従軍慰安婦問題の歴史的研究

第四部
迷える近現代
従軍慰安婦問題の歴史的研究
林
史郎
はじめに
一九九一年一二月、はじめて三人の韓国人元従軍慰安婦が、日本政府の謝罪
と補償を求めて東京地裁に提訴し、日本人に衝撃をあたえた。「従軍慰安婦」と
は日本軍の管理下におかれ、無権利状態のまま一定の期間拘束され、将兵の性
交 の 相 手 を さ せ ら れ た 女 性 た ち の こ と で あ り 、「軍用性奴隷」とでもいうしかな
い境遇に追い込まれた人たちである。従軍慰安婦の存在自体は、戦争に行った
ことのある元軍人ならだれでも知っていることであり、それまで従軍慰安婦の
問題がまったく意識されていなかったわけではない。しかし、問題の重大性に
つ い て の 社 会 的 関 心 は 決 し て 広 く は な か っ た 。「韓国挺身隊問題対策協議会」な
どを中心とする韓国の女性運動によって問題が社会化したのである。これに対
してて日本政府は公式に謝罪(訪韓した宮沢喜一首相は九二年一月一七日、日
韓首脳会談で公式に謝罪)したとはいえ、国と国との間の請求権は決着ずみと
し、個人の補償はおこなえないという態度を変更してはいないのである。
従軍慰安婦問題はさまざまな考えるべき問題をふくんでいる。女性に対する
重大な人権侵害であることはまちがいないが、日本軍の体質の問題、植民地政
策の問題、他民族蔑視の問題など、多岐にわたる。それらの問題解決のために
も、何より事実究明の努力が必要である。ここでは、軍慰安所はいつどこにつ
くられ、日本軍・日本政府はどのように関与したのか、また実態はどうであっ
たのか等を分析・検討し、従軍慰安婦問題の全体像を解明していきたいと考え
ている。
な お 、「従軍慰安婦」の「慰安」ということばの本来の意味と、実際に強制さ
れ た 行 為 の あ ま り に 大 き な 落 差 の た め 、「従軍慰安婦」という用語が適当とはい
えないという声も多い。私もその意見に賛成だが、すでに広く流通しており、
代替すべきことばはまだ成立していない。したがってここでは、従軍慰安婦と
いう用語を用い、その実態を分析・検討していくこととする。
第一章
1
設置の経過と実態
第一次上海事変から日中戦争期について
従軍慰安婦や軍慰安所の制度はいつつくられ、どのように広がっていったの
だろうか。残された資料が氷山の一角であるだけに、これを正確に把握するの
は難しい。現在までのところ、確実な資料によって確認される最初の軍慰安所
は、第一次上海事変(三二年)のときに上海に派遣された日本海軍によって設
置された。その後、陸軍でも、上海派遣軍の岡村寧次参謀副長が海軍の慰安所
を参考にして設置した。岡村参謀副長の回想によれば、上海で日本軍人による
強姦事件が発生したので、これを防ぐため長崎県知事に要請して「慰安婦団」
を招いたという(稲葉正夫編『岡村寧次大将資料』戦場回想篇)。シベリア・ア
ジア・太平洋の各地に、売春のために身売りなどででていかされた「からゆき
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さん」は、長崎県出身の女性が多かったので、陸軍はまずそれに目をつけたの
であろう。ここで強姦防止を理由にあげているのは重要である。岡村と組んだ
岡部直三郎上海派遣軍高級参謀も、日記につぎのように記している。
この頃、兵が女捜しに方々をうろつき、いかがわしき話を聞くこと多し。こ
れは、軍が平時状態になるだけ避け難きことであるので、寧ろ積極的に施設を
なすを可と認め、兵の性問題解決策に関し種々配慮し、その実現に着手する。
主 と し て 永 見 中 佐 こ れ を 引 き 受 け る 。(『岡部直三郎大将の日記』三二年三月一
四日付)
この記述から、軍慰安所設置を派遣軍参謀副長や派遣軍高級参謀が企図・指
示をし、永見参謀が設置にあたったという指揮系統がわかるが、何より重要な
のは、軍慰安所は軍人による強姦事件を防止するためだという論理である。ど
うしてこのような発想が生まれるのだろうか。また、なぜ、強姦事件発生を聞
くやいなや、すぐに軍慰安所を設置するというすばやい対応となったのだろう
か。おそらく、一八年から二二年まで戦われたシベリア出兵の経験が念頭にあ
ったと思われる。岡村も岡部もこの出兵を経験している。
シベリア出兵は、戦争の目的がわからない戦争であり、士気の低下と軍紀の
ゆるみがめだち、民家からの家畜・薪の掠奪や強姦事件も少なくなかったとい
う。これは作戦に支障をきたす要因として、軍首脳部にとっても頭が痛いこと
であった。
さらにシベリア出兵で特徴的だったことは性病感染率の高さである。一八年
八月から二〇年二〇月末までの間に出た性病患者は一一〇九人に及ぶ。かかっ
ていても隠す者が多かったから、実数はずっと多かったはずである。憲兵司令
部の分析によれば、その原因のひとつは将兵などの相手をする芸妓・酌婦の性
病感染率が高いことにあった。津野一輔サハリン軍政部長は二〇年九月一日、
「芸妓、酌婦取締規則」をつくり、芸妓・酌婦は憲兵隊の許可制とし、憲兵隊
の指定した健康診断を受けるよう義務づけている。これは憲兵隊管理の公娼制
である。すでにこのような経験を日本軍はもっていたのである。
三七年七月、日本は中国に対する全面的な侵略戦争を開始した。またたく間
に数十万もの兵力が中国大陸に派遣され、三八年以降は中国大陸に常時一〇〇
万以上の軍隊が駐屯するという事態になった。このような大量動員は、日本軍
にとってはじめての経験である。そして三七年末から、日本軍は中国各地に大
量に軍慰安所を設置しはじめるのである。
軍慰安所の設置に関係した将校は、ほとんどが陸軍のエリ−トだったという
こ と か ら も 、慰 安 所 設 置 が 組 織 的 な も の で あ っ た こ と は あ き ら か で ある。ま た 、
決して現地軍の独断でそれがおこなわれたのではなかった。慰安所設置の具体
的施策は現地軍が策定したにせよ、この方策を積極的に是認し推進したのは、
ほかならぬ陸軍省であった。陸軍省の関与を示すもっとも重要な資料の一つは、
三八年三月四日に陸軍省副官通牒として出された「軍慰安所従業員婦等募集に
関 す る 件 」(『 陸 支 密 大 日 記 』防衛庁防衛研究所図書館所蔵)と い う 文 書 で あ る 。
これによれば、陸軍省は、派遣軍が選定した業者が、日本内地で誘拐まがいの
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方法で慰安婦の募集をおこなっていることを知っていた。しかし、このような
ことがつづけば、日本軍に対する国民の信頼が崩れる。そこでこのような不祥
事を防ぐために、各派遣軍が徴集業務を統制し、業者の選定をもっとしっかり
するようにと指示したのである。また、徴集の際、業者と地元の警察・憲兵と
の連携を密接にするように命じている。文書のなかに「依命通牒す」とあるの
は重要で、これは陸軍大臣(杉山元)の委任を受けて出されていることを意味
する。すなわち、陸軍省が自ら慰安婦政策に関わることを宣言しているのだ。
他の資料からも、陸軍省は、軍人の志気の振興、軍紀の維持、掠奪・強姦・放
火・捕虜虐殺などの犯罪の予防、性 病 の 予 防 の た め に 軍 慰 安 所 は 必 要 だ と し て 、
そのはたす役割を積極的に認めていたことがわかる。
次に、陸軍中央(陸軍省・参謀本部)と派遣軍との指揮系統から考えてみよ
う。各派遣軍は天皇の命令で出動し、参謀総長の助言にもとづく天皇の命令で
作戦に従事した。各派遣軍に対する指揮権は天皇がもっていたが、天皇から権
限の一部を委任されて、参謀総長が軍令(作戦)関係を、陸軍大臣が軍政関係
を担任した。これを区処という。参謀総長や陸軍大臣には指揮権はなく、区処
権しかなかったのである。
朝鮮軍司令官・台湾軍司令官も天皇に直隷し、軍令関係については参謀総長
の、軍政関係については陸軍大臣の区処(指示)をうけていた。憲兵に関して
は、陸軍大臣は日本内地の憲兵を指揮し、朝鮮・台湾の憲兵の人事・服務など
を管轄した。朝鮮軍司令官は朝鮮憲兵隊司令官を指揮し、台湾軍司令官は台湾
憲兵隊長を指揮した。このため、朝鮮軍・台湾軍や憲兵が関わったことについ
て、その責任は陸軍大臣に及ぶことになる。
仮に慰安所設置や慰安婦徴集について陸軍中央の意向を無視してことが運ば
れていたとしても、まったく責任がないとはいえない。しかし、慰安婦関係に
ついては、各派遣軍の参謀部が担当したとはいえ、必要に応じ、陸軍省自身が
指示を出して統制していたのである。実際、慰安婦を船で戦地に送る際に、日
本陸軍が管理する日本船籍の軍用船を使用したが、これは陸軍中央の了解なし
には不可能なことであった。船舶の輸送業務は大本営陸軍部の兵站総監(参謀
次長が併任)が管轄し指揮していたのである。
だが、陸軍だけでは円滑な運営は不可能であった。主に慰安婦の徴集・移送
に関して、内務省・朝鮮総督府・台湾総督府という国家機関が協力していたの
である。内務省は慰安婦の渡航は、華北・華中に渡航する場合に限って、これ
を黙認するとの指示をだし、慰安婦送出に加担している。つぎに、朝鮮総督府・
台湾総督府をみてみると、朝鮮・台湾から慰安婦が中国に渡航する場合、「 渡 航
証明書」の発行は、総督府の下にある各警察署がおこなっている。未成年者の
徴集や強制徴集がおこなわれた場合、そうと知りながら渡航証明書を発行した
なら国際法違反であり、知らないで発行したなら職務怠慢である。しかも、朝
鮮・台湾の各警察署は、渡航証明書の発行の際には、慰安婦など渡航者の職業・
素性・経歴・言動・渡航期間・渡航目的を調査し、正当な渡航目的でなければ
許可しないことになっていたので、強制徴集の事実は十分に知りうる立場にあ
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った。
次に慰安婦徴集について考えてみる。慰安婦の集め方には、二通りあった。
第一は、派遣軍が、占領地で慰安婦にする女性を自分で集める方法である。第
二は、日本・朝鮮・台湾での徴集である。第一の方法は、後に説明するとして、
ここでは、第二の方法をみてみる。これには、ふたつのやり方があった。ひと
つは、戦地に派遣された軍が、自分で選定した担当者または業者を日本・朝鮮・
台湾に送り込み、慰安婦を集めるやり方である。ふたつめは、派遣軍からの要
請を受けて、日本の内地部隊や台湾軍・朝鮮軍が業者を選定し、その業者が慰
安婦を集めるやり方である。
いずれにせよ、憲兵や警察が表にでることはなかった。しかし、憲兵・警察
は業者を支援、もしくは連携して慰安婦を集めたことは間違いない。何より、
どちらの場合も、慰安婦を集める場合には、業者は軍または在外公館(領事館)
が発行する許可証、または警察の正規の証明書を必ずもっていなければならな
かったのである。軍慰安所設置および慰安婦徴集には、日本軍はもちろん、国
家ぐるみで関わっていたことは明らかである。
軍慰安所を設置した目的とはいかなるものであったのだろうか。すでに述べ
てきたことと重複する点もあるがここでまとめてみようと思う。慰安所設置の
目的とは、一.強姦事件防止、二.性病防止、三.将兵への「慰安」の提供、
四.スパイ防止である。
まず一からみてみよう。設置目的は達せられたのだろうか。実際には、強姦
事件はなくなるどころではなかった。慰安婦制度とは、特定の女性を犠牲にす
るという性暴力公認のシステムであり、女性の人権をふみにじるものである。
一方で性暴力を公認しておきながら、他方で強姦を防止するということは不可
能であり、当然ながら、強姦事件を防止する本質的解決に結びつくはずもなか
った。本来、強姦事件を防止するには、犯罪を犯した軍人を厳重に処罰するこ
とが必要であり、それこそがまずなされなければならないことであった。しか
し、陸軍刑法の規定自体が強姦罪に対して甘かった。しかも、取り締まる側の
運用次第でどうにでもなったのである。
次に、二についてはどうであったのだろうか。性病の入院・完治期間は長い
ので、軍にとって深刻な問題であった。では、慰安婦導入によって、性病患者
は減ったのだろうか。実際は、あいかわらず患者は多く、性病専門病院が必要
なほど深刻な状況であった。このため、軍当局は、占領地で民間の売春宿の利
用を禁止するとともに、軍医に定期的に慰安婦の性病検査をおこなわせ、兵士
にはコンド−ムの使用などの予防策を講じさせていた。しかし、管理されてい
るはずの軍慰安所でも、性病感染は防げなかったのである。四〇年の北支那方
面軍「幹部に対する衛生教育順序」に書かれている性病予防法のいくつかをと
りあげてみると、コンド−ムの使用だけでなく、性交前後の予防薬の使用や洗
滌消毒、帰営後に医務室に立寄り処置をうけるなど、たいへんめんどうなもの
であった。このような予防法を完全に実行す る 者 は ほ と ん ど い な か っ た だ ろ う 。
また、性病患者だと判ると不名誉になるので、多くの将兵はそれを隠そうとし
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たため、慰安婦だけでなく将兵が性病の感染源になることが多かったのである。
性病防止に関して軍慰安所は十分な効果をあげなかったどころか、軍慰安所を
介して新規患者が生まれていった。
また、日本が開始した戦争は、勝利の見通しのない無謀な戦争であった。こ
のような戦争に、休暇制度も不十分なまま、長期間戦場に将兵を釘付けしてお
くために、性的な慰安が必要だと日本軍は考えたのである。軍医たちは、音楽・
映画・スポ−ツ等の娯楽施設の設置を提案したが、性的慰安施設を除いてほと
んど実現しなかった。しかも、兵士の人権はまったく認められず、上官の厳し
い監視と私的制裁が日常的におこなわれていた。このような状況で、将兵の戦
闘意欲を維持するために、また、その不満が爆発しないようにするために、日
本軍が軍慰安所を増やしていったことは見逃せない。
最後に、四のスパイ防止という側面について説明しよう。将兵が占領地にあ
る民間の売春宿に通うと、地元の売春婦を通じて将兵から軍事上の機密が漏れ
るおそれが大きくなる。そこで、みずから慰安所をつくり、それを常時、監督・
統制することが得策だと日本軍は考えたのである。軍慰安所には憲兵や巡察将
校等が定期的に立寄り、将兵と慰安婦との関係や経営内容を点検した。スパイ
防止のためには、慰安婦は「邦人」(日本人・朝鮮人・台湾人)であることが望
ましかった。だが、人数も足りないし、女性たちを輸送してくるには、時間と
手間がかかるので、占領地の女性も徴集した。そこで、軍慰安所の監督・統制
がなおさら不可欠となったと考えられる。
2
アジア太平洋戦争期について
四一年一二月、日本はアメリカ・イギリス・オランダなどに対して戦争をお
こ し 、東南アジア・太 平 洋 の 広 大 な 地 域 を 占 領 し た( ア ジ ア 太 平 洋 戦 争 の 開 始 )。
そして四二年初めから、日本軍が占領したこれらの地域に軍慰安所が次々に設
置されていった。
三八年以降、領事館(外務省)が軍関係の慰安婦についての管轄権を失って
いた。アジア太平洋戦争開始以降には、慰安婦や業者が東南アジア・太平洋地
域に渡航する場合の管轄権もまた、軍に帰属することになる。外務省が関わる
ことなく、軍の証明書のみで渡航するようになったのである。
これに対し、陸軍省は、アジア太平洋戦争がはじまってからは、東南アジア・
太平洋地域への慰安婦の渡航をすべて中央で統制しようとした。軍の身分証明
書を持たない者は渡航させないというのだから、陸軍省の許可なくしては慰安
婦が東南アジア・太平洋地域に行くのは不可能となったのである。
陸軍省は性病予防の面からも軍慰安所の管理を厳しくしていく。四二年六月
一八日の陸軍省副官通牒「大東亜戦争関係将兵の性病処置に関する件」は、陸
軍省があらためて全部隊に性病の蔓延防止を指示し、関連して全出動部隊に軍
慰安所の衛生管理の徹底を指示する文書である。これは、医務局衛生課が立案
したものだが、性病管理の面での軍慰安所の必要性を積極的に認めている。戦
争の新しい段階で、陸軍中央が性病予防という点から慰安所の必要性を再確認
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したのである。実際、当初から陸軍中央を悩ませた性病の広がりは、依然とし
て深刻であった。四二年以降、陸軍省は従来派遣軍にまかせていた軍慰安所の
設置をみずから手がけはじめる。しかし、このような方策が決して軍紀風紀ひ
きしめに役立つことがないことはあきらかであった。
海軍では、慰安婦のことを「特要員」と呼んでいた。海軍では海軍省が東南
アジア・太平洋方面への慰安婦の配置と運営方針を決定していた。ちなみに、
戦後に首相となった中曾根康弘も、この時期、主計将校(中尉)として軍慰安
所設営に関係していたことを、回想記「二三歳で三〇〇〇人の総指揮官」に記
している。海軍は慰安婦を船で戦地に送る際、軍艦や海軍が管理する軍用船を
使 用 し て い る 。その指揮・統制は、海 軍 省 ま た は 各 鎮 守 府 や 各 艦 隊 が 担 当 し た 。
ここで、軍慰安所の形態についてまとめてみよう。軍慰安所は、経営形態か
らみると、一.軍直営の軍人・軍属専用の慰安所、二.形式上民間業者が経営
するが、軍が管理・統制する軍人・軍属専用の慰安所、三.軍が指定した慰安
所で、一般人も利用するが、軍が特別の便宜を求める慰安所 という三つのタ
イプがあった。もちろん、この三つは大まかな分類であり、実際には、直営慰
安所から民間の売春宿に近いものまで、いろいろなかたちがあったことはいう
までもない。本来の軍慰安所は一、二であった。三は軍慰安所と民間の売春宿
との中間形態であった。そして、日中戦争期には、軍専属の慰安婦・軍慰安所
は領事館警察もある程度把握していたが、アジア太平洋戦争期には、これは軍
だけが把握するようになり、軍管理の性格がいっそう強くなっていったのであ
る。
次に、設置された場所による違いも重要である。ひとつは、大都市などにあ
って、駐屯部隊だけでなく、さまざまな通過部隊が利用する軍慰安所である。
約三〇軒が軒を連ねる漢口(積慶里)の軍慰安所はその代表的なものだった。
もうひとつは、特定の部隊に専属する慰安所である。部隊専属慰安所はその部
隊の分屯中隊に派遣されたり、部隊と行動をともにすることもあった。
ま た 、利 用 者 に よ っ て も 性 格 は 違 っ て い た 。将 校 専 用 の 慰 安 所 ま た は 料 亭 は 、
通常、将校クラブとよばれ、そこにいるのはほとんど日本人慰安婦だった。下
士官・兵用の慰安所にも日本人がいないことはなかったが、多くの場合、朝鮮
人・台湾人・中国人や東南アジア・太平洋地域の住民が慰安婦とされていた。
また、東南アジア・太平洋地域では、商社員など軍のために活動する在留日本
人の軍慰安所利用が認められる場合があったし、日本軍のための補助兵力とし
て動員された地元出身の兵補用に慰安所がつくられていた場合もあった。
現在、日本・アメリカ・オランダの公文書によって、軍慰安所の存在が確認
されている地域は、中国、香港、マカオ、フランス領インドシナ、フィリピン、
マレ−、シンガポ−ル、英領ボルネオ、オランダ領東インド、ビルマ、タイ、
太平洋地域の東部ニュ−ギニア地区、日本の沖縄諸島、小笠原諸島、北海道、
千島列島、樺太である。
だが、以上にとどまらないことはあきらかである。戦争のために軍隊が派遣
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されたところには、最前線をのぞいて、どこでも軍慰安所が設置されたとみる
べきであろう。そして、大量の兵員が送られた地域では、多くの軍慰安所がつ
くられた。本土決戦にそなえて大量の兵員が配置された九州や千葉県にも設置
されている。
慰安婦の総数は、八万(千田夏光『従軍慰安婦』)とも、朝鮮人だけで「推定
一 七 万 ∼ 二 〇 万 」( 金 一 勉 『 天 皇 の 軍 隊 と 朝 鮮 人 慰 安 婦 』) と も い わ れ て い る 。
後者の数字はかなり多すぎると思うが、実数となるとはっきりしない。日本軍
は戦争犯罪の追及をおそれて敗戦直後重要な資料を焼却したし、現在残ってい
るものでも日本政府はかなりの資料を公開していないからである。私としては、
五万人∼二〇万人の間と推定している。しかし、占領地では、軍による拉致や
一定期間の監禁輪姦のケ−スや短期間の徴集のケ−スが多かったため、このよ
うな被害者を慰安婦数に加算すればもっと多くなるはずである。
公文書によって確認されているかぎりでは、日本人・朝鮮人・台湾人・中国
人・フィリピン人・インドネシア人・ベトナム人・ビルマ人・オランダ人が、
慰安婦として徴集されていた。だが、これ以外にも、日本軍が占領した各地域
で、地元の女性たちが慰安婦にされたと思われる。慰安婦の民族別の比率はど
うであったのか。直接、それを示す資料はないが、多少なりとも傾向をうかが
うことができるのは性病関係の統計である。中国では、朝鮮人・中国人・日本
人が多い。しかし、東南アジア・太平洋地域では、輸送が困難であったことも
あって、地元の慰安婦の割合がよりいっそう高くなったものと思われる。
いままでみてきたことから、慰安所制度の運営の主体は軍であったことはあ
きらかである。まさに軍の管理下で設置・運営されていたのであった。
第二章
1
慰安婦の徴集方法と生活の実態
慰安婦の徴集方法
慰安婦徴集の実態は、軍や政府の資料からも推察できるが、現実に何がなさ
れたのかを知るには限界がある。ここでは、主として元慰安婦の証言を中心に
考えていく。もちろん、記憶違いがないとはいえない。実際、証言内容が矛盾
したり、年代などがあいまいだったりする。しかし、その証言は、記憶違いや、
事実をかくしている場合をのぞけば、大変重要である。文字の世界に生きてい
ないだけに、逆に、強烈な体験はそのときどきの鮮烈な記憶となっており、く
りかえし聞くことによって当事者でなくては語りえない事実関係が浮かび上が
ってくるからである。ここでは、様々な証言のうち、信頼性が高いと判断され
る証言を検討しながら、徴集の実態を再現していく。
まず、日本人慰安婦の場合を考えてみる。日本内地から慰安婦を送ろうとす
れば、二一歳以上で、しかも売春婦の中から集めるほかなかった。警察がその
ように制限していたからである。これは、婦人・児童の売買を禁止した国際条
約に日本も加盟しており、それを意識しなければならなかったからである。し
かし、警察の渡航許可基準は、厳密に守られたわけではなかった。警察の裁量
で、未成年者でも黙認される場合が少なくなかったのである。日本で暮らして
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いた朝鮮人の女性たちの場合、とくにこの基準が守られなかった。
朝鮮からの徴集でもっとも多いのは、だまされた連れて行かれたケ−スだっ
た。彼女たちのほとんどは、家が貧しいため、苦しくて希望のない生活を強い
られていた。また、彼女たちは、日本の植民地支配のもとで、また女性差別の
も と で 、十 分 な 学 校 教 育 を う け ら れ な か っ た 。三〇年の朝鮮 国 勢 調 査 に よ れ ば 、
朝鮮人男性の識字率は三六%であり、女性はたった八%であった。そのような
状況に追い込まれていた中で、良い仕事がある、工場で働かないかといった周
旋業者のあまい言葉にだまされて、連行されたのである。ほかにも、身売りや
暴力的に連行するケ−スがあった。売られて慰安婦にされた女性も、多くの場
合、前渡金による経済的拘束と詐欺がからみあっていたと考えられる。
日本国内でさえ、慰安婦を集めるときには憲兵・警察と十分連携をとるよう
にと陸軍省が指示しているのだから、朝鮮や台湾では、業者と憲兵・警察との
連携はなおさら強かったと思われる。慰安婦の徴集は、行政と警察が前面にで
る「官斡旋」に近いものではなかっただろうか。朝鮮に施行された刑法によれ
ば、国外に移送する目的をもってする人の略取・誘拐・売買または被誘拐者・
被買者の移送などは重罪であったから、厳重な取締りがなされなければならな
かったはずである。しかし、警察の取締りはまったく不徹底なものであった。
さらに、朝鮮総督府は、送り出しについて戦地の実情に応じて、積極的に進め
たり、調整したりしていた。所轄警察署が身分証明書の発給を通じて慰安婦な
どの渡航先別の統制をおこなって いたのである。軍の要請を優先している以上、
違法行為の防止が徹底しないのは当然であった。日中戦争期には、つぎのよう
に統制されていた。まず、中国各地にある日本の領事館が現地の軍の要求を外
務省に報告し、外務省はこれを拓務省に通報する。これを受けて拓務省は朝鮮
総督府に知らせる。総督府はこれを警務局から道知事−警察署長へと降ろすの
である。
『台湾報告書』によれば、九二年末までに被害を申告した女性またはその家
族への訪問調査の結果、慰安婦だった可能性があるものは五六名であり、その
うち四八名は確実に慰安婦であったとされている。この報告書の個々の証言に
問題がないわけではないが、全体としてみれば、信頼性があると思われる。徴
集時期でみると、アジア太平洋戦争開始直後がもっとも多い。年齢は一六∼二
〇歳が二四名で、二一∼二五歳が一七名、それ以上が六名であった。朝鮮と同
じく台湾でも、未成年者がもっとも多いのである。徴集のされ方をみると、だ
まされた者は二二名で、半数に達している。そのほとんどは、「 軍 関 係 の 食 堂 や
酒屋で仕事をするが体は売らない」と周旋人から聞いて、応じている。看護婦・
洗濯・炊事などの仕事だとだまされた人もいた。つぎに多いのは、強制的に集
められたケ−スで、一〇名いる。慰安婦であることを承知で応じた者は三名、
だまされてブロ−カ−によって売られた者が一名であった。残る六名はどのよ
うに徴集されたか不明であるという。なお、台湾の場合、前借金を貰ったこと
を認めている人が九名いるのは特徴的である。しかし、彼女たちは慰安婦にさ
れることを知らされていなかった。
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中国・東南アジア・太平洋の占領地での慰安婦徴集は、植民地とは違い、軍
が前面に出ているのが特徴である。また、海軍もみずから徴集にかかわってい
た。フィリピンの元慰安婦の証言によれば、軍による暴力的な連行が非常に多
かったことが分かる。インドネシアでも暴力的な連行は少なくなかった。詐欺
による連行も横行している。
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慰安婦の生活の実態
軍慰安所に対する監督・統制は、現地軍司令部の管理部や後方参謀、兵站の
慰安係、師団・連隊などの副官や主計将校、憲兵隊などが担当した。直営の軍
慰安所は軍が全面的に管理した。民営の形式をとった軍慰安所の経営について
も、軍は厳しく監督・統制している。このような監督・統制の指示を出し、責
任を負うべき立場にあったのは、現地軍の指揮官であった。しかし、このよう
な制度をつくり運営することが陸軍中央の承認と指示によっておこなわれてい
たことは、すでにみたとおりである。
占領地に軍慰安所を設置する決定は部隊長がおこない、副官が主計将校など
に指示して設置にあたった。まず最初に軍が用意したのは、慰安所にする建物
である。開設は軍の指定した地域・家屋に限られたが、家屋は多くの場合、ホ
テル・食堂・商店や大きな屋敷など、軍が接収した部屋数の多い建物が当てら
れた。また、部屋数が多いという条件のため、学校・寺院などが軍慰安所にさ
れた場合もある。将兵が通うのに便が良い位置にあることも条件であった。軍
慰安所は、普通、兵舎から離れた場所につくられたが、兵営の中に置かれる場
合もあった。適当な建物が付近にない場合は、新しく建てた。四四年以降の沖
縄では、アメリカ軍の戦闘に備えて多くの兵員が送り込まれたため、軍慰安所
が多数つくられている。
建物を確保すると、軍慰安所として使えるよう
に、小さく間仕切をし、便所・洗滌所・受付などをつくり、各部屋にベッド・
毛布・消毒液を入れるなど、大工・左官などの技能をもつ兵士が改造・設営し
た。軍慰安所の部屋の内部はさまざまだった。漢口の積慶里慰安所は、当初は
アンペラ(アンペラという草の茎または竹で編んだムジロ)で部屋を仕切り、
布団や食器類は、無人の中国人家屋から設営隊員が徴発(掠奪)してきたもの
を配布した。後には、業者が板壁を張り、畳を入れ、格子戸をつけ、漢口に新
しく進出した大丸や高島屋から色鮮やかな寝具や調度品を入れたという(『 漢 口
慰 安 所 』)。 前 線 に 近 い 軍 慰 安 所 は こ れ と は ま っ た く 異 な っ て い て 、 布 団 ま た は
ベッドとわずかな家財道具を入れると、一杯になるような広さのものが多かっ
た。もっと前線に近いところでは、破壊された民家ならいい方で、「 簡 単 な 板 囲
いに、中はアイペラ敷き、まるで簡易共同便所」のようなところもあったとい
う ( 柳 沢 勝 『 オ レ は ま ん ね ん 上 等 兵 』)。
これまで、日本では、連行時の強制が問題とされてきたが、それと同様に、
あるいはそれ以上に重要なのは、慰安所における処遇や強制の問題である。連
行された女性たちを待ち受けていたのは、言うまでもなく性交の強要であった。
慰安婦が一日に相手にしなければならない軍人の数は、将校用慰安所では多く
従軍慰安婦問題の歴史的研究(林)
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第四部
迷える近現代
なかったが、下士官・兵用の慰安所では、多い場合は二、三〇人にもなった。
ビルマで軍慰安所を経営していた業者香月久治によれば、ある日、慰安婦が一
日に六〇人の相手をしたことがあったが、この女性は三日ぐらい休まなければ
ならなかったというから、これは例外としても、女性にとって大変な苦痛であ
っ た こ と は 間 違 い な い 。『証言』から分かるように、応じない場合、性交を求め
る将兵や高収入を望む業者は、暴力をふるって女性たちを脅迫した。また、酒
を飲んでの暴行や、絶望した軍人が、慰安婦に心中をせまることも少なくなか
った。慰安婦にとって、心中を迫る軍人は、剣を抜いて暴行する軍人とともに
おそろしい存在だったであろう。
慰安婦には休みはとくにないか、あっても月一、二回程度だった。報酬につ
いても、慰安婦に渡るとは限らなかったのである。馬来軍政監が決定した「慰
安 施 設 及 旅 館 営 業 遵 守 規 則 」(四三年)によれば、慰安婦の取り分は、前借金が
一五〇〇円以上の場合は四割以上、一五〇〇円未満の場合は五割以上、無借金
の場合は六割以上としていた。この規定は慰安婦保護を目的としたものであっ
たから、これでも条件が良いほうだった。また、この規則では、配分金の一〇
〇分の三を強制貯金とし、慰安婦配当金の三分の二以上を前借金返済にあてる
こととし、慰安婦の「稼業」上の妊娠・病気などは本人の半額負担、そうでな
い場合は本人の全額負担としている。だが、これが慰安婦にとって最良の場合
だった。多くの場合、衣装代・化粧品代など日用品が法外な値段で借金に繰り
入れられ、四割の取り分のほとんどすべては借金返済にあてられた。また、借
金がなくなった場合も、強制貯金・国防献金などの名目で差し引かれ、実際に
お金を貰えない場合も少なくなかったのである。
慰安婦が軍慰安所から逃亡することは困難だった。業者や軍が監視していた
からである。軍慰安所の外に出ることも簡単ではなかった。また、肉体的な苦
痛や精神的な苦しみから逃れるために、麻薬を常用する慰安婦も少なくなかっ
た。病死や自殺も少なくなかった。 以上のような環境のもとで、軍慰安所の
女性たちは、日々、日本軍の将兵から性的奉仕を強要され続けていた。日本軍
は、このような女性を大量に抱え込みながら、彼女たちを保護するための軍法
を何もつくらなかったのである。事実上の性的奴隷制である日本国内の公娼制
でも、一八歳未満の女性の使役の禁止、外出・通信・面接・廃業などの自由を
認めていたが、この程度の保護規定すらなかった。従軍慰安婦とは、軍のため
の性的奴隷以外のなにものでもなかったのである。
第三章
慰安婦問題に関する日本の国際法違反
従軍慰安婦を民族別にみると、朝鮮人の比重が高く、これに劣らず台湾人を
含 む 中 国 人 の 数 も 多 か っ た 。そ し て 、インドネシアをはじめとする東南アジア・
太平洋地域の女性がこれについでいた。日本人も決して少なくなかったとはい
え、植民地・占領地の女性の比率が非常に高かった。これは何を意味するのだ
ろうか。まず考えてみなければならないのは、植民地の女性の比率の高さであ
る。占領地である中国や東南アジアの女性たちが「現地徴集」であったのに対
従軍慰安婦問題の歴史的研究(林) 10
第四部
迷える近現代
し、朝鮮・台湾の女性たちは朝鮮・台湾・日本で集められ、わざわざ船などで
戦地に運ばれていったのである。それは政府や軍の政策なしには考えられない
ことであった。植民地の女性が慰安婦とされた根底に民俗差別があり、それが
女性を奴隷化することであり、どんなに民族としての屈辱をあたえることにな
るのかという考慮がまったくなかったことは確かであろう。そして、今ひとつ
見逃せない理由は、国際法上の問題であった。ここでは、主として慰安婦徴集
に関わる当時の国際法を点検しつつ、その観点から慰安婦問題の本質を考えた
い。なお、占領地の女性の徴集の背後にも人種差別・民俗差別があったことは
言うまでもない。
「 支 那 渡 航 婦 女 の 取 扱 に関 す る 件 」(三八年二月二三日)は、植民地女性を慰
安婦にする理由を明示するものとして、また、政府が国際法をどの程度意識し
ていたのかを示すものとして重要である。ここでは、日本から、売春婦でない
日本人女性が慰安婦として中国に送られれば、国民とくに出征兵士を送り出し
ている家族に深刻な影響を与える。また、出征兵士の姉や妹や妻や知りあいの
女性が慰安婦になって戦地に来るような事態が生じたら、国家や軍に対する兵
士の信頼感も崩壊するということを指摘している。慰安婦の徴集がそういう深
刻な問題を含んでいることを、内務省は内務省なりにつかんでいたのである。
こうして、日本からの慰安婦徴集は、きわめて限定されることになった。これ
は、逆にいうと、日本人以外であれば、または日本の外からであれば、そのよ
うな考慮を払う必要がないと日本政府が考えていた、ということを意味してい
る。朝鮮人や台湾人ならかまわないとされたのである。この通牒が朝鮮や台湾
には通達されなかったことに、その本質があらわれている。
婦人・児童の売買禁止に関わる国際条約は、当時、つぎの4つがあった。
一 .「 醜 業 を 行 わ し む る 為 の 婦 女 売 買 取 締 に 関 す る 国 際 協 定 」( 四 年 )
二 .「 醜 業 を 行 わ し む る 為 の 婦 女 売 買 禁 止 に 関 す る 国 際 条 約 」( 一 〇 年 )
三 .「 婦 人 及 児 童 の 売 買 禁 止 に 関 す る 国 際 条 約 」( 二 一 年 )
四 .「 成 年 婦 女 子 の 売 買 の 禁 止 に 関 す る 国 際 条 約 」( 三 三 年 )
日本は二五年、一、二、三の3つの条約に加入していた(四は批准せず)。どの
ようなことが規定されていたかを、二を例にみてみる。
第一条 何人たるを問わず他人の情欲を満足せしむる為、醜業を目的とし
て、未成年の
婦女を勧誘し、誘引し、又は拐去[誘拐]したる者は、本人
の承諾を得たるときといえ
ども‥…罰せらるべし。
第二条 何人たるを問わず他人の情欲を満足せしむる為、醜業を目的とし
て、詐欺に依
り、又は暴行、強迫、権力濫用其の他一切の強制手段を以て、
成年の婦女を勧誘し、誘
引し、又は拐去したる者は‥…罰せらるべし。
すなわち、未成年の女性の場合は、本人の承諾のあるなしに関わらず、売春
に従事させることを全面的に禁止し、成年であっても、詐欺や強制的手段が介
在していれば刑事罰に問われることを定めているのである。この条約における
未成年の規定は、二では二〇歳未満、三では二一歳未満となっていた。日本政
府は当初、未成年を満一八歳未満とするという留保条件をつけて条約に加入し
従軍慰安婦問題の歴史的研究(林) 11
第四部
迷える近現代
ていたが、二七年にはこの留保条件を撤廃している。したがって日本でも、軍
慰安所がつくられはじめたときには、未成年とは二一歳未満ということになっ
ていた。しかし、この国際条約には、これを植民地などに適用しなくてもよい
との規定があった。植民地などに関して、一〇年条約は、実施するときは文書
をもって通告すると定め(第一一条)
、二一年条約は、適用除外する場合は宣言
することが出来る(第一四条)としていた。日本政府はこの規定を利用して、
この条約を朝鮮・台湾などには適用しないこととしたのである。戦時国際法な
ど国際法の制限はないと判断して、慰安婦を徴集したのは占領地においても同
じであった。
では、日本政府や軍は国際法に違反していないと言えるのだろうか。この問
題を正面から取り扱った国際法律家委員会(ICJ)の従軍慰安婦に関する最
終報告と国際法学者阿部浩己の研究「軍隊「慰安婦」問題の法的責任」等を参
照にして考えてみる。植民地などからの連行は、国際法上まったく自由だった
のだろうか。この点につき、ICJの見解はつぎのようである。植民地などへ
の適用除外を認めている二一年条約第一四条の規定は、植民地などに残ってい
る持参金・花嫁料の支払いなどの慣行を直ちに一掃するわけにはいかないので
挿入されたものである(朝鮮にはそのような慣行はなかった)。条約の意図は売
春 の た め の 女 性 の 連 行 を 促 進 す る こ と で は な か っ た か ら 、「 朝 鮮 女 性 に 加 え ら
れた処遇について、その責任を逃れるためにこの条文を適用することは出来な
い」とする。また、朝鮮から船で送られるときに、一度日本に上陸したと述べ
る元慰安婦が少なからずいることも指摘している。
奴隷条約が締結されたのは二六年である。日本はこの条約を批准しなかった
から、その限りではこの条約に拘束されないといえる。しかし、ICJは、二
〇 世 紀 初 頭 に は 、「慣習国際法が奴隷慣行を禁止していたこと、およびすべての
国が奴隷取引を禁止する義務を負っていたことは一般的に受け入れられてい
た」と述べている。また、国際連盟規約が奴隷の積極的解放をおこない、奴隷
取引を禁止し、強制労働を禁止するよう各国に義務づけていること(第二二条
第 五 項 )な ど か ら 、こ の 条 約 は 慣 習 国 際 法 の 宣 言 で あ る と み る の が 一 般 で あ る 。
とするなら、阿部もいうように、条約の基本的な部分は「慣習国際法を表現し
たものとして、当時すでに、この条約の非締約国である日本を含むすべての国
を拘束していたと考えられる」のである。すなわち、所有物同然の状態におく
意思をもって、個人を捕捉・取得または処分し、奴隷を取り引きし、または輸
送することは、禁止されていたことになる。
陸戦の法規慣例に関する条約(ハ−グ条約)は七年に締結され、日本は一一
年一一月に批准している。その付属書である「陸戦の法規慣例に関する規則」
第四六条は、占領地で「家の名誉及権利、個人の生命、私有財産」などの尊重
を求めている。ICJは、この条約には全交戦国が加入しなければ適用されな
いとの総加入条項があるので、直接には適用されないが、第四六条は慣習国際
法を反映したものだと述べている。そして、「家の名誉」とは「強姦による屈辱
的な行為にさらされないという家族における女性の権利」を含んでいるとし、
従軍慰安婦問題の歴史的研究(林) 12
第四部
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「個人の生命」の尊重とは生命だけでなく、
「人間としての尊厳」を含んでいる
と指摘している。阿部も、この規定は慣習国際法を成文化したものとして、総
加入条項にかかわりなく日本を拘束しているとし、女性は戦時において「強姦
や 強 制 的 売 淫 」からの保護を約束されていると述べている。こ の 慣 習 国 際 法 は 、
占領地の住民を保護するもので、植民地の女性にまでは適用できないが、これ
に違反することは文字通り戦争犯罪になる。
それにしても、前述した条約群は、民間の業者が女性に売春をおこなわせる
ことを取り締まるために締結されたものであった。国家がこれに違反する主体
となり、しかも女性を軍関係公務員(軍人・軍属)に限って提供するためにそ
れをおこなうことは、決してあってはいけないことであった。軍や政府が積極
的に慰安婦を送出しつづけたことそれ自体が恥ずべき行為であったといえる。
終わりに
従軍慰安婦問題の本質とは何か。これまでに検討してきたことをもう一度ま
とめてみると、第一に、女性に対する暴力の組織化であり、女性に対する重大
な人権侵害であった。第二に、人種差別・民族差別であった。この背景として、
日本の男性社会にアジア人女性に対する性的蔑視意識が広くあったといえるの
ではないか。第三に、経済的階層差別であった。第四に、国際法違反行為であ
り、戦争犯罪であった。従軍慰安婦問題は、以上のような複合的な人権侵害事
件であった。そして、これが決して偶発的なものでなく、国家自身が推進した
政策であったところに問題の深刻さがあった。慰安婦にされた女性たちは、戦
後、性病・子宮摘出・不妊などの身体の病気と、トラウマ(精神的外傷)に悩
み、社会的差別に苦しまなければならなかったのである。
問題の解決のためには、政府所管資料の全面公開と、すべての被害国の証人
からのヒアリングによる真相解明、これらの行為・犯罪に対する承認と謝罪、
被害者の名誉回復と個人賠償、過ちをくりかえさないための歴史教育・人権教
育の実施などが少なくとも必要である。
九六年一二月に、藤岡信勝・西尾幹二・小林よしのりなど自由主義史観研究
会 と 右 派 知 識 人 が 中 心 と な っ て 、「 新 し い 歴 史 教 科 書 を つ く る 会 」 が 発 足 し た 。
彼らは、中学歴史教科書に「慰安婦」記述が載ったことに反発して、削除を要
求したり、南京大虐殺・三光作戦は虚偽と言うなど、かっての日本軍の犯した
誤りを、資料を歪曲して次々と弁護・美化し、日中戦争・アジア太平洋戦争さ
え賛美する動きを展開している。このように、過去を偽るものに今日と未来を
方向づける教育を語る資格がないことはあきらかである。
事実としての歴史を自分の都合のいいようにねじ曲げていくのでは、言い訳
をする子供と同じである。人間の記憶はしだいに風化していくものである。忘
却 す る こ と も 自 然 で 、し か も 必 要 な 行 為 で あ る 。しかし、忘 れ て い く か ら こ そ 、
歴史の真実と問題の本質を次の世代に語り継ぐことが、より重要なのである。
「従軍慰安婦」という哀れな人生をいきた女性たちがこの世からいなくなった
時、戦争を実際に体験した「証人」の生命が燃え尽きた時、どれだけの人が、
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日本が過去に犯した目を背けたくなるような過ちを認識し、真っ向から考えて
いけるかが重要である。
参考文献
『従軍慰安婦』
吉見義明著
岩波新書
久保井規夫著
明石書店
峯岸賢太郎著
吉川弘文館
菅原幸助著
三一書房
1995
『教科書から消せない歴史
−「慰安婦」削除は真実の隠蔽』
1997
『皇軍慰安所とおんなたち』
2000
『初年兵と従軍慰安婦』
1997
『国際法からみた「従軍慰安婦」問題』
国際法律家委員会著
明石書店
『ナショナリズムと「慰安婦」問題』
日本の戦争責任資料センタ−編
1998
青木書店
1995
『日本軍「慰安婦」を追って』
ー 1995
西野留美子著
マスコミ情報センタ
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