Cross-Cultural Interchanɡe & Research Institue Newsletter Vol.11 2010 Yamaguchi University Faculty of Humanities 11 山口大学人文学部 異文化交流研究施設ニューズレター 号 「異」字考 2010 高 木 智 見 (たかぎ さとみ) 一般に「ことなる」、「ちがう」、「怪し といった字義が派生したとしている(ち 味する場合があること(図3)と関連さ い」などと訓じられる「異」字につい なみに、これらの派生義は「翼」字によっ せ、掲げる子供は、祭祀において死者に て、漢代の字書『説文解字』には、「分 て表現されることが多い)。 為り替わって酒食の饗応を受ける「尸(多 なり」とある。この意外な説解に対し、 しかし、この字形の解釈にあたっては、 くの場合、死者の孫の世代がつとめる)」 斯学の大家・清の段玉裁は「何かを分け 掲げ持つ動作より、掲げ持つ物が何物で であるとし、「異」字は、祀の初形であ れば、あちらとこちらでは異なることが あるかを重視して理解すべきであると考 ると解釈する。しかも、『説文解字』に 有る」とやや苦しい注をして、整合的に える研究者もある。たとえば、田字形の 「祀」の異体字として、「禩」字が挙げら 理解しようと務めている。しかし、「異」 ものを、髑髏を仮面としてかぶり跪いて れていること(図4)が、こうした事情 は、古くは図1に示すような字形で表現 いる様を象っているとされる「鬼」字(図 を反映するものであるとする。 され、「分」は明らかに後起の字義とし 2)の髑髏と結びつけて、驚異すべき対 異という文字に関しては、研究の余地 なければならない。 象を意味するとし、この字の本義は「怪 がなお多く残されている。しかし、以上 その古い字形について、古文字研究者 しい」であるとする説がある。 また田 の甚だ簡単な紹介によっても、漢字わず は通常、人間が頭上に田字形のものを掲 字形は、実際には「子」字の変化した形 か一字について多くの異説、怪説が存在 げ持つ姿を象り、それは「戴(いただく)」 であり、この文字は本来、子供を頭上に しうることが確認できる。況や文化現象 を本義とし、その後、「つつしむ」、「た 掲げる様を象っているとする説もある。 全体に関わる異文化研究に於いてをやで てまつる」、 「たすける」、 「うけたまわる」 さらに、甲骨文の異字が「まつる」を意 ある。 図4 異の異体字(『説文解字』巻一) 「禩、祀なり。或いは異に从う」 と読む したが 図3 甲骨卜辞における「異」字の用法 「異」字が見える卜辞は「王異り、其れ田 す る に、 大いに雨ふること亡からんか」と読み、その意味 は、「殷王が祭祀を行って狩猟にでかければ、大 雨が降ることはないか」と解釈する まつ な 図1 甲骨金文の「異」字 図2 甲骨文の「鬼」字 かり 2010年 異文化交流研究施設ニューズレター 『異文化研究』(第4号)の御案内 脇 條 靖 弘 (わきじょう やすひろ) 『異文化研究』編集責任者 『異文化研究』は昨年度若干編集方針 の見直しを行ない、第4号からは人文学 部の研究活動についての事業報告を柱と することになりました。研究論文だけで なく、研修や調査の報告、講演録、エッ セイなどを中心とした幅広い内容を目指 します。そういうこともあって、第4号 には、これまでのような特集はありませ んが、今後また事業報告に加えて、何ら かの特集の企画を盛り込むことも考えて いきたいと思います。 2010年3月発行の第4号には、二つの研 究論文、一つの研究ノート、三つの報告、 五つの講演録、さらに、人文学部のプロ ジェクト報告が掲載されました。二本の 研究論文は、どちらも本格的な言語学研 究の成果であります。太田教授の論文は、 日本語の名詞─特に、地名として用いら れた和語─のアクセントを決める法則に は、ラテン語のアクセント規則と驚くべ き共通点があるという、興味深いテーマ が扱われています。武本准教授の英文論 2 文は、特にドイツ語とフランス語に焦点 を当てて、物理的ではない概念的な動き の表現(「海岸に沿って道路が走ってい る」など)が主体化(subjectification) の作用という観点から分析されていま す。研究ノートとして掲載されたのは、 大学院修士課程2年生の山根洋平君の修 士論文の一部で、馬を中心とした動物供 犠の宗教学的考察です。 田中講師の報告は、2009年の5月から6 月にかけて「伝記」というテーマで開催 されたウィーン芸術週間の演劇プログラ ムの一部についてのものです。橋本教授 の報告は、2009年11月に悪天候の中、中 国で行われた踏査についてのもので、前 漢の皇帝陵の貴重な写真が付されていま す。藤永准教授の滞在記は、2008年9月 から1年間のアメリカでの研究の報告で、 最前線の歴史研究の現場が紹介されてい ます。 講演録のうちの三つは、異文化交流研 究施設の講演会の記録です。一つ目は、 2008年4月に行われたベ ルン大学のモルゲンタ ラー教授による講演(エ アランゲン大学のアッカーマン教授が通 訳兼コメンテーター)、二つ目は、2009 年10月に行われた北京大学の陳煕中教授 による講演、三つ目は、2009年1月に行 われたチューリヒ工科大学のホーレン シュタイン元教授の講演の記録です。こ の三つに加えて、第4号にはさらに二つ の講演録が掲載されました。ひとつは、 ベルリン自由大学研究員アイケルス氏が 2009年12月に行なった講演です。もうひ とつは、韓国昌原大学校から、ホン・ソ ングン人文大学学部長とイ・ユンサン慶 南学研究所長をお招きして行われた2009 年12月の講演会の記録で、軍の部隊での 人文学講座など興味深い試みが紹介され ています。 プロジェクト報告は、各分野の研究会、 会誌刊行などを行なっている各グループ の紹介を含めて、今年度の活動が報告さ れています。プロジェクトは、山口国文、 英語と英米文学、独仏文学、山口地域社 会研究、アジアの歴史と文化、〈教え、 学び、分かること〉の基礎的研究の六つ です。 第 11 号 海 外 講 演 報 告 “不到園林、怎知春色如許!” ──湯顕祖と現代社会 根ヶ山 徹 (ねがやま とおる) 人文学部教授 50余名による研究発表が行われた。 湯顕祖は劇作家として「臨川四夢」と 総称される『紫釵記』、『牡丹亭』、『邯鄲 夢』、『南柯夢』を遺しただけでなく、正 統な学問を修めた読書人であり、約2200 首の詩、約500篇の文章も伝えられてい る。また、科挙の試験に合格した官僚で もあることから、政治家としての側面も 併せ持つ。ために、研討会では詩人、政 上海戯劇学院校内にて (中山大学康保成教授と筆者) 2010年 4 月23日 か ら26日 ま で の 4 日 治家としての活動から、劇作、その後代 間、“湯顕祖与臨川四夢国際学術研討会” への影響、現代の演出にいたる幅広い内 が、上海戯劇学院の主催、上海昆劇団、 容について研究発表がおこなわれ、裨益 する上海昆劇団団長郭宇氏の発言がある 香港城市大学中国文化中心、香港中文大 するところ大なるものがあった。 一方で、観客の審美眼に迎合するために 学明清研究中心、上海戯曲学会の共催, 折しも上海万博開幕直前であったこと 原作を改編し、公演の成否と興業成績を 上海戯劇学院戯曲学研究中心の後援によ から、「迎世博」と銘打って上海昆劇団 重視するのは当然だという劇団所属の脚 り、上海賓館を会場に開催され、筆者も による「臨川四夢」及び名家名段演唱の 本家唐葆祥氏の見解は、現代社会におけ 招かれて出席した。この研討会は、中 鑑賞も併せて行われた。1916年開場で芥 る古典劇の在り方を如実に示している。 国の代表的な劇作家湯顕祖(1550-1616) 川龍之介も京劇を観た福州路の天蟾逸夫 2008年3月、坂東玉三郎と蘇州昆劇院 の生誕460年を記念したもので、中国は 舞台、1866年に円明園路に開場し、1931 の役者が京都の南座で『牡丹亭』を共演 もとより、香港、台湾、日本、韓国、ア 年現在の茂名南路に新築された蘭心大戯 し、好評を博したことは記憶に新しい。 メリカから百名を超える参加者があり、 院という上海屈指の由緒ある劇場で、蔡 日本の歌舞伎界を代表する女形の演ずる 正仁、岳美緹、計鎮華、梁穀音、張静嫻、 昆劇は、2009年11月の上海での公演でも 張洵澎といった当代の名優たちによる昆 上海人の心をつかんだようで、博覧会期 劇の実演を堪能できたことは、望外の幸 間中に上海昆劇団との再演が決まったと せであった。この実演については研討会 聞く。人口2000万人を擁し、国際空港ま の総括も兼ねた「演劇評議」の場で、高 でのアクセスにリニアモーターカーが敷 い評価を得たものがある一方で、原作の 設され、11路線もの地下鉄が縦横に張り 重要な場面が省略され通俗に堕している めぐらされた経済都市上海の街に溶け込 と酷評されたものまで各種各様であっ んだ中国の古典劇を目の当たりにしなが た。研究者の援助なくして古典劇の内容 ら、原作者湯顕祖に思いを馳せた日々で を理解し、上演することは困難であると あった。 開演前の天蟾逸夫舞台 海 外 研 修 フ ァ イ ル 縣の龍崗で発見された「龍崗秦簡」につ 在地なのか、それとも、禁苑なのかと争 いての研究プロジェクトである。私はす 論があったが、まだ定論がない。私は龍 でに2002年の夏から「龍崗秦簡」につい 崗秦簡によって、始皇帝の巡行場所は各 て研究している。本簡の主な内容は秦の 郡や県の政府所在地ではなく、むしろ各 始皇帝が当時、巡行した離宮・禁苑に関 地方にあった旧六国に残された禁苑だろ (ま ひょう) するものである。これまでは、始皇帝が うという私見を提出したが、残念ながら 人文学部教授 当時「郡県を巡行し」(『史記』の語)た 日常教学の仕事は煩雑であって、この課 始皇帝が巡行した足跡を辿って 馬 彪 際に、どのような巡行経路を辿ったかと 題に本格的に取り組むことが出来なかっ 2009年3月~2010年1月の間に、私は いう研究が多少あった(鶴間和幸『秦漢 た。ゆえに、今回の山口大学から山東大 山口大学から中国山東大学への派遣に 帝国へのアプローチ』1996;孟憲斌『秦 学への研究者派遣を機会に、10ヶ月間、 よって派遣研究者として山東大学文史哲 始皇出巡記』2006)が、始皇帝が「郡県 山東大学歴史学系を研究拠点として大学 研究院に滞在し、10ヶ月間「秦王(皇) を巡行し」たとき、どんな場所に泊まっ の文献資料を利用し、秦の始皇帝が当時 朝の離宮・禁苑についての研究─「龍崗 たのか、どんな仕事をしたのかという研 巡行した離宮・禁苑の実地踏査を行い、 秦簡」に見える禁苑新史料との比較─」 究は殆ど見られなかった。筆者を含む僅 歴史学系の研究者と交流することで、本 という研究を行った。 かな研究者の間で、始皇帝が巡行した雲 研究を進めていきたいと計画した。その 本研究は、1989年末、中国湖北省雲夢 夢楚王城遺跡は、一体、郡や県の政府所 計画は大筋、三部構造であり、第1に、 Cross Cultural Interchanɡe and Research Institue Newsletter Vol.11 2010 3 2010年 異文化交流研究施設ニューズレター 山東大学の中国古文字・古代史・簡牘学 の研究派遣も、その学術協定の一環です。 せながら、自ら左丞相を連れて巡行先で 資料などを利用し、「龍崗秦簡」におけ 私は「訪問学者」という研究者の身分 仕事を行った。始皇帝は5回の巡行のう る秦代禁苑の新たな出土史料との比較を であって、各国からの外国人教師と一緒 ち3回も山東半島に行って、なぜそんな 行う。第2に、山東省を主として、秦の に「専家楼」に住んでいた。宿舎から図 に執拗に山東を訪れていたのだろうかと 始皇帝が当時巡行した離宮・禁苑の遺跡 書館へ歩いて5分くらいなので、図書館 歴代の学者はよく質問してきたが、今日 現場を踏査し、「龍崗秦簡」の禁苑内容 で資料を調べるのはとても便利である 主流な見解は「新しく征服した旧六国の に基づいて、秦朝の離宮・禁苑の分布と が、大学はいくつかのキャンパス(済南 民に皇帝の威厳を誇示す」(松丸道雄・ 構造を調査する。第3に、山東大学文史 市内少なくとも4つ)があるので、自分 永田英正『中国文明の成立』、鶴間和幸 哲研究院の孟祥才教授をはじめ、中国に が絶対必要な本と雑誌を調べるために、 『始皇帝の遺産─秦漢帝国』を参照)と おける他大学の秦漢史研究分野の専門家 私が住んでいる「新校」(大学の本部所 いうものである。そのような考えは主に と討論し、本格的な国際学術交流を果た 在地)から、大学の「班車」(通勤バス) 当時秦皇帝と秦二世が建てた顕彰碑の碑 す。 で「老校」の図書館へいつも通った。図 文(『史記』に載せている)によって提 幸いに、山東大学の文史哲研究院の孟 書館の書庫と閲覧室によく通う生活をし 出されたものだと考えられる。しかし、 祥才教授及び国際交流部の事務係の方々 ていた。古い大学であるから私が探して 近年、考古学発掘によって山東半島だけ から多大な応援をいただいて、本研究プ いたものが大体あるが、1人1回20冊ま ではなく、渤海湾や長江流域にも当時の ロジェクトは当初の計画の通りうまく進 でという限りがあり、よく係員から「いっ 始皇帝の巡行現場だと推定されるいくつ んでいった。その研究の成果が主に3つ ぱい借りているね」と声をかけられる。 かの場所が発見されたので、新しい史料 あり、1つ目は「龍崗秦簡」にみる禁苑 30日の期限があって、1度期限を超え、 によって改めて始皇帝の巡行について検 に関する新史料をめぐって、秦王(皇) 罰金された経験がある。「教員閲覧室」 討できる可能性がでてきた。今回、私は 朝の禁苑に関する制度についての研究論 が設けられ、工具書が多く並んで、非常 『史記』秦始皇本紀や封禅書によって「按 文は4篇である。2つ目は、山東半島と に便利であるから、よくそちらも利用し 図索驥」(駿馬の図を頼りに良馬を探し 近隣である江蘇省・河北省において見つ ていた。ある日、閲覧室に異変があって、 求める)して、以下のように山東半島と けた秦の始皇帝が巡行した遺跡の踏査を いつも使っている本が全部なくなって、 その周辺にある9ヶ所の遺跡を訪ねた。 行った。3つ目は、秦漢史関係の国際シ おもての本棚にたくさんの日本語の書物 それは始皇帝の泰山で「望祭山川」とい ンポジウムに2回出席して発表を行い、 を並べている。聞いてみたら、それらは う場所の踏査・煙台莱州市三山島陰主祠・ その他に山東大学と山東師範大学の歴史 すべて東京大学文学部の池田知久(とも 廟周家月主祠始皇帝行幸地踏査・芝罘島 学専門分野の著名学者の丁冠之・孟祥才・ ひさ)氏からの贈書であって、まもなく における陽主廟の踏査・成山頭日主祠始 張富祥・王鈞林教授たちと何度か討論会 贈書式を行うとわかった。近年、よく韓 皇廟遺址・四時主琅琊台遺址・徐州秦梁 を行った。 国・台湾・日本・アメリカのシノロジー 洪・天齊淵の天神祭祀址・邢台沙丘平台 山東大学は中国山東省の省都済南市 研究者は中国の大学図書館へ贈書するこ 遺址などである。 (人口590万)にある総合大学。1901年に とを耳にしたが、自ら感じたのはこれが 以上の踏査結果から、いくつかの今後 創設され、「百年名校」と呼ばれ、現在 初めてのことでした。 の研究課題を提出したい。その1つ目は、 約42の学院(学部)を擁している。教 そうと言っても、やはり山東大学の図 始皇帝が当時泊まった場所はやはり郡県 員数は3700人、学生数は6万余人、「培 書館では私の必要である本、特に日本語 治署の所在地というよりは離宮であろ 養一流本科生(一流の学部生を養成しよ 版の木簡学専門のものや日本で出版する う。2つ目は今日本に研究成績としてみ う)」というスローガンを掲げている。 学術雑誌が殆どない。したがって、よく られる秦の始皇帝の巡行経路図には訂正 国家教育部(文科省)が指定する「21 済南から「和諧号」(準新幹線)に乗っ を加えるべき点が少なくないと思う。3 1重点工程(21世紀100重点校)」の1つ て3時間半をかけて北京へ行き、その国 つ目は始皇帝が巡行した目的はこれまで で、教官・学生が優秀であり、常に中国 家図書館で資料を収集した。つまり、私 の定説たる「威厳を誇示す」という論だ の大学全体の10何番以内に入る優秀な大 は中国史研究をしている人間として、中 けだろうかという疑問を提出したい。ま 学である。昭和58年6月に山口大学と大 国に住んだら必ず史料がよく手に入ると た、現場調査への感想と反省をまとめて 学間学術協定を締結しました。私の今回 は言えないことを痛感した。しかし、実 いうといくつかある。 地調査というと、まったく別の話になる 1沿海地域であり、海軍基地にある遺 だろう。 跡の踏査は大変である。例えば、煙台芝 今回、山東大学へ派遣研究を希望した 罘島に陽主廟があり、1回目:私は列車 1つの重要な理由は、山東半島と近隣地 で煙台について、すぐタクシーで芝罘島 域にある秦の始皇帝が巡行した遺跡の踏 に行って陽主廟を見つけたが、遺跡は隣 査をすることである。始皇帝は、全国を の海軍基地にもあると言われ、急いで基 統一したあとの翌年の前220年から死ぬ 地の方へ行ったが、交渉した結果、2日 前210年までの10年間に、5回も(平均 後の月曜日にもう一度来て、上司と相談 2年に1回のペース)中国全土を巡行し したら入れるかもと衛兵から提案を受け た。そのために、当時の秦王朝は左右2 た。月曜日に再度行って、交渉したがや つの丞相を置き、都は留守を右丞相に任 はり駄目だとし、基地に入って踏査する 山東大学キャンパスに立つ孔子像 4 第 11 号 さいという要請が殺到したので、控えめ りよく理解するためには、東アジアの都 に対応したようになった。考えれば、山 城、さらに世界の都市遺跡を踏査・実見 東大学は斉魯文化・儒教の故郷という学 し、それらと比較する必要があるからで 術位置にあり、全国各地方で開催される ある。今回の目的は、中東レバノンに遺 文史哲関係のシンポジウムは、よく山東 るフェニキア・ギリシャ・ローマ・ビザ 大学の学者を招待する現状であること ンチン、そしてイスラム中世の都市遺跡 は、この10カ月間でもよくわかった。私 を実際に歩き、そこに遺る建物跡などか 自身に依頼されたシンポジウムは少なく ら古代などの都市を考えるだけでなく、 とも5つあったが、都合によってそのな 周囲の環境や地形についても知見を得る かの2つしか選ばなかった。選んだ理由 ことにあった。 は自分が発表したいだけではなく、今回 今回、レバノンで踏査した都市遺跡は、 の始皇帝が巡行した遺跡がある場所に限 ティール、サイダ、ベイルートに加え、 ことを断念した。しかし、基地の衛兵が 定した。例えば、2009年4月に徐州師範 ビブロス、バールベック、アンジャルの 指さした範囲で、むしろ基地内の遺跡(元 大学(中国・徐州)が主催する「首届孟 六箇所である。このうちティール、ビブ 代のもの)は基地外における陽主廟敷地 学高層論壇」(シンポジウム)の招待状 ロス、バールベック、アンジャルはいず の一部とも考えられる。また、基地内の を得て、すぐ承諾した。それは私を招待 れも世界遺産、しかも早期に危機遺産に 遺跡は今年修繕したばかりと教えても する教員の孟祥才先生は孟子の70何代目 指定されている。世界遺産の四都市で観 らった。仕方がなく、一般人に開放され のお孫様であり、その御方のお招きだか 光地化されているのはビブロスとバール ている陽主廟に入って考察した。 らという理由があり、一方徐州近郊に位 ベックだけで、アンジャルでは訪れる人 2経済発展開発による遺跡破壊を痛感 置する秦梁洪という始皇帝が周鼎を自ら が少ないのか、周辺に土産物を売る店さ した。例えば、「八神」祭祀場の1つと 引き出そうとした場所があるからであ えなかった。 なる陰主廟遺跡は、現場の一部は金鉱の る。また、2009年11月の「記念董仲舒誕 我々が特に丹念に踏査したのは長期滞 工場となっていて、島の湾岸には現代的 辰2200年暨董仲舒思想国際研討会」(中 在した南レバノン南部の中心都市ティー な荷物港がある。山東省は今日中国第二 国・衡水)に出席した理由をいうと、も ルである。ティールではギリシャ、ロー 位納税省であり、しかもその金産量は全 ちろん私がやっている漢代士大夫の代表 マ、そしてそれを継いだビザンチンの都 国ナンバーワンの位置を占める。三山島 人物の董仲舒を尊敬する気持ちがある 市の遺構がよく遺っていた。映画のベン の住民はその改革開放という恵みを受け が、董仲舒の故郷の衡水からわずか90キ ハーで、チャールトン・ヘストンが操っ たとき、同時に、祖先らによって残され ロ離れたところに始皇帝が巡行途中で急 たと同じような戦車が走ったヒッポド た遺跡のなき声が聞こえるだろうか。こ 死した沙丘があり、その踏査を実現した ローム、凱旋門、水道橋、石敷の道路や の遺跡の未来にあまり期待できないと思 かった気持ちもあった。 柱廊、そして都市と接して死者たちのた う。金鉱の工場として地表に遺跡がある つまり、山東大学に滞在した機会に、 めのネクロポリスが広がる。ビブロスは と考えても、大分破壊されたのだろう。 いろいろ本格的な国際学術交流を果たし フェニキア・ギリシャ・ローマ・ビザン 3観光地となったところは修繕され過 て、今回の派遣研究は本当にためになっ チンと継承された都市遺跡で、それらを ぎている。例えば成山頭遺跡と琅琊台遺 たことを一層感じたのは間違いないと思 利用した十字軍の城塞が今日も中心部に 跡とも重要な遺跡であるが、地方観光局 う。 遺り、博物館とされていた。また、バー 始皇帝が死んだ場所の沙丘禁苑遺跡を 訪ねた。筆者(中)と村民の李新利夫婦 に管理され、立派な始皇帝と大臣たちの 銅像が立っているのは、遺跡の考察に邪 魔になるのではないかという気がする。 逆に、本当の遺跡とみられるところは最 低の保存さえしていない場所もある。例 えば、琅琊台遺跡はおそらく面積が広す ぎるのだろう、指定された観光地域のそ ばにある琅琊台の版築台が殆ど放棄され 中東レバノンに 古代都市遺跡を求めて 橋本 義則 (はしもと よしのり) 人文学部教授 ている状態を村民の案内によって現場を ルベックはローマ最大のアポロン神殿が 築かれた聖地である。巨大な切石を多数 用いた壮大な神殿の下には幻想的な照明 を施した博物館が設けられていた。アン ジャルはローマの都市を使って造られた イスラムの都市で、シリアに抜ける道沿 いの要地にある交易都市で、王の離宮や 寺院・教会はもちろん、商店の遺構がよ く遺っているのに驚かされた。 見つけ確認した。 私は、今年2月23日から9日間、科学 これらの都市遺跡、特に長期間断続的 山東大学を拠点として生の国際学術交 研究費補助金(研究代表:三重大学山中 に使用されたティール、ビブロスはたい 流を目指すことは、今回派遣研究の一大 章)による調査のため、中東のレバノン へん残念な状況であった。それは、いく 目的であった。文史哲研究院の孟祥才教 に出張した。これまで、科研費などに つもの時代の遺構が重複する遺跡を層位 授をはじめ、中国における他大学の秦漢 よって中国・韓国・越南など東アジア各 的に発掘せず、遺物の掘り出しを重視し 史研究分野の専門家と討論したことはも 国の都城遺跡やイギリスのローマ時代の たため、現状で地表に現れている多数の ちろんであるが、シンポジウムにも参加 長城・城砦などの遺跡を踏査してきたが、 遺構の関係を理解することがきわめて困 できた。最初は自ら自分の興味があるも 今回もその一環としての調査で、私が研 難な、いわば掘り散らかしたままの状態 のを探そうと思ったが、実際に出席くだ 究の対象としている日本の古代宮都をよ であった。このような杜撰な発掘調査を Cross Cultural Interchanɡe and Research Institue Newsletter Vol.11 2010 5 2010年 異文化交流研究施設ニューズレター 指揮したのが実はかつて考古庁長官で、 豊かな国で、海岸からシリアとの国境を ち砕いた一つであるが、空港から南下す 著名な考古学者であったというから呆れ なす山地までは青々とし、我々日本人に る途次、そしてレバノンを離れるまで てものも言えない。 はなじみやすい景観が広がっていた。 ずっと見かけた車の洪水とその車種に驚 ティールでは古代都市遺跡に接して有 私たちは踏査の第一目的地で滞在地で いた。車の大半が日本では大型車とされ 刺鉄線などで囲われたパレスチナ難民 もあったティールまで、空港からベイ るドイツ製、しかもベンツである。マニ キャンプが広がっていたが、それは私た ルート市街を通り抜けサイダを経て南下 アには垂涎ものと思われる年代物も走っ ちがキャンプという外来語によってイ した。その途次、丘の上に立派な家が競 ており、きっと中古車も多いのだろう メージするものと大きく異なり、その中 うように立ち並んでいることに気づい が、新車が多数走っていた。くだんの考 に建てられていた建物はコンクリートで た。案内していただいたレバノン考古庁 古庁氏も新車のベンツであった。竊に聞 立てられた半恒久的なものであった。私 (日本で言えば文化庁)の研究者の説明 き出した彼の給料では何十年かかっても たちの車を運転してくれた運転手もパレ では、レバノン人はお金ができると高所 到底購入できないと思われたが、彼によ スチナ人で、彼はレバノン人と結婚して に家を買い求めるのを理想としている、 るとレバノンはいまでも出稼ぎ仕送り国 いるよしであった。パレスチナ難民の中 と。しかしその家は鉄骨・鉄筋を使って 家で、彼の親戚も地中海を挟んでイタリ にはレバノン人と婚姻関係を結び、それ いるが、その量のきわめて少ないこと、 アからエジプトにまで広がっているとの を使ってレバノンで地道に働き、逞くレ 日本だと建築基準法で違法とされるもの ことであった。しかしドイツ車にまけず バノンの地に根をはっている人びともい ばかりと思われた。くだんの考古庁氏曰 日本車、しかも新車がレバノンの国土を るようであった。 く、地震が何千年か前にあっただけでそ 走っていることに驚いた。自家用車では さて、中東への出張がはじめてであっ れ以来ないからだ、と。しかしそれだけ トヨタとホンダ・日産が殆どを占めてい た私は、本などで得た、中東=砂漠=イ ではあるまい。口に出して言うのははば たが、マイクロバスは三菱ばかりであっ スラムという紋切り型のイメージしか抱 かれたが、何千年に一度の地震より、南 た。およそドイツ車が5割強、日本車が いていなかったが、実際にレバノンの首 のイスラエルの攻撃があれば、家を放り 3割弱であろうか。私は車に乗らないが、 都ベイルートの空港に降り立つと、それ だして逃げねばならないからではない レバノンのような中東の小さな国で、元 は一掃された。まず、この国では私たち か、と。 気に日本車が走っていることを誇らしく がイメージする姿のイスラム教徒を殆ど ところで、古い地図ではレバノンの南 も、頼もしくも思い、日本もまだまだや 見かけることはなく、多くの女性は素顔 北に長い国土を走る鉄道が描かれている れるとの思いを強くした。 を見せていることである。また、これも が、イスラエルの空爆によって破壊され 認識不足を痛感したが、レバノンにはキ たのか、その痕跡は全く見あたらず、ほ リスト教徒もおり、教会がモスクと併存 かに公共交通機関もなさそうであった。 する光景が普通に見かけられるだけでな つまり、レバノン人の交通手段は車だけ く、キリスト教徒だけが住む村も多く見 なのであり、それゆえに人びとは皆車を 受けた。そしてもう一つ、レバノンは中 もち、それにお金をかけているようで 東諸国では唯一国内に砂漠を持たない緑 あった。これもレバノンのイメージを打 バールベックの神殿群 留 学 の 現 場 か ら One World One Dreamの 世界を創りたい! 翟 金永 (たく きんえい) 山口大学独立大学院東アジア研究科2年 研究室にて 6 2006年4月1日朝、エイプリルフール て2年目を迎えた私は、現在、農村高齢 のせいで、友達に電話して「今から日本 者の扶養を研究しています。 に行く」と伝えても信じてもらえません 21世紀は世界的に高齢化社会が進む傾 でした。 向の中、各国にとって、高齢者問題が緊 その日の夕方、山口の湯田温泉駅に私 急の問題になりつつあります。日本はア は姿を現した。 ジアの高齢化の先陣を走っており、こと 山口は、気持ちがおだやかになれる町 に30年前から高齢化率日本一の記録を更 ですし、山口大学も豊かな自然に恵まれ、 新し続けた東和町(現在は周防大島町) 勉学・研究に創造性や想像力を働かせる は山口県にあります。それだけに、山口 ための最適な環境もととのっています。 大学には高齢化問題を扱う優れた研究者 最初の人文学部研究生としての一年は、 が多数おられますし、研究蓄積も厚いの 日本語の補習や、専門知識の復習、日本 です。これから日本を上回る世界最速 留学試験、大学院受験に追われ、大変だ ペースで進展する中国高齢化にどのよう と感じましたが、幸いにチューターの に対応していくかに関しては、多大の示 五十嵐さんが学習面・生活面を支援して 唆を得られると思っています。 くれて、いまでも感謝の気持ちでいっぱ 山口大学は、「発見し・はぐくみ・か いです。人文科学研究科の修士課程を終 たちにする 知の広場」を理念として、 え、東アジア研究科の博士課程に上がっ チャレンジ精神に富む人間力のあふれる 第 11 号 教員と学生が、共に育つ「共育できる大 面が多く、親切な客もいるし、態度が悪 学」を目指しています。その中、学科の い客もいる。ある日、1人のおばあさん 枠を越えて個性的研究、新たな知の創造 が私が中国人だと知って、いろいろ話し に挑戦する試みが多数あります。時間学 かけ、笑顔で「頑張ってね!」と励まし の研究はその一例です。現代人の誰もが てくれたことがある。その時の暖かい感 時間に追われて生きている中、今日を豊 じは今も覚えているし、一番印象に残っ かに生きるためのヒントを探り、新しい ている。 時間学という学問を切り開いているとこ 東大寺での見学 ろです。研究分野が文理協奏で、多岐に これから日本にいる時間は1年半ぐら いしかないため、日本にいるうちに、学 わたり、けっこう面白そうです。草創期 なことを学び、様々な人と出会い、私の 業のことはもちろんのことだが、日本人 にあって問題と困難が大きいと思います 人生にとっては非常に貴重な経験である。 の友達を多く作り、日本料理や祭りなど、 が、それだけの喜びも秘められているの まず言いたいのは、山口大学を留学先 日本の伝統的な文化を多く体験し、充実 です。興味があったら、是非(山口大学 に選んだことを一度も後悔したことがな した留学生活を過ごしたい。 時間学研究所に)のぞいてみてください。 いということである。大都市に比べ、山 授業・研究以外では、私は積極的に地 口は確かに田舎であるかもしれないが、 域行事に参加しています。幼稚園、小学 静かで勉強するための施設も整っている 校の運動会は、地域こぞって参加し、紅 ので、いい留学生活ができる。 白だけに分けることに驚きました。その その上、山口大学に留学生支援システ 合間に町内会や高齢者などの世話役が地 ムがあって、私たち留学生が日本で勉強 域社会のまとめ役を果たしていることを や生活するための様々なことを助けてい 発見できました。このように、大学構内 る。例えば、2009年10月から2010年2月 の日本人学生だけでなく、地域住民との まで、外国人留学生のための特別支援プ 国際線の飛行機を利用したこともなけ ふれあいを通じて交流の輪をひろげてい ログラムが実施された。このプログラム れば独り暮らしをしたこともなかった自 ます。 で論文を書く方法を教える授業や大学院 分にとって、この留学の第一歩は重くて また、山口大学には、世界各地から留 の受験を指導する授業などが設けられ 恐ろしいものでした。着いてしまえばど 学生が来ています。中には、バングラデ た。そのほか大学の留学生センターは毎 うにかなる、なるようになる、と散々言 シュ、マレーシア、インドネシア、エジ 年、日本人と留学生の懇談会を開いたり、 い聞かせても中々その重さは変わらず、 プト等からのイスラム教を信仰する人も 留学生が日本文化を体験できるように、 飛行機も恐ろしいし、英語もそんなに出 少なくはありません。すれ違うときの微 京都や熊本城、阿蘇山などの名所の見学 来るわけでもないのに、どうして留学し 笑みで“as-salāmuʻalay-kum”って祝福 を計画したりしてくれている。そのおか たいなんて思ったのだろうと後悔したこ を送ると、親近感を生み出す妙なる力を げで、私たちの留学生活がとても充実し ともありました。 体験したことは、本来の人間性のすばら ている。それに私をはじめ、ほとんどの 着いてからまず他の交換留学生仲間と しさを省みるきっかけともなります。い 留学生は授業料が全額或いは半額免除さ 会いました。日本人は驚くほど少なかっ つか、見知らぬ人々同士が異文化理解 れ、経済的負担が減って、本当に助かっ たけれど、韓国人や中国人はたくさんい と相互尊重の態度を持ち、One World ている。 ました。それから毎週日曜日に開かれた One Dreamの世界が構築できると信じ 次に言いたいのはアルバイトのことで Chopsticks Partyでよく会うようになり ています。 ある。多数の留学生にとって、アルバイ ました。一回しか会えなかった人もいた トは留学生活に不可欠な一部である。な けれど、そこでたくさんの人と知り合え、 ぜかというと、アルバイトは生活費を稼 東アジアの文化の近さや、それぞれの雰 ぐ手段としてだけではなく、日本の社会 囲気や考え方の違いに気付きました。遠 に溶け込む道でもあるからである。 いアメリカに来てまで、日本に近い国の 私のアルバイト先はコンビニである。 人たちとたくさん話すことに違和感が 仕事をし始めた時、日本語を言い間違え あったこともありましたが、日本にずっ たり、来店するお客様の言うことが分か といたら会うはずのなかった人たちなの 日本への留学は2回目である。1回目 らなかったりして、非常に困った。だが、 で、今はこうして過ごせたことはよかっ は中国貴州大学に在籍していた2008年の バイト先の日本人の仲間が親切に助けて たと思っています。 4月から、交換留学生として、山口大学 くれたおかげで、仕事がだんだん順調に それから、日本語クラブが立ち上げら 人文学部で10ヶ月ぐらい留学していた。 こなせるようになってきた。しかも、仕 れました。これは新しく今年の交換留学 それから、貴州大学を卒業して、2009年 事のことに限らず、日本語教材や辞書に 生の一人が日本語の先生と相談して作っ の10月、山口大学人文科学研究科に進学 は載っていない日本語をバイト先の日本 たもので、そこでたくさんの日本語を学 するため、再度来日した。日本での留学 人の友達が教えてくれて、本当に嬉し 習しているアメリカ人にあうことが出来 はつらいこともあるが、楽しいことも多 かった。 ました。サブカルチャーにしかほとんど くある。留学生活を通して、日本の様々 また、コンビニでのバイトは接客の場 興味のなさそうな人もいれば、日本の伝 貴重な日本留学体験 黄 潔 (こう けつ) 山口大学人文科学研究科1年 オクラホマでの留学生活を終えて 永久 真衣 (ながひさ まい) 人文学部言語文化学科ヨーロッパ言語・文学コース3年 Cross Cultural Interchanɡe and Research Institue Newsletter Vol.11 2010 7 2010年 異文化交流研究施設ニューズレター 第 11 号 統文化もサブカルチャーも両方興味のあ ん勉強になり、かつとても楽しい思い出 る人もいました。日本人でも全員が日本 となりました。クラブのメンバーとは本 のゲームやマンガやアニメといったもの 当に仲良くなれたと思います。 が大好きというわけではないので、向こ 他にも色々な出会いがありました。 うの会話によくついていけなくなること 様々な世代の人が大学生として在籍して がありました。不思議なことに、時々日 いるので、日本ではあまり直接関わる機 本の伝統や文化や歴史を知らないのと同 会のない30代40代の人ともたくさん話せ じくらい恥ずかしいと感じたりもしまし ました。一昔前の話や彼らの研究への熱 た。 意は、とても刺激になりました。 日本語クラブの活動は毎回面白いもの ハロウィンにて(筆者後列右から一番目) でした。ただの雑談に終わることもあっ この9カ月は本当に濃くて有意義な時 間でした。オクラホマでの様々な出会い たけれど、テーマを決めて話したことも みんなでご飯を食べに行ったり、日本語 を大切にし、留学生として過ごした日々 ありました。テーマは早口言葉だったり、 のテスト対策の手伝いをしたこともあり を今後に活かしていきたいです。 映画のことだったり、色々でした。また、 ました。このような会への参加はたいへ 異 文 化 講 演 会 報 告 第18回講演会 『紅楼夢』と『源氏物語』の異同 喚起されたようです。講演後に行なわれ たディスカッションでは、古典で取り扱 われた題材が、現代の男女関係における アクチュアルな問題にも関連しているこ とが明らかになりました。 異文化交流研究施設では平成21年10月 23日(金)に中国の北京大学元教授・紅 楼夢学会常務理事の陳熙中(ちん・きちゅ う)氏を講師として、『紅楼夢』と『源 氏物語』の異同について講演会を行いま した。講演は、中国語と日本語の逐次通 訳で行われ、特に男性主人公賈宝玉と光 (報告者:エムデ・フランツ) 第19回講演会 ヨーロッパ哲学者の誕生 −哲学の世界地図の由縁について 源氏、女性主人公薛宝釵と紫の比較、更 り広い範囲をも含めて紹介するかによっ て、気候の考え方が大きく変わります。 思想史においては従来、限られた地域、 つまり中央ヨーロッパのみを視野に入れ て、西欧の思想が考えられてきました。 にこれらの作品に反映された時代、文化 異文化交流研究施設では平成22年1月 しかし哲学の地図をアフリカやアジア大 の差異について、興味深く語られまし 29日(金)にスイスのチューリッヒ工科 陸にまで拡大して見てみますと、思想の た。聴講した中国人留学生も、これまで 大学元教授のエルマール・ホーレンシュ 流れや影響力、または概念の起源がはる 自国の著名な文学作品を手に取る機会に タイン氏の講演会を開催しました。内容 かに広い範囲に渡ることが分ります。中 恵まれなかったようで、この講演会をと は、世界各地の哲学・思想の発祥地や思 世ヨーロッパの限られた哲学地図が現代 おして、古典文学に対する興味や関心を 想のマッピング、すなわち哲学の地理学 まで有力であることも明らかになりまし でした。スライドを使いながら、世界 たが、西洋思想と思われている哲学に全 における思想の関連性が提示されまし 世界からの普遍的な観念や課題が含まれ た。講演は天気予報の話から始まりまし ていることも分かりました。グローバル た。スイスを例にとって、一国の予報天 化の時代と呼ばれる今日、古来からのグ 気図が示されました。隣国や大陸、ある ローバルな思想に注目すべきであるとい いは太平洋との関係を度外視して、天気 う結論が説得力を持つ講演でした。 を一国に限って紹介するか、それともよ 目 次 海外講演報告 ―――――――――― 根ヶ山徹 ―3 海外研修ファイル ――――― 馬彪/橋本義則 ―3 平成22年度異文化交流研究施設 『異文化研究』 (第4号)の御案内 ―― 脇條靖弘 ―2 留学の現場から ―― 翟金永/黄潔/永久真衣 ―5 異文化講演会報告 ―――― エムデ・フランツ ―8 8 連絡・問合せ 755-8540 山口市吉田 1677-1 TEL 083-933-5200(代) FAX 083-933-5273 http://ds.cc.yamaguchi-u.ac.jp/~hmt/ kenkyu/ibun.htm 「異」字考 ―――――――――――― 高木智見 ―1 ティールのヒッポドローム (報告者:エムデ・フランツ) 湯川 洋司(人文学部長・異文化交流施設長) 根ヶ山 徹(副学部長) 高木 智見(評議員) 橋本 義則(研究部長・異文化交流施設副施設長) 脇條 靖弘(研究部門長) 馬 彪(教授) 武本 雅嗣(准教授)
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