[書評] 石川禎浩著 『中国共産党成立史』 高橋伸夫 本書は、著者の石川氏が序章において述べ るように、「時間にしてわずか二年ほど、関 もの 第一章 中国におけるマルクス主義受容 係者の数にして百人に満たない歴史事象の研 第一節 五四時期中国における新思潮 究」である。中国共産党成立の背景について 第二節 北京におけるマルクス主義の はすでに膨大な量の研究蓄積があり、とりわ け中国においては「中共成立史研究」は極度 伝播 第三節 に細分化され、あらゆる関係者の足跡、事柄 の日時、場所などについて考証が加えられて 伝播 第四節 ボリシェヴィキ文献の伝播 ―新たなる外来知の登場 いる。だが、著者によれば、それら膨大な研 究がかえって安易な相互参照を招き、推測の 上海におけるマルクス主義の 第二章 ソビエト・ロシア、コミンテルン と中国共産主義運動 上に推測を重ねる傾向が存在しており、その 結果、党成立の過程には未解明の問題がなお 第一節 知られざる「密使」たち 多く残されているのである。そう考える彼は、 第二節 ヴォイチンスキーの活動 多くの研究者が踏みならした道をもう一度仔 第三節 中国「ニセ」共産党始末 細に点検しながら歩く決意を固めたのであっ 第三章 中国共産党結成への歩み た。その際、石川氏の基本的な姿勢は、東ア 第一節 上海における共産党結成運動 ジアにおけるマルクス・レーニン主義、およ 第二節 中国各地の共産主義グループ びそれに基づく運動の伝播の大きな流れのな 第三節 中国共産党の成立―「中国共 かに中国共産党の成立という事象を置き直し 産党宣言」と「コミンテルン宛 てみるということである。いきおい、それは の報告」 党成立に際して、国際的契機の果たした役割 を重視する姿勢となって現れる。 本書の構成は以下の通りである(節以下の 項目については、紙幅の関係で省略した) 。 序章 中国共産党第一回全国代表大会 第一節 党大会開催の準備 第二節 党大会の開催 第三節 若き党員たち―留日学生施存 統の軌跡 第一節 上海の芥川龍之介と中国共産主 義者の面談 第二節 中国共産党成立をうながした 106 第四章 * 第一章において、石川氏は五四時期にマル クス主義がいかに中国に送り届けられたかと アジア研究 Vol. 47, No. 3, July 2001 いう「古典的」問題をあらためて俎上に載せ の系統に一本化されることになるのだが、ヴォイ ている。当時の中国知識人はマルクス主義学 チンスキーが派遣されたのはそれ以前のことであ 説に対して大きな期待を抱きながら、実際に った)。ソビエト・ロシアの極東政策の不統 それを学ぶに際しては、言語の面でも文献の 一は、陳独秀らの共産党とは別の、しかしや 入手の面でも大きな困難に直面していた。こ はりモスクワにつながるもうひとつの「中国 の困難の解決は、著者によれば、日本におけ 共産党」― 学生運動家の姚作賓らによる るマルクス主義研究の動向をつぶさに観察し 「大同党」―を生み出したのであった。興 ていた中国人留学生およびジャーナリストに 味深いことに、1921 年半ば、コミンテルン よる紹介と解説によっていたのである。石川 第三回大会めがけて、モスクワには中国から 氏のみるところ、李大 の受容したマルクス いくつかの「共産党」がつめかけ、コミンテ 主義とは、河上肇や福田徳三によって解釈さ ルンのお墨付きを得ようと争っていたらしい れ、そのうえで若干の疑問点をつけられ、そ のである。その結果、陳独秀の共産党は、何 してジャーナリスト陳溥賢によって李のもと の闘争も経ずに「共産党」の名称を独占する にもたらされたものにほかならない。陳望道 ことができなくなった。著者は、朝鮮やベト 訳の『共産党宣言』(1920 年)の底本となっ ナムなど別の地域で、共産主義者―あるい たのは、戴季陶が陳に渡した幸徳秋水と堺利 は共産主義者を自称する人々―が単一の組 彦による日本語訳のテキストであった。した 織として姿を現すまでに経験した紆余曲折 がって、中国におけるマルクス主義の伝播は、 を、その程度は別として、中国もまた免れな 大正デモクラシー期の日本社会主義運動の かったことを示している。 「横溢」として理解しうるというのである。 第三章は中国共産党に先行する共産主義者 だが、著者によれば、1920 年秋以降は、雑 の諸組織の検討にあてられている。われわれ 誌『新青年』の変化が示すように、それまで は普通、組織としての中国共産党の誕生につ の日本語の文献に加えて、アメリカのマルク いて、上海共産主義小組から中国共産党へと ス主義研究の文献が中国の共産主義運動を理 いう単純な発展図式を思い描く。だが、実際 論的に支えていくことになる。 には中国共産党の母体となる(諸)組織に対 第二章では、ソビエト・ロシアの中国に対 し、さまざまな記録がさまざまな名称を用い する錯綜した働きかけが扱われている。石川 ており、「系図」を明確にする必要があるの 氏によれば、1920 年代初めのソビエト・ロ である。石川氏の整理によれば、上海の共産 シアの対中国工作は、党、政府、コミンテル 主義小組は、ヴォイチンスキーの上海到着後、 ンの諸系統が入り乱れ、一貫したものではな 陳独秀を中心とする『新青年』同人が、 かった。各機関が相互の調整を欠いたまま使 1920 年 5 月頃から「社会主義研究社」とし 者を送ったため、われわれがよく知るヴォイ て活動を始めたもので、6 月にいったん「社 チンスキー以外に何人ものロシア人が中国で 会共産党」という名称を採用し (ヴォイチン 活動していたのであった ( 1921 年 1 月、コミ スキーの用語法では「革命ビューロー」となる)、 ンテルン執行委員会極東書記局がイルクーツクに 8 月には広範に社会主義者を取り込むために 設置されることにより、対中工作はコミンテルン 「社会主義青年団」(これによって多くの無政府 書評/石川禎浩著『中国共産党成立史』 107 主義者との協力が可能となった)を併設して勢 いうものである。すなわち、前者は「アメリ 力の拡張を図り、そして 11 月に「中国共産 カ共産党綱領」、後者は「アメリカ共産党宣 党宣言」を発表して、翌年の党の結成に向け 言」を手本にしていたというのである。この た歩みを確かなものにしたのである。 指摘には、恐らく誰もが虚をつかれた思いを 北京、広州、武漢、長沙、済南など上海以 するであろうが、彼のいうように、共産党お 外の共産主義グループの実態はいかなるもの よびその党大会がいかなるものか、当時知る であったか。われわれがすでにいくらかは知 由もなかった中国の共産主義者が、すでに党 っている共産主義者と無政府主義者の混在と を樹立していた欧米の共産党のやり方を模倣 いう状況は、著者の検討によれば、社会主義 したとしても、無理からぬことであった。 の理論に関する理解の未熟さを別にすれば、 この章の最後には、全体の構成からしてい 共産主義者と無政府主義者の区別に無頓着な ささか座りが悪いのだが、第一回党大会に出 ロシア人の態度によっても促されたのであっ 席した施存統と日本のつながりに関する論考 た。従来、無政府主義者との関係は、中国共 が加えられている。石川氏によれば、当初は 産党第一回大会に先立つ 1921 年 3 月に開催 無政府主義に傾いていた留日学生施存統をマ された「中共 3 月会議」によって清算された ルクス主義の信奉者へと転換させたのは、マ との説が存在したが、石川氏のみるところ、 ルクスの「ゴータ綱領批判」に拠って労農独 「中共 3 月会議」は張太雷がコミンテルン第 裁の正統性を指摘した山川均、河上肇の諸論 三回大会に出席する際、競合する他の中国 文であった。「ゴータ綱領批判」を媒介にし 「共産党」との正統性獲得をかけた争いに勝 て無政府主義の理想とマルクス・レーニン主 ち抜くために考え出された架空の会議なので 義を和解させようという試みは、日本の社会 ある。 主義者にも共通するものであった。著者はこ 第四章では中国共産党第一回全国代表大会 のような施存統の知的軌跡を、当時の中国に の準備から開催までが扱われている。この大 おける急進的青年の「典型」であるとして、 会は、ヴォイチンスキーに代わって上海に派 中国に対する社会主義の伝播が、日本の社会 遣されたマーリンらの督促によって招集され 主義運動の展開と切り離して考えられないと た。大会開催の通知を受け取った各地の代表 いう点を最後に再び強調してみせるのであ たちは、 6 月末から上海に向かい始め (コミ る。 ンテルンから支給された旅費で!)、7 月初めか 巻末には、付録として、1919 年より 22 年 ら上海に揃い始めた。かくして、毛沢東を含 までに中国国内で発表された社会主義関連論 む 13 名の代表を集めて 7 月 23 日から歴史的 文のうち、日本語より翻訳されたもの(ある な会議が開催されるのだが、著者は従来議論 いは日本語文献を多く引用して書かれたもの) を の分かれていた大会閉幕日の日付を7月 31 示した「日中社会主義文献翻訳対照表」、お 日とみるべきだとしている。だが、この章の よび 1919 年から 23 年までに中国で刊行され もっとも興味深い指摘は、第一回大会が採択 た社会主義関連書籍の解題が添えられてお した二つの文書、「中国共産党綱領」と「中 り、工具書としても利用できるようになって 国共産党目前政策」にはモデルが存在したと いる。 108 アジア研究 Vol. 47, No. 3, July 2001 * の変化や、彼らと農村エリートによる集合的 以上のような要約では―あるいはどう要 行動のダイナミズムなどの再構成に向かって 約しても―本書の内容を十分に伝えたとは いるとき、著者は「下からの歴史」などには いいがたい。というのも、石川氏が最も心血 目もくれず、エリートの知的世界や、彼らの を注いだのは、およそ要約にはなじまない細 間の交渉に関する具体的事実の究明に没頭す かい点の考証だからである。本書は一貫した るのである。本書は中国革命に関してこのよ ひとつの全体計画のもとに進められた体系だ うなアプローチで書かれた最後の書物になる った研究というより、極点から極点へと自由 かもしれない。 に視点を移動しつつ行われた研究の蓄積の産 記述の「細かさ」とアプローチの「古さ」 物であるようにみえる。彼は、疑問が湧くと がいかに際立っていようとも、本書が全体と 微細な点に至るまで徹底的に調べあげなけれ して発するメッセージははっきりしている。 ば気のすまぬ性格であるらしい。石川氏の考 それは中国共産党の成立に際して、思想的に 証は、回想録における思い違いの指摘から、 も、物質的にも、金銭的にも、外部世界が果 雑誌の特定の号の出版日時、人物が特定の場 たした役割がいかに決定的なものであったか 所に到着した日時、さらにはある人物が乗っ ということである。このメッセージは、綿密 た船の出航日の特定にまで及ぶ。こうした著 な考証に裏付けられているだけに、自身がい 者の個人的な志向が、大筋は定まっていても、 かに中国独自の社会的・経済的文脈から誕生 微細な点において多くの考察の余地を残すテ したかを印象付けようと腐心する中国共産党 ーマを見出した結果生まれたのが本書なので の努力に対する、ほとんど致命的なまでの一 ある。綿密な考証の基礎をなしているのは、 撃となっている。 広範な文献の渉猟―中国語の文献はもちろ 本書に対するありうる批判は、石川氏が外 ん、日本の外交史料館所蔵の資料、ロシア語 部世界からの諸入力だけを強調して、中国共 文献など望みうる限りの文書が利用されてい 産党が芽生え、やがてそこに根を下ろすこと る―であるが、それだけではない。中国の になった中国の社会・経済的な文脈を無視し 研究者が多用してきた当事者の回想録の批判 ているというものであろう。著者がそのよう 的吟味が考証の密度を高めることに役立って な分析は自分の仕事ではないと考えているの いる。考証の密度は驚嘆すべきもので、何人 か、それとも中国共産党成立に関する社会・ も追随することは不可能と思われるほどであ 経済的諸条件の分析はほとんど意味がないと る(あるいは、誰もこれ以上細部に分け入る必要 考えているのかはわからない (第一章第一節 性を感じることはないであろう) 。 には、五四時期の新思想を中国各地に運んだ活字 細部への執着とともに、本書の特徴をなす メディアの発展に関する短いが興味深い考察があ のは、古典的ともいうべき狭い意味での政治 る。もし、このテーマを十分に展開することがで 史のアプローチが採用されていることであ きれば、異なる角度からの「中国共産党成立史」 る。ここには「新しい歴史学」のいかなる痕 を書くことが可能かもしれない) 。いずれにせよ、 跡も認められない。いまや多くの研究者が、 中国共産党の誕生に作用した外在的契機を強 革命に直面した普通の農民の経験や、世界観 調すればするほど、次の仕事として、なぜそ 書評/石川禎浩著『中国共産党成立史』 109 のような組織が中国に根を下ろし、成長する 快なものに映るであろう。とりわけ、党成立 ことが可能であったかに関する社会・経済的 時の日本からの知的影響の大きさや、アメリ 文脈の分析の必要性が浮かび上がるであろ カ共産党の綱領の影響などに関する指摘は、 う。 中国共産党をいらだたせるに違いない。だが、 折しも、中国では中国共産党生誕 80 周年 石川氏は、これ以上はないと思われる考証に を記念する祝賀行事が盛大に行われている。 よって、「実事求是」の精神を当の中国共産 本書の内容は、いかに中国共産党が中国独自 党に突き返しているのである。 の文脈から、中国人自身の努力によって、し かし歴史の必然によって「自然に」誕生した かを強調したい中国共産党にとっては、不愉 110 (岩波書店、2001 年 4 月、A5 判、xii + 529 + 17 ページ、定価 6,000 円[本体]) (たかはし・のぶお 慶應義塾大学法学部) アジア研究 Vol. 47, No. 3, July 2001
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