4[10/21〜10/31]

パリ籠城期(1870 年 9 月 18 ⽇〜1871 年 1 月 28 日)におけるフランスとヨーロッパ-4[10/21〜10/31]
翻訳:横浜市立大学名誉教授
松井道昭
【127】10月21日(金)
(戦況)
プロイセン大本営の電報の信憑性について世評はすこぶる悪い。
したがって、軍事的事実に関するベルリンの公筋からのニュースはない。トロシュ将軍によれ
ば、10 月 13 日パリに軍隊が到着する予定だった。14 日のヴェルサイユの情報を伝える『ベル
リン官報 Moniteur prussien』の記事はモンヴァレリアンの砲兵隊によるサン=クルー城の破壊
について語り、この災禍の責任をこれに転嫁する。プロイセン軍はこの地点を占拠もしていない
し、ここに進出する兆しすらないと言う。しかし、これとは逆に、ムードン Meudon とシャテ
ィヨン Châtillon およびブール=ラ=レーヌ
Bourg-la-Reine を同時に突破するはずの戦闘についてはひと言も述べない。
『プロイセン官報』よりも遠慮がちではないヴェルサイユ発の書簡のかたちで国王大本営の通
信は以下のように述べる。出撃作戦は履行された。戦闘は数時間続いた。しかし、付け加えてい
う。結局のところ、籠城側は森の後ろへ退却せざるをえず、死者を回収するために休戦を結ばざ
るをえなかった。フランス側の解釈によれば、こうした要求のイニシアティヴをとったのはこれ
とは逆に攻囲側である。こうした矛盾の真只中で真実を見分けるのは非常に困難である。にもか
かわらず、日が経つにつれて少しずつ真実が明らかになる。10 月 13 日の戦闘でパリの南で大敗
を喫したにもかかわらず、ドイツ兵営の電報もドイツの新聞もこの事件ついてわれわれに語ろう
とはしていない。
ガンベッタ氏のヴォージュへの出立は、フランスの同地方で作戦を展開している正規軍の司令
官カンブリエル将軍と話し合うためである。つまり、ケレル Keller(オ=ラン県の聖職者の代表
であり、彼は同地方防衛の義勇軍を指揮している)との合意を取りつけるためのようだ。そして、
ガリバルディはヴォージュ南部の山岳地帯とジュラ地方で全力を挙げて指揮する任を帯びてい
る。マルサラ Marsala の英雄は臨時にドール Dôle に作戦本部を設置し、そこからヴェルダー
将軍が指揮する独軍を脅かすつもりだ。【128】左手にベルフォールを臨むヴェルダー将軍はソ
ーヌ川渓谷を通ってリヨンを奪取する計画のもとにすでにヴェズールに到達。しかし、この行動
の危険を冒すまえに、現在はオルレアンに駐留し、そして『ガゼット・ド・クロワ』紙の記事に
拠れば、ブールジュ方面 ― ここにフランスの大砲製造所および他施設がある ― に南下しなけ
ればならないし、バイエルン軍を指揮するフォン・デア・タン von der Tann 将軍と連携作戦を
とらなければならない。
パリの城壁内で次の作成に関して『デイリー・ニュース』は速報を公表する。
「ベルリン発 10 月 19 日、吾人は某外交筋より以下を知る。ビスマルク伯爵は同市への総砲
撃に反対であり、現下の作戦はいくつかの要塞を奪取し、残りを飢餓に瀕させることである、と。」
(アルトネーの戦い、感動的挿話)
『ケンプトン新聞』に宛てたあるバイエルン兵士はアルトネーの戦いに関する1書簡を書き送
った。
(リールでの騒動)
18 日夕方、小規模な戦闘がリール近郊で発生。焦慮した首脳部の幾人かは県庁を支配した。
状況の悪化のせいで帝政は崩壊。国民衛兵はきわめて活発に敵前における分裂のこうした策動を
鎮圧。首謀者は逮捕されるか、逃亡するかのいずれかに終わった。
(ルクセンブルク大公)
『サン』紙の記事。[省略]
【129】
(イギリス)
借入れ金の決着ないしなすべき前払いのため、ローリエ氏はロンドンに到着。彼はパリと密接
な関係を維持している。
アルレース=デュフール Arlès-Dufour 氏はイギリス国民に対し宣言を発したが、イギリスは
この時は干渉できない。・・・
(ツールの人々の感情)
・・・
(リュッツ Lutz の逮捕と醜聞)
ローヌ県のリュッツ氏はドゥー県知事オルディネール Ordinaire 氏への訴追を企図する。
【130】
(ヴィルヘルム王とドイツの民主主義)
保守派がすべての国の民主主義を温かい目で見つめていることは周知のとおり。彼らにとって
民主派血を血で洗う者、恒久的ギロチンの味方であり、現代世界を苦しめる災禍において責任を
有する人間である。
にもかかわらず、民主派は良き要素をもつ。彼らのすべての害悪にもかかわらず、そして、彼
らのすべての卑劣な行いにもかかわらず、彼らのあらゆる社会的・政治的転覆の計画にもかかわ
らず、彼らが人類に準備する大異変にもかかわらず、彼らは平和の熱心な味方であり、本質的に
征服と侵略のあらゆる政策に敵対的であるのだ。
最もよく組織された精神が栄誉と勝利の詩を作らせるまさにその一瞬にそれはなにがしかの
意味をもつ。
吸血鬼が彼らの理性を失わせることはしないし、彼らは殺戮や虐殺を、たとえそれから利があ
るとしても呪うことを知っているのだ。
こういうわけで、ベルリンの『未来』紙は民主党の大部分の党員によって署名された宣言を公
表し、そのことによって党員らはジャコビー氏の提案に関する民主党の会合でケーニヒスベルヒ
で採択された抗議に対し支持を与えた。
国王を頂点とするプロイセンの保守派がこの点に関してこれらを馴らしがたい民主派と考え
たことが一度だってあれば、世界は今日の廃墟と恐怖を見なかったであろう。
10月22日(土)
(戦況)
メッスからのニュースを落手。それは朗報、しかも、あまりにもすばらしいニュースである。
なぜなら、多くの者がそれは誇張であると信じたからだ。すでに公表された事実のくり返しを皆
が見た。
ここにツールからの電報の原文がある。
「ツール発、10 月 22 日(土) ヌフシャトー、10 月 21 日。
政府からの速報。出撃戦においてバゼーヌは 8 万の兵とともに 26 個大隊、
【131】2 個騎
兵隊を殲滅し、敵を防護していた製鉄所、教会などを破壊した。食糧と弾薬を積んだ 193
両の車両が捕獲された。包囲軍は数回にわたって補強され、兵士はバゼーヌによる陽動出撃
戦によって憔悴させられた。バゼーヌは 2 時間おきに突撃を鳴らさせ、大砲を轟かせ、こ
のようにしてプロイセン軍をして、わが軍が休息しバゼーヌの意図を知っている間も始終警
戒させたのだ。
プロイセンの将校はチフス、バゼーヌ、不眠が3つの大敵であると告白する。」
サン=カンタンがプロイセン軍によって占領される。この町が最初、敵の攻撃に対してなした
晴れやかな防衛については周知のとおりだ。サン=カンタンの占領を告げる速報は以下のとおり。
それはプロイセン軍の名誉ある戦史に刻まれるべき1コマではなかった。なぜというに、抵抗は
ほとんどなされなかったからだ。・・・
これらの速報によってプロイセン軍が北仏への前進を続けるであろうことは明らかだ。リール
は果敢な抵抗を準備する。
しかし、軍事的ニュースはおそらく間もなく関心を失うであろう。じっさい、休戦交渉がもた
れそうであるからだ。
(ヨーロッパにおける平和の願望)
平和! 平和! ヨーロッパの願望を要約するのはこの叫びだ。休戦に向けての交渉、外交の開
始は直ちに世論から大歓迎を受ける。
『タイムズ』紙によれば、プロイセンはフランスが原則的に領土分割に同意することを条件と
してフランスでの停戦に同意する用意があるという。
世論が現下の虐殺と殺戮の終焉を見るという願望を基礎づかせるのはこのニュースに対して
である。フランスはこのような条件下での交渉は拒絶するように思われる。なぜなら、それはア
ルザス=ロレーヌの放棄を暗黙裡に前提とするからであり、共和政はこれに同意しないであろう。
(ボワイエ将軍の旅行)
【132】ボワイエ将軍の往来は世論の好奇心の的である。この将軍がヴェルサイユ大本営でなし
ていること、彼がイギリスで企図した旅行の目的が何であるか訝しく思われている。
世論はメッスの降伏が俎上にのぼっていることを信じたがらない。世論はまた、バゼーヌが現
政府を承認するのに躊躇し、フランスの利害をナポレオン期の利害と同一視することをなお望ん
でいるというのも信じられないようだ。
それが何であれ、ボワイエ将軍の旅行はブルバキの脱出にまつわる諸事件の騒動の後、あらゆ
る当て推量やあらゆる気遣いをさせる元となっている。
(皇帝の財産)
テュイルリーで発見された秘密文書の公表はピエトリの仕事で明らかになった。秘密文書の公
表によって与えられたなんらかの指示を説明するために『ベルギーの独立』紙に彼が送った 2
番目の書簡は以下のごとし。[省略]
(マルセーユ)
ブシュ=デュ=ローヌの高官エスキロスの逮捕 ― 政治的出版、宗教的会合に関して ― を無
効にした共和政臨時政府の政令を公表。この政令はマルセーユでは貼り出されず、この町では周
知されていないようだ。同官吏はツールの命令に服従することを拒絶。内務大臣が彼の釈放を命
じていたが、彼は民兵の特別部隊によってこの抵抗に勇気づけられた。
【133】
(リールでのコミューン宣言のための試み)
ツールの新聞はグレヴィ Grévy、 ド・バランティ De Baranti、ウィルソン Wilson、ギヨー=
モンペルーGuyot-Montpayroux、ビュフェ Buffet、ルフェーヴル=ポンタリス Lefebvre-Pontalis
の往来や秘密会合について記す。これら政治家、雄弁家、そして自称要人は秘密をはたらき、憲
法を獲得するために手段の限りを尽くす。フランスはこれらの人物の演説を読むという無駄骨を
折るのだろうか。
【134】10月23日(日)
(戦況)
全方向から悲報が届く。プロイセン軍はアミアン、ルーアン方面に進み、ヴェルノン Vernon
を砲撃し、エクール Hécourt の森に消えた。
シャルトルが占領される。
プロイセンの速報はメッスのバゼーヌ軍から脱走兵が多数出たことを伝える。
ついにシュレットシュタット Schlettstadt の南西 500~700 歩で要塞の平行濠が奪取された。
(講和)
ヴェルサイユ本営への外交官または将軍の往来が呼び起こす講和の可能性に関し『ベルギーの
独立』紙述べる。[省略]
【135】
(イギリス)
ボワイエ将軍が前皇后と会見したもよう。
(ロシア)
同将軍のイギリス旅行について『聖ペテルスブルク新聞』は公的情報の不足ゆえに状況は不確
かだと述べる。同紙は以下のごとく考え、また希望する。バゼーヌはフランスにおいて選挙を宣
言し、憲法議会後に成立する政府の裁量下の自己の軍隊をおくべく降伏するであろう、と。
同紙はまた、ドイツ大本営はバゼーヌに同調し、ボワイエ将軍は体面上、前皇后の同意取りつ
けに行ったと伝える。
もし前皇后が拒絶するならば、バゼーヌは祖国の安全を超えては相談せず、あらゆる他の義務
から自らを解き放つであろう、と同紙は考える。
(ガリバルディ軍の将校)
ガリバルディはヴォージュにおいて軍の幹部を形成した。
3個旅団がすでに結成された。第一旅団はボサック Bossak 将軍の指揮下に遊動隊と義勇大
隊から成り、義勇大隊には多数のイギリス人、スペイン人が含まれ、オランス Orense が指揮
を執る。
第二旅団はマリーMarie 大佐の司令下でほとんど全員がフランス人から構成される。
第三旅団はメノッティ・ガリバルディ司令官の下での1個フランス遊動隊、2個イタリア人大
隊、1個ニース大隊から成る。
各旅団は1個工兵隊を帯同。
独軍はミニョン Mignon の橋を爆破。
(テストラン氏の辞職)
『エコー・デュ・ノール』に思いがけないニュースが掲載される。
テストラン氏=国防長官は同紙に手紙を寄せる。[省略]
【136】(リール)
ブルバキ将軍は北西フランスの軍事力組織化のためにこの町に一昨日到着。
(ネルのチョッキの徴発に関して1市長の幻滅)
【137】
10月24日(月)
(戦況)
地方に分遣されたドイツ軍の作戦は断続的に続けられているが、未だ決定的な結果を見ない。
シャルトルはプロイセンの一個軍団によって制圧されたが、一方、ツールからの電報によればヴ
ェルノンは精力的に抵抗し、敵の攻撃をよく防いでいるということ。ウール県イヴリーでは同じ
情報源によれば、すべての住民、婦人、子ども、老人がジゾン Gisons に退却した侵略者を撃退
しつつある。ブザンソン発の情報によれば、激戦が交わされ、オート・ブルゴーニュに位置する
二地点間で土曜日の一日中続いたが、結果は未だ知られていない。アルザスではシュレットシュ
タットの要塞の包囲網が狭められはじめた。包囲軍は要塞の一つから 500~700 歩の距離に最初
の平行濠を掘削する。
(講和)
『ベルギーの独立』紙。[省略]
【138】
(ルクセンブルクにおける対プロイセン感情)
プロイセン領となることを受容するアルザス人やロレーヌ人はいないようだ。ルクセンブルク
人はヴィルヘルムやビスマルクの臣民となることについて同じ拒否態度を経験する。
(フィレンツェ)
ある新聞によれば、イギリスのカトリック派要人のアクトン卿はローマからフィレンツェに到
着した。
彼の旅行は教皇問題に関わると見られる。ラ・マルモラ La Marmora 将軍が教皇に謁見を申
し入れたという噂は否定された。
(ツール)
刻下の大問題は軍の再編である。それは派遣部に課された大仕事であり、わが新内閣は全力を
挙げてこの問題に取り組んでいる。これは訓練と軍精神を再建する目的でとられた措置だ。
【139】
(謎の死)
マスクはまだ払われていない。最もぶ厚い謎のヴェールがつねにこの高官の名と地位を被せて
いる。
(ケラトリ氏とカレ=ケリズエ Carré-Kérisouet )
10 月 22 日付の政令によりケラトリ氏は遊動隊、遊動国民衛兵、西部諸県(フィニステール、
モルビアン、コート=デュ=ノール、イル=エ=ヴィレーヌ、ロワール=アンフェリウール)の
義勇兵団司令官となり全権を帯びる。この軍隊はブルターニュ軍と命名される。ケラトリ氏は陸
軍省に所属。
カレ=ケリズエ氏はブルターニュ軍属の理事長に任命される。
(ボナパルト派の復権)
ボナパルト派の陰謀が進行中。バゼーヌがその総帥と見られている。この問題に関しロンドン
から『ベルギーの独立』紙に宛てられた内容。
【140】
(ラ・フォルジュ氏の辞職)
『シエークル』紙の 10 月 22 日の記事。
10月25日(火)
(戦況)
本日の『ベルギーの独立』紙によれば、ジョワンヴィル方面において仏軍 3 個大隊と砲兵隊
が一昨日、出撃戦を展開したもよう。それは包囲網のこの地点を受けもつヴュルテンベルク軍に
よって撃退された。この報道を伝えるステュットガルト発の速報は独軍側に 2 人の死者と 30 人
の負傷者が出たという。
ロンドン発の速報によれば、同日パリで一度ならず二度の出撃戦が展開されたらしく、二度と
も包囲軍を困惑させる以外の結果をもたらさなかったという。同じ速報は二度目の戦闘がどこで
おこなわれたかについては沈黙する。
地方で抵抗が強まり、独軍をしてその軍事力を集中させる効果を挙げる。独軍は莫大な戦費を
そこから徴発してのちサン=カンタンを撤収。深刻な脅威を感じていたアミアンとルーアンは漸
く難を免れた。ラ・フェル La Fére の包囲は解除された。【141】同市は精力的に抵抗した。そ
れはきわめて有用な砲兵隊のおかげである。リールではブルバキ将軍は同市防御のため最も効果
的な措置を講じた。
オルレアンを占拠したバイエルン軍フォン・デア・タン将軍はブ-ルジュ方向へもツール方向
へも動きを見せない。将軍は軍隊を給養させるため、騎兵隊とパリ駐屯騎兵隊にロワール渓谷を
巡回させた。
ブザンソン発の電報の伝える戦闘。10 月 22 日、オート・ブルゴーニュ県のシャロン=ル=デ
ュクを陥れた戦闘でカンブリエル将軍の速報によれば、独軍は損害を被ったもよう。独軍は仏軍
の占拠地点の奪取に成功していないようだ。仏軍の損害は僅少で捕虜を少しばかり出したようだ。
アルザスのシュレットシュタットの砲撃は今月 18 日から始まる。同市は激しく反撃し、包囲
軍はストラスブール攻囲時と同じように斜堤まで攻略工事をしなければならないほどだった。し
かし、籠城軍は昨日、降伏開城した。
(講和)
『タイムズ』紙の報道によれば、ツール派遣部によってその提案を受諾したと伝えられるイギ
リス政府はビスマルクに対し、ティエールにパリ行きの通行券を発給するよう示唆。この通行証
はおそらく与えられるであろうが、北ドイツ連邦とパリの代議士の間での近い将来における会見
を予測するイギリスの新聞は合意の可能性を信じないし、また、ドイツによるアルザス=ロレー
ヌの所有に関してそれぞれの主張に固執するかぎり、イギリスの提案する休戦の成立についても
期待薄とみる。ベルリンから『タイムズ』紙に宛てられた昨日付の電報は、プロイセンは領土割
譲の原則が受け入れられないかぎり、いかなる種類の交渉にも応じないとの態度表明を繰り返し、
同市の新聞の観測を裏づけるにいたった。
『デイリー・ニュース』紙はティエール氏のパリ旅行に関して『タイムズ』紙と同じ情報を与
える。
ウィーンの『アーベント=ポスト』紙も同様のことを述べる。
(パリの遊動隊)
『タイムズ』紙のパリ通信員は 10 月 23 日までこの新聞に以下のように書き送る。[省略]
【142】
(派遣部の借款の成功)
ローリエはロンドンでのその使命を果たしたようだ。イギリスのある富豪が6%の利子付きで
34 年間の償還で1千万スターリングのフランスの借款を引き受けた。発行額は 85%である。
(メッスからのニュース)
ベルリン発の電報の伝えるところを信じるならば、メッスにおける食糧不足は深刻化している
もよう。しだいに増えつつある脱走について多くの証言がある。10 月 20 日以来、フリードリヒ
=カール公はお供を帯同しメッス方面に行ったところ、そこで同地の降伏のための交渉が開かれ
たもよう。一昨日、ボワイエ将軍がその本営に姿を現わした。にもかかわらず、この最新のニュ
ースをこの同じ将校のイギリス旅行 ― 最新情報では彼は 22 日朝に到着したばかりだが ― と
両立させるのは不可能である。
メッスでの近い将来の降伏を目前に控え、この住民とその守備隊に食糧を供給すべき必要性と
のためにザールブリュッケンで一大準備がなされている。何百人もの対壕工兵がメッス鉄道によ
って外部連絡の回復のための準備をおこない、すべてのパン屋と肉屋はパン、小麦粉、肉、塩を
大量に補給することに余念がない。
(クレミュー氏の令状)
国璽尚書、法務大臣は検事総長に令状をまわした。
(軍事指揮権)
【143】地方の上級軍事指揮権 ― その創設が派遣部によって必要と判断されたのだが ― 以下
のように最終的に構成された。
北仏の上級指揮権…師団将軍ブルバキ…本部リール…ノール、パ=ド=カレー、ソンム、エー
ヌ、アルデンヌ、セーヌ=アンフェリウール、オワーズ、ウール(セーヌ右岸に含まれる部分を
含む)。
南仏の上級指揮権…師団将軍フェレック Féreck …本部ル・マン…ロワール=アンフェリウー
ル、メーヌ=エ=ロワール、ドゥー=セーヴル、ヴァンデ、イル=エ=ヴィレーヌ、モルビアン、
フィニステール、コート=デュ=ノール、マンシュ、マイエンヌ。
第18師団…アンドル=エ=ロワール、サルト、ロワール=エ=シェール、ヴィエンヌ、ウー
ル=エ=ロワール、オルヌ、カルヴァドス、ウール。
中仏の上級指揮権…師団将軍ド・ポレス De Polhès …本部ブールジュ…シエール、ニエーヴ
ル、アリエ、アンドル、ロワレ、ヨンヌ、オーブ。
東仏の上級指揮権…師団将軍カンブリエル…本部ブザンソン…オート=ラン、ドゥー、ジュラ、
オート=マルヌ、オート=ソーヌ、ヴォージュ、コート=ドール。
(国防委員会)
以下の構成をもつツール軍事委員会が結成された。
委員長
ソル Sol 将軍第 18 師団司令官
技監
シェレル Schérer
鉱山技師 ドルモワ Dormoy
ツール工兵隊司令官 ド・クレーヌ De Coulaine
司令官、副参謀兼秘書 クラリーClary 子爵
最も緊要な防御工事が委員会によって認められ、ドルモワ、ド・クレーヌ、クラリー氏らは
10 月 21 日、その地点を確かめ、直ちに着工するために出発した
(ルーアンにおけるブルバキ将軍)
確かな消息筋の情報によれば、北仏軍の司令官に任命されたブルバキ将軍はルーアンに本部を
設立したといわれる。【144】ノルマンディの国防の観点から見てこの計画の実現を保障する巨
大な利点をすべての者が認める。
(ド・ラ・フォルジュの辞職)
10 月 22 日、サン=カンタンからアナトール・ド・ラ・フォルジュ氏の辞職を導いた動機に関
する情報を『シエークル』紙が受け取った。[省略]
(危険な使命)
最も危険な行政的地位の一つがポー弁護団のウジェーヌ・ドーゾン Eugène Dauzon 氏に与え
られた。敵兵によって包囲された北東フランスのアルデンヌの町メジエールでドーゾンが知事に
任命され派遣された。彼は 21 日にツールを発ち、プロイセン軍の監視の裏を掻いてまもなく任
地に到達する予定。
(ドイツの統一)
ドイツの最終的再編のためにヴィルヘルム王の大本営で開かれる予定の討議に参加するため、
南ドイツ諸国からの派遣団の閣僚会議はまもなく終結するもよう。ヘッセン政府の首相 Dalwigh
男爵と Hoffmann 氏は昨日ヴェルサイユに向け出立。ザクセン王国の庁官フリーゼン男爵(兼・
北ドイツ連邦会議を主宰)はフランスに赴くよう招請状を受け取った。
【144】10月26日(水)
(戦況)
本日は戦場からこれといったニュースが入らない。ブザンソンから少し離れた処に位置するシ
ャティヨン・ル・デュク Châtillon-le-Duc 近郊でヴェルダーWerder 将軍麾下の前衛部隊とブ
ザンソン前方に配置された斥候隊とのあいだで起こった衝突事件は、偵察行動で発生した偶発事
で何ら重要な結果にいたらなかったように思われる。【145】
リールに防御工事を施したのち、ブルバキ将軍はルーアンに本営を設けるであろう。
シュレットシュタット城はごく最近激しい攻囲を受けたのち、24 日に降伏した。シュレシュ
タットは人口 1 万 1 千の町であり、第二級の要塞を備えている。同市はヴォージュの隘路の入
口と鉄道 ― アルザスからサン=マリ=オ=ミヌ Saint-Marie-aux-Mines を通ってリュネヴィ
ル Lunéville とナンシーNancy 方面に通じる ― の要衝に位置する。
したがって、この地点が占領されればドイツ軍に重要な戦略上の優位を与える。ライン峡谷に
おいて重要でないヌフ=ブリサック Neuf-Brissac とベルフォール ― ヴズール街道に位置す
る真実の防御陣地 ― を陥れる必要がある。
(パリにおける 21 日の出撃戦に関する『タイムズ』紙の報告)
『タイムズ』紙の通信員のラッセル氏は、サン=ジェルマンのテラス上から 10 月 21 日のパ
リ出撃戦を目撃したようすについて次のように記した。戦闘の舞台はモン=ヴァレリアンの西斜
面のルイユ、ブージヴァル方向であったという。
【146】
(ドイツの統一)
ドイツ再編に関するヴェルサイユ会議は必然的にオーストリアの政界の関心を集めた。ウィー
ンのいくつかの新聞は、この機会にオーストリア=ハンガリー政府がプラハ条約によって同国に
認められた権利を守るためにドイツ問題の再燃に干渉するだろうと伝える。ド・ボイスト氏は
1866 年のドイツ問題以来守ってきた沈黙を破り、ウィーン政府の外交的失敗を見越し、より危
険な性質の新たな紛糾に際して態度をとるべく機会を窺っているとの情報は甚だ疑わしい。さら
に、『ガゼット・ド・クロワ』紙はその情報にもとづいてドイツ再編の仕事を指揮する政治家が
この問題についてオーストリアが意見を述べるのを許可しないであろうこと、そしていずれにせ
よ、オーストリアは干渉すべき解決に対して何らかの影響力も保持しないであろうことをより積
極的なかたちで表明する。
(ティエールの旅行)
著名な外交官はヴェルサイユへ到着したとの報道。
(プロイセンの自由主義)
ヤコビーJacoby 氏は釈放された。しかし、ハノーファにはインターナショナルの幾人かの加
盟員が拘禁されている。彼らはアルザス=ロレーヌの併合に対して抗議したかどで逮捕された。
(気球)
23 日付の『モニトゥール・ユニヴェルセル』の記事。
【148】
(前皇后の威信と控えめな態度)
ウジェニー前皇后は、現下の状況が彼女に課すところの慎み深い意識をもっているように思わ
れる。われわれは『デイリー・ニュース』からこの傾向について読み取ることができる。
(テストラン氏の辞職の撤回)
リールの新聞によれば以下のようである。すなわち、テストラン氏の辞職は受諾されず、この
名誉市民は結局、この難儀で重要な地位に留任することに同意した。
テストラン氏の辞職とその撤回の振る舞いは北仏において承認されており、そこで、この国防
委員は党派の別を問わず尊敬と信頼をもって迎え入れられている。
(リュッツ氏)
プロイセン軍の捕虜となったと噂され、ブザンソンで逮捕され、身代りが処刑されたこの飛行
士は司令官に任命された。
【148】
10月27日(木)
(戦況)
フランスはその災禍に未だ終止符を打っていない。
さらに大きく、さらに恐るべき新たな破局 ― スダンの破局ほどには意外でないにしても ―
がフランスを襲った。
メッス、乙女メッス、残骸があり、同時に帝国軍隊の精鋭が居るメッス、プロイセン軍の主力
を打ち砕いたメッス、パリとフランスが一縷の望みを託す抵抗の砦メッスがついに降伏したの
だ!
それと同時に、要塞および野営陣地、コフィニエール Coffinières 将軍によって指揮された守
備隊はバゼーヌ将軍の司令下におかれていた。13 万を擁し、2 万の病人と負傷者をかかえてい
たこの軍隊の全体が本日午後、武器を擱いた。
【149】プロイセン王から王妃に公式に伝えられたこの事件の重要性は特にとりあげる必要はな
かろう。ヴェルサイユで本日開かれている交渉で講和締結を急がせないまでも、フランス南部お
よび中部に対するのと等しくパリに対する将来の作戦に対し大きな影響を及ぼすのは確実であ
る。
トロシュ将軍の報告以来最初の、26 日発プロイセンの公電はパリ守備隊の一部によって包囲
軍に対しバニュー、シャティヨン、クラマールで 13 日に演じられた戦闘について述べる。しか
し、同公電はバイエルン軍が蒙った損害の正確な数字をわれわれに伝えるのみ。これによると、
敵軍は死傷者を含め 1200 人にのぼる。プロイセン公電によれば、被害は死者 60、負傷者 262、
捕虜および行方不明 59 を出したにすぎない。
ヴェルサイユから同じく発信された別の電報はヴェルダー将軍麾下の軍団によってオート・ブ
ルゴーニュで収められた最近の勝利について語る。彼はカンブリエル将軍をオワジノン Oiginon
を越えてブザンソン方向に撃退したと見られる。トゥール発の電報がフランス軍の勝利を報道し
た 22 日の事件が今問題なのである。ドイツ側の報告によれば、フランス軍が大潰走しているの
に、同軍は現在位置を守っているというのだ。今後の作戦はどちらが真実を語っているのかを明
らかにするだろう。
(講和)
ふたたび灯った講和の希望。
ティエール氏は休戦締結のための交渉をおこなう目的でヴェルサイユとパリに向けて出発。彼
の歩みは中立国によって支持され、ヨーロッパ全体で同情の声を集めている。ひとたび休戦がな
ると、世論は間近に迫った講和を予測する。
メッスの降伏がプロイセン軍の要求を増大させることによって休戦・講和への道をより困難に
するかどうかは神のみぞ知るところである。したがって、フランスは恥辱の盃を空っぽにし、徹
底抗戦による敗北を喫することになるであろう。
(ウィレムシェーエ Willemshoehe からのニュース)
ウィレムシェーエにおける動きが活発になる。さほど有名ではない人物が非常に忙しそうに往
来、あるいは到着と再出発。彼はふつうの出来事に没頭しているのではなく、虜囚の守衛はウィ
レムシェーエの外部との交通を可能なかぎり容易にすべく命を受けているように思われる。
【150】なぜというに、ウィレムシェーエとカッセル Cassel との間に日に3回の郵便集配業務
が確立され、城の住民と皇帝の従者の専用とされたからである。土着の住民についていえば、彼
らは昔と同じように毎日とまでいかない郵便業務に甘んじざるをえない。ナポレオンは手紙を書
くのに一生懸命で会見することは少ない。
(Deux hoec otia fecit)
ボナパルト派は閑である。彼らは余暇を利用して書簡活動に没頭。世界中であらゆる新聞が書
いたその手紙を掲載する。『デイリー・ニュース』に宛てられた書簡の一つ。
(休戦交渉)
オーストリア大使メッテルニヒ公によって、そしてイタリアの大臣ニグラ氏によってそれぞれ
の政府の名においてトゥール派遣部に対して交渉がなされた。
(遺憾な辞職)
代議士の兄弟グレヴィ氏はドゥウル県 Doul, オート=ソーヌ県 Haute-Saône, ジュラ県
Jura の国防政府の委員を辞職。なぜであるかは不明。すべての有能な男たちが身を挺し、献身
するためには時局はかなり重大な岐路にさしかかっている。
(アルザスの状況とフランスへの固執)
10 月 26 日付の『アンデパンダンス・ベルジュ』紙はアルザスについて書く。
【151】~【153】
(ロレーヌの状況、プロイセン侵入の手口)
【154】
10月28日(金)
(メッス降伏)
本日の『アンデパンダンス・ベルジュ』紙は述べる。プロイセン王が王妃宛てに打った電報が
述べるところによれば、メッスで降伏したのは 15 万(うち2万が廃疾者)ではなく 18 万で、
うち6千の将校と3人の元帥が含まれるという。以上がヴェルサイユの本営から本日、ドイツに
向けて発信された電報の内容である。勝利を祝う祝砲がベルリンで撃たれ、国中で非常に大きな
祝賀式典がおこなわれた。
これら集団的感情を冷えさせないために、『モニトゥール・プロイセン』はいま一度次のこと
を大急ぎで繰り返した。すなわち、軍事的・戦略的観点からすれば、ドイツはその権力の手に落
ちた地位を決定的な要塞として防護しなければならない、と。現国境を維持するためにせよ、ド
イツ領アルザス=ロレーヌの併合のためにせよ、メッスの防備の破壊、それのフランスへの返還
とともにフランス人によって占拠されたすべての領土を宣言したのは、【155】フランス、中立
国、ドイツの報道機関にさえ告知された法令である。
降伏の条件やバゼーヌ元帥を署名に追い込んだ状況がどんなものであったかは知られていな
い。しかし、13 万を擁する軍隊が武器を擱き、奇妙な陰謀に引っ掛かるのはスダン後といって
も、簡単には信じがたい事実である。したがって、あらゆる推測の余地があると思われる。
数日来、フランスは多かれ少なかれ、メッス開城のニュースを受ける予兆をもっていた。しか
し、このような見通しは勇気を挫かなかった。それどころか、しかも休戦のための中立国の干渉
以外の他の事実を引きあいに出せないため、アルザス=ロレーヌ住民の権利放棄にも等しいいか
なる条件も、署名捺印以上に精力的な決心を人はほとんど信じられなかったのである。勝利なく
して、勝利者がそれらを得る機会を与えてしまった。リヨン、ボルドー、ナント、トゥールーズ、
マルセーユなどすべての大都市はこの感情において一致している。農村ではいかなる声も聞かれ
ない。こうした見方からすれば、トゥール政府が本来もつべき全権限をあらゆる処で持たないの
であれば、その決心は少なくとも国家意志への無関与といえないかもしれない。戦争継続によっ
てこの政府が崩壊すれば、ドイツ軍は無政府状態、土地のいたるところで絶え間ない、増大した
闘争、短期にせよ長期にせよ仏領占領に直面するであろう。『タイムズ』紙通信員の伝えるとこ
ろでは、ヴェルサイユの大本営は起こりうる可能性を予測しはじめ、あらゆる悪化した機会にも
対処することを決めた。
(派遣部による2億5千万の借款、成功の必要性)
ローリエ Laurier 氏がロンドンで交渉中のフランスの借款の調印が昨日完了した。作業は成
功したもよう。それは国防政府にとっての成功でもある。
財政は本来的に慎重であり、本質的に中立的である。それは本気でしか資金を与えない。今度
の場合、フランスの財源において信頼がおかれたと同時に、国防政府がその名において約定する
権限が承認されたことを意味する。これは重要な結果であり、『タイムズ』紙が今日、開戦時以
上にフランスに同情的となっていることを示すものである。【156】同紙は、融資がイギリスの
中立性の見地から遵守を惹き起こすのではないかを危惧する。しかし、ドイツは早晩ロンドン市
場での信用に依存せざるをえないだろうし、また、イギリスの資本家はフランスを支えるのと同
じようにドイツを支援するのを拒絶しないであろうから、その問題はただ単に町の新聞を気遣わ
せているにすぎない。
(ベルリンでの同じ借款、プロイセン署名の意味と重要性)
フランス共和国の名においてローリエ氏によってロンドンで結ばれた借款はベルリンでも受
取人を見いだした。単に電報業務はベルリンの手形振出人の電報をロンドンへ発信することを拒
絶している。しかし、郵便という方法が彼らに残されているが、彼らがそれを使ったかどうかわ
れわれは知らない。
この点について、複数の新聞がフランス借款の特に利益の大きい条件によって引き寄せられた
ドイツ資本家に以下のことを思い起こさせる。すなわち、この借款は戦争借款であり、その基金
はドイツと戦うためにふり向けられるものであること、したがって、この借款に応募することは
ドイツを敵に回してその敵手を利することであることを。
『ガゼット・ド・フランクフルト』紙は言う。この表明はフランスの領土保全に精神的支持を
与えるにとどまったヤコビーの場合とは比較にならないほど重大なことである、と。ベルリンの
応募者はフランスとドイツとのあいだで繰りひろげられている闘争において物質的・財政的干渉
をおこなうことを意味するのだから。同紙はレッツェン Loetzen にベルリンの財布を送る理由
があるかどうか疑義をもつ。幸いにも、これら投機家に対しヤコビーは放免されたのであるが。
(ヴェルサイユにおける反プロイセン的示威行為)
『ガゼット・ド・ケルン』紙10月 23 日付の記事。
(気球)
サンス Sens の郡長の至急報によれば、10 月 22 日 11 時 20 分、パリを発った気球ガリバルデ
ィ号が高度 2000 メートル以上の空中で、新たな発明と思しき弾丸によって攻撃されたと報じた。
政府によって派遣されたド・ジュヴァンセル De Jouvencel 号は落ちはじめ、プロイセン前線に
近いモーMeaux とラニーLagny の中間に無事に落下。6 羽のハトとともにサンスに到着し、た
だちにオセール Auxerre とトゥールに向かって発った。【157】
(スダンにおけるナポレオン三世とビスマルク氏)
スダンの戦闘後、ナポレオン三世とビスマルク氏の会見の場に立ちあったと主張する『デイリ
ー・ニュース』の通信員はこの問題について興味深い詳細を同紙に送った。
(エルベ島のナポレオン三世)
プロイセン王が皇帝に対し寛大に処置したにもかかわらず、スダンの虜囚はけっして喜んでい
ないように思われる。ベルリンの官報は彼の健康がもっと暖かい気候を望んでいること、来月エ
ルベ島に向け発つ予定と報じた。したがって、少なくともパロディがグロテスクでないとすれば、
第二帝政は第一帝政のパロディの極みである。しかし、むべなるかな! このパロディはなんと
血腥いことか!
(ドイツ弁理公使に対するフランス人の態度、ある抗議)
著名な東洋学者ジュール・モール Jules Mohl が『ヌーヴェル・プレス・リーブル Nouvelle
presse libre』紙に宛て次のような記事訂正を申し込む。[略]
(ローリエ借款に対するボナパルト派の論陣、シュネーデル氏の抗議)
ロンドンのボナパルト派の新聞『シテュアシオン』はトゥール派遣部がロンドンで交渉した借
款に立腹。【158】これらの人物は愛国者とフランス国民と自称し、フランスの独立と安全を語
りながら、国防政府から全力を挙げて資金すなわち抵抗のための最重要の元手を奪おうとするの
だ。
フランスが武装し、国の解放のために進む必要があるまさにその瞬間に、『シテュアシオン』
紙の自称愛国者は彼らが手厚いもてなしを受ける国で敢えて以下のように明示する。…[中略]
… 9400 万フランと登録され、フランスにおいて獲得された成功はこれらの陰謀に対する格好の
懲罰となるだろう。…
さらに、ボナパルト派はこうした言葉遣い、こうした態度に抗議する。ナポレオン三世の賞賛
者であり、その忠実な部下であるためには、やはりフランス人であり、その国家の安全への貢献
が必要である。旧立法院の最も権威ある人物の一人であり、議長そのものでもある人物がこれら
の画策に応えて書いた手紙を以下に示しておこう。
(パリの教皇使節の脱出)
(ボールペール Beaurepaire 陸相の悲劇的最期)
『Bulletin départemental d’Eure-et-Loir』紙の記事。
【159】
(ボルドーの偽報と民衆騒動)
【159】
10月29日(土)
(戦況)
メッスの降伏が醸成した雰囲気は以下のとおり。その日に生起したさほど重要でない戦果に対
して人々はほとんど関心を寄せないほどである。ソンム県知事はプロイセン軍が北仏諸県の遊動
隊によってフォルムリーFormerie で撃退された旨の布告を貼らせる。彼らが退却すると、つね
に愛想よく、また文明的にプロイセン軍はブヴレス Bouvresse を焼き討ちにした。一方、ヴズ
ール発の報告によれば、プロイセン軍はこの町を午前中に引き揚げ、西方のドゥガン Dougant,
フェーヴル Faivre, セイ Sey に向かった。
(メッスの降伏)
この痛ましい破局の詳報が今日届いた。われわれは『デイリー・ニュース』の至急報でこの情
報を集める。【160】われわれが追跡する情報はこの悲しむべき戦史の真実の性格について語る
であろう。…[中略]…
最後の瞬間まで兵士のと疲労困憊にもかかわらず、抵抗の意志は存在したのだ!【161】何と
いう苦しみ、事物の力によって報われない、何という献身であることか!
幸いにして、先ほど見た情報、他の状況下と同じようにメッスでは何ごとも反撃できないこと
を斟酌しなければならない。情報によれば、フランス軍は「すべては失われたが、名誉だけは残
っている」状態で、。と。この古い名句はバゼーヌとその軍隊のものとなるだろう。
やがて、フランスは茫然自失となる。フランスはスダンの降伏時の恥辱と敗北の盃を飲みつく
したと信じたにもかかわらず。またも思いがけない同様の事件が起きたのである。それはフラン
スに不意討ちを食らわせ、その軍事力の主力を打ち砕いた。その軍隊、その希望、その力、その
名誉はもはや失われ、敵はパリの城壁の向こう側まで来ている。
何という未来だろう! この災禍は何をもたらすのだろうか。
メッスで出版された『アンデパンダン・ド・ラ・モーゼル』は、喪の標として黒枠で囲まれ、
われわれに与えるいくつかの重要な史料を以下に掲げる。
議定書[略]
【162】
(パリにおける内乱の噂、そして否認)
ヴォーバン Vauban によれば、27 日、パリから脱出した 1 人の人物はパリの内部で徴発が 25
日に発生したというヴェルサイユ発の電文ニュースを否定。
(ウィレムシェーエのニュース)
28 日発、この所在地からの電文によれば、メッスの降伏はそこでも大きな驚愕を惹き起こし
た。ピエトリ氏は大急ぎで当地に到着。
(イタリア)
【164】教皇に対する攻撃はイタリア王に対する攻撃と見なす、とフィレンツェで報じられる。
教皇文書は罰則を免れた。
『ガゼット・ド・フィレンツェ』は、許可なく外国のために仕官するガリバルディ派に警告を
発し、市民権を剥奪すると報じた。
(メッス降伏に関してリヨンでの受け止め方)
『公安 Salut Public』紙は 24 日号でメッスの降伏を既成事実と伝えた。群衆はその印刷を妨
害するためにこの新聞の印刷局に押しかける。示威行進を止めさせるのに市議会議員の調停を必
要とした。翌日、知事はニュースを否定し、それを流布する者を挫くために宣言を発表した。曰
く。「これは虚偽であり、中傷であり、共和国の敵によって捏造されたものである」、と。
同市発の報道によれば、事情が許せばガンベッタがそこに赴く旨の約束をしたという。穏健派
はこの訪問について、彼らが父と恐怖の象徴として攻撃する赤旗が地に墜ちるものと見なした。
(前皇帝の私的財産)
、、
「テュイルリーで発見されたといわれるもの」への返答としてピエトリは『アンデパンダンス・
ベルジュ』紙で以下の否認談話を発表。ベアリング Baring 兄弟はナポレオン三世が彼らの会社
に投資していた事実を是認した事実について、『アンデパンダンス・ベルジュ』紙はその是認は
ナポレオン三世当人によってなされた投資であって、皇帝の利益を慮った第三者によってなされ
た投資ではないと答えた。さらに、ベアリング社以外にもこの太陽のもとで他の銀行家があった。
同紙は続けていう。この考察はわれわれには抗弁の余地のないもののように思えるのだが、「ウ
ィレムシェーエの虜囚は、家族はその主人の財産は 18 年間にわたる支配ののち、彼がフランス
に帰還したときと同じような破産状態に縮減したことを信じなさい」。
(憲法制定議会のための1票)
通信途絶の結果、シュレシュタットの町は憲法制定議会選挙の延期を知らされていなかった。
したがって、同市は投票し、結果は以下のごとし。
ジュール・ファーヴル=2,426
ュール・シモン=2,302
=2,358
トロシュ=2,426
クレミュー=2,376
ヴァランタン Vlentin=2,356
ガンベッタ=2,404
ペルタン=2,371
ジ
アラゴ
キュス Küss(ストラスブール市長)
=2,324
ムタール Th. Moutard(鉱山技師、工科大学校教授)=2,321
メル
シェーム Melsheim(13 人陰謀の有罪判決者の 1 人)=2,363
【165】
10月30日(日)
(状況)
パリ砲撃の準備完了。『ガゼット・ド・クロワ』紙によれば、この噂は確認する必要がある。
開城勧告はすでに首都になされたとのこと。この勧告が拒否されれば、砲撃は来週明けから始ま
るであろう。
『北ドイツ連邦日報』は以下のように暗示する。パリ政府はすでに降伏を考えているという。
なぜなら、トロシュ将軍はデュクロ将軍にプロイセン王宛ての書簡を送る許可を与えたからだ。
その書簡においてこの将校が約束を破ったかどで彼に対してなされた告発を正当化する。結論は
やむをえない。生命に固執することなく名誉に固執する。
フランス発の電報は敵に対してもたらされたいくつかの利点を明らかにする。ノルマンディの
フォルメリ Formery では 1500~2000 のドイツ兵が撃退され、追撃を受けている。ヴズールは
解放される。ノジャン=ル=ロトルーNogent-le Rotrou 近くのクールヴィル Courville でも同
様。敵兵はシャルトル方面に撤退。同類のニュースが呼び覚ます希望については慎重に構えなけ
ればならない。すなわち、フランスはあまりにも幻想に生きてきた。いくつかの地点で敵軍の退
却 ― 単なる戦略上の移動にすぎないのだが ― によってもたらされた部分的活路は作戦全体
に対してはまったくか、あるいは第二義的な影響しか与えない。
真相はこうである。もし戦争が継続するなら、われわれは近々、戦争による荒廃がフランス中
部諸州に拡大するのを見なければならなくなろう。ルーアン、リヨン、トゥール、ブールジュ、
おそらくはナントやポワティエが最も直接的な脅威をうける地点であろう。
(メッスの投降)
フランス軍事史上、ほとんど前例を見ない重大事が起きたのだ!
昼夜の別を問わず祖国の安全のために献身してきた偉大な愛国者、かくも廉潔で、かくも献身
的な市民ガンベッタは、共和国の全知事への回状のなかで降伏することによって祖国を裏切った
バゼーヌを告発する。
その告発は内相、陸相が述べた条件付きのものである。降伏の確実性は今日それを正当かつ厳
しいものとした。ここに問題の資料がある。…[略]… 【166】
事態は深刻である。この告発はフランスの1元帥の名声、名誉、名前をかくも深く傷つける。
問われているのは、フランス国民全体が信頼し自慢にしてきたこの元帥の名誉である。
怒り、軽蔑、絶望、愛国心は地に墜ちた。ガンベッタ氏はコフィニエールとバゼーヌ将軍が彼
らの名を釘づけにした降伏の真相を知ったとき、開城とそれが随伴する諸状況が彼らに公式に通
知する前に、彼が述べた非難をおそらく取り消すであろう。
したがって、バゼーヌが裏切ったのではないこと、彼は降伏の翌日の本日においてもなお、ジ
ュール・ファーヴルが彼の中にフランス最大の支持者を見た1か月前の状態にあることを信じ、
これに期待をかけよう。
【167】
(ティエール氏の旅行)
『ガゼット・ド・フランス』紙の 10 月 28 日付の記事。
(中国と日本における普仏戦争)
アメリカの要求にもとづいてシナ海と日本海に現に存在するドイツおよびフランスの艦船は
あらゆる敵対行動を控えることを約束した。
(マルセーユ、出版の自由に関する知事の布告)
26 日付のマルセーユの新聞は行政官エスキロス氏の意見にもとづいて『ガゼット・ド・ミデ
ィ』の発禁処分を解除する旨のデルペック Delpech 知事の布告を掲載。
この布告は以下のごとし。諸状況のみがこの出版の自由の違反を正当化する、と。この違反を
惹き起こした策動は今後おこなわれないことを希望する。
(アルジェリアにおける陪審)
陪審員制度がアルジェリアで拡大される。3つの重罪裁判所が設置されるであろう。1つはア
ルジェ、もう 1 つはオラン Oran に、最後の 1 つはコンスタンティーノ Constantino にである。
【168】
10月31日(月)
(戦況)
サン=ドニの東方で 28 日と 30 日に激しい戦闘が繰り広げられた。そのニュースを知らせ、
結果を伝えたのはヴェルサイユ大本営の至急報である。
それによれば、28 日、フランス軍はブールジェに進出した包囲軍を撃退し、防御と攻撃がで
きる状態に陣地を築いた。しかし、30 日、これらの陣地はプロイセン軍によって奪還された。
損失は双方において甚大だったが、ヴェルサイユ大本営発の至急報は死傷者数を述べていない。
至急報は単に 30 人の将校を含む 1200 のフランス兵が捕虜になったと伝えるにとどまる。
ディジョンが本日、1万~1 万2千の兵力によって占領された。おそらくはヴェルダー将軍麾
下の師団によるものと思われる。抵抗は激しかった。午前 9 時から夕方 5 時まで続いた。砲撃
がその抵抗に打ち勝った。フランス軍司令はボーヌ Beaune に退却。
(メッスの抵抗)
われらの希望は潰えた!
現下の戦争の歴史は多数の裏切り行為を数え、バゼーヌの名は今後、祖国と誓約に対する二重
の裏切りという不名誉な名となるだろう。
以下の言葉はトゥール派遣部がフランスに対し、メッスの降伏とバゼーヌの裏切りについて興
奮と憤怒の論調で知らしめた雄弁文である。昨日、知事宛ての回状におけるガンベッタの言葉は
曖昧で、条件付であった。本日は派遣部の論調は明晰で恐ろしいばかりに正確である。
【170】
トゥール派遣部の非難と同時に、フランスを襲う甚大な災禍に関してフランスの情報源から発
する最初の情報をわれわれは受けとった。メッスから辛くも脱出した将校やこの町の新聞が伝え
る情報はライン軍の将軍にとって刺激的であった。
…[略]…
『アンデパンダン・ド・ラ・モーゼル』・・・派遣部の感情と非難を支持。
【171】~【173】
(メッス降伏についてベルリンの受け止め方)
【174】
(メッス降伏についてマルセーユの受け止め方)
メッス降伏に際し愛国的デモがおこなわれた。驚愕が拡がる。
(ウィレムシェーエからのニュース)
『タイムズ』紙によれば、ピエトリがウィレムシェーエに到着し、メッス降伏の期日を待ち焦
がれる。
(ロシアの軍事的措置)
ツァーは軍隊の移動を加速化させる法律を認める。本法は軍旗のもとで 427,297 人を召集し、
うち 17 万はポーランドから来る。
(ティエールの旅行)
ヴェルサイユから受け取った 10 月 25 日付の至急報によれば、
『ヌーヴェリスト』紙はティエ
ールの歴訪はなんら成果を挙げないだろうと予言する。
(ポール・ド・カサニャック Paul de Cassagnac 氏の言い逃れ)
『ル・ペイ』紙の元主幹の彼はプロイセン軍の牢獄を脱出。ピルピニャン・コレージュの校長
グラニエ・ド・カサニャック Granier de Cassagnac 僧正がこの脱出のもようを語る。
【175】
(オルレアンの義勇兵)
歴戦の勇士ポンソン・デュ・テライユ Ponson du Terrail 氏は本気で戦う。彼はオルレアン
の義勇兵大隊を組織し、その義勇兵に向かって、「バイエルン兵によって農場が焼きはらわれ、
家畜が盗まれ、耕作民となったすべての猟師、密猟者、農民が加入すること」を要望した。
(次
http://linzamaori.sakura.ne.jp/watari/reference/maquest5.pdf)
(c)Michiaki Matsui
2014