司祭召命を持つ女性たち - Womenpriests.org

第二十章 司祭召命を持つ女性たち
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第二十章
司祭召命を持つ女性たち
1997 年 10 月 19 日リジューの聖テレジアは公式に教会博士に指
名された。ローマ当局は気づいていないかもしれないが、彼らが
テレジアの伝統的な信仰と教えの正当性を認めたことは女性叙階
のために非常に重要な意味がある。なぜなら、テレジアは司祭に
なりたいと熱望し、含蓄的に女性が叙階され得るし、されるべき
との『カトリックの感覚』を証明したからである。
もし私が司祭であったなら(私の祈りで)あなたが天から来
られる時、私はあなたを私の手でどんなに心をこめて拝領す
ることでしょう。人々の霊魂に愛をこめてあなたを与えるこ
とでしょう。私は預言者や医者たちがしたように、人々の心
を光で照らしたいのです。私は使徒になる召命を感じていま
す。私はあなたの名前を知らせ、まだキリストを知らない地
1)
にあなたの十字架を立てるために全世界に行きたいのです。
誰よりもテレジアに親しかった妹のセリーンは次のように語っ
ている。
司祭になることが許されないという犠牲はテレジアがいつも
深く感じていたことでした。病気中、彼女の髪の毛を切る時
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に、彼女は剃髪(トンスラ)をしてくれと頼み、自分の手で
嬉しそうにそれを確かめていました。しかし、彼女が司祭に
なれないという失望はそのようなつまらないことで説明する
ことはできません。それは彼女が抱いていた神への真実な愛
によるもので、彼女の中に大きな希望を吹き込んだのです。
聖バーバラ(Barbara)が聖スタニスラス・コストカ(Stanislaus Kostoka)に御聖体を持って行ったという考えは彼女を感
動させました。「なぜ私は天使や司祭ではなく、修道女にな
らなければならなかったのでしょうか」「天国で私たちは大
いなることを見るでしょう」と彼女は言いました。「ああ、
この地上で司祭になりたいと願う人は天国で司祭職の誉れに
2)
与るのだと私は思います」
。
司祭召命を持つ女性たち
過去において女性の司祭職への召命は公の偏見によって簡単に
潰された。このことは、何千人ものカトリック女性信徒が司祭職
に招かれていることを表明している今日ではより顕著になった。
すべての召命はもちろん試される必要がある。しかし、もし一人
のカトリックの女性が祈りと識別のプロセスを通して、普通、男
性に受け入れられている正真正銘の召命のしるしがあるなら、彼
女の召命が単に女性の性に属しているとの理由で、神から呼ばれ
ているはずはないと言えるのだろうか。
この数年間、司祭的奉仕職に招かれていると感じている女性た
ち 80 人以上の証言と伝記を集めた。彼女たちの何人かを私は個
人的に知っている。ある人たちは手紙を書いてくれた。彼女たち
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の内的探求の記録や司牧的な仕事のことを雑誌や本に載せた。彼
女たちはオーストラリア、カナダ、米国、英国、アイルランド、
スコットランド、イタリア、スペイン、ドイツ、フランス、オー
ストリア、スイス、ベルギー、オランダなど世界各地の女性たち
である。
偏見を持たない第三者を驚かせることは、証言をする女性たち
は均衡がとれていて、献身的、霊的で、有能な人たちであること
だ。ほとんどが神学を学び、資格を持っている。多くは長期にわ
たる、要求の高い司牧的奉仕職に対する情熱を持っている。ここ
では狂信的な人や心理的癒しを求めて叙階を望む女性たちの話を
しているのではない。霊的、秘跡的支えを必要とする人たちのこ
とを心にかけ、その必要性に司祭として応えることができるはず
なのに、それができない女性たちの声に耳を傾けたい。
1998 年 10 月に亡くなったクレア・ドレル(Claire Daurelle)は、
リヨンの荒廃した小教区であるデュシェールで 25 年間も奉仕し
た。
「私は自分の召命を徐々に、そして『不承不承』発見しまし
た」とラ・クロア紙のインタビューで話した。「私は司祭の仕事
である説教、洗礼、結婚式、葬式などを行うように任命されてい
ます。私は司教に『私の上に手をかざし按手してこの仕事を公に
認めてください』と言い続けていますが、彼はしないと答えま
3)
す」と。
匿名を望む一人の信徒宣教師はアフリカの僻地の農村共同体で
働いている。彼女は自分に託された人たちのために何でもしてい
る。主日の典礼の説教や聖体授与や要理教育、洗礼式、結婚式を
行うなど。彼女ができないのは告解を聴くこと、聖体祭儀を行う
こと、病人に塗油を施すことで、このために 2、3 カ月ごとに訪れ
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る司祭に依存しなければならない。
「来る日も来る日も村人にと
り私が司祭なのです」
、
「村人のことばを話しもしない部外者が、
彼が男であるという理由だけでキリストをより代表しているとい
うことが、本当に神の聖旨であり得るのでしょうか。このような
ことは教会の中で女性の尊厳について、また、キリストの愛の優
先についてどんなメッセージを私が関わる人々に伝えているので
しょうか」
。
ドイツのミュンヘン大司教区の 30 歳のウルリケ・ムル(Ulrike
Muru)は神学と化学を学んだ。彼女は大学講師をしながら生活費
を稼ぎ、自由になる時間のほとんどを小教区で奉仕している。
「私は若い頃から司祭職に招かれていると感じています。私はこ
の召命と闘ってきました。神から逃げようと努めましたが、逃げ
ることはできませんでした。私の霊的指導者や私に託された多く
の人々は私が良い司祭になることを認めています。私は教会位階
制度が理解できません。私はもう一人のキリストになるために、
私のすべてを全部奉献したいという私の心を捧げています。でも、
私の面前で扉はぴしゃりと閉ざされているのです。同時に召命の
ために祈るよう促されているのを感じます」と語っている。
英国中の主な司教座聖堂の前で毎年聖木曜日に、カトリック女
性信徒たちは祈るために集まる。彼女たちは自分たちの失われ、
拒絶された賜物を嘆いて紫色のものを身につける。
「私たちは歌
い、祈り、沈黙し、そして私たちにインスピレーションを与えた
先輩たちに思いを馳せるのです」と司祭職への召命を感じている
ヘレン・ブラックバーンは言う。彼女はランカシャー出身で、現
在はスコットランド・カトリック女性叙階グループの代表を務め
る。
「何らかの理由で女性叙階に反対する人たちは、私のような
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者に無礼な振る舞いをしても構わないと考えているようです」と
語っている。
私のことをほとんど知らない人たちから、私がどんな本を読
むのか、ミサに行くのかどうかとしつこく尋ねられます。司
祭たちも不愉快な冗談を口にします。ある司祭はなぜ聖公会
に移らないのかと尋ねました。昨年の聖香油のミサでカテド
ラルの前でリーフレットを配っていると、それを受け取った
一人の女性はそれを半分に裂いて私に投げ返そうとしました。
彼女はとても怒っていましたが、この出来事は悲しいことで
した。私は引き裂かれた紙片をポケットに入れて何日間か
取って置きました。人々をそんなに感情的にする女性叙階と
は一体何なのかと不思議に思わないわけにはいきませんでし
た。リーフレットを半分に引き裂くことで気持ち良くなるの
でしょうか。それは変革への怖れ、未知のことへの怖れ、教
会当局が何を思うのかの怖れなのでしょうか。私には答えら
れませんが、議論の禁止が問題の意味深長な一因だと思いま
す。
孤立した現象ではない
以前は女性が抱いていた司祭職へのいかなる可能な召命も、蕾
のうちに早急に摘み取られるか、修道生活へと逸らせ、その歴史
的記録は抹消されていた。現在、文化的偏見が徐々に消え去る中
で霊の促しはもはや無視できなくなった。種々の異なる環境の下
で、多くのカトリック女性信徒が招きを感じているのは明らかで
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ある。
1973 年、司祭職に招かれていると感じていた 80 人ほどの女性
のネットワークがヨーロッパのフランス語圏の国々にできた。彼
4)
女たちは公の教会の態度のために匿名にすることに決めた。1978
5)
年には米国で同じような女性たちに関する研究が出版された。ド
6)
イツでは 27 人が 1998 年に彼女たちの証言を公にした。
米国の研究は心理学者や霊的指導者による徹底的な調査の結果
を記述している。司祭職への男性候補者に普通適用されるものを
超えるような厳格なテストと個人面接を経て、研究者たちは女性
候補の 54% は成熟した人格を持っており、37% は発展段階にあ
るとの結論を出した。たった 9% だけが不適当と見なされた。さ
らに、女性候補者の 44% は叙階された有能な聖職者に確実にな
ると、33% も多分そうなるだろうと見なされた。残り 23% の成
熟度はあまり確かではないと考えられた。換言すれば、召命を感
じる女性の四分の三は霊的、心理的、司牧的に司祭職の奉仕職の
7)
ために相応しいとされたのだ。
認証されないのか
女性司祭への召命に関する教会の公式の態度は、彼女たちに教
会の認可がないという理由で簡単に無視されてしまうということ
である。
教会内の召命は望みを表し、内的な強い衝動で魅力を感じる
事実に元来あるのではない。万が一この自発的なステップが
取られたとしても、そして万が一自分の魂の深みでの招きで
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あるかのように聞こえたと信じても、召命は教会の外的な招
8)
きによって承認される時からのみ本物なのである。
確かに、教会は、信者の共同体が新しい候補者たちを評価する
役割を果たす限りにおいて、召命の認証者なのである。叙階式で
司教が会衆に向かって叙階候補者が相応しいかどうかを聞くのは
このためである。今日では普通、彼らの神学院の院長が答えるが、
それでも彼は集まった信者たちに代わって答えるのである。また、
司教の最後の招集は教会としての承認のような意味があるが、召
命が教会によって「志願者たちが形式的に呼ばれる時に」のみ本
物だと宣言することはナンセンスなのである。
昔から司祭召命は神に起因を帰してきた。彼らの人間的起源と
人間的成長にもかかわらず、また、その真只中で、召命は聖霊の
導きなのだと教えられてきた。招くのは神である。若者たちが自
分の心に起こってくるものや信者たちから励まされる中で、識別
するように促されるのは神の声なのだ。神が女性たちの霊的意識
に語りかける時、同じような神の招きが無視されるのはどういう
ことなのだろうか。ここで、コルネリウスと彼の異邦人の家族の
信仰のうちに、ペテロが聖霊を識別する例は、これに対応する
ケースではないだろうか。教会は、ペテロのように「神は人を分
け隔てなさらない、ということを認めないのだろうか。聖霊の招
きを受けた女性たちを叙階することを誰が拒むことができよう
9)
か」
。
ヨハネ・パウロ二世は自分自身の召命を神の不可思議な内的声
として話している。
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私は度々、なぜ私が司祭になったかと特に若者たちから聞か
れます。多分あなた方の中に同じ質問をしたい人がいるで
しょう。手短に答えましょう。すべてを説明することは不可
能だということから始めなければなりません。なぜならそれ
は私自身にとり奥義なのです。誰が神のやり方を説明できる
でしょう。私は生涯のある時点で、私より前に何千人もの
人々に言われたこと、つまり、キリストが「私に従いなさ
い」と言っておられることを確信したのです。私が心の中で
聞いたのは人間の声ではなく、私自身の考えでもなかったこ
とは明白でした。キリストは私が司祭として彼に仕えるよう
10)
招いておられたのです 」
。
「私の心の中で聞いたのは人間の声でもなく、私自身の考えで
もなかった」。男性も女性もキリストにおいて一つであり、聖霊
の同じ命を分かつのに、女性たちへの神の招きが無効だとどうし
て断言できるのだろうか。聖霊は望むままに人を自由に招くので
はないのか。教会の認証には真の召命を無視する権利があるのだ
ろうか。
さらにもし聖職位階組織が召命の唯一の認証者であるなら、ヨ
ハネ・パウロ二世とラツィンガー枢機卿が何回も宣言したように、
11)
なぜ教会は「女性を叙階する権限を持たない」のだろうか 。も
し、誰の『召命』が本物で、誰のが本物でないかを決定するのが、
明確に神ではなく聖職位階制度にあるなら、聖職位階制度はどう
して女性を司祭に叙階する権限を持たないとの立場を固持するこ
とができるのだろうか。もし聖職位階制度が唯一の決定機関なら、
なぜこの唯一の決定機関が権威を持たないのだろうか。