天野さん講演記録(PDF) - 核と被ばくをなくす世界社会フォーラム2016

原爆と原発
講師: 武藤一羊さん
天野恵一さん
2015 年 10 月 3 日(土)
(於)文京シビックセンター
頒価:250 円
核と被ばくをなくす世界社会フォーラム 2016
連続学習会第三回講演記録
ウェッブ http://www.nonukesocialforum.org
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講演者紹介
武藤一羊
原水禁運動の草分けとして反核運動に関わる一方で、第三世界との連
帯運動の長い経験をもち、アジア太平洋資料センターの創設者であり
、その後ピープルズプラン研究所を立ち上げてきました。福島原発以
後の著書として『潜在的核保有と戦後国家―フクシマ地点からの総
括』があります。世界社会フォーラムにも当初から深い関心を寄せて
きました。
天野恵一
日本の反天皇制運動の中心的な担い手の一人であると同時に、戦後か
ら現在に至る日本の社会運動に関わる思想にも造詣が深く、福島原発
事故緊急会議などの運動の立ち上げなどに関わってきました。福島原
発事故以後の著書として『災後論―核 ( 原爆・原発 ) 責任論へ』があ
ります。
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一体のものとしての原爆と原発
潜在的核武装と闘う反原発運動へ
武藤一羊
今から 3 年ほど前に福島の事故後に『潜在的保有と戦後国家
―フクシマ地点からの総括』(社会評論社、 2011 年)という本
を出して、原発と原爆の関係を論じたことがあります。これを書
いたときには野田内閣でしたが、その後、第二次安倍政権ができ、
できたと思ったらあれよあれよという間に国家改造に上からとり
かかり、それに対する抵抗も前には考えられなかったような規模
と性格で始まっています。
原爆と原発という問題はわたしにとっては、かつては別のも
のでした。60 年近く前、1957 年に、私はできたばかりの原水協
(55 年設立)の事務局で、国際部を担当するスタッフでした。
その年、広島では第三回原水爆禁止世界大会が開かれ、私もその
ために寝る間も惜しんで活動していました。この大会で私は、初
めて被爆者の方たちに会い、その声も聞きました。そして初めて、
原爆資料館にも行きました。中央に破壊された広島を示す大きな
パノラマもあり、生々しい遺品などが並べられていて、あらため
て大きいインパクトがありました。被爆の惨状についてはすでに
『朝日グラフ』などが出て伝えられていましたが、この資料館で
生にそれに触れることは別のことでした。
原爆資料館は当然ながら暗い雰囲気で、照明も明るくはな
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かった。しかし、その順路をずっと行くとドアがあって、続きの
間へ行くようになっていました。それを開けると、パーッと明る
い部屋に入り、目が眩みました。周囲を見渡すと、まるで別世界。
それは原子力平和利用の展示室でした。原爆の被災の展示と平和
利用の展示が背中合わせだったのです。そうとうな違和感があり
ました。当時原子力平和利用というトピックは新聞や雑誌で大き
く取り上げられていて私も一通りの知識はもっていましたが、ま
さか原爆の惨禍を知らせるこの資料館に、原子力平和利用を讃え
る展示室がつながっているとは想像つきませんでした。ちょっと
異様なコントラストでした。人類の偉大な科学的達成、無限のエ
ネルギーの源泉、これからの生活は一変する、そういう筋の展示
でした。アイソトープがいかに医学に役立つか、原子力飛行機と
か原子力列車などの模型。人類の未来は原子力にある、人類は原
子力時代に入った、それはまったく新しい時代だ、そういうメッ
セージです。
そういうかたちで、原子力平和利用というものが、そのころ 、
1950年代に、日本に持ちこまれました。原爆資料館になぜ平
和利用の展示室があったのかを私が知ったのは、ずっとあとのこ
とで、原水爆禁止運動の生みの親の一人である広島の森滝市郎 1
さんの著書からでした。アメリカが原子力平和利用の博覧会を世
界中で組織し、それを広島にも持ち込んできたのです。会場がな
いので、原爆資料館の展示物を全部持ち出し、そこでこの博覧会
を開催した。一九五六年のことです。その展示の一部が資料館に
「寄贈」され、特別室で展示されていたというわけです。
この時期の原爆と「原子力平和利用」の関係を、田中利幸さ
ん、最近まで広島市立大学広島平和研究所にいた方ですが
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現在入手可能な著書として、『核と人類は共存できない - 核絶対否定への歩
み』、七つ森書館、2015 年、がある。
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(2015 年 3 月定年退職)、その田中さんとピーター・カズニッ
クさんが『原発と広島――「原子力平和利用」の真相』という岩
波ブックレットで、簡潔に解明していますので、一読をおすすめ
します。1950年代半ばが、米国が日本に原子力平和利用を持
ち込んでくる時期なのです。1954 年というのは、ビキニ事件が
起きた年です。3 月 1 日、アメリカは、太平洋のビキニ環礁で水
爆実験を行ない、「死の灰」と呼ばれた放射性降下物を広大な水
域に大量にばらまき、危険水域と指定された水域をはるかに超え
て操業中だった漁船の乗組員を被曝させます。焼津の漁船、第五
福竜丸の乗組員が被爆し、入院し、一人が亡くなります。そして
日本にも放射能を含んだ雨が降る。これに対して、日本国内では、
東京・杉並の主婦の人たちが水爆実験禁止を要求する署名運動を
始め、それがあっという間に全国的な草の根の原水爆核実験禁止
の超党派の署名運動に発展します。これを基盤にして 1955 年に、
はじめて広島で原水爆世界大会が開催されます。
米国が日本に原子力平和利用を持ちこんでくるのは、日本で
の原水禁運動の空前の盛り上がりへの、一つの応答としてでした。
ビキニ事件のちょっと前、1953 年 12 月にアイゼンハワー大統
領は国連で「アトムズ・フォー・ピース」つまり「平和のための
原子力」という演説を行ないます。この大演説は、原子力平和利
用の演説だということになっていますが、わたしは本を書くため
に、もう一度よく読んでみましたが、これは平和ではなく戦争の
演説なんです。いかに原子力の破壊力が強大であるかを誇らしげ
に述べる、というのが演説全体の 7 割くらいあり、あとの 3 割で、
米国は国際機関をつくり、原子力の平和利用のためにそこに核物
質を預ける、そしてその国際機関は米国の支配下に置く、という
話です。これを原子力の平和利用と称したわけです。
この原子力平和利用の背景にはいくつかのことがあります。
ソ連が民生用の原子炉を作って発電を始めたので、米国はこれに
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対抗しなければいけないという意識が強かった。 2その背後には、
核戦争というものへの世間の嫌悪感があって、なんとかそれを薄
めたいという動機がある。米国にとっては、原爆というのは輝か
しい、誇れるものなんですね。日本帝国主義、日本ファシストを
やっつけた象徴であり、米国の力を全世界に示すための光輝くシ
ンボルだったわけですが、一般には、その残虐さが知られるにつ
れて評判が悪くなる。したがってそれを実際に使うことに障害が
ある。自由に使えない。それでは困る。前に触れた本でカズニッ
クが書いている箇所を引用しますと、
1953 年 3 月の国家安全委員会の議事録にはこうある。「大統
領とジョン・フォスター・ダレス国務長官は、いずれタブーを
壊さなければならないということで一致している。ダレス長官
は国際世論の現状を考えると原爆を使うことはできないとしな
がらも、この世論を消し去るためにできるかぎりの努力はすべ
きだと言った」。
つまり、原爆が使えるようにするために、原子力の悪いイメージ
を消し去る必要があるという理屈です。そこからアイゼンハワー
の「アトムズ・フォー・ピース」もでてくるわけです。もう一度
カズニックによれば、国防総省の心理戦略委員会のコンサルタン
トだったステファン・ボッソーニという人は「原子力が建設的目
的に使われていれば、原子爆弾ももっと容易に人々は受け入れる
であろう」と委員会に助言したそうです。
これは一般的に原爆を受け入れさせるための「平和利用」の
心理戦略だったわけですが、日本の場合は、広島・長崎があり、
ビキニ事件があり、戦後もっと大規模な草の根からの反原水爆運
動の立ち上がりがあったわけですから、特別の対策が必要と米国
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世界初の原子力発電所はソ連のオブニンスク原子力発電所
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は考えた。日本はサンフランシスコ講和で、 1952 年に独立しま
す。米国にとって、独立後の日本がどこにいくのかは大きい心配
の種でした。というのは、日本は当時の西ドイツのような強烈な
反共国家にはなっていなかったからです。もちろん当時の日本は、
アカといわれると村八分になる社会的雰囲気はあったし、政治権
力は反共でしたけれど、共産主義と闘うために命をかけるという
気分からは程遠かった。反共国家というのは、当時の西ドイツが
そうでしたが、「アカになるより死ぬがまし(Besser tod als
rot)」という式の雰囲気だった。共産党は禁止されていました。
ドイツは東西に分割され、東の中の孤島となったベルリン封鎖を
めぐる米ソの一触即発の状況が続いていました。他方、アメリカ
から見れば、日本の反共は生ぬるいものだった。共産党もいて、
活動しているわけです。知識人の多くははマルクス主義を受容し
ていた。日本共産党の影響力とは別に、知識界、言論界でのマル
クス主義の影響は非常に強かった。そしてアジアは革命的激動の
なかにあり、中国では共産党が権力を握って、中華人民共和国を
建国し、朝鮮半島では、米軍と北の共産主義者そして中国の義勇
軍とのあいだで本格的な戦争が戦われたばかり。そういうなかで
日本が共産化するのではないか、そうでないまでも冷戦において
米国から離れて中立化するのではないか、という米国の恐怖はと
ても大きいものがありました。そのさなかに、 1954 年、米国の
核実験に反対するすごく大きな原水禁運動が起った。米国の眼に
はこれが反米運動と見えた。これはいかん、危ない、というのが
CIA も含めた米国当局の判断でした。それで本気になって日本に
原子力平和利用を広めるということになったわけです。
有馬哲夫さん(早稲田大学教授)は、地道にワシントンにあ
る国立公文書館の資料を調査していろいろな興味深いことを発見
してきた方です。彼は『原発・正力・CIA』(新潮新書、2008
年)で、讀賣新聞の創業者で日本テレビのオーナーでもあったも
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と警察官僚の正力松太郎を CIA が手先としてリクルートし、
「ポダム」という組織名まで与えて、原子力平和利用を戦後日本
社会に持ち込ませたいきさつを明らかにしました。当時 CIA は、
将来性のある若手や野心家にツバをつけて、やがて彼らが国の指
導的地位につくよう系統的に手を打って、大成功をおさめていま
す。私の友人のジョン・ロバーツという米国の記者がこのことを
よく調べています。(『軍隊なき占領―戦後日本を操った謎の
男』グレン・デイビスとの共著、講談社)正力はその典型的な
ケースです。正力というアメリカのエージェントは、後に初代原
子力委員長、初代科学技術庁長官になっていくのです。その正力
が先述の世界中を巡回していた原子力平和利用の展覧会を日本に
持ち込んだわけです。讀賣新聞を中心に、朝日新聞も加わって、
日本の上層部をまきこんで受け入れ体制を作って、東京を皮切り
に、全国主要都市を巡回し、ついに広島に持ち込んだ。結局、原
爆資料館を空にさせてそこで展覧会をやった。被爆者たちは怒っ
たのですが、これを押し切ったわけです。広島の「アメリカ文化
センター」が米国政府の外交的な出先ですが、資料館の使用に抗
議する森滝さんに、フツイというその所長は「平和利用で広島を
塗り潰してみせる」と叫んだそうです。森滝さんは日記にそう書
き残しています。
讀賣新聞は「ついに太陽を捉えた」という続き物の大特集を
やります。そして全国的に原子力平和利用の大々的な宣伝をしま
す。これは正力が権力の階段をのしあがっていく第一歩でもあっ
たわけですが、平和利用はいいことだという考えで日本中が席巻
されます。「原子力時代」という言葉が生まれます。原子力時代
というのは、蒸気機関車が発明されたのよりももっとすごい人類
史上最大の進歩である、将来は原子力ですべてがまかなわれるよ
うになるだろう、エネルギーの心配はいらなくなる、石油も石炭
もいらなくなる、というわけです。私が高校時代、その当時の米
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国の雑誌『LIFE』の原子力特集で、台所のガス代のかわりに
ウラニウムの塊りが据えてある挿絵が載っていたのを覚えていま
す。調理も交通機関も全部原子力になる、こういうことがわーっ
とはいってきました。
原子力には、米国の威信、米国文化の偉大さといったもののデ
モンストレーションの意味がありました。米国の代表する文明モ
デル、とくに巨大開発のすばらしさで、戦後日本を圧倒する効果
は絶大なものがあったと思います。ついでながら、この文脈で、
原子力平和利用と一緒に入ってきたのが、TVA(Tennessee
Valley Authority、テネシー川流域開発公社)のプロジェクト・
モデルでした。テネシー川を堰き止めてダムを建設する話です。
これは米国のルーズベルトの時代のニューデール政策の最大のプ
ロジェクトで、人間による「自然改造」が讃えられた時代の産物
です。戦後日本の開発モデルとして TVA と原子力は双璧をなし
ていたと思います。
では日本側はどうだったか。敗戦直後、日本の原子物理学者
は惨めな状態にありました。戦時中、日本軍部も科学者を動員し
て原爆製造を試み、武谷三男さんなどもウラン235の分離実験
などを細々とやっていたようです。占領軍が入ってきて、サイク
ロトロンも芝浦の海に捨てられて、一切研究を禁止された。原子
物理学者は、原子力、原爆の恐しさをよく知っていたので、原爆
につながる研究をこれからどうすべきかについて、学術会議など
で議論を重ねていました。最終的には、自主、民主、公開の三原
則で研究を再開すべしと合意するのですが、正力はじめ中曽根康
弘など政財界の原子力推進派は、科学者が議論ばかりしていると
いきりたち、「札束でほっぺたを引っぱだいてやらなければ彼ら
は動かない」として、国会に原子炉導入のための原子力予算を強
引に提出して通してしまいます。1954年3月4日、ビキニ被
災3日後のことです。自民党の前身のいくつかの保守党議員が超
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党派で、初めての原子力予算を衆議院に上程しました。提案説明
に立ったのは改進党の小山倉之助ですが、この提案理由がすごい
ものです。原子力はまず軍事問題として説明されるのです。こう
いう調子です。
近代科学兵器の発達はまったく目まぐるしいものがありまして、
これが使用には相当進んだ知識が必要であると思います。現在
の日本の学問の程度でこれを理解することは容易なことではな
く、青少年時代より科学教育が必要であって、日本の教育に対
する画期的変革を余儀なくさせるのではないかと思うのであり
ます。(略)この新兵器の使用にあたっては、りっぱな訓練を
積まなくてはならぬと信ずるのでありますが、政府の態度はこ
の点においてもはなはだ明白を欠いておるのは、まことに遺憾
とするところであります。また、MAS の援助に対して、米国
の旧式な兵器を貸与されることを避けるがためにも、新兵器や、
現在製造の過程にある原子兵器をも理解し、またはこれを使用
する能力を持つことが先決問題であると思うのであります。
だから、原子炉を作る予算をつけろ、というわけです。これは相
当ひどい話です。これがそのまま原子力政策の基本になったわけ
ではないのですが、こういう軍事的文脈のなかで原子炉を作ると
いう話が出たということが重要なことです。原子炉は電気を供給
するためのものとしてまずあったのではなく、もともと核兵器を
作る設備として理解されていたことを反映しているからです。原
爆製造のための原子炉は大量の熱を放出するわけですが、最初は、
米国はこの熱をただ川に捨てていた。しかし捨てることは大変手
間のかかることだった。それならこの熱を発電に使ったらどうか
というところから原発は生まれている。だから、もともと発電す
るために原子炉が開発されたわけではないです。日本が最初に導
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入した英国の原子炉は核爆弾製造のために設計された原子炉の一
種でした。そういう経過があるから、小山議員の話はあながち嘘
ではない。
さて、発電用原子炉の導入には冷戦におけるソ連との対抗と
いう文脈がありました。(そのほかに原子力潜水艦用があります
が、これも軍用です)。また、原子力といえば原爆という連想を
絶ちたいという文脈があります。そして最後に発電が副産物とし
て出てくる。そもそもこの全体が軍事からでてきたものです。一
体、お湯を沸かして蒸気を発生させるのに、わざわざあの複雑、
巨大、危険な原子炉という装置を使う必要があるでしょうか。石
油で石炭でも薪でもボイラーを熱することはできるはずです。原
子炉のような複雑、巨大な装置で蒸気を作るというのは、そもそ
も最初にその装置が兵器製造のためにとして存在していたからで
す。あるものだから、それを使う。そこから発して、原爆製造の
方を合理化するために、平和な生活にも役立ちますよと宣伝する
ために政治的に使う。
しかし先にちょっと触れたように、当時の日本(今でもそうか
もしれませんが)は、進歩と科学にものすごく憧れており、これ
は米国への憧れにも結びついていた。アメリカに負けたのは、ア
メリカにくらべて、科学技術が劣っていたからだという戦争理解
が支配的だった。他方、進歩陣営の側には、ソ連の計画経済によ
る自然改造計画へのあこがれおがあった。このソ連モデルについ
ては、戦前日本の軍部は、ソ連の第一次五ヶ年計画を羨んで、満
州の開発をひそかにソ連の五ヶ年計画をモデルにして進めようと
する考えが有力だった。戦後の日本では、米国の TVA とソ連の
五ヶ年計画が、右と左のそれぞれにモデルとされたわけです。当
時の日本共産党の徳田球一書記長は、原子力万々歳でした。彼は
ど素人ですが、利根川水系大改造計画というのを手作りして、発
表してたりしています。これは余談ですが。とにかくそういう時
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代的雰囲気があったのです。
そういう開発哲学が根本から問われ、崩れていくのは 60 年代
後半から70年代にかけてです。環境問題、エコロジー問題が深
刻化し、人々の意識に上り、住民運動が起き、水俣が焦点化し、
三里塚闘争が起きる。四日市喘息など様々な公害問題がでてくる。
このなかで単線的な進歩の考え方が間違いではないかと問われる
ようにある。
こうした時期にかぶさって、原発を核とする原子力が根を下し、
巨大な権力としての原子力産業コンプレックスが成立するのです。
1960 年代から 70 年代までの時期です。
ところで、それに先立って、1957 年にA級戦犯だった岸信介
が首相になります。この岸は、憲法改正を目指すのですが、憲法
を変えなくても日本は核兵器を持つことはできると言明しました。
57 年 3 月 7 日、参議院内閣委員会でのことです。秋山さんとい
う議員が「核兵器と憲法の問題についてごく率直にお尋ねします。
日本の自衛隊が核兵器を持つことは憲法に違反すると私は考える
がご違憲をうかがいたい」と質問し、岸はこのように答えます。
核兵器ということばで用いられている各種の兵器を名前が核兵
器であれば、それは憲法違反だ、秋山委員のお考えはそうふう
なものでありますが、そういう性質のものじゃないのではない
か。憲法の精神は自衛ということであり、自衛権の内容をもつ
ひとつの力をもつというのが、今われわれの憲法解釈上当然で
きることである。而して、それが科学の発達ということから兵
器の発達というものにつきましてな、科学的な研究をしていか
なければならないという建前におきまして、いつまでも竹槍で
自衛するというものではなかろう。
これは安倍晋三さんにそのまま受け渡されている考え、立場です
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ね。自衛のためなら何でもできる、憲法が何と言っていようと関
係ない。これは、一議員が言ったのではなく、総理大臣が国会に
おいて、議員の質問に答えてこう言明したのですから、由々しい
ことです。取り消せない立場声明として残っているわけです。
しかし、では、ここからすぐに核兵器をもつとか自前で原子
炉から核爆弾をつくるという核の軍事利用の方向に進んだかとい
えばそうではないです。この段階においては、作れるぞという法
律の場所を作った。そして中身の方は別個に進んだ。米国との間
に日米原子力協定を結んで、米国の厳重な管理のもとで原発を作
りはじめる。これについては、紆余曲折があって、有馬さんは
『原発と原爆、「日・米・英」核武装の暗闘 』(文春新書)と
いう最近の本のなかで、前著の主張を事実上取り消して、日本は
米国に言われて原子力平和利用を始めたのではなくて、英国の
コールダーホール型原子炉という核兵器を製造できる天然ウラン
を原料とする原子炉を入れた。米国の場合には濃縮ウランを原料
としますが、コールダーホール型は天然ウランを原料とする。こ
れを導入するのは核武装したかったからではないか、というのが
有馬さんの新たな仮設です。しかし現実はその線では進まず、米
国から濃縮ウランをつかう軽水炉を導入して原子力産業をつくっ
ていきます。
1970 年代に、原子力は黄金期を迎え、エネルギー産業として
テイクオフします。毎年毎年原子炉が新たに造られる。 70 年代
に 20 基、80 年代に 16 基、90 年代に 15 基、2000 年代に 5 基
と毎年 10 基以上の新しい原子炉が稼動するようになる。これに
対して反対運動が起きるわけです。反対運動によって多くの所で
建設を阻止しています。しかし、それでもこれだけの数のものが
造られてしまうわけです。
これは、64 年から 72 年までの佐藤栄作の時代で、ベトナム
戦争の時代です。運動としては全学共闘会議(全共闘)やベトナ
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ムに平和を市民連合(ベ平連)の時代で、沖縄の復帰運動が反戦
復帰という条件をかかげて高揚する。学生、少数民族、女性、そ
して若者たちの現状を変えようという運動が沸きかえる時代です。
この時期に、佐藤内閣は、米国側についてベトナム戦争を支持し、
私たちの側はこれに反対してたたかうわけです。しかし、その頃
に私は、佐藤政府が、核武装への探求を真剣にしはじめたという
ことに気づきませんでした。
佐藤は、64 年 12 月に首相になり、すぐライシャワー駐日大
使に会います。この会談で、佐藤は、核武装について初めて口に
します。ここに資料があります。ライシャワーが佐藤に会った印
象を国務省に送った電報です。3 ライシャワーは、佐藤は池田と
は違って、率直にモノを言う人間だが、彼の考えていることは危
険である、したがって、もうすこし彼を教育しなければならない
と書いています。ちなみに、米国大使というのは日本の首相を教
育する立場にいたんですね。佐藤は中国の核武装にたいして、日
本が核武装するのは当然という考えに自分は賛成だが、日本の民
衆は反対だろうという持って回ったいいかたをしています。ライ
シャワーは、佐藤のこの考えは危険だと報告しているのです。佐
藤はその直後に訪米して、ジョンソン大統領に会います。そこで
もラスク国務長官にこの考えをもらし、だが核武装はしないつも
りだと言うのです。いろいろな解釈がありうるのですが、ここで
佐藤は沖縄返還交渉での核カードを切ったのだと言う人もいます。
しかし、佐藤は核武装構想を口にした効果で満足したのでは
なくて、その後、日本が核兵器を製造し核武装するにはどういう
条件が必要かについての調査と研究を命じます。そしてたくさん
の研究がその後出されます。『朝雲新聞』に報じられるようなも
のから秘密の研究までたくさんある。日本で製造するとするとウ
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“2067 Sato Visit,” 37. Telegram From the Embassy in Japan to the Department
of State1, Tokyo, December 29, 1964, 6 p.m
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ラニウム爆弾ではなくプルトニウム爆弾にすべきだというような
報告も出されます。
この動きの背景は中国の核実験です。こから NPT(核拡散防
止条約)が動きだします。これに対して日本はこの条約に加盟し
ないで核武装するというオプションを検討する。それが佐藤政権
の動きの意味でした。これらの検討の結果、結論としては、今は
核兵器は造らないということにし、文書として、「わが国外交方
針の大綱」4というものを採択しました。1970 年の 9 月です。こ
の文書は数年前まで秘密文書でしたが、 NHK がすっぱぬいて隠
せなくなり、公開した。民主党政権で、岡田外相の頃です。この
とき 100 点くらいの秘密文書が公開されました。この「大綱」
は、全体としては秘密にするようなものではない一般的な政策指
針に見えますが、核についての以下の箇所があるために秘密にさ
れたのではないかと思われます。こう言っています。
核兵器については NPT に参加すると否とに関わらず当面核兵
器は保有しない政策をとるが、核兵器製造の経済的技術的ポテ
ンシャルは常に維持するとともに、これに対する掣肘は受けな
いように配慮する。また核兵器一般についての政策は、国際政
治、経済的利害損失の計算に基づくものであるとの趣旨を国民
に啓発する。
これは非常に重要な政策決定です。核兵器は当面保有しないが、
いつでも製造できるよう技術的、経済的能力を維持する。すなわ
ち原子力産業を核兵器製造能力の中核として維持し、育てる。
「これに対する掣肘は受けないように配慮する」とは、こうした
4
外務省のウエッブ「『"核"を求めた日本』報道において取り上げられた文書等
に関する調査についての関連文書」で公開されている。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kaku_hokoku/pdfs/kaku_hokoku02.pdf
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方針が妨害されるようなことは一切排除するということです。非
核三原則はあっても、そうしたものには縛られない、ということ
です。そして最後に、核兵器は絶対悪というようなものではなく
て、「国際政治、経済的利害損失」から保有するかしないかを決
める問題であり、絶対に保有しないというものではないというこ
とを国民にわからせる、ということです。
これが安倍の論理に直結することは容易に見て取れます。経済
的利害や政治的利害―安倍の「存立事態」を想起してくださいー
そういうものによって、核兵器を持つか持たないかを決めればい
いのだ、そういうものなのだということを国民に教え込まなけれ
ばならないというわけです。岸、佐藤、安倍と同じ理屈が生きて
いることがわかります。
佐藤内閣はアメリカのベトナム侵略に全面加担したにもかかわ
らず、ニクソン政権の信頼を得ることはできなかった、というよ
り軽く見られていました。1970 年代は、ニクソンショックがあ
りました。金・ドル交換停止という経済についてのショック。こ
れは日本だけへのショックではありませんでしたが、第二の
ショックは、アメリカが日本の頭越しに中国と和解したショック
です。中国封じ込めこそがアメリカの中心政策、日本はそれに忠
実に従って、対米協力をし、自衛隊増強をしてきた。それなのに
何の相談もなく、中国と手を握った。これは何だ!というわけで
す。しかしそれがニクソン=キッシンジャーの「現実主義」外交
と呼ばれるものでした。キッシンジャーは北京に行って周恩来と
会います。そのときの議事録が『キッシンジャー回想録 中国』
(上下二巻、岩波書店、2012 年)として公刊されていますが、
これを読むと、キッシンジャーは周恩来に、日本は危ないぞ、核
武装するかもしれないぞ、と盛んに警告しているのです。だから
米国が日本の暴走を押えているのだといういわゆる「瓶の栓」論
を展開する。アメリカはシャンパンの栓を抑えている、手をはな
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すと中身は吹き出してしまう。つまりアメリカが安保条約で、栓
をおさえていないと日本は暴走してしまう、という議論です。
キッシンジャーは日本にいい感情をもっていなかった人ですが、
これは日本にとっては大変なことです。
80 年代に中曽根時代になると、日本は、これまでに輪をかけ
て米国にサービスをするようになります。中曽根はもともと占領
憲法反対の急先鋒でしたから、米国では危い反米ナショナリスト、
と思われており、またキンシンジャー時代の日本不信もあった。
そこで訪米した中曽根は輪をかけた対米追従に出ました。日本は、
ソ連太平洋艦隊を日本海に封じ込めるため三海峡を封鎖し、米国
の「不沈空母」としてソ連のバックファイア爆撃機が飛来すれば
すべて撃ち落すなど、聞くに堪えない発言で歓心を買おうとしま
した。日米関係はいつもこういう風にして展開していく。中曽根
政権はこのアメリカべったりの姿勢と引き換えに、1988年、
新しい原子力協定で、使用済み核燃料の再処理の「特権」を認め
てもらいました。核燃料サイクルで、プルトニウムを消費し、溜
まらないようにすることが条件でした。だが協定の期限が切れる
2018年が迫るなか「もんじゅ」は動かず、海外での再処理か
らのプルトニウムは溜まるばかりです。日本政府はこれをどうす
るつもりでしょうか。答えはまったく無いようです。
見通しがまったく無いなかで、安倍政権が潜在的核武装能力
としての原発・原子力産業を死守しようとしていることは明白で
す。吉岡斉さんがだいぶ前に、「国家安全保障のための原子力」
の公理という言葉で言い表した仕組みは基本的に変わっていない
と思います。こうです。
「国家安全保障のための原子力」の公理とは、日本は核武装を
差し控えるが、核武装のための技術的・産業的な潜在力を保持
する方針をとり、それを日本の安全保障政策の一環とするとい
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うことである。それによって核兵器の保持を安全保障政策の基
本に据えるアメリカと、日本の両国の軍事的同盟の安定性が担
保されている。『国家安全保障のための原子力』という言葉の
付帯的な意味には、先進的な核技術・核産業をもつことが国家
威信の大きな源泉になるという含意がある。いわば『原子力は
国家なり』という含意である。また第二次大戦期の日本特有の
歴史的経緯も手伝って、この国家安全保障という言葉にはエネ
ルギー安全保障の含意も含まれている。一般国民向けにはこの
含意が強調されて語られる。この公理の観点からは、核技術の
中でもとくに機微核技術に高い価値が与えられる。いずれにせ
よ、国家安全保障との密接なリンケージゆえに、原子力政策は
日本でも国家の基本政策の一分野であると考えられている。
(『原発と日本の未来』、岩波ブックレット No.802、p.43)
しかし安倍政権はここから先へ踏み出すでしょうか。
原発・原爆の関係をどうしようとしているのか。安倍晋三氏は核
武装についてはっきりしたことは言っていません。もっともよく
発言しているのは、石破茂さんでしょう。例えばこうです。
私は核兵器を持つべきだとは思っていませんが、原発を維持す
るということは、核兵器を作ろうと思えば一定期間のうちに作
れるという「核の潜在的抑止力」になっていると思っています。
逆に言えば、原発をなくすということはその潜在的抑止力をも
放棄することになる、という点を問いたい。・・・私は日本の
原発が世界に果たすべき役割からも、核の潜在的抑止力を持ち
続けるためにも、原発を止めるべきとは思いません。・・・核
の基礎研究から始めれば、実際に核を持つまで五年や一〇年か
かる。しかし、原発の技術があることで、数ヶ月から一年と
いった比較的短期間で核をもちうる。加えて我が国は世界有数
16
のロケット技術を持っている。この二つを組み合わせれば、か
なり短い期間で効果的な核保有を現実化できる。・・・(『S
APIO』、2011 年 10 月 5 日号)
日本が核武装を独自にするとすれば NPT から抜けなければなら
ない。これは大変なことで、3か月前に自国の「至高の利害が危
機にある」ことを証明し、それを国連安保理常任理事会と加盟1
80か国に送って承認を得るなど、手続きが大変なだけでなく、
ウランなど核燃料の供給も止められてしまう。安倍のとりまきの
右翼の人たちは核武装について恐しいことをいろいろ書いていま
すが、よく読むと、ほとんどの人は米国と喧嘩して核兵器を持つ
とは言っていない。言っているのは田母神さんだけです。桜井よ
しこも京大の中西輝政も日本の核ではなくて、日米の核、つまり
核の引き金を二つつくってくれというわけです。日本で核爆弾を
つくってアメリカに供給するのでしょうか。石破さんは、 NPT
にとどまる、そして核燃料サイクルを完成させるという。そうす
ると、NPT を脱退しなくても、核兵器に転用できる純度の高い
プルトニウムが製造できる。こうなったときに核兵器を持つとい
うすごいアイデアをお持ちのようです。だからどれをとってみて
も、日本の核武装は、今のところ潜在力として使い、核兵器は米
国に依存するというところからは抜けられない。
このように見てくると、原発と原爆の関係は隠しようのない
ものであり、両者は実は一体なのだということがわかります。反
原発、脱原発の方から攻めていっても、憲法平和主義の方から、
潜在的核保有―それも核保有の一形態ですーの解体と言う方から
攻めていっても、相手は一つのものです。そしてその一つのもの
を核として、今回の戦争立法が組み立てられています。それを解
体する民衆運動の攻囲の形を組み立てていきたいものです。
17
原爆と原発
戦後の運動史のなかで考える
天野恵一
ぼくは、原発と原爆の関係について、イデオロギーあるいは
思想、運動の面からどういうことが考えられるかを、国の政治と
しての核政策史がどうだったのかを語った武藤さんの話を前提に
して話したいと思います。ぼくは、3・11 以後は反原発の活動に
積極的に関わってきましたが、3・11 以前まで核問題については
メインのテーマで運動的には関わってはいませんでした。専門的
に文献などを読んできているわけでもありませんが、それなりに
知識のレベルではあれこれ考えてきました。それでも偶然のきっ
かけで核問題について、運動上の動機で関わらざるをえなかった
ことがありました。それは、1982 年ころの、日本中で反核問題
に関心がもたれた時代でした。当時がどういう時代だったかを
『昭和史事典』(講談社)の「相次ぐ反核行動」という項目によ
ると、「10 月 24 日、総評の呼びかけによる 82 年反核軍縮平和
のための大阪行動が秋晴れの大阪城公園で行なわれ、市民、労働
者 50 万人(主催者発表)が核兵器への抗議をあらわすダイイン 、
黙祷ではじまった」とあります。このあと長崎では三会場で
5000 人の集会があり、そもそもの始まりは、82 年初めの文学者、
音楽家、演劇人らの反核声明が相次ぎ、草の根の市民運動が高ま
り、3 月広島、5 月東京を経て、国内で 8000 万人の国連軍縮会
議への署名を出すという大運動があった年です。この年には全国
18
で多くの人が動きました。ぼくもこの年にはじめて、広島の原水
禁の大会に行っています。たしか原水禁では反原発の分科会がす
でにありました。ぼくが参加したのは反原発の分科会でした。そ
こで問題になっていたのは、米国先住民のウラン採掘に伴う被ば
く問題と在日朝鮮人で韓国に帰国した原爆被バク者の問題がすで
に大きな話題になっていたことを記憶しています。すでに共産党
系ではない原水禁運動の側では原発の問題に取り組まれていたわ
けです。ただ、なぜぼくがこの1982年に核問題に取り組んだ
のかというと、この年の大規模な反核運動が、ある意味で内容が
あまりにもひどかったからです。なにがひどいかというと、この
年は、米国の欧州への巡航核ミサイル配備に対する反核運動が欧
州でも大きく盛りあがりました。大型の核爆弾を投下するのでは
なく小規模の核爆弾を使用するもので、戦域核です。通常の戦場
で核兵器を使用しようということが始まり、これが欧州に配備さ
れるということで、冷戦真只中でもあり、すごく緊張した時期で
した。米国が核兵器を配備したところはソ連の攻撃対象になると
いうことで、ヨーロッパの中に大きな危機感がありました。ヨー
ロッパの反核運動はエコロジストの運動の伝統もあり、エコロジ
ストたちとも一緒に展開されていました。そこの反核は当然反原
発を含むものでした。
一方で日本の運動では、著名な文学者がみな署名する文学者
の反核署名運動が突破口で広がりました。 5 知名度のある文学者
でこれに参加していない人はいないのではないかというぐらいで
す。この声明の内容は、核戦争が起きれば地球は滅びるといった
抽象的に恐怖を煽るだけで具体的に何をするのか、その闘いの
ターゲットを明確にしておらず、安保条約の問題にも言及してい
ないし、原発問題にも言及しない。こうしたことは、当時出され
5「(資料)核戦争の危機を訴える文学者の声明」文末に掲載。
19
た様々な声明にみな共通していた。
このような抽象的ムード的声明で、総評が解体する前の最後
の最大の運動だったわけです。大衆動員の中心はまだ「総評」が
あった時代でしたから。この時期にこれではあまりにもひどいの
ではないかという発言をしたぼくの友人で劇作家の菅孝行は、文
学者の声明に署名するにあたっての公開質問状を出したいという
ことでした。かれは、核戦争や核兵器に反対するのは賛成だが、
このような内容でいいはずはないということで、ぼくが個人編集
していた雑誌6 で署名した文学者全員に公開質問状を出し、回答
を載せるということをやりました。このときに、必然的にぼくも
この雑誌で発言せざるをえなくなった。こうしたところから反核
運動への関わりができました。
このときに菅が出した公開質問状の三番目に、「原発問題に
全く言及されていません。それは、原発推進派にも反原発運動に
も反核運動に合流させようというお考えなんでしょうか」という
項目があるように、かなり具体的な質問状でした。この当時、初
めて核問題について原稿を書きはじめて、困ったことは、被ばく
者というときに、「ばく」には曝と爆の二つの表現があり、爆弾
の爆撃を受けた場合は被爆と書き、放射線の被害を受けた場合を
被曝と書く。なぜこのように書き分けなければならないのか、大
きな違いはないはずなのにと考えました。だから、ぼくはこれを
被バクとカタカナ表記にしました。当時、自覚的に「ひばく」
「被ばく」など様々な表現をする人がありました。要するに、原
爆と原発を切りはなして、原爆問題のみに言及して原発には触れ
ないという理念で日本の反核運動の理念が進んでいたわけですか
ら、このことばの問題(被曝と被爆の書き分け)はこの切り離し
を反映していたわけです。ぼくは両者を繋げて考えなければいけ
6 「特集 反核運動の内実を問う」『批評精神』三号、八二年一月 (内容要
確認:反核声明も 82 年六月)。
20
ないだろうということで被バクという表現にしたわけです。
また英語でニュークリアといえば核兵器にも原発にも共通し
て使われますが、日本語では兵器の場合は「核」で発電の場合は
「原子力」という言葉に置き換える。「核発電」ではなく「原子
力発電」ですね。これもまた、核=放射能=原発を画す歴史的政
治的な配慮と操作に対応した言葉遣いではないかということにも
気づきました。いいかえれば、こうした言葉の文化のつくられか
たのゆがみを反核文学者の声明などが反映しているということに
も気づきはじめました。つまり、原発と原爆を切り離す政治的
(操作的)作為が戦後史に一貫していたことに気づきました。
つまり、被バク国日本だから核の平和利用をする権利がある
とか、平和利用をすべきだという主張が強くあったわけです。原
子爆弾は絶対悪で、原子力発電は絶対善とされ、絶対悪と絶対善
が次元の違うところに存在しているというイデオロギー操作がお
そらくずっとあったんだろうということです。先ほどの武藤さん
の話にあった、平和利用博覧会などで米国が持ち込んできて、日
米合同でこうした構図でやってきた歴史があるわけです。言葉や
運動のありかたからこうしたことが見えてきたわけです。これが
ぼくが最初に核問題に運動的に関わった時のことです。
3・11以後、にわか反原発活動家になって再度文献を再検
討するなかで、ぼくがそこで気づいたのは、それまでの自分のこ
の整理の仕方は少々違うのではないかということです。原爆は全
否定、原発は全肯定という二極構造で戦後の歴史があったわけで
はない。〈3・11〉後に進められた最近の若い研究者の仕事か
らわかったこととして、原発肯定に流れてくる前史には、原爆否
定故に原発肯定という流れと、原爆も条件つきで肯定するという
イデオロギーのなかで原発も肯定するという流れも強くあり、こ
の二つが合流するところにたどりついて、原発を全面的に推進す
るというのが戦後史の流れだったのではないか、ということです。
21
8・6 広島、8・9 長崎の原爆記念日の最初の大会は、「解放
フェスティバル」でした。被ばく者がその被害を訴えるような集
会ではなく、町を挙げて日本の軍国主義からの解放を祝福する
フェスティバルだった。もちろん米軍占領下だったということも
ありましたが、お祭りですから、被ばく者が声を挙げるなどとい
うことができるものではなかった。この当時の左翼がなにをやっ
ていたのかというと、占領軍=解放軍規定が、そして占領軍に解
放されたという事実が左翼にはあって、行政の解放フェスティバ
ルに近い感性で運動をやっているので被ばく者は居場所がないわ
けです。被害を訴えるにしても、政府は原バク被害をタブーにし
て米国べったりですから一切の被害には触れず、革新とされる側
も基本的に米国の政策を支持し、原爆投下は正当であるといった
歴史認識みたいなものが日本全体を覆っていた時期があるようで
す。この始まりの時期が、これまできちんと歴史的に整理されて
きませんでした。
82 年に戻りますが、いわゆる共産党外の新左翼の運動から出
てきた中心的な理論家ということでは吉本隆明が 50 年代に戦争
責任論で、60 年安保では共産党批判の急先鋒でした。また、新
左翼のなかでは、トロツキズム運動の中心にいた黒田寛一が技術
論でコミンテルンや唯物論研究会のようなコミュニストにみられ
る生産手段の体系説に対して、武谷三男の技術の意識的な適用説
を高く高く評価した時期があります。他方で吉本は、80 年代に
は反核声明への批判から原発を正面から肯定するような発言をす
るようになります。ぼくは学生時代に愛読していた時期もあった
人だったので、ちょっとびっくりしたんですが、この人は素朴な
科学技術性善説、単純な進歩史観ににあきれるほどのものだった
のですね。
武谷三男も、もっとあきれる発言をしています。先程言った
原爆の無差別殺戮を正当だというロジックを左翼のイデオローグ
22
としてすでに 40 年代に述べています。武谷は著名な物理学者で
すが、原爆投下は晴天の霹靂であったということを書いています。
80 年に唐木順三が唐突に『「科学者の社会的責任」についての
覚え書』という本を出します。これは彼の遺作になりましたが、
本来の唐木の仕事とは関係ないところでの作品です。この本では
原爆を製造した人たちを対象にした文章ですが、とくに武谷につ
いては 40 年代に原爆使用を肯定するようなヒドイ論文を書いて
いるのはともかくとして、それをずっと著作集に入れ、80年代
も何の自己批判する注もつけずにずっと売られてきたということ
にたいする怒りが爆発したような文章で、ぼくには当然の怒りだ
と思えた文章です。現在はちくま文庫で読むことができます。武
谷は、こうした批判への反論を 82 年から 83 年に繰り返します。
それはまとまって『科学者の社会的責任―核兵器に関して』を勁
草書房から 1982 年に出しています。 反論の趣旨は、日本の侵
略を問題にしないことが問題であり、原爆はこの責任を問題にす
るということで、その意味で原爆投下は晴天の霹靂だと書いたの
だ、と。加害者の責任を問題にしないということが問題だとひら
きなおっているわけです。ぼくはこれへの批判を、この82年の
時点で書いています。 7自分の本で後にまとめなおしていますが、
その内容を一転だけ紹介します。無差別殺傷の原爆を使ったのは
米国です。米国と日本は戦争していましたが、日本は米国を植民
地支配していたわけではない。日米は植民地をめぐって争ってい
て、米国が日本に原爆を平然と使ったのであって、中国の人や朝
鮮の人が原爆を投下したのとは違う。もちろん中国であれ朝鮮で
あれ原爆を使うことには賛成しませんが、米国が原爆を「投下」
したことに対して賛成していることに何の論理的な正当化の根拠
も成り立ちようもない。そして、結局ファシズムに対する原爆は
7 天野恵一『反戦運動の思想——新ガイドラインを歴史的に問う』、1998
年、論争社)。
23
正義の原爆であるという米国の宣伝にのって、戦後直後に発言し
たことに対して彼は全然反省していないわけです。また彼は唐木
のような批判を反動のオカルティストだという言い方でしか反論
を書いていない。武谷の友人の星野芳郎もそうです。その後
ちょっと調べたら、1981 年の「日本はこれでいいのか市民連
合」(日市連)の集会での武谷の発言が日市連編の本のなかに記
録として残っています。 8 武谷は、ここでも今述べたような反論
をしゃべっています。ぼくは、さきほど紹介した本で武谷がこう
いうことを言うようなところに当時の市民運動の水準があったの
だという嫌味を書いていますが。
こうしたことが 82 年の反核文学者運動のながれの中であった
ことです。『文学者的立場』の同人だった西田勝さんが反核文学
者声明のコーディネーター的な役割を担っていました。彼が色川
大吉さん、小田実さんらと日市連をやっていた時代です。西田さ
んはこの時代の武谷弁護のために非常に奇妙なことをいろいろ
言っている人です。この点も、先に紹介した文章で書いています。
この当時でも、米国の原爆を正義の原爆だったと正当化する左翼
の論理がこういう運動のなかにまで生きていました。また、武谷
は自伝的な書物も出していますが 9 そのなかでも共産党との関係
もなにも書いていません。
日本も戦時中に原爆の開発を理研でやっていました。武谷は
戦時中に、京都で発行されていた欧州の反ファシズム運動を紹介
したりしていた雑誌『世界文化』などに関与したことで検挙され
ていますが、彼は原爆開発に必要な人材だということもあって、
留置所から釈放されたといわれています。こうした経歴をもった
8 日本はこれでいいのか市民連合編『8・15を読む・語る』(1982 年、
第三書館)。
9 武谷三男『思想を織る』(1985 年、朝日新聞社)、『聞かれるままに』
(聞き手、北沢恒彦、1986 年、思想の科学社)。
24
武谷が原爆投下を正当化していた時代があるわけです。
武谷は核の平和利用についても、全面的に賛成している。
「平和利用」=核エネルギー賛美のキャンペーンも担っている。
でも彼は変り身も早い人で原子力資料情報室の初代の責任者でも
あり、武谷門下からは宇井純や水戸巌などの優れた反公害・反原
発のリーダーであったインテリもたくさんでている。他方で彼は
学術会議会員のステータスのたかい物理学者でもあり、いろいろ
なところに大きな影響力をもつ多面的な顔をもっていた複雑な面
をもつ人です。関連したことでいえば、『思想の科学』の中心メ
ンバーで、ベトナムに平和を市民連合(ベ平連)の中心的な担い
手でもあり、つい先頃亡くなった鶴見俊輔も武谷三男について言
及した文章をいくつも残していますが(たとえば、『回想の人び
と』(潮出版・2002年)に収められたもの)、120%絶賛で
す。どんなに素晴しい力量のある物理学者であったか、ラジカル
でいい男だったかについて何本も文章を書いています。どうして
こういう評価が成立してそのままで終ってしまったのか。なお戦
後の 50 年代の武谷については、加藤哲郎さんが『日本の社会主
義』(岩波書店)で論じていますので参考にしてください。これ
も〈3・11〉後の作品です。10
ここでぼくが言いたいのは、武谷の足跡をみてみると、原爆
は軍事利用だから全否定で、原発、平和利用は、エネルギー解放
で絶対善というふうにきたわけではなくて、原爆も平和のための
核抑止力として原理的に肯定し、原発も肯定するという流れを武
谷が体現しているように思うわけです。原爆と原発がプラスとマ
イナスで対比されてきた歴史だけではなくて、実は、原爆も条件
付全肯定の時代があり、その流れのなかで原発肯定がでてきてい
る。こうしたことを戦後の時代の流れでみていく必要がある。
10 加藤哲郎『日本の社会主義——原爆反対・原発推進の論理』(2013 年、
岩波書店)
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ピープルズプラン研究所が最近出したパンフレット『原水禁
運動の分裂と原発問題』は、原水禁運動のいかなる国の核実験に
も反対するという理念を裏切って、ソ連が核実験をやったことで
始まる原水禁運動の日本での分裂問題を扱っています。こうした
分裂問題は、ソ連や中国の核実験を正統左翼やコミュニストが支
持して運動に分裂が起きたということだけではなくて、もともと
戦後一貫して条件付きで原爆を支持してきた時期があって、その
延長線上で社会主義の原爆だから問題なく支持するというロジッ
クが出てきたというふうに見るべきです。突然社会主義国の核実
験で、左翼が原爆反対をやめてしまったということではなくて、
原爆を肯定した前史と地続きでだった。原爆と原発を分けたり、
くっつけたり、一緒くたにしたりしてきて肯定してきている歴史
をみてみると、僕たちは、どういう立場で問題を考えるべきかが
見えてきます。放射能被害という視点から原発も原爆も全体とし
て批判する以外にないということだと思います。放射能被害に着
目すれば、そこから原発も原爆も区別する必要ははじめからない、
両方とも大量に被害を生み出してきているものなわけですよね。
そこから原爆も原発も否定していくということを原則として核批
判していくことが最も必要なことではないかと思います。
先程、武藤さんも言及してましたが、科学技術万能説と科学
技術に支えられた産業の発展と生活様式の進歩が未来社会の希望
であるという 50 年代左翼の考え方、先に触れた吉本隆明の考え
方もそうだったわけで、それが原発推進のロジックになっていく。
武谷は、こうした考え方の線を崩さずに、あっちいったりこっち
いったり、安全性の基準で、反原発の論理をたてるのは早かった
が、彼のジグザグを支えた基本的な考え方は変っていない。原発
の問題を考えるときには、近代的な科学技術と成長と発展の上に
未来を展望するということではない生活の質とか日常生活のあり
かたをどういうふうに考えていくのかまで考えざるをえないとい
26
うことです。放射能被害を生み出さない生活の形態を生み出すに
はどうしたらいいのかを前提にすべての問題を考えることが必要
だと思います。ですから、原爆と原発をめぐる問題でいうと、戦
後史のなかで二つの関係づけを放射線被害を軸として論じられる
ようになる経緯をもう一度組み立てなおして再考する必要がある
と思います。
武藤さんは、アイゼンハウアーのアトムズ・フォー・ピース
について言及しました。その前のトルーマンの核についての大演
説という問題もあります。そこから核外交が始まる。トルーマン
の演説は、原爆を日本に使用したのも、その威力の素晴しさを誇
示する核の革命的な威力のアッピールがねらいだったことを正直
に示す内容です。当然、放射能被害については過小評価するとい
うのが米国の政策なわけです。日本についても、放射線被害は小
さく、核の威力は誇示するというのが米国の言論のスタイルでし
た。これは言論統制だけではなくて、ジョン・ハーシーが『ヒロ
シマ』などを書いて、アメリカのロジックが日本にはいってくる。
この問題については、柴田優呼『ヒロシマ・ナガサキ』 11の研究
が興味ぶかいです。カルチュラルスタディーズの系譜の研究です
が、日本の核被害を訴えた言説が米国の言説のコードに拘束され
ている、ということを歴史的、具体的に明かにしています。また、
高橋博子の『封印されたヒロシマ・ナガサキ——米核実験と民間
防衛計画』(凱風社、2012 年、増補版) 12 は、3・11 前に出版
された本ですが、その後増補版がでています。3・11 以後も内部
被ばくや低線量被ばくといった問題は被ばくの問題から排除する
という米国の方針ですよね。米国にとって被害がどんどん続くの
11 柴田優呼『ヒロシマ・ナガサキ——被爆体験神話を解体する、隠された
日米共犯関係の原点』作品社、2015 年。
12 高橋博子『封印されたヒロシマ・ナガサキ——米核実験と民間防衛計
画』凱風社、2012 年、増補版。
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はまずいわけで、核爆発直後の核の威力は宣伝し、その被害につ
いては触れるが、それ以後の長期の被害については触れない、こ
ういう方法でやってきたことが、日本のなかの言説をどのように
拘束してきたのかが分析されています。この二冊を読むと、米国
は本当にしたたかな戦略をもっていたことがわかります。もちろ
ん日本が一方的に米国にやられたと理解すべきではないですが、
この戦略に乗って日本の支配者がものすごくうまく自分たちの戦
後国家を作りなおしてきたプロセスがよくわかります。ですから、
結局原爆と原発は分けて考えられないし、米国の戦略と日米関係
も分けて考えることはできない。全部こうした土俵の上で展開さ
れてきていて、米国が一方的に日本を支配しているというよりも、
米国のヘゲモニーがあるからこそ日本の支配者が戦後国家を形づ
くることができた。その中で棄民政策がどのようになされてきた
のかが福島以後よく視えるようになっている。とてもひどいこと
になってきてはいますが、それは敗戦直後から始まっていたこと
だということです。
原発の問題でもやはり大事故があったら福島のようになるから
ダメだというロジックはわかりますが、ぼくは、放射線の被害と
いう具体的な被害の実態に即して、事故などなくても労働者が被
ばくしているし大量の被ばく者が生まれいるということを考えて、
原発に反対しなければいけないと思います。米国内でも原爆施設
も初期からあり、放射能汚染の被害を受ける施設周辺の地域も多
くあり、被ばく者も多く、裁判も多くある。被ばく問題からみる
と、原爆大国はまた被ばく大国でもある。そういうアングルから
今の問題を考えるべきで、日本だけがひどく被ばくしているなど
ということはない。
ビキニの場合、「被曝」ではなく「被爆」を使います。死の
灰の放射線の被害です。ということでいえば、ビキニがジョイン
トになってヒロシマ、ナガサキとフクシマを繋いでいるというこ
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とを戦後史を見るときには考えた方がいいと思います。核被ばく
被害の整理をこうした観点から運動のなかでやっていった方がい
いのではないかと思います。(拍手)
(資料)核戦争の危機を訴える文学者の声明
地球上には現在、全生物をくりかえし何度も殺戮するに足る核兵器
が蓄えられています。ひとたび核戦争が起これば、それはもはや一
国、一地域、一大陸の破壊にとどまらず、地球そのものの破滅を意
味します。にもかかわらず、最近、中性子爆弾、新型ロケット、巡
航ミサイルなどの開発によって、限定核戦争は可能であるという恐
るべき考えが公然と発表され、実行されようとしています。
私たちはかかる考えと動きに反対する。核兵器による限定戦争など
はありえないのです。核兵器がひとたぴ使用されれば、それはただ
ちにエスカレートして全面核戦争に発展し、全世界を破滅せしめる
にいたることはあまりにも明らかです。
人類の生存のために、私たちはここに、すぺての国家、人種、社会
体制の違い、あらゆる思想信条の相違をこえて、核兵器の廃絶をめ
ざし、この新たな軍拡競争をただちに中止せよ、と各国の指導者、
責任者に求める。同時に、非核三原則の厳守を日本政府に要求する。
「ヒロシマ」、「ナガサキ」を体験した私たちは、地球がふたたび
新たな、しかも最後の核戦争の戦場となることを防ぐために全力を
つくすことが人類への義務と考んるものです。私たちはこの地球上
のすべての人々にむかって、ただちに平和のために行動するよう訴
えます。決して断念することなく、いっそう力をこめて。
一九八二年一月
29
核と被ばくをなくす世界社会フォーラム 2016
開催への賛同のお願い
私たちは、核(核兵器と原子力発電)の軍事利用、商業利用に反
対する市民です。2014 年 10 月に日本で行なわれた議論から出発し、
2015 年 3 月、チュニスでの「世界社会フォーラム(WSF)」で継
続された話し合いを通じて、私たちは、2016 年に日本で、核に関
するテーマ別世界社会フォーラムの開催を決定しました。開催の日
程概要は以下のようなものになります。
3 月 23 日 オープニングフォーラム(東京:韓国 YMCA)
3 月 24〜25 日 福島ツアー(予定)
3 月 26 日(土)反原発集会とデモ(代々木公園、さようなら原発
1000 万人アクション福島原発事故5周年 全国集会に合流) 夜
フォーラム(東京:
韓国 YMCA)
3 月 27 日(日)全日フォーラム開催(東京:韓国 YMCA)
このフォーラムは、これまでの世界社会フォーラムの活動をふま
えて、国境を超えた原発や核兵器だけでなく、ウラン採掘から住民
や労働者の被ばく、廃棄物問題、そして経済から安全保障に至る多
様な核問題に取り組むグローバルな運動を目指す第一歩として、こ
れらの課題に取り組む皆さんの参加を期待して企画されました。
本フォーラムは、世界社会フォーラムのこれまでの経験を背景に
実施されます。世界社会フォーラムは、2001 年以来、新自由主義
グローバリゼーションや対テロ戦争への反対運動などを通じて貧困
や戦争のない「もうひとつの世界」を模索するグローバルな運動と
して重要な役割を担ってきました。本フォーラムは、この世界社会
フォーラムのこれまでの運動の蓄積と経験を核廃棄の運動へと繋ぐ
30
ことを意図しています。日本は、広島・長崎の被ばく体験の後も、
第五福竜丸の被ばくを経験しながら、世界有数の「核先進国」の道
を歩み、更に、2011 年の福島原発事故の深刻な被害にもかかわら
ず原発再稼動と原発輸出を積極的に推進する国であり続けています。
幾度となく核の被害を受けながら、なぜ核開発を推進するのか?と
いう疑問は、各国の反核運動から日本の私たちに投げかけられてい
る厳しい問いかけでもあります。こうした問いかけに応えつつ、今
回のフォーラムは、日本国内の反核運動と世界の運動を繋ぎ、核の
ない「もうひとつの世界」へ向けたグローバルな運動の第一歩とし
たいと考えています。
以上の開催趣旨に賛同いただける方は、是非開催のためにご助力
をいただき、あわせて当日のフォーラムにもふるってご参加いただ
きますよう、ここに呼びかけます。
賛同人となられる場合には、お名前(所属)と名前公表の可否を書
いて、
[email protected] 小倉利丸
までメールをお送りください。
個人の場合一口 2000 円、団体の場合は一口 5000 円の賛同金を下
記に振り込んでください。
振込先
●郵便振替口座
名称:反核 WSF 基金
口座番号:00110-0-696242
●ゆうちょ銀行
店名:〇一九(ゼロイチキュウ) 店番:019
預金種目:当座
口座番号:0696242
なお上記は目安です。財政状態や団体規模などに応じて減額されて
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構いません。
●呼びかけ団体
3・11 福島原発事故緊急会議/ピープルズプラン研究所/被ばく労働を考
えるネッーワーク/ATTAC ジャパン(首都圏)/ATTAC 関西/ノー
ニュークス・アジアフォーラム・ジャパン/再稼動阻止全国ネットワーク/
占領に反対する芸術家たち(Artists against Occupation)/研究所テオリ
ア/ 脱被ばく実現ネット/
Articulaç]ao Antinuclear Brasileira/Coalizão por um Brasil livre de
Usinas Nucleares/Réseau Sortir du nucléaireL/ATTAC FRANCE/
NPO <Echo Echanges France Japon>
●呼びかけ人
秋本陽子/稲垣豊(ATTAC Japan(首都圏))/稲葉奈々子(上智大学教
員)/印鑰智哉/植松青児/鵜飼哲(一橋大学教員)/大榎淳(東京経済大
学教員、芸術家)/小笠原公子/小倉利丸/海棠ひろ(福島原発事故緊急会
議)/木村雅英 (再稼働阻止全国ネットワーク)/京極紀子(ATTAC
Japan(首都圏))/くじゅうのりこ(平和といのち・イグナチオ 9 条の
会)/国富建治(福島原発事故緊急会議)/コリン・コバヤシ(エコー・エ
シャンジュ)/木幡ますみ/斎藤かぐみ(ATTAC ジャパン)/杉原浩司
(福島原発事故緊急会議)/園良太(東電前アクション)/橘優子(たんぽ
ぽ舎ボランティア)/寺本勉(ATTAC Japan(関西))/なすび( 被ばく
労働を考えるネッーワーク)/中川敦詞 (たんぽぽ舎ボランティア)/平井
玄/平坂謙次(原発と足立を考える会)/武藤一羊(ピープルズプラン研究
所)/村田はるせ/毛利聡子/茂住衛/八鍬瑞子(美術家)/柳原敏夫(脱
被ばく実現ネット、法律家)/Chico Whitaker /Bernard Laponche/
賛同第一次締切 11 月 25 日
連続学習会講演パンフ(既刊)
第一回 「帰還」と、どう向き合うか?
長谷川秀雄さん(いわき自立生活センター理事長、3・11被災
者を支援するいわく連絡協議会理事長、いわき放射能市民測定室
副理事長)
第二回 原発をとめるアジアの人びと
佐藤大介さん(ノーニュークス・アジアフォラム・ジャパン事務
局)
各 250 円 申込: [email protected] 小倉まで
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