「∼テヤル」の派生的な意味機能について

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北陸大学 紀要
第32号 (2008)
pp. 193∼210
〔原著論文〕
「∼テヤル」の派生的な意味機能について
王 燕 *
An Approach to the Derivative Sense of “-teyaru”
Yan Wang *
Received October 31, 2008
Abstract
The Japanese auxiliary verbs in benefactive construction can be classified in terms of the
following two semantic functions: ones that only represent the surface meaning of “To whom is
the favor given”, and the others whose derivative function is projected from the basis of the
former. However, these days the benefactive construction is considered merely as an expression
of “give and receive” in the Japanese pedagogical arena in China. In this paper, by highlighting
the “-teyaru” structure and confirming the existence of derivative function from multiple
perspectives, I attempt to propose a prototype-based pedagogical methodology for future
Japanese language teaching.
1. はじめに
「誰のための恩恵的な行為であるかを表す」という意味機能は,授与補助動詞構文であるテ
ヤル
1)
構文・テクレル構文と取得補助動詞構文であるテモラウ構文に共通して見られるもの
で,授受補助動詞構文の基本的な意味機能
2)
と言えよう。しかし,授受補助動詞の使用を観
察すれば分かるように,基本的な意味機能と一味違う独自の表現効果を持たせたものと思わせ
るようなものもある。それにもかかわらず,日本語教育の現場では,基本的な意味機能を持つ
ものにしか触れていないのが現状である。本稿は,授受補助動詞構文の中の授益のテヤル構文
に焦点を当て,基本的な意味機能から派生したものと思われる使い方と日本語母語話者の独特
な認知様式の表れと思われる使い方とに分けて,幅広く使われているこの構文の他の意味機能
を探ってみる。
*
国際交流センター
International Exchange Center
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王 燕
2. テヤルの基本的な意味機能
「誰のための恩恵的な行為であるかを表す」という基本的な意味機能を持つテヤル構文にお
ける行為の与え手である授益者と行為の受け手である受益者は共に有情名詞である。先行動詞
に示される与え手の行為は「受益者のために」という与え手の意識の下で行われる行為なので,
3)
受け手に感謝されることを期待した上での行為であるとされている 。次のような表現はテヤ
ルのこのような性格を改めて意識させてくれる。
(1)こんなに細やかな心配りを実に自然にやってのけたお兄さん。してあげたという気持ち
を持たない好意こそが,本当の親切なのだと教えられた気がして,少し自分が恥ずかし
4)
くなりました 。
(『涙が出るほどいい話』p123)
(2)心配してわざわざ来てあげたんだから,もうすこし感謝しなさいよ。
(グループ・ジャマシイ『日本語文型事典』)
(3)この言葉(「便宜を図る」)も(中略)相手に押しつけがましい印象を与えかねません。
くれぐれも「やってあげる」という口調にならないよう心がけましょう。
(井上明美『金田一先生に教わった敬語のこころ』)
日本語では,目上の聞き手に対して,たとえ心から「あなたのために」と思っていても,最
高級の敬語を使って,「先生,お荷物を持って差し上げましょうか」とは言わないのも,行為
の受け手が期待していないのに,与え手が一方的に受け手からの感謝を強要するような行為を
しようと思わせたくないからであろう。恩着せがましく聞こえないように「先生,お荷物をお
持ちしましょうか」と言うべきだとされている。しかし,次の例文に用いられるテヤルは事実
上の受益者を指示するように働いているにもかかわらず,恩着せがましく感じさせるどころか,
自然な日本語である。
(4)(笛を鳴らしながらお豆腐を売る―筆者注)おじいさんは,いつものように自転車に乗
っていましたが,道に落ちていた石に躓いて自転車がふらついてしまい,荷台のお豆腐
が揺れて安定が取れなくなり,自転車ごと倒れてしましました。その時,いつもお豆腐
を買う近所のおばさんが出てきて,倒れたおじいさんを起こしてあげ,落ちたお豆腐ま
で買ってあげました。
(『涙が出るほどいい話』p154)
(5)右手で幼い孫の手をひき,左手に大荷物を抱えて駅へと向かっていたら,突然の雨。困
っていると,誰かが傘をさしかけ荷物を持ってくださった。「ありがとうございます」
と見上げた顔に見覚えがあった。彼も「あっ」と声を上げた。昨年のこと,駅で財布を
なくして困っていた青年に切符を買ってあげた,その彼だったのだ。
(『涙が出るほどいい話』p163)
(4)では,近所のおばさんは転んだ豆腐売りのおじいさんを起こして,落ちたお豆腐まで
買ったこと,(5)では,話し手を助けてくれた人は,嘗て財布をなくした時に話し手に切符
まで買ってもらった青年だったことが,授益者側の立場からテヤルの使用によって表現されて
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いる。このような,受益者である相手を目の前にしての発話ではない場合,しかも,誰の目か
ら見ても行為の受け手が何らかの利益を受けるのが明らかな場合,授益のテヤルは授受行為の
当事者の間の授受関係を事実通りに分かり易く表現するのに機能していて,恩着せがましさを
感じさせないわけである。要するに,話し手自身が恩恵的な授受行為の与え手でなければ,テ
ヤルの使用は恩着せがましくないのである。
以上見てきたテヤルは,すべて受益者指示という役割を果たしている基本的な意味機能をも
つテヤルである。そして,この場合,受益者は通常,授益者に対して感謝をするものと期待さ
れる。ところが,人間の意識的な授益行為を表すはずのテヤルには,授益者からの一方的な授
益行為,すなわち,行為の受け手である受益者からの感謝を授益者が期待しているように思え
ないテヤルもある。
3. テヤルの派生的な意味機能
3-1. 受益者からの感謝を期待しないテヤル
次の例文を見ていただきたい。
(6)ダニの新種発見400種にのぼる元横浜国立大教授青木淳一さんは「だれにも知られず地
球から消えていくダニたちに名前をつけ,戸籍簿に残してやりたいというのが原動力に
なった」
。南方熊楠賞を受賞した。
(
『天声人語』2001. 4. 30)
(7)盲導犬と暮らし,子供を育てた郡司ななえさんの記録『ベルナのしっぽ』(イースト・
プレス刊)の一節。息子の幹太君が小学1年のとき,みんなの前で話した。「ボクのお
母さんは目が見えません。だからいつでも盲導犬のベルナちゃんといっしょに歩きます。
でもボクのことを心の目で育ててくれました」。ベルナが老いて,目が不自由になった。
幹太君が言った。
「ボクがベルナちゃんの目になってあげるからね」。
(『天声人語』1996. 5. 31)
(6)と(7)では,テヤルで示される受益者はいずれも動物である。いくら有情物といっ
ても,動物からの感謝は期待できないであろう。ただ,「ダニたち」や「ベルナちゃん」とい
う呼び方にも表れているように,このダニや犬は人間相当の扱いをされているから,「ダニた
ち」や「ベルナちゃん」の立場からの「戸籍簿に残してもらった」「自分の目になってもらっ
た」とでもいった感謝の気持ちが期待できそうだ,とも言える。しかし,次の(8)(9)で
は,(6)
(7)のように,与え手から受けた恩恵的な行為をテクレルやテモラウで言い直すこ
とはできない。
(8)「頑張ってキレイにしたつもりでも衰えの隠せないわたし」も「若いころみたいにキレ
イでいることにこだわらなくなったわたし」も「なりふり構わず子育てしてきて,ちょ
っと放りっぱなしになってしまったわたし」も,それぞれの女性が40歳まで一生懸命生
きてきた証です。そう思えば,ほかの誰とも違う人生を積み重ねた自分が,いとおしく
なるのではないでしょうか。そんな「今の自分」を肯定して,まずは「よし,ここまで
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よく頑張った」と受け入れてあげましょう。
(山岡有美『下半身からキレイをつくる』p13)
(9)一年,二年.悲しみからあきらめへと不幸を受容するには時間がかかります。でも必ず
悲しみのトンネルをぬけ,亡くなった夫の分も人生を充実させて生きようと思える日が
きます。今は,無理をせず,悲しむ自分を認めてあげることが大切だと思います。
(「読売新聞」2001. 10. 10)
(8)(9)での与え手も受け手も「自分」であるため,今まで見てきた授益のテヤルとし
て理解することは難しい。
(8)
(9)のテヤルは,客観視されたもう一人の自分自身に対する
「労わり」の気持ちを表すのに機能しているように思われる。
このように,テヤルは,誰のための恩恵的な行為であるかを表す表現形式から,構文上
の行為の受け手に対する行為の与え手の何らかの感情が示される表現形式へと拡張してきてい
る。本稿では,授益者の立場から有情名詞である受益者に対する恩恵的な行為を表す授益のテ
ヤルと区別して,行為の受け手を有情物から非情物まで広げたテヤルを,授益という基本的な
意味機能を持つテヤルから派生してきたものとする。
行為の受け手が有情物から非情物へと広がっていくプロセスを理解するには,次のようなテ
ヤル構文をステップにするとよい。
3-1-1. 有情物が「受益者」であるテヤル
「撫でる」
「抱きしめる」「頬ずりをする」などのようなスキンシップ類動詞はテヤル構文の
先行動詞に用いられると,授益というより,行為の受け手への与え手の温かい気持ちが表され
る表現となる。
(10)女は胸に抱いた満一歳ぐらいの女の児の頭を撫でてやりながら,答えようともしなかった。
(石川達三『転落の詩集』
)
(11)もしできることなら直子を抱きしめてやりたいと思うこともあったが,いつも迷った末
にやめた。
(村上春樹『ノルウェイの森』p53)
(12)今までわたくしたちはそこまでは考えが及びませんでした。だから女の社会進出のため
にも託児所を作ることを考えていたのです。しかし児童心理学や深層心理の面から見て,
ある期間は幼児にとって母が抱いたり頬ずりをしてやる時間の長いことがどんなに大事
か分かってきたのです。
(遠藤周作『ひとりを愛し続ける本』p162)
(10)∼(12)では,テヤルによって指示された受益者は,動作主の温かい気持ちの受け手
となっている。「受け手」と言っても,授益のテヤルにおける何らかの利益の受け手と異なり,
与え手からの一方的な感情を被るだけである。日本語教育では,動作主(人間に限らず,動物
同士にも当て嵌まる)の有情物ならではの親愛・慈愛の感情を表す「撫でる」「抱きしめる」
「頬擦りする」などのようなスキンシップ類動詞がテヤルの先行動詞に用いられる場合,テヤ
ルをその構文的な意味機能として「温かい感情の発露」と位置付ける必要があると言えよう。
ただし,このようなテヤルの使用は,授益のテヤルと違って,義務付けられるものではないた
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「∼テヤル」の派生的な意味機能について
め,次のような表現も見られる。
(13)おれは由美のどんぐりのへたのような恰好をしたオカッパ頭を撫でながら考えていたのだ。
(榛谷泰明『比喩の日本語』p213)
(14)ペラペラとページをめくると,釧路の湿原でハマナスの花にそっと手を触れている姿,
摩周湖をバッグにトウモロコシをかじりながら私の腕につかまっている姿,ニコニコし
ながら,でも半分こわごわとキタキツネを撫でている姿……,屈託なく明るく元気な妻
の笑顔がどのページにもあふれている。
(陽信孝『八重子のハミング』p48)
温かい感情の発露に使われるテヤルが授益のテヤルから派生してきた意味機能と思われるの
は,(14)から分かるように,その使用が文脈に左右される場合があるからである。好奇心に
駆られて,「こわごわと」何かに触れるときの動作主の気持ちは「撫でてやる」という余裕の
ある気持ちとは程遠いものと思われるので,「撫でる」という動詞が使われているにもかかわ
らず,テヤルぬきで表現されているのであろう。
3-1-2. 非情物が「受益者」であるテヤル
次の(15)と(16)を見比べていただきたい。
(15)子どもはまだ皮膚が薄く皮脂が少ないので,大人の敏感肌と同様に外部の刺激を受けや
すいのです。肌に刺激が少なく,付け心地のいい紫外線防止剤を,散歩に行く時,お友
達と遊びに行く時,通園・通学の時,お母さんがお子さんの顔や露出している肌に塗っ
てあげましょう。
(「産経新聞」2003. 3. 27)
(16)素敵な皮膚になりたい,いきいきときれいになりたいのなら,自分の肌をかわいがるこ
とです。もちろん,正しい手入れは大切なことですが,それよりも自分の肌をかわいが
る気持ちが大切です。今日からは,可愛い,という気持ちで肌を労わってあげてくださ
い。
(『心とからだのリフレッシュ』p155)
(15)も(16)も肌についての話であるが,
(15)のテヤルは授益のテヤルであるのに対して,
(16)のテヤルは授益とは思えない。(15)での行為の受け手は「肌」ではなく,「お子さん」
である。つまり,有情物の受益者が明らかに存在する。一方,(16)での行為の受け手は行為
の与え手自身の体の一部分である「肌」となっている。(16)のようなテヤルは日常生活での
健康や美容などの話題によく使われている。
(17)全身の器官と関連するツボが集中する足の裏は,健康づくり,キレイづくりのカギと言
っても過言ではありません。こまめにケアしてあげましょう。
(山岡有美『下半身からキレイをつくる』p111)
(18)肌というのは,一日中いろいろな刺激に耐えています。そして,ストレスが肌に出てく
ることもあります。その疲れを,やさしく落としてあげることが美容なんです。
(『心と体のリフレッシュ』p157)
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(19)お休み前に,このナイトクリームをお顔全体につけてあげてください。
(村田美穂子1994: 81から引用)
(20)化粧パブを二週間に一度,中性洗剤で優しく洗ってあげて,陰干ししてください。
(日本テレビ「おもいっきりテレビ」2008. 5. 26)
これらのテヤルの使用心理について,村田美穂子(1994)では,「乱暴な感じを避け,言葉
の丁寧さをひたすら追求した結果なのだろう」と推測されている。しかし,これらの例文の中
のテヤルを削除しても,文の文法性に影響を与えないし,文全体の丁寧度も特に変わるわけで
もない。村田(2005: 242)では,化粧品の販売員が客に対して「お肌にクリームを塗ってあ
げてください」というようなテヤルを,「恩恵の授受とは無関係の場面での」テヤルの使用と
され,その使用の広がりを,「する」で表すべき場面で「してあげる」が用いられるのは,
「し
てあげる」が「する」より優しさを表すという誤解によるものであるとされている。しかし,
授受補助動詞が使われる以上,
「恩恵の授受とは無関係」とは言いきれないし,
「優しさを表す」
という受け止め方も「誤解」だと言い切れないのではないかと思われる。
加藤重広(2001: 183)によれば,「ここで,お肉にちょっと切り込みを入れてあげると味が
よくしみこむんですよ」のようなテヤルの使い方も,従来なかったもので,近年出てきた新し
い使い方であるという。
確かに,健康や料理に関する話題なら,次のようなテヤル表現がよく見かける。
(21)レンジで加熱してあげますと,お茶の中の甘み成分が出ます。
!」2003. 8. 14)
(日本テレビ「クイズ!常識の時間!
(22)ちょっと香りのものを入れてあげると,ご飯は食べやすくなります。
(NHK教育「料理」2003. 6. 25)
(23)(鼻腔の)空気の通り道が塞がれている場合には,通り道を作ってあげれば,嗅覚がも
どる。
(山田敏弘 2001: 97 から引用)
これらのテヤルの使用上の共通点といえば,いずれも条件節に使われている点である。その
条件節は,後件に述べられる物事がうまくいく前提となっている。このようなテヤルについて,
山田(2004: 81)では,「事態改善表示用法」と名付けている。しかし,このようなテヤルは,
必ずしも条件節だけに使われるとは限らない。
「出来事がよい方向へ向かう意味」においては,
次のように,文末や修飾節で使われるテヤルも見られる。
(24)料理に塩を入れて味を調えてあげましょう。
(庵他 2001: 169 から引用)
(25)培養液の中に大腸菌の雌と雄を入れて,三七度に温めてやる。
(柳澤桂子『二重らせんの私』p111)
(26)「考える」や「思う」などの動詞は「人」を対象としてはとらない性質の動詞です。こ
のように動詞がそれが本来とらない種類の名詞といっしょに用いられる場合には「のこ
と」のような形式を使って名詞の性質を変えてやる必要があります。
(庵他『中上級を教える人のための日本語文法ハンドブック』p52)
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(24)∼(26)のテヤルを削除しても,文全体の知的意味は変わらない。このことは,これ
らのテヤルも授益のテヤルと異なり,テヤルの使用が義務付けられているわけではないことを
物語っている。しかし,文の文法性がテヤルのあるなしに左右されていないにも関わらず,文
全体の雰囲気が異なる。テヤルが用いられている(21)∼(23)は人間の優しさを感じさせる。
(21)の場合,
「レンジで加熱する」という行為は言うもでもなく人間のする行為であるが,行
為を受ける対象は人間ではなく,「お茶」となっている。「レンジで加熱する」という行為のお
かげで,「お茶」は飲みやすくなるわけである。テヤルの使用によって,もともと人間の期待
に応えようもないと思われるものまで,人間が望むような理想的な状態になることが表されて
いる。非情物が構文上の受益者となる場合,その対象を丁寧に扱うという行為者の感情の表れ
だと感じられる。
ここで,授益とは言い切れないテヤルから感じられる「優しさ」や物事をいい方向に向かう
ように望む気持などは,あくまでも表現主体の気持ちであることを強調しておきたい。授益の
テヤルの場合,行為による有情物の受益者が必ず存在するので,行為の与え手は授益者として
認められるが,非情物受益者のテヤルの与え手の行為はもともとテヤルを使わなくても文の知
的意味に変化を与えるような行為ではないので,行為の受け手が構文上の受益者となっている
だけである。したがって,テヤルは受益者を指示するために使われるのではなく,優しさを伝
えるために使われるのである。話し手自身が行為の与え手である場合は言うまでもないが,話
し手が行為の与え手でない場合でも,行為の与え手の立場からテヤルを使うので,構文上の受
け手に対する優しい気持ちはあくまでも表現主体が与え手に附与したものである。
ちなみに,以上のようなテヤル表現に対応する中国語はない。しかし,授受動詞の恩恵性さ
えきちんと心得ておけば,授益のテヤルから派生してきたと思われるテヤルのこのような意味
機能は学習者にとってむしろ理解しやすいものだと言える。ただし,その運用に関しては簡単
に身に付くようなものではないと考えられる。
3-2. 強い意志の表明に機能するテヤル
高見・加藤(2003)では,次のような例文を挙げ,テヤル自体は,利益や不利益の意味から
独立しており,これらの意味は,文脈や私たちの誤用論的知識に依存しているとしている。
(27)太郎が花子に本を読んでやった。
(28)太郎が買い物に行ってやった。
(27,28とも高見・加藤 2003-2: 98 から引用)
(29)文脈を与えてやっても,この文は適格性が上がりませんか。[条件]
(30)来年こそはきっと東大に合格してやるぞ![強い意志]
(29,30とも高見・加藤 2003-2: 97 から引用)
高見・加藤(2003)によると,
「やる」は「
(あるものを)与える」という意味と,「(ある行
為を)行う」という二つの意味を持っている。「与える」と「行う」には,項構造の点で重要
な違いがある。「与える」は「∼が∼に∼を与える」というパターンをとる三項動詞であり,
与える物を「ヲ」格名詞句としてとるだけでなく,与える相手(受領者)を「ニ」格名詞句と
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してとる。一方,
「行う」は,
「∼が∼を行う」というパターンをとる二項動詞であり,行う事
柄を「ヲ」格名詞句としてとるのみである。したがって,
(27)のような,「ニ」格名詞句を伴
うテヤルは,話し手(または話し手にとって身近な人)がある行為を行い,それを「ニ」格名
詞句指示物に「与える」という意味を表すが,その一方,
(28)∼(30)のような,
「ニ」格名
詞句を伴わず,話し手(または話し手にとって身近な人)がある行為をある対象に対して「行
う」という意味を表す。
項構造を持ち出して,行為の受け手である「ニ」格名詞句を持たないテヤルとこれまで考え
られてきた授益のテヤルとは構文的に意味の異なるものだと主張するなら,それなりの説得力
はないとは言えないかもしれないが,「∼が∼を行う」というパターンをとる「行う」意味の
テヤルはどうして「ある対象に対して」まで表現できるのだろうか。高見・加藤(2003)では
この点についての説明は与えられていない。
高見・加藤(2003)の説明によれば,(28)のテヤルは,太郎が誰かのために買い物に行っ
たということを意味する。つまり太郎が,自分が買い物に行くという行為を誰かある対象に対
して「行う」ことになる。また,(29)のテヤルは,問題となる文に文脈が与えればという後
続文を導く条件文として機能しているのみである。そして,(30)のテヤルは,話し手が東大
に合格するという行為を自分に対して行うという意味を表す。
テヤルが条件節に使われている(29)は,前に触れた非情物が「受益者」であるテヤルの一
つである。「後続文を導く条件文として機能している」のは補助動詞のテヤルというより,接
続助詞の「テモ」が使われているので,
「文脈を与えても,この文は適格性が上がりませんか。」
のように,テヤルがなくても,「文脈を与えても」だけでも後続文を導く条件文として機能し
ている。というわけで,テヤルを使用する表現主体の表現意図を無視するような高見・加藤
(2003)の考え方は妥当性を欠いていると思われる。
(28)と「強い意志」を表すとされる(30)のそれぞれのテヤルの意味役割は,利益や不利
益とは無関係で,文脈や語用論的知識から生じるものだという結論も再検討の必要がある。少
なくとも(28)の「誰かのために」と(30)の「自分に対して」という意味はどこから来てい
るのかぐらいの説明がほしい。
夙に,豊田(1974)は,テヤルには強い意志を表す用法があると指摘している。森田(1995)
も「直接には相手に動作を及ばない」テヤルには「自虐状態での自暴自棄や,信念とも言える
決意」を表す用法があるとしている。つまり,テヤルのこういう用法は言語使用の事実として
広く認められている。庵他(2001: 168)では,テヤルの「恩恵を表さない用法」として次の
ような例文を挙げている。
(31)いつか偉くなってやる!
(32)あの野郎,一発,殴ってやる。
(31,32とも庵他 2001: 168 から引用)
(32)では,先行動詞がマイナス意味の「殴る」が使われているし,「殴る」という動作の
受け手「あの野郎」も存在するので,アイロニー的なテヤルと解釈されやすい。
(32)と異なって,
(31)では,先行動詞で示される行為の受け手は存在しない。
「偉くなる」
人は,話し手自身である。話し手以外の誰にも動作が及ばないため,この種のテヤルは「強い
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「∼テヤル」の派生的な意味機能について
意志を表す」ものと言われてきた。
(33)ハナエ・モリといえば,蝶だ。蝶への思いはあれこれあるが,一つは初めてニューヨー
クに行った際(61年)に見た「マダム・バタフライ」である。日本の女であるはずの
蝶々夫人は,姿も立ち居振る舞いも,まったく日本の女ではなかった。蝶に託し<日本
や日本女性のイメージを絶対に変えてやる,そう心に誓った。
(「天声人語」1996. 10. 26)
(34)大会でポールにあがるのが外国の旗ばかりだったから,一つ日本の旗をあげてやろうと
いう気持ちは強かった。
(「天声人語」1998. 12. 4)
(35)いずれは分社させてもらい,この人の下で子会社の社長になるのが夢だった。もっと大
きな幸せをつかんでやると頑張ったが駄目だった。
(福田実2003『私は薬に殺される』p84幻冬社)
日本語では,動詞のル形や意向形も動作主の意志の表出に使われるので,(33)∼(35)の各
文は先行動詞の意向形だけで表現することもできる。しかし,動詞のル形や意向形よりテヤル
を用いた方が表現主体の意志の強さを感じさせる。以上の例から分かるように,この種のテヤ
ルは表現主体が動作主の代弁者として動作主の強く望む事象にだけ使われているので,テヤル
の恩恵性の働きがうまく生かされているように思われる。他者としての受益者が存在しないた
め,テヤルによって表される「恩恵」が表現主体自身に帰ってくることになるという解釈(金
殷模 2003: 29)も見られるが,「受益者」なしのテヤル構文への理解の手掛りの一つでもあろ
う。
次の(36)では,「あの人」や「こいつら」のような三人称の存在も関与しているにもかか
わらず,テヤルの先行動詞に表される行為の結果がこれらの三人称に何の影響も与えない。し
たがって,これらのテヤルも強い意志の表出に使われていると思われる。
(36)あの人みたいになりたい。あの人を追い越してやろう。
(向田邦子『男どき女どき』p116)
(37)こいつらに人間の心があるのか,もしこいつらが人間というのなら,私は,いますぐ人
(大平光代『だからあなたも生き抜いて』p81)
間をやめてやる……
動詞のル形や意向形も動作主の意志を表すことができるが,次のような,人間の力ではどう
にもならないことを表す先行動詞の場合,テヤルを供わず,動詞のル形や意向形だけだと,意
志を表すどころか,非文法的な表現となってしまう。
(38)吃りなんか一日で直ってやるぞ。
(豊田 1974: 88 から引用)
(39)クラスメートの間では早くから,自分こそ一番ユニークな格好で目立ったやろうという
競争が生じていた。
(子安美智子・子安フミ1993『菜多沙』p174フレーベル館)
(40)お母さんに脅迫してやっての。学校変われっていうんなら,ノイローゼになってやるか
らって。
(山田 2004: 198 から引用)
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(38)∼(40)のようなテヤルの文法機能について,豊田(1974)では,「無意志的な動詞が
意志化されると考えることができるようである」としている。
テヤルの先行動詞の意味については,まだ議論の余地はあると思われるが,本稿では,強い
意志の表明に機能するようなテヤルを授益のテヤルの派生的な意味機能として認める。その理
由は次の2点である。
一つは,強い意志を表すことをテヤルの意味機能の一つと認めるのは,これまでの日本語教
育の主流であること。いま一つは,受益者が存在しないのに,受益者の存在を意味するテヤル
を用いて,話し手の強い意志を表す表現形式に似ている言い方は,中国語にもあること,であ
る。例えば,中国語の“
晩我要
他个痛快”という表現は,日本語で表現すれば,「今夜は
とことんまで飲んでやる」に最も近いと考えられる。あくまでも話し手自身の強い意志を表す
のに,何故,三人称の “他”を使うのかはまだはっきりされていない。日本語と中国語がと
もに第三者の存在を借りて表現主体の強い意志を表す表現法を持つことが,ただの偶然である
かどうかは,これからの研究に残された課題である。
なお,強い意志のテヤルによって表される意志は話し手自身のものであるため,このような
テヤルは待遇的ヴァリエーションを持たないことも理解しやすい。
3-3. アイロニー的なテヤル
授受補助動詞は常に恩恵を表すものであるため,その恩恵性を利用して,「マイナスな恩恵」
を表すのにも用いられる。恩恵性があるからこそ,アイロニー的な意味合いを感じさせるので
ある。いわゆる授受補助動詞のアイロニー的な使い方である。これはテヤルだけに見られる用
法ではなく,テクレルとテモラウにも見られる用法である。
佐久間(1936: 199)では,本来好意的な動作について言うテヤルが転じて「いじわる」の
動作で,先方に損害を与えるような場合にも使うことを指摘している。また,鈴木(1972:
174)では,「自分が行動して他の人に利益を与える場合」に使うテヤルが,「大金をふんだく
ってやる」「腹が立ったのでどなりつけてやった」に使われると,「無法に取り上げられる人,
怒鳴られた人は迷惑をこうむっており,利益どころか,相手に不利益を与える表現」となるこ
とを指摘している。
佐久間も鈴木も「好意的でない動作」や「相手に不利益を与える」場合にも使われるテヤル
の存在だけを指摘している。理由についての分析もしていないし,これらのテヤルを授益のテ
ヤルと峻別するような定義もしていない。
このようなテヤルを「恩恵を表さない」ものとして,恩恵を表すものと区別する研究は豊田
(1974)以後に見られる。
豊田(1974)では,恩恵を表さないテヤルを①受給関係を表す用法,②意志を表す用法,③
方向を表すものの三種類に分類し記述を行っている。例えば,次のような例を挙げて,行為の
働きかける対象の有無を①と②を分ける基準としている。
(41)そんな嫌なことなのか,こんど何かあったら何度でも唄ってやるぞ。
202
11
「∼テヤル」の派生的な意味機能について
(42)僕は,すばらしい船乗りになるぞ。ほばしらによじのぼったり,船を走らせたりするん
だ。そして海のさかなを,みんなつかまえてやる。
(41,42とも豊田1974から引用)
豊田(1974)によれば,
(41)では,
「唄ってやる」とはいやがらせに唄うことで,明らかに
相手にとってマイナスの利益になることを主体が行うことである。つまり,「お前が嫌がるな
ら」とか「おまえを嫌がらせるために」という条件が文脈によって示されているので,(41)
のテヤルは受給関係を表すような意味になり,(42)のような,それがない場合は,もとにな
る動詞の強め,すなわち自己主張・自己の意思の顕示というような意味になる。
以上のような豊田の分類は,あくまでも恩恵を表さないテヤルに対する分類である。しかし,
授受表現であれば,例外なく何らかの授受関係を表すことになるので,(41)のような表現だ
けを「受給関係を表す用法」とするのでは,無意味とは言えないもでも,日本語教育の立場か
らみれば,納得のいかない分類と言わざるを得ない。
山田(2004)では,恩恵を表さないテヤルを「非恩恵型テヤル」と名付けて,それをさらに
5)
「受影者存在型テヤル 」と「受影者不在型テヤル」と分類している。次の例文を見れば分か
るように,山田の「受影者存在型テヤル」は,本稿で言う「アイロニー的なテヤル」のことで,
山田の「受影者不在型テヤル」は,本稿で言う「強い意志のテヤル」のことである。
(43)お前の最愛の娘を殺してやる。
(44)これを学費にして勉強してやろう。
(43,44とも山田 2004: 202 から引用)
「恩恵を表さない」のではなく,恩恵性によるテヤルの意味機能のヴァリエーションの存在
を指摘したのは松下(1928)と大江(1975)である。松下(1928: 398)では,「余り憎らしい
から殴ってやった」という表現を「害を利として表す」ものであるとしている。大江(1975:
51注9)では,非恩恵的な行為を表す「ひどい目に遭わせてやる」「大変なことをしてくれる」
のような表現は,テヤル・テクレルの「皮肉用法」であると指摘している。
本稿では,大江と同じ捉え方をする。マイナス感情を主張するために,あえて授益のテヤル
を使うような反語
6)
による皮肉表現を「アイロニー的なテヤル」と名付けて,授益のテヤル
から派生してきた用法の一つと見る。
マイナス意味の動詞をテヤル構文の先行動詞に用いると,動詞の意味とテヤルの授益の意味
機能との対立によって生じた矛盾が表現主体の特別な表現意図を実現させる。
(45)その頃に書いた小説の中に,還暦の年頃の女を,とっくに色恋と縁の切れたおばあさん
で登場させている。ケシカラン,と今は叱り飛ばしてやりたい。
(『日本語のこころ』p29)
(46)僕は彼のラジオをひっつかんで窓から放り投げてやろうと思ったが,頭が痛んできたの
でまたベッドにもぐりこんで眠った。
(村上春樹『ノルウェイの森』(上)p68)
(47)この前読んだ小説の主人公には腹が立って叩き斬ってやりたかった。
(連城三紀彦『一瞬の虹』p143)
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王 燕
(45)∼(47)の各文の先行動詞「叱り飛ばす」「放り投げる」「叩き斬る」は明らかにマイ
ナスの意味を有する動詞である。この種の動詞は,利益の授与を表すのに用いる授与補助動詞
との共起によって,そのマイナスの意味をさらに強調されることになる。授益のテヤルは,そ
の固有の方向性と恩恵性によって,受益者を指示するように機能するが,アイロニー的なテヤ
ルでは,恩恵性がより機能しているように感じられる。(45)∼(47)の各文のテヤルを削除し
ても,述語動詞で表す動作の受け手は分からなくなることはない。しかし,話し手の感情の昂
ぶりはテヤルが使われないと表出されない。(45)は話し手自身が先行動詞の働きかける対象
となっているので,些かユーモラスの意味合いを帯びるようになる。(46)(47)の先行動詞は
明らかに行為の受け手にマイナス影響を与えることを意味するのに,あえて利益を与えるよう
な言い方をすると,マイナスのニュアンスがさらに強調されるようになる。こういう場合のテ
ヤルは反語のような役割を果たしているのである。これらの例文を見る限りでは,アイロニー
的なテヤル構文の成立条件はマイナス意味の動詞が先行動詞に用いられることだといえるよう
であるが,次の例文を見れば分かるように,アイロニー的なテヤルの先行動詞は必ずしもマイ
ナス意味の動詞とは限らない。
(48)おいしいものを食べたい。面白いものを見たい,という現実的な欲が強く,精神的な喜
びを二の次にする私の性格を,UFO やお化けのほうも見通しで,あんな奴のところには
出てやるものか,と避けて通っているに違いない。
(向田邦子『霊長類ヒト科動物図鑑』P242)
(48)の「出る」という動詞は特にマイナスの意味を持つ動詞ではない。テヤルとの共起で
醸しだしたアイロニー的な意味合いは文脈から読み取れる。
一口にアイロニー的なテヤルと言っても,具体的な文脈での役割は話し手の表現意図によっ
て異なる。ユーモラスに聞こえる表現もあれば,怒りや不満などを感じさせる表現もある。
4. 「ウチ」意識の表れであるテヤル
以上見てきたテヤルの派生的意味機能への理解は,言うまでもなく,テヤルの基本的意味機
能への理解を土台としている。だが,押しつけがましく聞こえる可能性が高いため,テヤルを
7)
「初級文法からはずす」(田中真理 2006: 80) べきだという主張が見られる。このセクション
では,テヤルの派生的意味機能への理解の手助けとして,日本語母語話者の「ウチ」意識の表
れである基本的意味機能を持つテヤルをもうすこし見てみる。
日本語学習者にとっては,会話の中で用いられる授受補助動詞は最も理解しやすいし,話し
相手のいるコミュニケーションの場に身を置く際にその使用は最も意識しやすい。しかし,日
本語母語話者には,たとえ自分とも話し相手とも直接関係のない事象を述べるにしても,心の
奥深い層に潜んだ恩恵意識では話題の人物などを自分側のもの(ウチの関係)か,そうでない
もの(ソトの関係)かによって言葉を使い分ける傾向がある。日本語教育では,空間概念の言
語表現での表れである「ウチ・ソト」は日本語母語話者の対人関係の考え方の特徴を示すキー
ワードとして使われていて,他人をいかに扱うかという人を遇する仕方を決定する基準となっ
204
13
「∼テヤル」の派生的な意味機能について
ている。
テヤルの使用については,「ウチ・ソト」の区別をせずに,
聞き手に対する丁寧さを実現するためには,聞き手に負い目を感じさせないことが大切
ですから,話し手が聞き手に恩恵を与えるときには,聞き手が負い目を感じないように,
「∼てあげる」を使わないなどの配慮をしなければなりません。
(新屋・姫野・守屋 1999: 39)
といった指導法は日本語教育関係の出版物によく見かける。しかし,これはあくまでも「ソト」
の人間を相手にする場合に限っての話であろう。テヤルは「ソト」の人間には押しつけがまし
く,馴れ馴れしい印象を与え,不適切な表現と感じさせるのが事実である。しかし,家族や恋
人など親しい間柄なら,テヤルは押しつけがましいどころか,素直な気持ちとして受け止めら
れて,お互いの絆を強く感じさせる役割を果たすように思われる。
(49)男A:今度ダンスパーティーがあるんだけど,一緒に行かない?
女B:わたし,ダンスが下手なの。
男A:下手だって大丈夫だよ。僕が教えてあげるから。
女B:でも,ダンスの時に着る服がないし……
男A:なくたってかまわないよ。レンタルすればいいんだから……
女B:レンタルするのは高いし……
男A:高くたっていいじゃないか,僕が払ってあげるよ。
(富阪容子『なめらか日本語会話』p27)
(50)姉:勉強してるとこなんだから,ここに入ってきちゃだめ,早く出てって。
8)
妹:分かった,分かった。一人にしといたげる わ。
(同上 p14)
(51)女優の倍賞美津子さん(50)が「ハイカラさんでミーハーで,一緒にいるととても楽し
かった」父を語って。「二年前,76歳で亡くなりました。最後の頃は体の自由がきかず,
お風呂に入れてあげました。頭を洗ってあげたら,とてもうれしそうだった。親孝行っ
てこういうことなのかって,とても幸せだった」。
(「天声人語」1997. 8. 31)
(52)サザエ:見たい番組だろうけど,母さんの英会話に譲ってあげて。
カツオ:どうぞ,どうぞ。
(フジテレビ「サザエさん」2003. 7. 6)
(53)ママは熱があるので,きょうはパパがかわりに迎えに行ってあげる。
(グループ・ジャマシイ編著『日本語文型辞典』p97)
第三者の話し相手に,話し手が自分自身の家族に対する授益行為を表現する際,
「∼てやる」
もよく使われてきたが,近年「∼てやる」の使用が減少し,「∼てあげる」の使用が増える傾
向が見られる。授益行為の対象である家族が話し相手であったり,その場にいたりする場合,
「∼てあげる」の使用がほとんどのようである。
日本語では,話し手が聞き手に恩恵を与えるときには,聞き手が負い目を感じないように,
テヤルを使わないなどの配慮をして,逆に話し手が聞き手から恩恵を受けている場合には,テ
205
14
王 燕
クレル・テモラウを使って,自分が恩恵を受けていることをはっきりと示すことがルールとさ
れている。しかし,親密な関係にある人間同士の場合,自分が与える恩恵をテヤルで明言する
ほうがかえって親愛の情を感じさせるのである。このような言語使用の事実は,橋元良明
(2001)が提案した「恩義強調の原則」と「互酬性に基づく親密さの原則」によって,説明す
ることができる。
語用論では,要請の場合,「a.他者に対する負担を最小限にせよ。b.他者に対する利益を
最大限にせよ。」というリーチの「気配りの原則」のような配慮を言語上で工夫しなければな
らないとされている。例えば,相手に負担を押し付ける形の「塩を取ってください」にならな
いように,できるだけ「ノー」と言い易いように「塩を取ってくれませんか?」と,応答に選
択の余地を持たせたり,或いは本来の発話趣旨「窓を開けてほしい」をぼかした間接表現「こ
の部屋暑いですね」を用いたりして,相手への負担を小さく表現するよう言語的工夫をしなけ
ればならない。
日本語の授受表現は,ある行為を遂行することによって生じる恩恵の方向性を示唆すること
になるので,「気配りの原則」は授受表現の使用によって実現できると,橋元(2001)は次の
ような「気配りの原則」の代替原則を提案している。
(54)恩恵強調の原則:相手が施す恩恵もしくは依頼者に生じる義理を最大限言明せよ。
橋元によると,この原則に使われている「義理」とは,「受けた恩恵への返礼義務」を意味
する。例えば,「本を送る」ことを依頼する場合,
(55)私に本を送ってくださいますか?
(56)私に本を送っていただけますか?
(55,56とも橋元 2001: 49 から引用)
と敬意を含んだ授受補助動詞を用いることで,相手の行為には,相手から「私」に対する恩恵
が施されることが明示され,同時に受益者の「私」に義理が発生することも含意されている。
さらに,この恩恵の発生を表す授受表現の使用は,実行動の主体の自分である場合でも適用さ
れる。
(57)私に車で送らせていただけませんでしょうか?
(橋元 2001: 50 から引用)
などの表現では,
「
(私に)車で送らせること」という受け身の行為を取ることが恩恵を施すこ
とになる,奉仕を許されたことで私にはさらに相手に対する義理が発生する,ということを相
手に示唆している。過剰なまでの気配りである。
しかしながら,(52)
(53)のような表現は,一見恩義強調の原則に相反するようなものであ
る。自分から相手に施した恩恵をテヤルで明言しているからである。日常会話でこのような表
現が許容されるのは,「ウチ」という親密な関係に限られる。そして,そこには,次のような
原則が作動している。
206
「∼テヤル」の派生的な意味機能について
15
(58)互酬性に基づく親密さの原則:自分が施す恩恵を言明し,相手に義理感情を発生させる
ことにより,絆の深さが確認され,関係の親密さがアピ
ールする。
橋元によれば,この原則には「私はあなたに恩恵を施すことにより,貸しを作ります。あな
たはいずれ私に返礼しなければなりません。貸し借りを作るほど私たちの関係は親密であり,
これで少なくともあなたが私に借りを返すまでは関係を断つことのできない間柄なのですよ」
ということを含意されている。いわゆる親密な関係を確認するという気配りである。
日本語では,「ソト」の人間に対して,テヤルを口にしても許されるのは幼い子供にかぎる
ようである。
(59)「先生,僕の傘を貸してあげるよ」
「ありがとう。でも,幸ちゃんは困るでしょう」
「僕は近いから,超特急で走って帰るよ。平気だよ」
(『涙が出るほどいい話』第5集p49)
(60)(ワカメちゃんと知り合った一年生の徹君がワカメちゃんの家に来ていて)
徹:時計,違ってるよ。
サザエ:えっ?
徹:こっちのと。
サザエ:あ,本当だ。
ワカメ:徹君は時計屋さんの子なの。
舟:それで。
徹:僕が合わせてあげる。
(フジテレビ「サザエさん」より)
(59)(60)のテヤルの動作主は小学生なので,失礼どころか,無邪気に聞こえる。言葉の
適切さはその社会における人間関係の在り方や価値観等に基づいて判断されるのである。小学
校に上がる頃の子どもは複雑な構造の文も正しく使える相当高度な文法能力を身につけている
が,状況に応じた言葉の使い分けや,相手に失礼のない言葉遣いという点ではまだまだである。
そうした判断力が身に付くだけの社会経験をまだ経ていないためである。「先生,僕の傘を貸
してあげるよ」のような言い方を中学生や大学生が口にしないのは,彼らなりの社会経験を経
て,そう言ってはいけないことを心得ているからであろう。
三尾(1942)の次の話は(59)(60)のような表現への理解を助けてくれる。
日本人が話をするときには,自分の地位と相手の地位,および話のなかに出てくるあら
ゆる人と物との地位を,いつも考えの中に入れて,そのうへで話す態度を決めなければな
りません。(中略)さういふいろいろな言い方は,
「言葉づかひ」と呼ばれるもので,話す
態度の表れです。(中略)この言葉づかひを自由につかひこなすことは,日本に生まれて
日本語の環境のなかにずっと育って来た者にとっても,決してなまやさしいものではあり
ません。小さい子供の間は,大人に対しても誰に対しても,子供語をつかふことが大目に
207
16
王 燕
見られる傾きがありますので,わりあひ伸び伸びと物が言えるのですが,すこし大きくな
りますと,子供でも自分の家庭の地位と相手の地位とを考慮にいれた物の言い方をしない
と世間が許さなくなりますので,その時期から日本の子供は言葉の表現といふことにたい
へん苦労をします。親達もその訓練をつねに怠らないわけです。
(三尾 1995 復刊: 13)
実際の言語使用では,テヤルのような授益表現は家族同士の間だけではなく,親しい友達同
士の間でもよく使われる。鈴木(1997: 51)では,話し手が聞き手に恩恵を付与する場合にア
ゲル,テアゲルを使用できないことはあくまでも語用論上の制限であると指摘している。鈴木
は日本語教育の立場から,日本語を丁寧体しか通用しない「丁寧体世界」と普通体で通す「普
通体世界」に二分した。テヤルの使用制限が起きるのは丁寧体世界に限られていて,普通体世
界においては,テヤルを使用するかどうかの判断は話し手に任されているとする。鈴木の言う
「普通体世界」と「丁寧体世界」はここで言う授受表現における「ウチ」と「ソト」に対応す
る概念である。「ウチ」においては,テヤルの使用制限はほとんどない
9)
ので,日本語教育の
現場では,その使用制限を強調しすぎると,補助動詞の「不使用」に拍車をかける恐れがある
と思われる。
5. おわりに
以上の考察で明らかにされたように,テヤルの意味機能はかなり広い範囲で派生的に使われ
ている。中国における日本語教育では,有情物の受益者を指示するという役割を果たすテヤル
だけが取り上げられてきた。授受表現の意味機能を限定しすぎる今までのような扱い方は,学
習者に見られる授受表現の誤用の原因にもなっていると思われる。重要なのは,授受表現が基
本的な意味機能を持つ一方,派生的な意味機能も持っていることを学習者に知ってもらうこと
である。受益者指示機能は基本的な意味機能を持つテヤルの特徴であると言えるなら,表現主
体の主観的態度を示す機能は派生的な意味機能を持つテヤルの特徴であると言えよう。前者に
おけるテヤルは省略不可能だが,後者におけるテヤルは削除されても,文の知的意味には影響
を与えない。このようなテヤルに対応する文法的な表現形式を持たない中国語を母語とする日
本語学習者にとって,テヤルをはじめ,授受表現全般は習得しにくい表現形式であることは言
うまでもないが,決して習得不可能な表現形式ではない。
人間社会の,互いの関係を維持し,また,さらによりよい関係を築き上げていくための配慮,
それ自体は普遍的なものである。独特の授受表現を持つ日本の社会では,人間関係を相互依存
の形で捉えようとする傾向がより強いことと考えられよう。事実上,日本の社会では,人間関
係維持のストラテジーの一つである「相手からの恩恵への言及」を行う頻度が非常に高い。日
本語母語話者にとって,相手からの恩恵行為に対して,機会あるごとに言及することが人間関
係をよりよく保っていくための重要なコミュニケーションルールになっていると言える。すな
わち,「それが適当に行われなかった場合に,粗野・ゾンザイという感じを相手に与えたり,
相手の感情を害したりする」(佐久間 1936: 200)ようなことが起こる。したがって,授受表現
は日本文化を理解する鍵であり,授受表現の習得は日本語を習得する鍵であると言っても過言
ではない。
208
「∼テヤル」の派生的な意味機能について
17
テヤルの使用から分かるように,授受表現には,擬人化と呼ばれるメタファーに基づく意味
の拡張が多く見られる。類似性の認識に基づくメタファーの認知プロセスによって,語句や文
の意味領域が拡張され,多様な表現が可能になっている。人間関係における授受を表すのに使
い始められた授受表現はだんだん人間関係に限らない事態にまで使われるようになった。擬人
的な用法の多い授受表現から,認知主体,言語主体としてのわれわれは,具体的な経験によっ
て作られたイメージを介して対象を把握しているだけではなく,状況によっては具体的なイメ
ージを拡張し,この拡張されたイメージを介してより抽象的な対象を理解しているということ
が分かる。また,授受表現の多様な意味機能を理解するには,プロトタイプ理論に基づく指導
法も効果が期待できそうである。基本的な意味機能にしろ,派生的な意味機能にしろ,使用頻
度の高いプロトタイプ的な表現から学習者に授受表現を理解してもらうようにすれば,より効
果的な習得が期待できると思われる。
註
1)
2)
3)
4)
5)
6)
7)
8)
9)
本稿では,特別な断りがない限り,テヤルを授与補助動詞の「∼てやる/∼てあげる/∼てさしあ
げる」の代表,テクレルを授与補助動詞の「∼てくれる/∼てくださる」の代表,テモラウを取得
補助動詞の「∼てもらう/∼ていただく」の代表とする。
本稿では,授受補助動詞が構文での意味役割を授受表現の意味機能とする。
詳しくは大江(1975)を参照。大江と同じ主張の研究が多く見られる。例えば,藤井正(1993: 653)
では,「ある人が,ある動作の実現,または動作のもたらす『利益』を希望しているときに,その
希望をかなえる」というのが,補助動詞テヤルの本質とされている。
本稿では,例文の授受補助動詞が使われるところをはじめ,「注目してほしいところ」という意味
で施す下線はすべて筆者による。また,引用した先行研究や例文の中の括弧付きの部分も筆者によ
る。
山田の「受影者」とは,「動作の対象ではなく,動作の影響を受ける人」(山田 2001: 92)のことで
ある
ここで言う「反語」とは,本来主張したこととは反対の意味をもつ言語表現を発話するレトリック
のことである。
『コミュニケーションのための日本語教育文法』の80ページから引用。
「∼たげる」は「∼てあげる」の短縮形である。授受補助動詞の中で「∼てあげる」だけ短縮形を
持っている。
家族同士が面と向かって言う場合,家族の上位者が受益者であれば,「∼てあげる」の使用はほと
んどのようである。
参考文献
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佐久間鼎(1936)『現代日本語の表現と語法』厚生閣(1993くろしお出版より再版)
三尾砂(1942)『話言葉の文法』(1995くろしお出版より再版)
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大江三郎(1975)『日英語の比較研究 主観性をめぐって』南雲堂
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文堂
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新屋映子・姫野伴子・守屋三千代(1999)『日本語教科書の落とし穴』アルク
橋元良明(2001)「授受表現の語用論」『月刊言語』30-5 大修館書店
高見健一・加藤鉱三(2003)「受益表現の新展開」『月刊言語』32-1 32-6 大修館書店
209
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金殷模(2003)「いわゆる非恩恵の「─てやる」における受け手の再検討」『言語科学論集』第7号 東北
大学
山田敏弘(2004)『日本語のベネファクティブ─「てやる」「てくれる」「てもらう」の文法』 明治書院
田中真理(2006)「学習者の習得を考慮した日本語教育文法」『コミュニケーションのための日本語教育文
法』63-82 野田尚史編 くろしお出版
210
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