「大同生命保険所蔵文書の研究・公表」中間報告

平成24年6月28日
各
位
大同生命保険株式会社
代表取締役社長 喜田 哲弘
< 大同生命創業110周年記念事業 >
「 大同生命保険所蔵文書の研究・公表
」
中 間 報 告
T&D保険グループの大同生命保険株式会社(社長 喜田 哲弘)には、当社の礎を築いた大坂
の豪商「加島屋(広岡家)」より伝わる文書を含む約2,500点の歴史的文書が保存されてい
ます。「創業110周年記念事業」の一環として、創業の地である大阪の経済史・経営史研究に
貢献するとともに、当社に対する理解を深めていただくための取組みのひとつとして、その文書
を国立大学法人大阪大学経済学研究科に寄託、同校および研究者により文書を解読する研究プロ
ジェクトを行っており、研究成果の中間報告をさせていただきます。
中間報告の内容は、次ページ以降をご参照ください。
ご協力いただいている主な研究者(順不同)
沢井 実 教授(大阪大学大学院 経済学研究科)
高槻 泰郎 講師(神戸大学 経済経営研究所)
結城 武延 助教(秀明大学 総合経営学部)
大同生命保険所蔵文書
当社で保存されている文書には、世界初の先物市場として
名高い「大坂米市場」の取引実態を示す史料をはじめ、江戸
時代に日本経済の中心地であった大坂で屈指の豪商加島屋
が行っていた事業のさまざまな記録等、貴重な史料が数多く
含まれています。
加島屋(広岡家)と大同生命の関係
加島屋は、初代の広岡久右衛門正教が大坂の地で寛永2年
(1625年)に精米業として創業したと言われています。
その後、両替商を営み、大坂屈指の豪商として大いに繁盛しま
した。明治35年(1902年)に加島屋が中心となり、京都
の朝日生命(現在の朝日生命とは別の会社)、東京の護国生命
および北海道の北海生命の3社が合併、社名を大同生命として
創業し、9代目の広岡久右衛門正秋が初代社長となりました。
なお、大同生命の社名は「小異を捨てて大同につく」に由来し
ています。
現在でも、大同生命の大阪本社ビルは江戸期の加島屋本家の跡
地に立地しています。
<お問合せ先> 広報部(大阪) TEL 06-6447-6258
~中間報告の概要(詳細は別紙をご覧ください)~
中間報告は高槻先生と結城先生に行っていただきます。
高槻先生は江戸時代の経済政策を研究されており、今般の中間報告においては「御用
日記」および「御用金二十万両之控」についての研究結果を報告されています。「御用
日記」については、幕府の金融市場統制策に関する幕府と加島屋等両替商とのやりとり
から、米市場の信用維持に両替商の果たしていた役割を、「御用金二十万両之控」から
は、米市場への資金供給(入替両替)による米価統制機能を明確にされました。今後も
加島屋のビジネス実態を通じて、米を中心とする当時の経済の仕組み・実態について明
らかになることが期待されます。
結城先生は大同生命の創立から戦後直後までの48年に及ぶ「株主総会議事録」をひ
もとき、近代日本の経営者(広岡恵三)が、CSRをはじめとする現代の経済学におい
て研究されつつある、広義の企業統治問題(株主だけでなく会社の利害関係者すべての
利益を考慮する経営)をどのように意識し対処していったのかを考察されます。
別
紙
「大同生命保険所蔵文書の研究・公表」中間報告
江戸幕府の経済政策と加島屋
神戸大学経済経営研究所
高槻泰郎
中間報告の概要
大同生命保険株式会社創業 110 周年記念事業の一環として,大阪大学経済史・経営史資
料室に寄託された「大同生命保険所蔵文書」約 2500 点の内,江戸時代に作成された史料(約
400 点)の中から,江戸幕府の経済政策に関する史料を特に取り上げ,これまでに明らかに
なった内容を整理・紹介する.
「大同生命保険所蔵文書」は,2002 年に大阪市史編纂所によって電子目録の作成,およ
びマイクロフィルムによる一部資料の撮影が行われ,この度,創業 110 周年記念事業の一
環として結成された研究プロジェクトチームがこれを引き継ぐ形で,整理・解析を進めて
いる.
本日取り上げる政策と史料は,①明和 9 年(1772)の金融市場統制策,
「御用日記」
,②
文化 7 年(1810)の米価浮揚政策,
「御用金二十万両之控」の 2 点であり,いずれも江戸幕
府の経済政策に加島屋久右衛門が深く関わっていたことを示す史料である.
1.加島屋久右衛門の略歴
播磨国川辺郡東難波村(現兵庫県尼崎市),広岡九郎兵衛(1544-1643,冨永,西念)の
二男・広岡富政(1603-1680,教西)が,寛永年間(1624-1643)に大坂玉水町に分家し,
加島屋久右衛門を名乗ったことが知られる1.4 代久右衛門(吉信,1689-1765)は,宝暦
11 年(1761)の大坂御用金において,鴻池屋善右衛門,三井八郎右衛門と並び,筆頭の 5
万両を幕府に納付していることが分かっており2,加島屋久右衛門が 18 世紀中葉には,大坂
金融界の中心的な存在となっていたことが分かる.
2.加島屋久右衛門の経営
加島屋久右衛門(以下,加久)の経営は,2 つの柱によって構成される.第一に大名貸で
ある.加久は,萩藩をはじめとする全国各地の大名,旗本,時には幕府に対して融資を行
っていた.大名貸研究の先駆者である森泰博によれば,明和 7 年(1770),萩藩は加久を「大
坂蔵屋敷留守居格」に任じ,金融商人との借銀交渉に先立って藩側の相談に加わらせ,用
談には藩側の一人として出席させていたとされる3.加久は,少額の融資なら一手に引き受
け,多額の場合にはシンジケートローンを斡旋していた.現代で言う,メインバンクの機
能を果たしていたのである.
1「広岡系図」
,「〔広岡家由緒并に御褒美頂戴の儀書上〕」.
2「
〔広岡家由緒并に御褒美頂戴の儀書上〕」.
3森泰博『大名金融史論』大原新生社,1970
年.
1
いれかえ
第二の柱は両替業務,とりわけ入替両替と呼ばれる,米切手(後述)を担保に預かる貸
付業務である.これは米仲買に対して投資資金を提供するものであり,全国から寄せられ
る米を取り扱った大坂米市場を金融的に支える機能を果たしたと考えられている.
以上の事実は藩側の史料,その他の傍証史料から把握されてきたが,今回の史料公開に
よって,より具体的に加久の果たした役割が解明できると期待される.以下,現段階で明
らかになった内容を紹介する.
3.大坂米/金融市場の構造
図.大坂米/金融市場の概略図
出典)高槻泰郎『近世米市場の形成と展開―幕府司法と堂島米会所の発展―』名古屋大学
出版会,2012 年.
周知の通り,江戸時代の大名は米納年貢制に基づいて,貢租を米で徴収し,それを大坂
などの市場へ廻送して現金化し,財政支出に宛てていた.この内,最大の市場が大坂米市
場であり,大坂には諸大名が貢租米の保管倉庫,兼,米の販売機関として設置した蔵屋敷
が多数設けられていた.
蔵屋敷では入札によって米仲買に貢租米を売却し,落札した米仲買は現銀を納付して
(①),米切手を受け取る(②).米切手とは,1 枚当たり 10 石の米との兌換を約束した証
券であり,蔵屋敷毎に発行されるものであったが,いずれの大名が発行した米切手であっ
ても,米 10 石で統一されていた.
米仲買は多くの場合,その米切手を直ちに米と交換せず,堂島米会所という第二次市場
2
に転売するか,あるいは実需家に転売した(③).米切手は,落札した米仲買本人に限らず,
持参人一覧払いの形で米と交換されたため,米仲買から米切手を買い取った実需家は,そ
れを蔵屋敷に提示することで(⑦)
,蔵米を引き出すことができた(⑧).
このように,大坂米市場における米取引とは,米現物(米俵)をやりとりするのではな
く,米切手という証券を売買する市場であった.そして全ての米切手が,直ちに米との交
換を請求されるわけではないという点を利用して,大名達は実際に在庫している米の量以
上に米切手を発行することを常とした.大名が兌換請求に応じられている限りは,たとえ
どれだけ在庫量を上回って米切手が発行されていても,米切手は問題なく取引されたが,
ひとたび信用不安が囁かれれば,当該大名が発行した米切手は「空米切手(からまいきっ
て)」と呼ばれ,取り付けの憂き目に遭うことになった.この関係は,金兌換紙幣と金との
関係を連想すれば分かりやすい.
大名の中には,取り付けの危険を認識しつつ,背に腹は代えられぬと,米切手を過剰に
発行する者もあった.市場の安定化を図る幕府にとって,空米切手の問題は大きな悩みの
種であり,後述する通り,加久の資力・知識を借りて,解決の道を探ろうとしていた.
また,大名は,借金の担保として米切手を発行することもあった(④,⑤).あくまでも
担保であるため,借金を返済できている限り,この米切手が市場に流れることはなかった
が,返済が滞った場合には,市場に転売されることもあり得た(⑥)
.財政的に苦しい大名
の米切手が市場に流れる傾向にあったこと,それが当該大名の取り付けリスクを高めるも
のであったことは,改めて指摘するまでもない.
以上のように,米切手は大きく分けて 2 つのルートによって発行されたが,大部分は前
者のルート,すなわち蔵米の入札を経て発行され,その時期は米が廻送される秋に集中し
た.ここで素朴な疑問が生じる.なぜ大坂の米仲買たちは,秋に集中する米を買い支える
ことができたのであろうか.
既存の研究は,この点を明示的に説明してこなかった.一つの理由は,米仲買自身の史
料が残されていなかったためであるが,今ひとつの理由は,米仲買から米切手を担保に預
かって融資を行う入替両替と呼ばれる両替商の活動(⑨,⑩)を明らかにする史料が残さ
れなかったためである.
今回公開された史料の中から,その手がかりを見出すことができる.
4.明和 9 年(1772),滞り切手公銀入替政策
諸大名による米切手の過剰発行に頭を悩ませた幕府は,信用不安が囁かれる米切手を市
場から一掃しようと画策する.その方法は,加久・鴻池屋善右衛門(以下,鴻善)に率先
して信用力の低い米切手を担保として預からせ,米切手所持人に対して低利の融資を行わ
せしめることによって,市場の不安を取り除こうとするものであった.加久・鴻善には公
的資金を低利で貸し付け,彼らはそれを原資に組み入れつつ,米切手所持人に融資を行う
ことで,利鞘を獲得できる構造が企図されていた.
3
この案が実現すれば,信用力の低い米切手は加久・鴻善の手元に集まり,市場で取引さ
れる米切手は全て安全な米切手と認識されるようになるが,加久・鴻善はこの政策を批判
し,幕府側に再考を求めている.この政策の立案から実行に至るまでの経緯を詳細に記録
した史料が「御用日記」である.
まず,彼らは,幕府に対して入替両替の実務内容について説明を行っている.それによ
れば,米切手入替の流れは以下とされる.
① 米仲買は入替両替に米切手 1 枚を預ける(例えば時価 60 匁とする).
② 入替両替は 55 匁(時価から 5 匁下げ)を米仲買に融資(利子付).
③ 米仲買は融資を受けた 55 匁に自己資金 5 匁を足せば,もう 1 枚,米切手を購入できる.
④ さらに 2 枚目の米切手を入替両替に預け,さらにこの作業を繰り返せば,限られた資本
で,より多くの米を買うことができる.
米仲買が毎年秋に集中する貢租米を買い支えることができた理由は明らかであろう.入
替両替が,彼らの買い取った米切手を担保に融資を行っていたからである.この意味で,
入替両替は,大坂米/金融市場の鍵を握る存在だったのであり,その頂点に位置した加久・
鴻善を政策に利用しようと幕府が考えるのは極めて自然なことであった.
しかし,幕府の提案に対して,加久・鴻善は一貫して拒絶している.その反対の論理を
整理すれば以下である.
① 我々に「不埒な切手」の入替を希望する者が殺到する.
② 諸大名が毎年払い下げる米は 150 万俵,銀にして約 4 万貫(約 66 万両)に及ぶのに対
して,投下をお約束頂いている公的資金はわずか千貫(約 1 万 6 千両)に過ぎない.
③ そもそも米切手の信用力は年によって変化するものなので,特定の大名が発行した米切
手を一方的に「不埒」と決めつけることは得策ではない.大名も,最終的には加久・鴻
善が引き受けてくれると知れば,いよいよ米切手を増発するようになるのではないか.
④ 米切手の取引は市場に任せ,いざとなれば,幕府が公的資金によって回収すると「宣言」
するだけでよいのではないか.
米切手を政策的に格付けし,危ない米切手のみを政策的に回収することは土台無理であ
り,信用審査はあくまでも市場に任せるべきである,市場を規律づけるのであれば,アナ
ウンスメントだけで十分ではないか,というのが加久・鴻善の一貫した主張であった.
翌 1773 年,幕府は,
「不埒な切手」が発生した場合は,公的資金によって回収する用意
があることを市場に対して宣言している.ただし,実際に公的資金を投下した形跡は一切
ない.アナウンスメント効果のみに絞った方がよいとする加久・鴻善の意見をそのまま受
け入れたことは明らかである.
4
江戸時代経済の中枢たる大坂米/金融市場に関する重要な政策について,加久がその資
金力と知識を買われていたこと,そして実際に幕府が加久の意見具申を受け入れたことは,
「御用日記」の公開によって初めて明らかになったことである.また,米切手入替の具体
的内容が初めて明らかになったことも大きな成果である.
5.文化 7 年(1810)内々御用金
米切手の信用不安も幕府にとっては大きな悩みの種であったが,より重要であったのは,
米価の動向である.米価が下がれば,財政収入を米現物の収入に依存していた大名・武士
の実質収入は目減りする.逆に米価が上がれば,諸民の生活を圧迫し,打ちこわし等の都
市騒擾に発展しかねない.米価の安定は幕藩体制の維持に関わる重要問題だったのである.
18 世紀中期以降,米価の低落に悩んだ幕府は,たびたび加久ら有力商人に御用金の拠出
を求め,米の買い支え資金に充てることを企図している.御用金とは,幕府,大名が,政
策資金を募るため,赤字財政を補填するために民間から行う借り入れのことで,イメージ
としては現代の国債(公債)発行に近い.18 世紀初頭,8 代将軍徳川吉宗の頃より,民間
からの献策を政策に反映させる,あるいは民間に対して資金拠出を求めるようになる.背
景には幕府財政の悪化があった.御用金は,後述するように米価浮揚や農村復興のための
資金に宛てられた.その募集方法としては,富裕商人を広汎に指定し,役所に呼び出して
指示する場合と,一部商人(大商人)を内々に呼び出して指示する場合とがあった.加久
などの大商人は後者の形で融資依頼を受けることが多かった.
しんだい
御用金は,指定された商人に一律の金額が割り当てられるのではなく,それぞれの身代に
応じて割り当てられたため,その順位付けを見ることにより,幕府側から捉えた商人のラ
ンクが明瞭に観察される.宝暦 11 年(1761)に大坂市中の富裕商人に対して発令した御用
金令を皮切りに,幕府は立て続けに御用金の出金を大坂商人に求めているが,加久と鴻善
は常に筆頭の金額を割り当てられ,実際にこれに応えている.幕府も,加久と鴻善は「格
別之家柄」として,彼らの意見には積極的に耳を傾けている.以下に取り上げる例におい
ても,加久は資金,知識の両面で,大きな役割を期待されている.
米価の下支えを企図した御用金は,現時点で把握されている限り,宝暦 11 年(1761),
文化元年(1804),文化 3 年(1807),文化 7 年(1810),文化 10 年(1813)のものが確
認できるが,以下では,文化 7 年の御用金について,
「御用金二十万両之控」に基づいて紹
介する.
文化 7 年 10 月 3 日,大坂町奉行所は加久ら 12 軒の両替商を呼び出し,年利 3%の条件で,
20 万両の御用金拠出を求める.加久らは,ぜひともお引き受けしたいが,諸大名に貸し付
けた金の返済が滞っており,現金を用意できないとして,半分の 10 万両ならば引き受ける
と回答している.これは加久ら有力両替商が用いる常套文句である.
米価を上昇させるのは,もとより大名も含めた幕藩領主のためであり,現金を用意する
ということは,大名達に貸し付けた金を回収するか,新規の貸し付けを制限することを意
5
味する.大名の資金繰りが悪化しては本末転倒であり,有力両替商の資力に依存する幕府
は,加久らの言い分にも,ある程度譲歩せざるを得ない.
大坂町奉行所は,「江戸表よりの強い意向であることを理解して欲しい」との説得を繰り
返している.加久・鴻善のみが呼び出されて,奉行より直々に協力を求める一幕もある.
有力両替商の中でも両家は別格であったことが示唆される.最終的に,三井八郎右衛門な
ど 2 軒を追加して,合計 14 軒で,19 万 8000 両(米 19 万 8000 石≒2 万 9,700 トンに相当)
の御用金を融資し,これが米(米切手)の買持ち資金に充当される.加久は鴻善と並んで
筆頭の 2 万 6,200 両を融資している.これを原資として幕府は,堂島米会所の頭取である
米方年行司に対して,米切手の買持ちを指示したと考えられる.
同年 11 月には,大坂市中の富裕商人に対しても,総額 60 万石の米(米切手)の買持ち
が命じられているが,はたして米価は上昇したのであろうか.
図.文化 7 年~同 8 年の大坂米価
62
文化7年11月22日
大坂市中に米の買持ちを指示
60
58
56
54
52
50
肥後米
肥後米先物
出典)前掲,高槻[2012].
有力両替商 14 軒(約 20 万石)+大坂市中の富裕商人(約 60 万石)に総額約 80 万石分(≒
12 万トン)もの米(米切手)を買い集めても,米価に反応はなかったのである.この背後
には,いずれは幕府が買い支えを止めるだろうとの大坂市中の期待が蔓延していたことが
知られる.政策資金を民間に依存せざるを得ない,財政的に「小さな政府」であった江戸
幕府には,市場の期待を変化させるほどに徹底した市場介入を実施することはできなかっ
6
たのである.
まとめと今後の展望
「御用日記」,「御用金二十万両之控」により,加久が江戸時代経済の中枢と言うべき大
坂金融市場において,資力,知識の両面で幕府から大きな信頼を寄せられていたことが判
明した.とりわけ,堂島米会所に投資資金を供給する入替両替の機能が初めて具体的に解
明されたことは大きな成果である.
「大同生命保険所蔵文書」には,本日紹介した史料以外にも,大名貸に関係する史料や,
他の御用に関する史料が多数採録されている.幕府・大名・市場の三者の結節点に位置し
た加久の経営史料を読み進めることで,江戸時代経済の全体的な構造を解明する大きな手
がかりが得られると期待している.
以上.
7
「「大同生命保険所蔵文書の研究・公表」中間報告
近代日本における CSR 活動―広岡恵三の経営理念―
秀明大学総合経営学部
結城武延
中間報告の概要
大同生命保険株式会社創業 110 周年記念事業の一環として、大阪大学経済史・経営史資料
室に寄託された「大同生命保険所蔵文書」約 2500 点の内、大同生命に関する史料(約 400
点)の中から、CSR や企業統治に関する史料を特に取り上げ、これまでに明らかになった
内容を整理・紹介する。
本日取り上げる史料 は「株主総会議事録」である。
「株主総会議事録」は創立(1902 年)
から戦後(第 47 回、1949 年)までの通常株主総会と臨時株主総会のほとんどが残されてい
る。戦前日本の「株主総会議事録」がこれほど長期に保存されているのは非常に稀であり、
史料上及び経営史上、極めて貴重な史料群である。
1.大同生命と広岡恵三の略歴
大同生命保険株式会社は 1902 年 7 月 15 日に創立株主総会が開催された。朝日生命(1899
年)
(旧真宗生命(1894 年))、護国生命(1895 年)、北海生命(1898 年)の 3 社による合併
によって設立された。
初代社長は朝日生命の社長であった 9 代目広岡久右衛門が就任した(在任期間:1902~8
年)。合併後の数年間は組織の整理統合に追われ、営業拡大や新商品の開発は行えなかった
が、日露戦争後(1905 年)に経営基盤は安定することとなる。しかし、広岡久右衛門の体
調不良もあり、1908 年には広岡恵三が実質的に経営者となる。
2 代目社長である広岡恵三(在任期間:1908~42 年)は 1876 年 2 月生まれであり、学習
院から東京帝国大学法科に進学した。在学中の 1901 年 6 月に広岡家新宅の養嗣子となった。
大学卒業後 1903 年 6 月に三井銀行に入行する。1904 年 6 月に広岡家諸家業の経営に参画し
た後、1905 年 8 月に大同生命取締役、1908 年 10 月に社長代理、1909 年 6 月に社長に就任
した。広岡恵三は社長就任後に独自の経営理念を持ち、矢継ぎ早にさまざまな経営改革を
行った。そうした経営理念は以下に見られるように、現代の CSR につながるものといえる。
2.CSR(Corporation Social Responsibility):企業の社会的責任とは何か1
CSR とは企業が社会に負うべき社会的責任の総称のことであり、一般的には株主だけで
はなく、広くステークホルダー(利害関係者)の利益を尊重する、企業の自発的な活動を
さす。具体的な CSR 活動には、たとえば健全な企業統治の確立、コンプライアンス、内部
1
参考資料として、経済産業省[2004]『「企業の社会的責任(CSR)に関する懇談会」中間報
告書』、経済同友会[2006]『日本企業の CSR:進捗と展望-自己評価レポート 2006―提言・
意見書』。
8
統制の強化などがある。一方、日本・ヨーロッパ・アメリカなど国や時代、企業によって
CSR の意味する内容・目的は異なり、コンセンサスが得られているとはいえない。
しかし、CSR の共通点はある。それは情報開示と説明責任、ステークホルダーによる評
価と対話が最も重要とみなされていることである。
それでは企業が CSR に取り組む意義はなにか。それは企業価値の向上と企業の持続可能
性の追求である。このように取り組むべき意義は明らかになってはいるものの、いかなる
CSR 活動が具体的その目的を達成しうるかどうかは確定されていない。
3.広岡恵三の経営理念
創業 10 周年記念の挨拶にて(1913 年 1 月 10 日)、45 名の模範代理店主に対して広岡恵
三はこう述べた2。
「わが社は、はじめより期するところあり、終始一貫ただ保険業の神髄を発揮することを
念とし、同業者中最も低廉の保険料を徴するに甘んじて、経費の節約と資金の運用とによ
りて、純益の増加を図り、もって被保険人とその慶を分かつの計画の下に邁進したのであ
ります。」「この大同生命保険株式会社は、国利民福の増進をもって主要の目的とし、まず
被保人の利益を図り、つぎに社会公共に貢献するにあり、然る後、株主の利益に及ぼすと
いう主義方針の下に経営しているのであって、この主義方針は、終始一貫変わることがな
い」
さらに、創業 15 周年記念の挨拶にて、株式の公開を求める代理店主に対して広岡はこう
述べた3。
「まず加入者のために、その利益の大部分を提供し、つぎにその利益の残額を単に株主の
専有とせずして、これを代理店ならびに従業員にも分配したい」「まず加入者に対する規定
の利益配当の資金を控除し、その残額からして、株主がきょ出し居る資金に対して利息を
支払い、さらに、残ったところの残額を別段積立金として積み立てておき、しかして 5 年
後にこの年々積み立ててきた別段積立金を、さらに加入者・代理店・従業員および株主に
分配」する。
続いて、創業 15 周年記念の挨拶にて、株式の公開を求める代理店主に対してさらに述べ
4
た。
「株が広岡に集まっておればこそ今日かく株主に薄くして、理念の途に進み得るのであり
ます。株主が多数になり意見が出てくるときは理念は実現できぬのであります。」「他の株
式会社の実際をご覧になれば、私がここに多くをいう必要はない。今日大同が、なぜ他の
株式会社のなし得ざることをなしつつあるのかというに、株がただ広岡という一家にまと
まっているからである。すなわち、株をお分けするということは、本社の精神を永久に持
2
3
4
『大同生命 70 年史』34 頁。
『大同生命 70 年史』43 頁。
『大同生命 70 年史』45 頁。
9
続して行くということの道ではないと信ずるのであります。」
式典の挨拶から広岡恵三の経営理念をまとめると、まず目的として経済全体の社会厚生
の最大化を図り、そのために、まずは加入者、次いで社会、その後で株主の利益を追求す
るとしている。こうした経営理念を追求するためには、所有と経営の分離が進行した企業
では実現しえず、オーナー企業でなければならないことを広岡は強調している。
4.大同生命における企業統治
広岡恵三の経営理念に基づくと、株主及び株主利益を軽視しているようにもみえる。果
たしてそうなのだろうか。大同生命の株主総会をみることによって、検討してみたい。
まず株主総会の形態をみてみよう。定時株主総会は毎年 1 回、8 月第 4 週に開催される。
主たる議題内容は事業報告、財産目録、貸借対照表、損益計算書、利益処分であり、進行
手順は最初に出席株主数と出席株主の権利株式数、委任出席者・株数が読み上げられて法
的に本株主総会が問題ないことが確認される。その後で、議題内容が朗読され、株主の質
疑応答を経た後で採決がとられる。臨時株主総会は毎年 2~3 回程度開催される。議題内容
は主に定款改正と役員選挙であり、進行手順は通常株主総会と同様である。
図表 1 定時株主総会の議論時間
大同生命
経営者
広岡久右衛門
広岡恵三
年度
1902~5
開会時刻
11:15
閉会時刻
13:00
会議時間(分)
105
1906~9
9:00
10:02
63
1910~13
10:00
11:05
65
1914~17
10:45
12:00
75
1918~22
10:00
11:38
98
開会時刻
閉会時刻
会議時間(分)
資料 「株主総会議事録」
大阪紡績
経営者
松本重太郎
山辺丈夫
年度
1893~97
16:00
18:45
158
1898~1900
14:00
15:35
95
1901~04
10:25
11:35
70
1905~08
10:10
10:50
40
1909~12
9:50
10:41
51
1913~14
10:20
10:53
33
資料 結城武延[2011]「企業統治における株主総会の役割―大阪紡績会社
の事例―」、『経営史学』、第46巻第3号。
10
図表 2 株主総会の発言率
大同生命
経営者
期間
広岡久右衛門
1902~5
1906~9
広岡恵三
議決数 異議無し 発言有り 発言率
a
b
c
d=c/a
17
17
0
0.0%
32
30
2
6.3%
1910~13
1914~17
28
26
2
7.1%
25
22
3
12.0%
1918~22
25
25
0
0.0%
資料 「株主総会議事録」
大阪紡績
議決数 異議無し 発言有り 発言率
a
b
c
d=c/a
経営者
期間
松本重太郎
1893-97
1898-1900
16
15
15
8
1
7
6.3%
46.7%
1901-04
17
9
8
47.1%
1905-08
32
26
6
18.8%
1909-12
18
7
11
61.1%
1913-14
4
3
1
25.0%
山辺丈夫
資料 結城武延[2011]「企業統治における株主総会の役割―大阪紡績
会社の事例―」、『経営史学』、第46巻第3号。
図表 1 は株主総会における議論時間の推移を示したものである。比較対象として同時代
に所有と経営の分離が進行した企業である大阪紡績会社(現
東洋紡)を掲載した。経営
者と株主との利害対立により総会での紛争や説明責任を余儀なくされた大阪紡績会社と同
程度、あるいはそれ以上にオーナー企業である大同生命では長い時間をかけて株主総会で
議論をしていたのである。
図表 2 は株主総会において株主が経営陣の原案に対して発言を行ったのか、発言せずに
採決したのかを示した表である。この表は大同生命と大阪紡績会社で非常に対照的な結果
となっている。すなわち、所有と経営が分離していた大阪紡績会社では株主の発言が活発
になされている一方で、オーナー企業である大同生命では株主はほとんど意見を述べてい
ない。
図表 1 と 2 を照合させると、株主は経営陣の経営戦略や成果に対してほとんど反対意見
や疑問を述べていないが長い時間をかけて株主総会を行っていることとなっている。なぜ
反対意見が出ないにもかかわらず、時間を掛けて株主総会を行っているのだろうか。
株式所有構造上、あらゆる企業の意思決定は広岡恵三の手に委ねられている。しかし、
あらゆる業務を広岡が行うわけではない。広岡の経営理念が他のステークホルダーに理解
されなければ、彼が立案した経営戦略も理解されず、その目的は達成されない可能性が高
くなる。すなわち、広岡が自身の経営理念を実現するためには、経営理念、経営戦略、そ
してその結果としての経営成果が他のステークホルダーに共有されなければならないので
11
ある。これが、CSR において説明責任が重視される所以でもある。
広岡は企業の実情・理念を共有するための場として株主総会を用いて、説明責任に時間
を掛けた。事実、「株主総会議事録」には議長である広岡恵三による議題内容の説明の記述
が長々と綴られている。
図表 3 大同生命の役員構成
役職
社長
専務
常務
1902年
広岡 久右衛門(9代)
1907年
広岡 久右衛門(9代)
広田 千秋
西田 由
1912年
広岡恵三
中川 小十郎
広田 千秋
広田 千秋
広田 千秋
西田 由
西田 由
西田 由
菊池 熊太郎
板倉 勝己
広岡恵三
取締役
池上 仲三郎
高野 源之助
渡辺 玄包
菊池 熊太郎
磯野 源次郎
岩田幸七
岩田幸七
宮古 啓三郎
星野 行則
星野 行則
監査役
今泉 定介
衹園 清次郎
資料 『大同生命70年史』「資料編 Ⅱ役員 1役員一覧表(株式会社)」
1917年
広岡恵三
1922年
広岡恵三
衹園 清次郎
松井 萬緑
平沢 真
星野 行則
衹園 清次郎
広田 千秋
西田 由
岩田幸七
星野 行則
岩田幸七
広岡 久右衛門(10代)
進藤 隆之助
12
図表 4 大同生命の株主所有構造(10 大株主)
1916年
1902年
株主
広岡 久右衛門
広岡 信五郎
広岡 久右衛門
板倉 勝己
高野 源之助
宮古 啓三郎
進藤 隆之助
渡辺 玄包
池上 仲三郎
磯野 源次郎
総数 154名
属性
加島貯蓄銀行頭取
加島貯蓄銀行取締役
◎
旧護国生命社長・○
旧北海生命社長・○
旧護国生命株主・△
旧護国生命医務課長
旧護国生命発起人・○
旧護国生命株主・○
旧朝日生命株主・△
総株数 6,000
株主
広岡 久右衛門
広岡 久右衛門
広岡 恵三
広田 千秋
西田 由
衹園 清次郎
星野 行則
菊池 熊太郎
橋本 篤
進藤 隆之助
総数 65名
属性
加島貯蓄銀行頭取
◎
○
旧護国生命発起人・●
旧朝日生命専務・●
加島銀行常務
加島銀行本店専務理事・△
旧護国生命発起人・○
大同生命初代支配人
旧護国生命医務課長
総株数 6,000
株数
2,833
1,114
575
100
72
60
60
55
50
50
所有比率
47.2%
18.6%
9.6%
1.7%
1.2%
1.0%
1.0%
0.9%
0.8%
0.8%
上位株主合計 82.8%
株主
広岡 恵三
広岡 久右衛門
広岡 恵三
衹園 清次郎
広田 千秋
西田 由
星野 行則
加輪上 勢七
進藤 隆之助
中村 孝太郎
属性
加島貯蓄銀行頭取
◎
広岡合名会社常務理事・●
○
旧朝日生命専務・○
加島銀行本店専務理事・△
総数 45名
総株数 6,000
株主
広岡 恵三
広岡 恵三
広岡 久右衛門
松井 萬緑
広岡 松三郎
星野 行則
衹園 清次郎
平沢 真
岩田 幸七
中村 孝太郎
総数 34名
属性
広岡合名会社代表社員
◎
旧護国生命医務課長
1907年
株主
広岡 恵三
広岡 イク
広岡 恵三
広田 千秋
西田 由
星野 行則
衹園 清次郎
加輪上 勢七
進藤 隆之助
中村 孝太郎
1912年
属性
加島貯蓄銀行頭取
◎
○
旧朝日生命専務・○
加島銀行本店専務理事・△
広岡合名会社常務理事
旧護国生命医務課長
株数
3,677
645
328
155
155
150
150
95
60
60
所有比率
61.3%
10.8%
5.5%
2.6%
2.6%
2.5%
2.5%
1.6%
1.0%
1.0%
上位株主合計 91.3%
1921年
株数
3,677
645
328
155
150
130
95
80
61
60
所有比率
61.3%
10.8%
5.5%
2.6%
2.5%
2.2%
1.6%
1.3%
1.0%
1.0%
上位株主合計 89.7%
株数
3,677
645
328
155
150
130
130
85
60
60
●
加島銀行本店専務理事・○
広岡合名会社常務理事・○
旧護国生命秘書役・●
旧朝日生命株主・△
総株数 6,000
株数
5,414
100
100
50
50
50
50
50
30
5
所有比率
90.2%
1.7%
1.7%
0.8%
0.8%
0.8%
0.8%
0.8%
0.5%
0.1%
上位株主合計 98.3%
所有比率
61.3%
10.8%
5.5%
2.6%
2.5%
2.2%
2.2%
1.4%
1.0%
1.0%
総株数 6,000
上位株主合計 90.3%
総数 54名
資料 『大同生命70年史』「資料編 2 上位株主の変遷」
注 ◎取締役会長(社長)、●常務・専務、〇取締役、△監査役
図表 3 は大同生命の役員構成の推移、図表 4 は上位 10 位までの大株主の所有構造の推移
を示している。これら表によれば、約 20 年間、役員の交代はあまりなく、交代がある場合
も以前より株主であったもの、あるいは、大同生命保険会社の前身の 3 会社いずれかの出
身者であることが分かる。さらに、大株主の多くは役員でもある。
このように、大同生命において所有構造から経営者と株主間、経営者と役員間との利害
対立はほとんど生じようがないといってよい。企業の長期的価値を追求することが、経営
者にとっても他の役員にとっても、そして株主にとっても利益になる組織構造をしていた
のが大同生命であった。
13
5.企業収益・利益分配と CSR 活動
CSR の定義、目的や内容が多義的であり曖昧である要因の一つは、CSR がその目的であ
る企業価値の向上や持続可能性の追求に資していない事例が数多く報告されているところ
にある5。それでは、独自の経営理念によって CSR 活動を行っていた大同生命においてはど
うだったのか。
図表 5 大同生命の業績推移
ROA
年度
配当率
1903年
0.6%
0.0%
1904年
1.3%
6.0%
1905年
1.4%
6.0%
1906年
2.1%
7.0%
1907年
1.9%
8.0%
1908年
1.2%
8.0%
1909年
0.9%
8.0%
1910年
1.0%
8.0%
1911年
1.3%
8.0%
1912年
1913年
2.6%
8.0%
1914年
0.9%
8.0%
1915年
3.5%
8.0%
1916年
4.5%
8.0%
1917年
13.6%
8.0%
1918年
4.3%
8.0%
1919年
4.2%
8.0%
1920年
3.1%
8.0%
1921年
3.7%
8.0%
1922年
6.6%
8.0%
資料 各期定時「株主総会議事録」末尾資料「貸借対照表」
と「損益計算書」
注 ROA=当期利益/総資産、配当率=株主配当金/払
込済資本金
5
デービッド ボーゲル[2007]『企業の社会的責任(CSR)の徹底研究 利益の追求と美徳のバ
ランス―その事例による検証』一灯舎、第 2 章。
14
図表 6 大同生命の保険契約の推移
(単位:件数千件 金額千円)
年度
新契約
保険金支払事由
が発生した契約
年末現在
純増加
件数
金額
件数
金額
件数
金額
件数
金額
1902年
9
2,492
0
98
42
10,000
1
541
1903年
10
2,777
0
103
42
10,105
0
105
1904年
6
1,824
0
146
42
12,992
0
48
1905年
14
5,386
0
138
46
21,587
4
2,837
1906年
23
11,095
0
186
62
29,387
15
8,595
1907年
22
11,981
0
257
74
33,033
12
7,799
1908年
17
9,199
1
359
80
37,297
6
3,646
1909年
16
10,360
1
378
84
40,080
3
4,263
1910年
18
11,492
1
439
87
45,376
6
5,427
1911年
17
11,506
1
529
94
52,454
6
5,655
1912年
18
12,394
1
532
103
57,324
8
6,718
1913年
15
10,454
1
607
108
57,019
5
4,870
1914年
11
7,750
1
620
107
57,325
-1
-305
1915年
12
10,184
1
665
103
61,354
-3
305
1916年
13
11,085
2
741
105
73,728
1
4,029
1917年
20
18,824
2
829
116
90,926
11
12,373
1918年
22
23,366
2
1,296
130
115,600
13
17,197
1919年
25
32,178
2
1,424
146
127,526
16
24,674
1920年
20
25,285
3
1,777
155
139,117
8
11,926
1921年
20
27,132
3
1,861
162
153,560
7
11,590
1922年
21
29,228
3
2,045
171
165,480
8
14,443
資料 『大同生命70年史』「資料編 第3章諸統計 1.保険契約増減表 (1)株式
会社」
15
図表 7 利益処分の分配
(単位:円)
株主
年度
当期利益
配当金
役員
比率
賞与
比率
加入者
保険契約利
益配当準備
金
0
0
0
0
0
0
0
0
0
使用人・従業員
比率
使用人養老
積立金
4,439
0
0.0%
0
0.0%
0.0%
1903年
11,748
6,750 57.5%
0
0.0%
0.0%
1904年
13,524
8,100 59.9%
1,000
7.4%
0.0%
1905年
22,914
9,450 41.2%
2,500 10.9%
0.0%
1906年
26,076
10,800 41.4%
2,500
9.6%
0.0%
1907年
22,394
10,800 48.2%
2,000
8.9%
0.0%
1908年
20,849
10,800 51.8%
2,000
9.6%
0.0%
1909年
27,536
10,800 39.2%
2,000
7.3%
0.0%
1910年
48,006
10,800 22.5%
2,000
4.2%
0.0%
1911年
1912年
146,823
10,800
7.4%
2,400
1.6%
0
0.0%
1913年
61,645
10,800 17.5%
2,400
3.9%
0
0.0%
1914年
287,327
10,800
3.8%
5,000
1.7%
0
0.0%
1915年
430,344
10,800
2.5%
10,000
2.3%
0
0.0%
1916年
1,596,423
10,800
0.7%
20,000
1.3% 1,308,608 82.0%
1917年
583,711
15,300
2.6%
40,000
6.9%
259,262 44.4%
1918年
683,815
16,800
2.5%
40,000
5.8%
350,393 51.2%
1919年
591,494
16,800
2.8%
40,000
6.8%
406,065 68.7%
1920年
847,078
16,800
2.0%
50,000
5.9%
430,262 50.8%
1921年
1,755,212
16,800
1.0%
60,000
3.4%
0
0.0%
1922年
資料 各期定時株主総会「株主総会議事録」における末尾資料「貸借対照表」及び「損益計算書」
注 比率:各項目/当期利益
比率
別段準備金
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0.0%
0.0%
0.0%
0.0%
0.0%
0.0%
0.0%
0.0%
0.0%
0
0
0
0
0
0
0
10,000
30,000
0.0%
0.0%
0.0%
0.0%
0.0%
0.0%
0.0%
36.3%
62.5%
5,000
5,000
10,000
10,000
10,000
10,000
15,000
15,000
30,000
40,000
3.4%
8.1%
3.5%
2.3%
0.6%
1.7%
2.2%
2.5%
3.5%
2.3%
120,000
35,000
240,000
360,000
0
200,000
200,000
0
200,000
0
81.7%
56.8%
83.5%
83.7%
0.0%
34.3%
29.2%
0.0%
23.6%
0.0%
創業以来、赤字になったことはなく安定した利益率を維持しており(図表 5)、保険契約
も件数・金額ともに順調に拡大していることがわかる(図表 6)。
また、経営理念として株主の優先順位は低かったが、株主利益を軽視していたわけでは
ない。創業当初をのぞき、配当率は 6~8%と安定的であった。
次に利益処分の分配を詳しく見てみよう(図表 7)。利益が安定的となった第一次大戦前
後からは、利益処分のほとんどを加入者に分配し、なおかつ、使用人・従業員に対しても
分配するようになったことが分かる。
さらに、1910 年以来、継続的に「別段積立金」がかなりの割合を占めており、それは創
業記念年に各ステークホルダーに利益を分配するための資金となる。
具体的には、創業 15 周年(1917 年)には株主(75,000 円)
、従業員(150,000 円)、代理
店(70,000 円)にそれぞれ特別配当がなされた6 。創業 20 周年(1922 年)には加入者(500,000
円)、株主(150,000 円)、役員(50,000 円)、従業員(150,000 円)、代理店(150,000 円)に
それぞれ特別配当がなされた7。
このように、広岡の経営理念・CSR は各ステークホルダーの利益と矛盾するわけではな
い。むしろ、長期的な企業価値を重視し、定期的にその果実を株主だけではなく、広くス
6
7
比率
「第拾五回定時株主総会議事録」
「第貮拾回定時株主総会議事録」
16
テークホルダーに分配していたのである。すなわち、広岡恵三の経営理念の追求は、まさ
に CSR の目的である企業価値の向上と持続可能性の追求にあったのである。
まとめと今後の展望
日本は近世以来、CSR 活動がなされていたが、その目的・内容・具体的な施策について
現代もコンセンサスが得られたとはいえない。
戦前日本の生命保険会社である大同生命の事例はそうした CSR 活動について一石を投じ
る。
すなわち、CSR の目的を追求するためには重視するステークホルダーだけではなく、そ
の他のステークホルダーも軽視してはならない。広岡恵三はオーナー企業として大同生命
を経営することによって、自らの経営理念の実現を可能にした。経営理念の実現のために、
株主を軽視したわけでもなく、企業価値の追求を犠牲にしたわけでもない。むしろ、長期
的な企業価値の追求をすることによって、各ステークホルダーに企業価値の分配を可能と
したのである。そうした理念の追求をするために、株主総会において説明責任を果たすこ
とによって、経営の実情・理念の共有化を図った。
2002 年、大同生命は国内生保として初の株式会社への組織変更と上場を果たした。それ
はより多くのステークホルダーを包摂することになるということも意味する。幅広いステ
ークホルダーに対する利益の還元こそが株主会社の役割であるという広岡の経営理念にも
通じる。そこで重要となるのは、やはり説明責任である。
広岡は、1908 年以来、社内機関誌(『社報』)を発行することによって従業員や広告代理
店にも説明責任を果たしてきた。機関誌には辞令、代理店の新設・変更、雑事、諸統計、
人事、決算報告などが記載されている。今後はこれらの資料分析も加えることによって、
大同生命における CSR 活動の実態のさらなる理解を深めていきたい。
以上
17