ではあろう。 しかし、作られたのは15世紀の初頭、朝鮮で作られたものだ。しかも、余分なものが描き加えられてい る。 おまけに江戸時代の日本で大きく修正が加えられている。 そんなものを視聴者に見せて何を期待したのだろう。 ゲストに「正確だ、よくこんなものがこの当時描けたものだ」と言わせて何の意味がある。 確かに元朝当時の中国の様子や朝鮮の地理を研究する資料としては貴重なものであろう。それは否定しな い。しかし、その他の点については実にいい加減なものである。 この図のどこが正確なのか。感嘆するようなものではあるまい。 本気で半藤氏がそう思ったのならよほど観察力の欠如した常識のない人物といわねばならない。 最後にもう一つ。 司会者が、この海底に沈んだ沈没船に積まれていた磚というレンガ状のものや石臼は、何の為に積んでいる のかとゲストの女性に聞く場面があった。 この女性が家を建てるためと答えると、その通りです。日本を占領したら家を建てる為ですと自信たっぷり に笑みを浮かべて言ったのである。 このあまりの無知で愚かな言葉にしばし呆然とした。 そんなことがあるものか。14万人の軍勢が家を建てるには、100トン足らずの船の底に少し積んできた ぐらいで足るわけがなかろう。 これは素人が考えてもわかることだ。この松平という男、どんな裏付けがあってこんなでたらめをいうの か。 おそらく、磚や石臼の映像を見て、その時思いついたことを言ったのだろう。 なんという思い上がった言動であろうか。自分が思いついたことは全て正しいとでも思っているのだろう か。 じつは、この磚や石臼はバラストの為に積んでいるのである。このことは少し船に詳しい人間ならば誰しも 気が付くことである。 この船のいい加減なCG画像を見ると、船底はV字型をしている。 これを海に浮かべればたちまち横転してしまう。これを海中に真っすぐに浮かべる為に船底に重りをのせ る。これをバラストという。 ましてや、当時の船は帆船である。高い帆柱に大きな帆を張ると、相当重心が低くなければひっくり返って しまう。 そのためにバラストとして、重量のある磚や石臼を船底に積んでいたのである。 さらに、東シナ海の外洋を高い波や強風のなかはるばる遠征するのであることを考えれば十二分にバラスト を積んで来ることは当然であろう。 現在の船でも船底にバラストタンクがあり、そこに海水や清水を満たすことにより船の安定性を保ってい る。 これは船乗りや船舶関係者なら常識であり、この番組のゲストとして船に詳しい人物が誰ひとり居なかった ことが、この様なまちがった説を司会者やゲストにしゃべらせることとなったのである。 私が前に言ったように、神戸商船大学の松木哲名誉教授がこの場に呼ばれていれば、けっしてこの様な無責 任でいいかげんな言動を司会者や無知な小説家に言わせることはなかったはずである。 なぜ、このような間違った事ばかり司会者やゲストに言わせるのだろう。 この答えは「NHKだから」という以外に回答はない。 韓流歴史ドラマ 韓流歴史ドラマについて NHKの大河ドラマについて、如何にでたらめな作り方をしているか、また、その底にあるものは、相も変わ らぬ階級闘争史観と自虐反日史観であるということは今まで私が主張してきたとおりである。。 「平清盛」は、見るたびにその稚拙な作りと有り得ぬストーリー展開に嫌悪感を抑えきれず第三作は途中で 見るのを止めてしまった。 なぜこのように、ことさら汚らしい画面作りなのか。何故、我が国の平安時代をやたら醜く描くのか。皇室 のことを俳優に「王家」と呼ばせるのはどうしてなのか。白河法皇を始め法皇、天皇をことさら貶めて描く のはどういう理由があるのか。 これは、韓流時代劇が、やたらと絢爛豪華なことと無関係ではあるまい。 韓流時代劇(敢えて歴史ドラマとは言わない。何ら歴史的事実を踏まえていない、大ウソ、大虚構のドラマ であるからだ。) 最初に韓国時代劇を見た印象は、「何だこれは、日本の江戸時代の大奥物や平安王朝物のパクリではない か。」そう思った。 日本の絢爛豪華な王朝物や大奥もののまねをした。 やたらと原色や金銀の派手な豪華な装束に、国を挙げて作ったセットで、無知もうまいな韓国女性の虚栄心 と愛国心を煽った。 「我が韓国も、この様な絢爛豪華な王朝文化が存在したのだ。どうだ、日本よりすごいだろう。」この様な 得意げな声がこえてきそうだ。 しかし、現実はそうではない。 朝鮮半島は、常に中国王朝の影響下にあり、百済、高句麗、新羅以前は国と呼べるものは存在しなかった。 その後、新羅が半島を統一したが、これは、単独にやったのではない。唐の力を借りた。 以後、新羅は歴代中華王朝の冊封体制かにおかれ、李氏朝鮮に至るまで、中国の属国的地位に甘んじていな ければならなかったのである。 元来、朝鮮半島は、寒冷で、農作物はあまり豊かではない。 それは、現北朝鮮の状況をみればわかる。一部の特権階級を除いて、庶民は悲惨なほど貧しい。 これが、高句麗、新羅、百済から統一新羅、高麗、李氏朝鮮に至る一貫した実情であった。 所詮、中華帝国の一地方政権にすぎぬ、国とも呼べぬしろものであった。 この様な国とも呼べぬものに、あのような絢爛豪華な王朝文化が存在するはずはない。 確かに、国の制度や、服装、儀礼は中国風であったろう。それは当り前のことだ。中国の属国だったのだか ら。 中国風の衣装を着、中国風の生活をしていたからといって、彼らの文化程度が高かったことにはならない。 これらは、すべて、中国文化そのものに多少朝鮮の事情に合わせて修正を加えただけのものである。 いわば、中国亜流文化とでもいうべきもので、単なる模倣でしかない。 これは、如何に、彼らが否定しても、覆い隠せぬ事実である。 このように、事実とは大いに違う韓流時代劇。 大がかりなセットを使い、きらびやかな衣装で飾り立てたところで、大ボラであることに違いはない。 このことは、かれら自身もうすうすは気が付いているのではないか。 実は自分達の国の歴代王朝は悲しいほど非力で貧しく惨めであった。常に隣の中華帝国のご機嫌を伺い、機 嫌をとらなければ国の存続もままならなかった。 絢爛たる豪華な高い文化など独自のものはほとんどなく、これぞわが文化と言えるものは貧相な土着の文化 でしかない。 彼ら自身が、そのことを一番強く感じていたのではないか。 韓国人の国民性としては異常なほど虚栄心が強い。人に負けることや下手に立つことを極端に嫌う。 他国人が豊かな生活やレベルの高い文化をもっていることに我慢できない。 その、嫉妬ややっかみが昂じて、ついに日本の固有の文化である、剣道や柔道、侍まで韓国起源だといい出 す始末だ。 その様な屈折した劣等感により、あのような大ウソの韓流時代劇をねつ造し、日本の愚かなマスコミに売り つけたのである。 「おれ達の国はこんなに素晴らしい文化と歴史をもっていたのだぞ。」そう日本人に信じさせようとした。 それを、自分の国の歴史もろくに知らないあんぽんたんの日本のおばはん達が頭から信じ込み、彼らの術中 にはまって、現在の韓流ブームが起きたのである。 そこで、NHKである。こいつらが何をしたか。 まず、韓流ブームの口火、「冬のソナタ」を放映した。これが火付け役となり韓流ブームが日本中を席巻し たのである。 これは、有る意図をもって行われた。それは、日本国民の洗脳であろう。 大ウソ、ぱくりとねつ造だらけの韓流時代劇をNHKで放映すれば一体どういうことになるか。 多くの日本人、特に中高年の女性達は、公共放送であるNHKに対して絶対的な信頼をよせている。 NHKが放映していることだから間違いない。そう信じて疑わない。 とくに、この年代の人達に共通していることは、日本の正しい歴史も文化も知らない。 そして、日教組の左翼偏向教育を受け、脳を占めているの自国に対する偏見であり、自虐史観である。 このような人達に、NHKが韓流史劇を見せるとどういうことになるか。 結果は明白である。たちまち大ウソの煌びやかな韓流時代劇に幻惑され、魅了されて韓流どころか韓国フア ンとなってしまう。 まさにこれがNHK,およびその背後に蠢動している韓国人勢力の目的としてところなのである。 そこで、この度の「平清盛」。 このドラマが、絢爛豪華な王朝文化を正確に描写しては困るのである。 せっかく取りこんだ韓流フアンが、「なんだ、日本にもこんな素晴らしい王朝文化があったのか。韓流より こちらの方がいいや。」そう思って韓流離れを起こしてもらっては今までの苦労が水の泡だ。 そこで、ことさら、天皇家を貶め、華やかな軍事貴族の源氏や平氏を乞喰並みの汚い格好をさせる。事実と は異なるおお嘘のドラマをねつ造し、殊更我が国の中世史を、如何につまらないものかを強調しているの だ。 こうして、我が国の平安後期の歴史を汚すことにより、韓国の歴史的優位性を印象付けようとする魂胆が はっきりと読み取れるのである。 和船のレース 和船の競漕について 近頃、和船のレースが各地で盛んに行われるようになってきた。 特に瀬戸内海の水軍祭りや、イベント等でよく行われているようだ。 しかし、どうも違和感がある。そう思ってよく見ると、なんと櫂で漕いでいるではないか。 これではまるで長崎のペーロンか、旧海軍のカッターレースだ。 どう考えてもこれはおかしい。 昔から、和船は櫓によって推進と舵の両方の役目を行っていた。 櫂で漕ぐものもあったが、盥船以外はまず見たことがない。 しかも、その使い方は、単にボートのように水を掻くだけではない。むしろ櫓に近い漕法なのである。 私の子供のころ、海沿いの集落の子供たちは、ほとんどといっていいほど達者に櫓を操ったものだった。 私の家は海とは縁がなかったので、その様なことはできなかったが、近所の子供たちが伝馬船を漕いでよく 釣りに行っていた記憶がある。 この伝馬船は、艫に一丁の櫓があるだけ小さな船で、慣れさえすれば子供でも漕ぐことができた。 昔はそれほどありふれた船であった伝馬船が、今では全く見られなくなってしまったのは何故だろう。 一度、扱いを覚えてしまえばこれほど手軽に海で遊べる便利なものはないと思うのだが。 今現在は、昔ながらの伝馬船も姿を消し、櫓を自由に操れる人も少なくなった。 その為、町おこしでイベントや祭りをやるとき、より多くの人に参加してもらうためと、誰でもが少しの練 習で漕ぐことができる櫂にしたのだろう。 しかし、これはどう考えても変だ。是非とも本来の櫓で漕ぐ和船競漕に変えてほしい。 確かに漕げる人数は少なくなる。おそらく同じ大きさの船なら半分以下だろう。 また、ちゃんとまともに櫓が扱えるようになるのは、ただの体力勝負だけの櫂よりはるかに時間と熟練を要 する。 しかし、もしこれができれば、今までの安易な漕船レースよりはるかに格調高い和船競漕となり、この行事 自体がより一層魅力あるものになると思うのだが。 日本刀について 日本刀の切れ味 日本刀は、過去、武士の魂と言われてきた。 先の戦争でも、数多くの日本刀が戦場に持ち出され、切り込みなどに使われてきた。 確かに、刀で切られる恐怖というものは、想像以上のものらしく、多くの米兵が日本兵の万歳突撃に恐れお ののいたという。 しかし、実際の効果となると、心理的の恐怖感を与える以外はたいした成果は上がっていない。 自動小銃や最新の兵器を装備した米軍に、日本刀や銃剣などで肉弾突撃をかけることなど、誰が考えても、 有効な戦果などあげられるはずもない。 事実、切り込みをかける状況とは、大砲や銃の弾を撃ち尽くし、やけくそで突撃をかけた例がほとんどであ ろう。 つまり、全ての抵抗手段を失ったあげくの特攻攻撃であったのだ。 これでは、戦況を挽回するなど到底無理な話である。 以上の話は、戦争末期の米軍相手の場合であるが、実は、日本刀による白兵戦は、太平洋戦争以前の中国戦 線でも行われていたという。 遙か昔。私が中学生の頃、社会科の教師に、元騎兵隊の将校がいた。 でっぷりと太った貫禄のある人であったが、授業内容はわかりやすく優しい先生であった。 この先生が授業の合間に、よく戦争の話をしてくれた。 敗走する支那兵の首を馬上から切り飛ばすのだが、驚くほどよく切れたらしい。ジャッという音がして、ま るでわら束でも切るように切れたらしい。 この優しい先生が人を切ったなど信じられなかったが、話には実際に体験しなければわからないような箇所 があり、戦争の残酷さに聞き耳を立てながらおののいたものであった。 この話からわかることは、日本刀はとても良く切れる。そして、ちゃんと刃筋を立てて切れば、人を切るぐ らい何でもなく、折れたり曲がったり、刃こぼれさえしない。 このことは、後、数十年経った後、実感することとなる。 東京勤務のとき、ある古い古武道の流派を習っていた。 毎年、年始めの稽古始めに、先生はろくに研いでもいないような錆刀を持ち出して木の枝を切らせた。 集まった弟子全員に切らせるのだが、これが良く切れる。古手の弟子なら直径4センチぐらいの若木ならわ けもない。 さすがに女性や子供には無理があったが、少々粗い扱いをしたくらいでは、折れも、曲がりも刃こぼれ一つ しない。 そのとき、中学時代の社会の先生の話を思い出して、あの話はやはり本当であったかと合点したものであ る。 日本刀についての俗説。 山本七平説 日本刀については、珍説、愚説の類が大真面目に信じられ、特にネットにおいてはその無責任な馬鹿げた説 が大手を振って歩いている。 今まで私が説明したことで、ある程度は納得していただいたものと考えるが、これは私の少ない経験と、各 種資料に基づいて考察したものであるが、何分にも真剣を以て切り合いなどやる機会の無い現代において、 この程度が限界であろう。 最近、本箱を整理していたら40年以上前、古武道の師匠に言われて買った古書が出てきた。 本の題は「随筆 日本刀」筆者は成瀬関次である。 発行は昭和17年4月18日、大東亞戦争が勃発した4ケ月後にあたる。 著者は東京外国語学校卒業の後、教員、宮内庁付き記者、豊島区議会議員を経て、根岸流手裏剣術、桑名藩 伝山本流居合術を習得。 昭和13年に9カ月にわたって北支、蒙彊戦線において刀工を率いて軍刀の修理をして廻った。 その時の詳細なデータを元に「戦ふ日本刀」「実戦刀譚」「随筆日本刀」などの著作がある。 欧米相手の大東亜戦争と異なり、支那兵相手の戦闘では、刀剣を振い、銃剣での肉弾突撃はかなりあったよ うで、その肉弾戦の聞き取り調査や、その結果の損傷した日本刀の状態や修理記録を見れば、俗説やいい加 減な憶測などではなく、確かな日本刀の真実を知ることができると思う。 良く言われていることに、日本刀は三人切ればもうそれ以上は切れなくなるという説がある。 これなどいい加減な俗説の最たるもので、三人しか切れない刀が、その誕生以来千年近くも数々の合戦に使 用され、夥しい数々の名刀が造られ、武士の魂として尊重された筈がないではないか。 この説の出どころは、山本七平氏の「私の中の日本軍」のようで、死体の腕と足を切った彼自身の体験か ら、腕は二太刀、足は一太刀でやっとのことで切り離すことができたと言っている。 そのとき、刀身を拭うと何やらべっとり着いてきた。鞘には収まったが、鍔や柄がガタガタする妙な感じが したということである。 しかし、これは山本氏の腕が悪かったことと、粗製乱造の大量生産された軍刀で、ろくに手入れもされてい ない刀を使った為、この様な結果となったと考えてよい。 銃なら引き金を引けばどんな素人でも簡単に人を殺すことが出来る。 しかし、刀剣のように単純な武器ではそれを使う人間によって極端な差がでるのである。 山本氏は徴兵され、その後、幹部候補生となり予備士官学校卒業後、砲兵少尉としてルソン島に配属されて いる。 この死体を切ったという体験はその時のものであろう。 しかしながら、この体験は日本刀は三人しか切れないという説の根拠とはなりえない。 死体の手足をうまく切れなかったことと、日本刀は三人しか切れないという説とはどう結び付くのであろう か。 刀にはど素人の砲兵少尉が死体の腕を切りそこなったというだけの話である。 刀の切れ味の話とその使用限度は全く別の話であるし、三度腕や足を切っただけで鍔や柄にガタがきたの は、もともとその刀の手入れが悪く、目釘や柄の調整が悪かっただけのこと。 刀剣に知識があり、その扱いに慣れていればこの様なことは絶対に起こらない。 ど素人のあさはかさの故の勘違いということではなかろうか。 実際は刀はよく切れる。それは私が過去散々言ってきたことであるし、何人切れるかという事は、その刀と その人の技術で大きく違ってくるのは当然のことで、三人切ったらその刀は使いものにならなくなるという のはでたらめも甚だしいと言わざるをえない。 頭でっかちの文人のたわごとである。 刀の切れ味については、上記成瀬氏の著作「随筆日本刀」に下記の如く書かれている。 「素肌の人間を斬ること位たわいのないことはない。素つ首などは、一尺四五寸位の脇差を片手に持って、 それで切れすぎるほどだ。戦場では、若い士官などが、大刀を大上段にふりかぶり、満身の力をこめて敵の 首をねらひ斬りにし、勢い餘つて刀の切っ先何寸かを、土の中に切り込むのはまだよいとして、よく誤つて 自分の左の脛などに大怪我をする。」 「骨を切るといふことも、思った程ではない。死後若干時間が経過すると、堅くなつてきりにくいが、生き 身は今年竹の程度だと、誰しもいふ大體首は、中位の南瓜を横に切る程度、生き胴は南瓜に横に直径一寸二 三分の青竹を一本貫いたものを切る程度と云ったら、略見當がつくであらう。斬り損ずる原因の一つは、誰 しもあわてること、上気してしまふことだ。それによって見當を誤るのでよく肩骨に切り込んだり、奥歯に 切りかけたりして失敗する。」 日本刀について(続) 日本刀の切れ味(続) 日本刀は確かによく切れる。 しかし、ここで考えなければならないことは、何を切るかということである。 素面素小手の生身の人間を切るのと、鎖の着込みを着た人間とでは違う。 又、戦場で鎧武者を相手に戦う場合には、切れ味よりも頑丈でなければならない。 さらに、切る人間の技量によっても大きな差がある。 いくら名刀といえど、ずぶの素人、特に女性が切る場合と、据もの切りの名人が切るのとではその切れ味に 大きな差が出てくることは誰が考えてもわかることであろう。 この場合、多少のなまくら刀であっても、強力の男が力一杯切れば、人の首などわけなく切れるはずだ。 これは、ろくな刃も付いていない青竜刀のような鈍刀で、重みで人の首を切るのとおなじである。 前に書いた、日本刀で木の枝を試し切りにしたときも、先生の持ち出してきた刀はろくに研いでなくて、切 れ味の点では落第であった。 それでも木の枝ぐらいたやすく切れたのである。 刀は、刀鍛冶による手作業で作られる。当然、その職人の技量の差によって、できあがりが大きく左右され る。 頭蓋を割り、骨を断ちきっても、刃こぼれひとつしない刀があるかと思えば、折れ曲がり、刃はぼろぼろと いったお粗末な刀もあっただろう。 また、例え名人と言えども、その打つ刀全てが名刀であるわけはない。当然駄作もある。 これが手作りの欠点でもある。 現代の工業製品なら全ての製品が均一であるが、手作業で作られる日本刀はそうではない。 これが日本刀の宿命であろう。 つまり、素肌の人間を斬り殺すにはそれほど鋭利な刃は必要ないのである。 それよりもそれを使う人間の技量のほうが大切だ。 日本刀の柄 日本刀の柄について 日本刀について、その刀身や鍔、拵え等について語られることが多い。 しかし、柄については、余り詳しくは語られることはなかったと思う。 この柄の形について感心させられたことがある。 毛抜太刀や鎌倉期までの大刀は柄の部分から湾曲している。 ところが、時代が下るにつれ、反りは刀身の部分のみとなり、柄は真っ直ぐとなり、長くなった。 このことは、何を意味するかというと、刀の持ち方が片手から両手に変化したことである。 これは、この頃戦闘のやり方に大きな変化があった事と期を一にする。 平安、鎌倉期を通じて、騎馬弓箭の戦闘が主体であった。ところが、南北朝から室町にかけて、徒歩打ち物 による戦闘が増加してくる。 大刀も長大となり、それを扱うには両手を使わなければならなくなった。それとともに柄の長さも長くな る。 長く重い刀はとても片手で扱えるような代物ではない。そしてそれを思うように振り回す為には、長い柄が 必要となってくる。 太刀を両手で持つようになれば、ただ、片手で打ち下ろすだけの単純な使い方ではなく、様々な技法が生み 出され、重い刀も自在に操れるようになる。 この技法がもっとも良く残されているのが天真正伝香取神道流である。 この柄の形状について恐らく殆どの人が気がついていないことがある。 日本刀の柄の形をよく見ると、中央部が僅かに細くなり鼓形をしている。実は、このことは、極めて重要な 意味を持っているのである。 説明は少し長くなるので、次ページに詳しく説明することとする。 日本刀の柄(続) 日本刀の柄について(続) 前の続き。 日本刀の柄の形はよく見ると両端が太くなり、真ん中が僅かに細くなっている。 いままで、私はこの形の意味を深く考えたことはなかった。 しかし、このことは、刀を両手で持って切るという動作には極めて重大な意味をもつ。 もう十年以上前のことである。 私の習っていた古流の柔術に、外物(とのもの)として、大太刀術がある。 これを一対、二本、道具屋に頼むと一本数万円もする。 あるとき、妻の友人から、白樫の角材が二本、手に入った。 これはいい。これで大太刀を作ってやろう。そう思って削り始めた。寸法はわかっている。 長さは110センチ、通常の木刀より十センチ前後長いだけだ。しかし、その太さが尋常ではない。 最初は電動鋸で大まかな形をとり、あとは、手鉋で成形することとした。 ところがこの白樫という木はすこぶる堅い。手鉋だけでは全くはかがいかない。 仕方がないので、電動鉋を使うことにした。しかし、電動鉋を使うと削り過ぎるのでよほど注意してかから なければならない。 苦労して荒削りしたのち、手鉋で細かい仕上げをして、ほぼ荒削りながら形ができた。 重量2.5キロkg余り。構えて見ると実に重い。本物の日本刀が重さ1kg余りであるから倍以上の重量 がある。 問題は柄の太さだ。直径が5cmほどもあるのだ。 これでは、構えることはできても自由に振り回すことはできない。この寸法は間違いではないのか。 それとも昔の人は、こんな柄の太い重いものを軽々と振り回していたとでもいうのだろうか。 試しの振って見る。確かに振ることはできるのだが、手の内が心許ない。二本をお互いに打ち合わせてみて も、鈍い音がするだけで、重い刀身に負けている。これでは駄目だ。 折角苦労して、五月の連休を返上してこの二本の木刀を削りあげてきたのだ。これでは使えない。 ただ、これはまだ荒削りのままだ。柄の成形もやっていない。そこで兎に角最後まで作ってみることにし た。 柄の部分は柄頭から鍔にかけて全体が円筒形のままだ。これを、中央部で1cmほど削り、鼓状に成形し、 全体にサンドペーパーをかけて仕上げた。 仕上がった木刀。重さは余りかわっていない。手に取り、構えてみた。 これはなんということか。手にしっくりとなじみ、些かも無理なところや違和感がない。 振ってみる。打ち下ろして中段で止めてみるが、手の内がぐっとしまり、刀身の重さに負けるところがな い。 思い切って二本を打ち合わせてみる。冴えた音がする。力一杯打ち合わせても全く不安が無い。ぷんと焦げ 臭い匂いがした。 とくに大したことはやっていない。重さも殆ど変わらない。ただ、柄の中央部で一センチほど鼓型に成形し ただけだ。 しかし、これほど結果に顕著な差が出てきている。 新ためて先人の知恵の偉大さを思い知らされた思いがした。 日本刀の柄の形状が、僅かに中央部が細くなった鼓型の形状をしているのは、こういった訳だったのだ。 僅かに柄の中央部を細くすることにより、格段に手の内がよく締まり、斬撃力が向上する。刀の操作性の向 上は瞠目すべきものがあるのである。 日本刀の「りうご柄」のこと 「りうご柄」とは。 これまで、刀の柄について、ほとんどその重要さを検証されることがなかった。 しかし、前にも書いたところであるが、その形は中央が少しくびれた鼓の形が最良であることを私の体験を 通して述べたところである。 最近、同じ記述を成瀬関次氏の著作「随筆日本刀」のなかに見つけた。 成瀬氏は、この私の云う「鼓形の柄」のことを、「龍鼓形の柄」、古来「りうご柄」と云われているものだ と書いている。 以下に簡単に提示して見よう。 「刀の切れ味は刀柄からも出る」これは昭和十三年の秋、北支従軍から帰ってきた成瀬氏が第一に発表した 日本刀に対する感想である。 「刀柄の分担する刀の切れ味だが、刀身それ自体の切れ味が少々悪くても、柄の握り具合がよく出来ていれ ば、刀身の欠点を充分に補うものである。柄が悪いとその反対の結果になってしまう。これも戦場で、今更 の如くに気のついた事の一つだ。 実際、敵を何人も斬撃して、その切れ味殊の他優秀であったというような血刀を何十刀も手にして仔細に検 分した結果の印象ともいうべきものは、刀身はどちらかと云えば(例外もあるが)精々細めのもの、反りは 尋常、刀柄は短くなく、ねっちりと締まって、一分のそつもゆるみもない、刀全体に一脈の弾力のあるも の、ということになる。」 注目すべきは次の一節である。 「切れ味の出る刀柄はといったら、著者は躊躇なく{龍鼓形の柄}と答える。 古来{りうご柄}の名で通って来ている。 鼓のように、中の浅くくびれたもので、これであれば前に述べた濡れ手拭を絞るように扱うにはもってこい であり、片手斬りには、云い知れぬ力を伴う。 刃にそりはあっても、刀柄にそりがあってはいけない。 馬上の片手斬りならよいが、今日の如く、徒歩立ちの両手づかいには、そりのないこのりうご形にかぎる。 刀身も長く、従って刀柄も長くつくるには、りうご形の柄の背の方を心持ち平らにしたものがよく、刀の中 心に反りはあっても、それに柄を順応させることは禁物と思われる。」 日本刀の柄についての補足 日本刀について、いろいろ書いてきた。 現在に於いて、実際に日本刀で人を斬るわけにはいかない。 また、美術工芸品として完成された姿を持つが故に、専ら美術工芸品としてのみその価値が論ぜられてき た。 日本刀、特に打刀が完成され、その使用法が研究され、実際に戦場で使われていた時代からはや、400年 以上経過した。 江戸時代は島原の乱が一度あったきりで、その他は概ね平和であった為、刀の本来の使い方は忘れられ、美 術工芸品としてのみ、その価値が云々されるようになった。 つぎの明治新以後は、武家階級の消滅により、日本刀はなおさら一般の日本人から縁遠い存在となり、今現 在、その価値は美術品としての評価であり、実用品としての性能は全く考慮されていない。 こうして、日本刀の実用性については、そのほとんどが忘れ去られ、その真実を知る人物は、もはやどこに も存在しない。 私がここにくどくどと説明しているのは、我が国固有の武器であり、独特の使い方をする日本刀の実用品と しての姿を、すこしでも多くの人達に理解していただきたいからである。 日本刀は、実際に人を斬って試すことができないために、過去、多くの文筆家たちが筆の勢いに任せて多く の珍説奇説を創造してきたため、多くの誤解がある。 それらの誤りについて簡単に訂正したいと思う。 刀の柄の形状については、先に説明したとおりであるが、その他、柄について大切なことを補足説明させて いただこう。 1.刀の柄の材質 現在、ほとんどの刀の柄は朴の木が使われている。 朴の木は材質が均一で細工がしやすい。 刀の柄は、刀身の中心(なかご・・・刀身が柄に収まるところ)とぴったり合わさり、いささかもこの部分 にガタがあってはならない重要なところであるので、比較的柔らかく、工作しやすいということで現在はこ の朴が多く用いられている。 しかし、工作しやすいことの反面、割れやすいということも懸念されていたようであり、このことをもっ て、日本刀は実用性において欧米諸国の剣に劣るというような説をどこかで読んだ記憶がある。 しかし、これは、その論者の無知や思考能力の低さを吹聴しているようなもので、大きな間違いである。 外国の剣は、そのほとんどが片手で扱う。 つまり、左手で楯を持って敵の攻撃を防ぎ、右手で剣を振るう。主に斬るというより突きのほうに重点が置 かれていたのである。 例外として両手で使う長大な剣もあったが、その大部分が直剣であり、片手で操作したため、その柄の部分 にはあまり過剰な力がかからなかった。 これとは対照的に、日本の武士は、平安期の草創期から、鎌倉から南北朝、室町時代を経て戦国期には、刀 を両手に持って、主に斬ることに特化した彎刀を使っていた。 楯を使わず、両手で柄を持ち、敵の太刀や大太刀、長巻、長刀などと渡り合う。 これは片手で主に突きを多用する西洋の剣に比べて、比較にならぬほどの衝撃を手に与えることになる。 このことは他のだれも言及していないようだが、実は極めて大切なことなのではなかろうか。 木刀や棒で思い切り堅いものを叩くと、手の内がよほど締まりしっかりしていないかぎりは、逆に手は痺 れ、最悪、手や手首関節を痛めることとなる。 この握りの部分、つまり柄が、何の緩衝もない鉄や金属で出来ていれば、その結果はあきらかであろう。 日本刀は、この過大な衝撃力を少しでも吸収し緩和するために、長めの木製の柄を使ったものと考えられ る。 朴の木は比較的柔らかく適度な弾力性がある為、江戸以降は大いに多用され、今ではほとんどの柄は朴の木 が使われている。 もっとも、強度に不安がなきよう、これには朴の良材を厳選し、最新の注意を払って工作しなければならぬ ことは云うまでもない。 しかし、朴が、実用刀にもっとも適していたかというと実はそうではない。 朴は実用をはなれ、実戦で使うことがなくなり、従って柄に大きな衝撃が加わることがなくなった江戸期以 降多用されていた。 つまり、単なる美術工芸品として、または武士の権威の象徴としての刀なら、柔らかく加工のしやすい朴で 柄を造ることは何の問題もなかったと思われる。 しかし、実用刀の柄の材質としてはその選択は最良とはいえなかった。 成瀬関次氏によれば、「ごつと堅い樫よりも、堅いうちにもどことなくしなやかさがあって、それでいて決 して折れぬ柚、梓、檀などが尤物とされている。」とある。 つまり、柄の材料は、堅く丈夫ではあるが、あまり柔軟性がなく、衝撃を吸収することの少ない樫よりも、 しなやかで柔軟性があるため、衝撃吸収力に優れた、柚、梓、檀などの方がより適していたというのであ る。 おそらく、戦乱に明け暮れた戦国期の実用刀の柄は、柚、梓、檀等の丈夫な木が使われていたのであろう。 2.その他の用法 柄の長さについては、居合術の祖、林崎甚助に(神伝柄八寸の徳)という語がある。柄は三握りとも言われ ているが計ってみると大体八寸であると成瀬氏は言っている。 日本刀の特徴は、他国の剣に比べて、この柄の部分が長いことであろう。 古い居合や柔術、剣術の流派では、この柄を利用して、柄頭で当て身を入れたり、掴んでくる相手の手を抑 えたりという技法を残しているものがある。 又、極めて古い柔術の流派の外のもの(これは、主たる剣術や柔術の技法の他に、心得として知っておくべ き、棒術、居合、薙刀、十手などの簡単な技法が付随している。これらのいわゆる教養科目のことを外のも のという)に、八本ばかりの簡単な居合術が残されている。 その中に、敵を切り倒し、血振るいの後、刀を一回転させ、その柄元を右拳でトンと叩く動作が入ってい る。 これは、血振るいと説明されているが、実は、人を切ったあとの柄のゆるみやガタを調べるたものではない かと思う。 実戦刀について・・・・樋の効用 実戦刀について 日本刀について、最後に観賞用や美術工芸品としての刀ではなく、実際に合戦や斬り合いに使う実用刀につ いて成瀬関次氏の著作から引用してみよう。 1.刀の樋の効用 刀身についている樋は俗に血流しともいわれ、敵を斬ったとき、血がこの溝を伝って流れるためのものであ ると言われている。 また、この樋は刀の棟の方から見て右側に掻いてあるものが多い。 左ぎっちょ以外の人が人体を斬ると、多くの場合、刀の中央部から先が左へ曲がるが、右側に樋が掻いてあ ればその曲がりを幾分抑えることができるということである。 このように、昔の実戦刀は、命の取り合いである斬り合いに際し、敵に後れを取らぬ為に極限までの工夫が 凝らされ、何一つ無駄なことはないというということがわかる。 最近の居合の演武を見ていると、刀を振るごとにヒュッと音がする。 実際の刀はかなり重いものである。 この重い刀を振って風切り音を出すとは相当早く刀を振らなければならない。 不思議に思ってその刀を良く見ると、刀身の両側に溝が切ってある。 なるほど、そういうことか。この刀の両側に切ってある溝により刀を振ると風切り音がでていたのだ。 しかし、刀の両脇に溝を掘ったのであれば、上記の刀身が曲がるのを防ぐことはできない。 この場合の樋の役割は、血流しとこの風切り音による威嚇効果だけということになる。 この実用上の目的、刀の曲がりを防ぐという最重要の役割がないとすれば、この刀身の両側の樋は、単に風 切り音を発生するだけの目的で彫り込まれているにすぎない。 最近の話である。 武道場でいつも一緒になる居合の先生がいた。 広島県内では相当高位の人らしいが、自然に話すようになり、稽古に使っている刀を見せてもらった。 ずしりと重い。 聞けば1kgもないという。しかし、私が昔作った2.5kgの大太刀の木刀と変わらぬように感じられ る。 しかも、先端が遥かに重く、バランスが全然違うのである。 ショックであった。 木刀や竹刀と全く違う。別物である。 これではいくら木刀や竹刀をうまく使えても、必ずしも真剣を上手につかえるとは限らないし、木刀や竹刀 の技法も再検討しなければならない。 真剣では役に立たない技もかなりある。 これは是非とも錆刀でも良いから一本手に入れて実際に使ってみる必要がある。 この場合、却って刃がついていると危険なので刃引きをしなければならないだろう。 そう思って、ふと気が付いた。 実は昔、日本刀を使って生木を試し切りしたことがある。 私の若い頃、新年の稽古始めには師匠が錆刀を持ちだして、弟子全員に生木の枝を斬らせるのが通例であっ た。 しかし、その時は何にも感じなかった。 何故だろうと考えた。それは、当時、師匠も若く元気であった為、全て師匠にお任せで、何一つ自分で考え ることはなかった。そして、その時は、使いなれぬ真剣を振りまわす緊張感と、皆の手前、巧く切らなけれ ばということが頭一杯で、その他のことに気を回す余裕がなかった。そういうことだったのだろう。 ここではたと困った。本物の日本刀など到底買えるしろものではない。 件の居合いの先生に聞いたところ、その人の刀は400万円もしたという。 40年ほど前、入門当時、師匠は新たに新刀を造らせると50万円ほどかかると言っていたっけ。 現役で働いていた当時でさえ当時の50万円は大金であった。ましてや、年金生活でぎりぎりの生活をして いる者にとって、これは考えることもできない大金である。 何とか、ボロ刀でもないかと思って骨董屋を数件当たって見たが何所にも置いていないという。 しかし、古い居合用の模擬刀ならあるとのこと。 頼んで見せてもらった。 店主は、奥から二振りの模擬刀を持ち出してきた。 そのうちに一振りは重い。計ってみると刀身だけで1kgある。これはちょうどよい。素振りにはもってこ いだ。但し、材質は何でできているかわからない。 かなり古い。しかし、多分、アルミダイキャスト製であろうからそんな昔ではない筈だ。 安かったので買って帰った。 帰って、振って見ると実に重い。片手で抜き打つのがやっとである。 両手で振って見る。 小さな風切り音がするが、居合いの演武で見られるようなはっきりした音ではない。 この模擬刀には樋は掻いていない。樋がない場合、よほど早く振らないとあの風切り音はでないものらし い。 しばらく使っているうちに少し柄にガタがきたような気がした。 模擬刀といえどこれは危険である。 意を決して新しい模擬刀を買うことにした。 注文してひと月余り、新しい模擬刀が届いた。 これには刀身の両側に樋が掻いてある。 重さは1kgに足らぬぐらい。 振ってみると、片手で抜き打ってもはっきり聞こえるほどの風切り音がする。 やはり、現代の居合刀の刀身の両側の溝は、この風切り音を出す為ものであった。 ここで一つの疑問。 この風切り音、威嚇の効果が果たしてあるものだろうか。これは相手によって様々であろう。敵の10人が 十人、恐怖を感じるものであるならばこの樋の効果はあるといえるだろうが、人によって効果のない者がい るとすればこの樋を掻いてまで刀の強度を落とす意味はなかろう。 現代の居合刀は、この刀身の両側に樋を掻くことによって派手な風切り音を発し、演武時のかっこよさ、つ まり舞台効果を狙ったもののように思える。 つまり、この樋を彫った部分だけの重量軽減効果はあるであろうが、実用上の有効性はないと思われる。 2.刀の切先と鍔元 刀の切先は、日本刀の部位で最も大切なところである。 物打ちというは、通常横手筋から3、4寸ほど柄の方によった個所をいうが、この部位でもって敵を切るの がもっとも良いとされている最重要部位である。 そのため、この切先から物打にかけては、その鍛錬や焼き入れは細心の注意を払って行わなければならな い。 また、その作りは、小鎬と三つ頭のあたりを特に厚く頑丈にし、棟のほうから見ると丁度小蛇の首のように 見えるという。 それから、横手筋角、即ち刃の三つ角をかっきり鋭く尖り気味に研ぎ合わせる。 この上記二つの条件を満たした切っ先なら、折れもせず、また引き切りに敵を切ったとき、この三つ角の鋭 い尖り角が作用して、一段と切れの冴を見せるのであると成瀬氏は言っている。 また、切っ先とは反対側、鍔元から3〜4寸までは刃を引いておくということがある。 なぜならば、誤って自分自身が怪我をするのは、多くの場合この場所であるから。 また、よく誤解される言葉に、鍔元三寸で敵を切るようにせよというものがある。 この場合、この鍔元3〜4寸に刃はついていなければ、この部分で敵を斬ることができないではないかとい う理屈になろう。 しかし、これは、実際に刀の鍔元で敵を斬るという意味ではない。 いざ、斬り合いとなり目前に敵の剣尖を突きつけられれば、恐怖のあまりその間合いを見誤り勝ちである。 心理的に相手の姿が大きく見え、恐怖のあまり腕は縮こまり踏み込みも浅くなる。 その様な状態で切りおろしても、剣尖は敵に届きもしない。 そこで、云われていることは、敵の股ぐらに足をふみこみ、刀の鍔先三寸で敵を斬るぐらいの心持で懸らね ば、敵に致命傷を与えることができないということなのである。 つまり、古来云われている刀の鍔で敵の頭を割るつもりで懸れとか、鍔元三寸で敵を切れということは、そ れくらい思い切って接近して切れという意味で、実際に鍔元三寸で敵を斬るということではない。つまり言 葉のあやであり、心得なのである。 3.鍔の役割 鍔の役割も意外と知られていない。 最も知られているものに敵の刀の斬り込みを受けるというものがある。 この場合、直接鍔で受けるのではなく、鎬で斜に迎え、その上を滑らせて鍔で受けることのほうが多い。 軍記物によく書かれている「鎬を削り、鍔を割る」といって、激しく斬り合うこと意味する表現がこれであろう。 但し、剣術流派によってはこれをやらない流派もある。 もうひとつ。 これは意外と知られていないことであるが、敵を突く場合、手が滑って自分の刀の刃で手を斬る事が多い。 多くの刃物を使った通り魔事件で、鍔の無い刃物で人を刺した場合ほとんど例外なく自分の手を切っている。 有名な例では、世田谷一家殺人事件では、柳場包丁や文化包丁で一家を突き殺しているが、この犯人も手に怪我を負ってい る。 これは、何回も人を突き刺しているうちに血で手が滑ったか、あるいは手が疲れて握力が鈍り、突いた拍子に刃の部分で自 分の手を切ったものであろう。 刀は突くこともあるし、敵の切込みを受けることもある。 そのとき、我が手を護り、また、刀の重量のバランスをとるために、鍔は必要なのである。 西洋の剣でこの鍔が棒状のものがかなりある。 一見、十字架を模したようにも思えるが、これは単なる宗教的意味だけではなく、敵の体を突き刺したとき、手が滑って自 分の手を傷つけないためのものであろう。 4.頑丈さと切れ味 刀の頑丈さと切れ味、この二つは相反するものである。 材質と構造が同じであれば、頑丈に作るとなれば当然鎬を分厚くしなければならない、その結果、刃の角度は大きくなる。 反対に切れ味をよくしようと思えば刃の角度は小さく、刀身の厚みを薄くしなければならない。 例えて言えば出刃包丁と柳刃包丁を比べてみるとよい。 出刃包丁は、鯛などの硬い骨も断ち切ることができるし、少しぐらい手荒く扱っても刃こぼれすることはない。 しかし、柳刃包丁で鯛の頭を断ち割ればたちまち刃は欠け、なまくらな包丁だと折れたり曲がったりするかもしれない。 柳刃包丁で人を切ったり突き刺したりすれば、刃先は折れる。これは不謹慎を覚悟で例えてみれば、世田谷一家惨殺事件を みればよくわかる。 このとき、主人を刺したとき刃先が折れ、被害者宅の文化包丁で殺人を終えている。 この文化包丁も刃が曲がっていたという。 これは、柳刃包丁や文化包丁などの身の厚みの無い刃ものでは人を切ったり刺したりするには向いていないということであ ろう。 硬く焼きの入った柳刃包丁は刃先が折れ、なまくらな文化包丁は曲がってしまった。 この場合、被害が反撃してこなかっからいいようなものの、もし、相手が刃物を持って向かってきた場合、この手に傷を負 い、先が折れたり曲がったりした包丁を持っていた犯人は果たして無事に逃げおおせたどうかわからない。 柳刃包丁は、本来、刺し身などを造る為の包丁である。柔らかい魚の身を組織を崩すことなく薄く削ぎ取るためにはできる だけ鋭利な刃でなければならない。 その為に極めて薄く作られている。硬い骨や獣肉を斬るものではないのでそこに頑丈さは全く必要ない。 この様な包丁で切り合ったらどうであろう。刃と刃を打ち合わせればたちまち刃はぼろぼろとなり、強く当たれば折れる。 また、人を突き刺して抉ればこれも折れたり曲がったり折れたりするであろう。 一方、出刃包丁は身は厚く極めて頑丈にできている。硬い骨や魚の頭を断ち割るためにある程度の重量がある。 これならば、人の一人や二人突き殺したり、斬り殺したりしてもなんでもあるまい。 いささか極端な例ではあるが、これらを戦国期の実用刀と幕末期の切れ味や美術的価値を重視した刀に例えてみれば理解し やすいと思う。 実際の戦場に於いて、カミソリのように良く切れるということはさほど重要ではない。 実は、人体ほどひ弱なものはないのである。首を落とすにも、腕を斬り落とすにもさほど鋭利な刃は必要ない。ろくな刃も ついていない中国の青龍刀でさえいとも容易く人間の首ぐらいはおとすことができる。 良く切れるということは、単に大した力を入れずとも切れるというぐらいの意味でしかない。 実用刀としてそれより大切なことは、少しぐらい乱暴に扱っても折れず曲がらずということが必要不可欠なのである。 そうでなければ、多くの敵と渡り合い、いつ果てるともわからぬ戦闘の長丁場を耐え抜くことなどできはしない。 しかし、いくら頑丈に作られた実用刀といえ、現代の剣道のような使い方をしていたのでは刃こぼれや損傷はする。 このことは以前詳しく書いたとおり。 では、なぜ、現在ではその事が忘れられ、良く切れることばかり重要視されるようになったのか。 それは江戸時代の太平の世を経て、実際に刀をもって切り合うことがなくなり、刀の価値は丈夫さよりもその美術的価値や 切れ味が重視されたためである。 戦争が無くなり、実際に刀で斬り合ってその頑丈さを試すことができなくなったので、自然、その評価は処刑された罪人の 体を試し切りすることによって切れ味を試すしかなくなった。 つまり、罪人の体二つ胴、三つ胴も容易く切れる切れ味が要求されたのである。 その結果、シャープな切れ味に劣り、重い戦場実用刀は敬遠され、切れ味がよく軽いが頑丈さに劣る刀ばかりが珍重される ようになった。 そして、重く、頑丈な刀は薄く研ぎ減らされ、あるいは、短く切られて脇差に姿を変えたのであろう。 幕末動乱期に至り、刀による斬り合いが横行する。 その時に使われたのが上記のような頑丈さに欠ける刀である。 このような切れ味優先の軟弱ないわば柳場包丁のような刀の刃と刃を思い切り打ち合わせれば、たった一度の戦闘で刀とし て使いものにならなくなってしまうのはあたりまえのこと。 武器というものは、その構造が簡単であればある程、それを扱う人間の技量によって大きな差がでてくる。 特に日本刀のように片刃で反りがあり、かなり重量のある武器はその傾向が強い。 その技術を習得する為に多くの剣術流派が生まれた。 しかし、いまや、江戸以前にまで遡る実戦技を保存している流派は極めて少ない。 ほとんどの日本人はその様な流派がある事さえ知らない。その極めて古い剣術の技法を知らなければ、戦国期の斬り合いの 実像など知るよしもなく、従ってどの様な刀が使われたかなど想像もできないだろう。 現在美術品として高い評価を受けている、姿かたちの美しい日本刀を見て、この軟弱な刀が実際に戦場で使われたと思い込 んでいるかぎり、本物の実用刀はわからないし、戦国合戦の実像は見えて来ない。 5.刀の下げ緒について 最近、摸擬刀を購入したが下げ緒の寸法が七尺四寸もある。 なんだか長すぎて邪魔で仕方がない。 時代小説でよく見る表現に、刀の下げ緒を外して襷を掛けて決闘に臨むという記述がある。 居合の流派のなかにもこういった口伝のあるものがあるそうであるが、実際はどうであろう。 いやしくも命のやりとりをする場に、襷も用意せず、刀の下げ緒で間に合わせることなどあるであろうか。 襷にするには大体六尺六寸ほどあれば足りると思われるので七尺四寸もあれば十分である。 それ以前骨董屋で買った摸擬刀の下げ緒は五尺三寸である。 これでは襷には短い。 江戸期の下げ緒の長さは、栗形に通して二つにし、こじり下一握りというものであったらしい。 当時、公許された最も長い刀は刃渡り二尺八寸であるから、下げ緒の長さは五尺六寸である。 これでも十文字に襷掛けするには一尺足りない。 先に骨董屋で買った昔の摸擬等と最近買った居合刀。さて、襷には短い下げ緒と十分襷掛け可能な下げ緒のついた 最近の居合刀、どちらが正しいのか。 これは使ってみればすぐわかる。 下げ緒が長いと邪魔になって仕方がない。特に、柄で相手の刀を受けたり、当身を入れたりする場合ははなはだ扱 いづらいのである。 この場合は、短い下げ緒のほうがはるかに扱いやすい。 現代の居合道などのようにあまり柄を使う技法がなく、ただ、刀を抜き、収めるだけなら、少々下げ緒が長くても あまり邪魔にならないであろう。 しかし、きわめて古い古流においては、柄を十分に活用する技法も含まれている。 これは主に柔を主体とする流派に多くみられるようだ。 私の昔習った流派にも居合が併伝されていた。 但し、私たちはそれを習っていない。 というのも、私たちの師匠は、「剣はいったん抜いてしまえば居合は必要ない」という考えであったので、ことさ ら居合抜刀の類には興味を持つことがなかったのである。 ところがある時、近くで稽古している居合の先生に実際に刀を持たせてもらったことがある。 私の若い頃、師匠はよく錆刀を持ち出して、その重さや振り具合などを実感させてくれていた。 そのころは特に感じるものはなかったのだがこのたびは大きな衝撃を受けた。 私たちの使う竹刀や木刀とはまるで違う。 重心が竹刀や木刀より遥かに先にあり、実際以上に重く感じる。 したがって小手先の技は通用しない。 十分腰を据えて刃筋に沿って切らなければならないし、竹刀や木刀のつもりで不用意に切り込めば、自分の下半身 を傷つけることにもなりかねない。 このとき、はっきり悟ったのである。これはぜひとも刀の扱いを覚えなければならない。 剣術とは、本来、刀の使い方を稽古するもので、実際に刀が使えないからその代り木刀や竹刀を使うのである。 つまり、竹刀や木刀は単に刀の代用であり、いかにその代用品で稽古を積んでも、実際にその技法が真剣で使えな ければ全く意味はない。 これは是非とも刀がいる。 そう思ったが、本物の刀なぞ年金暮らしの私には手が届く代物ではない。 思い悩んだ挙句、なじみの骨董屋で摸擬刀を手に入れた。 しかし、相当使い込んでいるらしく、柄の部分にわずかにガタがあるような気がする。 これでは危なくて安心して使えない。 そこで、ネットから新品の居合用摸擬刀を購入したのである。 こうして二振りの摸擬刀を手に入れたのであるが、冒頭にも言ったように下げ緒の長さが違う。 一体どちらが正しいのだろう。 そう思って、いろいろ調べてゆくうちに成瀬関次氏の「随筆 日本刀」という本に、上記ような記述があった。 つまり、江戸期の下げ緒は短く、これで襷を十文字に掛けることはできないということなのである。 私が昔習った流派には、本来、居合があったことは前述のとおり。 そして、幾度か、師匠が「我が流派の居合とはこうやるんだ」と言って見せてくれた覚えはある。 しかし、あれから四十年近く経過し、その記憶もはっきりしなくなってしまった。 そして、その師匠が亡くなって十数年が経つ。 なんとか当流に伝わる居合を知る手立てはないものだろうか。 そう考えて思いだしたのが、私たちの師匠の二代前の家元が書いた本である。 それに詳しくその技法が載っていた。 なるほど、師匠の言っていたとおり基本的な技が八本詳しく説明されている。 そのなかに、稽古前の礼のとき、正座した膝前に柄がしらを左側に一文字に刀を横たえ、 右掴み手は、そのまま下げ緒を鞘に添って撫で下ろし、その手を再び栗形の上において一礼をなすというものが あった。 この場合、この下げ緒が短いと全く違和感なくこの動作ができるのである。 このことは何を意味するのか。 それは、少なくとも明治末のころまでは刀の下げ緒は短く、これで十文字に襷を掛けることなどできなかったとい うことなのである。 時代劇の誤り・・・剣術の稽古 前にも触れたが、江戸期の武術と現代の武道とは全く違うものである。 現代人の最大の誤解は、この二つが同じものだと思いこんでいることであろう。 これに関連するが、戦後の小説や芝居、映画、テレビドラマで描写されている稽古や試合のシーンは全くの でたらめである。 まず、よくある稽古や試合の場面では、木刀で打ち合うということをやっている。 しかしちょっと考えてもわかることであるが、実際に木刀で思い切り打たれるとどういうことになるか。 打ち身ぐらいでは済まない。下手をすれば命の危険さえある。 日々の稽古でこんなことをやっていたのでは体がいくつあってもたりないではないか。 では、どの様な稽古が行われていたのかというと、江戸中期までの稽古は、主に木刀か袋竹刀をもって行わ れた。 流派によって様々だが、多くは、木刀による形稽古であった。この場合、実際に当ててしまうと危険である ため、寸止めである。 又、袋竹刀の場合は、現在の剣道の竹刀のような堅いものではなく、割った竹に革の袋をかぶせたもので、 実際に打たれてもダメージを受けることがなかったから実際に当てて稽古した。この場合も形稽古であるの は言うまでもない。 稽古法ががらりと変わったのは江戸中期に竹具足と鉄面が発明されてからである。 これにより思い切り打ち込むことができるようになり、現在の剣道のような打ち込み稽古が始まった。 従来の形稽古では一度に多くの弟子に稽古をつけることができない。 基本的にはマンツーマンの個人指導であるから一度に稽古をつけることのできる人数は限られている。多く の弟子に指導できるようになるには数人の代稽古のできる高弟を育ててからのことであり、道場経営上はな はだ不利なものであった。 ところが防具の発明により、現代の剣道のような打ち込み稽古がはじまると様相は一変した。 最初は形稽古の完成度を試す為に試合形式でやっていたと思われるが、次第にこちらの方のウエイトが重く なった。 それは、はっきりと勝敗が分かれる為、誰が見てもわかりやすいし、何よりも面白い。 また、形稽古に比べて一度に多くの弟子を取ることができる。 基本的な竹刀の振り方、扱い方を教えれば、後はお互いに打ち合いをさせればよいのだから指導するほうは 楽である。このため、一度に何十人も稽古することが可能になった。 このように、一度に大勢の弟子に稽古をさせることのできる打ち込み稽古は、マンツーマンの形稽古に比べ て道場経営上非常に有利であることは誰の目にも明らかである。 この点は、過去、ほとんど指摘されることはなかったが極めて重要なことではなかろうか。 幕末のころ、江戸で一世を風靡した北辰一刀流、鏡心明智流、神道無念流、心形刀流などが繁栄を極めたの は、この打ち込み稽古を採用した為なのである。 この時期、これらの剣術道場に通ったのは武士階級だけではなかった。 経済力のある百姓町人も多く弟子入りしていた。 武士だけなら限界もあろうが、百姓町人も加わることによりこの時代の剣術道場は大いに繁栄したのであ る。 そこで誤解の無いように付け加えておくが、幕末の剣術各流派は従来の形稽古を捨てて、打ち込み稽古ばか りやっていたわけではない。車の両輪のように形稽古もしっかりやっていた。 これは、日本剣道形として各流派から代表的な技を一本づつ採用して今に残っていることからも理解してい ただけると思う。 同じような防具をつけ、同じ竹刀をもって行う打ち込み稽古は、個人の資質や体力によるところが大きい。 運動神経や動体視力に優れていれば、入門してしばらくした後でも、先輩の兄弟子を打ち負かすことは可能 である。修業年限は関係なく、素質しだいでいくらでも強くなれた。 このことが後世に大きな誤解を残すこととなったのである。 つまり、試合で強ければ修業年限に関係なく免許皆伝をもらうことができるというものである。 これは、今の剣道しか知らない現代人にはそういう理解しかできないであろうが、事実はそうではない。 三年に満たない北辰一刀流の修行で、剣の腕は一流であったと言われている坂本龍馬。 実は、取得したのは長刀の初伝のみであり、実際の剣術の腕はさほどでもなかった。 それ故拳銃を持ち歩いたのである。 また、武市瑞山は、江戸に出て修行一年で免許皆伝を受けたということが定説である。 これもこの人物が人格に優れ、天賦の才に恵まれた故との評価がなされているが、こんな理屈に合わぬ話は ない。 天下の名流、鏡心明智流の宗家、桃井春蔵が与える免許皆伝がそんな軽いものである筈はない。 実は、武市は土佐で十三年間みっちり鏡心明智流の修行を積んでいた。それ故、江戸で一年の仕上げの後免 許皆伝を受けることができたのである。 以上の二例は、前に私が詳しく説明したとおりである。 この様に、江戸期の武術の実体は殆ど知られていない。 そこで、後世、小説家が勝手な憶測や創作をつけ加えていい加減なことを書き、それを映画やドラマでさら に尾ひれをつけて実態とは大きくかけ離れたものとなってしまった。 では、事実はどうであったのか。 先に述べたように、江戸初期から中期にかけては、木刀による形稽古。或いは袋竹刀による形稽古である。 中期以降は、今の剣道とほぼ同じく、鉄面、竹具足をつけて、竹刀による打ち込み稽古と併せて、昔ながら の木刀による形稽古が行われていた。 何れにせよ、木刀で打ち合うような危険な稽古はやる筈がなかったのである。 時代劇の誤り・・・剣術の試合 剣術の試合について 江戸時代の剣術の試合も小説や映画、ドラマの描写は間違っている。 江戸初期を除いて、後の太平の世では、決闘や極僅かな例外を除いて木刀で打ち合うことはなかった。 しかし、確かに戦国時代や江戸のごく初期に於いては、こういったことが全く無かったとは言い切れない。 この時代は実に殺伐とした時代で、人の命など羽毛のように軽かった。 小は村同志の小競り合いから大は戦国大名同志の合戦など、常に死は隣に存在していた時代である。 そこでは、自分や家族を守るものは自分自身でしかなく、百姓町人と言えども武器を持ち、その扱いには習 熟していた。 自分の利益のために相手を打ち殺したり不具にするなど何でもなかった。何よりも強いということが最大の 価値があったのである。 このような殺伐とした風潮は、江戸のごく初期まで続いたが、太平の世になり、世の中が落ち着いてくる と、木刀で打ち合うような危険な試合はやらなくなった。 少なくとも、今日、映画やドラマ、小説で描写されているようなものはなかったのである。 例えば、講談で有名な寛永御前試合など、後世の創作であり、あのようなものは存在しなかった。 ただ、江戸のごく初期までは、このような試合が全く存在しなかったかというとそうともいいきれない。こ の場合、まだ戦国の荒々しい気風の残る中での個人的な私闘というべきものであろう。 他流試合が行われなかった最大の理由は、当時の武術各流派は、ほとんどが形稽古であった為、その形その ものを試合で使うことは、即、その技を他流に盗まれ、あるいは研究されてそれに勝つ技術を考案される可 能性があったためである。 それ故、多くの流派では、この形は門外不出とされ、秘密は厳格に守られていた。 ところが江戸中期に防具が工夫され、打ち込み稽古が盛んになると、当然のことながらその延長線上に試合 も行われるようになる。 当初は練習試合のようなものであったと思われるが、こうなると流儀の意義そのものが薄れてくる。 竹刀で打ち合うということは、刀の切り合いと違って流派による差異が出にくいものである。 単に相手より早く、面、胴、籠手を打てばよい。そこには流派の区別はない。 流派の垣根が低くなると、当然他流試合も盛んに行われるようになる。 こうして竹刀の打ち合いに特化した所謂「撃剣」が剣術の主流を占めるに至り、剣術は刀の使い方を学ぶ刀 法からかけ離れた竹刀競技に姿を変えたのである。 これが今の剣道の元であり、刀を使う為の技術である剣術とは全く別物となってしまった。 以上の如く、江戸時代のごく初期においては、木刀や真剣による試合は皆無とは言わないが極めて少なかっ た。そしてそれは、試合というよりは決闘、や喧嘩の類のものがほとんどであり、純粋に技量の優劣を競う ものではなかった。 江戸中期になり、防具が発明されるまでは、稽古の延長としてのもの以外には本格的な試合は行われていな い。 この稽古としての流派内の試合稽古の場合は、木刀なら寸止め、袋竹刀なら軽く打ち込む程度のもので本格 的な試合と呼べるものではない。 ましてや、他流試合などは上記の理由により、特別な場合を除いては、ありはしなかったのである。 ところが、防具が発明され、打ち込み稽古が盛んになると、様相は一変する。 稽古自体が模儀試合のようなものであるから、当然試合は何のためらいもなく行われた。 また、他流試合も大いに活発に行われ、流派の垣根を越えて日本全国にひろまった。 このころの試合風景は、ほぼ、現在の剣道と同じようなものであろう。 但し、当時の試合は相当荒っぽく、体当たりや足っ払いなど当り前であった。 以上の如く、映画やテレビでよく描写されているような、木刀で打ち合う試合など殆どなかったのである。 映画やドラマ、小説の誤り・・・チャンバラ 日本刀の項でも説明したが、映画やドラマのチャンバラシーンは全くのでたらめである。 そして、最近量産されている時代小説のチャンバラシーンも著者の脳みそから絞り出された絵空事であり、 あのようなシーンが実際にあったと思っているとこれは大間違いである。 この真剣による打ち合い、相手の切り込みを刃で受けたり、思い切り刃と刃をぶっつけあったりといった描 写などは実際には避けなければならないことであった。 また、よく描写されている真向から竹割りや肩からの袈裟がけなどの大げさな技は、小説としては面白い が、じっさいの切り合いとなると極めてリスクの高いものであった。 何故ならば、これらの描写は、刀が刃物であるということを完全に失念しているからである。 現在の剣道のように、刀の刃を思い切り打ち合わせれば、当然のことながら、お互いの刃は大きく欠損す る。又、頭蓋や太く堅い骨を絶ち割れば、よほど刃筋をたててうまく切らないかぎりは刃こぼれして使いも のにならなくなる。最悪の場合は折れたり曲がったりするものである。 実際に切り合いをやっていた戦国時代や、その記憶の残る江戸初期までは、そのような刀の使い方はしな かった。 刀自体も頑丈で少しのことでは曲がりもしなければ折れもしない実用本位のものであったのは勿論である が、その使い方も、後世、特に幕末期とは全く違っていた。 その正しい使い方とは、刀の特性を完全に生かした使い方で、刀身の反りや鎬をうまく使って敵の刀を抑え たり弾いたりしたもので、古い流派にみられる「そくいづけ」など、現代の剣道には思いもかけないような 技が使われていた。 また、斬る場所も、剣道のように、面や胴、籠手に刀を叩きつけるのではなく、敵の急所や裏小手や首筋な どの動脈を切り、骨を断ち切るような無駄なことはしなかったのである。 体の表面近くの動脈や急所を切るのであれば、堅い骨で刃を痛めることも無く、有効に敵に致命傷を与える ことができた。 これが刀の刃物として、また、反りや鎬の構造の特性を十分に活用した使い方である。 ところが江戸期、島原の乱を最後に、実際に刀を振るっての戦闘が無くなり、平和な時代が到来すると、剣 術は実用を離れ、刃物としての特性も弱点も考慮されなくなってくる。 刀で実際に切り合うという検証ができなくなると、剣術そのものの質がかわってきて、主に木刀の特性に特 化した形稽古が主流となった。 どの剣術も、流祖が流派をたてたころは、形の種類も少なく、その全ては刀の実用的な使い方の稽古が主で あったが、真剣が使われなくなってくると、木刀や袋竹刀を使った新しい技が考案され、その数も大幅に増 えていった。 この時点では、真剣を使う本来の剣術からのかなりの変質がみられるが、まだまだ、江戸中期に防具が考案 され流行するまでは、実用的な昔の本来の技が多く残されていた。 この様に、実戦から離れて木刀による形稽古が主流となってくると、当然のこととして、それに対しての疑 問が起きてくる。 その一つの解決策が鉄面、竹具足、籠手を着けての実際に竹刀で打ち込む打ち込み稽古であった。 これは撃剣と呼ばれ、幕末には従来の木刀による形稽古を圧倒して隆盛を極め、日本全国に広まった。 そして、幕末の勤皇の志士達も、こぞって江戸にでてきて、この撃剣の道場に入門した。 この様に書いてくると、幕末には、ほとんどの剣術諸流派は、打ち込み稽古のみに転向したかのように見え るが、実はそうではない。 当時の人たちは、盛んに「撃剣」の試合や、その稽古である打ち込み稽古をやる一方、剣術流派の真髄であ る形稽古もちゃんと行っていた。 打ち込み稽古では、流派の特徴は殆どでない。 主にその人物の天性の資質や才能、運動神経によりその強弱は決まってくる。 しかし、それだけではその流派を習得したことにはならないのである。 この点が現代の剣道しか知らない小説家やドラマや映画の監督の認識の足りないところなのだ。 竹刀の打ち合い稽古や試合が強ければそれで短期間のうちに簡単に免許皆伝が貰えるものと思いこんでい る。 そのよい例が、坂本龍馬が三年に満たない修行期間で北辰一刀流の高位の免状を受けていたに違いないと か、武市瑞山が江戸に出て僅か一年で鏡心明智流の免許皆伝を受けたとかのいい加減な説である。 これが根も葉もない唯のひいきの引き倒しにしか過ぎないことは、別項にて詳しく説明したとおり。 全く無責任極まるいい加減な説であるが、これが多くの大衆に信じられていることは、実に嘆かわしい限り である。 そもそも、何の為に流儀があるのか。撃剣だけの稽古ならこんなにも多くの剣術流派が存在した筈がない。 現代の剣道のように一つの名前「撃剣」だけで良い筈であろう。 この流儀を分けていたのは、昔ながらの形なのである。 だから、この形の習得なしにはその流派の免許など貰えるはずがないのである。 この形の習得にはある一定の期間が必要であり、如何に撃剣の試合で強くても、一年や二年ぐらいの修行期 間では免許皆伝など貰えるわけがなく、せいぜい初伝を与えられれば良い方であった。 本来、我が国の剣術は兵法ともいい、流派の系統によりそのコンセプトはまるでちがう。 つまり、流派によってその動き、構え、刀法は実に多岐に渡っていた。 これというのも、本来、日本刀というものは人を切る為のもので、よく切れる刃物以外のなにものでもな い。これを如何にうまく使うかということに様々な技法が存在し、その特徴によりかくも多くの流派ができ たのである。 くどいようであるが、ここは大切なところなので重複して説明することにする。 剣術の発生は、もともと戦場での戦闘の為の技術、介者剣法であった。 この技法は、鎧の隙間や弱点を狙うものであったが、島原の乱を最後に甲冑を着用しての戦闘はなくなり、 剣術は介者剣法から素肌剣法へ変化していった。 太平の世では実際に刀で切り合うことはできない。素肌剣法といっても実戦から離れてしまう。 稽古は前述の木刀での形稽古となるが、とかく刀は刃物であるという事実が忘れられがちとなり、木刀での 組太刀に特化した形が多くなったようである。 こうして、実際に刀での攻防ができない為、剣術は刀の使い方の技術であることが忘れられ、単なる木刀に よる形稽古になってしまった。 木刀や袋竹刀による形稽古に限界を感じたことにより、防具をつけて実戦さながらの打ち合いをすることが 考えられ、今日の剣道の防具や竹刀の原形が工夫された。 この試合形式の打ち込み稽古は、見た目には実際に竹刀で打ち合っているので実戦のように見える。 ところが、実は、木刀での形稽古よりさらに実戦とはかけ離れたものとなってしまったのである。 つまり実戦では、如何にうまく敵を切り、致命傷を与えられるかということが大事であり、初期の剣術諸流 は決して無駄な動きや派手な打ち合いはやらなかった。 ところが、幕末の撃剣はそうではない。面、胴、籠手をつけて思い切り竹刀で打ち合う。 強弱は、体力、体格、力、運動神経などで決まってくる。 刀の本来の使い方、斬るということは忘れられ、ただ竹刀での打ち合いになってしまった。 これでは実際の刀を持っての闘争には役にたたない。 撃剣の竹刀の打ち合いのように思い切り刀を打ち合えば瞬く間に刃はささらのようにぼろぼろになり、刀身 は深く切り込まれ、曲がったり折れたりして使いものにならなくなる。 新撰組の山南敬介の描いたスケッチに、大きく刀身が切り込まれ曲がった刀の絵があるが、日本刀を今の剣 道のように思い切り打ちつけ合って斬り合った結果である。 つまり、刀の使い方がまちがっている。刃のある刀を、刃の無い竹刀と同じように使った。これが致命的な 間違いなのだ。 幕末の勤皇の志士達が新興撃剣の大流派の免許皆伝などの高位の免許を受けながら、実際の切り合いを避け た最大の理由がこれである。 当時一世を風靡した撃剣は、実際の刀をもっての切り合いには殆ど役に立たなかったということ。これが実 態である。 ただ、前にも言ったように、この頃の剣術諸流は、現在の剣道のように打ち込み稽古しかやらなかった訳で はない。 それなりの高位の免状を受けるには形稽古もしっかりやらなければならない。 実際の切り合いで役に立ったのはこの形稽古のほうであった。 新撰組の天然理心流が実際の切り合いに強かったのは、あまり打ち込み稽古には力を入れず形稽古をしっか りやったことと、この流派の形が優れて実用的であったことであろう。 幕末の頃でさえこうである。実際に腰に二刀を差した武士階級が存在した幕末でさえ、すでにその刀の使い 方がわからなくなり、ひたすら防具をつけての竹刀の打ち合いしかやらなくなった。 ましてや、武士階級の存在しなくなった明治以降ではなおさらである。 明治の武士階級消滅により、剣術はますます日常生活から縁遠いものとなり、国民大衆から顧みられること はなくなった。 剣術、柔術諸流は益々衰亡の極に達し、残るは僅かな流派が辛うじて命脈を保つ程度となっていたところ、 この剣術、柔術、などの古流武術をまとめて大日本武徳会が設立された。 明治後期のことである。 大正にはいり、参加剣術流派の代表的な形を集めて大日本剣道形が制定された。 これは各流派の代表的な形、太刀7本、小太刀3本の計十本である。 それとともに、従来の剣術という名称は廃され、剣道という名前となり、稽古の主体は現在の剣道と同じも のとなったのである。 事実上の剣道の歴史はこの時をもって始まったといってよい。 しかし、様々な古流剣術諸流の膨大な技術体系のなかから僅か十本のみの形を抜き出して大日本剣道形とし て保存されたのである。 前にも言ったように、本来、古流各流派のコンセプトはまるで違う。刀の振り方、身のこなし、足の踏み 方、進退、まるで違う。 これを実質太刀形7本、小太刀3本に纏めることは到底無理であり、本来のその形の意味さえわからなく なってしまった。 そして、この剣道形さえ殆ど稽古されることなく、もっぱら竹刀の打ち合い稽古ばかりやるようになり、ま すます本当の刀の使い方とは遥か遠く離れてしまったわけである。 こうして、明治以降、本当の刀の使い方がすっかりわからなくなってしまい、そこに付け込んで講談や小 説、映画やドラマが荒唐無稽な技を作り出してなおさら混乱を極めているのである。 では、現在、実際にあったと一般に信じられているチャンバラは何時、どのようにして出来たのであろう か。 実は、この時期は大正なのである。 この頃の剣術と言えば、剣道しかない。古流剣術が国民大衆の眼から見えなくなってほぼ半世紀近くたって いる。 実際の刀を振るっての切り合いなど遠い昔の話となってしまい、その実態を知る人など殆どいない。 実際に行われている剣道とは竹刀の打ち合いである。 当然、時代劇の作者や小説家、演劇の作者がイメージするのは、当時行われていた竹刀の打ち合いである剣 道であろう。 それが、今に至るまで続いているのである。 最大の誤解は、昔の侍は剣道を使っていたという誤解である。 それに、様々な荒唐無稽な技が考案されて講談や小説に描かれ、演劇や映画、ドラマとなり、益々その実態 がわからなくなり、最近では劇画やアニメ、果てはゲームでのでたらめな技を本気で信じている若い人達も いるという。 大切なことは、今現在、多くの出版物や映画、ドラマや演劇、劇画、アニメ、ゲームの描くチャンバラシー ンなど、全てが有りもしない大ウソであるということである。 そのことを十分認識してそれらのものを楽しむのなら良いが、それが史実の如く勘違いされては困るのであ る。 真剣について 真剣と剣術 真剣での戦いは、防具を着けて竹刀で打ち合う現代の剣道とはまるで次元の違うものである。 当り前ではないか。そんなことぐらい誰でもわかっている。何をいまさらこんなことを言うのか。言わずも がなのことではないか。多くの人達がそう言われるであろう。 しかし、一体何人の人が実際に真剣を持ったことがあるだろうか。 現在、そう簡単に日本刀を手に持ってその重さやその刃の鋭利さを実感する機会などない。 せいぜい博物館のガラスケース内に陳列されている刀剣や甲冑を見学する程度。 これでは何にもわからない。 多くの日本人のイメージする真剣での切り合いとは映画やテレビの時代劇。あるいは小説で描かれている真 剣勝負のシーンであろう。 そして現実では、剣道の試合を見てだいたいあんなものだろうと納得する。 確かに現在残っている最も昔の勝負に近いものは剣道ぐらいしかない。 しかし、勝負を競うという点では同じであるが、真剣勝負と竹刀剣道ほど異質なものはないのである。 まず、真剣と竹刀の寸法と重量を比較すると、竹刀の現在認められている最大長さは3尺9寸(120c m)。510g以上の重量である。 これに対し、真剣はその標準は3尺3寸(およそ100cm)というところか。 重量も1kg前後と竹刀の倍に近い。 長さが20cmも違えば当然間合いも遠くなる。必然的に飛び込んで打つという形にならざるをえない。 そして、竹刀の柄は長い。重量も真剣の半分ほど。これにより竹刀を軽く自由自在に操ることができる。 つまり、竹刀を振るには腕の力だけで十分ということになる。 また、一応上下は決まってはいるがきめられた部位を正確に打てば、必ずしも刃に相当する部分で打つ必要 はない。 ところが真剣は全くちがう。 まず、手に持って感じることは、その重さである。しかも竹刀と違って先端におよそ倍の重量がかかって来 る。 先端が重いということは、それだけ切り出すにも止めるにも相当な力がいるということであろう。 力学の慣性の問題になるが、先の重い物を振るとき、止まっているものを動かすにはある一定以上の力がい る。また一旦動き出したものを止めるにも相当な力をかけなければ止まらない。 そして、止まっているものを動かす場合、動き始めるまで多少の時間がかかり、直ぐ動き始めるわけではな い。 また、一旦動き出すと、急ブレーキをかけても即座には止まることはできない。 最もわかりやすい例をあげれば、SLをイメージしてみるとよい。 蒸気機関車は走りだす時、次第に速度をあげ、巡航速度に達するまで相当時間がかかる。 そして、駅に着いて停車する時も、徐々にスピードを落として、完全に停車するまである一定の時間が必要 である。 これは蒸気機関の特性により、急発進、急停車ができないということもあるが、実感としてよく理解しやす い為にSLを例に挙げてみた。 この急発進、急停車が出来ず、相当の力がいることは、重量が重ければ重いほどより大きな力が必要だ。 野球のバットやゴルフのクラブを考えて見られよ。 これらは腕の力だけで振っているのではない。 まず、体を捻り、体の回転する力を腕を通してバットやクラブに伝え、最大のスピードを得るまでには少し 時間がかかる。 そして、バットやクラブの先が最大のスピードや力を発揮する時点でボールに当たるようになっている。 ボールを打って役目を果たしたあとは、序々に力を抜いてゆき、半回転して止まる。 実は、今の居合の刀の振り方もこれと同じことをやっている。 違うところは、ボールを打つのではなく仮想の敵を切ることと、振りっぱなしにせず止めているところであ ろう。 つまり、真剣や野球のバット、ゴルフのクラブなど、重心が先の方にあるものは、腕力だけで振りまわすの ではなく、半円状の軌跡を描いた遠心力を利用した慣性力でボールを打ち、或いは敵を切るのである。 この様に、遠心力を利用して切る場合は、剣道のような迅速な動きはできない。 そしてバットやクラブでは、ボールを打った後は円運動をしながら、序々にそのスピードを落としてゆき、 半回転して止まる。 真剣がそれらと違うのは、下まで振り抜くのではなく中段の位置で止めるということである。 下まで振り抜いてしまうと自分の刀の刃で己が足に切り込んでしまうからである。 このとき、急速に刀を止めなければならないがこのときは相当な力でなければ止めることができない。 このように、真剣を振るということは、遠心力を利用しているのでこの腕の半径が大きいほど大きな力が出 せる半面、止めるときより大きな力が必要となる。 居合等で使われているこのような振り方は、勢い大振りとなり、敵の体に刃が届くまでに少し時間がかか る。 相手がいない仮想の敵や、巻藁を切る場合はこれでもよいが、相手がいる実際の真剣勝負となれば、この様 な緩慢な大きなフォームでは相手に容易に身をかわされたり、反撃される恐れがある。 つまり、現在、居合や抜刀術で一般に行われている刀の振り方では、実際の真剣での切り合いでは余りにも リスクが大きいということになるのである。 このように、実際の真剣での勝負となると、剣道のような振り方では迅速な攻防は無理であり、そうかと いって居合のような慣性力を利しての振りでは動作が大きすぎる。 また、動きが遅いため実戦には不向きである。 では、どの様な刀の使い方をすれば、真剣の切り合いに有利なのであろうか。 これは過去、さんざん言ってきたことである。 起源を戦国期以前に遡る剣術流派のなかで比較的古態を温存している流派を参考にしたらよいと思う。 なにしろ、実際に真剣で切り合っていたのは江戸前期以前のことである。 真剣で切り合っていたのは戦国、江戸もごく初期のことであるから、それ以降はほとんど真剣での命のやり とりは無くなっていた。 従って、江戸以降の剣術は主に木刀や竹刀を使っての組太刀が工夫されたのである。 実際に真剣で稽古するわけにはいかないから、当然技法も実戦から離れたものとなったのは以前説明したと おり。 真剣を使っての稽古が出来なかったため、香取神道流などは、口伝として形では刀身を打つが、実は小手を 切るのだというようなことがずいぶん多く伝えられているようだ。 竹刀や木刀はあくまでも真剣の代用品である。 しかし、今まで説明したように、木刀や竹刀と真剣では余りにギャップが大きすぎる。 その為、いくら木刀や竹刀で稽古を積んでも、実際に真剣を以て戦った場合に果たして通用するのかという 問題がある。 江戸の頃の武家階級は必ず帯刀していたので、その手入れや扱いには習熟していた筈だし、実際に真刀を以 ての素振りもやっていた。 しかし、現在では真剣とは全く縁がない。 木刀や竹刀しか持ったことの無い者が、突然真剣を以て切り合いに望めば、その余りの違いに日頃の稽古の 成果を生かしきれないことは至極当然のことであろう。 また、現在の剣道と居合道は別物であり、多くの剣道修行者は居合までは習っていない。 ところが江戸期の古流の剣術、柔術各流派には、必ず居合や抜刀術が外の物としてその技術体系に付随して いた。 つまり、江戸時代の武士が習っていた剣術や柔術は、これらを修行していれば当然、居合や抜刀術として実 際に真剣を振ることは勿論、その抜き方、納刀のやり方、作法などが自然に身に着いていたのである。 故に、江戸時代の武士達は、稽古は木刀や竹刀を使っても、真剣の扱いにも充分習熟していたので実際の戦 闘に際しても日頃の稽古の成果を発揮できたと思われる。 ところが明治になって、武家階級が消滅し、真剣を持つことが許されなくなった。 そして文明開化のもと、剣術、柔術などは顧みられなくなり、新たにスポーツ、或いは青少年の教育科目と しての剣道や柔道が勃興し、真剣の正しい振り方、斬り方、扱い方など居合抜刀術の修行者以外は誰も知る 人はいなくなってしまった。 剣術はもともと真剣勝負で敵に勝つ技術である。 幾度も言うようだが、木刀や竹刀はその代用にしか過ぎない。 ところが現代の剣道修行者のうち、居合道を納めている少数の人以外は殆どその実体を理解している者はい ないであろう。 剣道はスポーツとして理解し、純粋に竹刀競技をして割り切ってしまうのなら、真剣など持つ必要はないし その扱いを知る必要はない。 しかし剣術として武術であろうとするならば、この日本刀の扱いにも慣れておかなくてはならないのではな かろうか。 今現在、真剣を以て、抜き、斬撃、納刀、扱いなどを学べるものは居合、抜刀術しか存在しない。 この居合、抜刀術は、江戸時代までは剣術や柔術に組み込まれていたが、維新後はそれぞれが独立して独自 の発展を遂げたものである。 剣道や剣術を学ぶ人達は、その原点に立ち返ってどの流派でもよいから居合或いは抜刀術を習うべきであろ う。 居合いは、剣術、剣道の本来の目的である真剣を遣う術と現在の剣術、剣道をつなぐ唯一の架け橋と考える からである。 弥生時代 日本の甲冑の起源・・・弥生時代 日本の甲冑のなりたち 日本の甲冑の遺物の発掘されているもので最初の頃のものは、弥生時代後期、およそ3世紀のものと思われ る木製甲である。 弥生時代は戦乱の時代であったことがわかっている。 吉野ヶ里遺跡に見られる如く、集落の周りには二重の環濠を巡らし、その内外は土塁、木柵で囲まれ、坂茂 木で防御されていた。 又、外敵を見張るための物見櫓も備えていて、これは全く後世の城郭と同じものがこの時代すでにあったと いうことなのである。 戦乱の証拠は、戦によって損傷された人骨などが数多く出土していることから、この時代はまさしく魏志倭 人伝にある通りの倭国大乱の時代であったということが理解されよう。 では、この頃の戦闘に使われた武器はどの様な物であったのか。 弓矢では、鏃は石、青銅、鉄が使われ、石鏃ではより大きく重いものとなり殺傷力が増している。 剣や矛も青銅製のものから鉄製の物も普及し、その殺傷力も大幅に向上したものと考えられる。 このような攻撃用の武器の発達に対し、防御する防具はどうであったろうか。 攻撃用武器が発達すれば当然、それを防ぐ方法が工夫される。これは東西を問わずどの民族も同じことで、 その意匠は異なってはいても本質は変わらない。 剣や矛の攻撃を防ぐには、矛盾の例えの通り、楯がある。これは、敵の飛来する矢を防ぐ場合には主に大型 の楯を使い、剣や矛の攻撃には、手に持って我が身を庇う小さめの楯を使った。 しかしながら、この楯だけでは敵の刃から身を守るには不十分である。 およそ生身の人の体ほど脆弱なものはない。 秋葉原やその他の通り魔事件で、たった一人の刃物を持った犯人に、多くの人々が簡単に殺されたことをみ ても、そのことを実感できる。 そこで、敵の刃から守ることのできる堅い物質で我が身を覆うことを考えた。 それが鎧である。 この鎧の形式や材料は世界中ほぼ同じである。民族性や生活習慣の差による意匠の違いを別にすれば、人間 の考えることはさほど違わない。 むしろその差は、使用する武器や戦闘方法による違いが大きい。 つまり、その鎧の形式や材料を見れば、その戦闘方法はおおよその見当がつくのである。 日本の学者の中には、形式が同じであったり、姿形が似ているからと言って、安易に中国や朝鮮半島の影響 を言う人間が多いが、似たような戦闘方法なら、同じような鎧が自然発生してもおかしくはないと思う。 特に上古にあっては、どの国や地域でも似たような戦争をやっていた。 従って、同じような武器を使えば当然それから身を守る鎧は似たものが出てくるのは当然のことである。 弥生時代の石鏃、石鑓、石剣などで戦った時代では、当然のことながら獣皮で体を覆う程度でも、素肌で戦 うよりは遥かにましであった。 また、木を体に合わせてくり抜いたり、数枚の板で体の前後を覆うなどの後世の甲冑の萌芽を思わせるもの も弥生後期の遺跡から出土している。 さらに出土例はないが、籐などの蔓を編んで鎧としたものもあった。 これは近代まで台湾で使われていた籐甲があり、一見チョッキのような形をしていて、主に胴を守るもので あった。 籐甲は、比較的簡単に作れるもので、かなり普及していたと思われるが、余り鋭利な刃を持たない武器での 打撃には、ある程度その衝撃を吸収できたのではないかと思われる。 上記に掲げたこのような簡単な鎧でも、石器の武器や青銅の剣や矛の攻撃には、ある程度耐えることがで き、楯を併用すればかなりの防御力があった。 もっともこの場合、何にも着けない素肌の場合に比べてということなのではあるが、無いよりは遥かにまし であったのである。 更に少し時代が進むと、牛などの皮革製の鎧も出現した。 皮革製の鎧はその作り方によっては金属製の鎧以上の防御力を持ち、これはかなり後世まで使われ、また甲 冑の重要な構成部分としても後世にまで使用されている。 しかし、当時の原始的な有機物で出来た鎧は、年月とともに腐食して朽ち果て、木製の比較的保存条件に恵 まれたもの以外は現存していないため、その姿をうかがい知ることはできない。 ただ、言えることは、それらの原始的な鎧は、単に胴体部分を守り、頭部を保護する最少限度のものであっ たろうし、恐らく胴部守るものは、後世の短甲の元となったと思われる。 戦後の悪しき風潮として、何が何でも全て中国大陸や朝鮮半島にその起源を求める物が多いが、この時代に まで遥か遠くの国の文化が及ぶとは考えられない。 この程度のことなら、人の真似をするまでもなく、当時の人間なら誰しも考えつくことであろう。 この後、古墳時代に入ると、我が国の甲冑は急速に発展し、武装埴輪に見られるような完成された短甲や桂 甲に発展するのである。 古墳時代 我が国初の鉄のよろい・短甲 日本の鎧の最も原始的なものは、木や獣皮で胴体や頭部を保護したものと思われる。 それに、木の蔓で編んだものも当然存在したであろうことは、南方諸島の原住民の鎧をみても考えられ得る ことである。 これらの初期の鎧は、主に石器や青銅の武器からの攻撃を防ぐにはある程度の効果があった。 しかし、武器として鉄の剣や槍、矛などが使われ、攻撃力が増してくると、それだけでは十分とはいえなく なってくる。 特に我が国では、実用兵器として青銅器が使われた期間は短く、まもなく鉄製の武器にとって代わられ、青 銅器は祭祀の道具として存在し、武器としての役割は終わった。 古墳時代に入ると、鉄製の武器とそれを防ぐ甲冑の急速な発達が見られる。 この時代は、日本各地に夥しい数の古墳が造られ、副葬品のなかに、鉄製の武器や甲冑が現れるのである。 しかし、鉄製の武器や鎧は極めて貴重なものであったから、これらの古墳を造営することのできる強大な権 力を持ったその地方の首長にしか持つことができなかった。 恐らく、その他の一般兵士は、弥生時代から引き続き木製や革製の鎧で戦ったことであろう。 ただ、このような有機物の鎧は、そのほとんどが朽ちてしまい、木製のものを除いて、現まで残っているも のはないが、その形状は武装埴輪や、古墳から出土した鉄製の鎧である程度のことは推測できる。 最初に現れた鉄製の鎧は、細長い鉄の板を横に並べて、その板を革紐で綴ったものであった。 例えば山梨県の大丸山古墳出土の竪矧板皮綴短甲は、この形式の初めのころのものであり、これから発展し て後の完成された優美な曲線をもつ我が国固有の短甲になったものと考えられる。 このような鉄製の鎧が出現した背景には、古墳時代に入り、その地方の有力豪族の急激な勢力の拡大があっ たことが推察できる。 それ以前の弥生時代は、強大な勢力を持った国や地方豪族が現れる前であり、国と言っても小さな村落共同 体が集合して国を作っていたにすぎない。 従って、その直後の古墳時代ほどこの地方の首長に極端な権力と富の集中はなかったため、当時としては極 めて貴重であった鉄で鎧を作る程の経済力や権力はなかったと考えられる。 ところが三世紀中ごろから急激に大きな社会変化が起こり、日本各地に強大な前方後円墳が造られ初め、副 葬品として武具甲冑の類が発掘されるに至る。 古墳から出土する甲冑は、時代とともに大きく変化する。 単純に長方形の短冊形の鉄板を横に並べてその間を革紐で綴っただけの至極簡単な竪矧板皮綴短甲は、単に 短冊型の鉄板を革紐で綴じただけなので、製作は簡単であるし、さほど高度な技術いらず、手間もかからな い。 又、同じ時期に出現したものに、短冊型の細長い鉄板を横に繋ぐのではなく、それより短い長方形の鉄板を 上下左右を革紐で綴じて同様の形を作った方形板皮綴短甲がある。 これは上記竪矧板皮綴短甲よりかなり手がこんだ作りとなっていて、前の部分に立挙の板、背部には押付板 を備え、より進歩したものとなり、製作にも時間と手間がかかっている。 しかし、双方とも、単に鉄板を革紐で綴じ合わせて整形しただけの最も原始的、単純な形式の鎧であること に変わりは無い。 この二つの形式の鎧は、古墳時代前期の古墳から出土している。 この他に、鉄の小札を皮で綴じた小札革綴甲冑も出土しているが、これは前二例の短甲に比べて遥かに手間 と技術を要する形式の鎧であり、これは中国からの輸入品であるとの説がある。 ここで短甲というのは、我が国固有の鎧の形式であり、主に胴体のみを防禦するいわば剣道の胴のようなも のであった。 もっとも、剣道の胴は前面だけを防御しているが、短甲は背面の防御面積のほうが大きく、腰がぐっと絞ら れた優美な形をしている。 この特徴は、初期のものはさほど顕著ではないが次第にその傾向ははっきりしたものとなってくる。 このように、前面より背中の防禦を重視したのは、当時の戦闘が、徒歩による乱戦であったので、いつ何時 背後から攻撃されるやもしれず、その為に背後の防備を重視したものと考えられる。 なお、この短甲という言葉は、古墳時代当時に使われていたものではない。 後世、騎兵用の小札鎧である桂甲に対し、歩兵用の鎧として、後世の学者が便宜上つけた名前なのである。 古墳時代中期になると、それまで、各地方で思い思いに作られていた鎧の形式が次第に纏まりほぼ同一の形 式となってくる。 最大の特徴は、この構成が単に鉄片を革で綴じただけの原始的な鎧から、前の上部を形成する立挙板や背部 上端の押付板、裾板等の板などの鉄板でその外形を作り、その間に2段に帯金という帯状の横板を入れ、そ の隙間を三角形あるいは長方形の地板で塞いで革紐で綴じたものが現れた。 長方形の板を入れたものは長方板革綴短甲、三角板を用いた物は三角板革綴短甲という。 この形式を帯金式短甲とよぶが、この形式の鎧の出現により、我が国の鎧は極めて堅牢なものとなったので ある。 この鎧の特徴は、何と言ってもその姿の優美さであろう、腰はぐっと絞られ、裾は西洋の鐘のように裾広が りとなっている。 また、肩の部分の肩上はなく、肩に布で吊ったものであろう。 鎧の引き合わせは前正面にあり、これは着脱に便利な為ではないだろうか。 この場合、まだ蝶番は使われていないので、鎧を広げて着けることは無理であり、恐らくスカートを穿くよ うにして着けたようだ。 前にも説明した通り、前面より背面のほうが大きいのがこの形式の特徴であるが、これもこの鎧に独特の美 しさを添えている。 また裾がラッパ状に広がっているのは、当初、この部分に草摺を着けなかったため、少しでも下腹部を守ろ うとする工夫ではないかと考えられる。 同様の工夫は、古代ギリシャの青銅の鎧にも見られ、この裾の部分がベルマウス状に広がっている点が共通 している。 この時代、同様の手法で作られた衝角付冑、草摺、籠手、頸甲(あかべよろい)、後世の袖に相当する肩甲 (かたよろい)などの付属具が出現した。 古墳時代中期中ごろになると、更に製作技術が進み、鉄板を革で綴じていた代わりに鋲で固定した短甲が現 れた。 当初、三角板を鋲で留めた三角板鋲留であったが、後に帯金の間を一枚の横長い地板で塞ぎ鋲で留めた横矧 板鋲留短甲となった。 さらに、五世紀になって少し経つと、この鎧の着脱を容易にする為に蝶番で開閉できるようになり、これに て我が国固有の鎧、短甲が完成するのである。 短甲はみじかよろいともいい、最初は胴体のみを守るものであった。 しかし、戦闘の激化に伴い、次第に肩鎧や草摺などの付属具を着けるようになった。 この、形式の鎧は、歩兵戦の為に作られていて、徒歩立ちによる打ち物戦に対して極めて優れた防御力を有 していたものと思われる。反面、全く伸縮性が無かった為に騎馬の戦闘には不向きであった。 この点からも、この時代の我が国の兵は主に徒歩で戦ったことが想像できるのである。 この様に、後期の短甲を着け、衝角付冑を被り、頸甲、肩甲、籠手や草摺を完備した姿は、まるで後世の当 世具足をつけた戦国時代の鎧武者を思わせるほど完成されたもので、当時としては極めて高い防禦力を持つ 鎧であったということができよう。 この日本文化の黎明期において、この様な優れた甲冑が我が国に存在したことは実に驚くべきことであり、 それ故朝鮮半島にまで進出し、高句麗の広開土王とも闘うほどの戦闘力を保持し得たのである。 桂甲・騎馬戦闘の鎧 日本の古代の鎧は、主として徒歩戦用に工夫され発展してきた。これが短甲である。 古墳時代中期にはほぼこの形式は完成し、徒歩戦の鎧としてはほぼ完璧なものとなった。 何故、我が国では、徒歩戦が主体であったのか。 言うまでもない。それは我が国の地形が山や森林、沼沢地が多く、騎馬の戦闘に向いていなかった為であ る。 ところが古墳時代後期になると様相は一変する。 中期まであれほど多く副葬されていた短甲が姿を消すのである。 代わって副葬されているのが小札で構成された桂甲である。 この桂甲は、古墳時代中期後半に登場し、次第にその数を増してきて、古墳時代後期に至り完全に短甲に とって代わってしまった。 長方形や三角板の鉄板や帯金を革紐や鋲で固定した短甲と違って、小さな鉄片、小札を上下に革紐で連結し たこの形式の鎧は、短甲とは比較にならぬほど制作に手間がかかる鎧である。 したがって、この桂甲の主の古墳の主は、短甲の時代以上に富と権力の増大が進んだことがうかがえる。 この桂甲は重ね合わせる部分が多く、防御力も増しているが、それだけ重量も増している。 兜をかぶり、肩鎧、首の周りを守る頸鎧、籠手、膝を守る膝鎧、臑当に相当する足纒までを含めると相当な 重量となり、これでは徒歩での長時間の戦闘は無理であろう。 つまり、この鎧は、騎馬戦用の鎧なのである。 この桂甲は、草摺は胴部と一体であり、腰の部分は腰札という内部に湾曲した特に長い小札で形成されてい て短甲のように本来、別物であった草摺を取り付けたものではない。 こうして見ると、桂甲は前代の短甲以上に完璧に全身を隈なく鎧っていてほとんど隙がない完璧な防御がな されている。 その完璧さは後世の戦国時代の当世具足も及ばないほどである。 この完全武装の姿は、映画の「大魔神」を想像して頂ければよく理解できることと思う。 では、なぜ、このように鎧の形式が激変したのか。 それは、古墳時代中期からの度重なる朝鮮半島への出兵に関係がある。 朝鮮の官製史書である三国史記によると、新羅には紀元前50年以来、度々倭人の襲来が記録されている が、これらの初期のころはさほど大掛かりなものとは思えない。 そして、主に船で来襲しているようで、上陸後は主に徒歩で戦ったものであろう。 又、新羅も主に徒歩で戦ったようで、魏志倭人伝に新羅の前身である辰韓は徒歩で戦うとある。 新羅には倭軍はよく侵入を繰り返したようだが、百済とは友好が保たれていたようで、百済とはあまり戦闘 の記録がない。 紀元400年頃から、倭が朝鮮半島に侵入して百済、新羅を従え、高句麗と戦ったと好太王碑に書かれてい る。 高句麗は騎馬戦闘を得意とした。 好太王碑の記述によると、404年に倭が帯方界まで攻めてきたが、高句麗の好太王は、これを破り、無数 の倭兵を切ったとある。 おそらく、この高句麗との戦闘の敗北が契機となり、日本にも騎馬戦闘の技術が取り入れられ、甲冑も、騎 馬戦に適した桂甲に変わったものと考えられる。 但し、この桂甲は、古墳から出土したものであり、古墳に葬られるほどのその地方の有力者が桂甲を纏って いたことの証明にはなっても、当時の我が国の軍勢全てが騎馬戦闘をやったということではなかろう。 おそらく、騎馬で戦闘に臨めるのは、極めて高位のその地方の豪族一族だけで、その他の兵は、短甲を着て 徒歩で戦ったと考える方が自然である。 なお、この桂甲が日本国内で考え出され、作られたということは、この基本的構造が前代の短甲の形式を踏 襲していることから推測できる。 すなわち、鎧の引き合わせが短甲と同じ前であり、肩鎧、頸鎧などの付属具が短甲と同じ形式であることで ある。 このことをみても、本来、北方騎馬民族の鎧である小札鎧を、短甲の技術を駆使して桂甲という完成された 甲冑に仕上げた我が国の工人の技術の優秀さは、今日のモノづくり大国日本と相通ずるものがある。 衝角付冑・我が国独自の冑 古墳時代の短甲や桂甲に付随する冑には、衝角付冑と眉庇付冑の二つの種類があった。 この二つの形式は、一見してその構成も成り立ちも全く違うもののように見える。 衝角付冑は短甲とその構成や制作手法が同じであることから、これは短甲とともに我が国独自の工夫によっ て作り出されたものである。 衝角付冑は前部が船の衝角のように突き出した独特の形をしているためにこの名前がある。 下から見ると前の部分が尖り桃の種のような形をしている。 この構成は独特で、前部の衝角部は杓子状の板金で作り、この杓子の柄の部分が冑の正面となる。これを伏 板といいこの形状が衝角付冑の特徴である。 この冑の頂部、すなわち伏板の杓子の楕円状の中央の部分に、三尾鉄と称する先が三俣に分かれた金具を取 り付け、その三つの先にや山鳥の羽根を取り付けて飾りとした。 冑の主要部分は、この伏板と冑の下部を形成する腰巻の板という帯金と、伏板と腰巻の中間の胴巻という帯 金で構成されていて、腰巻と胴巻の前端は伏板の杓子の柄の部分に連結されている。 こうして、伏板と腰巻、胴巻で冑の骨組みを作り、その間に地板という三角形や短冊状の鉄板を革綴や鋲止 めで固定し、堅牢無比な衝角付冑が形成されている。 これも、短甲と同様、初期の頃は、三角の鉄板を革紐で固定していたが、次第に鋲で留めるようになり、更 にこの部分を、三角形や短冊型の鉄板から一枚の板金の地板に代えて、より堅牢なものへと進化していっ た。 この冑の特徴は、冑の前部が船の舳先のような形をしているため、額の前に三角形の空間があり、この部分 が三角である為に敵の正面からの斬撃に耐える強度があり、また、敵の攻撃に対して角度があることから、 その力の方向を逸らせる効果もあったことが想像できる。 このことは、兵士の額や顔面を敵の刃から守るには極めて有効であったようで、あくまでも機能一点張り、 実用価値の高い堅牢な冑として長期間愛用されていたようである。 では、何故、この様な形なのかということは、恐らく、最初は革で作ったことの名残であろう。 最初は革で衝角付冑が作られ、その技法で鉄製の冑を作ったためにこの様な独特な形が出来上がったものと 思われる。 この衝角付冑は、本来、短甲に付属していたもので、その製作手法も全く同一である。 この形式の冑は、よほど当時の我が国の戦闘形態に良く合っていたようで、古墳時代前期に渡って使われ続 けてきた。 これは眉庇付冑が五世紀中葉から六世紀初期までの短い期間しか古墳の出土が見られないことに対し、衝角 付冑は、後には桂甲とともに出土している。 本来は短甲と組み合わせて着用された衝角付冑が、後には桂甲とともに使用されていたことがわかるのであ る。 衝角付冑の優れた実用性の故であろう。 眉庇付冑・大陸様式の冑 構造は、衝角付冑とは比較にならぬほど複雑であり、製作には高度の技術と手間がかかるものである。 また、実用一点張りの衝角付冑と違い、極めて装飾性の強いもので、実戦用というよりむしろ権威を示す為 のもののようである。 中には、金銅製の部品を多用した非常に煌びやかなものもあり、これは防禦の面では、全て鉄製のものより 大幅に劣る。 半円形の大きな眉庇は様々な模様の透かし模様があり、金銅製の物もあった。 この眉庇付冑は、本来は桂甲に付随するものであった。 先に述べたように、この桂甲は、倭の軍隊が朝鮮半島に進出を頻繁に繰り返すようになってから出現したも ので、その結果、眉庇付冑も、桂甲とともに出現したと考えられる。 桂甲は主に騎馬戦に向いた鎧であるので、当然それに付随する眉庇付冑も騎馬の戦闘を想定して作られてい る。 桂甲と眉庇付冑の出現する前、およそ4世紀末から5世紀初めには、倭の軍勢は朝鮮半島に攻め込み、百済 と新羅を従え、高句麗と戦っている(好太王碑)。 このとき、好太王碑文には、倭を大敗させたとあるが、その真偽はともかくとして、倭の軍隊が帯方地方に まで侵入したことは確かであろう。 高句麗は騎馬戦を得意とし、その鎧も騎馬戦に適した小札鎧を纏っていた。 また、乗馬を敵の矢や刃から守る為に馬に鉄面を着け、馬鎧で胴体を保護していたことは、当時の古墳の壁 画から知ることができる。 では、高句麗の軍勢全体がこの様な完全武装の重装騎馬軍団であったのだろうか。 おそらくそうではあるまい。小札鎧はその製作に手間暇がかかり、極めて高価なものである。 この様な高価な鎧で自分自身と乗馬の身を包むということは、よほどの権力と財力を持った高位の人物でな ければ到底無理である。 この壁画に描かれている騎馬武人は、この古墳の主のような高句麗の特別な地位にあった人物なのであろ う。恐らく、この様な重装騎兵はその地方の豪族の一族ぐらいで、その他はもっと軽武装の軽騎兵であった 筈である。 好太王の率いた軍勢は、少数の重装騎馬兵とその他の軽武装の軽騎兵、そして大部分は簡単な武装の歩兵で あった。これは、何所の軍隊にも共通した編成である。 我国の軍隊はこの様な敵と戦った。そのとき、勝ったか負けたかはわからない。 好太王碑は好太王の戦功を顕彰したものである。従って戦争には勝ったとしか書かない。 まさか負けたのを勝ったとは書くまいが、勝敗が五分五分であっても大勝として記録に残すものである。 そこから推察できることは、倭と高句麗は激しい戦闘を交えたことぐらいであろう。 その時、倭の軍勢の心に深く刻み込まれたことは、この少数の重装騎兵の突撃であったはずである。 体全体を包み込む小札鎧、馬にまで鉄面を被せ、馬鎧で矢や矛の攻撃を防ぐ。これには主に歩兵戦で戦って いた倭の歩兵には歯がたたなかったのではないか。 古代の戦闘は、後世の騎兵の突撃とは違う。同じ重装甲の大勢の重騎兵が集団で突撃することはしない。 指揮官ほか少数の重装備の騎兵が大勢の軽装の騎兵を率いて突撃する。 矢や敵の刃のたたない重装甲の重騎兵がまず敵陣に衝撃を与え、敵の第一陣を突破して蹂躙し、その後に軽 騎兵が戦果を拡大する。 つまり、当時の重騎兵は現代の戦車の役割を果たしていたのである。 その時の衝撃が歩兵主体の倭の軍兵にとって如何に大きかったか。その結果が桂甲と眉庇付冑の登場となる のではないか。 多くの学者は、この桂甲と眉庇付冑は朝鮮半島からのものという。これが定説となっている。 しかし、これは形が似ていることと、小札鎧であることから安易に結論づけられたもので、各部分の構成に ついて詳細に比較検討した結果ではない。 過去、朝鮮半島から全ての高度な文化がもたらされたということが定説となっている。 中国の高い文化が朝鮮半島を経由して我が国にもたらされたということが何の疑問も無く受け入れられてい た。 朝鮮半島は当時、未開の野蛮人であった我が国より遥かに高い文明を持ち、後世の日本の文化は全て朝鮮半 島から来たものであるとの思いこみが我が国の学者にあった。 確かに地勢学的に見ても、中国から半島伝いに文化が日本に伝わったということは誰もが考えることであろ う。 しかし、最近、多くの考古学的発見により、この考えは否定されてきている。 では、桂甲と眉庇付冑はどうか。 確かに、きっかけは高句麗の重装騎馬兵の着けていた小札鎧や兜であろう。 しかし、その構造は、朝鮮半島のものとは根本的に異なる。 桂甲もその製作手法は短甲からのものであるし、眉庇付冑も衝角付冑の製作手法を踏襲している。 つまり、桂甲は、小札をを使った鎧ではあるが、前で引き合わせる短甲の形式を継承しているし、眉庇付冑 も、衝角付冑の伏板の頂面の丸い部分だけを残し、前の杓子の柄の形の部分を無くしたもので、腰巻と胴巻 と伏板の間にいろいろな形の地板を革紐や鋲で留めた構造は衝角付冑と同じである。 特に、その初期に於いて、この地板の部分は短甲や衝角付冑と同じ三角板を革で綴ったものも存在するし、 この部分を多くの細長い短冊型の鉄片で腰巻と胴巻、胴巻と伏板を別々に鋲止めして半球状の鉢を形成して いるものもある。 これは、数枚の鉄板を打ち出して半球状の冑鉢を形成する朝鮮半島の冑とは根本的に違う我が国の冑の特徴 である。 また、眉庇付冑の野球帽のような形は、一見、大陸の冑と同じようにみえるが、こうして詳細に比べてみる と、全くこの両者は別物であることがわかる。 さらに、その特徴である眉庇は極めて大型で、そこには金鍍金や金銅で細かい透かし模様や点描が施された 実に美麗なものもある。 また、腰巻や胴巻にも金鍍金や金銅で飾られ、点描の模様の施されたものもあることから、これは単に実戦 の為だけに用いられたものではないようである。 我が国では、戦闘の主体はあくまでも歩兵である。騎馬兵はごく少数の極めて位の高い人達に限られてい た。 この五世紀は、倭国は急速に力を伸ばし、朝鮮半島にまで力を伸ばしていたのであるが、高句麗のような本 格的な重装騎兵は存在しなかった。 そしてその戦闘法も騎兵の集団戦などではなく、あくまでも個人の武勇に頼る個人戦が主体であり、このよ うな桂甲で全身をよろい、眉庇付冑を被った重装甲の騎馬の武人は、実際に戦闘に加わるのではなく、軍団 を指揮する高位の将軍であったと考えられる。 それ故、美麗な甲冑に身を固め、その権威と存在を誇示したのではないか。 そう考えると、何故、わざわざ防禦力に劣る金銅を、重要な冑鉢や眉庇に用いたのかということも理解でき るし、或いは、この眉庇付冑は、儀仗用に作られた可能性もある。 この様な豪華な甲冑は、その地方の首長クラスの古墳から出土している。 このことは何を意味するかというと、その地方の首長クラス、古墳を造営できるほどの地位と財力がなけれ ば、これほど高価で手間のかかる甲冑を持つことは不可能であったということなのである。 そして、副葬品として墳墓に大切に埋葬されたということは、この鎧が如何にこの古墳の主にとって大切な ものであったかを雄弁に物語っている。 この華麗な眉庇付冑は、五世紀中葉に姿を現し、六世紀初めには姿を消す。 それ以降は、桂甲に衝角付冑が付随して古墳から出土するようになる。 この古墳に副葬された甲冑は、その墓の主の愛用したものであるから、その製作年代は、この古墳の埋葬年 代から数十年遡ることになる。 ということはこの眉庇付冑は、五世紀にはいって間もなく作られ初め、五世紀後半にはその製作は中止され たのであろう。 では眉庇付冑は、何故、このたかだか五十年余りの期間しか製作されなかったのであろうか。 それは確たる証拠が存在しないのでわからない。 しかし、その期間は盛んに朝鮮半島に出兵し、新羅と頻繁に交戦している。 この時期と眉庇付冑の製作期間が一致する。つまり、この華麗な冑は、新羅への侵攻が止んだ六世紀には姿 を消しているのである。 そして、国外への遠征が止んだと同時に、華美な眉庇付冑は、実用的な衝角付冑にとって代わられることに なった。 ということは、この冑は、倭兵を率いて新羅討伐に遠征した各地方の有力豪族のものであったのではなかろ うか。 こう考えるとこの眉庇付冑が何のために製作され、使用されたのかということがうまく説明できるのではあ るまいか。 平安、鎌倉時代 日本の甲冑 日本の鎧について。 人のブログを読んでいたら、今の人たちは、我が国の鎧について大きな誤解があることに気がついた。 何処で読みかじったのか知らないが、日本の鎧は、皮でできているので弱いと思いこんでいる人が多いこと に気がついた。また、皮だから容易に日本刀で切れるとも。 しかし、実は、日本の鎧は極めて堅牢にできていた。 確かに、平安時代の大鎧はの構成要素である札は牛の皮で出来ていたが、これは皮だけでできているという ことではなく、鉄の札と交互に犬の皮で横に連結して、横に長い板を作り、これを上下に糸や皮で威して構 成されていた。 この最小の単位を小札と呼んだ。 この小札は長さ5センチ、幅は古くは3センチもあった。これは、時代が下るに従って細くなる。 恐らく、この小札が皮でできていた(鉄小札もあったのは説明したとおりである。)のを何かの本でよん で、皮だから弱いと思いこんでいた人もいたことであろう。 しかし、実は、この煉皮の小札は、他所の国の鎧のように、ただ一枚の牛皮を裁断して作ったものではな い。一枚の牛皮をそのまま使ったものの数倍の強度と防御力を持つ。 簡単に説明すると、膠を溶かした水に皮を浸し、芯まで膠水が浸通ると、堅木の板の上に置いて鉄の槌で打 ち、薄く延ばす。これを数枚重ねて打てば、着いて一枚の板ができる。これに石灰をまぶして乾かせばたや すく矢も通すことのない堅牢無比の甲板ができあがる。 これを上記の大きさに裁断して小札を作るのである。 こうして作った煉皮の小札と鉄小札を横に交互に重ねて一続きの細長い板をつくり、これに黒漆で塗り固 め、さらに堅牢なものとなる。 煉皮の小札だけで作られた鎧が如何に信頼されていたかを物語るものに、源氏の家宝の八領の鎧がある。 その内に膝丸という鎧があった。 これは、牛皮のうち、最も堅牢であると言われた膝の皮を牛千頭から取って作ったとされている。 源平合戦の頃、日本弓の威力は他の国の短弓の数倍の威力があった。その強弓を十分防ぐほどの防御力がこ の煉皮の小札の鎧にあったということなのである。 これは後世の胴丸や腹巻、腹当にまで用いられ、革製の兜もあった。これを煉鉢の兜という。 源平合戦の時代から戦国動乱の時代まで、我が国の鎧は世界でも第一級の防御力を誇っていたのである。 初期の鎧 初期の鎧 大鎧が日本独特のものとして登場したのは平安中期頃である。 それ以前は、古墳時代以来の桂甲、短甲、と奈良時代に大量に作られた綿襖甲がある。 桂甲は細長い札を横綴じとした細長い札板を数段上から下へ威し下げて構成されている。 これが体を一周巡り、前面で引き合わせる。 また、これを前後に打ち掛け、肩の部分で連結した物を裲襠式桂甲という。 短甲は、長方形、あるいは三角形の甲板を紐で連結したり、鋲で留めたりして構成されている。 綿襖甲は、製作が簡単であるため、奈良時代に大量に製作され、諸国の兵器庫に収められた。 綿は刀槍に対する防御性も高く、防寒性もあることから、外套状に作り、内側か外側に甲板を綴じ付けてあ る。最近の韓流歴史ドラマで、朝鮮の武将が来ているあれである。 また、「蒙古襲来絵詞」で高麗軍の着ているものがこの綿襖甲である。 大鎧、又は式正の鎧、きせながと呼ばれる日本固有の鎧は、上記の桂甲の発達したものと言われている。こ の鎧は騎射戦を目的としている為に、外国の鎧にはない特徴を備えている。 まず、騎射の為に楯は持たない。その楯の代わりに大袖が付き、これで前方から来る矢を防ぐことができ る。 胴は前から左脇を巡り後ろまでを防御するが、右脇が空いている。この部分に草摺の着いた脇楯(わいだ て)を付けて右脇を防御するのである。 草摺は前後左右、四つに別れ、裾広がりになっている。 これは、馬に乗った時、腰から膝までを、丁度箱状になって覆う形となる。 兜は、数枚の鉄板を鋲で留めて半球状に成形した鉢を主体部分とする。 この鋲の頭を大きくして装飾と補強を兼ねたものを星といい、この星の大きなものを厳星の兜といった。 この兜の鉢の前面に眉庇(まびさし)を付けて補強し、両横と後ろは四、5段に小札板を威し下げ、その両 端をひねり返して、吹返(ふきかえし)とした。 兜の鉢の天辺には、大きな穴が空いていた。これを天辺の穴という。 これは、揉烏帽子を被ったままで兜を被り、この穴から烏帽子の先と髻を出すための穴である。 当時の兜は、受け張りがなく、直接頭に鉢の部分が当たったので、烏帽子を被った上から兜を被ったのであ る。 この様に、大鎧は、騎射を想定とした鎧であり、上級武士の為のものであった。 しかし、当時から、騎馬武者だけて戦争したわけではない。これには、家の子、郎党もつき従った。 その中に、当然歩卒もいたわけで、彼らの為には、足捌きがよいように、草摺が多数分割された簡便な鎧、 胴丸や腹巻が作られた。 この、胴丸、腹巻きは通常、兜は被らず、大袖は付けない。 平治物語絵巻に、兜を被った胴丸姿の随兵が描かれているが、これは、主人の兜を被っているのであって、 この随兵のものではない。 また、源平合戦の頃から、鎧の小札を横に縫って連結した物を、漆で固めるようになり、より堅牢さが増し た。 それ以前の、小札を犬の皮糸で横縫いをしただけのものは、小札と小札の間が動いたため、揺るぎ札と呼ば れた。 この平安末期から鎌倉初期にかけての戦は、主に弓矢の戦いであったので、その弓箭を防ぐ為に特化した鎧 が作られたのである。 鎧と弓矢 鎧と弓矢 平安後期に大鎧の形式が確立したことと、弓矢の威力が格段に進歩したことは、お互い無縁ではない。 矛盾の逸話にもあるとおり、この二者は相反する性格をもつ。 鎧の防御力が高くなれば、弓の方もさらに工夫を加えて威力を増そうとする。 弓矢の貫徹力が向上すれば、それを防ぐために鎧の方もさらに改良を重ねる。 実は、この平安後期に、弓の威力が増大している。 それまでは、単に、弾性の強い樹木を皮を剥いで造った木弓であった。一本の木から造る弓は、その威力を 増すために勢い長大なものとならざるを得ない。日本の弓が、二メートル以上もの長さがあるのはその為で ある。中世では七尺五寸(2m27.3cm)が標準であった。 十二世紀頃に成立したのは、従来の木弓の外側に竹を膠で貼り付け、その上から糸でぎっちり巻き締めて上 から漆をかける。さらに、その上に籐などを巻く。これを伏竹弓といい、軍記ものによく出てくる重籐の弓 などはこの一種である。 このような木と竹の合成弓を合せ弓という。 又、当時の弓の強さを著すものに「二人張」「三人張」といった何人張りという言葉がある。 これは、何人かかってこの弓に弦を掛けるかということで、「三人張」は二人でこの弓を押し撓め、残りの 一人が弦をかけるのである。 弦を掛けていない状態では、弓は外側に大きく湾曲している。それを二人がかりで反対方向に撓めて弦を張 るのだからこれは相当な力がいる作業である。 このように、弓の威力が増したことにより、より防御力の強い鎧が求められたわけで、これが大鎧の防御力 向上の大きな動機付けとなっている。 一般の鎧の小札は二目札が普通であるが、なかには三目札のものもあり、これだと、小札が三重に重なるこ とになり、防御力は5割方増すことになる。 こうして、弓矢と鎧は、平安後期、源平争覇期に完成をみることとなる。 日本の武士が楯を持って戦わなかった理由 何故、日本の武士は楯を持って戦わなかったか。 世界では、戦闘に際し、楯を左手に持って敵の剣や槍を防ぎながら、こちらは剣や槍で相手を攻撃するのが 大勢を占めていた。 その最も威力を発揮したものが古代ギリシャの重装歩兵(ホプライト)であろう。 彼らは、直径1mの円形の楯を持ち、横一列に並んで密集方陣を組んで戦った。武器は直径2〜3cm、長 さ2〜3mの木の柄の両端に金属製の穂先が付いたものだった。 これは、投げるのではなく、敵を突き刺すもので、これを右手だけで操作した。左手はホプロンと呼ばれる 丸楯を左肩と共に支えていた。 身につける鎧は、青銅製のクレストというたてがみ状の飾りの付いた兜、釣り鐘状の胸当て、臑当てという 重装備であった。 この重装備のおかげでペルシャの大軍を撃退し、ギリシャ文化の黄金時代を迎えることとなる。 この場合、この重さ10kg近くある大きな楯は、敵の殆どの攻撃を跳ね返すことができた。 また、日本の武士とよく比較される西洋の騎士も、楯を左手に持って、敵の攻撃を防いでいる。 騎士の戦法は、左手に楯を持ち、長大な鍔の付いた槍を小脇に抱え、馬を疾駆させながらその勢いで相手を 槍で突き倒すのである。この場合も、楯は相手の槍を跳ね返すために極めて重要な役割をになっている。 ハリウッド製の歴史活劇を見てわかるとおり、西洋や中東では、殆どの兵士は、楯と剣あるいは槍を持って 戦っている。これが世界の趨勢であった。 ところが、我が国では、平安時代以降、殆ど手楯は使用されなかった。 これは何故なのか。 それは、武器は何を使ったかによって決まってくる。 西洋は、殆どが剣や槍を右手で操作して戦った。そのため左手で楯を持つことができた。 中世初期において、西洋の騎士も中東の兵士も、鎧は主に鎖鎧である。 鎖を編んだ鎧は、剣の斬撃には強いが、矢や槍の刺突にはからっきし弱かった。鋭い穂先が鎖の編み目を簡 単に突き破るからである。 それを防ぐ為に硬く詰め物をした胴着を来ていたが、それでも十分な防御とはいえなかった。唯一、有効な 防御が可能なのは楯であったのである。 では、日本ではどうであったのか。 日本の武士は、本質は騎馬弓兵である。全てが矢戦の為に作られた。 弓を射るには、両手が必要である。楯を持つことはできない。馬上ではなおさらである。 木製の楯はあったが、とても大きくて手に持って戦うことなどできなかった。 その故、敵の矢を防ぐ為に大鎧では大袖が発達した。つまり、左手に楯を持ち、敵の矢を防ぐ代わりに、肩 に袖を付け、それで敵の矢を防いだのである。 そして、矢戦の為には、鎧も鎖鎧ではなく、矢に強い小札鎧が発達したのである。 初期の日本刀 初期の日本刀の使い方 日本刀が完成される前、およそ平安期中期、毛抜型大刀というものがある。形状や作りはその後の大刀と変 わらないが、大きく違う所は、柄が刀身と同じ共鉄で作られ、その形状が毛抜きの形に似ているから、この 名がある。 形は柄の部分から湾曲し、この頃から湾刀化がはじまる。この大刀は中央の衞府官の大刀として採用されて いる。 その後、今で言う日本刀としての形が完成する。刀身は付け根の部分から湾曲し中程から先端にかけてはほ ぼ直線で、切っ先は細く鋭利である。 また、作りは鎬造りであるところは前の毛抜型大刀と同じであるが、最大の相違は、茎を木製の柄に差し込 み、目釘で固定するようになっている点であろう。 この初期の太刀は、その形からして、どの様な使い方がされたかわかる。 まず、注目すべきは、その柄の長さと形状である。 この頃の太刀は、あまり柄の部分は長くない。しかもそりがある。 これは、何を意味するかというと、この太刀は片手で打つようにできている。勿論、両手に持って戦うこと もできるが、柄自体に反りがあるということから、本来、片手で持って打つために作られていたということ である。 このことを何より雄弁に物語るのは、切っ先が細かったという点である。 切っ先を細くすれば、それだけ片手で振ったとき遠心力が小さくなり、扱いが楽なものとなる。 そして、この太刀は、当時完成をみた大鎧を着た騎馬武者の腰に佩かれた事を考えると、当然、馬上からの 斬撃に使われたものであろう。 馬上からの片手打ちに湾刀が向いていることは、騎馬民族の刀が、ほぼ例外なく湾刀であることを見てもわ かる。 ただ、重い湾刀を片手で打ち下ろすということは、後世の戦国期のように、打刀を両手で持って、精妙無比 な刀法などできるはずもなかった。 日本の鎧・その強靭さの秘密 日本の鎧は小札で構成されていることは以前説明したとおりである。 特に大鎧(きせながともいう)は、本来、矢に対する防禦を目的として作られている為、弓箭に対する防禦 力は他国の鎧の比ではない。 日本の矢は長くて重い。それを2mを超す長大な弓で飛ばすのである。 破壊力は他国の弓矢を大きく凌駕している。 その強い貫徹力を持った矢を防ぐのである。 平安期の鎧は鉄札もあったが大部分は牛皮で出来ていた。 普通に考えると、牛皮で矢が防げるのだろうかという疑問が湧くであろう。 勿論、牛皮を裁断して小札を作り、漆を塗っただけではこの強靭さは得られない。 ユーチューブの動画で、牛皮で小札を作り、それに漆を塗っただけで矢を防ぐことが出来るという誤った説 明をしていた。 確かに牛皮にはある程度矢を防ぐ能力はあるし、それに漆を塗ることでさらにその防禦力は増すであろう。 しかし、それだけでは当時の和弓から射込まれる矢を防ぐことはできない。 何故なら、ただなめしただけの何ら手を加えない牛皮では、漆を塗ったぐらいでは鋭い鏃に簡単に突き破ら れてしまう。 これには肝心なもの、皮を堅くする工程が抜けているのである。 その肝心なものとは一体何か。 それは膠(ニカワ)なのである。 膠で皮を堅くする工程が不可欠であり、これなくしてはまともな皮小札は存在し得ない。 以前説明したが、牛皮を膠の溶液に浸けて中まで膠が浸み透ったところで取り出し、鉄の槌で打ち延ばす。 これを数枚重ねて打てば着いて一枚の板が出来上がる。 これを裁断して小札を作る。 このように、膠をしみ込ませた牛皮を槌で打つ事により皮の繊維をより緻密なものとし、それを膠で固めて 数枚を接着する。 つまり、この工程が無ければ、唯の牛皮に漆を塗っただけでは鎧としての防禦力は得られない。 ただの牛の皮に漆を塗っただけの小札で作った鎧など、平安、鎌倉期の武者ならいとも容易く射抜いたはず だ。 つまり、日本の鎧をかくも堅牢無比なものと成し得たものは、実は膠の力なのである。 今年(2014年)2月にある民放で放映されたものに興味深い実験があった。 アメリカのウイスコンシン大学の教授が古代ギリシャの麻の鎧、リネンキュラッサと呼ばれるものの防禦力 の実験である。 もともと、古代ギリシャの鎧は青銅製の極めて重量のあるものであった。 これに、青銅製の冑を被り、青銅の臑当てをつけ、直径1メートルもある丸楯を持ち、密集陣を組んで戦っ た。 あの有名なマラトンの戦いでペルシャの大軍を破ったのは、この堅牢無比の青銅の鎧の防禦力のおかげであ る。 しかし、この青銅の鎧は如何にいっても重い。 この重い鎧を着て、10kgもある楯を持って徒歩で突進するのである。 如何に体力があろうともこれは耐えがたい苦痛であったはずだ。 そこで、この最も重い胴鎧の軽量化が図られた。 胴体は大きな丸楯で守られているので、この部分は多少防禦力を犠牲にしても軽いほうがよい。 そうして工夫されたのが麻(リネン)で作られた鎧、リネンキュラッサである。 従来、この鎧は、着ないよりはましという程度にしか評価されていなかった。 しかし、鎧である以上、ある程度の効果はあるのではないか。 敵の武器が防げなければ鎧として役にたたない。 果たして、「着ないよりまし」といった程度の、形だけの鎧など、生死を分ける戦場に着てゆくものだろう か。 大いに疑問に思っていた。 そう思っていたところ、この放送を見てやはりそうかと合点がいった次第である。 説明によると、麻の布を兎の皮からとった接着剤で十二枚ほどはり重ねて鎧をつくる。 これを弓で射ると、鏃は裏まで突き抜けてはいない。 これでリネンキュラッサの鎧としての能力が証明されたことになる。 もとより、単に麻布を12枚重ねただけでは駄目である。 秘密はこの「兎の皮からとった接着材」である。 これは西洋で一般的に使われている兎膠。つまりまぎれもなく膠なのである。 日本の鎧は牛皮を膠で堅固に固めたもの。リネンキュラッサは麻の繊維を膠で固めたもの。 動物性と植物性の違いはあるが何れも緻密な繊維を二カワで強固に接着したものである。 つまり、日本の鎧、古代ギリシャのリネンキュラッサ、何れも膠の存在無しにはその優れた防禦力を得るこ とはできなかったのである。 このように、膠なくして我が国の甲冑は存在し得なかったことが御理解頂けたと思う。 現在、マスコミやネット上でも余りにいい加減な情報が氾濫している。 それをいちいち目くじらをたてて訂正するつもりはないが、この様な大切なことは気がついたそばから検証 し、間違いがあれば訂正を加えてゆくつもりである。 戦国時代 合戦の実像。黒沢映画について。 七人の侍 黒沢明監督の時代劇映画作品は、映画作品として素晴らしいものであることは万人の認めるところであろ う。特に、海外の映画関係者に与えた影響ははかりしれない。 黒沢作品は、作品自体があまりにも迫力があり、現実感があるため、視聴者は完全にスクリーンの中に入り こみ、感情移入して、あたかも実在の出来事の様に感じることだろう。 実は、それこそ、黒沢監督の余人には真似の出来ない真骨頂なのだが。 しかし、これが歴史の事実を忠実に再現しているかと言えば、実はそうではない。 黒沢監督の一連の時代劇作品は、壮大な虚構世界であり、実に巨大なスケールの創作ドラマなのだ。 例えば、かの名作、「七人の侍」である。 これは、山間の小さな貧しい農村が、たびたび野武士に襲撃される為、困り果てた挙げ句に、腕の立つ侍を 雇うことになった。 そして、その探してきた侍達は村人を訓練して、村を要塞化し、襲ってきた野武士を撃退する。 この前提は、戦国時代の農民は、極めて弱い存在であり、自分では何の自衛力も持たず、いざ山賊に襲われ ると、一方的になすがままという状態であったということである。 この基となった戦国時代の農村についての歴史観は、この映画の製作当時は至極当然とされてきた、支配者 と被支配者という図式、所謂階級闘争的史観が元になっている。 つまり、武士、領主階級が一方的に隷属民である農民を搾取し、農民は、何ら抵抗力を持たない哀れな存在 であるというものである。 しかし、これは、どう考えてもおかしな話である。 人間は、当然のことながら自衞本能をもっている。これは、武士であろうが、農民であろうが何ら変わるも のではない。 誰も死にたくはなく、命の糧である食料や衣類をとられ、家を焼かれれば当然抵抗するに違いない。 略奪者や殺人者に対して、必死で抵抗することは現代も変わらない。 百姓といえど、自分を守るべき武器を持ち、その扱いにも習熟していたと考える方が自然であろう。 また、当時の農村は、必ず、領主が居た筈だ。 その領主達が、我が領民が野武士に略奪されるのをみすみす指をくわえて見ているとは思えない。 そう思いながらこの映画を見ていた。 そして、最近の研究では、やはりその通りであったことがはっきりしてきたのである。 当時の農村は、必ず土豪がいて相当な武力を有していた。そして、その土豪達は、地方の有力者たる国人領 主の被官となり、庇護下にあった。 その見返りとして、当然の義務として税を納め、軍役を請け負い、いざ合戦ともなれば家の子郎党を引き連 れ、配下の百姓から人を選って軍夫として戦場に出かけていったのである。 つまり、「七人の侍」は、外から呼ばれるまでもなく村内に存在し、村人の中には合戦の経験の豊かな男達 が大勢いたということなのだ。 当時は、隣の村や、所領の境界の村では、水や土地、牧草地を巡って諍いが頻発していた。 その騒動が起こる度に村人が徒党を組み、村同志の合戦をやっていた。 また、飢饉などで食料が乏しくなると、他所の村に進入して略奪行為に及ぶこともあったという。 ここから見えてくることは、「七人の侍」で描かれた軟弱な百姓や村人は誤りであり、他所の村に略奪に出 かける程の力を持った、逞しい百姓の実像が浮かび上がってくる。 つまり、この映画の敵役、略奪者たる野武士の姿も、当時の農民のもう片方の一面であった。 もう一つ。 これは未だに映画や歴史ドラマの戦闘シーンにある最大の間違いについてである。 どの戦国ドラマも、刀で鎧武者を切り倒すシーンばかりである。 こんな馬鹿なことはない。 刀で鎧が切れるなら、なにも二十キロもある思い鎧兜を着けて戦うことはない。 当時の鎧は実に堅牢に出来ていた。 鎧を通すことが出来るものは、一点に力を集中できる鋭い切っ先を持った槍や弓矢に限られていた。 平安、鎌倉期までは主に弓、室町戦国期に槍が武士の表芸とされたのはそういった理由による。 だから、刀で鎧武者と渡り合う場合は、まともに鎧で覆われた部分を打つことはしない。 鎧の外れや隙間、裏小手などを切る。又は、無防備な首筋に切っ先をすり込む。 この様に、極めて精緻な刀使いをしなければ、現在の剣道のように胴を抜いたり、面を打ったりでは敵に致 命傷は与えられない。 ただ、よく使われていた方法は、まず、敵の兜を打ち落として無防備になった頭を次の太刀で打ち割るとい うことも行われていたようだ。 この場合、刀の刃はぼろぼろになり下手をすると折れたり曲がったりする。 軍記物に、曲がった刀を足で踏んで直しながら戦ったという記述もある。 鎧武者に対して、最も効果があったのは前述の通り槍であった。 余り知られていないが、槍は、突き刺して抜くとき、ただまっすぐに抜くのではない。これでは槍の穂先の 幅の分しか敵に傷を与えられない。 これは、極めて古い槍の流派に伝わる素突きの方法であるが、槍を突きこんで抜く時、切っ先をピンと跳ね 上げる。 こうすると、敵は、内蔵を大きくえぐられ、致命傷を受ける。 こういった事実は、現在、殆ど言われることがない。 歴史ドラマや時代劇を見るときは、以上の事実を知った上で、黒沢作品やその他の歴史ドラマは壮大な虚 構、エンターテイメントであると割り切ったうえで大いに楽しんでいただきたい。 合戦の実像。黒沢映画について。 影武者 戦国時代の解釈は、時代と共に、変わってきている。また、新しい史料や遺跡の発掘などで、今までの固定 概念がひっくり返ってしまうことも少なくない。 黒沢作品の「影武者」は、武田信玄の影武者という虚構を、壮大なスケールで描いた大作である。 映像的には文句の付けようがない。そして、様式美に徹した騎馬武者のシーンも、当時の実態とは大きくか け離れて居るとはいえ、さすがと思わせるものがある。 また、時代考証も、相当凝っていて、登場人物の来ている甲冑などよく研究されているし、登場人物の姿や 顔立ちも、当時の肖像画に実によく似ている。 本田平八郎など、あまりにも後世残る肖像画に似ているので思わず笑ってしまった。 この映画が公開されたのが昭和55年のことである。 当時、武田信玄麾下の武士団の特徴は騎馬隊であり、織田信長は鉄砲隊だとされていた。 そして長篠の合戦は、武田騎馬隊が馬防柵と織田の鉄砲三千丁の三段打ちに負けた新旧交代劇の典型として 誰も疑うものはいなかった。 しかし、これはどう考えてもおかしい。例えば、鉄砲の発射速度は決まっている。鉄砲三千丁を三段に分け て、千丁ずつ撃っても単位時間あたりの発射彈数は変わらない。つまり、敵に浴びせる鉄砲玉は同じ、倒す 敵の数は変わらないということなのだ。 こんな簡単な、誰が考えてもわかることが、何故、多くの専門家たちが気がつかなかったのだろう。 これが先入観の恐ろしさではないか。 また、武田の騎馬隊そのものが納得いかなかった。 当時の軍制は、前に書いたとおり、中心は、各郷村部に蟠踞していた土豪たちであり、彼らが家の子郎党を 引き連れて国人領主のもとに集まり、それを戦国大名が率いて戦ったのだ。 だから、騎馬の上級武士だけを集めて騎馬隊を編成することなど当時の常識にはないことであった。武田の 騎馬隊など、だれが言い出したのかしらないが、おおよそ昔の講談か講釈師がでっちあげたものだろうと 思っていた。 ところが、近年、今まで正しいとされてきたことが間違いであることがはっきりしてきた。 特に、鈴木眞哉氏などが力説していることだが、実は、信長の鉄砲は三千丁もなかった。整然と鉄砲を三段 に撃ち分けることは不可能であるし、危険ですらあると言うこと。 私が疑問を持っていた武田騎馬隊の存在も否定されている。 長篠の合戦の実態は馬防柵や鉄砲の三段打ちによる武田騎馬軍団の殲滅などという単純なものではなく、長 篠城を含むスケールの大きな付城や陣城による攻城戦の色彩のつよいものであった。 そして、実際に勝負を決めたものは、単なる人数の寡多によるものであった。 これが長篠の合戦の真相である。 以上、のことを念頭に置いた上で、黒沢明の壮大な虚構の世界を楽しんでいただきたい。 合戦の実像。黒沢映画について。 乱 「影武者」の次に黒沢明が世に出した戦国絵巻が「乱」である。 この映画は、前作と違い、戦国時代を舞台にしているが、その中身はシェークスピアの「リア王」である。 イギリスの戯曲をそのまま当てはめたのだから、その設定のは相当無理があり、前作とは違って舞台演劇を そのまま映画でやったような不自然さが残る。 黒沢明という監督はよほど騎馬隊に思い入れがあるようで、この映画でも騎馬武者が駆け回るシーンばかり が目についた。 まえに書いたように、我が国の戦国時代には騎馬隊なるものは存在しなかった。 鈴木眞哉氏によると、当時の日本馬の平均は130cm前後、中世ヨーロッパの馬が155cmあったのに 対し、一回りも二回りも小さかった。分類ではポニーに分けられるらしいが、当時の武者達はこの小さな馬 に乗って戦っていた。 鈴木氏によると、この小さな馬では、重装備の鎧武者達を乗せて戦場を疾駆し、敵に突撃することは到底無 理だと言っている。 ただ、鈴木氏のいう様に、全く鎧武者を乗せて突撃しなかったかといえばそうともいいきれまい。 なぜなら、平安、鎌倉期では、戦国期より遙に重い鎧を着け、馬で疾駆しながら弓を打ち合っていた。これ を馳せ組みという。 柄は小さくとも、当時の日本馬は、重い鎧を着た武者を乗せて馳せ違い弓矢で打ち合うだけの強靱さをもっ ていた筈だ。 また、小さかったのは馬だけではない。それに乗る人間も小さかった。 戦国時代の甲冑を見ると、子供が着たのかと思うほど小さい。当時の平均身長は155cmを少し越える程 度である。 問題はその身の丈もさることながら、体型は長胴短足である。 現代の競馬では、大きなサラブレッドに小さな騎手が蠅が止まったようにして走る。これは唯走るためだけ なので何の問題もない。 しかし、戦闘は全く違う。鞍壺に立ち上がり、組み討ちや弓を射る。この短い足でしっかり下半身を安定さ せなければならない。 それには、サラブレッドのような大きな馬は向かない。 日本人の小さな体にあった小型の馬のほうが使い勝手がよい。 当時の日本馬が小さくとも強靱な体力を持ち、気性が荒い。これは我が馬を敵の馬に体当たりさせるのに適 している。 この馬当てということも源平合戦以来、よく行われていたらしい。 以上から考えるに、騎馬武者が騎馬隊を組んで突撃することは無かったが、個別に、薙刀や槍を得物として 騎乗して戦うこともあったのではないか。 この場合、家の子郎党等、徒武者が周りを固め、主人を守り、共に戦ったことは鎌倉の頃と変わらない。 いずれにせよ「影武者」「乱」のような、騎馬隊が駆け回るようなシーンは無かった。 戦国時代の剣法 戦国時代の剣法 戦国時代、戦場では、専ら、甲冑の隙間を狙う、所謂、介者剣法を使った。 これは、現在の剣道とは全く別物であった。 殆どの日本人が信じている、「宮本武蔵や柳生十兵衛が剣道を使っていた」ということは全くの誤りであ る。 身構え、足の運び、刀の使い方、全てが違う。 確かに、系統的に無関係とはいえない。 その大元となった新陰流、一刀流、新當流、念流、などの大本となった流派が無数に枝分かれし、それぞれ が単独に時代に合わせて素肌剣法に変化した。 ところが、防具が発明されることにより、状況は大きく変わってくる。 試合形式の稽古が次第に盛んとなり、ついには幕末動乱期には主流を占めるにいたる。 当時、これは、「撃剣」と呼ばれていた。正にこの名が示すとおり、この言葉の意味は、剣を激しく打つと いうことを示している。 この撃剣こそ今の剣道の大本であり、その本質は殆ど変わらない。 これは、大本となる古流派から、新しくスポーツとして派生したもので、次第にこちらの撃剣の方が主流と なっていった。 つまり、今の剣道の源流は、幕末のころの「撃剣」であり、使う竹刀も、面、小手、胴などの防具はほとん ど現在のものとかわらない。 明治になると、急速に、各流派の武道は時代錯誤のものとして顧みられなくなったが、それに危機感を抱い た直新影流の榊原鍵吉などが撃剣興業を行い、今の異種試合のようなことをやった。 この撃剣が、後世、警察や軍に採用され、学校教育にも取り入れられるにおよび、各古流派から独立して剣 道として整備されたのである。 介者剣法 介者剣法 戦国時代の合戦についていろいろ述べてきた。 過去、戦国時代にその起源をもつ流派はかなり現存している。 しかし、250年の太平の世を経、明治、大正、昭和と、時代の大きな変革のなかで、それらの諸流の古武 道は、かなりその内容が変わってきている。 当時のメジャーな流派である柳生新陰流、小野派一刀流など、殆ど初期の形態は変化して、いまでは当時の 姿を窺い知ることはできない。 その中で、比較的、当時の技法やコンセプトをよく残していると思われるものに天真正伝香取神道流があ る。 介者剣法の特徴をよく残しているので、当時の剣法の雰囲気を感じ取る事ができると思う。 他の流派の様に大上段に振りかぶることはしない。 八相か左右の巻打ちを多用する。これは兜の立物が邪魔になって大上段には振りかぶれないからと、鎖や鉄 板で防御されていない腕の内側を敵に曝さないようにするためである。 ご覧になればおわかりになると思うが実に様々な刀の使い方をしているし、その技法は精妙を極めている。 勿論、これらの形が、戦国時代そのものであるとは言わない。時代と共に変化した箇所も多いと思う。 しかし、当時の介者剣法を最も色濃く残している流派である。 このように古い流派には、この甲冑剣法を伝えるものがある。 もうひとつの例として、仙台藩に伝わった柳生心眼流という流派がある。 大別して二つの系統に分かれるが、以下に紹介するのは、仙台伊達家の足軽層を中心に広まったものであ る。 こういった形稽古をやる古い流派は、主たるものの他に外の物として、さまざまな技術が付随する。 当時の、武士の教養科目として様々な武器を扱えるようにしていたのである。 この仙台に伝わった柳生心眼流は、竹永隼人という人が、柳生宗矩に師事して、柳生心眼流を創始したと言 われている。 ただ、この流派の主体は柔術である。珍しい振り拳による当て身や蹴りを中心とした独特の技術体系を持 つ。 この技のなかで、甲冑組み討ちを彷彿とさせるものにむくりというものがある。 相手の腰からからだを回転させ、後ろに投げるものだが、これは明らかに甲冑捕りを想定しているもので、 この流派の基本技である。 この、柳生心眼流は、柔術を主体とし、剣、槍、居合い、薙刀など、あらゆる武器を使う技術を温存してい る。 この平成の代で、当時の甲冑組み討ちや甲冑剣法の実態を知る上で極めて貴重な流派であるといえよう。 勿論、ここに伝えられた刀法が、戦国時代そのままのものであるとは言えない。 何しろ400年以上も昔のことだ。当時の技法そのままがそっくり残っていると考えるほうが無理がある。 代を重ね、時代の変化とともに少しずつ変化したことは間違いがない。 しかし、その大本となる技法は温存されているし、この変化の度合いも、他の流派に比べて遙に小さなもの であったことは、確かである。 戦国時代の剣法はどの様なものであったかを知る上で、極めて貴重な流派である。 馬上太刀打ち戦について 馬上太刀打ち戦はなかったか 最近、多くの著書を出版されている、あるアマチュア歴史家がいる。 多くの本を出されているので、もはやアマチュアとは言えないだろう。 この人の本は実に説得力があり、私も愛読者の一人である。 理論的にも納得させられるものがあり、今までNHKの歴史番組に登場する御用学者や小説家のいい加減な 言動に憤激を禁じえなかったが、このS氏の持論は実に論理的であり、読んでいていちいち胃の腑にすっき り収まるものがあった。 この人は、文献をとてもよく精緻に読み込まれていて、そのうえで過去の様々な固定概念を論破しておられ る。ある意味で、戦国史の革命児といっても差し支えないと思う。 この様に、すばらしい著作を多く出されているS氏であるが、あまりに資料に拘泥するあまり、残されてい る遺物に対する思索が十分ではないと思う。 これは、氏に対する非難ではなく、助言であると思っていただきたい。 前にも書いたが、創生期の日本刀は、その形状からして、馬上から片手打ちに斬撃するするのに最適なよう に作られている。 その特徴は、柄の部分から湾曲がはじまり、切っ先から刀身の根本付近にかけてほぼまっすぐで反りはな い。 これは、突くということも重視した造りではないか。 また、柄の部分が短く湾曲している事の意味は、この太刀の使い方について、あることを示唆するものであ る。 短く、湾曲した柄は、両手に持って振り回すことには適していない。これは明らかに片手打ちを想定して作 られたものだ。 太刀を両手に持って正確な繰法を行うには、柄はまっすぐでなければならないし、ある程度の長さが必要で ある。 初期の太刀はこの部分が短い。つまり両手に持って使う場合には、前の右手と後ろの左手が触れあうほどに 接近して持たなければならない。 これは、今の野球のバットやゴルフのクラブを持つような持ち方しかできないということだ。 野球のバットやゴルフクラブを振るのは、その先端の重さを利用して遠心力や重力を利用してふりまわす。 現在の剣道も、居合道もみなこの様な物理力を利用して剣を振っている。 ところが、刀の重量が増すと、この重力や遠心力を使って太刀を振るということができなくなる。 詳しい説明は別項に詳しく説明するが、後の南北朝によく使用された大太刀は、この柄の部分が極めて長く 作られている。 これは、バットのようにして持ったのでは、振ることはおろか持ち上げ、構えることもできない。 大太刀は長い柄を利用して両手の間隔を広く持ち、腕だけで振るのではなく体を使って振らなければ到底う まく扱えるものいではない。 以上の理由により、創生期の日本刀は片手で扱えるものでなければならず、太刀を持つ右手の負担を減らす 為に、先端を細くして軽量化を図ったことが想像できる。 また、馬上で使ったことが想定される根拠は、その形状にある。 徒武者が使ったものなら、その反りは不利となる。この時期の刀は柄の所から刀身の付け根にかけて大きく 湾曲している。 後世の無反りの打刀と比べて見ればよくわかると思うが、同じように振ったばあい、無反りの刀が相手に届 くとき、反りがあればまだ敵の体に届くには数センチの余裕がある。 つまり、無反りの刀ではすでに相手に届いて切り倒していても、この根本から大きく反りのある太刀ではま だ相手の体になんら損傷を与えていないことになる。 これは、徒立ちで戦う場合、決定的な弱点となる。 ところが、馬上で大きく振りかぶり、片手打ちの場合は、この様なデリケートな問題は存在しない。 むしろ、この湾曲した刀身のほうが片手で振り回すには振りやすいのである。 S氏は、専ら遠戦指向で、馬上太刀打ちは殆ど行われなかったと主張しておられるが、これは、文献資料の 限界と思われる。 当時の武器、甲冑などの遺物をみれば、当然わかることであろう。惜しむらくは、刀剣、武器の専門家の意 見を聞いていれば、もう少し違った結論に達したものであろう。 この点は残念でならない。 白兵戦 白兵戦はなかったか 前回に続き、S氏の説に疑問を呈したい。 氏の主張に、戦国時代はほとんど遠戦に終始し、近接戦は、弓や、鉄砲で動けなくなった敵を鑓や刀でとど めをさし、首を取るということが主流であったというものがある。 S氏は多くの感状や軍注状を詳細に検討し、そこに記載された怪我の原因や状態などから、殆ど刀傷がな かった、また、鑓傷も、鑓の上の功名が重用視されていた時代であるにもかかわらず、そんなに多くはな かった、それに比べ、鉄砲が普及する前は、矢傷が、その後は鉄砲傷が戦傷の大部分を占めていたと主張さ れている。 このことは何を意味するかというと、負傷して主君から感状を貰った武者の負傷の原因の第一は、矢傷や鉄 砲傷を受けたことによるものであるということである。 以上の例をもって、氏は、現在認識されているほど鑓で突き合う戦闘は多くなかった。ましてや、刀で斬り 合うことは殆どなかったと言っておられるのだ。 人間の性として、至近距離で敵と向かい合い、鑓で突き合い、又は、刀で斬り合うことが誰もが避けたが る。 できれば、敵の鑓や刀の届かない距離から、弓矢や鉄砲などの飛び道具で致命傷を負わせられればこれに越 したことはないであろう。 故に、白兵戦はよほどのことでもないかぎりやらなかった。そう主張されている。 なるほど、この説は如何にも理屈がとおっている。そういった面があっただろうことは容易に納得できる。 おそらく、軍役で自分の領地や家から呼び出され、いやいやながら従軍する場合はそうであろう。 しかし、実際はどうであったろう。 当時の戦争は、焼き働き、刈り働き、人取り、など、何でもござれの時代であった。 自分の田や畑を刈り取られ、家屋敷を焼かれ、家族は囚われて奴隷となり、売り払われる。そして、戦闘で は、自分の朋輩や身近な人たちが敵に討ち取られて死んでゆく。まさに阿鼻叫喚の地獄絵図である。 そんななかで、どれほどの人間が平静を保ち、敵から距離を置いて弓や鉄砲の狙撃だけで終始することでき たのだろうか。 憎しみが極限まで高まり、人間やけくそになれば、果たして遠く離れて鉄砲や弓矢だけで我慢できるもので あろうか。 当然、それだけでは我慢できなくなり、鑓や長刀、長巻き、刀で敵を気が済むまで切り刻みたい衝動に駆ら れることであろう。 そこに、計算も理性もない、ただあるのは敵憎しの思いだけである。 そして、お互いが刀槍をとって死闘を繰り広げれば、当然どちらかが討ち取られるまでこの戦いが続く。鑓 の柄を切り折られれば太刀で戦い、懐に飛び込まれれば組み討ちとなる。 その組み討ちに勝ち、首を取れば恩賞を与えられる。 こうした流れとなるのは人間としてごく当然の成り行きなのではなかろうか。 もう一つあるのは、確かに弓は遠くから敵を狙うことができる。鉄砲にしてもしかり。 だが、何れも急所に当たらなければ致命傷とはならない。しかも相手は具足(鎧)を着けている。とくに当 世具足は鉄砲に対してかなりの防御力がある。現存する具足の胴に鉄砲の当たった跡のあるものがあり、裏 まで突き抜けていない。 弓もしかり。ある程度近寄り、真芯に当てなければ矢は鎧を突き通すことができない。 つまり、完全武装し、具足で全身をくまなく鎧われた敵を確実に倒すには、弓や鉄砲では不確実である。 負傷者に鉄砲傷や矢傷が大いにのは、裏を返せば、鉄砲や矢では、敵を確実に殺すことができないというこ との何よりの証拠ではなかろうか。 感状を受けた負傷者は、矢や鉄砲傷を受けたが死ななかったということなのだから。 一方、鑓で突かれた者は確実に死に至る。前にも書いたが、鑓を突き刺して抜くとき、切っ先を上にピンと 跳ね上げて引き抜く。これにより突かれた敵は大きく内臓をえぐられ、確実に死に至る。 刀で斬り合う場合も、内兜、裏小手、腕の裏側、小股を切られ、兜を打ち落とされたあと、頭を打ち破られ れば、これも容易に致命傷を受ける。 そして、組み討ちで組み敷かれ、首を掻かれる。 こうして、刀槍をとっての戦闘や、組み討ちなどの白兵戦では、確実にどちらかが死に、首を掻かれること になるのである。 これが、刀や鑓傷を受けた負傷者が少ない原因である。刀や鑓、組み討ちなどの白兵戦をやれば、ほぼ、必 ずと言っていいほど死ぬのだから負傷して生き残っている訳はないのである。 また、もう一つの証拠としては、現在残る、戦国時代に起源をもつ古武道の剣術、槍術、柔術(組み討ち) の流派である。 およそ400年前の技法そのままと言えないかも知れないが、様々な形が残っている。 これら全てが後世のでっち上げとでもいうのであろうか。 しかし、由緒正しい流派では、実に精妙な技が残されており、とても頭の中だけで作り上げたものとは思え ない。 以上の理由により、刀槍、組み討ちによる近接戦は、戦闘の最終段階に確実に存在したものと考える。 騎馬戦 騎馬白兵戦はなかったか 前述のS氏の「騎馬隊はなかった」という説には大いに賛同するものである。 当時の軍制から考えると、まず、後世の騎兵隊のようなものは無かった。これは言えると思う。 しかし、全く騎乗して戦闘をしなかったかといえばそうではあるまい。 平安、鎌倉以来の伝統的な戦法で馳弓戦を行う者もいただろうし、当然、太刀を取って戦うものもいたはず だ。 馬上での鑓、長刀の使用も無かったとは言えないと思う。 但し、これは手綱から手を離し、両手を使うためかなりの熟練が必要である。 恐らく、最もよく行われたのは、左手に手綱をもち、右片手で太刀を振るうことであろう。これは、日本刀 誕生以来行われてきたことだ。 但し、こうは言っても、当時の騎馬武者が刀でチャンバラをやったと言うつもりはない。刀や長刀で鎧や兜 が切れるわけはないからだ。 この目的とするところは、敵を馬から突き落としたり、組み討ちに持ち込む為のものであったろう。 なぜ、この様な事を言うかというと、馬鎧が存在するからである。 この馬鎧は錬皮製の小札でできており、軽くて丈夫だ。この馬鎧札を使った人間の具足が存在する。 これは、この馬鎧の信頼性を雄弁に物語っている。 S氏の説のように、戦闘前に、全騎馬武者が下馬して戦うなら、この馬鎧は必要なかろう。 前にも言ったように、当時の馬がポニー並の小柄であった為に、重い頼武者を乗せて白兵戦などできないと 言う説には殆ど根拠がない。 S氏はこう言う。 「NHKが歴史番組制作にあたって実験してみたことがある。中世の馬と同じ体高130センチ、体重35 0キログラムの馬に、体重50キログラムの乗員と、甲冑相当分45キロの砂袋を乗せて走らせたところ、 分速150メートル出すのがやっとで、しかも10分くらいでへばってしまったという。旧陸軍の基準で は、速く走る駆歩(ギャロップ)は分速310メートル(中略)、はるかに劣っている。」 しかし、この実験に使ったのは現代の馬である。 戦国期の和種の馬は、今の野原でのんびり草を繰っている馬とはちがう。遙に強健で重い重量にも耐えた。 現代の馬で当時の馬を語ることはできない。 また、馬の大きさも、全てが小さかったわけではあるまい。 当然、乗る人間の体格に合わせて選んだ筈である。 当時、小柄であった日本人の中にも大男がいたように、馬も大きな馬がいたはずだ。 また、当時の当世具足は源平、鎌倉期の大鎧より遙に軽くなっている。その重量は20kgを少しこえた程 度であろう。この45kgは重すぎる。 さらに誤解があるのは、当時、他の国の軍馬は皆大きかったということである。当時のどの国の馬もさほど 大きなものではなかった。時代は遡るが世界を席巻したジンギスカンの蒙古の馬も平均1m35cmほどの 高さである。 我が国の馬とさほど違うわけではない。 殆どの人は、現在のサラブレッドをイメージしていると思われるが、これは、17世紀から18世紀にかけ て、アラブ種とイギリス在来種を交配して改良したもので、当初は152cmそこそこしかなかった。 そして、19世紀初頭には162cm余りの体高となり、現在は160〜170cmである。 サラブレッドでさえ、その当初は150cmを少し越える体高しかなかったのである。 また、その元となったアラブ種は体高150cmである。 ポニーの基準が148cmであるから、かのアラブ馬でさえポニーより2センチ高かっただけなのである。 如何であろう、我が国の軍馬が取り立てて小さいわけではなかったことがおわかりいただけたと思う。 この戦国の時代、サラブレットは存在せず、世界の軍馬はほとんどが今の基準のポニーであったのだ。 ただ、言えることは、山城や陣地戦、田や畑など、で戦う事が多く、実際は下馬して戦う場合が多かったこ とは確かである。 また、戦う方法も、走りながら弓を射る馳せ弓は例外として、打ち物で戦う場合は、走りながらということ は無理である。互いに馳せ寄り、馬を乗り回しながらの戦いであったと思われる。 その場合、全力疾走で長距離走る必要はない。短距離のインターバルで十分であるし、途中馬を休ませる事 もできる。 いずれにせよ、西洋の騎士のように、槍を小脇に抱え、楯を持って正面からぶつかるようなやり方は、我が 国の小さい馬では無理であったことは確かである。 組み討ちと槍術 前に、戦国時代の剣法とはどの様なものかということを説明したが、戦場では斬り合いばかりが行われてい るわけではない。 まず、遠距離では弓、鉄砲。石弓も使われたと古記録に散見する。礫打ちも盛んに使われたようだ。 攻城戦では、下からよじ登ってくる敵に対し、大石なども落とされた。これはけっこう威力があったらし い。 その次ぎに白兵戦になると、鑓、長刀、棒等で戦い、それが使えなくなると刀を使う。 鑓や長刀に比べて、刀は間合いが短く不利であるが、これは長物を持つ敵の懐に飛び込む必要がある。 そうなると必然的に、組み討ちとなり、これで相手を組み伏せて首を掻く。この形は柔術各流派に残ってい る。 鎧を着て演武する流派は先ほどの柳生心眼流もあるが、この流派の柔術は、振り拳を多用しはなはだ特殊で あり、普遍的な技ということになると適当ではないので、ここには取り上げない。 一番近いと思われるものに、竹内流という流派がある。 この流派に期限は極めて古く、創始は天文元年(1532)まで遡る。創始者は美作(岡山県)一ノ瀬城 主、竹内中務大輔久盛である。 久盛は愛宕神の化身と思われる山伏に小刀で相手を制する組み討ちの秘伝「腰廻」と捕縛の術を授かったと されている。 しかし、もっとも良く行われたもの。槍術は数えるほどしか残っていない。 古来、鑓は叩く物と言われている。 本来、足軽の長柄鑓は別として、鎧武者の鑓は余り長くない。ただ突くだけではなく、石突きを返して突い たり、打ったりするため、長くなると、唯突くだけか上下に叩くしか出来なくなるからである。 これが、足軽の長柄鑓と、武者の持ち鑓との違いである。 残念ながら、この武者鑓の使い方を残している鑓の流派は数少ない。 その内、もっとも古体を良く残しているのが佐分利流である。 当時、鑓は、柄に短い穂先を付けた素鑓が標準であったが、穂先に鎌を着けた鎌鑓や、柄に鍵を付けた鍵鑓 も大いに使われた。 この佐分利流は、鍵鑓を使う。 長大な穂先を付けた柄に付いた鍵で、実にうまく敵の素鑓を絡め、巻き捨てる。 また、両刃の付いた剣の様な形の穂先で、飛び込みざま首を切る技など、如何にも戦国時代の荒々しい姿を 良く残していると思う。 水軍の軍船 水軍の軍船とは 町おこしのイベントや祭りなどでよく和船レースが行われているし、海と関連の深い神社の祭りでも和船に よるセレモニーが行われている。 この場合、殆どが多くの漕ぎ手が後ろ向きに座り、櫂で漕いでいる。 これが、歴史的事実に反していることは前にも書いた。 特に、瀬戸内海のある島で行われている水軍祭りでは、多くの若者が漕ぎ手となり、かなりの観光客も来て いるようだ。 たしかに客寄せのイベントとしては成功しているのかもしれないが、過去に存在しなかった櫂船による競漕 を、さも歴史的事実でもあるかのように宣伝して客寄せをしているのは如何なものであろう。 何故ならば、水軍の軍船は、櫂で漕ぐことはなく、全てが櫓の高度な操船技術で微妙な潮の流れや、潮流の 変化を乗り切っていたのだから。 ただ、単純に推進力を得るだけの櫂では、このような高等な芸当はできない。 また、戦闘用の軍船の場合、櫂で漕ぐことは、致命的な欠陥があった。 櫂で漕ぐと、漕ぐことのみに人手が取られ、戦闘に参加する人数が少なくなる。 櫓の場合は、漕ぐ人員は櫂に比べてはるかに少なくてすむ。その分、戦闘員を多く乗せることができたわけ である。 櫂は、座って漕ぐためにすぐには戦闘に参加できない。 ところが、櫓の場合、立って漕ぐのでそのまま直ぐにでも戦闘に参加できる。また、櫓を操りながら、敵船 に焙烙を投げ込むこともできた。 こういった理由で瀬戸内水軍では殆ど櫓を使っていたのである。 軍船が櫂を使うことが、どれだけ船いくさに不利であったかおわかりいただけたことと思う。 当時の水軍の軍船は、櫓の数と船体の大きさ、矢倉の有無で、その種類が決まった。 一番大きな戦艦にあたる安宅船、巡洋艦にあたる関船、速さと軽快性の小早である。 とくに俊敏な動きが要求される小早では、直接、敵船に接舷して乗り込んだり、矢を射こむ、あるいは焙烙 という一種の手りゅう弾のようなものを投げ込んだり、やがらもがらという長柄の武器などを使い、直ぐに でも戦闘に入らなければならなかった。 このとき、座りこんで櫂を漕いでいたらどうだろう。たちまち立ちあがる暇もなく殺されてしまったことは 間違いない。 また、軍船に限らず、一般の船もほとんどが櫓を使っていたことは、多くの文献資料や絵巻物からもあきら かである。 たかが祭りではないか、何で漕ぐかぐらいで目くじらを立てることは無いではないか。当事者が楽しんでい るのだからそれでいいではないかという意見もあろう。 また、櫓を漕げる人間がいないのだからしかたがない。あまり技術のいらない櫂で漕いでもよいではない か。そのような事情も理解はできる。 しかし。である。櫓を使って船を操る技術は、日本の貴重な海の文化である。 このような祭りやイベントを機会に、その貴重な技術を後の世に伝える必要があろう。 そもそも、櫓を漕げる人間がこの様な水軍の島にも少なくなってしまったことが問題なのではないか。 むしろ、これを機会に、島の若者に櫓を漕ぐ技術を伝え、和船建造の技術を保存し、在りし日の村上水軍の 小早船の櫓による競漕を再現してはどうだろう。 ただ、集客だけのために、歴史的事実に反することをやるより遥かに有意義なことだと思う。 武術の流祖の神仏感応譚について 剣術の源流は、京八流、関東七流で、それから念流、陰流、および香取、鹿島の神道流の三大源流が分かれ たといわれているが、その流派創始の経緯は、流祖の超常的、宗教的体験により秘技や極意を会得したとさ れている。 関東で最も古い伝承は、国摩真人が仁徳天皇の御代、鹿島の高天原に神壇を築いて祈り、神妙剣を発明した という鹿島の太刀の古伝である。 また、新当流を創始した塚原ト伝高幹は、鹿島神宮に千日参籠して神感を得、「一つ太刀」の妙術を考案 し、もう一つの有力流派、香取神道流の祖、飯篠長威斎家直も鹿島、香取両神宮に祈って、天真正神道流を 開いたといわれている。 念流の念阿弥慈恩は、少年時代、鞍馬山中で修行中、異怪の人から妙術を授かり、16歳の時、鎌倉で寿福 寺の神僧、栄祐から秘伝を得、18歳のときには筑紫の安楽寺の修行で剣の奥義を感得した。 なお、一刀流の開祖、伊東一刀斎は中条流の鐘捲自斎より極意を授かり、中条流は念阿弥慈恩の高弟、中条 長秀により創始されたのであるから、一刀流の源流は念阿弥慈恩の念流と言ってよい。 また、陰流の愛洲移香斎久忠は日向の国、鵜戸大権現の岩屋において、頭の上で香をたき、37日の祈祷を 行って霊験により極意を授かったという。 つまり、この所謂剣術の三大流派は何れも神人や異怪の人から妙技を授かり、或いは神仏に祈祷中の霊験に より極意を会得したと伝えられているのである。 さらに剣術以外でも、柔術の祖である竹内流の開祖、竹内中務太夫久盛も地元の西垪和三の宮に参篭して、 「腰の廻」を山伏から習ったとされる。 このように、戦国期以前に成立した剣、柔などの武術の成り立ちは、何れも神仏の感応や神人、怪人の指導 によるもので、神社、仏閣と極めて密接な関係があることがわかる。 今まで、特に戦後においては、これらの逸話はその流派の権威づけの為の創作であり、全てでたらめである と考えられてきた。あるいは昔の迷信深い人達の妄想にすぎないと。 科学の発達した現在では、ほとんどの人がこの様に考えるのも無理はない。 今現在行われている現代武道は、運動生理学や力学などの科学でその技法の分析や研究がなされているの で、武道としては過去最高のレベルにあると思っている人がほとんどであろう。それ故、現代科学で説明で きぬ非科学的なこれらの極意開眼譚など、当時の愚かな迷信以外の何ものでもないし、こんな理屈に合わぬ ことは、本気で考える価値はないと考える。 しかしちょっと待って頂きたい。 これらの伝承が全て後世の権威づけの為の創作や、無知蒙昧で信心深い昔の人間の錯覚や思い込みで片づけ てよいものだろうか。 この中に果たして真理が含まれてはいないのだろうか。 そもそも、現代人が昔の人より全ての面において優れているわけではない。 確かに、学校教育や本、テレビなどの情報の氾濫する現代は、全く情報のなかった室町、戦国時代より、問 題にならないくらい知識や情報量は多い。 体格も、平均身長160センチ足らずの当時の日本人に比べ、現代人は遥かに大きくはなっている。 しかし、体力はどうであろうか。 実は、昔の日本人は今とは問題にならぬほど力や耐久力はあったのである。 これは、何をするにしても全て人力に頼らざるを得なかった時代と、何でも機械の力でやってしまう現代で は体力に大きな差ができるのは当然のことである。 神仏に祈って武術の奥義を開眼し、天狗や異形の人から妙術を習う。 これを馬鹿馬鹿しいと一笑に付してしまわず、虚心坦懐に分析してみるといろいろなことが推測される。 まず、断っておかなければならないことは、当時の剣術は、戦場に於ける甲冑剣術であり、柔術は甲冑捕 り、鎧組打ちであったことである。 ここで、大きな誤解を解いておかなければならないことがある。 それは、現在の剣道や柔道をイメージして考えると、それは事実から大きく外れることとなる。ましてや、 現在行われている格闘技とも全然違うのである。 現代の武道や格闘技と称するものなどは、あくまでも一定のルールのもとに行われ、何かの拍子に起こる事 故を覗いて、相手を殺したり、大怪我を負わせることは無い。 また、負けても死んだり、不具になることはない。 ところが、当時の剣術や組み討ちはルールも糞もない。 どんな手を使っても、敵を殺さなければならないし、首を取らなければ自分の命をかけて戦う意味がない。 弱かったり、運がなければ殺されて首をとられる。 勝って首をとれば恩賞を与えられ、出世もする。その為、当時の武士達は命をかけて戦った。その点が、現 代武道と根本的に違うところである。 それ故、現代の武道の観点から、当時の武術を比較検討しても何の意味もないことがおわかり頂けたと思 う。 では、戦場に於ける戦いとはどういうものであったのか。 まず、そこにルールはない。時間も無制限である。敵が逃げるか全滅するまで戦う。 もっとも、敵を皆殺しにするような事例はそんなに多くはなかったのだが。 とにかく決着がつくまで戦い続けなければならない。 その為には、強靭な体力と持久力が不可欠である。 しかし、いくら人並み外れた体力や持久力があっても、長時間無制限に全力を尽くして戦い続けることは不 可能である。 そこで、如何に自分の体力を温存しつつ、無駄無く敵を殺す方法が意味をもってくる。 その如何に効率よく敵を倒すかという技術。それが、当時の介者剣法であり、鎧組打ちの技術であった。 現在残っている極めて古い流派はその始まりは、すべて、この介者剣法や小具足、腰のまわりと言われる鎧 組打ちにその源を発したものである。 戦闘の技術の習得する方法の最も簡単で効果的なもの。これは徹底的に体を鍛え、力と持久力をつける。現 代武道や格闘技に相通じるものである。 小技や精妙な技は廃し、重い大太刀や長巻を振り回して、敵をその重みで斬るというより叩きつぶす。 南北朝以来、戦いの様相が様変わりし、従来の騎射戦から徒歩太刀打ち戦に変化した。 それを如実に物語っているのが、冑の錣の形状である。太刀を振り回す邪魔にならないように水平に開き、 笠のような形になっている。これを笠錣という。 そして太刀打ちに際しては、鎌倉期のような片手で振れる太刀ではなく、重量があり、厚重ねの頑丈な長巻 や、大太刀が活躍した。 従来の太刀ではとても損傷を与えることが出来ない甲冑も、この重い武器で打たれれば、冑の矧ぎ目の鋲は 千切れて飛び、冑の鉢は割れるかへちゃげ、敵の頭部に重大な損傷を与えることができた。 また他の部位も、この重く頑丈な武器で思い切り打たれれば無事では済まない。皮小札は裂け、骨は砕け る。 場合によっては当時の腹巻や胴丸などの鎧もある程度は切り割ることも可能であったろう。 この場合、片手打ちはむりである。 この重く長い武器を扱うには当然両手を使わなければならない。その為、長巻などは、柄が刀身と変わらな いほどの長さがあった。 これだけの重量の武器を振り回すには、普通の太刀のような短い柄ではまともに振り回すことはできない。 そのために、長巻や大太刀の柄は長くなったのである。 但し、この様な長大で重い武器を自由に扱うことは誰にでもできることではない。 相当の膂力、体力が必要であり、かなりの大力の男でなければこれを自在に使いこなすことはできなかっ た。 そこで、徹底的に筋力を鍛え、膂力と持久力をつけた。 現在ならばさしづめパワートレーニングというところであろうが、当時は、重く長い木刀で立木打ちのよう な稽古をやったと思われる。 これに近いのが、薬丸自顕流の稽古法であろう。細かいことや受けることなどはなから考えず、ひたすら敵 に見立てた横木を打ちまくる。 つまり、徹底的に斬撃力を鍛えるのである。 この重くて長大な武器で、敵を鎧や兜の上から叩き切るというやり方は、実に派手であり、戦果がわかりや すい。 これは、味方の大将の前で戦う場合、誰の目にもわかりやすいので後の論功行賞に有利であるし、当時の武 士の気風にあったため、当時の戦の花形となった。 しかし、この重く長い武器は大きな弱点があった。 破壊力はあるのだが、小技が効かない。 敵を切るときも大振りとなり、体力の消耗も激しい。 大振りして失敗し、敵を切り損ねると、その隙に付け込まれて、鎧の隙間を切られたり、組みつかれて首を 敵に渡すことになった。 また、長時間の戦闘では体力が続かず、疲れきって動けなくなったところを攻撃されればひとたまりもな かったであろう。 この様に、南北朝から室町期にかけては、このような長柄の武器の他に、太刀や打刀も重いものが使われ、 力任せに振り回すといった膂力に頼る極めて大雑把な刀法であった。 当時の鎧は、高位の武将は従来の大鎧を着ていたが、その他のほとんどは、比較的軽量な胴丸や腹巻をつけ ていたので、この様な重い武器で打たれるとかなりの損傷を受けたと思われる。 主に戦場では、小手先の技ではなくこの様な力で敵を叩き伏せる刀法が使われていたが、そうなると体格が 大きく力のある者が有利となる。 では、敵の鎧の隙間や弱点を正確に狙う精妙な刀法はどうであろう。 これは存在はした筈ではあるが、当初、侍同志の合戦にはあまり使われなかったのではないか。 それは、現在残る古い流派の開眼譚にもあるように、天狗や神人、異形の者からその技を授かっていること から推測できる。 つまり、剣術や柔術の流祖に技を教えたのは、武士ではなかったということである。 天狗は山伏などの密教の修験者、神人は、神社の神官を意味している。 事実、香取、鹿島の神道流は両神宮の神人の間で工夫伝承されてきたものであるし、念流の念阿弥慈恩は寺 で僧や異怪の人から妙術を授かっていることから、念流はもともと寺院で研究開発されてきたものである。 何れもこの極めて精妙な技術を必要とする刀法は、宗教者である僧侶や神官によって工夫伝承されてきたと 考えてよい。 南北朝から室町、戦国期にかけて、戦争は侍同志のみで戦われていたように思われているが実はそうではな い。 神社や寺院の神領や寺領、そして、そのれら領地の境界や水利を巡って記録には残らぬ夥しい数の小規模な 合戦が行われていた。 寺院は自身で武力を持ち、神社も宮司、神主自身も城郭を構え、鎧を纏い、武器をとって戦っていたのであ る。 実は、当時は、神仏混淆により、寺も神社も今ほどの区別がなかった。 平安時代から、東大寺、延暦寺、三井寺、興福寺などの大寺院は自力の武力を持ち、それらの寺の悪僧ども が神輿を担いで強訴を繰り返し、互いに争っていた。 この、後世いわれる僧兵や神人などの戦闘は、武士の主に弓馬を主体としたいくさと違い、長刀や太刀など の打物を取っての徒歩戦であった。 こうして、徒歩立ちで打物を取って戦う中から、次第に工夫されて、それぞれ独特の刀法や組討の法が形成 されていったと考えられる。 ただ、これらの技術は、実戦で使われる以外は外部に漏れることがなかった。 なぜなら、この技術が外部に漏れると、相手に研究され、対抗策を工夫されて次の戦に負けることになるか らである。 また、当時の僧衆や神人などは、俗世間とはかけ離れた生活をし、価値観も違っていたためにこの技術を外 部に漏らす必要もなかった。 ところが時代は代わって、武士の戦闘内容が変わり、弓馬の馳せ弓戦から徒歩戦や山岳、城郭戦が多くなっ てくると、前述のような長大な重量のある武器による打ち物戦が主体となる。 しかし、これでは余りにも体力の消耗が激しく、弱点も多い。 そこで、神人の中から塚原卜伝などの剣豪が現れ、それまで神社や寺院で密かに伝承されていた武術が広く 武士の戦闘に取り入れられるようになった。 これが剣の三代源流と言われる陰流、念流、鹿島香取の神道流である。 では、神仏に祈って剣の奥義を開眼したという話はどうであろう。 これも、そのもともとの修行者が、神社の神人や僧侶であったことと深い関係がある。 当然、修行の場は神社や寺院である。 また、彼らの本職は神職や僧侶であるので、祈祷や読経などの修行をするのは彼らの本職である。 その、修行の最中に、何らかのインスピレーションを受けるのは何の不思議もない。 これは科学者が、インスピレーションを受けて、新しい発見をすることと同じである。 エジソンは「1パーセントのひらめきがなければ99パーセントの努力は無駄である」といっているが、こ れは、各武術の流祖が修行中に得た1パーセントのひらめき(神仏の感応)を元に、あとは99パーセント の工夫、努力で新しい流派を創設したということなのである。 江戸、幕末 宮本武蔵 宮本武蔵の実像 日本の歴史上の英雄として人気が高い人物に宮本武蔵がいる。 しかし、この人物、実際はどうであったかというとさっぱりわからない。 現在、殆どの日本人の脳裏にある武蔵像は、吉川英治の小説「宮本武蔵」によるものである。 誰も、この吉川英治描くところの宮本武蔵が実在したことを疑わない。偉大な剣豪である事に疑問を呈する 者もいない。 しかし、実際はどうであったかを正確に物語る信用に足る文献は極めて少ないのである。 断片的なものを除いてまとまったものは、養子の伊織が建てた顕彰碑である小倉碑文呼ばれる石碑と、武蔵 が書いたとされる五輪書ぐらいのものであろう。 しかし、この二つの文献資料も丸呑みするわけにはいかない。 小倉碑文は、養父を顕彰するためのものである。 多少大げさに功績を書いているところもあるだろうし、もしかすると捏造もありえる。また、都合の悪いこ とは書かない。 これが五輪書の場合は尚更である。弟子に与えた以上、当然、誇張や自慢はあって当然だし、場合によって は捏造や創作もあって不思議ではない。また、都合の悪いことを書かないのは、上記小倉碑文同様である。 その他に、纏った資料としては二天記があるが、これは資料としての価値は上記二例よりはるかに劣る。 なぜならば、これは、武蔵の弟子が武蔵本人や周囲の者から聞いた話をメモに残したものを後世まとめたも のであり、これなど明らかに、武蔵の剣法の流派の門弟に流祖の偉業を伝えるために書かれたものであるか らだ。 この様に、宮本武蔵なる人物には、確実なところが少ない。 まず、名前を考えてみよう。 最も信頼すべき小倉碑文には「新免武蔵玄信」である。 そして、この武蔵というのは、太郎、次郎等の所謂通称ではない。受領名である。 五輪書には武蔵守とある。 このことから、吉川英治が著書「宮本武蔵」で幼名をたけぞうと読ませているのは大間違いであることがわ かる。つまりこの受領名、武蔵守の武蔵をたけぞうと読ませているのだ。 また、現在、武蔵本人が五輪書を書いたということが定説になっている。 しかし、子細に検討すればこれが武蔵が書いたとする証拠はなにもないのである。 内容を見ると、ほぼ同時代、柳生但馬守宗矩の書いた「兵法家伝書」と比べても、時代が合わないような気 がしていた。 東京大学資料編纂所教授の山本博文氏の書かれた「日本史の一級資料」という新書がある。 山本氏によればこの五輪書も、武蔵の弟子が、武蔵に仮託して後世書いた可能性があるということである。 そうなれば当然、この内容も後になって権威づけのために粉飾したり、新たに付け加えられたものも少なく ないのではないか。 こうしてみると、現在信じられている宮本武蔵像は、その芯の部分以外は後世の創作か、吉川英治の創作で ある。 もっとも、吉川の宮本武蔵は単なる小説であると割り切って楽しめば良いのだか、この小説が宮本武蔵の伝 記であるかのように錯覚している人が殆どである。 この様に、多くの国民大衆が持っている英雄像は、後世の講釈や講談、小説などによって作られたものが多 いということを十分認識した上で、小説や大河ドラマなどを楽しまれるべきである。 坂本龍馬 剣の実力 龍馬の剣術の実力への疑問 歴史上の人物で、誰が一番好きかと聞かれたら、その一、二を占めるのが坂本龍馬ではないだろうか。 日本人は非業の死を遂げた人物に対する同情心がとりわけ強い。判官贔屓というやつだ。 特に、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」をはじめ、多くの小説、映画、テレビドラマ、漫画にまで、この人物を 主人公にした作品は数えきれない。 小説や映画などで歴史上の英雄を描く場合、とかく実像よりはるかに偉大な人物として表現されがちであ る。 龍馬の場合、剣の実力も、事実以上に誇張されているきらいがある。多くの龍馬フアンにとって、そうで あってもらいたいとの心情は理解できるが、大切なことは、本当はどうであったかという真実であろう。 坂本龍馬が小説として登場するのは、明治十六年に高知の土陽新聞に掲載された坂崎紫瀾著「汗血千里駒」 が最初である。龍馬の剣の実力はこの時点で、すでに相当なものであったとして描かれている。 「龍馬は神田お玉ケ池なる千葉周作氏の門に入りて、もっぱら剣道に心を委ね、ひたすら勉強なしたるゆ え、のちには土州藩士に剣客阪本龍馬その人ありとまで算えられて、諸藩を遊歴なすほどに至りける。」 このように、最初に小説に書かれた段階で、すでに相当な剣客であったとされていて、その後、これを下敷 きとして、話がだんだんと大きくなっていったものと思われる。 では、事実はどうであったのか。 龍馬の江戸での剣術修行期間は極めて短期間であった。その短い間になぜこの様な土州藩士に坂本龍馬その 人ありとまで言われるようになったのか。 多くの龍馬フアンは、「それが龍馬の非凡なところで、これが龍馬の英雄たる所以である。」というであろ う。 しかし、それは、小説としては面白くはあっても、事実としては全く説得力に欠けるのである。 では、理論的に納得できる理由はないのか。 ただひとつ考えられることは、土佐ですでに相当な剣術の修行を積んでいて、その基礎があったればこそ、 江戸で北辰一刀流の稽古を受けることにより、短期間で瞠目すべき進歩を遂げたというものである。 確かに、龍馬は数え十四歳から江戸に出てくる十九歳までの五年間、小栗流和兵法を日野根弁治について修 行していた。 そして、江戸に上がる直前に、師から初伝目録である「小栗流和兵法事目録」一巻を与えられている。 多くの論者は、この事実をもって、坂本竜馬が剣豪であったとする根拠としているのである。 しかし、ちょっと待っていただきたい。 この小栗流という武術、一体何であったのか。 次に、この小栗流を検証してみることにしよう。 坂本龍馬 小栗流 龍馬の修行した小栗流は柔術であり剣術ではない。 坂本竜馬が武術を修行したのは土佐で小栗流、江戸で北辰一刀流の二流派である。 では、この小栗流とは一体どのようなものだったのだろうか。 多くの書籍では、この流派を剣術を主にしたものであるという。 そして、この小栗流の剣の実力があったことが、のちに北辰一刀流の短期間での長足の進歩の基礎になった ように思わせていることが多い。 では、この小栗流は、はたして剣を主体とする流派であったのだろうか。 今現在、高知にはこの流派の伝承者は存在しない。 従って、この小栗流の実像を調べるにあたって、その唯一の資料は、この流派の伝書しかない。 幸いなことには、龍馬が師の日野根弁治より与えられた三巻の伝書、すなわち、「小栗流和兵法事目録」 「小栗流和兵法十二箇條並二十五箇條」「小栗流和兵法三箇條」が国立京都博物館に所蔵されている。 まず、この流派の名前である。 「小栗流和」。この「和」は(やわら)である。(やわら)つまり柔術である。世間に流布されているよう な「剣術」ではない。 この「和」という文字がやわらであるということは、多少なりとも武術に興味のある人ならば、当然知って いる筈である。 しかるに、なぜ、やわらが剣術ということになったのか。 それはわからない。 しかし、本々は柔術を主体とする流派であったが、この時代は剣術を主に稽古したのだという論者もいると 思う。 では、龍馬が最初に授けられた「小栗流和兵法事目録」を見てみよう。 この目録とは、龍馬が実際に習得した技法の目録であり、これをみればどのような技を習っていたかわかる のである。 まず、太刀の技は、天刀、地刀、抜刀、右曲、左曲の五本のみである。小太刀の七本を入れても十二本でし かない。 一方、やわら(柔)の技はどうか。 取胸、折指、取手、纏頭、取帯の主たる技法に、それぞれ応用技か変化技と思われる移、乱があり、さら に、それら各々に上、中、下、の段階がある。 それらを合計すると、この小栗流和術とは、四十五本ものさまざまな技法を有する極めて充実した内容をも つ優れた柔術の流派であることがわかる。 江戸初期からの古い流派であるので、主たる柔術の他に、外の物として太刀、小太刀、居合、棒なども含む 総合武術である。 外の物とは、いわば武士の教養科目ともいうべきものであり、一通り習得すべきものであるが、あくまでも 心得としての範囲を出ることはない。 故に、いくらこの太刀技を稽古したところで、たった五本しかない技では、大した進歩は望めまい。 せいぜい、簡単な基本的な形を覚えるにすぎないであろう。 龍馬は幼少のころから寝小便たれで虚弱であったという。 これを、治し、頑健な体を作るには、剣術と柔術とどちらが有効であろうか。 言うまでもなく柔術である。 柔術は、全身を使う。活法や整骨などもあり、こと健康に関するかぎり剣術の比ではない。 龍馬の親も当然、柔術を習わせたと考えるほうが自然である。 龍馬が日野根弁治の小栗流和術に入門したのは、数えで十四歳である。 それから、十九歳で江戸に出立するまでの五年間が彼の修行期間である。 この上京寸前に最初の目録「小栗流和兵法事目録」を与えられている。 入門は十四歳といっても数え年である。満でいえば十二歳。それから数えの十九歳、満十七歳までの五年間 でこれだけの技を習得したことになる。 今でいえば、ちょうど中一から高二にあたるか五年間で、これだけの技を習得したということである。 坂本竜馬は、小栗流のやわら(和)では、まずまず優秀であったといえよう。 但し、剣術は、その基礎を修めた程度で江戸に向かったのである。 坂本龍馬 北辰一刀流 龍馬と北辰一刀流 坂本龍馬が土佐で修めた小栗流和(小栗流やわら)は甲冑伝とも武者取りともいわれるいわゆる柔術を主と するものであった。 柔術にも、その発生時期により様々な技法がある。 この小栗流は、江戸創世期からの由来をもつ極めて古い流派である。そして、柔術の柔という字を嫌って甲 冑伝とも武者取りとも言ったことから推察すると、主に甲冑組討を基礎とした技法をもつものと思われる。 この武者取りの取るという言葉は、相撲を取ると同じ意味であり、やわらの場合に使われたもので、剣術に 使われることは無かった。 このことから考えても、この小栗流が剣術の流派ではなく、極めて古い形を残した柔術の一形態であったこ とがわかるのである。 龍馬は数え年十四歳から十九歳までの五年間、相当本気でこの稽古に打ち込んだようで、僅か五年で「小栗 流和兵法事目録」に記載されたすべての技を習得したということは、かなり優秀といってよい。 しかし、江戸に上がり、北辰一刀流に入門するまでは、撃剣(剣術)の方は、余り得意ではなかったであろ う。 なぜならば、小栗流で習った太刀は、おそらく木刀か袋竹刀を使った型稽古であったろうし、それも基本の 五本のみである。 ただ、江戸と国元の高知との交流は、参勤交代や藩士の交代、江戸への遊学などで活発に行われていたか ら、当然、江戸で流行していた防具をつけての打ち合い稽古も導入されていた筈だ。 龍馬も、江戸遊学にあたり、この稽古を多少は積んでいたとしても不思議はない。 当時、江戸で隆盛を極めた鏡心明知流、神道無念流、北辰一刀流の各大流派は、全く新しい稽古法を取り入 れていた。 正徳年間( 1711 〜 1715 )直新影流の長沼四郎左衛門が防具を開発し、実際に打ち込んで稽古を行う「打込 み稽古法」を始めた。 その後、一刀流の中西忠蔵が鉄面、竹具足を使って現在の剣道とかわらぬ「打込み稽古」を採用したことに より、この稽古法は幕末期に大流行したのである。 こうして、面、胴、籠手をつけて実際に打ち合って稽古を始めると、当然のことながら流儀の垣根が無くな り、寛政年間( 1789 〜 1801 )には頻繁に他流試合が行われるようになった。 そして、龍馬が上京したころには、ほとんどの剣術流派がこういった打込み稽古をやるようになっていた が、流派によっては、昔ながらの組太刀の稽古を重視した天然理心流のような流派もあった。 龍馬が入門したのは、北辰一刀流の千葉周作の弟の定吉の長男、重太郎である。その後、定吉の指導も受 け、お玉ケ池の道場にも顔を出すようになる。 龍馬がこの千葉定吉や重太郎の道場で学んだ期間はあまり永くない。 彼が千葉道場に入門したとされる嘉永六年四月から土佐に帰国した翌安政元年六月まで、およそ一年二ヶ月 が最初に江戸に上ったときの修行期間である。 但し、この間、三ケ月は湾岸警備についていたので除外すると、実質江戸に居たのは一年に満たない。 江戸に二度目に行ったのは安政三年八月、再び帰郷したのが安政五年九月であるから、江戸に二度目に滞在 したのは約二年余りということになる。 その後、龍馬は武市瑞山の土佐勤皇党に参加し、翌、文久二年には脱藩して、江戸に奔り、勝海舟の門人と なった。 そして、次の文久三年には神戸の海軍塾に行っているので、これ以降は剣の修行はせず、専ら国事に奔走し たのである。 このように、龍馬が北辰一刀流を学んだ期間を合算しても約三年間余りである。この短期間で一体どれほど の成果が期待できようか。 北辰一刀流の元となった小野派一刀流の伝授段階は八段階あったが、北辰一刀流では、千葉周作が大幅にこ れを簡略化して、初目録、中目録、大目録皆伝の三段階にしてしまった。 この為、小野派一刀流では、三年修行を積めば、最初の小太刀、あるいは次の段階の刃引の免状を授けられ たかもしれないが、たった三段階しかない北辰一刀流では、まだ最初の初目録を授けられる段階まで辿り着 くことができなかったのではないかと思われる。 これが、現在に到るまで論争の的になっている、坂本龍馬の実力である。 間違いのないように言っておくが、これは、龍馬が、竹刀の打ち合い、つまり撃剣で強かったか弱かったか という事とは関係がない。 当時の稽古は、防具を付けて竹刀で打ち合う「打込み稽古」と、昔ながらの組太刀による形稽古があった。 北辰一刀流などの新しい流派では、この打込み稽古を重視していて他流試合で勝ちを制することが重要なこ とではあったが、組太刀の稽古もおろそかにはしていなかった。 特に各段階の免状を受けるばあい、その流派の組太刀の形を習得していなければならなかったのである。 防具をつけての打込み稽古の場合は、運動神経がすぐれ、体力もあれば、入門からさほど経っていなくても 兄弟子を打ち負かすことができる。 龍馬も、やわらで鍛えた身のこなしと、当時としては大柄であった体で、試合に出ればかなり強かったので はないだろうか。 しかし、もう一方の組太刀の習得はそう簡単にはいかない。一定の年月の修練が必要である。 ましてや、免状の段階が三段階しかない北辰一刀流では、その最初の段階の免状のハードルがかなり高かっ たに違いない。 いかに、試合に強くとも、この形稽古の習得無しにはとても初伝免状さえ発行することはできなかった。 そう考えれば、坂本龍馬の北辰一刀流の太刀の免状が存在しないという説明がつく。 その参考として、龍馬が受けた現存する唯一の免状、「北辰一刀流長刀兵法目録」を検証してみよう。 授けられたのは安政五年一月のことである。これまでの修行年限は多く見積もっても二年三ケ月。 この目録は太刀でも長い太刀でもない。なぎなたのことである。この「長刀」の意味がわからず「長い太 刀」のことだと勘違いしている人もおられるようだが、薙刀を長刀と書くのは常識であろう。 北辰一刀流の長刀は、表十五本、裏十六本、さらに複法として十一本、都合四十二本の技法がある。 龍馬に出された目録は、水玉以下表技十五本、裏の陰陽刀、七曜剣、九曜剣、十文字の十九本である。 これは、入門して最初に習得すべき表技にその次の段階、裏技四本が入っている最初の免状、初伝目録であ る。 これの意味することは、二年あまりの期間に、薙刀の技法十九本を習得したということである。 これは、進歩の度合としても無理がない。理論的にも納得できる。 このことからも、剣のほうもこの程度、つまり他流派なら初伝の免状を受ける程度であったが、北辰一刀流 では初目録を授けられるまでには至っていなかったということが推察できるのである。 もう一つこの伝書から読み取れることがある。 この目録の発行者は師の定吉である。 この師である千葉定吉の後に、長男の重太郎、三人の娘である佐那女、里幾女、幾久女と続く。 これを素直に読めば、重太郎と佐那、里幾、幾久がこの薙刀の技を龍馬に教えたということなのであり、こ れ以外の解釈はありえない。 「綿谷雪、山田忠史編・武芸流派大事典」によると、こうある。 「長女佐那女は鬼小町といわれて剣・薙刀にすぐれていた。周作の制定した北辰一刀流薙刀の伝系は、定 吉ー重太郎ー佐那女とうけつがれたのである。」 このように、はっきりと佐那女がこの薙刀の技法を継承したと明記してある。 また、佐那については「坂本龍馬が嘉永六年に土佐から出て来て入門したのは、鍛冶橋外、狩野新道の千葉 重太郎の道場で、そのころ、中目録の腕前であった鬼小町の佐那女にどうしても歯が立たなかったという。 」 こう見てくると、後年、千葉佐那の談話とされているものは、いささかあやしくなってくる。 「父は坂本さんを塾頭に任じ、、翌五年一月、北辰一刀流目録を与えましたが、坂本さんは目録の中に私達 三姉妹の名も書き込むように頼んでおりました。 父は、「例のないことだ」と言いながら、満更でもなさそうに三姉妹の名を書き込み坂本さんに与えまし た。」(高木薫明「千葉鍼灸院」) これには佐那本人であれば間違いようのない誤りがある。 北辰一刀流長刀目録を剣の北辰一刀流目録と勘違いして書いている。文面からすると明らかにこの目録を剣 術のものと勘違いしているのである。もし、佐那本人ならば、剣術と長刀を間違うわけはない。 そして、この三姉妹の名を入れたことも、彼女達が龍馬に長刀を教えたのであれば至極当然なことで珍しく もなんともない。 このように、間違った事を当の本人の佐那が言うはずはないのである。 従って、この部分は、この本の著者の聞き違いか、素人考えによる後世のつじつま合わせか、あるいは話を 面白くするための作者のでっち上げであろう。 坂本龍馬 結論 龍馬の剣の実力は大したことはなかった。 坂本龍馬については、多くの俗説や後世の創作などにより、その実像が分からなくなっている。 いまや、歴史上の人物では最も人気があると思われ、その名前は小さな子供でさえ知っていよう。 それだけに、多くの小説や映画、歴史ドラマ、漫画の主人公として取り上げられ、次第に、その虚像だけが 大きく膨らんでいった。 特に、一昨年放映されたNHKの大河ドラマはひどかった。あそこまで出鱈目な造りかたをされるとあほら しくて見ていられなくなる。視聴料を返せと言いたくなる。 そういえば、今放映中のやつも見るに堪えない。公共放送があんなものを作っていいのか。 この坂本龍馬についても、虚像や創作で雪だるまのようにふくれあがり、その過去生きた、生身の人間とし ての実像がわからなくなってしまっている。 今や、龍馬は我が国で人気一、二を争う英雄である。 多くの人達が、英雄に求めるものは、その人格、能力等のすべてのものが他に卓越して優れているというこ とだ。そうでなければ英雄とは言えない。そう信じている。 人には真似のできない能力をもっているからこそ、凡人には成し得ない偉業をやってのけたのだと。 大衆は同じことを坂本龍馬という実在の人物に求めた。それに応えて多くの小説が書かれ、ドラマが作ら れ、漫画が描かれた。そして、ついに、剣術の達人ということになってしまった。 しかし、事実はそうではなかったことは、これまで私が説明してきたとおりである。 そもそも、すべての英雄が、剣豪であったり、豪傑である必要はなかろう。 とくに龍馬の場合は国士として偉業を成し遂げたものであって、武術家としてではないはずだ。 彼とて一人の人間である。その真実を知るには、残された文献資料から読み解いてゆくしかない。 この場合、龍馬の武術に関する文献資料として最も信頼できるものは、残された四巻の伝書である。 幸いなことに、この四巻の伝書は、ネット上にもその写真が公開されている。 小さくて判読不明の字もあるが、他の文献と突き合わせてみればだいたいのことはわかる。 こうして、龍馬の人間としての実像が浮かび上がってきたのである。 では、次に今まで説明してきた龍馬の武術の修行の跡を簡単に辿ってみよう。 嘉永元年、龍馬数え十四のとき、小栗流和術、日野根弁治に入門する。 五年後の嘉永六年三月、江戸に向かう。この直前に「小栗流和兵法事目録」を授けられる。 これまでの修行は主にやわら(柔術)の修行である。 五年間でこれだけの技法を習得したということは、かなり優秀であったと言うことができる。 この年、江戸の北辰一刀流の千葉重太郎に入門する。 千葉重太郎は、この流派の創始者である千葉周作の弟、定吉の長男である。 龍馬はその後、定吉にも教えを受け、周作のお玉が池の玄武館にも出入りするようになる。 同年のうち、三ヶ月は沿岸警備のために江戸を離れていた為に北辰一刀流の稽古はしていない。 翌、安政元年、土佐に帰る。帰国後、「小栗流和兵法十二箇條并和二十五箇條」を受けた。 これは、江戸に出府の折に渡すべきものを、間に合わなかったので、帰郷した時に与えたものであろう。そ れまでの五年間で、それだけ龍馬の修行が進んでいたと考えられる。 土佐に二年いたのち、安政三年。再び江戸に向かう。 安政五年、「北辰一刀流長刀兵法目録」を千葉定吉よりうける。この目録には、重太郎、佐那女などに三姉 妹の名がある。これにより、定吉の長男重太郎をはじめ、佐那女など三姉妹からも長刀の教えを受けたこと がわかる。 同年(安政五年)九月、土佐に帰る。 文久元年(1861)「小栗流和兵法三箇條」を受ける。二度目に土佐に帰ってからおよそ三年目でこの高位の 免状を受けた。この間も小栗流の稽古を絶やさなかったことがわかる。 龍馬は修行年数合計十年にして、このやわらに関する限り、相当高い階位にまで技が進んだことは間違いな い。 それから間もなく。翌年文久二年三月に龍馬は脱藩する。以後は勝海舟について海軍塾に関わっているた め、以後の武術修行はなかったものと考えてよい。 小栗流和術については以上のとおりであるが、北辰一刀流のほうはどうであったろう。 前に書いたとおり、その修行年限は長く見積もっても二年あまりである。 これだけの短い期間では、その成果はたかが知れている。長刀の初伝目録を貰ったのがせいぜいであろう。 結論をいうと、坂本龍馬は、柔術は一流であったが、剣術は決して一流とは言えなかった。これが結論であ る。 これが故に、闘争の場でも、刀を使うことがなかった。6発しか撃てない拳銃で役人を撃ち、親指に重傷を 負うたのもこれが原因である。 ここは、当然、刀で対応すべき場面である。剣術に自信があれば当然、剣で防いだことであろう。 この事をみても、坂本竜馬は剣術には自信がなかったと言われても仕方があるまい。 もっとも、当時流行の竹刀打ち剣術ではあまり実戦には役に立たず、天然理心流のような古い剣法のほうが 切り合いには強かったことは、当時も世に知られていたことではあったが。 坂本龍馬は何一つ北辰一刀流の免許は受けていない 坂本龍馬の北辰一刀流修行の成果 幕末維新の著名人物のなかで、坂本龍馬ほど様々な創作や捏造、憶測により、その素のままの人物像がわか らなくなっている人物はいない。 中でも北辰一刀流の修行については、確たる証拠は少ない。それが今では北辰一刀流の免許皆伝を受けた剣 豪であったということになってしまっている。 歴史上の人物を調べる場合、その資料の選定が極めて重要である。 これを誤ると、とんでもなく実像とかけ離れたものとなってしまう。 特に注意しなければならないのは、その人物の縁故者が書いたものや、ある目的(英雄に祭り上げるなど)の もとに書かれたものである。 現在の龍馬像の原型となっているのは坂崎紫瀾の書いた小説「汗血千里駒」である。これは高知の土陽新聞 に明治十六年に掲載され、この年に単行本として出版されている。 この小説は今まで無名であった坂本龍馬を世に広く知らしめる為に書かれたものだ。 明治維新の元勲を多く輩出した薩摩、長州に比べ、土佐の人間にはこれが少ない。 それを残念に思っていた坂崎紫瀾は、当時、余り世間に知られていなかった坂本龍馬を引っ張り出し、これ を主人公にして小説を書いたのである。 小説であるからには面白くなければならないし、当然、その主人公は英雄でなければならない。その為には 誇張や粉飾もあり、創作もありうる。 そのような小説を大真面目に取り上げて、龍馬研究の資料とすることは厳に慎まなければならないことであ るが、現在、多くの龍馬を主題とした小説や書籍はこれを下敷きにしている。 次に龍馬を主人公として書かれた本は、弘松宣枝の「阪本龍馬」である。 著者の弘枝は龍馬の係累である。発刊は明治二十九年。 およそ、歴史資料として最も注意しなければならないものは、主人公の子孫や係累の書いたものであろう。 当然、悪いことは書かないし、功績は誇張して書く。あるいは捏造もありうる。 江戸、明治期を通じて、我が国には夥しい数の家系図や、先祖の功績を記録したものがあるが、その殆どが 贔屓の引き倒しで、真実とは大きくかけ離れたものとなっている。 但し、身内でなければ知り得ないような情報や、手紙などの貴重な資料は持っている可能性があるので、よ くよく注意して見分けなければならなことは言うまでもない。 明治に書かれた龍馬を主題とする書籍は以上の二冊である。 何れも土佐の地元の地縁、血縁者によって書かれたもので、すべてを頭から信用してかかると大きく実像か ら離れてしまうことになる。 次に、大正年間に書かれた書籍としては「維新土佐勤皇史」と「坂本龍馬」がある。 「維新土佐勤皇史」は、武市瑞山を顕彰する瑞山会が編纂している。 これによると、この本が刊行された大正元年当時、武市半平太(瑞山)とともに坂本龍馬が土佐の維新の立 役者として世間に広く認められていたことになる。 しかも、この本文は「汗血千里駒」の著者である坂崎紫瀾が書いているところから、龍馬が如何に偉大で あったかということを世間に知らしめるという目的は変わらない。 「坂本龍馬」千頭清臣著。これは、大正三年発行であるが、これは田岡正秋というゴーストライターが書い たもの。 昭和に入ってからは、昭和元年に書かれた「雋傑坂本龍馬」があるが、これは、坂本龍馬と中岡慎太郎の銅 像を建設するための組織、坂本中岡銅像建設会が編集し、刊行したものである。 平尾道雄著の「坂本龍馬海援隊始末」は今までの龍馬を主題とした研究の集大成というべきもので、これ は、各出版社により改訂版が出版されている。 この「坂本龍馬海援隊始末」こそ、多くの後世、多くの龍馬本の下敷きとなったもので、現在の坂本龍馬英 雄説の根源をなすものである。 以上来てきたとおり現在の坂本龍馬像を形作った書籍は、いずれも、龍馬を英雄として広く世に知らしめる ために書かれたものである。 従って、無いものをあるとし、しなかったものをしたとされることも数多くあっても不思議はない。 その最たるものが、坂本龍馬剣豪説である。 これは、最初から当然のごとく書かれている。英雄であるからには剣術も強くなければならないということ であろう。 「汗血千里駒」では、以下のごとく書かれている。 ”龍馬は神田お玉ケ池なる千葉周作氏の門に入りて、もっぱら剣道に心を委ね、ひたすら勉強なしたるゆえ、 のちには土州藩士に剣客阪本龍馬その人ありとまで算えられて、諸藩を遊歴なすほどに至りける。” 「阪本龍馬」には”彼はお玉ケ池の千葉周作の門に入り、もっぱら剣道に心を委ね、黽励倦るなかりしに、つ いに土州藩士に剣客坂本龍馬その人ありと知られ、世の嘖々する所となり、諸藩を遊歴するに至るれり。” 以上のごとく、明治時代に書かれた書籍には、いずれも「剣客」として有名であったとするものである。 また、この両方とも、お玉が池の千葉周作の門に入りとあり、龍馬が入門したのは千葉周作となっている。 この部分は、龍馬の剣豪説を考察するうえで重要であるので特に注意を必要とする。 龍馬剣豪説は、実は、坂本龍馬を世に出した張本人、坂崎紫瀾の「汗血千里駒」ですでに土佐藩士の剣客坂 本龍馬ありと知られていたとする。 小説ではあるし、主人公が剣術が強かったとするのは無理のないところではあるが、このことの虚偽を何ら 検証することなく後世に引き継がれ、尾ひれがつき、今ではすっかり龍馬剣豪説が定着してしまった。 では、龍馬は本当に剣術は強かったのか。 それには、大きな誤解がある。 その第一は龍馬が土佐で永年修行した「小栗流」は「剣術」の流派ではないということ。「柔術」の流派で ある。 今まで、ほとんどの龍馬本の著者たちは、これを剣術の流派と信じ込んでいた。 そのため、龍馬がすでに土佐で剣術の修行を積んでいたので、江戸に上り、「北辰一刀流」に入門した後に 短期間で長足の進歩を遂げたと主張する。 しかし、龍馬の受けた小栗流の免許を見るとこれは明らかに柔術の伝書である。つまり、龍馬は、土佐では ろくに剣術の稽古をしていなかったことになる。 剣術では素人同然の人間が江戸に出て、たった三年足らずの修行で果たして北辰一刀流の免許皆伝を取得で きるものだろうか。まず、あり得ぬことである。 誤解のその第二は、現存する龍馬が受けた「北辰一刀流長刀兵法目録」をもって龍馬が北辰一刀流の剣術の 免許皆伝を受けたとするものである。 しかし、これは剣の目録ではない。長刀(なぎなた)の目録であり、しかもそこに書かれているのは薙刀の 技法の前半部分でしかない。 いわば、長刀の最初の目録、初伝を受けたということなのだ。 しかも、これさえ北辰一刀流の正式な目録ではなく、ある目的のために特別に作られたもののように思われ るのである。 そのある目的とはなにか。そのヒントは龍馬自身の手紙にある。 その手紙とは姉の乙女に当てた文久三年六月十四日付の手紙である。 手紙の初めのほうに、「薙刀順付は千葉先生より越前老公け申し付けにて書きたるなり」とあり、この後ろ に師の千葉定吉の長女佐那の説明が続く。 問題は長刀順付とは何かということである。 これは龍馬の受けた「北辰一刀流長刀兵法目録」のことではないか。そう考えると全ての疑問が説明できる のではなかろうか。 つまり、この「北辰一刀流長刀兵法目録」は北辰一刀流の正式な目録ではなく、後年、龍馬が越前公、松平 春嶽に拝謁するために師の定吉が特別に作成した「長刀順付」だった。 こう考えると、たかだか長刀の初伝目録にすぎないものが、必要以上に豪華な装丁がなされていることの説 明もつく。 ところが最近、龍馬剣豪説を裏づける資料が出てきたという。 今年(2015年)夏、坂本家が高知県立坂本龍馬記念館に寄贈した龍馬関係の資料のなかに、北辰一刀流 免許皆伝の実在を証明する書類が見つかった。 坂本家七代当主弥太郎が龍馬の甥の妻に出した預かり書である。 そこに書かれていたのは「北辰一刀流兵法皆伝」「北辰一刀流兵法箇条目録」「北辰一刀流長刀兵法皆伝」 の三巻で、日付は明治43年8月30日付けである。 しかし、昭和4年の展覧会の時にはすでに消失して無い。 現物が現存すれば問題はないが、消失したとあっては詳しく検証することはできず、本物とも偽物とも判断 がつきかねるのだが。 問題なのは、その免状の名称である。 北辰一刀流の免許は初目録、中目録、大目録であり、それに箇条目録が加わる。 上記、三巻のうち、北辰一刀流としての正式な名前の目録は「北辰一刀流兵法箇条目録」だけで、「北辰一 刀流兵法皆伝」「北辰一刀流長刀兵法皆伝」は他には例がない。 もしこれが正式な北辰一刀流の免許であるならば、「初目録」「中目録」「大目録」でなければならず、決 して「皆伝」などといった一般的な名称は使わなかったはずだ。 これを考えるに、この三巻の巻物は、北辰一刀流に詳しくないものが後に作った贋作ではないだろうか。そ の他に、このことを合理的に説明できる理屈は思い浮かばない。 もう一つ腑に落ちないことがある。 それは、この免許は「千葉周作ヨリ受ケタル皆伝目録ハ全部消失セリ 於釧路市」とあるとおり千葉周作が 出したということになっている。 しかし、千葉周作は安政二年(1855年)に死んでいる。 もし、千葉周作から免許を受けたのであれば、嘉永6年(1853年)から安政元年(1854年)の一年 間ということになるが、これは龍馬の北辰一刀流一年目である。 入門一年目で免許皆伝まで受けることなどあり得ぬことである。 このことをもってしても、この三巻の免許状は後世、偽造されたのではないか。 その際、偽造者は当時出版されていた「汗血千里駒」あるいは「阪本龍馬」を読み、そこに(千葉周作の門 に入り)と記載さてれているのを見てこの三巻の免許状を千葉周作の名前で偽造したものと考えられる。 そもそも、北辰一刀流の免許はそう簡単にとれるものではない。 通常、子供のころに入門し、十年で大目録をとれれば早い方である。清河八郎などは、人一倍の努力の末、 人が三年かかる初目録を一年で取得し、それから六年後に中目録である。 清河八郎を本科生とするならば、龍馬は短期講習生にあたる。最初の一年で土佐に帰り、改めて江戸に出て 千葉道場に復帰して一年で帰国するところ一年延長を願いでてもう一年。 これでは本格的な剣術修行など到底無理であり、龍馬本人もそれは十分納得の上の修行ではなかったか。 龍馬はよく手紙を書いている。もし、彼がその短期間のうちに免許皆伝まで取得したのであれば真っ先に手 紙に書くことであろう。 それが全く残っていないということは、北辰一刀流の免許は何一つ貰っていないということを何より雄弁に 物語っているのではなかろうか。 以上を考えると、坂本龍馬の実像がおぼろげながら浮かんでくる。 坂本龍馬は当時としては大柄な体格で、永年小栗流和(やわら)を修練したお蔭で体力はあったが剣術はそ の基礎を習った程度であった。 江戸に遊学して北辰一刀流に入門するが、都合三年足らずの修行ではその最初の目録さえ得ることができ ず、土佐に帰ることとなった。そして、その後は剣術より国事にのめり込むようになるのである。 現存する唯一の伝書、「北辰一刀流長刀兵法目録」さえ、後世、師の千葉定吉が松平春嶽に見せるために特 別に作られたもので、北辰一刀流としての正式な免許状ではない可能性が大きい。 坂本龍馬の実像は、剣術は初心者に毛の生えた程度であり、決して剣豪などではなかった。それ故、拳銃を 持ち歩いたのである。 日本刀の強さ 日本刀の強さ 日本刀の強度については諸説ある。 使い方を誤ると折れたり曲がったりする。刃こぼれなどはしょっちゅうある。 新撰組の山南敬介の使った刀の絵が残っている。 刃はぼろぼろで、一カ所大きな切り込みがあり、そこから峰の方に曲がっている。 これでは、もう一度研ぎ直して打刀として使うことはできまい。 これをもって刀は消耗品であると主張する人もいる。 これにより、新撰組は、如何に激しい斬り合いをやっていたということがよくわかる。 では、当時の日本刀は、一度の斬り合いで2度と使い物にならぬほどの損傷を受けるような脆弱なものだっ たのだろうか。 お互いが力一杯打ち合っただけでこれほどのダメージを受けるとすれば、よほど軟弱な刀を使っていたか、 斬り合うお互いの力が、よほど強かったとしか考えられない。 恐らく、この両方の原因によって、この刀がこうまで激しい損傷を受けたものと思われる。 まず。刀自体の問題である。 戦国時代の刀は、あくまでも実用本位であった。身は厚く、極めて頑丈で、少々打ち合っても決して折れず 曲がらずというものであった。 というのは、合戦の度に折れたり曲がったりでは命に関わることである。 刃が良く切れるとか、姿、形、刃紋が美しいということは重要ではなかった。 この様に、実戦が行われていた戦国当時の刀は極めて頑丈なものであった。 ところが、徳川の代になり、戦がなくなると、刀は実用一点張りのものから、姿形が美しく美術的価値が高 い、よく切れるものが珍重されるようになった。 この、よく切れるということと頑丈ということとは相矛盾する事柄である。 恐らく、山南敬介のこの佩刀も、良く切れるということを追求したあまり、頑丈さに欠ける刀を使ったので はないのだろうか。 しかし、刀自体の問題よりも、それを扱う人間のほうが遙に重要である。 では、次ぎに、人的原因を調べてみることにする。 新撰組 山南敬介の刀 幕末の刀 戦国時代の実用刀と江戸以降の日本刀ではその評価が異なることは前に述べた通りである。 江戸時代は、島原の乱以降、全く戦争がなかった。禁門の変までのおよそ二百三十年間、大規模な戦闘がな かったわけである。 太平の世では、日本刀は美術的価値と良く切れるという事が重要とされた。 藩によっては幾つもの試し切りを行い、折れず曲がらずといったことを、刀鍛冶採用の条件としたところも あるが、一般世間の風潮は、見て美しく良く切れるということが名刀の条件であった。 当然、幕末の動乱期において、2世紀以上の合戦の記憶などあるはずもなく、最初の戦闘は、新撰組にとっ ても実際の斬り合いは始めてのことであり、以後、実戦により体験を積んでいったものであろう。 そのとき、彼らの持っていたのは、当時もてはやされた「良く切れる」刀であったことは想像に難くない。 当時の話として、名の知れた名刀を持ち出して斬り合ったところ、簡単に折れてしまった。一方、普通の名 もなき刀の方はびくともしなかったという。 このことを見ても、当時の名刀なるものの実態がわかろうかというものだ。 名刀といっても、古刀では過去随分使われている。当然、刃が欠け、刀身に傷もついていたと思われる。 そうして、合戦の度に研ぎ減らされていればいくら名刀といえど身は薄くなり、使用限度を超えてくる。 その様な刀を名刀であるばかりに、化粧研ぎを施して、さらに身を細らせ、高い値段で売りつけたものであ ろう。 これには異を唱える方もおられるとおもうが、所詮、刀は人切り包丁である。包丁も研ぎ減ってくればその 役割を終える。 包丁や鑿なら短くなるまで研ぎ減らして最後まで使うこともできるが、刀ではそうもいかない。 本来ならば、研ぎ減らして脇差しや短刀にするべきなのだが、それでは高く売ることはできない。 こういった、名刀といえど耐用期限の過ぎた刀で斬り合いをやるとどういうことになるか。 当然、刃はぼろぼろに欠け、敵が思いっきり切り込んできたのを我が刀の刃で受ければ、鎬まで深く切り込 まれ棟の方に曲がる。 このように刀身がつかえないようになる原因は以上の刀自身の問題のほかに、剣術そのものが200年前の 刀法と全く違ってしまったことも大きな原因である。 幕末の剣術 幕末の剣術 合戦に明け暮れた戦国時代と、太平の世が二百年余り続いた幕末では、その刀の使い方に大きな変化があっ た。 剣術流派の開祖達は、幾多の実戦の経験から当時の刀に一番ふさわしい刀法を集大成して後世に残した。 古い流派としては、念流、天真正伝香取神道流、鹿嶋新當流、新陰流、一刀流などが世に知られている。 これらの主立った流派から、江戸時代のおよそ250年のあいだに無数に枝分かれして様々な流派ができた のだが、この二世紀余りの間に、驚くほどその技法は変化していた。 各流派の偉大な始祖が確立した剣法は、当然のことながら介者剣法(鎧武者の剣法)であった。 当然身構えも刀の振り方、切る場所も今とは違う。 そして今の剣道と大きく違うのは、刀の多彩な使い方である。刀の鎬を使って相手の刀を打ち落としたり 払ったり、反りを利用して相手の剣先をはじき敵小手にすり込んだり、極めて精緻な技で構成されていた。 足も所謂撞木といわれるもので、今の剣道のように足を平行にして踵はあげない。 ぐっと腰を落として重心を下げ、体は相手に向かって半身である。これで重心は安定し、敵に体当たりを受 けたり、突き飛ばされても耐えることができる。 素人目には、なんとも格好悪く、動きも、今の剣道に比べて鈍重に見えるかも知れないが、実は、実戦の経 験から導き出された極めて合理的なものである。 そして、切る場所は主に表、裏の小手である。真っ向唐竹割などといった馬鹿なことはやらない。 ただ、鎬で敵の刀を落としたり、はたいたりということをやるので、あくまでも刀の刀身は頑丈でなければ ならなかった。少しぐらい雑に扱っても、折れたり曲がったりしては困るからだ。 つまり、刀の切れ味よりも頑丈さが要求されたのである。 これらの有力流派も太平の世に合わせて、その技も内容も変わっていった。 もはや、鎧を着て斬り合うことはなくなった。介者剣法から素肌剣法に代わり、腰を落とした低い構えから 今の剣道のような相手に対して正対し、直立する構えになった。 当初の介者剣法は、切る場所は限られている。小手を切り、内兜に突っ込むか、首にすり込むか、鎧の隙間 を狙うかでその形の数は多くない。 しかし、素肌になると、兜や鎧といった邪魔のものはない。頭でも胴でも自由に打ち込めるわけだ。 自然と、技の数も増えてくる。 しかし、それまでは、多少の変化があったにせよ本質的な変化はなかった。基本的に形稽古という稽古法に 変化はなかった。 江戸中期ごろ、今の剣道の防具の原型である竹具足が考案され、次第に改良されて現在のものと殆ど変わら ないものとなった。 こうなれば稽古のやり方も全く変わってくる。今までは、木刀や刃引き太刀を使っていたため実際に相手を 打つことができなかった。 寸止めである。 そして、形を見ればその防ぎ手や勝つ方法が解るため、部外者には見せなかったし、他流試合も止められて いた。 ところが、防具が発明されると事情は一変した。 思い切り打ち合っても怪我はしない。安心して稽古ができる。そして他流試合も簡単にできるようになっ た。実際に打ち合って優劣がわかるからである。 他流試合や稽古試合が増えるに従って、ある変化が起きた。試合の勝敗によりその流派や道場の評価が決 まって来る。もし、試合が弱ければその道場の入門者はいなくなる。道場の存続にかかわる問題である。 形稽古ばかりやっていたのでは、一向に竹刀打ちの試合には勝てない。当然、形稽古は疎かになり、今の剣 道の稽古と同じ竹刀打ちの稽古ばかりやるようになる。 竹刀打ちの稽古の良いことは、一度に多くの弟子を取ることができるという点である。これは道場経営上非 常に有利である。 なぜなら、従来の形稽古というものは、一度に多くの弟子を教えることはできない。 師匠が打太刀、弟子が仕太刀となってマンツーマンで教える。一度に教えることの数は限られる。 そして、この一代目の弟子達が師匠の代わりに代稽古が出来るようになるまで数年待たなければならない。 そしてその時点でやっと多少弟子の数を増やすことができる程度である。 つまり、昔ながらの形稽古をやる流派では、道場を作ってからかなり時間が経たないと道場経営ははなはだ 苦しいものであったのだ。 ところが、幕末には、千葉周作の北辰一刀流、斉藤弥九郎の神道無念流、桃井春蔵の鏡新明智流などの新興 の流派は大いに栄えていたのである。 従来の形稽古というものは、その形を覚え、使いこなすまでにはかなりの時間がかかる。 ところが、竹刀打ち稽古の場合は、一通りの基本を学んだら、あとは、お互いが打ち合って稽古をすればよ い。 こうなれば、技より運動神経、反射神経の天分に恵まれていることのほうが有利に働く。才能に恵まれれば 入門数年にして、試合で優勝することも夢ではない。 この様な稽古、つまり刀より長い竹刀を使い、面や胴、小手を打つのに特化した稽古ばかりやっていると、 竹刀の撃ち合いは強いが、当然のことながら刀を持った斬り合いには大して役にたたない。 何故ならば、竹刀で一定の部位を打つのと、実際の真剣を持っての斬り合いは違う。 竹刀打ちの稽古をやっていれば当然そのような刀の使い方をする。切り込むとき、茶巾絞りに絞り込む。 切るときはまっすぐに切り込まなければならないが、こういう手の内ではどうしても刃筋は回り、平打ちと なって、刀は、折れたり曲がったりする。ましてや竹刀で力一杯打つ癖がついている。まともに刃と刃を思 い切り打ち合わせば、傷は刃の幅の半分以上に及び、その力で刀身は棟のほうにまがる。 これは、今の剣道ののような稽古を行ってきた者の特色である。ましてや当時流行の切れ味に重きをおいた 軟弱な刀を使っていたのならなおさらである。 山南敬介の描いた斬り合い後のスケッチに、刃こぼれ甚だしく、刀の峰近くまで深く切り込まれ折れる寸前 まで曲がった刀が書かれているのはそういった理由である。 これを見て、刀は消耗品であると考える人もいると思うが、そうでないことは、本稿を読んでいただければ 十分に理解していただけるものと思う。 なお、山南敬介は最初は北辰一刀流(一説には小野派一刀流)を学び免許皆伝を得、その後、天然理心流に 入門する。 もっとも、免許皆伝まで得ているからには、当然組太刀の形稽古も積んでいると思われるが、竹刀の撃ち合 い形式の稽古を重きをおいた流派であるから、組太刀の形稽古をみっちり積んだ近藤勇や土方歳三、沖田総 司などとは違って当然である。 武市瑞山の剣術 小野派一刀流と鏡心明智流 坂本龍馬と並んで幕末の日本に大きな影響を与えたのは、土佐勤皇党の盟主、武市半平太(瑞山)である。 土佐勤皇党は、国元で藩の参政吉田東洋暗殺を皮切りに、京都や大阪で多くの天誅と称した暗殺事件を起こ し、天誅事件などの政治テロの中心的役割を果たした。 彼らの暗殺は、町人、公家、武士等見境いなく行われた。 これにより、有為の人材が多く失われた為に、その後の日本の未来に大きな影響をあたえたと言われてい る。 武市半平太、号、瑞山は、文政十二年(1829)に生れた。 天保十二年(1841)、一刀流、千頭伝四郎に入門したが嘉永三年(1850)師の千頭が死亡したのを機に高 知城下に移り住み、小野派一刀流の麻田勘七に師事する。 麻田に入門して間もなく初伝を受けた。千頭に入門して以来、九年も修行してやっと初伝である。 如何にも遅いと思われるが、おそらく、最初の師、千頭伝四郎は、門弟に指導する資格はあったが免許の発 行権はなかったと考えられる。 その後、技は長足の進歩を遂げ、嘉永五年(1852)に中伝、二年後の嘉永七年(1854)には皆伝を受け た。 同年、免許皆伝を許されたのを機に新道場を開いたが、創建間もなく地震にて家屋が倒壊した為に、道場も 失うことになる。 翌安政二年(1855)、新たに道場を再建した。 この新道場は大いに栄え、中岡慎太郎、岡田以蔵、吉村虎太郎など120名以上の門弟を抱えるまでにな る。これが、後の土佐勤皇党の母体である。 安政三年(1856)八月、藩の命により、岡田以蔵、五十嵐文吉等数人の弟子を伴って江戸に上り、鏡心明智 流の士学館に入門した。 ここでは、師の桃井春蔵の信任厚く、間もなく塾監を任され、門下生の綱紀粛正に成果をあげる。 次年、安政四年には相次いで免許を許され、最後には允可まで授けられている。 安政四年(1857)9月、土佐へ帰国。 これをみると、江戸に滞在し、士学館で鏡心明智流を学んだのはたった一年であることがわかる。 注目すべきは、入門して間もなく、塾監に任用されたばかりでなく、入門一年を待たずして允可まで受けて いる。 普通、これは常識では考えられない。普通では絶対に有り得ぬことだ。 藩命での修行、いわば官費留学であり、バックに土佐山内家がついていて、さらに門弟数人を引き連れての 入門であったとはいえ、これは如何にも早すぎる。 塾監に任じ、門弟の生活指導をやらせたことは、武市の人柄や指導力を見込んでのことであるから理解でき る。 しかし、入門一年も経たないうちに允可を与えたとなると問題は別だ。如何に人格に優れ、土佐藩の後ろ盾 があったとしてもこれは無理だ。鏡心明智流の免許がそんなに軽い筈はない。 当初、これは、武市瑞山を英雄に祭り上げるための後世の創作かと思った。 しかし、この伝書は現存するという。高知県立民俗資料館が所蔵しているとか。 では、この事実をどう説明すればよいのか。 鏡心明智流が、一刀流の系統であればある程度理解できる。しかし、そうではない。この流派は桃井八郎左 衛門直由が無辺流槍術、戸田流、一刀流、柳生流、堀内流などを学び、安永二年、江戸にでて士学館を開い たことに始まる。どう見ても一刀流の系統ではない。 もしやと思い、武芸流派大事典を開いてみた。 なんと、そこに、武市の一刀流の師である麻田勘七の名があるではないか。 これによると、麻田は、武市の師である桃井春蔵直正の先代、桃井春蔵直雄の高弟の一人であったのだ。 なるほど、これで一気に謎が解けた。武市は、小野派一刀流を十三年修行して皆伝を得ている。 今まで一刀流とされていたものが、実は鏡心明智流であったとすれば、全ての説明がつく。 武市は鏡心明智流を十三年も修行していた。 師は先代の桃井春蔵の高弟麻田勘七である。 つまり、武市は、土佐で十三年、鏡心明智流の修行を積んでいた。 江戸に出て士学館に入門した時点ですでにこの流派の允可を受けるだけの実力を備えていたと考えれば、入 門後一年で允可を得た説明がつく。 ただ、これでは、土佐側の記録とは食い違いがでてくる。 武市の師の麻田勘七は小野派一刀流であり、鏡心明智流との記録は土佐側にはない。 土佐藩の藩校である致道館の剣術教授に小野派一刀流、麻田勘七の名がある。 これから考えるに、麻田は、小野派一刀流と鏡心明智流の二流派を修めていたと思われる。 ただ、小野派一刀流は免許の発行権を持っていたので武市に土佐で免許皆伝を与えることができたが、鏡心 明智流ではそれが無かった。 その為、武市に鏡心明智流の免許を出すことが出来なかったというわけである。 これで、武市が江戸で小野派一刀流に入門せず、鏡心明智流に入門した理由がわかった。 武市が、江戸に出て、士学館に入門したのは、ゼロからこの流派を修行するのが目的ではなく、いままで長 年積んだ鏡心明智流剣術の成果を士学館主、桃井春蔵直正に確認してもらい、允可を受けることであったの だ。 これが、武市半平太がたった一年で鏡心明智流の免許を允可まで許された本当の理由である。 知られざる維新の功労者 月性 海防僧 月性 先日、山口県東部、柳井市にある月性展示館に行った。 山口に住む大学時代の親友、Y氏と近くのJR柳井港駅で落ち合い、彼の車で国道188号線を東に大畠方面 に向かって少し走ると、左手に細い通りが現れる。 その道を入って東に進むと妙円寺という浄土真宗のお寺が見えてくる。 このお寺の門を入った正面に本堂。門の右脇に2階建ての月性展示館がある。 本堂の左には、維新の多くの人材を薫陶した私塾「清狂草堂」がひっそりと佇む。 また、お寺の南側に隣接して郷土民俗資料館があり、その前に受付があって、そこで入館料200円を払 い、住所、氏名を記帳した。 帳面に名前を書き終わると、受付の女性が席を立ち、ついて説明をしてくれるという。 まず、清狂草堂の雨戸をあけ、中をみせてもらった。屋根は藁ぶき、8畳二間があるだけの簡素な造りであ る。 この二つの間の中央にある丸窓から光が入り、質素な部屋を柔らかく包む。何とも言えず懐かしく心和む空 間だ。 一方、月性展示館は、大きくはないが2階建ての立派な造りの建物である。 展示品はさほど多くはない。 受付の女性は実に懇切丁寧に説明してくれる。 その説明を聞いているうちに、この月性という海防僧、明治維新における功績は、吉田松陰にも劣らない、 いや、もしかすると松陰以上の功労者ではなかったのかと思うに至った。 吉田松陰は、明治維新の最大の功労者として知らぬ者はいない。 それは、松陰の松下村塾の門弟達、高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿、伊藤博文、山県有朋、前原一誠、品川 弥二郎など、尊王攘夷から明治維新に至る倒幕の立役者達であり、また、後には明治政府の顕職を占めたか らに他ならない。 たった二年余りという極めて短期間に、よくこれだけの人材を育てあげたものだと感心するが、実際はどう であったのか。 もし、倒幕が失敗していて、明治維新が違う形で進んでいたらどうであろう。 歴史というものは紙一重で大きくかわる。それは人知を超えたところにあり、決して、個人やある一定の集 団の意のままに進むことはない。 多くの歴史家や作家が、その論文や作品で、ある特定の偉人、英雄の考えや意思により、次の時代の幕を開 けたかのように言う事が多い。 話としては面白い。小説としてはそれでよいかもしれない。しかし、学者がそれを言うべきではなかろう。 現代人は、その結果がどうなったか知っている。 吉田松陰の門下生が尊王攘夷から倒幕運動へ進み、四境戦争から江戸城開城、戊辰戦争の結果、明治維新を 迎える。 その明治維新から逆算して、現代人の視点から、倒幕に至るさまざまな彼らの行動を解釈するのは間違いで ある。 明治の元勲たる伊藤博文、山県有朋、奇兵隊創始者にして初代総督高杉晋作、禁門の変で戦死した久坂玄 瑞、池田屋事件で命を落とした吉田稔麿など、いずれ劣らぬ勤王倒幕の大物たちである。 このように、綺羅星のごとき偉大な政治家や軍人、勤皇の志士たちを輩出した松下村塾は、如何に師の吉田 松陰が偉大であり、その教えが先見の明があったかということが語られることが多い。 だが、果たして弟子が大業を成し遂げたからといって、その功績全てが師の薫陶の成果であったと言えるの であろうか。 当時、日本各地に多くの私塾があり、優れた学者、先覚者達が多くの弟子を育成していた。 そのなかで、毛利藩中では、西の松下村塾と並び称されたのが、東の時習館(清狂草堂)なのである。 では、何故、松陰は日本中で知らぬものがいないほど有名であるのに、月性は、西郷隆盛とともに入水した 月照と混同されるほど知名度が低いのか。 同じ「げっしょう」と読むため、混同されたようだが、その功績たるや比較にならない。 月照は、西郷隆盛と入水したことにより、実績よりその名前の方が有名となった。 ところが、月性の方はどうであろう。 彼は、僧侶であるので仏典の研鑽は当然のことであるが、極めて優れた詩人でもあった。 「将東遊壁題」の後半、「男児立志出郷関 学若無成不復還 埋骨何期墳墓地 人間到処有青山」の最後の 一節「人間到る処青山有り」はある程度の教養のある人なら誰でも知っているほどの有名な句であるが、こ れが月性の作であることも、月性という名前も知らない人がほとんどなのではあるまいか。 月性は千篇を超える優れた詩を作ったといわれている。 その著書「「清狂吟稿」は、吉田松陰が、月性の護国論とこの吟稿を松下村塾において出版し、天下の同志 に配布せしめるよう「留魂録」に書き遺したほどであった。 彼は、当時第一級の碩儒高僧と交わり、文人としても極めて高い評価を受けていた。 しかし、彼の功績の真骨頂は、教育者、海防僧としての一面である。 清狂草堂で月性の薫陶を受けた門人には、赤根武人、世良修蔵、大洲鉄然、大楽源太郎、 入江石泉、和真道、天地哲雄、芥川義天などがおり、多くの志士文人の交流の場となっていた。 彼は、多くの若者を、その卑賎を問わず訓育し、維新の原動力となる人材を育成している。 中でも第3代奇兵隊総督、赤根武人、奥羽鎮撫使参謀、世良修蔵などは、後世の歴史から必要以上に貶めら れて伝えられているが、師の月性同様、もっと正当に評価されてしかるべき人物であろう。 月性の最大の功績は、何といっても、長州藩に海防の重要性を認識させ、武士だけの軍隊ではなく、百姓町 人をも入れた近代軍隊の必要性を説いたことである。 彼の著作、「意見封事」は藩政改革の必要性を説き、また、「内海杞憂」は海防五策をたてて外夷に備え、 士農工商を問わず志の有るものをもって新しい軍制を創立すべきことを主張した。 これは、後に、高杉晋作の奇兵隊、および諸隊結成のもととなったのである。 つまり、奇兵隊の構想は、高杉晋作の創案などではなく、実に、月性の海防理論の具現化であったのであ る。 しかし、思うに、この様な筆先一本で、防長二州の多くの草莽の士を決起させたとは考えにくい。 彼の最大の功績は、何といっても、毛利家重臣、村田清風、益田弾正、福原越後、浦靭負等を心服せしめ、 彼らの領地を始め、防長二ケ国の各村落にまで足をのばし、広く大衆一般にまで外国の脅威を説き、海防の 必要性を認識させたことである。 確かに、松陰門下の塾生は、歴史の表舞台で活躍したことは間違いない。 久坂玄瑞、吉田稔麿は志半ばで倒れ、高杉晋作は奇兵隊を組織し、また、藩内の俗論党をクーデターにより 倒し、長州藩を倒幕論に纏め上げた。 そして、維新の元勲となり、果ては、総理大臣までなった伊藤博文、山県有朋。 しかし、如何に彼らが歴史の表舞台で活躍しようとも、軍事的勝利がなければ、明治維新は達成できなかっ た筈だ。 戦争というものは、指揮官だけで勝てるものではない。 兵士ひとりひとりの兵士としての優秀さと、何よりも強固な赤心愛国の志がなくてはならない。 明治維新とは、単に、数名の勤王の志士や英雄の力で勝ち取ったものではない。 実に多くの、名もなき草莽の士の血で購ったもの。多くの郷村から、月性の呼び掛けに応じて奇兵隊やその 他の諸隊に参加した名もなき百姓町人、下級武士達が勝ち取ったものなのだ。 いわば、土を耕し、肥料を入れ、種をまき、苗が育つところまでを月性がやり、花を咲かせ、実を取り入れ たのが、松陰の弟子達であるといえよう。 そのことを考えれば、如何に月性の功績が大きかったかということを、今一度再評価されなければならない のではないか。 それ故、吉田松陰より月性の方が、明治維新に果たした役割は大きいというのである。 世良修蔵への誤解 世良修蔵。正しく伝えられるべき人物 世良修蔵は周防大島郡椋野村の庄屋中司家で生まれている。 誰かが何所かに書いていたように漁師の出ではない。 17歳のとき、萩の明倫館、次いで月性の時習館(清狂草堂)に学ぶ。 さらに江戸に出て、儒者、安井息軒の三計塾で塾長代理を務めた。 このことから、これだけの教育を受けさせた世良の実家の財力がかなりの ものであったことがわかるのである。 そのような勉学の結果、周防の浦靱負の私塾克己堂の兵学講師となる。 奇兵隊には赤根武人の勧めにより入隊し、その後、第二奇兵隊軍監となり、 第二次長州征伐、大島口に於いて、松山藩などの幕府軍を破った。 また、鳥羽伏見の戦いでは、第二奇兵隊や遊撃隊を指揮して戦い戦功を あげている。 問題なのはその後である。 奥羽鎮撫総督府下参謀となり、福島に於いて、仙台藩士らにより斬首され、 非業の死を遂げた。 司馬遼太郎の「惨殺」によれば、世良は、傲岸無礼、無教養で粗野な人間 であったように描かれている。 しかし、それは、世良修蔵本人の実像からは遥かにかけ離れているように思える。 彼は、萩の明倫館、月性の時習館で学び、江戸の三計塾では塾長代理を務めるなど、 極めて優れた教養人であり、司馬が言うような無知暗愚な人間ではなかった事 だけは確かである。 また、上記のごとく軍人としても優れた指導力を持ち、軍功も申し分ない。 この二つを総合して見るに、世良修蔵という人物は、決して無教養で 愚かな人間などではなく、教養豊かで、軍人としても優秀な人間で あった。 奥羽鎮撫総督府下参謀の時、参謀添役として後に総理大臣になった桂太郎が いたが、もしこの時、世良が殺害されていなかったらどうであろう。 明治政府で重用され、この様に後世、小説家によって悪役に仕立られずに 済んだのではないだろうか。 なお、世良が新政府内でかなりの評価を受けていたことは、後に 従四位の官位を授けられた事でも明らかである。 「斬殺」の記述は、司馬遼太郎が如何にいい加減な事を書くかという、 悪しき一例である。 この世良暗殺事件について、公正な観点から説明した一文を見つけたので 紹介する。 <a href="http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/theme13a.htm" target="_blank">「世良修蔵暗殺事件の周辺」 -奥羽鎮撫総督府」の結成から世良暗殺まで-</a> 海防論 海防論について よく誤解されているのだが、ペリーの黒船によって日本人が初めて外国の脅威を知ったわけではない。 それまでに多くの外国船が来ていて、様々な問題が起きている。 典型的な例は、ペリー来航の50年前に起きたフェートン号事件であろう。 この時、長崎奉行の松平図書頭康平は、責任を取って自刃し、警備の佐賀藩士16名も長崎市街から峠を越 えた場所で腹を切っている。 この場所は、今も腹切り坂として残っていて、十年近く前、長崎街道を歩いたときにこの記憶がある。 長崎は天領で、福岡藩と佐賀藩の両藩が輪番で警備を担当していたので、この事件の時の佐賀藩が責任を取 らされたわけだ。 このような事件を経験したので、当然、佐賀藩は、藩主自らが海防の必要性を痛感し、十代藩主、鍋島閑叟 は藩政改革により、藩の財政を立て直した後、嘉永3年(1850)から嘉永5年(1852)の二年間で 日本で最初の反射炉を作っている。 また、同時期に長崎の海防の重要性を幕府に訴えたところ、財政難という理由で取り上げてもらえず、自力 で長崎に台場を作り、砲台を建設した。 また、この反射炉により多くの大砲を鋳造し、品川台場に大砲を据え付け、文久3年(1863)には、自 力でアームストロング砲まで造ってしまった。 この様に、こと、海防に関しては、日本で一番意識が高く、藩全体が一丸となって実行したのが佐賀藩なの である。 また、薩摩藩も、琉球を窓口にして、外国の脅威は感じていて、砲台や軍艦を建造して備えていたので、薩 英戦争のとき、英軍の最新兵器を相手にして、旧式兵器でかなりの戦果をあげることができた。 実は、この月性の活動期は日本国中海防論が盛んな時期であった。 薩摩や佐賀は、藩を挙げて海防に尽力しているのに、毛利家は、表だってそのような活動はみられない。 月性が何故、海防の重要性を思い知らされたかというと、若い頃長崎に遊学しオランダ船の大砲や軍備を目 の当たりにしたからだと言われている。 これは、ぺリーが来る20年近くも前のことであった。 そしてその後に大阪で梅田雲浜等の攘夷論者との交流に於いて、この意は確固たるものとなり、帰国して海 防の緊急性を説いて歩くようになる。その後、尊王攘夷の志士、梅田雲浜、頼三樹三郎、池内大学、宍戸佐 馬介、などとの交流によりますます危機感を募らせてゆく。 しかし、上記の尊王攘夷家達は安政の大獄により弾圧をうけ、安政六年(1859)、頼三樹三郎は吉田松 陰とともに死罪となった。そのとき、すでに月性は前年の安政5年に病没している。 享年42歳。吉田松陰より12歳年上であった。 このように、海防論は、月性の活動時期には最高潮に達していたし、危機感を持った佐賀、薩摩などの西国 雄藩は、国を挙げてその対策に腐心していた。 つまり、海防論は月性のみの持論ではなく、当時、先見の明のある知識階級には共通の認識であったと言っ てよい。 しかし、月性の偉大なところは、ただの海防論者、単なる口舌の徒にとどまらなかったことである。 当時の毛利家の藩主や重臣達を説いて海防の重要性を認識させたことも重要であるが、最大の功績はそのこ とではない。 それは、私塾、清狂草堂において、優秀な子弟を教育し、また、防長二州の郷村をまわり、百姓、町人たち に外国の脅威を訴えたことであろう。 そして、この外国の侵略に対抗するには、士農工商を問わず、志ある者をもって新しい軍隊を創設しなけれ ばならないと説いた。 これにより、後年、高杉晋作が奇兵隊を創設し、身分にかかわらず広く隊員を募集したとき、武士以外の階 層から多くの隊士が集まったのである。 そのなかに、月性の弟子である赤根武人、世良修蔵がいた。 赤根武人は後に第三代騎兵隊総督となり、世羅修蔵は奥羽鎮撫使参謀となっている。 もし、月性の在地の子弟の教育と、防長二州の遊説がなかったならば、奇兵隊をはじめ、多くの諸隊にこれ だけの人材が集まることがなかったであろう。 これらの草莽の士からなる長州藩の諸隊が、四境戦争から戊申戦争まで、明治維新に極めて大きな貢献をし たことを考えると、月性の遊説がいかに大きな効果をもたらしたかということがわかるのである。 薩摩の剣術 明治維新を成し遂げた薩摩、長州の二雄藩の武力の基本となるもののイメージは大きく違っている。 薩摩と言えば示現流。 しかし、長州藩の剣術についてはあまり知られていない。 これには理由がある。 長州藩においては、戊辰戦争で活躍したのは主に武士以外の出身者で構成された奇兵隊等の諸隊であった。 武士の正規軍は、主に藩校の明倫館で柳生新陰流を学んでいたが、当時流行していた神道無念流を学ぶもの も少なくなかった。 しかし、維新の戦闘の主体はあくまでも奇兵隊などの諸隊であり、剣技より新式銃を駆使して戦果をあげた ので、剣術はあまり重要視されなかったと思われる。 一方、薩摩藩では事情が異なる。 薩摩島津家では、兵士の主体は薩摩藩士である。 武士の出ではないが、京都で人切りと恐れられた田中新兵衛、桜田門外の変で井伊直弼の首を打った有村次 左衛門、生麦事件で英人リチャードソンを切った奈良原喜左衛門など剣をもって名をあげた人物も多い。 また、幕末から明治の西南戦争に至るまで、その剣技の峻烈さは、敵の恐怖の的であった。 これらの薩摩藩士などが使ったのが示現流と薬丸自顕流である。 示現流は飯篠長威斎の神道流から分派したものである。 三代盛近の門人十瀬与三左衛門長宗が自分の工夫を加えて天真正自顕流と名付けた。 長宗の弟子、金子新九郎盛貞の弟子赤坂弥九郎は僧となって善吉と号し、師の曇吉に従い上京した折、薩摩 島津家家来、東郷重位と出会う。 東郷重位はタイ捨流を修めていたが、京都で剣僧善吉に秘伝を授けられ、島津家久の言により流名を示現流 と改めた。 薩摩島津家家中の武士はほとんどこの示現流を学んだため、薩摩においては、他流の入り込む余地はほとん どなかったと言われている。 薬丸自顕流は一名野太刀自顕流ともいい、示現流の開祖、東郷肥前守重位に示現流を学んだ薬丸刑部左衛門 兼陳が始めた流派で、基本は殆ど示現流と同じである。 この二流派のうち、示現流は主に城下士が習い、薬丸示現流は下士や郷士階級が使ったものとされている が、実際に暗殺剣を振るったり、人を切ったのものの多くは、殆ど下士であり、薬丸自顕流を使ったもので ある。 示現流と薬丸自顕流の基本は同じである。 左右の高い八双から、気合いとともに敵の首筋へ打ち込む。これを素早く右、左と繰り返す。これは両流と も変わらない。 大きく違うのは、示現流は組太刀の形があり、薬丸自顕流はこれが無い。 あるのは稽古法が数種類あるだけである。 その稽古法は、多くの木を束ねたものを横木に渡し、それをひたすら左右の蜻蛉という構えから交互に斜め に打つ。 また、立木を走り寄って打つ。或いは、十数本の木を立ててそれに陣笠をかぶせたものを順番に走って打つ 「打ち廻り」、また、刀を抜きざま、下から片手切りに切り上げるなどの稽古法である。 この二つの流派の特徴は、ひたすら木を打つ稽古により、斬撃力が極めて強くなるということである。 ただ、示現流の方は、組太刀により、様々な実戦に即した精妙な技法を習得することができるが、当然、打 太刀である教授者による仕太刀への細かい指導が必要となり、全ての組太刀の形に習得するにはかなりの時 間を要する。 ところが、薬丸自顕流は難しい組太刀の形を習う必要がない。 つまり、師匠などの教授者が居なくても、稽古のやり方さえ覚えれば一人で稽古もできる。 何よりも有利であるのは、一度に多くの門弟の稽古ができるということであろう。しかも努力次第では短期 間で強力な斬撃力が身につく。 これは、一度に多くの兵士を短期間に養成することができるという他流には見られない優れた特徴といえ る。 司馬遼太郎氏や津本陽氏がその著作のなかで登場人物に言わせたり解説したりしていることの多くは素人の 思いつき以外なにものでもない。 司馬遼太郎はずぶの素人であるし津本陽は剣道経験者である。 示現流のような極めて特殊な流派では、実際にに入門して学んでみなければ、その本質は決してわからない ものである。 それを素人が文献資料や演武を見てああだこうだと言ってもその本質を言い表すことはできない。 いたずらに、誤ったイメージを一般読者に与えるだけである。 津本陽氏は剣道の有段者だと聞く。 しかし、前にも口をすっぱくして言ったことであるが、剣道と古流の剣術とは全く別物である。 剣道の立場から古流の剣術を云々しても、なんら素人と変わらない解説しかできない。 却って剣道の有段者であるがゆえに誤った認識を読者に植え付けかねない。 これは厳に慎むべきことである。 陳元贇のこと 陳元贇・・・(日本柔術の祖)は誤り。 私の若い頃、一般には日本柔術は江戸時代初期、明から陳元贇なる人物が渡来し、三人の浪人に教えたのが 始まりとされていたと思う。 陳元贇が江戸麻布国正寺に仮遇していたおり、磯貝次郎左衛門、福野七郎右衛門、三浦与次右衛門の三名の 浪人に人を捕うる術を教え、これにこの浪人たちが工夫を加えて作りだしたのが我が国の柔術であるとされ ていた。 これは、「本朝武芸小伝」「武術流祖録」「本朝世事談綺」などに記載され、後に「国史大辞典」にまで収 録されているために、陳元贇が日本柔術の祖となったという説が定説化したものと思われる。 これに対し、最初に反論を試みたのは、実は柔道の創始者、嘉納治五郎なのである。 嘉納はT.リンゼイと共著で英文で「柔術・伝統あるサムライの武器なき格闘術」という論文を著し、明治 二十一年に発表した。 詳しくは、[yawara 知られざる日本柔術の世界…山田實著]に詳しいが、結論を言えば、陳元贇が柔 術を日本にもたらしたということは否定し、柔術の起源を中国にもとめるのは「わが国の恥辱である」と 言っている。 これは全くその通りである。 その一例として、文献で確認される最古のものは竹内流がある。 これは、天文元年(1532年)、美作国の住人竹内中務太夫久盛が、一人の修験者から小具足の術を学ん で始めたとされている。 しかし、これは、文献などで確認されているものであり、当然同時代、あるいはそれ以前にも同様の技術が 存在したことは間違いないことであろう。 日本は、武士が発生以来、千年以上にわたって膨大な数の合戦が行われてきた。 平家物語や源平盛衰記に見られるとおり、鎧組打ちは、数限りなく行われてきた。 特に、首取りの伝統は、この鎧組打ち無しには成り立たない。 当然、戦乱の世にあっては、この鎧組打ちの術は日本各地に於いて工夫、改良され発展してきたと考えるの が自然である。 竹内流はその一つにすぎない。 重要なことは、竹内流が今に現存し、伝えられていることである。それが故にこの小具足術発祥の事実が今 に伝えられているのである。 恐らく、戦国当時あった同様の組打ち技の流派は、江戸の太平のなかで消えていったものと思われる。 しかし、その技法は現存する柔術各流派の技法の中にしっかり残されていることでも納得できよう。 誤解の元となったのは、「武芸小伝」の記述である。 これによると、小具足と拳と分けられており、小具足の元祖は竹内流とされているが、拳の方は相手に従う ことにより勝利を得る術(柔術)で、この起源が陳元贇を始祖とする。 この「相手に従うことにより勝利を得る術」というのは、即ち、紛れもなく柔術のことを指している。 しかし、これを柔術、或いは柔、和と呼ばないのは何故なのであろうか。 何故、ことさら拳の文字を用いたのであろうか。 これは、明らかに陳元贇を無理やり持って来てこの場所にくっつけた為に、日本固有の技術である柔術、 柔、和の名前を使うとどうしても不自然さを覆い隠すことができない。 そこで、中国渡来の技らしく拳という字を使ったのであろう。 では、何故ということになる。 これはひとえに権威づけのためである。 我が日本人は、外国かぶれがその最大の欠点である。これは今も昔も変わらない。 戦後は、日本国中がアメリカの真似をした。 歌手はアメリカのヒット曲を歌い、日活の無国籍映画などは、日本を舞台にアメリカのカウボーイの格好を した俳優にギターなぞ持たせて拳銃をぶっ放し、西部劇まがいの映画が作られた。 若者のファッションもすべて欧米の流行をまねした。 一時期、日本人は猿まねばかりしていると欧米人に思われていた時期が長く続いたのである。 昭和40年代後半になり、ブルースリーの映画がヒットすれば猫も杓子もそのまねをする。 反面、我が国伝統の文化は全く顧みられることはなく次々に衰亡し、消え去っていった。 これが我が日本人である。これは、太古の昔から我が民族のDNAに埋め込まれた宿痾のようなものかもし れない。 その例にもれず、江戸時代は、全て中国から来たものが最高のものとされた。 特に文化人はその傾向が強かった。 それはそうであろう。当時の学問は全て漢学であり、医術も漢方、お茶も中国の真似をして煎茶の法ができ たほどである。そして、その煎茶道具も全て中国からの輸入品が最上のものとされていた。 急須も、茶碗も、何から何まで、全ての中国からの輸入品が目の玉が飛び出るほどの高値で取引された。 つまり、江戸時代の日本人、特に知識人はすべて中国文化に大かぶれしていたのである。 当時の日本人の中国文化への憧憬は、現在の日本人には理解できないであろう。 これは、武術に於いても例外ではない。 故に、柔術の起源に於いても権威付けの為に中国からの渡来人を据えた。それが陳元贇である。 この陳元贇に教えを受けたとされる三浦、福野、磯貝の三人から発生した柔術流派の資料がこの「本朝武芸 小伝」などの著者の手元にたまたまあった。 それで何の疑問も持たずそのまま使ったとしても不思議はない。 どうも、中国を有難がる風潮は他の流派にも見られる。 大流派の一つである揚心流の開祖である長崎の医師、秋山四郎兵衛が中国へ渡り、搏打の術と蘇生術を学ん だとされている。 全てが嘘とは言わないが、かなりの創作があると考えざるを得ない。 何故かと言うと、その中国から学んできた搏打の法や陳元贇が教えた技(これも搏打の法と思われる)と現 在伝わっている柔術の技とが余りにかけ離れているからである。 これは、嘉納治五郎もその論文のなかで言っていることである。 嘉納が学んだ起倒流は福野から出たものだし、天神真揚流の元は秋山の揚心流とその揚心流から出た真之神 道流である。 いずれもその起源は中国人から習ったとされる中国拳法の搏打の術である。 もし、日本柔術の祖が陳元贇や中国人であるならば、この中国由来の搏打の法が起倒流や天神真揚流に残っ ていなければならない。 そして、この二流派を極めた嘉納治五郎がこのことを知らないわけがない。 ところが、嘉納自身がこの中国由来説を否定している。 このことは何を意味するか。 日本柔術の祖を陳元贇や秋山が中国に渡って搏打の法を習ったとされる中国人であるとするのは誤りである ということなのである。 実は、この誤りの元は「武芸小伝」の記述で、小具足と拳を分けたことによる。 「拳」は誤りであり、これは柔術、或いは柔とすべきものなのである。 何故ならば、この小具足も柔も同じものであるからだ。 古流柔術は様々なものが含まれていて、小具足も鎧組打ちも柔術の一形態であるのであり、基本となる技法 は同じものである。 結論を言えば、日本柔術の始まりは、記録に残っているものとしては竹内柔術であるといって差し支えない と思う。 赤穂浪士の吉良邸討ち入りについての疑問 鎖帷子・・・赤穂浪士の場合 江戸中期、元禄年間の赤穂浪士の吉良邸討ち入りと、幕末の新撰組池田屋強襲事件。 この二つの事件を見るに、同じ疑問が湧いてくる。 まず、赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件。 吉良方は百四十名(はっきりしたことは諸説ありわからない)、赤穂浪士は四十七名である。 結果は吉良方の死者十六名負傷者二十三名(これも諸説ある)。対して、赤穂浪士は死者は無く、負傷者は 二名だけ、原惣右衛門は邸内に落ちた際に足をくじき、近松勘六は大腿部に突き傷を受けていたという。 これを見ると、戦闘で傷を受けたのは近松勘六一人ということになる。 吉良方は四十名近くの死傷者を出し、浪士の方は、戦って負傷したのは唯の一人である。 なぜこの様に戦果に差が出てしまったのか。しかも圧倒的に吉良方が人数が多く有利であったはずなのに。 それほど赤穂方が強く、吉良方が弱かったとでもいうのであろうか。 しかし、ここで考えなければならないのは、赤穂方には7人もの還暦を過ぎた老人がいたということであ る。 このような老人が血気盛んな壮年の吉良方とまともに戦って無事ですむわけがない。 堀部弥兵衛は七十七歳、寺坂吉衛門に至っては八十三歳、よぼよぼである。 しかし、この老人たちは、目につくほどの手傷を負った者は誰一人いない。 この様な老若入り混じった混成部隊の四十七人で、如何に周到に計画を練り、準備万端整えて打ち入り、敵 の寝込みを襲っても、三倍近くの吉良方と戦って勝てるわけがないことは誰の目にもあきらかであろう。 周囲の長屋で寝ていた吉良方百人近くを長屋に封じ込めて出られないようにしたとしても、母屋で警護に当 たっていた者は襲撃した赤穂方より人数が多いのである。 如何に寝込みを襲い不意打ちをかけたとしてもこれだけの戦果をあげるのは常識で考えれば到底無理な話で ある。 敵一人に三人でかかっていったから勝てたという説もあるが、これはおかしい。 単純計算で敵の三倍の人数が必要であるが、実際は赤穂方の方が少ない。これでどうやって一人の敵に三人 が掛れるのか。理論的に説明がつかない。 しかし、結果は歴史の示すとおりである。 吉良方は当主の首を取られ、多くの死傷者を出した。これは納得できる。寝込みを襲われ、寝巻一枚で戦っ たのだから。 素肌武者ほど弱い者はない。ここでいう素肌とは裸のことではない。身に鎧冑などの防具を着けない状態を いう。 刀が肌に触れればたやすく傷をうける。深く切り込まれれば容易に致命傷となる。 吉良方は寝巻一枚で完全武装の赤穂浪士を戦ったのだ。これだけの大損害を受けることは当然の結果といえ よう。ここに不思議は何もない。 問題は赤穂浪士のほうである。 激しい肉弾戦である。乱戦のなか、赤穂の体に一本も吉良方の刃がとどかなかった筈はない。 ましてや吉良方の方が人数が多い。前の敵と渡り合っている横や後ろから別の敵に切りつけられたことも少 なくなかったであろう。 しかし、高股を切られた一人を除いて他に刀傷を受けた者はいないのである。 これを不思議と言わずして何と言おう。 まるで鎧冑で完全武装していたかのようである。 先祖伝来の鎧冑で完全武装していれば、この様な一方的な結果となったとしても不思議はない。 しかし、記録によると、当日、甲冑で完全武装したものは誰もいない。とすれば、彼らは一体何を着こんで いたのか。 当夜、赤穂浪士は甲冑にかわる敵の刃を防ぐものを着こんでいたとしか考えられない。 討ち入り時の服装については、歌舞伎や映画のだんだら模様の揃いの制服はうそである。 正確なところはわからないが、諸記録の一致するところでは、鎖帷子に火事場装束、冑の鉢金をかぶってい たようである。 鎖帷子について誤解がある。 これは着込みともいい、着物の下に着るものであるからその防禦力は限定的であるかのように思われてい て、従来、さほど重要視されてこなかった。 また、昔の錦絵や映画に、鎖帷子はまるで漁師の網のように表現されていた。 一般の人たちがあのような目の粗いものを鎖帷子と認識していれば、あまり防御力に期待できないと思うの も無理はない。 実際にあのような雑なものなら殆ど刀槍の攻撃を防ぐのは無理である。 実際の鎖帷子は、小さな鎖をつなぎ合わせて作られていて、実に堅牢なものである。 形も筒袖の着物の形に仕立てられ、裏地の布に縫い付けられていて、その長さは膝近くまである。 これを着れば胴部への刀槍の攻撃は殆ど防ぐことができよう。 正式の鎧に比べ、槍や刀剣の突きには弱いと言われているが、これとてあくまで甲冑に比べてのはなしで あって、よほど体重をかけて渾身の力をふり絞って突いたものでなければこの鎖の目を突き破ることは難し い。 無我夢中の乱戦のなかで、槍ならともかく刀ではその様な効果的な突きは望めまい。 せいぜい鎖の一つ二つ突き破ったぐらいでは、大した傷を負わせることは難しい。 初期の鎖はただ針金を丸く輪をつくり、突き合わせただけであったので、槍や矢などで突かれるとこの継ぎ 目が開き、突き破ることができたが、後になるとこの欠点を無くす為、様々な工夫が凝らされてこの欠点を 小なくしている。 鎖で構成された防具の優秀性は既に戦国期、籠手などに使用されたことでも実証できるが、 これは外国の鎧が鎖鎧(チエインメイル)を多用したことでも理解できよう。 古代ローマ、帝政以前の共和制の時代、領土を盛んに拡大していた頃のローマ兵の鎧がこれであったし、十 字軍の騎士は、この鎖鎧で全身を覆って戦った。 対するイスラム教徒の鎧も基本的にはこれであり、重要部分のみ鉄板で補強したものが使われた。 このような諸外国の事例を見ても、鎖鎧がいかに有用であったかということがおわかり頂けたことと思う。 赤穂浪士の使ったと言われている鎖帷子を見てみると、これはまさしく鎖鎧そのものであり、外国の鎖鎧に 比べてもそん色ないものといえる。 記録には、吉良方が赤穂浪士に一太刀あびせがたが、はね返されて敵に手傷一つおわせることが出来なかっ たとの記述もあることから、この鎖の着込みは十分にその効力を発揮したことは間違いない。 また、胴体はわかるが、頭部はどうだという疑問もあろう。 ある記録によれば、冑の鉢金を火事頭巾の中に縫いこんでかぶり、籠手、脛当てを着け、帯にも鎖を入れて いたという。 冑の鉢金とは、冑の本体部分であり、これは、冑から首を守る「しころ」の部分を取り外したもので、事実 上、冑をかぶっていたということになるのである。 火事頭巾は、丈夫な刺子で構成され、中に石綿を縫いこんであるもので、この時代、もし、この様な防火頭 巾が既に使用されていたのであれば、例え鉢金は無くてもかなりの防禦力があったと思われる。 この鉢金と火事頭巾の組み合わせは実によく考えられた工夫というべきで、室内の切り合いでは殆どの刀の 切り込みを防ぐことができたのではないか。 こうして見てくると、籠手や脛当ても、甲冑の部品であるので、ほとんど甲冑と同じ完全武装で吉良邸の襲 撃をおこなったということが言えるのである。 ただ、正規の甲冑より遥かに軽く、着物の下に着ていたので、目立たなかっただけである。 赤穂浪士は、ほぼ甲冑に準ずる完全装備で吉良邸襲撃に臨んだ。 これが赤穂浪士に殆ど死傷者が出なかった本当の理由である。 池田屋事件について 鎖帷子・・・新撰組の場合 新撰組の活動のなかで、最も有名なものは池田屋事件であろう。 詳しい経過は、様々な小説家の著作の中で言い尽くされているのでここでは触れない。 ここでも、赤穂浪士の吉良邸打ち入りと同じ疑問がもち上がる。 勤皇志士側の二十数人に対し、池田屋を襲った新撰組側は、局長の近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助 の四人である。 他の六名は表と裏の出口を抑えていた。 そのうち、永倉と藤堂は階下で待ち伏せ、二階に踏み込んだのは近藤と沖田の二人である。 なんと、二十数人、十倍以上の敵にたった二人で切り込んだのである。 近藤達にとってこれほど不利な戦いはない。それを承知で踏み込んだのである。 その豪胆さには舌を巻くばかりであるが、これはよほど腕に自信があるか、あるいは相手からは切られない と言う信念があったに違いない。それは一体何であろうか。 近藤達に踏み込まれた志士達は階下に飛びおり、下で待ち受けた永倉、藤堂と切り合いになった。 また、裏口には十数人が飛びおりて長州藩邸へ逃走をはかり、ここで待ち受けていた奥沢栄助、安藤早太 郎、新田革左衛門の三人と戦闘が始まった。 結果は、勤皇方の宮部鼎蔵、吉田稔麿など九名を討ち取り、四名を捕縛した。 後から駆けつけた土方歳三率いる二十三名を加えて三十二名でこの戦果をあげたのである。 その後、応援の会津、桑名藩兵と協力して二十数人を捕縛した。 新撰組側の被害は、裏口にいた奥沢栄助は死亡、安藤早太郎と新田革左衛門は重傷を負い、ひと月後に死亡 した。 新撰組側の死者はこの三名だけであるが、沖田総司は持病の発作で昏倒して戦闘から離脱し、藤堂は汗で鉢 金がずれたところを切られて血が目に入った為に戦えなくなった。 これが池田屋事件のあらましである。 この池田屋襲撃の場合、条件は赤穂浪士吉良邸襲撃事件と良く似ている。 襲撃側は鎖頭巾に鉢金、鎖帷子に籠手と脛当てで完全武装して、準備万端整えて襲撃した。 これに対し、勤皇志士側は寝てこそいなかったが全く油断していた。 これは、万が一、幕吏に踏み込まれても長州藩邸まで約300m。いざとなれば長州藩邸に逃げ込めばよ かったという事情もあったであろう。 その服装も、ごく普通の服装で、身を守る防具の類は何一つ身につけていなかった。 新撰組が鎖頭巾、鉢金、鎖帷子、籠手、脛当てなどの完全装備で池田屋に踏み込んだのとは格段の相違であ る。 前にも言ったが身に何の防具もつけない素肌で闘争の場に臨むことほど不利なことはない。 しかし、如何に完全武装で切り合いに臨んだとしても、防具の隙間を狙われたり、寄ってたかって切りつけ られれば当然無事には済まない。 裏口を固めていた奥沢、安藤、新田の三名が死に至る重傷を受けたのはこの故である。 初め近藤、沖田の両名が二階に踏み込んだとき、二十人以上いた勤皇の志士達は一斉に裏口に殺到して長州 藩邸に逃げようとした。 そこに新撰組側の三名が待ちかまえていて切り合いになった。所詮、多勢に無勢、寄ってたかって切りつけ られられ、一人が死亡し二人が重傷を負った。 これは、近藤、沖田ほどの剣の実力があれば何とか凌いだと思われるが、所詮平隊士である。それだけの経 験も実力もなかったということであろう。 この事件の場合も近藤、沖田の二名で数倍の敵と渡り合い、身に傷ひとつ受けていない。 また、階下にいた藤堂、永倉も、二階から大挙して押し寄せてきた敵に立ち向かい、永倉は無傷、藤堂は額 の傷から流れ出る血が目にはいり戦闘を離脱したがこれは傷のせいではない。 なお、藤堂の傷は、鉢金が汗でずれたところを切り込まれたので、もし、鉢金がずれなければこの傷は受け ることはなかった。 こうして見てみると、この新撰組の池田屋襲撃も、赤穂浪士の吉良邸打ち入りと同じく、 鎖帷子、鉢金を着用し、籠手、脛当ての完全武装のお陰で殆ど無傷でこれだけの大成果を上げることができ たのである。 なお、新撰組の場合、頭部は鎖頭巾で保護されていて、赤穂浪士よりより完全な防備をしていたということ ができよう。 これまで江戸中期と幕末に起きたこの二大事件は、いろいろとその大戦果の原因を考察されてきたが、この 鎖帷子の効果があまり重要視されてこなかったように思う。 ネット上では、この鎖帷子の効果について言及するものもあったが、あまり多くを語っていない。 このような鎖頭巾、鉢金、鎖帷子、籠手、脛当の効用について余りにも正しい認識を持って説明している著 作や論文が少ないので、ここにこれら二例を提示して説明した次第である。 犯人捕縛の実際 犯人捕縛の実際 最近テレビがおもしろくない。というより下らない。特に地デジ放送は一体何なのだろう。 こんなのばかりみているとろくなことは無い。 特に、子供達には見せたくないものばかりである。 民放が下らないならNHKはどうか。公共放送だから幾分はましなのではないかと思われるむきもあろう。 しかし、これも歴史番組、特に大河ドラマには注意が必要だ。最近のものはその内容も時代考証も実にお粗 末である。 これは、ちゃんとした原作もなしにろくな歴史の基礎知識も持たぬ脚本家が現代劇ののりで歴史ドラマを作 るからである。 問題なのは、歴史のあるテーマを取り上げて、作家や学者、タレントなどに解説させる歴史検証番組であ る。 一般の視聴者はこれを真実と信じ込んで見ているようだが、実はこれさえも実にいい加減なものであること はこれまでさんざん言ってきたところである。 ということで、地上デジタル放送はほとんど見たいとも思わない。 しかし、もともとテレビで育った年代である。 何かないかと、BS放送を探して見た。こちらの方が遥かにましである。 但し、大ウソの韓流ドラマが今なお幅を利かせているのは気に食わないが、これは見なければよい。 BS放送は、過去のドラマの再放送が多いので、昔懐かしい俳優や女優の若かりし頃の姿が見られるのも楽 しい。 私は時代劇はあまり見ない。 しかし、昔の時代劇の雰囲気は嫌いではない。年のせいもあるのであろう。 最近良く見ているものに池波正太郎原作の「鬼平犯科帳」がある。 主演は松本幸四郎、丹波哲郎、萬屋錦之介、中村吉右衛門などであるが、丹波哲郎や萬屋錦之介は少々個性 が強すぎてうっとおしい。 主に見ているのは、初代の松本幸四郎と、その息子の中村吉右衛門である。 脇役も当時の実力派が固めていて結構楽しめる。 しかし、立ち回りや、こまかいところに不満な所もなくは無いが、以前、チャンバラについて詳しく述べた ので、立ち回りについてはこれ以上は言わない。 本物の切り合いの描写は、今までの殺陣師で知っている者など誰もいないからだ。 まず、現段階ではあんなものであろう。 これは、この鬼平シリーズだけではなく、所謂、捕り物帳もの全般について言えることであるが、捕り物の 様子が全く間違っている。 その最大の間違いは、捕物の服装である。 どのドラマも、同心はせいぜい鉢巻に襷がけ程度の身ごしらえで凶悪犯に立ち向かっている。 又、鬼平の場合は刀を使っている場面もあるが、その他の捕り物帳では十手一本で犯人を捕縛している。 こんな馬鹿なことはない。 巡回中のふいの切り合いならともかく、犯人捕縛に向かう場合はそれなりの準備をしてかかるのが当り前で ある。 これでは相手が刀や脇差で抵抗した場合、あるいは匕首で懸ってきたばあいでさえも、同心の方も手傷を負 い、あるいは最悪の場合、死に至ることもあり得るのだ。 昔、何かの本で読んだ覚えがある。 それによると、実際に捕縛にあたる同心は、籠手、脛当てをつけ、鎖帷子を着こみ、額には鉢金をあてて敵 の刃を防ぐ。 こうでなければならぬ筈だ。これなら、よほどの事でもない限り、同心が手傷を負うことは無い。 また、映画やドラマではやたらと峰打ちを使うが、これも事実に反する。 刀は峰打ちをするようには出来ていないし、使いにくいものである。 相手も必死である。これがために不覚をとるようなことがあってはならない筈だ。 そのため、同心は、刃引きの刀を使うのである。これなら、犯人を殺すこともなく、せいぜい骨折や打ち身 ぐらいで捕えることができる。 かねてそう思っていたところ、それを裏付ける記述を見つけた。 東京大学史料編纂所教授の山本博文氏著、「江戸のお白州【資料が語る犯科帳の真実】」である。 その部分は以下の通り。 【 捕物出役の時、奉行は、与力には「検使に行け」と命じ、同心には「十分に働け」と命ずる。 『江戸町奉行事績問答』(佐久間長敬著・南和夫注、東洋書院、1967年)によれば、与力は、火事羽 織・野袴・陣笠を着用し、緋房のついた指揮十手を持ち、侍一人・槍持一人・草履取り一人を従える。 一方同心は、鎖帷子・鎖鉢巻・籠手・臑当などを着用し、十手と長脇差を持つ。長脇差は、相手が激しく抵 抗した時に使うもので、これで相手の刀を払い落したり、相手を打ったりする。ただし、致命傷を与えない よう、刃は挽いてある。】 なお、実際の切り合いでもっとも手傷を負い易いのは両手、両腕であるので、この部分を完全に防備すれば かなりの防禦力がある。また、相手が槍や長刀を持ち出してきた場合は、臑を切られることが多いので臑当 ても重要である。 この籠手、臑当ては、鉄板と鎖で構成された至極頑丈なもので、多くは具足(鎧)の籠手、臑当てを使用し た。 この様に、鉢巻、襷がけだけの素肌(裸ではない。鎧や防具をつけない状態をいう)で犯人捕縛にあたるこ とはなかったのである。 明治以降 明治初期の武道界 明治になり、文明開化の世になると、武士の身分は廃止され、続いて廃刀令が施行された。武術の基盤で あった武士がいなくなり、江戸以来の剣術、柔術などの古流武術はほとんど時代遅れの古臭いものとして顧 みられることがなくなった。 その為。入門者が激減し、たちまちそれらの道場主達は生活に困窮していった。 また、剣術にしても、柔術にしても、主に形稽古をやる流派は、一度に多数の門弟を指導することができな い。 これで益々生活が苦しくなり、整骨や内職などでかろうじて糊口をしのぐ有様であったという。 剣術では、北辰一刀流や鏡心明智流、神道無念流など、主に防具をつけて竹刀で打ち合う稽古法、打ちこみ 稽古でであったのでまだましであった。 それでも、直新影流の榊原鍵吉などが中心となり、撃剣興業をやったのである。 これは、今でいう異種格闘技のようなもので、これには当時の錚々たる名人、達人達が名を連ねていた。 このことを見ても、そのころ、如何に武術が衰退し、当時の武術家たちが危機感を抱いていたかわかる。 この剣術の打ち込み稽古をやる流派は、一度に多数の門弟に稽古をつけることが出来る為、営業上非常に有 利であったことは前に書いたとおりである。 この打ちこみ稽古は、今の剣道とほとんど変わらない近代的な稽古法であったので、明治になってもその命 脈を保ちつづけ、大正になって、流派を超えて大同団結して剣道となるのである。 ところが柔術の多くの流派では、旧態依然とした形稽古であった為、弟子の数が減るとたちまち経営難に 陥ってしまい、その道場主たちは、他に生活の糧を求めなければならなかった。 形稽古は、マンツーマンで教えるので、一度に多くの弟子をとることができないからである。 このときに登場したのが嘉納治五郎である。 彼は、天神真楊流と起倒流の二流派の柔術を納め、それに独自の工夫を加えて明治15年に講道館を開設 し、従来の柔術という呼称をやめて柔道という名前を使った。 今日の柔道の始まりである。 近代武道の夜明け・・・柔道 近代武道の夜明け・・・柔道 徳川幕府が倒れ、明治の世となり、武士階級が没落すると、それまで武士の表芸とされていた武術各流派 は、たちまち衰退していった。 そこに登場したのが嘉納治五郎の柔道である。 柔道という言葉は昔から柔術各流派で使われていることもあったが、名称として使ったのは嘉納治五郎の講 道館柔道が初めである。 この明治15年に始められた講道館柔道は、何もないところから突然嘉納が作りだしたものではない。 もととなったのは天神真揚流、起倒流などの古流柔術で、これにレスリングの業なども加えられているとい う説もある。 嘉納の修行時代は東大の学生であった。インテリ中のインテリ、エリート中のエリートである。当然、外国 の文献なども読みこなし、遠い外国の技なども研究することができたとしても不思議はない。 講道館柔道の画期的なところは、何と言っても、従来の古流柔術の形稽古を廃し、乱取り稽古を採用したこ とである。 また、危険な当身、関節技、締め技の内、危険なものを除き、安全性の高いものだけを残した。 これにより自由に試合を行えるようになり、多くの他流試合で勝ちを制することができたのである。 また、最大の特長は、この技自体が極めて科学的かつ合理的であったことであろう。 これは、人に説明し門弟を勧誘する場合、実に有利であった。 修行者はこの一つ一つの技の理屈を頭で理解し、充分納得のうえ稽古することができたからである。 当時の古流柔術の稽古は、理屈や理論はどうでもよかった。ただ師匠に教えられたとおりに稽古する。つま り、体で覚えなければならなかったから、どうしても完全に習得するまでには時間がかかった。 また、神仏に対する祈祷、真言、手印、座禅などの宗教がかったことや、急所や漢方医学なども含まれてい たので、当時の文明開化の世にはとかく胡散臭いもの、古臭いものとして敬遠されがちであった。 嘉納の賢明なところは、こういった古流柔術の神秘的なところや、古臭いと思われるところは一切排除し、 あくまでも科学的、理論的に技を組み立てていったことである。 そして、マンツーマンでしか教えることができなかった古流の形稽古をやめ、一度に何人でも稽古できる乱 取り稽古を採用した。 このことは兎角見過ごされ勝ちであるが、極めて重要なことなのである。 一度に大勢の門弟に稽古をつけることができれば、門弟数は飛躍的に伸ばすことができる。 つまり、道場経営だけで十分食べていけるということなのだ。 ということは、整骨や鍼灸、その他の内職に頼らなくても、充分道場経営が成り立つわけである。 片や古流の方はそうはいかない。多くの柔術家たちは生活の為に他に職業をもたなければならなかった。 当然、稽古時間も少なくなるし、旧態依然とした形稽古では門弟数も進歩の度合も制限されてくる。 これでは全てにおいて科学的、理論的かつ効率のよい近代的な柔道に敵うわけがない。 多くの柔術対講道館柔道の試合において、柔術が柔道に後れをとったのはこういったわけである。 また、古流は最大の武器である当身や締め、関節技などを封じられていたし、慣れない試合である。 それに対し、柔道は試合そのものの乱取り稽古を行っている。つまり、日頃の稽古の通りの試合をやればよ かった。 このハンデは今、後世考える以上におおきかったのではなかろうか。 今に見るがごとく、設立以来急激に講道館柔道が発展し、現在はオリンピックの教義に選ばれるほど世界中 に広まったのは何故か。 それは、その技術体系が極めて合理的、科学的で近代的で理に叶ったものであり、当時の世情にぴったり あったことと、優れた弟子に恵まれたことであろう。 姿三四郎のモデルである西郷四郎、小説「姿三四郎」を書いた富田常雄の父である富田常次郎、横山作次 郎、山下義韶の四天王である。 柔道は明治19年の警視庁武術大会で西郷四郎が戸塚揚心流を破り、警視庁に採用された。 こうして嘉納治五郎の講道館柔道は以後順調に発展し、警察や軍隊で採用され、それまで何とか命脈を保っ てきた柔術諸流にとって代わったのである。 なお、嘉納の習得した古流柔術の形は、古式の形として今に伝えられている。 嘉納治五郎の柔道 ・・・乱捕り稽古について。 嘉納治五郎の講道館柔道は瞬く間に、旧来の柔術諸流を抑えて警視庁に採用され、近代武道として大きく飛 躍していった。 その成功の要因のひとつとして、乱捕り稽古をあげた。 しかし、古流の柔術諸流はどうであったのだろう。 実は、当時、乱捕り稽古は古流柔術でもかなり行われていた。 幕末には、剣術とともに柔術も盛んに行われていた。 最初のころの乱捕り稽古は、形稽古の欠点を補うものであったと思われる。 つまり、形ばかり覚えても、実際に使えるかどうかはわからない。 そこで、ある程度、形を覚えた段階で、それを実際に試合形式で試してみる。 これはかなりの流派で行われていたようだ。 ところが、そのころ、剣術は打ち込み稽古が主流となり、その為に流派の垣根が取り払われて盛んに他流試 合が行われるようになっていた。 これは、おもに、鉄面、竹具足、竹刀の採用により、安全に試合ができるようになったことが最大の要因で ある。 柔術においても、その頃の剣術、撃剣の隆盛を見て、それに影響されたことは間違いない。 当然、柔術も撃剣の試合と同じように他流試合も行われるようになった。 しかし、撃剣は防具と竹刀の採用で、安全に試合をすることができた。 ところが、柔術では様子がちがう。 試合でとことんやれば、骨折、脱臼、肉離れ、当て身や締めによる失神は避けてとおれない。 事実、幕末から明治にかけての柔術の試合は、相当荒っぽいものであったようだ。 とにかく、投げ倒されるか締めおとされ、当て落とされるか降参するまで続けられた。 それ故、柔術には必ず活法が付随している。 弟子が試合で締め落とされるか当て身をくらった場合、師匠が出て行ってすかさず活を入れる。 骨折など日常茶飯事であり、時には死人がでることも珍しくなかった。 鬼横山と異名をとった講道館四天王の一人、横山作次郎の談話にも、試合に出かけるときには両親に今生の 別れを告げて出かけたとある。 私も、昔、師匠から同様の話を聞いた記憶がある。 実は、嘉納が学んだ天神真揚流も起倒流も、この乱捕り稽古法を取り入れており、試合も盛んに行われてい たようだ。 このように、嘉納の柔道の特色である乱捕り稽古は、何にもないところから彼が作りだしたものでも、創案 でもなかった。柔道の基礎となった両古流の乱捕り稽古を整理改良し発展させたものであった。 実際問題として、古流の形稽古からは直接乱取り稽古や試合は発生しにくいものであった。 何故ならば、形稽古の形は、原則として、相手が仕掛けて来て始めて成立する技なのである。 つまり、敵が、襟や帯を掴んできたとき、突いて来た時、殴りかかってき、或いは首を絞めに来たとき、こ れに応じて技を掛けて、これを倒す、或いは締め、当て落とす。 このように、双方が相手がかかつてくるのを待っていたのではいつまでたっても試合が成立しない。 故に、乱捕り稽古を採用している流派では、旧来の形とは別に、乱捕り用の技が用意されていたようであ る。 例えば、天神真揚流では、本来の形稽古用の形の他に、十二種の乱捕業が存在していた。 このように、嘉納治五郎は天神真揚流と起倒流の乱捕業をもとに、研究を重ね、現在の柔道を作り出したの である。 柔道の名前。嘉納治五郎の意図 柔道という名前を嘉納治五郎が使用したのは彼が初めてではない。 柔道の名称は江戸期において、ほぼ柔術と同意義で使われていたことがあったようだ。 柔術流派ではっきり柔道の名前が使われているのは、「直心流」である。 この流派は、陳元贇に教えを受けたとされる福野七郎右衛門の門人、寺田平左衛門より始まる。これを号し て「直心流柔道」とした。 嘉納の学んだ起倒流は、この寺田平左衛門の弟子、寺田勘右衛門が起倒流と称したものであり、当然、嘉納 も起倒流を学んだときに、この柔道の名前の由来を知っていたと思われる。 また、この柔道の名前は幕末のころにはすでに柔術の意で使われることがあったようである。 昔、私も、天神真楊流の文書にこの柔道の名が使われていたように記憶している。 実は、嘉納治五郎が自分の嘉納流柔術とも称すべきものを柔道としたのは、単に今まで柔術という名前の代 わりに使われる事があった柔道という名前を採用したにすぎないのである。 嘉納は自分の習得した天神真楊流と起倒流に自分も工夫を加え、新しく作りだした技に、旧態依然とした柔 術の名前を付けたくなかったのであろう。 そこで、起倒流や、その他の流派でも使われることがあった柔道という名を使ったと思われる。 この事は、嘉納自身が己が工夫した技法への絶対的な自信を表すとともに、古流柔術諸流との差別化を意図 したものといえよう。 本来、柔術は、元は甲冑組打ちに始まり、徳川の太平期に様々な技に変化して多くの流派が生まれた。 そして、そのれらは徒手空拳にて敵が如何なる武器を持ってしても制圧できる技術を持っているが故、危険 な技も多く、死傷者が絶えなかった。 そこで、嘉納は、それらの危険な技を排除し、試合に有利な技を工夫して残し、稽古法も従来の形稽古を改 めて、主に乱捕り稽古を主体とした。 嘉納の頭の中では、そういった、相手を投げ殺し、締め、当て落とし、逆関節を決めるなどの荒々しく危険 な技を持っていた古流柔術から脱皮して、競技スポーツとしての柔道を当時の明治の世にアピールしたかっ たのに違いない。 明治は、もはや武士の世ではなく、武士の教養科目である柔術はその意義を失っていた。 そして、世は文明開化の時代である。この時代に生きてゆくには、武術である柔術の代わりに、万人に受け 入れられる新しい武道が必要とされた。 その時代の要求に応じて生み出されたのが講道館柔道である。 やわら 柔術・・・やわら 今、「やわら」といえば殆どの日本人が柔道の事と思っている。 しかし、「やわら」は本来、柔術のことであり、おおよその意は相手に従う、または柔らかであることによ り勝利を得る術であると嘉納治五郎本人が言っている。 よく言われることに「柔よく剛を制す」ということがある。 これは読んで字のごとく、つよいあるいはこわいものを柔軟なものが制するという意味で 決して弱いものが強いものを制するということではない。 これは言葉の矛盾があり、強いものを制すればもはや弱い者ではあり得ないからである。 前にも書いたことであるが、「武芸小伝」の記述にある「相手に従うことにより勝利を得る術」は紛れも無 く柔術のことである。 「柔術」は他にも、組討、捕手、捕縛、和術とも呼ばれ、「やわら」は、柔、和、 、拳などの字にもあて られていた。 組討は戦国以前の鎧組討の技法から出たものであり、捕手、捕縛は、犯人を捕まえ捕縛する為の技術、和術 は読んで字の如く相手の攻撃に逆らわず、和して勝つことを意味している。 柔術には様々な技法が含まれており、十手やなえし、または棒や杖などを使い、あるいは素手で犯罪人を捕 まえ、縄をかけて捕縛する技は、当時の警察官の役であった奉行所の役人により使われた。 古流柔術には、これらの技法や縄の掛け方、縛り方なども含まれていたるのである。 又、柔、和の字は、柔らかく相手の攻撃に和して勝ちを制する意味である。 これは剛に対する柔であり、決して力には力を持って対処するのではない。 柔術つまりやわらの術なのである。 柔よく剛を制するということは、現代の格闘技や柔道を見なれた人にとっては一見不思議な技のように見え る。 特に、オリンピック種目にもなった柔道は、体重によってその対戦相手が決められ、ほぼ同じような体格の もの同士が勝負を競う。 従って、小兵が大男を投げ飛ばすことはないし、今の試合を見ていると技というよりほとんど体力勝負のよ うなところがあり、柔道着を着てやるレスリングと言ってもよい。 技にしても力技であるので、体の大きさと体力で勝負が決まってしまう。 だから、体重により試合相手を分けているのである。 つまり、今の柔道は柔道にあらずして剛道とでも称すべきもので、選手はひたすら筋肉トレーニングに励 み、力をつけようとする。 このような現代の柔道を見ていると、柔よく剛を制することなどまず不可能である。 この体力勝負の柔道しか知らない現代人にとって「柔よく剛を制す」などおよそ理解出来ることではないで あろう。 おそらく、そんなことが出来るものかと誰もが考えるに違いない。 しかし、このこと、つまり「やわら」の柔よく剛を制すということは、つい明治のころまでは当り前のこと であったのである。 柔道の黎明期、姿三四郎のモデルでもある西郷四郎が明治十九年二月、警視庁に於いて戸塚派揚心流の好地 園太郎と試合をした時の様子が、西郷と同じ講道館四天王である山下義韶の手記に残されている。 西郷は身長五尺一寸、体重十四貫。これに対し好地は五尺七寸、体重二十三貫と言われていた。身長比18 cm、体重差32kgこれでは勝負にならないと誰もが思ったことであろう。 しかし、この手記によると小兵の西郷が始終、大男の好地を圧倒して投げまくった様子が描かれている。 身びいきや後年の話の多少の脚色を差っ引いても、終始、西郷が好地を圧倒して勝ちを修めたことは間違い ない。 これはほんの一例であるが、当時は小男が大男を投げ飛ばしたり、小柄な柔術家が大きな相撲取りを投げた 話などそう珍しくはなかった。 何故なら、柔術とは本来そういうものであるからである。と、そう言ってしまえば身も蓋も無いが。 では、何故、ということになる。 本来、柔術は戦場の組み討ち技からきている。 戦場において、体の大きさや体重、力などが勝負を決する場合も多かったと思われるが、反面、力だけでは どうにもならない場合もあった。 重量に於いても、鎧冑を付け、太刀を穿くと少なくとも20〜30kgになる。 もし、体重が70kgとしても実際の重さは90〜100kgになり、この重量を体重50kgの当時の平 均的な武者が、力技だけで倒すことは至って困難である。 そこで、体格や力には関係なく、敵を組み討ちで倒す様々な技術が考案された。 極めて古い竹内流などにその技法は温存されている。 それに続く江戸の太平の世には、甲冑を着けない素肌のやわらとして、更にその技術は、より洗練され、高 度なものとなったのである。 では、何故、力や体力に劣る小兵の人間が力も体格も勝る大男を制圧できるのか。 まず、至極単純なことであるが、敵の弱点を突くということである。 その第一には、鍛えられない場所、目とか金的である。眼つぶしを食らわせ、金的を蹴る。 その他の急所に当て身や蹴りを入れる。 この、当て身や蹴りは空手のように敵を壊すのが目的ではないから薪藁を突いて拳を鍛えることはない。 この場合、正確に急所に当て落とすには力はあまり関係ない。純粋に技術の問題であるから稽古を積めば女 子供でもこれはできる。 この当て身や蹴りの稽古は、拳や足を鍛えることが目的ではなく、正確に急所をあて、敵を昏倒させるため のコツを習得するためにやるのである。 もうひとつの技は、敵の関節を決め、締め落とすことである。 どんな大男でも、関節は弱点となり、これの逆をとり、押さえつけ、或いは投げることは比較的多くの流派 で行われていた。 小手返しや関節技を利用して投げる技を多用するのは、現代では合氣道があるが、おおよそこれに似たもの と思って頂ければよろしい。 又、大男を倒すには締めも有効である。 古流柔術には様々な締め技があり、これもうまく決まれば一瞬で締め落とすことができる。 当て身や締めで落とした相手は、そのまま放置するわけにもいかないから活をいれて蘇生させなければいけ ない。その為に活法も学ぶのである。 最後に投げ技である。 これこそ、柔術の醍醐味、やわらの妙と言えるもので、敵の動きに逆らわず、相手の動きに合わせて(合 気)、 柔らかく(やわら)制するのである。 例えば、敵がこちらの襟首を掴み押してきた場合、その押されるままに身を引きながら開いて、敵が体勢を 崩したときを見計らって投げればどんな敵も投げることができる。 この時、こちらも力で対抗すれば、体力に勝る相手に敵う訳がない。 敵が押して来る力に合わせてこちらも柔軟に受け流し、相手の押して来る力を利用して投げる。 この時、あくまでも体を柔軟に、動きもやわらかなものでなければ、敵の押して来る調子に微妙にうまく合 わせることが出来ない。 これが「やわら」の意味である。 このように、相手の力を利用して制圧する様々な技が柔術そのものなのであるが、これらの技は極めて高度 な技術と熟練を要するので短期間に習得するのは難しい。 そして、完璧にこの技術を習得するには、形稽古を繰り返し繰り返し行い、無意識のうちにでもこの技を掛 けられるようにならなければならない。 多くの柔術流派で共通することは、決して力に頼ってはいけないということである。 力に頼ればどうしてもこの高度な技術の習得が疎かになり、技の未熟さを力で誤魔化すこととなる。 そうすれば、いつまでたってもこのやわらの技術を習得することが出来ない為、「柔よく剛を制す」ことに はならないからである。 武士道について 新渡戸稲造 「武士道」 この著作は、武士道の崇高な倫理観と高い精神性や美質を余すところなく説明されており、西洋の騎士道に も対比できる確固とした武士の行動規範が、我が国にも存在したと主張している。 しかし、その様な武士道という確立した武士の行動規範が、実際に存在したのだろうか。 確かに幕末期、武家政治の黄昏期において、この著作に書かれているような事例は多く存在した。 今年(2013年)、NHKの大河ドラマの舞台になっている戊辰戦争の会津若松城下の戦闘に於いて、白 虎隊の自決、中野竹子指揮する娘子隊の涙橋での奮戦、家老西郷頼母の家族の自刃など、この新渡戸稲造の 「武士道」を彷彿とする事例は確かにあった。 また、江戸中期の赤穂浪士の吉良邸討ち入りも武士道が存在した証拠であるという人もいるであろう。 しかし、彼の言うように、その当時、武家階級全体を律する確立した武士道なるものが果たして存在したか といえばそうではないだろう。 江戸時代の我が国は、俗にいう三百諸侯による完全な地方分権の政治が行われており、徳川幕府による中央 集権体制ではなかった。 それらの大名は個々に領地と領民を持ち、家来も様々であった。 つまり、三百諸侯の領国は様々であり、当然、それぞれの家風は違っていたのである。 また、幕府お膝もとの幕臣、旗本や御家人、およびそれらの家士では更に武士に対する考えが違っていた。 一万石そこそこの、城もなく陣屋しか持たない大名と、加賀の前田、広島の浅野などの大大名家では、その 家風も家来の考えも違って当然と言える。 明治維新の立役者となった薩摩と長州でもその家臣の気風は月とすっぽん程違っていた。 薩摩の島津家は尚武の気風著しく、その家臣は俵剽悍無比。恐らく当時の諸侯の兵の内で最も戦闘能力が高 く、その戦場における軍法も厳格を極めたものであった。 これに対して長州毛利家はそうではない。 毛利家は関ヶ原以前は九ケ国を領する広大な領国をもっていたが、以後は防長二国に減らされた。 毛利家臣団の多くはその際帰農し、限られた重臣のみが大幅に家録を減らして狭い萩城下について行った。 その為、毛利家臣は元は城の一つも預かろうかというような大身の領主出自の者が多く、その家風は尚武と いうより、教養人、知識人としての要素のほうが強かったのである。 このように、武より教養や思想の方が重要視されていたため、いち早く尊王攘夷思想に傾倒し、倒幕運動の 中心となった。 長州兵が実戦では決して強くなかったことは、馬関戦争や禁門の変などでも、欧米艦隊や薩摩に惨敗を喫し たことでもわかる。 戊辰戦争を戦い、官軍の中心となって戦功をあげたのは、毛利家家臣団ではなく、奇兵隊に代表される百姓 町人からなる諸隊であった。 また、幕末京都の治安維持に功績をあげた新撰組は、局長の近藤勇をはじめその中核をなしたものは百姓町 人、浪人であったのは一般大に良く知られているところである。 このように、後世、武士道と呼ばれた武士の行動規範は、各大名家まちまちであったし、むしろそれは、百 姓、町人にまで及んでいたのである。 そしてその当時はこれが武士道であるいう日本全国に共通の確立した認識はなかったといえる。 元禄の赤穂浪士の場合、その前に良く似た浄瑠璃坂の仇討があり、この首謀者奥平源八は罪一等を減じられ て伊豆大島に流罪となったが、六年後には恩赦で赦免され、彦根井伊家に召し抱えられた。 また、その他にも他の大名家に仕官が叶った者もいたことから、吉良を襲撃しても死罪にはならず、もしか すると他の大名家に召し抱えられるかも知れないと赤穂浪士達が考えたとしても不思議はない。 勿論、その中心は主君に対する忠義であるが、ただそれだけであれだけの大がかりな襲撃を行ったと考える のは余りにも一方的な見方である。 また、会津松平家の場合は特別であろう。 この家は格別徳川将軍家に対する忠誠心が強く、また、松平容保が京都守護職として在京していた時、自国 の兵や新撰組、京都見廻組などを使い、多くの勤皇志士達を弾圧して彼らの恨みを買っていた。 その為、会津若松を官軍に攻められたとき、復讐の念に燃える薩長の官軍とあくまでも戦う他に道はなかっ たのである。 もうひとつ。佐賀鍋島家の家士、山本常朝が語り、田代陣基が筆録した「葉隠」の「武士道と云ふは死ぬこ とと見つけたり」の一文があるが、これもこの部分だけを切り取って全体の意味を説明していない為に誤解 されていることが多い。 これは、決して死ぬことを美化しているのでもなければ自決を勧めているわけでもない。 むしろ、「死ぐるい」、つまり死ぬつもりで全てのことを為せといっているのである。 これは、その理想像を鍋島藩祖、鍋島直茂であるとしていることから、家臣である武士に盲目的な忠義や、 意味の無い自決をすすめているのではないことがわかる。 また、この「葉隠」そのものが、佐賀鍋島家では禁書扱いとなっており、鍋島家内に於いても認められてい なかったのである。 そもそも、江戸の前、戦国期に於いては、今日云われているような、儒教的な武士道は存在しなかった。 この時代は、正に弱肉強食の時代である。 強いものが勝ち、弱きは滅ぶ。人を騙すも当り前、騙された者が悪い。どんな手を使っても勝てばよい。 人の命など鳥の羽根ほどの重さも無い。自分の得にならなければ幾度となく主を代えて当り前、何の恥じる ところもない。 まさに毛利元就のいう「これほど下り果てたり世」であった。 ここには後世云うところの盲目的な忠誠心を重んじる儒教的武士の価値観など欠片もみられない。ただ己が 生きる為の強さや狡猾さのみが求められたのである。 この様な強さや武勇偏重の武士の価値観は江戸時代初期まで続いた。 江戸時代になり、元和年間以降、朱子学によって武士の行動則を定義しようとする動きがあったが、これと て決して日本全体の武士の規範を表したものではない。 この山鹿素行らの主張は、前述の山本常朝も葉隠のなかで批判しており、けっして全国の武家に受け入れら れてはいなかった。 各大名家や幕臣諸家では、それぞれが家訓として自分の家の家士を律しており、その中に儒教の道徳を取り 入れていたものもあったという程度である。 この山鹿素行のいう儒教的な武士の道徳律が、決して武士道として全国の武士に認知されていなかったこと は、幕末、山岡鉄舟が、「中古よりあった仏教と神道、儒教を合わせた武士の行動律を武士道と名付ける」 といい、自分が初めて武士道と名付けたといっていることからも推測される。 このように、実際に武士が存在した江戸時代には、山岡鉄舟の言うように、全国的に認知された武士道なる ものはなかったのである。 ただ、それぞれの儒学者や武士自身が、それぞれの考えや価値観によって武士の行うべき様々な価値観や道 徳を武士道と言っていたにすぎない。 それを、何故、新渡戸稲造は、武士階級が消滅した後の明治32年になってこの著書を書いたのか。 そのきっかけは、ベルギーの法学大家、ド・ラヴレー氏に「あなたのお国の学校には宗教教育はない、と おっしゃるのですか」と聞かれたことによる。 このとき、新渡戸が「ありません」と答えると、「宗教なし! どうして道徳教育を授けるのですか」との 問いに答えることができなかった。 その後、彼は思索を重ね、この問いの答えが武士道であるとの結論に達したのである。 そして、この著作の直接の端緒は、彼の妻がかくかくの思想もしくは風習が日本にあまねく行われているの はいかなる理由であるかと、しばしば質問したことなのである。 このド・ラヴレー氏、ならびに彼の妻に満足なる答えを与えようと試みた結果がこの著作であるという。 この著作は、新渡戸が病気療養中、アメリカ滞在中に書いたもので、全文英文で書かれ、アメリカで出版さ れた。 翌年の明治33年に日本でも出版されたが、英文で書かれていたために余り多くの日本人の読むところとは ならなかったと思われる。 この日本語訳は明治41年に桜井鷗村によりなされたが、このとき初めて我が国民に武士道なる言葉が認知 せられ、従来、この言葉は使われてもその意味するところはさまざまであり、その価値観もいろいろと混乱 していたものがはっきり定義されたのである。 この武士道という言葉の影響は以外に大きく、明治後期に発足した大日本武徳会は、その所属する武術、す なわち柔術、剣術、弓術などを、大正初年に柔道、剣道、弓道としたことは、以前にも述べたとおりであ る。 この術から道に代えた際、この武士道に書かれているような精神性まで持ち込んだために、この道という字 が付けば、あたかも精神的、道徳的にも高い境地に至ることができるとの錯覚を国民大衆に与える結果と なった。 もともと、新渡戸が、この著作「武士道」を書いたきっかけは、外国人の学者に、日本の学校には宗教教育 がなくて、どのようにして子供達に道徳を教えるのかと聞かれたことであったはずだ。 新渡戸は、この回答は武士道であると言っているのであるが、ほんとうにそうであろうか。 既に失われた武士階級の道徳、規範である武士道をひっぱりだすまでもなく、明治の我が国には、学童、学 生の守るべき道徳があった。 それは、明治天皇の教育勅語である。 日本国民はかくあるべきという道徳は、はっきりとこの教育勅語に書かれているし、当時の子供達はこれを 暗唱していたはずである。 また、天皇陛下は最高位の神官であることから、これは宗教教育であるともいえる。 学校での教育勅語の他に、親からは厳しい躾を受け、旦那寺の僧侶や神社の神主からは、儒教、仏教、神道 による道徳を教えられていたはずで、それらは今現在我々が考える以上に日々の生活に密着したものであっ た。 その点では、欧米諸国よりむしろ日本のほうが進んでいたともいえるのではなかろうか。 これがド・ラヴレェー氏の質問に対する答えである。 では、なぜ、新渡戸はこのことを言わず、武士道を引っ張り出してきたのであろうか。 これは、明らかに、ド・ラヴレー氏の問いの答えになっていない。 ここで注意しなければいけないことは、この新渡戸稲造はキリスト教の信者であったということである。 彼にとって、異教である仏教、儒教、および神道などはとうてい受け入れられないものであった。 キリスト教信者である新渡戸にとって、異教であるこれらの日本の伝統宗教は邪教以外のなにものでもな く、神道の最高位にある天皇陛下の教育勅語も触れたくないものであったことは容易に想像できる。 そこで、宗教色のない「武士道」という概念にたどり着いたというわけであろう。 ところが、彼の生まれた幕末以来、この日本全国に普遍的に存在する「武士道」という観念はなかった。 そこで、江戸期に全国的に存在した様々な武士の思想、価値観、風習などを寄せ集めて、これが武士道であ ると主張したのである。 この著作を著しているとき、彼の頭の中にはなにがあったのか。 それは、西洋の騎士道であった。 彼の頭には常に騎士道というものがあり、それとの比較のうえで武士道を説明している。 新渡戸の言いたかったことは、日本にも、西洋の騎士道に比すべき精神的、道徳的に極めて高い境地にある 武士道が存在し、それは死さえも超越するほどの崇高なものであったということである。 この著作は、英文で書かれ、アメリカで出版されたことから、その目的は、アメリカ人に、我が日本には騎 士道にも比すべき素晴らしい武士道が存在するということを知らしめることだった。 つまり、この本は、武士道をアメリカ人に宣伝する為に書かれたものなのである。 その為に、決して嘘ではないものの、極端な誇張や粉飾が見られる。 この大げさな表現はこの武士道の宣伝とういう観点から見ると、決して非難されることではなく、むしろ、 この程度の誇張は止むを得ないことであろう。 この本が発行された明治32年は日清戦争の4年後である。 極東の小国日本が眠れる獅子と言われた清に大勝した。 欧米人は、何か特別な理由があるに違いないと考えた。 そこにこの本が出版されたのである。 さらにその後、当時最強と言われたロシアにも日本が勝ったことにより、欧米人に、日本に武士道があった からこそはるかに強力な清、ロシア両国にも勝てたのだということを納得させたのである。 当時、欧米人は日本に対して殆ど知識がなかった。そこに、我が国の武士道という騎士道にもひけを取らぬ 武人文化が存在することを世界に向けて宣伝した功績は極めて大きいといわねばならない。 このように、この著作は、一種のプロパガンダであるともいえる。 この本が、外国で読まれ、武士道に対する理解が深まることは大いに結構なことである。 しかし、明治41年に和訳されたことにより、この新渡戸の「武士道」は逆輸入されることになった。 日本人のおかしなところは、外国で評判となり人気がでると、それを無条件で称賛し、無批判で受け入れる ことであろう。 この国民性は今も明治の世も変わらないが、この著作が逆輸入されることにより、ろくに内容を検証するこ となしに盲目的に受け入れてしまった。 かくして新渡戸稲造の「武士道」は、今現在も、多くの学者や知識人にその正否の検証すらされず信奉されて いる。 前に述べた如く、新渡戸のいう完成された武士道は、江戸時代にはまだ存在しなかったということをいう人 間はあまりいない。 誤解無きように言っておくが、私は、決して新渡戸を批判しているわけでも、武士道を誤りだというつもり はない。 彼が英文で書き、アメリカで出版して武士道を欧米人の間に広く認知せしめたことは大いに是とするところ である。 この点では新渡戸稲造の功績は極めて大きい。 問題は日本語訳が出版された後の国内での扱われかたであろう。 本来、外国人向けに、誇張して書かれたものを、何の検証もなくそのまま受け入れてしまった。 その結果、後世の人達に、新渡戸の書いた武士道そのままが、武家階級全体に、普遍的に存在したかのよう な間違った認識を与えることとなった。 このことは、あくまでも後世の人達の責任であり、新渡戸の預かり知らぬところである。
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