第2節 近代の自然観・大地観

第二節
近世の自然観、大地観
第 二節
近 世の自 然 観、大 地観
どうかについては、当時、ヨーロッパの各地で論ぜられ、G.ガリ
レーの頃になって、ようやく慣性の理論が成立する)、自分からは
ヨーロッパの近世は、長く続いた中世の封建制、教会制下、社会
光らず、その大きさは月より大きく、太陽より小さいとした。そし
文化への懐疑批判、それからの脱却、ギリシャの昔に帰ってその精
て世界の物質はすべて不滅で、その形態だけが変化するものだとい
神と文化を復興し、人間の自由と理性を回復しようとする数世紀に
い(世界図も作った)、続いて同じドイツの観測家L.モンタヌス
わ た る 運 動 (9 世 紀 頃 に き ざ す )、 決 定 的 に は 14~ 16 世 紀 に 格 別 顕
( J . ミ ュ ー ラ ー 、 1436-1476) は 、 イ タ リ ア に 行 っ て 、 プ ト レ ス
著となった、いわゆるルネッサンスによってもたらされたものであ
マイオスの天文学を原典から学び、帰国後、ドイツ最初の本格的天
り、その運動の波は十字軍以来東西交通商業の中心地となり、近世
文台を設けて、観測天文学の基礎を築くとともに、すぐれた航海暦
化の最も進んでいた北イタリアにはじまり(ダンテ、ボッカチオ)、
を編し(大気差補正を加えた最初)、スペイン、ポルトガルの航海
ドイツを経て、その後経済力の中心となった大西洋沿岸諸国に広が
家は、彼の航海暦に負うところが多かった。また、この復興期に万
っていった。しかもその内容は、単なる文芸の復興ではなく、人間
能の天才として、芸術、科学、技術、哲学等諸分野に大活躍したイ
によって立つ一思想、哲学、自然観等、すべての近代化、すなわち
タ リ ア の L . ダ ・ ビ ン チ ( 1452-1519) は 、 自 然 認 識 に お い て も す
スコラ哲学、アリストテレス体系の批判の上に、経験主義的、哲学、
ぐれた考察を残し、大地は月に似た球形の天体で、しかも宇宙の中
科学を確立することであり、人文主義時代、自然科学の時代へと進
心に静止しているのではなく、回転しており、成分も他の天体と同
んだ。もちろんこの変革の先駆者たちは、教会から「神の真理を攻
質で粗悪ではなく、砕けてもまた集中する性質をもっている。そし
撃するの徒」ときめつけられ、命がけの運動であったのである。
て、海水中の塩分も、もとは陸地から運ばれたものであり、河海の
そ し て 、ド イ ツ の 枢 機 官 K . ニ コ ラ ウ ス (ク ザ の ニ コ ラ ウ ス 、1401
砂礫は山の岩石が河流でくだかれてできたもの、泥水は低地に沈澱
- 1464)は 、 世 界 の 神 ( そ れ は 極 大 ・ 無 限 ・ 常 動 ) の 展 開 で あ る と
して堆積層をつくる。また、地下の化石は、星の影響などによって
する神秘主義を残しながらも、宇宙の広さは無限であり(恒星天で
できたものではなく、過去の生物の遺骸で、海岸近くの海底ででき、
限られたものではない)、しかもそれは地球と同じ四元素から成っ
その後、地変で陸上にきたものであり、北イタリアの山地ももとは
ており(不完全である)、不動の中心というものがあるわけではな
海底にあったことになる等としていた。(しかしこれらの手稿は、
く、観察者が立った所が動かず、ほかのすべてが動くように見える
その後何世紀も世に知られずにいた)。
だ け で あ る 。 大 地 は 球 形 で 、最 初 与 え ら れ た い き お い (エ ネ ル ギ ー )
そ し て 、 同 じ く イ タ リ ア の 著 名 な 医 師 G . フ ラ カ ス ト ロ ( 1483-
で毎日回転しており(運動が「いきおい」によって持続されるのか
1553) は 、 ヴ ェ ロ ナ の 築 城 に 際 し 、 出 土 し た 化 石 の 考 察 か ら 、 化 石
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貝類はかつてすべて生物であったとし、とくに陶芸家B.パリッシ
国 等 の 滅 亡 ) 、 ポ ル ト ガ ル の F . マ ゼ ラ ン (1480 頃 -1521)は 、 1519
( 1510-1590) は 海 岸 の 貝 類 、 陶 土 中 の 貝 化 石 の 観 察 等 か ら 、 化 石
年、新大陸の南端を回って(マゼラン海峡)太洋に出(太平洋と命
は過去の生物の遺骸であり、しかも世界的大洪水の産物でもないと、
名)更にそれを航して、東洋の香料諸島に達し、同時に地球の球形
当時の神話(星の影響、大洪水の所産)に反抗したため追放され、
を実証した。
ややおくれて、F.コロンナは化石をノアの洪水の所産とはしたが
そして、この頃イタリアに留学し、法律医学、数学、天文学等を
(1592 年 )、貝 の 種 は 地 層 に よ っ て 異 る こ と 、 形 態 に 印 象 、 塑 像 、 貝
学び、中でも天文学に関心を深めたポーランド生まれの学僧N.コ
自体の3種があること、それに海生、陸生の区別があること等の新
ペ ル ニ ク ス ( 1473-1543) は 、 そ れ ま で 絶 対 の 真 理 と さ れ な が ら 、
しい着眼点を示し、スイスのゲスナーやM.メルカティ等は化石の
不 完 全 な プ ト レ マ イ オ ス の 天 文 学 の (80 以 上 の 天 球 が 必 要 、 等 速 円
図鑑を出すまでになったが、中世以来、万物は神の所産で、化石も
運 動 で 貫 か れ て い な い 、 視 運 動 と の 不 調 和 等 )改 良 を 模 索 、 や が て
「 自 然 の 戯 れ 」 だ と か 、「地 下 の 造 形 力 」「星 の 精 の 作 用 」等 に よ っ て
動くのは地球であると仮定した宇宙体系に到達し(ギリシャ時代に
できたもの(被造物説)と教えられていた当時では、その成因を正
ピタゴラス派、アリスタルコス等も考えていた)、その全体像、地
しく解することができず、後にはノアの洪水の際、溺死した生物の
球の自転公転、歳差、月の運行、惑星の運動等、すべてにわたって
遺骸であるとする、いわゆる、洪水説が専ら信じられるようになり
少 い 天 球 と 等 速 円 運 動 が 数 学 的 に 基 礎 づ け 、よ り 単 純 で (周 転 円 の 適
(19 世 紀 の 中 頃 ま で )、大 地 観 の 進 歩 、 地 質 学 の 発 達 を ひ ど く お く ら
用 範 囲 を 縮 少 、 天 球 数 を プ ト レ マ イ オ ス の 半 分 以 下 34 に 減 じ た )、
せ た 。 (化 石 の 解 釈 こ そ が 地 質 学 の 出 発 点 で あ っ た )。 し か し 、 こ の
より合理的な(運動の規則性、視運動との一致性増大)全く新しい
間にも世界探検は続いて、イタリア生まれのアメリゴ・ヴェスブッ
天 文 学 、い わ ゆ る コ ペ ル ニ ク ス の 天 文 学 を 樹 立 し た (「 天 球 の 回 転 に
チ ( 1451-1512) は 、 大 西 洋 を 南 西 に 航 海 し 、 今 の ブ ラ ジ ル 沿 岸 を
つ い て 」 6 巻 1543 年 )。
探検、これはアジアの一部ではなく、全く別の新世界であると主張、
もちろん彼の理論には、天体の神聖、宇宙の有限、等速円運動等
そ し て 、 ロ レ ー ヌ の 地 理 学 者 M . ミ ュ ー ラ ー ( 1470-1518) は 、 こ
の古い思弁的要素をそのまま残し、太陽中心としながら、かなり離
れ に ア メ リ カ の 名 を 与 え (1507 年 )( そ の 後 さ き に C . コ ロ ン ブ ス 、
心させており、力学的説明を全く欠き、地球が自転すれば地表に烈
J.ガボット(イタリア人、イギリス王の援助で探検)らが、西イ
風が、地上物の飛散が、投上物の後方落下等が、起こりはせぬかの
ンドとしていた地域も同名で呼ばれるようになった)。バルボアは
疑問に、正答しかねるものであったが(これはその後ティコ・ブラ
今 の パ ナ マ 地 峡 を 横 断 し て 「 南 の 海 」 ( 今 の 太 平 洋 ) を 発 見 (1513
エ、J.ブルノー、J.ケプレル、I.ニュートン等によって除去
年 )、つ い で ス ペ イ ン に よ る 大 征 服 が 続 き ( ア ス テ カ 王 朝 、 イ ン カ 帝
さ れ る ) 、 仮 定 と し な が ら も (教 会 対 策 上 )、 宇 宙 の 中 心 は 地 球 で は
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なく太陽であり、地球は太陽を回る一惑星に過ぎぬとしたことは、
と、物に則する認識を強調して、アリストテレス学者の怒を買い、
これまで絶対の真理としてきた、地球中心的宇宙観と、それにもと
その書は長く禁書とされたのもこの頃である。
づく神聖な思想体系(神学)を、根底から覆えすことにつながるも
またその頃、これまでのスペイン、ポルトガルにかわって、海外
のであり(宇宙観の転換)、この学説に対する教会の弾圧は、争と
に発展し始めたオランダでは、地図出版についても、ドイツにかわ
ともに厳しくなっていった。そして、この理論が一般に受け入れら
っ て 優 れ た も の を 出 す よ う に な り 、 中 で も G . メ ル カ ト ル ( 1512-
れ、太陽系という新しい概念が生まれるまでには、その後の何人も
1594) は 、 航 海 用 と し て は 最 適 の 新 図 に よ る (正 角 円 筒 法 = メ ル カ
の学者の命がけの努力と(G.ブルノー、J.ケプレル、G.ガリ
ト ル 図 法 )に よ る 『 大 世 界 図 帖 』 (1569 年 )、『 世 界 地 図 帖 』 ( 1585-
レイ、I.ニュートン)、一世紀以上の時間とが必要であった(N.
1595) を 、 A . オ ル テ リ ウ ス ( 1527-1596) は 、 世 界 最 初 の 『 世 界
コ ペ ル ニ ク ス の 著 書 が ロ ー マ の 禁 書 目 録 か ら 外 さ れ た の は 1758 年
図 帖 』 (1570 年 、日 本 島 は じ め て 登 場 )を 、 そ し て 、 そ れ は ブ ラ ウ ー
の こ と ) 。 そ し て 、こ の 天 文 学 説 が 日 本 に 紹 介 さ れ た の は 、ず っ と 降
族 に 引 継 が れ て 、航 海 時 代 の 需 要 に こ た え (地 図 出 版 の 黄 金 時 代 )、
っ て 江 戸 時 代 の 長 崎 蘭 語 通 司 本 木 良 永 ( 1735-1794) と 、 そ の 弟 子
ま た 、エ リ ザ ベ ス 女 王 の 侍 医 で あ っ た 、物 理 学 者 W .ギ ル バ ー ト (1540
志 筑 忠 雄 ( 1760-1806) ら に よ っ て で あ っ た 。
- 1603)は 、 当 時 ま だ 権 威 盲 従 ( 古 代 科 学 に ) の 風 が 多 い 中 で 、 と
また、スイス生まれで(ドイツ滞在が長かった)博学の医化学者
くに実験的方法を強調するだけでなく、自ら実験物理学者としての
P . パ ラ ケ ル ス ( 1493-1551) は 、 そ れ ま で 重 ん じ ら れ て い た 古 医
実 を 示 し 、 古 来 の 謎 で あ る 磁 石 に 関 し (摩 擦 電 気 に つ い て も 触 れ て
学(ガレノス流の)や錬金術を排して、新しい医学、化学、薬学の
い る )、自 作 の 球 形 磁 石 ( 小 地 球 と 名 づ け た ) に よ っ て ( 一 部 羅 針 盤
確 立 に つ と め 、 硫 黄 、塩 、水 銀 を 生 物 体 構 成 の 重 要 元 素 と し (「 パ ラ
製、作者の著書を参考にした)、磁石の基本的性質(極性、磁場、
ミ ル ム 」 1531 年 )、同 じ こ ろ 、ヨ ー ロ ッ パ に 鉱 山 開 発 が 進 む 中 で 、イ
伏角、偏角、磁性体等)をすべて明らかにし、地球についても、こ
タリアに学んだ(医学、自然科学、哲学、産業技術等)ドイツの医
れは土石に覆われた一大磁石で、磁針が南北を指すのはそのためで
師 G . ア グ リ ゴ ラ ( 1495-1555、 鉱 物 、 冶 金 学 の 父 ) は 、 帰 国 後 、
あり、地球の回転も球形磁石の回転性によるものであるとした。
鉱物、鉱山に一大関心を示し、鉱物、地質、鉱山、冶金等に関する
(『 磁 石 と 磁 性 体 、大 磁 石 と し て の 地 球 』 1600 年 )。 イ ギ リ ス 海 運
啓 蒙 書 を 多 数 出 版 し (『 採 掘 物 の 性 質 に つ い て 』 1546 年 、『 デ ・ レ
の 発 展 に 一 大 貢 献 を す る と と も に 、後 に 出 る G . ガ リ レ イ 、J . ケ プ
・ メ タ リ カ 』 12 巻 1556 年)、近 代 化 、鉱 物 学 、鉱 山 学 、採 鉱 冶 金 学 基
レル、R.デカルト、I.ニュートン等に大きい影響を与えた。
礎を確立し、後世に大きい影響を残した。そして、イタリアのB.
そ し て 同 じ 頃 、デ ン マ ー ク 生 ま れ の 天 文 学 者 テ ィ コ ・ ブ ラ エ (1546
テ レ シ オ (1508-1585)が 、 「 自 然 は そ れ 自 身 の 原 理 を も っ て ・ ・ 」
- 1601)は 、 1572 年 出 現 の カ シ オ ペ ア 座 新 星 ( 2 年 後 消 滅 ) の 観 測
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を皮切りに、デンマーク、ドイツ等で肉眼観測としては(当時望遠
スマニア、オーストラリアなどとして(南極大陸を除く)探検確認
鏡はまだなかった)驚異的とされる高精度の観測を続け、貴重な資
された。
料 を 残 し た (J . ケ プ レ ル が 引 き 継 ぐ )が (観 測 天 文 学 の 第 一 人 者 )、
しかしこの頃、それまで熱中していたカトリックに批判的となり、
コペルニクスの天文学については、理論上当然観測さるべき年周視
一般からはまだ敬遠されていたコペルニクスの説を、情熱的に支持
差(地動説を裏づける重要な要件)が観測されないこと(当時多く
し た イ タ リ ア の ド ミ ニ カ 派 僧 G . ブ ル ノ ー ( 1548-1600) は 、 異 端
の学者が観測、しかし、当時の観測技術では無理)、また、重い地
審問をのがれて、諸国を流浪、その間、神は無限の一者、したがっ
球が動くことへの疑問等から、全面承認は困難であるとし、別に宇
て神の展開である宇宙はどこまでも等質で無限、すなわち恒星はど
宙の中心は地球で自転しており、その地球を太陽と月が公転、惑星
れも太陽と同一の独立した宇宙で、それぞれ地球と同様の先住者の
は太陽のまわりを回転しているという、多分に天動説の考えを残し
いる惑星をともなっており、その数は無数で、天上界、地上界の貴
た 宇 宙 体 形 を 示 し 、 ま た 、 さ き の 新 星 観 測 (出 現 と 消 滅 )、 1577 年
賎区別や星界が、人間の運命に影響を与えるなどということはあり
出現彗星観測(太陽系を横切っていた)のつど、これはアリストテ
得 な い と し た た め (『 無 限 宇 宙 と 諸 世 界 に つ い て 』 1584 年 )、甚 だ し
レス等の教えた「天上界は生滅などのない恒常不変のものである」
い 異 端 と し て 告 発 さ れ 、 審 判 数 年 、 つ い に 火 刑 に 処 せ ら れ た ( 1600
「彗 星 は 地 球 に 属 す る 気 象 現 象 で あ る 」「天 球 は 貫 通 な ど の で き な い
年)。そして、この頃から教会はコペルニクス説に対する警戒を一
堅 固 な も の で あ る 」な ど の 天 文 観 は 、す べ て 改 め ら れ る べ き も の で あ
段と強化していった。
るなどとしていたこともあって、コペルニクス天文学よりむしろ人
つ い で 、 こ の 頃 同 じ く 天 文 学 に 没 頭 し 、 そ の 研 究 を 通 じ て (『 宇
気があった。
宙 実 相 の 神 秘 』 1595 年 )、G . ガ リ レ ー 、テ ィ コ ・ ブ ラ エ 等 と 相 識 り 、
この頃ヨーロッパには、すでに石炭の使用が普及し、生産はいわ
後にティコ・ブラエ晩年の助手となったドイツのJ.ケプレル
ゆる工場制手工業のかたち(マニファクチュア期)にかわりつつあ
(1571-1630)は 、テ ィ コ か ら 引 き 継 い だ 膨 大 な 資 料 と 自 身 の 蓄 積 し た
り、オランダ、イギリス、フランスが、これまでのスペイン、ポル
精密資料から、かねて考えていたコペルニクス宇宙の幾何学的構造
トガルに代って、世界に進出し、北東・北西航路(北極海を通る)
解明に進み、やがて苦心の火星距離表示式が、はからずも楕円方程
が 探 検 さ れ 、17 世 紀 に 入 る と 、い よ い よ ギ リ シ ャ 以 来 伝 説 の 大 陸 と
式であることを発見、ついに「惑星は太陽を一焦点とする楕円軌道
されてきた未知の南方大陸もスペインのP.F.デ・キロス、L.
をえがいており(第一法則)、惑星と太陽を結ぶ動径は等しい時間
V.トレスらに続くオランダのA.タスマン、イギリスのJ.クッ
に 等 し い 面 積 を 掃 き ( 第 二 法 則 ) (『 新 天 文 学 』 1600 年 )、し か も そ
クらによって、東インド諸島、ニューギニア、ニュージランド、タ
の公転周期の2乗は、平均距離の3乗に比例するという(第三法則
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『 世 界 の 調 和 』 1619 年 ) 、太 陽 を 完 全 に 宇 宙 の 中 心 と し ( 楕 円 の 焦
理 の 基 本 問 題 に 立 ち 向 か っ た 。 イ タ リ ア の G . ガ リ レ イ (1564-
点)、わずか7個の軌道(楕円軌道)と動径の運動(面積速度)で
1642)は 、19 才 で 振 子 の 等 時 性 を 発 見 し た に つ い で 、流 体 の 静 力 学 的
説明できる、完全に幾何学的、科学的な新宇宙体系を確立した(物
平衡、固体の重心、自由落下、重力の大きさ、運動の持続、投射体
理学的確立はこの3法則をもとに研究を続けたI.ニュートンによ
の軌道等々、これまで思弁的解釈しか与えられていなかった、力学
っ て 達 成 ) 。 そ し て 、彼 は こ の 外 「新 星 論 」「彗 星 論 」「星 表 ( ル ド ル フ
の基礎的諸問題を、あいついで実験的に解明し(落下の法則、慣性
表 ) 」等 で も 大 い に 貢 献 を し た ( し か し 世 評 は 冷 た く 、 ケ プ レ ル は
の法則等)、惑星運動の力学的解明に道を開くとともに、自作望遠
神聖な円運動を冒瀆するものとの批難に堪えなければならなかっ
鏡 (1609 年 )に よ る 天 文 観 測 で 、 木 星 の 4 衛 星 と そ の 回 転 ( こ れ は
た ) 。 そ し て 、そ の 後 継 者 で も あ る 、フ ァ ブ リ キ ュ ー ス 父 子 は 、 は じ
教会に大きい衝撃となり、ガリレオ攻撃の端緒となった)、月面の
めて変光星、太陽黒点、太陽の自転等を発見し、またこの間、法王
あばた、惑星と恒星の本質的相違、銀河の正体(恒星の集団である
グレゴリオ8世は現在も行われているグレゴリオ暦を制定した。
こ と ) 等 を は じ め (こ れ ら は 1610 年 『 星 界 の 使 者 』 に よ っ て 発 表 )、
また同じ頃、中世的認識法(アリストテレスのオルガヌムを基礎
土星の付属物、太陽の黒点とその移動、それに地動説を裏づける有
とするスコラ哲学)では、物の本質は捕えられないと覚ったイギリ
力証拠として、N.コペルニクスも予言していた金星の食現象、そ
ス の 哲 学 者 F . ベ ー コ ン ( 1561-1626) は 、 先 ず 理 性 を 正 し ( 4 つ
れに新星出現の機構等、天界の主要現象を実証的に解明し、天文学
の偶像を追放)、事物を科学的、帰納的にとらえ、その法則への調
に思弁的なものが残る余地を少くした。しかし、これは教会にとっ
和 か ら そ の 征 服 へ と 進 む (「 知 は 力 な り 」 )ま さ に 近 世 哲 学 の 基 礎 を
て一大脅威で、間もなく太陽黒点に関する論文は、N.コペルニク
確 立 し た 「 ノ ー ヴ = オ ル ガ ム 」 (科 学 の 新 機 関 )(1620 年 )。 そ し て 、
ス支持を証する異端的論文であるとされ、審問の結果、所説禁止の
オ ラ ン ダ の 数 学 教 授 W . ス ネ ル ( 1591-1626、 光 の 屈 折 の 研 究 も あ
処 分 を う け て (1616 年 )し ば ら く 沈 黙 し た が 、 真 理 へ の 情 熱 は 止 み
る ) は 、 ま さ に 宇 宙 学 者 G . フ リ シ ウ ス ( 1508-1555) が 、 そ の 原
が た く 、 1632 年 、 不 朽 の 名 著 『 天 文 対 話 』 (プ ト レ ス マ イ オ ス と コ
理を述べた三角測量の技法を確立し、ハーグ~ライデン間を基線と
ペ ル ニ ク ス の 2 つ の 主 な 宇 宙 体 系 に 関 す る 対 話 )を 出 し た た め 、 厳
してはじめて、アルクマール~ベルゲン間の精密測量に成功し
し い 宗 教 裁 判 に 付 さ れ た 末 (1633 年 )、 コ ペ ル ニ ク ス 説 の 完 全 放 棄
(1615 年 )、こ の 後 、こ の 三 角 測 量 の 大 連 鎖 は 、フ ラ ン ス を は じ め (17
を 誓 わ さ れ 、研 究 の 自 由 も 奪 わ れ た 。 そ こ で 、力 を 本 題 の 主 題 で あ る
世 紀 後 半 )、ヨ ー ロ ッ パ の 諸 国 に 国 の 事 業 と し て 広 が り (18 世 紀 ~ 19
物 体 の 運 動 の 研 究 の 総 括 に 傾 注 し 、前 著 に ま さ る 大 著 『 力 学 対 話 』
世 紀 )、 精 密 な 国 土 図 が 相 つ い で 作 ら れ る こ と に な っ た 。
(機 械 学 と 地 上 運 動 に 関 す る 2 つ の 新 し い 科 学 に つ い て の 対 話 と 数
しかも、こうした中で近代科学の方法を確立し、とくに天文、物
学 的 証 明 、 1635 年)を 出 版 、 そ の 頃 ま で 行 わ れ て き た ア リ ス ト テ レ
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スの運動論にとってかわる、近代力学の基礎を確立し、ニュートン
透明の元素)は、そのまわりを回ったり、他の渦動間を渡り歩く、
の力学に道を開いた。
光を反射するだけの惑星や彗星となり、その中間にあたる透明な粒
ま た 同 じ 頃 、 解 析 幾 何 学 の 創 始 者 (1637 年 )で も あ る フ ラ ン ス 哲
子(透明な元素)は、光を通すだけの諸空間をつくった。そして地
学 者 R . デ カ ル ト ( 1590-1650) は 、 は じ め ス コ ラ 哲 学 、 数 学 の 研
球も初めは、太陽と同じ光り渦巻く天体であったが、表面に黒点様
究に従事したが、スコラ哲学には全く失望し、より確実な事物認識
の 皮 殻 が 広 が っ て 冷 却 を は じ め 、渦 動 も 衰 え 、や が て 他 の 惑 星 と と も
の方法を求めて、すべてを疑い尽くし、「我思う、故に我あり」の
に 太 陽 渦 に 捕 獲 さ れ て 惑 星 と な り 、そ の 後 さ ら に 冷 却 が 進 ん で ( 高
命題に到達、数学的明晰判明な直観によるものだけが真であるとし、
温 起 源 の 地 球 成 因 説 の は じ め ) 、灼 熱 の 地 心 の 外 に 厚 い 内 外 の 殻 、
神の存在を証するとともに、物心の二元建て、精神の属性は思惟、
水の層、空気の層、固体の皮殻、そのすき間を通って、外に拡がっ
物質の属性は延長であるとした。そして神は宇宙を創造し、自然の
た大気の層ができ(地球体の殻層構造観のはじめ)、その皮殻の割
法則をも与えた。宇宙は物質と運動から成る機械的存在で、自然の
れ目が発達して、皮殻の崩壊が起こって(地殻変動観のはじめ)、
法則によって(R.デカルトが明確にした概念)支配され、しかも
そ こ に 山 脈 と 海 を つ く っ た も の で あ る と 論 じ (『 宇 宙 論 』 1633 年 )、
よ り 高 度 な 秩 序 へ 発 展 的 に 変 化 す る も の で あ る と し た 。 (『 宇 宙 学
この後相ついで出る太陽系科学的成因論の端緒をつくり、世界から
論 』 1633 年、『 方 法 序 説 』 1677 年)(F .ベ ー コ ン の 哲 学 = 経 験 論 、R .
驚嘆の声をもって迎えられた。(しかしG.ガリレイに教会の手が
デ カ ル ト の 哲 学 = 唯 理 論 、 近 世 哲 学 の 二 大 系 統 )。
伸びていた時であり、出版は見合わせた)。
従って、彼の表出した宇宙論は、これまでの創造説にこだわらな
ま た 、 彼 の 運 動 論 (慣 性 の 法 則 、 運 動 量 保 存 則 、 渦 動 求 心 力 等 を
い 画 期 的 な も の と な っ て お り 、こ の 世 界 は 、 自 然 の 材 料 (原 素 粒 子 )
ふ く む )は 、 50 年 後 、 イ ギ リ ス の I . ニ ュ ー ト ン の 力 学 が 成 立 し て
と、自然の力(渦動)によって、発展的に出来たものであるとして
もなおそれに対する支持を受けていた。
いる。
しかし、このR.デカルトの宇宙論に対し、近代原子論の創唱者
すなわち、この宇宙空間は無限で(時間の無限は考えられぬとし
で あ る フ ラ ン ス の P . ガ ッ サ ン デ ィ ( 1592-1655) は 、 宇 宙 は 物 質
た)、はじめ物質粒子をもって、均等に充たされ、各粒子はすべて
をもって満たされているのではなく、無数の原子が空間に浮んで、
回転運動をしていたと前提した。そして、それがやがていくつかの
浮いているものであるとして、ギリシャ時代の原子論(デモクリト
巨大な環状運動に発達し(デカルトの渦動論)、とくに激しく運動
スが確立、レウギッポス、エピクロス等が継承)を復活対立し、同
し て 微 少 に く だ け た 粒 子 は 光 を 発 し (光 の 元 素 )、 渦 動 の 中 心 に 集 っ
じ く フ ラ ン ス の 科 学 者 A . キ ル ヒ ァ ( 1601-1668) は 、 改 め て 地 球
て太陽や恒星となり、これより運動の鈍い粗大で不透明な粒子(不
の内部構造を考察し、これは堅固な空洞で、中心の火を囲んで、火
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道 、 水 管 、 空 気 が 充 満 し て お り 、 地 下 ほ ど 温 度 が 高 い と い い (『 地
象に遭遇した。
下 の 世 界 』 1668 年)、 ま た イ タ リ ア の E . ト リ チ ェ リ ー (1608-1647、
また、この頃、ヨーロッパ各地をめぐり、とくにG.ガリレイか
水 銀 気 圧 計 1643 年 )、 フ ラ ン ス の B . パ ス カ ル (1623-1662、 真 空 実
ら 大 き い 影 響 を 受 け た イ ギ リ ス の 物 理 化 学 者 R . ボ イ ル (1627-
験 1646 年 )、 ド イ ツ の O . ゲ ー リ ッ ケ ( 1602-1682、 マ グ テ ブ ル グ
1691)は 、 気 体 物 理 学 が お こ ろ う と す る 中 で 、い わ ゆ る ボ イ ル の 法 則
の 実 験 1662 年 ) ら は 、ア リ ス ト テ レ ス 以 来 お も に 否 定 的 に 取 り 扱 わ
を 発 見 し (1661 年 )、 ま た あ ら ゆ る 実 験 の 結 果 か ら 、 物 質 元 素 に つ
れ て き た 宇 宙 の 中 の 「 空 虚 」 (真 空 )が 、 実 験 の 結 果 、 そ れ に 近 い か
いて、これまでの先験的概念(アリストテレスの四元素説、パラケ
たちで存在していることを証し、同時にこれから大気圧の概念が生
ルスの三元素説等)を根底から打破し、新しく化学元素を定義して、
まれた。
それは化学実験によってのみ決定できること、また、これまで問題
そして、地理学に進歩を見せていたドイツでは、F.クリューフ
とされてきた化学変化がすべて合理的に説明できることを示して、
ェ ル ( 1580-1622) が 『 普 遍 的 地 理 学 序 説 』 、 (1624 年 )を 出 し た に
近 代 化 学 を 確 立 し た ( 『 懐 疑 的 な 化 学 者 』 1661 年 ) 。
つ い で 、 B . ワ レ ニ ュ ー ス ( 1622-1650) が 1650 年 『 一 般 地 理 学 』
し か も そ う し た 中 に あ っ て 、は じ め 解 剖 学 を 、つ い で E . バ ル ト リ
を出し、地理学は地球の状態やその部分の形状、位置、大きさ、運
ヌス(コペンハーゲン大学教授、複屈折の研究者)に鉱物学を学び、
動等を研究する数学の一部であると定義して、これまでのコスモグ
後イタ リア に行 って 大公の 侍医 とな った デンマ ーク のN.ステ ノ
ラィ(天文、地誌)から、近代地理学(ゲオグラフィ)を独立させ
(1638-1687)は 、 イ タ リ ア 北 部 の 自 然 観 察 か ら 、改 め て そ の 化 石 や 地
る道を開いた。
質の研究の重要性を痛感、さきにアグリゴラも問題にしたことのあ
ま た 、 こ う し た 学 問 の 近 代 化 に 伴 っ て 諸 国 に 学 会 (1603 年 ロ ー マ
る「舌の石」(グロソプトレ)を、現生のサメの歯と比較して、そ
科 学 ア カ デ ミ ィ 、1662 年 イ ギ リ ス 王 立 協 会 、1666 年 フ ラ ン ス 科 学 ア
れが古代ザメの歯であることを知って、これまでその区別の明瞭で
カ デ ミ ィ 等 )や 天 文 台 ( 1667 年 パ リ 天 文 台 、 1676 年 グ リ ニ ッ チ 天 文
なかった化石粒子と包含岩石粒子とが、本質的に異質のものである
台等)が相ついで設立され、とくにパリ天文台長J.ピカール
という重要な認識に到達し、それによって、地層は化石粒子とそれ
(1620-1682)は 、 諸 国 に さ き が け て 子 午 線 長 の 測 定 (パ リ ― を 通 る 、
を包む無機物粒子(原石)から成るものであり、しかも、化石はそ
1669 年 )、国 土 の 三 角 測 量 (J . カ シ ニ 父 子 に 引 き 継 が れ る )、 経 度
の地層と同時代の生物の遺骸で、内部からの沈澱によって、また、
の精密測定等の大事業に着手し、同じくフランスの物理学者J.リ
無機鉱物質は、外部からの物質付着で形成されたもので、水晶は規
ッ シ ェ ー ( 1630-1696) は 、 火 星 の 視 差 観 測 等 の た め 南 米 カ イ エ ン
則的形成で結晶し、その面角は一定している(「面角安定の法則」
スに旅行し、そこで携行した振子時計の遅れるという、未解明の現
の発見)、またその地層は大部分海底で水平に形成されたもので、
地殻の縮退に関する覚え書き
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第二節
近世の自然観、大地観
上部ものもほど新しく(地層累重の法則)、それが変動しているの
明 す る 道 を 開 い た ( 1678 年 ) 。
は、多分火山作用や地下空洞(カルストのような)への陥没等で起
そして、G.ガリレイの没年に生まれ、科学史上最大の業績を残
こったものであるとし、とくにトマカナにおこった種々の変化につ
し た イ ギ リ ス の I . ニ ュ ー ト ン ( 1642-1727) は 、 そ の 青 年 期 に 着
いては、これに史的考察を加え、これを 6 期に分けて史上初の地史
想した三大課題(光学、微積分法、万有引力理論)の大成に一生を
を編し、しかもその説明に、これまた史上最初の地質断面図を用い
捧げ、まず光学では新しく光の分析という新技術を開発して、光の
る な ど 、 当 時 と し て は 、 ま さ に 驚 異 的 な 研 究 を 残 し た 。 (「デ ・ ソ リ
粒子説を唱え、それによって反射、屈折、回折、色等を解明(R.
ッ ド … 」固 体 の 中 に つ つ ま れ て い る 固 体 に 関 す る 研 究 の 序 説 )(1669
フ ッ ク 、C . ホ イ ヘ ン ス 等 の 波 動 説 と 対 立 ) 1669 年 頃 に は 現 象 の よ
年 )(序 説 以 外 の 原 稿 は 一 時 紛 失 し 、 1831 年 フ ラ ン ス の 地 質 学 者 E .
り確実な把握のため、微積分法を創案し、これを物理学に導入、そ
D . ボ ー モ ン ( 1798-1878) が 紹 介 す る ま で 忘 れ ら れ て い た 。
れによって、最大課題であった、惑星が一定の回転軌道を維持して
ま た 、 同 じ 頃 イ ギ リ ス の 物 理 学 者 R . フ ッ ク ( 1635-1703) は 、
いる謎(軌道を外れないための求心力の問題)の解明に全力を傾け、
弾性の法則、植物の細胞を発見するとともに、光について波動説の
樹立した運動の三法則に立って、月と地球間にはたらいている重力
先 駆 と な り 、 後 輩 I . ニ ュ ー ト ン ( 1642-1727) と 論 争 、 太 陽 系 内
値の計算を繰り返し、ついにその値が月の軌道の曲率を決定してい
の引力についても、I.ニュートンの万有引力理論と並ぶところま
る力に等しいこと、すなわち、ケプレルの第三法則から導かれる二
でいき、地質学の分野でも、化石は古代生物の遺骸で、地球の過去
乗反比の引力(あたかも落ちるリンゴに働いた重力)と同様のもの
を示す確実な記念物であるとし(化石の成因を神・星・地下などの
であることを確かめ、同時にそれに等しい他の天体間はもちろん、
働きによるとしていた当時としては、まさに画期的な認識で、地質
宇宙のすべての質点間に普遍する力であること、いわゆる万有引力
学の出発点である)、それが現存種と異る点については、種の絶滅
発見に到達した。これによって、太陽系の構造はケプレルの幾何学
との関係を考え、さらにポートランド産の亀と大形アンモナイトの
的基礎づけに続き、物理学的かつ数学的に基礎づけられ(太陽系の
化石は、イギリスがかつて熱帯の海底にあったことを示すとし、そ
秩序の解明)、同時に、これまで異るものとされてきた天上界と地
れには地軸の移動が関係したと見、また、アルプス等の大山脈の成
上界の運動が全く同一の力学的法則に支配されるものであることを
因については、これらは地震によって数ヶ月の間に造られたもので
明 ら か に し た 、(「 プ リ ン キ ピ ア ― マ セ マ テ ィ カ 」 = 自 然 哲 学 の 数 学
あ る と い う 、 神 の 創 造 を 否 定 す る 重 要 な 推 論 を 示 し (1668 年 )、 オ
的 原 理 、 副 題 『 地 球 シ ス テ ィ ム の 構 造 』 1667 年 )そ し て 、 当 時 問 題
ラ ン ダ の 科 学 者 C . R . ホ イ ヘ ン ス ( 1629-1695) は 、 古 来 の 難 問
とされていた地球の形体についても、C.ホイヘンスと並んで、地
である光の反射屈折を、R.フックの考えを発展させた波動説で説
球はその重力と遠心力とがその釣り合いを保つような形、すなわち
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第二節
近世の自然観、大地観
楕 円 形 で あ る は ず で あ る と し た 。 (後 に 確 認 さ れ た )。 し か し 彼 の こ
は、R.デカルトの自然観を発展させながらも、独自の生成機構を
うした偉大な研究も、当時R.デカルトの理論が幅広くうけ入れら
考案した。すなわち、宇宙は(今日の太陽系)太陽がある時期に火
れていて、その上、教会の異端視もあって、その真価が正しく認め
山的爆発をおこし、その時分出したいくつもの火球から生まれたも
られるには、その後一世紀余の時間が必要であり、なお、この偉大
ので、地球もはじめは灼熱体であったが、内部の燃料が燃え尽きて、
なI.ニュートンの頭脳をもってしても、天体始動の機構について
表面から冷却固化し、そのガラス状皮殻から砂や土ができ、蒸発し
は解明することができず、神の一撃があったものとし、また重力の
ていた水蒸気が地表に凝結して、地球をつつむ原始海洋をつくった。
原因についても「私は仮設をつくらない」として解釈することをさ
そして、その鉱物塩類をふくんだ海水から原始岩層が沈積し、その
けた。(このI.ニュートンの理論を自説を加えて日本に紹介した
中に化石もふくまれた(水成説)。そして冷却による収縮のため、
の は 、 江 戸 時 代 の オ ラ ン ダ 語 通 詞 志 筑 忠 雄 ( 1760-1806) 『 暦 象 新
地殻に凸凹や亀裂ができた(地殻変動)。その割れ目に侵入した水
書 』 (1798 年 )(大 宇 宙 秩 序 の 明 解 = 時 間 、 空 間 、 質 量 、 エ ネ ル ギ ー 、
は、地下熱で膨張し、火山や地震の原因になったという、R.デカ
運 動 等 の 総 合 的 解 明 は A . ア イ ン シ ュ タ イ ン ら の 力 に ま た れ た )。
ルトの理論とは(宇宙に充満する原始物質の渦動によって生まれた
そしてこのI.ニュートンの友人で「プリンキピァ」出版の援助
とする)、その出発点を全く異にする全く新しい理論を展開し、世
者 で も あ っ た 、 天 文 学 者 E . ハ リ ー ( 1656-1742) は 、 こ れ ま で 欠
人 を 驚 か せ た (「 プ ロ ト ヂ ァ 」 1685 年 )。 も ち ろ ん 教 会 は 、 R . デ
けていた南天の星図作成にあたるとともに、I.ニュートンの理論
カルトの場合同様異端としたが、新教徒の中には支持者も多く、や
を 用 い て 、は じ め て 20 個 に お よ ぶ 彗 星 の 軌 道 を 決 定 し 、と く に 1682
がてこの理論(太陽からの分離説)は、さきにR.デカルトの出し
年 出 現 の 大 彗 星 に つ い て は 周 期 75 年 で 古 記 録 に 残 る も の (1531 年 、
た理論(原始物質起原説)と並んで、新時代を代表する宇宙の成立
1609 年 )と 同 一 で あ り 、 ま た 、 1759 年 再 来 の 事 実 を 的 中 さ せ て 、 ハ
に関する科学的推論の二大系統の原流となり、こののち相ついで出
リー彗星の名で残ることになり、また恒星の固有運動も発見した
る太陽系の成因論に決定的な影響を与えた。そしてこの頃から、地
( 1718 年 ) 。
球は宇宙の物質と運動とによって発展的に生まれたものであり、し
また、これよりさき、I.ニュートンと微分学の優先を争ったド
かも高温状態から順次冷却収縮してできたものであるという解釈が
広がっていった。
イ ツ の 哲 学 者 G . ラ イ ブ ニ ッ ツ ( 1646-1716) は 、 実 体 は 予 定 調 和
をもった動き得るもの(単子)であり、自然は段階的連続体で、そ
しかし当時、地球上の海洋や岩石、化石等の解釈については、こ
こに飛躍はなく(自然は飛躍せず)、我々の世界は可能な世界のう
れまでの始原海洋説、岩石水成説、洪水説、種の固定説等が複雑に
ち最良のものであるという立場をとり、とくに宇宙の成立について
からんで、一大混沌を続けていた。すなわち、デンマークのN.ス
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第二節
近世の自然観、大地観
テ ノ ( 1630- 1686) や イ ギ リ ス の R . フ ッ ク ( 1635- 1703) ら は 、
に、陥没したところは谷や海となったものであるとし(『地球と地
いちはやくきわめて進んだ解釈に到達し、ベニスの僧院長A.モロ
中 の 自 然 史 』 1695 年 ) 、同 時 に 、 洪 水 神 話 と 科 学 を 積 極 的 に 調 和 さ
ーらは、岩石層はすべて火山作用で溶けた岩石が積み重なってでき
せようとする者もあり、天文学者E.ハリーは、その彗星の周期的
たものであると、大成論を唱えたりしていたものの、博物学者J.
接近の研究から、これは昔ハリー彗星が地球に大接近したとき引き
レ イ ( 1627-1705、 ケ ン ブ リ ッ ジ の 牧 師 ) は 、 ノ ア の 洪 水 説 を そ の
お こ し た 、 巨 大 な 津 波 に よ る も の で あ っ た か も し れ ぬ と い い ( 1694
ま ま 科 学 の 世 界 へ 持 ち 込 ん で 、こ れ は 聖 書 に あ る と お り 、40 日 40 夜
年 ) 、 I . ニ ュ ー ト ン の 後 継 者 W . ホ イ ス ト ン (1667-1752)も 、 彗
降り続いた大豪雨によって、地下の水溜が溢れて起こったもので、
星の尾が(水滴でできていると見ていた)振りかかったために起こ
化石もその時、動物の型の中に投げこまれた石で、生物の遺骸では
っ た の で は な い か と 見 た (1696 年 )。 ま た 、 こ の 頃 、ド イ ツ の E . テ
ない(生物連鎖の法則にもどる)と解する反面、海産性化石が山土
ンツェルは、諸国で発見される巨大化石を古代象のものであるとし
で発見される現象については、洪水などによるものではなく、その
た に 対 し (1696 年 )、 一 般 に は 聖 書 に 出 て く る 巨 人 の 骨 と 信 ず る 者
山や陸が、その昔海中から地下にたまった熱のため、圧力を増した
が多く、中には伝説にいう一角獣かドラゴンのものとする者もあり、
蒸 気 の 作 用 で 隆 起 し た も の で あ る と い う 解 釈 を 示 し (1692 年 )、 同
ス イ ス の 博 物 学 者 シ ョ イ ヒ ッ ア ( 1672-1733) は 、 す べ て の 化 石 は
じ ケ ン ブ リ ッ ジ の 後 輩 で 牧 師 の J . バ ン ネ ッ ト (1635-1715)も 、 ノ
ノアの洪水の遺物であるとし、エーコンゲン産の恐竜の化石を洪水
アの洪水は世界的規模で起ったもので、それまで地下の水層を包ん
で死んだ人間の化石とみなし、ある僧院では、大トカゲの化石に
で山も海もなく滑るかに広がっていた地表は、太陽熱による乾燥、
「大洪水を証明する人骨」と説明したりしていた。
亀 裂 、 爆 発 に よ っ て 破 壊 し 尽 さ れ (罪 深 い 人 間 を 罰 す る 神 の 摂 理 )、
また、より多くR.デカルトの理論にひかれていたスウェーデン
溢れた水は大波となって地表をおそい、破片は水中深く沈み、他方
の 神 学 者 E . ス ウ ェ ー デ ン ボ ル グ ( 1688-1773) は 、 同 じ く 宇 宙 の
で高い山脈を積み上げたものであるといい「神聖な地球の理論
渦動構造を考えたが(原子から太陽まですべて点の渦動から成る)、
(1684)、ま た 、グ レ イ シ ャ ム ス カ レ ッ ジ の 教 授 J . ウ ッ ド ー ウ ォ ー ド
太陽系の成立については、R.デカルトの太陽渦動が惑星を巻きこ
( 1665-1728) も 、 地 球 を 襲 っ た 大 洪 水 は 、 地 球 上 の 生 物 の 大 部 分
んだとしたのに対して、太陽表面に発達した大黒点が、内部からの
を滅し、地表を完全に破壊し、溶かし、混ぜ合わせ、比重の大きい
熱圧で破れ、太陽をとり巻く帯になり、後にいくつかに分かれ、黄
金 属 、 鉱 石 、重 い 化 石 等 か ら 、 海 底 の 貝 類 、そ し て 高 等 動 物 植 物 の 順
道面に近い軌道を回る惑星、衛星(新星もこうして生まれる)とな
に沈澱、取り入れが進んで地層をつくり、その後地心からの大変動
っ た も の で あ る と い う 、 独 特 の 宇 宙 論 を 出 し (1750 年 頃 )、ま た 、 同
で、大地はゆれ、地表はくずれ、その積みあがったところは陸や山
じ ス ウ ェ ー デ ン の 博 物 学 者 C . リ ン ネ ウ ス ( 1707-1778) は 、 当 時
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第二節
近世の自然観、大地観
自然物(動植物、鉱物、岩石、化石等)の記載や分類が流行する中
(今 日 の 黄 道 面 )、 ほ ぼ 同 一 方 向 に 回 転 し つ つ 散 布 し て 生 じ た も の で 、
で、自らもその一大体系の確立をこころざし、新しく自然界を植物、
はじめは熔溶融体か半流体で、自転のため、軸方向に扁平化し(第
動物、鉱物の3界に大別し、鉱物は成長し、植物は成長し生命をも
一期)、その後冷却によって表面に地殻ができ、それが褶曲して山
ち、動物は成長し生命をもち、感覚をもつ、しかもこれらの種は、
脈や海床をつくった(第二期)、ついで大気中の水蒸気が凝結して
神の創造以来不変であると規定し、植物、動物を中心とし、種名に
始 原 海 洋 を つ く り 、生 物 が 発 生 し 、地 殻 の 侵 食 や 堆 積 が は じ ま り 、 そ
はいわゆる二名法を創始して、分類学上不滅の不著『自然の体系』
の中に生物化石も包みこまれ、地殻の割れ目には海水が吸いこまれ
(1735 年 )を 出 し 、ま た そ の 弟 子 K . P . ツ ェ ン ベ リ ー (1743-1828)
て、乾いた大陸や山地が広がり、そこに陸上動植物が出現した(第
は、後年日本に来、日本植物に関する最初の研究書『日本植物誌』
三期)。続いて、地下熱のはたらきで地殻変動と、火山活動がおこ
等を出した。
り(第四期)、その後しばらく静穏な時期があって、大型動物が出
ま た 、 こ の 頃 フ ラ ン ス 学 士 院 は 、大 規 模 な 緯 度 孤 調 査 隊 2 隊 を (隊
現し、それが南下した(第五期)についで北方大陸が分裂し、人類
長 P . モ ー ベ ル チ ュ エ 、 A . ク レ ー ロ ー )高 低 両 緯 度 地 ( ペ ル ー と
が出現繁栄する時期が来(第六期)、その後冷却がさらに進行する
ラ プ ラ ン ド ) に 派 遣 し (1735 年 以 降 )、問 題 化 し て い た 地 球 形 体 確 認
と、地上にはやがて死の世界が訪れる(第七期)。しかもその変化
の大事業に乗り出し、地球は単純な球形ではなく、一種の回転楕円
には時間以外の何ものも必要ではないという、推理の限りをつくし
体であるという、重大な事実を確認し(A.クレーローの『地球形
た独特の理論を展開し、また、古来の難問である、生物種の変化に
状 論 』 1743 年 ) 、 パ リ 植 物 園 長 で 、 博 物 学 者 の G . ビ ュ ッ フ ォ ン
ついては、それまでの不変固定説(種は神の創造したまま不変であ
( 1707-1788) は 、 自 然 界 を 統 一 す る 法 則 を 求 め て 、 大 著 『 一 般 お
る ) を 排 し て 、 種 は 微 少 差 で 変 異 し て い る と し (た だ し 退 化 説 )、 種
よ び 個 別 の 博 物 誌 』 44 巻 、1749 年 以 降 ) を 出 す 中 で 、 地 球 や 生 物 の
の分類についても、C.リンネの人為的分類法ではなく、自然分類
誕 生 に つ い て の 法 則 を 考 察 し 、 こ れ に 聖 書 に あ る よ り (約 6000 年 )
法によるべきであるとした。(しかし、ソルボンヌの神学者に追わ
は る か に 古 い 時 代 (彼 は 溶 融 金 属 の 冷 却 速 度 と 比 較 し 74,800 年 と 推
れ職を失った)。
定 し た 。 実 験 的 方 法 に よ る 地 球 年 令 推 定 の 最 初 )、 J . バ ー ネ ッ ト 、
そして、このG.ビュッフォンや、さきのI.ニュートン等の理
J.ウッドウォード、E.スウェーデンボルグ等のいうような無原
論 に 啓 発 さ れ つ つ 育 っ た ド イ ツ の 哲 学 者 I . カ ン ト ( 1724-1804 批
則、複雑な方法でできたのではなく、各惑星が黄道面上を同一方向
判哲学の祖)は、その哲学成立に先立って、自然科学に関する諸論
に回転できるような方法できたものと思われる。すなわち、その昔、
文 を 発 表 し た が 、そ の ひ と つ 『 天 界 の 一 般 自 然 史 と 理 論 』 (1755 年 )
一大彗星が太陽面に衝突したとき、削り取った物質が共通面上に
の中で、まさにその副題にいう通り、ニュートンの原理(物体間の
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近世の自然観、大地観
引力と斥力の相互作用)にしたがって、天界の形成を力学的に考案
は、同時に地下構造に関する知見の蓄積を導き、本格的地質学の発
した。まず、その頃ようやく認識され始めた銀河の構造と、それが
展を促進した。
集まってできた大宇宙を論じ、太陽系の生図について、はじめそこ
そして、この頃、鉱物学に伝統のあるドイツの大学教授ホレーマ
は真空間とそこに引力と斥力の相互作用で拡散する、冷たくかつ静
ン (? - 1767)は 、 ベ ル リ ン 西 方 山 地 で 、 同 じ く G . フ ク ゼ ル ( 1722
的な宇宙物質から成っていた。しかし密度に不均衡が起こって、高
- 1773) は 、 更 に そ の 南 に 続 く チ ュ リ レ ゲ ン 地 方 の 諸 鉱 山 を 調 査 し 、
密度部への物質集中がおこり、無数の天体が生まれた。太陽と付近
その地層が始原岩と成層岩とから成るという重要事実、しかもその
の天体は渦巻き集まって、一つの扁平恒星系すなわち銀河系をつく
成層岩は洪水によって海底でつくられ、その傾きや屈曲は、地殻の
り、この銀河系を大型にしたいくつかの恒星系が星雲で、それがま
冷却収縮によってできたものであると解し、この地層の垂直系列と
た集まって更に大きい宇宙をつくっている(宇宙の段階的広がりの
変動は、まさに大地発達の継起を示す貴重な記録であるという、地
認 識 ) 、太 陽 系 も も と そ の 空 間 に 拡 散 し て い た 星 雲 状 物 質 が 、そ の 引
層発達の基本概念に到達し(地層畳重、地層変動の)、これによっ
力で密度の大きい部分へ集中して生まれたもので、その間続いた物
て、地層分類という地質学の基本作業を確立した。(本格的地層分
質の衝突反発運動は、やがて中心をまわる回転運動に整理され、そ
類の始め、この頃はまだ化石類による分類法は、確立しておらず、
の速度が増すと全体が扁平につぶれて、微塵物質の環となり、密度
岩相による分類がとられていた)すなわち、ホレーマンは地層のう
差によっていくつかの層状環となり、運動に順応しない物質は中心
ち化石を含まず、山岳の中核をつくっているものを第一次岩石(始
に落下凝縮して太陽に、外側の層状環はそれぞれ密度の大きい部分
原岩石)、山麓に水平に成層し、単純な生物化石を含むものを第二
に集中し、固有の離心率(楕円軌道)と傾斜(黄道面に対する)を
次岩石、そして陸上生物の化石を含むものを第三次岩石に大別し、
もった、同一方向に永久に回転する(真空中の慣性による)惑星や
そ の 成 層 部 分 に つ い て は 、さ ら に 30 に 区 分 す る 作 業 を 行 い 、 G . フ
彗星をつくったもので、その惑星の大部分には生物がいるという
クゼルも山岳の中核をつくる始原岩から、上部の石灰岩層までの地
(自然は発展的存在であることの認識)画期的な新宇宙論を展開し
層を9層に分け、独自の地層露頭図や地質断面図を用いて、その特
た。
性 を 明 ら か に し イ タ リ ア 、パ ト ウ ア 大 学 の 鉱 物 学 者 G .ア ル デ ュ イ ノ
し か も 、 こ の 18 世 紀 後 半 は 、フ ラ ン ス が 大 革 命 か ら い わ ゆ る 啓 蒙
( 1714-1795) は 、 北 部 イ タ リ ア の 地 質 に つ い て 、 そ の 古 い も の か
思想の時代に、そして新技術の開発(自動紡機、織機、蒸気機関の
ら 始 原 系 (ガ ラ ス 質 片 状 岩 、 雲 母 石 英 に 富 む )、 第 二 系 ( 石 灰 岩 、 泥
発明等)によって、いわゆる産業革命がイギリスに起って、ヨーロ
灰岩、粘土、海生化石)、第三系(石灰岩、砂岩、泥灰岩、新時代
ッパ諸国に資本主義経済が抬頭し、それに伴う地下資源の調査開発
化石)と、これらとは異質の火成岩とに分類し(第三系の名称は今
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第二節
近世の自然観、大地観
日まで用いられている)、将来発達する層位学の基礎を開き、また
た火成とすれば、全ヨーロッパが火山地帯であるという恐怖に包ま
フ ラ ン ス の 医 師 で 博 物 学 者 の J . ゲ タ ー ル ( 1715-1787) は 、 ま ず
れることになり、これまで(ギリシャ以来)水成説を主流としてき
国内鉱物岩の調査から、これらの分布には帯状走行の特性(地層水
たヨーロッパの学界に、改めて一大課題を提起した。しかし当時の
平系列の原理のあることを発見し、これによって、フランス最初の
学界には、これを裁くだけの研究成果がなく、その結論は、この前
鉱物、岩石の分布図(地質図)を作成し、その中の主要な帯は、ド
後に出た幾人もの鉱物学者、地質学者の研究の累積にまたねばなら
ーバー海峡で切れているが、この帯は海峡底をくぐってイングラン
なかった。
ド に 続 く と 推 定 さ れ る と し て 、 反 響 を 呼 び (『 覚 え 書 き 』 1746 年 )、
そ の 中 、 ド イ ツ の 鉱 物 地 質 学 者 P . パ ラ ス ( 1741-1811) は 、 青
また当時問題となっていた南フランスオーペルニュ高原(死火山)
年時代、北の国ロシア要請でウラルからシベリアにいたる未開地の
の玄武岩の研究では、その性状が火山の熔岩に類似するものの、現
資源調査を実施したに際し、地質一般についても、山岳は一般に大
に活動して火山近傍にこうした柱状節理の玄武岩が全く見出し得な
屈曲しており、しかも、山頂付近は堆積岩が風化消失して、内部か
いことから、これはもと水溶液から結晶作用で形成されたものと考
ら押し上げた結晶質、あるいは火山性の岩石が広がり、そのまわり
えざるを得ないとした、(玄武岩水成説)。しかし、後輩のN.デ
を石灰岩等の堆積岩がとりまいているという、地殻構造に関する重
ュ レ (1725-1815)は 、 そ の 最 初 の 論 文 で 、 J . ゲ タ ー ル が 推 論 し た
要な事実を観察し、やがて発達する造山論の先駆となり、同時にシ
ドーバー海峡をはさむ地質の連続を、両岸に広がる特徴的な白堊層
ベリア凍原に出土する巨大四足獣(今日いうマンモス象)の氷漬体
や化石の連続で説明し(英仏両国はもと地続きであった)、時の百
に つ い て も 、 重 要 な 報 告 を し (「 ロ シ ア 帝 国 諸 県 旅 行 記 」 1771 年 )。
科 全 書 家 の ひ と り 、 J . ダ ラ ン ベ ー ル ( 1717-1783) か ら 高 く 評 価
ま た 、 こ の 頃 イ ギ リ ス の 天 文 学 者 W . ハ ー シ ェ ル ( 1738-1820)
さ れ た に つ い で 、オ ー ベ ル ニ ュ 高 原 の 玄 武 岩 に つ い て は 、1763 年 の
は、扱う天空が銀河系をこえるまでになりながら、観測がそれに伴
実地調査以降、これはJ.ゲタールのいうような水溶液から結晶し
っていないのを憂いヨーロッパ最大の反射望遠鏡を自作して、全天
たものではなく、明らかに過去の火山活動の遺物、すなわち火山の
空の精査にあたり、太陽系の周辺に新しく天王星を発見、これまで
熔 岩 か ら 特 殊 な 条 件 下 で で き た も の で あ る と 推 定 (玄 武 岩 の 火 成 説 )、
の 太 陽 系 6 惑 星 説 を 打 破 す る と と も に 、太 陽 系 を 越 え た 恒 星 界 (当 時
10 年 以 上 に わ た っ て 、国 内 外 の 火 成 岩 の 実 態 を 調 査 し 、そ の 結 論 を
全 く 未 開 拓 の 世 界 で あ っ た )に つ い て 、 多 数 の 恒 星 、 星 団 、 二 重 星 、
立証しようとした。そして、この両者の見解の相違は科学アカデミ
星雲等を発見し、また、その統計的分布をも考察して、壮大な銀河
イを舞台に一大論争に発展、かりに、これが水成とすれば、ヨーロ
系の構造を解明し、その外にある多数の星雲の発見にも努めて、恒
ッパ全体が、かって水底にあったという、信じられない結論に、な
星 天 文 学 を 確 立 し た (「 天 界 の 構 造 に つ い て 」 1785 年)、そ し て 同 じ
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第二節
近世の自然観、大地観
頃 、 フ ラ ン ス の 化 学 者 A . L . ラ ヴ ォ ア ジ ェ ( 1742-1794) は 、 そ
1633 年 、 R . デ カ ル ト が は じ め て 宇 宙 の 成 因 を 物 質 的 、力 学 的 に
の半生を捧げた実験研究によって、古来の難問である燃焼現象を解
論じて以来、これまでに出たいくつかの宇宙論は、すべて一種の推
明 し 、 (1703 年 ド イ ツ の 医 師 シ ュ タ ー ル 発 表 の フ ロ ギ ス ト ン 仮 説 の
論に過ぎぬものであったが、しかし、人類の宇宙認識がどう発展し
打 破 )、 同 時 に 、 こ れ に 参 与 す る 化 学 物 質 の 本 性 か ら 化 学 元 素 の 概
てきたかを示す記念碑的存在で、とくにその最後のふたつは、いわ
念 を 確 立 (『 化 学 原 論 』 1789 年 )、ま た 、 フ ラ ン ス の 天 文 学 者 P . ラ
ゆるカント~ラプラスの星雲説として注目され、その後フランスの
ブ ラ ス ( 1749-1827 ) は 、 I . ニ ュ ー ト ン 以 来 、 L . オ イ ラ ー
天 文 学 者 、バ ピ ネ ー が 角 運 動 量 の 保 存 と 分 布 の 問 題 を 提 起 し て (1800
(1707-1783、 ス イ ス )、J . ダ ラ ン ペ ー ル (1717-1783、 フ ラ ン ス )、
年 代 中 頃 )、 そ れ を 考 慮 し た イ ギ リ ス の G . ダ ー ウ ィ ン の 隕 石 雲 説 、
A . C . ク レ ー ロ ー ( 1713-1763、 フ ラ ン ス ) 等 に よ っ て 発 展 さ せ
さらにそれを発展させたアメリカのJ.チェンバリン、F.モール
ら れ た 天 体 力 学 を 、 先 輩 数 学 者 J . ラ グ ラ ン ジ ェ (1736-1813、『 解
ト ン 等 の 微 惑 星 説 ( 1900 年 )、と く に 支 持 者 が 多 か っ た イ ギ リ ス の
析 力 学 』 1787 年 )と 並 ん で 、 そ の 究 極 ま で 追 求 し 、 天 体 力 学 を 完 成
H . ジ ー ン ス ( 1877-1946) の 潮 汐 説 ( 1902 年 ) 等 が 出 る ま で 一 世
の 域 ま で 高 め る と と も に ( 大 著 『 天 体 力 学 』 5 巻 、 1798-1825) 、
紀余、太陽系成因論の権威とされたものであり、また、この間にド
太陽系の形成についても、その惑星の大部分が、同一平面上を同一
イツの天文学者F.W.ベッゼルは、ティコ.ブラエ以来の課題で
方向に自転公転しているところから、これはもとその空間にゆるく
あ っ た 恒 星 の 視 査 測 定 に 成 功 し た 。 ( 1833 年 )
回転しつつ、拡がっていた高温ガス状団塊(星雲)からできたもの
ま た 、 こ の 頃 フ ラ ン ス の 鉱 物 学 者 P . J . ア ュ イ ( 1743-1821)
で、その後、冷却と収縮のため回転速度を増し、やがて軸方向につ
は 、 岩 石 地 質 の 学 が 独 立 し は じ め る 中 で 、新 し く 結 晶 学 を (『 結 晶 の
ぶれ、その後、増大する遠心力と中心方向への引力との相関による
構 造 に 関 す る 理 論 』 1784 年 )、 K . C . V . レ オ ン ハ ル ト ( 1779-
収縮差によって、円板は中心を共有するいくつかのガス環にはがれ、
1862) 、 A . ブ ロ ニ ア ー ル ( 1801-1876) 等 は 、 岩 石 学 と 層 位 学 を
さらに冷却が進んで微塵の固体、あるいは液体の環となり、その中
推進し、とくにドイツフライベルク鉱山大学の教授A.ウェルナー
央濃縮部は太陽に、まわりの各環帯は、それぞれ一箇所に凝集して、
(1749-1817)は 、 ア グ リ ゴ ラ 以 来 J . レ ー マ ン 、 G . フ ク ゼ ル と 伝
ほぼ同一面上を(黄道面近い)、円形に近い楕円軌道を同一方向に
わってきたドイツ鉱物学の伝統を継ぎ、これに実証的方法を導入
回転する、惑星群になったものである(彗星は他から迷いこんだも
(岩石の鉱物学的、地質学的、層序学的研究方法)、サクソニア地
の で あ る と し た ) と し た 。 (「 宇 宙 体 系 解 説 」 の 注 で 1796 年 )( そ
方(エルフ山地周辺)の地質について、岩石の分類、層序の基礎を
して彼はまたJ.ラグランジェを長とする委員会のもとで、メート
確立し(始原岩、漸移岩、成層岩、堆積岩、大山岩)、その成立は
ル法制定にも参画した)。
地球の始原海洋にはじまり(多量の鉱物質を含み、生物はいなかっ
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第二節
近世の自然観、大地観
た)、ノアの洪水に終る水の作用(結晶、沈澱、堆積等)によって、
まとまった著作を残さなかった)しかも、これは多くの弟子J.ト
達成されたものとし、しかもここに示されている地質学的原理は、
ピ ッ ソ ン ( 1769-1841) 、 L . ブ ッ フ ( 1774-1852) 、R . ジ ェ ー ム
世界のすべての地域に普遍するものであるとした。すなわち、まず
ソ ン ( 1774-1854) 、 W . バ ッ ク ラ ン ド ( 1784-1856) 、A . セ ジ ウ
花崗岩、片麻岩、粘板岩、石灰岩等の化石を含まない最初の岩類が
ィ ッ ク ( 1785-1873) 等 に よ っ て 、 ヨ ー ロ ッ パ の 各 地 に 広 め ら れ 、
結晶析出、起伏や傾斜の多い始原海洋底に沈積し、ついで海水中の
水成説(ネプチュニズム)時代を現出した。
鉱物質が減少し、生物が出現するころから、粘板岩、結晶片岩等、
しかし、その後オーベルニュ高原をはじめ、諸国の古地層の研究
時どき初期化石をふくむ過渡的な漸移岩類がその上に沈積(今日い
が進み、火成岩の性状が解明されてくると、弟子たちもしだいに水
う古生層)、ついで海水の減少による海面低下によって、既成岩層
成論から離れざるを得なくなった。
が海面上に出るころから、暴風雨などによる風化作用が始まって、
同じころ農場経営のかたわら、岩石の風化分解、土壌の形成、河
沈澱と風化堆積の混合作用が進行し、かなりの化石をふくむ二次岩
川崗よる運搬堆積、地層の変動、花崗岩、片麻岩等の深成地層の不
類(石灰岩、砂岩、白堊、玄武岩、石炭層など)が堆積し(今日い
整 合 等 を つ ぶ さ に 観 察 し て い た 、 イ ギ リ ス の J . ハ ツ ト ン ( 1726-
う中生層を中心とする地層)、最後に風化物だけの沖積ローム、砂
1797) は 、 諸 学 者 と の
岩、粘土などの堆積岩類が重なったものであるとした(今日いう新
その過去を読みとらなければならない、しかもその場合頼れるもの
生代の地層)、そして山は結晶岩石のかたまり、地層の傾きは始原
は
海洋底の起伏によるもの、陸地の発達は始原海洋水の減少によるも
鍵である)、地球は始原も終末も知ることのできない悠久のもので
の、玄武岩も水成岩とした。しかも、こうした地質発達の過程に、
あり(神学者は地球の永遠性をひどく嫌った)、はじめから陸地と
地球上、火山地方の特殊な岩層を除くすべての地質系統の成立にあ
広い始原海洋があり、そこには現在と同一の作用が(風化、運搬、
てはまるものであるとした。その上、地球は中心に向って冷却して
堆積、海流、潮汐等)働いていた。そして、現在の陸地の固化した
いるもので、内部に熔けた岩漿などあり得ず、たまたま見られる火
部分の多くは、海の産物からできていることから、これは前の陸地
山現象は、地下固有の石炭層の自然発火によっておこり、既存岩石
の分解と復元の繰り返しによってできた、複雑で二次的なものと思
が熔かされて、熔岩等の火山性岩石をつくるものであるが、これは
われ、陸から運ばれた砂、泥、粘土等は貝殻等の生物遺骸をふくん
ごく限られたもので、しかも地球岩石が、すでに形成された後に起
で海底に堆積し、その後溶液や地下熱で固化した。地球の内部は熔
った従属的なものに過ぎないと極論し、化成説を全く否定した完全
融状態にあって(水成論者はこれを強く否定した)、熔けた鉱物や
な 水 成 説 を 確 立 し た 。 ( 『 岩 石 の 起 原 』 1798 年 、講 義 の 抜 粋 、彼 は
岩石はその圧力で割れ目に沿って地表下にやって来、堆積物を固化
不明
不明
我々は自然界の現在の状態のうちに、
結論に到達し(自然は法則的存在で、現在は過去未来の
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第二節
近世の自然観、大地観
したり、それを持ち上げて褶曲や傾斜を起こさせたりし、熔岩はそ
確立されていった。
こで冷却結晶して花崗岩や斑岩となり、余力は火山を安全弁として
その中、イギリスの農家に生まれ、独学で測量技師となったW.
噴出した(大山岩)。従って、山脈は、こうしてできた火山性の中
ス ミ ス ( 1769-1839) は 、 1787 年 、 領 主 の 囲 い 込 み 作 業 に 、 1791 年
核と堆積性の側面から成っているのであるという、自然の法則、大
炭坑の測量に従事し、様々の地層に接するうち、すべて地層は上位
成岩の役割を重視した画期的な大地観を樹立した。(『地球の理
の も の ほ ど 新 し く (累 重 の 法 則 )、 周 囲 に 連 続 す る 広 が り を も ち ( 連
論 』 別 題 『 地 球 上 の 陸 地 の 構 成 、分 解 、復 元 の 中 に 見 ら れ る 法 則 の 考
続性)、整合、不整合があることをはじめ、同一地質系統には共通
察 』 1795 年 ) ( 火 成 説 ) 。
の化石がふくまれること(同定の法則)等、地質学の基礎事項を発
しかし、こうした神の意志や水のはたらきより、自然の法則や地
見し、地層を同定する示準化石を定め、初めて地層分類の一般的方
下の火のはたらきを重視する理論(プルトニズム)は、当時支配的
法を確立した。そして、イギリスに広く発達する石炭紀から白堊紀
であった神学や水成論と相いれないものであり、世間からは難解、
にいたる地層(中生代の地層)の層序を明らかにし、続いてイギリ
反神学と非難された。
ス全土の本格的地質図を完成(『イングランド・ウェールズに見出
そして、この後オーベルニュ高原の玄武岩の火成が認められるよ
さ れ る 地 層 の 一 般 的 な 地 図 』 1801 年 ) 、 ま た 、 J . フ ィ リ ッ プ ス
う に な り 、 彼 の 友 人 で 数 学 者 の J . プ レ イ フ ァ (1748-1819)が 『 ハ
( 1800-1874) を 助 手 と し て 、イ ン グ ラ ン ド の 着 色 地 質 図 (1815 年 )、
ッ ト ン 理 論 の 解 説 』 1802 年 )を 出 し 、 後 輩 J . ホ ー ル (1761-1838)
垂 直 地 質 図 (1817 年 )等 を も 作 成 、 層 位 学 の 基 礎 を 確 立 し た 。 ( 地
が地層の褶曲実験や岩石の人造実験等を実施しても(実験地質学の
層スミスと尊称された)そして、この方法は日ならずして全欧に広
父)、水成論優勢下のヨーロッパでは、J.ハットンの理論はなか
がっていった。
なか理解されず、同様に岩石についても、それは水成、火成の二大
そして、同じころフランスの幾人もの博物学者の中、G.ビュッ
種から成り(後に変成岩も加えられる、C.ライエル、B.フォン
フ ォ ン の 知 遇 を 得 て 生 物 学 に 専 念 し た J . ラ マ ル ク ( 1744-1829)
・コッタ等)、地殻構成の主要単位であると確認されるには、なお
は、無脊椎動物分類の基礎を確立し、そこから生命の歴史、地質の
一世紀余の時間が必要であった(この頃、我が国の蘭学者本木良永
発達を考察して、地球は想像を絶する太古にできたもので、海陸の
は、天文地理に関する訳書を幕府に献じている)。
地形は海流から作ったものであり、そこにある鉱物、植物、動物は、
しかし、この頃ヨーロッパの産業革命にかなり進行しており、鉱
もと同一の源泉から生物のはたらきでできたもので、生物の種は不
山、炭坑、運河、港湾等の開発、建設に伴って、地下構造に関する
変ではなく、また退行序列的にできたものでもなく、生物に内在す
知見は日増しに増大し、地質学の基礎、地質学の一般的方法が順次
る力と、器官の用不用とによる獲得形質の遺伝によって、簡単なも
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近世の自然観、大地観
のから高等なものへと、順次変化してきたものであるという、いわ
学 説 、い わ ゆ る 天 変 地 異 説 (激 変 説 、カ ス ト ロ フ ィ ズ ム )を 唱 え (『 化
ゆ る 、 生 物 進 化 の 説 を 創 唱 し (『 動 物 哲 学 』 1809 年 )、一 方 、パ リ 自
石 遺 骸 に 関 す る 研 究 』 の 序 文 の 中 で 、 1812 年 )、 動 物 の 原 型 問 題 に
然 博 物 館 の J . サ ン チ レ ー ル ( 1772-1844) は 、 自 然 は 初 め 全 生 物
ついても四原型説をとって、J.サンチレールとの論争にも勝ち、
を単一原型で設計したが、その後、器官に大小や形態の変化が生じ
イギリス第四紀層の研究で知られる、オックスフォードのW.バッ
て(比較的短期間に)、幾つかの異なった種を生んだものであると
ク ラ ン ド ( 1784-1856) 『 ノ ア の 洪 水 の 遺 物 』 1883 年 、 洪 積 層 を 命
し た 。 ( 『 解 剖 哲 学 』 1818 年 ) 。
名 )、カ ン ブ リ ア 紀 の 研 究 で 知 ら れ る ケ ン ブ リ ッ ジ の A . セ ジ ウ ィ ッ
しかし、このJ.サンチレールの招きで、パリ植物園の教授とな
ク ( 1785-1873) を は じ め 多 く の 支 持 者 を 得 て 、 ヨ ー ロ ッ パ の 学 界
っ た G . キ ュ ヴ ィ ェ ( 1769-1832) は 、 動 物 の 機 能 と 形 態 と の 関 係
に君臨した。そして、同じ頃パリ鉱山大学の教授で、G.キュピェ
を化石動物にまで追求して、新しく比較解剖学、脊椎動物古生物学
の 信 奉 者 E . d . ポ ー モ ン ( 1798-1874) も 、 地 質 時 代 の 変 化 の 様
を 創 始 し (「 比 較 解 剖 学 講 義 」 1805 年 )、A . プ ロ ニ ア ー ル ( 1770-
式は、現在のものとは全く異ったものであるとの観点から、アルプ
1847) と 協 力 し て 、 パ リ 盆 地 周 辺 の 第 三 紀 層 を 解 明 (W . ス ミ ス の
スの成因などについても、これは地球内部の熔岩の冷却収縮にとも
中 生 代 層 解 明 に 続 き 、 第 三 紀 層 の 解 明 者 と な る )(『 パ リ 周 辺 の 鉱 物
な う 固 い 地 殻 の 破 壊 よ っ て 起 っ た も の で あ る な ど と し (『 地 球 の 表
学 的 地 理 学 お よ び 有 機 物 の 研 究 』 1812 年 )、そ の 過 程 で 観 察 し た 地
面 の 激 変 に よ る 動 物 の 同 時 絶 滅 』 1830 年 )、岩 石 の 成 因 に つ い て 火
層 や 生 物 化 石 の 驚 く べ き 実 態 か ら (地 層 の 大 変 位 、物 化 種 の 集 団 絶 滅 、
成論が勝利に向いつつある中にあって、地表および生物の変化に関
巨 大 四 足 獣 の 氷 漬 体 等 々 )、 大 地 や 生 物 の 変 化 に つ い て 、 こ れ は 、
する見解は激変説でおおわれる状態になった。
A . ウ ェ ル ナ ー 、J . ハ ッ ト ン 、J . ラ マ ル ク 等 の い う よ う な 静 的 、
しかし、さきに法律学から地質学に転じたイギリスのC.ライエ
漸 進 的 な も の で は な く 、 C . ポ ネ ー ( 1720-1793) ら が 考 え た よ う
ル ( 1795-1875) は 、 こ の 激 変 説 に 疑 問 を い だ き 、 イ ギ リ ス 本 国 は
な 激 変 す な わ ち 、地 球 の 過 去 に 未 知 の 原 因 に よ る 突 発 的 大 激 変 、( 大
もちろん、イタリアをはじめヨーロッパ諸国、後にはアメリカまで
洪水、気候の急変等)何回も襲来し(主なものが4回、ノアの洪水
旅行し、精力的に観察を続け、資料を集めて(オーベルニュ火山地
はその最後のもの、5~6千年前)、その度毎にそれまで生存して
帯、イタリアの第三紀海成層、セラピス殿堂跡の昇降、スカンジナ
いた海陸生物は大部分死滅し、大地は砕かれ、地層は大変位し、そ
ビアの地盤隆起等)つぶさに検討するうち、これらすべての地質系
の中に生物遺骸が取り込まれた。そして激変が去ると水位は低下し
統の発達は、さきにJ.ハットンが示した、現在作用による激変的
て 、 そ の 地 層 は 陸 と な り 、生 物 も 元 の 種 が ( 種 の 固 定 説 を と っ て い
方法できたものにちがいないとの確信を得、その理論を体系立てて、
た )順 次 再 生 し た も の で あ る と い う 、 徹 底 し た 地 球 の 革 命 に 関 す る
地 球 の 過 去 は き わ め て 古 い も の で あ り (創 造 神 話 や 初 源 を 否 定 )、 そ
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第二節
近世の自然観、大地観
の 間 、地 表 と 生 物 は 変 化 し つ づ け て き た も の で ( 海 と 陸 の 交 替 、 生
シルリア系を(はじめA.ウェルナーの弟子であった)、共同でデ
物種の多様な変化)、しかも、この地表の変革は、激変論者のいう
ボ ン 系 を 命 名 確 立 し 、 ま た (E . d ボ ー モ ン の 勧 め が あ っ て )ド イ ツ
ような、無原則的な方法で進行したのではなく、現在も起こりつつ
の 地 理 学 者 A . フ ン ボ ル ト (1769-1859)は 、 南 米 か ら メ キ シ コ ま で
ある風雨、河海のはたらき、地熱、圧力による褶曲、隆起、沈降等
の 大 旅 行 に よ っ て 、30 巻 の お よ ぶ 大 著 『 新 大 陸 の 赤 道 地 方 の 旅 行 』
の諸作用が無限と思われる長時間はたらいた結果である、すなわち、
( 1824 年 完 成 ) を 、 つ い で 『 宇 宙 』 (1845-1862)を 出 し 、 は じ め て
地球の革命における自然の秩序は斉一であり、その法則規則は現在
自然環境の特性とその因果を原理とする、近代的自然地理学を大成
の も の と 同 一 で あ っ た と し た 。 (現 在 は 過 去 の 鍵 で あ る )( 大 著 『 地
し 、 カ ナ ダ の W . ロ ー ザ ン ( 1798-1875) は 、 カ ナ ダ 中 東 部 に 広 が
質学原理』3巻、副題『現在作用しつつある原因によって、地表の
る無生物で高度の変成をうけた岩石と花崗岩からなる最も古い岩層
過 去 を 説 明 す る 試 み 』 1830-1838 年 ) ( 斉 一 説 、 ユ ニ フ ォ ミ タ リ ア
の 研 究 を 開 始 し (先 カ ン ブ リ ア 紀 層 の 研 究 が 始 ま る 、カ ナ ダ 楯 状 地 )、
ニズム)。そして、地質の系統についても、さきに、G.アルデュ
ス イ ス の 博 物 学 者 L . ア ガ シ ー ( 1807-1873) は 、 ア ル プ ス 氷 河 の
イ ノ が 命 名 し た (1760 年 )第 三 紀 層 を 始 新 中 新 鮮 新 の 三 世 に 分 類 し
研究を引き継いで、氷河の発生、移動、氷堆石をはじめ、ヨーロッ
( 1833) 、 先 カ ン ブ リ ア 系 か ら 現 代 に い た る 全 系 に つ い て は 凡 そ 第
パにおける氷河遺跡の分布をたどり、はじめて地球の過去に氷河時
一 紀 か ら 第 四 紀 に 分 け (『 地 質 学 概 要 』 1838 年 )、J . ハ ッ ト ン に は
代ともいうべきものがあったことを明らかにした。(『氷河時代』
じ ま る 本 格 的 な 現 代 地 質 学 を 大 成 し 、 最 後 に 『 古 代 の 人 間 』 ( 1863
1840 年 )
年)で進化の思想を支持した。しかし、これもJ.ハットンの場合
ついで、C.ライエルの友人で地理学原理第一巻をたずさえ、測
同様、当時の学界には素直にうけ入れられず、この間にケンブリッ
量 船 ビ ー グ ル 号 に 乗 り 込 み ( 1831-1836) 、 南 米 沿 岸 か ら 南 太 平 洋
ジ の 教 授 A . セ ジ ウ ィ ッ ク ( 1785-1873、 初 め 水 成 論 、 激 変 論 者 で
諸 島 を 探 検 し た イ ギ リ ス の C . ダ ー ウ ィ ン ( 1809-1882) は 、 行 く
あったが転向、岩相による分類に長じていた)と、その友人R.マ
先々でC.ライエルの理論の正しさを知り、南米の地質、生物、ガ
ー チ ソ ン ( 1792-1871、 C . ラ イ エ ル に 共 鳴 、 化 石 に よ る 分 類 に 長
ラバゴス諸島の生物、南洋のサンゴ礁等につき、その成因を発展的
じていた)は、ウェルズ付近の地層について、当時一大課題となっ
にとらえ、中でも生物種の変化(進化)の問題については、緒家の
ていた、W.スミスの研究より下位の特徴的な古期岩層(漸積層と
議論が沸騰している中で(それまでの自然哲学的な考え方、ついで
呼ばれていたもの、はげしく変成したり、褶曲したりしている原生
出た祖父E.ダーウィンの『ズーノミア』、J.ラマルクの『動物
層 の 上 に 水 平 に 広 が っ て い る ) を 研 究 し 、 一 大 論 争 を 通 し て ( 1830
哲 学 』 、A . R . ウ ォ ー レ ス の 報 告 等 ) 、探 検 中 に 得 た 生 物 変 化 の 実
年開始)、A.セジウィックはカンブリア系を、R.マーチソンは
態、飼育栽培における新種淘汰の事実から、これはより有利な変異
地殻の縮退に関する覚え書き
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近世の自然観、大地観
をもつものが、自然界における生存競争に勝ち残り(生存競争の原
(1839 年 )、 相 つ い で 命 名 確 立 さ れ 、 そ の 後 1841 年 、 そ れ ま で 単 純
理はR.T.マルサスからヒント)、順次定方向に進化していくこ
に第一紀、第二紀としてきた地質時代区分を、それが含む動物化石
とによるのであるという(J.ラマルクの発展性の内在を強く否
の特徴によって、古生、中生、新生の三界に統轄することが提案さ
定)、いわゆる自然淘汰を要因とする、生物進化の理論を展開した。
れ ( イ ギ リ ス の J . フ ィ リ ッ プ ス 、 1841 年 ) 、各 層 の 微 細 構 造 、 含
(『自然淘汰による、あるいは生存競争で好適な種属の保存による
有 化 石 の 精 査 も 進 み 、 続 く 1850 年 代 に は 、 地 質 系 統 、な ら び に そ れ
種 の 起 源 』 1859 年 ) ( こ れ を 日 本 に 紹 介 し た の は 米 人 E . モ ー ス 、
が 形 成 さ れ た 時 代 で あ る 地 質 年 代 の 区 分 大 綱 が 略 確 立 さ れ 、1900 年
明 治 10 年 ) そ し て 、地 球 の 年 令 に つ い て は 、L . ケ ル ピ ン の 2000 万
現行区分が決定された。(地質系統=界、系、統、階、地質年代=
年 ~ 4 億 年 と い う の は 、あ ま り に 短 か 過 ぎ る と し た 。 も ち ろ ん 「 神
代、紀、世、期=相対年代)。そして、その結果、地球の生物の痕
のもくろみ」「人間優位」の信奉者の多かった当時では、甚だしい
跡は千万年代の過去にまでさかのぼること(今日では、億万年代の
悪魔の思想ときめつけられ、学界、思想界、宗教界に大きなな波紋
過去にまでさかのぼることが明らかになっている)、しかもその間、
を呼んだ。しかし、C.ライエルの『地質学原理』と、C.ダーウ
生物系統枝の幾つかは、異常な進化をとげ、大繁殖と絶滅を繰り返
ィンの『種の起源』は、ギリシャ以来の自然哲学的大地観、生物観
してきたこと、さらにその水平的分布も垂直的分布とともに、現在
ひいては自然観に終止符をうつものであり、その後の地質学、生物
の大洋を越えて隣接する大陸間にまで広がっていることがわかって
学は、しだいにこれを土台として発展することになった(この頃、
来、地質学は今や、この古生物化石の垂直的分布、水平的分布の謎
古来の難問である生物の自然発生説も、フランスのL.パスツール
を解明すること、すなわち、その化石を含む地層が、どうしてその
によって完全に否定された)。
位置にせり上ったり、分離したりしたのかという、いわゆる造山運
そして、この頃までに、地質学の基礎である、世界主要地域の地
動、造陸運動(広く地殻運動)の解明という最終的な段階に向かう
質系統の調査は略完了するところまで来ており、その中最も特徴的
ことになった。
な 石 炭 系 と 白 堊 系 に つ い て は 、す で に 1822 年 W . コ ニ ベ ア と O . グ
人間が大地の変化を感ずるようになったのは、かなり古いことで、
ロ ア に よ っ て 、ジ ュ ラ 系 に つ い て は 、1827 年 A . ブ ロ ニ ァ ー ル に よ
中国の「滄桑の変」という言葉や、ヨーロッパに伝わる失われた大
って、それぞれ命名確立され、三畳系は、F.アルペルテによって
陸アトランチスの伝説(太平洋上からはムー大陸が失われたとされ
1834 年 、シ ル リ ア 系 ( 1835 年 ) 、二 畳 系 ( 1836 年 ) に つ い て は 、R .
ている)などは、そのなごりと見ることができる。事実、大地は風
マ ー チ ソ ン 、カ ン ブ リ ア 系 に つ い て は 、A . セ ジ ウ ィ ッ ク (1836 年 )、
化、浸食、運搬、堆積や(外的作用)、地震、地割れ、火山、土地
デボン系については、R.マーチソンとA.セジウィックによって
昇降等によって(内的作用)、時とともに変化していることは分か
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第二節
近世の自然観、大地観
るものの、それが直接山岳形成につながるものと考えることはむず
物 理 学 者 P . ブ ー ゲ ー ( 1692-1752) は 、 ア ン デ ス 山 麓 で 重 力 異 常
かしく、そこで古来、貝化石等が高い山中で発見される謎の解釈に
を発見するとともに、山岳は地下の熱的膨張によって支えられてい
は、多くの学者が頭を悩まし続け、その結論として、当時の自然哲
るものであるといい、P.ピュアーシュは、地殻における山岳の意
学的な物の考え方から、これは造物主、星の精の仕わざであるとか、
義 を 山 岳 骨 骸 説 で と ら え る な ど (『 自 然 地 理 学 概 論 』 1753 年 )、初 歩
大洪水の遺物であるとかいった解釈に帰して、そのまま近世の初頭
的な推論が相ついで出た。
まで来てしまった、(もちろん今日のわれわれも、海底から陸地が
そ し て 、 そ の 後 G . ラ イ ブ ニ ッ ツ (『 ブ ロ ト ゲ ア 』 1683 年 )、 G .
盛り上り、大山脈に発達していく姿を観察することはできない)。
ビ ュ ッ フ ォ ン (『 博 物 誌 』 1749 年 )、 I . カ ン ト (『 天 界 の 一 般 自 然
しかし、近世のはじめ、イタリアのL.D.ダビンチが、北イタ
史 』 1755 年 )ら の 宇 宙 論 が 出 る に 及 ん で 、 熱 い 天 体 か ら の 冷 却 と い
リアの化石を含んだ山地の観察から、これはその昔、河川が岸を削
う、天体進化の概念の誕生とともに、大地の変化は地球の冷却収縮
ってつくった土砂礫が生物の遺骸を含んで海底に堆積し、それが後
によるものであるいう認識を生んでいった。そして、その後ウラル
の土地の変動で、持ち上ったものであるという、画期的な新しい認
か ら シ ベ リ ア の 資 源 調 査 に あ た っ た (1768 年 以 降 )、地 質 学 者 P . パ
識に到達したが、その認識も世には伝わらず、記録も一世紀余失わ
ラ ス ( 1741-1811) は 、 そ の 観 察 か ら 、 山 岳 は 一 般 に 大 屈 曲 し て お
れていて、その間、大地の変化に関する認識の前進はほとんど見ら
り、山頂付近は堆積岩は風化消失して、内部から押し上げた結晶質、
れ な か っ た 。 と こ ろ が 、17 世 紀 前 半 、 フ ラ ン ス の R . デ カ ル ト が 宇
あるいは火山性の岩石が広がり、そのまわりを石灰岩等の堆積岩が
宙論を出し、その中で地球の誕生発展を、物質的、機械的、発展的
取り巻いており、地層の屈曲は地球の収縮による圧縮が原因と考え
にとらえたことよって(創造説の完全否定)、大地観変革への道が
ら れ る と し (『 山 脈 の 地 層 に 関 す る 考 察 』 1777 年 )、ま た モ ン ブ ラ ン
開け、これまで不変不動と信じてきた山や川、海も地球の内外から
に初登頂し、アルピニストの草分けとなった、スイスのH.ソシュ
はたらく機械的作用によって、発展的に変化をするものであるとい
ー ル ( 1740-1799) は 、 ア ル プ ス の 構 造 に つ い て 、 そ の 観 察 を ま と
う観方が定着していった。そして、その後イタリアに行ったN.ス
め ( 『 ア ル プ ス の 旅 』 1780-1796、 こ れ は 、 花 崗 岩 等 の 始 原 岩 を 中
テノは、トスカナの石灰岩地帯で、カルスト地形の形成を正しく解
心として、変成岩、堆積岩等の岩層から成り、各地層は堆積時の関
し、化石の存在から海底地層の陸化も推論し、同じ頃、イギリスの
係でひどく積乱し、表面の削剥によって、いくつかの突峰を残した
J . レ イ は 、山 岳 に つ い て 、こ れ は 、 地 球 の 固 く な っ た 殻 の 中 で お こ
ものであるとした。
る 爆 発 に よ っ て で き る も の で あ る と 見 (『 三 つ の 物 理 科 学 の 論 文 』
たまたまA.ヴェルナーが岩石の水成、地層の静的形成等の理論
1693 年 )、 ま た フ ラ ン ス の 測 地 遠 征 隊 に 参 加 し 、 南 米 に い っ た 地 球
を 流 行 さ せ て ( 18 世 紀 末 か ら 、 19 世 紀 始 め に か け ) 、大 地 変 化 発 達
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近世の自然観、大地観
の思想に水を差したが、自然の営みを忠実に観察していたJ.ハッ
は、山脈は地下に閉入されているガスの突然の逸出によってできる
トンは、山や陸は自然の作用で破壊されるが、地下熱の膨張で海底
ものであるといい、アルプスの地質構造の最初の分析を試みたドイ
から再び復元されるものであるという、地質学上画期的な新概念を
ツ の B . ス ト ー デ ル ( 1794-1872) は 、 ア ル プ ス の 地 質 図 を 完 成 す
確 立 し 、 そ の 変 化 を 激 変 的 と 見 た G . キ ュ ピ ェ の 激 変 説 (1812 年 )
るとともに、山脈は地下からの推し上げ運動を主力として形成され
も 、 C . ラ イ エ ル の ハ ッ ト ン 説 を 拡 張 し た 地 質 学 原 理 (1830 年 )で
るといい、また、自国地質図を完成させたフランスのE.ボーモン
打破され、大地は変動を繰り返しつつ発達するものであるというこ
( 1798-1874) は 、 ア ル プ ス の よ う な 大 規 模 な 平 行 山 脈 は 、 火 成 作
とが、しだいに明確になってきた。そして、この間に、エジンバラ
用などではなく、デカルトやライプニツのいう地球の収縮による激
の 教 授 J . ホ ー ル ( 1762-1831) は 、 巧 妙 な 模 型 で 、 岩 石 層 が 側 圧
変的押し上げによるものであるとし(『山脈についての覚え書き』
に よ っ て 褶 曲 す る 様 を 実 験 的 に 示 し (『 地 層 の 変 動 と そ の 花 崗 岩 と
1852 年 ) 、こ の 頃 、 漸 変 激 変 の 違 い こ そ あ れ 、 山 脈 は 地 球 の 冷 却 に
の 関 係 』 1812 年 )、 A . ヴ ェ ル ナ ー の 忠 実 な 弟 子 プ ロ シ ア の L . ブ
よる圧縮(内的作用)のはたらきで、できるものであるという考え
ッ ク ( 1774-1852 ) は 、 ド イ ツ 最 初 の 地 質 図 を 作 成 す る と と も に
方が定着していく時代であった。
( 1824 年 ) 、ア ル プ ス 等 の 成 因 に つ い て は 、 こ れ は 地 下 か ら 上 昇 さ
一 方 、 カ ナ ダ の 地 質 学 者 W . ロ ー ガ ン ( 1798-1875) は 、 カ ナ ダ
せられたものと見る外ないといい、また、火山の成因についても、
に広がる特徴的な岩石層(ローレンシアと命名)の研究から、これ
イ ギ リ ス の P . ス ク ロ ー プ ( 1797-1835) が 、 地 下 か ら 繰 り 返 し 噴
は北米大陸の核を構成する岩石であるとして、はじめて大陸核の概
出した物質が堆積したものであるとした(成層説)に対し、地下物
念 を 導 入 し (『 カ ナ ダ の 地 質 』 1865 年 )、ま た 、 北 米 東 岸 ア パ ラ チ ア
質が押し上げられてできたものであるという隆起説をとった。しか
か ら 中 部 平 原 に 広 が る 堆 積 層 を 追 求 し た J . ホ ー ル ( 1811-1892)
し 、 同 じ イ ギ リ ス の 天 文 学 者 W . ハ ー シ ェ ル ( 1738-1822) は 、 地
は、それがすべて浅海性のものである事実から、その成因について
層の隆起について、これは海底に運ばれ堆積した物質の大質量によ
考察し、これは堆積物の供給分だけずつ海底沈下が続いて、厚い地
って、その周辺地盤が押し上げられる結果によるものであるという、
層が形成された後、これに火成、変成、それに褶曲作用がはたらい
全く別な見方に立つ見解を出し、また、北米アパラチア山脈の構造
て、造山帯に転化することによって生ずるものであり、アパラチア
を研究し、アメリカの地質学をヨーロッパの水準にまで高めた、ロ
で は そ れ が 4000f に も 達 し て い る と し た 。 そ し て 、こ う し た 厚 層 堆
ジ ャ ー ス 兄 弟 ( 兄 W . B . 1805- 1881、 弟 H . D . 1809- 1866) 、
積の向斜構造(シンクライン)は、同じ大陸縁でも、ある特定の場
J . ホ ー ル ( 1811-1892) ( 前 出 、 実 験 地 質 学 の 父 の J . ホ ー ル と
所だけにあらわれるものであるとする、きわめて注目すべき新見解
は別人)らはヨーロッパ学者の考えに批判的で、とくにロジャース
を 示 し (1859 年 )、そ の 共 同 研 究 者 で 地 質 鉱 物 学 者 J . デ ー ナ ( 1813
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- 1895) は 、 こ う し た 向 斜 、 背 斜 構 造 の 複 合 す る 地 球 上 の 大 構 造 に
明 治 16 年 、 1878 年 ) 。
対 し 、 あ た ら し く 地 向 斜 (ゲ オ シ ン ク ラ イ ン )の 名 を 与 え (1873 年 )、
アルプスの研究で平行する連嶺は、一般に地球の冷却収縮による
大陸は大陸縁に発達する地向斜が大山脈に転化し、順次外方に向っ
切線方向の横圧力による圧縮とみられるようになったが、調査や研
て発達するという(しかし海盆は不変とした)、新しい造山論の体
究が進むにつれて、すべての褶曲を地殻の水平転位によるものとす
系を生んだ。
るには、かなりの無理があることがわかってきた。というのは、A.
とくに、その分析をはじめ試みたB.ストーデルは『西部スイス
ハイムがアルプスで初めて2分の1程度と推測していたものが、大
ア ル プ ス の 研 究 』 (1824 年 )を は じ め 協 力 者 A . E . リ ン ツ を 得 て 、
規模な推し被せ構造(堆被褶曲)等が発見されてそれは4分の1か
スイスの地質図と説明書を出し、山脈形成の主力は下からの推しあ
ら、ところによっては8分の1にも達することがわかり、そうした
げ 運 動 で あ る と し た に 対 し 、 A . ハ イ ム ( 1847~ 1907) と そ の 一 派
圧縮を起こす地球の有動収縮量は、例えばE.カイゼルの計算によ
は、アルプスに横臥褶曲、衡上地塊、推し被せ構造等を発見すると
る と 、 ご く 短 期 間 に 2400℃ の 地 温 低 下 が (熱 損 が )必 要 で あ っ た こ
ともに、こうした連こうする大山脈の連嶺は、すべて地殻の大規模
と に な り 、 ま た 、褶 曲 は 大 円 上 均 等 に 起 こ る べ き と こ ろ 、 特 定 の 場
な褶曲による産物であり、その原動は地殻の圧縮による横圧力によ
所に偏った事実の説明も困難なものとなった。そこでイギリスのW.
るものであり、今問題となっている若い岩層の上へ、古い岩層が来
L.グリーンは「地球の大陸や半島の南端の輪画がピラミッド形を
ている特異な現象(横臥褶曲、衡上地塊、推し被せ等)も、その褶
する原因」とか「融けた地球の痕跡」とかを出したについで、地殻
曲作用が極度に進行した結果生じたものであると論じ(『山脈の形
は液状の核の上に浮いており、地球が自由空間で最小表面積をとれ
成 に 関 す る 研 究 』 1875 年 ) 、 こ う し た 解 釈 の 方 向 は 、 そ の 後 、 パ
ば、必然的に四角体になるはずであり、現在見る各大陸南端のピラ
ル ツ ェ ル 、ペ ル ト ラ ン ド 等 を 経 、 E . ア ル ガ ン (『 西 部 ア ル プ ス に つ
ミ ッ ド 形 と ん が り は 、 そ の 四 面 体 の 稜 に あ た る も の だ と し (地 球 四
い て 』 1916 年 )や 、 F . ヘ リ ッ チ ( 東 部 ア ル プ ス の 研 究 ) に い た っ
面 体 説 、 1887 年 )、 フ ラ ン ス の ラ ル マ ン も こ れ を 一 部 補 足 し て 、 地
て大成され、全アルプスの発達史が編まれることになった。そして、
球形体の謎証明に新しい視点を示したが、奇抜な着想というに止ま
これがいわゆる造山論の出発点となり、その後世界の大山脈は、地
り 、 そ の 頃 熱 力 学 の 基 礎 を 確 立 し た イ ギ リ ス の L . ケ ル ビ ン (1824
球の冷却収縮による大地の褶であるという解釈が一般化することに
- 1907)が 、 地 球 は 冷 却 し つ つ あ る 天 体 で 、 そ れ が 今 日 の よ う な 地
なり、同時に褶曲山脈存在の事実は地球の収縮を裏づけるものであ
下増温率になるには、億を単位とする年数が必要であったと推計す
るという、本末てん倒の判断をさえ生むことになった(収縮説を日
るにおよんで、いくつかの問題を含みながらも、しばらくは褶曲山
本へ紹介したものに、坂本太郎著『地層の褶起の説』などがある、
脈は地球の冷却収縮による、地殻の接線方向の圧縮による産物であ
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近世の自然観、大地観
ると解されることになった。そして、このアルプスで達成されつつ
あ る こ と を 発 見 し て 、い わ ゆ る 侵 食 輪 廻 の 理 論 を 樹 立 し (『 地 形 学 』
あった構造論を、ボヘミア、ウイン盆地(始生代、古生代の地層)、
1899 年 )、 同 じ く G . K . ギ ル パ ー ト ( 1843-1918) は 、 北 ア メ リ
アルプス(新期褶曲層)等の研究で確かめた、オーストラリアの著
カ大盆地の地帯構造の研究等から、地殻運動をその起こり方の緩急
名 な 地 質 学 者 E . ジ ュ ー ス ( 1831-1914) は 、 こ れ を 世 界 的 規 模 に
で区別し、褶曲を伴うような急激なものを造山運動、広大な地球に
適 用 、 1883 年 か ら 20 余 年 の 歳 月 を 費 や し 、 地 球 外 殻 の 運 動 ( 洪 水 、
緩 慢 に 起 こ る も の を 造 陸 運 動 と し た ( 1890 年 ) 。
地震、変位、火山、その他の運動)、地球の各山脈、地球の各海洋、
そ し て 、 地 球 収 縮 説 は 、 19 世 紀 後 半 以 降 の 大 地 観 の 主 流 と な り 、
主要地形の構造、地質、火山脈の配列成因等を、膨大な資料によっ
地質現象の多くが、この理論で解釈されるようになったが、一方、
て徹底的に追求し、地球は溶融体から徐々に冷却固化収縮してでき
それがふくむ大きい矛盾や限界の問題もあり、そうしたものを克服
たものであり、その過程で比重の軽い岩石が地表に移動し、そこに
する新しい造山論の探究が、より根本的な造陸運動の解明の中で進
花崗岩質火成岩と変成岩の一部の堆積岩から成るサルが生じ、その
められていった。そして、その中には、前述したW.L.グリーン
下に玄武岩、ハンレイ岩、カンラン岩等のシマの層、中心部は鉄、
の 地 球 四 面 体 説 を は じ め (1887 年 )、 陸 地 や 海 洋 は 地 球 の 初 源 以 来 、
ニッケル等を主成分とするニフェから成っている。そして地表には
分かれてあったものであったとする「海洋恒存説」、また、古生物、
収縮によって褶を生じ、押し上げられたところは、山脈、押し下げ
古気候、古代地質の分布関係から、現在の大陸間には、かつて地峡
られたところは海洋断層、地畳として残ったところは陸となり、陸
でつながる広範な連続があったとする、いわゆる「陸橋説」等があ
と海は時々交替するという、いわゆる収縮的大地観を大成した。
り、地質学の中心課題は、地殻の褶曲、隆起といった狭義の造山論
(『 地 球 の 相 貌 』 5 巻 1883-1902、 外 気 要 の 論 文 )、 も ち ろ ん 彼 の 理
ではなく、広く地表大形体成図解明という、地質学の最終段階に入
論には時間的、発展的考察に欠けるきらいはあるが、しかしその中
ってきた。(第四節以降に詳説)。
もちろん、こうした地質学をはじめ自然科学一般の急速な進歩は、
には褶曲の特性、対曲、褶曲による地殻の硬化、楯状地、ゴンドワ
ナ大陸、チテス海、カレドニア造山帯、アルモリカン山脈、海岸の
世界が産業革命期から資本主義、帝国主義の時代へ転化発展する過
類型、断層地震、環太平洋山脈、同火山帯、海進海退をおこす海水
程の必要の要求として行われたものであり、それによって、まず地
面運動(エウスタティック)、地球の殻層(ニフェ、シマ、サル)
球表面の探険調査も、最後まで残っていた。アフリカ、オーストラ
等々、今日の地質学理論にも不可欠の重要概念や用語を多数残して、
リア、南米、中国奥地、中央アジアについで、南北極地まですべて
不滅の成果を止め、またこの頃、アメリカの地質学者W.デーピス
終り、物質についても新元素の発見が相つぎ、その中で放射性元素
( 1850-1934) は 、 外 的 作 用 に よ る 地 形 の 変 化 に 、 ひ と つ の 秩 序 の
も 発 見 (キ ュ リ ー 夫 妻 、 1902 年 )、つ い で そ の 崩 壊 現 象 ( 壊 変 現 象 )
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近世の自然観、大地観
の解明から(E.ラザホード等)、元素を構成する電子、陽子等々
今日では地上最古の岩石とされる先カンブリア系変成岩(片麻岩)
の 発 見 と な り ( 特 に 素 粒 子 に 統 合 ) 、 そ こ に 量 子 論 が 生 ま れ (M .
の 年 齢 は 、 1960 年 代 カ ナ ダ で 発 見 さ れ た 30 億 年 余 と い う も の か ら 、
プ ラ ン ク 1900 年)、 物 質 が 原 子 模 型 で と ら え ら れ る よ う に な り ( 長
1970 年 代 に は グ リ ー ン ラ ン ド 南 西 部 の 変 成 岩 の 37.5 億 年 と い う も
岡半太郎、J.T.タムソン、ラザフォード、N.ボアー)量子力
の ま で 発 見 さ れ て お り 、し た が っ て 地 球 の 誕 生 は (地 球 が 地 球 た る 状
学に結晶(P.ディラック、ニュートンの力学に比せられる)、電
態 に 達 し た と き )、 当 然 そ れ に 何 億 年 か を 加 算 し た 過 去 で あ る は ず
磁気学の発達によって場の理論が生まれ、やがて時間、空間、速度
で あ り 、ア メ リ カ の C . パ タ ー ソ ン は 、1957 年 鉛 の 同 位 体 研 究 か ら 、
等、宇宙の要素を統一的にとらえる、いわゆる相対性理論が生まれ
地 球 の 年 齢 45~ 46 億 年 と 推 定 、 こ れ は 地 球 に 落 ち て く る 隕 石 の 年
( A . ア イ ン シ ュ タ イ ン 、1879-1955 年 ) 、物 質 観 、 運 動 観 、 宇 宙 観
齢 (46 億 年 )や 月 面 で 採 取 さ れ た 岩 石 の 年 齢 と 、 か な り よ く 一 致 す
を一変、さらに生物進化の問題についても、自然は飛躍せず(G.
るものとされている。
ビュッフォンの言葉)として樹立したC.ダーウィンの自然淘汰説
に 対 し て 、 突 然 変 異 の 説 が 生 ま れ (H . ド ・ フ リ ー ス 、1901 年 )、 し
かも生物の個体の発生の過程は、その生物の系統発生過程を繰り返
すのであると見られるようになり(E.ヘッケル等)、太陽系の成
因についても、新しく微惑星説(R.チェンバリン、F.モールト
レ 、 1900 年 ) 、捕 獲 説 ( ア メ リ カ の T . J . J シ ー 、 ソ 連 の フ ェ セ
シコフ、ソ連のO.シュミットら)等の諸説があらわれた。
そ し て 、地 球 の 年 齢 に つ い て も 、今 世 紀 初 頭 の 放 射 性 元 素 壊 変 (崩
壊 )の 規 則 性 ( 一 定 の 速 さ で 進 行 す る ― 半 減 期 ) 発 見 に よ っ て 、 そ
のアイソトープ(同位元素)蓄積量の測定によって、それを含む岩
石の絶対年数が得られることになり(同位体年代学、A.ホームズ
の 着 想 ) (G . ビ ュ ッ フ ォ ン 、 L . チ ル ビ ン 等 の 熱 学 的 方 法 、 C .
ラ イ エ ル の 地 質 学 的 方 法 に か わ っ て )、「 ウ ラ ン 鉛 法 」 「 ウ ラ ン ― ヘ
リウム法」等についで、「カリウム―アルゴン法」「ルビジューム
― 69 ―
― ス ト ロ ン チ ュ ー ム 法 」 等 々 が 開 発 さ れ (1990 年 代 に 技 術 的 完 成 )、
ホームページトップ:http://kama.3zoku.com/y_tosyo.htm
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