報道はいかに事実を形成するか ‐精神障害者の犯罪とマスメディア‐

報道はいかに事実を形成するか
‐精神障害者の犯罪とマスメディア‐
著
者:
八木
真我(臨床心理学科)
指導教員:
吉村
夕里
助教授
京都文教大学人間学部 卒業論文
目
次
Ⅰ.はじめに―――――――――――――――――――――――――――――――――1
Ⅱ.目的と意義――――――――――――――――――――――――――――――――1
Ⅲ.方法―――――――――――――――――――――――――――――――――――2
Ⅳ.池田小事件――――――――――――――――――――――――――――――――2
Ⅳ-ⅰ.事件の概要
Ⅳ-ⅱ.容疑者逮捕後
Ⅴ.「心神喪失者等医療観察法」――――――――――――――――――――――――4
Ⅴ-ⅰ.触法精神障害者の処遇の変化
Ⅴ-ⅱ.「心身喪失者等医療観察法」の成立
Ⅴ-ⅲ.心身喪失者等医療観察法をめぐる言説
Ⅴ-ⅳ.「心神喪失者等医療観察法」の歴史的背景
Ⅵ.池田小事件をめぐる報道の問題-――――――――――――――――――――――10
Ⅵ-ⅰ.報道の収束
Ⅵ-ⅱ.犯人像の形成
Ⅵ-ⅲ.「宅間守=精神障害者」になぜなったか
Ⅵ‐ⅳ
犯人像形成まとめ「宅間守=精神障害者」へ
Ⅶ.考察――――――――――――――――――――――――――――――――――-16
Ⅷ.おわりに――――――――――――――――――――――――――――――――-19
謝
辞―――――――――――――――――――――――――――――――――――-19
注記・引用文献――――――――――――――――――――――――――――――――20
1
Ⅰ.はじめに
現代の日本にはじつに多くの社会問題が存在する。育児放棄,不登校,ニート,公務員
のモラルハザード,企業の相次ぐ不祥事,少年犯罪など数え上げればきりがない。そのな
かで私は精神障害者の犯罪というものに目を向けてみた。なぜなら彼らが事件を起こした
場合,過剰なまでにマスメディアがとりあげ連日ニュースやワイドショーで報道されるか
らだ。近年では大阪教育大付属池田小学校・児童殺傷事件(以下,池田小事件)が大きく
とりあげられた。報道の大半は精神障害者の「危険性」だけを強調するものであり,精神
障害者にとってフェアな報道と言えるものではなかったと思われる。
このような論調は過去にもあった。それはライシャワー事件である。ライシャワー事件
発生のときも新聞は「精神障害者を野放しにしている」と書きたてた。世論の反応も池田
小事件のときと同じく一斉に処遇について非難をした。
ライシャワー事件は 1964 年のことである。ここで私はこの 40 年以上もの間,触法精神
障害者に対しての処遇についてなんら改善されていないのではないか,もしくは見放され
ているのではないかという疑問をもった。
本研究では精神障害者の犯罪について,そしてマスメディアの動向にも目を向けて現状
の問題点を考えていきたいと思う。
Ⅱ.目的と意義
本研究は,精神障害者が犯罪を犯した場合のマスメディアの報道姿勢が,精神障害者と
世論にどのような影響を与えたかを分析するものである。
研究対象として主に 2001 年 6 月 8 日の池田小事件をとりあげ,当時の精神障害者に対
するマスコミの報道姿勢を新聞,雑誌,インターネットから分析し,犯人像形成と精神障
害者の処遇にどのような影響を与えたのかを考察する。
池田小事件に対するマスメディアのとりあげかたを分析することによりマスメディア
がいかに一過性の報道を行い,偏見に満ちた世論を形成させるのかを明らかにしたい。
触法精神障害者の処遇問題は多数議論されており,制度上の不備も指摘されている。精
神障害者による犯罪が大きくクローズアップされてきたこの現代において,その処遇問題
を考える必要性は大きいと思われる。
2
Ⅲ.方法
池田小事件についてマスメディアの報道姿勢を調べるために,新聞,雑誌,インターネ
ットなどの言説分析を行った。分析対象は,朝日新聞,読売新聞,京都新聞,毎日新聞,
AERA の 2001 年 6 月 8 日から 2006 年 6 月末までの記事である。分析は「池田小事件」
「心
神喪失者等医療観察法」「池田小事件をめぐる報道の問題」の3点に焦点をあてて行った。
Ⅳ.池田小事件
本章では,池田小事件と事件以後の経過を概観する。
Ⅳ-ⅰ.事件の概要
2001 年 6 月 8 日午前 10 時 15 分ごろ,大阪府池田市緑丘 1 丁目の大阪教育大付属池田
小学校に男が乱入し,児童に刃物で切りつけた,と学校関係者から 110 番通報があった。
被害者は当時の 2 年生 7 人,1 年生 1 人であり,計 8 人が殺害された。重軽傷者は 15 人で
ある。
逮捕されたのは大阪箕面市に住んでいた男,宅間守容疑者(37)。容疑者は乗用車で乗
り付け,一階の教室に窓から侵入。刃渡り 15 センチの出刃包丁を振り回して児童を次々
と刺し,逃げる児童を追いかけ,計 4 つの教室や廊下で児童,教諭を襲った。教室内は悲
鳴が上がり,大混乱に陥った。容疑者は教諭 2 人に取り押さえられ,かけつけた警察官に
殺人容疑等で現行犯逮捕された。
無事だった児童は校庭に避難し,教諭らが点呼,救急車が次々と校門に入り,パトカー
が数十台集まっていた。上空にはヘリコプターが飛び交い,テレビ等で事件を知った保護
者が次々とかけつけ,現場は物々しい雰囲気となっていた。
Ⅳ-ⅱ.容疑者逮捕後
宅間守容疑者逮捕後はこの異常な殺人事件の犯人が,精神障害の疑いがあるとして社会
から大きな注目を浴びた。宅間守容疑者は 99 年 3 月,職員として働いていた伊丹市立小
学校の教諭 4 人に精神安定剤入りのお茶を飲ませ,傷害罪で逮捕された(週刊 AERA,
2001)。
しかし,精神障害を理由に不起訴となり,そのあと措置入院となったが約 40 日間で退
院した。そして再び池田小での児童殺傷事件である。
3
当時の首相,小泉純一郎は「精神的に問題がある人が逮捕されても,また社会に戻って
ああいうひどい事件を起こす例がかなり出ている」と事件を起こした精神障害者の処遇を
めぐる現行の法制度に強い疑問を投げかけた。首相のこの意見表明から,厚生労働省と法
務省からなる合同検討会によってすでに開始されていた「触法精神障害者の処遇」の検討
は政治主導で一気に加速されていくことになった。
刑法改正などの方針表明 小泉首相が再犯防止で
小泉純一郎首相は九日,NHK番組の収録で,大阪の校内児童殺傷事件に関連し,精神障害者の刑事責任を問わな
い刑法などの改正の検討に政府,与党で着手する方針を表明した。首相は同日,自民党の山崎拓幹事長に対しても,
週明けから検討に入るよう電話で指示,自民党は十一日の事件対策本部会議で協議を始めることになった。
精神障害者の犯罪については逮捕されても起訴されず,精神保健福祉法に基づく「措置入院」となっても早期退院も
可能であるなど再犯防止の面で問題があるとの指摘が出ていた。
首相は番組で「精神的に問題がある人の医療法,刑法は人権の面で難しい問題があるが,逮捕されても社会に戻りひ
どい事件を起こすことが増えてきている。法的に不備なところがある」と指摘。
「安全な社会が崩れつつあることを考えると,重大な意味を持った問題」として,
「法的問題点と今後の適切な措置
をどうしたらいいかを至急,専門家の意見を聞き,不備をただしていかなければならない」と強調した。
首相は八日夜,遠山敦子文部科学相と村井仁国家公安委員長に対し,再発防止策を検討するよう指示しているが,坂
口力厚生労働相や森山真弓法相らとも今後,協議するとみられる。
犯罪を起こしても刑事責任を問えない触法精神障害者の処遇問題をめぐっては,厚生労働省と法務省が今年一月,事
務レベルの合同検討会を設置,これまでに三回の会合を開いているが,結論を出す時期などは設定していない。
(共同通信,2001/06/09 から引用)
また,文部科学大臣から下記のような緊急アピールが出され,これを契機に全国の学校
は安全管理対策に追われることとなった。
(略)今回の事件に対しましては,文部科学省全体で,今後とも,大学,学校をはじめ保護者の皆様方の御要望をお
聞きし,その対応につきましては,万全を期していく所存でございます(略)
。
今回の事件をきっかけに,まず,文部科学大臣の談話という形で,都道府県や市町村の教育委員会の皆様に,学校の
安全管理のための方策の再点検をお願いするとともに,保護者やPTAをはじめとする地域の関係団体の方々におか
れても,子どもたちの安全確保について,地域ぐるみで取り組んでいただくようお願いいたしました。学校の安全管
理の点検項目につきましては,既に平成12年1月に出しております通知をもとに,登下校時や放課後等における巡
回など,各学校,各教育委員会で,保護者・PTAや地域の関係団体の方々の御協力を得ながら方策を講じられてい
ると考えておりますけれども,再度,緊急の再点検をお願いしたところであります。
(大阪教育大学附属池田小学校事件に関する遠山文部科学大臣緊急アピール:保護者向け,2001/06/13 から引用)
4
Ⅴ.「心神喪失者等医療観察法」
本章では「心神喪失者等医療観察法」の成立経過や法案をめぐる議論を紹介する。
Ⅴ-ⅰ.触法精神障害者の処遇の変化
上記の流れを受けて,各新聞社も法制度の不備を記事にするが,刑法改正については比
較的冷静な態度を示した。当初の合同検討会においても精神医療関係者からは否定的な見
解が出され,国会では「心身喪失者等医療観察法」は継続審議となっている。しかし,巻
き返しを図った法務省・厚生労働省によって,現行の措置入院制度の問題点に関する「論
点整理」(法務省・厚生労働省,2002)が行われたこと,池田小事件の事件によって,非
処罰に対する社会感情が変わりはじめたこともあり,精神障害者に対する入院措置,麻薬
中毒者に対する入院措置,非行少年に対する保護処分に加え,新たに「心神喪失者等医療
観察法」が施行されることとなった。
Ⅴ-ⅱ.「心身喪失者等医療観察法」の成立
殺人などの重大事件をおこしても,精神に疾患があるために正常な判断ができなかった
と認められて処罰されない場合がある。そうしたケースで,事件をおこした精神障害者に
対して,裁判官と医師に二人の判断により強制的に,厚生労働省所管の指定入院医療機関
へ入院治療させるなどの処遇をさだめた法律が「心神喪失等の状態で重大な他害行為を行
った者の医療及び観察等に関する法律,2003」
(以下,心身喪失者等医療観察法)である。
同法案は,2002 年(平成 14 年)3 月に国会に提出されたが継続審議となったのち,2003
年 7 月 10 日可決・成立し,7 月 16 日に公布された。
この法律が成立するにあたっては,全国各地の当事者団体,障害者団体,精神医療従事
者団体,日本精神神経学会,元ハンセン氏病患者団体,各種労働団体,日弁連,人権諸団
体等の強い反対があったが,国会での 2 度にわたる強行採決を経て成立した。
同法で入院決定を受けた者については,厚生労働省所管の指定入院医療機関による専門
的な医療が提供され,その間,保護観察所は,その者について,退院後の生活環境の調整
を行うこととされている。通院決定を受けた者及び退院を許可された者に対しては,原則
として3年間,厚生労働省所管の指定通院医療機関による医療が提供されるほか,保護観
察所による精神保健観察に付され,必要な医療と援助の確保が図られこととされる。
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対象となる人は年間 300 人と予測され、全国で 24 ヶ所の「指定入院医療機関」に,そ
れぞれ 30 床の専門病棟を新設することになっていた。しかし,法律施行時点においても,
触法精神障害者が近隣に来ることに不安を抱く地元住民らの反対運動により,工事に着工
しているのは 3 ヶ所のみ,そのうちほぼ完成しているのは 1 ヶ所だけという非常事態のな
かで,2005 年 7 月 15 日に施行された。
池田小事件を機に精神障害者の犯罪に対する国民感情は,法案の成立という点では促進
要因になったが,施行時においては「指定入院医療機関」の設立に反対という阻害要因と
なった。つまり,健常者の,「危険な精神障害者が来るかもしれないという不安感」「精神
障害者への嫌悪感」が露骨に表れる形となった。
Ⅴ-ⅲ.心身喪失者等医療観察法をめぐる言説
心神喪失者医療観察法案にはさまざまな問題点が指摘されており,当事者をはじめ多く
の識者から反対の声があがっていた。たとえば,以下のようなものである。
心神喪失:医療観察法案に批判の声 日弁連の意見交換会
重大事件で心神喪失などを理由に不起訴や無罪となった場合の処遇を定めた「心神喪失者医療観察法案」につい
て,日本弁護士連合会主催の意見交換会が 10 日,東京都内で開かれた。
交換会では,弁護士などのほか国立病院の職員や法務省の労組幹部から「医学的にも予測が困難な『再犯のおそ
れ』を根拠に無期限の強制入院を認めるのは人権侵害だ」
「保護観察所は(人員不足から)ボランティアの保護司
に支えられている状態で,通院治療者の生活指導は十分にできない」なとど批判が相次いだ。
今後,関係団体が緊密に連携し,5月の連休明けの法案審議入りに向け,国会議員への要請や大規模な市民集会
で世論を盛り上げていくことを決めた。
(毎日新聞,2002/04/10 から引用)
<新法>「心神喪失者医療観察法案」に医療現場からも批判の声
(略)日弁連刑事法制委員長の岩村智文弁護士が「法案は対象となる精神障害者がどんな治療や支援を受けられ
るかの具体策を先送りしたまま,隔離だけを認めるものだ」などと指摘。患者の立場から大阪精神医療人権センタ
ーの山本深雪事務局長も「被害者の応報感情だけで法律をつくれば,被害者,加害者双方が孤立するだけだ」と述
べた。
(略)
さらに全法務省労組の田中浩・中央執行委員が「保護観察所は今の業務でさえ,ボランティアの保護司に支えら
れているのに,通院治療する対象者の生活指導などを抱えることになり,全国の職員から不安が出ている」と発言。
入院先となる国立病院の職員や精神保健福祉士など医療関係者からも批判が続いた。
(毎日新聞ニュース速報,2002/04/11 から引用)
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「人間でないと宣言された」=医療観察法案採決に抗議の声」
心神喪失状態で重大犯罪を行った人をめぐる医療観察法案が参院法務委員会で強行採決された3日,法案に反対
する精神障害者や精神科医らが厚生労働省で記者会見し,
「精神障害者は人間でないと宣言された」と怒りをぶつけ
た。
京都市の精神科医高木俊介氏は「再犯の予測に基づく拘禁は許されないのに,精神障害者だけ医療だからと許され
るのか。こういう法律ができると精神障害者が危険だという偏見ができ,地域への移行ができなくなる」と批判。
足立昌勝関東学院大学教授(刑法)は「マイノリティーをマジョリティーから切り捨てる法案だ」と指摘した。
」
(時事通信,2003/06/03 から引用)
「
「まるで危険ごみ扱い」 精神障害者団体,怒りの会見」
「まるで危険物のごみを病院に閉じ込めるような法案だ」
。心神喪失者医療観察法案が参院法務委員会で強行採
決された三日,精神障害者団体のメンバーが厚生労働省で記者会見し,怒りに声を震わせた。
「全国精神病者集団」の長野英子さんは「国はずっとわたしたちを厄介者として隔離し,人間扱いしてこなかっ
た。そしてまた(法案で)人間でないと宣言した」と強行採決を批判。
「わたしたちには街に居る権利がある。提訴も考える」と憤った。 関東学院大法学部の足立昌勝教授は「医療従
事者でもない検事や裁判官に,申し立ての必要性や鑑定入院命令を判断する能力はない。法案は重大な問題を内包
している」と反対する刑法学者三十人の意見を発表。 「マイノリティーを切り捨てる法案だ。決して参院本会議
を通してはいけない」と話した。
(了)
」
(共同通信ニュース速報,2003/06/03 から引用)
心神喪失等医療観察法案の参議院法務委員会における強行採決に対する抗議声明
DPI(障害者インターナショナル)日本会議 議長 山田 昭義
精神障害者の権利を踏みにじり,精神障害者に対する差別を固定することにつながる「心神喪失者等医療観察法案」
が,6月3日の参議院厚生労働・法務連合審査会において十分な審議が尽くされないまま,与党の賛成多数で強行
採決された。この法案は,かねてより障害を持つ当事者だけではなく,医療関係者ならびに司法関係者等この分野
に係わる多くの関係者から法律としての必要性に疑義が呈され,さらにその内容には精神障害者に対する差別と偏
見に基づく条項が多々含まれているという指摘がなされてきた。この法案は,再犯のおそれがある精神障害者に対
する強制的な入院を骨子とするものであるが,そもそも再犯の予測そのものが成立するという根拠が全くない状況
の中で,こうした法律を制定しようとすることは,精神障害者は危険な存在であるという誤った認識に基づくもの
でしかなく,日本の社会に根強くはびこっている精神障害者に対する偏見を助長するものに他ならない。こうした
批判や指摘が数多く提起されているにもかかわらず,実質的審議が十分に行われないまま,6月3日法務委員会に
おいて強行採決し,実施に移そうとすることは精神障害者をより一層厳しい差別的状況のもとに置こうと
するものであり,断じて容認することはできない。私たち DPI 日本会議は障害種別を超えた当事者組織として,
今回の強行採決という暴挙に対して強く抗議するものである。
(DPI:障害者インターナショナル日本会議,2003/06/04 から引用)
以上の記事では,反対論者の主張としては「再犯可能性予測のもとでの拘禁は人権侵害
にあたる」
「退院後のフォローに問題がある」などがあげられている。では,今回の法律が
施行されるまでの精神障害者の犯罪に関する議論にはどのようなものが存在したのであろ
うか。以下に「心身喪失者等医療観察法」の歴史的背景を分析する。
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Ⅴ-ⅳ.「心神喪失者等医療観察法」の歴史的背景
精神障害者の犯罪をめぐる議論は,池田小事件よりも 30 年以上前の 70 年代に起こった
刑法改正議論から継続して存在するものである。反論者の主張は,①「再犯予測性」の不
可能性を指摘するもの,②精神医療と社会復帰対策の充実によって精神障害者の犯罪は予
防可能であるとするもの,などがある。他方,推進論者の主張は,①殺人などの重大な犯
罪行為を行ったにもかかわらず,精神障害を理由に司法による責任追及が行われないのは
不当であるとするもの,②措置入院の制度は,再犯を防止にするためには充分ではなく,
この事態に対応するためには,刑罰に代えて保安処分を科することが出来るようにするも
の,などである。
1974 年に,法制審議会が,禁固刑以上の犯罪を行った精神障害者について保安上必要と
認められる場合に,保安施設に収容し必要な措置を行う治療処分と,アルコール,薬物依
存者等に対し保安施設に収容する禁絶処分の 2 つの保安制度処分を盛り込んだ改正刑法草
案を提案したが,
「人権侵害」
「再犯性予測不可能」
「保安施設では治療関係の成立が難しい」
ということを理由とする日本精神神経学会,日本弁護士連合会などの反対論者により,実
現しなかった。
その後 1981 年にも法務省が,対象者を六罪種(殺人や強盗,強姦,放火,略取誘拐,
強制わいせつ)限定にした保安処分制度を提案したが,これも反対が強く実現には至らな
かった。しかし,その後も,重大な犯罪を行った精神障害者の再犯を防止するために,特
別な処遇制度を設けるべきであるとする要望が,日本精神病院協会などを中心に強く出さ
れ,1999 年の精神保健福祉法の改正にあたり,衆参両院委員会において,「重大な犯罪を
犯した精神障害者の処遇のあり方については,幅広い観点から検討を行うこと」という付
帯決議が全員一致で採択された。これを契機に,2001 年に務省,厚生労働省による合同検
討会で国会決議のありかたを検討していたところに,池田小事件という衝撃的な事件が起
こり,事件後,これを契機に「心神喪失者等医療観察法」を作成,そして成立という流れ
となった。
70 年代からの経緯をみると,池田小事件が起こるまでは,保安処分の性質が強い法案は
ことごとく反対され先送りされてきたことがわかる。では「心神喪失者等医療観察法」成
立以前はどのような制度で対応してきたのかを振り返ってみたい。
「心神喪失者等医療観察法」成立以前は,
「責任無能力による無罪,又は,限定責任能力
により執行猶予付の有罪を受けたもの」「精神障害によって不起訴処分を受けたもの」「検
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察等による通報を受けたもの」
「自他障害のおそれがあるもの」は,措置入院制度によって
対応されてきた。この制度は早期精神医療による治療に優れており,行政的判断による医
療面を重視したものとされる。治療は原則として閉鎖病棟や隔離室など行動制限を伴うこ
とがほとんどであるが,精神症状の有無によっては,行動制限を速やかに解除する必要が
ある。一方,措置入院の制度運用の実態については以下のような問題が過去から指摘され
てきた。
第一の問題は,措置入院患者数の異常な増減と,措置入院患者数や措置入院期間の地域
格差の存在である。たとえば,昭和 30 年代から 40 年代にかけて精神病院が公費補助を受
けて大増設され,昭和 33 年に 4 万4千床だった病院数は昭和 45 年には 25 万床となり,
措置入院患者も昭和 40 年代の公費化に伴い,昭和 45 年は 7 万 6 千人となっている。これ
は平成 17 年度の措置入院患者数が 2000 人であるのに対して,実に 38 倍もの数である(厚
生労働省,2005)。また,厚生労働省の 1999 年度患者調査によると措置入院は都道府県別
にみた人口比の患者数に 14 倍の開きがある,措置入院期間についても 20 年以上の患者が
ゼロの府県もあれば,70%を占めるところもあるなど,制度運用に極端な地域格差が存在
する(厚生労働省,1999)。この背景としては,家族事情や低所得者層の経済的負担を軽
減させ公費負担で患者を入院させるため,措置入院に該当する自傷他害の症状がなくても
診断書上は措置症状があるとする「経済措置」が 1995 年の制度改正まで一般的に実施さ
れてきたこと,措置入院の基準の解釈が地域性や個々の医師の判断によって異なることが
あげられる。
「経済措置」は財政的に貧困な府県で多く行われたために,措置入院の比率は
地域的に偏在していき,経済措置の多い処は,人口あたりの精神科ベッドの数も多いとい
う状況となっている。
第二の問題は,措置入院患者のうち,措置期間が 20 年以上を占める患者の多さである。
たとえば,前述した 1999 年度患者調査によると、措置入院の患者は全国で 3472 人。うち
措置期間が 20 年以上の患者は 1812 人と全体の 31%にのぼる(厚生労働省,前掲)。この
背景には,措置症状が消失した後も,家族や地域の事情により退院させることが困難とな
り,結果的に無期限の拘束が行われている事例が存在することがあげられる。
このように,日本における措置入院制度には,必ずしも当該精神障害者の症状だけに照
準をあてて運用されていたわけではない。措置入院制度は実質的に「家族への経済援護」
「低所得者層対策」や「保安処分」の代替としても機能してきたというひずみが認められ
る。そして,措置入院の適正な運用が叫ばれ,措置入院患者数は結果的に減少し続けてい
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くこととなる。
他方,措置入院の解除をめぐる問題が存在する。たとえば,「責任無能力による無罪,
又は,限定責任能力により執行猶予付の有罪を受けたもの」
「精神障害によって不起訴処分
を受けたもの」「検察等による通報を受けたもの」「自他障害のおそれがあるもの」すべて
が措置入院になるわけではない。「知事が不必要と判断した場合」「2 名の指定医に不必要
と判断されたもの」
「医療機関が受け入れを拒否した場合」は任意入院,医療保護入院にな
るケースが多い。任意入院は本人が退院したい場合,原則退院させなければならない。医
療保護入院は,強制入院の一種であるが,病院側が不必要と判断し,保護者が引き取りを
承諾すれば退院させることが出来る。また措置入院一般の在院日数は,通常は 1 月程度,
殺人などの重大犯罪でも 2 年程度というように,あまり長くないといわれる(町野,2005)。
このことについては医療機関がやっかい払いしているという非難があるが,それが措置入
院制度自体の限界であるという精神医療関係者の指摘もある(山本,2005)
このような事例においては,措置入院制度は,重大な犯罪を行った精神障害者の再犯防
止のために活用されているわけではない。措置に該当する症状がなければ,極端な話し,
重大犯罪を行ったとしても,1 週間で退院できる。その後,再犯したとしても,精神保健
指定医に責任の所在はない。知事が責任のすべてを負ってくれるのだろうか。これでは重
大な犯罪を行ったにもかかわらず,司法の関与なしに,医療のために病院に送られるだけ
では,健常者が犯罪を犯した場合との間に不均衡があるだけではなく,被害者感情に配慮
していないという点で不当であるという批判が起こっても不思議ではない。精神障害者に
司法的な処分を盛り込んだ「心神喪失者等医療観察法」はこのような批判に幾分か答えた
ものであるといえる。
しかし,この法案に対し,再犯の危険性を根拠に拘禁することは憲法に違反し,精神障
害者が危険な存在でという偏見を助長させるという懸念もあった。反対論者からは,
「法案
は,重大犯罪に当たる行為を行った精神障害者を対象としているが,その発想は,罪の償
いにある。償いは過去に対応するものであって,未来に対応するものではない。
「社会安全
の確保」を図りたいならば,精神障害者のクライシスコールを早く発見できるような医療
体制を構築するべきである。そのためには入院中心の精神医療体制を解体し,地域の医療
を充実させるべきである」(足立,2002)と主張している。あくまでも,触法精神障害者
の処遇は医療面で対応していかなければならないことを強調している。司法が関与するこ
とによって治療ではなく制裁の意味を含めての拘禁・隔離を懸念しているのだ。
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「心神喪失者等医療観察法」に賛成・反対論者に共通するのは,
「適切な医療を保障する
という前提がなければ,保安のための隔離・拘禁を正当化することはできない」というこ
とである。それは当然で納得のいく主張である。しかし,反対論者の医療のみにおいて対
処するという主張は限界にきているのではないか。医療面や司法面からではなく被害者の
立場から考えると,責任無能力者には刑事処分が不可能なら,彼らには何らかの処分がな
されなければ納得できないのではないかという議論がある。町野が「確かに,保安処分が
できれば,社会の側の応報感情,被害者の感情,犯罪を行った人間が依然として社会のど
こかで放置されていることについての社会の反感は,ある程度慰撫され,危険感も払拭さ
れるということはあるだろうと思われます」(町野,2005)と説明しているように,残虐
な犯罪行為を行った精神障害者に対する,被害者の感情や世論の反応は無視できない。
「心
神喪失者等医療観察法」成立にあたっては,池田小事件での犯人に対する,世論の報復感
情が影響したと考えられる。精神障害者の権利よりも,犯罪被害者に重点を置く現在の社
会の風潮が,反対論者の主張を退ける結果となった。
Ⅵ.池田小事件をめぐる報道の問題
本章では,池田小事件をめぐる報道の問題を「報道の収束」「犯人像の形成」「宅間守=
精神障害者になぜなったか」に焦点をあてて分析する。
Ⅵ-ⅰ.報道の収束
残虐非道な池田小事件はマスコミをはじめ多くの国民に非常に大きな衝撃をもたらし
た。この事件をきっかけに,部外者の学校への立ち入りを厳しく制限したり,警備体制を
強化したりした。監視カメラの設置や集団登校や防犯ベルを児童に持たせるなどの対策も
とられた。この事件は日本の学校が「地域に開かれた学校」から安全対策重視の「閉ざさ
れた学校」に方向転換するきっかけとなった。
以上の経過から池田小事件をめぐる報道は,「容疑者の精神障害」と「学校の安全管理」
についての 2 点に焦点化され,新聞の論調は次第に「学校の安全管理」「被害者対策」を
扱うものに収束していったと分析できる。その一方でこの事件はもうひとつの大きな影響
を施策に与えている。それは前述した精神障害者の処遇についてである。
しかし,新聞報道は心神喪失者医療観察法をめぐる反対論や推進論については「冷静」
「中立的立場」を貫き,大衆誌やテレビはその間隙を縫うようにワイドショー的な興味と
11
して宅間容疑者の性格分析に流れていった。その結果,宅間被告の犯人像が形成され,そ
の犯人像があたかも精神障害者一般の性格として流布されていく。このように報道がマク
ロの視点を離れて大衆的な興味・関心に傾くというミクロの視点に中心化されてしまう現
状にこそ,報道姿勢の問題が存在すると思われる。では,宅間被告の犯人像は如何にして
形成されたのかに焦点をあてて以下に分析を試みる。
Ⅵ-ⅱ.犯人像の形成
ニュースの要素は 5W1H といわれ,
「いつ(when)」
「どこで(where)」
「だれが(who)」
「なぜ(why)」
「どのように(how)」
「何をした(what)」を盛り込まなければならない。
事件の場合は,事件発生(遺体発見)の時点で明らかにされるのは「いつ(when)」
「どこ
で(where)」
「どのように(how)」
「何をした(what)」のみである。
「なぜ(why)」は不
十分ながら,犯行手口や犯行声明文等から一部推測することができるものの,「だれが
(who)」は犯人逮捕の時点まで知ることはできない。欠落した「だれが(who)」に対し
てニーズが非常に高くなり,これを埋めようとさまざまな手段が採られることになる(小
城,2004)。
「だれが(who)」の代替情報としては,第一に,警察の捜査リストや行動確認が行われ
ている不審人物などの,警察の捜査状況からなる情報。第二に,識者による犯人像の推測
がある。第三に,住民等による目撃証言がある。事件現場の住民は,日ごろの地域を熟知
しているため,事件発生に伴う非日常的な要素を目撃している可能性が高い。
池田小事件の場合は,現行犯逮捕だったこともあり,犯人が誰であるかを特定すること
も簡単なことであった。ところがこのマスコミ各社の報道が問題となる。速報を急ぐあま
り,逮捕直後の容疑者の発言を鵜呑みにし,その一部分を誇大拡張し連日垂れ流した。強
調され報道されたのはニュースの要素 5W1H ではなく,宅間守が精神障害者の可能性があ
るという「性質(character)」であった。
Ⅵ-ⅲ.「宅間守=精神障害者」になぜなったか
池田小事件の報道においてとりあげられた宅間守の言説は,逮捕直後と逮捕から数日後
では表1のような変化が見られる。どちらにも共通するのは,容疑者の言説の「異常性」
に着目している点である。逮捕直後には「阪急池田駅前で 100 人ほどをめったざしにした」
など,他害行為への異常な執着と,「事件前に精神安定剤を 10 回分飲んだ」「小学校へは
12
行っていない。その後は覚えていない」など,心身喪失状態であることをにおわす言説が
報道されている。
逮捕から数日後には,
「病気を装えば,言い逃れできると思った」
「精神障害者やったら,
何をやっても罪にならんのや」など,心神喪失状態が詐病であったことをうかがわす言説
が報道されて,容疑者の異常な性格を描写する形に変化していく。つまり,逮捕第一報と,
逮捕数日後の報道には落差が存在するわけだが,この落差を埋めるストーリーは報道の送
り手と受け手により,実際はどのように構成されたのであろうか。たとえば,
「逮捕直後の
マスコミ報道は容疑者の言説に踊らされた錯誤もしくは誤報であった」という単純なスト
ーリー構成が可能であるが,「宅間守」をめぐる実際のドラマではそうはならなかった。
では,報道の送り手と受け手は,第一報とそれに次ぐ報道との落差のなかに,どのよう
なストーリー構成を行い,どのようなドラマを共有したのであろうか。また,そのストー
リーの構成は精神障害者一般にどのような影響を及ぼしたのであろうか。この点について
以下に分析する。
表1.マスコミが発表した宅間守の発言
逮捕直後
「阪急池田駅前で 100 人ほどをめったざしにした」
「事件をおこすことを,前日に決意した」
「小学校へは行っていない。その後は覚えていない」
「事件前には薬物を飲んでいない」
「事件前に精神安定剤を 10 回分飲んだ」
「病気を装えば,言い逃れできると思った」
逮捕から数日後
「精神障害者やったら,何をやっても罪にならんのや」
「すべてがうまくいかなくなり,まわりの人間を困らせ
るために大きな事件を起こそうと思った」
各社が第一報で伝えた「事件前に大量の精神安定剤を服用した」「阪急池田駅前で 100
人ほどめったざしにした」などの容疑者の供述は,触法精神障害者に対する法制度の隙間
を衝いて,罪に問われないようにするための意図的な発言であったことが,後の発言から
うかがえる。まず,第一報により国民の多くに,
「宅間守=精神障害者」というイメージが
刷り込まれる。次いで,マスコミは宅間守の「性質(character)」を大きくとりあげた。
宅間守の「異常」な「性質(character)」に関する報道が次々の流されることにより,
「精
神障害者=異常な性質」というさらなるイメージが刷り込まれたのではないか。その結果
「宅間守」の異常な性質とその背景が報道される度に,それは精神障害者一般の性格特徴
のように受け手に解釈され,犯罪とは無関係に暮らす精神障害者たちが,見過ごすことが
できない誤解や偏見を受けるという報道被害にあうことになったと思われる。
13
このように,マスコミの第一報は一種の誤報であるのにもかかわらず,その後,国民に
は「宅間守=精神障害者」というイメージを形成させることになった。その要因をメディ
ア要因と受け手側の要因の 2 点にしぼって示したい。
ⅰ)メディア要因
ⅰ)-ⅰ.センセーショナリズム⁽¹⁾と議題設定効果⁽²⁾(agenda-setting effects)
「マスメディアは報道機関として社会的な巨大権力をもった存在であるとともに,一方
では営利団体であるために,事件の客観的な報道よりも,視聴率や販売部数の向上など受
け手の関心を引くようなユニークでセンセーショナルな側面を強調した報道になることが
多い」
(小城,2004)。池田小事件では,児童を 8 人殺傷したという内容の点ですでにセン
セーショナルである。それと同時に提示の仕方も受け手の興味を引くような派手なものと
なる。しかし,そういったものを優先した報道は正確性によりもインパクトが重視され,
裏づけのない不確かな情報でも大々的に報道されるため誤報の温床になりやすい。
事実,触法精神障害者の処遇の不備をとりあげ,宅間守容疑者の逮捕直後の言動を大き
く報道し,さらに 2001 年 4 月の浅草事件,2000 年 5 月の西鉄バスジャック事件や 99 年
7 月の全日空機ハイジャック事件などと関連づけ,精神障害者が起こした事件ということ
を強調して扱った。数日後に容疑者の言動が刑を逃れるための「うそ」であることがわか
り,徐々に報道内容は変化していった。結果的にマスメディアは大々的に誤報を流した形
となった。
池田小事件と精神障害者を結びつけ事件を積極的に報道したことで、精神障害者は凶悪
犯と同列となった。このようにマスメディアが積極的にとりあげ,強調した報道内容は受
け手から重要なものとみなさる。このような効果を議題設定効果(agenda-setting effects)
という。マスコミがこのような形の報道姿勢をとったことで,犯人像形成を煽動したと指
摘できるのではないか。
ⅰ)-ⅱ.他社との競争
当初,池田小事件は精神障害者の事件として扱われていた。容疑者がそれをにおわす発
言をしていたためである。同業他社がその発言をとりあげると,事件と無関係であったと
しても,他社に遅れまいと同じ情報を追跡したり,他社を出し抜こうとしたりよりセンセ
ーショナルな情報を提示しようとする。受け手の関心が高いのに情報の進展がないという
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状況で毎日報道しなければならないという状況が,池田小事件の犯人が精神障害者のしわ
ざという根拠のない情報が当初報道され続けたのも,他社の動きを意識しての結果である
と考えられる。
ⅰ)-ⅲ.識者の影響力
識者は,専門的知識を豊富に持っていると一般的に認知されている。したがって,その
領域に関するメッセージの送り手として,信憑性が高く,一般人に対しては説得力を持つ
こととなる(今井,1996)。「Hovland&Weisis(1951)の行った説得と態度変容の古典的研
究では,記事のニュースソースとなっている人物の専門性が高ければ,受け手は唱導され
た方向へ態度変容しやすいことが明らかになっている」(小城,2004)今回の場合でいえ
ば,
「精神科医」や「犯罪心理学者」などの肩書きが,彼らの発言を,根拠のあるものだと
保証する役割を果たし,受け手に対し報道内容や発言を信じやすくさせたといえる。
彼らが精神障害者の犯罪や犯人像を語れば語るほど,世論はそれに飲まれていくのであ
る。
ⅱ)受け手側の要因
ⅱ)-ⅰ.情報のニーズ
「人々は,重要な情報には能動的に接触しようとする」
(池田,1988)。今回の事件では
5W1H のうち欠けている情報はなかった。これにより,受け手のニーズは容疑者の「性質
(character)に集中した。近年,犯罪者の生育歴や性格など,どのような人間が犯罪を行
ったのかという情報を受け手が求める傾向にあり,マスメディアは受け手のニーズに応え
ようと積極的に宅間守の「性質(character)」を報道した。また受け手も様々な情報のな
かで「性質(character)」に関する情報に関心を抱き,選択的に抵触したと考えられる。
これにより受け手側にもこの事件が,精神障害者が起こした事件という印象を強くもつ結
果になったのではないか。
ⅱ)-ⅱ.センセーショナリズム煽動要因としての受け手
マスメディアは常に犯罪に関する事実を伝える義務がある。通常,出来事が発生してか
らマスメディアが報道し、国民に知らされるという一方向のコミュニケーションが作り出
される。受け手は観客となり自らの匿名性を保持しながら,提供される情報を消費する。
池田小事件のような猟奇的事件は,センセーショナリズムの格好の対象である。よってマ
スメディアの提示の仕方も,受け手の関心を引くように,演出されドラマ化される。
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池田小事件では,宅間守容疑者の逮捕時のふてぶてしい顔を何度も流し,過去の凶悪事
件と関係づけ,精神障害者は危険というイメージを抱かせたうえで,触法精神障害者の処
遇の不備を国民に問いかけたり,連日被害者の生前の様子や苦しみを切実に訴え,容疑者
に対する憎しみを助長させたりした。凶悪な人間が,何の罪もない子供を虐殺したという
ストーリーが毎日,テレビで放映された。観客となった受け手は,現実の事件であるにも
かかわらず,見世物として構成された事件を鑑賞し,ストーリーを無責任に楽しむ。
一方的に情報を受けているだけの受け手は,一見,犯人像形成に関与していないように
感じられるかもしれないが,間接的にセンセーショナリズムを煽る要因として作用してい
る。
「マスメディアの(特にテレビ)の使命は受け手を飽きさせないことである」(佐藤,
1994)。気が向いたときだけに興味のある事件を視聴する観客(受け手)は,常にドラマ
の展開をもとめ,マスメディアはその好奇心・興味に応えるべく次々に情報を提供しなけ
ればならない。一方的な情報の受け手でありながら,送り手側に対し,新しい情報を提供
するようにプレッシャーを与えている。情報の正確さよりも,インパクトの強い情報を報
道させる要因として作用しており,池田小事件での犯人像形成の一端を担っていたと考え
られる。
Ⅵ‐ⅳ.犯人像形成まとめ「宅間守=精神障害者」へ
池田小事件における当初の誤った犯人像の形成は,送り手であるマスメディアの責任と
して批判されることが多いが,送り手と受け手との相互作用によるものである(図1)。
送り手は,視聴者や読者の興味を引くような事件をとりあげ,客観的な事実よりも受け
手が満足するようにセンセーショナルな側面を報道する。さらにその報道の信憑性を高め
るために,識者の意見をとりあげ,世論を誘導する。そして,このようなマスメディアの
流れを間接的に煽動しているのは,紛れもなく視聴者などの受け手である。
マスメディアで情報量が多いものは,人々の認知の中で強固な犯人像を築き,類似した
情報の発生・流布を促進させる。単に同一の情報を複数のメディアが反復しているに過ぎ
ないのだが,情報量の多さが見せかけの客観性と重要度を構築していったと指摘できる。
したがって,宅間守が精神障害者一般のイメージとして形成され,世論の多くに認知さ
れたのは,マスメディアの報道と受け手との相互関係によって作り上げられたと分析でき
る。
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池
<送り手
田
小
マスメディア>
事
件
<受け手
視聴者・読者>
・センセーショナルな面を強調し
・「性質(character)」に関す
た報道
る情報に関心
・受けてのニーズ優先,根拠なき
・センセーショナリズム煽動
情報が錯綜
・新しい情報を要求
・識者の説得効果
宅間守の犯人像形成=精神障害者一般の性格として流布
・精神障害者は野放し・危険な存在・やっかい者
図 1.犯人像形成の流れ
Ⅶ.考察
以上,本研究では,「池田小事件」「心神喪失者医療観察法」「池田小事件をめぐる報道
の問題」の3点に焦点をあてて,マスメディアの報道姿勢を分析してきた。
「池田小事件」については周知のとおり残虐な事件として,多くの人々に記憶されてい
るであろう。しかし,あくまでも凶悪事件としての記憶だけで,この事件により法改正が
なされたことや精神障害者の方々に不当な差別等に影響を与えたことまでは多くの人が認
知していない。現在この事件が語られるのは,「被害者の方々の近況」「学校の安全・社会
の安全」について述べられる時ぐらいである。事件から 5 年ということもあり朝日新聞で
は特集記事⁽³⁾が組まれたが,精神障害者に関しての記事はない。これは,「容疑者の精神
障害者」から五年間で「学校の安全」へと,この事件の性質が変わったといえる。
「心神喪失者医療観察法」については現在も批判はあるのだが,成立してしまったのは
致し方ないところがある。自分自身が癒されていない被害者遺族に,精神障害を含めて加
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害者の苦しみを理解せよというのは,無理な話である。この法案はまさに,被害者感情や
社会の応報感情に応えたものであり,平行線をたどっていた議論に,一応の決着がされた
といえるのではないか。もちろん措置入院制度の時と同様問題も抱えている。入院の要件
である「再犯の危険性の予測」は不可能であるし,精神障害の症状がなくなったとしても
重大な犯罪を行ったということで,制裁という観点で退院を許可されず,入院が継続され
ることは,治療なき拘禁という不当な扱いを受ける可能性がある。完璧な法律はない。今
後も精神障害者と健常者が議論し考えていかなければならない課題である。
最後に,マスメディアの報道について言及する。マスメディアには事実を報道するとい
う大前提がある。事実の取捨選択はメディア側がしなければならなく,視聴者や読者はそ
の選択をメディアに一任するしかない。そして,第一次の選択行為が多様であればあるほ
ど,第二次の取捨選択ができることになる。事件では精神障害者の犯罪が大きな問題とな
った。この手の問題は過去にもあったけれども,詳しく報道されてこなかった。
しかし,この事件は,精神障害者の犯罪+児童 8 人を虐殺したという事象に報道価値が
付随した。これまでは報道価値を持たなかったことが,視聴者や読者の関心という大きな
価値をもったことによって報道が過熱することとなった。人々が関心を持つということが
ニュースと定義されるならば,仕方がない。しかし,その帰結として,
「他の精神障害者や
健常者の事件どうなのか」
「精神障害者の権利」
「心神喪失者等医療観察法成立による弊害」
などの視点や思考が,
「精神障害者はどうしようもない」
「キチガイは死ね」
「人を殺しても
無罪になる不公平感」などの罵倒や悲憤で掻き消えてしまう。これではメディアは社会に
とって有益なものを提供するどころか,社会の深い思考を抑制する存在になるのではない
か。ニュースは国民が知りたいことを優先すると定義するならば,視聴率でニュースの内
容を決めることは,正当なことである。しかし,池田小事件の報道のように,健常者が精
神障害者に憎悪を抱かせてしまうような状況をメディアが作りあげては,その存在に意味
はない。
6 章で述べたように,宅間守が精神障害者一般のイメージとなったために,健常者は
精神障害者に憎悪を抱いた。その証拠に以下のようなことが起こっていた。憎悪の一端は,
以下の報道やインターネット上の書き込みから推察できる。
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学校乱入殺傷:大阪のNPOに精神障害者への中傷電話
大阪教育大付属池田小の乱入殺傷事件に絡んで、精神障害者や弁護士らでつくるNPO法人「大阪精神医療人権セ
ンター」
(大阪市)に、精神障害者を中傷する電話がかかっていることが13日、分かった。事務局長の山本深雪さん
は「すべての精神障害者を危険視した感情的な反応。精神障害者を敵対視した一部の報道が一因」と批判している。
事件後、無言電話も含め8件の電話があった。いずれも匿名の男性で、
「
(精神障害者は)死刑じゃ。静かにしとら
んかい」
「人殺しばかり助けてどないするんや」などと一方的に話したという。
精神科医の名越康文さんは「ストレスを抱えた大衆が閉そく感を払しょくするために、マイノリティーへ攻撃的に
なる歴史は繰り返されている。冷静に状況を見つめてほしい」と話している。
(毎日新聞 2001/6/14 から引用)
特集・私たちはキーサンと生きたい より一部抜粋
・基地外は死ね 投稿者:kithigai 投稿日:6 月 8 日(金)基地外は死ね(原文のまま)
・満足かよ!!!!! 投稿者:裏社会 投稿日 6 月 8 日(金)人権保護団体のみなさん~中略~キチガイを守るこ
となどと,ふざけたことやるなら,死ね。殺された子供たちや遺族の気持ちを考えろ。
・この世の正義も当てにならぬ 投稿者:気狂いに明日はない 投稿日 6 月 8 日(金)俺は自分の家族と財産を守る
ために,お前ら気狂いを断固として差別する。
・差別と区別は違う 投稿者:宅間守 投稿日:6 月 9 日(土)精神障害者はまともな人間と同じ
空間にいてはいけない。島流し,というか,離島に精神障害者専用の住居を作りそこで暮らすべし。
(以下省略)
・
(無題)投稿者:怒 投稿日:6 月 9 日(土)精神障害者は全員,各都道府県の公安委員会,警察に登録し住所氏名
を公開せよ。犯罪を犯した精神障害者は全員社会から完全に,障害隔離せよ。
(
「精神病」者グループ ごかい ホームページより引用)
一概にマスメディアだけの影響で以上の状況が生じたと決めつけることはできないが,
マスメディアや視聴者が被害者への過剰な感情移入をしているのは間違いない。今の潮流
は被害者や遺族が抱く加害者に対しての憎悪の領域ばかりが突出している。みんなで許せ
ないと合唱すれば,カタルシスが得られるからだ。そして,加害者に対しての憎悪は善意
からなるものである。善意のつもりが憎悪になっているということは,多々ある。最近の
典型的な傾向は,まさに被害者への善意が加害者への憎悪にあっさりと転換することであ
る。上記した中傷電話やホームページの書き込みを行った人にも悪意はない。「私たちは,
被害者がかわいそうと思ってやっているのだ」と。
このような世論を作ったうえで法改正へと進むわけである。専門家や当事者以外の大半
の健常者は賛成,反対との意志をもつことなく,自分たちの応報感情を満たしてくれるも
のとしてしか法案を見ることができない。
「心神喪失者等医療観察法」が健常者にも影響が
ある法案にもかかわらず,国会の中だけで重要な法案が可決されてしまった。
初期報道にて,世論に宅間守=精神障害者一般というイメージを投げかけたことにより,
精神障害者が危険とされる虚構が作りあげられ,虚構という事実がその後の処遇制度にも
影響を与え法案が可決となった。何ら科学的根拠のない虚構というもので,精神障害者の
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危険性が強調され,為政者たちの手によって法改正がなされた。このようなプロセスで大
事なことが議論され,虚構が世の中を変えていくのならば,非常に危険である。それを煽
動するマスメディアは自身の姿勢を考える必要がある。マスメディアは客観や中立報道が
前提である。しかし,立ち位置を設定するのはメディア自身である。つまり,客観的な中
立や公正を測定するためには,主観に依存するしかないという逆説に陥る。この当たり前
の事実を再度自覚する必要があるのではないか。なぜならば,自らが中立公正との思い込
みは,絶対的な正義であるとの勘違いを引き起こす。自身への懐疑を失うことは時の為政
者や巨大権力,そして暴走する民意に抗う力を失ってしまう。
池田小事件では以上のようなことが起ってしまった。今後マスメディアと世論は虚構に
よって作られた事実をもとに世の中が動いていることに関して,目を向け,ひとつひとつ
の事例について,煩悶しながら考えていかなければならない。
Ⅷ.おわりに
本研究は,受け手側の信頼性が高く,事後の資料収集が可能で,日刊のため情報の推移
がわかりやすい一般紙を主な対象として,分析を行った。さまざまな情報があふれるなか
で一般紙に掲載された情報はもっとも中心的であったことが考えられることから,犯人像
形成の主軸はおおよそ明らかになったといえるだろう。
しかし,現代のマスコミュニケーションにおいてはテレビの影響力が非常に大きい。ま
た,その他の情報媒体が複合的に作用しているため,一般紙のみ分析ではメディアと犯人
像形成を関連について,全容を解明したわけではない。検証をさらに進めるためには,テ
レビの放送データの保存と閲覧精度の確立が必要と思われる。
今後の課題としては,池田小事件以外の複数の事例研究を対照とすることで,個々の事
例を超えた,マスメディアと受け手の根幹の構造を解明することである。
謝辞
この論文を書くにあたり,協力していただいた多くの方々に感謝いたします。そして最
後までご指導してくださった吉村夕里助教授にも感謝いたします。本当にありがとうござ
いました。
20
注記
(1)第 1 に人々が興味を持つ対象である暴力や,犯罪,金銭,性,スキャンダルなどの
要素を含む内容を取り上げること,第 2 に非日常的な側面を強調したり,派手な見出しを
つけるなど,受け手の興味を引くような伝え方をすること,である(小城,2004)。
(2)
「ある話題や争点がマスメディアで強調されるにつれて,公衆の認知におけるそれら
の話題や争点の重要度・目立ちやすさ(=salience, 顕出性)も増大する」(McCombs &
Shaw,1972)
(3)朝日新聞社では 2006 年 6 月 2 日から 6 月 8 日まで池田小事件を「子供を守る」との
テーマで特集した。この事件での精神障害者についての記述はない。
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福祉労働,第九十五号,株式会社現代書館.22.
・DPI日本会議ホームページ.2003年6月4日心神喪失等医療観察法案の参議院法
務委員会における強行採決に対する抗議声明.
http://homepage2.nifty.com/dpi-japan/3actions/3-2/nego_pp/seimei_030604.htm 情報取
得 2006/12/07
・法務省・厚生労働省.(2002/11/6).(心身喪失者等医療観察法)修正案のための「論点
整理」.
・池田謙一.(1988).「限定効果論」と「利用と満足研究」の今日的展開をめざして‐情
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・時事通信.
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・小城英子. (2004).
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・厚生労働省.(1999).患者調査.
・共同通信.(2001/06/09).刑法改正などの方針表明:小泉首相が再犯防止で.
・共同通信.(2001/06/12).刑法見直しに否定的見解:厚労,法務両省が検討会.
・共同通信ニュース速報.
(2003/6/03).まるで危険ごみ扱い:精神障害者団体、怒りの会
見.
・毎日新聞.(2002/4/10).心神喪失:医療観察法案に批判の声
日弁連の意見交換会.
・毎日新聞ニュース速報.(2002-04-11-10:35).<新法>「心神喪失者医療観察法案」に
21
医療現場からも批判の声.
・毎日新聞.(2001/6/14).学校乱入殺傷:大阪のNPOに精神障害者への中傷電話.
・町野朔・中谷陽二・山本輝之.(2005).触法精神障害者の処遇.信山社.117.
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http://www.geocities.jp/gokaino1/keiziban3.htm
情報取得 2006/7/14
・週刊 AERA.(2001/6/25). 警察も病院も受け入れず
要なもの.(082)
22
大阪の児童殺傷,再発防止に必